札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2014/08/31

札幌の、或る郵便局

以前に三岸好太郎美術館で、北大の池上先生の講演を聴く機会がありました。
三岸のアトリエを中心テーマとしつつ、20世紀初期欧州のモダニズム建築の系譜など、興味深いお話でした。

先生は「札幌でも(モダニズム建築を)、つい最近見つけました」と、ある建物をスライドで見せてくれました。
私はそれが(本題の三岸のアトリエよりも)印象に残って、後日たまたま近くに行った折、写真に撮ってきました。
それがこの建物です(2012年撮影)。
北大病院前郵便局

モダニズムといっても具体的に何だったか、表現主義だったように思いますが、記憶が定かではありません。
しかも、先生はあくまでも一般向けにわかりやすい「モノのたとえ」の次元で言われたことでしょうから、額面どおりに受け止めてはいけないと思うのですが、しかしフォルムが脳裏に焼き付きました。

なぜこの話を思い出したかというと、昨日、行啓通りの近くを歩いてたまたま目にしたお宅がきっかけです。
それがこちら。
曲面のお宅
曲面のインパクトは先の建物が勝りますが、こちらは数で勝負というか…。
路上から少し近づいて拝見したら、外壁は波板のトタンのようでした。
スポンサーサイト

2014/08/30

かつて中根邸ありき。

本日、中島公園へ行ったついでに、南13条西5丁目のF氏宅跡に寄ってみました。
8月1日のブログで記したとおり、ここはかつて札幌の画壇サロンたりし「中根邸」があったところです。

札幌軟石の座敷蔵はその時点ですでになくなっていましたが、門塀と庭木が残っていました。
それで「門塀と庭木はぜひ遺してほしいものです」と記したのですが、本日観たら…。
旧中根邸跡①
門塀が取り払われていました。中根邸を偲ぶよすがだったのですが、残念です。

せめてかつての写真で往時に想いを寄せましょう。
旧中根邸跡②
これは、2011年5月、札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」に先立って撮ったものです。
札幌芸術の森美術館『中根邸の画家たち』2000年のp.19に、「冬の中根邸」1931年という油彩が載っていて、描かれている門塀がこれに見えます。

門柱は花崗岩のようでしたが、板塀の底部は最下段に札幌軟石、その上に煉瓦を積んでいました。
門柱には…。
旧中根邸跡③
「一聲荘」という表札が架かっていました。

鑑賞会で2006年に「札幌軟石発掘大作戦・中央区編」の展示をしたとき、観覧者のお一人から「石蔵の中は畳敷きで、風流の会がよく開かれていた。娘時代に茶道を習いに通っていた」という話がありました(スタッフSさん聞き取り)。
前掲『中根邸の画家たち』によると「一九四九年から一九五三年まで『翠光荘』という割烹旅館として使用された」とあります(p.14)。「一聲荘」は、その後かしら。

今月、この場所に建てられるマンションの宣伝広告が新聞紙面に載りました。
旧中根邸跡④
「札幌庭園邸宅 札幌都心に残された、百年の景を受け継ぐ邸」と謳われています。

旧中根邸跡⑤
広告には、散文詩のような文も添えられていました。
「人生を極める住まい。水辺にゆれる記憶。」

かつてのお屋敷跡に建てられるマンションのパンフレットを集めるのが、私の密かな趣味の一つです。
また貰ってこよっと…。

ところで、門塀が取り払われたおかげで、フェンス越しにお庭の様子を窺い知ることができました。
さしあたってどなたのプライバシーの侵害にもならないかと思って、覗いてみると…。
旧中根邸跡⑥
おぉ。かつての鴨々川の分流とおぼしき微地形を確認できました。うーん、まさに「水辺にゆれる記憶」か。

2014/08/29

美唄の札幌軟石

早く札幌の時空逍遥に戻りたいのですが、どうも気持ちがあちこち寄り道します。

美唄に行ってきました。
JRの待ち時間を利用して、駅周辺を散策。
いつも車窓から眺めていた軟石倉庫を間近に見ました。
美唄軟石倉庫①
3棟並んでいるのは壮観です。
これが札幌軟石という確証はないのですが、地理的・地学的・歴史的にみると札幌の可能性が高いと推測します。

まず地理的にみて。
美唄の場合、採石の地元としてもう一つ考えられるとしたら、美瑛でしょうか。
しかし、運搬の事情(鉄道経路)からすると、石山-(定鉄)-札幌-美唄のほうがはるかに近い。

次に地学的にみて。
美瑛軟石はもう少し明度が高く、白っぽかったように思います。

そして歴史的にみて。
以前に北大の池上重康先生から、札幌軟石は鉄道の普及とともにかなり遠方まで運ばれた、とお聞きしました。
流通事情が整うと、地元での採石よりも生産量が上回る札幌産が用いられたようです。

美唄軟石倉庫②
もともと開口部があったのでしょうか。自然な感じで塞がれています。
楣がアーチ型に切られているのが、心憎い。

美唄市農業協同組合『風雪50年』1998年に北側2棟とおぼしき写真が載っていて(p.23)、「現在も使われる石造倉庫 昭和12年建設」とキャプションが付いていました。前身の産業組合時代です。また、同書巻末の年表に、同じ年の5月に「美唄大火」があったことが記されています。『美唄市百年史』1991年によると、市街地の372戸を焼失する市史上最大の火災だったようです。石造倉庫を建てた背景と考えられます。

美唄軟石倉庫③
一番北側の棟の妻面に「三井の石炭」の看板。ヤマの記憶。美唄は三井や三菱の炭鉱があったところで知られています。

美唄 お地蔵さん
バスで山のほうに向かう途中で見かけた石仏群、というかお地蔵さん。
こちらも軟石っぽい。

美唄 土蔵?
旧美唄鉄道東明駅の近くの民家で見つけた蔵。
軒蛇腹や妻面のブロークンペディメント、その真ん中の印からして、“蔵”な感じがしました。
外壁はモルタル塗りで、組積造ではないように見受けられます。土蔵造でしょうか。
山のほうに入ると必ずしも石造ではないのかな、と思ったのですが…。

気になって昔のアルバムを見直しました。
美唄 我路の石蔵①
ありました。東明から美唄川のさらに上流、我路(がろ)町で1998年に撮ったものです。
この上流に三菱の炭鉱ができ、大正初期、美唄鉄道の開通に前後してマチが作られました。当時の美唄の市街地に匹敵するマチが1年でできたそうです(「建築散歩~中そらち 参考資料」美唄市教育委員会1998年)。

美唄 我路の石蔵②
商家の蔵とおぼしきこの建物の軟石は、美鉄によって運ばれたのかもしれません。
基礎は煉瓦を積み、胴蛇腹を回しています。軟石の表面はビシャンで叩きでしょうか。

さらに気になって、別のアルバムを見直したら…。
万字の軟石①
こちらは美唄ではなく、旧国鉄万字線沿いで見つけた札幌軟石(たぶん)物件です。1999年の撮影。
私は1990年代、空知のヤマの遺構に凝っていて、あちこち廻りました。
具体的な場所をメモしてなかったのですが、旧万字炭鉱の近くだったと思います。
これも鉄路で運ばれたやに想います。

万字の軟石②
母屋の本体は木造のようで、両側面、袖壁状に軟石が用いられています。

廃墟と化しているのをいいことに、裏手に廻ってみると…。
万字の軟石③
母屋の後ろに蔵があったのですが、こちらは土蔵造のようです。
母屋の軟石の側壁が土蔵のところでは煉瓦とモルタルに変わり、その奥(画像でいうと左側)でまた軟石が復活している。なかなか感動モノでした。蔵も、観音開きの扉は蛇腹を施していて、手が込んでいます。先に土蔵+煉瓦で蔵を造り、軟石はその後からかな、などと想像します。

かくして、鉄路とともに山峡の地へ伝播した札幌軟石(と言い切ってしまいますが)を、空知で逍遥しました。

2014/08/28

尾張「モーニング」考

尾張地方で独自に進化を遂げてきた風物の一つに、喫茶店の「モーニング」があります。

モーニング
珈琲を頼むと、トーストやらゆで卵やら付いてくる、アレです。
わが郷里の近辺(尾張西部)が元祖らしく、名古屋市内と比べても中身が豊富な印象を受けます。
昔に比べて具材が増えているような気もします。定向進化というのはオソロシイ。

