札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2015/07/31

地番図にみる旧河道の痕跡

 北1条東4丁目界隈の町(丁目)界を調べたとき、市役所で古い地番図を見せてもらいました。
地番図 北1東4周辺
 1925(大正14)年9月16日現在らしい。

 北1東4のあたりを拡大すると…。
大正14年地番図 北1東4周辺拡大
 青色で塗ったところ、旧河道や開拓使工業局の貯木場の痕跡が残ってます。
 
 地図上、現在のクランクを赤い線で当てはめてみました。この地図の時点で、道路は赤い線の(つまり現在の)クランクは形成されていません。貯木場の東側(地図上の右側)に地番が記されています。どうもここは先に埋め立てられた気配がします。その後(跡)に、赤い線のように道が敷き直されたものと思われます(7月19日ブログ参照)。
 
 下図は、現在の地番図です。
現地番図 北1東4周辺
 札幌法務局に備え付けのもので、「現在の」といっても、かなり古そうです。

 北1東4のクランクの部分を拡大してみましょう。
現地番図 北1東4周辺拡大
 これを見て、気づきました。

 クランクで飛び出ている部分(黄色の線を引いたところ)、一筆の土地が北1条東3丁目と東4丁目にまたがっています。地番をまたいで町界(丁目界)を引いてしまったのではないか。ここの土地の商店や事業所の所在地が「北1条東3丁目」というのも、無理なからんと思い直しました。

 もう一つ、黄色の線の西側(地図上の左側)、土地がゴチャゴチャ不整形に分筆されています。青い○で囲ったところです。
 前掲の大正14年地番図に照らすと、明らかに旧河道の影響と見て取れます。

 旧河道の気配が漂う仲通りです。
北1東3 仲通り 
 北1条東3丁目、前掲地番図の青い○で囲ったところの西側(地図上、左側)です。南から北を眺めました。
 
 奥へ向かって、なだらかに下り勾配になっています。まあ豊平川扇状地はどこでも北に向かって緩い下り勾配ですが、勾配は旧河道に顕著です。

 右方、壁面にツタが絡む昭和なニオイのビルも、旧河道の為せる地割の体現かもしれません。「喫茶ポプラ」という看板が出ていますが、営業しているのだろうか。
スポンサーサイト

2015/07/30

札幌軟石を見つけたのは誰か?(承前)

 一昨日のブログで紹介した「日本蝦夷地質要略之圖」の、札幌周辺部分を拡大してみましょう。
日本蝦夷地質要略之圖 札幌周辺拡大
 赤い○で囲ったところに「札幌」と書かれています。その周辺に、一昨日凡例で示した‘足跡’が幾つか描かれています。御雇外国人の「巡回道筋」です。その道筋がもっとも多いのは、札幌から北へ、「小樽内」にかけての日本海沿いでしょうか。点線、破線、一点鎖線と、少なくとも3本、確認できます。一昨日の凡例に従えば、ライマン、マンロー、アンチセルです。

 では、札幌軟石の発見場所はどうか?
 札幌軟石を見つけるためにまず考えられるのは、豊平川上流(現在の南区石山あたり)です。
 豊平川上流の部分を、さらに拡大して見てみましょう。
日本地質要略之圖 豊平川上流拡大
 豊平川(右岸)に沿って描かれているのは、点線のみ1本です。点線は川沿いのみならず、地図上「札幌」の「幌」の字をナナメに横切るようにも描かれています。山鼻から藻岩山麓、ハッタリベツにかけてと見えます。これは「ハッタリベツ古道」(7月26日ブログ参照)を歩いたのかもしれません。
 点線は、ライマンが1873(明治6)~1875(明治8)年に歩いた道筋です。この地図を見る限りは、札幌軟石に近づけたのはライマンということになります。しかし、アンチセルが「歩いていない」と言い切ることもできません。
 
 「札幌軟石」が記録上に登場するのは、『開拓使事業報告 第三編 物産』1885(明治18)年です。「礦物 札幌本廰」の項に、明治八年「是歳石狩國札幌郡穴ノ澤ニ於テ建築用軟石千九百八十五個ヲ掘採ス 其價四百九十九圓四十二銭三厘」とあります。ライマンがマンローと開拓仮学校生徒を伴って豊平川上流を歩いたのは1873(明治6)年とのこと(末注)です。時系列的には合います。

 繰返しになりますが、札幌軟石の発見者は「確定されていない」とするのがやはり、現時点の最も妥当な結論です。アンチセル・ワーフィールド発見説の一人歩きは戒めるべきでしょう。

 北大総合博物館企画展示図録『ライマンと北海道の地質』2008年、p.22

2015/07/29

北1東4の真実

 7月19~20日に紹介した中央区北1条東3丁目のクランクについて、ぶらじょにさんからコメントをいただきました。

「地図を見直したところ拡大図では道路沿いに3,4丁目が区分けされてるのですが、広域図だとしっかり同区画内で3,4丁目が分けられていました。 どうしてこの地図がこんなことになってるのかはわかりませんが、(中略) 幻の東4丁目はしっかり存在してました(笑)」。

 そうなんですよね。私も市販の地図を見たら、道路で丁目が線引きされているものと街区内で線引きされているものがありました。出版社によっても違います。「変だな~」と思いつつ、現地を歩いて、街区内にある駐車場に「北1東3」とネーミングされているのと、信号機に付いている「北1東3」の町名表示を見て、「現在は街区ごと北1条東3丁目になってしまったようです」と、私は結論づけました(7月20日ブログ参照)。

 問題の箇所を再掲します。
北1東4 クランク再掲
 赤い線を引いた内側です。ゼンリン住宅地図2002年版ではこの部分のみ北1条東4丁目です。一方、この部分にある(あった)個人商店や会社をネットで検索したら「北1条東3丁目」と記されています。これはもう、最近「北1東4」から「北1東3」に町界(厳密にいうと丁目界)が変更されたに違いない、と確信しました。

 ところが。
 念のため、市役所の戸籍住民課(町界の担当)に確かめたところ、ここはあくまでも「北1条東4丁目」だというのです。ゼンリン住宅地図の最新版(2014年発行)でも「北1条東4丁目」となっているのですが、2014年以降も町界(丁目界)が変更されたことはない、と。
 ぶらじょにさんのとおり、「幻の東4丁目はしっかり存在してました」。7月20日紹介の北電柱の表示は正しかったのです。大変失礼しました。逆に、ここにある駐車場の「北1東3」というネーミングが??? ということになるのですが、とやかく言う筋合いでもないですね。前掲画像の信号機に付いている「北1東3」の町名表示も、おそらくその位置は北1東4になると思うのですが、正確に測ったわけでもないので不問に付します。
 
 以下は私の想像ですが、道路で境界線を引いてしまった地図の出版社は「よもや、同じ街区で丁目が変わることはあるまい」と思ったのでしょう。追い打ちをかけているのが、この部分にある(あった)商店や会社です。手元にある2005年版のNTT電話帳を引いてみると、その当時から所在地が「北1東3」と記されています。どうも、ここの人たち自身が「北1東4」とは認識していないらしい。その認識は、現在ある駐車場の会社にも引き継がれている。
 
 とまれ、道路で境界線を引かなかった往時の行政担当者の思いは、今も生きていました。ぶらじょにさん、ありがとうございました。

2015/07/28

札幌軟石を見つけたのは誰か?

 郷土史の文献などで、札幌軟石を発見したのは御雇外国人のアンチセルとワーフィールドであるという記述が散見されます。
 このことについては、松田義章氏が史料を精査し、「残念ながら、今のところ『札幌軟石』の『最初の発見者』は確定されていない」と述べています(末注①)。これが、現時点でもっとも正確な論考だと思います。
 よって、私が以下に記すことも、松田氏の考察の一端を‘後追い’したものにすぎません。先達の結論を鵜呑みにするのではなく、「いかにしてその結論に達したか」を、原典に直接当たって学ぶことも大事だと考えます。

 さて、松田氏も引用する一次史料の一つがこちらです。
日本蝦夷地質要略之圖
 「日本蝦夷地質要略之圖」(北大図書館蔵)。開拓使によって1876(明治9)年に出された「日本最初の本格的広域地質図」です(末注②)。素人目にも、文化財的な史料だと思います。

 右上、標題に次いで「明治九年五月十日」のあとに…。
日本蝦夷地質要略之圖 部分 人名
 赤い傍線を引いたところに「地質学長 邉士來曼製之」、黄色の傍線には「地質補助 顯士門老助之」とあります。御雇外国人のライマンとマンローです。

 この地図には、彼らが調べた地質や鉱物の所在が色分けして描かれているのですが、私が興味深いのは以下の‘足跡’です。
日本蝦夷地質要略之圖 部分 足跡
「來曼氏巡回道筋明治六年至八年」が点線、「門老氏巡回道筋明治六年至七年」が破線という凡例で、それぞれ道内のどこを歩いたか、地図に記されているのです。

 その凡例には…。
日本蝦夷地質要略之圖 部分 足跡 アンチセル
 「アンチセル氏巡回道筋明治四年」が、一点鎖線で示されています。

では、札幌軟石が発見されたとおぼしき場所を、誰が歩いたか? 地図に足跡を遺したのは誰か?

注① 北大総合博物館企画展示図録『わが街の文化遺産 札幌軟石』2011年、pp.33-34
注② 北大総合博物館企画展示図録『ライマンと北海道の地質』2008年、p.1

2015/07/27

石山2条3丁目 Kさん宅

 軟石建物調査のフォローアップの続きです。
 建物の外観目視で推測してきた「築50年以上か未満か」を、持ち主に会って確かめているのですが、推測はほぼいい線をいってます。これまでの聞取りからすると、「築50年未満」のものの多くも、「築50年」にかなり近いかなという傾向ではあります。
 外観目視による判断と聞取りによる裏付けの経験則で、「他も推して知るべし」といえそうな気もしてきました。「大人の卒論」の初校期限は今週末でもあり、すべての建物のウラを取るのは時間的に不可能なので、どこかで切り上げる必要があります。ただ、お住まいの方から話を聞くと、思わぬ情報も得られるので、可能な範囲で続けます。

 石山2条3丁目のKさん宅です。
石山2条3丁目 Kさん宅
 表面仕上げ(小叩き、一部チェーンソー)、軟石の煙突、窓周りの意匠などから「築50年以上」と見てはいました。Kさんに伺うと、建てたのは「戦争から戻ってきてから」だそうです。戻ってきたのは1946(昭和21)年の春で、それから1、2年後に建てたと。昭和20年代前半の築。Kさんは元々石工さんだったということを「軟石文化を語る会」の岩本さんからお聞きしていましたが、ご自身によると「元は石を切り出していたが、その後建築もするようになった」と。このお住まいも自分で石を積んだそうです。「丘珠のタマネギ倉庫なんかも建てたな。私は、あとのほうだと思うが」。

 私「いつごろまで建築をやっておられましたか?」
 Kさん「80くらいまでかな」
 私「失礼ですが、いまお幾つですか?」
 Kさん「百歳。大正4年の生まれ」
 驚きました。

 Kさん宅の側面です。
石山2条3丁目 Kさん宅 側面
 窓の楣に切込みが入れられ、窓台は持送りで支えていて、さりげなく細かな工夫が見られます。元々は縦長窓だったのでしょうが、改修されています。新しい軟石が2段、嵌められています。

 丘珠のタマネギ倉庫を積んだという人に、石山で会えるとは嬉しい。

2015/07/26

ハッタリベツ道 再考

 6月30日~7月2日のブログで取り上げた「ハッタリベツ道」について、再考します。
 このときのブログで、「ハッタリベツ道=東本願寺による開削」とする説に疑問を投げ、これを現在の石山通の前身とする見方にも否定的な見解を述べました。
 結論的には、ハッタリベツ道は東本願寺が来る前からあった古道(踏み分け道)であると私は推測したのですが、今回はそれを補強する史料です。
札幌ヨリ有珠二至ル新道 絵図
 「札幌ヨリ有珠ニ至ル新道ノ圖」と題された絵図(北大図書館蔵)で、1981(明治4)年以降に作られたものとみられます(末注①)。

 この図面で、黄色の○で囲ったところを拡大すると…。
札幌ヨリ有珠ニ至ル新道ノ圖 ハッタリベツ古道拡大
 赤い○で囲ったところに「東本願寺」と書かれ、その上の黄色の○で囲ったところに「ハッタリベツ古道」と書かれています。これに沿うように破線が描かれ、これがハッタリベツ古道」とみられます。

 この絵図は下が北になります。
 南北に豊平川らしき川が蛇行し、、そこから右(西)に直線的な水路も描かれ、「用水」と書かれています。のちの創成川でしょう。豊平川や用水に直交して、破線が左右(東西)に通じていて、右(西)に「銭箱道」、左(東)に「千年道」と書かれています。川と交差するあたりに「御本府」「御高札」とあります。
 くだんのハッタリベツ古道は銭箱道と用水が交差するあたり(現在の南1~3条西1丁目か)から発し、右上(南西)へ進みます。このあたりは前に紹介した史料と同じ描かれ方です。道は東本願寺から曲がり、南行します。

 ここで注目したいのは、ハッタリベツ「古道」と書かれていることです。すなわち、「有珠に至ル新道」(以下「有珠新道」)に対する古道です。有珠新道が開かれた時点で、すでにハッタリベツのほうは「古道」だった。つまり、その前からあった。
 有珠新道の開削は1870年9月に開始され、竣功したのは翌1871(明治4)年7月です(末注②)。有珠新道竣功前に東本願寺がハッタリベツを開削した可能性も皆無とはいえないが、有珠新道だけでも手一杯なところへ、他の道を拓く必然性があるとは思えない。東本願寺側の史料からすると、同寺が新道開削に着手しえたのは、現如法嗣が札幌に来た1870(明治3)年7月以降とみられます(末注③)。仮にその時期に道を拓いたとして、それに「古道」と名づけるのも、考えづらい。
 


注① この絵図は東本願寺によって開かれた札幌-有珠間の道を描いたもので、その竣功年からして1871(明治4)年以降の作成と思われる。右下には「札幌ヨリ有珠ニ至ル新道ノ圖」と題されているが、右上の文には「本願寺新道里数附 御本府ヨリ臼新道入口」云々と書かれ、「有珠」の表記が異なっている。
注② 『新札幌市史 第八巻 年表・索引編』2008年、p.40、p.44
注③ 『アイヌ民族差別と大谷派教団 共なる世界を願って』真宗大谷派宗務所出版部、2008年、pp.56-67 

2015/07/25

東本願寺の立地 再考

 7月22日に続き、高見沢権之丞絵図です。
高見沢権之丞 絵図 一の宮
 方位は上を北にしました。開拓草創期の札幌を描いたこの絵図は見ていて飽きないのですが、今回の注目は黄色の○で囲ったところです。

 その部分を拡大します。
高見沢絵図 一の宮拡大
 赤い傍線を引いたところと黄色の○で囲ったところ。

 といっても、文字が逆さなので、図を180度回転します。
高見沢絵図 一の宮附近 拡大 上下反転
 赤い傍線のところに「一ノ神宮」と書かれ、黄色の○で囲ったところに鳥居が描かれています。
 北海道神宮の前身たる「一の宮」です(末注①)。
 この「一の宮」が置かれた位置が、気になりました。

 次なるは船越長善の絵図です。
船越長善絵図 本願寺位置
 これも上を北にしました。黄色の○で囲ったところに「本願寺」と書かれているのは、以前にも紹介したとおりです(7月1日ブログ参照)。また、「なんで、ここに東本願寺が開かれたのか?」についても、前に言及しました(4月16日ブログ参照)。しかし、決定的な理由には至りませんでした。 

 このたび、冒頭の高見沢絵図に描かれた「一の宮」に位置から、想いを巡らせました。
 「一の宮」が札幌本府の北東に位置するのに対し、本願寺は南西に在ります。
 これは陰陽道にいう、鬼門と裏鬼門ではなかろうか。

 と妄想したきっかけは、陣内秀信先生の『東京の空間人類学』1992年を最近手にした影響です(末注②)。東京の都市形成史を「江戸」からの継承という文脈で論じ、「江戸」の成り立ちを地形との関係で読み解いた陣内先生です。こんにちのブラタモリに通じるこの視点を体系化した第一人者だと思います。近代東京と近世江戸を重ね合せたのは、画期的だった。

 札幌に話を戻すと、船越の絵図で「一の宮」はすでに北東の位置になく、「圓山」のふもとに「札幌神社」が書かれています。本願寺も、まとまった土地(しかも地形的に低湿でない)として、たまたまこの場所が良かったにすぎないのかもしれません。陰陽道説がこれまで唱えられたことがあるか、管見では知らないのですが、どんなものでしょう。

注① 『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年、pp46-47参照
注② 江戸城からみて東北の鬼門に寛永寺が、南西の裏鬼門に増上寺が建立されたのは陰陽道に従ってのことだという(陣内同書p.32)。  

2015/07/24

石山1条2丁目 軟石家屋

 5月末に提出した「大人の卒論」の初校が、北翔大学から上がってきました。
 初校を機に、軟石建物の数を再精査しています。
 5月29日の提出時点で建物数を309棟としましたが、その後南区で4棟見つかり(6月19日、23日ブログ参照)、計313棟となりました。さらに、中央区で2棟見つかりましたので(うち1棟は6月21日ブログ参照)、目下315棟です。

 再精査には、「築年数」の確認もあります。築年数は外観目視で推測したものが多いのですが(5月22日ブログ参照)、あらためて持ち主に伺うなどして、ウラを取ることを試みています。
 2009年、2010年に調べた南区石山を洗いなおしたところ、報告から漏れていた建物が3棟、新たに見つかりました。

 石山1条2丁目です。
石山1-2-2 S宅
 このお宅と、同じ敷地にある物置が軟石です。

 さらに、そのご近所の、こちらのお宅。
石山1-2-2 T宅
 1階部分まるごとではありませんが、さりとて腰壁よりは高く、軟石が6段、積まれています。これが3段程度なら建物にカウントしづらいのですが、ここまで積んでいると含めたくなります。
 お住まいの方に伺うと「はっきりとは判らないが、50年はたっていると思う」と、これまた微妙なお話でした。表面仕上げはチェーンソーの痕があるので、古くても52、3年というところでしょうか。お住まいのコトバに依拠して築50年に判定。
 冒頭のお宅のほうはお留守のようだったので、こちらの方に訊いてみたところ「うちよりは古いと思う」と。こちらもチェーンソーなので微妙ではありますが、外観の形状などから、物置も含め築50年に算入します。
 結果、315に3足して318棟。

 こちらは2009年の調査で報告済みのお宅です。
石山1-2-2 Sa宅
 表面仕上げ(ツルメ)、窓の楣にあしらわれたキーストーン様の装飾、軟石の煙突などから、築50年はカタイと見立てつつ、ピンポンして伺いました。すると「昭和20年代の後半」とのこと。

 啓北商業高校近くのお宅。
石山1-2-9 W宅
 ここも、表面仕上げや小屋裏窓の楣、、玄関わきの縦長窓、煙突などから前掲住宅と同年代と見た。

 窓が開け放たれ、中で人が作業をしていました。
 6月の「札幌軟石まつり」の石山タウンウォッチングで歩いたときは確か、空き家の気配だったが…。
 
 作業をしていた女性に玄関先でお尋ねすると…。
 私「いつごろ建てられたものでしょう?」
 女性「昭和28年と家主さんに聞いています」
 私「もしかして、これからお住まいになるのですか?」
 女性「軟石の小物を扱うお店を始めるんです」
 私「もしかして、『軟石や』のOさんですか?」
 女性「ええ、今日は不在ですが」

 お店は、内装工事が順調にいけば8月上旬にオープンする予定とのことです。サプライズ!
 軟石古民家再生にエールを送ります。 

2015/07/23

満1年

 本ブログは昨日で満1年になりました。
 私がブログを始め、続けてきた中で、心がけていることが三点、あります。

①日々更新
 里帰りなどで札幌を不在にする間を除いて、毎日更新する。そうせねばならぬ必要は何もありません。根がズボラな性質なので、続けるための約束事を自らに課したものです。続けなければならぬ必要もこれまた、無いのですが、「モノゴトを始めた以上は、できるだけ続けたい」という、これも我が身の性分です。

②初出性・一次情報 
 できる限り、‘二番煎じ’や‘焼き直し’は記さない。といっても、電網恢恢疎にして漏らさぬ昨今、自分では‘本邦初’のつもりでも、全世界のだれかが公表している可能性はあります(逆に、ネットで検索すれば、それが判る世の中でもある)。私が札幌の街を歩いて眼に留まる程度のことは、先達が取り上げていても何ら不思議ではない。題材としては既出であっても、自分が直接得た一次情報や新たな知見を加えるように努めたい。ここでいう一次情報とは、自分の足で現地を確かめ、自分の眼で見て、自分の耳で聞いたモノ・コトという意味です。

③出所明示 
 ②と関わりますが、何が初出かを見極めるためには、裏返せば「どこまでが既出か」を知る必要があります。先人の到達点はナイガシロにできない。その足跡に敬意を表し、自分が得た情報・知見が何に基づいているか、根拠・出所を明らかにする。ともすればネット情報は活字に比べ、出所不明な二次情報が氾濫しているようにも見えます。出所を明示するということは先人への敬意の証しとしてのみならず、事実に反する虚偽の拡散を防ぐためにも、必要だと思う。

 いずれも、「できる限り」という留保付きの、努力目標です。どこまで実現できているかは、読者諸賢の鑑定にゆだねます。また、とくに③はネット情報になじまない面もあります。いちいち出典を記していたら、読むのが煩わしい。一見ただちに明白な公知の事実にまで「その根拠は…」などとやるのも、どうかとは思う。その線引きが難しいのですが、私としてはこういう煩わしいブログもあってよかろうと思って、続けます。

 私のブログの管理サイトでは「ランキング」が判ります。閲覧数をカウントしたものだと思います。私が登録している「歴史」というジャンルで大体1,000人くらいですが、本ブログは最近60~70位です。「歴史」のジャンルは「学問・文化・芸術」という大ジャンルに含まれ、これで大体20,000人中500~700位です。本ブログを「学問・文化・芸術」というのはいささか口幅ったいのですが、小ジャンルを「歴史」に属する以上やむをえません。
 とまれ、小ジャンルで上位6~7%、大ジャンルで2.5~3.5%あたりに付けていられるのも、これを見てくださっている読者の皆さんのおかげです。あらためて、深く感謝申し上げます。

2015/07/22

北1東4のクランク③ または古サッポロ川の源流

 前回(7月19日)、前々回(7月20日)は「北1東3のクランク」と題しましたが、往時の道路建設者の怨念に敬意を表して(7月20日ブログ参照)、「北1東4のクランク」と改めます。

 そのクランクを再度、眺めます。
北1東4 クランク 大通東4から北望
 といっても、今回の注目はクランクではありません。

 例によって古地図で場所を確認しておきます。
明治34年地図 フシコサッポロ川の記憶
 1901(明治34)年「札幌市街之圖」からの抜粋です。
 赤いが冒頭写真の場所です。南から北を眺めました。

 赤いの場所を、西から東に眺めると、こんな様子です。
大通東4 高低差
 黄色の線で示したとおり、地盤にかなり高低差があります。
 「かなり」というほどのことはないかもしれませんが、札幌の中心部の平ぺったい一帯にしては「かなり」だと思います。

 赤いの東側に高層の集合住宅があります。
大通東4 高低差②
 その集合住宅の北側から南を見ると、明らかに差があります。
 集合住宅の奥、すなわち南側の敷地のGLは黄色の線です。手前の集合住宅とはクルマの車高分くらいの差がある。

 集合住宅の南側に回り、北を望むと…。大通東4 高低差③
 手前の敷地のGLが黄色の線で、奥の集合住宅の1階は地盤の下に半分くらい隠れています。

 前掲の古地図に照らすと、この集合住宅のあたりを川が流れていたようです。この川は、例の開拓使工業局貯木場の水路と合流してフシコサッポロ川(のちの伏籠川)に連なります。つまり、北1東4のクランク周辺がフシコサッポロ川の源流らしい。
 フシコサッポロ川とは古サッポロ川、すなわち古豊平川です。ある時期、ここを大河が流れていた。

 フシコサッポロ川は明治初期の絵図にも描かれています。
高見沢権之丞 絵図 フシコサッポロ川
 高見沢権之丞の「明治二巳歳十一月迄札幌(ホロは糸偏)之圖」です。この絵図は巻物になっていて、横長(右が北)なのですが、便宜的に上を北にしました。源流の位置を想像して、赤いで示しました。赤いの少し北側(現在の北1条あたり)で西の方からの別の川と合流していますが、その川は胆振川です。開拓使工業局ができて整形された後は、この絵図よりも南側(現在の大通東)を通されています。
 
 この絵図では、フシコサッポロ川は豊平川から枝分かれしていますが、水流としては現豊平川の流れのほうがすでに大きいことが窺われます。19世紀初頭に本流が切り替わった結果とみられます。いわゆる「河川争奪」です(末注)。

 2015年5月24日 「市民地質巡検 ~札幌の洪水跡を訪ねる~」資料p.4参照

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

06 | 2015/07 | 08
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR