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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/02/12

定山渓温泉の「下町」

 定山渓温泉・岩戸観音に奉納されている提灯です。
定山渓温泉 岩戸観音 奉納提灯
 芸者さんの名前が書かれています。

 温泉街のラーメン屋さん(昨日ブログ参照)で見せてもらった「定山渓料理店置屋組合 昭和41年10月」の「芸妓連名簿」です。
定山渓料理店置屋組合 芸妓連名簿 昭和41年
 こういう歴史的古文書がラーメン屋さんの調理場にさりげなく置かれていることに驚きました。
 ラーメンの汁をこぼさないように拝見すると、12軒の置屋で計123名の芸者さんが記されています(末注①)。ここまでの画像は電波にも乗りました。 

 置屋組合の旧屋です。
定山渓温泉 置屋組合 旧屋
 個人宅にしては大きめ、旅館にしては小さめな建物で、芸者さんが待機する部屋もあったのではないかと想像します。
 
 入口に、ほとんどすすけた看板が遺っています。
定山渓温泉 置屋組合 旧屋 標札
 ゼンリン住宅地図によると「定山渓料理店置屋組合」です。

 となりの建物も気になります。
定山渓温泉 「とみもと」さん宅
 やはり、個人宅ともアパートとも分別つきかねる外観です。

 標札灯に…
定山渓温泉 「とみもと」さん宅 標札
 変体仮名で「とみもと」と。前掲の奉納提灯や「芸妓連名簿」に「富本」という置屋さんの名前があります。ここも、置屋さんだったのではなかろうか(末注②)。

 このあたりで見かけた電柱銘鈑です。
定山渓温泉電柱「下町幹」
 「下町幹」。
 行政地名ではなかったようですが、温泉街は「上町」と「下町」に分けられていた(今も?)ようです(末注③)。ちなみに、前掲建物の並ぶところを観光協会の方は「温泉街の裏通り」とおっしゃっていました。 

 注①:定山渓観光協会『定山渓 定山渓温泉開湯150周年記念誌』2016年には「昭和41年には置屋も13軒に増え、10人以上芸者をかかえる置屋が7軒近くあった」と記述されている(pp52)。同書には前掲の「名簿」(ただし写しと思われる)も掲載されているが、この名簿によれば同年時点で置屋は12軒、10人以上が7軒である。
 注②:『ゼンリン住宅地図 定山渓版』1969(昭和44)年によると、現在の「ぬくもりの宿 ふる川」のところに「旅館 富本」とある。
 注③:『ゼンリン住宅地図 定山渓版』1969年では、定山渓1区、2区、3区という字名が付いている。現在は定山渓温泉西○丁目、東○丁目。『さっぽろ文庫59 定山渓温泉』1991年で、定山渓グランドホテル社長の浜野邦喜氏が「(下町、上町は)いろいろ難しい関係があったんです」と回想している(p.240)。
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2020/02/11

ぬれてうれしい白糸しぶき

 昨日のUHBみんテレ「となりのレトロ」でお伝えした定山渓温泉のラーメン店は、三十数年前にも入った覚えがあります。観楓会で近くのホテルに泊まった折です。ホテルでの宴会の後、悪い年長者に連れられて「秘宝館」に繰りだした帰りに寄りました。このたび暖簾をくぐってお尋ねしたら「50年前から営業している」とのことでしたので、間違いないでしょう。ご夫婦は年を取られて、今はラーメンと餃子、カレーライスに限っていますが、芸者さんが大勢いた昔はいろいろ料理を出していたそうです。

 店内に一升徳利が飾られています。
定山渓温泉 一升徳利 
 かつての芸妓置屋さんから贈られたものとご主人からお聞きしました。

 徳利の腹には歌が詠まれています。
定山渓温泉 一升徳利-2
定山渓温泉 一升徳利-3

 ぬれてうれしい白糸しぶき 虹ハ七色中空に 情けかけ橋 月見ばし  定山渓♨ 
 私の心もとない崩し字読解能力の限りでは、かように読めます。ご主人によると「定山渓音頭」か「定山渓小唄」の歌詞というのですが、文献や史料を漁ってみても、どうもこのくだりが見当たりません(末注①)。

 定山渓音頭
 春はいでゆの定山渓へ トコサイホントニネ 玉の湯船にささ花が散るね ハスツチヨン〱〱 ナハスツチヨンナ 
 定山渓小唄
 サアサ御座んせ定山渓 温泉に咲いたアリヤ湯の花も 初心な心でサア主を待つ ほんに恋しいヨイトサノサ主を待つ
 「音頭」と「小唄」は昭和初期に初披露されたらしいのですが(末注②)、このほかにもお座敷小唄が作られたのかもしれません。
 
 昨日ブログに載せた「ペガサスペナント」の値段をお答えします。
 「北海道」は200円、「定山渓」は300円(いずれも税込)でした。ブログに載せていない「札幌」は200円です。コメント、ありがとうございます。
 なぜ「定山渓」だけ100円高いか、聞きそびれました。ご当地ということだからでしょうか。それにしても200円、300円というのは、私がかつて買ったことがある半世紀くらい前と比べて、ほとんど値上がりしていないのではなかろうか。いや、当時でも200円で買えたかなあ。

 注①:定山渓連合町内会『定山渓温泉のあゆみ』2005年p.64、札幌鉄道局『昭和十年版 定山渓温泉案内』
 注②:同前『定山渓温泉のあゆみ』p.111

2020/02/10

ペガサスペナント

 定山渓温泉の土産物店で「ペナント」を買いました。
定山渓物産館で買った観光ペナント
 1月19日ブログで記したように、この種のモノはえてして「次」がありません。次に定山渓に来たときにはもう、ないかもしれないのです。

 売られていたのは上掲の「北海道」と「定山渓温泉」のほか、「札幌」の3種類です。私は「北海道」と「定山渓温泉」に“お宝感”を抱いて買いました。しかし、いざ定山渓から帰ってくると、「『札幌』も買っておけばよかったかなあ」という悔悟の念がよぎります。こんど定山渓に行っても、「札幌」はもう売られていないかもしれません。
 前掲2件に抱いたお宝感は、たとえば「定山渓」の絵柄です。ヒグマが描かれています。これは野生ではなく、おそらく「くま牧場」ではないでしょうか。温泉街から国道を中山峠方面に上っていったところにありました。今はもう、営業していないと思います。観光協会発行のリーフレット類の古い版には載っていますが、最新のものには見当たりません。最近では野生のヒグマが札幌近郊で出没していますが、私は本件ペナントもまた「“生きた化石”として在庫限りの販売」(1月19日ブログ参照)と信じたい。
 そのほか、スキーヤーのウエアもレトロ感が漂います。「JYOZANKEI SPA.」という表記もいいですね。「じょう」を「JYO」。これはローマ字表記のヘボン式でも訓令式でもないようです。「JO」でも「ZYO」でもない。「北海道」のほうは「HOKKAIDO」の「DO」に長音記号(¯)が付いていますが、こちらは付いてません。「SPA.」の末尾の「.」は何でしょうかね。省略記号? なぜ?
 
 ところで、本件「ペガサスペナント」はいくらだったと思いますか? ちなみに、1月19日ブログに載せた「間タオル」社製ハンカチは600円(税別)でした。

2020/02/09

セセッカに浸る

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)の「となりのレトロ」は、2月10日(月)にオンエア予定です。定山渓温泉(札幌市南区)を訪ねます。ご笑覧ください。
定山渓温泉 月見橋から下流を望む
 凍える冬をお湯につかって温まるのもいいかなと思って提案しました。新型ウイルスの流行で中国からの観光客が激減したとも聞きます。温泉街への応援も込めました。

 提案しつつ、定山渓のことを予習すると、知らないことに出くわします。そもそもなぜ、ここに温泉が湧き出たか? またまた泥縄で書物を漁ったのですが、ピタッとこないのです。定山坊が湯守を務めて以降の温泉街発展はつまびらかにされていますが、根本的なことが、意外とわかりません。これもまあ、私だけが知らないのかもしれないのですが。洞爺湖や登別のような、いかにも火山活動が活発なところで温泉が湧き出るのは、素人の私にも実感できます。しかし、定山渓はなぜ?

 産総研の地質図を観ます。
産総研シームレス地質図 定山渓
 黒い矢印で示した先が定山渓です。この一帯だけ、ほかでほとんど見られない色が塗られています。凡例によると、「閃緑岩・石英閃緑岩」です。地質の文献によると、豊平川の定山渓付近では石英斑岩が川床に露頭し、その割れ目から熱水が自噴していることがよく書かれています(末注)。
 温泉の湧出は、定山渓だけに(ほぼ)特有な地質と関係しているのだろうか。

 注:前田寿嗣『新版 歩こう!札幌の地形と地質』2016年、pp.112-113、戸苅賢二、土屋篁『北海道の石』2000年、p.32、『さっぽろ文庫4 豊平川』1978年、pp.83-84ほか

2019/11/14

札幌五輪 オーストリア館 補遺

 真駒内街路灯組合『真駒内団地史 街路灯と地域の歩み』2016年に、次のくだりがあります(p.100、引用太字)。
 変わった施設では、スキー王国のオーストリアがスキー用品のPR、観光宣伝のために緑町1に建設したオーストリア館があった。アルプスの山々を思わせる三角形を組み合わせた2階建てで、2階の窓は全面ガラス張り。建設費は7千万円。五輪期間中はアルペン三冠王のトニー・ザイラーやヨーデル合唱舞踊団を送り込んだ。売却の予定だったが、移設費がかかり過ぎて買い手がつかず、取り壊しの寸前に札幌市と市観光協会が五輪記念にと譲り受け、羊ヶ丘展望台に移設された。今も軽食コーナーやみやげ物販売などに使われている。取得費は移転費込みで1千万円だったという。

 文中に「緑町1に建設された」とあり、北海道新聞からの転載による当時の写真も添えられています。昨日ブログでお伝えした場所は南区真駒内緑町1丁目です。現在は病院が建っています。
南区真駒内緑町1丁目 札幌五輪オーストリア館跡
 右方から、左奥へ湾曲する道が1972年札幌オリンピックのプレスセンター(現北海道青少年会館)への取り付け道路です。

 この場所で間違いないでしょう。五輪を実体験した方はご記憶があるかもしれませんが、私のような追体験者は資料を漁ってようやくたどり着きました。ただ、移築の経緯について、札幌観光協会の周年記念誌では「処分をまかされていた竹中工務店が観光協会に寄贈」した(11月9日ブログ参照)とあるのみですが、前掲誌では「譲り受けた」とはいうものの1千万円で買い取ったかのような記述です。また、当初は買い手がつかなかったことも明かされています。たぶん当時の新聞に仔細が記事になっていたのでしょう。当事者の一方の史書では、観方が偏るものですね。大袈裟か。

 かようなパビリオンを作ったのは、やはりオーストリアだけだったのでしょうか。そうだとすれば、繰返しになりますが感慨深いことです。メダル有望選手がアマチュア規定違反で五輪史上初?の“追放”処分となり、一時はスキー全選手不参加も取りざたされた国が、札幌大会にもっとも肩入れしていた。皮肉にも。いや、逆か。国を挙げてコマーシャリズムに注力したがゆえに、軋轢を醸したといえるのかもしれません。羊ヶ丘の物件は、商業五輪の“先駆的”記念碑建造物となりました。

2019/11/13

札幌五輪「オーストリア館」を探す(承前)

 昨日ブログの続きです。
 1972(昭和47)年に刊行された『さっぽろオリンピック写真集』なる書物に収められた俯瞰写真から、「オーストリア館」を探りました。私が当たりを付けたのは、赤いで囲ったところです。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真 再掲 オーストリア館?
 その部分をトリミングして拡大します。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真 オーストリア館? トリミング
 画像の中央、樹高の高い木(ポプラか?)の背後に写る建物です。 

 「さっぽろ羊ヶ丘展望台」(豊平区)に移築された本件建物を再掲します。
羊ケ丘オーストリア館
 較べてみて、どうでしょうか。画像が粗く、加えて「羊ヶ丘オーストリア館」を撮ったアングルと少し異なっているのでわかりづらいのですが、正面(「羊ヶ丘オーストリア館」と書かれた入口のある面)左方の大きな三角形の破風が似ているように思えます。

 赤いで囲ったところだとすると、どこになるでしょうか。推理した位置を空中写真(2008年)に示します。
空中写真2008年 真駒内 札幌五輪「オーストリア館」の推定所在地
 黄色ので囲みました。赤いは屋内競技場(アイスアリーナ)、赤い楕円は屋外競技場です。

 現在図で示します。
現在図 真駒内 札幌五輪「オーストリア館」の推定所在地
 赤い矢印を付けた先です。

 五輪選手村の西方、国道453号(真駒内通)から真駒内柏丘に設けられたプレスセンター(現在の北海道青少年会館)へのアクセス道路の入口に当たります。参加国が独自に造ったパビリオンとしては、恰好の立地と観ました。

 昨日ブログにいただいたコメントに、選手村内に立つ「背の高い塔?」と現南区役所近くの煙突のことが記されていました。別途、取り上げさせてください。

2019/11/12

札幌五輪「オーストリア館」を探す

 11月9日ブログに載せた「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 1972年札幌オリンピックのとき建てられた「オーストリア館」が移築されて、現在羊ヶ丘展望台(豊平区)で土産物店として使われています。
 
 この建物がもともとどこにあったのか、気になりました。札幌オリンピックの公式資料(報告書等)を漁ったのですが、見当たらないのです。冬季五輪の主催者すなわち大会組織委員会とか札幌市が建てたものではないからでしょうか。同館は同日ブログ既述のとおり、羊ヶ丘展望台を経営する札幌観光協会の『50年記念誌』によると「オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作った」といいます。同じく先に引用した当時の新聞記事には、「オリンピック選手村の近くにある」同館について次のようにも書かれています(1972年2月2日読売新聞記事「どたん場、ゆれるサッポロ」、太字)。
 「オーストリア館」の最も目につくところには、世界的は銘柄の新型スキーがずらり並べられ、参観者にアピールしている。オリンピックでの好成績を背景に、特産品を売り込もうという意図に違いない。 
 この「館」がオーストリアの「選手村」だったという記述をネット情報で拾いましたが、選手の宿泊施設というよりはいわゆるパビリオンだったと思われます。場所も、大会組織委員会が建てた選手村の一角ではなかったようです。
 
 図書館で関連する書物をぱらぱらめくっていたら、真駒内の選手村を俯瞰した写真に目が止まりました。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真
 『さっぽろオリンピック写真集』という書名で、奥付によると1972年4月、「菅写真株式会社」の発行です。クレジット表記等は載ってません。組織委員会の“公認”とか“監修”ではなく、民間個人が独自に出版したもののようです。 
 この写真の一隅に、「オーストリア館」らしい建物が見えてきました。

2019/11/11

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ(承前)

 1972年札幌冬季の聖火を燃やし続けるために使われたモノは何だったか。昨日ブログの末尾で問うたその答えは、札幌軟石です。1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」に、次のように書かれています(太字)。
 台の中には札幌・石山でとれる軟石をくだいて敷きつめている。軟石は一千度の熱で焼き、レンガのように固めた。石は、台の中で真っ赤に焼け、吹雪にさらされても、火が消えないよう、バルブを防護する役目を果たす。

 火鉢における灰のようなモノか?(本当にそうか?) とまれ、札幌軟石がオリンピックに一役買っていたとは知りませんでした。それにしても、軟石をが使える、使おう、と誰が着想したのでしょうね。
1972年札幌オリンピック記念100円硬貨
 札幌で催されるという2020年東京オリンピックのマラソン・競歩のとき、1972年のレガシーはうってつけではなかろうか。聖火台に再び聖火を灯せないかしら。

2019/11/10

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ

 昨日ブログに続き、1972年札幌冬季五輪の新聞記事で私が新たに知ったことをお伝えします。

 真駒内屋外競技場の聖火台です。
真駒内屋外競技場 聖火台 接写
 開会式で点火されて、オリンピックの大会期間中ずっと炎が燃え続けるということぐらいは知っていました。燃料は油か何かが継ぎ足されているのかなと思っていたのですが、札幌のときはプロパンガスだったそうです(末注)。ガスコンロ、それも今のような自動点火ではないときの仕組みと同じでした。聖火台の下に「制御室」があって、最終ランナーがトーチを台にかざすのに合わせてプロパンのバルブを開けたといいます。ただし普通のガスコンロだと“完全燃焼”して炎が青白くなるため、入る空気(酸素)の量を調整して“不完全燃焼”させる。

 と、まあここまでも私には「へぇ」という話ですが、お伝えしたかったのはここからです。ずっと燃やし続ける仕掛け。雨や雪が降っても消えないように、あるモノが台の中に使われました。それ自体が発火性があったり、可燃性の高いモノではないのですが、1000℃の熱で焼き、敷き詰めたそうです。その熱で炎を維持しました。そのモノとは何か。

 注:1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」

2019/11/09

五輪の記念碑を感傷的に鑑賞する

 地下鉄「真駒内」駅前です。
真駒内駅前 札幌オリンピック記念時計塔
 1972年冬季オリンピックを記念する時計塔が建っています。
 
 銘鈑を見て、「へぇ、そうだったのか」と思い知りました。
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 参加国
 参加国数は35で、南半球からは3か国とか、アジアからは日本以外に7か国だったとか。西ドイツは「ドイツ」と略称の一方、東ドイツは「ドイツ民主共和国」と正式(?)名称で表記されているとか。正式名称といえば、「朝鮮民主主義人民共和国」も。モンゴルは「モンゴリア」とか。中国は「中華民国」が参加していたとか。

 ゴールドメダリストの銘鈑では…
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 金メダル選手 スキー
 アルペンスキーは競技種目が「滑降」「大回転」「回転」しかなかったんだなあ、とか。
 
 札幌オリンピックで私がリアルタイムで覚えているのは、ジャンプ70mで日本選手が金銀銅メダルを独占して日の丸が3本上がったこと、選手の名前ではジャネット・リンです。実は、選手ではもう一人思い出します。
 シュランツです。商業広告に出ていたことでアマチュアリズム違反を咎められて、“追放”されました。という程度の記憶しか残ってなかったのですが、このたび当時の新聞記事を読み直して、大変だったことをこれまた思い知りました。顛末を以下、時系列で記します。
 1972(昭和47)年1月31日 パークホテルで開かれたIOC総会で、シュランツ(オーストリア)の「失格」が決定
 2月1日 オーストリア選手団の役員が真駒内の「オーストリア館」で、シュランツの失格に抗議し、同国スキー選手全員の“引き揚げ”を表明
 2月2日 同国役員、前日の表明を翻し、シュランツ以外の選手の“残留”を発表
 2月3日 札幌五輪開会式

 報道では、“引き揚げ”→“残留”は出来レースだったとの見方もあります。それにしても、です。1月31日から開会式までの4日間は激動だったと想います。札幌五輪組織委員会関係者はさぞや寿命を縮めたことでしょう。スイスとともにアルペンの本場であるオーストリアのスキー選手が全員欠場していたら、札幌五輪は「巨人が抜けたプロ野球のようなもの」(1972年2月2日読売新聞、川本信正氏コメント)になるところでした。V9、王、長嶋のときの巨人ですね。ということを想い起して前掲時計塔の銘鈑をあらためて観ると、アルペンスキーのゴールドメダリストにオーストリア選手が刻まれていません。

 「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 「札幌オリンピックのさい、オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作ったもので」、終了後、「処分をまかされていた竹中工務店が観光協会に寄贈」しました(『好きです。さっぽろ 札幌観光協会50年記念誌』1986年、p.119)。羊ケ丘に移築されたのは1972年12月です。前述同年2月2日読売新聞記事では「緊張の協議のため夜まで明かりをつけたオーストリア館(夜8時)」というキャプション付きで写真が載っています。

 私は「選手村」のほかに参加国が独自に建てたパビリオンを、他には知りません。他の国も建てたのでしょうか。オーストリア館は、新聞記事では「オリンピック選手村の近くにある」と書かれていましたが、前述札観協誌では「真駒内会場」とあります。どこにあったのでしょうか。いずれにせよ、因縁の建物が遺っているものですね。「羊ケ丘オーストリア館」というネーミングは、いささかのどかですが。 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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