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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/14

札幌五輪 オーストリア館 補遺

 真駒内街路灯組合『真駒内団地史 街路灯と地域の歩み』2016年に、次のくだりがあります(p.100、引用太字)。
 変わった施設では、スキー王国のオーストリアがスキー用品のPR、観光宣伝のために緑町1に建設したオーストリア館があった。アルプスの山々を思わせる三角形を組み合わせた2階建てで、2階の窓は全面ガラス張り。建設費は7千万円。五輪期間中はアルペン三冠王のトニー・ザイラーやヨーデル合唱舞踊団を送り込んだ。売却の予定だったが、移設費がかかり過ぎて買い手がつかず、取り壊しの寸前に札幌市と市観光協会が五輪記念にと譲り受け、羊ヶ丘展望台に移設された。今も軽食コーナーやみやげ物販売などに使われている。取得費は移転費込みで1千万円だったという。

 文中に「緑町1に建設された」とあり、北海道新聞からの転載による当時の写真も添えられています。昨日ブログでお伝えした場所は南区真駒内緑町1丁目です。現在は病院が建っています。
南区真駒内緑町1丁目 札幌五輪オーストリア館跡
 右方から、左奥へ湾曲する道が1972年札幌オリンピックのプレスセンター(現北海道青少年会館)への取り付け道路です。

 この場所で間違いないでしょう。五輪を実体験した方はご記憶があるかもしれませんが、私のような追体験者は資料を漁ってようやくたどり着きました。ただ、移築の経緯について、札幌観光協会の周年記念誌では「処分をまかされていた竹中工務店が観光協会に寄贈」した(11月9日ブログ参照)とあるのみですが、前掲誌では「譲り受けた」とはいうものの1千万円で買い取ったかのような記述です。また、当初は買い手がつかなかったことも明かされています。たぶん当時の新聞に仔細が記事になっていたのでしょう。当事者の一方の史書では、観方が偏るものですね。大袈裟か。

 かようなパビリオンを作ったのは、やはりオーストリアだけだったのでしょうか。そうだとすれば、繰返しになりますが感慨深いことです。メダル有望選手がアマチュア規定違反で五輪史上初?の“追放”処分となり、一時はスキー全選手不参加も取りざたされた国が、札幌大会にもっとも肩入れしていた。皮肉にも。いや、逆か。国を挙げてコマーシャリズムに注力したがゆえに、軋轢を醸したといえるのかもしれません。羊ヶ丘の物件は、商業五輪の“先駆的”記念碑建造物となりました。
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2019/11/13

札幌五輪「オーストリア館」を探す(承前)

 昨日ブログの続きです。
 1972(昭和47)年に刊行された『さっぽろオリンピック写真集』なる書物に収められた俯瞰写真から、「オーストリア館」を探りました。私が当たりを付けたのは、赤いで囲ったところです。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真 再掲 オーストリア館?
 その部分をトリミングして拡大します。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真 オーストリア館? トリミング
 画像の中央、樹高の高い木(ポプラか?)の背後に写る建物です。 

 「さっぽろ羊ヶ丘展望台」(豊平区)に移築された本件建物を再掲します。
羊ケ丘オーストリア館
 較べてみて、どうでしょうか。画像が粗く、加えて「羊ヶ丘オーストリア館」を撮ったアングルと少し異なっているのでわかりづらいのですが、正面(「羊ヶ丘オーストリア館」と書かれた入口のある面)左方の大きな三角形の破風が似ているように思えます。

 赤いで囲ったところだとすると、どこになるでしょうか。推理した位置を空中写真(2008年)に示します。
空中写真2008年 真駒内 札幌五輪「オーストリア館」の推定所在地
 黄色ので囲みました。赤いは屋内競技場(アイスアリーナ)、赤い楕円は屋外競技場です。

 現在図で示します。
現在図 真駒内 札幌五輪「オーストリア館」の推定所在地
 赤い矢印を付けた先です。

 五輪選手村の西方、国道453号(真駒内通)から真駒内柏丘に設けられたプレスセンター(現在の北海道青少年会館)へのアクセス道路の入口に当たります。参加国が独自に造ったパビリオンとしては、恰好の立地と観ました。

 昨日ブログにいただいたコメントに、選手村内に立つ「背の高い塔?」と現南区役所近くの煙突のことが記されていました。別途、取り上げさせてください。

2019/11/12

札幌五輪「オーストリア館」を探す

 11月9日ブログに載せた「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 1972年札幌オリンピックのとき建てられた「オーストリア館」が移築されて、現在羊ヶ丘展望台(豊平区)で土産物店として使われています。
 
 この建物がもともとどこにあったのか、気になりました。札幌オリンピックの公式資料(報告書等)を漁ったのですが、見当たらないのです。冬季五輪の主催者すなわち大会組織委員会とか札幌市が建てたものではないからでしょうか。同館は同日ブログ既述のとおり、羊ヶ丘展望台を経営する札幌観光協会の『50年記念誌』によると「オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作った」といいます。同じく先に引用した当時の新聞記事には、「オリンピック選手村の近くにある」同館について次のようにも書かれています(1972年2月2日読売新聞記事「どたん場、ゆれるサッポロ」、太字)。
 「オーストリア館」の最も目につくところには、世界的は銘柄の新型スキーがずらり並べられ、参観者にアピールしている。オリンピックでの好成績を背景に、特産品を売り込もうという意図に違いない。 
 この「館」がオーストリアの「選手村」だったという記述をネット情報で拾いましたが、選手の宿泊施設というよりはいわゆるパビリオンだったと思われます。場所も、大会組織委員会が建てた選手村の一角ではなかったようです。
 
 図書館で関連する書物をぱらぱらめくっていたら、真駒内の選手村を俯瞰した写真に目が止まりました。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真
 『さっぽろオリンピック写真集』という書名で、奥付によると1972年4月、「菅写真株式会社」の発行です。クレジット表記等は載ってません。組織委員会の“公認”とか“監修”ではなく、民間個人が独自に出版したもののようです。 
 この写真の一隅に、「オーストリア館」らしい建物が見えてきました。

2019/11/11

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ(承前)

 1972年札幌冬季の聖火を燃やし続けるために使われたモノは何だったか。昨日ブログの末尾で問うたその答えは、札幌軟石です。1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」に、次のように書かれています(太字)。
 台の中には札幌・石山でとれる軟石をくだいて敷きつめている。軟石は一千度の熱で焼き、レンガのように固めた。石は、台の中で真っ赤に焼け、吹雪にさらされても、火が消えないよう、バルブを防護する役目を果たす。

 火鉢における灰のようなモノか?(本当にそうか?) とまれ、札幌軟石がオリンピックに一役買っていたとは知りませんでした。それにしても、軟石をが使える、使おう、と誰が着想したのでしょうね。
1972年札幌オリンピック記念100円硬貨
 札幌で催されるという2020年東京オリンピックのマラソン・競歩のとき、1972年のレガシーはうってつけではなかろうか。聖火台に再び聖火を灯せないかしら。

2019/11/10

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ

 昨日ブログに続き、1972年札幌冬季五輪の新聞記事で私が新たに知ったことをお伝えします。

 真駒内屋外競技場の聖火台です。
真駒内屋外競技場 聖火台 接写
 開会式で点火されて、オリンピックの大会期間中ずっと炎が燃え続けるということぐらいは知っていました。燃料は油か何かが継ぎ足されているのかなと思っていたのですが、札幌のときはプロパンガスだったそうです(末注)。ガスコンロ、それも今のような自動点火ではないときの仕組みと同じでした。聖火台の下に「制御室」があって、最終ランナーがトーチを台にかざすのに合わせてプロパンのバルブを開けたといいます。ただし普通のガスコンロだと“完全燃焼”して炎が青白くなるため、入る空気(酸素)の量を調整して“不完全燃焼”させる。

 と、まあここまでも私には「へぇ」という話ですが、お伝えしたかったのはここからです。ずっと燃やし続ける仕掛け。雨や雪が降っても消えないように、あるモノが台の中に使われました。それ自体が発火性があったり、可燃性の高いモノではないのですが、1000℃の熱で焼き、敷き詰めたそうです。その熱で炎を維持しました。そのモノとは何か。

 注:1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」

2019/11/09

五輪の記念碑を感傷的に鑑賞する

 地下鉄「真駒内」駅前です。
真駒内駅前 札幌オリンピック記念時計塔
 1972年冬季オリンピックを記念する時計塔が建っています。
 
 銘鈑を見て、「へぇ、そうだったのか」と思い知りました。
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 参加国
 参加国数は35で、南半球からは3か国とか、アジアからは日本以外に7か国だったとか。西ドイツは「ドイツ」と略称の一方、東ドイツは「ドイツ民主共和国」と正式(?)名称で表記されているとか。正式名称といえば、「朝鮮民主主義人民共和国」も。モンゴルは「モンゴリア」とか。中国は「中華民国」が参加していたとか。

 ゴールドメダリストの銘鈑では…
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 金メダル選手 スキー
 アルペンスキーは競技種目が「滑降」「大回転」「回転」しかなかったんだなあ、とか。
 
 札幌オリンピックで私がリアルタイムで覚えているのは、ジャンプ70mで日本選手が金銀銅メダルを独占して日の丸が3本上がったこと、選手の名前ではジャネット・リンです。実は、選手ではもう一人思い出します。
 シュランツです。商業広告に出ていたことでアマチュアリズム違反を咎められて、“追放”されました。という程度の記憶しか残ってなかったのですが、このたび当時の新聞記事を読み直して、大変だったことをこれまた思い知りました。顛末を以下、時系列で記します。
 1972(昭和47)年1月31日 パークホテルで開かれたIOC総会で、シュランツ(オーストリア)の「失格」が決定
 2月1日 オーストリア選手団の役員が真駒内の「オーストリア館」で、シュランツの失格に抗議し、同国スキー選手全員の“引き揚げ”を表明
 2月2日 同国役員、前日の表明を翻し、シュランツ以外の選手の“残留”を発表
 2月3日 札幌五輪開会式

 報道では、“引き揚げ”→“残留”は出来レースだったとの見方もあります。それにしても、です。1月31日から開会式までの4日間は激動だったと想います。札幌五輪組織委員会関係者はさぞや寿命を縮めたことでしょう。スイスとともにアルペンの本場であるオーストリアのスキー選手が全員欠場していたら、札幌五輪は「巨人が抜けたプロ野球のようなもの」(1972年2月2日読売新聞、川本信正氏コメント)になるところでした。V9、王、長嶋のときの巨人ですね。ということを想い起して前掲時計塔の銘鈑をあらためて観ると、アルペンスキーのゴールドメダリストにオーストリア選手が刻まれていません。

 「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 「札幌オリンピックのさい、オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作ったもので」、終了後、「処分をまかされていた竹中工務店が観光協会に寄贈」しました(『好きです。さっぽろ 札幌観光協会50年記念誌』1986年、p.119)。羊ケ丘に移築されたのは1972年12月です。前述同年2月2日読売新聞記事では「緊張の協議のため夜まで明かりをつけたオーストリア館(夜8時)」というキャプション付きで写真が載っています。

 私は「選手村」のほかに参加国が独自に建てたパビリオンを、他には知りません。他の国も建てたのでしょうか。オーストリア館は、新聞記事では「オリンピック選手村の近くにある」と書かれていましたが、前述札観協誌では「真駒内会場」とあります。どこにあったのでしょうか。いずれにせよ、因縁の建物が遺っているものですね。「羊ケ丘オーストリア館」というネーミングは、いささかのどかですが。 

2019/11/04

真駒内屋外競技場の聖火台の先には、何があるか?

 昨日ブログでお伝えした「札幌市児童生徒社会研究作品展」(第40回)の作品に、私は触発されました。否、触発という以上の、大きなインスピレーションをたまわったのです。

 インスピレーションはまず、ここに向きました。
真駒内屋外競技場 聖火台
 真駒内屋外競技場のバックスタンドに立つ聖火台です。柳宗理作(注)。

 先日来記してきたとおり、屋外競技場と屋内競技場は軸線上に配置されています(11月2日ブログ参照)。
空中写真2008年 真駒内屋外競技場 軸線 聖火台
 2008年空中写真で、その軸線を黄色の実線で示しました。
 これに対し、屋外競技場の正面(メインスタンド中心)とバックスタンドの聖火台を赤い実線で結びます。聖火台は赤い実線の南東端(画像上、右下)です。これは屋外競技場の正面中心線をなし、当然のことながらというべきか、黄色の軸線とは直交しています。いわば、もう一つの軸線です。
 
 聖火台から、このもう一つの軸線をまっすぐ伸ばしていったらどうなるか? これが私のインスピレーションです。赤い実線を、聖火台の反対方向つまり北西(画像上、左上)にずっと伸ばしていく。

 国土地理院空中写真(2008年)で直線を引っぱってみました。
空中写真2008年 真駒内屋外競技場からサッポロテイネスキー場
 画像右下端(南東端)が真駒内屋外競技場です。赤い実線を左上(北西)へ15.94㎞先まで引っぱると、あるモノにたどり着きます。

 現在図に照らすと、場所は「サッポロテイネスキー場」です。
現在図 真駒内屋外競技場 サッポロテイネスキー場
 画像左上端(北西端)です。前は「テイネオリンピア」と言ってましたね。
 
 そのスキー場の、たどり着いた先にあるモノを拡大してみます。
サッポロテイネスキー場 聖火台
 赤い矢印で示した先です。驚きました。これまた、1972年札幌オリンピックの聖火台です。

 興味おありの方は、地理院サイトで試してみてください。
 ↓
https://maps.gsi.go.jp/#13/43.041481/141.255169/&base=std&ls=std%7Cseamlessphoto&blend=0&disp=11&lcd=seamlessphoto&vs=c0j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=vl

  真駒内屋外競技場の聖火台から正面を見晴るかすと、手稲山の聖火台がある。前川(國男)さんや高山英華先生は、両聖火台も長大な軸線で結んだのだろうか。

 注:芸術工学会のエクスカーションで真駒内を訪ねた日の夜、柳宗理をテーマにしたテレビ番組を観て、柳さんの事務所が前川さんの事務所ビルにあることを知った。

2019/11/02

真駒内屋外、屋内競技場の軸線 ⑤

 真駒内屋外競技場の長径はなぜ、斜面に合わせたか。
 
 10月25日ブログに載せた競技場の外構を再掲します。
真駒内屋外競技場 南西から北東方向を望む
 南西から北東方向、すなわちほぼ長径の方向を眺めたものです。右端のバックスタンドに聖火台、左方にメインスタンドが見えます。
 画像右方が南東、左方が北西に当たり、右から左にかけて下り坂です。昨日ブログで述べた「南東から北西へ向けて下り勾配」という地形を示しています。

 前掲画像と同じ向きで見た屋外競技場の立面図です。
真駒内屋外競技場 立面図 南西から北東
 右方のバックスタンドのあたりが、左方のメインスタンドよりも地盤面が高く描かれています。競技場は、「南東から北西へ向けて下り勾配」すなわち斜面に合わせて設計されました。

 立面図に赤い矢印を付けました。
真駒内屋外競技場 立面図  聖火台仰角
 左方(北西側)のメインスタンドから、右方(南東側)バックスタンドの最上部に設けられた聖火台を仰ぎ見る視線です。
 
 聖火台は、メインスタンドから仰ぎ見るべき存在といえましょう。仰ぎ見るためには、聖火台を置くバックスタンドをメインスタンドより高くする必要があります(末注①)。高低差を設けたい。このとき、バックスタンドの地盤面そのものがメインスタンド側よりも高いということは、有利というか有理です。バックスタンドを人工的に高くする必要が減じられます。
 結局、競技場の長径を斜面に合わせるということは、相対するメインスタンド-バックスタンドの高低差をもっとも自然に、もっとも効果的にもたらしました。屋外競技場の設計者である前川國男が、これを読み込んだのではないでしょうか。

