札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 
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2018/06/20

北1西1の記憶 ②

 北1条西1丁目の6年前の風景です。
北1西1 111004 市役所屋上から
 2011年10月、市役所の屋上から撮りました。この風景も、忘れ去られつつあります。

 同じ場所の現在です。
北1西1 180620  市役所屋上から
 「創成スクエア」が建っています。同じアングルでは、ビルのてっぺんまで収まりません。

 26階建て、超高層のオフィス棟です。
創世スクエア 180620 市役所屋上から
 建物が竣工式を迎えたそうですので、拙ブログでもそれを記念(?)して、この3年余を振り返っておきましょう。 
 
 2015.3.5
創世スクエア 150305
 2016.7.9
創世スクエア 160709
 2016.9.3
創世スクエア 160903
 2016.10.1
創世スクエア 161001
 2016.10.28
創世スクエア 161028
 2017.2.17
創世スクエア 170217
 2017.3.21
創世スクエア 170321
 2017.5.28
創世スクエア 170528
 2017.7.19
創世スクエア 170719
 2017.8.26
創世スクエア 170826
 2017.11.28
創世スクエア 171128
 2017.12.22
創世スクエア 171222
 2018.3.5
創世スクエア 180305
 2018.4.10
創世スクエア 180410
 2018.6.5
創世スクエア 180605
 テレビ局のマスコットキャラクターが鎮座しました。

創世スクエア HTB onちゃん

 実は今日、このビルに行ってきました。ビルの中に入るのは6月5日ブログ以来二度めですが、上階に上がったのは初めてです。オフィス棟にテナントとして入っている会社の人とお会いする用事がたまたまあり、「新しモノ見たさ」で足を運びました。 

 3年余にわたる前掲の定点画像を撮り続けたのも、この場所に思い入れがあったからです(2015.2.13ブログ参照)。変わりゆく風景を、せめて記憶と記録にとどめておきたいと思いました。私にできるのは、そのくらいです。
 
 このビルの竣工式のことはテレビでも報じられていましたが、さすがに例の物件(6月5日ブログ掲載)のことまでは触れられていなかったようです。今日会ったYさんは先月からこのビルでお勤めだそうですが、ご存じありませんでした。Yさんから「ここ、元は何がありましたっけ?」と尋ねられたので、私はここぞとばかり、本件モニュメントをご案内したのです。Yさんは「こんなモノがあったとは…」と驚いていました。
 ことほどさように、人の記憶は薄れゆきます。Yさんという一人のヒトの記憶を呼び覚ましただけでも、私としては本件モニュメントが遺されて良かったと思いました。「たった、あれだけ」の物件かもしれません。しかも、6月5日ブログに記したように、出来上がったモノに不満がないわけではない。
 本件にかかるこの数年の一連の経緯を顧みて思うに、それを遺してもらうだけでも相当なエネルギーを要します。あの場所は私の所有物ではないからです。他人の持ち物に口をはさむことだからです。厳密に言えばこのビルは再開発事業で建てられ、税金も投入されていますが、私が負担した税金額を割り返したら、微々たるものでしょう。

2018/06/05

北1西1の記憶

 「さっぽろ創世スクエア」です。
さっぽろ創世スクエア 北側(上)
さっぽろ創世スクエア 北側(下)
 5月31日に竣工したそうなので、見てきました。
 超高層なので、カメラのレンズを横長にしたら建物が収まりきれません。

 同じ場所の2003年の風景です。
旧北海道ホルスタイン会館 王子サーモン 2003年
 私の目当ては、かつてあったこの建物の痕跡をたどることでした。
 2015年2月13日ブログで記したとおり、新しくできる建物の片隅に‘土地と建物の記憶’を遺してもらうことをお願いしてあったからです。このたび、その物件を拝見してきました。

 物件は、北側の入口を入ったところにあります。
さっぽろ創世スクエア 北側の入口
 北側にはオフィス棟があり、すでに一部開業していますので、入ることができます。

 あらかじめ再開発事業JVの担当者の方に確認の上、伺いました。
旧北海道ホルスタイン会館 土地と建物の記憶
 物件はすでにできあがっていました。

 かつてこの地にあった建物に用いられた煉瓦が壁に貼られ、由来について説明されています。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」のレンガ
 説明は以下のとおりです。

この場所には「旧王子サーモン館」と呼ばれる建築物が立地していました。
「旧王子サーモン館」は、終戦から4年後の昭和24年、「北海道ホルスタイン会館」として建てられました。
札幌における戦後初の耐火構造による2階建の事務所建築で、外観は全面レンガ積(アメリカ積)と切妻屋根が特徴的でした。
窓台や玄関ポーチには札幌軟石が用いられ、外壁のレンガは通常の赤レンガではなく、窯変色のものが使用されていました。
上のレリーフは、「旧王子サーモン館」の面影をいまに伝えるため、建築物に使われていたレンガを用いて制作しました。


 建物の意義や特徴についてはもっともっと書いてほしいことがありましたが、たくさん書けばいいというものでもありません。また、本件「レリーフ」では、煉瓦が実際に積まれ方(説明文でいうところのアメリカ積ではなく、小端空間積み(2017.5.30ブログ参照)のように表現されています。これだけ一見するとこのように積まれていたかに受け取られる可能性もありますので、はばかりながら拙ブログでは補足しておきましょう。

 実際の積まれ方は、こうでした(2012年建物解体時に撮影)。
王子サーモン館 外壁煉瓦 2012年
 ほとんど長手面(煉瓦の細長い面)ばかりオモテに出して積まれていました。一般に「アメリカ積み」というのは、「れんがの長手面を5~7段続けて、小口面の列を混ぜ」る(末注)積み方ですが。本件を見ると5~7段どころかほとんど長手面ばかりのようでもあります。

 しかるに、「レリーフ」ではなぜ違う積み方をしたかを察するならば、煉瓦の平(ひら)面(=直方体でもっとも面積の大きい面)を見せたかったのでしょう。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」の煉瓦 刻印
 平面には「2」という刻印が確認できます(2016年2月8日ブログ参照)。

 本件は、2012年に建物が解体された際、文字どおり瓦礫となった煉瓦を札幌建築鑑賞会が貰い受け、再開発の事業者にお願いして実現したものです。それがなければ、煉瓦はすべて産業廃棄物となっていました。厳寒の2月、解体工事現場で手がかじかみながら煉瓦を選り分けたことを懐かしく思い出します。
 
 この経緯は前掲の説明文には記されていませんし、喧伝することでもないのですが、せめて鑑賞会の通信では記録に留めておきたいと思います。先だって拙ブログで触れさせていただいたしだいです。前述のこぼれ話も、おそらく「さっぽろ創世スクエア」の公式媒体等で大々的に取り上げられることはないでしょうから、拙ブログ読者のお楽しみとして味わってください。記憶に薄れゆく風景をとどめるのも、あえていえば拙ブログの存在価値だと思っています。

 とまれ、再開発事業JVの担当者の方には、6年ぶりに記憶を蘇らせていただき感謝いたします。煉瓦の引き取り作業に従事してくださったNyさん、Tさん、Shさん、及び長い間保管してくださったⅠさん、Sjさん、Naさん、どうもありがとうございました。

 本件の位置は下図をご参照ください。
さっぽろ創世スクエア 1階平面図 レリーフ位置
 北2条通り側の入口のエレベーターの前です(赤い印を付けたところ)。

注:江別市教育委員会『江別のれんがを歩く』2008年、p.152による。

2018/03/31

「札幌」と「さっぽろ」の間

 2031年に開業されるという北海道新幹線の札幌駅ホームの位置が決定したと、最近報じられています。現駅の200~300m東側、創成川を跨ぐ形になるとのことです。新幹線ホームをめぐっては、いろいろな案が出され紆余曲折しました。このたびの案がすんなり決まらなかったのは、なんといっても在来線ホームから離れていることでしょう。利用者の負担を軽減するために、「動く歩道」の設置などを求める声もあるようです。

 私が北海道新幹線を利用する頻度はおおそらく極めて低いので、ホームの位置について切実な感想は正直言ってありません。ただ、札幌駅周辺が大きく改造されることになるこれを機に、一つ関係当局で検討してほしいことがあります。それはJR「札幌」駅と地下鉄「さっぽろ」駅の距離です。
 新幹線と在来線のホームの距離がクローズアップされていますが、実はJRと地下鉄の駅もかなり離れています。
現在図 札幌駅とさっぽろ駅の距離
 各ホームの中心地点で距離を測ると、新幹線と在来線は約350m、JRと地下鉄は約300m、離れています(新幹線ホームは創成川上を基点として計測)。上掲現在図で、黄色の線で示した新幹線ホーム想定位置と在来線ホームの間隔、赤い線で示したJRホームと地下鉄「さっぽろ」駅ホームの間隔を比べてみてください。新幹線利用者の在来線との乗り継ぎが不便というなら、地下鉄との乗り継ぎも負担が大きい、しかもこちらは現時点においてすでに深刻といえるのではないでしょうか。

 なぜこれをいま問題視するかというと、それは以下に述べる事情が重なっているからです。
 利用したことのある方は実感されていると思いますが、特に地下鉄南北線「さっぽろ」駅の北端の改札口及びホームへの階段はラッシュ時、非常に混雑します。これは札幌駅周辺の再開発と観光客の増加に伴い、近年ますますひどくなっているようです。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段①
 混雑していないときも、北側の改札口からホームへの階段はエスカレーターが無いため、大きな旅行鞄を抱えた観光客が階段をえっちらおっちら昇り降りする光景を目にします。
 
 今日の夕方、この場所でしばらく観察していたら、こんなことがありました。人ひとり入れるくらいの巨大なスーツケースを引いてきた旅行客とおぼしき女性が、改札口をICカードでいったん入ったのですが、ホームへの階段を降りずにまた改札口を出ようとしました。しかし、同じ駅で出ようとするとアラームが表示されてしまい、出れません。
 察するに、この女性客はエレベーターかエスカレーターでホームに降りたかったようです。しかし、どちらも無い。女性は近くにいた駅員に話しかけました。駅員は「エレベーターは、もう少し先です」と答えたのですが、女性はそれを聞いて逡巡した様子です。エレベーターのほうまで移動するのも大儀なのでしょう。結局、駅員が女性のスーツケースを持って、階段を一緒に降りていきました。ご苦労さまなことでした。

 地下鉄が到着して乗客がホームに吐き出され、階段を昇り始めると、大変混み合います。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段②
 駅員が、階段を降りる客を左側、昇る客を右側へと大声で繰返し誘導し、混乱を防いでいます。そしてホームでは、できるだけ先(南の方)へ行くように呼びかけています。北側の階段を降りたところに滞留すると、いわば“糞づまり”状態になるからです。

 南北線「さっぽろ」駅では、エスカレーターやエレベーターはホームの中央から南側に設置されています。JR駅方面からの利用者の動線には入りづらいのでしょう。これは私の推測ですが、北側にエスカレーターを設けたら、おそらく乗降客はますます滞って混雑すると思われます。痛し痒しです。しかも、「さっぽろ」駅はホームがいわゆる「島式」で、麻生行きと真駒内行きの双方の利用者が同じ場所に行き交うため、混雑に拍車をかけています。
 かてて加えての、JR駅までの距離なのです。札幌に長くお住まいの方はご存知ですが、JRと地下鉄の距離は30年近く前、JR駅が高架化に伴って北側にずれたため、より長くなりました。数十m延びたと思います。JRの高架化に伴って、ある意味「不便になった」のです。新幹線ホームは、さらに遠隔になります。

 さて、ここで私の結論的提案です。地下鉄南北線「さっぽろ」駅のホームを、北側すなわちJR「札幌」駅寄りに延長してもらえませんか。単に延ばすのではなく、「真駒内」行きの乗り場と「麻生」行きの乗り場を分ける、というか「ずらす」のです。JRから地下鉄に乗り継ぐ特に観光客は、「大通」「すすきの」方面への動向が大きいと思われます。そこで、JR駅寄りに延長したホームを「大通」「すすきの」方面「真駒内」行きの乗り場とします。「麻生」行きの乗り場は、現在の北側改札口及び階段の以南とする。できれば、それぞれにエスカレーターを付ける。これにより、現在の北側階段に集中する混雑を緩和するとともに、JR駅との距離を短縮して乗り継ぎ客の負担を軽減できます。
 「島式」のホームで乗り場を行き先によってずらすのは、名古屋市営地下鉄の東山線「名古屋」駅で見られます。札幌も、東西線「大通」駅の「島式」ホームは、「宮の沢」行きと「新さっぽろ」行きの乗り場がわずかにずれています。といっても、ずれは車両1両分もありません。理由は知りませんが、もしかしたら、双方の乗車位置を微妙にずらしているのかもしれません。名古屋の場合は、もっと大幅にずらされています。

 札幌の「さっぽろ」駅も、作った当初からそうすべきだったとも思います。もっといえば、初めからもう少し「札幌」駅寄りにホームを設けるべきでした。と、これは詮無いことです。おそらく地下鉄建設時、こんにちの混雑は想定されず、バリアフリーとかユニバーサルデザインという思想もまだなかったのでしょう。動線上の商業施設との兼ね合いもあったのかもしれません。
 私が思いつくこの程度のことは、すでに当局の関係者はとっくに考えたにちがいありません。しかし話題に上らないところをみると、ホームの延長というのは技術的にまたは経費的に極めて困難なのでしょうか。

2018/03/21

札幌百科 第15回 御礼

 札幌建築鑑賞会「札幌百科」第15回「札幌の緑の歴史 こぼれ話」を終えました。
 
 これまで拙ブログでも綴ってきた東皐園の話題などを、講師の笠康三郎さんに緑花の専門家の眼で鑑みていただきました。私が疑問を呈したことも解明していただき、感謝いたします。
 明治の初期に築造された洋風庭園の跡地(大通西1丁目、市民ホール)を会場にして、往時を偲ぶことができました。
 その唯一の“よすが”ともいえるエルム(ハルニレ)の古樹です。
札幌百科第15回 大通西1市民ホール エルム前
 笠さんによると、この大木が遺ったのは、道路と市民ホール(旧市民会館)の敷地の境目にあったことが幸いしたとのことです。もし、どちらか一方の単独の所管だったら、エイヤと伐られてしまったかもしれないと。担当部局間で維持管理の(逆に言えば、伐採の)責任を“押し付け合った”ことで、どっちつかずのまま、残りました。真偽のほどはともかく、世の中何が幸いするかわかりませんね。ちなみに、この種の“はぐれ樹”は、今はたしか緑の推進部というところで担当しているかと思います。

 “はぐれ樹”を2014年9月29日ブログで紹介したとき、書きそびれたことがあります。本件市民ホール前のハルニレの保全に尽力されているのが、笠さんだということです。札幌市都市景観条例に基づく「札幌景観資産」に、樹木として唯一指定されたのも、そのおかげといってよいでしょう。

 この場所は現在、同じ街区にある放送局が移転することに伴い、市役所本庁舎の建替えなどの再開発が取りざたされています。老大木の行く末も気になるところです。生き物をこの環境下で未来永劫金輪際永らえさせるというのは、大変難しいと思います。せめて私も、この樹がはぐくんできた物語を継承していきたい。有島武郎がこの樹からインスピレーションを受けたであろうことも(昨日ブログ参照)、ますます確信を深めました。

 今回の行事は多くの方にお聴きいただきたく、会場の定員(88名)ぎりぎりまで申込みをお受けし、81名の方が参加されました。満席の盛況をお礼申し上げますとともに、運営に行き届かなかった点をお詫び申し上げます。
 

2018/03/20

エルムは立っていた。独り、寂かに、大きく、淋しく

 北海道立文学館で「『星座』の街・札幌を歩く」という講演を聴きました。
 同館での特別展「有島武郎と未完の『星座』 明治期北海道の青春群像」にちなむ講座の一環です。有島が1921(大正10)~22(同11)年に発表したこの小説には、明治30年代の札幌の街の様子が描かれています。そのくだりは私も前に読んでいて、漠然と「このあたりかな」という印象は持っていたのですが、このたび講師の谷口孝男さんの解説により、場所を具体的にあとづけることができました。

 札幌農学校の学生が幾人か主人公として登場し、物語がオムニバス的に展開します。その一人で有島の分身とも目される園(その)が5月のある日、農学校の演武場(時計台)から南へ、大通を経て「貧民区」といわれる一画に向かうという一節があります。以下、ところどころ引用します。
 時計台のちょうど下にあたる所にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石のように湾曲していた。(中略)
 碁盤のように規則正しい広やかな札幌の往来を南に向いて歩いて行った。ひとしきり明るかった夕方の光は、早くも藻岩山の黒い姿に吸い込まれて、少し靄がかった空気は夕べを催すと吹いてくる微風に心持ち動くだけだった。(中略)
 大通りまで出ると、園は初めて研究室の空気から解放されたような気持になって、そして自分が憚らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町に余る広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落とすことができないのは、北二条と大通りの交叉点にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、寂(しず)かに、大きく、淋しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に鬱蒼と飾られて……園はこの樹を望み見ると、それが経てきた年月の永さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けとることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。
 
 農学校が北1~2条西1~2丁目にあった当時で、時計台は今の場所から130mほど北にありました。園は時計台から、たぶん西3丁目通りを南下して大通公園に出ます。そこで東方を望んで、エルムの大樹を眺めました。その場所が「北二条と大通りの交叉点」というのは、有島の勘違いとされます(末注①)。前後の文脈からすると、「北二条」というのは「西2丁目通り」ではないかと私は想いました。
 その「交叉点」を現在に当てはめると、この場所です。
大通西1丁目 市民ホール南西角 エルム
 『星座』に描かれたエルムというのは、現在の市民ホールの敷地に遺る古木のことではないだろうか。

 造園家・笠康三郎さんによると、このエルムは樹齢300年ほどだそうです。『星座』で前述の園がここを歩いたのは1899(明治32)年とされるので(末注②)、当時でおおむね200年ということになります。
市民ホール前のハルニレ
 有島大先輩の描写に容喙するのも無粋ながら、「札幌原野の昔」は「大密林」ではなく、疎林帯だったようです。それゆえになおのこと、この樹は孤高を持していたともいえましょう。

 今日の講演で谷口さんはエルムがどこにあったかを特定されなかったが、有島にインスピレーションを与えたのは現存するこの樹だと私は想いたい。
 
注①:星座の会編・有島武郎『星座』1989年、注解25(p.225)による。
注②:同、注解22(同上)による。 

2018/01/29

大通公園の黒田、ケプロン像

 佐藤忠良のレリーフ「開拓」(1月27日ブログ参照)は、“まぼろしの百年記念塔”構想(1月17日ブログ参照)が一つのきっかけとなったと私は想います。“まぼろし”塔が階層性、上下関係を明確に示していたのに対し、レリーフは必ずしもそうは見えません。北海道の歴史が時系列で横並びされています。“開拓”の視点であることは否めません。こんにち的にみれば限界、制約はあります。しかし私は、このレリーフもまた歴史的な産物であることを見て取りたいと思います。 

 一方、“まぼろし”の構想は、別な形で実現しました。
 民間有志によって1967(昭和42)年、「北海道開拓功労者顕彰像」が4体、建立されたのです。4体というのは、黒田清隆とホーレス・ケプロン、岩村通俊、永山武四郎です(末注)。

 黒田とケプロンの像は、札幌の大通公園、西10丁目にあります。
大通公園 黒田、ケプロン像
 “まぼろし”構想時の明治天皇、黒田、佐藤昌介、依田勉三から、上記の4体に変わりました。

 これらの像は、民間有志が「建立期成会」を作り、寄付金を集めて建てたものです。会長は当時の北海道商工会議所連合会会頭。建てられたのは都市公園内で、建立には北海道と札幌市、旭川市の補助金も充てられています。百年記念塔は、道費に民間の寄付を加え、知事を会長とする「建設期成会」のもとで建てられました。規模の違いはありますが、記念塔と4銅像に本質的な違いはないのではないかと私には思えます。

 もし、「アイヌ民族には絶対に容認できない、アイヌ民族不在の歴史観に基づく」ことを理由に、百年記念塔を「早急に解体」すべきだとするならば(1月10日ブログ参照)、つまり老朽化を本質的理由としないならば、論理的には4銅像もその対象とせざるをえなくなります。札幌市役所本庁舎ロビーの島義勇像はどうでしょうか。台座に刻まれている銘文は「容認」できるものでしょうか(2017.7.26ブログ参照)。解体する・しないをどこで線引きできるか。

 かつてソ連邦が崩壊したとき、かの国の各地でレーニン像が倒されました。現在、米国では南部の州で南北戦争の南軍側英雄(リー将軍とか)の銅像を撤去する動きがあると聞きます。百年記念塔の解体を求める意見と通底する現象に見えます。
 過去の歴史観を現在の歴史観で裁くこと=“後出しじゃんけん”には、慎重でなければならないと私は思います。しかし、レーニン像にせよ、リー将軍像にせよ、“後出しじゃんけん”とは言い切れない同時代性が包含されています。問題はどう裁くか、だとも思うのですが、これが一筋縄ではいきません。
 
 ありきたりな結論で申し訳ないのですが、銅像や碑、モニュメントというモノは、建てるのも、遺すのも、壊すのも難しい。
 百年記念塔については、ありきたりではなく危険な結論を述べます。無責任を承知で言いますが、「北海道百年」の歴史的末路として自壊に委ねるというのはどうでしょうか。ひたすら朽ち果てるのを待つ。周囲に「破片が飛散して危険です」という注意を促して、カネをかけずに放置する。「見るに堪えない」って?(1月21日ブログ参照) しかし、そういうモノを50年前に先人が造ったのですからね。

 注:『北海道百年記念事業の記録』1969年に、「この案(引用者注:明治天皇ほかを顕彰する記念塔構想)に対しては、像の対象人物の選び方と建設場所が問題であるという意見もあり、のち結果的には記念塔と別に開拓功労者の銅像が民間有志によって建立されることになった」と記されている(p.48)。岩村像は円山公園、永山像は旭川の常盤公園に建てられた(同書p.137)。 

2018/01/28

忠良さんのレリーフ 道庁と百年記念塔

 佐藤忠良のレリーフ「開拓」。
 道庁庁舎の説明によると、1967(昭和42)年から1968(昭和43)年6月に制作されました。
 道庁の大理石壁面と北海道百年記念塔の鉄製を見比べると、一部異なっています。
道庁 忠良さんレリーフ 拡大
百年記念塔 忠良さんレリーフ 拡大
 前者では、先住民の狩猟に続いて右側には針葉樹林(エゾマツか)、そして木を伐る開拓者が彫られていますが、後者では樹林の隣は馬に乗る二人の人物、開拓使の本庁舎が続きます。樹林の上のエゾシカ?は、道庁のは2頭ですが、記念塔は1頭です。記念塔の方は、通路のサイズに合わせて一部割愛されたのでしょうか。

 騎乗の二人は、手前が黒田清隆、奥がケプロンです。その二人の右上に、異なる七光星が輝いています。
道庁 忠良さんレリーフ 七光星
百年記念塔 忠良さんレリーフ 七光星
 記念塔の方は、百年記念で制定された北海道章のデザインとなっています。

 忠良さんのレリーフは、まぼろしの百年記念塔(1月17日ブログ参照)で構想された「開拓の絵図」の「浮き彫り」が実現されたもののように思えます。

2017/11/17

20年前の今日

 何が起きたかということは報道されているとおりです。
 それを偲びます。
たくぎん旧本店 建物 2002年
 1909(明治42)年、大通西3丁目に建てられた北海道拓殖銀行本店の建物で、1959(昭和34)年宮の森に部分移築されました(末注)。2002年5月に撮ったものです。たしか、この後まもなく解体されました。
 この建物の写真が、電網上で意外と見つけられませんでした。見つかったと思ったら、札幌建築鑑賞会関係のサイトだったり、記述が不正確だったり。電網社会にはありがちですが。
 創建時は「木骨石張り」で、移築時にはRCとされたようです。移築に際し、細部意匠がかなり変更されているといいます。では、元の場所にあったときはどうだったか。これも、意外と見当たらない。たくぎんの周年記念誌が出どころらしいものはありますが。

 1957(昭和32)年頃撮影という写真を載せます。
たくぎん 旧本店 1957年頃
 札幌建築鑑賞会で2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」展に、Kさんから出品していただいたものです(所有者ご本人が写っているところを一部加工しています)。手前味噌ですが、こういう写真があまり露出していない。撮影年という点でも、昭和30年代は逆に珍しいかもしれません。Kさん、ありがとうございます。

 宮の森にあったときは札幌軟石のような色合い肌合いだったのですが、この写真を見るとずいぶん白いですね。真ん中の部分が1/3くらいにカットされています。右側の翼棟は元は三角ペディメントですが、移築後は櫛形に変わってます。[つづく]

  注:日本建築学会編『総覧 日本の建築1 北海道・東北』1986年、p.19。以下、建物に関する記述は同書による。

2017/10/17

時計台ナナメ向かいのビル 補遺

 昨日ブログに対して、「スタッフK」さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
アコム時計台前ビル 自社広告 1993年
 北1条西3丁目の消費者金融会社(以下「A社」という)の自社広告物について、私は昨日ブログで「自主的に撤去された可能性が高いと思われます」と記しました(画像は1993年撮影)。これに対しスタッフKさんは、広告物の撤去はビルの所有者が替わったことによるもので、「自主的」とはいえないのではないかというご指摘です。実は私もその可能性は一抹抱き、昨日のブログの末尾に「経緯はどうあれ」と言い訳的に入れました。
 結論的には、スタッフKさんが的を射ていると思います。ネットで調べたところ、本件ビルは現在「マルイト時計台前ビル」となっていて、不動産賃貸業の「マルイト株式会社」の所有となっているようです。A社が自社ビルを売却した際、広告塔を撤去し、その後現所有者が自社広告物を新たには設けなかった、といったところが真相でしょうか。札幌市屋外広告物条例によると、本件広告物のあるエリアは自家用でなくても設置は可能です。にもかかわらず撤去したのは、コストパフォーマンスかもしれません。かつてこのビルはほぼ全館、A社の店舗(貸金だけでなく、レンタル事業など)が入っていました。現在はそうではないので、派手に広告する必要性がないのでしょう。現所有者のマルイトもしかり。昨日ブログの末尾に記したA社への賛辞は贔屓目に過ぎましたか。

 ネットでA社のサイトを閲覧したところ、現所有者のマルイトとは同じ源流であることを知りました。A社の前身は、「マルイト株式会社」、その前は「丸糸商店」だったのですね。

 ところで札幌で「マルイト」というと、私はこちらのビルを思い出します。
マルイト札幌ビル
 北2条西1丁目にあるホテルです(画像は本年3月撮影)。
 この建物は2000(平成12)年、北海道営林局の跡地に建てられました。営林局時代の樹木を外構に遺したことなどが評価されて、2001(平成13)年、第10回札幌市都市景観賞を受賞しています。

 植栽帯の札幌軟石も古そうです(画像は2014年12月撮影)。
マルイト札幌ビル 外構 札幌軟石
 こういう会社なので、時計台前ビルもあえて自家用広告を立てなかった。と見るのは、これまた贔屓目でしょうか。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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