FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/12/18

川沿10条1丁目のモニュメント ⑧(終)

川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」再掲
 藻南通「ウエルカムゲート」とは、何だったか。締めくくります。
 
 ひとことでいうと“バブルの遺産”です。それを証し立てるためにあちこち寄り道してきました。伝えたかったのは、1980年代後半の空気が社会の文字どおりもっとも基盤もいえる道路にも投影されたことです。いささか過剰とも思えるストリートファニチャー類が体現していました。その理念を文章化した近過去書類は、“21世紀都市サッポロ”をバラ色に描いています。冗長で力みのある記述は、街角に施された装身具類と表裏一体をなしているかのようです。
 四半世紀の経年変化を閲すると、北3条通といい(12月13日ブログ参照)、美術館周辺といい(12月14日ブログ参照)、当初の姿からの“軌道修正”がそこはかとなく窺われます。“時代の産物”のゆえんともいえましょう。
 藻南通が完成したであろう1990(平成2)年は、すでにバブルがはじけ出していた年です。日経平均が史上最高値を付けたのはその前年の大納会でした。本件モニュメントが札幌における好景気の残照のごとく見えてきます。
 このように記してくると、本件も含む当時の諸作品は“負の遺産”と総括できそうです。その側面は否めません(末注①)。ならばこれらは消去され、上書きされてしかるべきか。拙ブログをこれまでお読みくださっている方にはお察しいただけましょうが、私はなかなかそのように思えません。特に本件は、設置以来30年にして私は初めて「札幌軟石によって造られた倉庫群の屋根の形をモチーフとしたもの」であることを知りました(末注②)。30年前に札幌軟石を顕彰した先人に親近の情を覚えます。その特殊事情を抜きにして、仮に負の遺産であっても、時代を積み重ねた証しはできるだけ留めてほしいと願うものです。ロマネットなるへんちくりんな、もとい不思議な表記も、今となっては郷愁を抱きます。
 実は、本件モニュメントはいずれ消去されるかもしれません。本件の存在を知ったのも、それがきっかけです。モニュメントの背後はもともと自衛隊の官舎が並んでいましたが(その記憶も私は忘却していました)、上掲画像のとおり現在空き地となっています。土地の有効活用を検討するあたり本件が障害物になり、「これはいったい何なのか?」と話題になったのです。行く末を注目しましょう。

 注①:“負”ではない肯定的側面も、もちろんある。別途あらためて綴りたい。
 注②:12月10日ブログ参照。現地の説明板で「かって(ママ)、この地で採堀(ママ)された札幌軟石によって造られた倉庫群の屋根の形をモチーフとしたもの」と記された「この地」というのは藻南通の豊平川対岸(右岸側)である。本件モニュメントが立つ豊平川左岸側では札幌軟石は採掘されていない。説明文は剥げかかっていてほとんど目に留めづらいが、やや紛らわしい記述ではある。
スポンサーサイト



2020/12/17

川沿10条1丁目のモニュメント ⑦

 「川沿10条1丁目のモニュメント」と銘打ちつつ、札幌の街中のことにかなり寄り道しています。

 12月12日ブログで、『札幌の道路』という冊子を引用しました。この冊子には下掲の地図が付けられています。
第10次道路整備5ヶ年計画概要図-1 1987年
第10次道路整備5ヶ年計画概要図-2 1987年
 「21世紀都市サッポロをめざして 第10次道路整備5ヶ年計画概要図 昭和63~67年度」という標題です。

 この地図の赤い矢印を付けた先に「藻南橋(架橋)」と記されています。凡例によると「幹線道路整備箇所」です。私は、この橋を含む「藻南通」が整備されたのは1990(平成2)年頃と私は推測しました(12月11日ブログ)参照)。「昭和63~68年度」(1988~1992年度)を事業年度とするこの計画に位置付けられたのでしょう。これまでお伝えしてきた「都心部ロマネット計画」や「シンボルロード事業」も同じです。

 「5ヶ年計画概要図」には「21世紀都市サッポロをめざす道づくり」と題された文章も添えられています。
第10次道路整備5ヶ年計画概要図-3 1987年
 思い入れの強い文章です。

 中味を抜きにして、文体がそれを示しています。文末を「のです」で終えている文が、かなり多い「のです」。数えてみると文は長短入り混ぜて全部で29あります。そのうち「のです」で終わる文は7文です。ほかに「のでしょう」「のではないでしょうか」で終わる一文も含めると9文になります(末注①)。細かく見ると次のとおりです。
 リード文:6文中「のです」が2文(「のでしょう」を含めると3文)。6文中1文は体言止め
 第1パラグラフ:9文中3文
 第2パラグラフ:8文中0(ただし「のではないでしょうか」が1文)
 第3パラグラフ:8文中2文。8文中3文は体言止め

 第1パラグラフと第3パラグラフではそれぞれの末尾に「のです」が2文続けて使われている「のです」。
 ある国語学者は、作文上「のである」「のだ」の多用を戒めています(末注②、引用太字)。
 ノデアルは、ノダとかノデアリマスとも使います。普通、強い断定と思われています。しかし考えてみると、単に強い断定であるのではなく、相手に教える場合によく使う。(中略)
 話のときにノデアリマスを使うのは、話に区切りをつけて教示・説明をまとめていく役目があります。しかし文章ならば、読者は分かりにくいときには、前に戻って読み直すこともできる。それを一つ一つノデアルと使うと、書き手の思い入れの強調になってくる。何となく著者の高い姿勢を示すようにも見える。
 私はある時期、「ノデアル」を消せと自分に言い聞かせて、書き上げた原稿のノデアルをすべて消したことがあります。かえって文章がすっきりして強くなる。

 ただし「もちろん、ノデアル・ノダが有効に使われている例もあります」として、ある文章を一例に挙げています。その文章では全部で20文中「のである」「のだ」で終わるのは2文のみです。
 「だ」「である」体における「のだ」「のである」を使うのと「です」「ます」体で「のです」を用いるのは単純に比べられないかもしれません。前掲画像に載せた文章も筆者のクセといってしまえばそれまでですが、私にはやはり強調や力みと受け取れます。強調や力みが過ぎると、押しつけがましく感じられる「のです」。最近の(?)表現でいうと、“上から目線”というやつでしょうか。 
 12月12日ブログに続き、また文章論になってしまいました。これがまた、本題につながると想えてならない「のです」。

 と、本日ブログの文章で私は「のです」をところどころ用いました(文末にカギカッコで示した箇所)。これは意識的にですが、これまで無意識のうちにも頻用していないだろうか。ためしに昨日ブログを数えてみると、21文中「のです」は0でした。一昨日ブログでも40文中0、12月14日ブログでは座談会の記録の箇所を除く25文中1文。少なければいいというものでもありませんが、ひとまずほっとしました。

 注①:ここでいう「のでしょう」「のではないでしょうか」は、次のように用いられている。
 ・もちろん、計画的な都市の成長も道路整備が行われてこそ可能なのでしょう
 ・このような条件の中でより快適でゆとりのあるくらしを実現したいと思うのは、札幌市民すべての願いなのではないでしょうか
 これは「…可能でしょう」「…願いではないでしょうか」をそれぞれ強調する表現であり、「のです」の用法に近いと考えられる。
 注②:大野晋『日本語練習帳』1999年、pp.94-95

2020/12/13

川沿10条1丁目のモニュメント ④

 道庁赤レンガ前の北3条通です。
札幌都心部ロマネット計画 北3条通 ストリートファニチャー-1 1994年 札幌都心部ロマネット計画 北3条通 ストリートファニチャー-2 1994年 
 といっても現在の風景ではありません。1994(平成6)年に撮りました。

 毎度の自己満足ですが、フィルムカメラ時代の近過去の写真は稀少・貴重です。グーグルのストリートビューでは1990年代までは遡れないので。
 これを載せたのは、昨日ブログでお伝えした「札幌都心部ロマネット計画」で実現した風景だからです。「シンボル空間にふさわしい都心部の創出をめざし、アメニティや景観を考慮に入れた道路空間のリフレッシュ事業を通して、個性的で魅力ある都市景観形成」(末注①)をめざしたものでした。

 前掲の左側画像、黄色の矢印を付けた先に注目します。
北3条通 ストリートファニチャー-1 1994年 「ロマネット」標識
 昨日ブログに載せた「藻南通 シンボルロード SAPPORO ROMANET」と同じマークです。
「藻南通 ウエルカムゲート」説明板 藻南通シンボルロード

 この場所は、現在どうなっているでしょうか。
北3条広場-1 2020年
北3条広場-2 2020年
 2014(平成26)年に「北3条広場」となりました(末注②)。

 北3条通からクルマが締め出され、車道だったところの一面に煉瓦が敷き詰められています。街燈は当時と変わってませんが、周りのストリートファニチャーが整理されました。道庁赤レンガをモチーフとしたであろう煉瓦が引き続き使われていますが、前に比べるとすっきりした感じです。
 「SAPPORO ROMANET」のシンボルマークが見当たりません。現地の説明標識でも、「北3条広場」になった経緯は記されていますが、「ロマネット」のことには触れてません。“上書き”されて、過去のものになったのか。

 注①:札幌市建設局土木部・道路維持部『北の都市機能を創造する 札幌の道路』p.28。昨日ブログ末注①参照
 注②:現地の説明標識による。

2020/12/12

川沿10条1丁目のモニュメント ③

 「藻南通 ウルカムゲート」が置かれたのは1990(平成2)年頃と昨日ブログに記しました。根拠としたのは藻南橋の親柱に刻まれた架橋年です。

 実はその親柱を見る前に、私には気になったモノがありました。
川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」説明板 再掲
 一昨日ブログに載せた「ウルカムゲート」の説明板の、黄色の矢印を付けた先です。

 その部分を拡大します。
「藻南通 ウエルカムゲート」説明板 藻南通シンボルロード
 「藻南通シンボルロード」と書かれ、その下には「SAPPORO ROMANET」とあります。

 札幌ロマネット。実はこれが目に入って、おおよその年代の見当がつきました。と同時に、「これも、そうだったのか」と感慨を抱いたものです。
 「ロマネット」なる国籍不明(?)のカタカナ言葉には、注釈が必要でしょう。「ロマンティック・ストリート・ネットワーク」の略だそうです。手元の資料から、「札幌都心部ロマネット計画」を説明します(引用太字、末注①)。
 開拓当時から大通りと駅前通りを核としながら発展してきた札幌の都心部は、120年の歳月を経た現在、北海道の行政・経済・産業の中枢管理機能を担いながら、文化・芸術などの情報発信基地としても重要な位置にあり、市民はもとより本市を訪れる人々にも様々な活動の舞台を提供しています。
 札幌都心部ロマネット計画は、こうしたシンボル空間にふさわしい都心部の創出をめざし、アメニティや景観を考慮に入れた道路空間のリフレッシュ事業を通して、個性的で魅力ある都市景観形成を行うものです。
 

 資料にはその「シンボルマーク」も描かれています(末注②)。
都心部ロマネット計画 シンボルマーク
 前掲「藻南通シンボルロード」に描かれた絵柄はこのバリエーションらしく、「SAPPORO ROMANET」の字体は同じです。

 余談ながら、前述引用の説明文は一文が長いですね。前段は130字を超えています。後段も100字近い。私は作文の読本で、一文100字を超えるとわかりづらいと教えられました。一文30~35文字を目安にしているという別の文筆家の指南書を読んだこともあります。これは「だ、である」体の場合で、「です、ます」体だともう少し長くなるかもしれないとのことです。体験的には「だ、である」体でも一文30~35字に収めるのは厳しいなと感じており、私の文章も決して模範的とはいえません。できるだけ一文は短めにと、心がけてはいたいものです。

 都心部ロマネット計画の中身を別の文献から紹介します(引用太字、末注③)。
 これらの具体的な整備内容としては電線の地中化、歩道のデザイン化とロードヒーティング、統一された案内板や街路照明などのストリートファニチャーの設置などを行い、「歩いて楽しい道路」「歩きたくなる道路」づくりを進め、併せて都心部の良好な都市景観形成にも寄与できるものにしたいと考えている。
 
 たびたびすみません。この一文も、長さが気になってしまいました。140字超です。本題からずれた文章論に寄り道して、お許しください。おまえの寄り道も悪い癖だと謗られそうですが、実はこの寄り道が意外と本題に繋がるかもしれないと思い直してもいます。

 注①:札幌市建設局土木部・道路維持部『北の都市機能を創造する 札幌の道路』p.28。発行年は記されていないが、この冊子は紙のケースに入れられていて、そのケースには「1987 SAPPORO ROAD PLANNING」と書かれている。しかし、中身の記述や掲載図版からすると、発行は1990(平成2)年と思われる。
 注②:同上P.29
 注③:小谷勝也「都市を支える道路」『さっぽろ文庫58 札幌の通り』1991年pp.154-155

2020/12/11

川沿10条1丁目のモニュメント ② 

 昨日ブログの続きです。
 「藻南通 ウルカムゲート」のモニュメントはいつ、立てられたか? 結論的にいうと、私の推測は1990(平成2)年頃です。その根拠を以下、開陳します。

 まず「藻南通」なる通りの位置を、現在図で確認します。
現在図「藻南通」 
 赤い実線でなぞりました。ただしこれも私の推測です。「藻南通」という道路名は、札幌市の市道名で見当たりません。赤い線でなぞった道路は「川沿石山連絡線」といいます。都市計画道路の名称かとも思ったのですが、都市計画決定されてはいません。
 昨日ブログの画像に載せたモニュメント「ウルカムゲート」は、橙色のを付けたところに位置します。「この藻南通の入口に歓迎の意を込めて設置した」という説明文からすると、川沿石山連絡線の赤い線でなぞった部分の「入口」と考えるのが妥当です。地元で定着しているかどうかまではわかりませんが、愛称として付けられたのでしょう。

 一方、上掲図の黄色のを付けたところに、下掲のオブジェ?が立っています。
石山陸橋付近 「歓迎の広場」
 川沿石山連絡線が国道453号の石山高架橋にぶつかるあたりです。

 昨日ブログに載せた下掲の物件とデザインが似通っています。
川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」-2 再掲
 本件が「歓迎の意を込め」た「ウルカムゲート」の「入口」というならば、石山高架橋のほうは「出口」を示しているかのようです。ただし、後者のほうの現地には特に説明らしいものは見当たりません。ゼンリン住宅地図には「歓迎の広場」と記されています。公園緑地ではなく、道路用地のようです。
 
 市道川沿石山連絡線は黄色のの地点からさらに南へ、石山の市街に続きます。上掲二つの物件を照らし合わせると、「藻南通」というのはこの市道のうち、橙色のから黄色のまでの赤い線でなぞった部分を指すと思われます。のそれぞれが「ウルカムゲート」なのでしょう。

 さて、その「藻南通」は途中、豊平川を跨ぎます。
藻南橋 親柱 橋名
 冒頭現在図に赤いで囲った藻南橋です。

 この橋の親柱に「平成2年7月しゅん功」と刻まれています。
藻南橋 親柱 架橋年
 本日ブログの冒頭でモニュメントの設置年を1990(平成2)年頃とした根拠は、この橋の竣功年です。要するに「藻南通」の一連が整備されたのがこの年だろうとにらみました。ただ、これだけでは竜頭蛇尾の感なくもありませんので、もう少し続けます。

2020/12/10

川沿10条1丁目のモニュメント

 国道230号から藻南公園に行く角地に立つオブジェです。 
川沿10条1丁目 国道230号沿いのオブジェ
 いま私は「オブジェです」と記しました。外来語としての「オブジェ」に対する私の理解は、芸術的な意味合いが込められた物体、という程度です。カタカナ言葉を用いると手っ取り早く高尚に響きますが、私の理解は所詮、「何を意味するかはわからないけれども、何かを意味しているであろう物体」という程度に留まります。

 「軟石や」のOさんから先週、この物件のことを訊かれました。「札幌軟石の記念碑らしいが、どういう由来が知らないか?」とのことです。何のことか私はすぐにピンときませんでした。グーグルマップで見ても、軟石らしいモノは見当たりません。実はOさんも別のところから問合せを受けたのですが、その時点で現物を直接確かめていなかったので私に尋ねたのです。

 それで現地に足を運びました。くだんのオブジェ自体は札幌軟石ではありませんが、拠って立つ場所が少し土盛りされ、その縁が軟石で土留めされています。

 よく見ると、盛り土の一画に説明板があります。
川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」
川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」説明板
 文字が剥げかかっていますが、私はこれで物件の由来を初めて知りました。
 「ウルカムゲート」と題された説明文を以下、引用します(太字)。
 ルカムゲートは、この藻南通の入口に歓迎の意を込めて設置したモニュメントです。
 このモニュメントのデザインはかって
(ママ)、この地で採堀(ママ)された札幌軟石によって造られた倉庫群の屋根の形をモチーフとしたもので現在に至る札幌の歴史のなかでこの地の札幌軟石の果した役割を後世にも伝えたいと願うものです。   
 
 「札幌軟石によって造られた倉庫群の屋根の形をモチーフとしたもの」だったとは、気づきませんでした。
 同じ一画に立つ下掲のオブジェ?も、いわれてみれば組積造建築にありがちなアーチ型開口部をモチーフにしているかのようです。
川沿10条1丁目 「藻南通 ウエルカムゲート」-2
 「ウルカムゲート」を表象してもいるのでしょう。

 惜しむらくは、前掲の説明文に設置の年月が見当たらないことです。モニュメントと称する以上、「いつ立てたか」を明示しておいてほしかったのですが、判らないならばそれを探るのが時空逍遥探偵の醍醐味でもあります。

2020/11/03

黒澤映画『白痴』 聖地巡礼

 黒澤映画『白痴』の撮影地をあとづける試みは、これまでも各方面で紹介されています。たとえば、主要な舞台の一つとして設定された有島武郎旧邸(末注①)。次のように記された雑誌もあります。

 有島邸の美しさ
 U(原典では実名):今、札幌の芸術の森美術館に移転したという有島邸、あれは内部は映画と一緒ですか。
 ―― 移築した時にだいぶきれいにしてしまったらしいんですけど、構造は変わらないということです。
 U:あれ映画で観ると、久我美子が降りてきたりする階段が良くて。写真館の映像と有島邸の階段の使い方はいいなあと思って感激しました。
(末注②)
Bocket 黒澤明『白痴』の風景
 雑誌では有島旧邸の内部の写真も載せて「有島邸宅内の階段  『白痴』では久我美子がここを降りてくる」とのキャプションも添えてします。
 これを読むと、有島旧邸は外観のみならず内部も撮影で使われたかのようです。「はて、そうかなあ」と疑念がよぎります。映画で久我美子が降りてくる階段と有島旧邸のそれは違うんじゃないか。のみならず、間取りも異なっている印象を受ける。内部はセットのように私には想えます。
 念のため芸術の森に足を運び、有島旧邸の室内を鑑みてきました。行事を4日後に控えて(昨日ブログ参照)こんなことをしている始末です。
 
 注①::2018.4.17ブログに関連事項記述
 注②:「黒澤明『白痴』の風景」山田航責任編集『Bocket』第1号2014年、pp.77-78。なお前掲文中「札幌の芸術の森美術館に移転」とあるが、札幌芸術の森内の美術館と有島旧邸は別である。また「構造は変わらない」とも記されているが、間取りなども復元されている。

2020/10/28

49年前の近未来

 北海道青少年会館(南区真駒内柏丘)です(画像は2019年11月撮影)。
北海道青少年会館-1
北海道青少年会館-7
北海道青少年会館-2
北海道青少年会館-3
北海道青少年会館-4
北海道青少年会館-6
北海道青少年会館-5
 札幌冬季五輪のプレスセンターとして1971(昭和46)年、竣工しました。黒川紀章設計(末注①)。

 札幌の中心部の再開発事業などで建てられている現在の超高層ビルよりも、半世紀近く前に出現したこの空間に私は“近未来”を感じてしまいます。近未来を感じられる方がいいというのではありません。私が勝手に感じてしまっているだけのことです。それはたぶん、私が当時の“時代の空気”を原体験し、既視感として抱いているからでしょう。幼少期の、しかも漂白された既視感です。1970年大阪万博の空気を吸った10代に抱いた近未来はすでに近過去になりつつあります。50年近くを経て、仮想した近未来を現実の近過去として体験してしまった身には、現在の風景からふたたび近未来を描くのは難しい。

 10月4日ブログで私は、1967(昭和42)年北海道百年記念塔のコンペの際、黒川紀章が本郷新との共同で作品案を応募したことについて次のように記しました(太字)。
 日本共産党員として生涯を終えた本郷は、丹下健三に師事した黒川とどのような接点や交錯があったのだろうか。と表現すると、私は共産党と丹下を対照的に位置づけるみたいですが、たしかにそうです。丹下先生のたとえば東京都庁舎が日本共産党と相容れるようには思えないという、まあこれは私の皮相的偏見にすぎません。

 私は黒川=丹下健三の門下ぐらいの初歩的知識しか持ち合わせていないのですが、経歴を追うと、もともとは京都大学で西山卯三先生の研究室の出身なのですね(末注②)。本郷新への接近の深層心理を、これまた皮相的に嗅ぎ取ってしまいました。
 
 注①:10月26日ブログに関連事項記述
 注②:藤森照信『戦後モダニズム建築の軌跡 丹下健三とその時代』「黒川紀章氏が述懐する丹下健三」下記サイト参照
 ↓
https://note.com/shinkenchikusha/n/n5bcd59cf3eeb
https://note.com/shinkenchikusha/n/n7c819b9c8820

2020/10/26

真駒内公園をめぐる時間軸と空間軸

 本郷新「花束」像です。
本郷新「花束」五輪大橋 東端 南側 本郷新「花束」五輪大橋 東端 北側
 豊平川に架かる五輪大橋(南区真駒内)東端のたもとに、向かい合って立ちます(10月22日ブログ参照)。

 真駒内公園に立つ本郷の「雪華の像」です(10月21日ブログ参照)。
真駒内公園 雪華の像 北望
 南側から北を望みました。五輪通をはさんで、彼方に建物が見えます。黄色の矢印を付けた先です。

 1971(昭和46)年に本郷の「雪華の像」が立てられた13年後の1984(昭和59)年に建てられました。  
豊平川さけ科学館
 田上さんの「札幌市豊平川さけ科学館」です(10月22日ブログ参照)。 

 『さっぽろ文庫21 札幌の彫刻』1982年で、田上さんは「本郷新と交友の断想」を綴っています(pp.256-262)。10月12日ブログで私は、北海道銀行本店の大レリーフについて「共同制作は、だれが発案したのだろうか。文化芸術に造詣の深かった島本融頭取か」と自問しました。田上さんは「断想」で島本頭取に「本郷新さんを推薦した」と回顧しています(p.258)。1962(昭和37)年のことらしい。その後、島本頭取が本郷の構想図に基づき、山内壮夫、佐藤忠良の3人での共同制作を提案したようです。

 時間軸であらためて整理します(末注)。
 1962(昭和37)年:田上義也、道銀本店ビルの設計を受託、レリーフの制作に本郷新を推す。島本道銀頭取は山内壮夫、佐藤忠良との3人による共同制作の意向を示す。
 1964(昭和39)年:田上が本郷からアトリエの設計依頼を受ける。道銀ビル竣工
 1965(昭和40)年:本郷のアトリエ(春香山荘)竣工
 1967(昭和42)年4月~1968(昭和43)年6月:佐藤忠良、北海道庁ホールのレリーフを制作
 1967(昭和42)年6月:北海道百年記念塔公開設計競技開始
 同年12月:百年記念塔コンペの審査結果発表、「最優秀」井口健、「優秀」黒川紀章(本郷新との共同制作)
 1970(昭和45)年:北海道百年記念塔竣工(佐藤忠良のレリーフ設置)
 1971(昭和46)年:本郷「雪華の像」(真駒内公園)「花束」(五輪大橋)、佐藤「雪娘」「えぞ鹿」(五輪小橋)建立
 同年:黒川紀章設計の(札幌五輪)プレスセンター(本館・体育館)(真駒内柏丘)竣工
 1984(昭和59)年:札幌市豊平川さけ科学館竣工

 この時間軸をアタマに入れて、真駒内公園の空間軸をあらためて鑑みます。
空中写真 2008年 真駒内公園 本郷、黒川、田上
 本郷の前掲「花束」「雪華の像」と黒川設計の札幌五輪プレスセンターの位置関係に惹かれました。南北の方位線上で結ばれています。これは偶然なのだろうか。

 繰り返しますが、1967年の北海道百年記念塔コンペでは、当時まだ“無名”の地方在住若手建築士の案が「最優秀」に選ばれました。すでに時代の旗手たる黒川の、しかも北海道を代表する彫刻家本郷を共同制作者とした案を“次点”に抑えてのことです。その審査員の一人が田上さんでした。北海道百年記念事業で“敗れた”黒川と本郷の作品が、1972年札幌冬季五輪のメモリアル空間であたかも基軸線を構成しています。

 田上さんの豊平川さけ科学館から南を眺めました。
豊平川さけ科学館から南望 
 手前右方に本郷の「雪華の像」が見えます(赤い矢印の先)。左方彼方の真駒内柏丘の中腹に白く映るのは、黒川のプレスセンター(現北海道青少年会館)ではなかろうか(黄色の矢印の先)。田上さんも生前、自作たるさけ科学館の前に立ち、二人の作品を視野に収めたかもしれません。

 田上さんは、“盟友”本郷が名を連ねた黒川の百年記念塔案をどんな思いで“次点”に“落とした”のだろうか。前述「本郷新と交友の断想」には、そのことは何も書かれていません。

 注:10月4日同月11日同月12日同月21日同月22日各ブログ及び前掲『さっぽろ文庫21 札幌の彫刻』参照

2020/10/22

彫刻家と建築家 まつわりあい(続々)

 昨日ブログの続きです。
 真駒内公園周辺に見られる彫刻家と建築家の作品の位置を現在図に示します。
現在図 真駒内公園周辺 彫刻家と建築家
 H:本郷新「花束」(豊平川五輪大橋)、「雪華の像」(真駒内公園) 1971(昭和46)年
 Y:山内壮夫「飛翔」(豊平川五輪大橋) 1971(昭和46)年
 S:佐藤忠良「えぞ鹿」「雪娘」(真駒内川五輪小橋) 1971(昭和46)年
 M:前川國男「真駒内スピードスケート競技場」(真駒内公園 屋外競技場) 1970(昭和45)年
 K:黒川紀章「プレスセンター(本館・体育館)」(真駒内柏丘 北海道青少年会館) 1971(昭和46)年
 T:田上義也「札幌市豊平川さけ科学館」(真駒内公園) 1984(昭和59)年

 作品を遺した建築家と彫刻家6人の関係を、模式図化しました(末注①)。
建築家と彫刻家 関係図-2
 1970-80年代の同時期に活躍した創造者たちゆえに、まつわりあうのは当たり前といってしまえばそれまでです。とはいえ、その作品が真駒内公園という特定の一帯に凝縮されているのに因縁を感じてしまいます。北海道にゆかりの深い彫刻家たちの作品がメモリアルな場所に集約されるのも自然な成り行きでしょう。ただ、彼らと建築家との関係性を、例によって深読みしたくなります。
 たとえば、公園の入り口に置かれた本郷の「雪華の像」と柏丘に建つ黒川のプレスセンター(現北海道青少年会館)。北海道百年記念塔が脳裏にこびりつく私には、本郷作品が黒川作品への導入部に位置付けられているかに見えます。
 真駒内川の橋のたもとに立つ忠良さんの彫刻と、前川國男の屋外競技場(2019.11.2ブログ参照)。のちに宮城県美術館(末注②)で前川と忠良作品が接近することを想うと、あたかもその序章です。

 注①:札幌市市民文化課『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、札幌オリンピック施設編集委員会『札幌オリンピック施設-競技場・選手村・関連施設などの記録-』1971年、木田金次郎美術館『田上義也-北方建築の種展』図録2010年、『生誕100年 前川國男建築展』図録2005年、宮城県美術館ウエブサイト「フロア案内」ページ、拙ブログ2020.10.11「建築家と彫刻家 まつわりあい」同10.12「ここでも、“時代の終わり”か」 参照
 注②:宮城県美術館は本館1981(昭和56)年が前川作。その後1990(平成2)年、別の設計者により「佐藤忠良記念館」が増設された。注①参照

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック