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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/09/13

地下鉄東豊線駅のモザイク画

 心が液状化してきたので、地震のことは一回お休みします。

 札幌市営地下鉄東豊線「栄町」駅の構内です。
地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画①
 地下鉄東豊線栄町駅 モザイク画②
 モザイク画とおぼしきタイルが貼られています。
 
 こちらは同じく「豊水すすきの」駅の構内です。
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画①
地下鉄東豊線豊水すすきの駅 モザイク画②

 私はタイルによるモザイク画だと思ったのですが、それぞれ何をあしらっているのでしょうか? どちらも開業当時から設えられたようです。

 前者の栄町駅のほうは、これだというものを私は思い浮かばず、駅員さんに尋ねてみました。すると「○○○と聞いてはいるのですが…」と答えが返ってきて、「ははん、なるほど」と思いました。何だと思います? (答えは必ずしも3文字ではありません)。
 後者も、豊水すすきの駅の駅員さんに訊いたのですが、こちらは「さあ…判らないですねえ」と。私が何となく想像したのは…。その前に、皆さんの答えを知りたいです。

2018.9.13追記しました。「続きを読む」をクリックしてください。

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2018/07/22

東区北34条・Sさん宅「記念碑」

 道路沿いから目に入り、かねて気になっていた碑です。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」
 家人Sさんの承諾を得て、敷地の中で写真に撮らせていただきました。

 オベリスク風黒御影石の本体に同じく黒御影石の台座、その下に花崗岩(白御影石)のドーム、さらにその下に円柱と、4層にわたっています。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」 入植七十年
 最下層の円柱部分は札幌軟石だろうか。小叩き仕上げされた表面に銘鈑が嵌められています。
 銘鈑には「開拓の重責果せし この牛馬 強くやさしき たまをとどむ 昭和四十四年五月の建 コト」と。ドームの上の黒御影の台座には、「記念碑」「入植七十年」とSさんの苗字が刻まれています。

 この記念碑の隣には牛と馬の像もあります。
東区北34条 Sさん宅 牛馬像
 この台座にも銘鈑が嵌められていて、「昭和四十三年の建」です。牛馬像建立に至る由来が刻まれています。
 それによると、この地には札幌農学校の「第三農場」があり、Sさん初代は1897(明治30)年に小作人として入植、七十年余を経て「農事を中止するのやむなきに至りし故」とのことです。やはり「開墾の主役をつとめた牛馬の労苦を察しここにたまをとどむる」と。思い入れが偲ばれます。Sさんによると、1965(昭和40)年頃まで酪農を営んでいて、札幌軟石のサイロがあったそうです。

 Sさん宅の牛馬像と記念碑が建てられた1968(昭和43)、1969(昭和44)年というのは「北海道百年」と重なります。1967(昭和42)年に百年記念塔が公募設計競技により選ばれ(6月30日ブログ参照)、1968年には「北海道百年記念式典」が円山競技場で開催されました。Sさんのオベリスクからも、時代の空気が伝わってきます。

 牛馬像は「富山県高岡市 古城製作所謹製」とあります。高岡は銅器の産地です。二宮金次郎像も多く作られています(2016.4.21ブログ参照)。像の傍らに置かれているのは石臼ですかね。

2018/06/25

寺院に遺る苗穂工場の名残

 JR苗穂駅の跨線橋から苗穂工場を眺めました。
JR苗穂駅跨線橋から苗穂工場 20180624
 このアングルも、11月までです。

 工場に隣接する苗穂運転所です。
JR苗穂運転所 
 通りをはさんで、手前側にお東さんの寺があります。 

 お寺の一隅に古碑が建っていることを最近知りました。
苗穂町 大導寺 古碑
 木立の中に佇んでいます。

 碑の正面には何と刻まれているか。
苗穂町 大導寺 古碑 正面
 「札鐵苗工製」までは読めますが、その下は表面が削られていて判読できません。一番下は「碑」です。

 「道管理局場」でしょうか。
 古碑を知ったきっかけは、苗穂駅周辺まちづくり協議会発行の「苗穂マップ」に「JR殉職者慰霊碑」と書かれていたことです。JRの慰霊碑が近所とはいえお寺の境内に建っているのが、少々意外でした。

 現物を見たところ、JRになってからのモノではありません。お寺の庫裡をピンポンしてお尋ねすると、「お寺ができてからもう95年になりますが、石碑が建てられたのはたぶん昭和になってからかと思います」とのこと。
 国鉄時代は毎年8月に職員の方が来てお斎が営まれていたそうです。「法要は最近もされているんですか?」の問いに、「いえ、JRになってからは来られてませんね」と。戦前はともかく、国有鉄道より民間会社のJRのほうが政教分離の縛りもなかろうにと思うのですが、一区切りつけたのでしょうか(末注)。

 碑の側面、背面、台座に至るまでびっしり人名が彫られています。
苗穂町 大導寺 札鉄苗工碑 側面、背面
 お寺の方の話では殉職者の名前というのですが、人名の上に「世話人」とか「発起人」とあるので、建立時に在職していた人の名前かもしれません。

 ところで政教分離といえば、前に砂川市の住民が市を相手取って裁判を起こしました。市有地に神社が建っていることを憲法違反として訴えたものです。この訴訟を報じたニュースをテレビで見ていたとき、愚妻が「なんでそんなことにイチャモンつけるんだろうね」と疑問を呈しました。私は「国家神道が日本の戦争の思想的支柱になったことを反省して、政教分離は厳格に守られなければならんのだよ」と、いわば教科書どおりに諭したのですが。

 先日、北海道文化財保護協会主催の講演会で、講師の歴史家が砂川の違憲訴訟を取り上げ、「短絡的だ」と批判していました。講師が挙げた理由は、私が理解したところではつぎのとおりです。
 ・本件神社は、開拓者の心の拠りどころとなった産土(うぶすな)の神である。
 ・もともと神社が先にありきで、市有地になったのは氏子がのちに土地を市に寄付したからである。
 講師は激しく(違憲訴訟を起こした原告を)批判していました。その口吻たるや私の妻以上で、批判というよりは非難に近かった。日本史の大家に向かってエラそうに言わせてもらうならば、その言い分も判らなくはないのですが、あまり強く糾されると、私は逆に「でもなあ…」とも思ってしまいます。「短絡的」と断じることもまた、短絡的ではないかと。

 注:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年によると、この地にお寺の前身の説教所ができたのは1916(大正5)年、「国鉄苗穂工場殉職、病没者の石碑」は1920(大正9)年建立とのこと(p.268)。同書刊行時点では「国鉄苗穂工場新生会追弔会」が執り行われていたらしい。

2018/06/18

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ⑤

 6月11ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として引かれたと思われます。両者の距離は915m(503間)。一つ考えられる根拠として‘71間基数説’を示しました。碁盤目街区60間+道路11間の、ほぼ7つ分に当たります。実際、現在は東1丁目から7丁目まで、碁盤目状に街区が形成されています。 
 しかし自分で示しておいて言うのも何ですが、私は‘71間基数説’説には懐疑的です。明治の早い時期からこのあたりに札幌の中心部と同じような碁盤目を想定していたとは考えづらい。明治期はおそらく、農耕地としての開墾を計画していたと思うのです。古い空中写真や地形図をたどると、このあたり(北12条以北の東1~7丁目)に碁盤目街区が仕切られていったのは戦後です。

 では、あらためて、東1丁目通り(市道幌北線)を基線とする現況915m(503間)は、何か?
 たびたび載せている古地図をまた見てみます。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 東8丁目通り
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。
 1882(明治15)年の作成とみられるこの古地図に、東1丁目通りや東8丁目通りの原形とおぼしき道が「見込線」として描かれています(以下、煩雑を避けるため「原形とおぼしき道」は省略する)。黄色の矢印の先が前者、赤い矢印の先が後者です。

 全体を俯瞰すると、碁盤目は碁盤目ですがかなり広い間隔で引かれています。この地図の縮尺は「6厘:10間」すなわち「1:10,000(1㎝:100m)」です。東1丁目と東8丁目の間隔を測ると、8.65㎝。縮尺に照らすと865mです。間に換算すると476間。現況の両者の距離915mに比べると50m(約27間)ほど短い。
 現況との違いは気になるのですが、ともかくも500間近い間隔でほぼ正方形に区画されています。その正方形の一部に、黄色のベタで塗られています。画像では読み取れませんが、矩形に地割されて、それぞれに人名が記されています。これは1882(明治15)年時点で土地の払下げを受けたかまたはその予定の人の名前です(本年2月28日ブログ参照)。
 私は、この500間(またはそれに近い)四方の区画は、いわゆる「殖民区画」の萌芽ではなかったかと推測します。

 「殖民区画」とは何か。
 開拓使時代から三県時代にかけての移民は、開拓使の募集移民や士族の集団移住、屯田兵の移住が代表的だったが、道庁時代の開拓農村は、殖民区画制度の下で一般の農民移住によるものが主流だった。すなわち道庁設置と共に間接保護政策の下で国有未開地の払い下げ処分が活発に行われ、農業開拓の担い手となる北海道移民が増加したことに対応して、殖民地の選定作業が広く行われるようになった。殖民地とは、道庁があらかじめ調査した開墾予定地のことである、一八八六年から全道の大原野を中心に実施され、九六年までに百十一万七千七百五十一町歩を調査した。(『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』2006年、p.163)。

 殖民地の区画割りは、おおむね次のような手順で行われた。先ず基線を設け、これと直角に交わる基号線を引く。これに並行して三百間ごとに碁盤目状に区画道路を引き、この直角に交わる道路で区切られた三百間四方の一区画(中画、地積九万坪)を間口百間・奥行き百五十間の小画(地積一万五千坪、五町歩)六個に分割した。この小画が前述した開拓農家一戸分の経営面積となり、中画を九倍したものを大画(九百間四方、地積八十一万坪)と称したのである。(同書p.165)。

 前掲古地図は、開拓使時代の末期、1881(明治14)年頃の札幌の近郊の土地区画、払下げの状況を伝えたものです。三県時代を経て北海道庁が設置されたのは1886(明治19)年、「北海道土地払下規則」が公布され、殖民地選定事業が始まりました(末注)。
 本件約500間四方の区画は、道庁時代の殖民区画に先立つ開拓使時代の模索を示しているのではないでしょうか。

 注:北海道編『新北海道史年表』1989年、pp.260-264

2018/06/15

父母の血しおを今に 百年の塔は東に

 北海道百年記念塔を校歌に歌う学校が、さらにありました。
 札幌市立東光小学校。所在地は札幌市東区本町2条1丁目です。 東光小学校の学校だより「こぶし」2018年2月28日号に、教頭先生が「校歌に思う」という一文を寄せています。電網上で検索していてこれを知ったとき、みずからのウカツを恥じました。

 前に東区東雁来町にある高校のことを拙ブログで記したとき、次のようなコメントをいただいていました(2017年5月1日ブログ参照)。
 東豊高校は、昭和の後期あたりは厚別の野幌記念塔や大麻あたりからハッキリと視認出来て、あれは何なんだろうといつも思ってしました。おそらく向こうからも色々な物がハッキリと見えていたことでしょう。

 このことがアタマにあって、東区の小中学校も豊平川左岸に近いところを調べはしたのですが、まさか本町の学校で歌われていたとは。私の予想を超えていました。これで校歌は計18校(小学校11、中学校6、高校1)となりました。校章は計9校(小学校5、中学校3、高校1)で変わりません。

 さて、その東光小学校です。
東光小学校 外観
 校歌の2番に、♪父母の血しおを今に 百年の塔は東に…♪とあります。

 校舎から東方、記念塔の方角を眺めました。
東光小学校から東を望む
 もちろん、というべきか塔を望むことはできません。

 現在図で位置関係を確認します。
現在図 東光小学校-百年記念塔
 赤いが東光小学校、黄色の六角形が記念塔です。直線距離にして、9.8㎞。

 断面図を見ます。
断面図 東光小学校-百年記念塔
 標高は小学校が13.2m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。

 色別標高図を作って、あることに気づきました。
色別標高図 東光小学校-百年記念塔
 色分けは8m以下から1mごとの11段階です(地理院サイトから作成、白ヌキの○が小学校、六角形が記念塔)。

 小学校と記念塔との間がずっと低地なのは断面図でも判るのですが、学校のところが小高くなっているのですね。フシコサッポロ川の自然堤防による微高地です。戸建の民家程度の人工物が途中にあっても、条件的には恵まれていたといえましょう。校舎の上階からだったら今でも記念塔を望めるかもしれません。それにしても、10㎞近く離れた彼方です。あらためて畏るべし、百年記念塔。
 

2018/06/11

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ④

 6月9日ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として915m(503間)の距離で引かれています(各道路中心線で計測)。町(チョウ=60間)に換算しても、整数になりません。これは何に由って来たるのか?

 可能性として排除できない説を、一応考えたいと思います。
 そのまえに、東8丁目通りを俯瞰してみましょう。 
現在図 東8丁目通り クランク2箇所
 本件北12条のクランク(黄色の○の箇所)とは別に、北1~2条にもクランクがあります(橙色の○の箇所)。
 
 後者のクランクがなぜできたかは、昨年考察しました(2017.7.21、23、24、28、30、31ブログ)。原因はひとことでいうと、創成川からの起算の違いです。このクランクの南側は71間を基数にして71×6街区=426間で設けられ、北側は8町(=480間)という距離で線が引かれた(2017.7.31ブログ参照)。
 71間とは60+11間です。明治の初期、札幌本府の碁盤目状街区は、基本的に街区60間+道路11間路で区割りされました(2017.7.24ブログ参照)。

 では、その‘71間基数説’を503間に当てはめるとどうなるか。503/71≒7.08。ほぼ街区7つ分です。東1丁目通りまたは東8丁目通りを幹線道路として広幅員にすると、どうか。たとえば道路を1本だけ17間にすると、503間に合致します(末注)。(60+11)×6+(60+17)=503。
 つまり、碁盤目の7街区に区割りすることを想定して、東8丁目通りの線を引いた。この説を採ると、東8丁目通りの北12条以北は、先祖帰りしたともいえます。

 注:札幌本府でも、開拓使本庁舎周辺は15間とか20間で設定されている。『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.52

2018/06/09

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ③

 東8丁目通りの北12条以北は東1丁目通りを基線として引かれたと推測しました。では、東1丁目通りからの距離は、何に基づいたのでしょうか?
 
 まず、東1丁目通り(市道幌北線)と東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)との間の距離を、現在図で確認します。
現在図 東8丁目通りクランク 東1丁目通りとの距離
 着色は以下のとおり。
 東1丁目通り(市道幌北線):黄色の線
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線):茶色の線
 創成川:青色の線
 クランク:赤い○の場所
 東1丁目通りと東8丁目通りの距離:赤い矢印線
 創成川と東8丁目通りの距離:橙色の矢印線

 さて、東1丁目通りと東8丁目通りの距離(赤い矢印線)は、915mです(国土地理院サイトから計測)。ちなみに創成川と東8丁目通りの距離(橙色の矢印線)は877m。後者は間(ケン)に換算すると482間(1間=1.818m)≒8町(1町=60間)で、昨日ブログで述べたとおりです。
 それでは915mはというと、915/1.818=503間≒8.4町。現況で見る限り、どうも町(チョウ)単位で測ったとは想いづらい。

 古地図を当たります。
 昨日ブログでも載せた明治29年地形図ではどうか。約925mです。

 大正5年地形図で見ると…。
大正5年地形図 東区クランク
 東8丁目通りに「中通」という地名が添えられています。また、明治29年地形図では通じていなかった北12条以北と北11条以南が結ばれ、クランクが形成されています(末注)。
 東8丁目通りの北12条クランク以北と東1丁目通りとの距離は、やはり約925mです。925m≒509間≒8.5町。これが現在の通りの原形とみて差支えないでしょう。現況の距離の915mとは10mの差がありますが、いかんせん明治29年及び大正5年地形図のスケールは5万分の1です。0.1㎜で5mの違いを生じます。私の手元のモノサシは1㎜単位(三角スケールの1/500mで、0.4㎜単位)なので、誤差ということにしてください。

 とまれ東8丁目通り(北12条クランク以北)は東1丁目通りを基線としつつ、その間の距離の915m(現況)というのは、町(チョウ)単位とは別の発想で線が引かれたと思えるのです。

