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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/15

大友堀の流路考 ②

 10月11日ブログで、地下鉄東豊線の「東区役所前」駅コンコースの壁画のことを記しました。
東豊線 東区役所前駅 構内壁画 拡大
 「私にとっては突っ込みどころがあり、嬉しくなるのです」と綴った銘文です。
東豊線 東区役所前駅 構内壁画 碑銘 拡大
 「拓」と題され、次のように刻まれています(太字、原文ママ)。 
このレリーフは、札幌村開拓の基礎となった大友堀と当時の作物玉ネギをモチーフとしたものです。発展の基礎となったこの二っで壁面を構成しました。
中心の円形は人々の協力と団結を、上下左右に広がる線は開拓者の精神を表わして、共に東区の発展を願ってデザインしました。 


 制作時・制作者は明示されていないのですが、東豊線の栄町-豊水すすきの間が開業した1988(昭和63)年に設置されたものでしょう。31年前です。当時の歴史観が凝縮されているようでもあります。
 歴史観ではなく、史実として、あえて引っかかることにしました。「札幌村開拓の基礎となった大友堀と当時の作物玉ネギ」という記述です。大友堀とタマネギの密接関連性が伝わってくるのですが、それはおそらく「当時の」という修飾句を介しているからでしょう。実際には、大友堀とタマネギの間には時空の差異がありました。堀割は幕末に「御手作場」開墾のために開かれ、タマネギは明治になって開拓使の奨励により普及したものです。時間的にはたかだか数年の開きであり、堀割とタマネギは同時代を重ねてもいます。しかし、どのように繋がったのか、私は知らないことに気づきました。精神風土という意味では堀割がタマネギ主産地形成の土壌を培ったと想いますが、判った気になるのを戒めたい。

 10月16日ブログで「大友堀の流路考 ①」を綴ってから②を続けず、ひと月近くたってしましました。
標高図×1948年空中写真 大友堀 推定流路
 青い実線でなぞった堀割の流路は、赤いで囲った大覚寺のところ(下流、画像左方)まで、白ヌキでなぞったナナメ通りにぴったり沿ってはいません。なぜか?

 用水を開いた大友亀太郎は二宮尊徳門下で、最新の測量技術や農業土木に精通していたと、よく耳にします。堀割の流路を具体的にどう、読み解けるか。
 仮説的結論を先に述べると、大覚寺以西は排水的な機能も企図したのではないかと想います。
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2019/11/08

ナナメ通りの旧家 Tさん宅の遺構 ②

 昨日ブログの続きです。東区の旧家Tさん宅の厠は、誰のために作られたか? 「東本願寺の偉い人」とはどなたか?
 天皇の行幸に際して設けられた行在所などは、役目を終えた後は使われることなく奉置されることを聞きます。聖跡ですね。Tさん宅の厠もそのような扱いだったやに想います。厠は、相当に「偉い人」のためだったのではないでしょうか。

 ところで、Tさん宅と東本願寺の関係を顧みます。
 まず東本願寺から。東本願寺が北海道開拓に乗り出したのは1870(明治3)年です。本山の法嗣現如(大谷光瑩、のちの第22代法主)を先頭に、中山道から東北諸国を行脚し、北海道を目指しました。途中、各地で門徒から寄付や移民を募りながらのことです。その行程は必ずしも順風満帆ではありませんでした。というより苦難の連続だったようですが、各地の門徒衆からは歓迎を受けました。「新潟では万を越す門徒が参集し」たそうです(末注①)。札幌別院(札幌管刹)の創建に当たっても、初代輪番が募金のため「信徒の多い越後に赴きました」(末注②)。

 札幌別院の本堂です。
東本願寺札幌別院 本堂
 1891(明治24)年に建立されました。画像では手前の木々に隠れていますが、右方には「旧御堂」が遺ります。旧御堂は1871(明治4)年に建てられました。もとは江戸時代中期、越後国(中蒲原郡横越村、現在の新潟市)に建てられた寺の本堂です(末注③)。解体して搬送され、移築されました。

 さて、次にTさん宅です。Tさん初代も越後から来ました(10月6日ブログ参照)。出身地は西蒲原郡月潟村、現在の新潟市です(末注④)。「信濃川の治水工事を請け負うなど、土木事業を得意としていた」といいます。道南に渡り大友亀太郎と知り合い、1866(慶応2)年、亀太郎とともに元村に入りました。明治になり、開拓使本陣御用達を申し付けられます。1875(明治8)年には再び元村に戻り果樹栽培に従事し、1886(明治19)年に没しました。

 東本願寺札幌別院の創建に当たって、Tさん初代は越後出身という人的ネットワークと土木開墾に通じていた技術力の両面で貢献したのではないでしょうか。そこからいきなり飛躍するのですが、ナナメ通りのTさん宅に来た「東本願寺の偉い人」というのは、もしかしたら本山法嗣の現如だったかもしれません。
 現如法嗣は1870(明治3)年の後、1881(明治14)年7月に再び北海道を訪れました(末注⑤)。札幌には同月23日から5泊したそうです。そのとき元村まで足を運んだのではなかろうか。ちなみに同年の翌8月30日から9月2日にかけて、明治天皇が札幌に行幸しています。明治帝は同月31日、苗穂村から元村に入り、「御野立」しました(10月9日ブログ参照)。Tさん宅のすぐ近くです。現如法嗣の二度目の来道は天皇行幸の先遣的な意味合いもあったようなので、先立って同じ行程を訪ねることもありえるかと思います。

 注①:弥永北海道博物館『北海道開拓と本願寺道路』1994年、pp.116-117
 注②:同上p.136 「越後は先般現如が北海道開拓を説いて巡化したばかりであったから、信徒や『尼』たちの献身的な協力があって募財活動は順調に進んだ」。「尼」がカッコ書きなのは、得度した尼僧ではなく、在俗のまま仏事に奉仕した者も含むため。
 注③:東本願寺札幌別院リーフレットによる。
 注④:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.266、以下引用同じ。
 注⑤:前掲『北海道開拓と本願寺道路』p.139

2019/11/07

ナナメ通りの旧家 Tさん宅の遺構

 10月6日ブログで、「ナナメ通りの旧家 Tさん宅の蔵」(東区)をお伝えしました。
 蔵は土蔵造か組積造か、お庭には池があったのかなど、伏せたままにして、もう一つ別の“謎”に迫ります。
東区 ナナメ通り Tさん宅 蔵の傍らの遺構
 赤い矢印を付けた先の遺構です。
ナナメ通り Tさん宅 蔵の傍らの遺構 接写
 煉瓦を一辺に10個程度、四辺に並べて囲っています。真ん中は穴らしき円形です。

 私は一見して「井戸だったのですか?」と尋ねましたが、Tさんによると、さにあらず。「便所の跡」とお聞きしました。「昔、東本願寺の偉い人が来ることになったので作った。その後、一度も使われなかった」とのことです。具体的にいつの時代で、「偉い人」というのが東本願寺のどなたに当たるか、さだかではありません。

 札幌村郷土記念館に、Tさん宅旧蔵古文書が多く寄贈されています。
札幌村郷土記念館 Tさん 東本願寺の褒状
 その中の一枚で、「明治二十八年八月十日」付け「寺務所」からTさん初代宛ての書状です。
 「札幌別院創建ニ際テ荊棘ヲ拓キ草莱ヲ廃シ鞠躬尽力候趣奇特ノ事ニ候依テ為其賞牡丹紋付石盃一個差遣候事」と。
 Tさん初代は札幌別院の創建に尽力し、その奇特を賞され、東本願寺から石盃を授けられたようです。「牡丹紋」は大谷家の家紋らしい。

2019/11/06

東区シンボルマーク考

 昨日ブログに続き、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編「街道をゆく…はじめにナナメありき?!」での私の説明に関して補足します。

 札幌市東区役所の「シンボルマーク」について、3点です。
東区民センター 東区シンボルマーク
 
 10月12日ブログで私は、次のように記しました。
 7区でスタートした政令市移行当時に作られたものです。雪の結晶で、「東」を中心に他の6区を表しています。
 東区の歴史を象徴するマークですが、最新の同区役所発行の「東区ガイド」(2019年2月第2刷発行)には載ってません。マスコットキャラクターの「タッピー」に取って替わられています。行政区がその後増えて、現在10区になっているのが響いているのでしょうか。


 これに近いことを「大人の遠足」でも述べたと記憶しています。
 補足の第一。
 このマークが決められたのは、正確には1977(昭和52)年です。「区制5周年」を記念して作られました。1972(昭和47)年の「政令市移行」の時点ではありません。
 補足の第二。
 デザインのモチーフについて、札幌市東区役所発行の『東区まち知るべ』2016年を以下、引用します(p.7、太字)。
 「緑」の中の「東」の文字は、豊かな自然に囲まれた東区を意味しています。また、周囲の6つの円は北国の雪の結晶を表すとともに、東区以外の6区(当時の札幌には7つの区がありました)とのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味しています。
 
 『東区まち知るべ』の記述は読んでいたのですが、私は説明をかなり端折りました。加えて、「『東』を中心に」というのは、私の主観が色濃く反映された解釈です。実際、図柄は「東」の字が中心に象られ、「周囲の6つの円」が当時の6区を表していることに違いはありません。「札幌」の近世から近代に至る歴史的成り立ちからみて「東区中華思想」(10月13日ブログ参照)は意味があると個人的には思います。ただし、このマークがそれを是認しているとは裏付けられません。公的にはあくまでも、他区「とのつながり」です。

 10月12日ブログに載せた東区シンボルマークの画像を再掲します。
札幌市東区シンボルマーク ピンバッジ1979年
 実は、これは1979(昭和54)年に入手したピンバッジです。当時私は札幌市東区に住んでいて、同区役所で貰いました。バッジに添えられた紙片には次のように書かれています。
 まわりにある6つの円は北国の雪の結晶で札幌市とあわせて他の6区を表わし、そのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味しているものです。
 私の札幌市東区観は、40年前からこんにちまで大事に持っているこのバッジに刷り込まれたのでしょう。「札幌市とあわせて他の6区を表わし」から、「(区)を中心」とした札幌市、という歴史認識を嗅ぎ取ってしまったのです。
 
 補足の第三。
 私の前述説明後段では、「東区ガイド」について「マスコットキャラクターの『タッピー』に取って替わられています。行政区がその後増えて、現在10区になっているのが響いているのでしょうか」とも記しました。これもまた、推測というか憶測です。
 札幌建築鑑賞会スタッフSさんが東区広聴係から資料を入手された際、同係職員の方から「ガイドマップに載せられなかった情報が『まち知るべ』にはあるので、両方見てください」との説明があったそうです。片方の資料だけで憶測が拡散されるのは同区の本意ではありますまい。と思い直しました。

 以下は補足の蛇足です。
 『東区街知るべ』1995年版(末注①)では、末尾に「シンボルマーク」の由来を次のように記しています(太字)。
 「緑」の中の「東」の文字は、豊かな自然に囲まれた東区を意味している。また、まわりにある6つの円は北国の雪の結晶で、他区とのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味している。

 「まわりにある6つの円」について、「東区以外の6区(当時の札幌には7つの区がありました)」という後年版の記述がありません。
 悪い癖で、私はまた妄想をたくましくしてしまいました。1995((平成7)年というのは、札幌市が9区(1989年に厚別区、手稲区が誕生)の時代で、さらに清田区の分区が決まった年です(末注②)。行政区が増えていく中、当時の担当者は「東区以外の6区」という本来の由来に遡るのを忌避したかったのではないか。苦渋が読み取れます。その後分区も落ち着いて10区が定着し、当初の解釈が復活した。しかし「札幌市とあわせて」は、消えた。
 ついでながら、当初から今も生きている「周囲の6つの円は北国の雪の結晶を表す」という説明は、疑問が残ります。「雪の結晶」というなら、むしろ全体の六華様を指すのではないだろうか。あ、でも雪の結晶はフラクタル(部分が全体と相似をなす造形)だろうから、「6つの円」も実はそれぞれに六華様ということか。

 東区シンボルマークは、真駒内公園の「中央橋」に遺る、このマークに似ているなとも感じました。
真駒内 中央橋 札幌オリンピックの跡
 六華をデザイン化すればおのずとこうなるか。

 注①:私の手元の2013年版、2016年版は『まち知るべ』だが、1995年版は『街知るべ』
 注②:札幌市清田区役所「清田区ガイド」2014年、年表

2019/11/05

札幌市東区役所の位置

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編「街道をゆく…はじめにナナメありき?!」を先月、開催しました。二回のうち、初回(10月11日)に現地で私がしゃべったことで一点、訂正があります。

 当日の配布資料に載せた地形図2万5千分の1「札幌」1975(昭和50)年測量・1977(昭和52)年発行(一部抜粋)に関する説明です。
地形図 昭和52年「札幌」 東区役所付近
 赤矢印を付けた先に政令指定都市区役所の記号が描かれています。東区北13条東8丁目です。区役所は現在、橙色ので囲ったところにあります。北11条東7丁目です。

 私は東区役所の位置を、「この地図が作られた時点では、すでに現在地に移っているはずですが、古い所在地のままで描かれています」と説明しました。これは間違ってました。申し訳ありません。東区役所庁舎が現在地でオープンしたのは1977(昭和52)年7月18日です(末注)。したがって、地形図作製の時点ではまだ、この位置でした。1972(昭和47)年4月に札幌市が政令指定都市に移行する前の出張所時代の建物を、そのまま区役所として使っていたのだと思います。
 私は、政令市に移行した時点で区役所庁舎も完成していたと勘違いしていました。誤りに気づいたのは、2回目(10月13日)のとき、参加者のお一人とのお話からです。2回目ではこの説明そのものを省いたのですが、行事の終わり頃たまたまお一人の方とこの話題になり、「東区は政令市移行後も、しばらく古いまま(位置・建物)でしたよ」と指摘されました。それで私も、区庁舎の落成は各区によってタイムラグがあったなと思い出したしだいです。

 注:『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.472

2019/10/29

東区伏古の煉瓦造腰折れ屋根建物

 「福吉カフェ」です。
東区伏古 福吉カフェ 腰折れ屋根 煉瓦 
 運営されているEさんにお会いしました。今年の5月からこの建物で店を始められたそうです。

 もともとは農家の納屋で、1987(昭和62)年に「キャプテンベーリング」という魚料理の店になり(末注)、その後2003(平成15)年から「ホットスパイス」というカレー屋さんで使われてきました。30年以上の長きにわたって再利用されてきたわけです。
 情報発信にも携わるEさんに札幌建築鑑賞会の活動をお伝えすることが目的だったのですが、逆にこの建物が気になって足を向けました。

 店の入り口です。
伏古 福吉カフェ シンボルツリー
 両脇の石でできた囲い(?)に樹が植わっています。安山岩ぽい。札幌硬石か。チェーンソーの痕が遺る札幌軟石もあります。Eさんの話では、「ホットスパイス」当時からあった由です。私が4年前に撮った画像にも写っています。キャプテンベーリング当時の写真を見たら、丸太が置かれていました。左側はカエデ、右側はカツラで、これはEさんが植えたものです。シンボルツリー。     
 妻壁に、店の看板が掛かっています。
伏古 福吉カフェ 妻壁 店の看板
 タマネギやプラウ(鋤)を牽く馬が描かれ、この建物を伝えているようです。

 ところで、札幌建築鑑賞会『さっぽろ再生建物案内』初版2000年、第2版2003年で本件建物を紹介したとき、「昭和初期の建築という」と記しました。建築年代の明確な裏付けを得られなかったので「という」という伝聞形に留めたのですが、再考したいと思います。

 注:北海道新聞連載「街角探見」1993年7月1日

2019/10/18

東区本町の古刹にある軟石建物

 行動の優先順位を付けられないという私の性分は最近のブログ(10月7日)でも記したとおりです。言い換えれば「切り替えができない」ことでもあります。札幌建築鑑賞会にせよ他から与えていただいた機会にせよ、一つの出来事が終わっても、あとに引きずってしまうのです。よくいえば、事後の“復習”に怠りがない。
 テレビで受け持たせてもらっている歴史散策のコーナーは月2回なので、感覚(間隔)的には、収録、オンエアが終わったらすぐ次が来ます。“予習”が必要です。そうすると、前回の復習と次回の予習とを常に同時進行することになります。まあ世の中のなりわいはそういうものなのでしょうが、私にはそれをバランスよくできません。 
 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で歩いたナナメ通りに今もってこだわっている(昨日ブログ参照)のも、性分のせいです。

 東区本町の古刹で札幌軟石物件を“発見”できたのは、そのおかげでもあります。
東区 法国寺 軟石祠
 屋根と壁で構成されており、私は建物と観ました。ここでいう“発見”(末注①)とは、札幌軟石建物としての認識を意味します。

 2006(平成18)年に実施した「札幌軟石発掘大作戦」(末注②)東区編では確認されていない物件です(いま「2006年」と記して、「もう13年たったのか」と感慨を抱いた)。グーグルのストリートビューで見ると、手前の金属製の柵がかつては札幌軟石の塀でした。現在はご覧のように柵越しに本件を透視できますが、塀越しでは見づらかったのでしょう。この画像は仲通りから撮ったものですが、表通り側は今も立派な軟石の塀が廻らされています。塀は2006年調査で集録されていました。

 境内の中から拝見すると、祠です。
法国寺 地蔵尊 祠
 「地蔵尊」が祀られています。右傍らの説明板によると、2003(平成15)年の設置らしい。ただし、中の地蔵尊そのものはもともと、「札幌村大字苗穂村北栄部落(現在の伏古十一条二丁目、三丁目」の一角に立てられていたようです。左に立つ「紀念碑」の台座に「大正十年十月十八日 地蔵尊建立」と刻まれています。お寺に移されたときに、新たに祠が設けられたのでしょう。軟石はチェーンソー仕上げです。
 『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年の「各種記念碑(信仰)」の章に、「下苗穂地蔵尊」がリストアップされています(p.281)。所在地は東区伏古12条3丁目、「農友会館横」です。前述の伏古11条2丁目、3丁目と1条異なりますが、建立年が大正10年10月とあるので、たぶん本件地蔵尊のことと思われます。

 本年2月14日ブログ以来、久しぶりに軟石建物情報を更新します。母数が1棟増えて414棟、本件の築年代は「昭和後期-平成期」に含め、50棟になりました(カッコ内は母数に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:52棟(12.6%)
  昭和戦後期:103棟(24.9%)
  昭和後期-平成期:50棟(12.0%)
  不詳:163棟(39.4%)

 なお、母数の414棟というのは2005年以降、札幌市内で確認した軟石建物の合計です。築50年未満の新しいもの(鉄筋コンクリート造に軟石を貼ったものなど)を入れてます。また、同年からこんにちに至るまでの間に解体された数十棟も含む数字です。新築、解体の数は刻一刻変わっており、現存建物数はあらためて精査の必要があります。

 注①:「発見」というコトバの用法については2017.3.31ブログ末注①参照
 注②:札幌建築鑑賞会による市内の札幌軟石物件調査活動。2005(平成17)年以来、十数年続けて来た。2015年12月8日同年12月23日ブログほか参照

2019/10/17

大友堀の流路考 ①

 札幌建築鑑賞会の今回の「大人の遠足」で東区のナナメ通りを歩いて、あらためて「大友堀」に想いを寄せました。
 
 昨日ブログに載せた古地図を再掲します。
明治15年札幌郡丘珠村札幌村全図 再掲 大友堀流路 
 気になっていたのが、大友堀の流路です。

 図の流路上に番号を①②③と付けました。コトバで説明すると以下のとおりです。
 ①南西(画像上、左下)から北東へ流れ、いったん南東へ湾曲する。
 ②大覚寺(赤い)の前でナナメ通りに突き当り、北東へ折れ曲がる。
 ③通りにぴったり沿ってまっすぐ下り、伏籠川に注ぐ(黄色の)。
 
 私が気になったのは、特に②のところです。①ではナナメ通りとは少し離れてしかも弯曲しながら流れていたのがここで曲がり、その先は道に沿って直線的に下ります。この曲がりは何だろう? 実は遠足のとき、参加者のお一人からも尋ねられました。かような質問が飛び出すほどに、マニアックな集まりです。私なりの答えはお伝えしたのですが、あとから考え直して、まだ疑問が残りました。拙ブログ上で、さらにマニアックに追究することとします。

 色別標高図×1948年空中写真に、大友堀の推定流路(末注)を濃い青の実線でなぞりました。
標高図×1948年空中写真 大友堀 推定流路
 私が遠足のとき答えたのは、「自然堤防の尾根筋に沿って流した結果」ということです。もっとも標高の高いところに主流の堀割を穿ち、低いほうへさらに毛細的に水路を通す。物理的に適っていると思います。大覚寺より北東は尾根筋が細くなっているようです。道沿いよりもり北西側を通すと、南東側の土地へ水を流しづらくなる。冒頭古地図に示されているとおり、道に沿って短冊状に地割されています。それぞれの土地へ公平に(?)水を流すには、道沿いがもっとも都合が良かったのではないか。

 しかしこれだけでは半分しか答えていません。ではなぜ、大覚寺より西側の①のあたりではナナメ通りにぴったり沿わなかったのか? 私は当初、この部分ももっとも標高の高そうなところを通したと察しました。しかし、必ずしもそうとは言い切れません。ナナメ通り上がやはり自然堤防の尾根と窺えます。堀割は、もう少し手前からナナメ通りに沿わせれば、わざわざ湾曲させなくてもすんだのではないか。しかし、あえて(?)、通りとは距離を置いて流した。なぜか?

 注:札幌村歴史研究会ほか編『東区今昔 大友堀』1982年、巻末付図参照

2019/10/16

東区はフシコサッポロのたまもの

 10月9日ブログに載せた色別標高図(標高12m未満から1mごと7色段彩)を再掲します。
標高図×1948年空中写真 東区ナナメ通り
 1948(昭和23)年空中写真との重ね合せです。ナナメ通りを白ヌキ実線でなぞりました。赤いで囲ったのは古刹大覚寺、黄色のは札幌村役場(現在の札幌村郷土記念館)の位置です。
 
 通りをはさんで南東側に伏籠川=フシコサッポロ川が流れています。北西側の大友堀とおぼしき跡も察せられるでしょうか。ナナメ通りが伏籠川の自然堤防帯に通じていることも窺えます。もっとも、大覚寺のところから北東は道に沿って堀割が鑿たれたので、掘り出した土を通りに盛った可能性もあります。

 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(2018.3.26ブログほか参照)からナナメ通りのあたりをトリミングしました。
明治15年札幌郡丘珠村札幌村全図 街道、大友堀周辺 
 赤いが大覚寺、黄色のが札幌村役場のそれぞれがのちにできる場所です。
 堀割は黄色の裏あたりで伏籠川に注ぎました。前掲標高図に戻ると、ナナメ通り=元村街道がその北側で通じているのも川沿いの微高地です。これはやはり、往時の自然地形と想われます。

 伏籠川が豊平川=かつての札幌川本流だったのは、おおむね2,000年前から19世紀初頭にかけてとされます(末注)。つまり、その年月を経て自然堤防が形成されたということです。上流から運ばれた土砂が肥沃な土壌を培い、全国有数のタマネギの主産地となりました。
 自然堤防が堆積したということは、何度も大洪水にみまわれたということだと想います。現在の標高図に遺る蛇行の地形は、氾濫の痕跡でもあるようです。
 いきなり時空が飛躍しますが、国内最長の川である信濃川は、長野県内では千曲川と呼ばれます。私は、千曲とは信州の地名の「筑摩」に由って来たるのかと思いましたが、これは川の姿を伝えているのかもしれません。

 注:在田一則「母なる川 豊平川」『豊平川と私たち-その生い立ちと自然-』北大総合博物館ほか2011年、pp.13-19参照

2019/10/15

東区米国説(承前)

 昨日ブログにコメントをお寄せいただき、ありがとうございます。あらためて札幌市東区の亜米利加に想いをいたしました。

 札幌村郷土記念館に飾られている絵です。
札幌村郷土記念館 複製画 二宮金次郎とリンーカーン
 敬愛する若き日の二宮尊徳がくリンカーン青年とツーショットで納まり、後景には自由の女神像が配されています。戦後、GHQ北海道民生部の米軍将校が日本人画家に描かせた絵の複製です。1951(昭和26)年、道内の小中学校に複製が配られたといいます(末注)。学校に遺っている例はいまのところ確認されていないようなので、これにお目にかかれるのは稀少です。

 記念館があるのは、東区のかつての中心地だったところです。やはり、ここは米国だ。
 ところで、金次郎とリンカーンは、一緒に何を読んでいるのだろう?

 注:武井時紀『おもしろいマチ-札幌』1995年、pp.193-194、藤倉徹夫『金次郎はどこへいった-道内の像と昭和をめぐる旅-』2006年、pp.159-163、北海道報徳社『まことの二宮尊徳はこうだ 知ってるつもり?が知らぬ金次郎』北海道報徳情報別冊14号報徳生活読本報徳人物編993年、pp.16-17

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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