画像は、名鉄勝幡駅(愛知県愛西市)近くの喫茶店の「モーニング」です。
これで午前中390円。珈琲だけでも同じ値段。
小皿の小倉餡は一瞬、食後のデザートかと思いましたが、「小倉トースト」にするものでした。ちゃんとペーストナイフも付いている。これも名古屋の喫茶店の名物ですね。
私は、「モーニング」や小倉トーストがこの地方特有のものだとは愛知県を出るまで思っていませんでした。札幌へ来て、それらが無いことに気づき、少し寂しい思いをしました。札幌などのモーニングセットは、珈琲単品とセットで料金に差がありますが、郷里の「モーニング」は基本、珈琲単品と同じ値段です。つまり、「セット」という概念が、無い。しかも、「これでよく経営が成り立つな~」と思うくらい、安い。モーニングサービスという域を超えている。

「モーニング」発祥の地を任ずる愛知県一宮市で、町おこしの起爆剤にしようと「モーニング協議会」を作ったという新聞記事を前に読みました。このあたりはかつて繊維産業がさかんで、今もノコギリ屋根の工場(こうば)が結構残っているのですが、機屋(はたや)さんが商談などで喫茶店をよく使うことから「モーニング」が発達したという話を聞いたことがあります。これは私の想像ですが、機屋さんというのは「がっちゃん、がっちゃん」という機織りの音が絶えず大きく、「どこか静かなところで話を…」ということで喫茶店が増えたのかな、などと思います。ただ、「モーニング」進化の説明としては、不十分ですが。

中学時代の友人の話では、一日中「モーニング」をやっている店があるとのこと。もはや本来の語義から完全に転化して、別個の概念を形成しているようです。

小倉トーストについては、札幌の「コージーコーナー」という老舗の喫茶店で数年前の一時期、メニューに加えられ、「おぉ」と感動しましたが、残念ながらしばらくしたら消えました。


2014/08/27

稲沢市中高記念館、または郷里で時空逍遥③

引き続き中高記念館の細部探訪です。

中高記念館 アーチ?
擬洋風を特徴づけている2階建て車寄せをさらにつぶさに見ると…。
隅柱間の上部に三方、水平材を回しています。
今、「水平材」と記しましたが、これが私には水平には見えない。極めて緩やかな円弧に見える。
これはもしかしたらアーチではないか…。
これをアーチに見立てると、その真ん中に立っている束がキーストーンに見えなくもない。いや、見えないか。
しかし、このなんとも微妙な円弧感に、私は文明開化を感じずにはいられません。

さて、ここらでまとめに入ります。
中高記念館は明治初期のいわゆる擬洋風の系譜に属する建物だと思います。
では、その中で全国的にみてどのように位置づけられるのでしょうか。
…という問いに答えられるほど擬洋風を見ていないし、目も肥えていないのですが、例によって藤照先生を手引きにして考えてみました。

まず『日本の近代建築(上)』から、幾つか気になった点をピックアップしました。
①擬洋風は「漆喰系」、なかんづく明治9年の開智学校で頂点を極め、同時期に出現してきた「下見板系」の流布は擬洋風の下火と軌を一にしていた(p.118)。
②その下見板系も明治20年代で盛りを過ぎ、面白みが消え、30年代以降は「四角な箱に窓を開けて車寄せを突き出しただけの姿」に変わっていった(p.130-131)。
③擬洋風の本質は、和風の混用や和洋折衷ではなく、洋風の“真似そこない”=創造性の変種としての擬似性と奇想性にある(p.151-152)。
④全国的には分布に偏りがあり、質量ともに東北・関東・中部の東日本が優勢だった。西日本に少ないのは、京都をはじめとする伝統志向・規範意識の強さが背景にある(p.153-154)。


…ということから中高記念館を眺めたとき、明治13年という建築年が擬洋風の爛熟期のやや後とはいえ、地味です。尾張地方は愛知県西部つまり中部地方とはいえ、距離的にも心理的にも東京よりは京都に近い。そして先に述べたように、古代中世から連綿と伝わる寺社系文化遺産の宝庫という土地柄です。地味さの依って来る所以はこの風土にあったのかもしれません。結果として、下見板系の盛期にあって、「四角な箱に窓を開けて車寄せを突き出しただけの姿」に近づく過程を先取った。

しかし。
質量ともに圧倒的な寺社建築や旧宿場町の町屋が軒を連ねる風土にあって、見よう見まねで精一杯(かどうかはわかりませんが)洋風を試みた棟梁を、私は想います。

国府宮神社 楼門
こちらは国府宮神社(正式には尾張大国霊神社)の楼門。室町時代の建築で、国指定重文です。中高記念館は現在、この神社の参道に面して保存されています。


豊平館
中高記念館が建てられた1880(明治13)年、北海道・札幌では、開拓使がその集大成ともいえる傑作・豊平館を仕上げました(修復工事中のため、画像は『札幌の文化財』2010年から転載)。同年に建てられた和洋入り混じりの建築というだけで、いきなり豊平館を引き合いに出すのは無茶というものですが、豊平館が米国直伝の洋風の咀嚼吸収消化を経た「日本化」(『日本の近代建築(上)』p.41)であるのに比べ、かたや中高記念館は、手元にろくな教科書もないまま、又聞きで、それも“恐る恐る”の「洋風化」という感じがします。しかし、それゆえに愛しみたくなります。

越野武先生は『北海道の初期洋風建築の研究』1993年で次のように記しています。
「洋風建築が系譜として西欧の建築につながることは当然としても、系譜にのみ力点をおいて見ることは、洋風建築を、主幹に対する抹消ないしは亜流とする見方に帰着するであろう。文化交流史の研究はそれではまったく不十分かつ不毛であって、われわれの関心をひくのは、ひとつの文化体系が外来の刺激をうけて引き起こす反応のプロセスなのである」(同書p.342)。
中高記念館を、擬洋風のさらに傍系としてのみ見るのではなく、わが郷里の明治初期の「反応のプロセス」として尊びたいと思います。

この場所にクルマで同行してくれた中学時代の友人に、中高記念館を紹介した新聞記事の切り抜きを見せてもらいました。「あいち遺産」という中日新聞の連載で、今年の6月頃の記事だったと思います。
その記事では、『稲沢市史』を引いてエピソードを伝えています。戦前、この校舎で学んだ卒業生が建物の劣化を心配して保存会を結成し、その結果1940(昭和15)年、移築保存に至り、「中高館」と名付けられたとのことです。
わが郷里にあって唯一の、といってもよい明治の洋風建築が、愛着を持っていた市民の熱意によって今遺っていることを知り、とても嬉しく思いました。

以上、夏の「大人の自由研究」でした。

2014/08/26

稲沢市中高記念館、または郷里で時空逍遥②

郷里の愛知県稲沢市は、文化財の数がとても多いところです。
尾張の国の国府として国衙が置かれたとされる古代からの歴史の積み重ねを反映しているのでしょう。
『稲沢歴史探訪』によると、国指定重文が23件、県指定が32件、市指定が111件。
これは2004年当時、旧祖父江町・平和町と合併する前の数です。今はもっと増えていると思います。

ちなみに札幌は2010年当時で、国指定が史跡も含め15件、道指定が3件、市指定が9件です(登録は除く)。
稲沢市の人口は合併前で約10万だったと思いますので、人口規模からしても文化財の多さが窺い知れます。
その多くは神社仏閣系の建造物や書画、彫刻、工芸品などで、江戸時代までのものが大半です。
明治以降の文化財は極めて少なく、その一つが「中高記念館」です。社寺建築以外では唯一(合併前の話)です。

その中高記念館を、あらためて眺めてみます。
中高記念館②

一口に「擬洋風」といっても、それをどう理解するか、深入りするのは私には手に余ります。
とりあえず藤照先生の『日本の近代建築(上)-幕末・明治編-』1993年をベースに、表面的なことをなぞってみます。
また、この建物は移築を繰り返しており、その都度改変された可能性もあり、現状がどの程度創建時に忠実なのか私にはわかりません。「現状を見て」という前提で(しかも外観の意匠に限って)話を進めます。

瓦屋根に下見板張り。下見板は押し縁。淡いピンク色のペンキ塗り。ガラス窓は引違い。正面中央に2階建ての車寄せ。

まず下見板張り。
藤照先生によれば、「下見板系擬洋風」は、西回りルートで北海道に入ったものが山形に飛び火し、全国に散らばった、と。「漆喰系擬洋風」が開智学校1876(明治9)年でピークを迎えた頃に「下見板系」は始まり、明治10年代初頭で頂点に達し、「漆喰系」にとって代わり、20年代には衰退する。
中高記念館もそんな時代です。しかし、押し縁下見。しかし、ペンキを塗っている。下見板系擬洋風の、さらに亜種?

次に車寄せ。
「とりわけ車寄せは(ヨーロッパでは)一階建てでちょこりと取りつくものなのに、なぜか日本の擬洋風は下が車寄せ、上がヴェランダ状になって二階分突き出す」(『日本の近代建築(上)』p.139)。
「ギリシア神殿に由来する幅広で二階分の高さを持つ車寄せ(ポーチコ)の形式は、東回りルートで伝わり、ウォートルスから林忠恕をへて全国各地の棟梁へと手渡されていったのだった。しかし、元ネタとなったパラディアニズムにどんな関心もない棟梁たちは、プロポーションを変え、車寄せを縦長に突き出すが、なぜ横長を縦長に変えたかというと、日本の伝統にしたがったものと思われる」(同上、p.139~140)。
中高記念館は、東回りヴェランダコロニアルと西回り下見板コロニアルのデフォルメ結合体の、一亜種でしょうか。

ところで、二階のヴェランダの高欄というか、手すり子。この建物の装飾的な細部です。
中高記念館 手すり子
束ねた糸を何箇所かで縛ったようなこのカタチ、一般的なのでしょうか(奇妙奇天烈を旨とする擬洋風に、一般的もあったものではないが…)?
『博物館明治村ガイドブック』1985年では、“とっくり型”の手すり子を紹介し、それを「ルネサンス以降に発達したもの」と説明しています(p.25「大井牛肉店」の項)。

豊平館 手すり子
言われてみたら、手近なところでは豊平館1880(明治13)年(中高記念館と同年築)のバルコニーの手すり子が“とっくり型”でした。画像は、2013年10月に見学した際に撮った豊平館の手すり子です。ちょうど修復工事中で、手すり子を間近に見ることができました。

写真でしか見たことがありませんが、ウォートルスの「泉布観」1891(明治4)年のヴェランダ(つまり日本における2階建て車寄せの元祖)のも、“とっくり型”のようです(『日本建築様式史』1999年、p.137)。
…と、手元にある建築関係の本をぱらぱら見ていったら、“とっくり型”は結構ありましたが、そうでない型も色々あることがわかりました。中高記念館の型が何の“見よう見まね”なのかは、わかりません。






2014/08/25

稲沢市中高記念館、または郷里で時空逍遥

久しぶりに郷里に帰りました。
愛知県稲沢市。
母の入居しているケアハウスに泊めてもらっていたのですが、最寄りのバス停まで歩いて20~30分かかります。
郷里はこの時期大変蒸し暑く、外へ出歩く気もなかなか起きません。
それで、冷房の効いた母の施設に留まっていることが多かったのですが、中学時代の友人がクルマを出してくれて、買い物に付き合ってくれました。

帰途立ち寄ったのがこちら。
中高記念館
中高記念館。市の文化財に指定されている建物です。「中高」は「中島郡高等小学校」の意味です。稲沢市のいわゆる中心市街地は、東海道と中山道を結ぶ「美濃路」の宿場町の一つ、「稲葉宿」があったところで、明治になってからは郡役所が置かれました。1887(明治20)年、中島郡の全域を学区とする高等小学校として使われたのがこの建物でした(日下英之『稲沢歴史探訪』2004年)。

ただし、この建物の建築年は1880(明治13)年です。
稲沢市文化財所有者連絡協議会『稲沢の文化財案内』2009年は次のように記しています。
「この建物は明治十三年(一八八○)建立の記録があるが、何に使用されたか明らかでない」。
つまり、明治20年までの最初の7年間が空白というわけです。
そこがまた、時空逍遥人の探究心をかきたてます。

詳しい資史料を見ておりませんが、私なりに推理してみました。
この擬洋風な感じは、第一印象的に明治初期の官公署建築を想起させます。

ところで、現地の説明板には「開校(引用者注:中島郡高等小学校)当初は、稲葉村禅源寺山にあった」とあります。
旧美濃路の宿場町に禅源寺という古刹があります。ここがまた歴史的な来歴を持つお寺で、前掲『稲沢歴史探訪」によると、朝鮮通信使や琉球使節が立ち寄った記録があるのですが、そちらには寄り道しないで話を進めます。
高等小学校があったという「稲葉村禅源寺山」というのは、このお寺の境内またはその付近だったのではないかと思います。

『稲沢の歴史探訪』では、明治期の学校教育制度の変遷に触れています。
高等小学校は1886(明治19)年の「小学校令」に基づきますが、その前は1879(明治12)年の「教育令」で、当時の村単位に「○○学校」という名の小学校が作られました。さらにその前は1872(明治5)年の学制発布で、これに基づき旧稲葉村を学区として「第十二小学知新学校」が開校したそうです。その所在地が「稲葉村禅源寺」と同書にありました。
江戸時代の寺子屋ではありませんが、お寺の敷地界隈に小学校を建てるというのは何となく頷けます。
禅源寺界隈は明治の初期から学校にゆかりがあったようです。

短絡的ですが、この中高記念館は明治12年に出された教育令に基づく学校(小学校)として建てられたのではないか。
…という程度のことは、もちろん私でなくてもすぐに思いつくでしょうが、今もって当初の用途が不明とされているのは、確たる証拠がないからでしょう。その分、想像の世界を膨らませることにしましょう。

話はまったく変わりますが、この建物の手前にある木々が、造形的に異彩を放っています。
稲沢市は全国有数の植木苗木の産地ですが、さすが、というべきか…。

2014/08/19

伝言ゲーム現象再考、または洋風な面影

前回のブログで、「伝言ゲーム現象」について長々と考察しました。
百数十ページの本の中の、わずか2ページでほぼ3件、その現象を“発見”できました。

あらためて思ったのは、「世の中には、こういうことって実はいっぱいあるんだろうな~」ということです。
多くの著作を持つ“流行作家”(たぶん)が、信頼度の高い(たぶん)新聞社を版元にして出した本ですら、です。
いわんや、ネット上にハンランする有象無象においてをや。
かくいう私自身が綴る内容も、伝言ゲーム現象の再生産に加担していない、という保証はありません。

学術的な世界であれば、一つの命題を正当化するためには、根拠(引用元や追試可能な実証データなど)に基づく論理構成が求められます。根拠を示さない言説は、何も言っていないに等しい。根拠に疑義があれば厳しく糺されます。
しかし、“世間一般”では、必ずしもそうではない。自分でもブログをやるようになって実感するのですが、特に電網世界では、単刀直入が好まれるようです。しかも匿名性が高く、責任感が担保されづらい面があります。結果として、仮説・推論の域を出ないコトと実証済みの結論の境目がつかなくなる。

活字になっている情報、当たり前のコトのように断定形で語られる情報を鵜呑みにするのは、アブナイ。
自らは伝言ゲーム現象を起こさないように心がけつつ、世間でのそれを楽しむようにしたいと思います。
心がけのポイントは以下の3点です。
①できる限り、一次情報に当たる。
②ウラを取る(口承情報を文献史料で確かめる、など)。
③引用出典などの根拠を明らかにし、伝聞情報は伝聞形、推定情報は推定形で記述する(これが文章をまだるっこしくする原因ですが)。


閑話休題。
札幌建築鑑賞会で出した『さっぽろ再生建物案内』第二版2003年で、Y先生旧宅(北6条西20丁目、現サッポロ珈琲館北円山店)を紹介した際、「まだ札幌の郊外だったこのあたりには、牧歌的な風景の中に洋風の住宅が建っていた。今もその面影が残る」と記しました。その根拠にしたのは、Y先生に見せていただいた昭和戦前の写真と、本を出した当時の界隈の様子です。

Y先生旧宅ご近所(現存せず)
こちらは、Y先生旧宅のご近所にあった建物です。
記憶が定かでないのですが、2000年頃の撮影で、Y先生旧宅の東側にあったと思います。その後解体され、現存していません。
下見板張りに2階は上げ下げ窓、折下げた玄関破風には三本のブラケット。何となく洋風なモチーフを感じます。

Y先生旧宅ご近所②(現存せず)
同じ建物を側面から見たものです。総2階建てだったんですね。

さて、それから10年以上経た現在、「今もその面影が残る」といえるだろうか。

円窓の家
すぐご近所で見かけたお宅。下見板張りに円窓、というところに洋風なモダンを感じました。

三本ブラケットの家
こちらもご近所のお宅。ドイツモルタルっぽい玄関破風にスティックスタイル。そして三本ブラケット。
面影を発見できました。

2014/08/18

札幌の北炭②(続々)、または伝言ゲーム現象

元北大教授Y先生旧宅を再利用したサッポロ珈琲館北円山店(北6条西20丁目)で、珈琲を一服しました。
レジのところに、同店で作ったチラシが置いてありましたので、もらってきました。

サッポロ珈琲館チラシ
それがこちらです。次のような文章が添えられています。

「牧歌的な田園風景が広がる桑園の地に北海道大学教授であった○○氏(引用者注:Y先生のお名前)が私邸を構えたのは、1931(昭和6)年の事でした。氏の私邸は1965(昭和40)年の氏の転居後もそのモダンな佇まい故に取り壊されること無く再利用が重ねられ、…(以下略)」。


ところで、私が以前にY先生から聞き取り、札幌建築鑑賞会の『さっぽろ再生建物案内』で紹介した文面は次のとおりです(以下同書第二版2003年から)。

「1931(昭和6)年築の木造住宅を再利用した喫茶店。1965(昭和40)年まで、元北大教授・○○さん(引用者注:Y先生)の住宅だった。○○さんは1933(昭和8)年、小学校2年の時神戸から札幌に来た。まだ札幌の郊外だったこのあたりには、牧歌的な風景の中に洋風の住宅が建っていた。今もその面影が残る(以下略)」。


この文面では記していませんが、Y先生一家がこの住宅にお住まいになったのは1935(昭和10)年からです。1931(昭和6)年というのは、前居住者のOさんがこの建物を建てた年です。それが、チラシでは1931年にY先生がここに「私邸を構えた」ことになっています。これは一種の「伝言ゲーム現象」かと思います。

ついでにいうと、チラシの文章だと時制的にみて、Y先生が北大教授のときに「私邸を構えた」かのようにも解されます。Y先生がこの住宅にお住まいになったのは小学生のときなのですが、Y先生のお年をご存じない人には、そう読める文です。

念のため申し添えますが、ここで言いたいのは「チラシの文章が間違っている。直しなさい」ということではありません。そうだったら、直接お店に言います。私がY先生から聞き取ったことも「100%、絶対正しい」という裏付けはないことですし、ここでは伝言ゲーム現象として楽しみたいと思います。サッポロ珈琲館が古き建物をうまく再利用していることにも敬意を表しています。


その上でもう一つ、これも伝言ゲーム現象ではないかと私がひそかに思っている事例を紹介します。
千石涼太郎著『店にレトロの風情あり~札幌 古民家・石蔵・煉瓦倉庫めぐり~』2010年です。
同書でもサッポロ珈琲館北円山店が紹介されており、少々長くなりますが以下引用します(p.138)。

「櫻月は北大初の女性教授の旧邸、インソムニアは北大教授から道内の国立大学の学長を歴任した学者の旧書斎。そして、このサッポロ珈琲館北円山店は、北大教授の○○氏(引用者注:Y先生)の旧邸。さすがというべきか、当たり前なのかはわからないが、「北大の先生のお住まいは、しっかり造られたせいか、後世に残るんだなあ」というのが、この建物を知ったときの第一印象である。一九三一(昭和六)年に建てられた当初、船会社の社員寮であったが、一九三五(昭和一○)年からの四十年間は、○○(引用者注:Y先生)邸として使用されている(以下略)」。


札幌では、「北大教授宅」(特に戦前築の)に建築文化史的な重みというか、位置づけがあるように思います。桑園博士町の諸住宅しかり、杉野目家住宅1933年築(登録有形文化財)しかり、旧小熊邸1927年築・1998年再現(札幌景観資産)しかり。
ここでも、サッポロ珈琲館北円山店が、「櫻月」(桂田先生旧宅、2014年建物解体)や「インソムニア」(田所先生旧書斎、現存)と一緒に並べられ、「北大教授宅」のブランドでオーラが放たれるようです。記されいるとおり、あくまでも著者の「第一印象」ですから、正誤の問題ではありません。まあ私としては、「北大の先生が在職当時に自宅として建てた」諸住宅と、「幼少時に引っ越して来て、そこで育って後に北大教授になった」住宅との間には、線を引きたいのですが。もちろん前者が後者より価値が高い、などではまったくありません。Y先生旧宅というのは、それ自体として高く評価されるべきです。

前掲『店にレトロの~』2010年では、「一九三一(昭和六)年に建てられた当初、船会社の社員寮であったが」と、建物の前歴にもちゃんと触れています。「船会社の社員寮」? ここに私は伝言ゲーム現象の真骨頂を見ます。
前掲『さっぽろ再生建物案内』第二版2003年ではどう記したかというと…(p.61)。
「○○家(引用者注:Y先生一家)が住む前は北海道炭鑛(引用者注:礦)汽船社員の住宅だった」。
思うに、北炭の正式名称を記したばっかりに、「汽船」に引っ張られて「船会社」となり、「社員の住宅」が「社員寮」に化けたのではなかろうか? これが私の仮説です。
ちなみに、北炭はもちろん名前のとおり船舶も所有し、海運業(元々は石炭輸送のためであろう)も営んでいたには違いないのですが、「船会社」という響きからは「あの、北炭」は到底イメージしづらい。

『店にレトロの~』で著者が「しっかり造られたせいか、後世に残るんだなあ」という印象をせっかく抱いたのに、元は「船会社の社員寮」だった、では残念ながらそれが生きてきません。それを贔屓の引き倒しとみるかどうかは、これまた主観の問題ですが、広大な山林を持っていた「あの、北炭」の、しかも木材の目利きだった社員が建てた住宅、というほうに、私は物語を感じます。

同書で、Y先生の住宅として使われた期間を「一九三五(昭和一○)年からの四十年間」としていますが、私が先生から直接聞き取った話では1935年から1965(昭和40)年までで、つまり30年間でした。これももしかしたら伝言ゲーム現象で、「昭和40年」が「四十年間」に転化したのかもしれません。


同書ではさらに、「サッポロ珈琲館の本店は、一九二四(大正十三)年に建てられた旧北海道工業試験場」と記されています(p.140)。私が以前に工業試験場の職員だった方に聞き取り、文献を調べた限りでは、本店の建物(工業試験場の旧第二庁舎)は戦後、昭和20年代の建築でした。大正13年というのは、隣にあった工試の旧本庁舎で、後に道警の庁舎に転用されていた建物(2003年解体)のほうです。
これも、工業試験場本庁舎=大正時代建築→第二庁舎も同時期築、という伝言ゲーム現象とにらんでいます。

2014/08/17

札幌の北炭②(続)、または往時の郊外

昭和戦前のY先生宅周辺
この写真は、Y先生旧宅(北6条西20丁目、現在のサッポロ珈琲館北円山店)付近の、昭和戦前の風景です(これもアルバムから接写したものの再接写のため、不鮮明でお許しを)。
当時、先生の旧宅の少し西側に札幌市と藻岩村との境界がありました。札幌市の「郊外」だった頃の雰囲気が伝わってきます。

Y先生は1933(昭和8)年、小学校2年のとき、気象台に勤めていたお父上の転勤で神戸から札幌に来られました。1935(昭和10)年から旧宅にお住まいですが、まだ人家も多くはなく、子どもの頃は自宅からスキーを履いてナマコ山まで滑りに行かれたそうです。

Y先生旧宅近くから西望
こちらは、Y先生旧宅近くから西を望む現在の風景です。正面、道路のアイストップに見えるのは三角山の稜線でしょうか。ナマコ山はその左手、マンションの向こう側に位置すると思います。

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

07 | 2014/08 | 09
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR