札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2015/03/31

ひばり湯の灯、消ゆ

 厚別区唯一の公衆浴場「ひばり湯」です。
ひばり湯 最後の日
 本日が最後の営業日となりました。

 昭和な空間を、画像に遺しておきます。
ひばり湯 最後の日②
 この数日、名残を惜しむかのようにお客さんが来ているようです(私もそうですが)。

 昨日は元ご近所さんで、今は北広島に住んでいるという人も、入りに来たとのこと。
ひばり湯 最後の日③
 ロビーに架かっている絵は、以前の常連さんが描いて寄贈してくれたそうです。

 これは先日、他の客がいないときに撮った男湯の洗い場。湯船から、脱衣場の方を撮りました。
ひばり湯 最後の日④
 今日は6、7人いました。

 昭和な「入浴者心得」。札幌公衆浴場商業協同組合と保健所の連名です。
ひばり湯 浴室②
 今は亡き「雪印牛乳」のブランド。
 「心得」の六番目に曰く「伝染する病気をもっている方、また他人に迷惑を及ぼす精神病者の入浴は、法により禁じられておりますので、入浴はおことわりいたします」と。
 そうだったのか…。後段は現在、改正されていると思いますが。

 昭和な広告。
ひばり湯 浴室③
 トップ技術感覚を表現するアールヌーホツーペ デザインパーマ ニグロパーマ パンチパーマ ソフトアイパー

 湯船の蛇口です。
ひばり湯 浴室④
 取っ手に「ツルカメ」と刻まれていました。

 ここのお風呂屋さんは、天井に大きな通気口がありました。
ひばり湯 通気口
 この通気口に着目したのは私が最初だろう、と思ったら、さにあらず。先達がいました。
 札幌篠路高調査記録班『1997・さっぽろ お風呂屋さん』です。ひばり湯だけで14ページにわたり詳細を究めて記録されているのですが、その中で以下の記述がありました(p.82)。
 風呂場の天井には吹抜けがあった。道内でもこういう構造の風呂場の天井はめずらしいと主人が言っていた。
 畏るべし、高校生。
 
 この記録集で唸らされたのは、調査項目の一つに「親戚の銭湯」があることです。これには「さすが…」と思いました。
 私もご主人に伺ったところ、「元々南幌で農家をやっていたが、お風呂さんをやっている親類(親の兄弟)から勧められて開業したとのことでした。なるほど。

 湯から上がって外に出たら、湯号と「ゆ」の行燈の灯りが消えていました。
ひばり湯の灯、消ゆ
 長らく、ありがとうございました。
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2015/03/30

札予備

 先日、街で見かけました。
札予備
 今は亡き‘札予備’の広告です。‘情熱と気迫’。
 
 これをどこで見かけたかというと…。
電停の広告
 市電の車窓から、とある停留場です。黄色の矢印を付けた先にありました。

 亡くなったはずのモノが遺っているという意味で、これは遺物です。
 こういう遺物をこのブログで取り上げるのは、言うまでもなく今後も遺り続けてほしいと願うからであります。間違っても「こんな過去の遺物を公の施設に残しておくのは、けしからん」などと思ってはいけない。

 話がそれますが、こういうモノを見つけたとき、つい「発見した!」などと言いたくなります。むろん、この程度では発見のうちには入りません。札幌建築鑑賞会で街歩きの目利きにかかったら、ハナであしらわれてしまいます。なぜこんなことを記すかというと、ヨソサマの街角ネタのブログで時折「○○で△△を発見しました」というような表現を見かけることがあるからです。といいつつ、私も過去のブログでこのコトバを用いているのですが、いずれあらためて考察したいと思います。

 それはともかくとして…。 
札予備二号館
 北6条西13丁目にあった札予備の2号館です。1995年1月に撮りました。この時点ですでに建物は使われていなかったようです。桑園が予備校の町であったことを物語る、当時の遺物です。私としては、この写真クラスだと‘発見’に近いかなと内心思っているのですが…。

 私は札予備に通っていたわけではないのですが、にもかかわらずなんでこんな写真を撮ったかというと、ン十年前の大学入試の本番をここで受けたからです。「大学入試を予備校で受けるなんて…」と訝しいハナシですが、私は今のセンター試験(さらにはその前身の共通一次)の前の最後の年で、今より受験生がはるかに多く、試験会場が大学だけは足りなかったからです。
 この建物の2階か3階で試験を受けたのですが、記憶に残っているのは試験科目の合間の休み時間、受験生がたむろする廊下が煙で朦々としていたことです。タバコの煙です。手回しのいいことに、水を入れたバケツが用意されていて、多くの受験生がスパスパ喫っていました。そんな時代でした。

 北8条西12丁目にあった札予備1号館と3号館です(画像の正面、道路の突き当り)。
札予備1号館
 同じ年に撮りました。
 こららの建物はその後なくなり、札予備自体が姿を消しました。

2015/03/29

バチェラー学園⑥

 3月27日に続き、田上さん設計・朴沢棟梁施工のバチェラー学園、今回が最終回です。

 小樽新聞1924(大正13)年10月5日の記事(連載第3回)は、「勝手の違つた建築に大工も驚く 安価な材料で堅牢な建物」という見出しで始まります。
小樽新聞記事③
 本文では建築上の仔細が詳しく記されているのですが、面白かったのは以下の記述です(原文ママ、ただし旧字体は通用字体に変更)。
 此建築には請負つた大工連もよつぽどまごついたらしく、時には「こんな馬鹿らしい仕事が出来るかい」と捨独白を残してプリプリ怒って退場したきり二日程も姿を見せなかつたという様な場面もあつたとかで監督者の骨折も並大抵ではなかつたらうがいよいよ出来上つて見れば又彼等も此の風変りな建築に何等かの興味と愛着も感じてきたらしい
 
 学園施工を請け負ったという朴沢棟梁が遺した史料を見てみましょう。建物竣工時の人物集合写真(札幌市公文書館蔵、3月22日ブログで紹介)ウラ面の文(朴沢棟梁のご遺族が記したもの)から引用します(同じく原文ママ)。
 朴沢雄治(引用者注:バチェラー学園施工を請け負った棟梁)三男三郎は田上義也氏にヴァイオリンの手ほどきを受け、NHK開局試験合格、交響楽団員となり、しかし昭和四年四月二日死去 故三郎の通夜の席で、田上先生は“ニーナの死”とジョスランの子守歌を弾いて下さったのを覚えている
 朴沢雄治存命中はアイヌの人々がよく尋ねてきて酒をくみ交したのを覚えている
 父雄治はバチェラーさんの拓銀の通帳を預り用を足していた
 よし(引用者注:朴沢棟梁の娘で、一連の文書の寄贈者)幼少の頃庭にコクワの樹があり実を棒で潰して食べた記憶がある

 田上さんと棟梁、バチェラー氏の絆が偲ばれます。

2015/03/28

札幌軟石を偏光顕微鏡で見る

 「地図と鉱石の山の手博物館」主催の「ミユージアムサロン」に参加しました。
 前半は若松幹男さんの講演「支笏火山と札幌軟石」、後半は土屋篁名誉館長の解説で偏光顕微鏡による岩石観察です。
 
 偏光顕微鏡を見るのは、私は高校の地学の授業以来です。そして、生まれて初めて札幌軟石(支笏溶結凝灰岩)を顕微鏡で見ました。
 こちらです(スライド上映されたものを接写)。
札幌軟石 偏光顕微鏡観察
 「札幌軟石って、もっと灰白色じゃないの?」 そのとおりでして、これは偏光板2枚を直交させた(直交ニコル)状態で見たものです。黒く見えるのはガラス質です。ガラス質(=非結晶)は偏光板2枚の直交によって、光が完全に遮られます(つまりサングラスの窮極化?)。
 札幌軟石はかなりの部分がガラス質であることが判ります。白っぽく見えるのは石英、灰色がかって横にスジが入っているのが斜長石だそうです。これらは花崗岩の成分で、大まかにいうと札幌軟石は花崗岩由来らしい(ということを、初めて知りました)。

 偏光板1枚(単ニコル)で見た札幌軟石です。
札幌軟石 偏光顕微鏡 単ニコル
 真ん中の茶色っぽいのは雲母。やはり花崗岩の成分です。

2015/03/27

バチェラー学園⑤

 田上さん設計のバチェラー学園1924(大正13)年は、竣工時『小樽新聞』で報じられています。
 このことは角先生論文で引用されているのですが、それに先立って仁多見巌訳編『ジョン・バチェラーの手紙』1965年 には記事の全文が(田上さんの提供により)引用されています。
 
 道立図書館で記事原文に当たりました(マイクロフィルム)。小樽新聞1924年10月3日、4日、5日の3回にわたる記事です。
 まず一回目の記事。
小樽新聞記事①
 「バ博士と若き建築家 楽器が取持つ縁 札幌に生れた珍らしい建物(一)アイヌの寄宿舎」(原文ママ、ただし旧字体を通用字体に変更、以下引用は同様)との見出しです。 
 朴沢家文書(札幌市公文書館蔵)中の写真と同じ人物集合写真(3月22日ブログ掲載)が載っています。
 文末を「アイヌ寄宿舎(引用者注:バチェラー学園のこと)の建築はその設計から現場の監督に至るまでの一切無条件を以て此の青年(引用者注:田上さんのこと)に托されたのである」と締めくくっています。実際には当初設計が一部変更されているので(3月22日、25日ブログ参照)、「一切無条件」とは言い難いと思いますが、それにしても田上さんの年齢(25歳)や状況を考えると、その気分もわかる。

 10月3日、連載二回目の記事です。
小樽新聞記事②
 見出しは「通風と採光に苦心した建築家 母に抱かれたやうな暖か味」です。この記事の写真も、朴沢家文書にあります(3月25日ブログ参照)。どうも写真は学園側から記者に提供されたようです。一連の記事自体が、バチェラー氏の社会慈善活動のパブリシティにも思えます。 

2015/03/26

バチェラー学園④

 バチェラー学園の内部を撮った写真、2枚目です(札幌市公文書館蔵、朴沢家文書)。
バチェラー学園 写真 内部②
 照明器具は、後の小熊捍先生宅1927(昭和2)年 に通じるものが感じられます。

 旧小熊邸(1998年、中央区伏見に再現)の照明です。
旧小熊邸 照明
 ライトのプレーリーハウスにインスパイアされたのでしょうか。

2015/03/25

バチェラー学園③

 バチェラー学園内部の写真です(札幌市公文書館所蔵、朴沢家文書)。
バチェラー学園 写真 内部
 玄関、階段廻りです。3月22日に載せた『田上義也建築画集』の平面図と比べると、微妙に階段の位置が異なるようにも見えます。それはともかくとして、ライト的なモチーフを感じます。

 たとえば、 竪連子のような階段手すり。
ライト自邸
 米国シカゴ郊外・オークパークのライト自邸 1889年 の階段廻りです(画像はライト財団発行の冊子から)。

 漆喰壁を木で縁取っているところは…。
コープランド邸
 同じくオークパークのコープランド邸、1909年ライトによる改造です(画像は1997年入手の絵はがきから)。 

 なお、『建築画集』に載っているパース絵や平面図と写真上に見る外観が異なること(3月22日ブログ参照)について、角先生は次のように述べていました(『マックス・ヒンデルと田上義也』1996年、p.354)。
 建築畫集は建物完成後に発刊されたにもかかわらず、実施案でなく基本案を掲載している。実施段階で設計変更を受けコンパクトに収められた結果、基本設計のもつ延びやかさは失われており、田上は建築空間に対する自身の考え方をより積極的に示すために、あえて変更前の平面を掲載したと考えられる。
 
 また、私が「ライト風な片持ち梁」とした部分(パース絵には描かれているが、実際の建物にはない)については、以下のとおり考察されています。
 「多量の硝子のファサードは壁體を殆ど埋めつくす程に、光線を求める」意匠(引用者注:『建築画集』からの引用文)や、ピロティで支えられた物干しスペースなどは明らかにインターナショナルスタイルを意識したものと考えられ、独自の作風模索への姿勢をみることができる(p.353)。
 私はてっきり、ライトの庇を柱で支えたものとしか見えなかったのですが、ピロティですか。なるほど。

 ちなみに、ライトの庇はこんな感じです。
ロビー邸
 シカゴ・ハイドパークのロビー邸 1910年(1996年撮影)。

2015/03/24

バチェラー学園②

 朴沢雄治は伊藤組配下の棟梁として、明治30年代から大正期にかけて多くの建物を手がけます。
 伊藤組の社史には、1898(明治31)年のバチェラー邸(現在北大植物園内で保存されている)は出てきますが、1924(大正13)年のバチェラー学園(3月22日ブログ参照)は載っていません。もしかしたら、朴沢棟梁がバチェラー氏または田上さんから直接請け負ったのかとも思いましたが…。

 もう一度人物集合の写真を、さらに拡大して見てみます。
バチェラー学園 写真 人物拡大②
 田上さん(前列左)の右斜め後ろ、職人さんが羽織っている袢纏に注目です。

 これを伊藤組の印袢纏と比べてみましょう(「伊藤組グループ120年のあゆみ」リーフレットの表紙から)。
伊藤組リーフレット
 同じ図柄に見えます。ということは、やはり伊藤組で請け負ったのか…。
 
 伊藤組は前述のとおり明治30年代にバチェラー自邸を施工しており、引き続き、ということは考えられます。さらに伊藤組ではバチェラー学園の前後、1922(大正11)年に札幌独立教会を、1927(昭和2)年に北一条教会を請け負っています。前者は朴沢棟梁が手がけたとされ、後者は田上さん設計です。

2015/03/23

札幌市長選に思う。

 街で見かけたポスターです。
選挙 ポスター
 このポスターに顔写真と名前の出ている高橋さんが北海道知事選に、本間さんが市長選に立候補することは周知のとおりです。知事選も札幌市長選もまだ告示されておらず、ポスターは政党の宣伝用と見受けましたが、事実上の選挙戦といってよいでしょう。
 そこで、かねて疑問に思ったことを記します。 

 左側の本間という人は、高橋知事が4選目に出ることを表明した際、次のように語っています(北海道新聞2015年1月5日朝刊)。
 本間氏は、知事の出馬について「知事は行政経験が豊かで、今後の道政運営にさらに期待ができる」と歓迎。
 同じく道新2月17日朝刊では、次のようにも報じられています。
 本間氏の後援会は、同様に自民党が支援する高橋氏側と連動に向けた協議を進めてきた。

 これらの記事を読んで、私は「あれ?」と思いました。
 というのは、4年前に本間氏がやはり市長選に出たとき、道新の取材に対して次のように述べていたからです(道新2010年12月25日朝刊)。
 ―自治体首長の任期をどう思いますか。
「日本の自治体の首長は、世界でも希にみるくらい権力が強いので、10年が限度。3期12年は長すぎます」

 私の疑問は、「(自治体首長の)3期12年は長すぎます」と言いながら、本間氏はどうして高橋知事の4選出馬を‘歓迎’し、‘連動’できるのか? ということです。
 本間氏は元総務省のキャリアで、「自治大学校研究部長」だったと聞きます。しかも札幌を含む全国の幾つかの自治体で幹部職員を務めた経歴も持っている。いわば地方自治、地方公務員関係のエキスパートです(実際にどういう成果を上げたかは、ここでは問わない)。そういう人が述べた首長の任期に対する考えです。私自身は首長3選=長すぎるとは思いませんが、長すぎるというのもエキスパートならではの見識でありましょう。問題は、4年前にそう言っておきながら、なぜ高橋知事だけは3選どころか4選でもいいのか? です。
 
 4年前の選挙で本間氏は、3選を目指す現職上田氏と対決しました。つまり前述の発言も、上田市長の3選への批判が念頭にあるのは明らかです。上田市長の3選はダメだが、高橋知事の4選はいい。これは‘ご都合主義’もしくはダブルスタンダードというものではないだろうか。
 私は政策の是非を云々しているのではありません。上田市政を批判しつつ、かつ高橋道政を評価すること、それ自体を問うているのではない。それは各人のこれまた見識であり、大いに結構です。繰り返しますが、私が理解できないのは、3期12年を「長すぎる」といって否定しながら4期16年を肯定できる、というリクツです。政策以前の、いわば人間性に関わる疑問なのであります。
 それとも、前述の記事は「新聞が勝手に書いたこと」、前掲のポスターも「自民党が勝手に応援していること」で、本人には関係ない、ということなのでしょうか。
  

2015/03/22

朴沢家文書② バチェラー学園

 朴沢雄治ご遺族から札幌市公文書館に寄贈された文書の中には、写真もあります。
バチェラー学園
 田上さんの「バチェラー学園」1924(大正13)年です。
 私は、この建物について『田上義也建築画集』1931年、復刻版1987年に載っているパース絵と平面図でしか知りませんでした。

 こちらです(p.28)。
バチェラー学園 パース絵
 絵では、右手のほうにライト風な‘片持ち梁’(キャンティレーバー)がぐいと伸びていますが、写真にはありません。

 平面図です(前掲書、p.29)。 
バチェラー学園 平面図
 これもやはり、右方に部屋(2階は「物干」とある)が雁行状に突き出ています。パース絵に近い。ただ、片持ち梁というよりは、柱で支えられているようです。

 ところで、なぜ朴沢家文書にバチェラー学園の写真があるかというと…。
バチェラー学園 写真裏書
 前掲写真の裏書に、遺族によってその経緯が綴られています。これがまた、とても興味深い。
 遺族によると、朴沢棟梁がこの建物の施工を請け負っているのです。黄色の傍線を引いたところ、「(設計)田上義也氏 (施工)朴沢雄治」とあります。
 
 前掲写真の人物集合部分を拡大してみます。
バチェラー学園 写真 人物拡大
 裏書によると、前列右端が朴沢棟梁、中央がバチェラー氏、左端が田上さんです。田上さん、若い…。裏書には「大正十年前後」とありますが、この建物は大正13年です(前掲書)。田上さん(1899年生まれ)は24,5歳。「バチエーラ博士との奇縁に依り、渡道後最初の作品」(前掲書p.28、原文ママ)です。「奇縁」というのは、1923(大正12)年、北へ向かう夜汽車で若き田上がバチェラー氏と出会ったという神話的伝説。

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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