札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い
常盤の軟石採掘跡を探る
札幌軟石は現在、南区常盤の真駒内川流域でのみ採掘されています。T石材の採石場ですが、郷土史の文献にはT石材以外にも同川流域の複数箇所で採掘されていたことが記されています。『常盤開基百年記念誌』2002年には3箇所が紹介されており(p.199)、さらに『常盤小学校開校100周年記念誌』には、略地図にその位置が書き込まれています。のみならず同誌には、切羽跡に刻まれている文字も明らかにされているのです。これはもう、現地を確かめないわけにはいきません。
採掘跡の一つとされている、市立大学付近です。

同大学に至る「みずなら橋」の上から、下流を眺めました。橋上から川面まで、かなりの高低差があります。
対岸(大学側)に橋を渡り、川岸に降りてみました。

流れもかなり急です。防護柵なども付いていませんから、足を滑らせないように注意する必要があります。
溶結凝灰岩の切り立った露頭が間近に見えます。

どうやら採掘跡らしい。さて、文字は刻まれていないか。
採掘跡の一つとされている、市立大学付近です。

同大学に至る「みずなら橋」の上から、下流を眺めました。橋上から川面まで、かなりの高低差があります。
対岸(大学側)に橋を渡り、川岸に降りてみました。

流れもかなり急です。防護柵なども付いていませんから、足を滑らせないように注意する必要があります。
溶結凝灰岩の切り立った露頭が間近に見えます。

どうやら採掘跡らしい。さて、文字は刻まれていないか。
スポンサーサイト
滝野で軟石採掘跡を探す
滝野の軟石採掘跡を探して、昨日のⅠさん宅から厚別川をさらに上流へ遡りました。

途中、川沿いの道の路肩がえぐられています。昨年の大雨の影響かもしれません。
数百m進んだところで…。

路面がほとんど水溜りになっていました。短靴では無理です。道の左端は厚別川で、一歩間違えると滑落の恐れもあります。『常盤小学校開校100周年記念誌』によると、この道の行き止まりに採掘跡があるらしいのですが、やむなくこれ以上の遡行は断念しました。
同誌に紹介されている地元のAさんからも、上流で採石されていたことを伺いました。

1933(昭和8)年築というAさんの古い主屋の煙突が地元滝野産の軟石と記されています。
Aさんによると「(採石の)跡は(木陰に隠れて)もう見えないと思うが…」とのことでした。昨日お伝えした元馬小屋の持ち主のⅠさんからも採掘のことをお聴きしました。その建築年からすると、軟石が掘られていたのは昭和20年代までとみられます。Aさんのお話では「滝野軟石は(石山に比べて)硬く、その分割れやすかった」そうです。
Ⅰさんからは、前掲誌の記述よりも少し下流のところで採石されていたと聞きました。

そのあたりで、川の対岸に溶結凝灰岩らしき露頭が見えました。
採石跡の正確な位置を特定するためには、装備を整えて出直すこととしましょう。
厚別川流域の軟石については昨年11月20-21日ブログにまとめていますが、今般の文献及び地元聞取りにより、さらに上流域でも採掘されていたことを書き加える必要があります。

途中、川沿いの道の路肩がえぐられています。昨年の大雨の影響かもしれません。
数百m進んだところで…。

路面がほとんど水溜りになっていました。短靴では無理です。道の左端は厚別川で、一歩間違えると滑落の恐れもあります。『常盤小学校開校100周年記念誌』によると、この道の行き止まりに採掘跡があるらしいのですが、やむなくこれ以上の遡行は断念しました。
同誌に紹介されている地元のAさんからも、上流で採石されていたことを伺いました。

1933(昭和8)年築というAさんの古い主屋の煙突が地元滝野産の軟石と記されています。
Aさんによると「(採石の)跡は(木陰に隠れて)もう見えないと思うが…」とのことでした。昨日お伝えした元馬小屋の持ち主のⅠさんからも採掘のことをお聴きしました。その建築年からすると、軟石が掘られていたのは昭和20年代までとみられます。Aさんのお話では「滝野軟石は(石山に比べて)硬く、その分割れやすかった」そうです。
Ⅰさんからは、前掲誌の記述よりも少し下流のところで採石されていたと聞きました。

そのあたりで、川の対岸に溶結凝灰岩らしき露頭が見えました。
採石跡の正確な位置を特定するためには、装備を整えて出直すこととしましょう。
厚別川流域の軟石については昨年11月20-21日ブログにまとめていますが、今般の文献及び地元聞取りにより、さらに上流域でも採掘されていたことを書き加える必要があります。
滝野の軟石建物②
南区滝野の2棟めです。

基礎はコンクリートのようですが、その上の三段が軟石で、表面仕上げはツルメ。本件も、建物全体からみると軟石の割合は半分未満ですが、昨日同様の恣意的理由で軟石建物に含めます。持ち主のⅠさんによると、建てられたのは「昭和25、6年頃」で、元は馬小屋だったとのことです。
今のところ、本件及び昨日のNさん宅元養豚場が札幌市域では最南端の軟石建物になります。これで336棟。うち39棟がこの10年間に解体されていますので、現存は297棟です。と記している今、どこかで解体されているかもしれないし、未確認の物件もまだあるだろうから、大まかに「札幌市内に現存する軟石建物(推定築50年以上)は約300棟」ということにしておきましょう。
Ⅰさん宅にはもう一棟、同じく腰折れ屋根の納屋があります。

こちらは煉瓦造です。イギリス積み。「昭和30年頃」築の由。「洞爺丸台風で、それまであった木造のが壊れたので、煉瓦が建て直した」と。洞爺丸台風は1954(昭和29)年です。他の地区でもこの台風を機に、木造から煉瓦や軟石に建て替えたという話を聴いたことがあります。
ところで、昨日のNさん宅や前掲Ⅰさん宅を軟石建物に計上したのには、実はもう一つ理由があります。それは、これらが滝野で採掘された軟石らしいということです。『常盤小学校開校100周年記念誌』に、滝野での軟石産出について記されているのです。まだあったのか、軟石採掘場…。

基礎はコンクリートのようですが、その上の三段が軟石で、表面仕上げはツルメ。本件も、建物全体からみると軟石の割合は半分未満ですが、昨日同様の恣意的理由で軟石建物に含めます。持ち主のⅠさんによると、建てられたのは「昭和25、6年頃」で、元は馬小屋だったとのことです。
今のところ、本件及び昨日のNさん宅元養豚場が札幌市域では最南端の軟石建物になります。これで336棟。うち39棟がこの10年間に解体されていますので、現存は297棟です。と記している今、どこかで解体されているかもしれないし、未確認の物件もまだあるだろうから、大まかに「札幌市内に現存する軟石建物(推定築50年以上)は約300棟」ということにしておきましょう。
Ⅰさん宅にはもう一棟、同じく腰折れ屋根の納屋があります。

こちらは煉瓦造です。イギリス積み。「昭和30年頃」築の由。「洞爺丸台風で、それまであった木造のが壊れたので、煉瓦が建て直した」と。洞爺丸台風は1954(昭和29)年です。他の地区でもこの台風を機に、木造から煉瓦や軟石に建て替えたという話を聴いたことがあります。
ところで、昨日のNさん宅や前掲Ⅰさん宅を軟石建物に計上したのには、実はもう一つ理由があります。それは、これらが滝野で採掘された軟石らしいということです。『常盤小学校開校100周年記念誌』に、滝野での軟石産出について記されているのです。まだあったのか、軟石採掘場…。
滝野の軟石建物①
引き続き『常盤小学校開校100周年記念誌』の文字どおり‘みちびき’を受けて、行脚します。

滝野です。
中央バス「厚別(あしりべつ)の滝」停から徒歩で南へ、厚別川上流を遡りました。
滝野では軟石建物を2棟、確認しました(いずれも前掲誌掲載)。
その一棟がNさん宅の元養豚場です。バス停から2㎞余り上流にあります。

基礎から3段、軟石が積まれています。表面仕上げはツルメ。
私はこれまで「建物のおおむね半分以上、軟石が使われている」ものを軟石建物と呼んできました。本物件は、軒下まででみると軟石の割合は半分程度ですが、破風(屋根勾配と壁面とで形作られる三角形の部分)まで含めた中では半分未満です。これを軟石建物といってよいか微妙なところですが、私としては含めたい。「アシリベツの滝から2㎞も遡ったところに在るのだから」という、これまた極めて恣意的理由からです。
前掲誌には建築年までは記されていなかったので、持ち主の方に伺ったところ「昭和20年代」とのことでした。
これで昨日の334棟に加え、335棟。
余談ながら、私がこのたび歩いた厚別川の上流域はかつて路線バスが走っていました。

1995(平成7)年発行の市営交通の路線図、滝野周辺部分です。厚別の滝から上流へ、滝野13番、18番、22番…と停留所があります(2002年ゼンリン住宅地図にも載っている)。前掲画像のNさん宅は終点の「滝野」停の近くです。
今歩くと「よく、ここを路線バスが走ってたなあ」と思うのですが、当時はまだ路線バス愛好家ではなかったので、残念ながらこの路線は乗らずじまいでした。
ついでに言うと、昨日お伝えした「左精進川」の流域と精進川の「恵開拓記念碑」停以南の流域も、路線バスが走っていたのですね。「真駒内2団」という停留所が書かれています。「真駒内3団」は今も停留所名に残っていますが、「2団」は現在何か名残があるのだろうか。ここらあたりも(お住まいの方には失礼かもしれませんが)、「ここを路線バスが通っていたのか…」と驚きを禁じえません。
今思い出したのですが、30年ほど前、滝野すずらん公園にバスで行ったことがあります。公園が開設されて間もない頃でした。このときこの路線に乗って、真駒内2団を通ったのだなあ。

滝野です。
中央バス「厚別(あしりべつ)の滝」停から徒歩で南へ、厚別川上流を遡りました。
滝野では軟石建物を2棟、確認しました(いずれも前掲誌掲載)。
その一棟がNさん宅の元養豚場です。バス停から2㎞余り上流にあります。

基礎から3段、軟石が積まれています。表面仕上げはツルメ。
私はこれまで「建物のおおむね半分以上、軟石が使われている」ものを軟石建物と呼んできました。本物件は、軒下まででみると軟石の割合は半分程度ですが、破風(屋根勾配と壁面とで形作られる三角形の部分)まで含めた中では半分未満です。これを軟石建物といってよいか微妙なところですが、私としては含めたい。「アシリベツの滝から2㎞も遡ったところに在るのだから」という、これまた極めて恣意的理由からです。
前掲誌には建築年までは記されていなかったので、持ち主の方に伺ったところ「昭和20年代」とのことでした。
これで昨日の334棟に加え、335棟。
余談ながら、私がこのたび歩いた厚別川の上流域はかつて路線バスが走っていました。

1995(平成7)年発行の市営交通の路線図、滝野周辺部分です。厚別の滝から上流へ、滝野13番、18番、22番…と停留所があります(2002年ゼンリン住宅地図にも載っている)。前掲画像のNさん宅は終点の「滝野」停の近くです。
今歩くと「よく、ここを路線バスが走ってたなあ」と思うのですが、当時はまだ路線バス愛好家ではなかったので、残念ながらこの路線は乗らずじまいでした。
ついでに言うと、昨日お伝えした「左精進川」の流域と精進川の「恵開拓記念碑」停以南の流域も、路線バスが走っていたのですね。「真駒内2団」という停留所が書かれています。「真駒内3団」は今も停留所名に残っていますが、「2団」は現在何か名残があるのだろうか。ここらあたりも(お住まいの方には失礼かもしれませんが)、「ここを路線バスが通っていたのか…」と驚きを禁じえません。
今思い出したのですが、30年ほど前、滝野すずらん公園にバスで行ったことがあります。公園が開設されて間もない頃でした。このときこの路線に乗って、真駒内2団を通ったのだなあ。
左精進川流域の軟石建物
札幌は一昨日から里にも雪が積もりました。毎年、初めて雪が積もった日に感じるのですが、空気そのものが前日までと変わります。視覚・聴覚・触覚・嗅覚などの合わさった感覚として、受ける空気が違う。今年は前日までほとんど降ってなくて、いきなりドカっときたので、いっそうそんな感じがします。
さて、雪が積もる前に南区の郊外をかなり歩きました。

左精進川流域にあるTさん宅の納屋です。札幌軟石の表面仕上げはツルメ。
左精進川といっても、私自身このたび歩いて初めて知ったようなものです。地図で確認しておきます。

昨年歩いた精進川(2014.10.15-18、28-30ブログ参照)の支流です。町名としては真駒内(番地)。地図上薄い青でなぞったのが精進川で、濃い青が左精進川です(地図は南区役所発行「南区ガイド&map」から抜粋)。真駒内といっても、人跡稀な調整区域です。
中央バスで「サンブライト真駒内」まで行き、川に沿った市道を北上(地形的には下る)しました。ここも、『常盤小学校開校100周年記念誌』がなければ歩くことはなかったでしょう。前掲Tさん宅も同誌で紹介されていた建物です。先日、小樽市総合博物館のOさんからもここに軟石建物が3棟あるとの情報をいただきました。それにしてもOさんもまた、ずいぶんマニアックな市道を通ってますね。
Tさん宅で外壁の工事をしていた人がいたので伺ったのですが、残念ながら家人ではなく、お留守でした。ツルメの仕上げからみて、築50年以上とみてよいでしょう。
3棟のうちの2棟はTさん宅の市道を挟んだ向かいにあります。

1棟は住宅のようですが、廃屋です。表面仕上げはツルメ(一部小叩き)。腰折れ屋根。
その隣に同じく腰折れ屋根の廃屋。

形状からするとこちらは元馬小屋か。表面仕上げはツルメ。
軟石建物数は11月24日の331棟に3棟加えて334棟です。
左精進川が精進川と合流する辺りに…。

中央バスの「恵開拓記念碑」停があります。
画像上、停留所の左にある錆びついた鉄製は待合所の名残と思われます。S字にかたどられている(画像では反転)のは札幌市営交通当時のイニシャルではないでしょうか。市営バスの遺物も懐かしい。
ここは札幌市内でも有数の‘秘境バス停’だと思います。真駒内駅からここまで行く便は一日一本で、しかも午後6時20分発。この停留所から出るのは午前6時40分、7時25分、午後6時50分の3本です(中央バス時刻表)。この近くに住んでいる人でない限り、なかなかおいそれとは利用できません。
停留所近くには、軟石の塀もありました。

どうやら、住宅があった形跡です。
さて、雪が積もる前に南区の郊外をかなり歩きました。

左精進川流域にあるTさん宅の納屋です。札幌軟石の表面仕上げはツルメ。
左精進川といっても、私自身このたび歩いて初めて知ったようなものです。地図で確認しておきます。

昨年歩いた精進川(2014.10.15-18、28-30ブログ参照)の支流です。町名としては真駒内(番地)。地図上薄い青でなぞったのが精進川で、濃い青が左精進川です(地図は南区役所発行「南区ガイド&map」から抜粋)。真駒内といっても、人跡稀な調整区域です。
中央バスで「サンブライト真駒内」まで行き、川に沿った市道を北上(地形的には下る)しました。ここも、『常盤小学校開校100周年記念誌』がなければ歩くことはなかったでしょう。前掲Tさん宅も同誌で紹介されていた建物です。先日、小樽市総合博物館のOさんからもここに軟石建物が3棟あるとの情報をいただきました。それにしてもOさんもまた、ずいぶんマニアックな市道を通ってますね。
Tさん宅で外壁の工事をしていた人がいたので伺ったのですが、残念ながら家人ではなく、お留守でした。ツルメの仕上げからみて、築50年以上とみてよいでしょう。
3棟のうちの2棟はTさん宅の市道を挟んだ向かいにあります。

