札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
札幌の地形遺産
中央区、北大植物園近くにあるⅠ氏邸宅です。

札幌の中心部に遺る数少ない‘お屋敷’の一つで、庭園の樹林が鬱蒼としています。
札幌建築鑑賞会スタッフNさんから、Ⅰさん宅の解体工事が始まったようですよとお知らせをいただき、札幌駅へ行ったついでに見てきました。道路沿いにも重機が入っています。
門塀越しに見えるお宅の建物は…。

シートが掛かっています。確かに、解体に入っているようです。
門柱には、「開発許可」の標識も貼られています。

「予定建築物等の用途」は、「共同住宅(賃貸)」と。竣工は3年半後。立地からして、跡地にはおそらく超高層マンションが建つのでしょうな(末注①)。
となると、気になるのはお庭の緑樹群です。

お庭の中にあるハルニレやケヤキ、ヤチダモは「都市の美観風致を維持するための樹木の保全に関する法律」に基づく「保存樹木」に指定されています(末注②)。
ここは樹林というだけではなく、札幌の都心に遺る微地形=高低差という点でも貴重だと思います。

否、これは「微」地形というよりも、レッキとした地形といってよいでしょう。植物園の周辺から湧き出でた小河川の痕跡を留めています(末注③)。
地形遺産。というコトバ=概念があるかどうか知りませんが、なければ作ってしまいましょう。私はⅠさん宅の庭園を、札幌の地形遺産に認定したい。
Ⅰさん宅のお庭は透視性の高いフェンスのおかげで、市民が公道上からも愛でることができました(前掲の画像も、フェンス越しに撮ったものです)。個人宅の私有地なので立入りできないのは当然のことですが、このような地形を遺してこられたⅠさんに敬意を表します。
余談ながら、もし札幌でブラタ●リをやるときは、‘メムの記憶’をテーマにしてぜひタ●リ氏に庭内を歩いてほしいものです。ほら、よくあの番組で「今回特別に、タ●リさんにご覧いただきます」って、やってるじゃないですか。
高層マンションの配置計画はすでに出来上がっていることと思いますが、このお庭が地形ごと遺って、公開空地(末注④)として開放される絵柄を私は勝手に描いています。妄想です(10月29日ブログ末文参照)。
注①:北海道新聞2014年5月9日記事によると、この邸宅跡地には30階建てが建てられるとのこと。
注②:『さっぽろ文庫38 札幌の樹々』1986年、p.293。ただしその後解除されたかどうかは不知。道新2013年10月26日記事によると、庭内の植物は144種、樹木は707本、うち樹高20m以上は125本。自然林+二次林と思われる。
注③:ピシ・クシ・メム。 ヌプ・サム・メム。山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.39-41参照
注④:建築基準法により、敷地の一部を空地として公開する代わりに建物の高さ制限を緩和する制度がある。道新2014年9月10日記事によれば、緑地を現状のまま保存することなどを盛り込んだ協定が、札幌市と所有者Ⅰ氏との間で結ばれることとなった。

札幌の中心部に遺る数少ない‘お屋敷’の一つで、庭園の樹林が鬱蒼としています。
札幌建築鑑賞会スタッフNさんから、Ⅰさん宅の解体工事が始まったようですよとお知らせをいただき、札幌駅へ行ったついでに見てきました。道路沿いにも重機が入っています。
門塀越しに見えるお宅の建物は…。

シートが掛かっています。確かに、解体に入っているようです。
門柱には、「開発許可」の標識も貼られています。

「予定建築物等の用途」は、「共同住宅(賃貸)」と。竣工は3年半後。立地からして、跡地にはおそらく超高層マンションが建つのでしょうな(末注①)。
となると、気になるのはお庭の緑樹群です。

お庭の中にあるハルニレやケヤキ、ヤチダモは「都市の美観風致を維持するための樹木の保全に関する法律」に基づく「保存樹木」に指定されています(末注②)。
ここは樹林というだけではなく、札幌の都心に遺る微地形=高低差という点でも貴重だと思います。

否、これは「微」地形というよりも、レッキとした地形といってよいでしょう。
地形遺産。というコトバ=概念があるかどうか知りませんが、なければ作ってしまいましょう。私はⅠさん宅の庭園を、札幌の地形遺産に認定したい。
Ⅰさん宅のお庭は透視性の高いフェンスのおかげで、市民が公道上からも愛でることができました(前掲の画像も、フェンス越しに撮ったものです)。個人宅の私有地なので立入りできないのは当然のことですが、このような地形を遺してこられたⅠさんに敬意を表します。
余談ながら、もし札幌でブラタ●リをやるときは、‘メムの記憶’をテーマにしてぜひタ●リ氏に庭内を歩いてほしいものです。ほら、よくあの番組で「今回特別に、タ●リさんにご覧いただきます」って、やってるじゃないですか。
高層マンションの配置計画はすでに出来上がっていることと思いますが、このお庭が地形ごと遺って、公開空地(末注④)として開放される絵柄を私は勝手に描いています。妄想です(10月29日ブログ末文参照)。
注①:北海道新聞2014年5月9日記事によると、この邸宅跡地には30階建てが建てられるとのこと。
注②:『さっぽろ文庫38 札幌の樹々』1986年、p.293。ただしその後解除されたかどうかは不知。道新2013年10月26日記事によると、庭内の植物は144種、樹木は707本、うち樹高20m以上は125本。自然林+二次林と思われる。
注③:
注④:建築基準法により、敷地の一部を空地として公開する代わりに建物の高さ制限を緩和する制度がある。道新2014年9月10日記事によれば、緑地を現状のまま保存することなどを盛り込んだ協定が、札幌市と所有者Ⅰ氏との間で結ばれることとなった。
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北海道開拓の村にある泊村出自の土蔵 再考
北海道開拓の村にある、泊村から移築された土蔵です。

笏谷石をめぐる私の長い旅の、そもそものきっかけはこの土蔵でした。基礎から腰にかけて貼られている石材が笏谷石かどうかという疑問です(2015.8.9ブログ参照)。
本場福井で実物を見てきた眼で、再度見直してみます。

これは笏谷とは見えない。まず第一に、黄味が買った色合いであること。笏谷的な青ではない。第二に、多孔質的な表面であること。笏谷石はこのような大きな空孔は見られない。8月9日ブログに記した印象と変わりはないのですが、あらためて笏谷石にはそれが見られないことを実感しました。
この石材は同じ凝灰岩でも、やはり‘大谷石’に近い感じです。
では、大谷石産の物件を見てみましょう。

かの帝国ホテルの花台(愛知県の明治村で、2015.10撮影)。アバタな表面が似ています。
開拓の村の建物に使われている石材としては冒頭の土蔵だけが異質なのですが、それが元々泊村の当時からのものなのか、定かではありません。大谷石だとすれば、8月9日ブログにも記したように、開拓の村への移築時に新たに使った可能性もあります。

笏谷石をめぐる私の長い旅の、そもそものきっかけはこの土蔵でした。基礎から腰にかけて貼られている石材が笏谷石かどうかという疑問です(2015.8.9ブログ参照)。
本場福井で実物を見てきた眼で、再度見直してみます。

これは笏谷とは見えない。まず第一に、黄味が買った色合いであること。笏谷的な青ではない。第二に、多孔質的な表面であること。笏谷石はこのような大きな空孔は見られない。8月9日ブログに記した印象と変わりはないのですが、あらためて笏谷石にはそれが見られないことを実感しました。
この石材は同じ凝灰岩でも、やはり‘大谷石’に近い感じです。
では、大谷石産の物件を見てみましょう。

かの帝国ホテルの花台(愛知県の明治村で、2015.10撮影)。アバタな表面が似ています。
開拓の村の建物に使われている石材としては冒頭の土蔵だけが異質なのですが、それが元々泊村の当時からのものなのか、定かではありません。大谷石だとすれば、8月9日ブログにも記したように、開拓の村への移築時に新たに使った可能性もあります。
石狩弁天社の笏谷石製狛犬
昨日のブログで取り上げた泊村の狛犬について 「越前狛犬」と断定するのは躊躇するとしても、サイズからすると参道狛犬ではなく神殿狛犬だった可能性が高いとは思います。現在は忠魂碑前に置かれているのですが、どうも最初からそこにあったとは考えづらい。あの忠魂碑は台座の上にコンコン様(キツネ)も置かれているのですが、いくらお稲荷さんの境内とはいえ、「なんで忠魂碑に?」と思います。而して狛犬もしかり。忠魂碑なので戦死者を慰霊し、神と崇め、狛犬を置いた…のかもしれませんが、‘とってつけた’感が漂います。
「越前狛犬」と同定できるかどうかは、他の実物と比べるのがよいでしょう。
福井で入手した文献にかなりたくさん写真が載っているのですが、著作権の関係もありますので、残念ながら転載は控えます。そこで、札幌近郊で笏谷石製と伝わる狛犬の実物と比べることとしましょう。
石狩弁天社のそれです(末注)。


こちらは社殿内に置かれています。
造形的には昨日引用した特徴を備えています。
もう一度、泊村の狛犬を見てみましょう。


うーん。
長年風雨に晒されたせいか、かなり剥落しています。色合いは笏谷の青を彷彿させるが、硬度的にみてここまで風化するだろうか? よーく見ると、体躯の向きが台座に対して、少し斜めのような気もする。
結論的には「もしかしたら、越前狛犬の流れを汲んでいるかもしれない…」 くらいでしょうか。
私の心情としては、越前福井から北前船で海路、西積丹まで運ばれたロマンを感じたいのですが。ここまでくると、もはや妄想です。
注:田中實・石橋孝夫編『石狩弁天社史』1994年、口絵による。また、木戸奈央子「石狩弁天社の笏谷石製狛犬」『いしかり砂丘の丘資料館紀要』第4巻2014年によれば、「18世紀代のものと考えられる」とのことである。
「越前狛犬」と同定できるかどうかは、他の実物と比べるのがよいでしょう。
福井で入手した文献にかなりたくさん写真が載っているのですが、著作権の関係もありますので、残念ながら転載は控えます。そこで、札幌近郊で笏谷石製と伝わる狛犬の実物と比べることとしましょう。
石狩弁天社のそれです(末注)。


こちらは社殿内に置かれています。
造形的には昨日引用した特徴を備えています。
もう一度、泊村の狛犬を見てみましょう。


うーん。
長年風雨に晒されたせいか、かなり剥落しています。色合いは笏谷の青を彷彿させるが、硬度的にみてここまで風化するだろうか? よーく見ると、体躯の向きが台座に対して、少し斜めのような気もする。
結論的には「もしかしたら、越前狛犬の流れを汲んでいるかもしれない…」 くらいでしょうか。
私の心情としては、越前福井から北前船で海路、西積丹まで運ばれたロマンを感じたいのですが。ここまでくると、もはや妄想です。
注:田中實・石橋孝夫編『石狩弁天社史』1994年、口絵による。また、木戸奈央子「石狩弁天社の笏谷石製狛犬」『いしかり砂丘の丘資料館紀要』第4巻2014年によれば、「18世紀代のものと考えられる」とのことである。
泊村のお稲荷さんの境内にある忠魂碑の前の狛犬
標記の狛犬のことは、9月3日ブログで紹介しました。

これをあらためて取り上げるのは、笏谷石製ではないかと思い直したからです。福井の本場で現物を見て、養った(?)眼で見ると、そう見えてきました。
笏谷石ではないかと憶測した理由は、見た目の色合いや質感に加え、この狛犬が「小さい」ということです。冒頭の写真にスケールの目安になるものを置かなかったので判りづらいかもしれませんが、一言で言えば「手で持ち運びできる」程度のサイズです。
この「小さい」ということが、笏谷石製狛犬の特徴の一つらしいのです。
狛犬の世界は奥が深そうでなかなか手出ししづらいのですが、少し踏み込むことにしましょう。
『福井県立歴史博物館紀要』第11号2015年に、同館の学芸員の方が「『越前狛犬』(笏谷石製の狛犬)の分析」という論文を書いています(pp.1-16)。まずこれを、私なりに以下要約します。
・笏谷石で作られ、越前独特の造形に連なる狛犬を、「越前狛犬」と呼ぶこととする。
・越前狛犬は、現在広く見られる石造狛犬に比べると小型である。台と本体を含めた総高15~70㎝のものが多い。
・現在の狛犬は、総高80㎝ほどのものが神社の境内に置かれる「参道狛犬」が一般的だが、元は社殿内やその縁に置かれた「神殿狛犬」に由来する。
・越前狛犬は、神殿狛犬として作られたと考えられる。
さらに、越前狛犬には以下のごとき造形的特徴が見られるそうです。
①板状の台座に前脚を揃えて腰を下ろした姿勢で、体躯は台座と同じ向きである。
②たてがみは肩、または背の半ばを覆う長さのものが多い。
③④略
⑤尾は短めで背に貼り付けられ、古いものは3房の巻き毛で、時代が下るにつれ房状(3房から1房へ移行)、線刻と変化する。
⑥⑦⑧略
③④⑥⑦⑧は製作年代による特徴の変遷について述べたもので、省略しました。
この特徴にそって、くだんの泊村の狛犬を見てみましょう。


剥落しているところも多々あり、どちらが阿形で吽形かもわかりづらいのですが。
まず①。
台座は「板状」といえるか微妙ですが、「前脚を揃えて腰を下ろした姿勢」「体躯は台座と同じ向き」は該当しているとみた。
次に②。
たてがみは線刻で、背中まで覆われている感じがする。
そして⑤。
尾は背に貼り付けられている。一房か。
前掲論文によると、越前狛犬のサイズは、笏谷石の標準規格である「尺六」(10月13日ブログ参照)、すなわち1尺(約30㎝)×6寸(約18㎝)×3尺(約90㎝)に、一対が収まるように彫られたとみられます。
本件狛犬のサイズを測ってこなかったのが悔やまれますが、写真からおおまかに推測しましょう。総高は、台座も含めて30~40㎝程度。幅は30㎝弱、奥行きは15~20㎝程度か。
この一対も、「尺六」に収まる寸法です。

これをあらためて取り上げるのは、笏谷石製ではないかと思い直したからです。福井の本場で現物を見て、養った(?)眼で見ると、そう見えてきました。
笏谷石ではないかと憶測した理由は、見た目の色合いや質感に加え、この狛犬が「小さい」ということです。冒頭の写真にスケールの目安になるものを置かなかったので判りづらいかもしれませんが、一言で言えば「手で持ち運びできる」程度のサイズです。
この「小さい」ということが、笏谷石製狛犬の特徴の一つらしいのです。
狛犬の世界は奥が深そうでなかなか手出ししづらいのですが、少し踏み込むことにしましょう。
『福井県立歴史博物館紀要』第11号2015年に、同館の学芸員の方が「『越前狛犬』(笏谷石製の狛犬)の分析」という論文を書いています(pp.1-16)。まずこれを、私なりに以下要約します。
・笏谷石で作られ、越前独特の造形に連なる狛犬を、「越前狛犬」と呼ぶこととする。
・越前狛犬は、現在広く見られる石造狛犬に比べると小型である。台と本体を含めた総高15~70㎝のものが多い。
・現在の狛犬は、総高80㎝ほどのものが神社の境内に置かれる「参道狛犬」が一般的だが、元は社殿内やその縁に置かれた「神殿狛犬」に由来する。
・越前狛犬は、神殿狛犬として作られたと考えられる。
さらに、越前狛犬には以下のごとき造形的特徴が見られるそうです。
①板状の台座に前脚を揃えて腰を下ろした姿勢で、体躯は台座と同じ向きである。
②たてがみは肩、または背の半ばを覆う長さのものが多い。
③④略
⑤尾は短めで背に貼り付けられ、古いものは3房の巻き毛で、時代が下るにつれ房状(3房から1房へ移行)、線刻と変化する。
⑥⑦⑧略
③④⑥⑦⑧は製作年代による特徴の変遷について述べたもので、省略しました。
この特徴にそって、くだんの泊村の狛犬を見てみましょう。


剥落しているところも多々あり、どちらが阿形で吽形かもわかりづらいのですが。
まず①。
台座は「板状」といえるか微妙ですが、「前脚を揃えて腰を下ろした姿勢」「体躯は台座と同じ向き」は該当しているとみた。
次に②。
たてがみは線刻で、背中まで覆われている感じがする。
そして⑤。
尾は背に貼り付けられている。一房か。
前掲論文によると、越前狛犬のサイズは、笏谷石の標準規格である「尺六」(10月13日ブログ参照)、すなわち1尺(約30㎝)×6寸(約18㎝)×3尺(約90㎝)に、一対が収まるように彫られたとみられます。
本件狛犬のサイズを測ってこなかったのが悔やまれますが、写真からおおまかに推測しましょう。総高は、台座も含めて30~40㎝程度。幅は30㎝弱、奥行きは15~20㎝程度か。
この一対も、「尺六」に収まる寸法です。
加賀・小松で時空逍遥
今月上旬に福井で遊んだ帰途、小松空港(石川県)から札幌へ戻りました。
実は小松も、私が気になっていたところです。
というのは、昨年北陸を旅行したときもやはり小松から空路で帰るべく、ここで一泊しました。
せっかくなので小松の街を散策したところ…。

石蔵を見かけたのです。
これが記憶に遺っていました。
昨年は富山から高岡、金沢と旅しましたが、各地で見かけた蔵はたいてい土蔵です。しかし最後に歩いた小松で石蔵があったので、少々意外に思いました。
そこで今回、小松駅から空港まで行くバスを待つ間に、その石蔵をもう一度見ることにしました。

石材が建物にまるごと使われている。全体に黄味がかっていて、さらに茶色っぽい角礫分が多く混じる。一見明らかに、笏谷石ではない。
どうやら、加賀の国でも小松は石蔵文化圏のようです。
昨年撮った写真を見直すと、石蔵はほかにもありました。

同じような色合いです。ただし、腰から基礎にかけては、今から思うに笏谷石ではないか。青みがかっている。
では、本体の黄味がかった石は何か?
冒頭の石蔵のお宅をピンポンしましたが、残念ながらご不在でした。
そこで…。

くだんの石蔵のご近所に「こまつ曳山交流館」という建物がありました。公共的な施設のようです。職員の方が親切に応対してくださいました。
私「ご近所にある石蔵の石材は、どこのものでしょう?」
職員「たぶん、カナガソか、タキガハラでしょう。この建物にも使われていますよ」
確かに、曳山交流館を見ると…。

基礎の部分に同じような色合いの石が貼られています。
「観音下」と書いてカナガソという地名が小松市内にあることを知りました。地図で調べると、観音下も滝ケ原も、市街からかなり離れた山間地です。
札幌に帰ってから電網検索したところ、観音下は凝灰岩石材の産出地であることが判りました。
冒頭の石蔵の厚みを測ってみました(コンベックスを携帯しているあたり、我ながらマニアだなあ)。

30㎝(1尺)×15㎝(5寸)×90㎝(3尺)。札幌軟石の木骨石造にありがちな寸法と同じです。
さては木骨石造か?
小松の凝灰岩石材は他地域に伝播したのだろうか?
またまた謎を抱えてしまいました。来年は観音下を訪ねようかしらん。
余談ながら、小松の旧市街もいいところです。金沢の観光地と比べると(毎度金沢を目の敵にするようで気が引けるが)、街が静かで、落ち着きます。空港に行くための通過点にするにはもったいない街です。
実は小松も、私が気になっていたところです。
というのは、昨年北陸を旅行したときもやはり小松から空路で帰るべく、ここで一泊しました。
せっかくなので小松の街を散策したところ…。

石蔵を見かけたのです。
これが記憶に遺っていました。
昨年は富山から高岡、金沢と旅しましたが、各地で見かけた蔵はたいてい土蔵です。しかし最後に歩いた小松で石蔵があったので、少々意外に思いました。
そこで今回、小松駅から空港まで行くバスを待つ間に、その石蔵をもう一度見ることにしました。

石材が建物にまるごと使われている。全体に黄味がかっていて、さらに茶色っぽい角礫分が多く混じる。一見明らかに、笏谷石ではない。
どうやら、加賀の国でも小松は石蔵文化圏のようです。
昨年撮った写真を見直すと、石蔵はほかにもありました。

同じような色合いです。ただし、腰から基礎にかけては、今から思うに笏谷石ではないか。青みがかっている。
では、本体の黄味がかった石は何か?
冒頭の石蔵のお宅をピンポンしましたが、残念ながらご不在でした。
そこで…。

くだんの石蔵のご近所に「こまつ曳山交流館」という建物がありました。公共的な施設のようです。職員の方が親切に応対してくださいました。
私「ご近所にある石蔵の石材は、どこのものでしょう?」
職員「たぶん、カナガソか、タキガハラでしょう。この建物にも使われていますよ」
確かに、曳山交流館を見ると…。

基礎の部分に同じような色合いの石が貼られています。
「観音下」と書いてカナガソという地名が小松市内にあることを知りました。地図で調べると、観音下も滝ケ原も、市街からかなり離れた山間地です。
札幌に帰ってから電網検索したところ、観音下は凝灰岩石材の産出地であることが判りました。
冒頭の石蔵の厚みを測ってみました(コンベックスを携帯しているあたり、我ながらマニアだなあ)。

30㎝(1尺)×15㎝(5寸)×90㎝(3尺)。札幌軟石の木骨石造にありがちな寸法と同じです。
さては木骨石造か?
小松の凝灰岩石材は他地域に伝播したのだろうか?
またまた謎を抱えてしまいました。来年は観音下を訪ねようかしらん。
余談ながら、小松の旧市街もいいところです。金沢の観光地と比べると(毎度金沢を目の敵にするようで気が引けるが)、街が静かで、落ち着きます。空港に行くための通過点にするにはもったいない街です。
寒風下、オールド江別を25名で歩く
札幌建築鑑賞会「大人の遠足 2015 秋の編」‘オールド江別’探訪を、一昨日と今日の2回、無事終えました。

一昨日は36名の参加で、秋晴れの好天に恵まれたのですが、今日は一転して雪交じりの荒天にみまわれました。
にもかかわらず、25名が集結。当初予定の行程を短縮して実施しました。
途中、雪が小止みしたのですが風が冷たく、体感温度は+3~4℃くらいだったかと思います(日中の気温としては今季最低か。前日に比べて急激に低下して、いっそう寒い)。低体温症になって遭難者が出ては一大事なので、行程をさらに切り上げて散会することとしました。そして体力に自信のある希望者のみで残りの行程を歩くこととしたのですが、全員が続行しました。参加者の熱意と耐力を畏敬します。
無事故で終えられたのは札幌建築鑑賞会24年間の積み重ねの賜物かもしれません。しかし、安全第一に慎重を期することも大事ですので、今回の経験を過信せぬよう自戒します。準備・運営に携わったスタッフの皆さん、お疲れ様でした。江別の達人Ⅰさんには格別お世話になりました。
「遠足」の準備をして毎度思うのですが、街を深く知るきっかけができるのが悦びです。今回はこの2週間で7回、江別に行きました。私はこういうことでもないと、江別に(しかも大麻や野幌ではなく、オールド江別まで)集中的に7回も足を運ぶことはありません。煉瓦造倉庫の持ち主のTさんがとても好意的な方で、古写真を見せていただいたり、昔の話をお聴きできたりして、嬉しかった。こういう人に出会えただけで、足繁く通ってよかったなと思っています。

一昨日は36名の参加で、秋晴れの好天に恵まれたのですが、今日は一転して雪交じりの荒天にみまわれました。
にもかかわらず、25名が集結。当初予定の行程を短縮して実施しました。
途中、雪が小止みしたのですが風が冷たく、体感温度は+3~4℃くらいだったかと思います(日中の気温としては今季最低か。前日に比べて急激に低下して、いっそう寒い)。低体温症になって遭難者が出ては一大事なので、行程をさらに切り上げて散会することとしました。そして体力に自信のある希望者のみで残りの行程を歩くこととしたのですが、全員が続行しました。参加者の熱意と耐力を畏敬します。
無事故で終えられたのは札幌建築鑑賞会24年間の積み重ねの賜物かもしれません。しかし、安全第一に慎重を期することも大事ですので、今回の経験を過信せぬよう自戒します。準備・運営に携わったスタッフの皆さん、お疲れ様でした。江別の達人Ⅰさんには格別お世話になりました。
「遠足」の準備をして毎度思うのですが、街を深く知るきっかけができるのが悦びです。今回はこの2週間で7回、江別に行きました。私はこういうことでもないと、江別に(しかも大麻や野幌ではなく、オールド江別まで)集中的に7回も足を運ぶことはありません。煉瓦造倉庫の持ち主のTさんがとても好意的な方で、古写真を見せていただいたり、昔の話をお聴きできたりして、嬉しかった。こういう人に出会えただけで、足繁く通ってよかったなと思っています。
鴨々川めぐり
‘鴨々川めぐり’に参加しました。

札幌市の河川事業課の主催で、9月25日ブログで紹介した「川めぐりマップ」の刊行を記念しての行事です。
私はガイド役を務めました。9月26~29日ブログに記した「料亭鴨川」の由来など、一般にあまり知られていないエピソードを案内しました。微地形・高低差も、一緒に歩いて確認しました。心配された天気も小康を保ち、紅葉も味わえてよかったです。
冒頭の写真は、分水施設です。ここは河川事業課職員のAさんが説明しています。
豊平川から取水された水の一部がここで導水管に通され、鴨々川の川面を流れる水量が調節されるそうです。鴨々川は中島公園内で水辺に近づくことができるため(親水護岸という)、水難を防ぐ必要があるのです。こういう機能は、担当職員に聴いて初めて理解できました。
鴨々川の下流でAさんが‘発見’した物件を教えてもらいました。

赤い○で囲ったところです。
‘段差’があります。

トマソンのカテゴリーでいうところの、無用階段ですね。
こういう階段はかつては鴨々川の岸辺に普通にあったようですが(9月27日ブログ参照)、今では見かけなくなりました。やはり水難防止のため、撤去改修されたのでしょう。Aさんは、残っているのはおそらくここだけだろうと推測しています。
くだんの階段は札幌軟石でできており、かなり古い時代のものと思われます。石段の合間から樹も生えています。いわゆる間隙木。
この階段がどういう経緯で残ったのか判りません。ここはかつて、とあるお屋敷があったところです。もしかしたら、川で洗い物をしたりする事情があって、残った(遺した)のかな。

札幌市の河川事業課の主催で、9月25日ブログで紹介した「川めぐりマップ」の刊行を記念しての行事です。
私はガイド役を務めました。9月26~29日ブログに記した「料亭鴨川」の由来など、一般にあまり知られていないエピソードを案内しました。微地形・高低差も、一緒に歩いて確認しました。心配された天気も小康を保ち、紅葉も味わえてよかったです。
冒頭の写真は、分水施設です。ここは河川事業課職員のAさんが説明しています。
豊平川から取水された水の一部がここで導水管に通され、鴨々川の川面を流れる水量が調節されるそうです。鴨々川は中島公園内で水辺に近づくことができるため(親水護岸という)、水難を防ぐ必要があるのです。こういう機能は、担当職員に聴いて初めて理解できました。
鴨々川の下流でAさんが‘発見’した物件を教えてもらいました。

赤い○で囲ったところです。
‘段差’があります。

トマソンのカテゴリーでいうところの、無用階段ですね。
こういう階段はかつては鴨々川の岸辺に普通にあったようですが(9月27日ブログ参照)、今では見かけなくなりました。やはり水難防止のため、撤去改修されたのでしょう。Aさんは、残っているのはおそらくここだけだろうと推測しています。
くだんの階段は札幌軟石でできており、かなり古い時代のものと思われます。石段の合間から樹も生えています。いわゆる間隙木。
この階段がどういう経緯で残ったのか判りません。ここはかつて、とあるお屋敷があったところです。もしかしたら、川で洗い物をしたりする事情があって、残った(遺した)のかな。
福井で時空逍遥⑨(終)
福井市・足羽山麓にある運正寺というお寺の灯籠です。

越前福井藩祖・結城秀康の菩提寺だそうです。なるほどそれで葵のレリーフか。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康あたりは日本人のだれもが知っている武将(私の郷里では‘三英傑’と称される)ですが、結城秀康というのは歴史好事家向きでいいですね。
福井は笏谷石のほかにも、城下の外堀跡の道筋や旧河川跡など、土地の記憶を訪ねる甲斐のある、いい街です。
しかし、札幌軟石フェティストとしては、やはり笏谷石との絡みで締めくくることとします。
「ふくい笏谷石の会」のⅠさんは「笏谷石を手がかりに、福井の歴史を読み解くことができる」とおっしゃっていました。古墳時代以来の千五百年の歴史を笏谷石で語ることができるのです。
笏谷石がそうであるならば、明治以来百五十年の札幌軟石は、札幌という街の地誌を読み解く手がかりになると思います。年数は10倍の開きがあれど、‘その街ならでは’の素材をとおして街を語るという点で、共感を強く覚えました。
それぞれの違いも興味深い。札幌軟石と笏谷石はともに凝灰岩でありながら、前者は建物にまるごと使われる一方、後者は違う。札幌軟石の普及は道内、それも道央圏にほぼ限られるが、笏谷石は日本海沿岸に広く伝播している。そして、笏谷石は1999年で生産が終わっているのに対し、札幌軟石は現在進行形で産出されている。札幌軟石が街のアイデンティティの大きな要素になっていることを、あらためて実感しました。
Ⅰさんによると「地元の人にとって笏谷石は、あまりにも当たり前すぎて、ありがたみが実感しづらい」「年配の人には‘お墓の石’のイメージが強い」のだそうです。札幌で軟石を唯一生産しているT石材の社長さんの話では「一昔前は軟石=墓石だったが、最近は変わってきた」といいます。
Ⅰさんが力を入れている活動も、札幌建築鑑賞会や軟石文化を語る会と同じような分野です。それぞれの共通点や違いを念頭に置きながら、今後も交流していけたらと思います。

越前福井藩祖・結城秀康の菩提寺だそうです。なるほどそれで葵のレリーフか。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康あたりは日本人のだれもが知っている武将(私の郷里では‘三英傑’と称される)ですが、結城秀康というのは歴史好事家向きでいいですね。
福井は笏谷石のほかにも、城下の外堀跡の道筋や旧河川跡など、土地の記憶を訪ねる甲斐のある、いい街です。
しかし、札幌軟石フェティストとしては、やはり笏谷石との絡みで締めくくることとします。
「ふくい笏谷石の会」のⅠさんは「笏谷石を手がかりに、福井の歴史を読み解くことができる」とおっしゃっていました。古墳時代以来の千五百年の歴史を笏谷石で語ることができるのです。
笏谷石がそうであるならば、明治以来百五十年の札幌軟石は、札幌という街の地誌を読み解く手がかりになると思います。年数は10倍の開きがあれど、‘その街ならでは’の素材をとおして街を語るという点で、共感を強く覚えました。
それぞれの違いも興味深い。札幌軟石と笏谷石はともに凝灰岩でありながら、前者は建物にまるごと使われる一方、後者は違う。札幌軟石の普及は道内、それも道央圏にほぼ限られるが、笏谷石は日本海沿岸に広く伝播している。そして、笏谷石は1999年で生産が終わっているのに対し、札幌軟石は現在進行形で産出されている。札幌軟石が街のアイデンティティの大きな要素になっていることを、あらためて実感しました。
Ⅰさんによると「地元の人にとって笏谷石は、あまりにも当たり前すぎて、ありがたみが実感しづらい」「年配の人には‘お墓の石’のイメージが強い」のだそうです。札幌で軟石を唯一生産しているT石材の社長さんの話では「一昔前は軟石=墓石だったが、最近は変わってきた」といいます。
Ⅰさんが力を入れている活動も、札幌建築鑑賞会や軟石文化を語る会と同じような分野です。それぞれの共通点や違いを念頭に置きながら、今後も交流していけたらと思います。
福井で時空逍遥⑧
福井で時空逍遥、8日ぶりに再開します。
足羽山麓の笏谷石の坑道掘りの跡です。

一般的な観光パンフレットでは紹介されておらず、文献などを基に探索して見つけました。
坑道入口付近をウロウロしていたら、地元の方が来られました。

町内の方で、この坑道周辺を管理されているそうです。
この方のお話によると、坑道跡の内部は近くの石材屋さん(採掘ではなく、加工の業者さん)が管理していて、団体で前もって申込みがあれば奥深くまで見学させていただけるとのこと。
あとで「ふくい笏谷石の会」のⅠさんに写真を見せていただきましたが、内部は凄い。どう凄いかは、同会のウエブサイトで紹介されていますので、そちらをご覧ください。
↓
http://www.fukui-shimin.jp/syaku/01furusato/kodoato/nanatuo.html
今回は、入口から見える範囲で辛抱しましょう。

坑道跡の一部は現在、地元の造り酒屋の貯蔵庫に使われています。天然の地酒セラー。
覗けば覗くほど、吸い寄せられる。

この奥に、例えていうなら札幌軟石の切羽跡の大深度地下版があると想像するだけで、震える。余談ながら、福井で「ブラタモリ」をやったら、とても面白いと思う。
この坑道跡の内部を見に行くだけでも、札幌で有志を募ってツアーを催行する価値があると思いました(行きたい方、「拍手」をポチッとお願いします)。
足羽山麓の笏谷石の坑道掘りの跡です。

一般的な観光パンフレットでは紹介されておらず、文献などを基に探索して見つけました。
坑道入口付近をウロウロしていたら、地元の方が来られました。

町内の方で、この坑道周辺を管理されているそうです。
この方のお話によると、坑道跡の内部は近くの石材屋さん(採掘ではなく、加工の業者さん)が管理していて、団体で前もって申込みがあれば奥深くまで見学させていただけるとのこと。
あとで「ふくい笏谷石の会」のⅠさんに写真を見せていただきましたが、内部は凄い。どう凄いかは、同会のウエブサイトで紹介されていますので、そちらをご覧ください。
↓
http://www.fukui-shimin.jp/syaku/01furusato/kodoato/nanatuo.html
今回は、入口から見える範囲で辛抱しましょう。

坑道跡の一部は現在、地元の造り酒屋の貯蔵庫に使われています。天然の地酒セラー。
覗けば覗くほど、吸い寄せられる。

この奥に、例えていうなら札幌軟石の切羽跡の大深度地下版があると想像するだけで、震える。余談ながら、福井で「ブラタモリ」をやったら、とても面白いと思う。
この坑道跡の内部を見に行くだけでも、札幌で有志を募ってツアーを催行する価値があると思いました(行きたい方、「拍手」をポチッとお願いします)。
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