FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/10/07

真駒内はなぜ、牧場になったか。

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編、配布資料の原稿(私の受け持ち分)は今朝、スタッフSさんに送りました。
 「一難去って、また一難」というわけではありませんが、明日は「厚別区高齢者教室 瑞穂大学」というところでお話をすることになっています。テーマは「わが街の魅力再発見」です。そのレジュメも本日、区役所の担当の方に送りました。が、当日会場で見せるスライド画像の整理が終わっていない。よって、いまもブログの更新をしている場合ではありません。
 行動の優先順位を付けられない広汎性発達障害的なこの性分。ほとほと愛想をつかします。しかし私にとっては、拙ブログで繰り広げる世界が諸活動の源泉です。大人の遠足やテレビなどで案内役が務まるとしたら、ブログへのモチベーションがその礎にあります。ブログのやる気が失せたときは、すべてが瓦解する。瓦解しても世の中に差しさわりはないでしょうが、少しでも受け入れてくれる方がいる限り、遊ばせてください。

 さて、そのテレビでの歴史散策です。本日のUHB「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナーでは、10月5日ブログで宣伝したように「なぜ、この地に牧場が拓かれたか?」をテーマとしました。「四方、山と川に囲まれていたから」。自然の牧柵。牛が逃げない。いたって単純な推理で恥ずかしいかぎりです。一次史料の裏付けを取ったものでもありません。二次的資料も、孫引き的に文献を漁ったにとどまります。エドウィン・ダンが藻岩山から眺めて場所を決めたといいますが(末注①)、「なぜ?」まではまだ当たってません。

 現在の色別標高図に真駒内牧牛場のエリアを当てはめてみました(標高20m未満から10mごと10色段彩)。
標高図 札幌扇状地 標高20m未満から10mごと10色 真駒内牧牛場
 かなりアバウトですが、白ヌキ実線で囲ったあたりです(末注②)。豊平川を濃い青、真駒内川を薄い青、精進川を水色でなぞりました。
 札幌扇状地平岸面の扇頂をほぼ南端とし、西から北へは真駒内川、豊平川、東から北へは桜山から精進川という囲まれ具合です。水はけが良く、牛の放牧や牧草栽培には向いていたことでしょう。反面、給水が必要となり、用水路が掘られました。破線です。ほぼ中央、扇の“ひだ”の尾根に沿うように鑿たれています(末注③)。

 明治の初めの札幌本府近郊の開拓の状況を眺めると、酪農経営のパイロットファーム的な適地はここしかなかったようにも想えます。西部から北部にかけての広大な原野は、大排水を待つ必要がありました。南東部(月寒村)は本府から遠いし、水の確保がもっと大変そうだ。

 注①:谷代久恵『真駒内物語』2002年、pp.14-15
 注②:『郷土史真駒内』1977年、p.49「牧牛場当時の配置図」参照
 注③:真駒内川から取水して、豊平川につなげられた。注②文献参照。現在の落ち口は精進川である。これは明治中期、平岸から豊平、白石にかけて開削された「「四箇村連合用水」への水量確保のために流路変更されたもの。
スポンサーサイト



2019/10/05

雪印プロセスチーズのパッケージ絵柄に再びこだわる

 UHB「みんテレ」(8ch、15:50-)の「となりのレトロ」シリーズ、次回は10月7日(月)放送予定です。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 南区真駒内17番地を歩きます。テーマは、「なぜ、この地に牧場が拓かれたか?」

 ところで、その牧場にかかわることです。
 9月20日ブログで、「雪印北海道100」チーズの箱に描かれた牧歌的風景のことを記しました。私は、厚別区上野幌の元牧場をモデルにしたのではないかと想像したのですが、これは真駒内ではないかという記述を目にしました。このたびのUHBのロケに当たって手元の資料を見直していたら、そのような記述に出くわしたのです。1997(平成9)年に札幌建築鑑賞会で南区を探訪したとき、当時のスタッフが作った文章に書かれていました。しかし残念なことに、典拠が示されていません。

 あらためてパッケージの絵柄を眺めてみます。
雪印北海道100チーズ 箱絵柄
 もしこれが真駒内だとしたら、北海道庁種畜場(真駒内種畜場)当時ということになりましょう。年代としては、明治末期から昭和戦前期。ここに描かれている塔型のサイロや腰折れ屋根の牛舎が北海道(というか日本国内)に導入されたのがその時期だからです(末注)。ただ、私が気になっているのは9月20日ブログでも記した「腰折れ屋根の牛舎の前に立つモノ」です。これ、揚水風車ですよね。真駒内種畜場にもあったのでしょうか。真駒内の古い写真を漁ったのですが、まだ出会えていないのです。

 注:黒澤酉蔵『宇都宮仙太郎』1958年、p.119、318、新穂栄蔵『サイロ博物館』1995年、p.71、北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.123、中井和子ほか「開拓使後のギャンブレル屋根畜舎の導入に関連する洋書について」『日本建築学会技術報告集』第16巻第33号2010年 参照

2019/10/04

小泉川の源流考

 本年3月23日ブログで、「南区から豊平区にかけてかつて流れていた『小泉川』は、郷土史の本などでは札幌新陽高校のあたりにミナモトがあったとされているが、もっと奥から流れていたのではないか?」という話題に少し触れました。同日ブログでは脇道に逸れたのですが、あらためて小泉川の源流に想いを馳せてみます。

 札幌市地質図(末注)です。
札幌市地質図 扇状地平岸面 小泉川
 小泉川を水色の実線、札幌新陽高校の位置に赤いを付けました。参考までに、濃い青の実線でなぞったのは精進川、薄い青は真駒内川です。原図の凡例によると、扇状地堆積物(礫、砂)が小さい○を付けた黄土色の地(F)、支笏火山噴出物(軽石流堆積物)がピンク色の地(Sp)で示されています。
 
 小泉川は札幌扇状地平岸面のほぼ東端を流れていたようです。地質図に照らすと、やはり古豊平川の名残(10月1日ブログ参照)だったかと思えてなりません。
 平岸面の扇頂は現在の南区真駒内南町、石山陸橋の下あたりです。つまり古豊平川は、真駒内柏丘(真駒内川左岸のピンク色のSp=支笏火山噴出物)を削り残しつつ、真駒内から平岸にかけて平らげています。そこに真駒内川や精進川が注いでいたようです。

 色別標高図で地形を俯瞰します。
標高図 札幌扇状地平岸面 真駒内から平岸あたり
 標高60m未満から10mごと10色段彩で作りました。赤いが札幌新陽高校、白ヌキ○が石山陸橋(平岸面の扇頂)の位置です。札幌新陽高校(いわゆる木挽山の北斜面)は、支笏火山噴出物が堆積した月寒台地の西端と見ることができます。

 時空を巨視的にみて、古豊平川を小泉川が跡づけたとすると、上流は現在の真駒内の市街地といえましょう。ただし、古豊平川が平岸面を作ったのは1万年よりも前とされます(2017.10.10ブログ参照)。有史以降は水はけの良い砂礫地になりました。
 では、冒頭に記した小泉川の源流はどう遡れるか。砂礫地に注いだ精進川がある時期、小泉川とつながっていた可能性は否定しきれません。木挽山の西山麓から札幌新陽高校にかけて伏流水が通じていたとも想えます。明治期になって人びとに認知されたころの小泉川は、山麓(崖線)の湧水を水源としていたことでしょう。
 

2019/08/14

穴の川の「穴」

 昨日ブログ末尾に、「『穴の沢』は何に由って来たるか」と記しました。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 結論的にいうと、私は先達の考察を超えません。「先達の考察」というのは、加藤好男『南区の歴史と地名』1987年です。同書はそのものずばり「穴の川の『穴』とは何か」を仔細に推論しています(pp.96-97)。また、「穴の」「穴の」の変遷についても先だって述べています(pp.95-96)。

 余談ながら、この書は札幌市立豊滝小学校が発行したものです。しかし、小学校の郷土史副読本という域を超えた水準だと思います。いや、その言い方は「小学校の郷土史副読本」に対する下方バイアスですね。私がエラそうに「水準」など設定できるものではありません。小学校の周年記念誌には往々に貴重な一次情報が盛り込まれています。前掲書の場合、史料や既往研究を丹念に跡づけたのみならず著者が新たに切り拓いた知見も加味されており、とまれ出色です(末注①)。

 ちなみに、同書には「軟石発見の年は?」という一項も設けられています(pp.63-64)。「石山が軟石採掘から始まった地域であることは、誰でも知っていることです。しかし、『不思議なこと』が一つあります。軟石採掘開始の年は、明治8年として、どの本も一致しているのですが、軟石発見の年がどうもはっきりしていないことです」と切り出し、「現段階では、断定できる資料がありません」と結んでいます。近年私が右往左往していること(本年4月9日ブログ参照)を、先達は32年前に喝破していました。

 加藤先生の本をなぞるのでは芸がないので、拙ブログでは別のことを記します。
 「穴の沢」の由来について、もっとも新しく著述されているのは管見の限り『札幌の地名がわかる本』2018年です。同書の「石山・石山東」の項に「往古はアイヌ語〈ウコツシンネイ(山と山が接近する土地の意)〉の名があったという」とあります(p.118)。またそのページの脚注では『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年から「語源は明確でないが、昔ここを通る人が『ウコッ・シリネイ』と呼んだところから、山峡を伝ってでる川であり、穴の沢と呼ばれるようになったと思われる」と引いています。
 これが、わかるようでわかりません。『札幌地名考』に立ち戻っても、「ここを通る」の「ここ」が石山地区のどこを指しているのか、明示されていない。上述の文だけだと、狭隘な峡谷を削る川のような印象を私は受けるのですが、どうでしょうか。「山と山が接近」→「山峡を伝ってでる川」→穴の沢。「山峡」とは「山と山とに挟まれた谷間」です(『広辞苑』第5版1998年)。石山地区を流れる穴の沢(穴の川)のどこから、「山峡」が想像できるでしょうか。
 実は「ウコツシンネイ」「ウコッ・シリネイ」について、山田秀三先生が考察し(末注②)、加藤先生が前掲書でそれをふまえて展開しています。しかし『わかる本』には、そこまで言及されていません。まあ、先行研究を逐一紹介していたら、紙幅が十倍あっても足りないでしょう。無いものねだりはやめます。同書の章末には二先生の著作も参考文献の中に挙げられていますので、疑問が出たら自分で調べなさいということでしょう。
 教訓。書名が『わかる本』でも、決して「わかる」とは限りません。否、わかった気になるのは、却ってアブナイ。落とし穴です。逆説的ですが、『わかる本』からは「わからないこと」を見つけるように読みます。

 注①:加藤好男氏は近年、『サッポロ・イシカリのアイヌ民族』についても到達点を築いている(本年1月15日ブログ参照)。
 注②:『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.23-25

2019/08/13

穴の川 古豊平川の記憶 ②

 「北海タイムス」1970(昭和45)年9月19日記事(画像上)、同1972(昭和47)年9月18日記事(下)です。
北海タイムス1970年9月19日記事
北海タイムス1972年9月18日記事
 南区石山で穴の川が氾濫したことを伝えています。

 1970年の記事から以下、一部引用します(太字)。
 中でも穴の川は、山岳部からほぼ直線的に流れ石山市街にはいったところから今度は本流である豊平川に平行して藻南橋の手前まで流れている。石山市街を流れる部分は、うねうねと曲がり、はんらんいやすい状態。
 札幌市は、穴の川を石山地区から、すぐ豊平川にそそぐようショート・カット、両岸約五百メートルを護岸する工事をことし始めた。結果的には、流木がひっかかって流れをとめ、はんらんを招いたためにショート・カット工事は、役に立たなかった。


 1972年の記事では石山地区での被害を次のように記しています(太字)。
 南区石山一区では午後八時ごろ、国道二三○号線沿いの商店や住宅に近くを流れる穴ノ川がじわじわと床上まで浸水、テレビで台風の被害を見ていた市民も『他人ごとではない』と床の物を高い所へ上げたり、大騒ぎとなった。
 石山地区では床上浸水9戸、床下浸水40戸だったそうです(なお、記事中の「国道二三〇号線」は現在の平岸通のこと)。

 1961(昭和36)年の空中写真で穴の川の下流域を見ます。
空中写真1961年 石山 穴の川
 濃い青でなぞったのが豊平川、水色が穴の川です。上述の1972年氾濫で浸水した石山一区は、画像の中央やや下あたりです。

 1970年代前半の氾濫は、市街地の拡大にともなう被害増大の側面もあるのでしょうが、昨日ブログで述べた「穴の川=豊平川旧河道」説で解釈できるような気がします。豊平川の本流から切り離された旧河道を穴の川が争奪して、オーバーフローさせた。本流であれば受け止めきれた増水だったのかもしれません。ただし、そもそもこの一帯全体が豊平川による氾濫原あるいは谷底平野といえるとも思います。

 なお、前掲の新聞記事は私が独力で発掘できるものでは到底ありません。㈱シン技術コンサルが発行する『目で見る水害レポート』№33、2014年10月掲載からの孫引きです。北海道開発局札幌開建ウエブサイトの札幌河川事務所のページにも、「近年の土砂災害」が時系列で記されています。

https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/sapporo_kasen/kluhh4000000861e.html#s1
 これを見ると、穴の川は1975(昭和50)年にも氾濫しています(末注①)。

 石山に古くからお住まいのⅠhさんは「穴の川はしゅっちゅう氾濫していた」とおっしゃっていましたし、郷土史の文献でも古老が「学校の前の穴の川でさえ、大雨が降るとすぐあふれ出して、国道が一面水をかぶったものだ。ついこの間までね」と語っています(末注②、この「国道」も、現在の平岸通)。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 この小川からも、豊平川の原風景が偲ばれます。 

 ところで、穴の川の旧称は「穴の沢川」でした。「穴の沢」は何に由って来たるか。

 注①:1972年9月の氾濫については「床上浸水97戸、床下浸水76戸」と記している。
 注②:石山小学校開校80周年記念『石山ものがたり-古老座談会-』1979年、p.16。同書には1913(大正2)年の「大水」のことも語られている。これは豊平川の洪水のことである。

2019/08/12

穴の川 古豊平川の記憶

 昨日ブログで、4万年前の支笏火砕流の南区石山あたりでの堆積について述べました。その上を古豊平川が、現豊平川から真駒内川のほうへ流れた。

 真駒内の町が広がる地域は、札幌扇状地の古い地形面である平岸面が始まるところです。また、平岸面と同じ段丘面は真駒内公園や南区川沿にも見られることから、昔の豊平川は、柔らかい火砕流堆積物を浸食しながら、流路を変えつつ、柏丘の小高い丘の東側にも、西側にも流れていたと考えられます。(末注①) 

 正確にいうと、古豊平川は真駒内川のほうへ「も」流れた、ということですね。では、豊平川がその後、現在の流路に変わっていったのはなぜか。

 ところが、約1万年前に氷河期が終わって気候が湿潤になり、豊平川の浸食力が増してくると、石山陸橋の部分で硬い溶結凝灰岩が露出するようになり、豊平川はこれを避けるように東側には流れなくなったのではないでしょうか。豊平川の流路が西側に固定されたことが、新しい扇状地面である札幌面の形成にもつながったのでしょう。(末注②) 

 昨日ブログにも載せた石山陸橋からの眺めは、豊平川が4万年かけて削った谷ということができましょう。
 
 石山のあたりの現在の地形を、色別標高図であらためて見渡します。
色別標高図 90m未満から10mごと10色陰影付き 豊平川 穴の川 真駒内川 古豊平川想定流路
 標高90m未満から10mごと10色陰影付きで作成し、以下加筆しました。
 濃い青:豊平川 薄い水色:穴の川 濃い水色:真駒内川
 赤い:石山陸橋 白抜き矢印実線:古豊平川の想定流路 白抜き△:硬石山

 ここからは、私の想像です。
 穴の川の下流域は古豊平川の流路だったのではないか。言い換えると、支笏溶結凝灰岩は、古豊平川が谷を削って露頭させたのではないか。

 前掲色別標高図で、穴の川の下流域を拡大します。
色別標高図 90m未満から10mごと7色陰影付 穴の川下流域
 穴の川を水色で加筆着色しました。緑色のは札幌軟石の採掘場跡、すなわち支笏溶結凝灰岩の露頭です。

 石山2条3丁目あたりの穴の川です。
穴の川散策路 石山2条3丁目あたり
 ちょろちょろと流れています。流れているかどうか判らないぐらいの水量です。河畔には散策路が整備されています。流れが少ないのは、この手前(上流)で豊平川に短絡する放水路が設けられていて、水量の多くがそちらに流されているからです。

 穴の川放水路です。
穴の川放水路
 奥に写る石山大橋のあたりに注がれています。1972(昭和47)年に開削されました。

 私は、もしかしたらこの放水路がかつての穴の川の河道だったのではないかとすら、想います。というか、このあたりは豊平川の氾濫原で、この画像を撮っている場所がすでに注ぎ口だったのではないか。
 前掲の標高図を見ていると、穴の川が現放水路のほうへただちに注がず、豊平川に伴走するようにうねうねと流下しているのが私にはむしろ不思議でした。このうねうねは元々豊平川の流れだったと考える方が自然に想えるのです。採石場跡たる支笏溶結凝灰岩の露頭も、「浸食力が増して」きた古豊平川のたまものといえるのではないか。硬い溶結層にぶつかって、流路が争奪された。その旧河道を穴の川がいわば“上書き”した。

 注①:前田寿嗣『新版 歩こう! 札幌の地形と地質』2016年、p.83
 注②:同上

2019/08/11

支笏火砕流は札幌をどれだけ埋め尽くしたか

 8月6日ブログの末尾で私は、古豊平川が石山陸橋を越えて真駒内川方面に流れていた条件を、次のように記しました(太字)。
 現豊平川から穴の川にかけての標高がかつて、石山陸橋から真駒内川の標高よりも上回っていたことが条件となりましょう。その条件は、4万年間の支笏カルデラ大噴火によって成立したらしい。空前の火砕流が押し寄せて、現豊平川~穴の川のあたりを埋め尽くし、今よりも標高が高い地盤が形成された。では、どれくらいの高さにまで至ったのか。

 4万年前の支笏火砕流が「どれくらいの高さにまで」堆積したか。結論的にいうと、現在の石山緑地のあたりで標高210mくらいだったそうです。元の標高が約90mで、つまり火砕流は約120mの厚さで堆積しました(末注①)。

 標高210mというと、実際どれくらいの高さか。石山陸橋から豊平川の対岸、硬石山を眺めた画像を再掲します(7月1日ブログ参照)。
平岸通 石山陸橋から“望豊”
 この場所の標高が約117mです。単純にいうと、この高さを越えて火砕流が堆積したことになります。向かいの硬石山の頂上は標高390mです(末注②)。手前の豊平川のあたりで標高約90mなので、山は比高にして約300m。火砕流が標高210mまで堆積したということは、現豊平川(標高90m)からの比高で120mになります。画像に写る硬石山の中腹の3分の1強、乃至半分弱くらいの高さまで埋まったということです。今もし同じことが起きたら、手前に写っている中高層の集合住宅は火砕流に没するのですね。イタリア、ベスビオ火山の噴火で埋まった古代都市ポンペイもかくや。

 注①:南区石山緑地のあたりでの堆積。北海道総合地質学研究センター第4回公開講座「4万年前、札幌を埋め尽くした支笏火砕流-札幌軟石は支笏火山の置き土産-」2019年6月8日、関根達夫氏のご教示による。
 注②:前掲画像で見える硬石山の尾根は約372m(国土地理院サイトによる)。

2019/08/06

古豊平川 4万年の流路を想う

 北海道遺産「札幌軟石」の紹介記事、読売新聞本日朝刊(道内面)に載りました。今回の同紙の連載は、昨年選ばれた北海道遺産第3回15件のうち市民活動が盛り上がっているものを特に5件、ピックアップしたそうです。札幌軟石が含まれたことを嬉しく思います。

 札幌軟石にちなんで、本日ブログでは南区石山の4万年の歴史を顧みます。6月29日ブログで、豊平川が太古、石山あたりで真駒内のほうに流れていたことを記しました。
 古豊平川の想定流路を色別標高図に再掲します。
色別標高図 90m未満から10m毎10色 古豊平川の流路 再掲 
 元図は標高90m未満から10m毎の10色段彩で作成、加筆凡例は以下のとおりです。
 濃い青:現豊平川 薄い水色:穴の川 濃い水色:真駒内川 白抜き□:古豊平川想定流路 赤い:石山陸橋の位置

 古豊平川は、濃い青の現豊平川から薄い水色の穴の川を経て、石山陸橋を越えて濃い水色の真駒内川の流路に向かっています。私は6月29日ブログの末尾で、「石山陸橋の西側(石山側)よりも東側(真駒内側)のほうが、標高が明らかに高い。つまり現在の標高でいうと、低い西側から高い東側に豊平川が流れていたことになります。いうまでもなく水は高きから低きに流れるので、現在の地形からするとありえないことです」と締めくくりました。

 「現在の地形からするとありえないこと」を、断面図でも確認しておきます。
断面図 豊平川-穴の川-石山陸橋-真駒内川
 前掲色別標高図の黒い実線で断面(ほぼ東西)しました。南から北を見ています(左が西、右が東)。
 濃い青の矢印が現豊平川、薄い水色が穴の川、濃い水色が真駒内川、赤いが石山陸橋です。

 西端の現豊平川から東へ向かって穴の川までは約90m~100m弱の標高、石山陸橋が約120m、東側の真駒内川の地盤は110m強で、やはり明らかに陸橋の東側(真駒内川)が西側(石山側)よりも高い。現在の地形でこの高低差をクリアして豊平川の水を流すためには、ローマの水道橋でも通さない限り無理と見えます。

 冒頭図で想定した白ヌキの流路に沿って断面をとると、どうか。
断面図 豊平川-穴の川-石山陸橋-真駒内川 古豊平川流路に沿って
 現豊平川から穴の川までは若干の下り勾配、石山陸橋から真駒内川も若干の下り勾配ですが、やはり石山陸橋の馬の背地形が文字どおりネックになります。
 この断面に沿って古豊平川が流れていた(と想定される)ということは、現豊平川から穴の川にかけての標高がかつて、石山陸橋から真駒内川の標高よりも上回っていたことが条件となりましょう。その条件は、4万年間の支笏カルデラ大噴火によって成立したらしい。空前の火砕流が押し寄せて、現豊平川~穴の川のあたりを埋め尽くし、今よりも標高が高い地盤が形成された。では、どれくらいの高さにまで至ったのか。

2019/07/20

南区真駒内17番地で目撃したモノ

 「北海道文化遺産活用活性化実行委員会ヘリテージアドバイザー研修会」で真駒内を探訪したことは先に記しました(7月13日ブログ参照)。

 そのとき歩いた一画です。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地
 ここで私は、あるモノを見ました。

 前掲画像は、真駒内17番地です。この所在地名でピンとくる方もいらっしゃるでしょう。陸上自衛隊真駒内駐屯地です。ただし、私がモノを見た場所は駐屯地の中ではありません。画像左方奥、赤いクルマが写っている先に駐屯地の門があります。そこで一般の立入りは制限されているのですが、私がモノを見たのは手前の草地です。草地の背後の4階建ての集合住宅は防衛省の官舎で、草地は一見したかぎりではこの官舎と一筆の敷地に窺われます。しかし調べると、町名が異なっていました。集合住宅は真駒内本町5丁目、草地は真駒内17番地です。
 なのですが、前述したとおりこの草地は駐屯地の門外で、特に立入り規制の表示もありません。集合住宅のほうはたしか、「許可なく立入りの禁ずる」といった看板がありました。この草地はなんとなくオープンスペースのようなのです。先般の「研修会」でも、主催者の誘導で、特に規制を受けることなくこの草地の中の遊歩道を通りました。

 前置きが長くなりましたが、私がここで見たモノをお示しします。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地 目撃したモノ
 ストーンヘンジのようにごろごろ置かれている石の一つの上にありました。

 黄色の矢印の先です。実際には横たわっていたのですが、写真に撮るため、立てました。
 接近して鑑みましょう。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地 目撃したモノ 接写
 これは砲弾の薬莢ではないでしょうか。

 私が薬莢にひとかたならぬ思い入れがあることは、拙ブログを長くお読みの方にはお察しいただけると思います。サイト内検索で「薬莢」と入れていただくと少なからず関連の記述が出てきますので、ご参照ください。また、過去のブログ(たとえば本年1月1日参照)に写した実物との比較により、前掲画像に写したモノを私が薬莢とにらんだこともお判りいただけるでしょう。 

 私が前置きを長々と綴ったのも、見たモノがモノだからです。国防の施設に隣接するところに薬莢。なにがしかの因果関係を感じてしまいました。事情に疎いのですが、こういうモノはこの近辺でフツーにころがっているものでしょうか。駐屯地や演習地の中なら見かけても当然なのかもしれませんが、その外、というところに私は稀少性を鑑みてしまったのです。演習で使われたときは回収されると思っていました。かようにいわば“放置”されていることに、感慨を覚えます。念のため申し添えますが、この事象を非違だとか問題視しているのではありません。あくまでも私にとって、珍しいモノを見たという体験感を伝えたかっただけです。珍しいことでなければ、私の見聞の狭さを再認識するにすぎないのですが。ミリタリー事情に詳しい方のご教示をお待ち申し上げます。ご参考までに、本件のサイズは直径(内法)約7.5㎝×高さ約24㎝です。

2019/07/19

札幌軟石をたずねる旅 伝承人続報

 昨日ブログで、石山緑小6年生の「軟石伝承人」報告会についてお伝えしました。
 
 子どもたちの“ふりかえり”が記された学級だよりです。
石山緑小学校 学級だより 190719
 「軟石や」Oさん経由で見せていただきました。

 画像容量の関係でお読みいただくのは難しいと思いますので、お一人の文だけ、引用させていただきます(太字、原文ママ)。
 近くの建物で石が使われているのを見ると、つい軟石かなと考えるようになった。今後は、自分の家族や、話している時に軟石の豆知識を増やしたり、これが、答えと決めつけないといわれたように、一つわかっても、そのわかっていることから、わからないことを見つけ出し調べたりしていきたいなと思いました。(R)*原文では個人名

 ほかの子たちの文も全部紹介したいのですが、泣く泣く割愛します。あえてR君の文を引用させていただいた私の心中は、昨日ブログの記述からお察しください。

 報告会の雰囲気は、下記小学校サイト「お知らせ」からもご覧ください。
 ↓
https://www16.sapporo-c.ed.jp/ishiyamamidori-e/notice/index/101/139

 ところで私は、「そういえば」と思い出したことがありました。14年前に小学6年だったSsさん₍当会会員)の冬休み自由研究のレポートです。
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート 表紙
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート pp.2-3
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート pp.12-13
 「札幌軟石をたずねる小さな旅」と題されて、A4全14ページにわたります。こちらも、画像を鮮明にするとご本人が恥ずかしがるかもしれないので、容量を抑えました。ご容赦ください。完成度の高さは感じとっていただけるのではないかと思います。あらためて拝読して、自分の原点を再確認できました。私もいわばBack to the Future の“小さな旅”。

 石山緑小の報告に先立って、札幌市南区長のStさんからメールをいただきました。私らが同小にうかがった前日、区役所を訪問した子どもたちからStさんはやはり報告を受けたそうです。
石山緑小 軟石伝承人 南区長訪問
 軟石伝承人が作成したポスターの画像がメールに添えられていました。このポスターは区長室に貼られた由。区長も嬉しそうでした。

 訪問の様子は下記南区サイト「まちの話題」をご覧ください。

http://www.city.sapporo.jp/minami/news/201907/20190716.html

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

09 | 2019/10 | 11
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック