札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2014/10/31

札幌軟石五兄弟

“精進川軟石”の探訪譚が終わったところで、こんどは“アシリベツ軟石”の話です。

精進川軟石もアシリベツ軟石も、聞き慣れない方がほとんどだと思いますが、それもそのはず、私の勝手な命名です。
まあ、フツーは札幌軟石でしょう。このコトバはだいぶ定着してきた(?)ので、軟石フェティストはその先を行きます。

来たる11月3日に「札幌軟石発掘大作戦」の現地交流会を催します。
その行先がアシリベツです。

ここで地理をおさらいしておきます。
札幌軟石分布図
産業技術総合研究所地質調査総合センター(長い名前!)の地質分布図をベースに、軟石採掘場(石切場)跡をマッピングしました。
ピンク色が、「支笏溶(熔)結凝灰岩」が堆積している一帯です。
4万年前に支笏火山が大噴火し、火砕流が広がったところです。
火山の跡が、カルデラ湖(支笏湖)です(この地図の左下)。

川の浸食によって溶結凝灰岩が露頭し、明治時代になって石材として注目され、採掘されました。
もっとも大量に、長期間採石されたのが、赤い○で囲ったところ、豊平川(及びその支流の穴の川)流域です。穴の沢、後の石山です。
採石は1970年代まで続けられました。

現在唯一採石されているのが、青い○で囲ったところです。真駒内川の上流、常盤の㈱辻石材です。10月11日のブログで紹介しました。ここは「跡」ではなく、現役です。

橙色の○で囲ったのが、先日来お伝えしてきた精進川です。澄川と駒岡(町名としては真駒内)で採石されていたようなので、勝手ながら一括りにして「精進川軟石」と命名しました。

そして、黄色い○で囲ったところが、このたび探訪する厚別川です。北海道の河川管理上は「あつべつかわ」ですが、清田区内では「あしりべつかわ」と呼び習わしており、その流域産ということで「アシリベツ軟石」と命名しました。実はこの流域も、石切場が複数の地名に及んでいたようなので、川の名で一括りにしました。

もう一つ、ピンク色の○で囲ったところが、「島松軟石」です。その名のとおり島松川流域産です。ここは地元・北広島市の市民グループが歴史を掘り起こしていますので、またの機会にお伝えしたいと思います。

まことに手前味噌ですが、支笏溶結凝灰岩由来の軟石採掘、そのマッピングはこれが本邦初なのではないか、と密かに思っています。ダカラドウシタ?という話ですが。
本題のアシリベツ軟石の話に進めず、ひとまず終わります。
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2014/10/30

精進川渓谷 軟石探訪⑦ (終)

精進川軟石探訪、いよいよ佳境です。

畑仕事をしていた女性のお話では、軟石を採っていたのは元唐木田さん宅の裏手とのことです。
裏手に廻ってみましたが…。
駒岡石切場探索
裏手はすぐ斜面になっていますが、高木が生え、下草も茂っていて、よく判りません。

120~30mほど下流(南)に行くと…。
駒岡石切場探索②
土建屋さんの飯場らしき敷地で、足が止まりました。
ニオッてきました。

接近します…。
駒岡石切場探索③

このヴァーティカルな地形。
駒岡石切場探索④

上のほうは火山灰~非熔結層のようです。
駒岡石切場探索⑤
中から下の層は、板状節理のように見えます。
自然的な節理に、人為的な「掘切(ほっき)り」が加わった跡か?
いずれにしても、凝灰岩の熔結層と見ました。

さらに近づいて、見ると…。
駒岡石切場探索⑥
やや茶色がかった軽石状の斑が混じっています。

以上により、複数の地元在住者からのお話から、駒岡でも採石されていたことはほぼ間違いなく、軟石探偵は“精進川軟石”の跡をほぼ特定しました。
Where there is a will, there is a way.意志あるところ、道あり。石あるところ、道は開ける。

ところで、10月18日のブログで引用した『郷土誌 すみかわ』1981年によると、精進川沿いで軟石が採掘されていたのは「澄川389番地」で、1909(明治42)年から1928(昭和3)年までです(p.90-92)。

いっぽう、私が“発見”した駒岡の石切場の所在地は、「真駒内130番地」です。「澄川389番地」の南端より1㎞以上、上流です。そして、私が聞き取った方の話からすると、こちらは昭和20年代も採石されていたようです。その根拠は次のとおりです。

まず、採石の場所を元唐木田さん宅の裏手と教えてくださった農家の女性のお話。
この方は、70歳前後とお見受けしました。ご自分が「小さかった頃」採石していた、というお話からすると、昭和20年代と推理します。
もう一つは、駒岡で最初に話をお聴きした開拓一世Sさんのお話。
Sさんが語った「駒岡でも軟石を採っていた」という話も、第三者からの伝聞というより、ご自身の記憶という様子でした。
Sさんの入植は1947(昭和22)年です。

“精進川軟石”は、澄川389番地での採石を昭和初期に終えた後、戦後、駒岡で開拓とともに再び始められたのかもしれません。しかし、短命に終わったようです。
尾根の西側に当たる穴の沢(石山)での採掘のスケールメリットと輸送力にはかなわなかったのでしょう。

駒岡から地下鉄真駒内駅裏の桜山まで、精進川渓谷3.5㎞を歩きながら、馬車や馬橇で軟石を運んだであろう往時に想いを馳せました。

2014/10/29

精進川渓谷 軟石探訪⑥

幻?の精進川軟石を求めて、再び駒岡を訪ねました。

前もって地図を見て、切羽跡とおぼしき急傾斜地の当たりを付けましたが、なかなかそれらしい風景に出くわしません。
駒岡1区、精進川の右岸で、畑仕事をしている老夫婦がいました。
駒岡①
「この辺で軟石を採っていたという話を聞いたのですが、どこか判りませんでしょうか?」と問う私に、ご主人のほうは「?」という感じでしたが、奥さんが「(自分が)小さいころだね~。ちょっとの間だけど」と。
これは幸先が良い。
私「石山でなく、駒岡でもやっぱり採ってたんですか~。どの辺でしょう?」
奥さん「唐木田さんの家の裏…。家は軟石を使っていた。もう今はいないけどね」

「唐木田さんのお宅はどのあたりですか?」と尋ね、だいたいの場所を教えていただきました。
駒岡小学校のやや下流、左岸側です。

私「ところで、この辺は軟石(採掘)ではないんですか?」
奥さん「ここは、火山灰を採ってた」

精進川沿いの道を、駒岡小学校のほう(南)へ上りました。

途中、庭仕事をしていた女性に、唐木田さんの家がどの辺にあったかお訊きすると…。
駒岡 唐木田宅跡
そこはなんと、最初に訪れた日に軟石の塀と縁石を発見したお宅だったのです。

10月15日のブログで紹介したうちの一軒です。
そのとき、この縁石のことを「塀などに使われていたものを再利用した、と軟石探偵は見ました」と記しました。
軟石の風合いから直観的に感じたのですが、その可能性に自信を深めました。

この場所には現在、すでに別の方がお住まいで、住宅も新しいのですが、かつてお住まいだった唐木田さん宅に軟石が用いられていたという前述の聞取りからすると、この軟石はその名残ではなかろうか…。しかも、精進川産? 想像が膨らみます。

話が軟石からそれますが、唐木田さんというのは、郷土史の文献に登場する苗字です。
駒岡の地が1947(昭和22)年、満洲からの引揚者らによって開拓されたことは、10月16日のブログに記しました。
そのリーダーが「唐木田眞」という人でした。

駒岡小学校の近く、駒岡開拓記念会館の傍らに「開拓碑」があります。
駒岡 開拓碑

その碑文にも「団長 唐木田眞」の名前が刻まれています。
駒岡 開拓碑 碑文

さて、肝心の採石場跡は何処に在りや…?
次回に持ち越しです。

2014/10/28

精進川渓谷 軟石探訪⑤ または、“石あるところ、道あり”

中断していました精進川渓谷軟石探訪の続きです。

10月18日のブログで、支笏溶結凝灰岩の露頭らしき河床を精進川で見つけたことを記しました。
場所は、駒岡1区から下流(北)へ900mほどのところ、駒岡4号橋です(10/18ブログ掲載の地図の赤星印の地点)。
これが本当に溶結凝灰岩かどうかは、山の手博物館名誉館長のT先生の鑑定を仰ぐこととして、話を先に進めます。

この河床の右岸側が、地名としては「澄川」になり、郷土史の文献で石切場があったとされる場所です。
しかし、切羽跡らしい地形は確認できませんでした。

駒岡4号橋からやや下流、左岸側の崖でも露頭が見えました。
精進川左岸露頭①
これも、溶結凝灰岩の板状節理に見えなくもない。
街中で札幌軟石の物件を探しているときもそうですが、何でもそれらしく見えてきます。

近づいてよく見ると…。
精進川左岸露頭 拡大
軽石分らしい白斑があります。溶結しているようにも見える。
しかし、このあたりの精進川の左岸は、地名としては「真駒内」です。
「桜山」に連なる尾根で、こちらでは採石はしていなかったでしょう。

“精進川軟石”(これも勝手に命名しました)は幻に終わるかと思いきや、まだ続きます。

実は、駒岡開拓1世のSさんから、採石していた場所をもう一箇所、お聞きしました。
Sさん曰く「駒岡でも軟石を採ってたけど…。場所は、もう残ってないかなあ…」と。
澄川だけでなく、その上流でも軟石を採掘していた…。
これは私の知る限り、郷土史の本にも見当たらないことです。

日をあらためて駒岡にまた足を運びました。

2014/10/27

K小学校の謎な物件

赤瀬川原平師(この方には師と呼称します)が亡くなられたことを本日の新聞で知りました。
10月23日のブログで“超芸術トマソン”を記したのは、虫の知らせだったのでしょうか。
合掌。

さて、さる10月22日、「伏見さがし」という催しに参加しました。
新「伏見会館」の落成を記念して、「幌西第3分区町内会」が主催した行事です。
札幌の伏見稲荷のおひざ元にある町内会です。
私はその町内の住民ではないのですが、この地区にお住まいのMさんがお声掛けくださいました。Mさんは札幌建築鑑賞会の会員で、今回の企画が郷土の歴史をテーマにしたものなので、取り計らってくださったのです。

この地に長くお住まいで、しかも地元で小学校の先生をされていたというSさんのお話をお聴きしました。
Sさんのお話からは、史料を深く読み込んでおられることが伝わってきて、感服しました。
参加者は私を除き皆町内会の会員さんです。Sさんのお話に聞き手もいろどりを添え、楽しくなごやかな会でした。

実は、Sさんにお聞きしたかったことが私にはありました。
それは、この物件のことです。
K小学校 謎の物件①
「物件」という用語からして、赤瀬川師の路上観察学会の影響を受けておりますが。
「札幌軟石発掘大作戦2005 中央区の編」で、隊員のUさんから報告のあったモノです。
本体(らしきモノ)は軟石ではないのですが、周囲の突起が確かに軟石です。
軟石は瘤出し風に、丁寧に仕上げられています。一部欠けてしまったところもありますが。

この物件は、南10条西17丁目の小学校の敷地内に存在します。その小学校にSさんがお勤めされていたので、お尋ねしようと思ったわけです。

物件にもう少し近づいて観察します。
K小学校 謎の物件②
本体らしきモノには、鉄の棒が通っていて、一番上はタガ状のモノで嵌められています。
しかし、真ん中と一番下には、それが無い。
鉄の棒はボルト状になっているのですが、下のはナットが付いていたり、いなかったりと、まちまちです。

周囲の軟石の突起にも鉄の棒が通っていて、これは本体らしきモノへの侵入を防ぐ目的がありそうです。
しかし、鉄の棒が通っているのは一辺のみです。
軟石の突起も、四隅にありと思いきや、さにあらず。
これでは目的は果たせない。
そのためか、さらにその周囲に、今度はステンレス製の新しげな四柱が立ち、鎖が張られています。

ステンレスの柱と鎖を除いて、なんとも中途半端です。この中途半端に、私はとてもソソラレました。

Sさんによると、これは「国旗を立てるためのモノではないか」とのことです。
これで旗を立てるとなると、本体らしきモノのくぼみに旗竿を差し込むのでしょうか。
竿を支えるために鉄の棒が通っているのか…。
ほかの小学校にも、こういうモノがあるのだろうか…。

「国旗掲揚が、こんな中途半端なモノでよいのか?!」などと訝しんではいけません。

2014/10/26

カニタシャッターを探せ

札幌建築鑑賞会「大人の遠足2014秋の編」、二日目も無事終えることができました。
35名の参加で、本日も盛況でした。
南3条東2丁目のMUSEUMの木下さん、ご協力ありがとうございました。
スタッフの皆さん、お疲れ様でした。
二日間、街を巡り歩いて、日本清酒の「千歳鶴」が心地よく沁み渡りました。リトルジュースバー(南4条東3丁目)のフレッシュジュースもおいしかった!

今回の遠足の下見でスタッフNさんが発見した「カニタシャッター」の銘鈑です。
「文○シャッター」でも「三○シャッター」でもない、「カニタ式」です。
カニタシャッター
こちらは古い表記で、会社の所在地が『札幌市南○條東○丁目」と、政令市以前で、電話番号の局番も二ケタです。
Nさんによると、これを含め「カニタ」製が周辺に数件、確認されているそうです。
今のところ、今回歩いた東創成地区の一部に限られているようですが、好事家の皆さん、カニタシャッターを見つけたらご一報ください。

2014/10/25

大人の遠足2014秋の編

札幌建築鑑賞会「大人の遠足2014秋の編」、一日目を無事終えました。
当初20名の予定でしたが、多くの申込みがあり、本日は37名の参加でした。
この会では、観光名所というよりは、いわばフツーの街中を歩くので、30名規模になるとかなり大変です。
この「遠足」は人気の行事で、楽しみにしている方が多く、お断りするのが忍び難く、大勢になってしまいました。
明日もほぼ同数の予定です…。

本番では私を含むスタッフは参加者を誘導し、ガイドすることが主になりますが、それでも収穫がありました。

その一つがこちらです。
F商店
南5条西1丁目にある非鉄金属・ステンレス鋼材の卸販売の会社。新社屋は鉄筋のビルですが、旧社屋は1943(昭和18)年創業時の築とのこと。

当会スタッフSさんが社員の方にお願いして、内部を覗かせていただきました。僥倖です。
F商店内部
モノづくりの現場、という感じがします。
天井の梁材は、昔の木製電柱の再利用だそうです。いい味を出しています。
屋根の雪止め(というものを屋根に載せている建物も少なくなった…)も、元電柱とのこと。

もう一つがこちら。
MUSEUM
南3条東2丁目にある元製靴会社の問屋だった建物。大正期築と伝わります。正面からはわかりづらいのですが、側壁に札幌軟石が見られます。
今年の6月からファッション系の店舗+ギャラリーに甦り、内部を見せていただきました。

収穫というのはこちらです。
MUSEUM 営業七訓
2階のギャラリーの柱に、製靴問屋時代の“営業七訓”が貼られたまま残っています。
これは以前に数人で下見をしたとき見せていただいているのですが、七番目の「○○ヲ忘レルナ」の○○の二文字、紙が削れていて、解読できませんでした。
本日、大勢で見て、参加者の一人が言い当てました。とてもスッキリしました。

現在のスタッフが店を始めるにあたり、この柱に貼られていた石膏ボードを剥がして、この張り紙を見つけたそうです。
木目むき出しの柱がまた、いい味を出しています。

明日も無事済みますように…。


2014/10/24

和倉湯、ありき

札幌建築鑑賞会「大人の遠足2014秋の編」が明日・明後日に迫り、本日配布資料の印刷を終えました。

たぶん遠足当日は端折りそうな-しかも一部好事家向けの-「こぼれ話」を、この個人ブログで紹介しておきます。
南4条東1丁目にあった「和倉湯」というお風呂屋さん。
和倉湯
といっても、私がこの建物を知った1980年代半ばにはすでに廃業していました。この写真もそのころの撮影です。
残念なことに、看板建築的な正面がほんのちょっぴりしか写っていません。アーチ窓が連なっていたと記憶しています。

以前、このお風呂屋さんの名前を思わぬところで見つけました。
佐藤八郎著『ネヴオの記1930年代・札幌-文化運動の回想』1976年(1982年再版)です。

「ネヴオ(ネヴォ)」というのは、昭和戦前期の札幌にあった伝説的な喫茶店で、プロレタリア文化・芸術の運動家やその周辺の人々が集うたまり場でした(ということも本書で知りました)。小林多喜二や橋浦泰雄(田上さんと道東を旅した画家です)、大月源二、久保栄といった、私も知っている人物が登場します。伊福部昭、能勢真美という名前も出てきます。

その中の一人に富士井盛文という人がいます。「日本プロレタリア演劇同盟(プロット)北海道支部」を創設したメンバーの一人です。そして、その富士井さんが戦前の一時期、住んでいたのが「和倉湯」です。前掲書でご本人が次のように述懐しています(p.109)。
「…創成川沿いにあった、和倉湯という銭湯の二階の一間を借りることが出来たので、私たち夫婦はそこへ引越し…」

プロットは多くのメンバーが官憲に検挙され、富士井さんもある日、和倉湯に帰ったところを捕まりました。

その後、「いろいろと日常的に世話になった和倉湯は経営不振で、廃業することになったので、私達夫婦は東本願寺の近くに一間をみつけて引越した」とのことです。
和倉湯は戦前に廃業して、建物だけずっと残っていたのだろうか…。うーん、それはちょっと考えづらい。

その建物も、1980年代後半~1990年代前半には取り壊されたと思います。
跡地にはホテルが建てられました。

南隣にある質屋さんが経営する駐車場から跡地方向を見たのが、こちらです。
和倉湯跡
この軟石の塀を、在りし日の演劇人も見ていたかもしれない…。

2014/10/23

高所

札幌建築鑑賞会の「大人の遠足2014秋の編」、いよいよ近づいてきました。

当日参加者に配布する資料は毎度とても充実した内容ですが、これは一にかかってスタッフSさんの抜群な編集力に依っています。
私も原稿の一部を担当したのですが、札幌の歴史の基本的な部分が難題でした。基本的なところは、却ってムズカシイ。

例えば、1871(明治4)年に開拓使の「本陣」が、現在の南2条東1丁目に建てられたこと。
これは『新札幌市史第八巻Ⅱ』2008年 の年表に載っていますが(p.44)、一方『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年 にはその場所が「南一東一」と記されています(口絵「明治四年」のページ)。
さて、本陣が建てられたのは南2条か南1条か…。
刊行年が後の『市史』のほうが正しいだろう、とは思うのですが、「念のために…」と調べることになります。

開拓使はこれより先に、創成川の西側に本陣を設けています。つまり東1丁目のほうはいわば「新本陣」です。
前掲『さっぽろ文庫50』によると、この「新本陣」に1876(明治9)年、W.S.クラーク博士が到着し、以後宿舎とします。そして、翌1877(明治10)年、ここから札幌を離れます。そのときの写真が残っているのですが、それには「開拓使旧本陣」と記されています(『さっぽろ文庫61 農学校物語』1992年 など)。
ナンデ、新しいほうの本陣に「旧」が付くのか? これも「念のために…」と調べることになります。

「南1条」か「南2条」か、「新本陣」か「旧本陣」か、資料に載せる文字数にしたら、一文字、二文字の話です。
しかし、自信を持ってそれを載せるために、かなりの時間を費やします。

これらの疑問は市公文書館のEさんに教えを乞い、合点がいきました。謎が解けると気持ちがいいものです。

ヤヤコシイ話をしましたので、最後に肩の凝らない画像をお見せして本日は終わります。
遠足で歩くエリアで見つけた物件です。
高所
“「超芸術トマソン”で概念規定された、「高所」ですね。



2014/10/22

明治30年代の古地図に見る創成川東

札幌建築鑑賞会「大人の遠足2014秋の編」の予習を兼ねて、中央図書館で古地図を渉猟してきました。

1899(明治32)年の「札幌市内明細案内図」の一部です。
明治32年札幌市内明細案内図
画像の上端が南1条、下端が南6条、左端に創成川、東1丁目、右端が東4丁目です。
橙色の地に文字が書き込まれているのは、さまざまな“なりわい”の屋号です。
農具、馬具、蹄鉄という文字が目立ちます。

赤丸で囲んだのが、先日来話題にしている“わちがい”の金岩さんです。「農具製造」と書かれています。
南4条東2丁目です。
また、黄色い丸で囲んだところも同じく“わちがい”の金岩さんですが、こちらは「農具鍛冶」と書かれています。
鍛錬の工場をこちらに設けたのでしょうか。場所は南5条東4丁目のあたりです。

一昨日(10/20)のブログで記したように、金岩さんは東3丁目に店を構えるのですが(その場所に石蔵が現存している)、これは1910(明治43)年の「札幌区商工新地図」に出てきます。

これから推測すると、現存の石蔵の建築年は1900~1910年、明治40年前後かな~と思います。

なお、時代は下って、1965(昭和40)年の「札幌市全戸別明細図」(大通以南版)を見ると、南5条東4丁目あたりに「金岩鉄工所」がありました。前掲1899年地図の黄色い丸囲みの場所とほぼ一致します。

昨日で終わるはずが、また“わちがい”の話になってしまいました。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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