札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/02

東区本町 Fさん宅 軟石倉庫

 本件軟石倉庫も札幌建築鑑賞会「札幌軟石発掘大作戦」で存在を確認したものですが、建築年や用途は未把握でした。
東区本町 Fさん宅 軟石倉庫
 軟石の表面仕上げはツルメ、軒と開口部にコンクリートを廻しています。妻壁に家紋(丸に木瓜か)。軒は蛇腹に折り、妻側はブロークンペディメント風です。軟石の厚み(1尺幅)からして、木骨ではなく本石造と思われます。
 建物の立地と雰囲気から、私は農業系の蔵と分類していました。「蔵」か「倉庫」かの識別は悩ましいのですが(末注)、平入り開口部の大きさからすると、倉庫とすべきだったかもしれません。

 このたび持ち主のFさんにお話を伺うことができました。元はタマネギ倉庫だったそうです。建築年は定かでないのですが、「タマネギを始めたのは、大正8年生まれの祖父が戦後復員してから」という話からして、昭和20-30年代と思われます。近くに北13条大橋ができるとき、位置を少し移したとのことです。建物の妻面が少し凸状に膨らんでいるのは、移築に伴う変化かもしれません。なお、Fさん宅は祖父で入植三代目で、タマネギの前は酪農を営んでいました。

 本件を当初「蔵」と識別したのは、妻壁に家紋が刻まれていることが当時の私の先入観で影響したのでしょう。
本町 Fさん宅倉庫 家紋
 東区や北区の農業系の倉庫の多くは苗字の頭文字(漢字一文字、ときにローマ字)を妻壁に刻んでいるので、家紋というところに差異を見たのです。しかし、同じ東区でも、家紋付きのタマネギ倉庫が散見されます。場所は本件に比較的近い、伏古や東苗穂です(2015.8.20ブログ
2017.5.28ブログ2017.5.31ブログ参照)。頭文字付きは主として丘珠から篠路にかけて分布していますので、地域的な微差があるようです。

 Fさんは「家紋も付いていることだし、これからもできるだけ大事にしていきたいですね」と語ってくれました。軟石ファンとして、ありがたいことです。

 軟石建物の築年別内訳は、昭和戦後期築が一棟増えました(カッコ内は母数412棟に対する比率)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:27棟(6.6%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:171棟(41.5%)

 注:2017.2.16ブログ参照。
 蔵⇒和風在来的な意匠、特徴的なプロポーション(2階建て、妻側に開口部あり、観音開きの扉、棟飾りなどの装飾)。用途上は帳簿類や什器、貴重品などの収蔵。文庫蔵、衣裳蔵、質蔵、店蔵など。
 倉庫⇒切妻平屋または腰折れ屋根、装飾的には簡素、大きめの出入り口、用途上は農作物や農機具、家畜などの保管収容。
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2017/08/31

瑞穂神社 補遺

 8月18日ブログで、苗穂の旧陸軍糧秣廠(現自衛隊苗穂分屯地)内に遺る池泉について記しました。その中で、池のほとりに祠があったことに触れたところ、読者の方からコメントをいただきました。その後判ったことを記します。なお、苗穂分屯地に展示されている祠の写真を同日のブログに載せ、キャプションを「現静心池付近にあった水穂神社の様子」と引用しましたが、「穂」ではなく「穂」が正しかったので、訂正します。

 郷土史の文献『なえぼ-庚午一の村誕生から平成まで-』1998年に、以下の記述がありました(p.235、引用太字)。
 正門(引用者注:苗穂分屯地)を入ると右手に静心池という池がある。その池の中島に小さな洞ママ(ほこら)がみえる。施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた。陸軍の糧秣廠設置当時から祭られており、昭和十二年には社(やしろ)も建立されたが、戦後施設内から出て、今は札幌村神社(東区北十六条東十四丁目)の境内にひっそりと祭られ、毎年九月四日が例祭である。なお東区苗穂町にあって、昭和三十四年宗教法人瑞穂神社と改名した旧雁来神社とは、別のものである。

 同書によると、分屯地内にあった祠は札幌村神社に遷座されたようです。そこで札幌村神社に行ってきました。
札幌村神社
 神社の境内に小さな祠が「ひっそりと祭られ」ているのを期待していたのですが…。残念ながら、それらしきものは見当たりません。
 宮司さんに伺ったところ「当社には、末社や祠のたぐいで合祀されているものは、ないですね」と。郷土史の文献に記述されていることをかくかくしかじかお伝えしたのですが、明確に否定されました。
 糧秣廠の瑞穂神社はどこへいったのか?

 実は文献に当たる前に私は、苗穂町にお住まいのYさんにお問合せしました。Yさんというのは瑞穂神社のお隣にお住まいで、軟石倉庫2棟の大家さんです(2017.6.6ブログ参照)。まぎらわしいのですが、ここでいう瑞穂神社というのは、前掲書で「別のもの」といっている旧雁来神社のことです。区別するため、分屯地にあった祠は「糧秣廠神社」と便宜的にいうこととします。
 旧雁来神社の瑞穂神社は、苗穂分屯地からもっとも近くにある神社で、しかも名前が同じであるのが私は気になっていました。ただし、同社に糧秣廠神社が合祀されたとか遷座したというような記述は文献上(といっても、『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年ぐらいしか見ていませんが)、見当たりません。それどこか前掲『なえぼ』誌では、「別のもの」と言い切っています。そうはいってもYさんは旧雁来神社の近くに古くからお住まいなので、一応ウラを取ってみることにしたのです。
 私の問いにYさん答えて曰く「自衛隊(分屯地)に池はあったと思いますが、神社があったとは聞いたことがないですねえ」と。旧雁来神社はもともと現在地の道路(国道275号)のナナメ向かいにあったのですが、昭和40年代に移されたそうです。

 こちらが旧雁来神社の瑞穂神社です。
瑞穂神社(旧雁来神社)
 念のため現地も確かめてみましたが、ここにもそれらしい小祠はないし、由来を刻んだ碑にもそのようなことは書かれていません。拝殿の左方にある社務所?の方にお尋ねしたところ、糧秣廠神社のことはやはり「聞いたことがない」と。ただ、「毎年、秋のお祭りのときに、自衛隊の方が2名ほど手伝いに来られますけどね」と。ほう。やはり分屯地にもっとも近い神社だけある。政教分離上、自衛隊の業務としてではなく、たぶん有志として参加しているのでしょう。例大祭はちょうど来週、9月5日です。覗いてみようかしらん。自衛隊の方にあらためて話を聞けるかもしれません。

 このほかに分屯地の近くで神社といえば、苗穂神社です。ここにも足を運びました。が、やはり合祀遷座の形跡は確認できませんでした。
 以上、はかばかしい収穫はありませんでしたが、「施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた」(前掲『なえぼ』)精神は、旧雁来神社のお祭りへの参加という形で引き継がれているように私は嗅ぎ取ってしまいました。どうでしょうか。

2017/08/19

苗穂 なんちゃってサイロ

 陸自苗穂分屯地から、お隣さんにある物件を眺めました。
苗穂 なんちゃってサイロ
 お隣には「雪印メグミルク酪農と乳の歴史館」があります。以前は雪印乳業史料館といってましたね。本件なんちゃってサイロ・牧舎は、札幌建築鑑賞会で2008年に「大人の社会見学」をしたときに認知しました。当時、建築年や用途をお訊きしたのですが、記憶がさだかでありません。まだ、なんちゃって物件に関する認識が浅かったのです。昭和30年代とも聞いた覚えがあるのですが、どうだったかな。史料館ができたのが1977(昭和52)年ですから、それより古いというということがあるか。工場はその前からここにあったのだから、ありうる。もう一度行って、きちんと確かめてこよう。ご存じの方がいたら、教えてください。なんちゃって牧舎の棟(てっぺん)には、換気口(タマネギ倉庫によく見られるような)が付いていて、芸が細かいというか、あるいは換気を要する何らかの目的があったのか。

2017/08/18

苗穂 旧陸軍糧秣廠 静心園

 昨日ブログに続き、苗穂の旧陸軍糧秣廠(現自衛隊苗穂分屯地)です。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏
 施設の一隅にある池泉庭園も、私の目当ての一つでした。今回はNHK文化センターの「近代建築入門」という講座の一環でしたが、本件は建築とは直接関係がありません。一連の建物の見学が終わってから見に行きました。ちょうど札幌建築鑑賞会スタッフのYさんも参加していて、池泉を鑑賞したのは私とYさんの二人のみです。

 「静心園」と名づけられたこの池泉のことは、2014年12月23日ブログで取り上げています。さらに、2015年1月24日ブログで私は「あのように水を湛えている有姿の池は稀です」と記しました。
 このたび現地で間近に見たところ、水は湛えられていません。分屯地の広報担当者のお話では、ふだんは干上がっているが、雨が降ったときなどは水がたまるとのことです。実際、私が2014年12月に見たときも水面が確認できました。今回も、地面が湿っぽく見えます。一緒に見たYさん曰く「ハスが生えているところを見ると、地下には水が通っているのでしょうね」と。

 流水跡のような微地形です。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏②
 2014年12月のブログで私は「豊平川の『メム』の一つとにらんでいます」と記しました。正確にいうと、豊平川扇状地の扇端のメム(湧泉)ではないか、ということです。根拠は、豊平川扇状地の扇端はおおむねJR函館本線あたりであることです。それに加え、私は今から19年前の1998年10月にこの地を見学したとき、当時の広報担当者から「昔は水が湧いていたと聞いている」とお聴きしたことです。

 産総研地質調査総合センター『札幌及び周辺部地盤地質図』2006年を見てみます。
地盤地質図 苗穂周辺
 赤い●を付けたところが本件の位置です。地質が色分けされていて、黄色で塗られているのが扇状地堆積物、黄緑は自然堤防堆積物、青は三角州堆積物を示します。これを見ると本件地点は自然堤防です。扇状地ではない。これをどう解釈したらいいかは、私の能力を越えますので保留します。私としては、現地の人の証言(二次情報ですが)に依拠し、自噴していたと信じたい。この地点が即メムではなかったとしても、豊平川の分流(19世紀初頭に河川争奪される前の、本流の一支川)となっていた可能性が高いと思います。

 池の南端にU字溝があります。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏③
 水が流れ出ていた痕跡のようです。

 池の傍らには「奉納」と彫られた石が置かれています。
苗穂分屯地 静心園 手水鉢?
 手水鉢にも見えます。

 奉納した人とおぼしき名前も刻まれています。
苗穂分屯地 静心園 手水鉢?②
 松原中佐、青山中尉、と。

 実は、池のほとりにはかつて、小さな祠もありました。
苗穂分屯地 静心園 瑞穂神社在りし日の写真
 といっても、私は資料でしか知らないのですが。分屯地コミュニティセンター内に展示物の中に、その祠を写した写真もあります。「現静心池付近にあった瑞穂神社の様子」というキャプションが添えられています。瑞穂神社というのは、本件から600mほど東に同じ名前の神社があります。元々ここにあったのがそちらに遷座されたのか。それとも、こちらが分祠されたものか。写真の撮影年は記されていませんが、いずれにせよ現在、祠はありません。政教分離上、あずましくなかった(北海道弁)のかもしれません。
 瑞穂=ミズホという社名と立地に、水神祠的な意味合いも嗅ぎ取れます。Yさんは水の要所と軍隊との関わりも指摘していました。なるほど。

2017/08/17

苗穂 旧陸軍糧秣廠倉庫 敗戦跡

 8月15日ブログで、丸〆街道(市道丸〆線)にちなみ「もしかしたら、こういう古い名前の付いた市道は、ほかにもあるんでないか。土木センターで道路台帳を洗いざらい見てみたいなあ」と記しました。
 札幌市公文書館で道路台帳を洗いざらい、見てきました。正確にいうと道路台帳に関連する札幌市の公文書です。その結果は…。なかなか興味深い事実が浮かび上がってきました。日をあらためて綴りたいと思います。

 さて、本日は苗穂(東区)にある旧陸軍糧秣廠の建物を訪いました。NHK文化センターの「近代建築鑑賞入門」という講座です。札幌建築鑑賞会でもお世話になっている北大大学院のⅠ先生の解説をお聴きしながら、明治期に建てられた遺構を見学しました。

 札幌軟石を用いた倉庫4棟が縦列に並んでいます。
旧陸軍糧秣廠 倉庫
 小樽の運河沿いの倉庫群をも凌ぐ壮観ですね。軟石の壁が、彼方のバニシングポイントに達せんとするまで連なっています。

 側壁の一部に、穴がたくさん開いている箇所がありました。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 銃痕?
 ここだけ、異様に集中しています。

 参加した別の方と、「これは銃痕でないか」という話になりました。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 銃痕? 拡大
 黄色の矢印の先には穴の周りが○が描かれて、あたかも射的のようです。

 この場所は現在、自衛隊の分屯地ですが、終戦後の一時期、米軍に接収されていました。自衛隊の方の話では、どうもその当時の痕跡らしい。

 近くには落書きも見られます。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 落書き FARRIS?
 PARRIS、いや、FARRISですね。これも、どうやら米兵が遺したもののようです。

 今回、直接視認できたものではありませんが…
旧陸軍糧秣廠 倉庫 落書き 人名?
 前に見学したときにいただいた資料(自衛隊苗穂分屯地作成)に載ってました。人名と思われます。これは明らかに米軍将兵でしょう。本件を、戦跡ではなく敗戦跡と名付けたしだいです。
 

2017/06/29

丘珠のサイロ その後⑤ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 一昨日ブログに続き、東区丘珠町の谷口農場にあった鉄車輪トラクターの話です。

 同町のNさん所蔵の古写真(大正7年撮影とされる)に写るトラクターを、拡大して見てみます。
丘珠町Nさん所蔵古写真 谷口農場トラクター 拡大
 さて、これは北大第二農場に保存されている「マコーミックデーリング10-20形」か。

 第二農場に行って、同機種をあらためて写真に撮ってきました。
 陳列されている場所が狭いので、前掲Nさんの古写真と同じアングル、距離で撮ることができませんでした。そのため、前回撮った向きとは異なる三方から画像に収めました。
 
 まず、前掲古写真と同じ向きの左後方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 左後方から

 次に、右前方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 右前方から

 そして、右後方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 右後方から
 私には同定できませんので、ご覧になった諸賢の鑑定に委ねたいと思います。なお、Nさんは前掲古写真に写るトラクターを「実際には見たことがない」と言ってました。Nさんが谷口農場に勤め始めた(昭和10年代後半か)頃はまだ、鉄車輪の時代だっと思うのですが。一度、Nさんに第二農場の実物をお見せしたいものです。

 余談ながら、札幌建築鑑賞会で先日催した「大人の遠足2017初夏の編」で第二農場を散策したとき、講師のⅠ先生は牝牛舎にトラクターが陳列されていることに批判的でした。
 なぜかというと、たしかに牛舎は牛舎であり、本来の用途としてトラクターなどが置かれていたのではありません。しかも、ここは明治期の北海道有畜農業の歴史を語る場所です。大正から昭和期にかけてのトラクターは‘場違い’感が否めません。現在第二農場を担当している北大総合博物館研究員のK先生(農学部名誉教授)によると、このトラクターは前農場長のT先生のコレクションだったもので、「置く場所がないため、やむをえず置いている」というようなお話でした。博物館の案内ボランティアの方も、このトラクターは解説の対象にはしていないそうです。そのため、私が谷口農場と本件トラクターのことをお訊きしても、詳しい情報は持ち合わせていません。
 
 …という実情ではあるのですが、私は本件マコーミックデーリング10-20形に大いに魅せられてしまいました。また、谷口農場が我が国で初めて車輪型トラクター(ケース社1918年)を導入したこと、同農場で宣伝用リーフレットや絵はがきを作っていたことを、この展示で初めて知りました。正論は正論として、トラクターの実物を‘お蔵入り’させておくのは惜しい。理想的には、農業用機械の歴史をたどることができるミュージアムができればいいのでしょうけれど。しかし、そんなマニアックな展示に税金をかけるのもねえ。

 とまれ、谷口農場は北海道、否、我が国における機械化大規模農場経営の先駆けでした(末注)。その遺構のサイロが今も丘珠に遺り、建築年代も判ったのは私にとって収穫でした。サイロは後世に継がれてほしいものです。[おわり]

 注:展示史料や郷土史の文献によると、同農場は酪農(乳牛飼育)ではなく、牧草やエンバクの生産が主体だった。ただ、Nさんの話では牛舎もあったという。

2017/06/27

丘珠のサイロ その後④ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 現在の東区丘珠町にあった谷口農場で使われていた鉄車輪トラクターの続きです。
 北大第二農場の牝牛舎内には、戦前から戦後に使われた農用トラクターが多く展示されています。その中に、谷口農場の鉄車輪トラクターの実物も陳列されていました。
北大第二農場展示トラクター マコーミックデーリング10-20形
 マコーミックデーリングMcCormick Deering10-20形という機種です。説明によると、この機種は1922(大正11)年に発売され、谷口農場では昭和初期に興農園(のちの五番館)から購入したそうです。価格は2,700円! 今の物価でいうと、ン百万円でしょうか。この実物が北大に引き取られた経緯は、昨日ブログで紹介した高井先生ほか執筆の論文に記されています。スクラップされないでよかったですね。

 さて、丘珠町のNさん宅で私が見せてもらった古写真に写るトラクター(一昨日ブログ参照)は、この機種でしょうか。一昨日のブログをご記憶の方は、少し不審に思われたことでしょう。Nさん所蔵の写真は「大正7年」すなわち1918年撮影とされています。しかるに前掲北大保存の機種が発売されたのは1922年という。撮影年が正しいとすると、同機種が世に出る前ということになります。

 Nさんの写真のトラクターが写っている部分を拡大して見てみましょう。
丘珠町Nさん所蔵 谷口農場古写真 トラクター
 この写真はクルマを後ろから撮っており、前掲北大の陳列物はクルマの前から撮ったので、比較しづらいのですが、ちょっと形が違うようにも見えます。どうでしょう。北大の実物の方が、エンジンルーム?の奥行きが長いような気がする。もう一度北大に行って、同じ向きで実物を撮って、比べてみよう。なお、Nさんの写真に写るトラクターは車輪が全部で6輪ありますが、後ろに付いている2輪は草刈り機(モウアー)と思われます。

 実は、前掲展示の一角に別のパネルも置かれていて、次のように記されていました(引用太字、原文ママ)。
 大正7(1918)年に谷口農場(札幌市)がわが国初の車輪型トラクタアメリカ図④Case社25馬力ホイールトラクタを導入した。

 文中の図④として添えられている写真が、こちらです。
Case社 ホイールトラクター
 前掲マコーミックデーリング10-20形よりも小ぶりな感じがします。導入されたという1918年は、写真の撮影年と一致しますが…。[つづく]

2017/06/26

丘珠のサイロ その後③ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 昨日ブログでお伝えしたように、東区丘珠町の元T農場サイロの建築年代が昭和初期と判明しました。
 札幌建築鑑賞会が2005年以降、現存を確認した軟石建物の総計412棟中、昭和戦前期(1926-1945年)築の物件はこれで49棟となりました。母数に対する比率は11.9%です。ちなみに明治・大正期築は43棟(10.4%)で、合わせると92棟(22.3%)となります。昭和戦後期(1946-1964)年築は98棟(23.8%)です(2017.5.31ブログ参照)。なお、現存を確認した412棟のうちには、その後現在までに解体されたものも含んでいます。最近では6月23日ブログでお伝えした、北区篠路のカネヨK商店の倉庫です。このほかにも実は、拙ブログにまだ記していませんが、近年解体されたものがあります。これについては別途整理して、明らかにしたいと思います。

 さて、T農場に勤めていたNさんに見せていただいた古写真を考察します。
 昨日のブログに載せた古写真を私は‘お宝’発見と悦んだのもつかの間、最近これと同じ写真を別のところで見つけてしまいました。
 見つけた場所は、北大第二農場です。重要文化財の「牝牛舎」内に展示されていました。そのパネルがこちらです。
谷口農場リーフレット 北大第二農場 展示物 
 「○谷農場 御案内」という標題が付いています。原寸は判りませんが、同農場を紹介するリーフレットの複写と思われます(拙ブログではこれまで「T農場」と記してきたが、同農場は郷土史の文献にも載る歴史的存在なので、今後は実名で「谷口農場」とする)。
 前掲パネルの右下に載っている写真を昨日ブログで紹介した写真と見比べると、タテヨコ比は異なりますが、まったく同じ風景です。
 このリーフレットの左側には「鉄車輪トラクタを導入した谷口農場」と題して、次のような説明文が添えられています(引用太字)。
 日露戦争を契機にして軍馬とその飼料の需要が急速に高まり、明治27年に札幌興農園(小川二郎)が樽川に100haの牧草地を拓いたのを始めに、右のように谷口甚作氏も明治37年日露講和条約締結年に飼料生産農場を設置した。その後も日本軍の増強と共に需要が高まり、先駆的農家の規模拡大と生産の合理化・機械化、さらに各地で馬と飼料生産農場が続出した。(後略)

 第二農場牝牛舎には、「現存する鉄車輪トラクタ」と題した論文も展示されていて、読むことができました(末注)。それによると、1920年代に米国で開発された「マコーミックデーリング10-20形」という鉄車輪トラクターが谷口農場に導入されていたそうです。[つづく]

注:執筆者は「高井宗弘、高部悟」(北海道大学農学部)とあるが、掲載誌、執筆年は記されていない。

2017/06/25

丘珠のサイロ その後②

 昨日ブログの続きです。
 もう一度、現地に足を運びました。
T農場サイロ 再掲
 本件サイロは現在、S運輸という会社の敷地内にあります。

 この会社の人が何か知っているもしれないと思って、事務所に行きました。ちょうど事務所から初老の男性が出てこられたので、例によって尋ねましたが…。
 「会社の人間は何も知らないから…」と。「知らないから」の「から」には、「帰ってくれ」という命令に近い空気がにじんでいました。取りつくシマもなし。二の句を継ごうという間もありませんでした。空振り2回目です。2ストライクと追い込まれました。
 現地を立ち去りがたく、一縷の望みを抱いて近所にお住まいの方を訪ねました。このあたりは調整区域なので、古くからのお住まいとお見受けしたのです。お会いしたNさんとのやりとりは以下のとおり。
 私「お隣のサイロは昔、T農場のものだったと聞いたのですが、何かご存じのことはございませんか?」
 Nさん「私は丘珠小学校を出た後、T農場に勤めていました。サイロの中に入って、デントコーンの詰込みをしていました」
 私「えっ! そうだったんですか。 サイロはいつごろ建てられたものでしょうか?」
 Nさん「子どもの頃、軟石を積まれたのを見た覚えがあります。小学校に上がる前です」

 ‘三度目の正直’というのはあるものですね。Nさんは御年89歳とのことで、逆算すると、サイロが建てられたのは昭和初期、1930年代と思われます。幼少期のご記憶ですから幅をみた方がよいでしょう。Nさんにお会いして話が聞けただけで、それまでの空振り2回の徒労感は吹き飛びました。
 のみならず…。

 Nさんから、T農場を写した古写真を見せていただきました。
T農場 古写真 丘珠Nさん所蔵
 これは東区の郷土史の本にも載っていないもので、私は初めて見ました。靴の底をすり減らし、空振りを繰り返したからこそ、こういうお宝写真にめぐり逢える歓びはひとしおです。やっぱり、探偵は足で稼ぐものだなあ。

 この古写真には、手書きでキャプションが添えられています。
T農場 古写真 キャプション
 「牧●刈取●大正7年7月撮影」と読めます(●は判読困難、一つ目は「草」か)。

 写真には、T農場の頭文字「○谷」という印袢纏を着た人が機械を操作している風景が写っています。この機械は鉄製車輪トラクターと思われます。この鉄製車輪トラクターについては、先日別のところで史料を見ました。次回、考察します。[つづく]

2017/06/24

丘珠のサイロ その後

 本年2月20日ブログに、東区丘珠町に遺る札幌軟石製サイロのことを記しました。その後、探偵さながらにこのサイロの由来をたどりましたので、その顛末を報告します。
 土地の登記簿を追えば所有者はすぐわかるのでしょうが、前回のブログに書いたようにもともとの所有者がT農場であることに当たりが付きました。現在、N倉庫という名前の会社を経営しています。その所在地の東区苗穂町に、まず行ってきました。
 ただし、正直言って望み薄でした。私の記憶では、T農場が丘珠にあったのは遅くとも1980年代までです。30年以上も前の農場時代のことを、会社の今の人が知っているかどうか。しかもサイロが建てられたのは、それよりさらに前です。ネットで当該会社を検索すると、社長はT農場の経営者のご子孫と思われます。社長に取り次いでくれれば、かすかな可能性はあるかもしれません。
 会社に行ってかくかくしかじか用件を述べました。応対した社員の方は「うーん」と首をひねったきりです。私は「こちらの経営者の方がもともと営んでおられた農場だと思うのですが…」と誘い水をかけましたが、くだんの社員氏は「社長が知っているかなあ」と。「では社長に訊いてみましょう」とは言ってくれません。「ご存じのことがないかどうか、社長にお訊きしていただけませんか?」と喉まで出かかりましたが、「もし何か判ったらお知らせください」と連絡先を伝えて辞去しました。
 いかに鈍感な私でも、こういうときのその場の空気というのは察します。つまり、私が土地や建物などの歴史を調べるに当たって、お尋ねする持ち主や関係者がこちらに親和的であるかどうかの空気です。私の経験則でいうと、市街化調整区域にお住まいの方はおしなべて親和度が高い。逆に市街地で、人口密度が高くなるほど親和度は低くなる。今回の場合は後者に当てはまりました。先方が当方に協力する筋合いはまったく何もないのですから、致し方ありません。
 案の定というべきか、3か月近く経ちますが先方からはお返事はありません。空振りに終わっても、できるだけめげることなく(ある意味では、‘場の空気’にむしろ鈍感になって)、逆にそれを糧にして次の一歩を踏み出しましょう。それにしても、時空逍遥するようになって、靴底の減るのが早い。[つづく]

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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