札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2015/06/30

ハッタリベツ道

 昨日のブログの前半に記した「本願寺街道」についての続きです。
 東本願寺が明治初期に北海道で開削した道は、「有珠新道」以外にも3本あったとされます(改修を含む)。そのうちの一本が「山鼻より発垂別に至る一里半」の道です。ある雑誌の連載記事に、次のように記されています。
 
 石山通の前身は、明治3(1870)年に東本願寺が自費で開発した「本願寺街道」の枝道、ハッタリベツ新道である。(末注①)
 
 「山鼻」と「発垂別」という地名を現在の地図に当てはめると、確かに石山通と重なるかに見えます。「発垂別」(八垂別)は、現在の南区北ノ沢から川沿方面の旧地名です(6月15日ブログ参照)。
 ならば、前述の一文のごとく断定できるか。少なくとも三つの疑問が生じます。
 
 ①山鼻から発垂別に至る道(以下、上記引用の文にしたがい「ハッタリベツ新道」という)は、東本願寺が開発したのか?
 ②ハッタリベツ新道は、そもそも存在したのか?
 ③ハッタリベツ新道は、石山通の「前身」といえるのか?

 まず①から考察します。
 当の東本願寺が出した文献に、次のように記されています。

 山鼻より発垂別に至る一里半の道路については、(中略)すべての公文書の中に記載がなく詳細が不明…(末注②)

 東本願寺が開削したことを裏付ける史料が、どうも見当たらないのです。

 次に②について。
 古地図を見てみます。
 高見沢権之丞 明治2年絵図
 高見沢権之丞「明治二巳歳十一月迄札縨之圖」(北大図書館蔵)です(札幌のホロは糸偏)。札幌の開拓草創期の史料としてよく知られた絵図です。

 この左上、赤い○で囲ったところに…。
高見沢権之丞 絵図 拡大
 「ハツタリベツ道」と書かれています。古図のこととてだいぶ薄れかかっていますが、道も描かれています。黄色でなぞりました。道は左上から右下へナナメに通じています。この絵図は右が北ですので、南西から北東へということです。今「ナナメに」と記したのは、この絵図の真ん中を左から右へ(つまり南から北へ)まっすぐに創成川が描かれており、それに対して「ナナメ」という意味です。
 この絵図を見ると、どうも札幌の中心部から「ハッタリベツ」方面に通じる道が1869(明治2)年にはあったらしい。一方、東本願寺が北海道で「新道切開」を実際に開始したのは1870(明治3)年以降とみられます(末注③)。ハツタリベツに至る道はその前からあったように見える(末注④)。

 以上により、冒頭記事の「明治3(1870)年に東本願寺が自費で開発した『本願寺街道』の枝道、ハッタリベツ新道」という記述は、少なくとも断定しうる根拠は乏しい。

注① 「古地図と歩く 【札幌の骨格③「石山通」】」 『O.tone(オトン)』vol59、2013年9月15日所載
注② 真宗大谷派(東本願寺)『アイヌ民族差別と大谷派教団 共なる世界を願って』2008年、p.60
注③ 同上、p.60及びp.130年表 参照
注④ 高見沢の絵図は1875(明治8)年に明治2年を追想して描いたとされる。したがって、リアルタイムで明治2年に描かれたものではないが、それは措くとする。

 
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2015/06/29

東本願寺札幌別院 札幌軟石再考(承前)

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足・2015夏の編」が間近になりました。当初の予定は7月3日と4日の2回でしたが、申込者が多数になったため(78名!)、10日に3回目を実施することにしました。抽選で定員外となった方をスパッとお断りできない私です。

