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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/14

穴の川の「穴」

 昨日ブログ末尾に、「『穴の沢』は何に由って来たるか」と記しました。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 結論的にいうと、私は先達の考察を超えません。「先達の考察」というのは、加藤好男『南区の歴史と地名』1987年です。同書はそのものずばり「穴の川の『穴』とは何か」を仔細に推論しています(pp.96-97)。また、「穴の」「穴の」の変遷についても先だって述べています(pp.95-96)。

 余談ながら、この書は札幌市立豊滝小学校が発行したものです。しかし、小学校の郷土史副読本という域を超えた水準だと思います。いや、その言い方は「小学校の郷土史副読本」に対する下方バイアスですね。私がエラそうに「水準」など設定できるものではありません。小学校の周年記念誌には往々に貴重な一次情報が盛り込まれています。前掲書の場合、史料や既往研究を丹念に跡づけたのみならず著者が新たに切り拓いた知見も加味されており、とまれ出色です(末注①)。

 ちなみに、同書には「軟石発見の年は?」という一項も設けられています(pp.63-64)。「石山が軟石採掘から始まった地域であることは、誰でも知っていることです。しかし、『不思議なこと』が一つあります。軟石採掘開始の年は、明治8年として、どの本も一致しているのですが、軟石発見の年がどうもはっきりしていないことです」と切り出し、「現段階では、断定できる資料がありません」と結んでいます。近年私が右往左往していること(本年4月9日ブログ参照)を、先達は32年前に喝破していました。

 加藤先生の本をなぞるのでは芸がないので、拙ブログでは別のことを記します。
 「穴の沢」の由来について、もっとも新しく著述されているのは管見の限り『札幌の地名がわかる本』2018年です。同書の「石山・石山東」の項に「往古はアイヌ語〈ウコツシンネイ(山と山が接近する土地の意)〉の名があったという」とあります(p.118)。またそのページの脚注では『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年から「語源は明確でないが、昔ここを通る人が『ウコッ・シリネイ』と呼んだところから、山峡を伝ってでる川であり、穴の沢と呼ばれるようになったと思われる」と引いています。
 これが、わかるようでわかりません。『札幌地名考』に立ち戻っても、「ここを通る」の「ここ」が石山地区のどこを指しているのか、明示されていない。上述の文だけだと、狭隘な峡谷を削る川のような印象を私は受けるのですが、どうでしょうか。「山と山が接近」→「山峡を伝ってでる川」→穴の沢。「山峡」とは「山と山とに挟まれた谷間」です(『広辞苑』第5版1998年)。石山地区を流れる穴の沢(穴の川)のどこから、「山峡」が想像できるでしょうか。
 実は「ウコツシンネイ」「ウコッ・シリネイ」について、山田秀三先生が考察し(末注②)、加藤先生が前掲書でそれをふまえて展開しています。しかし『わかる本』には、そこまで言及されていません。まあ、先行研究を逐一紹介していたら、紙幅が十倍あっても足りないでしょう。無いものねだりはやめます。同書の章末には二先生の著作も参考文献の中に挙げられていますので、疑問が出たら自分で調べなさいということでしょう。
 教訓。書名が『わかる本』でも、決して「わかる」とは限りません。否、わかった気になるのは、却ってアブナイ。落とし穴です。逆説的ですが、『わかる本』からは「わからないこと」を見つけるように読みます。

 注①:加藤好男氏は近年、『サッポロ・イシカリのアイヌ民族』についても到達点を築いている(本年1月15日ブログ参照)。
 注②:『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.23-25
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2019/08/13

穴の川 古豊平川の記憶 ②

 「北海タイムス」1970(昭和45)年9月19日記事(画像上)、同1972(昭和47)年9月18日記事(下)です。
北海タイムス1970年9月19日記事
北海タイムス1972年9月18日記事
 南区石山で穴の川が氾濫したことを伝えています。

 1970年の記事から以下、一部引用します(太字)。
 中でも穴の川は、山岳部からほぼ直線的に流れ石山市街にはいったところから今度は本流である豊平川に平行して藻南橋の手前まで流れている。石山市街を流れる部分は、うねうねと曲がり、はんらんいやすい状態。
 札幌市は、穴の川を石山地区から、すぐ豊平川にそそぐようショート・カット、両岸約五百メートルを護岸する工事をことし始めた。結果的には、流木がひっかかって流れをとめ、はんらんを招いたためにショート・カット工事は、役に立たなかった。


 1972年の記事では石山地区での被害を次のように記しています(太字)。
 南区石山一区では午後八時ごろ、国道二三○号線沿いの商店や住宅に近くを流れる穴ノ川がじわじわと床上まで浸水、テレビで台風の被害を見ていた市民も『他人ごとではない』と床の物を高い所へ上げたり、大騒ぎとなった。
 石山地区では床上浸水9戸、床下浸水40戸だったそうです(なお、記事中の「国道二三〇号線」は現在の平岸通のこと)。

 1961(昭和36)年の空中写真で穴の川の下流域を見ます。
空中写真1961年 石山 穴の川
 濃い青でなぞったのが豊平川、水色が穴の川です。上述の1972年氾濫で浸水した石山一区は、画像の中央やや下あたりです。

 1970年代前半の氾濫は、市街地の拡大にともなう被害増大の側面もあるのでしょうが、昨日ブログで述べた「穴の川=豊平川旧河道」説で解釈できるような気がします。豊平川の本流から切り離された旧河道を穴の川が争奪して、オーバーフローさせた。本流であれば受け止めきれた増水だったのかもしれません。ただし、そもそもこの一帯全体が豊平川による氾濫原あるいは谷底平野といえるとも思います。

 なお、前掲の新聞記事は私が独力で発掘できるものでは到底ありません。㈱シン技術コンサルが発行する『目で見る水害レポート』№33、2014年10月掲載からの孫引きです。北海道開発局札幌開建ウエブサイトの札幌河川事務所のページにも、「近年の土砂災害」が時系列で記されています。

https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/sapporo_kasen/kluhh4000000861e.html#s1
 これを見ると、穴の川は1975(昭和50)年にも氾濫しています(末注①)。

 石山に古くからお住まいのⅠhさんは「穴の川はしゅっちゅう氾濫していた」とおっしゃっていましたし、郷土史の文献でも古老が「学校の前の穴の川でさえ、大雨が降るとすぐあふれ出して、国道が一面水をかぶったものだ。ついこの間までね」と語っています(末注②、この「国道」も、現在の平岸通)。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 この小川からも、豊平川の原風景が偲ばれます。 

 ところで、穴の川の旧称は「穴の沢川」でした。「穴の沢」は何に由って来たるか。

 注①:1972年9月の氾濫については「床上浸水97戸、床下浸水76戸」と記している。
 注②:石山小学校開校80周年記念『石山ものがたり-古老座談会-』1979年、p.16。同書には1913(大正2)年の「大水」のことも語られている。これは豊平川の洪水のことである。

2019/08/12

穴の川 古豊平川の記憶

 昨日ブログで、4万年前の支笏火砕流の南区石山あたりでの堆積について述べました。その上を古豊平川が、現豊平川から真駒内川のほうへ流れた。

 真駒内の町が広がる地域は、札幌扇状地の古い地形面である平岸面が始まるところです。また、平岸面と同じ段丘面は真駒内公園や南区川沿にも見られることから、昔の豊平川は、柔らかい火砕流堆積物を浸食しながら、流路を変えつつ、柏丘の小高い丘の東側にも、西側にも流れていたと考えられます。(末注①) 

 正確にいうと、古豊平川は真駒内川のほうへ「も」流れた、ということですね。では、豊平川がその後、現在の流路に変わっていったのはなぜか。

 ところが、約1万年前に氷河期が終わって気候が湿潤になり、豊平川の浸食力が増してくると、石山陸橋の部分で硬い溶結凝灰岩が露出するようになり、豊平川はこれを避けるように東側には流れなくなったのではないでしょうか。豊平川の流路が西側に固定されたことが、新しい扇状地面である札幌面の形成にもつながったのでしょう。(末注②) 

 昨日ブログにも載せた石山陸橋からの眺めは、豊平川が4万年かけて削った谷ということができましょう。
 
 石山のあたりの現在の地形を、色別標高図であらためて見渡します。
色別標高図 90m未満から10mごと10色陰影付き 豊平川 穴の川 真駒内川 古豊平川想定流路
 標高90m未満から10mごと10色陰影付きで作成し、以下加筆しました。
 濃い青:豊平川 薄い水色:穴の川 濃い水色:真駒内川
 赤い:石山陸橋 白抜き矢印実線:古豊平川の想定流路 白抜き△:硬石山

 ここからは、私の想像です。
 穴の川の下流域は古豊平川の流路だったのではないか。言い換えると、支笏溶結凝灰岩は、古豊平川が谷を削って露頭させたのではないか。

 前掲色別標高図で、穴の川の下流域を拡大します。
色別標高図 90m未満から10mごと7色陰影付 穴の川下流域
 穴の川を水色で加筆着色しました。緑色のは札幌軟石の採掘場跡、すなわち支笏溶結凝灰岩の露頭です。

 石山2条3丁目あたりの穴の川です。
穴の川散策路 石山2条3丁目あたり
 ちょろちょろと流れています。流れているかどうか判らないぐらいの水量です。河畔には散策路が整備されています。流れが少ないのは、この手前(上流)で豊平川に短絡する放水路が設けられていて、水量の多くがそちらに流されているからです。

 穴の川放水路です。
穴の川放水路
 奥に写る石山大橋のあたりに注がれています。1972(昭和47)年に開削されました。

 私は、もしかしたらこの放水路がかつての穴の川の河道だったのではないかとすら、想います。というか、このあたりは豊平川の氾濫原で、この画像を撮っている場所がすでに注ぎ口だったのではないか。
 前掲の標高図を見ていると、穴の川が現放水路のほうへただちに注がず、豊平川に伴走するようにうねうねと流下しているのが私にはむしろ不思議でした。このうねうねは元々豊平川の流れだったと考える方が自然に想えるのです。採石場跡たる支笏溶結凝灰岩の露頭も、「浸食力が増して」きた古豊平川のたまものといえるのではないか。硬い溶結層にぶつかって、流路が争奪された。その旧河道を穴の川がいわば“上書き”した。

 注①:前田寿嗣『新版 歩こう! 札幌の地形と地質』2016年、p.83
 注②:同上

2019/08/11

支笏火砕流は札幌をどれだけ埋め尽くしたか

 8月6日ブログの末尾で私は、古豊平川が石山陸橋を越えて真駒内川方面に流れていた条件を、次のように記しました(太字)。
 現豊平川から穴の川にかけての標高がかつて、石山陸橋から真駒内川の標高よりも上回っていたことが条件となりましょう。その条件は、4万年間の支笏カルデラ大噴火によって成立したらしい。空前の火砕流が押し寄せて、現豊平川~穴の川のあたりを埋め尽くし、今よりも標高が高い地盤が形成された。では、どれくらいの高さにまで至ったのか。

 4万年前の支笏火砕流が「どれくらいの高さにまで」堆積したか。結論的にいうと、現在の石山緑地のあたりで標高210mくらいだったそうです。元の標高が約90mで、つまり火砕流は約120mの厚さで堆積しました(末注①)。

 標高210mというと、実際どれくらいの高さか。石山陸橋から豊平川の対岸、硬石山を眺めた画像を再掲します(7月1日ブログ参照)。
平岸通 石山陸橋から“望豊”
 この場所の標高が約117mです。単純にいうと、この高さを越えて火砕流が堆積したことになります。向かいの硬石山の頂上は標高390mです(末注②)。手前の豊平川のあたりで標高約90mなので、山は比高にして約300m。火砕流が標高210mまで堆積したということは、現豊平川(標高90m)からの比高で120mになります。画像に写る硬石山の中腹の3分の1強、乃至半分弱くらいの高さまで埋まったということです。今もし同じことが起きたら、手前に写っている中高層の集合住宅は火砕流に没するのですね。イタリア、ベスビオ火山の噴火で埋まった古代都市ポンペイもかくや。

 注①:南区石山緑地のあたりでの堆積。北海道総合地質学研究センター第4回公開講座「4万年前、札幌を埋め尽くした支笏火砕流-札幌軟石は支笏火山の置き土産-」2019年6月8日、関根達夫氏のご教示による。
 注②:前掲画像で見える硬石山の尾根は約372m(国土地理院サイトによる)。

2019/08/06

古豊平川 4万年の流路を想う

 北海道遺産「札幌軟石」の紹介記事、読売新聞本日朝刊(道内面)に載りました。今回の同紙の連載は、昨年選ばれた北海道遺産第3回15件のうち市民活動が盛り上がっているものを特に5件、ピックアップしたそうです。札幌軟石が含まれたことを嬉しく思います。

 札幌軟石にちなんで、本日ブログでは南区石山の4万年の歴史を顧みます。6月29日ブログで、豊平川が太古、石山あたりで真駒内のほうに流れていたことを記しました。
 古豊平川の想定流路を色別標高図に再掲します。
色別標高図 90m未満から10m毎10色 古豊平川の流路 再掲 
 元図は標高90m未満から10m毎の10色段彩で作成、加筆凡例は以下のとおりです。
 濃い青:現豊平川 薄い水色:穴の川 濃い水色:真駒内川 白抜き□:古豊平川想定流路 赤い:石山陸橋の位置

 古豊平川は、濃い青の現豊平川から薄い水色の穴の川を経て、石山陸橋を越えて濃い水色の真駒内川の流路に向かっています。私は6月29日ブログの末尾で、「石山陸橋の西側(石山側)よりも東側(真駒内側)のほうが、標高が明らかに高い。つまり現在の標高でいうと、低い西側から高い東側に豊平川が流れていたことになります。いうまでもなく水は高きから低きに流れるので、現在の地形からするとありえないことです」と締めくくりました。

 「現在の地形からするとありえないこと」を、断面図でも確認しておきます。
断面図 豊平川-穴の川-石山陸橋-真駒内川
 前掲色別標高図の黒い実線で断面(ほぼ東西)しました。南から北を見ています(左が西、右が東)。
 濃い青の矢印が現豊平川、薄い水色が穴の川、濃い水色が真駒内川、赤いが石山陸橋です。

 西端の現豊平川から東へ向かって穴の川までは約90m~100m弱の標高、石山陸橋が約120m、東側の真駒内川の地盤は110m強で、やはり明らかに陸橋の東側(真駒内川)が西側(石山側)よりも高い。現在の地形でこの高低差をクリアして豊平川の水を流すためには、ローマの水道橋でも通さない限り無理と見えます。

 冒頭図で想定した白ヌキの流路に沿って断面をとると、どうか。
断面図 豊平川-穴の川-石山陸橋-真駒内川 古豊平川流路に沿って
 現豊平川から穴の川までは若干の下り勾配、石山陸橋から真駒内川も若干の下り勾配ですが、やはり石山陸橋の馬の背地形が文字どおりネックになります。
 この断面に沿って古豊平川が流れていた(と想定される)ということは、現豊平川から穴の川にかけての標高がかつて、石山陸橋から真駒内川の標高よりも上回っていたことが条件となりましょう。その条件は、4万年間の支笏カルデラ大噴火によって成立したらしい。空前の火砕流が押し寄せて、現豊平川~穴の川のあたりを埋め尽くし、今よりも標高が高い地盤が形成された。では、どれくらいの高さにまで至ったのか。

2019/07/20

南区真駒内17番地で目撃したモノ

 「北海道文化遺産活用活性化実行委員会ヘリテージアドバイザー研修会」で真駒内を探訪したことは先に記しました(7月13日ブログ参照)。

 そのとき歩いた一画です。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地
 ここで私は、あるモノを見ました。

 前掲画像は、真駒内17番地です。この所在地名でピンとくる方もいらっしゃるでしょう。陸上自衛隊真駒内駐屯地です。ただし、私がモノを見た場所は駐屯地の中ではありません。画像左方奥、赤いクルマが写っている先に駐屯地の門があります。そこで一般の立入りは制限されているのですが、私がモノを見たのは手前の草地です。草地の背後の4階建ての集合住宅は防衛省の官舎で、草地は一見したかぎりではこの官舎と一筆の敷地に窺われます。しかし調べると、町名が異なっていました。集合住宅は真駒内本町5丁目、草地は真駒内17番地です。
 なのですが、前述したとおりこの草地は駐屯地の門外で、特に立入り規制の表示もありません。集合住宅のほうはたしか、「許可なく立入りの禁ずる」といった看板がありました。この草地はなんとなくオープンスペースのようなのです。先般の「研修会」でも、主催者の誘導で、特に規制を受けることなくこの草地の中の遊歩道を通りました。

 前置きが長くなりましたが、私がここで見たモノをお示しします。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地 目撃したモノ
 ストーンヘンジのようにごろごろ置かれている石の一つの上にありました。

 黄色の矢印の先です。実際には横たわっていたのですが、写真に撮るため、立てました。
 接近して鑑みましょう。
真駒内17番地 真駒内本町5丁目との隣接する空地 目撃したモノ 接写
 これは砲弾の薬莢ではないでしょうか。

 私が薬莢にひとかたならぬ思い入れがあることは、拙ブログを長くお読みの方にはお察しいただけると思います。サイト内検索で「薬莢」と入れていただくと少なからず関連の記述が出てきますので、ご参照ください。また、過去のブログ(たとえば本年1月1日参照)に写した実物との比較により、前掲画像に写したモノを私が薬莢とにらんだこともお判りいただけるでしょう。 

 私が前置きを長々と綴ったのも、見たモノがモノだからです。国防の施設に隣接するところに薬莢。なにがしかの因果関係を感じてしまいました。事情に疎いのですが、こういうモノはこの近辺でフツーにころがっているものでしょうか。駐屯地や演習地の中なら見かけても当然なのかもしれませんが、その外、というところに私は稀少性を鑑みてしまったのです。演習で使われたときは回収されると思っていました。かようにいわば“放置”されていることに、感慨を覚えます。念のため申し添えますが、この事象を非違だとか問題視しているのではありません。あくまでも私にとって、珍しいモノを見たという体験感を伝えたかっただけです。珍しいことでなければ、私の見聞の狭さを再認識するにすぎないのですが。ミリタリー事情に詳しい方のご教示をお待ち申し上げます。ご参考までに、本件のサイズは直径(内法)約7.5㎝×高さ約24㎝です。

2019/07/19

札幌軟石をたずねる旅 伝承人続報

 昨日ブログで、石山緑小6年生の「軟石伝承人」報告会についてお伝えしました。
 
 子どもたちの“ふりかえり”が記された学級だよりです。
石山緑小学校 学級だより 190719
 「軟石や」Oさん経由で見せていただきました。

 画像容量の関係でお読みいただくのは難しいと思いますので、お一人の文だけ、引用させていただきます(太字、原文ママ)。
 近くの建物で石が使われているのを見ると、つい軟石かなと考えるようになった。今後は、自分の家族や、話している時に軟石の豆知識を増やしたり、これが、答えと決めつけないといわれたように、一つわかっても、そのわかっていることから、わからないことを見つけ出し調べたりしていきたいなと思いました。(R)*原文では個人名

 ほかの子たちの文も全部紹介したいのですが、泣く泣く割愛します。あえてR君の文を引用させていただいた私の心中は、昨日ブログの記述からお察しください。

 報告会の雰囲気は、下記小学校サイト「お知らせ」からもご覧ください。
 ↓
https://www16.sapporo-c.ed.jp/ishiyamamidori-e/notice/index/101/139

 ところで私は、「そういえば」と思い出したことがありました。14年前に小学6年だったSsさん₍当会会員)の冬休み自由研究のレポートです。
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート 表紙
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート pp.2-3
「札幌軟石をたずねる小さな旅」レポート pp.12-13
 「札幌軟石をたずねる小さな旅」と題されて、A4全14ページにわたります。こちらも、画像を鮮明にするとご本人が恥ずかしがるかもしれないので、容量を抑えました。ご容赦ください。完成度の高さは感じとっていただけるのではないかと思います。あらためて拝読して、自分の原点を再確認できました。私もいわばBack to the Future の“小さな旅”。

 石山緑小の報告に先立って、札幌市南区長のStさんからメールをいただきました。私らが同小にうかがった前日、区役所を訪問した子どもたちからStさんはやはり報告を受けたそうです。
石山緑小 軟石伝承人 南区長訪問
 軟石伝承人が作成したポスターの画像がメールに添えられていました。このポスターは区長室に貼られた由。区長も嬉しそうでした。

 訪問の様子は下記南区サイト「まちの話題」をご覧ください。

http://www.city.sapporo.jp/minami/news/201907/20190716.html

2019/07/18

軟石伝承人の報告会

 南区の石山緑小学校で「札幌軟石北海道遺産認定 軟石伝承人報告会」が開かれました。
石山緑小学校 軟石伝承人 報告会 石山緑小学校 軟石伝承人 報告会 2
 同小6年生が修学旅行で小樽を訪ね、石造りの建物などを調べた成果の発表です。石山まちづくりセンターの所長さん、職員のFさん、軟石やのOさん、南区役所の職員さんと私が拝聴しました。 

 発表は一グループ6~7名で、たしか12くらいのグループです。
石山緑小 軟石伝承人報告会 ポスター1
石山緑小 軟石伝承人報告会 ポスター2
石山緑小 軟石伝承人報告会 ポスター3
 テーマは「札幌軟石と小樽軟石の違い」 「小樽にはなぜ、小樽軟石の建物が少ないか?」 「小樽と石山の石造りの特徴」「小樽の人や観光客は札幌軟石、小樽軟石を知っているか?」などです。あるグループは、水天宮の近くで通りがかりの人に「札幌軟石を知ってますか?」と“インタビュー”したときの様子を寸劇で再現してくれました。

 「大人顔負け」という賛辞は、かえってこの6年生たちに失礼ですね。私の小学生のときの修学旅行は、京都奈良の社寺を文字どおり物見遊山した「だけ」です。旅館で夜通しまくら投げをしたことがもっとも思い出に残っていて、法隆寺や宇治の平等院や金閣などはただ「見たな」という記憶しか残ってません。彼ら彼女らは、あかじめ下調べをして、自分たちでテーマを決め、現地を歩いて人やモノを訪ね、尋ね、帰ってきてから考察し、記録にまとめている。

 ひととおりお聴きした後、私は次のような感想をお伝えしました(太字)。
 私は札幌で札幌軟石のことを、20年くらい調べてきました。その私が最近になってようやく気づいたことに、皆さんはもう達しています。そのことに驚き、感激しました。「小樽には小樽の軟石があったのに、なぜ札幌の軟石が使われたか?」をお訊きしたところ、答えを出してくれたグループもあったし、「わからない」というグループもありました。「札幌と小樽で、どうして違う軟石が生まれたか?」と尋ねましたら、「そこまではわかりません」とのことでした。「まだ、わからないことがある」ということが大事だと思います。これからも調べ続け、謎解きをしてくれると嬉しいです。

 他の方の感想もふまえ、担任の先生が「調べること」「伝えること」「つくること」とまとめて、子どもたちに返しました。私たちには「子どもたちにとっては、自分がやってきたことの新たな価値づけになった」とおっしゃってくださいました。私は彼ら彼女らから励まされた思いです。貴重なひとときを体験させていただきました。この成果は、これまでの地元での地道な積み重ねのたまものです。ありがとうございました。

2019/07/13

真駒内に遺る西回りと東回りの希臘

 陸上自衛隊真駒内駐屯地内と真駒内界隈を歩きました。 「北海道文化遺産活用活性化実行委員会ヘリテージアドバイザー研修会」(長い…)の一環です。真駒内駐屯地は私は2003年以来16年ぶりで、周辺の真駒内の街ともども新鮮でした。

 真駒内緑町の真駒内五輪記念公園です。
真駒内五輪記念公園 パーゴラ 遠望
 一緒に歩いていたAさんたちと、一画にある構造物に眼を留めました。

 遠望したとき、私はパーゴラかと思いました。
真駒内五輪記念公園 パーゴラ 近景
 だって、屋根が無い。

 しかし、パーゴラだとすると、植物を這わせるような網とかが架かっていません。これは、屋根のない四阿か。古代ギリシャはアクロポリスの神殿遺跡のようにも見えます。

 ペディメントには何やらレリーフも施されています。
真駒内五輪記念公園 パーゴラ 細部
 オーダーの円柱は、これは何式ですか。イオニアまがい? へんちくりんな(いや、私が無知だけかもしれません)柱頭飾りですが、柱にはフルーティング(縦溝)を入れて、芸が細かいといえば細かい。

 テーブルや椅子の足も、イオニアですか。
真駒内五輪記念公園 パーゴラ 椅子とテーブル
 めくるめく空間です。

 『さっぽろの公園・緑地ガイド 緑の中へ』1999年によると、「オリンピック発祥の地アテネの神殿をイメージさせるパーゴラ」だそうです(p.97)。

 オーダーといえば、真駒内駐屯地の中にもキャンプクロフォード当時のオーダー建築が幾つか見られます。
真駒内駐屯地 中央講堂(旧チャペル)
 1947(昭和22)年建築の元「チャペル」を、私はアメリカ仕込みのグリークリバイバルだと思っていました。廣田基彦さんの『開拓使・道庁営繕80年の覚書き』1997年によると、廣田さんが当時、施工担当の大成建設に「古典建築に明るい技術者」の援助を依頼した結果、同社から派遣された三浦巌夫さん(1910-1981)という方が廣田さんとの協議を重ねて設計したそうです(pp.218-219)。

2019/07/09

煤煙の詰らぬ不思議な煙突

 昨日ブログでお伝えした「札幌軟石共同販売所」の古写真は、札幌市公文書館所蔵の次の史料から採ったものです。
札幌軟石共同販売所 リーフレット ウラ
札幌軟石共同販売所 リーフレット オモテ

 ざら紙(北海道ではこの種の紙を「ざらし」と言うと思うが、私の幼少時、郷里の尾張地方では「藁半紙(わらばんし)」と言っていた)に印刷された、いわゆるリーフレットです。 サイズは、四つ折りで定形の小封筒くらいでしょう。
 このリーフレットは2019.3.25ブログで一度載せています。そのとき「文面からして、昭和戦前期に発行されたものです」と記しました。今から見るとなかなか奮っている文面です。参考までに、全文を末尾に載せておきますので、興味のおありの方はお読みください。
 
 「札幌軟石共同販売所」は1933(昭和8)年、石山で軟石を採掘する8業者によって作られました(『郷土誌さっぽろ 石山百年の歩み』1975年、p.36)。1943(昭和18)年には戦時経済統制により「札幌軟石株式会社」となり、これが昭和30年代まで続いたそうです。昨日ブログにも載せた「南消防団石山分団・石山水防倉庫」の建物は、札幌軟石が用いられているというのみならず、採石業者が結束して軟石の販売に取り組んだ拠点でした。
 ところで、この建物は昨日も述べたように、「石山信用組合」として1923(大正12)年に建てられたといいます。「信用組合」と軟石の共同販売はどう関わったのか。前述『石山百年の歩み』には「石山信用販売購買利用組合として建築された」とあります(同書p.34)。その時代、同組合は軟石の採掘もしていたそうです(同書p.36)。組合の有力な構成員に軟石採掘業者が名を連ねていたこともまた、想像に難くありません。というか、石材業者が組合を結成したとみるべきでしょうか。生産農家が共同組織を作って流通販売、金融等を展開する例にみられるとおり、軟石の業者もまた、採石から事業に乗り出していったことと思います。石材業者の一つであったⅠ家は、郵便局を経営し、定山渓鉄道の役員も務めました。 
 とまれ消防分団の建物は、旧郵便局の「ぽすとかん」、旧定鉄駅舎の「石山振興会館」と並んで地域の歴史を伝えるランドマーク=“土地のしるし”といえます。石山は土地のしるし的建物の密度が濃い。

 以下、リーフレットの全文です。
道産唯一の耐火石材 札幌軟石 札幌軟石共同販売所
 札幌軟石は明治四年黒田長官時代の採掘にはじまり爾来六十有余年の古き採石の歴史を有し本道唯一の耐火石材として用途頗る広く従来本道に於ける耐火建築と言へば札幌軟石を直感する程有名な石材であります
 然るにコンクリート等人造石の異常なる発達は一種の流行的となり為に札幌軟石の利用は一時其範囲を縮小されたるやの感がありましたが札幌軟石には耐火建築材として或は墓碑其他彫刻用として他の及ばざる特質と実用価値のある事を明瞭に認識さるゝに至りまして近来躍進的需用倍加の状勢にあります 弊所は札幌軟石の持つ特質と声価を増進せしめ六十余年来採石して尚無尽の天然資源を開発して本道石材工業界に寄与いたしたく昭和八年組合を組織し採取販売の統制と研究を続けて居ります 何卒御指導と御援助給はらん事をお願致します
 定山渓御遊覧の途次是非お立寄下さいまして採石実況の御視察を御待ち申しております
                 札幌郡豊平町(定山渓線)石切山駅前
                 札幌軟石共同販売所
                 電話三番

 道産唯一の耐火石材
 札幌軟石の特質と用途
耐火力強大

 札幌軟石は凝灰岩にして已に高度の熱に焼かれた火山灰の凝結した石材でありますから耐火力強大であります
加工彫刻に至便
 石質柔軟にして細粒均一なり凝力強く加工に至便であります
価格低廉
 如何なる寸法のものでも容易迅速に採石が出来価格低廉であります
理想的な耐火建築材
 石造建築の落付と渋味のある美観は建築界の一異色であります 札幌軟石の壁石は取付作業に便であるのみならず改築や移転の場合は打砕く事なく取はづして再び其石材を使用するに差支なく便利で経済であります
用途の広い石材
 建築材として倉庫 防火塀 温室 冷蔵庫 サイロウ等の防火と保温の建築に好適 壁布石、地束石、基礎算盤石踏石等の建築材としての他橋梁、下水、石垣階段等の土木用として用ひられます
 加工彫刻に至便でありますから墓碑、灯篭、鳥居、社標、門柱其他美術彫刻に用ひて安価で雅趣多い石材であります
 耐火力強大で窯に使用するも亀裂する事ありませんから各種窯に使用され鰊、鰯等の魚粕製造窯並に木炭製造の築窯には最適の石材として御賞讃されて居ります

煤煙の詰らぬ不思議な煙突
 札幌軟石の煙突は絶対に煤煙が詰りませんから何年経っても掃除の必要がありません
 而も安価で火防と経済を兼ね体裁がよく小工場一般住宅用煙突としておすゝめ致します

 札幌市(ママ)豊平町(定山渓線)石切山駅前
 札幌軟石共同販売所
 電話三番
   
(旧字体は通用字体にあらためたほか、改行の箇所は一文字空けた以外は原文のまま) 

 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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