札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2014/11/30

藻岩山の遺構、または“負の遺産”とどう向き合うか。

先日、といっても三週間ほど前になりますが、藻岩山を歩いてきました。
北斜面、すなわち慈啓会病院から西国三十三観音のルートを登っていきました。

馬の背までの途中、半分より少し手前くらいで、平らなところがあります。
藻岩山①
下ってきた子どもたちが休憩していました。私もここで、早くもいっぷく。
ブルーシートに覆われた人工物が目に入りました。見た感じ、真新しそうです。
「ここは天然記念物たる藻岩原始林、かつ藻岩山風致地区の核たる風致資源の一角。かような地に人工物が新たに設けられたのは、何事ならん」と訝しく眺めました。
文化財保護法や札幌市緑の保全と創出に関する条例に抵触してはならじ、と私は意を決しました。

意を決して、ブルーシートを剥がしてみました。すると…。
藻岩山②
さらにまた養生シートに覆われていましたが、シート越しに文字が読み取れます。
書かれて曰く「日本初のスキーリフト跡地」と。
一番下には「札幌市観光文化局」。これは札幌市が工作したモノでした。まあ市自らすることですから、法令の範囲内なのでしょう。
私は「ははーん、コレがそうか」と、あらためて思い直しました。
というのは、今年の7月25日朝日新聞に載った記事です。リード文に曰く「札幌・藻岩山の中腹に日本初のスキーリフトがあったとする史跡案内を、札幌市が近く設置する」と。
この「史跡」のことは、昨年(2013年)10月11日北海道新聞ですでに報じられていました。全六段の大きな記事でした。
リード文に「日本のスキー史に名を残した貴重な史跡を、現地で明示するよう求める動きが出ている」とありました。
なるほど。「現地で明示するよう求める動き」が実を結んだわけです。

「貴重な史跡」というのがこれです。
藻岩山③
子どもたちが腰をかけていたコンクリートも、その一部なのでしょう。

せっかくなので、養生シート越しに読み取れた説明文を全文引用しておきます(改行略)。

1946年(昭和21年)、日本で初めてのリフトを備えたスキー場が、この藻岩山の北斜面に設置されました。当時のスキーリフトは、現在の水道局浄水場近辺を乗り場としており、リフトの全長は983m、支柱11基、二人乗りの搬器44個が取り付けられたものでした。当初、進駐軍専用として開設されたこのスキー場は、貴重な天然林の保全を図るために、その後使用禁止となりましたが、現在も、この場所に、スキーリフトの山頂原動やステージ(降り場)の基礎部分が残っています。

既出文献には、この場所を旧日本軍の砲台跡だったとする記述があります(『さっぽろ文庫12藻岩・円山』北海道新聞社1980年p.266、札幌郷土を掘る会編『写真で見る札幌戦跡』北海道新聞社2010年)。このたびの説明看板はそれを糾す意味もあるのでしょう。

が、しかし。
このスキー場はそもそも、当時の学識者の反対を押し切って「貴重な天然林」を伐採して造られたものです(前掲『さっぽろ文庫12藻岩・円山』p.27-28)。いわば“負の遺産”です。本来、原状を復元すべき場所だった。まあ、これを除去するというのは大変なエネルギーを要すると思いますが、やってやれなくはないでしょう。しかし、ともかくも残って(残して)しまった。

11月24日のブログで記したように、私たちは歴史に目をつぶることはできません。否、それどころか、占領軍がゴリ押しして聖地を犯したという国辱的な史実は、伝えられるべきです。問題は、やはりその伝え方です。前述の説明文でそれが伝わるか。

「役所の作文にありがち」と耳にするのが、“主体不明”です。この説明文も、「誰によって」が一貫して没却されています。「その後使用禁止となりました」という自動詞。まるで自動的にそうなったみたいです。
敗戦国の国民が占領軍にモノ申すというのは、かなり大変なコトだったと私は想像します。その前史が、「使用禁止になりました」という自動詞で伝わるか。

11月19日北海道新聞で、この説明板が設置されたことが報じられました。
設置を求めていた市民団体の代表は「時間はかかったが、正しい歴史が伝えられるようになり、ほっとしている」と語ったそうです。
「正しい歴史」とは、何ぞや?

なお、私はブルーシートを元どおり戻しておきましたが、新聞記事に載った写真を見ると、その後晴れてお披露目されたようです。
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2014/11/29

厚別駅近くの入母屋

JR厚別駅近くの気になる物件、その4。

札幌軟石の門柱です。
札幌軟石の門柱
一本のみ、屹立していました。

もう一本は…。
札幌軟石の門柱②
倒れていました。かなりの歳月を経ているようです。

駅の南側、厚別停車場線の近くにある煉瓦の蔵。
煉瓦の蔵
長手積みで、軒蛇腹を五重に回しています。妻側にある窓の楣は三重です。破風は歯状飾り(デンティル)を施さず、四重の蛇腹。

平(ひら)側の煉瓦の最下段に小さな鉄扉が付いています。通気口か。
煉瓦蔵の換気口
「PATENT №468131 TUTIDASIKI」とある。どういうPATENTなのだろう?

同じく停車場線の近くにある木造家屋(千歳線の車窓からよく見えます)。
厚別駅近くの入母屋屋根
入母屋の屋根です。札幌の住宅では(お寺の本堂などにはありますが)珍しいのではなかろうか。こうやってみると、厚別駅界隈というのは、結構稀少な物件揃いだ。
二階の屋根がまず入母屋だし、これに交差する一階も、二階がなかったとしたら、入母屋でしょう。玄関屋根も入母屋。

裏手に廻ると…。
厚別駅近くの入母屋②
矢印を付けたところ、千鳥破風のような小屋根が付いています。これはもう、純粋装飾と見える。

玄関廻りも、凝っています。
厚別駅近くの入母屋③
筬欄間ですか。

私の理解では、入母屋というのは東洋的な屋根形式です。本州の住宅では珍しくもなんともないでしょうが(私の郷里ではポピュラーです)、札幌では新鮮に映ります。
ただ、壁は下見板張り(和風在来の押し縁が無い)だし、破風はドイツモルタルっぽい。屋根が(元からかどうか判りませんが)トタン葺きなのと併せて、ある意味札幌的な和洋折衷住宅ともいえる。

最後に、停車場線近くの腰折れ屋根。
厚別中央 腰折れ屋根
昨日のブログでお伝えした二棟続きと比べると、一口に腰折れ屋根といっても“腰折れ具合”はさまざまだなと思います。

なかなか眼福な厚別駅界隈でした。

2014/11/28

厚別駅近くの腰折れ屋根二棟

JR厚別駅周辺の気になる物件、その3。
厚別西 Ⅰさん宅納屋 腰折れ屋根
腰折れ屋根が二棟並んでいる風景というのも、札幌では珍しくなったといえるでしょう。
手前は木造で、奥のほうはブロック造です。

ブロック造側から見ると、こんな感じです。
厚別西 Ⅰさん宅納屋 腰折れ屋根②
持ち主にお尋ねしたら、1953~1955(昭和28~30)年頃に建てたとのこと。
元々農家だったのですが、酪農を始め、この納屋に牧草を入れていたそうです。
1966(昭和41)年にこのあたりで区画整理があり、宅地化が進み、酪農はやめた由。

腰折れ屋根二棟で、思い出したのがこちら。
腰折れ屋根 二棟
中央区の住宅です。厚別のほうを並列式だとすれば、こちらは直列式。
手前のほう、これは二階建てというのでしょうか。屋根裏部屋は階数に含めないか。
妻側を見ると、こちらのほうが将棋の駒に近い。

さて、二棟併存は札幌市内でほかにあったかな~。
あ、もう一箇所ありました。
腰折れ屋根 二棟 直列式
北区の住宅物件。こちらも直列式です。昨年6月に撮ったものですが、現存しているかどうか。
隣の北大探検部は解体されたやに聞きましたが。

2014/11/27

厚別駅近くの高床式

JR厚別駅近くの気になる物件、その2です。
厚別西 Nさん宅
駅のホームからちょうどよく見える位置に、この建物があります(画像一部加工)。

下のほうを見ると…。
厚別西 Nさん宅②
高床式になっています。束石に使われているのが軟石らしい。
札幌で高床式といえば、北大第二農場の穀物庫ですが、本物件はそれほど床が高くはない。
高くはないが、軟石の束石の上に煉瓦を載せて底上げしているところに敬意を表して、高床式ということにしましょう。

周囲にも、軟石がある。
厚別西 Nさん宅③
入口の前、階段状に置かれているのは、どうもニオう。
何がニオうかというと、この軟石が元々何か別の用途として存在していたことです。
左方に無造作に置かれている軟石も、そう見えます。

この物件(たぶん物置でしょう)の持ち主にお訊きしたところ、どうやら元は軟石の蔵があったらしい。
今ある木造の物置は石蔵を解体した後に建てたもののようです。私自身は石蔵の記憶がなく、確証はないのですが。

そうすると、もしかしたら…。
厚別 Nさん宅④
妻壁に付けられた琺瑯びきのこの看板も、元は石蔵に貼ってあったのかもしれません。
「トヨタ洗濯機」「一ばん良いナショナル電球」。

妻壁の右側は…。
厚別西 Nさん宅⑤
上から「シンガーミシン」「キタニホン毛糸テックス」「キングトリスガム」。
左右の看板の間にある、小屋根付きの突起物は何だろう?
妻面が本体同様、下見板張である。

「シンガーミシン」を拡大すると…。
厚別西 Nさん宅⑥
「指定店 宮嶋ミシン商会札幌支店 札幌市北十条東1丁目 T.4-9358」。
政令指定都市になる前の住居表示ですな。つまり1972(昭和47)年より前。電話の局番は一桁。

2014/11/26

札幌に稀なる土蔵? または「遺族の家」

JR厚別駅の近くを訪ねました。
気になっていた一角があったのです。
厚別西 Yさん宅
鬱蒼とした屋敷林で、これだけでもそそられるのですが。
画像右方の矢印を付けたマツの木二本。
歩道上に生えていますが、これも元々お屋敷の木だったのではないかと推測します。
道路が拡幅されたときに伐られずに残り、いわゆる路傍樹(9月29日ブログ参照)になったのでしょう。

屋敷林もさることながら、気になっていたのはこちらです。
厚別西 Yさん宅②
塗屋風の蔵です。腰壁は人造石研出し仕上げに見えます。これは貼ってあるのでしょう。
いま「蔵」と記しましたが、それは以下の理由によります。
①窓が無いこと
居住用ではなく、物品収蔵用とみた。
②軒蛇腹
蔵的な雰囲気を醸している。

気になるのは、この蔵が土蔵造なのか組積造なのか、です。
見た感じ、土蔵造です。
土蔵造だとすれば、札幌で現存するのはとても稀少だと思います。
確かめたい。

同じ敷地にある住居のほうを訪ね、ピンポンしてみました。
ご不在でした。残念です。

しかし、玄関でこれまた稀少なモノを見ました(画像は一部加工)。
厚別西 Yさん宅③
表札に書かれている住所が「札幌市白石区厚別西…」とあるのはよいとして、その右上、矢印を付けたところの青いステッカー。

せっかくなので、拡大してお伝えします。
厚別西 Yさん宅④
「遺族の家」。
これが貼ってあるお宅というのは、いまや全国的にみても極めて数少ないのではないでしょうか。

2014/11/25

帝国大学の痕跡②

「北海道帝国大学」の痕跡が比較的最近まで残っていた物件をお伝えします。

植物園の門柱に架かっていた銘鈑です。
植物園 門柱
1985(昭和60)年6月に撮りました。

矢印の箇所、銘鈑の部分を拡大してみると…。
植物園 旧銘鈑
上段は、右から横書きで「北海道  大学」と読めます。
中段は読み取りづらいのですが、「農学部附属」でしょう。
下段は「植物園」です。

上段の「北海道」と「大学」の間に、空白があります。黄色の線を引いた上です。
他の余白に比べて白くなっています。
私は、ここに「帝国」の二文字が彫られていたと推測します。
たぶん1947(昭和22)年以降に削り取られたのでしょう。
新しいモノに架け替えずに、不要になった個所を削ってそのままずっと使っていたのですな。
文字どおり、痕跡でした。

しかし、残念ながらというべきか、その後新しいモノに替わりました。
植物園 現銘鈑

今の銘鈑はこちらです。
植物園 現銘鈑
左から横書きで「北海道大学」になっています。
「農学部附属」から「北方生物圏フィールド科学センター」に変わったのは2001(平成13)年です。

植物園に「古い銘鈑は、残っていますか?」とお尋ねしたら(我ながら、物好きだなあ)、「今も保管しているが、一般には公開していない」と言われました。残念。もう一度拝みたかった。

札幌農学校が1907(明治40)年に東北帝国大学農科大学になったときに学長佐藤昌介が述べた式辞について、『北大の125年』は次のように言及しています(p.25)。

佐藤の式辞は、札幌農学校が帝国の大学となったことを端的に示していた。北海道の「拓地殖民事業を翼賛」から「膨張的帝国の鴻図を翼賛」(いずれも佐藤昌介)への転換である。

『北大百二十五年史 通説編』2003年 によると、大学では戦後、改革への活動が活発に繰り広げられました。理学部の松浦一先生や堀内壽郎先生によって1947年に作られた「大学制度改革案」は、「日本の大学改革の理想図ともいうべき斬新な内容であった」とのことです(p.102)。
植物園の銘鈑の空白二文字分にも、そんな空気が反映していたのでしょう。

2014/11/24

帝国大学の痕跡

北大の前身は「北海道帝国大学」でした。
『北大の125年』2001年によると、さらに前身の「東北帝国大学農科大学」時代を含めると、「帝国大学」と称していたのは1907(明治40)年から1947(昭和22)年までです。

札幌キャンパスでその時代の記憶を伝えているのは、建物では古河講堂や旧理学部本館、農学部、旧予科教室、旧昆虫標本室、農学部旧皮革工場、といったところでしょうか。建物以外では現正門、クラーク像(像本体は戦中に金属回収され、1948年再建)。池上重康先生によると、「中央道路」(通称メインストリート)も、そうです(『リテラポプリ』第52号2013年所載、「建築設計図が語る北大の歴史」第28回)。

では、「帝国大学」を文字どおり遺しているモノはあるか?
後から付けられた説明看板などには記されていますが、当時からのモノとなると、なかなか難しい。
1947年に改称されたときに、正門の銘鈑なども架け替えられたのでしょう。
東大の構内には「帝大」と刻まれたマンホールがあると、路上観察学の書物で読んだ記憶があります。

さて、北大ではどうか。
「たぶん、コレくらいかな~」と私が思ったのは、こちらです。
聖跡
「聖跡」碑。クラーク像の斜め向かいにあります。

碑文を読み直してみました。
聖跡②
これが、摩耗しかかっていてなかなか読み取れない。

岩沢健蔵『北大歴史散歩』1986年によると、この碑の由来は大要以下のとおりです(p.84-88)。
・1936(昭和11)年、北海道で「陸軍特別大演習」が行われ、昭和天皇の行在所と大本営が農学部に置かれた。
・大演習と行幸が無事終わったことを記念して、翌1937年に建立された。
・「聖跡」の揮毫は閑院宮戴仁親王で、石材は日高産のざくろ石。

あらためて、碑文を追っていくと…。
聖跡③
一番最後に、やはり「帝国」と刻まれていました。黄色の線の左側です。
「北海道帝国大学総長高岡熊雄」だと思うのですが、「高」より下は完全に磨り減っています。碑文が磨り減っているのは、iいわゆる学生運動が盛んだった頃の人為も加わってのことではないでしょうか。私はその時代を直接体験していないので、あくまでも想像ですが。

「帝国」の部分を拡大すると…。
聖跡④
「国」の字はたぶん旧字体だと思います。

前掲『北大歴史散歩』には、次のように記されています(p.90)。

聖跡碑の石の配置は、北の字をかたどっている。農学部本館の平面設計と同じ発想だった。あまりにも堅牢な築造物なので、終戦時に破壊されもせず、しかし視線を向ける人もなく、いつか、巨大な路傍の石となり果てた。
この碑を、どうみたらよいのだろう―。
私たちが、生まれ育った年月の何日かを、自分には必要ない経験だったとか不快な記憶だったという理由で抹消してしまうことができぬように、北大を舞台として綴られた昭和史のこの部分を、なかったことにしてしまうのは許されないであろう。


「どうみたらよいのだろう―」以下の著者の意見に、私も賛成です。
しかし、疑問の余地があります。
「この碑を、どうみたらよいのだろう―」という問題提起は、文字どおり碑を“みる”ことから出発しています。碑が物理的に存在している、ということが大前提になっています。碑がなかったら、「どうみたらよいのだろう」と思惟することはできません。そもそも“みる”ことができないのですから。
ということは、歴史を「なかったことにするのは許されない」という著者の考えの前提には、建物や遺跡の物理的存在が条件としてあります。

では、例えば「旧朝鮮総督府」庁舎1926(大正15)年築 が“植民地支配の象徴”として解体されたことなどは、「どうみたらよいのだろう―」。
旧総督府の建物は、歴史を「なかったことにしてしまう」ために解体されたのではないでしょう。しかし、彼の国に住む人々にとって、物理的に消し去りたい存在であったことは想像できます(保存すべきだという意見もあったとは思うが)。

結局、歴史を「なかったことにしてしまうのは許されない」からといって、建物や遺跡の物理的存在を前提条件にできるのか、それは立場によって異なるのではないか。
歴史を「なかったことにしてしまうのは許されない」のは、こんにちでは当然です。問題はその「歴史をどう伝えるか」「建物や遺跡をどう遺すか」になりましょう。


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2014/11/23

追悼・高倉健②

引き続き『駅 STATION』ゆかりの地・懐かし写真で、健サンを偲びます。

JR函館本線・上砂川支線、上砂川駅です。
上砂川駅
1992年3月に撮りました。この時点でまだ、現役の駅舎です。
「悲別駅」の看板も掛けられています。

映画では、増毛から健サンが烏丸せつ子を尾行し(留萌~深川~砂川経由)、この駅まで来ます。
ここで根津甚八を張り込み、線路上に現れたところを取り押さえます。

上砂川駅②
これは、ホーム側を撮ったものです。同じく1992年の撮影。
まだ現役である証拠に、当時の運行車両が入線しています。右側の青い屋根が駅舎で、ホーム側は腰折れです。

映画では、たしか烏丸がホームに立って根津を待ち、それを駅舎の陰から健サンが張っているという光景でした。
ズームアウトしたところで、左方に巨大な選炭工場らしき建物が映っていましたが、1992年時点ではありません。
炭鉱への引き込み線などもたくさん敷かれていて、それが演出効果を醸していたと思いますが、この時点で使われているレールは一本のみのようです。

1994年5月15日午後8時57分、砂川行きの最終列車がこの駅を出て、駅舎は役目を終えました(同年5月16日北海道新聞記事による)。建物はその後、少し離れたところで、向きを変えて保存されています。

2014/11/22

追悼・高倉健

私にとって印象に残るのは『駅 STATION』1981年でして、ゆかりの地の懐かし写真で、健サンを偲びます。

増毛駅前、1992年6月撮影です。
増毛
「旭川の歴史的建物の保存を考える会」主催の見学会で、留萌~増毛を訪ねたときに撮りました。

ちょっとボケていますが、この写真が貴重なのは日通の営業所が写っていることです。右端です。
正面、屋根に腰折れ形の破風を付けて、○通のロゴを入れています。
古き建物が3軒並ぶと見ごたえがあります。
『駅 STATION』も、ロケ地めぐりのブログのタグイは数多あるとは思いますが、この画像は稀少な部類と我ながら思います。

真ん中の「多田商店」が、烏丸せつこが働く「風待食堂」です。日通営業所は、その向かいの旅館という設定です。
映画では「増毛ホテル」という看板が出ていました(封切時刊行された東宝発行の解説冊子には「新妻旅館」とある)。1976年、この建物の2階で健サンが彼女を張り込みます。
3年後、健サンが郷里の雄冬に帰るとき、荒天で船が欠航したため、ここにまた泊まります。

『旭川と道北の建築探訪』2000年によると、日通増毛営業所は1936(昭和11)年築で、1999年に取り壊されたようです。

2014/11/21

アシリベツ軟石 まとめ(続)

アシリベツ軟石のまとめ、考察です。
①前掲資料「有明産“札幌軟石”」をはじめ郷土史などの文献で、「有明産」の軟石があったことがこれまで散見されてきた。実際には、有明にとどまらず真栄、清田地区でも採掘されていたことが判った。前掲「有明産…」によれば、有明地区だけでも複数箇所だが、厚別(アシリベツ)川の下流、さらには山部川、西真栄川など支流を含む流域の広い範囲に及んでいた。その意味で、やはり「アシリベツ軟石」というのが妥当である。これを含め、石山(穴の沢)産、常盤産、精進川(澄川・駒岡)産を(さらには島松産も)包括して、上位概念として「札幌軟石」と総称する。

②アシリベツ軟石が採石されていたのは、明治後期から昭和20年代後半と推測される。前掲「有明産…」では「大正の初期から」とあるが、有明神社の「開拓紀念碑」が1908(明治41)年建立であることから、もう少し古いだろう(注1)。現「真駒内御料札幌線」開通・整備の時期からすると、始期は明治後期か。現存している建物の築年及び実際に採石していたⅠさんへの聞取り、前掲資料からすると、終期は昭和20年代後半か。

③前掲「有明産…」では「石切山(引用者注:穴の沢、現石山)のものと同質で」とあるが、これは「支笏溶結凝灰岩の範疇」という意味であろう。石山産と比べると、実際には質にバラツキがあり、生産効率が低かったようである。

④同じく前掲「有明産…」では「道内各地の住宅…等に使われ」とあるが、これは検証の余地が残る。馬鉄~定鉄という搬送手段によって石山産の流通が格段に優っていたことに鑑みると、アシリベツ軟石がはたして「道内各地」まで伝播しえたかどうか、疑問がある。

⑤ただ、札幌市内でこれまで漠然と「札幌軟石」すなわち石山産だろうと思われてきた物件が、実はアシリベツ軟石だったという可能性はある。清田区北野のT宅の住宅(現存せず)は「有明産」とされるし(注2)、前掲「有明産…」によれば真栄会館、清田農協倉庫もそうだったらしい(注3)。少なくとも厚別(アシリベツ)川の下流域では広範に用いられていたようだ。

⑥川の流域で“発見”した軟石物件からは、いずれも住民の生活・なりわいとの結びつきが強く感じられた。倉庫、納屋、小屋、ムロなどはもちろん、地域の人々の精神的な拠り所ともいえる神社、小学校の門柱(注4)など。

注1
平岡にお住まいの郷土史家・Ⅰさんから、1909(明治42)年2月10日「北海タイムス」に、現在の有明または真栄地区における軟石採掘とみられる写真が掲載されていることをご教示いただいた。それには「札幌郡厚別南通白船石山の景 月寒村字厚別白船山本仁左エ門氏寄贈」というキャプションが添えられている。「厚別(アシリベツ)南通」は現在の清田区真栄あたりの地名である。明治40年代には採石されていたことが裏付けられよう。
なお、「白船石山」について、有明神社境内の手水鉢の裏面に「大正元年九月二十日 寄附 白船孫二」、同じく1921(大正10)年9月20日建立の「謝恩碑」の裏面に、「石工 白船孫二」と刻まれており、関連が想像される。

注2
『さっぽろ文庫23 札幌の建物』1982年、p.120

注3
『清田地区百年史』1976年 に、建物の写真が載っている(p.229、309)。いずれも、現存していない。
同書の発行母体=著作権者はすでに存在していないとみられるので、掲載の写真を転用させていただく。

まず真栄会館(真栄倶楽部)。
真栄会館
同書によれば、1952(昭和27)築。軟石の産地までは記されていない。前述の郷土史家・Ⅰさんによれば、建物は現真駒内御料札幌線沿い、厚別(アシリベツ)川と山部川の合流地点あたりにあった。

次に、清田農協倉庫。
清田農協倉庫
こちらは1933(昭和8)年築とのこと。清田小学校の隣にあった。
『札幌市立清田小学校開校100周年記念誌 きよた』2001年 に掲載されている空撮写真をみると、1981(昭和56)年にはこの建物が写っているが、1991(平成3)年には別の建物に変わっている。

注4
有明小学校の門柱は現在一柱のみだが、前掲『清田地区百年史』には二柱写っている写真が載っているので、こちらも以下転用する。
有明小学校
この門柱がアシリベツ軟石産という確証はまだ持っていない。しかし、この写真に写る旧校舎の建築年が1948(昭和23)年なので、門柱が同時期またはそれ以前の建立だとすれば、可能性は高い。

最後に、清田小学校の旧門柱です。
清田小学校門柱
これも、もしかしたらアシリベツ軟石かもしれません。

1901(明治34)年に「厚別(あしりべつ)小学校」として開校、区内で最も古い小学校です。
清田小学校門柱②

以上で、アシリベツ軟石についての話は終わります。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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