FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/11/11

雪像にもなった百年記念塔 ③

 「さっぽろ雪まつり」第19回1968(昭和43)年で雪像となった北海道百年記念塔には、気になるところがほかにもあります。

 手前の土台部分に彫られているテーマです。
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔 テーマ1
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔 テーマ2
 「青年よ試練の壁に耐えて立て」らしい。

 北海道百年を記念したであろう雪像にしては、なんとも精神修養的です。百年記念事業自体のテーマスローガン「風雪百年 輝く未来」と比べてしまいます。1966(昭和41)年に決った後者をあえて使わなかったことに、何か意図があるのでしょうか。

 記念塔を模した雪像のそばに、青年とおぼしき群像も作られています。
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔 青年?群像
 右端は牛乳缶を足元に置いた女性、その左隣はドリルを持った炭鉱夫のようです。「試練の壁」に耐えるとは?

 この雪像が立てられた1968年2月前後のできごとを、年表から拾ってみました。
 同年1月17日 米原子力空母エンタープライズ入港反対の反日共系全学連、佐世保で機動隊と衝突
 1月19日 エンタープライズ入港、全学連、外務省に乱入
 2月26日 成田空港反対の農民と反日共系全学連、機動隊と衝突、重軽傷400人(3月10日、31日も衝突)
 3月28日 東大安田講堂、医学部紛争で「全共闘」学生に占拠され、卒業式中止
  (『新北海道史年表』1989年から)
 時代背景を嗅ぎ取ってしまうのは穿ちすぎか。

 2018.11.12追記 電網検索によると、前述の「青年よ…」はどうやら、ときの北海道知事町村金五氏が放ったコトバらしい。さすが内務警察官僚出身の町村氏である。いや、ますます牽強付会か。
スポンサーサイト

2018/11/10

雪像にもなった百年記念塔 ②

 昨日ブログの続きです。
 1968(昭和43)年2月に開催された第19回「さっぽろ雪まつり」で、北海道百年記念塔が雪像として制作されました。設計競技の結果が公表された翌年で、実物が着工される前のことです。

 絵はがきで本件雪像を見つけた札幌建築鑑賞会スタッフKさんは、塔の左方の「参道状の長城(?)」に注目しました。
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔1 再掲
 階段が設けられ、ぐるりと塔につながっています。この階段を昇って塔を眺められるような仕組みです。壁体には目地もかたどっています。石積みの想定でしょうか。
 
  これはホンモノの当初案にあった「石積みマッス」と展望台(本年6月30日ブログ参照)をかたどったのかもしれません。Kさんは「雪の結晶のごとく一瞬の雪像だったのでしょうが、長城部分が実は建造されていたというところにロマンを感じてしまいました」と感想を述べています。

2018/11/09

雪像にもなった百年記念塔

 札幌建築鑑賞会スタッフKさんから、「さっぽろ雪まつり」で北海道百年記念塔の雪像が作られたことを教えていただきました。Kさんが入手した「雪まつり」の絵はがきに写っています。1968(昭和43)年の第19回らしい。「北海道百年」の年です。Kさんによると、記念塔建設期成会の募金PRの絵はがき(本年3月25日ブログ参照)もセットになっていました。前年(1967年)12月に記念塔設計競技の結果が発表され、翌1月から募金が始まっています(末注)。雪まつりはその2月に開催されました。募金活動の恰好の場となったのでしょう。同年11月に着工しました。

 Kさんに触発されて、私も雪まつりの古写真を札幌市公文書館で漁りました。
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔1
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔2
 右側に作られたのは開拓使本庁舎(1873年築、1879年焼失)ですね。

 記念塔の部分を拡大してみます。
さっぽろ雪まつり第19回 百年記念塔 拡大
 Kさんのコメントです(太字)。
 さすがに雪像では同じフォルムは難しかったのか、ディフォルメされてずんぐりむっくりです。 
 なんとなく“なんちゃって記念塔”に見えてしまいます(笑)。


 パネル(外壁)のプロポーションは、ホンモノの塔と異なります。ホンモノでは上層部になるほどタテ長になりますが、本件雪像ではほぼ均等あるいは上の方が短めです。展望室らしき部分がかなり高層に設けられています。これはホンモノの当初案どおりですが、実物では低層部に変えられました(本年7月2日ブログ参照)。てっぺんに細い柱が立ち、何やら星状の造形物が付いています。前年(1967年)に制定された北海道章本年1月28日ブログ参照)でしょうか。 

 注:「北海道百年記念塔建設資金募金取扱要領」『北海道百年記念塔建設期成会関係資料』pp.7-12

2018/10/08

厚生年金会館

 テレビ番組絡みのお知らせを二つ。
 明日10月9日HBCの夕刻の番組「今日ドキッ!」で、「“暴れ川”豊平川150年は洪水の歴史 今も残るその跡を探る」という特集が放送されます。日本地質学会北海道支部長のMさんが現地を歩いて解説されます。オンエアは午後5時から7時の間だそうです。
 もう一つ、10月19日NHKの「ほっとニュース北海道」に、札幌軟石文化を語る会のSさん、「軟石や」のOさんが出演されます。Sさんは藻南公園「軟石広場」でお手製の軟石“紙芝居”を披露される由。それぞれお楽しみに。

 9月は外歩きの季節ということもあって、しかも途中で大地震が重なり、日々が慌ただしく過ぎ去ってしまいました。
 気がついたら、厚生年金会館が閉館していました。
北海道厚生年金会館 全景
 最近は「芸術文化の館」とか「ニトリ文化ホール」と呼ばれていましたが、私の中では「厚生年金」でしたね。

 思い出は、演奏会やコンサートではなく…。
北海道厚生年金会館 ホール全景
 40年前、札幌に初めて来た年、ここで開かれた大学の入学式に出たことです。

 なぜ思い出かというと、寝坊して遅刻したからです。慌てて駆けつけたら、2階のしかも一番袖の席に行くように指示されました。思えば、これが私のこんにちに至るまでの北海道・札幌での人生の象徴的な出だしでした。その後いろいろな催しを見聞きしに行きましたが、若かったときが多いせいか、ほろ苦さが被り合います。

 「昭和四十六年九月竣工」。
旧厚生年金会館 昭和四十六年九月竣工
北海道厚生年金会館 ディテール1
北海道厚生年金会館 ディテール2
北海道厚生年金会館 ディテール4
北海道厚生年金会館 ディテール3
 この建物の全体及び細部に見られる多角形的なデザインは、六華様をモチーフにしたのでしょうか。
 1970年代前半、つまり札幌の政令指定都市移行、冬季オリンピック開催という時代の空気を表していたかにも見えます。

 「北海道厚生年金会館」の痕跡を画像に遺しておきましょう。
北海道厚生年金会館の痕跡
 10月7日、「札幌文化芸術劇場」がこけら落としされました。

2018/09/15

おもしろうてやがてかなしき小路かな

 9月13日の新聞に「さっぽろ創世スクエア」の広告が載ってました(末注①)。
道新180913 創世スクエア広告
 この日が「街びらき」だそうです。

 私は翌日、現地に行ってみました。
 まずもって札幌市民としては、30年以上にわたって‘まぼろし’だった地下通路を歩かないわけにはいきません。
西2丁目地下歩道
 ようやく日の目を見ました。

 下掲の画像は本年6月に撮ったものです。地下鉄東豊線大通駅コンコースの北端で間仕切りされていました。
西2丁目地下通路 開通前 180605
 1987(昭和62)年に造られ、こんにちまで使われていなかった地下道が間仕切りの向こうにあったのです(末注②)。 

 例によって自己満足ですが、間仕切りされた状態を写したこの画像がこんどは‘まぼろし’となりました。
 ところで、この画像を見直して思うに、黄色い点字タイルが敷かれていますね。これは30年以上前から、地下通路がすぐに通じることを想定して貼られていたのでしょうか。この状態だと、視力障害の人は間仕切りにゴツンとぶつかってしまいそうです。自分がそういう立場にならないと気づかないものですね。

 余談ながら、西2丁目地下歩道を通りながら、既視感に襲われました。7年前。駅前通りの地下歩道(チ・カ・ホ)が開通したのも、大地震の直後だったなあ。

 地下歩道を北進すると、創成スクエアの「札幌市民交流プラザ」への入口に達します。
創世スクエア 市民交流複合施設への入口
 なにやらオブジェが飾られています。

 吹き抜けの壁の両面に、同じようなカタチで向き合っている。
創世スクエア 市民交流複合施設 入口のオブジェ
 例によって「これは何をイミしているのだろう?」と想ってしまう芸術オンチの私です。

 1階に上がり、オフィス棟の「施設内南北通路」を進みます。
創世スクエア パサージュ
 「パサージュ」です。

 オフィス棟に入る放送局のオープンが来週ということもあってか、まだ閑散としています。
創世スクエア パサージュ 壁面
 この壁面の模様も、‘アート’ですか。

 札幌軟石。
創世スクエア パサージュ 札幌軟石
 札幌軟石オタクの私としては、陳腐な言い回しですが、胸中複雑です。

 オタクとしてひとこと言わせていただくと、どうせ貼るんだったら芋目地でなく破れ目地であしらってほしかった。この壁面を見てかような感想を漏らす輩はあまりいないと思うので、記念に述べておきましょう。なお「胸中複雑」というのは目地のことではないのですが、「街びらき」なる目出度きおりにこれ以上とやかく言うのは控えます。

 パサージュを北側入り口まで行き着くと…。
創世スクエア 北側入り口 エレベーターホール
 例の煉瓦レリーフモニュメントに出逢います(本年6月5日ブログ参照)。
 この煉瓦の積み方については既述しましたので、繰り返しません。

 このたび私が歩いた動線を平面図に示すと次のとおりです(末注③)。
創世スクエア 1階平面図 パサージュ動線
 赤い線が動線で、前述文中の①~④はそれぞれの場所になります。

 来月「札幌市民交流プラザ」が華々しくオープンしたら人びとの耳目はそちらに注がれ、軟石や煉瓦は文字どおりpassageされるのでしょうなあ。いや、オタクとしては逍遥甲斐があります。
 
 注①:北海道新聞2018年9月13日朝刊18-19面
 注②:北海道新聞2013年11月19日記事参照。1980年代、北1条西1丁目街区を含む「国際ゾーン」と名づけられた再開発構想があり、地下鉄東豊線大通駅開業ともあいまって本件地下道が掘られた。しかし再開発が遅々として進まず、通路は‘まぼろし’と化した。札幌市役所本庁舎までは通してもよかろうにと、私は思った覚えがある。それも封印されたのは、「お手盛り」批判があったためか。 
 注③:元図は『札幌創世1.1.1区 北1西1地区市街地再開発事業 起工式(平成27年2月3日)事業概要説明』2015年から引用。「創世1.1.1区」はそのうち死語になり、何と呼んでいたかも忘れ去られるのだろうか。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 

2018/06/20

北1西1の記憶 ②

 北1条西1丁目の6年前の風景です。
北1西1 111004 市役所屋上から
 2011年10月、市役所の屋上から撮りました。この風景も、忘れ去られつつあります。

 同じ場所の現在です。
北1西1 180620  市役所屋上から
 「創世スクエア」が建っています。同じアングルでは、ビルのてっぺんまで収まりません。

 26階建て、超高層のオフィス棟です。
創世スクエア 180620 市役所屋上から
 建物が竣工式を迎えたそうですので、拙ブログでもそれを記念(?)して、この3年余を振り返っておきましょう。 
 
 2015.3.5
創世スクエア 150305
 2016.7.9
創世スクエア 160709
 2016.9.3
創世スクエア 160903
 2016.10.1
創世スクエア 161001
 2016.10.28
創世スクエア 161028
 2017.2.17
創世スクエア 170217
 2017.3.21
創世スクエア 170321
 2017.5.28
創世スクエア 170528
 2017.7.19
創世スクエア 170719
 2017.8.26
創世スクエア 170826
 2017.11.28
創世スクエア 171128
 2017.12.22
創世スクエア 171222
 2018.3.5
創世スクエア 180305
 2018.4.10
創世スクエア 180410
 2018.6.5
創世スクエア 180605
 テレビ局のマスコットキャラクターが鎮座しました。

創世スクエア HTB onちゃん

 実は今日、このビルに行ってきました。ビルの中に入るのは6月5日ブログ以来二度めですが、上階に上がったのは初めてです。オフィス棟にテナントとして入っている会社の人とお会いする用事がたまたまあり、「新しモノ見たさ」で足を運びました。 

 3年余にわたる前掲の定点画像を撮り続けたのも、この場所に思い入れがあったからです(2015.2.13ブログ参照)。変わりゆく風景を、せめて記憶と記録にとどめておきたいと思いました。私にできるのは、そのくらいです。
 
 このビルの竣工式のことはテレビでも報じられていましたが、さすがに例の物件(6月5日ブログ掲載)のことまでは触れられていなかったようです。今日会ったYさんは先月からこのビルでお勤めだそうですが、ご存じありませんでした。Yさんから「ここ、元は何がありましたっけ?」と尋ねられたので、私はここぞとばかり、本件モニュメントをご案内したのです。Yさんは「こんなモノがあったとは…」と驚いていました。
 ことほどさように、人の記憶は薄れゆきます。Yさんという一人のヒトの記憶を呼び覚ましただけでも、私としては本件モニュメントが遺されて良かったと思いました。「たった、あれだけ」の物件かもしれません。しかも、6月5日ブログに記したように、出来上がったモノに不満がないわけではない。
 本件にかかるこの数年の一連の経緯を顧みて思うに、それを遺してもらうだけでも相当なエネルギーを要します。あの場所は私の所有物ではないからです。他人の持ち物に口をはさむことだからです。厳密に言えばこのビルは再開発事業で建てられ、税金も投入されていますが、私が負担した税金額を割り返したら、微々たるものでしょう。

2018/06/05

北1西1の記憶

 「さっぽろ創世スクエア」です。
さっぽろ創世スクエア 北側(上)
さっぽろ創世スクエア 北側(下)
 5月31日に竣工したそうなので、見てきました。
 超高層なので、カメラのレンズを横長にしたら建物が収まりきれません。

 同じ場所の2003年の風景です。
旧北海道ホルスタイン会館 王子サーモン 2003年
 私の目当ては、かつてあったこの建物の痕跡をたどることでした。
 2015年2月13日ブログで記したとおり、新しくできる建物の片隅に‘土地と建物の記憶’を遺してもらうことをお願いしてあったからです。このたび、その物件を拝見してきました。

 物件は、北側の入口を入ったところにあります。
さっぽろ創世スクエア 北側の入口
 北側にはオフィス棟があり、すでに一部開業していますので、入ることができます。

 あらかじめ再開発事業JVの担当者の方に確認の上、伺いました。
旧北海道ホルスタイン会館 土地と建物の記憶
 物件はすでにできあがっていました。

 かつてこの地にあった建物に用いられた煉瓦が壁に貼られ、由来について説明されています。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」のレンガ
 説明は以下のとおりです。

この場所には「旧王子サーモン館」と呼ばれる建築物が立地していました。
「旧王子サーモン館」は、終戦から4年後の昭和24年、「北海道ホルスタイン会館」として建てられました。
札幌における戦後初の耐火構造による2階建の事務所建築で、外観は全面レンガ積(アメリカ積)と切妻屋根が特徴的でした。
窓台や玄関ポーチには札幌軟石が用いられ、外壁のレンガは通常の赤レンガではなく、窯変色のものが使用されていました。
上のレリーフは、「旧王子サーモン館」の面影をいまに伝えるため、建築物に使われていたレンガを用いて制作しました。


 建物の意義や特徴についてはもっともっと書いてほしいことがありましたが、たくさん書けばいいというものでもありません。また、本件「レリーフ」では、煉瓦が実際に積まれ方(説明文でいうところのアメリカ積ではなく、小端空間積み(2017.5.30ブログ参照)のように表現されています。これだけ一見するとこのように積まれていたかに受け取られる可能性もありますので、はばかりながら拙ブログでは補足しておきましょう。

 実際の積まれ方は、こうでした(2012年建物解体時に撮影)。
王子サーモン館 外壁煉瓦 2012年
 ほとんど長手面(煉瓦の細長い面)ばかりオモテに出して積まれていました。一般に「アメリカ積み」というのは、「れんがの長手面を5~7段続けて、小口面の列を混ぜ」る(末注)積み方ですが。本件を見ると5~7段どころかほとんど長手面ばかりのようでもあります。

 しかるに、「レリーフ」ではなぜ違う積み方をしたかを察するならば、煉瓦の平(ひら)面(=直方体でもっとも面積の大きい面)を見せたかったのでしょう。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」の煉瓦 刻印
 平面には「2」という刻印が確認できます(2016年2月8日ブログ参照)。

 本件は、2012年に建物が解体された際、文字どおり瓦礫となった煉瓦を札幌建築鑑賞会が貰い受け、再開発の事業者にお願いして実現したものです。それがなければ、煉瓦はすべて産業廃棄物となっていました。厳寒の2月、解体工事現場で手がかじかみながら煉瓦を選り分けたことを懐かしく思い出します。
 
 この経緯は前掲の説明文には記されていませんし、喧伝することでもないのですが、せめて鑑賞会の通信では記録に留めておきたいと思います。先だって拙ブログで触れさせていただいたしだいです。前述のこぼれ話も、おそらく「さっぽろ創世スクエア」の公式媒体等で大々的に取り上げられることはないでしょうから、拙ブログ読者のお楽しみとして味わってください。記憶に薄れゆく風景をとどめるのも、あえていえば拙ブログの存在価値だと思っています。

 とまれ、再開発事業JVの担当者の方には、6年ぶりに記憶を蘇らせていただき感謝いたします。煉瓦の引き取り作業に従事してくださったNyさん、Tさん、Shさん、及び長い間保管してくださったⅠさん、Sjさん、Naさん、どうもありがとうございました。

 本件の位置は下図をご参照ください。
さっぽろ創世スクエア 1階平面図 レリーフ位置
 北2条通り側の入口のエレベーターの前です(赤い印を付けたところ)。

注:江別市教育委員会『江別のれんがを歩く』2008年、p.152による。

2018/03/31

「札幌」と「さっぽろ」の間

 2031年に開業されるという北海道新幹線の札幌駅ホームの位置が決定したと、最近報じられています。現駅の200~300m東側、創成川を跨ぐ形になるとのことです。新幹線ホームをめぐっては、いろいろな案が出され紆余曲折しました。このたびの案がすんなり決まらなかったのは、なんといっても在来線ホームから離れていることでしょう。利用者の負担を軽減するために、「動く歩道」の設置などを求める声もあるようです。

