札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/19

蔦井與三吉

 円山地区で見かけた銘鈑です。
奉納 蔦井與三吉
 「奉納 岩田建設株式会社 取締役社長 岩田巌  株式会社蔦井本店 取締役社長 蔦井與三吉」と刻まれています。

 蔦井與三吉 明治22・2-10-昭和49・12・8
 東日本フェリーなど、蔦井産業グループの創始者。石川県の生まれ。(中略)
 昭和2年、滝川市に本店設置。5年以降は樺太貨物航路、滝川砂利、茂尻石炭販売、利尻礼文航路など次々と傘下に収め、太平洋戦争中も多くの統制会社の代表を務めた。37年、七十三歳のとき世界三六カ国のフェリー事情を視察し、40年その集大成としての東日本フェリー㈱を設立した。日本初の外洋フェリーの誕生であり、函館、苫小牧、岩内、室蘭などを拠点に航路網をひろげ海運界のリーダーに。47年、札幌に本社機構を集中。石油、CATVなどにも進出している。
(さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.202)

 そういえば私が加入しているケーブルテレビは、前はSCAT(札幌ケーブルテレビジョン)といって、筆頭株主は東日本フェリーでしたね。社長も蔦井さんのご親族でした。フェリー会社がケーブルテレビ、というのを意外に思った記憶があります。
 
 その蔦井さんのお屋敷が2004(平成16)年まで、円山にありました。昭和初期築とお聞きしました。
円山 蔦井宅 2001年 
 画像は2001(平成13)年撮影です。和風の門構えが立派でした。札幌では珍しかったと思います。

 東日本フェリー亡き今、前掲の銘鈑も稀少となりました。ここで問題。
 この銘鈑は何に取り付けられているでしょう?
 ご存じの方は別として、ご存じでない方は推理してみてください。
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2017/09/17

ホンマ矯正歯科の隅切り

南1条西20丁目の角地に建つ歯科医院です。
ホンマ矯正歯科
 建物自体が格別凝った外観というわけでもないのですが、西20丁目通りの交差点に立つと私は何か惹きつけられてきました。

 たぶん、角地を大きく隅切りしたファサードが印象的なのでしょう。この隅切りの大きさはただならぬものがあります。

 この交差点のほかの角地と比べても、ひときわ大きな隅切りです。
南1西20 ホンマ矯正歯科 隅切り
 赤い線が本件歯科医院の場所です(元図は地下鉄西18丁目駅に置かれた案内地図から抜粋)。

 建築基準法でたしか、角地に建つ建築物等は一定の条件のもとに隅切りしなければならないという規定があったと思います。私は札幌建築鑑賞会代表を長年称してきましたが、建築士でも建築学の専門家でもなく、基準法にはまったく疎いのですが、本件歯科医院はそんな規定とはかかわりないようです。
ホンマ矯正歯科 隅切り②
 超然と隅切っています。
 
 大きな高層建築の場合、容積率緩和の要件として公開空地を設けるということもありますが、本件は平屋建てであり、それとも関係ありません。
ホンマ矯正歯科 隅切り③ 境界石
 黄色の○で囲ったところに札幌市の境界石が埋められています。本件角地は隅切り面ぎりぎりまで、道路用地です。

 このたび、「ポルト」(北翔大学北方圏学術情報センター)主催の市民講座の一環で円山地区を歩いて、本件隅切りの原因にようやく気づきました。おそらくマニアの方やこのあたりに長くお住まいの方には既知のことなのでしょうが、これ、市電が走っていた当時の記憶だったのですね。

 1961(昭和36)年空中写真から抜粋しました(国土地理院サイトから)。
空中写真 1961年 南1西20 交差点
 赤いの○で囲ったのが南1条西20.丁目の交差点です。市電の軌道が写っています。西20丁目通を北進し、ここで西へ曲がっています。この頃からすでに、本件箇所の隅切りが目立っています。ちなみに黄色の○で囲ったところ(南1条西19丁目)も、建物が大きく隅切りされています。ここは、南1条通を西進してきた市電の軌道が西20丁目通で北へ曲がる地点です。

 1948(昭和23)年米軍撮影の空中写真で、同じ場所を見ます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1948年米軍 南1西20交差点
 赤い○のところはやはり、市電軌道の曲折に合わせるかのように隅切りされています。
 一方、黄色の○の方の南1条西19丁目は、この時点では隅切りされているように見えません。ここを曲がる車馬の交通量が多くなかったからではないかと私は推測します。理由は二つ。西20丁目通がこの角地の南方をまだ通じていなかったのと、南1条通の旧道(角地の北側をナナメに通じる)が機能していたからだと思うのです(9月14日ブログ参照)。

 南1条西19丁目角地の現在の風景です。
南1西19 交差点 隅切り
 ここの建物も、結構隅切りされています。前掲1961年写真ではっきり隅切りされた痕跡が、今に遺っているかのようです。先日来縷々記してきたように、南1条通の裏参道側(西20丁目)にナナメの道が通じて、旧道の機能が減退したからではないかと思います。西20丁目通も南へ直線化されて、交通量も増えたことでしょう。

 …と、かなりマニアックに考察してきたつもりですが、ためしに「札幌 ホンマ矯正歯科 市電」で検索してみたら、本件隅切りに言及しているサイトがすでにありました。世の中には先達がいるものです。

2017/09/16

北2条西21、22丁目の道路幅員 ②

 昨日ブログの続きです。
 
 道路幅員のことで疑問を抱いたのは、例によって米軍の空中写真1948年がきっかけになりました。
空中写真 米軍1948年 北2条西22丁目付近
 黄色の▲を付けた先が、昨日ブログに載せた道幅の違いの地点です。かつての市村界を、川が流れていました。河道はほぼ推認することができ、青い線でなぞりました。参考までに、橙色の線が現在の北1条宮の沢通、黄色の線が西20丁目通です。

 北1条以北の東西に通じる道路をご覧ください。例えば黄色の▲で示した北3条の通りです(末注①)。青い線の河道の西側と東側で、何か、違っています。川の西側は道路と民地(家屋)の境目がくっきりしています。道は白いし、家屋ははっきり写っています。ところが東側はというと、なんとなくぼやけています。道は白いのですが、その両側が家屋とも空地とも見分けがつきかねる、文字どおりグレーゾーンになっています。これが私には、建物疎開の痕に見えてしまうのですねえ。

 私の眼はバイアスがかかっているので、公平無私な澄んだ目で読影していただける奇特な方、いらっしゃらないでしょうか。
 画像は国土地理院のサイトで見ることができます。
 ↓
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=234016&isDetail=true
 『新札幌市史』には残念ながら、疎開跡地の道路拡幅の項にこのあたりのことは記されていません。戦時中の建物疎開の詳細な記録が残っていればよいのですが、差し当たっては前掲画像を読影するのが近道のようです。

 もしこれが建物疎開跡だとすると、旧札幌区(市)側と旧藻岩村(旧円山町)側の道幅の違いは、疎開が主な原因になるかと思います。疎開の跡地をそのまま道路にした。となると、もともとの(旧市村当時の)道幅が異なっていたとは言いがたい。仮にそうだとして、ではなぜ川の東側だけ疎開したのか、という疑問も生じますが、たまたま自然の境界である川の端まで疎開したところで(末注②)、終戦を迎えた、ということでしょうか。
 
 注①:この通りの現在の道路名は未確認だが、橙色でなぞった道が「北1条通り」と呼び慣わされているので、そこから数えて便宜的に「北3条の通り」とした。正確には、北2条と北3条を分かつ通りである。
 注②:札幌の建物疎開は、1945(昭和20)年5月以降二次にわたって実施され、三次は計画されたが終戦を迎え実施されなかった(『新札幌市史 第五編(上)』2001年、p.210)

2017/09/15

北2条西21、22丁目の道路幅員

中央区北2条西22丁目です。
北2条西21丁目 道路幅員の違い
 東西に通じる道路を、西から東向きに眺めました。
 画像上、奥に向かって道路幅員が広がっています。手前は片側1車線、奥は片側2車線です。画像の撮影地点は北2条西22丁目、奥の道路幅員が広いのは西21丁目です。

 現在図で確かめておきます(札幌市中央区役所「中央区ガイド」から抜粋)。
北1~3条西21~22丁目 道路幅員
 黄色の▲の先が前掲画像の撮影地点です。この通りも含め、北1条から北4条にかけて、西21丁目と西22丁目を境にして道路の幅が異なっているのが判ります。
 この道路幅員の違いを私は、かつての市村界に起因していると理解していました。それは私の発見ではなく、既出文献に載っていることです。『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年で、次のように書かれています(p.164、引用太字)。
 北二~五条西二十二丁目付近は、かつて札幌市と藻岩村の境界があったため、東西に走る道路の幅が途中から極端に違っている。

 付け加えるならば、この境界に沿ってかつて川が流れていました。というか、河道をもって旧札幌区(市)と旧藻岩村(旧円山町)が境界を分かっていました。
 その名残のせいか、現在の西21丁目と西22丁目の境は不整形です。前掲現在図上、太い実線で示されているように、いびつに折れ曲がっています。ちなみにこの実線は、桑園地区(西21丁目以東)と円山地区(西22丁目以西)の連合町内会、札幌市のまちづくりセンターの境目になっています。

 話を道路幅員のことに戻します。幅員の違いは札幌区(市)と藻岩村(円山町)の財政力の差を示す痕跡なりや、と私は想っていました。しかし、原因はどうもそれ(だけ)ではないのではないかと、目下認識を改めつつあります。[つづく]

2017/09/13

円山裏参道公園はどうしてできたか ②

 国土地理院空中写真1961(昭和36)年から、現在の円山裏参道公園の付近(中央区南2条西20丁目)を見てみました。
国土地理院空中写真1961年 南2西20周辺
 赤い線は1941(昭和16)年までの札幌市(旧札幌区)と円山町(旧藻岩村)の境界です。西20丁目通が南へ直線化されています。
 黄色の○で囲ったのが、くだんの公園になる場所です。南1条通がナナメにショートカットされていて、三角形が出現しています。ナナメのショートカットがいつ通じたか判りませんが、市電の路線との交通緩和という目的が想像されます。橙色でなぞったのが市電の路線です。南1条通を西進し、西20丁目で北へ折れています。自動車の交通量が増えてきて、市電路線との並行は少しでも避けたかったのではないでしょうか。三角形の土地は、何となくすでに公園のような雰囲気が窺われます。

 遡って、1948(昭和23)年の米軍撮影空中写真です。
米軍空中写真1948年 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったところ、すでにこの時点でおぼろげに三角形の気配が見えます。

 あることに気づきました。赤い線(旧市村界)のクランクしている細長い一帯です。これまで拙ブログをお読みいただいてこられた方も、気づかれた方が多いのではないでしょうか。
 のちに三角公園になる場所(黄色の○)も含め、建物らしいものがほとんど写ってません。これも何となくですが、不自然に空き地になっているように見えます。しかも、元からの空き地というよりは、更地にしたような形跡…。
 このクランク地帯、もしかしたら建物疎開された痕ではなかろうか。
 してみると、三角公園あらため円山裏参道公園も、札幌の戦跡か。いや、私の眼は札幌=軍事都市史観に偏向しているので、予断は慎みましょう。
 

2017/09/12

円山裏参道公園はどうして生まれたか

 9月16日の円山ポルト周辺地域探訪の資料を、なんとか作り上げました。A4判で引用図版も含め11ページです。入手ご希望の方は、当日ポルト(北翔大学北方圏学術情報センター)へお越しください。中央区南1条西22丁目1-1、午前10時集合。
 資料には「円山地区の地理・地誌・地形を読み解く」と銘打ちました。銘打ったものの、円山地区の地誌にもかかわらず、円山、北海道神宮、円山公園、裏参道といった重要なポイントをすべて外しました。札幌の円山と聞いて普通イメージする場所に触れていません。「看板に偽りあり」ですが、独自の視点ということでお許しいただきましょう。

 南2条西20丁目に「円山裏参道公園」という街区公園があります。
円山裏参道公園
 元は「三角公園」と呼ばれていました。

 近年整備されて、名前が変わりました。画像右方、車止めのあるところを元はナナメに車道が通っていて、三角形の平面でしたが、車道部分が公園用地に含められ、三角形ではなくなったのです。「円山裏参道公園」に変わったのですが、公園名を刻したオブジェ?に三角形当時の記憶が遺されています。

 三角形のころからもともと公園だと私は思っていたのですが、当時はあくまでも道路敷地だったと最近知りました。公園化の整備に携わった造園家のSさんに教えていただきました。三角公園はあくまでも通称だったのです。
 当時の様子は下記札幌市サイトをご参照ください。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/keikaku/sankaku/sankaku.html

 ではなんで、こういう存在が生まれたか。
 まず、現在図から場所を探ります。
三角公園周辺 現在図
 現在図といっても2012年の地図(札幌市中央区役所「中央区ガイド」から抜粋)なので、当該地点はまだ三角のカタチです。「西20丁目広場」という名前が付いています。三角公園は地図にでも出てこない俗称だったのですね(末注)。

 地理的な特異点であることが窺われます。
 黄色でなぞったのが南1条通です(西20丁目以西は裏参道)。西19丁目と20丁目を境にして、クランクしています。この道は、北側の橙色でなぞった細いのが旧道です。つまりこのあたりでもともとゆるやかに折れ曲がっていたのですね。南1条通は、札幌市の碁盤目状街区ができる前からあった古道なので、こういう折れ曲がりはむしろ自然だったのでしょう。碁盤目化とともに、クランクが顕在化したものと思われます。

 赤い線でなぞったのは、明治中ごろまでの区村界です。
 画像右上(北東)が旧札幌区、右下〈南東)が旧山鼻村、左方(西)が旧円山村です。札幌区と円山村の区村界も、ここでクランクしています。現在は西20丁目通が南北をまっすぐ通じていますが、当時はこの部分、つまり南2条あたりはまだ通じていませんでした。

 それが判る古図を見ます。
大正5年地形図 南2西20周辺
 大正5年地形図からの抜粋です。この時点で山鼻村の部分は札幌区に合併されましたので、区村界の赤い線は南北にのみ引かれています。しかし、この部分はクランクしています。道自体がクランクしているのです。なお、円山村は、「藻岩村」に変わっています。

 もう一枚、古地図を見ます。
昭和18年札幌市街案内図 南2西20周辺
 富貴堂発行「最新 札幌市街案内図」1943(昭和18)年から抜粋しました。藻岩村は1938(昭和13)年に円山町となり、1941(昭和16)年に札幌市と合併していますので、この時点でもう境界線はありません。が、現在の西20丁目通に相当する道はまだ、クランクしたままです。のちに三角公園となる部分の‘島’が、四角形で出現しています(黄色の▲の先)。

 余談ながら、旧札幌区の碁盤目状の街区が旧山鼻村との間でずれているのはよく知られるところ、旧藻岩村(旧円山町)と旧札幌区(旧札幌市)は一致しています。これは大正末から昭和初期にかけて藻岩村(大字円山)で実施された「道路網整備事業」が、札幌市の碁盤目に合わせると明確に位置づけられたためです。結果、旧藻岩村と旧山鼻村の碁盤目もずれることとなり、前掲現在図で示したように今の街区にそのまま引き継がれています。ちなみに、旧山鼻村域の南4条以南では西18丁目ですが、西20丁目通をはさんで隣接する西側の旧藻岩村の街区は西20丁目です。「西19丁目」が消えます。
 
 とまれかくまれ、冒頭画像に載せた三角公園あらため円山裏参道公園は、南1条通と西20丁目通という東西南北二つの道の複合クランクの副産物という印象を強く抱きました。

 注:地下鉄西18丁目駅にある案内地図には「三角公園」と書かれている。

2017/09/11

北円山の戦前の風景

 今週末9月16日の円山地区散策(9月5日ブログ参照)に備えて、資料作りにいそしんでいます。今回見て歩くのは、北星学園旧宣教師館や知事公館、札幌市資料館といった比較的名だたる建物が中心と聞いています。にもかかわらず私は、「それ以外」の‘見どころポイント’を22箇所、想定しました。資料はA4サイズで10ページくらいになりそうです。私が想定した22個所のうち、当日歩くのは多くてもおそらく5~6箇所にとどまるでしょう。では何のために22箇所も取り上げたかというと、たぶんに自己満足です。
 あえて大義名分を付け足すならば、二つあります。一つは、円山(円山に限らないのですが)の地域を全体としてとらまえるためです。いうまでもなく、地誌を物語る物件は当日見る対象以外にもたくさんあります。当日歩いたところだけで満足するのではなく、後日あたらめて足を運ぶというモチベーションにしてほしいという思いです。
 もう一つは、郷土史の文献にまだ記されていない事柄を、できるだけさまざまな機会をとらえて記録(史料)として遺しておきたいということです。ほっておけば埋もれて忘れ去られる事柄も、遺せば歴史になります(なる可能性があります)。歴史を構成する史料となる可能性です。史料の価値は後世が判断すればよい。

 毎度のことながら、前置きが長くなりました。一つだけ例を挙げます。
 北円山に古くからお住まいのYさんという方に、昭和戦前期の絵を見せていただきました。
北円山 Yさん所蔵の絵 
 当時Yさん宅に下宿していた学生が、Yさんの自宅付近の風景を描いたものだそうです。Yさんへの聞取りで、現在の場所とも照合できます。
 管見の限り、この絵は一般には公開されていないと思います。昭和戦前期の北円山の風景を伝える一次史料になるのではないでしょうか。こういう史料の存在を、私は記録にとどめておきたいと思うのです。

2017/09/08

藻岩村道路元標が見当たらない! ③

 一昨日ブログの続きです。
 南2条西24丁目のナナメ通りにあった藻岩村道路元標の行方について、この場所でマンション建設を計画している不動産会社にお問合せしました。その結果は…。
 「私どもが土地を購入する前に、元の所有者の方が対応されたので、(行方は)判りません」。
 元の持ち主によって処分されたらしい。一つ予想された答えではあります。敢えて勘ぐる?ならば、不動産会社が「敷地を更地にすること」を購入の条件としたのではないかとも思いますが、そこまで糾すことはできませんでした。根拠のない勘ぐりです。

 一昨日ブログで私は「本件元標が大正期整備の新道を原点にしたものならば、古道に面している(いた)のは不自然ではあります。三関さんが元標を遺すために、位置をずらしたのだろうか」と記しました。古道というのはナナメ通りのことで、三関さんというのは大正時代に藻岩村円山の碁盤目状道路網整備を導いた役場吏員三関武治さんです。一昨日引用した『さっぽろ文庫45 札幌の碑』の記述から、そう思いました。道路網整備の「思い出をたどるよすがになっている」と書かれているので、碁盤目状に整備された新道を起点にしたのかと思ったのです。
 元標は1928(昭和3)年に設置されました。道路網整備事業が終了したのはその前年、1927(昭和2)年です。あたかも事業の竣功を記念したかにも見えます。この元標設置もまた、三関さんのあずかるところが大きかったに違いないでしょう。
 しかし私は想い直しました。三関さんはあえて、古道(ナナメ通り)側に元標を置きたかったのではないかと。

 「札幌郡藻岩村大字円山道路網図」1923(大正12)年です(札幌市公文書館蔵)。
藻岩村大字円山道路網図
 この図は、元々の旧円山村当時の地割(現況)と碁盤目状の新道路網(計画)が重ね合わせて描かれています。今風に言えば、レイヤー処理されているというところでしょうか。画像に赤い線で着色したのが旧道のナナメ通り、黄色の線でなぞったのも古道で、銭箱道(北1条以北はのちに国道5号、現道道宮の沢北1条線)です。この図が興味深いのは、地番図をベースにしているからなのか、河川(または旧河道)とおぼしき蛇行する線も描かれていることです。その線を水色でなぞりました。旧道と川の地理的(地形的)な関係が伝わってきます。道路元標が置かれていたのは、赤矢印の先です。 

 ここで注目したいのは、古い地割がおおむね古道に直交していることです。新道路網はいわばこれを度外視して、札幌市の碁盤目と連動するように線を引き直しています。歴史が上書きされる様子が、手に取るように判ります。
 『円山百年史』1977年によると、事業は1922(大正11)年に計画され、翌1923年から3年の予定で進められました。が、実際に終了したのは前述のとおり1927(昭和2)年です(pp72-75、末注)。大変なプロジェクトだったことが同書の行間から想像されます。中心となった三関さんはスゴイ人だなと想います。ちなみに、前掲の図面ほか貴重な史料を遺したのも三関さんですし、『円山百年史』を中心的に編んだのも三関さんです。都市近郊農村の近代化のあゆみを私たちが跡づけられるのも三関さんのおかげです。歴史を動かし、かつ遺した。

 あらためて、南2条西24丁目を眺めます。
南2条西24丁目 ナナメ通り
 北から南を望みました。画像の左方がナナメ通り、右方が碁盤目の新道(道道、西25丁目通)です。赤矢印の先が道路元標在りし位置です。
 近代(後者)と前近代(前者)がせめぎ合っています。近代が前近代を上書きした後も、古道のナナメ通りは遺りました。上書きの生き証人の三関さんだからこそ、道路元標はナナメ通りに置かねばならぬと思ったにちがいない。私の妄想です。

 くだんの三関武治翁です。
三関翁之像
 南2条西24丁目に三関さん宅があった2013年、玄関先にあった胸像を撮らせていただきました。道路元標は、もしかしたらこの胸像とともにご遺族の新天地に移ったのかもしれません。
 
 道路元標、復活しないかな。 [おわり]

 注:一昨日引用した『さっぽろ文庫45 札幌の碑』では、事業計画を1921(大正10)年としている。同書も『円山百年史』に依拠していると思われるので、『百年史』の記述を採りたい。

2017/09/06

藻岩村道路元標が見当たらない! ②

 南2条西24丁目、「藻岩村道路元標」が建っていたところです。
南2条西24丁目藻岩村道路元標跡
 黄色の矢印を付けた先、青いセーフティコーンが置かれているあたりに、あったと思います。この通りは裏参道から南東へ伸びる、いわゆるナナメ通りです。

 在りし日の元標です。
藻岩村道路元標
 2013年10月に撮りました。高さ40~50㎝くらいでしょうか、民地側にポツンと建っていました。

 元標のウラ面です。
藻岩村道路元標 ウラ面
 「昭和三年建設 北海道廰」と刻まれています。

 『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年によると、大正期、藻岩村が札幌の郊外住宅地として発展し、道路網が整備されることになりました(以下、引用太字)。
 「大正十年、十五万八○○○円という予算で円山のメーンストリート作りが計画され、同十二年から着手された。当時の村の年間歳出が三万四○○○円弱であったことを思うなら、いかに大きな工事費であったかが理解できる。工事は南七条から北一条に至る西二四丁目線で、当時は琴似街道と呼ばれていた。この工事の主任として采配を振るったのが役場書記の三関武治。札幌の生き字引と呼ばれるほど歴史に詳しい人だったが、いまはすでに亡い。三関宅にのこっている小さな自然石の道路元標が、思い出をたどるよすがになっている」(p.28)。

 その「よすが」が、見当たりません。
 冒頭に載せた現在の風景に、プレハブの仮設家屋が建っているところに、三関さんのお住まいがありました。どうやら、お住まいがなくなったことに伴い、元標も撤去されたようです。
藻岩村道路元標跡 近景
 元標の位置は現在、仮設プレハブの駐車スペースになっており、おそらくクルマの出入りに邪魔くさかった可能性があります。

 ちなみに、本件元標が面していたナナメ通りは明治の開拓草創の頃から拓かれた(それ以前からあった?)古道です。大正期に整備されたのは、札幌区に連なる碁盤目状の道路です。本件元標が大正期整備の新道を原点にしたものならば、古道に面している(いた)のは不自然ではあります。三関さんが元標を遺すために、位置をずらしたのだろうか。

 ところで、前掲プレハブ仮設家屋の前には「建築計画のお知らせ」看板が立っています。
南2西24 建築計画のお知らせ
 マンションが建つようです。このデベロッパーに訊いたら、本件元標の行方が分かるかもしれません。余談ながら看板に書かれているデベロッパー(建築主)のT不動産という会社は、これまでも私が時空逍遥する先々でよく出くわしました。拙ブログで過去に取り上げた物件にもゆかりがあります。[つづく]

2017/09/05

「藻岩村道路元標」が見当たらない!

 私の活動圏は現在、おもに以下の三つです。
 ①札幌建築鑑賞会
 ②厚別区民歴史文化の会
 ③その他
 
 ③の「その他」というのも①②と関わるのですが、他の組織・団体との連携でおもに郷土史関係の案内役を務めたり、話をしたりするものです。このほかに、個人的な時空の彷徨を拙ブログで綴っておりますが、折々①②③も盛り込ませていただいてます。
 内容的には外歩きにまつわることが多いので、秋というのはハイシーズンです。私が運営に携わったり、人前で話をするような行事の予定を、12月まで書き出してみました(マル数字は上記の3活動圏)。
 9月16日 ③北翔大学ポルト市民講座「ポルトを起点とした札幌の建築物と地形を歩く見学会」
 9月24日 ①古き建物を描く会
 9月26日 ②厚別歴史散歩「新さっぽろ・ひばりが丘編」
 10月6日、8日 ①大人の遠足
 10月13日、15日 ①都心の建物めぐり
 11月23日 ③さっぽろ川めぐり講座「川と市民のいとなみ」(仮題)
 11月25日 ③苫小牧市立美術博物館講座「わが街の文化遺産・札幌軟石」
 11月28-30日 ②厚別歴史写真パネル展
 12月2-10日 ①古き建物を描く会作品展
 12月10日 ③北翔大学ポルト市民講座
 行事に加えて、北海道マガジン「カイ」というウエブでの連載(半年の予定)に協力しているほか、10月から地元の北海道新聞販売所の折込み地域新聞に「厚別ブラ歩き」という歴史探訪の連載を受け持つことになりました。これらの情報は、おいおい拙ブログでもお知らせしていきます。

 それぞれの行事への私自身の関わり方には濃淡がありますが、一つ行事を中心的に受け持つと、2~3週間はかかりきりになってしまいます。不器用な性分です。この種の分野で私よりもはるかに多くの活動をしている人は世の中にいっぱいいると思いますが、毎週のようにどこかで講演や著述をしている人を見ると、顧みて己の能力や気力、体力の矮小を痛感します。
 ただ、私の中で誇りに思うことが一つあります。札幌建築鑑賞会で26年間、‘群れて’きたことです。きれいごとばかりではないのですが、多くの方と力を合わせてきました。煩わしい雑用も厭わずに一緒にやってくれる仲間に恵まれてきました。教えられることももちろん多々あり、拙ブログでも役立たせてもらっています。
 
 実はここまでが前置きのつもりだったのですが、長くなってしまったので、本題を短くします。
 9月16日の行事の案内です。北翔大学ポルト市民講座の一環で、札幌・円山界隈を歩きます。周辺の古き建物を訪ね、地理地形を楽しむというこころみです。集合:午前10時、ポルト(同大北方圏学術情報センター、南1条西22丁目1-1)。午後1時解散予定、参加費無料、事前申込不要、当日集合地まで。ポルトの所在地は、下記サイトをご参照ください。

ポルト(同大北方圏学術情報センター)

 案内役は、N43赤煉瓦塾事務局長の石垣秀人さんと私です。建物の解説は石垣さんにお任せし、私は円山の地理地形を読み解くほうを受け持ちたいと(勝手に)思っています。その下見で円山を歩いたところ、「藻岩村道路元標」が南2条西24丁目からなくなっていました。[つづく]

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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