札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
中ノ沢 Ⅰ牧場②
中ノ沢・Ⅰ牧場のサイロです。

軟石の表面仕上げは機械彫り、一部ツルメ。
機械彫りが導入されたのは昭和30年代の後半ですから(札幌軟石文化を語る会・岩本好正さんご教示)、ここのサイロの築年が「昭和40年頃」というのも頷けます。Ⅰさんによると「石山のT石材の産」とのことです。
酪農は、Ⅰさんが18歳のとき、八雲から乳牛一頭(牝仔牛)を仕入れて始めました。現在Ⅰさんは78歳なので、60年前、昭和30年代の初めになります。Ⅰさんは入植三代目で、それまでは野菜を作っていました。元々この一帯は「斎藤農場」といい、Ⅰさんの祖父はその農場の監督をしていたそうです。
私「齋藤農場というのは、斎藤甚之助ですね。○(マル)竹斎藤の…」。
Ⅰさん「そう。お、よく調べてるね。北1条にあった醸造場には若い頃、配達の手伝いによく行ったものさ」

軟石の表面仕上げは機械彫り、一部ツルメ。
機械彫りが導入されたのは昭和30年代の後半ですから(札幌軟石文化を語る会・岩本好正さんご教示)、ここのサイロの築年が「昭和40年頃」というのも頷けます。Ⅰさんによると「石山のT石材の産」とのことです。
酪農は、Ⅰさんが18歳のとき、八雲から乳牛一頭(牝仔牛)を仕入れて始めました。現在Ⅰさんは78歳なので、60年前、昭和30年代の初めになります。Ⅰさんは入植三代目で、それまでは野菜を作っていました。元々この一帯は「斎藤農場」といい、Ⅰさんの祖父はその農場の監督をしていたそうです。
私「齋藤農場というのは、斎藤甚之助ですね。○(マル)竹斎藤の…」。
Ⅰさん「そう。お、よく調べてるね。北1条にあった醸造場には若い頃、配達の手伝いによく行ったものさ」
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供養塚②
南沢にある「供養塚」(昨日ブログ参照)の続きです。

表面が白いペンキらしきもので塗られています。
背面を見ると…・

自然石であることが判ります。安山岩か。そういえば、ここは硬石山の北側斜面です。
中央部分が白く塗られているのは、おそらくここで真っ二つに割れていて、接着したのでしょう。オモテ面を白くしたのは、接着の痕をお化粧したものとみられます。
さて、背面の下のほうに文字が刻まれています。

画像ではほとんど読み取れないのですが、次のように書かれていました。
昭和十九年夏建之 八垂園育種農場
昨日のブログで、この碑を建てたのは自助園牧場を営んでいた佐藤善七・貢としましたが、正確にいうと「八垂園育種農場」になります。自助園牧場は1941(昭和16)年に閉鎖されました。同年、その土地を受け継いで八垂園育種農場が開かれます。この農場は満州開拓に供する種苗の育成を目的として開かれたものです。『さっぽろ藻岩郷土史 八垂別』1982年には次のように記されています(pp417-418、原文ママ)。
農場の設置に当っては当時、佐藤善七氏所有の自助園牧場の農地・農機具・建物を同十六年三月三十一日に購入し、…。(中略) 施設は住宅四棟・畜舎兼作業舎一・畜舎一・サイロ二・その他家畜場三・乳牛三・豚・兎・山羊・鶏・あひる等がいた。
同書によると、佐藤善七の二男・曻は1939(昭和14)年に大陸に渡ったそうです。自助園の土地が引き継がれた背景には、満州開拓があるのかもしれません。また、種苗の栽培は一部にとどまり、家畜用飼料や農作物を作っていたといいます。碑が建てられた1944(昭和19)年は戦局が悪化していた時期ですから、前述の家畜の多くが食用に供されたことでしょう。鶯のさえずりとはかけ離れた話です。

表面が白いペンキらしきもので塗られています。
背面を見ると…・

自然石であることが判ります。安山岩か。そういえば、ここは硬石山の北側斜面です。
中央部分が白く塗られているのは、おそらくここで真っ二つに割れていて、接着したのでしょう。オモテ面を白くしたのは、接着の痕をお化粧したものとみられます。
さて、背面の下のほうに文字が刻まれています。

画像ではほとんど読み取れないのですが、次のように書かれていました。
昭和十九年夏建之 八垂園育種農場
昨日のブログで、この碑を建てたのは自助園牧場を営んでいた佐藤善七・貢としましたが、正確にいうと「八垂園育種農場」になります。自助園牧場は1941(昭和16)年に閉鎖されました。同年、その土地を受け継いで八垂園育種農場が開かれます。この農場は満州開拓に供する種苗の育成を目的として開かれたものです。『さっぽろ藻岩郷土史 八垂別』1982年には次のように記されています(pp417-418、原文ママ)。
農場の設置に当っては当時、佐藤善七氏所有の自助園牧場の農地・農機具・建物を同十六年三月三十一日に購入し、…。(中略) 施設は住宅四棟・畜舎兼作業舎一・畜舎一・サイロ二・その他家畜場三・乳牛三・豚・兎・山羊・鶏・あひる等がいた。
同書によると、佐藤善七の二男・曻は1939(昭和14)年に大陸に渡ったそうです。自助園の土地が引き継がれた背景には、満州開拓があるのかもしれません。また、種苗の栽培は一部にとどまり、家畜用飼料や農作物を作っていたといいます。碑が建てられた1944(昭和19)年は戦局が悪化していた時期ですから、前述の家畜の多くが食用に供されたことでしょう。鶯のさえずりとはかけ離れた話です。
供養塚
南区南沢、Aさん宅の石蔵(5月23日ブログ参照)を見に行く途中で見かけた碑です。

「供養塚」と彫られています。
札幌市南区役所ウエブサイトの「碑を訪ねて」 http://www.city.sapporo.jp/minami/ishibumi/chiku0308.html で、この碑について「鶯塚」として、次のように紹介されています。
南沢3条4丁目付近にある碑。
『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道』では「鶯塚は昭和初期に建立されたもので、この辺にウグイスがいたからであろう」としている。
しかし『拓土に生きる』では、同碑は「首塚といわれる、小さな石碑です。馬頭観音と呼ぶ人もいます」として地元の住民の回顧談を掲載している。
同サイトの画像では、この碑の上3分の1くらいが欠けています。どうやら、「供養」の「養」という字が「鶯」と読まれたようです。しかし、現況を見る限り「供養」と読めます。真偽は如何?
この近くでコンビニを営むⅠさんに先日問い合わせたとき、この碑のこともお尋ねしました。この碑は、かつて南沢(当時の地名は八垂別八号の沢)に「自助園」牧場(末注①)を開いた佐藤善七・貢によって建立されたものだそうです。
それで、「供養」の合点がいきました。牧場で飼われていた牛馬の慰霊碑というわけです。「南区役所のホームページでは、上の方が欠けている画像が紹介されているのですが…?」とお訊きしたところ、欠けていたのを町内の人が近年補修したとのことです。
Ⅰさんのお話からすると、前述の「この辺にウグイスがいたから」「鶯塚」というのは、疑わしく思われます。『拓土に生きる』1996年を引いて「馬頭観音と呼ぶ人もいます」というほうが、むしろ碑の趣旨に適うかもしれません(末注②)。
「鶯塚」の根拠とされた『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道』1995年は、かの山崎長吉先生の著書です。山長先生、筆が滑ったか。先生の著書は本ブログでたびたび引用させてもらっており、先生への敬愛の念はいささかも揺るぎませんが。
注①:『南区開拓夜話』2002年によると、1923(大正12)年に開かれたこの牧場では乳製品に力が入れられた。「自助園三色ブリックアイスクリーム」は、チョコレート・ストロベリー・レモンの「三色三味」で、我が国初の販売だったという。
注②:馬頭観音は本来、飼育馬を慰霊する「馬魂碑」とは異なるやに聞く。ただし、道内では同様視される向きもある。
2016.5.29 続きを記述

「供養塚」と彫られています。
札幌市南区役所ウエブサイトの「碑を訪ねて」 http://www.city.sapporo.jp/minami/ishibumi/chiku0308.html で、この碑について「鶯塚」として、次のように紹介されています。
南沢3条4丁目付近にある碑。
『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道』では「鶯塚は昭和初期に建立されたもので、この辺にウグイスがいたからであろう」としている。
しかし『拓土に生きる』では、同碑は「首塚といわれる、小さな石碑です。馬頭観音と呼ぶ人もいます」として地元の住民の回顧談を掲載している。
同サイトの画像では、この碑の上3分の1くらいが欠けています。どうやら、「供養」の「養」という字が「鶯」と読まれたようです。しかし、現況を見る限り「供養」と読めます。真偽は如何?
この近くでコンビニを営むⅠさんに先日問い合わせたとき、この碑のこともお尋ねしました。この碑は、かつて南沢(当時の地名は八垂別八号の沢)に「自助園」牧場(末注①)を開いた佐藤善七・貢によって建立されたものだそうです。
それで、「供養」の合点がいきました。牧場で飼われていた牛馬の慰霊碑というわけです。「南区役所のホームページでは、上の方が欠けている画像が紹介されているのですが…?」とお訊きしたところ、欠けていたのを町内の人が近年補修したとのことです。
Ⅰさんのお話からすると、前述の「この辺にウグイスがいたから」「鶯塚」というのは、疑わしく思われます。『拓土に生きる』1996年を引いて「馬頭観音と呼ぶ人もいます」というほうが、むしろ碑の趣旨に適うかもしれません(末注②)。
「鶯塚」の根拠とされた『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道』1995年は、かの山崎長吉先生の著書です。山長先生、筆が滑ったか。先生の著書は本ブログでたびたび引用させてもらっており、先生への敬愛の念はいささかも揺るぎませんが。
注①:『南区開拓夜話』2002年によると、1923(大正12)年に開かれたこの牧場では乳製品に力が入れられた。「自助園三色ブリックアイスクリーム」は、チョコレート・ストロベリー・レモンの「三色三味」で、我が国初の販売だったという。
注②:馬頭観音は本来、飼育馬を慰霊する「馬魂碑」とは異なるやに聞く。ただし、道内では同様視される向きもある。
2016.5.29 続きを記述
郷里で時空逍遥 2016春 黒田小学校
愛知県一宮市木曽川町の黒田小学校です。

アールデコな門柱は、たぶん戦前からのものでしょう。
半世紀以上前、私はこの学校のすぐそばに住んでいて、校庭が遊び場になっていました。一宮市と合併する前の葉栗郡木曽川町の時代です。
ここは、戦国時代、黒田城という城が置かれていて、一説によると山内一豊という武将がこの地で生まれました。妻が“内助の功”で知られた人です。一豊の出生地は他説あるのですが、私は黒田説になびきます。自分が幼少期に過ごした土地だからというほかに、もう一つ理由があります。以前、NHKの大河ドラマで『功名が辻』という番組がありました。一豊を主人公にしたドラマ(原作は司馬遼太郎)で、登場人物に五藤なにがしという家来がいました。たしか武田鉄矢が演じていました。五藤氏は、一豊が大名(土佐藩主)に出世したことにともない、家老を務める家柄となります。今もその末裔が高知県にいらっしゃるようですが、私が注目したのは「五藤」という苗字です。これが「後藤」だったら、ポピュラーなので気に留めないのですが、「五藤」は珍しいほうだと思います。その「五藤」さんが、木曽川町にけっこう多いのです。ここの五藤さんの先祖は土佐藩家老職の五藤氏とつながっているのではないかと想像します。
一豊の家臣の苗字が地元に遺っている、というだけでは根拠が薄弱ですが、歴史オタクとしてはニオイを感じます。
校庭の一隅には、一豊の銅像まで建てられています。

奥さんがヘソクリで買った馬(これ、史実なんでしょうか?)を連れています。

アールデコな門柱は、たぶん戦前からのものでしょう。
半世紀以上前、私はこの学校のすぐそばに住んでいて、校庭が遊び場になっていました。一宮市と合併する前の葉栗郡木曽川町の時代です。
ここは、戦国時代、黒田城という城が置かれていて、一説によると山内一豊という武将がこの地で生まれました。妻が“内助の功”で知られた人です。一豊の出生地は他説あるのですが、私は黒田説になびきます。自分が幼少期に過ごした土地だからというほかに、もう一つ理由があります。以前、NHKの大河ドラマで『功名が辻』という番組がありました。一豊を主人公にしたドラマ(原作は司馬遼太郎)で、登場人物に五藤なにがしという家来がいました。たしか武田鉄矢が演じていました。五藤氏は、一豊が大名(土佐藩主)に出世したことにともない、家老を務める家柄となります。今もその末裔が高知県にいらっしゃるようですが、私が注目したのは「五藤」という苗字です。これが「後藤」だったら、ポピュラーなので気に留めないのですが、「五藤」は珍しいほうだと思います。その「五藤」さんが、木曽川町にけっこう多いのです。ここの五藤さんの先祖は土佐藩家老職の五藤氏とつながっているのではないかと想像します。
一豊の家臣の苗字が地元に遺っている、というだけでは根拠が薄弱ですが、歴史オタクとしてはニオイを感じます。
校庭の一隅には、一豊の銅像まで建てられています。

奥さんがヘソクリで買った馬(これ、史実なんでしょうか?)を連れています。
郷里で時空逍遥 2016春 巡見街道③
巡見街道、稲沢市平和町丸渕下地区です。

公民館や消防の望楼(半鐘)、神社などが集まっており、旧街道の要衝を感じさせます。
公民館の前には…。

古びた標柱や説明板が立っています。
標柱には「文化財 円空仏」、説明板には「フズリナ サンゴの化石」と書かれています。文字のかすれ具合からも、古道の往来が伝わってきます。巡見とは脈絡がありませんが。
円空仏は、どうやら奥の祠に鎮座しているらしい。
左方の木彫がそれか?

円空は尾張の隣の美濃国の生まれで、この地方のみならず、東北や北海道にも仏像を遺しました(末注)。巡見街道と北海道が円空によってつながった!?
標柱の背面には…。

「昭和四十八年六月四日指定 平和町教育委員会」と、かろうじて読めます。稲沢市に合併する前の旧平和町当時の指定ということです。
しかし、愛知県稲沢市のホームページで文化財を当たりましたが、この円空仏はリストにありません。文化財指定は解除されたのだろうか。それならそれで、この標柱は珍奇です。
くだんのお地蔵さんが円空作かどうか見分ける能力は私にはありませんが、円空と信じたい。
注:名古屋市博物館2005年特別展「円空さん」、北海道立近代美術館2005年特別展「円空さん ほとけさま、笑ったよ」チラシ参照

公民館や消防の望楼(半鐘)、神社などが集まっており、旧街道の要衝を感じさせます。
公民館の前には…。

古びた標柱や説明板が立っています。
標柱には「文化財 円空仏」、説明板には「フズリナ サンゴの化石」と書かれています。文字のかすれ具合からも、古道の往来が伝わってきます。巡見とは脈絡がありませんが。
円空仏は、どうやら奥の祠に鎮座しているらしい。
左方の木彫がそれか?

円空は尾張の隣の美濃国の生まれで、この地方のみならず、東北や北海道にも仏像を遺しました(末注)。巡見街道と北海道が円空によってつながった!?
標柱の背面には…。

「昭和四十八年六月四日指定 平和町教育委員会」と、かろうじて読めます。稲沢市に合併する前の旧平和町当時の指定ということです。
しかし、愛知県稲沢市のホームページで文化財を当たりましたが、この円空仏はリストにありません。文化財指定は解除されたのだろうか。それならそれで、この標柱は珍奇です。
くだんのお地蔵さんが円空作かどうか見分ける能力は私にはありませんが、円空と信じたい。
注:名古屋市博物館2005年特別展「円空さん」、北海道立近代美術館2005年特別展「円空さん ほとけさま、笑ったよ」チラシ参照
郷里で時空逍遥 2016春 巡見街道②
巡見街道の記憶は、電柱にも遺っていました。

この表示板は、一色巡見町以外でも街道沿いで見受けられます。
以下は巡見とは直接関係ない事柄です。
街道を少し南へ下ったところに、「村社 八幡社」があります。

所在地は旧平和町、現在の稲沢市平和町です。
ここで珍しいモノを見ました。

灯籠、というよりはロウソクを立てる燭台です。これ自体は別に珍しくはありません。燭台の柱に「當村 横井銀十郎」「大正四年十二月」と刻まれています。旧平和町のさらに前身の「平和村」当時に、横井さんが奉納したモノらしい。
珍しいのは…。

その柱の側面に、「北海道…」と刻まれていたことです。
その下には「日高國三石郡」とあり、改行して「三石村 崇徳寺」とあります。さらに改行して人の名前らしき文字が窺えます。
愛知県尾張地方の一村社に、どうして北海道三石村(現在の新ひだか町)のお寺の名前があるのだろう?
郷里からみると、北海道というのはとても遠く離れた土地に感じます。それは、私の個人的実感にすぎないかもしれません。18歳のとき親元を離れ、単身津軽海峡を渡って札幌まではるばる来たときの原体験によるのですが、「内地」のほかの地方と比べて隔絶感が大きい。大正時代にどういう縁で三石村のお寺と結ばれたのだろうと想像するにつけ、私はフシギな感覚にとらわれます。

この表示板は、一色巡見町以外でも街道沿いで見受けられます。
以下は巡見とは直接関係ない事柄です。
街道を少し南へ下ったところに、「村社 八幡社」があります。

所在地は旧平和町、現在の稲沢市平和町です。
ここで珍しいモノを見ました。

灯籠、というよりはロウソクを立てる燭台です。これ自体は別に珍しくはありません。燭台の柱に「當村 横井銀十郎」「大正四年十二月」と刻まれています。旧平和町のさらに前身の「平和村」当時に、横井さんが奉納したモノらしい。
珍しいのは…。

その柱の側面に、「北海道…」と刻まれていたことです。
その下には「日高國三石郡」とあり、改行して「三石村 崇徳寺」とあります。さらに改行して人の名前らしき文字が窺えます。
愛知県尾張地方の一村社に、どうして北海道三石村(現在の新ひだか町)のお寺の名前があるのだろう?
郷里からみると、北海道というのはとても遠く離れた土地に感じます。それは、私の個人的実感にすぎないかもしれません。18歳のとき親元を離れ、単身津軽海峡を渡って札幌まではるばる来たときの原体験によるのですが、「内地」のほかの地方と比べて隔絶感が大きい。大正時代にどういう縁で三石村のお寺と結ばれたのだろうと想像するにつけ、私はフシギな感覚にとらわれます。
南区南沢 石蔵
札幌建築鑑賞会スタッフKさんから情報提供いただいていた軟石物件です。

所在地の南区南沢まで足を運んできました。
南沢3条4丁目バス停を降りて、「右南の沢川」に沿って遡ること十数分、調整区域にあるAさんという農家の石蔵です。妻破風に「○ア」と刻まれています。軟石の表面仕上げはツルメ。
持ち主に伺うと、元リンゴ収蔵庫で、建てられたのは「60年はたっている」とのことです。「リンゴはいつまで作っておられましたか?」とお訊きしたところ、「昭和35年…、40年くらいまでかな」と。とすると、実際にリンゴを入れていた年数は短かったようです。もしかしたら、築年はもう少し古いかもしれません。
持ち主のAさんから「この辺のことだったら、コンビニをやっているⅠさんが詳しい」と聴き、帰途Ⅰさんの店に寄りました。配達でご不在だったため、後刻電話してお尋ねしました。このあたりでのリンゴは、やはり昭和30年代半ばまでだったようです。
築50年以上の軟石建物現存数は、5月13日のカウントから一つ増えて、316棟。
ところで、本物件の所在地は、「札幌軟石発掘大作戦」2010年南区調査で未踏の一帯です。南沢地区は市街地(条丁目)しか調べませんでした。マンパワーの限界で、調整区域まで手が付けられなかったのです。市街地は比較的新しい住宅が多く、軟石建物は見つかりませんでした。
今にして実感するのですが、軟石建物の宝庫は調整区域(農地)にありました。これは、市街地を踏査したからこそ得られた実感でもあります。文化は辺境に宿る。

所在地の南区南沢まで足を運んできました。
南沢3条4丁目バス停を降りて、「右南の沢川」に沿って遡ること十数分、調整区域にあるAさんという農家の石蔵です。妻破風に「○ア」と刻まれています。軟石の表面仕上げはツルメ。
持ち主に伺うと、元リンゴ収蔵庫で、建てられたのは「60年はたっている」とのことです。「リンゴはいつまで作っておられましたか?」とお訊きしたところ、「昭和35年…、40年くらいまでかな」と。とすると、実際にリンゴを入れていた年数は短かったようです。もしかしたら、築年はもう少し古いかもしれません。
持ち主のAさんから「この辺のことだったら、コンビニをやっているⅠさんが詳しい」と聴き、帰途Ⅰさんの店に寄りました。配達でご不在だったため、後刻電話してお尋ねしました。このあたりでのリンゴは、やはり昭和30年代半ばまでだったようです。
築50年以上の軟石建物現存数は、5月13日のカウントから一つ増えて、316棟。
ところで、本物件の所在地は、「札幌軟石発掘大作戦」2010年南区調査で未踏の一帯です。南沢地区は市街地(条丁目)しか調べませんでした。マンパワーの限界で、調整区域まで手が付けられなかったのです。市街地は比較的新しい住宅が多く、軟石建物は見つかりませんでした。
今にして実感するのですが、軟石建物の宝庫は調整区域(農地)にありました。これは、市街地を踏査したからこそ得られた実感でもあります。文化は辺境に宿る。
郷里で時空逍遥 2016春 巡見街道①
母が入居しているケアハウス(愛知県稲沢市)から1.3㎞ほど西にいったところを、旧道が南北に通じています。

「巡見街道」と呼ばれた古道です。現在の県道458号ですが、県道といってもクルマがすれ違うのに精一杯の幅員しかありません。私の郷里の旧道は、たいていこんなものです。
江戸時代、幕府は地方の事情を視察するため「巡見使」という役人を派遣しました。記録によると9回ほど行われ、尾張藩では史料で6回が確認されているそうです(末注)。一回の巡見に幕府と藩の役人が総勢100名を超す行列をなしたとのことで、かなりのビッグイベントだったようです。尾張藩では現在の犬山市から愛西市にかけてルート設定されていました。それが巡見街道と呼び慣らわされたのです。
我が郷里・稲沢市には「一色巡見町」という町名が遺っています。

県道67号(八神海道)との交差点には、「巡見北 Junken N.」という表示板があります。
と、ここまでのことは既出文献にあるとおりなのですが、この街道を少し歩いてみました。
注:稲沢市教育委員会『稲沢の街道 Ⅲ』2001年参照。以下、史実については同文献による。

「巡見街道」と呼ばれた古道です。現在の県道458号ですが、県道といってもクルマがすれ違うのに精一杯の幅員しかありません。私の郷里の旧道は、たいていこんなものです。
江戸時代、幕府は地方の事情を視察するため「巡見使」という役人を派遣しました。記録によると9回ほど行われ、尾張藩では史料で6回が確認されているそうです(末注)。一回の巡見に幕府と藩の役人が総勢100名を超す行列をなしたとのことで、かなりのビッグイベントだったようです。尾張藩では現在の犬山市から愛西市にかけてルート設定されていました。それが巡見街道と呼び慣らわされたのです。
我が郷里・稲沢市には「一色巡見町」という町名が遺っています。

県道67号(八神海道)との交差点には、「巡見北 Junken N.」という表示板があります。
と、ここまでのことは既出文献にあるとおりなのですが、この街道を少し歩いてみました。
注:稲沢市教育委員会『稲沢の街道 Ⅲ』2001年参照。以下、史実については同文献による。
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