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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/02/14

石狩の都の外のTさん宅 軟石のムロ 

 来週2月19日からの「札幌軟石と北の石文化」展(2月9日ブログ参照)が迫ってます。私はいまもって、軟石建物の情報整理にかかずらっています。際限ないのですが、なかなかやめられません。一種のアディクションですかね。

 東区のナナメ通りに面するTさん宅のお庭です。
東区 ナナメ通り Tさん宅 ムロ
 雪に埋もれる中に、札幌軟石の物件が遺っています。

 2006年に撮影された本件です。
東区 ナナメ通り Tさん宅 ムロ 2006年
 当時はまだ、屋根が架かっていました(札幌建築鑑賞会スタッフSさん撮影)。

 私はこれまで本件を、リンゴの“ムロ”(貯蔵庫)と受け止めていました。Tさん宅といえば明治時代、知る人ぞ知るリンゴ園だったからです(末注①)。啄木が「林檎の花の散りてやあらむ」と詠んだ頃、このあたりは「札幌村」で、「石狩の都の外」でした。
 本件ムロがもしリンゴ用だったとすると建築年代は明治期という可能性があります。このあたりでリンゴが作られていたのは明治から大正期です(末注②)。しかし直接確かめていませんでしたので、思い切ってTさんに問い合わせました。

 Tさんのお話からすると、本件が建てられたのは1950年代とみられます。Tさんもムロと呼んでいました。ムロは真ん中で間仕切りされていて、半分はキャベツやハクサイ、ダイコン、ニンジンなどの自家用野菜、半分は漬物の越冬保存用だったそうです。なお、リンゴは1930(昭和5)年、Tさんの曽祖父(初代)が亡くなったときにやめました。ムロを使わなくなったのは1970年代、「近所にスーパーができて、冬でも野菜を買えるようになり、保存する必要がなくなった」頃です。
 自家用野菜の貯蔵と前述しましたが、セロリも作っていました。これはグランドホテルに卸していたとのこと。1950-60年代というと、セロリはまだ珍しいほうではなかったでしょうか。明治の早い時期にリンゴの作付に成功したTさん宅の進取の気風が受け継がれていたように思いました。
 
 軟石建物の築年別内訳は「昭和戦後期」がまた1棟、増えました。2月10日ブログから更新されて以下のとおりです(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:52棟(12.6%)
  昭和戦後期:103棟(24.9%)
  昭和後期-平成期:49棟(11.9%)
  不詳:163棟(39.5%)

 注①:札幌市東区役所『東区今昔』1979年、pp.141-145
 注②:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、pp.144-145
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2019/02/10

伏古・Mさん宅の納屋

 昨日ブログの続きです。
 東区伏古のMさん宅で馬小屋が解体されたのは「昭和50-60年頃」、周辺が区画整理されて宅地化されるときだったといいます。資料に当たると、この界隈の土地区画整理事業は1970(昭和45)-1976(昭和51)年です(末注①)。空中写真を追うと、たしかに1971(昭和46)年と1976(昭和51)年で区画整理が進んでいる様子がうかがわれます。その中でMさん宅では、1976年に写っている建物が1981(昭和56)年になくなっています。どうもこれがMさんのいう馬小屋のようです。「昭和50-60年頃」というのは、まず1975(昭和50)年前後に区画整理事業、その後1980(昭和55)年頃に馬小屋の解体という時系列で理解できます。

 さて、昨日ブログの末尾に記したようにMさん宅には軟石建物が一棟、現存しています。
伏古 Mさん宅 納屋
 腰折れ屋根の納屋です。
 
 Mさん宅はタマネギのほか酪農も営んでいました(末注②)。本件は牛舎で、腰折れの小屋裏には「牧草やワラを入れていた」とのことです。妻破風の“高所ドア”トマソン(2015.5.8ブログ参照)化している引き戸が、干し草などの出し入れを物語っています。かつては煉瓦のサイロもあったそうです。
 建築年代はMさんが1958(昭和33)年に嫁ぐ前、「しゅうとの代に建てたもの」ということで、お話からすると昭和戦前、または戦後の早い時期と思われます。空中写真で見ると、1948(昭和23)年米軍撮影にそれらしき屋根が写っていますが、不鮮明で確証は得られませんでした。昭和20-30年代(昭和戦後期)としましょう。

 軟石建物の築年別内訳を、本年1月7日ブログから更新します(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:52棟(12.6%)
  昭和戦後期:102棟(24.7%)
  昭和後期-平成期:49棟(11.9%)
  不詳:164棟(39.7%)

 酪農は1985(昭和60)年頃、周辺が宅地化されて「臭いの苦情が来るようになり」、やめたそうです。
 
 注①:「札幌市土地区画整理位置図」による。
 注②:土地柄からしてタマネギが主で、酪農は副業的であったと思われる。「牛も飼っていた」というところか。

2018/12/25

遅ればせながら、JR苗穂駅新駅舎を探訪 ①

 新しきを訪ねて、古きを偲びましょう。
苗穂駅 新駅舎 北口
 
苗穂人道橋 解体中
 もともとあった人道橋は解体されつつあります。あの橋は、揺れたなあ。

苗穂駅 新駅舎 駅名板
 駅名は隷書体ぽいですね。旧駅舎は楷書体でした。

苗穂駅 新駅舎 窓に注意
 左端のはレールの断面ですが、真ん中と右端は車輪でしょうか。
 
 旧駅舎の扉には一時、手が貼られていました。
苗穂駅 旧駅舎 手
 しかし、ほどなくして剥がされたのは、何となく不気味だったからかな。

 今さら驚くことでもないのですが、全体として空間が広々としてゆったりしているなと感じます。80年以上を隔てた旧駅舎の印象が強く遺っているせいでしょうか。

 お目当ての看板の復刻版を早く見たい。

2018/11/23

苗穂駅旧駅舎プラットホームの階段に貼ってあった表示板

 この錆びた鉄板には何と書かれていたのだろうか。
苗穂駅旧駅舎プラットホームの階段に貼ってあった表示板
 かろうじて読めるのは「し・客よし」「発オーラ」です。
 
 なお、本件は5番(千歳・苫小牧方面)、6番(江別・岩見沢方面)ホームの6番側にありました。ゼンリン住宅地図2002年版によると、このホームを境にして5番側(南側)は中央区、6番側(北側)は東区なので、所在地は東区としました(末注)。ちなみに、札幌・小樽方面のホームは3、4番で、1、2番というホームはありませんでした。私は旧駅舎側にもかつてホームがあったのではないかと思いましたが、併設されていた貨物のホームや日通の引込線が1、2番だったのでしょうか(2014.12.27ブログ参照)。

注:地図によって区界線は異なって引かれているが、おおむね旧駅舎の北側は東区である。 

2018/11/22

北5条東9丁目の高低差 ④ 伏古の飛び地

 昨日ブログで、北5条東9丁目の一画に「伏古町内会」の看板が立っていたことを伝えました。
 2012年にこのことを知ったとき、同町内会のエリアを調べてみました。現在「伏古○条○丁目」」と呼ばれている地域から、かなり離れています。当時、その位置関係を示した地図を作りました。
伏古町内会のエリア
 地図上、赤く塗った箇所が二つ、あります。左下の小さいほうが伏古町内会の区域です(末注①)。右上の大きく塗ったのが、現在の町名としての「伏古○条○丁目」です。伏籠川を青い実線でなぞりました。破線は古地図に基づいて推定したその上流の旧河道です。

 ところで、昨日ブログに載せた看板は、残念ながら今は見当たりません。私はもしかして、「伏古町内会」はもはや存在していないのかと懸念しました。 
 2008年の空中写真で、伏古町内会の区域を見てみます。
空中写真 2008年 伏古町内会 フシコサッポロ
 赤い実線で囲ったところです。
 この区域の大半を大型の施設が占めています。サッポロビール園と、その跡地を再開発されてできたショッピングモール、プロ野球球団の練習場です。住宅地の面積は小さく、戸数も多くありません。定住人口が少ないことが窺われます。それで私は、伏古町内会は近隣の町内会に統合されたのかと思ったのです。

 先日、uhbの番組の収録に先立って北5条東9丁目を下見したとき、たまたまこの一画のお宅で庭仕事をしている男性がいました。前掲空中写真の黄色のの位置です。その方にうかがうと、この一帯は今も伏古町内会ということが判りました。歴史の名残を伝える町内会(11月14日ブログ参照)がここでも健在だったのです。

 私:こちらの町内会が「伏古」なのは、なんででしょうか?
 男性:昔、ここを伏古川が流れていたからさ。
 私:川はどのあたりを流れていましたか?
 男性:そこ。

 男性が「そこ」と指し示したのは、11月19日ブログに載せたコンクリートブロックの擁壁が組まれた高低差のところです。地元の方の“証言”からも、高低差が旧河道跡であることが裏付けられました。
 
 ちなみに、現在の伏古○条○丁目という町名ができたのは昭和50年代です(末注②)。そちらには「伏古○○町内会」がいくつかあります(末注①)。「伏古町内会」は前掲地図で見るように、今ではまるで飛び地のようです。しかし、この町内会名のほうが、町名としての伏古よりも古いのではないだろうか。

 注①:札幌市「町内会・自治会検索サイト」参照
 注②:『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年、p.64

2018/11/20

北5条東9丁目の高低差 ②

 昨日ブログで私は、11月19日uhbの番組で案内した旧河道跡が「イコール『ナイポ』かというと、厳密には違います」と記しました。これは、2014年12月23日ブログでも引用した山田秀三先生の記述に依っています。しかし、あらためて先生の著書を読み直してみたところ、先生は次のようにも書かれていました(山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.99、引用太字)。
 或は国鉄工場の方がポンナイポで、苗穂小学校の上で二股になっている左股がナイポの痕跡だったとの疑も残る。何れにせよ、国鉄工場や農具工場等がある、あの辺の東支流が「苗穂」の起源になったその小川(引用者注:ナイポとルビ)であったようである。
 
 古地図で確認しておきます。
明治29年地形図 フシコサッポロ ナイポ
 明治29年地形図に、関連する川を異なる青色三色でなぞりました。濃い青がフシコサッポロの本流です。これに二本の分流、支流が合流しています。青と水色でなぞった川です。
 山田先生は当初、水色(前掲地図でもっとも右方を流れる川)をナイポと想像しました。ここは後に国鉄の工場ができたところです。しかし、先生は前述引用のとおり「苗穂小学校の上で二股になっている左股」が「ナイポの痕跡だったとの疑も残る」としています。これに当たるのは、青でなぞった川です。この川は、フシコサッポロから東8丁目通りのあたりで分流し、現在のサッポロビール園の南側を流れて、再びフシコサッポロに合流します。先生はこれがナイポだった線も「疑」として残しているのです。その場合、水色の川はポンナイポとしています。ポン(小さい)ナイ(川)ポ(小さい)。

 私が昨日のブログで載せた旧河道跡を前掲地図で示すと、赤いの先になります。すなわち山田先生がナイポの「疑」を残した青でなぞった川です。とすると、昨日の番組でこの場所をナイポに引きつけたのは、あながち間違いとも言い切れません。現時点で肝要なのは断定的な物言いをしないことだと思いますが、テレビというのは回りくどさが嫌われます。悩ましいですね。

 ところで、では昨日ブログで載せた高低差の場所が、たしかに河道跡だったかどうか。これも検証しておきましょう。

2018/11/19

uhb「みんなのテレビ」補遺、北5条東9丁目の高低差

 半日かけた収録をディレクターさんがうまくまとめてくれたのですが、一点補足させていただきます。
 番組の初めのほうで私は、苗穂がアイヌ語の「ナイ・ポ」に由来し、その語意は「小さい(ポ)・川(ナイ)」と述べました。

 その後、番組の終わりがけでナイポの痕跡を訪ねました。 
北5条東9丁目 北望
 東区北5条東9丁目、JR函館線とサッポロビール園の間に挟まれた小さな住宅地です。

 住宅地の北端は、大型商業施設との境目をなしています。 
北5条東9丁目 アリオとの境目
 商業施設はもともとビール工場でした。
 
 住宅地と元ビール工場の境目には、高低差があります。
北5条東9丁目 アリオとの境目 高低差
 奥(北側)の元ビール工場側が高い。地理院地図で確かめると、元ビール工場側が標高約15mに対し、手前(南側)の住宅地側は約14mで、その差、約1mです。現地での印象では、もう少し高低差があるように見受けられます。

 この場面で私は、高低差は川が谷を削った痕だと説明し、初めに述べた「ナイ・ポ(小さい川)」に言及しました。ナイポ(川)→水に恵まれた地→工場→駅→倉庫(物流の拠点)→人・モノのにぎわい、という歴史の文字どおりミナモトを物語る痕跡です。これは大筋で間違っていないと思いますが、前掲の画像に示した旧河道跡がイコール「ナイポ」かというと、厳密には違います。ここはかつての大河フシコ・サッポロとみるべきです(「ポロ」は「大きい」の意)。ナイポはフシコ・サッポロに合流した小河川とみられます(2014.12.23ブログ参照)。

2018.11.20ブログに関連事項補記 

2018/09/13

地下鉄東豊線駅のモザイク画

 心が液状化してきたので、地震のことは一回お休みします。

 札幌市営地下鉄東豊線「栄町」駅の構内です。
地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画①
 地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画②
 モザイク画とおぼしきタイルが貼られています。
 
 こちらは同じく「豊水すすきの」駅の構内です。
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画①
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画②

 私はタイルによるモザイク画だと思ったのですが、それぞれ何をあしらっているのでしょうか? どちらも開業当時から設えられたようです。

 前者の栄町駅のほうは、これだというものを私は思い浮かばず、駅員さんに尋ねてみました。すると「○○○と聞いてはいるのですが…」と答えが返ってきて、「ははん、なるほど」と思いました。何だと思います? (答えは必ずしも3文字ではありません)。
 後者も、豊水すすきの駅の駅員さんに訊いたのですが、こちらは「さあ…判らないですねえ」と。私が何となく想像したのは…。その前に、皆さんの答えを知りたいです。

2018.9.13追記しました。「続きを読む」をクリックしてください。

続きを読む ≫

2018/07/22

東区北34条・Sさん宅「記念碑」

 道路沿いから目に入り、かねて気になっていた碑です。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」
 家人Sさんの承諾を得て、敷地の中で写真に撮らせていただきました。

 オベリスク風黒御影石の本体に同じく黒御影石の台座、その下に花崗岩(白御影石)のドーム、さらにその下に円柱と、4層にわたっています。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」 入植七十年
 最下層の円柱部分は札幌軟石だろうか。小叩き仕上げされた表面に銘鈑が嵌められています。
 銘鈑には「開拓の重責果せし この牛馬 強くやさしき たまをとどむ 昭和四十四年五月の建 コト」と。ドームの上の黒御影の台座には、「記念碑」「入植七十年」とSさんの苗字が刻まれています。

 この記念碑の隣には牛と馬の像もあります。
東区北34条 Sさん宅 牛馬像
 この台座にも銘鈑が嵌められていて、「昭和四十三年の建」です。牛馬像建立に至る由来が刻まれています。
 それによると、この地には札幌農学校の「第三農場」があり、Sさん初代は1897(明治30)年に小作人として入植、七十年余を経て「農事を中止するのやむなきに至りし故」とのことです。やはり「開墾の主役をつとめた牛馬の労苦を察しここにたまをとどむる」と。思い入れが偲ばれます。Sさんによると、1965(昭和40)年頃まで酪農を営んでいて、札幌軟石のサイロがあったそうです。

 Sさん宅の牛馬像と記念碑が建てられた1968(昭和43)、1969(昭和44)年というのは「北海道百年」と重なります。1967(昭和42)年に百年記念塔が公募設計競技により選ばれ(6月30日ブログ参照)、1968年には「北海道百年記念式典」が円山競技場で開催されました。Sさんのオベリスクからも、時代の空気が伝わってきます。

 牛馬像は「富山県高岡市 古城製作所謹製」とあります。高岡は銅器の産地です。二宮金次郎像も多く作られています(2016.4.21ブログ参照)。像の傍らに置かれているのは石臼ですかね。

2018/06/25

寺院に遺る苗穂工場の名残

 JR苗穂駅の跨線橋から苗穂工場を眺めました。
JR苗穂駅跨線橋から苗穂工場 20180624
 このアングルも、11月までです。

 工場に隣接する苗穂運転所です。
JR苗穂運転所 
 通りをはさんで、手前側にお東さんの寺があります。 

 お寺の一隅に古碑が建っていることを最近知りました。
苗穂町 大導寺 古碑
 木立の中に佇んでいます。

 碑の正面には何と刻まれているか。
苗穂町 大導寺 古碑 正面
 「札鐵苗工製」までは読めますが、その下は表面が削られていて判読できません。一番下は「碑」です。

 「道管理局場」でしょうか。
 古碑を知ったきっかけは、苗穂駅周辺まちづくり協議会発行の「苗穂マップ」に「JR殉職者慰霊碑」と書かれていたことです。JRの慰霊碑が近所とはいえお寺の境内に建っているのが、少々意外でした。

 現物を見たところ、JRになってからのモノではありません。お寺の庫裡をピンポンしてお尋ねすると、「お寺ができてからもう95年になりますが、石碑が建てられたのはたぶん昭和になってからかと思います」とのこと。
 国鉄時代は毎年8月に職員の方が来てお斎が営まれていたそうです。「法要は最近もされているんですか?」の問いに、「いえ、JRになってからは来られてませんね」と。戦前はともかく、国有鉄道より民間会社のJRのほうが政教分離の縛りもなかろうにと思うのですが、一区切りつけたのでしょうか(末注)。

 碑の側面、背面、台座に至るまでびっしり人名が彫られています。
苗穂町 大導寺 札鉄苗工碑 側面、背面
 お寺の方の話では殉職者の名前というのですが、人名の上に「世話人」とか「発起人」とあるので、建立時に在職していた人の名前かもしれません。

 ところで政教分離といえば、前に砂川市の住民が市を相手取って裁判を起こしました。市有地に神社が建っていることを憲法違反として訴えたものです。この訴訟を報じたニュースをテレビで見ていたとき、愚妻が「なんでそんなことにイチャモンつけるんだろうね」と疑問を呈しました。私は「国家神道が日本の戦争の思想的支柱になったことを反省して、政教分離は厳格に守られなければならんのだよ」と、いわば教科書どおりに諭したのですが。

 先日、北海道文化財保護協会主催の講演会で、講師の歴史家が砂川の違憲訴訟を取り上げ、「短絡的だ」と批判していました。講師が挙げた理由は、私が理解したところではつぎのとおりです。
 ・本件神社は、開拓者の心の拠りどころとなった産土(うぶすな)の神である。
 ・もともと神社が先にありきで、市有地になったのは氏子がのちに土地を市に寄付したからである。
 講師は激しく(違憲訴訟を起こした原告を)批判していました。その口吻たるや私の妻以上で、批判というよりは非難に近かった。日本史の大家に向かってエラそうに言わせてもらうならば、その言い分も判らなくはないのですが、あまり強く糾されると、私は逆に「でもなあ…」とも思ってしまいます。「短絡的」と断じることもまた、短絡的ではないかと。

 注:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年によると、この地にお寺の前身の説教所ができたのは1916(大正5)年、「国鉄苗穂工場殉職、病没者の石碑」は1920(大正9)年建立とのこと(p.268)。同書刊行時点では「国鉄苗穂工場新生会追弔会」が執り行われていたらしい。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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