1棟は住宅のようですが、廃屋です。表面仕上げはツルメ(一部小叩き)。腰折れ屋根。
その隣に同じく腰折れ屋根の廃屋。

形状からするとこちらは元馬小屋か。表面仕上げはツルメ。
軟石建物数は11月24日の331棟に3棟加えて334棟です。
左精進川が精進川と合流する辺りに…。

中央バスの「恵開拓記念碑」停があります。
画像上、停留所の左にある錆びついた鉄製は待合所の名残と思われます。S字にかたどられている(画像では反転)のは札幌市営交通当時のイニシャルではないでしょうか。市営バスの遺物も懐かしい。
ここは札幌市内でも有数の‘秘境バス停’だと思います。真駒内駅からここまで行く便は一日一本で、しかも午後6時20分発。この停留所から出るのは午前6時40分、7時25分、午後6時50分の3本です(中央バス時刻表)。この近くに住んでいる人でない限り、なかなかおいそれとは利用できません。
停留所近くには、軟石の塀もありました。

どうやら、住宅があった形跡です。
‘パクリ’考
昨日から札幌市内(道内?)の本屋さんの店頭に「HO」という月刊雑誌(2016 1月号)が並んでいます。「市電でゆるゆる発掘散歩」という特集です。
実は先々週、この雑誌の編集部の方から私のところにファックスが届きました。私のブログに載せている写真を使わせてほしいという依頼です。「鴨川」という割烹料亭を撮った古写真で、札幌建築鑑賞会会員Sさん(故人)が所蔵していたものです(2015.9.26-29ブログ参照)。私はSさんのご遺族に承諾をいただき、写真所有者名をクレジットとして入れることを条件に画像を編集部に提供しました。併せて、「できれば」として「協力:札幌建築鑑賞会」を入れていただくことをお願いしました。
書店に並ぶ前日、私のところに掲載誌が送られてきました。


あえて掲載誌面をここで紹介させていただきます。著作権に抵触する可能性があるかもしれませんが、以下に述べる事情でお許しいただきましょう。
それは、私が9月にブログで記述した内容が、掲載のキャプションや本文でかなり使われているということです。
前掲画像では文字までは読み取りづらいと思いますので、興味のある方は直接同誌(p.126-127)をお読みの上、私のブログと読み比べてみていただければ幸いです。文末の言い回しなどは変えられていますが、ほとんどまるごとに近い形で用いられています。
正直言って、ここまで自分のネタが使い回しされるとは思っていませんでした。私としてはかなり遠慮がちに「協力:札幌建築鑑賞会」をお願いしたのですが、文章をここまで大胆に使うのでしたら、「引用・参考:ブログ札幌時空逍遙」くらい入れてもらってもよかったとすら、思いました。
私のブログをずっとお読みくださっている方にはお察しのことと思いますが、私自身がモノを書くに当たって心がけている一つが「出所明示」です(2015.7.23ブログ参照)。その理由は「先人への敬意」と「虚偽の拡散防止」の二点にあります。
私は「HO」編集部に対して、敬意を表してくれと言いたいのではありません。求めているのは、誤解の芽を最低限防いでほしいということです。
もし私が第三者の立場で、ブログ「札幌時空逍遥」(2015.9.26-29)と今般の「HO」誌2016 1月号p.126-127を読み比べたら、「あれ、これパクリじゃねえか?」と思ってしまいます。時系列的には私のブログのほうが古いので、素直に見れば後者「HO」が前者「札幌時空…」をパクッたことになりますが、ブログの日付はあとからなんとでもできます。つまり「HO」2016 1月号を読んでから、2015年9月にさかのぼってブログを書いたことにするのも技術的に簡単なことです。前者「札幌時空…」が後者「HO」をパクッたと解することも可能なのです。
より重要な問題は二点目の「虚偽の拡散防止」にあります。文末の言い回しなどが微妙に変えられると、誤解を招く恐れがありますが(これを私は‘伝言ゲーム現象’と呼ぶ)、出典を明示すれば少なくとも、「文章がどのように変えられたか」第三者が後から判断しやすくなり、再修正が可能となります。
この種の‘パクリ’が著作権侵害にならないのは私も承知していますし、法的な著作権云々を主張するのではまったくありません。以前にも別の雑誌で文章を使われたことがありますが、地元ネタを扱うメディア業界では、かような使い回しはおそらく日常茶飯事なのでしょう。記事にいちいち引用出典を載せていたら紙幅が足りない。「HO」編集部としては、私の依願である「協力:札幌建築鑑賞会」を誌面に入れたことで最低限の仁義は切ったということかもしれません。
‘パクリ’というのは、‘程度問題’ということもあると思います(末注)。私の中では「HO」の当該誌面はパクリ(=根拠出典を明示しない引用)という実感なのですが、同誌編集部はそのように認識していないとも想像します。
興味のある方はどうぞ同誌(定価600円税込)p.126-127と拙ブログ2015.9.26-29をお読み比べください。…と、結果的に「HO」誌を宣伝している私です(苦笑。
注:程度問題というのは、全体の中で引用が占める量的割合のみならず、全体における質的関係性(主従関係)をいう。引用部分が全体の中で主たる内容を占めているか、従たる存在かの違い。福井健策『著作権とは何か』2005年、pp.176-182参照。
同書は法的な次元での著作権を論じているが、‘パクリ’を考える上でも参考になる。たとえば、本ブログで私は「HO」誌の中から2ページを「まるごと」コピーして転載している。もし私がこれ「だけ」をブログに載せたとすれば、とりもなおさず「主たる内容」であり、合法的「引用」の域を超えるであろう。私はあくまでも、自分の主張の展開に必要な「従たる」位置づけとして引用した。この引用に著作権者の許諾を要するか否かは議論が分かれるところで、同書著者は1980年最高裁判決や2000年東京地裁判決を援用し、必ずしも要するとはしない見解を述べている。
実は先々週、この雑誌の編集部の方から私のところにファックスが届きました。私のブログに載せている写真を使わせてほしいという依頼です。「鴨川」という割烹料亭を撮った古写真で、札幌建築鑑賞会会員Sさん(故人)が所蔵していたものです(2015.9.26-29ブログ参照)。私はSさんのご遺族に承諾をいただき、写真所有者名をクレジットとして入れることを条件に画像を編集部に提供しました。併せて、「できれば」として「協力:札幌建築鑑賞会」を入れていただくことをお願いしました。
書店に並ぶ前日、私のところに掲載誌が送られてきました。


あえて掲載誌面をここで紹介させていただきます。著作権に抵触する可能性があるかもしれませんが、以下に述べる事情でお許しいただきましょう。
それは、私が9月にブログで記述した内容が、掲載のキャプションや本文でかなり使われているということです。
前掲画像では文字までは読み取りづらいと思いますので、興味のある方は直接同誌(p.126-127)をお読みの上、私のブログと読み比べてみていただければ幸いです。文末の言い回しなどは変えられていますが、ほとんどまるごとに近い形で用いられています。
正直言って、ここまで自分のネタが使い回しされるとは思っていませんでした。私としてはかなり遠慮がちに「協力:札幌建築鑑賞会」をお願いしたのですが、文章をここまで大胆に使うのでしたら、「引用・参考:ブログ札幌時空逍遙」くらい入れてもらってもよかったとすら、思いました。
私のブログをずっとお読みくださっている方にはお察しのことと思いますが、私自身がモノを書くに当たって心がけている一つが「出所明示」です(2015.7.23ブログ参照)。その理由は「先人への敬意」と「虚偽の拡散防止」の二点にあります。
私は「HO」編集部に対して、敬意を表してくれと言いたいのではありません。求めているのは、誤解の芽を最低限防いでほしいということです。
もし私が第三者の立場で、ブログ「札幌時空逍遥」(2015.9.26-29)と今般の「HO」誌2016 1月号p.126-127を読み比べたら、「あれ、これパクリじゃねえか?」と思ってしまいます。時系列的には私のブログのほうが古いので、素直に見れば後者「HO」が前者「札幌時空…」をパクッたことになりますが、ブログの日付はあとからなんとでもできます。つまり「HO」2016 1月号を読んでから、2015年9月にさかのぼってブログを書いたことにするのも技術的に簡単なことです。前者「札幌時空…」が後者「HO」をパクッたと解することも可能なのです。
より重要な問題は二点目の「虚偽の拡散防止」にあります。文末の言い回しなどが微妙に変えられると、誤解を招く恐れがありますが(これを私は‘伝言ゲーム現象’と呼ぶ)、出典を明示すれば少なくとも、「文章がどのように変えられたか」第三者が後から判断しやすくなり、再修正が可能となります。
この種の‘パクリ’が著作権侵害にならないのは私も承知していますし、法的な著作権云々を主張するのではまったくありません。以前にも別の雑誌で文章を使われたことがありますが、地元ネタを扱うメディア業界では、かような使い回しはおそらく日常茶飯事なのでしょう。記事にいちいち引用出典を載せていたら紙幅が足りない。「HO」編集部としては、私の依願である「協力:札幌建築鑑賞会」を誌面に入れたことで最低限の仁義は切ったということかもしれません。
‘パクリ’というのは、‘程度問題’ということもあると思います(末注)。私の中では「HO」の当該誌面はパクリ(=根拠出典を明示しない引用)という実感なのですが、同誌編集部はそのように認識していないとも想像します。
興味のある方はどうぞ同誌(定価600円税込)p.126-127と拙ブログ2015.9.26-29をお読み比べください。…と、結果的に「HO」誌を宣伝している私です(苦笑。
注:程度問題というのは、全体の中で引用が占める量的割合のみならず、全体における質的関係性(主従関係)をいう。引用部分が全体の中で主たる内容を占めているか、従たる存在かの違い。福井健策『著作権とは何か』2005年、pp.176-182参照。
同書は法的な次元での著作権を論じているが、‘パクリ’を考える上でも参考になる。たとえば、本ブログで私は「HO」誌の中から2ページを「まるごと」コピーして転載している。もし私がこれ「だけ」をブログに載せたとすれば、とりもなおさず「主たる内容」であり、合法的「引用」の域を超えるであろう。私はあくまでも、自分の主張の展開に必要な「従たる」位置づけとして引用した。この引用に著作権者の許諾を要するか否かは議論が分かれるところで、同書著者は1980年最高裁判決や2000年東京地裁判決を援用し、必ずしも要するとはしない見解を述べている。
常盤2区の軟石建物②
南区の「常盤2区」です。
一昨日のブログでお伝えした以外に、計5棟の軟石建物が確認されました。いずれも、『常盤小学校開校100周年記念誌』に掲載されています。
常盤二区会館。

表面仕上げは機械彫り。前掲誌に「1968(昭和43)年落成」と記されています。
Hさん宅の納屋。

表面仕上げは下部三段がツルメ、それより上は機械彫り(一部ツルメ)。持ち主の方への聞取りでは「昭和30年頃」とのことです。軟石は真駒内川下流のT石材産で、Hさんが自分で運んで積んだそうです。Hさんは元は水田稲作をしていました。
Sさん宅の住宅。

1階部分が軟石で、表面仕上げは機械彫り。
同じくSさん宅の納屋。

表面仕上げは機械彫り。Sさんによると、住宅も納屋も「昭和43年頃」の築とのこと。T石材の産。納屋は当初馬小屋として建てたが、馬を飼うのをやめたため、馬小屋としてではなく物置として使ってきた由。
Tさん宅の住宅。

表面仕上げは機械彫り。建築年等は、Tさん「自分が建てたのではないので、わからない」とのことでした。
以上の5棟中、Hさん宅の納屋は聞取り結果及び表面仕上げからして「築50年以上」に係数してよいでしょう。
最後のTさん宅は建築年不詳のため、除外します。
問題は会館とSさん宅の住宅・納屋で、どちらも1968(昭和43)年(頃)というのが微妙な年数です。今年で築47年なので厳密には「50年未満」ですが、個人的心情としては「50年以上」に含めたい。個人的信条というのは、はるばる常盤2区まで来て確認したという、いたって主観的感慨です。毎度恣意的な判断ですが、下一桁を四捨五入してしまおう。
よって、一昨日までの327棟に4棟を加え、331棟。
余談ながら、路線バスを使って常盤の奥地まで来ると、秘境感が漂います。ホント「はるばる来たな」と思います。実際には、この奥に砂利採石場があり、大型ダンプが頻繁に行き来しているので、秘境でもなんでもないのですが。
念のため、「空沼二股」停まで歩いてみましたが…。

これ以上は軟石建物は確認できませんでした。
バス停はこの先に二つあり、終点の「空沼登山口」が札幌市最南端の停留所になります。そこまで行くのは夏季4か月の土日祝日のみ(一日3便)なので、実質的な定期便としてはここが南端ともいえましょう。ここまでは地下鉄真駒内駅から一日11便出ています(うち2便は札幌ターミナル発)。人口密度の割には結構な便数だなという印象です。
一昨日のブログでお伝えした以外に、計5棟の軟石建物が確認されました。いずれも、『常盤小学校開校100周年記念誌』に掲載されています。
常盤二区会館。

表面仕上げは機械彫り。前掲誌に「1968(昭和43)年落成」と記されています。
Hさん宅の納屋。

表面仕上げは下部三段がツルメ、それより上は機械彫り(一部ツルメ)。持ち主の方への聞取りでは「昭和30年頃」とのことです。軟石は真駒内川下流のT石材産で、Hさんが自分で運んで積んだそうです。Hさんは元は水田稲作をしていました。
Sさん宅の住宅。

1階部分が軟石で、表面仕上げは機械彫り。
同じくSさん宅の納屋。

表面仕上げは機械彫り。Sさんによると、住宅も納屋も「昭和43年頃」の築とのこと。T石材の産。納屋は当初馬小屋として建てたが、馬を飼うのをやめたため、馬小屋としてではなく物置として使ってきた由。
Tさん宅の住宅。

表面仕上げは機械彫り。建築年等は、Tさん「自分が建てたのではないので、わからない」とのことでした。
以上の5棟中、Hさん宅の納屋は聞取り結果及び表面仕上げからして「築50年以上」に係数してよいでしょう。
最後のTさん宅は建築年不詳のため、除外します。
問題は会館とSさん宅の住宅・納屋で、どちらも1968(昭和43)年(頃)というのが微妙な年数です。今年で築47年なので厳密には「50年未満」ですが、個人的心情としては「50年以上」に含めたい。個人的信条というのは、はるばる常盤2区まで来て確認したという、いたって主観的感慨です。毎度恣意的な判断ですが、下一桁を四捨五入してしまおう。
よって、一昨日までの327棟に4棟を加え、331棟。
余談ながら、路線バスを使って常盤の奥地まで来ると、秘境感が漂います。ホント「はるばる来たな」と思います。実際には、この奥に砂利採石場があり、大型ダンプが頻繁に行き来しているので、秘境でもなんでもないのですが。
念のため、「空沼二股」停まで歩いてみましたが…。

これ以上は軟石建物は確認できませんでした。
バス停はこの先に二つあり、終点の「空沼登山口」が札幌市最南端の停留所になります。そこまで行くのは夏季4か月の土日祝日のみ(一日3便)なので、実質的な定期便としてはここが南端ともいえましょう。ここまでは地下鉄真駒内駅から一日11便出ています(うち2便は札幌ターミナル発)。人口密度の割には結構な便数だなという印象です。
江別 近過去 ビフォア&アフター
2002年に江別駅周辺の街並みを撮った写真が見つかりました。たかだか13年前なのですが、札幌建築鑑賞会「大人の遠足・2015秋の編」で歩いた現在の風景との違いが感じられましたのでお伝えします。
平和通り。

アーチ型看板が架かっていました。8月のお盆の頃だったせいか、提灯もぶら下がっています。
10月に行ったときは…。

アーチは外されていていました。「平和通」の看板が、「OLDe♯」の壁に立てかけられています。13年間の変化に、‘もののあはれ’のような思いを抱いてしまいます。
中央通りのアーケード街も撮っていました。

当時私はまだフィルムカメラでした。今のデジカメだと無尽蔵にシャッターを押せるのですが、当時はフィルム代やらプリント代がかかって、やたらめったら撮ることはできませんでした。が、なぜかこういう風景にはファインダーを向けてしまう習性があったようです。蛍光灯の明るさが印象的です。
現在の中央通りです(画像上、左右に通る道路)。

アーケードは取り払われています。
会社通り(2015.10.16ブログ参照)付近で見かけた住宅です。

マジンガーZを想わせる造形に惹かれて撮ったのだと思います。
これは今も残っていたかどうか…。10月の遠足に参加された方でご記憶がある方は教えてください。
平和通りの「ビューティサロン毛内」。

大胆な片流れの屋根。屋根裏部分にも窓が付いているところを見ると、部屋があるのか。入口のシェードが昭和なフォルムです。
こちらは健在です。ただ、シェードが今もあったかどうか…。
13年でも、変わりゆくものだなと感じました。毎度思いますが、こういう感慨はスマホやストリートビューなるものが出てくると、もう生まれないのかもしれない。
平和通り。

アーチ型看板が架かっていました。8月のお盆の頃だったせいか、提灯もぶら下がっています。
10月に行ったときは…。

アーチは外されていていました。「平和通」の看板が、「OLDe♯」の壁に立てかけられています。13年間の変化に、‘もののあはれ’のような思いを抱いてしまいます。
中央通りのアーケード街も撮っていました。

当時私はまだフィルムカメラでした。今のデジカメだと無尽蔵にシャッターを押せるのですが、当時はフィルム代やらプリント代がかかって、やたらめったら撮ることはできませんでした。が、なぜかこういう風景にはファインダーを向けてしまう習性があったようです。蛍光灯の明るさが印象的です。
現在の中央通りです(画像上、左右に通る道路)。

アーケードは取り払われています。
会社通り(2015.10.16ブログ参照)付近で見かけた住宅です。

マジンガーZを想わせる造形に惹かれて撮ったのだと思います。
これは今も残っていたかどうか…。10月の遠足に参加された方でご記憶がある方は教えてください。
平和通りの「ビューティサロン毛内」。

大胆な片流れの屋根。屋根裏部分にも窓が付いているところを見ると、部屋があるのか。入口のシェードが昭和なフォルムです。
こちらは健在です。ただ、シェードが今もあったかどうか…。
13年でも、変わりゆくものだなと感じました。毎度思いますが、こういう感慨はスマホやストリートビューなるものが出てくると、もう生まれないのかもしれない。
常盤2区の軟石建物①
南区常盤地区については、町内会の区分である「常盤1区」「常盤2区」というのが地元で通りがいいと思います。大まかにいうと、常盤(条丁目)すなわち市街化区域が常盤1区、常盤(番地)すなわち調整区域が常盤2区になります。
昨日お伝えしたバス停「常盤」の所在地は、常盤2区です。
この地区を訪ねるきっかけを作ってくれたのも、先日来引用させてもらっている『札幌市立常盤小学校開校100周年記念誌』です。同誌に出会わなければ足を運ぶことはなかったかもしれません。
同地区の軟石建物の1件め、Aさん宅です。

1階部分が軟石、表面仕上げは機械彫り。
建てられたのは、現在61歳のご主人が「小学生の頃」とのことで、築50年に含めたいと思います。これで軟石建物数は11月18日ブログの326棟からさらに更新して、327棟。軟石は常盤のT石材産。石造りにしたのは、お父さんがT石材の先代社長と同級生だったという縁からだそうです。
Aさん宅の納屋です。

こちらは基礎部分のみ軟石で、建てられたのは現ご主人が「生まれる前」とのこと。表面仕上げはツルメです。本体大部分が木造なので、軟石建物にはカウントしません。このほかにも車庫が軟石製だったそうですが、今はありません。
前掲記念誌を頼りに常盤地区を歩いたのですが、そもそも同誌を知ったのは、「軟石や」のOさんに「常盤小学校で新しく記念誌が出た」とお聞きし、さらに地元の軟石建物の持ち主の方からも耳にしたからです。Oさんに感謝します。
同誌は、今春まで同小で教鞭を取っておられたYさんという方が中心となってまとめたものとお聞きしました。学校の周年記念誌を他にさほど知っているわけではないのですが、これはかなり内容が濃いと私は思います。Yさんに一度お会いしたいものです。
先達が遺した足跡のおかげで、「未踏の地を自力で調べて見つける」という悦びはありません。反面、効率的に確認することができます。また、同誌に記されていないことを掘り起こすという新たな楽しみが生まれました。同誌の水準を超えるというのは知的労力(?)をかなり要するのですが、やりがいはあります。とまれ、こういう書物に巡り逢えたのも、コマメに現地へ足を運んだ産物かなとも思っています。
昨日お伝えしたバス停「常盤」の所在地は、常盤2区です。
この地区を訪ねるきっかけを作ってくれたのも、先日来引用させてもらっている『札幌市立常盤小学校開校100周年記念誌』です。同誌に出会わなければ足を運ぶことはなかったかもしれません。
同地区の軟石建物の1件め、Aさん宅です。

1階部分が軟石、表面仕上げは機械彫り。
建てられたのは、現在61歳のご主人が「小学生の頃」とのことで、築50年に含めたいと思います。これで軟石建物数は11月18日ブログの326棟からさらに更新して、327棟。軟石は常盤のT石材産。石造りにしたのは、お父さんがT石材の先代社長と同級生だったという縁からだそうです。
Aさん宅の納屋です。

こちらは基礎部分のみ軟石で、建てられたのは現ご主人が「生まれる前」とのこと。表面仕上げはツルメです。本体大部分が木造なので、軟石建物にはカウントしません。このほかにも車庫が軟石製だったそうですが、今はありません。
前掲記念誌を頼りに常盤地区を歩いたのですが、そもそも同誌を知ったのは、「軟石や」のOさんに「常盤小学校で新しく記念誌が出た」とお聞きし、さらに地元の軟石建物の持ち主の方からも耳にしたからです。Oさんに感謝します。
同誌は、今春まで同小で教鞭を取っておられたYさんという方が中心となってまとめたものとお聞きしました。学校の周年記念誌を他にさほど知っているわけではないのですが、これはかなり内容が濃いと私は思います。Yさんに一度お会いしたいものです。
先達が遺した足跡のおかげで、「未踏の地を自力で調べて見つける」という悦びはありません。反面、効率的に確認することができます。また、同誌に記されていないことを掘り起こすという新たな楽しみが生まれました。同誌の水準を超えるというのは知的労力(?)をかなり要するのですが、やりがいはあります。とまれ、こういう書物に巡り逢えたのも、コマメに現地へ足を運んだ産物かなとも思っています。
「常盤」の北に、「常盤南」あり
中央バスの「常盤」停です。

地下鉄真駒内駅から南へ、バスで18分のところにあります。
中央バスの「常盤南」停です。

前掲「常盤」停から1.3kmほど北、真駒内寄りにあります。
「常盤南」が、「常盤」の北に位置しています。
地図で確認しておきます。

中央バスの路線図です。方位はほぼ1時の向きが北。明らかに、「常盤」の北に「常盤南」があります。常識的な感覚では、「常盤南」は、「常盤」の南にあってほしいのですが、北にある。
まあ地元に方にしてみると取るに足らないことなのでしょうが、路線バス愛好家の私としてはこういう逆転現象に出くわすと無性に嬉しくなります。
「常盤」停は、町名でいうと南区常盤(番地)にあります。常盤にあるから「常盤」停。
一方、「常盤南」停も町名では南区常盤(番地)です。「常盤」停の北にあるのに「常盤北」としなかったのは、さらにその北に常盤の市街地(現町名は常盤条丁目、町内会名は常盤1区)があるからと私は想像します。つまり、常盤の市街地の南にあるから「常盤南」。
そうはいっても。
現「常盤南」を「常盤」にして、現「常盤」を「常盤南」としてもよかったのではないか。なぜそうしなかったのか。
現「常盤」停は、元々「真駒内スキー場」という名称だったらしい。2002年ゼンリン住宅地図にはそのように記されています。スキー場がなくなって、停留所名を「常盤」に変えたようです。
以下は私の憶測です。
「常盤南」停はその前から別にあったので、「真駒内スキー場」のところを「常盤南」にするわけにいかない。ほかに適当な名前がないので「常盤」にしよう。「常盤南」のほうを今さら「常盤」に変えるのも、混乱を招く。そのままにしよう。

地下鉄真駒内駅から南へ、バスで18分のところにあります。
中央バスの「常盤南」停です。

前掲「常盤」停から1.3kmほど北、真駒内寄りにあります。
「常盤南」が、「常盤」の北に位置しています。
地図で確認しておきます。

中央バスの路線図です。方位はほぼ1時の向きが北。明らかに、「常盤」の北に「常盤南」があります。常識的な感覚では、「常盤南」は、「常盤」の南にあってほしいのですが、北にある。
まあ地元に方にしてみると取るに足らないことなのでしょうが、路線バス愛好家の私としてはこういう逆転現象に出くわすと無性に嬉しくなります。
「常盤」停は、町名でいうと南区常盤(番地)にあります。常盤にあるから「常盤」停。
一方、「常盤南」停も町名では南区常盤(番地)です。「常盤」停の北にあるのに「常盤北」としなかったのは、さらにその北に常盤の市街地(現町名は常盤条丁目、町内会名は常盤1区)があるからと私は想像します。つまり、常盤の市街地の南にあるから「常盤南」。
そうはいっても。
現「常盤南」を「常盤」にして、現「常盤」を「常盤南」としてもよかったのではないか。なぜそうしなかったのか。
現「常盤」停は、元々「真駒内スキー場」という名称だったらしい。2002年ゼンリン住宅地図にはそのように記されています。スキー場がなくなって、停留所名を「常盤」に変えたようです。
以下は私の憶測です。
「常盤南」停はその前から別にあったので、「真駒内スキー場」のところを「常盤南」にするわけにいかない。ほかに適当な名前がないので「常盤」にしよう。「常盤南」のほうを今さら「常盤」に変えるのも、混乱を招く。そのままにしよう。
Copyright © 札幌時空逍遥. all rights reserved.
Template by はじめてのブログデザイン
はじめてのブログ選び