 今、私の机の周りには書物が山積しています。遠足に備えて、文献を読み込んでいます。行程途上に東本願寺札幌別院があることから、読み漁っている本の何冊かは同寺に関するものです。例えば、明治の初期、東本願寺は北海道開拓のために道路を開削したとされます。「本願寺街道」とか「本願寺道路」と呼ばれるものです。その一つが有珠から中山峠を越えて札幌に至る「有珠新道」で、1870(明治3)年9月から翌1871(明治4)年7月にかけて工事されました。1年足らずに約100㎞を造成したのですから、すごいことだと想像します。
 が、これについては文献上、さまざまな見方があります。一言で言えば「東本願寺はなぜ、どのように、道を拓いたのか?」です。文献の年代や立場によって見方が分かれているだけに、想像を入り込ませてもらう余地があります。

 机上の渉猟と併せて、現地も歩いて時空逍遥しています。
東本願寺札幌別院 土止め擁壁
 東本願寺境内にある軟石の土止め擁壁。
 この軟石が、昨日紹介の古写真に写された堂宇などの解体材ではないかと想像しているのですが。遠足のときに寺の方に訊いてみよう。 

2015/06/28

東本願寺札幌別院 札幌軟石再考

 「石山石材運搬軌道」の古図面のことを6月15日、16日のブログで紹介しました。
 この史料を所蔵しているMさんの初代がどういう存在であったか、同月17日のブログにひとまずのまとめを記しました。Mさんというのは軟石と硬石の両方を扱う石材業者だったのではないか、というのが私の推論です。Mさんが軟石建物を請け負ったことは文献史料に遺っているのですが(同日ブログ参照)、「札幌軟石文化を語る会」の岩本さんの話では、石山(すなわち軟石の産地)の採石業者としてMさんという名前は記憶にないそうです。一方、その後私が訪ねた硬石山のほうでも、元石工のSさんには心当たりがないようでした(6月22日ブログ参照)。
 このことから、私は次なる二つの推論を立てました。
① Mさんが石材業を営んでいたのは、現在の人々の記憶には薄れる程度に古い時代のことだった。
② Mさんの操業拠点は石山や硬石山の採掘現場ではなく、札幌の街場にあった。
 
 『郷土史八垂別』1982年をひもとくと、次の記述に当たりました。
 記録によれば、明治十九年頃の硬石山関係者の名前に、土井某買元請負人、帖場に○○○○○、天谷竜右衛門、石工頭に玉井揆一郎、佐藤兵吉、本庄某氏等の名が見える(p.441、原文ママ、ただし○のところはMさん初代のフルネーム)。 
 これが何の「記録」に依っているのか、出典が直接には明示されていないのですが、ここでMさんが硬石の採掘にも携わっていたことの傍証が得られました。明治のかなり早い時期です。

 実は、ここまでは前置きでして、本日のお題はMさんのご遺族に見せていただいた古写真のことです。

 写真の一枚がこちらです。
Mさん所蔵古写真 東本願寺
 東本願寺に寄進されたという石造のお堂です。これはその上半分で、下には人物が集合で写っているのでトリミングしました。入口の破風や棟飾りの彫り物が凝っています。

 同じくお堂です(上半分トリミング)。
Mさん所蔵古写真 東本願寺②
 どちらも札幌軟石とみられます。このほかにも、学校に奉安殿を寄付したりしていたそうです。これらを寄進したということも、Mさんが石材業をかなり手広くやっていたことの傍証になるかと思います。

 それにしても、こんなお堂が東本願寺の境内にあったのですね(4月15日ブログ参照)。これらのお堂の軟石はどこにいったのだろう…?というのが私のさらなる推論でして、ここで話は来たる札幌建築鑑賞会「大人の遠足2015夏の編」の行程に繋がるのですが、本日はここまで。

2015/06/27

札幌祖霊神社

 中央区南5条、札幌祖霊神社です。
祖霊神社
 神社を紹介するのに鳥居や拝殿を写さず、軟石の蔵から始めてしまう。軟石フェティストに免じてお許しください。

 札幌建築鑑賞会「2015大人の遠足・夏の編」の行程下見のために、先日伺いました。
 この石蔵の建築年について、『札幌の建築探訪』1998年に「昭和11年」と記されています(p.50)。宮司さんにお訊きした話では「先代が昭和9年にここに来たときはすでに在ったということなので、昭和7~8年年頃ではないか」とのことでした。「伝昭和戦前期」としておきましょう。
 この蔵は何を収めていたのか。「お骨」だそうです。明治時代に火事で社殿が延焼したので、燃えないようにと石造にしたのだろうとのことでした。

 「ところで…」と、私は宮司さんに尋ねてみました。「この近くを、川が流れていませんでしたか?」と。
 宮司さんは答えて曰く「社殿の裏を川が流れていたと先代から聞いている」と。
 これを裏付ける話は次のとおりです。
「手稲のタケウチさんという家で人が亡くなった。神葬で出したいと、家族がここに来た。そのとき宮司は畑仕事をしていたので、話を聞いた後、裏の川で体を清めて葬儀に出かけた」。
 明治時代のことだそうです。禊ですね。私には真実味がひしひし伝わってしまう話です。「手稲のタケウチさん」という固有名詞。

 ここで、旧河道の位置をおさらいします。
東本願寺、祖霊神社周辺 旧河道 地図
 現在の地図に旧河道をなぞりました。旧河道は、産総研「特殊地図 札幌及び周辺部地盤地質図」に基づきます(4月9日、16日ブログ参照)。橙色で囲ったのが東本願寺札幌別院、赤い印が札幌祖霊神社の位置です。

 宮司さんの話では、河道はもう少し東側(神社寄り)になりますが、自然河川のこととて流路の移動も考えられます。かなりイイ線をいっているのではないか。
 
 南5条西9丁目の仲通りが二本、わずかにクランクしています。
南5条西9丁目 クランク
 地図上、えび茶色の線でなぞった道です。私はこれも旧河道の影響とにらんでいるのですが、どうでしょう(4月7日ブログ参照)。

 一番肝心な神社の由来は…、前出『札幌の建築探訪』や『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年、p.59に載っているので割愛します。

2015/06/26

旧琴似川を遡る④

 旧琴似川をさらに遡ります。
北区東区の境目 地図④
地図上に示した矢印の先が、昨日の‘橋’の位置です。

 ここから‘川’は南へ蛇行します。
旧琴似川⑦
 このあたりは、町名としては東区北50条東9丁目です。
 
 地図上で橙色の線で囲ったところがその町名に当たります。‘川’の右岸も左岸も、同じ条丁目です。興味深いのは、河道に沿って、ある線が引かれていることです。その線をこげ茶色でなぞりました。この線は何かというと、連合町内会の境界です。つまり、北50条東9丁目は同じ条丁目でありながら河道を境にして、単町のみならず連町が分かれているのです。
 これは私の想像ですが、この場所は条丁目に町名変更される前から、町内会の境界があったのではないか。住民の地域的つながりとしては、‘川’が境目になっていたのではなかろうか。 

 ところで、先日来この緑地帯を「河道」と記してきました。「旧河道」ではありません。「水が流れていないのに、現役の河道か?」と訝る向きもありましょう。以下、川である証拠写真を載せておきます。

 証拠① 側溝。 
旧琴似川⑧
 といっても、この程度の側溝で川というのは憚られる。

 そこで、証拠② 「札幌市土木部河川課」の看板です。
琴似川⑨ 河川課の看板
 「川にゴミや雪を捨てないで下さい!」と訴えている。看板の絵には水面が描かれている。

 最後に、証拠③ マンホールの蓋。
旧琴似川⑩ マンホール
 「河」と刻まれている。

2015/06/25

旧琴似川を遡る③

 旧琴似川の‘橋’です。
旧琴似川⑥
 画像の左方、白い鉄柵がさしずめ橋の欄干です。

 ちょうど‘橋’のたもとのお宅で庭の手入れをしていた女性がいたので、訊いてみました。
 私「昔、ここに川が流れていたと思うのですが、心当たりございませんか?」
 女性「川だったとは聞いています。昭和60年にここに来ましたが、そのときはもう水は流れてなかったですけど、土管が通ってました。ちょうどここ(画像の道路)に橋が架かっていました。土管はその後撤去されたんですが、今も川の扱いだそうです」
 私「ああ、やっぱり琴似川が流れていたんですね~」
 女性「え、コトニ? 琴似のほうから流れてきてるんですか?」
 私「ええ。(地図を見せながら)今は新川に注いでいるんですが(末注)、新川ができる前はこちらに流れてきていたようですよ」
 女性「ここに来た頃、洪水があって、北の方で水が漬いたそうですけど。ここは大丈夫だったって」
 私「ああ、五六(ゴーロク)水害ですね。昭和56年の。伏籠川の下流のほうが浸水しましたよね」

 この方は、私の「琴似川」という言葉を聞いて西区琴似を思い浮かべたのでしょうが、琴似川は中央区宮の森から西区二十四軒との境を下っている川です。旧名ケネウシペツ。山田秀三先生によると本来のコトニ川というのはさらに東側の、現在の知事公館のあたりを源(キムクシメム)とする川です。その川とケネウシペツが合流してシノロ川になるのですが、明治以降はその水系全体を指して琴似川と称されるようになったようです。

 とまれ、地元の方の証言で、30年前には橋が架かっていたことが裏付けられました。

(注)琴似川が「新川に注いでいる」というのは実は正しくなくて、正確には琴似川に「琴似発寒川」が合流して、「新川」になる。

2015/06/24

旧琴似川を遡る②

 旧琴似川遡上、6月10日ブログからの再開です。
旧琴似川③ 北51条東9丁目
 場所は、北区百合が原1丁目と東区北51条東9丁目の境です。ここでは河道(といっても水面はありませんが)区界になっています。赤い線を引いたところです。向かって右側(赤い矢印)が北区、左側(黄色の矢印)が東区です。

 地図で確認しておきます。
北区東区の境目 地図③
 黄色の矢印が冒頭画像の撮影位置です。矢印の向き、すなわち西に向かって上流になります。

 河道と知らなければ、不思議な緑地帯です。
旧琴似川④
 私の頭の中では、川面を掻き分けて遡っています。

 100mほど進むと、橋に当たりました。否、道路にぶつかりました。
旧琴似川⑤
 画像は、路上から川の下流を眺めたものです。川に見立てれば、橋の上から眺めたことになります。なんとなく橋の上に立っている感じもしませんか。

2015/06/23

硬石山⑤

 硬石山ふもと、Sさん宅のアプローチに置かれていた灯籠です。
川沿18条 Sさん宅 灯籠仕立て
 灯籠仕立てというべきか。お膝元だけあって、硬石製です。

 ご近所には、こんなオブジェ風の物件もありました。
川沿18条 硬い塀
 コンクリートブロックとせめぎ合っています。これも硬石でしょう。なにゆえにこうなったか、よく判りませんが、とまれかくまれお膝元ならではか。

 軟石の住宅がもう一軒あると、Sさんに教えていただきました。
川沿18条 軟石住宅
 ツルメの痕からして、築50年経過でしょう。これで313棟。

2015/06/22

硬石山④

 硬石山のふもとにお住まいのSさん(86歳)に、「石山石材運搬軌道」のことをお尋ねしました。

 私「硬石を運ぶための橋が、この辺で豊平川に架かっていませんでしたか? 向かいの定鉄の駅に運ぶための軌道の橋ですが…」
 Sさん「それは、ここよりちょっと上のKさん(砂利採掘業者)のところにあった」

 私「その橋の古い設計図が見つかって、どうも戦前には橋が架かっていたらしいのですが…」
 Sさん「昭和18年頃、千歳の飛行場を造るのに(硬石を使うために)、運んだ。ちょうど(小学校の)高等科のころで、運ぶのを手伝わされた覚えがある。(硬石は)小さな汽車で運んでいた」

 道立文書館編『北海道史略年表』1988年によると、1937(昭和12)年に「千歳に海軍航空隊基地の設立を決定、飛行場の建設に着手する」とあります。Sさんのいう「昭和18年頃」と若干隔たっていますが、国策のために石材搬送を強化したというのは頷けます。軌道の動力が何だったかも気になっていましたが、蒸気機関だったようです。飛行場建設=1937年だとすると、藻岩村時代で図面の記載とも合います(6月15日ブログ参照、藻岩村が円山町になったのは1938年)。

 私「橋はいつぐらいまで架かっていたのでしょう?」
 Sさん「戦後も架かっていた。米軍が来て、橋の上から缶を投げて、それを銃で撃っていたことがある。缶に当たった弾がそれて、こちらに飛んできて危なかった。(橋が架かっていたのは)昭和30年代までかなあ」
 真駒内にあった基地から、豊平川の上流に米兵が遊びに来ていたらしい。

 私「この橋を架けたのはMさんという石材業者らしいのですが、心当たりはありませんか?」
 Sさん「ここで(硬石の採掘で)、Mという名前は聞いたことがないな。石山にMという名前の店があったと思うが…」。
 
 Sさん宅を辞した帰途、藻岩南小学校の郷土資料室を訪ねました。
藻岩南小学校 郷土資料室 展示写真 
 ここには硬石採掘に関する史料が陳列されています。硬石を切り出していた頃の古い写真も展示されていました。撮影年は記されていません。左方、奥に藤野富士らしき山容が写っており、撮影方向は東から西向き、すなわち豊平川の下流から上流を撮ったものとみられます。右方から左方にかけて、硬石山から豊平川への斜面でしょう。

 斜面に、何本かトロッコのレールが写っています。
藻岩南小学校 郷土資料室 展示写真 拡大
 もしかしたら、この一本が石材運搬軌道かもしれない。

2015/06/21

南4条の軟石ビル 真相露呈

 6月11日ブログで記した南4条の軟石ビルの続報です。
 札幌建築鑑賞会スタッフのSさんから、このビルの真相が露わになったと伝えられ、早速私も現地を確かめに行きました。
 その前に、このビルに関する6月11日の私のブログ記述を、一部以下に再掲します。

 軟石の仕上げを見ると、もう少し古いように思える。大体昭和40年代に、こんな風に軟石をビルに積むだろうか。…と記してきて、ふと思ったのですが、これはもしかすると、ビルが建てられる前にあった建物の壁面ツラ一枚を遺したものではなかろうか。
 
 さて、露わになったビルの真相は、というと…。
南4条 Sビル 軟石露呈
 「壁面ツラ一枚」どころか、軟石建物がまるごとビルトインされていたのです。いわゆる‘内蔵物件’ですね(先例:ススキノの元「夢蘭」及び元「いもたこなんきん」)。

 建物の北側正面は…。 
南4条 Sビル 覆いシート
 本日時点で、すでに足場に白いシートがかかっていて、見えません。側壁から突き出ている軟石のみ、わずかに確認できます。

 6月11日に撮った足場だけのときの画像です。
南4条 Sビル 北側
 赤い四角で囲ったところがビルトイン軟石蔵の位置です。昭和な空気のビルに取り込まれていて、よもや内蔵されていたとは気づきませんでした。こんなことなら、足場が組まれる前にキチンと撮っておけばよかった。

 南側から見る、この露呈も、残りわずかな光景かもしれません。
南4条 Sビル ビルトイン軟石蔵
 昭和なビル本体は解体されてコンクリートの瓦礫になっていますが、この石蔵は解体工程の事情からか、まだ残っています。職人さんが一個一個手掘りで切り出して、手彫りで仕上げて積んだものであろうから、RC造のビルより手間ヒマかかっている。壊すのも容易ではないか。どうせなら、このまま遺して活用してくれたら、と一縷の望みを記しておきます。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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