FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/11/23

苗穂駅旧駅舎プラットホームの階段に貼ってあった表示板

 この錆びた鉄板には何と書かれていたのだろうか。
苗穂駅旧駅舎プラットホームの階段に貼ってあった表示板
 かろうじて読めるのは「し・客よし」「発オーラ」です。
 
 なお、本件は5番(千歳・苫小牧方面)、6番(江別・岩見沢方面)ホームの6番側にありました。ゼンリン住宅地図2002年版によると、このホームを境にして5番側(南側)は中央区、6番側(北側)は東区なので、所在地は東区としました(末注)。ちなみに、札幌・小樽方面のホームは3、4番で、1、2番というホームはありませんでした。私は旧駅舎側にもかつてホームがあったのではないかと思いましたが、併設されていた貨物のホームや日通の引込線が1、2番だったのでしょうか(2014.12.27ブログ参照)。

注:地図によって区界線は異なって引かれているが、おおむね旧駅舎の北側は東区である。 
スポンサーサイト

2018/11/22

北5条東9丁目の高低差 ④ 伏古の飛び地

 昨日ブログで、北5条東9丁目の一画に「伏古町内会」の看板が立っていたことを伝えました。
 2012年にこのことを知ったとき、同町内会のエリアを調べてみました。現在「伏古○条○丁目」」と呼ばれている地域から、かなり離れています。当時、その位置関係を示した地図を作りました。
伏古町内会のエリア
 地図上、赤く塗った箇所が二つ、あります。左下の小さいほうが伏古町内会の区域です(末注①)。右上の大きく塗ったのが、現在の町名としての「伏古○条○丁目」です。伏籠川を青い実線でなぞりました。破線は古地図に基づいて推定したその上流の旧河道です。

 ところで、昨日ブログに載せた看板は、残念ながら今は見当たりません。私はもしかして、「伏古町内会」はもはや存在していないのかと懸念しました。 
 2008年の空中写真で、伏古町内会の区域を見てみます。
空中写真 2008年 伏古町内会 フシコサッポロ
 赤い実線で囲ったところです。
 この区域の大半を大型の施設が占めています。サッポロビール園と、その跡地を再開発されてできたショッピングモール、プロ野球球団の練習場です。住宅地の面積は小さく、戸数も多くありません。定住人口が少ないことが窺われます。それで私は、伏古町内会は近隣の町内会に統合されたのかと思ったのです。

 先日、uhbの番組の収録に先立って北5条東9丁目を下見したとき、たまたまこの一画のお宅で庭仕事をしている男性がいました。前掲空中写真の黄色のの位置です。その方にうかがうと、この一帯は今も伏古町内会ということが判りました。歴史の名残を伝える町内会(11月14日ブログ参照)がここでも健在だったのです。

 私:こちらの町内会が「伏古」なのは、なんででしょうか?
 男性:昔、ここを伏古川が流れていたからさ。
 私:川はどのあたりを流れていましたか?
 男性:そこ。

 男性が「そこ」と指し示したのは、11月19日ブログに載せたコンクリートブロックの擁壁が組まれた高低差のところです。地元の方の“証言”からも、高低差が旧河道跡であることが裏付けられました。
 
 ちなみに、現在の伏古○条○丁目という町名ができたのは昭和50年代です(末注②)。そちらには「伏古○○町内会」がいくつかあります(末注①)。「伏古町内会」は前掲地図で見るように、今ではまるで飛び地のようです。しかし、この町内会名のほうが、町名としての伏古よりも古いのではないだろうか。

 注①:札幌市「町内会・自治会検索サイト」参照
 注②:『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年、p.64

2018/11/20

北5条東9丁目の高低差 ②

 昨日ブログで私は、11月19日uhbの番組で案内した旧河道跡が「イコール『ナイポ』かというと、厳密には違います」と記しました。これは、2014年12月23日ブログでも引用した山田秀三先生の記述に依っています。しかし、あらためて先生の著書を読み直してみたところ、先生は次のようにも書かれていました(山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.99、引用太字)。
 或は国鉄工場の方がポンナイポで、苗穂小学校の上で二股になっている左股がナイポの痕跡だったとの疑も残る。何れにせよ、国鉄工場や農具工場等がある、あの辺の東支流が「苗穂」の起源になったその小川(引用者注:ナイポとルビ)であったようである。
 
 古地図で確認しておきます。
明治29年地形図 フシコサッポロ ナイポ
 明治29年地形図に、関連する川を異なる青色三色でなぞりました。濃い青がフシコサッポロの本流です。これに二本の分流、支流が合流しています。青と水色でなぞった川です。
 山田先生は当初、水色(前掲地図でもっとも右方を流れる川)をナイポと想像しました。ここは後に国鉄の工場ができたところです。しかし、先生は前述引用のとおり「苗穂小学校の上で二股になっている左股」が「ナイポの痕跡だったとの疑も残る」としています。これに当たるのは、青でなぞった川です。この川は、フシコサッポロから東8丁目通りのあたりで分流し、現在のサッポロビール園の南側を流れて、再びフシコサッポロに合流します。先生はこれがナイポだった線も「疑」として残しているのです。その場合、水色の川はポンナイポとしています。ポン(小さい)ナイ(川)ポ(小さい)。

 私が昨日のブログで載せた旧河道跡を前掲地図で示すと、赤いの先になります。すなわち山田先生がナイポの「疑」を残した青でなぞった川です。とすると、昨日の番組でこの場所をナイポに引きつけたのは、あながち間違いとも言い切れません。現時点で肝要なのは断定的な物言いをしないことだと思いますが、テレビというのは回りくどさが嫌われます。悩ましいですね。

 ところで、では昨日ブログで載せた高低差の場所が、たしかに河道跡だったかどうか。これも検証しておきましょう。

2018/11/19

uhb「みんなのテレビ」補遺、北5条東9丁目の高低差

 半日かけた収録をディレクターさんがうまくまとめてくれたのですが、一点補足させていただきます。
 番組の初めのほうで私は、苗穂がアイヌ語の「ナイ・ポ」に由来し、その語意は「小さい(ポ)・川(ナイ)」と述べました。

 その後、番組の終わりがけでナイポの痕跡を訪ねました。 
北5条東9丁目 北望
 東区北5条東9丁目、JR函館線とサッポロビール園の間に挟まれた小さな住宅地です。

 住宅地の北端は、大型商業施設との境目をなしています。 
北5条東9丁目 アリオとの境目
 商業施設はもともとビール工場でした。
 
 住宅地と元ビール工場の境目には、高低差があります。
北5条東9丁目 アリオとの境目 高低差
 奥(北側)の元ビール工場側が高い。地理院地図で確かめると、元ビール工場側が標高約15mに対し、手前(南側)の住宅地側は約14mで、その差、約1mです。現地での印象では、もう少し高低差があるように見受けられます。

 この場面で私は、高低差は川が谷を削った痕だと説明し、初めに述べた「ナイ・ポ(小さい川)」に言及しました。ナイポ(川)→水に恵まれた地→工場→駅→倉庫(物流の拠点)→人・モノのにぎわい、という歴史の文字どおりミナモトを物語る痕跡です。これは大筋で間違っていないと思いますが、前掲の画像に示した旧河道跡がイコール「ナイポ」かというと、厳密には違います。ここはかつての大河フシコ・サッポロとみるべきです(「ポロ」は「大きい」の意)。ナイポはフシコ・サッポロに合流した小河川とみられます(2014.12.23ブログ参照)。

2018.11.20ブログに関連事項補記 

2018/09/13

地下鉄東豊線駅のモザイク画

 心が液状化してきたので、地震のことは一回お休みします。

 札幌市営地下鉄東豊線「栄町」駅の構内です。
地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画①
 地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画②
 モザイク画とおぼしきタイルが貼られています。
 
 こちらは同じく「豊水すすきの」駅の構内です。
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画①
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画②

 私はタイルによるモザイク画だと思ったのですが、それぞれ何をあしらっているのでしょうか? どちらも開業当時から設えられたようです。

 前者の栄町駅のほうは、これだというものを私は思い浮かばず、駅員さんに尋ねてみました。すると「○○○と聞いてはいるのですが…」と答えが返ってきて、「ははん、なるほど」と思いました。何だと思います? (答えは必ずしも3文字ではありません)。
 後者も、豊水すすきの駅の駅員さんに訊いたのですが、こちらは「さあ…判らないですねえ」と。私が何となく想像したのは…。その前に、皆さんの答えを知りたいです。

2018.9.13追記しました。「続きを読む」をクリックしてください。

続きを読む ≫

2018/07/22

東区北34条・Sさん宅「記念碑」

 道路沿いから目に入り、かねて気になっていた碑です。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」
 家人Sさんの承諾を得て、敷地の中で写真に撮らせていただきました。

 オベリスク風黒御影石の本体に同じく黒御影石の台座、その下に花崗岩(白御影石)のドーム、さらにその下に円柱と、4層にわたっています。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」 入植七十年
 最下層の円柱部分は札幌軟石だろうか。小叩き仕上げされた表面に銘鈑が嵌められています。
 銘鈑には「開拓の重責果せし この牛馬 強くやさしき たまをとどむ 昭和四十四年五月の建 コト」と。ドームの上の黒御影の台座には、「記念碑」「入植七十年」とSさんの苗字が刻まれています。

 この記念碑の隣には牛と馬の像もあります。
東区北34条 Sさん宅 牛馬像
 この台座にも銘鈑が嵌められていて、「昭和四十三年の建」です。牛馬像建立に至る由来が刻まれています。
 それによると、この地には札幌農学校の「第三農場」があり、Sさん初代は1897(明治30)年に小作人として入植、七十年余を経て「農事を中止するのやむなきに至りし故」とのことです。やはり「開墾の主役をつとめた牛馬の労苦を察しここにたまをとどむる」と。思い入れが偲ばれます。Sさんによると、1965(昭和40)年頃まで酪農を営んでいて、札幌軟石のサイロがあったそうです。

 Sさん宅の牛馬像と記念碑が建てられた1968(昭和43)、1969(昭和44)年というのは「北海道百年」と重なります。1967(昭和42)年に百年記念塔が公募設計競技により選ばれ(6月30日ブログ参照)、1968年には「北海道百年記念式典」が円山競技場で開催されました。Sさんのオベリスクからも、時代の空気が伝わってきます。

 牛馬像は「富山県高岡市 古城製作所謹製」とあります。高岡は銅器の産地です。二宮金次郎像も多く作られています(2016.4.21ブログ参照)。像の傍らに置かれているのは石臼ですかね。

2018/06/25

寺院に遺る苗穂工場の名残

 JR苗穂駅の跨線橋から苗穂工場を眺めました。
JR苗穂駅跨線橋から苗穂工場 20180624
 このアングルも、11月までです。

 工場に隣接する苗穂運転所です。
JR苗穂運転所 
 通りをはさんで、手前側にお東さんの寺があります。 

 お寺の一隅に古碑が建っていることを最近知りました。
苗穂町 大導寺 古碑
 木立の中に佇んでいます。

 碑の正面には何と刻まれているか。
苗穂町 大導寺 古碑 正面
 「札鐵苗工製」までは読めますが、その下は表面が削られていて判読できません。一番下は「碑」です。

 「道管理局場」でしょうか。
 古碑を知ったきっかけは、苗穂駅周辺まちづくり協議会発行の「苗穂マップ」に「JR殉職者慰霊碑」と書かれていたことです。JRの慰霊碑が近所とはいえお寺の境内に建っているのが、少々意外でした。

 現物を見たところ、JRになってからのモノではありません。お寺の庫裡をピンポンしてお尋ねすると、「お寺ができてからもう95年になりますが、石碑が建てられたのはたぶん昭和になってからかと思います」とのこと。
 国鉄時代は毎年8月に職員の方が来てお斎が営まれていたそうです。「法要は最近もされているんですか?」の問いに、「いえ、JRになってからは来られてませんね」と。戦前はともかく、国有鉄道より民間会社のJRのほうが政教分離の縛りもなかろうにと思うのですが、一区切りつけたのでしょうか(末注)。

 碑の側面、背面、台座に至るまでびっしり人名が彫られています。
苗穂町 大導寺 札鉄苗工碑 側面、背面
 お寺の方の話では殉職者の名前というのですが、人名の上に「世話人」とか「発起人」とあるので、建立時に在職していた人の名前かもしれません。

 ところで政教分離といえば、前に砂川市の住民が市を相手取って裁判を起こしました。市有地に神社が建っていることを憲法違反として訴えたものです。この訴訟を報じたニュースをテレビで見ていたとき、愚妻が「なんでそんなことにイチャモンつけるんだろうね」と疑問を呈しました。私は「国家神道が日本の戦争の思想的支柱になったことを反省して、政教分離は厳格に守られなければならんのだよ」と、いわば教科書どおりに諭したのですが。

 先日、北海道文化財保護協会主催の講演会で、講師の歴史家が砂川の違憲訴訟を取り上げ、「短絡的だ」と批判していました。講師が挙げた理由は、私が理解したところではつぎのとおりです。
 ・本件神社は、開拓者の心の拠りどころとなった産土(うぶすな)の神である。
 ・もともと神社が先にありきで、市有地になったのは氏子がのちに土地を市に寄付したからである。
 講師は激しく(違憲訴訟を起こした原告を)批判していました。その口吻たるや私の妻以上で、批判というよりは非難に近かった。日本史の大家に向かってエラそうに言わせてもらうならば、その言い分も判らなくはないのですが、あまり強く糾されると、私は逆に「でもなあ…」とも思ってしまいます。「短絡的」と断じることもまた、短絡的ではないかと。

 注:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年によると、この地にお寺の前身の説教所ができたのは1916(大正5)年、「国鉄苗穂工場殉職、病没者の石碑」は1920(大正9)年建立とのこと(p.268)。同書刊行時点では「国鉄苗穂工場新生会追弔会」が執り行われていたらしい。

2018/06/18

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ⑤

 6月11ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として引かれたと思われます。両者の距離は915m(503間)。一つ考えられる根拠として‘71間基数説’を示しました。碁盤目街区60間+道路11間の、ほぼ7つ分に当たります。実際、現在は東1丁目から7丁目まで、碁盤目状に街区が形成されています。 
 しかし自分で示しておいて言うのも何ですが、私は‘71間基数説’説には懐疑的です。明治の早い時期からこのあたりに札幌の中心部と同じような碁盤目を想定していたとは考えづらい。明治期はおそらく、農耕地としての開墾を計画していたと思うのです。古い空中写真や地形図をたどると、このあたり(北12条以北の東1~7丁目)に碁盤目街区が仕切られていったのは戦後です。

 では、あらためて、東1丁目通り(市道幌北線)を基線とする現況915m(503間)は、何か?
 たびたび載せている古地図をまた見てみます。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 東8丁目通り
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。
 1882(明治15)年の作成とみられるこの古地図に、東1丁目通りや東8丁目通りの原形とおぼしき道が「見込線」として描かれています(以下、煩雑を避けるため「原形とおぼしき道」は省略する)。黄色の矢印の先が前者、赤い矢印の先が後者です。

 全体を俯瞰すると、碁盤目は碁盤目ですがかなり広い間隔で引かれています。この地図の縮尺は「6厘:10間」すなわち「1:10,000(1㎝:100m)」です。東1丁目と東8丁目の間隔を測ると、8.65㎝。縮尺に照らすと865mです。間に換算すると476間。現況の両者の距離915mに比べると50m(約27間)ほど短い。
 現況との違いは気になるのですが、ともかくも500間近い間隔でほぼ正方形に区画されています。その正方形の一部に、黄色のベタで塗られています。画像では読み取れませんが、矩形に地割されて、それぞれに人名が記されています。これは1882(明治15)年時点で土地の払下げを受けたかまたはその予定の人の名前です(本年2月28日ブログ参照)。
 私は、この500間(またはそれに近い)四方の区画は、いわゆる「殖民区画」の萌芽ではなかったかと推測します。

 「殖民区画」とは何か。
 開拓使時代から三県時代にかけての移民は、開拓使の募集移民や士族の集団移住、屯田兵の移住が代表的だったが、道庁時代の開拓農村は、殖民区画制度の下で一般の農民移住によるものが主流だった。すなわち道庁設置と共に間接保護政策の下で国有未開地の払い下げ処分が活発に行われ、農業開拓の担い手となる北海道移民が増加したことに対応して、殖民地の選定作業が広く行われるようになった。殖民地とは、道庁があらかじめ調査した開墾予定地のことである、一八八六年から全道の大原野を中心に実施され、九六年までに百十一万七千七百五十一町歩を調査した。(『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』2006年、p.163)。

 殖民地の区画割りは、おおむね次のような手順で行われた。先ず基線を設け、これと直角に交わる基号線を引く。これに並行して三百間ごとに碁盤目状に区画道路を引き、この直角に交わる道路で区切られた三百間四方の一区画(中画、地積九万坪)を間口百間・奥行き百五十間の小画(地積一万五千坪、五町歩)六個に分割した。この小画が前述した開拓農家一戸分の経営面積となり、中画を九倍したものを大画(九百間四方、地積八十一万坪)と称したのである。(同書p.165)。

 前掲古地図は、開拓使時代の末期、1881(明治14)年頃の札幌の近郊の土地区画、払下げの状況を伝えたものです。三県時代を経て北海道庁が設置されたのは1886(明治19)年、「北海道土地払下規則」が公布され、殖民地選定事業が始まりました(末注)。
 本件約500間四方の区画は、道庁時代の殖民区画に先立つ開拓使時代の模索を示しているのではないでしょうか。

 注:北海道編『新北海道史年表』1989年、pp.260-264

2018/06/15

父母の血しおを今に 百年の塔は東に

 北海道百年記念塔を校歌に歌う学校が、さらにありました。
 札幌市立東光小学校。所在地は札幌市東区本町2条1丁目です。 東光小学校の学校だより「こぶし」2018年2月28日号に、教頭先生が「校歌に思う」という一文を寄せています。電網上で検索していてこれを知ったとき、みずからのウカツを恥じました。

 前に東区東雁来町にある高校のことを拙ブログで記したとき、次のようなコメントをいただいていました(2017年5月1日ブログ参照)。
 東豊高校は、昭和の後期あたりは厚別の野幌記念塔や大麻あたりからハッキリと視認出来て、あれは何なんだろうといつも思ってしました。おそらく向こうからも色々な物がハッキリと見えていたことでしょう。

 このことがアタマにあって、東区の小中学校も豊平川左岸に近いところを調べはしたのですが、まさか本町の学校で歌われていたとは。私の予想を超えていました。これで校歌は計18校(小学校11、中学校6、高校1)となりました。校章は計9校(小学校5、中学校3、高校1)で変わりません。

 さて、その東光小学校です。
東光小学校 外観
 校歌の2番に、♪父母の血しおを今に 百年の塔は東に…♪とあります。

 校舎から東方、記念塔の方角を眺めました。
東光小学校から東を望む
 もちろん、というべきか塔を望むことはできません。

 現在図で位置関係を確認します。
現在図 東光小学校-百年記念塔
 赤いが東光小学校、黄色の六角形が記念塔です。直線距離にして、9.8㎞。

 断面図を見ます。
断面図 東光小学校-百年記念塔
 標高は小学校が13.2m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。

 色別標高図を作って、あることに気づきました。
色別標高図 東光小学校-百年記念塔
 色分けは8m以下から1mごとの11段階です(地理院サイトから作成、白ヌキの○が小学校、六角形が記念塔)。

 小学校と記念塔との間がずっと低地なのは断面図でも判るのですが、学校のところが小高くなっているのですね。フシコサッポロ川の自然堤防による微高地です。戸建の民家程度の人工物が途中にあっても、条件的には恵まれていたといえましょう。校舎の上階からだったら今でも記念塔を望めるかもしれません。それにしても、10㎞近く離れた彼方です。あらためて畏るべし、百年記念塔。
 

2018/06/11

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ④

 6月9日ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として915m(503間)の距離で引かれています(各道路中心線で計測)。町(チョウ=60間)に換算しても、整数になりません。これは何に由って来たるのか?

 可能性として排除できない説を、一応考えたいと思います。
 そのまえに、東8丁目通りを俯瞰してみましょう。 
現在図 東8丁目通り クランク2箇所
 本件北12条のクランク(黄色の○の箇所)とは別に、北1~2条にもクランクがあります(橙色の○の箇所)。
 
 後者のクランクがなぜできたかは、昨年考察しました(2017.7.21、23、24、28、30、31ブログ)。原因はひとことでいうと、創成川からの起算の違いです。このクランクの南側は71間を基数にして71×6街区=426間で設けられ、北側は8町(=480間)という距離で線が引かれた(2017.7.31ブログ参照)。
 71間とは60+11間です。明治の初期、札幌本府の碁盤目状街区は、基本的に街区60間+道路11間路で区割りされました(2017.7.24ブログ参照)。

 では、その‘71間基数説’を503間に当てはめるとどうなるか。503/71≒7.08。ほぼ街区7つ分です。東1丁目通りまたは東8丁目通りを幹線道路として広幅員にすると、どうか。たとえば道路を1本だけ17間にすると、503間に合致します(末注)。(60+11)×6+(60+17)=503。
 つまり、碁盤目の7街区に区割りすることを想定して、東8丁目通りの線を引いた。この説を採ると、東8丁目通りの北12条以北は、先祖帰りしたともいえます。

 注:札幌本府でも、開拓使本庁舎周辺は15間とか20間で設定されている。『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.52

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック