札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/18

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ⑤

 6月11ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として引かれたと思われます。両者の距離は915m(503間)。一つ考えられる根拠として‘71間基数説’を示しました。碁盤目街区60間+道路11間の、ほぼ7つ分に当たります。実際、現在は東1丁目から7丁目まで、碁盤目状に街区が形成されています。 
 しかし自分で示しておいて言うのも何ですが、私は‘71間基数説’説には懐疑的です。明治の早い時期からこのあたりに札幌の中心部と同じような碁盤目を想定していたとは考えづらい。明治期はおそらく、農耕地としての開墾を計画していたと思うのです。古い空中写真や地形図をたどると、このあたり(北12条以北の東1~7丁目)に碁盤目街区が仕切られていったのは戦後です。

 では、あらためて、東1丁目通り(市道幌北線)を基線とする現況915m(503間)は、何か?
 たびたび載せている古地図をまた見てみます。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 東8丁目通り
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。
 1882(明治15)年の作成とみられるこの古地図に、東1丁目通りや東8丁目通りの原形とおぼしき道が「見込線」として描かれています(以下、煩雑を避けるため「原形とおぼしき道」は省略する)。黄色の矢印の先が前者、赤い矢印の先が後者です。

 全体を俯瞰すると、碁盤目は碁盤目ですがかなり広い間隔で引かれています。この地図の縮尺は「6厘:10間」すなわち「1:10,000(1㎝:100m)」です。東1丁目と東8丁目の間隔を測ると、8.65㎝。縮尺に照らすと865mです。間に換算すると476間。現況の両者の距離915mに比べると50m(約27間)ほど短い。
 現況との違いは気になるのですが、ともかくも500間近い間隔でほぼ正方形に区画されています。その正方形の一部に、黄色のベタで塗られています。画像では読み取れませんが、矩形に地割されて、それぞれに人名が記されています。これは1882(明治15)年時点で土地の払下げを受けたかまたはその予定の人の名前です(本年2月28日ブログ参照)。
 私は、この500間(またはそれに近い)四方の区画は、いわゆる「殖民区画」の萌芽ではなかったかと推測します。

 「殖民区画」とは何か。
 開拓使時代から三県時代にかけての移民は、開拓使の募集移民や士族の集団移住、屯田兵の移住が代表的だったが、道庁時代の開拓農村は、殖民区画制度の下で一般の農民移住によるものが主流だった。すなわち道庁設置と共に間接保護政策の下で国有未開地の払い下げ処分が活発に行われ、農業開拓の担い手となる北海道移民が増加したことに対応して、殖民地の選定作業が広く行われるようになった。殖民地とは、道庁があらかじめ調査した開墾予定地のことである、一八八六年から全道の大原野を中心に実施され、九六年までに百十一万七千七百五十一町歩を調査した。(『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』2006年、p.163)。

 殖民地の区画割りは、おおむね次のような手順で行われた。先ず基線を設け、これと直角に交わる基号線を引く。これに並行して三百間ごとに碁盤目状に区画道路を引き、この直角に交わる道路で区切られた三百間四方の一区画(中画、地積九万坪)を間口百間・奥行き百五十間の小画(地積一万五千坪、五町歩)六個に分割した。この小画が前述した開拓農家一戸分の経営面積となり、中画を九倍したものを大画(九百間四方、地積八十一万坪)と称したのである。(同書p.165)。

 前掲古地図は、開拓使時代の末期、1881(明治14)年頃の札幌の近郊の土地区画、払下げの状況を伝えたものです。三県時代を経て北海道庁が設置されたのは1886(明治19)年、「北海道土地払下規則」が公布され、殖民地選定事業が始まりました(末注)。
 本件約500間四方の区画は、道庁時代の殖民区画に先立つ開拓使時代の模索を示しているのではないでしょうか。

 注:北海道編『新北海道史年表』1989年、pp.260-264
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2018/06/15

父母の血しおを今に 百年の塔は東に

 北海道百年記念塔を校歌に歌う学校が、さらにありました。
 札幌市立東光小学校。所在地は札幌市東区本町2条1丁目です。 東光小学校の学校だより「こぶし」2018年2月28日号に、教頭先生が「校歌に思う」という一文を寄せています。電網上で検索していてこれを知ったとき、みずからのウカツを恥じました。

 前に東区東雁来町にある高校のことを拙ブログで記したとき、次のようなコメントをいただいていました(2017年5月1日ブログ参照)。
 東豊高校は、昭和の後期あたりは厚別の野幌記念塔や大麻あたりからハッキリと視認出来て、あれは何なんだろうといつも思ってしました。おそらく向こうからも色々な物がハッキリと見えていたことでしょう。

 このことがアタマにあって、東区の小中学校も豊平川左岸に近いところを調べはしたのですが、まさか本町の学校で歌われていたとは。私の予想を超えていました。これで校歌は計18校(小学校11、中学校6、高校1)となりました。校章は計9校(小学校5、中学校3、高校1)で変わりません。

 さて、その東光小学校です。
東光小学校 外観
 校歌の2番に、♪父母の血しおを今に 百年の塔は東に…♪とあります。

 校舎から東方、記念塔の方角を眺めました。
東光小学校から東を望む
 もちろん、というべきか塔を望むことはできません。

 現在図で位置関係を確認します。
現在図 東光小学校-百年記念塔
 赤いが東光小学校、黄色の六角形が記念塔です。直線距離にして、9.8㎞。

 断面図を見ます。
断面図 東光小学校-百年記念塔
 標高は小学校が13.2m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。

 色別標高図を作って、あることに気づきました。
色別標高図 東光小学校-百年記念塔
 色分けは8m以下から1mごとの11段階です(地理院サイトから作成、白ヌキの○が小学校、六角形が記念塔)。

 小学校と記念塔との間がずっと低地なのは断面図でも判るのですが、学校のところが小高くなっているのですね。フシコサッポロ川の自然堤防による微高地です。戸建の民家程度の人工物が途中にあっても、条件的には恵まれていたといえましょう。校舎の上階からだったら今でも記念塔を望めるかもしれません。それにしても、10㎞近く離れた彼方です。あらためて畏るべし、百年記念塔。
 

2018/06/11

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ④

 6月9日ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として915m(503間)の距離で引かれています(各道路中心線で計測)。町(チョウ=60間)に換算しても、整数になりません。これは何に由って来たるのか?

 可能性として排除できない説を、一応考えたいと思います。
 そのまえに、東8丁目通りを俯瞰してみましょう。 
現在図 東8丁目通り クランク2箇所
 本件北12条のクランク(黄色の○の箇所)とは別に、北1~2条にもクランクがあります(橙色の○の箇所)。
 
 後者のクランクがなぜできたかは、昨年考察しました(2017.7.21、23、24、28、30、31ブログ)。原因はひとことでいうと、創成川からの起算の違いです。このクランクの南側は71間を基数にして71×6街区=426間で設けられ、北側は8町(=480間)という距離で線が引かれた(2017.7.31ブログ参照)。
 71間とは60+11間です。明治の初期、札幌本府の碁盤目状街区は、基本的に街区60間+道路11間路で区割りされました(2017.7.24ブログ参照)。

 では、その‘71間基数説’を503間に当てはめるとどうなるか。503/71≒7.08。ほぼ街区7つ分です。東1丁目通りまたは東8丁目通りを幹線道路として広幅員にすると、どうか。たとえば道路を1本だけ17間にすると、503間に合致します(末注)。(60+11)×6+(60+17)=503。
 つまり、碁盤目の7街区に区割りすることを想定して、東8丁目通りの線を引いた。この説を採ると、東8丁目通りの北12条以北は、先祖帰りしたともいえます。

 注:札幌本府でも、開拓使本庁舎周辺は15間とか20間で設定されている。『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.52

2018/06/09

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ③

 東8丁目通りの北12条以北は東1丁目通りを基線として引かれたと推測しました。では、東1丁目通りからの距離は、何に基づいたのでしょうか?
 
 まず、東1丁目通り(市道幌北線)と東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)との間の距離を、現在図で確認します。
現在図 東8丁目通りクランク 東1丁目通りとの距離
 着色は以下のとおり。
 東1丁目通り(市道幌北線):黄色の線
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線):茶色の線
 創成川:青色の線
 クランク:赤い○の場所
 東1丁目通りと東8丁目通りの距離:赤い矢印線
 創成川と東8丁目通りの距離:橙色の矢印線

 さて、東1丁目通りと東8丁目通りの距離(赤い矢印線)は、915mです(国土地理院サイトから計測)。ちなみに創成川と東8丁目通りの距離(橙色の矢印線)は877m。後者は間(ケン)に換算すると482間(1間=1.818m)≒8町(1町=60間)で、昨日ブログで述べたとおりです。
 それでは915mはというと、915/1.818=503間≒8.4町。現況で見る限り、どうも町(チョウ)単位で測ったとは想いづらい。

 古地図を当たります。
 昨日ブログでも載せた明治29年地形図ではどうか。約925mです。

 大正5年地形図で見ると…。
大正5年地形図 東区クランク
 東8丁目通りに「中通」という地名が添えられています。また、明治29年地形図では通じていなかった北12条以北と北11条以南が結ばれ、クランクが形成されています(末注)。
 東8丁目通りの北12条クランク以北と東1丁目通りとの距離は、やはり約925mです。925m≒509間≒8.5町。これが現在の通りの原形とみて差支えないでしょう。現況の距離の915mとは10mの差がありますが、いかんせん明治29年及び大正5年地形図のスケールは5万分の1です。0.1㎜で5mの違いを生じます。私の手元のモノサシは1㎜単位(三角スケールの1/500mで、0.4㎜単位)なので、誤差ということにしてください。

 とまれ東8丁目通り(北12条クランク以北)は東1丁目通りを基線としつつ、その間の距離の915m(現況)というのは、町(チョウ)単位とは別の発想で線が引かれたと思えるのです。

 注:大正5年地形図のクランクの形状は、現況とは微妙に異なっている。
大正5年地形図 東区クランク 拡大
 “曲がり具合”が、現況よりもわずかに大きい。この場所はちょうど「大友堀」が通じていたところ(青い線)で、かつてはその堀割沿いの道がクランクのナナメ道となったと思われる。しかし、その後整形されたのであろう。

2018/06/08

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ②

 昨日ブログの続きです。
 北光線(東8丁目通り)は、北12条でクランクしています。なぜ、このクランクができたか?
 あらためて確認すると、この通りは北11条以南と北12条以北で、拓かれた時期が異なります。前者が先で、後者が後です(末注①)。そして、それぞれ異なる根拠に基づき道が作られたことが察せられます。
 前者すなわち北11条以南については、拙ブログで過去にその経緯を記しました(2017.7.31ブログ参照)。端的にいうと、「創成川(の中心線)から東へ8町(=480間)」で引かれたとみられます。それが北11条までなのは、ここ(北12条通り)で旧札幌区と旧札幌村の境界が分かたれたからです。なぜここに境界線が引かれたかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」④で述べました(本年3月12~15日ブログ参照)。
 ではなぜ、境界線(北12条通り)以北で、道をまっすぐ延ばさなかったか? 行政区域が異なるからといってしまえばそれまでですが、そうせざるをえなかった物理的理由もあったと思います。

 明治29年地形図を見ます。
明治29年地形図 東区クランク 考察
 黄色と赤でなぞったのが本件東8丁目通りの原形ともいえる道です。この地図では、現在の北12条以北、北17条あたりまでの間は道がまだ通じていません。仮に赤い線を南へ直線的に延ばしていくと、黄色の線とはわずかにずれます。北12条以北は、この赤い線に基づいたと思われます(末注②)。では、この赤い線は何に基づいたか?

 結論的にいえば、橙色でなぞった線すなわち現在のいわゆる東1丁目通り(末注③)が根拠となったと考えます。
 黄色の線すなわち東8丁目通りの北11条以南が創成川からの距離に基づくことは前述しました。その創成川は、前掲明治29年地形図で青い線でなぞったのように、北11条あたりまでは直線的に掘られています。しかし、奇しくもというべきか、その北で向きを西へ曲げます。なぜ曲がったかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」②で推理しました(本年5月9日ブログ参照)。

 とまれ、基準となる線(基線)が曲がってしまったことにより、基準にしづらくなったのではないでしょうか。で、代わりに基線としたのが、川沿いに引かれた道(現在の東1丁目通り)です。こちらは北12条以北も直線的に延ばされています。
 詮ずるところ、東8丁目通りのクランクは北11条以南と北12条以北の基線の違い、と私は考えます。前者は創成川を基線とし、後者は東1丁目通りを基線とした。前者は、前述のとおり創成川(の中心線)から8町(=480間)の距離で引きました。では後者はどのように引いたのか?

 注①:昨日ブログ掲載の「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」参照。凡例からすると、赤茶色で描かれているのは既存の道路、薄茶色は「見込線」
である。
 注②:地形図をつぶさに見ると、赤くなぞった道は北17~20条あたりでわずかに曲がっている。どこまで正確に測量したものかどうかは判らない。
 注③:北11条以南は国道5号、北12条以北は札幌市の市道「幌北線」。

2018/06/07

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ① 

 本年3月10日ブログから始めた「東区 北光・鉄東の謎 4題」を再開します。
 ① 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 なぜ、北12条で曲がっているか?
 ② 「創成川の謎」 なぜ、鉄道以北で少しずつ北北西に向きを変えて流れるか?
 ③ 「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」 なぜ、道路に対してナナメか?
 ④ 「北12条通りの謎」 なぜ、境界線(旧札幌区と旧札幌村)が引かれたか?
  
 ④(3月15日)→③(4月9日)→②(5月9日)と解いてきて、ようやく①に来ました。寄り道脇道に逸れながら、3か月になんなんとします。成り行きまかせで逍遥することはできても、計画的にアタマを切り替えるのが苦手な私です。しかしなんとか最後まで行けるように努めます。

 さて、 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 です(末注)。
現在図 東区 北光線クランク
 場所を上掲現在図の赤い○で囲みました。

 北12条東7丁目、歩道橋から南を望んだ風景です。
東区 北光線 クランク 現況
 画像は本年3月に撮ったもので、路傍にまだ雪が残っています。北11~12条、東区役所の北側でカクっと曲がっています。

 同じく歩道橋から北を眺めました。
東区 北光線 クランク 現況②
 北12~13条で、またカクッと折れます。

 私はこの変形?クランクに「東区最大の」と修飾しました。もとより恣意的です。なんでこんなクランクが生じたか?

 このクランクの気配は明治の早い時期にすでに現れます。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 たびたび載せている「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。これを見ると、答えはあらかた出てしまいますが、少しあーでもない、こーでもないと逍遥しましょう。

 注:一般的に呼び慣わされている「北光線」とか「東8丁目通り」と記したが、札幌市の認定道路としては「主要市道真駒内篠路線」。北光線というのは本来、この通りを走るバス路線名か。

2018/05/05

創成川の謎 ①

 「東区 北光・鉄東の謎 四題」(2018.3.12ブログ参照)を再開します。
 ① 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」
 ② 「創成川の謎」
 ③ 「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」
 ④ 「北12条通りの謎」

 ④→③→②→①の順で、④③まで解いてきました(④3月15日、③4月9日各ブログ参照)。今回は②「創成川の謎」です。

 現在図で、謎の謎たるゆえんを確認します。
地理院地図 創成川 札幌駅以北
 創成川は基本的に、真北から西へ約10度傾いて、直進して流下しています。これが札幌の街の(中心部の)南北の基軸になったことは、知られるところです。

 しかるに、JR函館線以北で、西への傾きが少しずつ大きくなります。前掲図に黄色の○で囲ったあたり、すなわち北13条通りで傾きが顕著です。それまで東1丁目通りが川にぴったり沿っていましたが、ここから北へ行くにつれて離れていきます。おおむね北18条、赤い○で囲ったところの少し北のあたりまで傾き具合が逓増しています。東1丁目通りとは、1丁目分くらいの乖離です。
 その北は直進しているようですが、実は少しずつ傾いています。が、そこまでは追わないこととしましょう。ひとまず、黄色の○の北13条通りから赤い○の北18条通りあたりまでの傾きを追究します。なぜ傾いているのか。

 「なぜ?」の前に、この傾きがいつから生じたものなのか、見ておきます。
 「北海道札幌之図」1873(明治6)年です(北大図書館蔵)。
北海道札幌之図 明治6年 創成川
 創成川の流れを、黄色の○で囲ったあたりでご覧ください。

 拡大してみます。
北海道札幌之図 明治6年 創成川 西への傾きのあたり
 黄色の○の南端部に書かれている「運漕局」というのが、現在のJR線の北側、北6条から北7条あたりです(末注①)。

 さて、運漕局から北東へ枝分かれしているのが大友堀です。というか、大友堀のほうが古かったので、北へ直進させたほうを枝分かれというべきですが。大友堀の流れに沿って北東の端の方に「生産局」と書かれています。黄色の○の東端の外です。これが北10~11条東6丁目に当たります(末注②)。
 という位置関係をアタマに入れて創成川をあらためて見ると、北11条あたりから西への傾きが大きくなっているのが見て取れます。
 
 次に、たびたび紹介させてもらっている「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年です(北大図書館蔵)。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 創成川
 橙色の○で囲ったのが現在の北12条通りです(2018.2.23ブログ参照)。
 創成川はここから北へ行くにつれて、流れは西への傾きが大きくなっています。

 前掲2枚の古地図は、前者が開拓使の測量課、後者が札幌県地理係の技師が製図したものです。近代的な測量技術に基づいていると思われます。これらからみて、創成川は明治のかなり古い時期から、今と同じように西への傾きを大きくして流れていたといえましょう。「明治の古い時期」と記しましたが、創成川のおおむね北6条以北(寺尾堀)が開削されたのは1870(明治3)年です(末注③)。たぶん開削当初から西へ西へと傾けて流したのではないでしょうか。

 注①:君尹彦講演記録 『ひがしく再発見 まちの歴史講座② 札幌村の成立』2003年、pp.55-59
 注②:同上
 注③:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27

2018/04/12

丘珠の軟石タマネギ倉庫 その2

 昨日ブログに続き、東区丘珠町の軟石倉庫です。
 
 二軒目は伏籠川左岸側のGさん宅。
丘珠町 Gさん 元タマネギ倉庫
 昨日の右岸側もGさん宅でしたが、親戚ではありません。

 軟石の表面仕上げはツルメ。ということは、築年は昭和30年代半ば以前か。土地柄からしてタマネギ農家の倉庫とお見受けしましたが、タマネギ収蔵用としては小ぶりという印象です。また、タマネギ倉庫にありがちな換気口が屋根の棟(むね)に付いていません。といっても、落雪防止用とおぼしきトタン屋根が追加されて片流れに改造されていますが。

 持ち主にお訊きしたところ、1961(昭和36)年の築で、タマネギの「タネ」保管用とのことでした。収穫したタマネギそのものは、奥にあるカマボコ型屋根の倉庫に入れていたそうです。ただし、収蔵は「しばれる前」までで、農協に出荷しました。農家によってはタマネギそのものを自前の倉庫で越冬させる(させていた)ところも聞きます。いわゆる商品作物なので、それぞれの農家の考え方にもよるのでしょう。Gさん宅では春に播くタネを軟石倉庫で保管して越冬しました。タマネギは2013(平成25)年、畑が「空港緑地」になったことで作るのをやめ、軟石倉庫はいま、漬物を入れているそうです。
 
 Gさんに「これからも大切にしていただけると嬉しいです」とお伝えすると、こんなお話をしてくださいました。
 「自宅を新しく建て替えたとき、倉庫はつぶそうかとも思いましたが、建てた昭和36年というのは娘が生まれた年です。娘も『思い出があるので壊さないでほしい』と言うので、残しました。(片流れの)屋根を付けて、不恰好になったけれど」。
 軟石建物を一軒一軒、自分の足で訪ね歩き、自分の眼で愛で、持ち主の話に耳を傾けることで得られる悦びです。

 築年別内訳は、昨日ブログから「昭和戦後期」が一棟増えて「不詳」が一棟減り、下記のとおりとなりました(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:101棟(24.5%)
  昭和後期-平成期:49棟(11.9%)
  不詳:166棟(40.2%)

2018/04/11

丘珠の軟石タマネギ倉庫

 東区丘珠町の札幌軟石倉庫二棟を訪ねました。

 まず伏籠川右岸側のGさん宅。
丘珠町 Gさんタマネギ倉庫 全景
 こちらは現役のタマネギ農家です。

 カマボコ屋根、軟石の表面は機械彫り、軒や破風にコンクリートの梁や桁が廻されています。側壁にはバットレス(控え壁)で補強。
 軟石の倉庫でカマボコ型屋根というのは珍しいと思います。私が知る限り、ここの一棟のみです。軟石ではたいがい切妻屋根(納屋だと腰折れ)で、鉄骨造鉄板またはトタン貼りになるとカマボコ型に変わってきますが。つまり、本件は軟石から鉄骨造に代わる過渡期の築と思われます。タマネギ倉庫で軟石切妻は昭和30年代に集中しているので、本件はその後の昭和40年代か。軟石の機械彫りからしても、昭和30年代ということは考えづらい。
 
 持ち主のGさんに伺うと、建てられたのは1971(昭和46)年とのことです。タマネギを収蔵していたのは「20年くらい前まで」で、面している道路の改良に伴って地盤が上がり、リフトを入れづらくなって入れるのをやめました。現在は物置です。

 櫛形の破風に、家紋が刻まれています。
丘珠町 Gさんタマネギ倉庫
 「亀甲四方花菱」というのだそうです。

 軟石の表面は…。
丘珠町 Gさんタマネギ倉庫 チェーンソー痕
 チェーンソーの痕が美しい。

 倉庫の傍らには…。
丘珠町 Gさん プラウ
 プラウ? カルチベーター? オブジェのようです。

 隣には…。
丘珠町 Gさんタマネギ倉庫再利用ラーメン店
 明らかに元タマネギ倉庫とおぼしき建物が、ラーメン店です。こちらもカマボコ屋根と思いきや、棟(むね、屋根のてっぺん)が通っています。破風を見ると、尖塔アーチ形です。これは何屋根というのでしょう?

 ところで、「一番星」という店は30年以上前から焼き肉店もありました(末注)。いまはラーメン店のみです。

 軟石建物の築年別内訳は、昨日ブログから「昭和後期-平成期」が一棟増えて、下記のとおりとなりました(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:100棟(24.2%)
  昭和後期-平成期:49棟(11.9%)
  不詳:167棟(40.4%)

 二棟訪ねたうちのもう一棟については、後日お伝えします。

 注:『北海道新聞』連載「街角探見」1995年2月2日によると、「一番星」は1985(昭和60)年創業。タマネギ倉庫をログハウス風に仕上げた外観の焼き肉店もあった。

2018/04/10

市道元村線 Jさんの石蔵

 根雪がまだ残る3月、東区のナナメ通り「元村線」を歩きました。
 ナナメ通りといっても、いわゆる「元村街道」の道道花畔札幌線ではありません。市道「元村線」のほうです(本年3月19日ブログ参照)。世の中に名前がほとんど知られていないナナメ通りです。私が今年になって初めて正式な路線名を知ったからといって、「世の中に名前がほとんど知られていない」と類推するのは口幅ったいのですが、お許しください。

 その元村線に面して、札幌軟石を用いた蔵が一棟、遺っています。
東区 元村線 Jさん石蔵
 この石蔵については、札幌建築鑑賞会の調査活動「札幌軟石発掘大作戦・東区編」で2006年、見学させていただき、存在を認知していました。

 しかし、元質蔵とは伺っていたのですが、建築年などを記録しそびれていたので、このたびあらためてお尋ねしました。
東区 元村線 Jさん宅石蔵 近景
 軒蛇腹を三重に廻しています。破風(妻面の上部の三角形の部分)の水平蛇腹が中央部に通じていないので、一種のブロークンペディメントか(末注)。そこに「○上」という印が刻まれています。「上」というのはたぶん、Jさんの姓の頭文字を同じ音で書き換えたものでしょう(末注)。

 よく見ると妻面には胴蛇腹(1階と2階の境目)も簡素ながら施しています。軟石の表面仕上げはいわゆる「小叩き」です。私の印象では、農業系の倉庫はツルメが多いのですが、商家系は手の込んだ小叩きが目につきます。

 持ち主のJさんにお訊きしたところでは、建てられたのは1951(昭和26)年です。亡くなった先代がその1、2年前にこの地に来て、同年質屋を開業するに当たり建てました。質屋は1994、95(平成6、7)年頃までやっていたそうです。2002(平成14)年に先代が亡くなり、家を建て替えることにしたが、「蔵は父が一代で築いたものなので、これだけは残したい」と修繕したとのこと。建物の平(ひら)面(窓や印が付いている妻面と直交する側の面)に、主屋が接続していた痕跡が窺えます。主屋が解体されて、出入り口が新たに設けられました。

 ところで、この蔵は冒頭画像のとおりナナメの古道「元村線」に面しているので、建てられた当時はこの道がまだメインストリートだったのかと想像したのですが、Jさんの話では必ずしもそうではないようです。実は、この手前に碁盤目の“本通り”が東西に通じていて、質屋はその角地に立地していました。Jさんの認識では、ナナメの「元村線」はあくまでも“仲通り”で、碁盤目の通りのほうがオモテ通りなのです。明治以来の古道だから昭和20年代当時もメインストリートだったと先入観を抱くのは、早とちりでした。昭和戦後にはすでに碁盤目が主流になっていたのですね。

 1948(昭和23)年米軍撮影の空中写真で、「元村線」界隈を見てみます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1948年米軍 北光 元村線界隈
 拙ブログで何度も図示してきましたので、どれが「元村線」か、もうお判りいただけると思います(初めての方は本年3月19日ブログ参照)。

 Jさんの蔵が建つのはこの撮影の3年後になりますが、この写真を見ても、たしかに碁盤目街区のほうがクッキリしています。「元村街道」はまだ健在ですが、「元村線」は文字どおり影が薄いですね。
 逆にいうと、本件石蔵が碁盤目のオモテ通りとの角地にありつつも、ナナメの古道に面しているというところに、質屋ならではの絶妙な立地を私は感じてしまいます。由緒あるナナメの古道を“ウラ通り”とまでいうのは抵抗がありますが、この道からのほうが入りやすいお客さんもいたことでしょう。

 さて、軟石建物の築年代別内訳は、前回2017.10.27ブログ掲載から「昭和戦後期」が一棟増えて、以下のとおりとなりました(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。、「不詳」の数が減ること、牛歩のごとし。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:100棟(24.2%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:168棟(40.7%)

 念のため注釈しますと、母数の413棟というのは、札幌建築鑑賞会で2005(平成17)年以降現在までの間に現存を存在を確認した軟石建物の数です。この間に解体されたものも含みます。なお、「昭和戦後期」は昭和20-30年代、「昭和後期-平成期」は、昭和40年代以降、現在までの築年としています。

 注:こういう例は他にも見られる。清田区真栄のUさん宅元リンゴ倉庫では、Uさんの姓の頭文字と同じ読みの別字が刻まれている(2014.11.13ブログ参照)。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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