 私が北海道新幹線を利用する頻度はおおそらく極めて低いので、ホームの位置について切実な感想は正直言ってありません。ただ、札幌駅周辺が大きく改造されることになるこれを機に、一つ関係当局で検討してほしいことがあります。それはJR「札幌」駅と地下鉄「さっぽろ」駅の距離です。
 新幹線と在来線のホームの距離がクローズアップされていますが、実はJRと地下鉄の駅もかなり離れています。
現在図 札幌駅とさっぽろ駅の距離
 各ホームの中心地点で距離を測ると、新幹線と在来線は約350m、JRと地下鉄は約300m、離れています(新幹線ホームは創成川上を基点として計測)。上掲現在図で、黄色の線で示した新幹線ホーム想定位置と在来線ホームの間隔、赤い線で示したJRホームと地下鉄「さっぽろ」駅ホームの間隔を比べてみてください。新幹線利用者の在来線との乗り継ぎが不便というなら、地下鉄との乗り継ぎも負担が大きい、しかもこちらは現時点においてすでに深刻といえるのではないでしょうか。

 なぜこれをいま問題視するかというと、それは以下に述べる事情が重なっているからです。
 利用したことのある方は実感されていると思いますが、特に地下鉄南北線「さっぽろ」駅の北端の改札口及びホームへの階段はラッシュ時、非常に混雑します。これは札幌駅周辺の再開発と観光客の増加に伴い、近年ますますひどくなっているようです。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段①
 混雑していないときも、北側の改札口からホームへの階段はエスカレーターが無いため、大きな旅行鞄を抱えた観光客が階段をえっちらおっちら昇り降りする光景を目にします。
 
 今日の夕方、この場所でしばらく観察していたら、こんなことがありました。人ひとり入れるくらいの巨大なスーツケースを引いてきた旅行客とおぼしき女性が、改札口をICカードでいったん入ったのですが、ホームへの階段を降りずにまた改札口を出ようとしました。しかし、同じ駅で出ようとするとアラームが表示されてしまい、出れません。
 察するに、この女性客はエレベーターかエスカレーターでホームに降りたかったようです。しかし、どちらも無い。女性は近くにいた駅員に話しかけました。駅員は「エレベーターは、もう少し先です」と答えたのですが、女性はそれを聞いて逡巡した様子です。エレベーターのほうまで移動するのも大儀なのでしょう。結局、駅員が女性のスーツケースを持って、階段を一緒に降りていきました。ご苦労さまなことでした。

 地下鉄が到着して乗客がホームに吐き出され、階段を昇り始めると、大変混み合います。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段②
 駅員が、階段を降りる客を左側、昇る客を右側へと大声で繰返し誘導し、混乱を防いでいます。そしてホームでは、できるだけ先(南の方)へ行くように呼びかけています。北側の階段を降りたところに滞留すると、いわば“糞づまり”状態になるからです。

 南北線「さっぽろ」駅では、エスカレーターやエレベーターはホームの中央から南側に設置されています。JR駅方面からの利用者の動線には入りづらいのでしょう。これは私の推測ですが、北側にエスカレーターを設けたら、おそらく乗降客はますます滞って混雑すると思われます。痛し痒しです。しかも、「さっぽろ」駅はホームがいわゆる「島式」で、麻生行きと真駒内行きの双方の利用者が同じ場所に行き交うため、混雑に拍車をかけています。
 かてて加えての、JR駅までの距離なのです。札幌に長くお住まいの方はご存知ですが、JRと地下鉄の距離は30年近く前、JR駅が高架化に伴って北側にずれたため、より長くなりました。数十m延びたと思います。JRの高架化に伴って、ある意味「不便になった」のです。新幹線ホームは、さらに遠隔になります。

 さて、ここで私の結論的提案です。地下鉄南北線「さっぽろ」駅のホームを、北側すなわちJR「札幌」駅寄りに延長してもらえませんか。単に延ばすのではなく、「真駒内」行きの乗り場と「麻生」行きの乗り場を分ける、というか「ずらす」のです。JRから地下鉄に乗り継ぐ特に観光客は、「大通」「すすきの」方面への動向が大きいと思われます。そこで、JR駅寄りに延長したホームを「大通」「すすきの」方面「真駒内」行きの乗り場とします。「麻生」行きの乗り場は、現在の北側改札口及び階段の以南とする。できれば、それぞれにエスカレーターを付ける。これにより、現在の北側階段に集中する混雑を緩和するとともに、JR駅との距離を短縮して乗り継ぎ客の負担を軽減できます。
 「島式」のホームで乗り場を行き先によってずらすのは、名古屋市営地下鉄の東山線「名古屋」駅で見られます。札幌も、東西線「大通」駅の「島式」ホームは、「宮の沢」行きと「新さっぽろ」行きの乗り場がわずかにずれています。といっても、ずれは車両1両分もありません。理由は知りませんが、もしかしたら、双方の乗車位置を微妙にずらしているのかもしれません。名古屋の場合は、もっと大幅にずらされています。

 札幌の「さっぽろ」駅も、作った当初からそうすべきだったとも思います。もっといえば、初めからもう少し「札幌」駅寄りにホームを設けるべきでした。と、これは詮無いことです。おそらく地下鉄建設時、こんにちの混雑は想定されず、バリアフリーとかユニバーサルデザインという思想もまだなかったのでしょう。動線上の商業施設との兼ね合いもあったのかもしれません。
 私が思いつくこの程度のことは、すでに当局の関係者はとっくに考えたにちがいありません。しかし話題に上らないところをみると、ホームの延長というのは技術的にまたは経費的に極めて困難なのでしょうか。

2018/03/21

札幌百科 第15回 御礼

 札幌建築鑑賞会「札幌百科」第15回「札幌の緑の歴史 こぼれ話」を終えました。
 
 これまで拙ブログでも綴ってきた東皐園の話題などを、講師の笠康三郎さんに緑花の専門家の眼で鑑みていただきました。私が疑問を呈したことも解明していただき、感謝いたします。
 明治の初期に築造された洋風庭園の跡地(大通西1丁目、市民ホール)を会場にして、往時を偲ぶことができました。
 その唯一の“よすが”ともいえるエルム(ハルニレ)の古樹です。
札幌百科第15回 大通西1市民ホール エルム前
 笠さんによると、この大木が遺ったのは、道路と市民ホール(旧市民会館)の敷地の境目にあったことが幸いしたとのことです。もし、どちらか一方の単独の所管だったら、エイヤと伐られてしまったかもしれないと。担当部局間で維持管理の(逆に言えば、伐採の)責任を“押し付け合った”ことで、どっちつかずのまま、残りました。真偽のほどはともかく、世の中何が幸いするかわかりませんね。ちなみに、この種の“はぐれ樹”は、今はたしか緑の推進部というところで担当しているかと思います。

 “はぐれ樹”を2014年9月29日ブログで紹介したとき、書きそびれたことがあります。本件市民ホール前のハルニレの保全に尽力されているのが、笠さんだということです。札幌市都市景観条例に基づく「札幌景観資産」に、樹木として唯一指定されたのも、そのおかげといってよいでしょう。

 この場所は現在、同じ街区にある放送局が移転することに伴い、市役所本庁舎の建替えなどの再開発が取りざたされています。老大木の行く末も気になるところです。生き物をこの環境下で未来永劫金輪際永らえさせるというのは、大変難しいと思います。せめて私も、この樹がはぐくんできた物語を継承していきたい。有島武郎がこの樹からインスピレーションを受けたであろうことも(昨日ブログ参照)、ますます確信を深めました。

 今回の行事は多くの方にお聴きいただきたく、会場の定員(88名)ぎりぎりまで申込みをお受けし、81名の方が参加されました。満席の盛況をお礼申し上げますとともに、運営に行き届かなかった点をお詫び申し上げます。
 

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック