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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/06/27

境目は、やはり面白い⑭ 境目の川の名

 西21丁目と西22丁目の旧市町界を流れていた川について、6月24日ブログ末尾で「この川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか」と問いました。
 「この川」を地形図で確認しておきます。
大正5年地形図「札幌」 札幌区、藻岩村境界付近 川
 1916(大正5)年地形図「札幌」に水色でなぞりました。川に沿って一点鎖線で境界線も引かれています。当時は東側が札幌区、西側が藻岩村でした。
 この川の名前が、古地図でなかなか出てきません、上掲地形図でも、鉄路の北に流下して他の川と合流したところで「琴似川」と記されているのみです(赤いで囲ったところ)。

 同時期に民間で市販された下掲図を観ます。
札幌市街之図大正7年 札幌区、藻岩村境界付近 琴似川
 北海石版所発行「札幌市街之図」1918(大正7)年から抜粋しました。くだんの川に「琴似川」と添え書きされています(赤い)。ただしこの間逍遥してきた流域より少し下流です。この地図には描かれていませんが、冒頭の地形図で明らかなように鉄路の南側で西側から別の川が合流しています。
 一方、現在の知事公館や植物園から発している川の下流に「琴似川支流」と書かれています(橙色の)。さらにその東方、「東北帝国大学」の下流部の川も「琴似川支流」です(黄色の、末注①)。この書かれ方からすると、本件境界の川が琴似川の本流であるかのようです。

 これらの川の名前のことは、すでに山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965(昭和40)年で言及しています。以下、引用します(太字、p.47、原文ママ)。
 「札幌市史」に、昔の札幌区と円山村の境界が『西二十一丁目線ポンコトニ川の辺にあった。』と書いてあり、又同書に載せた「札幌扇状地古河川図」の中にも、それに当たる川にポンコトニ川としるしてある。この川は今でもある程度流れていて、現名は『旧円山川』というのだそうだ。
 ところがこの旧円山川は西側のケネウ(後述。現称の琴似川)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い。川の名も時に移転する。アイヌ時代に、もっと東にあった川名であるが、明治になって引越しをして今の旧円山川の名として使われたのでは無かろうか。


 コトニ水系に関する山田先生の考察はまだまだ続きますが、いったん区切ります。先生が触れた『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)の「札幌扇状地古河川図」は以下のとおりです。
旧市史 札幌扇状地古河川図 ポンコトニ
 本件境界の川とおぼしき流路に、たしかに「ポンコトニ」と添えられています。赤いで囲ったところです。なお、先生に倣い、この川を今後「旧円山川」と呼びます(末注②)。

 旧円山川を「ポンコトニ」とするのは、山田先生の根源的疑義もさることながら、前掲大正7年「札幌市街之図」とも齟齬をきたします。「ポン」(アイヌ語で「小さい」)コトニならばコトニの支流であってしかるべきところ、前述したとおり「札幌市街之図」では東方の川が「琴似川支流」とされ、本件旧円山川が「琴似川」本流であるかのごとき表記だからです。

 注①:現在の「サクシュ琴似川」である。
 注②:現「円山川」は、円山西町を源流として円山公園を流下し、北1条・宮の沢通あたりで暗渠となって界川の暗渠部に合流する川である。
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2020/06/23

境目は、やはり面白い⑫ 市道西21丁目線、西20丁目線

 西21丁目と西22丁目の境目探訪、市道西21丁目線を南下します。
現在図 西21丁目線、西20丁目線 北1条
 上掲現在図中、橙色線が昨日ブログまで、赤い線が本日の足跡です。

① 市道西21丁目線 北1条から南望 (撮影地点・向きは上掲図に画像キャプションの○数字と矢印で表示) 
市道西21丁目線 北1条から南望
 画像左上に写る道路標識で示されているとおり、奥の交差点でクランクしています。北1条・宮の沢通との交差点です。なぜクランクしているか。旧市町界の為せるわざだと思いますが、探究は余裕があれば後述します。

② 北1条西21丁目 ナナメの地割
西21丁目線 北1西21 ナナメの地割
敷地の境目とおぼしきコンクリート塀が、道路(西21丁目線)に対してナナメに通じています。

③ 北1条西20丁目(西21丁目線側) ナナメの地割
西21丁目線 北1西20 ナナメの地割
 前掲②地点の市道西21丁目線をはさんで向かいの西20丁目側です。ここも、境目に通じる土留めが道路に対してナナメっています。

④ 北1条西20丁目(西20丁目線側) ナナメの地割
西20丁目線 北1西20 ナナメ地割
 北1条西20丁目を西20丁目線に回りました。ここでもまた、ナナメのコンクリートブロック塀です。

 現況地番図(6月16日6月19日ブログ参照)で撮影地点を確認します。
現況地番図 北1条西21丁目、西20丁目 特異地割加筆
 水色でなぞったのが川跡とおぼしき特異な地割です。前掲②③④地点のナナメは、この地割を反映していると思われます。 

 1948(昭和23)年空中写真に観る同じ一帯です。
空中写真1948年 北1条西21丁目、西22丁目 
 撮影地点に同じ番号を付けました。

 地番図と空中写真に照らして、冒頭に載せた現在図に川跡を加筆します。
現在図 西21丁目線、西20丁目線 北1条 川跡加筆
 水色の実線でなぞりました。

 この川跡も、古豊平川の旧河道とされます。流れていたのは1万年前から4千年前です(末注)。古豊平川が東へ移っていった後は小河川が跡づけました。小河川となったのが4千年前以降だとすると縄文時代後期です。この川の下流域などで続縄文や擦文、アイヌ文化期の遺跡が見つかるのは、小河川が古代人の生活圏に適っていたからでしょう。先日、このあたりに古くからお住まいだった方のご子孫から、「川が流れていた頃、サケが遡上していたと聞いた」というお話を耳にしました。
 大都市札幌の中心部はわりと平ぺったい土地ですが、道路の仄かな凹みやナナメの地割が潜んでいます。これは現地を歩かないと実感できません。数千年前に流れていた大河の痕跡だと想うと、愛おしさが弥増します。

 注:札幌市博物館活動センター古沢仁氏作成図(豊平川流路の変遷)に基づく。

2020/06/22

境目は、やはり面白い⑪ 市道北2条線

 6月19日ブログに続き、西21丁目と西22丁目の境目を北2条から北1条にかけて逍遥します。
現在図 北2条西21~22丁目 市道北2条線
 上掲現在図の橙色線が6月19日ブログ、赤い線が今回の足跡です。

 ① 北1条西21丁目 西22丁目との丁目界から北望
北1条西21丁目、西22丁目との丁目界から北望
 画像を撮影した場所・向きは、キャプションと同じ○数字と矢印で上掲現在図に示しました。
 
 画像奥に写る指定道路(供用可能な私道)を手前に向かって南下しました。左右(東西)に市道北2条線が通じています。奥の小径は私道ですが、手前は市道(西22丁目線)です。北2条線との交差点で少しクランクしています。
 奥の私道と手前の市道が、西22丁目(左方)と西21丁目(右方)の丁目界です。かつての円山町と札幌市の市町界にほぼ、相当します。画像左奥は人家がまばらです。ここが旧市町界だったと知ると、なんとなく“町はずれ”感が漂います。しかし、空中写真を遡ると元は家屋が密集していたようです。

② 市道北2条線 西21丁目から東望
北2条線 西21丁目 東望
 北2条線の西21丁目(旧札幌市側)の幅員は、6月15日ブログで計測したところ、20mです。昨日ブログに載せた1927(昭和2)年道路幅員図によると11間×1.818≒20mなので、この道幅も昔から変わっていません。
 車道は片側一車線で、計測によると幅員は8mです。歩道幅20-8=12mは、広い部類に入ります。6月15日ブログで歩いた北3条線は幅員28m(昨日ブログに載せた1927年道路幅員図では15間×1.818≒27.3m)と広いのですが、片側2車線のため車道幅が15mあり、歩道幅は差し引き13mです。本件北2条線の歩道幅12mは、ほぼこれに匹敵します。

③-1 市道北2条線 西21丁目から西望
北2条線 西21丁目 西望
 歩道の幅が広いせいか、画像右方に写る街路樹がりっぱです。植樹升も、花壇が綺麗に整えられています。
 民地側に建つマンションの塀は札幌軟石です。かつては拓銀の頭取のお屋敷だったと聞きます。お屋敷当時の塀が活かされたようです。

③-2 市道北2条線 西21丁目から西望 高低差
北2条線 西21丁目 西望 西22丁目との境目あたりの高低差 
 北2条線を見はるかすと、わずか~に谷底地形が窺えます。冒頭に掲げた現在図では、②と付けたあたりです。西22丁目との丁目界の少し手前の道幅が狭くなるところで、かつての川跡と重なります。

③-3 市道北2条線 西21丁目から西望 北1条側歩道
北2条線 西21丁目 西望 北1条側
 歩道の街路樹がりっぱと前述しましたが、りっぱなのは向かって右側の歩道です。北2条側に当たります。左方手前の北1条側も歩道幅はけっこう広いのですが、街路樹は植わってません。そのせいか、クルマが道路に直交して置かれています。街路樹がないからクルマを置けるのか、クルマを置くから街路樹がないのか。黄色の矢印を付けたところに、境界標が埋められています。

③-4 北1条西21丁目 北2条線の境界
北1条西21丁目 境界標
 この境界標で民地と歩道の境目を分かっているようです。

2020/06/20

境目は、やはり面白い⑨ 昭和30年代の地図に観る地貌

 1957(昭和32)年に札幌市役所が作った「札幌市行政区域図」から、中心部を抜粋します(札幌市公文書館蔵)。
札幌市行政区域図 1957年 中心部
 1957年というと、札幌市が白石村、札幌村、篠路村、琴似町を合併して大きくなった後です。当時の「行政区」界が朱色で線引きされています。この区域ごとに市役所の支所や出張所が置かれました。

 先日来テーマとしている地域を拡大します。
札幌市行政区域図 1957年 桑園区、北円山区境目あたり
 「桑園区」と「北円山区」が分かたれています。現在のまちづくりセンターの担当区域(6月17日ブログ参照)は、この行政区界を踏襲したようです。当時も、桑園や北円山は公式の町名としてはありませんでした(末注)。
 
 両区の境目あたりをさらに拡大します。
札幌市行政区域図 1957年 桑園区、北円山区境目あたり-拡大
 現在の「桑園地区」「円山地区」の境目は6月17日ブログで述べたように、北3条以北では西21丁目と西22丁目の丁目界と重なっています。

 現在の丁目界は、6月16日ブログに載せた下掲の地番図に示すとおりです。
地番図 北2条西21、22丁目付近 丁目界、地区界
 丁目界を赤色、桑園地区と円山地区の境界を橙色の実線でなぞりました。
 
 現在の丁目界は、地割に沿ってカクカクと折れ曲がって分かたれています。一方、1957年当時の行政区界は、北3条以北ではなめらかな弧線です。デジタル的な前者に対し、後者はアナログ的に線引きされています。
 前掲1957年地図で目を引いたのは、行政区界の朱線のほかに河川や池沼が水色で塗られていることです。くだんの西21丁目、西22丁目の行政区界の朱線も水色と重なっています。興味深いのは、その水色が北2条以南にも遡っていることです。

 前掲1957年地図をさらに拡大し、昨日ブログで逍遥した北2条西21~22丁目の市道北2条線から北2条中通西線あたりを観ます。
札幌市行政区域図 1957年 北2条西21、22丁目付近
 私は昨日ブログで川跡を1948年空中写真と現況地番図であとづけたのですが、この地図で1957(昭和32)年当時も川がまだ流れていたらしいことを知りました。同時代の地理院地形図や空中写真では確かめられなかったことです。

 注:前掲同図にも書かれているとおり、北円山地区の一部は「円山北町」だった。

2020/06/19

境目は、やはり面白い⑧ 北3条線から仲通りを経て北2条中通西線へ

 昨日一昨日と、建物(マンション)名に寄り道してきました。マンション名がどうして「境目は、やはり面白い」というタイトルとつながるのでしょうか。、ただ寄り道しただけですと言ってしまえばそれまでですが、ネーミングのアヤは境目だからこその現象といえるかもしれません。「桑園側に円山はあるが、円山側に桑園はない」というテーゼは境目を前提にしています。
 ちなみに、いま「桑園側に円山はあるが、円山側に桑園はない」と記しましたが、ほんとうにそうでしょうか。実は円山側に桑園はあります。中央消防署の「桑園出張所」です。所在地の中央区北4条西22丁目は「円山地区」に含まれます。マンションなどの名前では見つけられなかったのですが、公共施設では“逆もまた真なり”なのですね。同出張所はたぶん円山、桑園両地区を主に管轄していると思いますが、円山ではなく桑園を冠しているところに何か矜持のようなものを感じてしまいました。いや、思い入れ過多です。では、外国公館は境目と関係するのでしょうか。あとづけの講釈はできそうですが、ありきたりになりそうなので宿題とさせてください。

