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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/01/30

胆振川 再考 ②

 昨日ブログの続きです。
 千両小路沿いの水路(胆振川)と創成川(前身の大友堀)の流路を明治11年「北海道札幌之図」と明治6年「札幌郡西部図」で較べると、違いが見られます。
明治11年札幌市街之図 創成川 胆振川 明治6年流路加筆 拡大
 (明治11年地図、着色加筆は昨日ブログ参照)。

 違いの一つは、創成川(大友堀)の起点です。明治6年地図では、起点は水路(胆振川)から分岐しています。前掲図で黄色の三角の先に示したところです。

 明治6年作成の古地図をもう一枚、見てみます。
明治6年北海道札幌之図 鴨々川 胆振川 大友堀
 開拓使測量課「北海道札幌之図」1873(明治6)年からの抜粋に前例と同じく着色加筆しました。

 位置は若干ずれていますが、創成川(当時は大友堀)の起点はやはり水路(胆振川)から発しています。これらの図から、1873(明治6)年時点では胆振川を基点としていた大友堀が、5年後の1878(明治11)年には鴨々川から直線化されたことが判ります。また、明治6年「北海道札幌之図」を見ると、水路(胆振川)の千両小路(赤いカギの手)沿いはこの時点ですでに通じていたようです。この部分はすでに人工的とみられます(末注)。

 昨日ブログで私は、水路(胆振川)の整形について「創成川との役割分担」と記しました。水路(胆振川)は開拓使工業局への用水、創成川(大友堀)は下流への水運です。しかし、1873(明治6)年時点では大友堀も胆振川から取水していたことからして、水路の千両小路沿いの部分は役割分担以前、すでに人工的に整えられたといえます。2014年に小路や胆振川のことを記したときに私の思いが至らなかったのは、そのことです。 

 これは私の発見でも何でもなく、先人が40年近く前、すでに知見を得ています。『東区今昔 大友堀』1982年で、水路の小路沿い部分について「大友堀に水量を増やすために試みた短絡水路の遺構」と喝破しているのです(同書p.108)。以下、一部を引用します(太字)。
 堀の取水口から胆振川の上流に向けて旧跡をたどると、中央区南七条西三丁目成田山新栄寺境内に入る。その南側の七条通りをはさんで、料亭川甚の脇に斜めの細い小路がある。
 開拓使は大友堀を改修し、物資の運搬路としようと計画したが、そのためには水量を増やし舟行を可能にしなければならない。そこで、水源となっている胆振川に水を多くし流し込む必要が生じ、鴨々川と胆振川を短絡させる新水路を開削した。その埋め立てられた跡が今に道路として名残をとどめている。それがこの小路なのである。


 あえて私の新味をいうならば、小路そのものが水路の遺構というよりは、小路から料亭街の敷地をはさんだ東側に水路の痕跡を見たことでしょうか(昨日及び2014.7.26ブログ参照)。

 千両小路界隈の地番図2018年です。
2019年地番図 千両小路
 千両小路に当たる地割を赤い線で囲みました。私が水路の痕跡とにらんでいるのは、黄色の線で囲ったほうの、細長く分筆されている地割です。

 注:水路の千両小路沿いの人工性については2014.7.25ブログ参照
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2019/01/29

胆振川 再考

 千両小路は、いまでは札幌中心部の碁盤目街区の中で不思議な雰囲気を醸しています。このあたりは明治時代、札幌の街のはずれでした。千両小路(の原形)は、碁盤目が延長される前からあった古道です(2014.7.24ブログ参照)。昨日ブログで「この通りに沿って川が流れていた」と記しましたが、正確には川ではなく水路で、「水路に沿って道が通じた」というべきかもしれません。ならばなぜ、ここに水路を掘ったか、これも先に自問しました(2014年7月26日ブログ)。それは創成川との関係です。

 開拓使地理課「北海道札幌之図」1878(明治11)年からの抜粋です。
明治11年札幌市街之図 創成川 胆振川 
 千両小路沿いの水路を水色、鴨々川を濃い青、創成川を薄い青で加筆しました。便宜的に千両小路の位置を赤い線で示しましたが、この時点ではまだ道は通じていません。

 2014年7月26日ブログで私は札幌市公文書館Eさんのご教示を引き、くだんの水路は「胆振川」を整形したものであること、開拓使工業局に用水路として使われたこと、工業用水を確保するために水の“とおり”をよくする必要があったこと、を述べました。前掲図で見ても、水色の流れ(胆振川の整形流路)は北へ進み、現在の大通で東へ折れ、工業局へ通じています。創成川との役割分担があったと思われます。
 基本的にはこのとおりでよいと思うのですが、2014年当時、思いが至らなかったことを付け加えます。

 「札幌郡西部図」1873(明治6)年です。
明治6年札幌郡西部図 鴨々川 創成川 胆振川
 これにも鴨々川、創成川(当時は命名前のいわゆる大友堀)、胆振川が描かれています。が、流路の位置が若干、異なっています。
 
 前掲明治11年北海道札幌之図に、この流路を引き写してみましょう。
明治11年札幌市街之図 創成川 胆振川 明治6年流路加筆
 明治6年札幌郡西部図に描かれた流路を破線で加えました。

 明治6年札幌郡西部図は全体としてかなり正確に測量されていると思いますが、スケールからして、細部は疑問が残ります。そのことは考慮しつつも、明治6年図と明治11年図では流路が異なっています。

2019/01/28

uhbみんなのテレビ「となりのレトロ」中島公園編 余話

 STV「どさんこワイド」の「てくてく洋二」厚別編も同じ日に放送されましたが、uhbの「となりの…」が終わった頃にSTVの「てくてく…」が始まりましたので、両方ご覧いただいた方もいらっしゃるのではないかと思います。STVのほうも取材協力したので、その余話も別の機会に記すこととして、今回は自分が出たuhbを取り上げます。
 
 千両小路のことは、拙ブログの開設最初期に綴りました(2014.7.24同25同26ブログ参照)。
 現在図 地理院地図 千両小路
 中央区南7~8条西3丁目、上図の赤い○で囲ったところです。

 番組で、この通りに沿って川が流れていたことをお伝えしました。スタジオの森本稀哲さんには毎度反応していただいて嬉しいのですが、だんだん先を読まれてきましたので、今後一ひねりを講じたいと思います(下手な策を弄しない方が良いかとも)。

 流れていた川の位置を現在図に推定しました。
現在図 地理院地図 千両小路 水路
 正確には、水路というべきでしょう。その水路を水色で加筆しました。赤くなぞったカギの手状の道が千両小路、濃い青は鴨々川です。小路と水路の間に料亭が建ち並んでいました。

 昭和初期の古地図には、その様子が描かれています。
昭和3年最新調査札幌明細案内図 千両小路
 「最新調査札幌明細案内図」1928(昭和3)年(札幌市中央図書館蔵)からの抜粋に、同じく加筆しました。赤い線:千両小路、濃い青:鴨々川、水色:水路です。
 カギの手の角っこに「千両」と書かれています。その北の「新梅林」や「猩々」という名前も、料亭を彷彿させます。小路沿いで1955(昭和30)年から質舗を営んでおられる「丸長」の奥様Tさんが、番組で綺麗どころが行き交う様子を語ってくださいました。Tさんは4、5歳の頃からここでお育ちで、ご自身の思い出です。
 私は水路を借景として料亭街が形成されたと想像しています。ただし、Tさんには水路のご記憶はなく、昭和30年代にはすでに下水溝のようになっていたのかもしれません。

2018/09/19

中島児童会館の「会」 またはカマボコ

 私は児童会館に(も)思い入れがあります。
 といっても、幼少時の原体験に基づいているのではありません。ン十年前の学生時代に由来します。学部で「社会教育学」の研究室(講座と言わずに「ゼミ」と呼ばれていた)に所属し、卒論で「札幌市『児童会館』の現状と課題」をテーマにしました。それで当時、市内の児童会館をあちこち訪ね歩いたのです。

 卒論自体は私の歴史の中から消し去りたい不出来なシロモノで、今もって学部の図書室に配架されているかと思うと、夜な夜な忍び込んで火をつけて燃やしてしまいたい衝動に駆られます。ともあれ、児童会館は私にとってはほろ苦くも懐かしい思い出です。

 このたび、中島児童会館に「資料室」が設けられたと聞き、見に行ってきました。
中島児童会館 資料室
 こじんまりとした展示ですが、興味津々な中味です。開館以来70年になんなんとする歴史が伝わってきます。

 「戦後児童文化活動の拠点」と題したパネルは、「中島公園に日本で初めて公立児童会館がオープンしたのは、1949年(昭和24年)7月3日のことです」という出だしです。
 あまり知られていないことですが、札幌市の「児童会館」はその4文字自体に歴史が籠められています。なかんづく「」という一文字です。
 我が国では戦後、児童福祉法が制定され、「児童厚生施設」が法的に位置づけられました。「児童館」です。しかるに札幌は、独自に「児童館」を設けました。これは「児童館」に先駆けてのことだったと思います。前述引用の「日本で初めて公立児童会館」とは、その文脈にあるのです。札幌は以後、国庫補助の対象たる「児童館」ではなく、市の単費(単独費用事業)で児童館を作り続けてきました。

 さて、児童会館の第一号たる中島児童会館は、進駐軍施設の払下げを受けて開館しました。
 クォンセットハット、「カマボコ兵舎」です。
中島児童会館 資料室 カマボコ兵舎模型
 資料室には、その復元模型が展示されました。

 このたびの私の観覧のお目当ては、主にこの模型です。というのは、私はこれまで写真と絵でしか見たことがなく、実際の大きさが気になっていました。

 札幌の近代史の生き字引にして画家の浦田久さんが描かれたカマボコを見てみましょう(『スケッチで見るさっぽろ昭和の街角グラフィティ―』2013年、p.78から)。
浦田久さん 絵 カマボコ兵舎
 カマボコは、人の背丈の2倍以上の高さで描かれています。

 一方、このたび資料室に置かれた模型では…。
中島児童会館 資料室 カマボコ兵舎模型 接写
 室内の人の模型からすると、心持ち、小さそうです。

 こちらは、札幌に現存する唯一と思われるクォンセットハットです(4月19日ブログ参照)。
八紘学園 カマボコ
 私は、これが中島児童会館カマボコの再転用ではないかという疑いをぬぐいきれない、というか望みを捨てきれていません。 

 前掲の模型はスケールが添えられていないのですが、上掲の現存物件の大きさを彷彿させるように感じました。

2017/10/27

南8条・○(マル)源Sさん宅の石蔵

 中央区南8条に遺るSさん宅の石蔵です。
南8条 Sさん宅石蔵
 昨日ブログでお伝えしたMビルの外壁に刻まれた印「○(マル)源」がこちらの妻壁にも見られます。

 本件は、札幌市内に遺る石蔵の中でも本格的な一棟だと私は思います。「本格的」というのは、細部にわたって‘簡素化’された形跡が窺われないということです。
 ・基壇部に焼過ぎ煉瓦を積んでいる。煉瓦は軟石に比べて吸水性が低いので、基壇部に適しているが、焼過ぎ煉瓦は普通煉瓦に比べてさらに撥水性が高い。
 ・軟石の表面は小叩き仕上げ。丁寧な仕上げ方である。なお、軟石の幅厚からして、構造は木骨ではなく、純石造と思われる。
 ・窓は、蛇腹を重ねた観音開きの扉。装飾的な窓台。瓦の下屋を架けている。
 ・軒と胴に、蛇腹を廻している。軒蛇腹(コ-ニス)は中央部で破れていない(水平線が切れていない)。
 ・瓦屋根に、棟飾りを載せている。

 持ち主のSさんによると、本件石蔵は1910(明治43)年、リンゴの貯蔵庫として建てられたそうです。S家のことは、山崎長吉先生の『中島公園百年』1988年に詳しく記述されています(pp.30-32)。S家のご先祖は旧亘理藩士で、明治初期、藩主伊達家に随って有珠に入植しました。一方、一族の一人は山鼻屯田兵村に入植し、明治中期から果樹園を経営します。かつて札幌本府の郊外に当たるこのあたりは水原寅蔵が我が国でも先駆的にリンゴ園を始めた一帯です。S家も水原に範として、リンゴ栽培で成功しました。
 私が先日Sさんにお訊きしたところでは、リンゴ園を営んでいたのは1918(大正7)年までで、1920(大正9)年からは味噌醤油醸造に転じました。そして昨日ブログの話につながります。

 本件石蔵について、札幌建築鑑賞会で前に得ていた情報では「大正初期築」でしたが、今般の持ち主の方からの聞取りに基づき、1910(明治43)年築を採ります(明治末期と大正初期はさほどの違いではないのだが)。昨日更新した軟石建物の築年別内訳を、さらに次のとおりあらためます(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)

 それにしても、この石蔵がリンゴ貯蔵庫に由来するとは、これもいささか驚きました。建築年代からすると、和風在来的な外観意匠であるのは頷けますが。用途は「倉庫」ではなく、「蔵」のままとします。リンゴ貯蔵に使われていた年数(引き算すると、8年)よりも、その後現在までの歳月(99年!)のほうがはるかに長いというのも、感慨を覚えます。Sさんが長く大切に遺してこられたことに敬意を表します。私は文庫蔵的な使われ方をしてきたと想像するのですが、Sさんには今後も聞取りさせていただきたいと思っていますので、判りしだい続報します。

2017/10/26

南8条 Mビル 札幌軟石

 本年8月下旬、札幌建築鑑賞会スタッフNjさんから、札幌軟石の建物が新たに建っているというお知らせをいただいていました。
南8条 Sさん宅 事務所
 中央区南8条、鴨々川の近くです。先月中ごろ、現地に行って外観を眺めてきました。ほぼ完成して、内装の工事をしている様子でした。

 札幌軟石をまるごと外壁に用いた、しかもかなり大きな新しい建物です。びっくりしました。のみならず驚いたのは、使われている軟石が古そうなのです。表面がいわゆるツルメ、つまり手彫りの仕上げです。新しく切り出した軟石を手彫りで仕上げるということもなくはないでしょうが、もし新しい石材ならば色合いが全体に一様になってもいいと思います。しかるに本件は、なんとなくバラツキがあります。そこがまた味わい深いところでもあります。これはただならぬ気配を感じました。

 今月に入り工事も終わった様子でしたので、思い切ってお訪ねしました。社長さんはご不在でしたが、後日お話をお聴きすることができました。
 持ち主のSさんによると、この軟石は大正14年に建てられた味噌醤油の蔵に使われていたものだそうです。その蔵は本件建物の後ろ、現在ホテルが建っているところにありました(前掲画像、左方の高層ホテル)。21年前、ということは1996(平成8)年にその蔵は解体され、跡地にホテルが建ちました。Sさんがおっしゃるには、「解体した軟石をどこかで活かしたい、利用したい」と考え、南区石山で保管してきました。そしてこのたび、21年の星霜を経てよみがえったというわけです。

 文章にすると数行ですが、私には驚きの連続です。北11条のNさん宅元味噌醤油蔵の「離島キッチン」への再生(10月19日ブログ参照)に続き、天晴れと申し上げたい。
 
 本件建物は不動産賃貸業を営むSさんの会社の事務所として使われています。本日のブログのタイトルを「Mビル」としたのは、会社の屋号(印)である「○(マル)源」の頭文字を取りました。このあたりを歩いたことのある方はお気づきだと思いますが、実は近くに同じ印を妻壁に刻んだ石蔵が遺っています。明治期にこの地で果樹園を営んでいたS家の石蔵です。古い石蔵のほうはあらためてお伝えします。
 
 これにて、札幌市内の軟石建物は本件を「再生新築」として1棟を加え、総数は413棟となりました。築年別内訳は10月12日ブログから更新して、以下のとおりです(末注)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:30棟(7.3%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)
  
 注:本件の築年を「大正期」に含めたが、「再生新築」の場合は悩ましいところである。

2017/06/16

鴨々川をたどって探る札幌の歴史

 鴨々川にちなむ行事が二つ、7月に開催されます。

 一つは豊平館での講演会です。
豊平館講演会案内
 「鴨々川・創成川からたどる札幌の歴史」をテーマに話をします。

 もう一つは恒例?の「鴨々川 川めぐりウォーキングツアー」です。
鴨々川ツアー 案内2017
 鴨々川の上流に沿って、散策の案内役を務めます。

 豊平館での講演会は座学なので、古地図や古写真などを落ち着いてお見せできるという利点があります。座学ならぬ座楽になるよう心掛けたいと思います。
 ウォーキングツアーのほうは今年で三回目なので、よく言えば完成形に近づきつつあります。が、悪く言えばマンネリ化の恐れがあります。参加される方は初めての方がほとんどだと思うので、マンネリ化は必ずしも悪くもないのですが、案内する立場としては、できる限り新味を試みたいものです。

 上記画像が見づらい場合は、下記ファイルをご覧ください。
●豊平館講演会 → http://www.s-hoheikan.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/A4_170717.pdf
 (注:6月19日から電話にて先着順受付です)
●鴨々川ツアー → http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/kasen/documents/h29kamokamogawa_walkingtour.pdf
 (注:7月13日締切、申込多数時抽選)

2017/04/24

キタラと羊ヶ丘

 キタラの大ホールホワイエ前のテラスです。
キタラ北面 テラス 縦長窓
 昨日のブログで、縦長窓の連なりが札幌の古き建物へのオマージュらしいと記しました。

 オマージュされたのは、どうもこちらのようです。
現札幌北一条教会 縦長窓
 日本キリスト教会札幌北一条教会1979(昭和54)年、設計:田上建築制作事務所。先日来話題にしている教会の二代目ですね。

 ただし自信はありません。昨年の「第40回サイエンス・フォーラムinさっぽろ」でのお話の記憶が定かでないからです。北一条教会のデザインだとしたら、この部分があの部分へ移植されたのかなあと想像しました。1927年のオリジナルのほうも縦長窓が見られますが、蛇腹な感じからすると二代目のほうが、より近親性を感じます。北一条教会といえばパイプオルガンでもあります。
 
 キタラは、「既に消えてしまった歴史的建物のデザインが、輝く星の如く取り込まれている」そうです(末注①)。十指に余ります。
 「20世紀の最後に建設する大規模な建物」キタラに、「古いものから新しいものへ、つまり21世紀へ引き継ぐべきメッセージとして、設計者が取り入れたデザイン」です(末注②)。このあたりは、確固とした敬意的信念=オマージュが感じられます。それにひきかえ羊ヶ丘展望台のほうからは、確固たるものが伝わってきません。あそこの複製の集積は、ゆるい。ゆるいから変異する。
 私は、オマージュとキッチュに境目は無いと思います。いわばスペクトラム(連続帯)です。見方によっては、キタラはキッチュのデパートといえるかもしれません。否、いまに譬えるなら巨大ショッピングモールか。羊ヶ丘展望台はさしづめ昭和な商店街。後者のほうが、私の身の丈には合っているようです。

 注①:前述「サイエンス・フォーラム」案内チラシから.。「既に消えてしまった歴史的建物のデザイン」だとすると、二代目北一条教会は現存しているので、初代のほうか。
 注②:藤垣秀雄『キタラ物語』から

2017/04/23

キタラ

 札幌コンサートホールで催された「市民バンドフェスティバルin Sapporo」を聴きにいきました。
 市内の吹奏楽団の合同演奏会です。昨秋の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になった北大のⅠ先生が、出演されていました。Ⅰ先生はトランペットです。今回の演奏会のチラシやプログラム表紙は、Ⅰ先生がデザインしたとお聞きしました。

http://music.geocities.jp/shirennkyou_sapporo/banfes/flyer/38th_bandfes_img.jpg
 このデザインも、いわばオマージュです。私はⅠ先生に教えられて知りましたが、何のオマージュか想像してみてください。ヒントは、今年100年のメモリアルイヤーです。

 さて、オマージュといえば、キタラの建物も、札幌の古き建物のデザインをあちこちに引用しています。
キタラ 大ホールテラス
 有名なところでは、大ホールホワイエ前のテラスの手すり子です。岡田山の天文台をはさんで対面する豊平館バルコニーのそれが、元になっています(末注)。
 
 昨年「第40回サイエンス・フォーラムin さっぽろ」で、そのほかの例をいくつかお聞きしました。前掲画像にみるテラスの上の縦長窓の連続も、どうもオマージュらしいのです。アコーディオンみたいに蛇腹に連なるこのカタチ、なんでしょう? ヒント、大ホールといえば…。

 注:藤垣秀雄『キタラ物語』2009参照

2016/11/07

南8条 M商店

 中央区南8条、鴨々川のほとりにあるM商店です。
南8条 M商店
 ここも、札幌の戦跡といえるかもしれないと思いました。

 以前ご主人に伺ったところでは、建物は昭和戦前期の築で、戦時中は軍に衣料を納めていたそうです。現在、この商店が防災用品や消防・警察関係の衣料を扱っているのは、その流れを汲むやに想像します。
 
 先日聴いた講演(10月18日ブログ参照)によると、札幌は全国有数の軍事都市でした。東京・大阪・広島・福岡と並び、陸軍の兵站部(糧秣、被服、兵器補給など)がひととおりそろって開設されていた都市だそうです。
 前述のM商店からほど近くにあった市立高等女学校は、1945年の一時、校舎が被服廠の工場に使われたといいます(山崎長吉『中島公園百年』1988年、pp.150-151)。
 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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