札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/24

たくぎんのみこし

 11月19日ブログの続きです。
 札幌建築鑑賞会スタッフNさんから、「たくぎんのみこし」の写真を送っていただきました。
たくぎん みこし
 「窓の外から覗いたこんな写真しかありませんでした。窓の桟があり、『た』の半分と『ん』しかわかりませんねー。でも、こんな写真でも撮ってなければ忘れてしまうから、よかったですよ」と。

 たしかに、時計台をかたどって、文字盤のところの「た」と「ん」は「たくぎん」のロゴタイプですね。Nさん、どうもありがとう。
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2017/11/19

たくぎん旧本店 ②

 今は亡きたくぎん旧本店の内部です(2002年撮影)。
たくぎん旧本店 内部 事務椅子 
たくぎん旧本店 内部 テーブル
 どこにでもありがちな事務椅子やチープな感じの円卓が無雑作に置かれて、今見ると私はむしろほっとしました。昨日ブログに載せた建物本体や建具などのデコラティブな意匠は、「贅を尽くした」とまでは見えませんが、空疎感が否めなかったのです。

 古い新聞記事のスクラップを見直したら、次のように報じられていました(『北海道新聞』1998年11月2日「消える拓銀 数々の遺産はどこへ行く?」 引用太字)。
 実は拓銀側は、この旧本店を開拓記念館の開拓の村(原文ママ)に移し、寄贈資料はそこで所蔵をと考えていた。ところが、億単位の移築費用がかかるうえ、この旧本店は本来の建物の部分復元のため、話は立ち消えに。北洋銀も「継承」しない。

 現在北海道開拓の村に保存されている建物の中で、たとえば「旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)」は部分的にしか復元されていません。本件たくぎん旧本店の復元は、費用がネックだったと思います。
 2001年、本件建物を含むたくぎんの旧荒井山研修所が宗教法人に売却されたときは、次のような記事もありました(同上2001年11月17日「『拓銀』のシンボル消える?」 引用太字)。
 市市民文化課は売却直後に旧本店を映像に収録、○○○○課長(原文は個人名)は「(取り壊しは)残念だが仕方ない」と話している。

 ほう。記録はやはり、あるところにはあるものですね。知りませんでした。私が知らなかっただけで、探し方が下手なのかもしれませんが、こういう情報はできるだけアクセスしやすくしてもらえるとありがたいですね。

 札幌建築鑑賞会通信『きーすとーん』第29号(2003年1月1日)の記事「2002年・追憶の建物たち」で、スタッフNさんが本件建物解体を偲んで、次のように綴っています(p.6、引用太字)。
 4年前訪れた時、内部に「たくぎん」の文字のある時計台型の「みこし」がポツネンとあった。かつてはたくさんの若い行員にかつがれ、中心部をねりあるいたのだろうと思うと、胸の痛む思いがした。

 さすがNさん。生活感のにじんだ着眼です。こういう記録が、私の昨日ブログの画像だけでは伝わってこないのですよ。他のおおかたの電網情報もしかり。
 1998年、確か私はNさんと一緒に見に行って、たくぎんの御輿は私もうっすら脳裏に残っています。しかし当時は「ああ、旧本店ともあろう建物が、物置と化しているんだなあ」と思った程度です。2002年に撮った前掲の安っぽい事務椅子も、「なんだか、建物にそぐわないなあ」くらいにしか思ってなかった。浅はかでした。Nさん、たくぎんの御輿、写真に撮ってないかなあ。

2017/11/18

たくぎん旧本店

 宮の森に部分移築された北海道拓殖銀行旧本店の建物が解体されてから、15年が過ぎました。この建物の画像が電網上で皆無とはいわないが少ないのは、社会の変化と相関しているのかもしれません。たくぎんの行員だった方はきっと写真に撮っているだろうし、公的な機関などでも収蔵されていると思います。ただ、この建物が現役だった時代は、現今のように一般の人がパチパチと撮ることはなかったでしょう。とくに宮の森に移ってからは、場所柄からして一般人の目に触れる機会は少なくなりました。たくぎんが経営破綻したのちは、土地建物ごと新興宗教団体の手に渡ったので、なおさらです。比較的少数ながら写真を撮っていた方にしても、かつては今ほど電網社会が身近ではなかったことでありましょう。いや、ほかならぬ私自身が電子化に疎かった(今でも)のです。

 そのスキマを埋めるべくというわけでもありませんが、拙ブログで記録と記憶にとどめておきたいと思います。撮影はいずれも2002年5月です。当時私はまだ、フィルムカメラでした。
 まず、外観のディテール。
たくぎん旧本店 外観①
たくぎん旧本店 外観②
たくぎん旧本店 玄関

 次に内部です。
たくぎん旧本店 内部 カーテンボックス
たくぎん旧本店 内部 階段親柱
たくぎん旧本店 内部 照明
たくぎん旧本店 内部 照明吊元
たくぎん旧本店 内部 天井換気口
たくぎん旧本店 内部 マントルピース
たくぎん旧本店 内部 金庫
[つづく]

2017/09/20

橋の岩田

 昨日の謎かけの答え、第一鳥居(北1条西25丁目)です。ぶらじょにさん、当たりです。ありがとうございます。
 北海道神宮 第一鳥居
 奉納といえば社寺、円山で社寺といえば北海道神宮、神宮といえば(銘鈑のカタチや周りの色から)鳥居という推理ですね。ちなみに、この鳥居を建立したのはもう一人の奉納者である岩田建設で、同社は橋梁技術に長け、「橋の岩田」と称されたそうです(末注)。創業者の岩田徳治は神宮の氏子総代も務めたというので、鳥居を建てるのもむべなるかなですが、北1条通をまたぐ巨大な工作に私は「橋の岩田」を連想してしまいました。

 本件鳥居が建てられたのは昭和40年代ですが、昭和10年地形図を見ると、同じ位置に鳥居らしき記号が書かれています。
昭和10年地形図 札幌神社 鳥居
 赤い○で囲った場所です。
 同じような記号はほかにも、神社の参道上に3箇所あります。橙色の○は第二鳥居の位置です。その南側の黄色の○、これは第三鳥居でしょう。また、第二鳥居から参道を進んで拝殿の手前、桃色の○のところにも見えます。

 神社の拝殿から桃色の○の鳥居までの距離を測ると、約1町(109m)でした。そこから橙色の○の第二鳥居までは約2町(327m)、第二鳥居から第一鳥居までは約7町(767m)。第一鳥居から拝殿までは計10町です。もしかしたら、そういう距離感を想定して鳥居を建てたのだろうか。町程標? 
 
 明治29年地形図です。
明治29年地形図 札幌神社
 参道は現在の西25丁目通、かつての銭箱道から西へ開かれていました。その東方、北1条通はまだ通じていません。赤い○が第一鳥居の位置に当たります。これは、素直に参道の入り口に建てたと解釈すべきでしょうね。
  
注:苗穂神社の「岩田徳治翁顕彰碑」(1982年建立)碑文、『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.57

2017/09/19

蔦井與三吉

 円山地区で見かけた銘鈑です。
奉納 蔦井與三吉
 「奉納 岩田建設株式会社 取締役社長 岩田巌  株式会社蔦井本店 取締役社長 蔦井與三吉」と刻まれています。

 蔦井與三吉 明治22・2-10-昭和49・12・8
 東日本フェリーなど、蔦井産業グループの創始者。石川県の生まれ。(中略)
 昭和2年、滝川市に本店設置。5年以降は樺太貨物航路、滝川砂利、茂尻石炭販売、利尻礼文航路など次々と傘下に収め、太平洋戦争中も多くの統制会社の代表を務めた。37年、七十三歳のとき世界三六カ国のフェリー事情を視察し、40年その集大成としての東日本フェリー㈱を設立した。日本初の外洋フェリーの誕生であり、函館、苫小牧、岩内、室蘭などを拠点に航路網をひろげ海運界のリーダーに。47年、札幌に本社機構を集中。石油、CATVなどにも進出している。
(さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.202)

 そういえば私が加入しているケーブルテレビは、前はSCAT(札幌ケーブルテレビジョン)といって、筆頭株主は東日本フェリーでしたね。社長も蔦井さんのご親族でした。フェリー会社がケーブルテレビ、というのを意外に思った記憶があります。
 
 その蔦井さんのお屋敷が2004(平成16)年まで、円山にありました。昭和初期築とお聞きしました。
円山 蔦井宅 2001年 
 画像は2001(平成13)年撮影です。和風の門構えが立派でした。札幌では珍しかったと思います。

 東日本フェリー亡き今、前掲の銘鈑も稀少となりました。ここで問題。
 この銘鈑は何に取り付けられているでしょう?
 ご存じの方は別として、ご存じでない方は推理してみてください。

2017/09/17

ホンマ矯正歯科の隅切り

南1条西20丁目の角地に建つ歯科医院です。
ホンマ矯正歯科
 建物自体が格別凝った外観というわけでもないのですが、西20丁目通りの交差点に立つと私は何か惹きつけられてきました。

 たぶん、角地を大きく隅切りしたファサードが印象的なのでしょう。この隅切りの大きさはただならぬものがあります。

 この交差点のほかの角地と比べても、ひときわ大きな隅切りです。
南1西20 ホンマ矯正歯科 隅切り
 赤い線が本件歯科医院の場所です(元図は地下鉄西18丁目駅に置かれた案内地図から抜粋)。

 建築基準法でたしか、角地に建つ建築物等は一定の条件のもとに隅切りしなければならないという規定があったと思います。私は札幌建築鑑賞会代表を長年称してきましたが、建築士でも建築学の専門家でもなく、基準法にはまったく疎いのですが、本件歯科医院はそんな規定とはかかわりないようです。
ホンマ矯正歯科 隅切り②
 超然と隅切っています。
 
 大きな高層建築の場合、容積率緩和の要件として公開空地を設けるということもありますが、本件は平屋建てであり、それとも関係ありません。
ホンマ矯正歯科 隅切り③ 境界石
 黄色の○で囲ったところに札幌市の境界石が埋められています。本件角地は隅切り面ぎりぎりまで、道路用地です。

 このたび、「ポルト」(北翔大学北方圏学術情報センター)主催の市民講座の一環で円山地区を歩いて、本件隅切りの原因にようやく気づきました。おそらくマニアの方やこのあたりに長くお住まいの方には既知のことなのでしょうが、これ、市電が走っていた当時の記憶だったのですね。

 1961(昭和36)年空中写真から抜粋しました(国土地理院サイトから)。
空中写真 1961年 南1西20 交差点
 赤いの○で囲ったのが南1条西20.丁目の交差点です。市電の軌道が写っています。西20丁目通を北進し、ここで西へ曲がっています。この頃からすでに、本件箇所の隅切りが目立っています。ちなみに黄色の○で囲ったところ(南1条西19丁目)も、建物が大きく隅切りされています。ここは、南1条通を西進してきた市電の軌道が西20丁目通で北へ曲がる地点です。

 1948(昭和23)年米軍撮影の空中写真で、同じ場所を見ます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1948年米軍 南1西20交差点
 赤い○のところはやはり、市電軌道の曲折に合わせるかのように隅切りされています。
 一方、黄色の○の方の南1条西19丁目は、この時点では隅切りされているように見えません。ここを曲がる車馬の交通量が多くなかったからではないかと私は推測します。理由は二つ。西20丁目通がこの角地の南方をまだ通じていなかったのと、南1条通の旧道(角地の北側をナナメに通じる)が機能していたからだと思うのです(9月14日ブログ参照)。

 南1条西19丁目角地の現在の風景です。
南1西19 交差点 隅切り
 ここの建物も、結構隅切りされています。前掲1961年写真ではっきり隅切りされた痕跡が、今に遺っているかのようです。先日来縷々記してきたように、南1条通の裏参道側(西20丁目)にナナメの道が通じて、旧道の機能が減退したからではないかと思います。西20丁目通も南へ直線化されて、交通量も増えたことでしょう。

 …と、かなりマニアックに考察してきたつもりですが、ためしに「札幌 ホンマ矯正歯科 市電」で検索してみたら、本件隅切りに言及しているサイトがすでにありました。世の中には先達がいるものです。

2017/09/16

北2条西21、22丁目の道路幅員 ②

 昨日ブログの続きです。
 
 道路幅員のことで疑問を抱いたのは、例によって米軍の空中写真1948年がきっかけになりました。
空中写真 米軍1948年 北2条西22丁目付近
 黄色の▲を付けた先が、昨日ブログに載せた道幅の違いの地点です。かつての市村界を、川が流れていました。河道はほぼ推認することができ、青い線でなぞりました。参考までに、橙色の線が現在の北1条宮の沢通、黄色の線が西20丁目通です。

