札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2015/02/28

伏古のタマネギ御殿

 東区伏古・Mさん宅の煉瓦造元牧舎と元住宅が解体中とのお知らせをいただき、見に行ってきました。
 元牧舎は…。
伏古Mさん牧舎跡
 文字どおり瓦礫と化していました。
 
 在りし日を偲びます。
伏古 Mさん宅 元牧舎 在りし日
 2013年12月に見学させていただいたときの撮影です。
 煉瓦造・腰折れ屋根の建物としては、札幌で一二の規模だったと思います。これに匹敵するのは、西区発寒の三谷さんのところの元牧舎くらいではないでしょうか。あとは手稲区手稲前田のFさんの元牧舎か。
 Mさん宅では、戦後のある時期ここで馬も飼っていたとのことですが、それは軽種馬だったようです。この腰折れは、形状からして1階で牛を飼って、2階で干し草を蓄えていたように見受けられます(2階中央のセグメンタル(櫛形)アーチ下の開口部から、直接飼料を出し入れしたのではないか)。そこで、牧舎としておきます。このほかに、以前はサイロもあったそうです。

 昨年(2014)年7月には、札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」で写生しました。
伏古 Mさん宅 元牧舎 描く会
 外壁一面、ツタが青々としていました。
 
 遡ること16年前には…。
伏古Mさん 元牧舎1998年
 建築鑑賞会のバスツアーで見学させてもらいました。1998年10月です。ツタはまだ少しです。色づいていました。

 2013年のときには、中を見せていただきました。
伏古Mさん宅 元牧舎 内部
 干し草を入れていたという2階。思わず「これぞ究極のバルーンフレーム!」と唸った大空間でした。

 小屋裏(屋根まで遮るモノがないので、2階がまるごと小屋裏といえる)妻壁のてっぺん、棟(むね)のところに何やらある、というので(黄色の矢印の先)、梯子をかけて探索しました。
伏古Mさん宅 元牧舎 小屋裏
 といっても、私ではありません。高所恐怖症の私は梯子を昇りかけて、足がすくんで辞退しました。

 見つかったのが、こちらです。
伏古Mさん宅 元牧舎 棟札?
 どうも、棟札のようです。一見したところ、文字は記されていませんでしたが。 

 さて、このたび瓦礫となった煉瓦です。
伏古Mさん宅 元牧舎 煉瓦
 刻印は確認できませんでした。私がこれをまじまじ見ていたとき、Mさんが解体作業の様子を見にこられました。Mさんに昨年の写生会のお礼を申し上げつつ、煉瓦のかけらを頒けていただきました。

 札幌軟石製のバットレス(控え壁)です。
伏古Mさん宅 元牧舎 バットレス
 まだ解体されずに立っていました。
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2015/02/27

中村遊郭

 菊水から美園にかけて、私の中では同じ地平に連なってしまいました。遊郭とアベサダというキーワードで。 
 
 私の出身高校は名古屋市中村区というところにあり、同じ区内にかつて「中村遊郭」がありました。この遊郭は白石と同じような経緯で作られたのですが、異なるのは跡地がどぎついソープランド街になっていることです。
 卒業してン十年を経て気づいたのですが、私の母校は市内の公立高校で最もソープランド街に近いのではないだろうか。道理でガラが悪かったわけです。前身の旧制中学が開校したのは1940(昭和15)年、中村遊郭の開設は1923(大正12)年なので、遊郭のほうが歴史があります。菊水にある札幌東という高校も、遊郭跡と短い距離にありますが、跡地は風紀上ほとんど問題はないでしょう。
 なぜこれを思い出したかというと、その辺から通学していた同級生が多く、彼の地のことをやはり「大門」と言っていたからです。しかし発音は「ダイモン」ではなく、「オオモン」です。‘郡部’のイナカから通っていた私には、初めて聞くコトバでした。遊郭という概念自体を、具象化できなかった。

 中村遊郭は‘東洋一’と称されました。東京・吉原や大阪・飛田新地よりも盛大だった? なぜか。藤照先生の『建築探偵東奔西走』1988年で説明されています(p.176)。長くなるので省きますが、とにかく東洋一だったらしい。

 白石と異なるのはまだあります。一つは、今も名残の建物が存在していることです。
 まず、藤照先生の本で詳しく紹介されていた旧稲本楼。
旧稲本楼②
 1999年に撮りました。大きくて、私の簡便なカメラでは一枚に収めきれません。当時、高級料亭として再利用されていました。

 その近くにある旧松岡旅館。
旧松岡旅館
 同じ年の撮影で、当時は休眠中でしたが、その後ディサービス施設になりました。遊郭の建物の再利用としてはユニークです。こちらも、二枚連写しました。

 この二軒は現存している(はず)なので、電網上もよく採りあげられているようです。そこで私は、今は亡き建物の貴重な画像を紹介します。
大観荘
 中京温泉大観(たいかん)荘です。1999年当時、旅館が営まれていて、帰省した折に泊まりました。

 ファサードの唐破風、迫力があります。
大観荘 ファサード
 建物の平面はロ字型でした。道路に面する一辺の長さからも、大きさが想像できるかと思います。

 ロの字の真ん中には、庭がありました。 
大観荘 中庭
 4枚連写です。

 同じく、大観荘の中庭。
大観荘 中庭②
 四囲が回廊となっていました。 

 大観荘はその後、解体されました。1階の「中京温泉」の三和土に置かれていた卓球台で温泉卓球をしたのが、良い思い出となりました。80年間、ご苦労様でした。

2015/02/26

アベサダ2号

 1月30日ブログで「東消防署北栄出張所」のアベサダ物件を紹介したのですが、このほど、第2号物件を確認しました。
アベサダ2号
 「豊平消防署美園出張所」です。

 消防の望楼は、根っこの部分になるにつれて横断面の直径が太い。
美園出張所 アベサダ
 
 かつ、亀頭、もといてっぺんに膨らみがあったので、‘アベサダ感’がフツーの円柱よりも弥増します。ミロのヴィーナスが美しいのは両腕が欠けているからだとかつて清岡卓行が洞察しましたが、北栄1号と美園2号はそれに通じる喪失の美しさです。

 札幌市公文書館の所蔵写真で「消防」を検索したら、望楼が写っている消防署や出張所の写真が数枚ありました。いずれも北栄と似通った形状です。ただ、北栄の写真は見当たりませんでしたので、1月26日ブログに載せた画像は稀少かと思います。 
 市内各地の望楼はいずれも、解体されたようです。どうも、ある時期いっせいに撤去された感があります。耐震性の問題が主因かと推測しますが、補強をしてまで‘火の見’をする重要性が減ったのでしょうか。
 
 美園出張所は、一丁ほど離れたところで建物本体も新築の工事をしていました。
新美園出張所 完成予想図 
 工事現場に描かれていた完成予想図を見ると、望楼らしき突起が出ていますが、残念ながら(かつ勝手ながら)私の規定する望楼の概念(1月31日ブログ参照)には含められません。とまれ、前掲の建物は、どうやら今年中には用済みになるようです。解体されるか、それとも何か別に転用されるのかしら。もし解体されると、札幌に現存する巨大アベサダは、判明している限り北栄出張所の一件のみとなります。

2015/02/25

滅びにいたる門は大きく、その道は広い。

 白石遊郭の「大門」(西門)跡です。
大門通
 『白石歴しるべ』によると、門は「幅90センチ、高さ3メートル」で、「札幌遊郭」と刻まれていたそうです(p.57)。札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年では、「軟石の門」と記されています(p.113)。ここから国道36号に至る道が「大門通」と呼ばれていますが、正式な道路名ではないせいか、「大門」の名は見当たりません。『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年には、「通り名は昭和32年ころまで続いた」とあります(p.211)。赤線とともに廃されたのか。

 同書で挿絵にも描かれている「大門市場」も…。
大門市場跡
 マンションに変わっていて、すでにありません。もはや大門は街から完全に消えたのか…。しかし時空逍遥子としては、あきらめるわけにはいきません。

 すると、どうでしょう。
大門通②
 何気ない家並の片隅に、「大門」が残っていました!
  
 どこにあったかというと…。
大門南幹
 これです。赤い線を引いたところ、「大門南幹」と書かれています。NTTの回線のようです。画像では判りづらいのですが、文字の上にうっすらと電電公社時代のマークも描かれています。

 お隣の建物にもありました。
大門通③
 赤矢印を付けた先です。

 拡大すると…。
大門南幹
 やはり「大門南幹」と。

 この二文字が目に入ったとき、私は天啓を感じました。
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そしてそれを見いだす者が少ない」(『マタイによる福音書』第7章、日本聖書協会1954年訳)。
 「大門」は、狭き隙間に残っていました。

2015/02/24

最後の妓楼

 白石遊郭の建物はいつまで遺っていたか?
 私の手元の資料によると、1986(昭和61)年に最後の一棟がなくなったようです。
最後の遊郭
 北海道新聞1986年4月11日記事(縮刷版)で、「最後の旧遊郭『千代田楼』取り壊し」と報じられています。興味深い文面なので、以下一部を引用します。
 
(リード文から) 大正年間から約七十年の歴史を刻み、市内でも由緒ある建物のひとつだった。約三十年前に廃業してからは貸間として使われてきたが、ついに老朽化に耐え切れなかった。

(本文から) 唯一、生き延びてきた旧千代田楼は木造二階建て。外観や内部は昔の旅館を思わせた。部屋が十二あり、取り壊されるまでお年寄りなど六人が住んでいた。中央区在住の持ち主は「見ての通りの建物でいつかは壊そうと思っていました。当分は駐車場として使います」。
 この地区に古くから住んでいる人たちは「これで昔を知るものがほとんどなくなってしまった」と感慨深げ。しかし建ち並び始めた高層マンションなどの新しい住民は「菊水の印象を悪くする遊郭の話はもう結構」とそっけなく、反応はさまざま。


 これも時代ですなあ。建物解体から、すでに30年近く過ぎました。
 1965(昭和40)年の「札幌市全戸別明細図」で確かめると…。
札幌市全戸別明細図 菊水周辺
 この場所には「千代田アパート」と書かれています(黄色の下線)。
 札幌市公文書館の所蔵写真で「遊郭」を検索したら、元千代田楼とおぼしき建物を写した写真が2枚ありました。撮影年は1969(昭和45)年と1983(昭和58)年です。前者は、二階の戸袋に「千代田」と書かれているのが読み取れます。後者も、周囲の建物からして千代田楼の位置です。
 
 新聞記事に載っていた写真と同じアングルで、現在の風景を撮りました。
千代田楼跡 現在
 持ち主は跡地を「当分は駐車場として使います」とのことでしたが、今も駐車場ですね。
 記事に書かれていた「建ち並び始めた高層マンション」というのは、右方の白い建物を指しているのでしょうか。このマンションに‘赤線’最後の町名「菊水西町」が遺っているのも、皮肉な話です。
 

2015/02/23

遊郭の周辺

 白石遊郭は、その名残の建物はすべて姿を消し、記憶を留めるのは地割と菊水公園の片隅にある神社、ということになっています。そのとおりなのですが、あえていえば、かつての遊郭のエリアの外、周縁部に痕跡を遺しているのかもしれません。文化は辺境に宿るという普遍的真理の一端でしょうか。売春を文化と言っては語弊がありますが、負の遺産も含めてとりあえず文化とします。

 下図は、「札幌全市案内」1958(昭和33)年からの抜粋です(方位は、約1時半の方向が北)。
白石遊郭跡
 赤い線で囲ったところがかつての遊郭の一帯です。ちなみに、この地図が描かれたのは1957年で、売防法で‘赤線’が完全に廃止される前です。黄色の下線を引いたところに「千代田」「源氏」「正月」とあります。妓楼の名前ですね(『白石歴しるべ』1999年、p.57から推測)。そのほかに「道庁官舎」とか「郵政○○寮」「札幌共同宿」「予備校寮」などと書かれています。かつての建物が転用されていたことを窺わせます。

 こちらは、遊郭跡の外縁からの眺めです。
シャンボール菊水西町
 二戸一木造家屋の後背に高層マンションが建っています。赤い○を付けた建物です。これが、かつての源氏楼の跡のようですが、こういう大型の建物が建つことも、ある意味土地の記憶といえるかもしれない。
 
 赤い○を付けたところにマンションの名前が書かれていて、拡大すると…。
シャンボール菊水西町
 「菊水西町」と、旧地名が大きく称されています。この地名が存在したのは1954(昭和29)年から1973(昭和48)年です(『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年、p.68)。赤線と二三年共存していた地名。いや、決してこのマンションを貶めているのではありません。私がこの地名残存を確認できたのは、このマンションと歩道橋とあかしや荘だけです(2月20日ブログ参照)。歩道橋は早晩なくなり、あかしや荘も心もとないので、このマンション名はぜひ残ってほしい。
 
 さて、辺境に宿る文化と思わしめたのが、前掲古地図の橙色の○で囲った「ひょうたん横丁」です。これはまた次回に。

2015/02/22

なぜ「栄南中学校」は「北栄中学校」の北にあるのか?

 1月30日のブログで記したとおり、東消防団「栄分団」は北45条にありますが、東消防署の「北栄出張所」は北33条にあります。「北栄」のほうが、「栄」よりも緯度的に南にある。
 東区における「栄」「北栄」の逆転現象は、ほかの名称にも見られます。
 
 下図で説明します。
栄町
 札幌市東区役所発行「東区ガイド」の地図からの抜粋です。方位は、約1時の方向が北です。
 「北栄中学校」が北33条にあり(赤い○)、「栄中学校」が北46条にあります(紫色の○)。やはり「北栄」が「栄」の南です。東へ目を向けると、「栄南中学校」が北36条にあります(橙色の○)。「栄南」のほうが「北栄」より、北に位置している。
 
 これを「逆転現象」と呼ぶのは、私だけかもしれません。地元の人が何も困っていないことを、外部からとやかく言うつもりはありません。ただ、面白がっているだけです。たぶん、北栄は「北の栄」であって、「栄の北」ではないという解釈なのでしょう。これがもし仮に、「札幌南高校」よりも南に「北札幌高校」という名の学校があったとしたら、変だと思うのですが。

 あらかた察しがつくことではありますが、逆転現象の原因は「はじめに北栄ありき」です。
 昨日お伝えしたように、1955(昭和30)年に旧札幌村が札幌市と合併した際、現在の北30条以北は「札幌市栄町」となりました。1956(昭和31)年、この地区に「北栄中学校」が開校します。想像するに、これは「札幌の北方にある(あるいは北海道の?)栄町」の中学校、という意味合いだったのではないでしょうか。当時、栄町にほかに中学校はまだなかったのでしょう。1959(昭和34)年、この中学校のすぐ南側に「市営住宅北栄団地」が建てられます。
 1967(昭和42)年、北栄中学校から分かれて「栄中学校」ができます。このとき北栄はすでに条丁目になっていたのですが、栄中学校の学区はまだ「栄町」だったので、名称としては「栄」とするしかなかったのでしょう。まさか「北栄の北」だから「北・北栄中」とか「北栄北中」にするわけにもいかない。もし、最初に作った北栄中を「栄中」としていれば、現在の栄中を「栄北中」にすることができたと思います。「栄南中」ができるのはさらにその後で、これは栄中の南、ということでそうなったのでしょう。
 栄中の所在地からすると、私は「烈々布中」こそ最も相応しい校名だと思うのですが、時代はそれを許さなかった(2月3日ブログ参照)。元々あった「烈々布小学校」を「栄小学校」に変えてしまったくらいですから。

2015/02/21

東区「北29条」考(終)

 2月8日の東区「北29条」考の続きです。
 札幌市役所の戸籍住民課(町名表示を担当する部所)で、前回の考察をほぼ裏付ける情報を得てきました。下図により説明します。
北29条 周辺地図
 前回と同じく赤い線が旧市町村界で、①=旧札幌市、②=旧札幌村、③=旧琴似町です。これが1955(昭和30)年に合併し、全域札幌市となりました。その際、②③には次のような町名が付きます。
 ②(旧札幌村)→札幌市栄町
 ③(旧琴似町)→札幌市琴似町新琴似新川

 次に1959(昭和34)年、③の「札幌市琴似町新琴似新川」の一部が「条丁目」に変わります。前掲地図で、橙色の下線を引いた北27条西、北28条西、北29条西、北30条西、北31条西、北32条西、北33条西です。各条の現在の境目を青い線で区切りました。1959年当時の境目が現在と完全に同じかどうかは確かめていないのですが、大きくは変わっていないと思います。
 さて、この時点で②(旧札幌村)側は、まだ「札幌市栄町」です。②側に「条丁目」が設けられるのは、さらに3年後の1962(昭和37)年です。その際、①と接する最南端は北30条東とされ、北へ北31条東、北32条東…と、北41条東まで割り振られました(前掲地図、紫色下線)。

 ここでハッキリしたのは、②と③で「条丁目」にタイムラグがあったことです。タイムラグは、②と③の街区形成の進み具合に差があったことを物語っています(と私は思う)。③のほうが市街化が早かったのは、市電延伸の影響でしょう。
 ②と③の「碁盤目のズレ」(2月8日ブログ参照)=空間的ズレは、このタイムラグ=時間的ズレと関連しているのではないでしょうか。明治の開拓初期はいざ知らず、土地の地割が進んだ昭和戦後期に、しかも元々異なる町村で全き完璧な碁盤目の線を引くことはむしろ難しかったと思います。タイムラグは、それぞれに市街化が進められたことの傍証ともいえましょう。

 さらにいえば、②と接する①(旧札幌市)の最北端は、1955年合併に先立つ1950(昭和25)年、一足先に札幌村から札幌市に編入され、北28条東となっています(2月3日ブログ参照)。この北28条東がそもそも、のちに(1959年)③側にできた北28条西とタイムラグがあったのですが、同時に「碁盤目のズレ」もすでに微妙に生じていました(前掲地図のえび茶色下線「北28条東」と橙色下線「北28条西」の位置のズレ)。やはり時間的・空間的ズレを孕んでいたのです。

 以上により、東区における北29条欠落は、旧札幌市・旧琴似町・旧札幌村間の条丁目「時間的・空間的ズレ」起因説を確信したしだいです。

 もう一つ。
 私の中でスッキリしたのが、「栄町」です。現在の東区北30条の以北が、昭和30年代の7年間、栄町だった。長くなりましたので、これについてはまた次回。
 

2015/02/20

菊水西町、ありき。

 昨日お伝えした二軒の木造家屋があったところは、現在の町名でいうと白石区菊水の条丁目です。
 元の町名は「菊水西町」でした。それを知ったきっかけは、たまたま見かけた看板です。
 その看板というのが、こちら。
菊水5条1丁目 あかしあ荘
 黄色の矢印の先と橙色の矢印の先を見ると…。

 黄色の矢印のほうを拡大すると…。
あかしあ荘 看板
 黄色の○で囲ったところ、「菊水西町?丁目」と読めます。

 橙色の矢印の先は…。
あかしあ荘 物置 看板
 赤い○で囲ったところに、「菊水西町5」と。あとは判読不能です。

 札幌市の公式ホームページで「廃止町名一覧」を見ると、「菊水西町5丁目」が廃止されたのは1973(昭和48)年です。ということは、前掲二つの看板はそれ以前すなわち40年以上前のもの、ということになります。

 「菊水西町」という地名は、もう見当たらないのか、と思いきや…。
菊水西町歩道橋
 地下鉄「菊水」駅地上の道道札夕線に架かる歩道橋、矢印の先です。

 橋桁に大きく「菊水西町」と書かれています。
菊水西町歩道橋 拡大
 歩道橋というのはこんにちでは、巨大なトマソンと化しつつあります。古い地名が遺るのとトマソンは、親和性が高いのでしょう。歩(人)道橋、見逃せませんなあ。ためしにヤフーで「菊水西町」と検索してみたら、イの一番に「菊水西町横断歩道橋」が出ました。やはり札幌市のホームページです。2014年11月27日に「菊水西町横断歩道橋の取り扱いに関する協議会(第2回)」という会合が開かれ、その結果この歩道橋は「撤去」されるという結論になった由。なんとまあ…。
 「菊水西町」はこの地区にあるマンションの名称として残っているようですが、それ以外で前掲の「あかしや荘」は稀少な名残と閲しました。

2015/02/19

豊平川ほとりの古民家

 白石区菊水5条1丁目、豊平川の水穂大橋のたもとにあった木造家屋です。
水穂大橋たもとの木造家屋
 2000(平成12)年に撮りました。現在この建物はなく、更地になっています。菊水地区の建物としてはかなり古い部類だったと思います。

 この住宅から上流へ約700~800mのところにあった建物が、こちらです。
旧有島武郎宅
 旧有島武郎宅。現在は「北海道開拓の村」で保存されています。『北海道開拓の村ガイド』1987年によると、この建物の建築は1904(明治37)年です。前掲の住宅と比べると、玄関の位置は異なりますが、下見板貼りの一部2階建て、上げ下げ窓という点で似通っています。
 
 前川公美夫『有島武郎の札幌の家』1987年によると、有島がここに住んだのは1910(明治43)年から翌1911年の一年あまりで、その間に木田金次郎との有名な出会いがあります。

 余談ながら、本州で生まれ育った私にとって、初めて心象風景に描かれた札幌の町というのが『生まれ出づる悩み』です。中学の国語の教科書に一節が載っていました。私の中では、岩内やニセコの自然と重なり合って像を結んだようです。
 担任の国語の先生から、全編を読んで主題を考えよとの宿題が出されました。私の記憶では「漁師であり画家でもある青年の、生活と芸術をめぐる葛藤」というような陳腐な答えを出したのですが、先生には案の定「読みが浅い。もっと、考えろ」と言われました。しかし今読んでも、正直言ってよくわかりません。
 今共感できるのは、冒頭の節の以下のくだりです。
「午後になったと思う間もなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日が逸早く蝕まれるこの気味悪い淋しさは想像がつくまい」。
 これは内地に生まれ育った人間ならではの五感でしょう。自分も北海道に移り住んで、実感しました。さすが、うまく表現するものです。
 あとは…ブルジョアインテリの独りよがりでねえべか、全体として。



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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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