 注:大正5年地形図のクランクの形状は、現況とは微妙に異なっている。
大正5年地形図 東区クランク 拡大
 “曲がり具合”が、現況よりもわずかに大きい。この場所はちょうど「大友堀」が通じていたところ(青い線)で、かつてはその堀割沿いの道がクランクのナナメ道となったと思われる。しかし、その後整形されたのであろう。

2018/06/08

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ②

 昨日ブログの続きです。
 北光線(東8丁目通り)は、北12条でクランクしています。なぜ、このクランクができたか?
 あらためて確認すると、この通りは北11条以南と北12条以北で、拓かれた時期が異なります。前者が先で、後者が後です(末注①)。そして、それぞれ異なる根拠に基づき道が作られたことが察せられます。
 前者すなわち北11条以南については、拙ブログで過去にその経緯を記しました(2017.7.31ブログ参照)。端的にいうと、「創成川(の中心線)から東へ8町(=480間)」で引かれたとみられます。それが北11条までなのは、ここ(北12条通り)で旧札幌区と旧札幌村の境界が分かたれたからです。なぜここに境界線が引かれたかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」④で述べました(本年3月12~15日ブログ参照)。
 ではなぜ、境界線(北12条通り)以北で、道をまっすぐ延ばさなかったか? 行政区域が異なるからといってしまえばそれまでですが、そうせざるをえなかった物理的理由もあったと思います。

 明治29年地形図を見ます。
明治29年地形図 東区クランク 考察
 黄色と赤でなぞったのが本件東8丁目通りの原形ともいえる道です。この地図では、現在の北12条以北、北17条あたりまでの間は道がまだ通じていません。仮に赤い線を南へ直線的に延ばしていくと、黄色の線とはわずかにずれます。北12条以北は、この赤い線に基づいたと思われます(末注②)。では、この赤い線は何に基づいたか?

 結論的にいえば、橙色でなぞった線すなわち現在のいわゆる東1丁目通り(末注③)が根拠となったと考えます。
 黄色の線すなわち東8丁目通りの北11条以南が創成川からの距離に基づくことは前述しました。その創成川は、前掲明治29年地形図で青い線でなぞったのように、北11条あたりまでは直線的に掘られています。しかし、奇しくもというべきか、その北で向きを西へ曲げます。なぜ曲がったかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」②で推理しました(本年5月9日ブログ参照)。

 とまれ、基準となる線(基線)が曲がってしまったことにより、基準にしづらくなったのではないでしょうか。で、代わりに基線としたのが、川沿いに引かれた道(現在の東1丁目通り)です。こちらは北12条以北も直線的に延ばされています。
 詮ずるところ、東8丁目通りのクランクは北11条以南と北12条以北の基線の違い、と私は考えます。前者は創成川を基線とし、後者は東1丁目通りを基線とした。前者は、前述のとおり創成川(の中心線)から8町(=480間)の距離で引きました。では後者はどのように引いたのか?

 注①:昨日ブログ掲載の「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」参照。凡例からすると、赤茶色で描かれているのは既存の道路、薄茶色は「見込線」
である。
 注②:地形図をつぶさに見ると、赤くなぞった道は北17~20条あたりでわずかに曲がっている。どこまで正確に測量したものかどうかは判らない。
 注③:北11条以南は国道5号、北12条以北は札幌市の市道「幌北線」。

2018/06/07

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ① 

 本年3月10日ブログから始めた「東区 北光・鉄東の謎 4題」を再開します。
 ① 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 なぜ、北12条で曲がっているか?
 ② 「創成川の謎」 なぜ、鉄道以北で少しずつ北北西に向きを変えて流れるか?
 ③ 「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」 なぜ、道路に対してナナメか?
 ④ 「北12条通りの謎」 なぜ、境界線(旧札幌区と旧札幌村)が引かれたか?
  
 ④(3月15日)→③(4月9日)→②(5月9日)と解いてきて、ようやく①に来ました。寄り道脇道に逸れながら、3か月になんなんとします。成り行きまかせで逍遥することはできても、計画的にアタマを切り替えるのが苦手な私です。しかしなんとか最後まで行けるように努めます。

 さて、 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 です(末注)。
現在図 東区 北光線クランク
 場所を上掲現在図の赤い○で囲みました。

 北12条東7丁目、歩道橋から南を望んだ風景です。
東区 北光線 クランク 現況
 画像は本年3月に撮ったもので、路傍にまだ雪が残っています。北11~12条、東区役所の北側でカクっと曲がっています。

 同じく歩道橋から北を眺めました。
東区 北光線 クランク 現況②
 北12~13条で、またカクッと折れます。

 私はこの変形?クランクに「東区最大の」と修飾しました。もとより恣意的です。なんでこんなクランクが生じたか?

 このクランクの気配は明治の早い時期にすでに現れます。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 たびたび載せている「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。これを見ると、答えはあらかた出てしまいますが、少しあーでもない、こーでもないと逍遥しましょう。

 注:一般的に呼び慣わされている「北光線」とか「東8丁目通り」と記したが、札幌市の認定道路としては「主要市道真駒内篠路線」。北光線というのは本来、この通りを走るバス路線名か。

2018/05/05

創成川の謎 ①

 「東区 北光・鉄東の謎 四題」(2018.3.12ブログ参照)を再開します。
 ① 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」
 ② 「創成川の謎」
 ③ 「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」
 ④ 「北12条通りの謎」

 ④→③→②→①の順で、④③まで解いてきました(④3月15日、③4月9日各ブログ参照)。今回は②「創成川の謎」です。

 現在図で、謎の謎たるゆえんを確認します。
地理院地図 創成川 札幌駅以北
 創成川は基本的に、真北から西へ約10度傾いて、直進して流下しています。これが札幌の街の(中心部の)南北の基軸になったことは、知られるところです。

 しかるに、JR函館線以北で、西への傾きが少しずつ大きくなります。前掲図に黄色の○で囲ったあたり、すなわち北13条通りで傾きが顕著です。それまで東1丁目通りが川にぴったり沿っていましたが、ここから北へ行くにつれて離れていきます。おおむね北18条、赤い○で囲ったところの少し北のあたりまで傾き具合が逓増しています。東1丁目通りとは、1丁目分くらいの乖離です。
 その北は直進しているようですが、実は少しずつ傾いています。が、そこまでは追わないこととしましょう。ひとまず、黄色の○の北13条通りから赤い○の北18条通りあたりまでの傾きを追究します。なぜ傾いているのか。

 「なぜ?」の前に、この傾きがいつから生じたものなのか、見ておきます。
 「北海道札幌之図」1873(明治6)年です(北大図書館蔵)。
北海道札幌之図 明治6年 創成川
 創成川の流れを、黄色の○で囲ったあたりでご覧ください。

 拡大してみます。
北海道札幌之図 明治6年 創成川 西への傾きのあたり
 黄色の○の南端部に書かれている「運漕局」というのが、現在のJR線の北側、北6条から北7条あたりです(末注①)。

 さて、運漕局から北東へ枝分かれしているのが大友堀です。というか、大友堀のほうが古かったので、北へ直進させたほうを枝分かれというべきですが。大友堀の流れに沿って北東の端の方に「生産局」と書かれています。黄色の○の東端の外です。これが北10~11条東6丁目に当たります(末注②)。
 という位置関係をアタマに入れて創成川をあらためて見ると、北11条あたりから西への傾きが大きくなっているのが見て取れます。
 
 次に、たびたび紹介させてもらっている「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年です(北大図書館蔵)。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 創成川
 橙色の○で囲ったのが現在の北12条通りです(2018.2.23ブログ参照)。
 創成川はここから北へ行くにつれて、流れは西への傾きが大きくなっています。

 前掲2枚の古地図は、前者が開拓使の測量課、後者が札幌県地理係の技師が製図したものです。近代的な測量技術に基づいていると思われます。これらからみて、創成川は明治のかなり古い時期から、今と同じように西への傾きを大きくして流れていたといえましょう。「明治の古い時期」と記しましたが、創成川のおおむね北6条以北(寺尾堀)が開削されたのは1870(明治3)年です(末注③)。たぶん開削当初から西へ西へと傾けて流したのではないでしょうか。

 注①:君尹彦講演記録 『ひがしく再発見 まちの歴史講座② 札幌村の成立』2003年、pp.55-59
 注②:同上
 注③:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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