札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
消防団 おちこち
この数日で消防望楼に関する認識が深まりました。ここで「望楼」というのは「壁体を持つ円筒形」に限ることとします。昨日のブログで紹介した「東消防団栄分団」の鉄骨の塔は工作物(屋根も壁体もない)です。「楼」の本来の語義は「(二層以上の)建物」だと思うので、鉄塔のほうは便宜的に「火の見櫓」としておきます(漢和辞典によると「櫓」の語義は「太い棒」)。
さらに「円筒形」に限ったのはなぜかというと、札幌における消防望楼の代表たる創成川沿いの1927年築がそうだったからです。勝手ながらこれをもって正統派と認めます。
上記分類にもとづき、東消防署北栄出張所にあった望楼は、札幌で最後のものといえるかもしれません。私の記憶に遺るもう一棟の、東苗穂出張所の望楼もすでになく(建物ごとなくなって、更地になっている)、今となっては確かめるのは容易ではありません。ともあれ、最後のそれが阿部定状態で残っているのは嬉しいことです。
札幌市のホームページを見て初めて知ったのですが、市内には消防団の分団が72あるのですね。そしてその多くが「詰所」や「器具庫」を持っているようです。
こちらは、「東消防団元町分団」の詰所です。

昨日の「栄分団」と同じタイプの火の見櫓があります。
ここも足元が雪で覆われていて、使われている気配はないようです。

建物の破風に消防団の徽章が貼られています。

桜の花弁をかたどっている。
次なるは、小樽の「都会館」です。2000年6月に撮りました。

「小樽市消防団第二分団第四班ポンプ器具置場」と書かれています。櫓の梯子から垂れ下がっているのは消火用のホースか。てっぺんには半鐘が吊り下がっています。屋根はマンサードですね。ドーマー窓のところに貼られている徽章がやはり桜の花弁様ですが、こちらのほうが古いタイプでしょうか。
さすが、小樽だなあ。
ところ変わって、盛岡市の「紺屋町番屋」。2013年撮影です。

「盛岡市消防団第五分団」とあります。これは望楼ですね。円筒形ではなく六角形塔ですが、札幌ではないので、望楼と認めざるをえません。
左方に、鉄骨製の櫓(栄分団タイプ)も立てられている。建物本体の望楼よりも低い。
こちらは、青森県黒石市の消防団。2004年5月に撮りました。

「第一分團一部屯所」と。いいなあ、屯所。こちらは四角形塔ですが、これもご当地ならではの、紛う方なき望楼です。半鐘も付いている。破風に○水とあるのは、火難除けの印かしら。
同じく、黒石市消防団の第三分団屯所です。

コテコテの擬洋風望楼。「県重宝」とやらに指定されている。
この望楼の手前にも、鉄骨の櫓が立っていました。

わざわざ鉄骨の櫓まで構図に入れて撮るとは、10年前に今日のブログを想定していたかのようです。
ネットで検索していたら、「火の見櫓図鑑」というサイトが開設されていました。いるのですねえ、世の中には好事家が(北海道はリサーチされていないようなので、発掘甲斐があります)。そのサイトによると、黒石市消防団第三分団屯所の前にある鉄骨の櫓は、「火の見」というよりは消火用ホースを干すためらしい。してみると、盛岡の紺屋町番屋の鉄塔も、ホース干し用かしら。小樽の都会館は、確かにホースが掛けてあった。
元町分団の櫓も、てっぺんをよく見ると。

円形の柵に、フック状のモノが架かっている(黄色の○で囲ったところ)。このフックは何でしょうね。
さらに「円筒形」に限ったのはなぜかというと、札幌における消防望楼の代表たる創成川沿いの1927年築がそうだったからです。勝手ながらこれをもって正統派と認めます。
上記分類にもとづき、東消防署北栄出張所にあった望楼は、札幌で最後のものといえるかもしれません。私の記憶に遺るもう一棟の、東苗穂出張所の望楼もすでになく(建物ごとなくなって、更地になっている)、今となっては確かめるのは容易ではありません。ともあれ、最後のそれが阿部定状態で残っているのは嬉しいことです。
札幌市のホームページを見て初めて知ったのですが、市内には消防団の分団が72あるのですね。そしてその多くが「詰所」や「器具庫」を持っているようです。
こちらは、「東消防団元町分団」の詰所です。

昨日の「栄分団」と同じタイプの火の見櫓があります。
ここも足元が雪で覆われていて、使われている気配はないようです。

建物の破風に消防団の徽章が貼られています。

桜の花弁をかたどっている。
次なるは、小樽の「都会館」です。2000年6月に撮りました。

「小樽市消防団第二分団第四班ポンプ器具置場」と書かれています。櫓の梯子から垂れ下がっているのは消火用のホースか。てっぺんには半鐘が吊り下がっています。屋根はマンサードですね。ドーマー窓のところに貼られている徽章がやはり桜の花弁様ですが、こちらのほうが古いタイプでしょうか。
さすが、小樽だなあ。
ところ変わって、盛岡市の「紺屋町番屋」。2013年撮影です。

「盛岡市消防団第五分団」とあります。これは望楼ですね。円筒形ではなく六角形塔ですが、札幌ではないので、望楼と認めざるをえません。
左方に、鉄骨製の櫓(栄分団タイプ)も立てられている。建物本体の望楼よりも低い。
こちらは、青森県黒石市の消防団。2004年5月に撮りました。

「第一分團一部屯所」と。いいなあ、屯所。こちらは四角形塔ですが、これもご当地ならではの、紛う方なき望楼です。半鐘も付いている。破風に○水とあるのは、火難除けの印かしら。
同じく、黒石市消防団の第三分団屯所です。

コテコテの擬洋風望楼。「県重宝」とやらに指定されている。
この望楼の手前にも、鉄骨の櫓が立っていました。

わざわざ鉄骨の櫓まで構図に入れて撮るとは、10年前に今日のブログを想定していたかのようです。
ネットで検索していたら、「火の見櫓図鑑」というサイトが開設されていました。いるのですねえ、世の中には好事家が(北海道はリサーチされていないようなので、発掘甲斐があります)。そのサイトによると、黒石市消防団第三分団屯所の前にある鉄骨の櫓は、「火の見」というよりは消火用ホースを干すためらしい。してみると、盛岡の紺屋町番屋の鉄塔も、ホース干し用かしら。小樽の都会館は、確かにホースが掛けてあった。
元町分団の櫓も、てっぺんをよく見ると。

円形の柵に、フック状のモノが架かっている(黄色の○で囲ったところ)。このフックは何でしょうね。
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札幌一の阿部定物件?、または警鐘信号表
東消防署北栄出張所にあった望楼(北33条東1丁目、1月26日ブログで紹介)について、札幌建築鑑賞会スタッフのNさんから、ストリートビューに写っている現況を教えていただきました。
さっそく、現地に行って確かめてきました。
まず、在りし日の姿(2001年撮影)を再掲しておきます(全景は1月26日ブログを参照)。

そして、今の姿はというと…。

おぉ、これは…。
赤瀬川原平師の‘超芸術トマソン’のカテゴリーでいえば、‘阿部定(アベサダ)’ですな。札幌一の巨根、もとい巨大な物件といえるかもしれない。
近くで見ると、表現主義的な造形を醸していて、いいですね。最初からこのカタチで作ろうとしてもできませんよ、これは。

Nさん、素敵な物件をありがとうございます。
ついでに、北45条まで足を延ばしました。札幌市公文書館の収蔵写真で、唯一(?)本体が写っていた(創成川沿いを除く)消防望楼です。

ここは東区北45条東2丁目、「東消防団栄分団」といいます。余談ながら、北45条にあるのが「栄」で、それより南の北33条のほうを「北栄」というのは、これ如何?
公文書館の写真には全景が写っていなかったので、やはり実物は見ごたえがあります。

スカスカの梯子で、高所恐怖症の私には昇るのは無理です。てっぺんにある手摺り(らしき柵)も、申し訳程度だし。私にはどうも、消防団員は務まりそうもない…。
それよりも、気になったのは黄色の矢印の先です。黒っぽい板が架かっています。
これが何かというと…。

「消防警鐘信号告知表」と。地の部分が完全に錆びついていますが、文字は読み取れます。
●-●-●-● 近火信号 連打
●-●-● ●-●-● 区内信号 三点(以下、雪に埋もれて読めない)
● ● ● ● 区外信号
●-● ●-● 応援信号
● ●-● ● ●-● 鎮火信号
…
昔はてっぺんに半鐘が取り付けられていたのでしょうね。本来の語義としての「警鐘を鳴らす」が死語と化したことを、この看板の錆びが物語っているようです。こういうモノを拝めただけでも、現地に来て良かったと思うのであります。
さっそく、現地に行って確かめてきました。
まず、在りし日の姿(2001年撮影)を再掲しておきます(全景は1月26日ブログを参照)。

そして、今の姿はというと…。

おぉ、これは…。
赤瀬川原平師の‘超芸術トマソン’のカテゴリーでいえば、‘阿部定(アベサダ)’ですな。札幌一の巨根、もとい巨大な物件といえるかもしれない。
近くで見ると、表現主義的な造形を醸していて、いいですね。最初からこのカタチで作ろうとしてもできませんよ、これは。

Nさん、素敵な物件をありがとうございます。
ついでに、北45条まで足を延ばしました。札幌市公文書館の収蔵写真で、唯一(?)本体が写っていた(創成川沿いを除く)消防望楼です。

ここは東区北45条東2丁目、「東消防団栄分団」といいます。余談ながら、北45条にあるのが「栄」で、それより南の北33条のほうを「北栄」というのは、これ如何?
公文書館の写真には全景が写っていなかったので、やはり実物は見ごたえがあります。

スカスカの梯子で、高所恐怖症の私には昇るのは無理です。てっぺんにある手摺り(らしき柵)も、申し訳程度だし。私にはどうも、消防団員は務まりそうもない…。
それよりも、気になったのは黄色の矢印の先です。黒っぽい板が架かっています。
これが何かというと…。

「消防警鐘信号告知表」と。地の部分が完全に錆びついていますが、文字は読み取れます。
●-●-●-● 近火信号 連打
●-●-● ●-●-● 区内信号 三点(以下、雪に埋もれて読めない)
● ● ● ● 区外信号
●-● ●-● 応援信号
● ●-● ● ●-● 鎮火信号
…
昔はてっぺんに半鐘が取り付けられていたのでしょうね。本来の語義としての「警鐘を鳴らす」が死語と化したことを、この看板の錆びが物語っているようです。こういうモノを拝めただけでも、現地に来て良かったと思うのであります。
大学入試 今昔
こんどは、ン十年前の大学入試の問題を解いてみました。かつて私が受験した某国立大学の「地理A」です。私は地理を選択しなかったので、初めて解く問題です。大設問が三つあるうちの3番目(人口・都市・集落)をやってみました。


問1は語句・数字を入れるもので11題、問2は語句や名称を答えさせるもの18題です。
計29題中、正答できたのはたったの4題! 正答率13.8%。
この大学の入試問題は当時、標準的な良問が多い(つまり教科書をきちんと習得しておけば解ける)とされていたと思います。しかし今思うに、問われているのはほとんど語彙的な記憶力です。しかも、選択式ではないので、ピンポイントの知識が求められています。思考力を問うという点では、センター試験のほうが良く練られているという印象を受けました。しかも国立大学の二次試験では、昔よりも論理的記述力が求められているようでもあります。
結論。受験する立場からすると今も昔も大変だと思うが、「試験問題を作る」という側からすると今のほうが大変だと思う。


問1は語句・数字を入れるもので11題、問2は語句や名称を答えさせるもの18題です。
計29題中、正答できたのはたったの4題! 正答率13.8%。
この大学の入試問題は当時、標準的な良問が多い(つまり教科書をきちんと習得しておけば解ける)とされていたと思います。しかし今思うに、問われているのはほとんど語彙的な記憶力です。しかも、選択式ではないので、ピンポイントの知識が求められています。思考力を問うという点では、センター試験のほうが良く練られているという印象を受けました。しかも国立大学の二次試験では、昔よりも論理的記述力が求められているようでもあります。
結論。受験する立場からすると今も昔も大変だと思うが、「試験問題を作る」という側からすると今のほうが大変だと思う。
鏝絵の家
鏝絵(こてえ)といえば、‘伊豆の長八’が知られます。というか、私は伊豆の長八しか知らなかったのですが、全日空の機内誌の今月号に、「鳥取県東伯郡琴浦町光(みつ)」という町にも数多く残っていることが紹介されていました。
この種の職人技は、往々に芸術家肌の特定個人に由来することが多いようです。西岡や福住のリンゴ倉庫を手掛けた煉瓦職人の長浦さんしかり(1月18日ブログ参照)、また島松の軟石住宅も地元の石工さんならでは、です。
琴浦町も一にかかって、光のという集落の左官職人・吉田貞一の存在が大きいらしい。この人とその子と弟子の三人で、昭和30年代から50年代にかけて多くの‘作品’が遺されたといいます。
伊豆も鳥取も私は行ったことがなく、実際に見たことがあるのは伊豆系といわれる豊平館のメダイオン(中心飾り)のレリーフくらいです。ぜひ実物を拝みたいものです。
さて、次の写真は厚別区にある民家です。

同区にお住まいの札幌建築鑑賞会会員・Sさんが、2000年の撮影したものです。2階の妻破風に鏝絵らしいものが描かれています。
こちらも同じくSさん撮影の写真で、同じお宅の別棟です。

Sさんがお住まいの方に聞き取ってくださったお話では、前者は1948(昭和24)年に曳家して建て、後者は1951(昭和26)年に建てたものだそうです。そのときに江別市大麻の職人さんが「鏝一つで」仕上げた、とのこと。図柄は中国の故事に基づいているといいます。何でしょうね。
札幌にも、(豊平館のメダイオン以外に)鏝絵があった…。Sさんが教えてくださってから、もう15年過ぎています。今も残っているかどうか。
余談ながら、前者のほうは入母屋風の屋根ですね。11月29日ブログでお伝えした入母屋のお宅も厚別区です。札幌でも、近郊の元農家系住宅には和風在来の色が濃いようです。入植者の出身地のDNAでしょうか。
この種の職人技は、往々に芸術家肌の特定個人に由来することが多いようです。西岡や福住のリンゴ倉庫を手掛けた煉瓦職人の長浦さんしかり(1月18日ブログ参照)、また島松の軟石住宅も地元の石工さんならでは、です。
琴浦町も一にかかって、光のという集落の左官職人・吉田貞一の存在が大きいらしい。この人とその子と弟子の三人で、昭和30年代から50年代にかけて多くの‘作品’が遺されたといいます。
伊豆も鳥取も私は行ったことがなく、実際に見たことがあるのは伊豆系といわれる豊平館のメダイオン(中心飾り)のレリーフくらいです。ぜひ実物を拝みたいものです。
さて、次の写真は厚別区にある民家です。

同区にお住まいの札幌建築鑑賞会会員・Sさんが、2000年の撮影したものです。2階の妻破風に鏝絵らしいものが描かれています。
こちらも同じくSさん撮影の写真で、同じお宅の別棟です。

Sさんがお住まいの方に聞き取ってくださったお話では、前者は1948(昭和24)年に曳家して建て、後者は1951(昭和26)年に建てたものだそうです。そのときに江別市大麻の職人さんが「鏝一つで」仕上げた、とのこと。図柄は中国の故事に基づいているといいます。何でしょうね。
札幌にも、(豊平館のメダイオン以外に)鏝絵があった…。Sさんが教えてくださってから、もう15年過ぎています。今も残っているかどうか。
余談ながら、前者のほうは入母屋風の屋根ですね。11月29日ブログでお伝えした入母屋のお宅も厚別区です。札幌でも、近郊の元農家系住宅には和風在来の色が濃いようです。入植者の出身地のDNAでしょうか。
エルム山荘、または藻岩温泉ありき。
1月24日ブログで藻岩山麓にあった池のことを記しました。
その中で、山長先生の著書を引用して、「藻岩温泉」のことにふれました。山長先生によれば、「山鼻温泉」とか「松浦温泉」とも称され、その跡地の一角にエルム山荘や中国領事館が建ったとのことです。先生の記述では、これとは別に「藻岩鉱泉」もあり、その所在地を「南13条西23丁目」としています。しかし、エルム山荘や中国領事館も同じ条丁目にありますので、「藻岩温泉」と「藻岩鉱泉」は一連の敷地にあったのではないかと私は推測します。
1月24日ブログに載せた1936(昭和11)年の地図では、「藻岩温泉」が南13条西23丁目よりはもう少し西側(山側)の、現町名でいうと旭ヶ丘4丁目あたりに記されています(南13条西13丁目に西接して旭ヶ丘4丁目である)。1925(大正14)年の「最新札幌市全図」には、ほぼ同じ位置に「山鼻鑛泉」と書かれています。
察するに、藻岩温泉は現在の中国領事館やエルム山荘から山側(西側)にかけての広大な敷地だったのでしょう。庭園だけで4,000坪あったと山長先生著にありますので、それを現在の地図に当てはめると、大体こんな感じになります。

緑色の線で囲ったところです。中国領事館とエルム山荘の敷地がすっぽり入って、余りあります。橙色の●が「マツウラの池」のあったところです。
さきほどから「エルム山荘」と記してきましたが、現在は「札幌エルムガーデン」と言っているようです。かつての「エルム山荘」当時、私は一回だけ中に入ったことがあります(職場のカンプー会で)。今はどうか知りませんが、無産階級には縁遠い空気が漂っていました。敷居を跨ぐことは、もうないでしょう。
そのとき撮った庭の写真がこちらです(1999年10月撮影)。

これを今見ると、池泉回遊庭園のようです。自然の流水だったかどうか判りませんが、1月24日に記した‘藻岩山崖線の湧水’を彷彿させます。
当時のマッチ箱のオモテ・ウラです。


これは、中国総領事館です(2014年撮影)。

中華人民共和国のエンブレム(五星紅旗や天安門をかたどっている)が貼ってある建物の正面を撮りたかったのですが、お巡りさんが常時立っていて、憚られる雰囲気です。やめました。で、憚られないところから撮りました。写っている建物は、館員の宿舎と思われます。窓がとても小さい。下階の窓は目の細かいフェンスで蔽われています。
背後に藻岩山崖線の残置林が見えます。山側から探検してみたい衝動に駆られましたが、見つかって国際問題に発展したら一大事ですので、そういうこともやめましょう。同館のホームページを見たら、なんのことはありません。建物のみならず館内のお庭なども掲載されていました。こちらもエルム山荘にひけをとらないようです。全世界無産階級団結起来!!
その中で、山長先生の著書を引用して、「藻岩温泉」のことにふれました。山長先生によれば、「山鼻温泉」とか「松浦温泉」とも称され、その跡地の一角にエルム山荘や中国領事館が建ったとのことです。先生の記述では、これとは別に「藻岩鉱泉」もあり、その所在地を「南13条西23丁目」としています。しかし、エルム山荘や中国領事館も同じ条丁目にありますので、「藻岩温泉」と「藻岩鉱泉」は一連の敷地にあったのではないかと私は推測します。
1月24日ブログに載せた1936(昭和11)年の地図では、「藻岩温泉」が南13条西23丁目よりはもう少し西側(山側)の、現町名でいうと旭ヶ丘4丁目あたりに記されています(南13条西13丁目に西接して旭ヶ丘4丁目である)。1925(大正14)年の「最新札幌市全図」には、ほぼ同じ位置に「山鼻鑛泉」と書かれています。
察するに、藻岩温泉は現在の中国領事館やエルム山荘から山側(西側)にかけての広大な敷地だったのでしょう。庭園だけで4,000坪あったと山長先生著にありますので、それを現在の地図に当てはめると、大体こんな感じになります。

緑色の線で囲ったところです。中国領事館とエルム山荘の敷地がすっぽり入って、余りあります。橙色の●が「マツウラの池」のあったところです。
さきほどから「エルム山荘」と記してきましたが、現在は「札幌エルムガーデン」と言っているようです。かつての「エルム山荘」当時、私は一回だけ中に入ったことがあります(職場のカンプー会で)。今はどうか知りませんが、無産階級には縁遠い空気が漂っていました。敷居を跨ぐことは、もうないでしょう。
そのとき撮った庭の写真がこちらです(1999年10月撮影)。

これを今見ると、池泉回遊庭園のようです。自然の流水だったかどうか判りませんが、1月24日に記した‘藻岩山崖線の湧水’を彷彿させます。
当時のマッチ箱のオモテ・ウラです。


これは、中国総領事館です(2014年撮影)。

中華人民共和国のエンブレム(五星紅旗や天安門をかたどっている)が貼ってある建物の正面を撮りたかったのですが、お巡りさんが常時立っていて、憚られる雰囲気です。やめました。で、憚られないところから撮りました。写っている建物は、館員の宿舎と思われます。窓がとても小さい。下階の窓は目の細かいフェンスで蔽われています。
背後に藻岩山崖線の残置林が見えます。山側から探検してみたい衝動に駆られましたが、見つかって国際問題に発展したら一大事ですので、そういうこともやめましょう。同館のホームページを見たら、なんのことはありません。建物のみならず館内のお庭なども掲載されていました。こちらもエルム山荘にひけをとらないようです。全世界無産階級団結起来!!
札幌の望楼
札幌の望楼…というと、創成川沿いにあったそれ、すなわち大通西1丁目の1927(昭和2)年築 が有名です。
三岸好太郎の絵に描かれたり(1932年)、黒澤の『白痴』(1951年)にも映ったり、最近では立体模型作家・佐々木泰之さんの作品になったり(1月14日ブログ参照、札幌建築鑑賞会通信「きー すとーん」№69表紙)と、人々を惹きつけるランドマークでした。
昨年11月15日に三岸美術館で開催された「土曜セミナー」で、講師の塚田敏信先生が消防の望楼のことを話題にされました。
「札幌で、望楼はほかにもまだまだありましたよね。ご存知の方はいらっしゃいますか?」という先生の問いかけに、私は思わず手を挙げてしまいました。聴衆は30名くらいいたと思うのですが、手を挙げたのが私だけだったのか、私の挙げ方が目立ったせいなのか、先生と目が合いました。
先生「どこで、ご覧になりましたか?」
私「北34条の…、新道沿いにありました」
先生「ああ、そうですね。あそこはわりと最近までありましたよね~」
この会話をとおして私は、新道沿いにあった望楼の存在が、なにかとても稀少なモノだったように感じました。のみならず、それを知っていた私も、稀少な存在であるかのように錯覚しました。得手勝手な錯覚ですが、まあ誰かに迷惑をかけることでもないので、許してもらいましょう。
聴衆の中には札幌建築鑑賞会のコアな顔ぶれもいましたので、ほかにもご存じの方はいたでしょう。こういうときに小学生のように挙手をする私は(いまどきの小学生は、はしゃいで手を挙げたりしないか?)、ある意味で希少ではあります。
これが、その望楼です。

写真を撮ったのは2001年1月。ゼンリン住宅地図2002年 で確かめると、所在地は東区北33条東1丁目、東消防署北栄出張所です。奇しくも、というべきか、これも創成川の近くです。
接近して撮ると、迫力がありました。


一枚で収まりきれません。底辺部は、かなり太い。
実は前述のやりとりの後、塚田先生から「ほかにも、見たことのある方、いませんか?」とお尋ねがありました。そこでまた私は、よせばいいのに「たしか、苗穂のほうにも最近まで残っていました」と付け足しました。
地図に照らすと、本町1条5丁目、東苗穂出張所です。しかし、こちらのほうは残念ながら写真が見当たりません。
札幌市公文書館の収蔵写真を「望楼」で検索してみると、本体が写っているのは、いきなり創成川沿いの1927年築 まで遡ってしまいます。あとはたいてい、「○○出張所望楼から、△△を望む」というような眺望写真ばかりです。唯一、「東消防団栄分団望楼」(東区北45条東2丁目、これも創成川に近い)2009年 というのが一枚ありましたが、全景は写っていません。どうやら鉄骨製の塔らしい。消防署にはまだ確かめていませんが、意外と無いものです。
どなたか、写真に撮っている方、いらっしゃいませんか?
三岸好太郎の絵に描かれたり(1932年)、黒澤の『白痴』(1951年)にも映ったり、最近では立体模型作家・佐々木泰之さんの作品になったり(1月14日ブログ参照、札幌建築鑑賞会通信「きー すとーん」№69表紙)と、人々を惹きつけるランドマークでした。
昨年11月15日に三岸美術館で開催された「土曜セミナー」で、講師の塚田敏信先生が消防の望楼のことを話題にされました。
「札幌で、望楼はほかにもまだまだありましたよね。ご存知の方はいらっしゃいますか?」という先生の問いかけに、私は思わず手を挙げてしまいました。聴衆は30名くらいいたと思うのですが、手を挙げたのが私だけだったのか、私の挙げ方が目立ったせいなのか、先生と目が合いました。
先生「どこで、ご覧になりましたか?」
私「北34条の…、新道沿いにありました」
先生「ああ、そうですね。あそこはわりと最近までありましたよね~」
この会話をとおして私は、新道沿いにあった望楼の存在が、なにかとても稀少なモノだったように感じました。のみならず、それを知っていた私も、稀少な存在であるかのように錯覚しました。得手勝手な錯覚ですが、まあ誰かに迷惑をかけることでもないので、許してもらいましょう。
聴衆の中には札幌建築鑑賞会のコアな顔ぶれもいましたので、ほかにもご存じの方はいたでしょう。こういうときに小学生のように挙手をする私は(いまどきの小学生は、はしゃいで手を挙げたりしないか?)、ある意味で希少ではあります。
これが、その望楼です。

写真を撮ったのは2001年1月。ゼンリン住宅地図2002年 で確かめると、所在地は東区北33条東1丁目、東消防署北栄出張所です。奇しくも、というべきか、これも創成川の近くです。
接近して撮ると、迫力がありました。


一枚で収まりきれません。底辺部は、かなり太い。
実は前述のやりとりの後、塚田先生から「ほかにも、見たことのある方、いませんか?」とお尋ねがありました。そこでまた私は、よせばいいのに「たしか、苗穂のほうにも最近まで残っていました」と付け足しました。
地図に照らすと、本町1条5丁目、東苗穂出張所です。しかし、こちらのほうは残念ながら写真が見当たりません。
札幌市公文書館の収蔵写真を「望楼」で検索してみると、本体が写っているのは、いきなり創成川沿いの1927年築 まで遡ってしまいます。あとはたいてい、「○○出張所望楼から、△△を望む」というような眺望写真ばかりです。唯一、「東消防団栄分団望楼」(東区北45条東2丁目、これも創成川に近い)2009年 というのが一枚ありましたが、全景は写っていません。どうやら鉄骨製の塔らしい。消防署にはまだ確かめていませんが、意外と無いものです。
どなたか、写真に撮っている方、いらっしゃいませんか?
センター試験考
大学入試センター試験。私は‘頭の体操’のつもりで、新聞に載る英語(筆記)の問題をここ数年解いているのですが、今年は地理Bにも挑んでみました(字が小さくて、老眼には辛かった)。
結果は…。
78点(100点満点中)。うーん、自称‘地歴系’オタクとしては、せめて80点台には載せたかった…。
地理Bの受験者(146,822人)の平均点は58.59点だそうです(1月23日独行法人大学入試センターのウエブサイト発表、中間集計その2)。標準偏差は15.22で、私の得点を偏差値に換算すると、62.75。
ン十年前の高校の授業で習った記憶はほとんど薄れ、最近の教科書などをみる機会はありません。新聞はわりと読むほうなので、その知識でそこそこは点が取れるものだと思いました。
高校時代に受けた模試の成績表(こういうモノを保存しているんですね、私は)によると、私の偏差値は河合塾の「全国統一模試」の「世界史」で(地理では受験せず)61.6でした(19XX年1月、母集団23,527人中3,066位)。代ゼミの「全国総合模試」では64(17,922人中785位)。つまり、私の高校社会科の偏差値は、このン十年間ほとんど変化していない。これは何を意味しているのか?
受験勉強からン十年間遠のいた人間で偏差値60台ということは、少なくともセンター試験は昔の入試よりも易しくなったということか。私の印象では、地図や図表から情報を読み取る・読み解く力が問われている感じがしました。昔のほうが‘詰込み知識’の偏重だったように思います。
今回の地理B、私の得点内訳です。
第1問 13点(配点16点) 6問中、正答5問。
第2問 15点(配点17点) 6問中、正答5問。
第3問 17点(配点17点) 6問全問正答。
第4問 12点(配点16点) 6問中、正答4問。
第5問 7点(配点16点) 5問中、正答2問。
第6問 14点(配点17点) 6問中、正答5問。
「東進」という予備校のウエブで、試験問題について分析されています。それによると、地理Bは「第1問・第3問を中心に迷いやすい問題が目立ち、常識的に判断できる基本問題あるいは標準問題の分量は昨年ほど多くはなかった。そのため、全体的な難易度は難化したものと思われる」 と。してみると私は、相対的に易しい問題で点を落とした一方、難しい問題を解けていたようです。
受験生には「迷いやすい」と評された第3問(都市と村落)は、札幌建築鑑賞会の会員に向いた(つまりオタクな?)問題が多かったので、紹介しましょう。
まず問1、問2。

東進の「解説」によると、問1は「扱われた地名がセンター試験としてはやや細かい」。問2は「知識の有無を直接問う本問のような出題形式はセンター試験では珍しい。やや難」と。トリヴィアルな知識偏重時代の受験生向きだったということか。
次に問3。

これぞ、鑑賞会会員向けの良問(?)ですね。
東進の解説では「受験生を苦しめた難問であった」! 私は、この問に一番感激したのですが。私なんかより海外旅行をいっぱいしている鑑賞会会員には、もっと易しかったかも。
最後に問4~6。

問4、東進の解説が笑えました。「観光ガイド的な地誌情報の知識を求められている」。
問5、問6は「迷うところは少ない」「ごく易しい」と。
結果は…。
78点(100点満点中)。うーん、自称‘地歴系’オタクとしては、せめて80点台には載せたかった…。
地理Bの受験者(146,822人)の平均点は58.59点だそうです(1月23日独行法人大学入試センターのウエブサイト発表、中間集計その2)。標準偏差は15.22で、私の得点を偏差値に換算すると、62.75。
ン十年前の高校の授業で習った記憶はほとんど薄れ、最近の教科書などをみる機会はありません。新聞はわりと読むほうなので、その知識でそこそこは点が取れるものだと思いました。
高校時代に受けた模試の成績表(こういうモノを保存しているんですね、私は)によると、私の偏差値は河合塾の「全国統一模試」の「世界史」で(地理では受験せず)61.6でした(19XX年1月、母集団23,527人中3,066位)。代ゼミの「全国総合模試」では64(17,922人中785位)。つまり、私の高校社会科の偏差値は、このン十年間ほとんど変化していない。これは何を意味しているのか?
受験勉強からン十年間遠のいた人間で偏差値60台ということは、少なくともセンター試験は昔の入試よりも易しくなったということか。私の印象では、地図や図表から情報を読み取る・読み解く力が問われている感じがしました。昔のほうが‘詰込み知識’の偏重だったように思います。
今回の地理B、私の得点内訳です。
第1問 13点(配点16点) 6問中、正答5問。
第2問 15点(配点17点) 6問中、正答5問。
第3問 17点(配点17点) 6問全問正答。
第4問 12点(配点16点) 6問中、正答4問。
第5問 7点(配点16点) 5問中、正答2問。
第6問 14点(配点17点) 6問中、正答5問。
「東進」という予備校のウエブで、試験問題について分析されています。それによると、地理Bは「第1問・第3問を中心に迷いやすい問題が目立ち、常識的に判断できる基本問題あるいは標準問題の分量は昨年ほど多くはなかった。そのため、全体的な難易度は難化したものと思われる」 と。してみると私は、相対的に易しい問題で点を落とした一方、難しい問題を解けていたようです。
受験生には「迷いやすい」と評された第3問(都市と村落)は、札幌建築鑑賞会の会員に向いた(つまりオタクな?)問題が多かったので、紹介しましょう。
まず問1、問2。

東進の「解説」によると、問1は「扱われた地名がセンター試験としてはやや細かい」。問2は「知識の有無を直接問う本問のような出題形式はセンター試験では珍しい。やや難」と。トリヴィアルな知識偏重時代の受験生向きだったということか。
次に問3。

これぞ、鑑賞会会員向けの良問(?)ですね。
東進の解説では「受験生を苦しめた難問であった」! 私は、この問に一番感激したのですが。私なんかより海外旅行をいっぱいしている鑑賞会会員には、もっと易しかったかも。
最後に問4~6。

問4、東進の解説が笑えました。「観光ガイド的な地誌情報の知識を求められている」。
問5、問6は「迷うところは少ない」「ごく易しい」と。
藻岩山麓の池
札幌の街中の池といえば、思い浮かぶのは中島公園の菖蒲池、道庁の池、植物園の池、知事公館の池…といったところでしょうか。山田秀三先生解によれば、植物園の池は「ピシクシメム」、知事公館の池は「キムクシメム」で、前者は「浜のほうを通る池泉」、後者は「山のほうを通る池泉」です(『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.39~42)。
という札幌の郷土史の教科書的な話からは外れて、もう少しマイナーな池泉の世界に遊びたいと思います。昨年12月23日ブログで紹介したナエボの「静心園」の池も、その一つです。あのように水を湛えている有姿の池は稀です。池は、都市化が進むにつれて、公共的な敷地の庭園を別とすれば埋め立てられる宿命にあるようです。それゆえに痕跡ハンターとしては妙味があります。
前置きはこれくらいにして…。

この地図の、赤矢印を付けた先のところです。
拡大すると…。

明らかに、池と思われます。場所は中央区南15条西19丁目、伏見稲荷の麓です。
この地図は、2013(平成25)年に札幌市中央区役所が発行した「中央区ガイド」からの抜粋です。前述の教科書クラスの池以外で(及び人工的に造られたもの以外で)、最近の地図に載っているのは珍しいと思います。
この場所が、現状はどうかというと…。

伏見稲荷の参道の階段から、地図に示した矢印とほぼ同じ向きで撮りました(2014年10月撮影)。
白っぽい乗用車とワゴンの右のほうにあたります。手前の木が邪魔をして見づらいのですが、水面らしきものはすでにありません。
札幌建築鑑賞会会員でこの地域に生まれ育ったMさん(2014年10月27日ブログ参照)にお聞きしたら、ここには確かに池があったそうです。峰吉さんという方が元々お住まいで、「ミネヨシの池」と呼ばれていたとのこと。そのお宅も近年なくなって、更地になりました(乗用車が置かれているあたりが住宅だった)。
Mさんによると、このあたりにはもう二つ、池があったそうです。
それぞれ「マツウラの池」と「オオタケの池」と、やはり持ち主の名前が付けられていました。Mさんは子どものとき、これらの池を遊び場にして、魚取りをしたりスケートをしたりしていたと懐かしがっておられました。
こちらが「マツウラの池」の跡です。

場所は南13条西23丁目、中国総領事館やエルム山荘の南側になります。
Mさんからお聞きした三つの池の位置を古地図に当てはめてみました。

1936(昭和11)年発行の「札幌市地図」からの抜粋です。
赤い●を付けたところが「ミネヨシの池」、橙色の●が「マツウラの池」、黄色の●が「オオタケの池」です。
これは藻岩山の崖線からの湧水だったのではないでしょうか。池に添うように、川が流れています。今は暗渠になっていますが、これは伏見川の分流でしょう(前掲「中央区ガイド」抜粋の地図でいうと、上流は藻岩川とか山元川か)。下流では界川(これも暗渠)と合流します。藻岩山からの流れのところどころに湧水があったように想像します。
Mさんによると、「マツウラの池」の松浦さんというのは、戦前この地で温泉を営んでいた方です。昨日も引用した山長先生の『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行』では、その跡地にエルム山荘と中国領事館ができたと記されています(p.40-41)。藻岩温(鉱)泉とか松浦温泉と呼ばれていたようですが、前掲1936年地図ではもう少し山側(西側)に温泉記号♨が付いて「藻岩温泉」とあります。
なお、伏見川は、藻岩山麓通りの山側で地形を見ることができます。

伏見稲荷と慈啓会病院の境目の谷間です。錆びた看板が木に打ち付けられています。

この看板、かなり古そうです。「札幌市役所 札幌警察署」とあるので、40年以上前のモノでしょう。
という札幌の郷土史の教科書的な話からは外れて、もう少しマイナーな池泉の世界に遊びたいと思います。昨年12月23日ブログで紹介したナエボの「静心園」の池も、その一つです。あのように水を湛えている有姿の池は稀です。池は、都市化が進むにつれて、公共的な敷地の庭園を別とすれば埋め立てられる宿命にあるようです。それゆえに痕跡ハンターとしては妙味があります。
前置きはこれくらいにして…。

この地図の、赤矢印を付けた先のところです。
拡大すると…。

明らかに、池と思われます。場所は中央区南15条西19丁目、伏見稲荷の麓です。
この地図は、2013(平成25)年に札幌市中央区役所が発行した「中央区ガイド」からの抜粋です。前述の教科書クラスの池以外で(及び人工的に造られたもの以外で)、最近の地図に載っているのは珍しいと思います。
この場所が、現状はどうかというと…。

伏見稲荷の参道の階段から、地図に示した矢印とほぼ同じ向きで撮りました(2014年10月撮影)。
白っぽい乗用車とワゴンの右のほうにあたります。手前の木が邪魔をして見づらいのですが、水面らしきものはすでにありません。
札幌建築鑑賞会会員でこの地域に生まれ育ったMさん(2014年10月27日ブログ参照)にお聞きしたら、ここには確かに池があったそうです。峰吉さんという方が元々お住まいで、「ミネヨシの池」と呼ばれていたとのこと。そのお宅も近年なくなって、更地になりました(乗用車が置かれているあたりが住宅だった)。
Mさんによると、このあたりにはもう二つ、池があったそうです。
それぞれ「マツウラの池」と「オオタケの池」と、やはり持ち主の名前が付けられていました。Mさんは子どものとき、これらの池を遊び場にして、魚取りをしたりスケートをしたりしていたと懐かしがっておられました。
こちらが「マツウラの池」の跡です。

場所は南13条西23丁目、中国総領事館やエルム山荘の南側になります。
Mさんからお聞きした三つの池の位置を古地図に当てはめてみました。

1936(昭和11)年発行の「札幌市地図」からの抜粋です。
赤い●を付けたところが「ミネヨシの池」、橙色の●が「マツウラの池」、黄色の●が「オオタケの池」です。
これは藻岩山の崖線からの湧水だったのではないでしょうか。池に添うように、川が流れています。今は暗渠になっていますが、これは伏見川の分流でしょう(前掲「中央区ガイド」抜粋の地図でいうと、上流は藻岩川とか山元川か)。下流では界川(これも暗渠)と合流します。藻岩山からの流れのところどころに湧水があったように想像します。
Mさんによると、「マツウラの池」の松浦さんというのは、戦前この地で温泉を営んでいた方です。昨日も引用した山長先生の『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行』では、その跡地にエルム山荘と中国領事館ができたと記されています(p.40-41)。藻岩温(鉱)泉とか松浦温泉と呼ばれていたようですが、前掲1936年地図ではもう少し山側(西側)に温泉記号♨が付いて「藻岩温泉」とあります。
なお、伏見川は、藻岩山麓通りの山側で地形を見ることができます。

伏見稲荷と慈啓会病院の境目の谷間です。錆びた看板が木に打ち付けられています。

この看板、かなり古そうです。「札幌市役所 札幌警察署」とあるので、40年以上前のモノでしょう。
マリヤ手芸店、北海石版、女夫龍神、馬車道
マリヤ手芸店でお聞きした話の続きです。
それは、昨年7月27日のブログで紹介した「女夫(めおと)龍神」のことです(昨年7月撮影、以下同じ)。

中央区南28条西11丁目、石山通沿いにあります。
前回お伝えしたとおり、この龍神様のことは山崎長吉『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行』1995年 に由来が記されています(p.55~56)。その記述の末尾に「マリヤ手芸室 松村富美子の調査の要約」(原文まま)とあります。これを読んだとき、「マリヤの松村さんが、どうしてここを調べたのかな~」と一瞬疑問に思ったのですが、そのまま読み過ごしました。
このたび、その疑問が氷解しました(なお、私がお聞きしたのは「松村智恵子」さんで、前掲山崎著の「松村富美子」は誤記と思われる)。結論的にいうと、マリヤの松村さんは龍神を祀った人のご子孫だったのです。
祠は、松村智恵子さんの祖母、本間トクという人によって建てられました。本間トクは、昨日のブログでお伝えした「北海石版」の本間清造の妻です。なぜここに龍神を祀ったかも、山崎著に記されています。松村さんによれば本間トクは信仰の篤い人だったそうです。
以下は、松村さんからお聞きした話で、山崎著には書かれていないことを記しておきます。
まず、この手水鉢。

7月27日ブログで、私は次のように記しました。
女夫龍神は土地の記憶を伝えているのかも、と想ったしだいです。
祠の傍らに手水鉢のようなものがありました。
地形的にみると、今はともかく元は湧水だったかもしれません。
松村さんのお話では…。
(手水鉢の奥の)コンクリートで蓋されているのが、井戸だった。この場所は、藻岩山のほうから多いときで五筋くらいの川が流れていたと聞いたことがある。‘ひょうたん池’という池もあった。龍神を祀ったのはそういう土地だったからかもしれない。1928(昭和3)年の辰年にちなんで建てたようだ。石山通りはかつて馬車が行き交い、井戸は馬の水飲み場に使われていた。
以下の図は、豊平川の流路の変遷を示したものです(札幌市博物館活動センターの古沢仁さん作成、赤矢印は私が加筆)。

画像の左斜め上が北になります。下のほう(南西)の白地の部分が藻岩山です。太古、豊平川は藻岩山の麓を流れ、時代が下るにつれて東漸し、現在の流れに落ち着きました。
赤矢印の先が、女夫龍神があるあたりです。松村さんが言われた‘五筋くらい流れていた川’や‘ひょうたん池’というのは、この流路とも重なるのではないかと私は想像します。
龍神様はやはり‘土地の記憶’だとの思いを新たにしました。このやや上流で豊平川は大正時代に大洪水を起こしており、「落ち着きました」といっても地球史からみればほんの一瞬にすぎません。
龍神様の傍らには、お地蔵さんなども幾つか祀られていて、石造りの小さな祠もあります。札幌軟石のようです。

これは馬頭さんらしい。馬車の交通安全も願ってのことだそうです。
次なるは、1954(昭和29)年発行の地形図「札幌」からの抜粋です。

赤矢印の先、神社記号のあたりが女夫龍神です(その南側の墓地記号⊥は山鼻墓地ですね。現在山鼻南小学校、南警察署がある)。気になるのは、黄色の○で囲ったところです。小さな曲線が∩∪形に描かれている。これは微地形を意味しているのだろうか?
余談ながら、札幌の‘池’が、気になる。
それは、昨年7月27日のブログで紹介した「女夫(めおと)龍神」のことです(昨年7月撮影、以下同じ)。

中央区南28条西11丁目、石山通沿いにあります。
前回お伝えしたとおり、この龍神様のことは山崎長吉『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行』1995年 に由来が記されています(p.55~56)。その記述の末尾に「マリヤ手芸室 松村富美子の調査の要約」(原文まま)とあります。これを読んだとき、「マリヤの松村さんが、どうしてここを調べたのかな~」と一瞬疑問に思ったのですが、そのまま読み過ごしました。
このたび、その疑問が氷解しました(なお、私がお聞きしたのは「松村智恵子」さんで、前掲山崎著の「松村富美子」は誤記と思われる)。結論的にいうと、マリヤの松村さんは龍神を祀った人のご子孫だったのです。
祠は、松村智恵子さんの祖母、本間トクという人によって建てられました。本間トクは、昨日のブログでお伝えした「北海石版」の本間清造の妻です。なぜここに龍神を祀ったかも、山崎著に記されています。松村さんによれば本間トクは信仰の篤い人だったそうです。
以下は、松村さんからお聞きした話で、山崎著には書かれていないことを記しておきます。
まず、この手水鉢。

7月27日ブログで、私は次のように記しました。
女夫龍神は土地の記憶を伝えているのかも、と想ったしだいです。
祠の傍らに手水鉢のようなものがありました。
地形的にみると、今はともかく元は湧水だったかもしれません。
松村さんのお話では…。
(手水鉢の奥の)コンクリートで蓋されているのが、井戸だった。この場所は、藻岩山のほうから多いときで五筋くらいの川が流れていたと聞いたことがある。‘ひょうたん池’という池もあった。龍神を祀ったのはそういう土地だったからかもしれない。1928(昭和3)年の辰年にちなんで建てたようだ。石山通りはかつて馬車が行き交い、井戸は馬の水飲み場に使われていた。
以下の図は、豊平川の流路の変遷を示したものです(札幌市博物館活動センターの古沢仁さん作成、赤矢印は私が加筆)。

画像の左斜め上が北になります。下のほう(南西)の白地の部分が藻岩山です。太古、豊平川は藻岩山の麓を流れ、時代が下るにつれて東漸し、現在の流れに落ち着きました。
赤矢印の先が、女夫龍神があるあたりです。松村さんが言われた‘五筋くらい流れていた川’や‘ひょうたん池’というのは、この流路とも重なるのではないかと私は想像します。
龍神様はやはり‘土地の記憶’だとの思いを新たにしました。このやや上流で豊平川は大正時代に大洪水を起こしており、「落ち着きました」といっても地球史からみればほんの一瞬にすぎません。
龍神様の傍らには、お地蔵さんなども幾つか祀られていて、石造りの小さな祠もあります。札幌軟石のようです。

これは馬頭さんらしい。馬車の交通安全も願ってのことだそうです。
次なるは、1954(昭和29)年発行の地形図「札幌」からの抜粋です。

赤矢印の先、神社記号のあたりが女夫龍神です(その南側の墓地記号⊥は山鼻墓地ですね。現在山鼻南小学校、南警察署がある)。気になるのは、黄色の○で囲ったところです。小さな曲線が∩∪形に描かれている。これは微地形を意味しているのだろうか?
余談ながら、札幌の‘池’が、気になる。
マリヤギャラリーでの好企画展
札幌の老舗・マリヤ手芸店です。

ここの3階の「マリヤギャラリー」で催されている「昭和初期の札幌 画家笠井誠一の原風景」展を観てきました。
1月25日から札幌芸術の森美術館で開催される「笠井誠一展」の関連事業です。

なぜ関連かというと、「マリヤ」が誠一氏の‘実家’に当たるからです。同店所蔵の誠一氏及びご親族の作品が展示され、‘原風景’を跡づけることができます。
ご親族というのは、誠一氏の兄・本間章介さん、母・本間テイさん(マリヤ創業者)、叔父・本間紹夫(あきお)さんです。
テイさんや紹夫さんのろうけつ染め、章介さんの油彩などが展示されていました。ご兄弟でも異なる画風(と私には見えた)が印象的でした。また、テイさんの祖父(つまり誠一氏の曽祖父)で、本間梅翁(ばいおう、新潟県佐渡島)という人の絵もありました。皆さん上手です。
テイさんの父は本間清造といって、札幌の郷土史には馴染み深い方です。「北海石版」という印刷業を営んでいました。今回、マリヤと北海石版の繋がりを初めて知り、札幌の地歴オタクの私には興味深いお話ばかりでした。以下は、マリヤ社長の松村さん(誠一氏の甥)及びそのお母上(誠一氏の姉)からお聞きしました。
北海石版については、札幌の古地図を渉ると必ず目にします。
例えば、この「札幌市街之圖」(一部抜粋)。

1901(明治34)年発行です。欄外に「北海石版印刷所」「本間清造」の名が記されています(黄色の矢印)。
本間家は佐渡・両津のご出身だそうです。この地図もよく見ると、本間清造の住所が「新潟縣佐渡國…」とあります(越後から庄内にかけては「本間」という姓が多いことで知られる)。
それから、今回の展示の案内ハガキに載っているマリヤ旧店舗の建物。

この建物は元々北海石版の社屋だったそうです。1926(昭和元)年、その一角でマリヤが生まれました。現在の北2条西3丁目、駅前通りに面したところです。
この地図は1928(昭和3)年発行の「最新調査札幌明細案内図」(一部抜粋)です。

黄色の矢印の先、「北海石版所」の北西角に「毛糸 マリヤ」とあります。
建物本体は古典様式を模した(半円アーチの屋根破風に棟飾りを載せているところは擬洋風か)感じですが、これにモダニズムな出っぱり(カタカナ縦書きで「マリヤ」とある)が付いています。ロシア構成主義かデ・スティルのような出っぱり。かてて加えて、村山知義のマヴォを彷彿させるような maRIyaのロゴ。この出っぱりとロゴ(路上の行燈広告も)は田上さんがデザインしたとのこと。北海石版の跡を継いだ紹夫さん(誠一氏の叔父)が田上さんと親しかったそうです。さすが田上さん、強引な、もとい大胆なことをやるなあ。
このほかにも、さらに面白い(郷土史好事家向けの)話をお聞きしたのですが、日をあらためます。
肝心なことを…。この展示は2月3日(火)まで。午前10時~午後6時(水曜定休)、無料(芸森の展示のほうは有料)。

ここの3階の「マリヤギャラリー」で催されている「昭和初期の札幌 画家笠井誠一の原風景」展を観てきました。
1月25日から札幌芸術の森美術館で開催される「笠井誠一展」の関連事業です。

なぜ関連かというと、「マリヤ」が誠一氏の‘実家’に当たるからです。同店所蔵の誠一氏及びご親族の作品が展示され、‘原風景’を跡づけることができます。
ご親族というのは、誠一氏の兄・本間章介さん、母・本間テイさん(マリヤ創業者)、叔父・本間紹夫(あきお)さんです。
テイさんや紹夫さんのろうけつ染め、章介さんの油彩などが展示されていました。ご兄弟でも異なる画風(と私には見えた)が印象的でした。また、テイさんの祖父(つまり誠一氏の曽祖父)で、本間梅翁(ばいおう、新潟県佐渡島)という人の絵もありました。皆さん上手です。
テイさんの父は本間清造といって、札幌の郷土史には馴染み深い方です。「北海石版」という印刷業を営んでいました。今回、マリヤと北海石版の繋がりを初めて知り、札幌の地歴オタクの私には興味深いお話ばかりでした。以下は、マリヤ社長の松村さん(誠一氏の甥)及びそのお母上(誠一氏の姉)からお聞きしました。
北海石版については、札幌の古地図を渉ると必ず目にします。
例えば、この「札幌市街之圖」(一部抜粋)。

1901(明治34)年発行です。欄外に「北海石版印刷所」「本間清造」の名が記されています(黄色の矢印)。
本間家は佐渡・両津のご出身だそうです。この地図もよく見ると、本間清造の住所が「新潟縣佐渡國…」とあります(越後から庄内にかけては「本間」という姓が多いことで知られる)。
それから、今回の展示の案内ハガキに載っているマリヤ旧店舗の建物。

この建物は元々北海石版の社屋だったそうです。1926(昭和元)年、その一角でマリヤが生まれました。現在の北2条西3丁目、駅前通りに面したところです。
この地図は1928(昭和3)年発行の「最新調査札幌明細案内図」(一部抜粋)です。

黄色の矢印の先、「北海石版所」の北西角に「毛糸 マリヤ」とあります。
建物本体は古典様式を模した(半円アーチの屋根破風に棟飾りを載せているところは擬洋風か)感じですが、これにモダニズムな出っぱり(カタカナ縦書きで「マリヤ」とある)が付いています。ロシア構成主義かデ・スティルのような出っぱり。かてて加えて、村山知義のマヴォを彷彿させるような maRIyaのロゴ。この出っぱりとロゴ(路上の行燈広告も)は田上さんがデザインしたとのこと。北海石版の跡を継いだ紹夫さん(誠一氏の叔父)が田上さんと親しかったそうです。さすが田上さん、強引な、もとい大胆なことをやるなあ。
このほかにも、さらに面白い(郷土史好事家向けの)話をお聞きしたのですが、日をあらためます。
肝心なことを…。この展示は2月3日(火)まで。午前10時~午後6時(水曜定休)、無料(芸森の展示のほうは有料)。
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