 市道北3条線の西21丁目、西22丁目の境目付近です。
北3条線 西21、22丁目境目付近 河道跡
 東から西を眺めました。水色と青色の矢印を付けたところが丁目界に当たります。
 ここにかつて川が流れていたことは2017.9.15同9.16ブログで記したとおりです。このたび、川跡を辿ることとします。

 上掲画像の撮影地点は、下掲現在図の赤矢印で示した先です。
現在図 市道北3条線 西21、22丁目境目付近 河道跡
 上掲図と同じく水色と青色の矢印を付けたところで丁目界が分かたれます。

 北側の水色の矢印を付けた先に通じている径です。
北3条線 西21、22丁目境目付近 河道跡 北側
 この径は個人宅へ至るアプローチのようですので、通りから眺めるだけとします。

 南側の青い矢印の先へ進みます。
北2条西21、22丁目 指定道路
 私はこちらの径はてっきり市道だと思っていたのですが、調べてみたら指定道路でした。私道です。私道ですが、供用可能な指定道路であり、人やクルマがけっこう通っていました。仲通りとして重宝されているようです。

 北3条線から南へこの指定道路を入ると、「く」の字反転形で折れ曲がり、市道北2条中通西線に至ります。
北2条西21、22丁目 指定道路-2
 前掲現在図の黄色の矢印を付けた地点です。 この「く」の字反転形の径が川跡かと想って歩きましたが、史料に照らすと必ずしも完全には一致してません。

 6月16日ブログに載せた現況地番図で、この付近を観ます。
地番図 北2条西21、22丁目付近
 西21丁目と西22丁目の丁目界を赤い実線でなぞりました。指定道路の径はこの赤実線に沿っています。
 
 その周囲になぞった水色の実線は“特異な地割”(6月16日ブログ参照)です。この水色のナナメがどうも、河道をあとづけているやに見えます。これに照らすと、くだんの指定道路のうち市道北3条線から入ったところは川跡ですが、「く」の字反転形で折れ曲がったところから南は違うようです。

 同じ一帯を、1948(昭和23)年空中写真で観ます。
空中写真1948年 北2条西21丁目、22丁目境目付近
 川(跡)らしき筋は青色の矢印の先から南東へ、橙色の矢印を付けた先に通じているようです。この筋は、前掲地番図の水色のナナメな地割とほぼ重なります。

 橙色の矢印を付けた地点の眺めです。
市道北2条中通西線 西21丁目 河道跡
 画像上、左右(東西)に市道北2条中通西線が通じています。川は、青色の矢印を付けた先に向かって遡ったのでしょう。

 川跡とおぼしきあたりに札幌軟石の塀が建っています。
北2条西21丁目 ナナメの地割 札幌軟石の塀
 塀は市道に対してナナメに通じていて、前掲地番図に示されているナナメの地割と重なるようです。
 
 軟石、ナナメ、川跡という、時空逍遥3点セットのような趣を堪能させてもらいました。

2020/06/16

境目は、やはり面白い⑤ 地番図に観る特異性

 今回のテーマの境目付近を、市役所に行って現況地番図で確かめてきました。
地番図 北1-4条西20-22丁目 元図

 これに、西21丁目と西22丁目のあたりの道路境界とおぼしき線に沿って黒実線をなぞりました。
地番図 北1-4条西20-22丁目 西21-2丁目 道路加筆

 さらに、西21丁目と西22丁目の丁目界を赤実線で加えました。
地番図 北1-4条西20-22丁目 西21-2丁目 道路、丁目界加筆

 さらに、この付近の“特異な”地割を水色実線でなぞりました。
地番図 北1-4条西20-22丁目 西21-2丁目 道路、丁目界、特異地割加筆
 “特異な”というのは、科学的に厳密な定義があるわけでもありません。 このあたりの地割を概観するに矩形が一般的である中で、ナナメに引かれているものや周囲に比べて狭小に区分されているものに注目しました。

2020/06/15

境目は、やはり面白い④ 市道北3条線

 昨日ブログに続き、市道北3条線を逍遥します。
 北2条西21丁目で、東から西を望みました。
市道北3条線 北2条西21丁目 西望
 ここでまた、あることに気づいたのです。いや、そんな思わせぶりに表現することでもありません。ただ私が今まで気づいてなかっただけのことですから。

 私が気づいたのは、この通りも歩道の幅がけっこう広い、ということです。実際にどうなのか、現在図で周辺の道路も見渡してみます。
現在図 市道北3条線とその周辺の道路の幅員
 色塗りした道のうち、黄色の矢印を指した真ん中の桃色が本件北3条線です。周辺のほかの道路とざっと較べても、ある程度察しがつくかと思います。

 国土地理院サイトで距離を計測すると、北3条線の道路幅員の歩車道計は28m、うち車道は15mです。引き算すると歩道(左右両側計)は13m(末注)。
 同様に、周辺の道路を色塗りした箇所で測った結果は以下のとおりです(歩道は歩車道計-車道で算出)。
 北4条線(赤色):歩車計28m、うち車道8m、歩道20m 
 北5条線(水色):歩車計26m、うち車道18m、歩道8m
 北2条線(橙色):歩車計20m、うち車道8m、歩道12m
 宮の沢北1条線(緑色):歩車計26m、うち車道18m、歩道8m
 西20丁目線(紫色):歩車計21m、うち車道14m、歩道7m
 西21丁目線(青色):歩車計21m、うち車道14m、歩道7m
 西23丁目線(黄緑色):歩車計15m、うち車道8m、歩道7m
  
 本件北3条線と北4条線(6月12日ブログほかで伝えたベニバナトチノキ並木の道)、北2条線の歩道の幅が他に比べて広いことがわかります。うち北4条線と北2条線は車道が片側一車線です。つまり、本件北3条線は、片側二車線にもかかわらず、歩道の幅が広いといえます。
 のみならず、です。
 本件北3条線は北4条線とともに、歩車道合わせた道路幅員全体がそもそも広い。“幹線度”が高そうな宮の沢北1条線や北5条線の幅員が広いのは頷けますが、本件はそれらよりも広いくらいです。調べてみると、この幅員の広さは昭和のかなり早い時期からとみられます。なぜ、こんなことになったのか。

 冒頭に掲げた画像をもう一度、ご覧ください。一番手前に写る街路樹。民地側に向かって、かなり傾いてます。普通の歩道幅でこれだけ傾いていたら、民地の家屋に被ってしまいそうです。この街路樹が存在しえているのは、本件市道の幅広さゆえではないでしょうか。
 探り甲斐のある道です。

 注:地理院地形図の道路はあくまでも地図記号のひとつであり、実際の幅員を示すものではない。が、電子版地図の最大縮尺(分母が小さい)は、実態に近いとみられる。それでも、上記数値は私の計測誤差もあり、おおまかな目安としてみていただきたい。

2020/06/13

境目は、やはり面白い② 市道北3・4条中通線

 昨日ブログに続き、旧円山町・旧札幌市の境界を逍遥します。今回は市道北3・4条中通線です。昨日の北4条線の一本南側の仲通りに当たります。

 北3条西21丁目、西22丁目あたりで西から東を望みました。
市道北3・4条中通線 北3条西21丁目、22丁目境界付近 中央線 
 黄色の矢印を付けた先、車道に中央線が引かれていますが、その手前にはありません。手前と奥で、わずか~に幅員が違うのでしょうね。

 この仲通りには、興味深い事象が見られます。
市道北3・4条中通線 北3条西21丁目、22丁目境界付近 街区表示板
 左方の赤い矢印と右方の橙色の矢印を付けた先です。

 それぞれ街区表示板が貼られています。
街区表示板 北3条西22丁目 街区表示板 北3条西21丁目
 左方の赤い矢印の先が「北3条西22丁目」、右方の橙色の矢印の先が「北3条西21丁目」です。 

 現在図に示すと、こういうことになります。
現在図 北3条西21丁目、22丁目 街区表示板
 方位でいうと東側が北3条西22丁目、西側が北3条西21丁目です。札幌の中心部の町名で西○丁目は、東から西へ丁目の数字が増えていきますが、ここではその例外が生じています。東側に数字の大きい西22丁目があり、西側に数字の若い西21丁目がある。地図でご覧のとおり、ほんのわずか~な距離ですが。

 この例外は、ここで丁目界がいびつに分かたれていることに由ります。
現在図 北3条西21丁目、22丁目 丁目界
 水色でなぞったのが丁目界です(末注)。東側が西21丁目、西側が西22丁目ですが、この仲通りに面してクランクしています。そのため一見、番号の若い21丁目が西側に、大きい22丁目が東側に位置しているわけです。それにしても、ここまで露わに街区表示板を貼っていただけると、つくづくありがたみを感じます。

 余談ながら、この仲通りの「北3・4条中通線」という市道名も少し不思議です。この名前からすると北3条と北4条の間に通じているかの印象を受けます。しかし、この通りの北側と南側のどちらも北3条です。この街区だけならまだしも、「札幌市地図情報サービス」でこの市道をひととおり追っていっても、「北4条」にかかっているところはありません。

 注:札幌市中央区役所発行「中央区ガイド」及びゼンリン住宅地図に基づく。

2019/07/04

札幌に住んで四十余年、神輿渡御のときは歩道橋に昇れないことに初めて気づく

 先月のことですが、札幌まつりの神輿渡御を見てきました。
札幌まつり 神輿渡御 2019
 沿道で見るのは何十年ぶりです。いや、見ると言っては不心得か。鳳輦を拝し奉る? お迎え奉る?
 
 上掲のごとくデジカメを向けるほどに、いずれにせよ私は不心得です。このたびン十年ぶりに思い立ったのもわけがあります。「万灯(まんど)」のお囃子の音色を確かめたかったのです。そのわけはおって機会をあらためるとして、音色を集録すべくどこかいい場所はないかと思いめぐらしました。

 私の都合のいい時間は御還輦の間際だったのですが、思いついたのがこちらです。
円山小学校前の歩道橋 鳳輦 昇降できません。
 円山小学校前の歩道橋。

 ここなら行列を一望できるし、ちょうどいい。しかし無理だろうなという予感はありました。その程度のことは誰でも思いつくから、皆が歩道橋に殺到し、不測の事態が起きかねません。というより、恐れ多くも勿体なくも御祭神を跨ぎ、見下ろすなどとは不敬極まりない。ということでしょう。案の定、「御鳳輦が通ります。その時間は昇降できません」という表示とともに紐が張られていました。

 予感はしつつも一瞬ながらに歩道橋から神事を眺められるかもしれないと期待するほど、世事に疎いことを思い知りました。北海道マラソンのような観衆が集まる道路占用催事でも、歩道橋は渡れないのですかねえ。橋上から不心得なふるまいにランナーが遭う危険性もあるか。公式サイトのユーチューブを見たら、歩道橋に上がっている人もいるようですが。

2019/02/04

北1条・宮の沢通 ⑥

 ここしばらく、北1条・宮の沢通とその道路敷地内に立つ北海道神宮の関連物件、すなわち第一鳥居や石柱(社号標)のことをブログに綴ってきました。きっかけは砂川市にある神社と碑です。“政教分離”という悩ましい問題との兼ね合いで逍遥してきました。これまでの内容は、事実関係が大半です。鳥居や石柱が道路占用の許可を受けつつ占用料を免除されている理由が「記念碑」とか「歴史的背景」であることから、史実をあとづけてもきました。
 政教分離というと肩が凝る話題にも聞こえますが、こういう観点で物件を眺めることもまた逍遥の甲斐があるかなとも思います。すんなりと結論を出すのではなく(それは、理路整然と簡潔明瞭に断じることができない私の知的能力に由るのですが)、あれこれ彷徨したい。結局私は、世の中には(少なくとも私には)すんなりと割り切れない物件が存在することを体感したいのかもしれません。
 これからは政教分離に関する裁判所の判例と、宗教特に神道に関する諸論考を俎上に載せていくこととします。が、拙ブログのこととて、わき見寄り道脱線をお許しください。

 さて、政教分離に関する判例としては、砂川の神社を違憲とした2010(平成22)年最高裁判決から出発します(本年1月6日ブログ参照、判決要旨は右記サイト参照→http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=38347)。
 判決文に書かれているとおり、この判決は「最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決」で示された憲法判断を基にしています。いわゆる「津市地鎮祭事件」の判決です(要旨は右記サイト参照→http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54189)。この判決のキモは「目的効果基準」だと思います。その概要は判決文に当たっていただくとして、結局、何をもって「宗教的活動」とするかは、「外形的側面のみにとらわれることなく」、「当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない」としています(p.6)。前提にあるのは、「宗教的行為」と「世俗的行為」の兼ね合いです。判決は、津市が体育館の起工式で行なった地鎮祭を「世俗的な行事」とし、憲法が禁ずる宗教的活動には当たらず合憲としました。
 この判決そのものにも、また目的効果基準という考え方にも批判はあろうかと思います。が、とりあえずこの基準に照らしたとき、鳥居や石柱はどうなのでしょうか。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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