 真駒内の競技場にはオリンピック開会式会場として5万人の観客を収容するという課題が与えられた。対して、設計者はスタンドのほとんどを盛土とする回答を出している。競技場は、量感のある鉄筋コンクリート構造の建築的なファサード(壁面デザイン)のイメージが強いが、(中略) あらためて見ると外周の大部分は緑化された法面で、むしろ造園的な表情である。(中略)
 真駒内では、見方を変えれば起伏のある公園の地形を活かして“クレーター”がつくられ、底にはスケートリンクが沈められている。競技場だけで完結させず、より大きなスケールで公園との関係をデザインしようとした回答なのだ。(末注②)

 バックスタンドの高さを抑えようとしたのみならず、その高さすら、盛り土と緑化によって修景して人工的印象を薄めたというわけです(末注③)。屋外競技場というと、私はローマのコロッセオのような巨大構造物を想います(写真などでしか見たことがありませんが)。そういう「量感のある」カタチを、前川さんは避けた。自己主張しないことで、自らの思想を表現した。

 真駒内のオリンピック施設を鑑みるきっかけは、UHB「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナーで真駒内を紹介したことです(10月7日ブログ参照)。なぜ真駒内を取り上げたかというと、それもわけがあります。先月、芸術工学会という団体の大会が札幌であり、そのエクスカーションのガイドを仰せつかりました。そのコースに真駒内が含まれていたのです。美術、デザイン系の大学の先生がたの案内をよくもまあ引き受けたものだと自らの厚顔に呆れますが、例によって泥縄で土地の歴史を学び直しました。知らなかったことを知ることができたのは、いわば自分を追い込んだ結果です。その機会を与えてくださった札幌市立大学のK先生に感謝します。

 昨日ブログで「後述します」とした、競技場が「現在地より上流だとどうか」について。
 現在地の高低差がちょうどあんばい良かったのではないかという想像のほかに、川の上流に屋外競技場を配置すると次の“問題点”が感じられます。
 ・屋外と屋内の間に通される道路(五輪通)から、屋外競技場へのアプローチが長くなる。
 ・軸線上に配置される屋内競技場の敷地が、真駒内川と既存の南北の道路(国道453号)の間で狭隘になる。

 注①:聖火台だけ高く突出させるということも技術的には可能だろうが、聖火ランナーのことを考えると無理がある。美的にも、どうか。
 注②:林昌弘「デザインでたどる札幌オリンピック」ドーコン叢書編集委員会『エンジニアの新発見・再発見』2012年、pp.29-30
 注③:昨日ブログに記した「南東側が三日月状に盛り上がり」地形なのは、バックスタンド側の盛り土によるものであろう。一方「北西側が凹んでい」るのは、正面(メインスタンド側)を掘り下げた結果か。

2019/11/01

真駒内屋外、屋内競技場の軸線 ④

 昨日ブログの続きです。
 真駒内の屋外、屋内競技場は、「なぜ、軸線がこの向きなのか」。
 私は、(1)屋外競技場の配置 → (2)軸線の設定 →(3)屋内競技場の配置、という順で構想されたと推理しました。その理由は「説明しやすい」ということです。
 「説明しやすい」という理由を、説明します。まず、(1)の屋外競技場の配置から。というか、説明はひとえに(1)に尽きます。(2)(3)は(1)から自ずと導かれる、というのが私の論法です。

 競技場のあたりを色別標高図で俯瞰します。
標高図 70m未満から5mごと7色 真駒内屋外、屋内競技場
 標高70m未満から5mごと7色で作りました。白ヌキの○で加筆したところが競技場(楕円が屋外、正円が屋内)です。

 この地形は、昨日記した土地の歴史からして、競技場建設の前からおおむね変わっていないと思います(末注)。ただし、屋外競技場の南東側が三日月状に盛り上がり、北西側が凹んでいます。これは競技場建設時の改変でしょう。後述します。
 屋外競技場が位置するのは、豊平川とその右支流である真駒内川の合流点です。川と川の間隔からすると、その位置は「狭すぎず、広すぎず」という印象を受けます。下これより流になると、川岸に近づき、地盤的な安定性や附帯施設の配置等に支障がありそうです。では、現在地より上流だとどうか。これも後述します。

 位置はともかくとして、問題は“向き”です。つまり、屋外競技場の長径が南西-北東という向きで設定されたことです。私は、その要因を“高低差”と察しました。
標高図 70m未満から5mごと7色 真駒内屋外、屋内競技場 拡大
 この一帯は見てのとおり、南東から北西へ向けて下り勾配です。南東が高く、北西が低い。この南東-北西という向きの斜面に対して、屋外競技場の長径はほぼ直交しています。長径の向きは、斜面の向きに規定されたのではないでしょうか。
 (2)すなわち軸線の設定は、長径に基づきました。屋外競技場のセンターポール→真駒内川の橋→屋内競技場の中心→メインエントランスという軸線の設定です(10月26日30日ブログ参照)。その結果、(3)すなわち屋内競技場の配置が決まりました。

 では、なぜ、屋外競技場の長径を斜面に合わせたか。私の素人感覚でも、「なんとなく」人間の生理的感覚に適っているように思えるのですが、もう少し掘り下げてみます。

 注:前後して、真駒内川は直線的に加工され、豊平川も流路が整形されている。

2019/10/31

真駒内屋外、屋内競技場の軸線 ③

 昨日ブログに続き、1972年札幌冬季五輪の会場となった真駒内の競技場を逍遥します。10月25日ブログの末尾で問うた屋外、屋内競技場の軸線の「なぜ?」です。

 結論的にいうと、競技場は次の順で構想されたのではないかと私は推理します。
 (1)屋外競技場の配置
 (2)軸線の設定
 (3)屋内競技場の配置

 (1)~(3)の説明の前に、古い空中写真や古地図で競技場の立地を俯瞰しておきます。
 まず、1961(昭和36)年の空中写真です。
空中写真1961年 真駒内 屋外、屋内競技場の位置
 屋外、屋内競技場の位置を赤い(楕円が屋外、正円が屋内)で示しました。この空撮は、米軍のキャンプクロフォードが去り、その跡地の北半分を自衛隊駐屯地が引継ぎ、その南側に道営真駒内団地が1965(昭和40)年に造成された後、競技場ができる1970(昭和45)年の前です。

 次に、米軍基地当時の配置図に競技場の位置を当てはめました。
真駒内 米軍キャンプクロフォード 配置図
 元図は『郷土史真駒内』1981年から引用しました。

 赤いで示した競技場は、米軍当時はゴルフ場だったところです。米軍が接収する前は、屋外競技場は真駒内種畜場の採草地、屋内は放牧地でした(末注①)。前掲空中写真ではゴルフ場の気配が窺えますが、これは米軍撤収後に北海道が経営した「真駒内ゴルフ場」でしょう(注②)。1964(昭和39)年に廃止された後、道立真駒内公園となりました(末注③)。公園としての整備に着手されたのは1967(昭和42)年です。

 これまで述べてきたことを時系列で整理すると、次のようになります。
  昭和戦前期:真駒内種畜場
  戦後:米軍基地、ゴルフ場
  昭和30~40年代前半:道営団地、公園整備
  昭和40年代後半:オリンピック競技場建設 
 
  前置きだけで長くなってしまったので、冒頭の(1)~(3)の説明は後日にします。なかなか先に進まない。

 注①:『郷土史真駒内』1981年掲載図面による
 注②:遠藤明久「真駒内団地初期開発の経過」『住宅団地の開発-真駒内・大麻・北広島団地開発の記録-』1991年、pp.116-122、谷代久恵『真駒内物語』2002年、pp.123-124
 注③:「道立真駒内公園」となったのはオリンピック後の1975(昭和50)年(前掲『真駒内物語』p.124)。
 注④:同公園内に設置されている説明看板による。「明治百年記念森林公園」として着手された。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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