札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
二里川と三里川③
大正5年地形図です。

室蘭街道沿いに「二里塚」の地名が確認できます。赤い下線を引きました。
現在の地名でいうと豊平区月寒東1条18丁目、日糧製パン工場の付近です。この地点は確かに、札幌本府からほぼ2里(約8㎞)の行程です(末注①)。近くをラウネナイ川が流れています。二里塚を由来とするならば、むしろこの川のほうが適当です。
二里川と三里川を地図上に着色しました。薄い青でなぞったのが三里川で、濃い青が二里川です。三里川は地図上に名前が記されていますが、二里川は記されていません。よって、現在の地図に照らして推定しました。その川は、「釣橋」と書かれたところの北(地図上で上方)で三里川と合流しています。川の実線は現在の国道12号に当たる道の南方で消えていますので、等高線で谷筋と思われるところを河道と推測して、破線でなぞりました。
とまれかくまれ、二里川の川名が二里塚に由来するという説明にはかなり無理がある、というのが私の結論です。
二里塚由来説に疑問を抱いていた諸先達はいらっしゃるかと思いますので、私が大見えを切って言うほどのことではありません。先日来たびたび引用させていただいている郷土史家・R先生もすでに喝破していました。R先生は「『二里川』としているのは、三里川の西を流れていたため、呼称されたのであろう」と見ています(末注②)。私も、その説を支持します。
余談ながら、R先生は清田区の歴史について、多岐にわたり詳細に調べておられます。清田区で、先生が未踏査の時空を探すのは至難です。それだけに探し甲斐もありますが。
注①:里程の起点は現在の中央区南1条東1丁目、創成橋のたもとに置かれた。「里程元標」の石柱が再建されている。
注②:了寛紀明『清田発掘 厚別川と對雁川』2008年、p.37

室蘭街道沿いに「二里塚」の地名が確認できます。赤い下線を引きました。
現在の地名でいうと豊平区月寒東1条18丁目、日糧製パン工場の付近です。この地点は確かに、札幌本府からほぼ2里(約8㎞)の行程です(末注①)。近くをラウネナイ川が流れています。二里塚を由来とするならば、むしろこの川のほうが適当です。
二里川と三里川を地図上に着色しました。薄い青でなぞったのが三里川で、濃い青が二里川です。三里川は地図上に名前が記されていますが、二里川は記されていません。よって、現在の地図に照らして推定しました。その川は、「釣橋」と書かれたところの北(地図上で上方)で三里川と合流しています。川の実線は現在の国道12号に当たる道の南方で消えていますので、等高線で谷筋と思われるところを河道と推測して、破線でなぞりました。
とまれかくまれ、二里川の川名が二里塚に由来するという説明にはかなり無理がある、というのが私の結論です。
二里塚由来説に疑問を抱いていた諸先達はいらっしゃるかと思いますので、私が大見えを切って言うほどのことではありません。先日来たびたび引用させていただいている郷土史家・R先生もすでに喝破していました。R先生は「『二里川』としているのは、三里川の西を流れていたため、呼称されたのであろう」と見ています(末注②)。私も、その説を支持します。
余談ながら、R先生は清田区の歴史について、多岐にわたり詳細に調べておられます。清田区で、先生が未踏査の時空を探すのは至難です。それだけに探し甲斐もありますが。
注①:里程の起点は現在の中央区南1条東1丁目、創成橋のたもとに置かれた。「里程元標」の石柱が再建されている。
注②:了寛紀明『清田発掘 厚別川と對雁川』2008年、p.37
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二里川と三里川②
昨日ブログの続きです。
清田区平岡2条6丁目、平岡南公園です。

結論を先に記すと、二里川のミナモトはここらしい。
これは私が自力で突きとめたのではありません。清田区の郷土史家・R先生(2016.8.5、8.6ブログ参照)のご教示によります。R先生が引用されている『ひらおか 平岡農事実行組合六十周年記念史』(原文ママ)1999年という郷土誌に、次のように記されています(pp.224-225)。
まぼろしの川、二里川
平岡のほぼ中央を南北に横断して流れていた二里川は、南平岡公園(原文ママ)付近(塚部慶吉敷地)から湧き出ていた湧水が源流です。途中平岡中央小学校前から、約二十メートル余り西よりに流れ出す、幾筋かの谷間の水が合流して、豊かな冷水は、そこに住む人々の生活に恵みを与えて来ました。
地図で確認しておきます。

赤い矢印を付けた先が平岡南公園です。そこからほぼ真北(画像の上方)、黄色の矢印の先が平岡中央小学校です。前掲誌の記述によれば、二里川は赤矢印のところからミナモトを発し、黄色矢印の方向へ流れていたことになります。まさに「平岡のほぼ中央を南北に横断して流れていた」ということです(縦断というべきか)。
そして、くだんの公園と小学校の中間には「たくぎんの森」(2016.8.26、8.27ブログ参照)があります。緑色の線で囲ったところです。青く帯状になぞったのが「大池」です。「大池」は二里川の名残だったわけです。
ところで、平岡南公園は南側で旧国道36号(室蘭街道)に面しています。茶色の線でなぞったのが旧道です。二里川のミナモトは旧道とほぼ近接していることになります。旧道はそこから南東(画像右下)へ弯曲します。弯曲しているところで青い色でなぞったのが、三里川です。
これで、室蘭街道における二里川と三里川の間隔が判りました。間隔は、直線距離にして約500m。二里川は、三里川のかなり近くを流れていました。逆に、かつての「二里塚」からはずいぶん離れています。むしろ「三里塚」に近いくらいです。
清田区平岡2条6丁目、平岡南公園です。

結論を先に記すと、二里川のミナモトはここらしい。
これは私が自力で突きとめたのではありません。清田区の郷土史家・R先生(2016.8.5、8.6ブログ参照)のご教示によります。R先生が引用されている『ひらおか 平岡農事実行組合六十周年記念史』(原文ママ)1999年という郷土誌に、次のように記されています(pp.224-225)。
まぼろしの川、二里川
平岡のほぼ中央を南北に横断して流れていた二里川は、南平岡公園(原文ママ)付近(塚部慶吉敷地)から湧き出ていた湧水が源流です。途中平岡中央小学校前から、約二十メートル余り西よりに流れ出す、幾筋かの谷間の水が合流して、豊かな冷水は、そこに住む人々の生活に恵みを与えて来ました。
地図で確認しておきます。

赤い矢印を付けた先が平岡南公園です。そこからほぼ真北(画像の上方)、黄色の矢印の先が平岡中央小学校です。前掲誌の記述によれば、二里川は赤矢印のところからミナモトを発し、黄色矢印の方向へ流れていたことになります。まさに「平岡のほぼ中央を南北に横断して流れていた」ということです(縦断というべきか)。
そして、くだんの公園と小学校の中間には「たくぎんの森」(2016.8.26、8.27ブログ参照)があります。緑色の線で囲ったところです。青く帯状になぞったのが「大池」です。「大池」は二里川の名残だったわけです。
ところで、平岡南公園は南側で旧国道36号(室蘭街道)に面しています。茶色の線でなぞったのが旧道です。二里川のミナモトは旧道とほぼ近接していることになります。旧道はそこから南東(画像右下)へ弯曲します。弯曲しているところで青い色でなぞったのが、三里川です。
これで、室蘭街道における二里川と三里川の間隔が判りました。間隔は、直線距離にして約500m。二里川は、三里川のかなり近くを流れていました。逆に、かつての「二里塚」からはずいぶん離れています。むしろ「三里塚」に近いくらいです。
二里川と三里川①
私が住む厚別区を三里川という川が流れています。

川は、厚別中央2条、3条の1丁目で国道12号の下をくぐります。川の標識が立っています。
そこから500mほど西方(札幌の中心部寄り)を、二里川という川が流れています。

同じく国道12号沿いの大谷地付近の橋(釣橋という)のたもとに、川名の標識が立っています。
こちらには、「川の名の由来」が次のように書かれていています。
室蘭街道(現国道36号線)の里程で、札幌本府まで二里の行程である二里塚の地名に起因している。
前掲の三里川のほうの標識には「川の名の由来」は書かれていないのですが、「推して知るべし」で、札幌本府から3里の行程にあった「三里塚」に由来するのでしょう。
『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年の「二里川 三里川」の項には、次のように記されています(p.208)。
平岡・里塚地区から流れ出る河川で、厚別川の支流。室蘭街道(現・国道三六号線)の里程で、札幌本府まで二里、三里の行程であるところから二里塚、三里塚の地区名があり、二里川、三里川もこれに起因している。
私の土地勘からして、三里川のほうは納得できたのですが、二里川がちょっとひっかかりました。きっかけは、二つの川の間隔が国道12号で500mしかなかったことです。ずいぶん近い。前述の川名の説明からすると、三里川と二里川の間は国道36号付近では1里、すなわち約4㎞、隔たっているハズである。国道12号では両者の間隔が500mでも、国道36号では4㎞も離れるのだろうか?
国道36号は、国道12号からみて二つの川の上流です。二里川の上流を遡ってみることにしました。

川は、厚別中央2条、3条の1丁目で国道12号の下をくぐります。川の標識が立っています。
そこから500mほど西方(札幌の中心部寄り)を、二里川という川が流れています。

同じく国道12号沿いの大谷地付近の橋(釣橋という)のたもとに、川名の標識が立っています。
こちらには、「川の名の由来」が次のように書かれていています。
室蘭街道(現国道36号線)の里程で、札幌本府まで二里の行程である二里塚の地名に起因している。
前掲の三里川のほうの標識には「川の名の由来」は書かれていないのですが、「推して知るべし」で、札幌本府から3里の行程にあった「三里塚」に由来するのでしょう。
『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年の「二里川 三里川」の項には、次のように記されています(p.208)。
平岡・里塚地区から流れ出る河川で、厚別川の支流。室蘭街道(現・国道三六号線)の里程で、札幌本府まで二里、三里の行程であるところから二里塚、三里塚の地区名があり、二里川、三里川もこれに起因している。
私の土地勘からして、三里川のほうは納得できたのですが、二里川がちょっとひっかかりました。きっかけは、二つの川の間隔が国道12号で500mしかなかったことです。ずいぶん近い。前述の川名の説明からすると、三里川と二里川の間は国道36号付近では1里、すなわち約4㎞、隔たっているハズである。国道12号では両者の間隔が500mでも、国道36号では4㎞も離れるのだろうか?
国道36号は、国道12号からみて二つの川の上流です。二里川の上流を遡ってみることにしました。
古き建物を描く会 第56回
今日は、第56回「古き建物を描く会」でした。

今回の写生先は旧真駒内種畜場事務所(エドウィン・ダン記念館)で、8名が参加しました。天候に恵まれて、スケッチ日和でした。
写生後、恒例の青空展覧会です。

三連アーチが施されたベランダは、外国の風景のようです。どこの国の、と譬えられるほどには外国を知らないのですが、ともかく「まるで外国みたい」と思います。
ところで、この建物の建築年について、手元の文献などでは1887(明治20)年とあるのですが(末注)、館内に置かれていたリーフレットには1880(明治13)年と書かれています。どちらが正しいのだろう?
注:廣田基彦『開拓使・道庁営繕80年の覚書き』1997年、『札幌の建築探訪』1998年、札幌市地域計画課『れきけん×ぽろたび』2011年など

今回の写生先は旧真駒内種畜場事務所(エドウィン・ダン記念館)で、8名が参加しました。天候に恵まれて、スケッチ日和でした。
写生後、恒例の青空展覧会です。

三連アーチが施されたベランダは、外国の風景のようです。どこの国の、と譬えられるほどには外国を知らないのですが、ともかく「まるで外国みたい」と思います。
ところで、この建物の建築年について、手元の文献などでは1887(明治20)年とあるのですが(末注)、館内に置かれていたリーフレットには1880(明治13)年と書かれています。どちらが正しいのだろう?
注:廣田基彦『開拓使・道庁営繕80年の覚書き』1997年、『札幌の建築探訪』1998年、札幌市地域計画課『れきけん×ぽろたび』2011年など
平岡 たくぎんの遺産
平岡3条5丁目、大型商業施設の西側にある樹林です。

とても広大な樹林です。実際には画像で示した範囲の倍くらいあります。
古い住宅地図を見ると、ここも北海道拓殖銀行の土地だったようです。イオン(の前身)が土地をまるごと買収したのでしょう。画像右方に、緑色の屋根に黄色い壁の小屋みたいなものが4棟写っています。現在、中央バスの回転場になっています。古地図に照らすと、このあたりにたくぎんの体育館がありました。赤い矢印の先です。
昨日のブログで記したように、現在はぐるりフェンスで囲われていますが、かつてはこの樹林地内を行き来できたようです。昨日ブログの「立入禁止」の看板のところは、散策路だった気配が残っています。
北側にまわると、大きな沼が見えます。

古い住宅地図には、「大池」と記されていました。
札幌の市街地で、これだけの池沼というのは珍しい(末注)。
注:モエレ沼、ペケレット沼は調整区域。

とても広大な樹林です。実際には画像で示した範囲の倍くらいあります。
古い住宅地図を見ると、ここも北海道拓殖銀行の土地だったようです。イオン(の前身)が土地をまるごと買収したのでしょう。画像右方に、緑色の屋根に黄色い壁の小屋みたいなものが4棟写っています。現在、中央バスの回転場になっています。古地図に照らすと、このあたりにたくぎんの体育館がありました。赤い矢印の先です。
昨日のブログで記したように、現在はぐるりフェンスで囲われていますが、かつてはこの樹林地内を行き来できたようです。昨日ブログの「立入禁止」の看板のところは、散策路だった気配が残っています。
北側にまわると、大きな沼が見えます。

古い住宅地図には、「大池」と記されていました。
札幌の市街地で、これだけの池沼というのは珍しい(末注)。
注:モエレ沼、ペケレット沼は調整区域。
平岡3条5丁目の樹林
清田区平岡3条5丁目です。

大型商業施設があります。
ここにかつて、何があったか?
私はうっすらとした記憶しかなかったので、古い地図で確かめたところ、「拓銀平岡運動場」と書かれていました。野球のグラウンドやテニスコート、のみならず体育館もあったようです。現在、その痕跡は窺えません。
商業施設の西側です。

道路を挟んで、雑木林があります。
現在の地図を見ていて、私はこの一帯が気になっていました。公共的な公園・緑地ではないらしい。開発行為に伴う残置林(末注)かな~くらいに思っていました。
現地に行って見ると、ぐるりフェンスで囲われていて、中に入ることは難しそうです。
フェンス越しに覗くと…。

「立入禁止」の看板が立っています。商業施設と同じ会社名が記されています。
注:都市計画法等に基づき、一定規模以上の土地を開発する場合には地元自治体の許可を受ける必要があり、既存樹林の保全が開発の要件とされる場合がある。

大型商業施設があります。
ここにかつて、何があったか?
私はうっすらとした記憶しかなかったので、古い地図で確かめたところ、「拓銀平岡運動場」と書かれていました。野球のグラウンドやテニスコート、のみならず体育館もあったようです。現在、その痕跡は窺えません。
商業施設の西側です。

道路を挟んで、雑木林があります。
現在の地図を見ていて、私はこの一帯が気になっていました。公共的な公園・緑地ではないらしい。開発行為に伴う残置林(末注)かな~くらいに思っていました。
現地に行って見ると、ぐるりフェンスで囲われていて、中に入ることは難しそうです。
フェンス越しに覗くと…。

「立入禁止」の看板が立っています。商業施設と同じ会社名が記されています。
注:都市計画法等に基づき、一定規模以上の土地を開発する場合には地元自治体の許可を受ける必要があり、既存樹林の保全が開発の要件とされる場合がある。
南14条西5丁目 鴨々川の旧支流
昨日のブログでお示しした鴨々川の旧支流を現在地に当てはめると…。

米里行啓通りを、矢印の位置で横切っていたことになります。
矢印の先に喫茶店があります。

ここに古くからお住まいのTさんという方が営んでいます。
お店で一服がてら、Tさんにお尋ねしました。
私「このあたりの歴史を調べているのですが、昔、この近くを川が流れてなかったでしょうか?」
Tさん「流れていました」
私「やはりそうですか。どのあたりを流れていたのでしょう?」
Tさん「ちょうど、ここです」
Tさんが指さしたのは、お店の入口から通路にかけてです。画像上、青い矢印で示した位置になります。このお店のあたりだろうとは予想していたのですが、これには驚きました。
私「川はいつごろまで流れていましたか?」
Tさん「私が嫁に来た昭和34、5年にはまだ流れていました。川で洗濯をしました。魚も泳いでいましたよ。子どもの汚れ物を洗っていたので、魚はそれを餌にしたのかも…」
私「お宅の北側にあったお屋敷のFさん宅には、川の流れを活かしたお庭があったと聞いています」
Tさん「FさんとNさん、私の家の庭にもそれぞれ池がありました」
Tさんによると、その後4、5年は川が流れていたとのことです。実際に流れていたというナマの証言が得られました。

米里行啓通りを、矢印の位置で横切っていたことになります。
矢印の先に喫茶店があります。

ここに古くからお住まいのTさんという方が営んでいます。
お店で一服がてら、Tさんにお尋ねしました。
私「このあたりの歴史を調べているのですが、昔、この近くを川が流れてなかったでしょうか?」
Tさん「流れていました」
私「やはりそうですか。どのあたりを流れていたのでしょう?」
Tさん「ちょうど、ここです」
Tさんが指さしたのは、お店の入口から通路にかけてです。画像上、青い矢印で示した位置になります。このお店のあたりだろうとは予想していたのですが、これには驚きました。
私「川はいつごろまで流れていましたか?」
Tさん「私が嫁に来た昭和34、5年にはまだ流れていました。川で洗濯をしました。魚も泳いでいましたよ。子どもの汚れ物を洗っていたので、魚はそれを餌にしたのかも…」
私「お宅の北側にあったお屋敷のFさん宅には、川の流れを活かしたお庭があったと聞いています」
Tさん「FさんとNさん、私の家の庭にもそれぞれ池がありました」
Tさんによると、その後4、5年は川が流れていたとのことです。実際に流れていたというナマの証言が得られました。
HBC「さっぽろ歴史散歩」スピンオフ②
南14条西5丁目、米里行啓通りです。

西から東方向を望んでいます。右方が護国神社の杜です。
このあたりに河道があったことは、堀淳一先生の著書で知りました(末注)。鴨々川の支流です。その支流に沿って池泉回遊式とおぼしき庭園があったことは、本ブログでこれまでに記しました(2015年5月12日 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-291.html)。
昭和初期にその川がどう流れていたか、裏付ける史料を札幌市公文書館で見ました。
中島公園の図面です(同館所蔵)。

方位は右が北です。描かれた年代が昭和初期とあるだけで、公園の計画図なのか現況図なのか、仔細はわかりません。
部分的に拡大して、川のところを青く着色してみました。

赤い○で囲ったところが白鶴橋、黄色の○が護国神社です。冒頭画像の風景は、黄色の矢印の位置です。この図面を見ると、鴨々川の支流は護国神社の社殿の裏をまわって行啓通りを横切り、白鶴橋のたもとで鴨々川と合流していることがはっきり判ります。(続く)
注:堀淳一『サッポロ こぼれある記』1986年、pp.60-61。ほか、山崎長吉『中島公園百年』1988年にも、「鴨々川のもう一つの川」のことが記されている(pp.46-47)。

西から東方向を望んでいます。右方が護国神社の杜です。
このあたりに河道があったことは、堀淳一先生の著書で知りました(末注)。鴨々川の支流です。その支流に沿って池泉回遊式とおぼしき庭園があったことは、本ブログでこれまでに記しました(2015年5月12日 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-291.html)。
昭和初期にその川がどう流れていたか、裏付ける史料を札幌市公文書館で見ました。
中島公園の図面です(同館所蔵)。

方位は右が北です。描かれた年代が昭和初期とあるだけで、公園の計画図なのか現況図なのか、仔細はわかりません。
部分的に拡大して、川のところを青く着色してみました。

赤い○で囲ったところが白鶴橋、黄色の○が護国神社です。冒頭画像の風景は、黄色の矢印の位置です。この図面を見ると、鴨々川の支流は護国神社の社殿の裏をまわって行啓通りを横切り、白鶴橋のたもとで鴨々川と合流していることがはっきり判ります。(続く)
注:堀淳一『サッポロ こぼれある記』1986年、pp.60-61。ほか、山崎長吉『中島公園百年』1988年にも、「鴨々川のもう一つの川」のことが記されている(pp.46-47)。
HBC「さっぽろ歴史散歩」スピンオフ
HBCの番組、予定どおりオンエアされました。
ある意味、シュールな特集でした~。
何がシュールかって、前後に台風被害の切迫したニュースが流れていたのですから。「石狩川が氾濫しました!」とか「川には絶対近寄らないでください!」と報じられている間に、「鴨々川の川べりを楽しみましょう」ですもの(苦笑。
各地で水害に遭われた方には謹んでお見舞い申し上げます。今回の番組は、「川が人々の暮らしやなりわいと深く結びついていた」という趣旨としてご理解いただければ幸いです。
本ブログでは、番組でカットされたネタを紹介します。
鴨々川の白鶴橋です(末注①)。

この橋から北へ、中島公園内をまっすぐ道が伸びています。この道は、かつてここにあった競馬場のコースの名残とされています。番組の収録ではここにも立ち寄り、競馬場のことも次のようにしゃべりました。
「明治時代、札幌近郊の農村では草競馬が盛んでした。競馬といっても、今のようなサラブレッドではなく、ドサンコの挽曳でした」。
大筋で間違ってはいないと思うのですが、では中島公園でかつて行われた競馬は、はたしてどうだったか。書物で確かめると(末注②)、在来和種だけでなく洋産種(軽種馬)も導入されてきて、今の競馬に近い形で催されていたことが判りました。上述の私の説明が中島公園での競馬のことと受け取られると、事実に反する恐れがあります。このネタはボツにしてもらいました。
注①:2014.8.2ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-12.html 、2015.7.18ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-358.html 参照
注②:日本中央競馬会札幌競馬場『札幌競馬場100年史』2007年、北海道畜産連合会『札幌競馬沿革誌』1928年。
ある意味、シュールな特集でした~。
何がシュールかって、前後に台風被害の切迫したニュースが流れていたのですから。「石狩川が氾濫しました!」とか「川には絶対近寄らないでください!」と報じられている間に、「鴨々川の川べりを楽しみましょう」ですもの(苦笑。
各地で水害に遭われた方には謹んでお見舞い申し上げます。今回の番組は、「川が人々の暮らしやなりわいと深く結びついていた」という趣旨としてご理解いただければ幸いです。
本ブログでは、番組でカットされたネタを紹介します。
鴨々川の白鶴橋です(末注①)。

この橋から北へ、中島公園内をまっすぐ道が伸びています。この道は、かつてここにあった競馬場のコースの名残とされています。番組の収録ではここにも立ち寄り、競馬場のことも次のようにしゃべりました。
「明治時代、札幌近郊の農村では草競馬が盛んでした。競馬といっても、今のようなサラブレッドではなく、ドサンコの挽曳でした」。
大筋で間違ってはいないと思うのですが、では中島公園でかつて行われた競馬は、はたしてどうだったか。書物で確かめると(末注②)、在来和種だけでなく洋産種(軽種馬)も導入されてきて、今の競馬に近い形で催されていたことが判りました。上述の私の説明が中島公園での競馬のことと受け取られると、事実に反する恐れがあります。このネタはボツにしてもらいました。
注①:2014.8.2ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-12.html 、2015.7.18ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-358.html 参照
注②:日本中央競馬会札幌競馬場『札幌競馬場100年史』2007年、北海道畜産連合会『札幌競馬沿革誌』1928年。
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