 北1条以北の東西に通じる道路をご覧ください。例えば黄色の▲で示した北3条の通りです(末注①)。青い線の河道の西側と東側で、何か、違っています。川の西側は道路と民地(家屋)の境目がくっきりしています。道は白いし、家屋ははっきり写っています。ところが東側はというと、なんとなくぼやけています。道は白いのですが、その両側が家屋とも空地とも見分けがつきかねる、文字どおりグレーゾーンになっています。これが私には、建物疎開の痕に見えてしまうのですねえ。

 私の眼はバイアスがかかっているので、公平無私な澄んだ目で読影していただける奇特な方、いらっしゃらないでしょうか。
 画像は国土地理院のサイトで見ることができます。
 ↓
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=234016&isDetail=true
 『新札幌市史』には残念ながら、疎開跡地の道路拡幅の項にこのあたりのことは記されていません。戦時中の建物疎開の詳細な記録が残っていればよいのですが、差し当たっては前掲画像を読影するのが近道のようです。

 もしこれが建物疎開跡だとすると、旧札幌区(市)側と旧藻岩村(旧円山町)側の道幅の違いは、疎開が主な原因になるかと思います。疎開の跡地をそのまま道路にした。となると、もともとの(旧市村当時の)道幅が異なっていたとは言いがたい。仮にそうだとして、ではなぜ川の東側だけ疎開したのか、という疑問も生じますが、たまたま自然の境界である川の端まで疎開したところで(末注②)、終戦を迎えた、ということでしょうか。
 
 注①:この通りの現在の道路名は未確認だが、橙色でなぞった道が「北1条通り」と呼び慣わされているので、そこから数えて便宜的に「北3条の通り」とした。正確には、北2条と北3条を分かつ通りである。
 注②:札幌の建物疎開は、1945(昭和20)年5月以降二次にわたって実施され、三次は計画されたが終戦を迎え実施されなかった(『新札幌市史 第五編(上)』2001年、p.210)

2017/09/15

北2条西21、22丁目の道路幅員

中央区北2条西22丁目です。
北2条西21丁目 道路幅員の違い
 東西に通じる道路を、西から東向きに眺めました。
 画像上、奥に向かって道路幅員が広がっています。手前は片側1車線、奥は片側2車線です。画像の撮影地点は北2条西22丁目、奥の道路幅員が広いのは西21丁目です。

 現在図で確かめておきます(札幌市中央区役所「中央区ガイド」から抜粋)。
北1~3条西21~22丁目 道路幅員
 黄色の▲の先が前掲画像の撮影地点です。この通りも含め、北1条から北4条にかけて、西21丁目と西22丁目を境にして道路の幅が異なっているのが判ります。
 この道路幅員の違いを私は、かつての市村界に起因していると理解していました。それは私の発見ではなく、既出文献に載っていることです。『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年で、次のように書かれています(p.164、引用太字)。
 北二~五条西二十二丁目付近は、かつて札幌市と藻岩村の境界があったため、東西に走る道路の幅が途中から極端に違っている。

 付け加えるならば、この境界に沿ってかつて川が流れていました。というか、河道をもって旧札幌区(市)と旧藻岩村(旧円山町)が境界を分かっていました。
 その名残のせいか、現在の西21丁目と西22丁目の境は不整形です。前掲現在図上、太い実線で示されているように、いびつに折れ曲がっています。ちなみにこの実線は、桑園地区(西21丁目以東)と円山地区(西22丁目以西)の連合町内会、札幌市のまちづくりセンターの境目になっています。

 話を道路幅員のことに戻します。幅員の違いは札幌区(市)と藻岩村(円山町)の財政力の差を示す痕跡なりや、と私は想っていました。しかし、原因はどうもそれ(だけ)ではないのではないかと、目下認識を改めつつあります。[つづく]

2017/09/14

円山裏参道公園はどうしてできたか ③

 1942(昭和17)年「札幌都市計画図」からの抜粋です(原図は札幌市公文書館蔵)。
1942年都市計画図 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったのが、先日来話題にしている円山裏参道公園になる場所(南2条西20丁目)です。

 この計画図の地図で、くだんの箇所は四角形の島になっています。一昨日ブログに載せた富貴堂の「札幌市街案内図」でも、ほぼ同じカタチの四角形でした。おおやけの図面で裏付けられました。この四角形のほぼ対角線上(ナナメ)に南1条通がショートカットされます。その形跡は、昨日ブログに載せた空中写真に載せたように、昭和20年代すでに窺われます。
 これも昨日記したように、私はそれを南1条通から西20丁目通を通る市電との交通緩和とみました。しかし、前掲図(あるいは一昨日の富貴堂地図)に見られる四角形の島の時点で、その目的は実現されています。

 前掲図で示すと、こんなふうに想像しました。
1942年都市計画図 南2西20周辺 
 札幌中心部から西(円山方面)へ向かう交通を黄色の線、西(円山方面から札幌中心部(東)へ向かう交通を橙色で示しました。青い線が市電です。南1条通から西20丁目通へ曲折するところの負荷を下げることができます。それでも黄色の西向きルートはクランクしていますので、ナナメのショートカットは交通の流れをさらに効率化したということになりましょう。

 円山裏参道公園の現在の風景です。
円山裏参道公園 南から北を望む
 南2条西20丁目、西20丁目通から北を眺めました。
 ナナメのショートカットの道路が公園化されて、三角形から四角形にいわば先祖返りしたことになります。
 
 今シリーズのテーマである「円山裏参道公園はどうしてできたか」には、二つの意味があります。一つはhow?で、もう一つはwhy?です。
 前者のhow?は、これまで述べてきました(末注)。後者のwhy?について触れておきます。
 私は、この公園の目的を当初、ナナメの道によって生じていた変形交差点の解消にあると思っていました。

 国土地理院2008年空中写真で、三角公園当時の場所です。
2008年空中写真 南2西20周辺
 一種の五差路といえる交差点でした。南1条通をクルマで通過する分には便利かもしれませんが、便利ということは危険を伴っていたとも思います。市電の軌道もなくなって久しく、これも時代の趨勢か。

 しかし、造園家のSさんに尋ねたところ、札幌市の目的は道路交通上のことではなくて、あくまでも公園そのものにあることを知りました。この周辺は近年居住人口が増えているため、避難場所も兼ねた公園が必要だったそうです。新たに確保できる適当な土地が付近になく、従前公園的に使われてきた三角形を四角化することで、正式な(都市計画法上の)公園としたとのことです。
 結果的に道路をつぶして公園にしたということは、それはそれで時代の趨勢といえるかもしれません。[おわり]

 注:公園そのものがどのようにしてできたかは、札幌市サイトを参照
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/keikaku/sankaku/sankaku.html

2017/09/13

円山裏参道公園はどうしてできたか ②

 国土地理院空中写真1961(昭和36)年から、現在の円山裏参道公園の付近(中央区南2条西20丁目)を見てみました。
国土地理院空中写真1961年 南2西20周辺
 赤い線は1941(昭和16)年までの札幌市(旧札幌区)と円山町(旧藻岩村)の境界です。西20丁目通が南へ直線化されています。
 黄色の○で囲ったのが、くだんの公園になる場所です。南1条通がナナメにショートカットされていて、三角形が出現しています。ナナメのショートカットがいつ通じたか判りませんが、市電の路線との交通緩和という目的が想像されます。橙色でなぞったのが市電の路線です。南1条通を西進し、西20丁目で北へ折れています。自動車の交通量が増えてきて、市電路線との並行は少しでも避けたかったのではないでしょうか。三角形の土地は、何となくすでに公園のような雰囲気が窺われます。

 遡って、1948(昭和23)年の米軍撮影空中写真です。
米軍空中写真1948年 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったところ、すでにこの時点でおぼろげに三角形の気配が見えます。

 あることに気づきました。赤い線(旧市村界)のクランクしている細長い一帯です。これまで拙ブログをお読みいただいてこられた方も、気づかれた方が多いのではないでしょうか。
 のちに三角公園になる場所(黄色の○)も含め、建物らしいものがほとんど写ってません。これも何となくですが、不自然に空き地になっているように見えます。しかも、元からの空き地というよりは、更地にしたような形跡…。
 このクランク地帯、もしかしたら建物疎開された痕ではなかろうか。
 してみると、三角公園あらため円山裏参道公園も、札幌の戦跡か。いや、私の眼は札幌=軍事都市史観に偏向しているので、予断は慎みましょう。
 

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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