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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/10/16

東区はフシコサッポロのたまもの

 10月9日ブログに載せた色別標高図(標高12m未満から1mごと7色段彩)を再掲します。
標高図×1948年空中写真 東区ナナメ通り
 1948(昭和23)年空中写真との重ね合せです。ナナメ通りを白ヌキ実線でなぞりました。赤いで囲ったのは古刹大覚寺、黄色のは札幌村役場(現在の札幌村郷土記念館)の位置です。
 
 通りをはさんで南東側に伏籠川=フシコサッポロ川が流れています。北西側の大友堀とおぼしき跡も察せられるでしょうか。ナナメ通りが伏籠川の自然堤防帯に通じていることも窺えます。もっとも、大覚寺のところから北東は道に沿って堀割が鑿たれたので、掘り出した土を通りに盛った可能性もあります。

 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(2018.3.26ブログほか参照)からナナメ通りのあたりをトリミングしました。
明治15年札幌郡丘珠村札幌村全図 街道、大友堀周辺 
 赤いが大覚寺、黄色のが札幌村役場のそれぞれがのちにできる場所です。
 堀割は黄色の裏あたりで伏籠川に注ぎました。前掲標高図に戻ると、ナナメ通り=元村街道がその北側で通じているのも川沿いの微高地です。これはやはり、往時の自然地形と想われます。

 伏籠川が豊平川=かつての札幌川本流だったのは、おおむね2,000年前から19世紀初頭にかけてとされます(末注)。つまり、その年月を経て自然堤防が形成されたということです。上流から運ばれた土砂が肥沃な土壌を培い、全国有数のタマネギの主産地となりました。
 自然堤防が堆積したということは、何度も大洪水にみまわれたということだと想います。現在の標高図に遺る蛇行の地形は、氾濫の痕跡でもあるようです。
 いきなり時空が飛躍しますが、国内最長の川である信濃川は、長野県内では千曲川と呼ばれます。私は、千曲とは信州の地名の「筑摩」に由って来たるのかと思いましたが、これは川の姿を伝えているのかもしれません。

 注:在田一則「母なる川 豊平川」『豊平川と私たち-その生い立ちと自然-』北大総合博物館ほか2011年、pp.13-19参照
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2019/10/15

東区米国説(承前)

 昨日ブログにコメントをお寄せいただき、ありがとうございます。あらためて札幌市東区の亜米利加に想いをいたしました。

 札幌村郷土記念館に飾られている絵です。
札幌村郷土記念館 複製画 二宮金次郎とリンーカーン
 敬愛する若き日の二宮尊徳がくリンカーン青年とツーショットで納まり、後景には自由の女神像が配されています。戦後、GHQ北海道民生部の米軍将校が日本人画家に描かせた絵の複製です。1951(昭和26)年、道内の小中学校に複製が配られたといいます(末注)。学校に遺っている例はいまのところ確認されていないようなので、これにお目にかかれるのは稀少です。

 記念館があるのは、東区のかつての中心地だったところです。やはり、ここは米国だ。
 ところで、金次郎とリンカーンは、一緒に何を読んでいるのだろう?

 注:武井時紀『おもしろいマチ-札幌』1995年、pp.193-194、藤倉徹夫『金次郎はどこへいった-道内の像と昭和をめぐる旅-』2006年、pp.159-163、北海道報徳社『まことの二宮尊徳はこうだ 知ってるつもり?が知らぬ金次郎』北海道報徳情報別冊14号報徳生活読本報徳人物編993年、pp.16-17

2019/10/14

東区米国説

 札幌市東区はアメリカだという説がだいぶ前、説かれました。
 いつ、だれが最初に唱えたか、私の記憶はさだかでないのですが、30年くらい前、いやもっと前だったか、『朝日新聞』の記事(たぶん道内版)で読んだ覚えがあります。どなたか出どころをご存じですか?
地理院地図 札幌市東区 区域
 創成川を境とする西端が西海岸、豊平川が東海岸からメキシコ湾、モエレ沼が五大湖。

 グーグルマップでほんまもんの米国と較べてみましょう。

https://www.google.com/maps/@40.8697912,-92.1022184,5z?hl=ja
 豊平川右岸の出っぱりがフロリダ半島に見えてきた。フシコサッポロ川は大河ミシシッピか。西方の条丁目域は、中西部から山岳地帯各州域の矩形を彷彿させます。丘珠の辺は、中西部の穀倉地帯。この説が世に出たときにはまだなかったが、モエレ沼公園はニューヨークのイサム・ノグチにちがいない。いや、モエレ沼は五大湖だから、シカゴか。シカゴにイサム・ノグチはあったか?パブリックアートのお膝元なので、きっとあるでしょう。

 米国説の根拠は、豊平川沿いの娯楽施設に立っていた「自由の女神」像で極めつけられました。そういえばあったなあ。しかし、はっきりした場所が思い出せません。あれは東区だったかしら。
 東区の東部は明治時代、開拓使の御雇外国人が米国東部原産のタマネギを普及させ、かつては全国有数のタマネギ主産地を誇りました(末注)。そのDNAは今も息づいています。亜米利加といえるかもしれない。

 注:札幌市東区役所『札幌黄物語~幻の玉ねぎの今を伝える~』2013年、pp.1-2

2019/10/13

地下鉄新道東駅の壁絵に見る東区中華思想

 地下鉄東豊線「新道東」駅ホーム階段の壁絵(昨日ブログ参照)に勝手ながら謎をかけて、解いてみました。これは「札幌」発祥の地たる東区と、「周辺」の町や村を描いている、と。東区の前身ともなぞらえられる「札幌村」の時代です。
 
 札幌村と近隣市町村を、当時の境界と一致するように当てはめました。札幌市及びのちに同市に編入、合併される町村です(末注)。
東豊線新道東駅、ホーム階段の壁絵の謎解き
 かくしてこの壁絵は、「東区から見た歴史的札幌」となりました。

 この絵図を見て、疑問を抱く方もいらっしゃるでしょう。実際の地理上の位置関係と異なるのではないか、と。おおまかには左上を北に見立てた模式図として受け止めていただいたらどうでしょう。「それにしても」と、思われるかもしれません。「豊平町の位置がおかしくないか?」と。
 豊平町の町域はほぼ、現在の豊平区、清田区、南区に及んでいました。現在の札幌市南区の最北端はすなわち旧豊平町の最北端で、その緯度は旧手稲町の真ん中あたりになります。併せて、かつての豊平町は手稲町、琴似町と町界を分かっていました。そうすると、前掲絵図に示した位置関係はウソではないのです。小樽市との山境まで豊平町だったという印象が薄れつつある中、この絵図であえて位置づけます。付け加えると、現在の北区麻生町などが旧琴似町に属していて、札幌村と接していました。

 注:1941(昭和16)年に円山町が札幌市に編入され、1942(昭和17)年に琴似村が琴似町となった後の7市町村(札幌村、篠路村、白石村、豊平町、琴似町、手稲町、札幌市)。1950(昭和25)年に白石村が札幌市に編入されたのを皮切りに、各町村は札幌市と合併した。なお手稲町が町制施行されたのは1951(昭和26)年であり、白石村存在時はまだ手稲村である。白石村と手稲町は同時には存在していない。『さっぽろ文庫・別冊 さっぽろ歴史地図〈明治編〉』1978年、p.5参照

2019/10/12

さらに、東豊線駅の壁画を鑑みる。

 昨日ブログで、東豊線「東区役所前」駅の壁画「拓」について「銘文がまた私にとっては突っ込みどころがあり、嬉しくなるのです」と括りました。どこが「突っ込みどころ」か、明日13日の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編(2回目)とも関わりますので、仔細は後日にあらためます。

 東区内の東豊線駅のアートは、奥深い。
 「新道東」駅のホームに降りる階段です。
地下鉄東豊線 新道東駅 ホームへの階段の壁画
 正面にあしらわれた青い模様は、六華を象っているのでしょうか。

 札幌市東区のシンボルマークを思い出しました。
札幌市東区のシンボルマーク
 7区でスタートした政令市移行当時に作られたものです。雪の結晶で、「東」を中心に他の6区を表しています。
 東区の歴史を象徴するマークですが、最新の同区役所発行の「東区ガイド」(2019年2月第2刷発行)には載ってません。マスコットキャラクターの「タッピー」に取って替わられています。行政区がその後増えて、現在10区になっているのが響いているのでしょうか。

 それはともかく、前掲新道東駅の青い六華様をあらためて見ると、7つ描かれています。
地下鉄東豊線 新道東駅 ホームへの階段の壁画 六華 拡大
 これはやはり、札幌市の7区を表しているのではなかろうか。この駅ができた1988(昭和63)年当時(10月10日ブログ参照)はまだ、7区でした。
 
 では、どの六華がどの区なのだろうか? 六角形の辺の接続が区の境界と考えて、いろいろ当てはめてみました。うまくいきません。
 これがもし、7つの六角形が次のようなつながりで描かれると、7区当時の位置関係と合います。
札幌7区を六華様で象る
 しかし、本件は「札幌」の発祥たる東区に在ります。中央区を中心にするわけにはいきません。前掲の東区シンボルマークが示すとおりです。

 「もしかしたら」と思い直しました。本件の7つは、東区の前身ともいえる「札幌村」当時の町や村をつなげているのではないだろうか。
 札幌村、篠路村、白石村、豊平町、琴似町、手稲町、札幌市、の7市町村です。これで、試みてみました。すると、奇跡的に?うまくはまったのです。おヒマな方は、どうぞ挑んでみてください。

2019/10/11

地下鉄東豊線駅の壁画を引き続き愛でる

 昨日ブログへのコメントをありがとうございます。豊平川の環状通またはそれに近い橋ということにインスパイアされました。
地下鉄東豊線 環状通東駅 モザイク画 再掲
 本件モザイク画が何を描いているか、私が達した妄想的結論は「未来形」です。
 何の未来形か? 環状通東駅から環状通を通す地下鉄新線「環状通線」の橋です。豊平川は地下を掘らずに、橋で跨ぐ。橋桁のギザギザは、シェルターの接続部分。水道管にヒントをいただきました。
 この駅ができたとき、かような新線の構想などはなかったと思います。が、原画の作者かもしくは原画を依頼した担当者が「いけいけどんどん」の願望を隠し絵にした。妄想もここまでいくと我ながら呆れます。私に妄想を助長させたお二方に重ねて感謝申し上げます。

 余談ながらたまたま本日、札幌市東区役所発行の「東区ガイド」の最新版(2019年2月第2刷発行)を貰ったので見たところ、その地図には「豊平川第二水管橋」が描かれてません。
東区ガイド2019年 地図 豊平川
 危機管理上ということなのでしょう。
 昭文社発行の『でっか字まっぷ 札幌 小樽』2016年も描かれていないし、電網界でもヤフーの地図やグーグルマップはしかり。存在そのものが消されています。民間ならではの自主規制でしょうか。いや、それが悪いというのではありません。
 一方、「お上」の地理院地図ではどうか。橋名は記されていないし、橋の地図記号ではないのですが、橋そのものらしきカタチは描かれています。これは、「意外にも」というよりは「さすがに」というべきでしょう。こんなところにも「歴史の反転形」が見られます。前身たる大日本帝国陸軍陸地測量部時代の反転形です。などと、これまた穿ってしまいました。

 ところで、こちらは同じく地下鉄東豊線の「東区役所前」駅の壁画です。
東豊線 東区役所前駅 構内壁画
 本件は傍らに「拓」と題された碑銘がちゃんと刻まれています。
東豊線 東区役所前駅 構内壁画 碑銘
 言い訳めくのが自分でも嫌なのですが、前掲環状通東駅ほかの無銘物件が「ちゃんと」していない、というわけではありませんので、念のため。無銘は無銘で、これまで拙ブログで綴ったように想いを妄りに膨らませることができて、私には好都合です。具象やら抽象やら、はたまた制作意図が明文化されているものやら、駅によって文字どおり色とりどりで楽しめます。

 本件の場合、銘文がまた私にとっては突っ込みどころがあり、嬉しくなるのです。

2019/10/10

地下鉄東豊線の駅 構内の壁画は何を伝えているか?

 明日に迫った札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編、参加者への配布資料が出来上がりました。スタッフSさんのご尽力により、充実した内容です。諸先達の足跡の上に、これまで活字になっていないような情報も盛り込めました。自画自賛めきますが、「遠足」の資料を集積したら、正史からこぼれた札幌を顧みられるのではないかとすら、思えます。と、行事の前から感慨にふけっている場合ではありません。
 拙ブログでは、その遠足資料からもこぼれるようなモノ・コトを閲し、綴ります。遠足の下調べなどで東区に足を運び、地下鉄東豊線の駅構内の壁画をしばしば鑑みさせてもらいました。先行して開業した「豊水すすきの」以北の駅で目に留まります(2018.9.13ブログ参照)。私の印象に残っていないだけかもしれませんが、あとからできた「学園前」以南の駅にはありましたっけ? この壁画が、もしかしたら札幌市営交通の“盛衰”をモノ語っている。というのは勘ぐり過ぎでしょうか。

 「環状通東」駅のレリーフ、というかモザイク画です。
地下鉄東豊線 環状通東駅のレリーフ
 これは、実際の風景をモチーフにしているのでしょうか? だとすれば、どこだろう。

 このフォルムで私が思い出せるのは、下掲の橋です。
環状夢の橋
 その名も「環状虹の橋」。環状通東駅から環状通を時計回りに進むと辿り着けるから。まさかねえ。
 東豊線の「栄町-豊水すすきの」間が開通したのは1988(昭和63)年12月(末注)、「環状夢の橋」が架かったのは1989(平成元)年12月です(2016.3.23ブログ参照)。曲線の方程式が、どうみても違う。背景のポプラらしい樹は?

 ほかに思いつくのは…。厚別川に架かる「虹の橋」? 豊平川の幌平橋? 
 それにしてもなぜ、この駅にこの絵柄なのだろう。

 注:『さっぽろの市営交通2018』p.2「市営交通の沿革」

2019/10/09

オノダチ

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編で訪ねる一つに、「札幌村郷土記念館」があります。

 先日下見をしたとき、同館の敷地の一角に新たな碑が立っているのを確認しました。
札幌村郷土記念館 明治天皇行幸記念碑
 黄色の矢印を付けた先です。明治天皇行幸記念碑。7月にうかがったとき、館長さんから建碑のことはお聞きしていました。

 背面に由来文が刻まれています。
札幌村郷土記念館 明治天皇行幸記念碑 背面
 「明治十四年八月三十一日 明治天皇は大友堀を中心に開墾された農業の実情を御視察になられました 令和元年十月 札幌村郷土記念館保存会 建立」

 同館ほか編『東区今昔3 東区拓殖史』1983年に、明治天皇の行幸について次のように記されています(p.151、太字)。
 現在札幌村郷土記念館裏の橋詰(伏籠橋)左岸にあった小高い丘の麓で乗馬よりおりられ、丘に登って四方を展望、農業の状況を親しく御覧の上元村を経て行在所に御帰還なされた。

 これは、「御野立」ですね。大正生まれの母がいなかったら、私はこういうコトバは知らなかったでしょう。パソコンで「おのだち」と入力しても出てきません。死語と化しているようです。
 前述書には、記念館の裏手に「小高い丘」があった旨記されています。どこでしょうか。
 色別標高図で見てみましょう。
標高図×1948年空中写真 元村
 1948(昭和23)年空中写真に、標高12m未満から1mごと7色段彩で重ねました。白ヌキ矢印を付けた先が現在記念館がある場所です。

 そのあたりを拡大します。
色別標高図×1948年空中写真 札幌村郷土記念館あたり
 白ヌキ○が記念館の位置です。

 現在図と重ねます。
色別標高図×現在図 札幌村郷土記念館あたり
 標高図は現在の状況ですので、明治時代からは地形が改変されている可能性がもちろんあります。
 「大人の遠足」のネタバレになりますので、穿鑿はひとまず措きましょう。

2019/10/06

ナナメ通りの旧家 Tさん宅の蔵

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019年秋の編をこんどの金曜と日曜に控えています。「控えています」と記しながら、配布資料の原稿(の私の受け持ち分)をスタッフSさんにまだ送っていない。今日中に送りますとSさんにメールしたにもかかわらず、です。ブログの更新なんかしている場合でもないのに、です。嗚呼。
 
 しかも例によって、この期に及んでまだ現地に足を運んでいます。
 今回訪ね歩く東区ナナメ通りに遺るTさん宅の蔵です。
東区 ナナメ通り Tさん宅蔵
 Tさん宅は、幕末に大友亀太郎がこの地に拓いた御手作場以来の旧家です。亀太郎が越後で移民を募った際、初代が応じ入植しました。名主を務めたそうです(末注)。

 かねて私はTさん宅の蔵が気になっていました。いわゆる土蔵造と見受けられます。このたびTさんのお許しを得て、建物の近づき鑑みさせていただきました。基礎は軟石ですが、塗り壁の本体は…。遠足当日のネタバレになってしまいますので、伏せます。

 Tさん宅のお庭です。
東区ナナメ通 Tさん宅 庭
 初代から数えると5代目に当たるというTさんに、「もしかして、お庭には池がありませんでしたか?」とお尋ねしました。これはもう直感、というより直観です。Tさんの答えは…。これも遠足参加者のお楽しみにとっておきましょう。 

2019/07/05

ぶどうの木

 東区ナナメ通りから横に入る道です。
東区ナナメ通り ぶどうの木
 アパート?の名前が、前から少し気になっていました。

 「ぶどうの木」。
ぶどうの木
 もしかしたらという予感はあったのですが、つい先日、持ち主の方にお目にかかることができて納得しました。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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