札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/18

札幌大化院

 先日の円山散策の帰途、目に留まりました。
札幌大化院
 「更生保護法人 札幌大化院 希望寮」。

 「札幌大化院」という名前に感慨を覚えました。これは助川貞二郎が興した更生保護施設ではないか。
 文野方佳「助川貞二郎小伝(中)(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第28号1995年)に、以下のように記されています(引用太字、p.53)。
 大正元年九月、恩赦に浴した貞二郎は、妻ヒデが細々と続けていた釈放者のための更生保護事業に本格的に取り組むことを決意。北一条西二十丁目に札幌記念保護会と名付けた施設を設け、軍手、紙袋貼りなどの更生事業に私財を注ぎ込む。大正四年に一月には札幌大化院と改称して、施設を南一条西十七丁目に新築移転した(札幌市史-文化社会編、北海道社会事業団体誌)。
 この頃「花の日」と名付けて、花見客で賑わう円山公園で、ボランティアの婦人や女学生たちが街頭に立ち、免囚救済の慈善運動の資金集めに造花売りをし、街の話題になった(北海タイムス 大4・5・14)。
 貞二郎が亡くなった後、この更生保護事業は長男の貞利が引継ぐことになる。


 文中「恩赦」というのは、助川は1905(明治38)年に官吏侮辱で、1908(明治41)年に文書偽造行使などでそれぞれ有罪判決を受けた(前掲書p.50)ことに対するものでしょう。
 あの助貞が始めた施設が今も続いている。「今も」という書き方は失礼かもしれませんが、敬意を込めます。百年以上にわたって続いているのですね。南1条西17丁目は、当時は札幌区の西の端でした。1923(大正12)年には市電一条線が通じます。助貞とのゆかりを感じさせる場所でもあります。
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2017/08/27

古き建物を描く会 第59回

 札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第59回を催しました。
古き建物を描く会 第59回
 今回9名で描いたのは、中央区南2条のNさん宅です。さほど暑くもなく、スケッチ日和に恵まれました。
 1931(昭和6)年に建てられた木造の洋館です。切妻屋根の総2階建てでシンプルな外観と思いきや、入母屋風の屋根を載せた玄関ポーチをはじめ、細部が意外と複雑でした。「けっこう難しかった」というのが、参加した9名のおおかたの感想です。
 写生後、9名の作品を路上に飾りました。Nさんにもお見せして、喜んでいただきました。札幌景観資産にも指定された住宅は、とてもきれいに手入れされています。前回のH牧場と同じく、Nさんともども末永くお健やかにとお伝えして、建物をあとにしました。

2017/08/26

二代目市庁舎とその時代

 札幌市公文書館で催された講演会を聴いてきました。「二代目市庁舎への『改築移転』:昭和九~十二年」という演題で、実に面白かった。
 内容をかいつまむと、1937(昭和12)年に竣工した二代目市庁舎は総建設費67万円を要し、そのうちの約3割、19万円余を市民からの‘寄付’で賄いました。このことが持つ意味を考察したものです。
 実は寄付とは名ばかりで、ほとんどというか、それどころか徹底的な強制割当てでした。いかに割り当て、どのように集めたか。祭典区(いまの連合町内会の規模、組織の前身といえよう)単位で募金組織を整え、納税額等に基づき、対象者を選定し、区ごとの目標額を設定します。市会議員や地域の有力者が納入をはたらきかけ、‘未納’者には‘督促’状まで送られました。もはや募金というよりは徴収です。その結果、市民676名から196,875円が寄せられました。当時の札幌市の人口は196,541人。人口と寄付総額の数字が似通っています。なお、建物竣工時にそのうちの24,164円が未納(=寄付を‘申し出た’にもかかわらず、実際に納めていない)だったそうではありますが。竣工した後も、未納者に督促状を送っています。これじゃ税金ではないか。否。「現時の状勢ヨリ鑑ミ 其ノ経費ハ一般市民ノ課税ヲ避ケ」た結果、寄付を募ることにしたのだそうです。悲劇的茶番(末注)。

 寄付にまつわる当時の新聞記事も紹介されました。これがまた、大変衝撃的な筆致なので、以下全文を引用します。『北海タイムス』(現在の北海道新聞)1935(昭和10)年2月6日「札幌市庁舎寄付過半に及ぶ 情けない富豪心理」という見出しです(旧字体、旧仮名遣いは改めた。?は判読困難)。

 「文化都市札幌の体面に不釣合の市役所庁舎は今年から三年計画六十四万円で昭和十一年(ママ)に竣工市民に見えることになったがこの庁舎改築に市民の温度を誇るべく一般寄付予定額十五万円は市民の心からの申出に既に過半?に達しているが中に「僕の財産は内地にあるので、その財産を標準に寄付を申し込まれても困る」と寄付係を追い返している財産家がある この市民は堂々たる札幌市の公民権を有し しかも知識階級として市民の尊敬を集めている北大理学部の教授某氏(特に仮名)で同教授は郷里東北で有数の財産家で先に札幌警察署庁舎改築に際しても寄付応募を頑強に受けつけず遂に同氏の寄付なしで市民の守り警察署は完成したが今回の市庁舎には同教授には子供が多数市の学校にも通学している事でもあり 昨年は人も羨む堂々万金を投じた豪奢な邸宅を新築してあたりを睥睨し この邸宅新築で札幌永住の意志も窺われたので係員が「金五十円也」の寄付勧誘をすすめたが「お話はごもっともです 財産は内地にありまして札幌では大学教授としての俸給で生活しているものですから…」とその都度「お話承りおく」で既に六回の訪問も空しく警察庁舎同様同氏の寄付なしで新庁舎は建築されるべく庁舎寄付異聞として市民に灰色の話題を与えている」
 
 拙ブログ読者なかんづく札幌建築鑑賞会会員におかれては、本記事で遣り玉に挙げられた方がどなたを指すか、お察しできるのではないでしょうか。寄付を断ったのが北大の先生というだけで、個人情報も名誉毀損もヘッタクレもない攻撃に遭う。記事中の「市民の心からの申出」というのがチャンチャラ可笑しいことは前述のとおりですが、寄付に応じない人への罵詈との自家撞着に、天下の道新、もといその前身北海タイムスの記者編集者は気づいていないらしい。否、判っていても書くのが鉄面皮の記者魂でしょう。

 コトコマカにリークした募金側の関係者がいるんですね。かような記事が「睥睨」する「灰色」の世の中に生まれなくてよかったとつくづく思います。まあ私ごときの貧民はこんなターゲットにすら、ならないでしょうが。いや、私が気が付いていないだけで、今の世が灰色でないと言い切れるかどうか。時代に抗った北大理学部の某先生を、私は心から表敬します。こういう方こそ、ホンモノです。

 くだんの二代目市庁舎が落成したときの、記念品の文鎮です。
二代目市庁舎 落成記念文鎮
 当時の市職員、吏員(正職員)のみならず雇員(臨時職員)も含めて全員に配られたそうです。長く札幌市にお勤めだったUさんのご寄贈品とのこと。Uさんのお歳からして、奉職されたのは落成から数年後だと思いますが、余っていたのかもしれません。Uさん、こんなお宝をよく手放しましたねえ。私なら後生大事に秘蔵しますよ。灰色の世の中には生まれたくないが、この文鎮は欲しかったなあ。

 私のお宝は、こんなモノです。
ウイズユーカード 二代目庁舎
 二代目庁舎が写るウイズユーカード。貰いものですが、文字どおり薄っぺらくて、お宝にはならんですね。

 注:演者はしかし、こうして出来上がった市庁舎とその過程で醸成された市民の意識を、必ずしも否定的にのみ見ているわけではない。歴史は弁証法的に進むものではある。
 

2017/05/16

北一条通り物語

 札幌建築鑑賞会スタッフの会合で、Nさんから「北一条通り物語」というお菓子をいただきました。
北一条通り物語
 北1条西5丁目の「旧北海道庁立図書館」の建物に昨年店舗を開いたお菓子屋さんの商品です。お菓子の袋にはその建物が描かれています。

 私は、描かれている絵を、近眼のため顔に近づけて凝視しました。そして、なかなか芸が細かい作品であることに気づきました。北1条通りに面して建っている時計台や知事公館が隣り合わせに描かれていますが、芸が細かいというのはそのことではありません。
 
 袋のサイズでは小さくて判りづらいと思ったので、くだんの店に足を運び、箱入りを買ってきました。箱には絵が大きく描かれています。
 前掲の袋の絵でも判るのですが、建物の前に今は亡きチャチャニレの大樹が描かれています。しかし芸が細かいのはそのことでもありません。注目したのはチャチャニレの木陰、左下です。
 
 箱に描かれた絵から、その部分をトリミングしてみます。
北一条通り物語 水飲み場
 例の「水飲み場」まで、ちゃんと再現されているのです。カッターの水飲み場です(本年3月25日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-970.html 参照)。水飲み場から噴き出た水を、親子らしい二人が飲もうとしています。
 
 この水飲み場は、1967(昭和42)年、チャチャニレとともに撤去されたものです(3月16日ブログ参照)。一方、建物の屋上にはお菓子屋さんの旗がたなびいています。この絵は、水飲み場が置かれていたころの昭和の風景に、現在を重ねあわせているのですね。
 絵の右下に、金井英明さんのサインが記されています。お店の人にお訊きしたら、本商品の発売に合わせて、新たに描き起こしてもらったものだそうです。
 Nさん、おいしいお菓子をどうもありがとう。

 5月14日に記した苗穂駅の看板について、同日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-1020.html に追記しました。看板の左半分を知りたい方は続きをご覧ください。

2017/04/21

北一条教会 

 在りし日の日本基督教会札幌北一条教会です。
日本基督教会札幌北一条教会 1978年①
 札幌建築鑑賞会会員のUさん(故人)が1978(昭和53)年に撮りました。Uさんのご遺族の承諾をいただき、北一条教会と田上さん、そして昨年亡くなられたUさんを偲び、写真を掲載します。

 大きく引き伸ばされた写真の右下に、「78 4 2」という日付が入っています。教会はこの一年後、1979年4月10日に解体工事が始まり、20日に姿を消しました(札幌市北一条教会堂を保存する会『失われた教会堂』1980年、pp.25-31)。
 前掲写真は、建築鑑賞会が2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」という展覧会にUさんが出品してくださったものです。そのとき作った目録に、Uさんは「北一条教会が解体されると聞き、『在りし日のよすが』をいつも座右にしたいと思って、カメラを担いで出かけました。休日で人かげもなく教会は静かに佇んでいました」と寄せています。
 
 前述『失われた教会堂』によると、解体が新聞で報じられたのは1978年12月25日、その後79年4月の解体工事に至るまでたびたび記事が出ています。同書には「教会堂が潰廃される噂はこれ以前(引用者注:78年12月25日報道以前)にも市民の間に流れ」とも書かれています(p.25)。Uさんの文で、1978年の早い時点ですでに解体が取沙汰されていたんだなと再認識しました。
 私は当初、Uさんが写真を撮ったのは、実は解体直前の79年4月だったのではないかという思いがよぎっていました。しかしUさんは、(撮影したときは)「休日で人かげもなく」と記しています(末注)。調べてみると、1978年4月2日は日曜日でした。翌79年の同日は月曜なので、やはり78年に撮られたものでしょう。

 Uさんは、かなり古くから田上さんの建築などを愛好されてきた筋金入りのアマチュアでした。

 注:休日(日曜日)ならば、礼拝でむしろ人の出入りがあったのではないかとも思うが、それはさて措く。 

2017/04/01

山は友だち

 先月4日、札幌建築鑑賞会「札幌百科」を終えた後、スタッフで懇親会のひとときを楽しく過ごしました。街角探索のマニア、もといつわものばかりなので、行き帰りのみちすがらも盛り上がり、地下鉄西11丁目駅近くに聳える物件を鑑みたところです。
 その物件というのは、こちらです。
ルスツ高原
 「ルスツ高原」。この付近を通るたいがいの人は脳裏に収めていると思います。

 今は「ルスツリゾート」というらしいので、一種の名残物件とは申せましょう。スタッフの間では「昔は大和ルスツだったよね」などと話に花が咲きました。
 本物件を私はいままで、「ああ、ルスツ高原だな~」くらいにしか思ってませんでした。しかし、今日ここを通ったとき、念のため写真に撮り、画像を拡大してみました。

 「ルスツ高原」と書かれた上に、青い色で文字らしきものが見えます。
ルスツ高原 拡大
 私は強い近視なので、実際に眺めたときには何と書かれているか読めなかったのですが、「山は友だち」と判じました。そんなコマーシャルソングがありましたね。♪雪は友だち♪もあったような。左側は「クマ牧場」で、上の青い字は「登別と言えば…」らしいのですが、自信がありません。
 この広告の微妙な剥落感は、もしかしたら意図的ではなかろうか。エイジングですか。真新しいモノよりも却って訴求力が高い気がしてしまいます。商売の得手な(敬意です)K観光なら、さもありなん。というのは、うがちすぎか。

 ちなみに、当該物件が併設されているビル本体のほうには…。
北海道索道協会
 「北海道索道協会」という団体が入っています。
 「クマ牧場とスキー場だものな…」と合点した私です。

2017/03/25

カッターの水飲み場 ④

 旧北海道庁立(のちに北海道立)図書館の1/100模型です。
旧道立図書館模型
 江別市にある現道立図書館の中に陳列されています。
 この模型をあらためて見て感心したのは、建物の前にあったニレの大木(通称:チャチャニレの木)まで再現されていることです。のみならず、黄色の矢印を付けた先に…。

 水飲み場(3月15、16日ブログ参照)まで、ちゃーんとあります。
旧道立図書館前 水飲み場
 添えられているキャプションによると、この模型は1966(昭和41)年に作られました。翌1967年、図書館は現在の江別市に移転します。同じ年、チャチャニレと水飲み場が姿を消しました(3月15日ブログ参照)。水飲み場が早晩撤去されると、模型制作時に判っていたのでしょうか。いずれにせよ、制作者の気持ちが伝わってきます。

 さて、道立図書館に行った目的はこの模型ではなく、本を借りてくることでした。大矢一人編『軍政レポート』という史料です。これはかいつまんでいうと、戦後占領軍が日本をどのように統治したか、当時の「軍政(ミリタリー・ガバメント)」組織が自ら記録したものです。カッターの水飲み場(大通公園「聖恩碑」のほうです)にまつわる伝説について手がかりが得られないか、ひもといてみました。
  

2017/03/17

カッターの水飲み場 ③

 『写真で見る札幌の戦跡』の「聖恩碑」に関する記述(pp.178-179、昨日ブログ参照)について、同書を編んだ「札幌郷土を掘る会」のKさんにお問合せしました。
 Kさんのお返事はおおすじ以下のとおりです。 

 ・「GHQが碑の解体指令を外した」については何か(根拠となる資料)に基づいて記述したはずだが、その「何か」は今、思い出せない。
 ・(当時の時代背景として)対ソ連戦略等の理由で、GHQは天皇制を利用することを考えていた。これは自分の推測だが、今にして思うに、GHQはもともと碑を壊すつもりはなかったのではないか。カッターの水飲み場云々(を理由にして解体を免れた)は、口実であろう。
 ・「碑の解体指令」というのは、「日本の非軍事化」のことを指すが、この種の碑は市内近郊にたくさん残っている。GHQは(解体を)徹底する気はなかったと思う。


 「GHQが碑の解体指令を外した」という根拠が、どうもハッキリしない。ということがKさんとのやりとりでハッキリしました。
 Kさんの話に一つ異論を呈するならば、碑を壊さなかった理由です。KさんはGHQが天皇制を利用したことを挙げていますが、聖恩碑の存在意義をGHQがそこまで深謀遠慮したかどうか。

 ここからは私の想像です。
 昨日ブログで記したように、学校では奉安殿や御真影の撤去がかなり徹底されました。GHQのプライオリティとして学校教育は重要視されたものの、街中の碑までは行き届かなかったというのが実情ではないでしょうか。
 奉安殿等の撤去にしても、GHQの指令もさることながら日本側がその意を忖度し具体化して実現できたことだと思います。「○○町にある□□の碑は、天皇制を賛美したものです」とご注進しない限り、GHQの独力の調査で摘発するのは難しかったでしょう。なお、「札幌百科」第14回講師Nさんによると、非軍事化のためにGHQが求めたのは第一に武器・兵器の破壊だったそうです。

 カッターの水飲み場のおかげで聖恩碑は解体を免れた…管見の限り、その根拠は見出せません。かといって、「そうではない」と立証するのは至難です。札幌人の心にすっと入ってくる神話的物語性を感じます。

 GHQ「あのオベリスクは、何か?」
 日本「聖恩碑といいまして、明治、大正、昭和三朝の御恩に感謝する碑です。昭和11年の陸軍特別大演習への今上陛下行幸を紀念して建てられました」
 GHQ「軍国主義のシンボルだな。壊しなさい」
 日本「おまちください。この碑は、お国のジョン・カッターという先人の寄付によって建てられたものです。かくかくしかじか、日米友好の証でもあります」
 GHQ「そうか。ならば壊さんでもよろしい」

2017/03/16

カッターの水飲み場 ②

 カッターの水飲み場について既出文献には、大通公園の西5丁目「聖恩碑」の四隅という記述と旧庁立図書館(北1条西5丁目)の前にあったとする記述がありました。昨日のブログで私は「そもそも、カッターの水飲み場はどれか? 北1条と大通公園の両方か」と結びました。結論的にいうと、どちらもカッターの遺産といえるようです。
 
 札幌建築鑑賞会スタッフSさんに下記サイトを教えていただきました。
 造園家Rさんのブログです。
 ↓
 http://blog.sapporo-ryu.com/?guid=ON&eid=1411
 
 Rさんは1年前に水飲み場のことを取り上げていました(末注①)。その中で、紺野哲郎『札幌農学校遊戯会・チャチャニレの木』2008年という出版物が紹介されていたので図書館で調べてみました。すると、同書は『札幌市水道50年史』1987年を引き、「どちらもカッターの水飲み場である」と記していたのです(p.24)。『水道50年史』にまだ当たっていないため、どういう一次史料に基づいているか判りません。孫引きではありますが、聖恩碑の水飲み場はカッター由来という前提で話を進めます。
 本題は敗戦後の逸話が史実かどうかです。もう一度『写真で見る札幌の戦跡』の記述を引用します(pp.178-179)。
 この碑の建設に米国の資金が含まれていたことを知ったGHQが碑の解体指令を外したもので、今日に残ったものと推定される。

 私が抱いた疑問は以下のとおりです。
・「GHQが碑の解体指令を外した」ことを裏付ける史料は存在しているか。
・そもそもGHQはこの種の碑などに対して、「解体指令」を出したのか(末注②)。
・「解体指令」を出した対象がほかにあるとすれば、それによって実際に解体されたものはあるか。 

 注①:Rさんのブログには「カッター先生の水飲み台は一体どこに行ったのでしょう?そんな大切なものであれば捨ててしまうはずはないと思うのですが、どこにも記載は見当たりません」と記されているが、昨日ブログで引用したとおり『さっぽろ文庫19 お雇い外国人』によれば、旧庁立図書館前の水飲み場は1967(昭和42)年、道路拡張工事に伴い「姿を消してしまった」。
 注②:先日の「札幌百科」で講師を務めたNさんによると、GHQの指令に基づき北海道では通牒を出し、学校における奉安殿や御真影が撤去された。教育現場にはかなり徹底されたようである。『新札幌市史 第五巻 通史五(上)』2001年、pp.751-753参照。聖恩碑については、GHQがどこまで調査・認識していたか、Nさんは疑義を呈する。

2017/03/15

カッターの水飲み場

 昨日ブログで引用した「カッターの水飲み場」にまつわる逸話は、以前に別の方からも聞きしたことがあります。12年前、元札幌市文化資料室郷土史相談員のKさんからです。私が記憶する限りでは大要以下のとおりです。

 水飲み場は昭和天皇の行幸を記念した碑(聖恩無彊)に併せて作られた。碑は(軍国主義のシンボルとして)敗戦後進駐軍の目に留まらなかったはずがない。にもかかわらず壊されなかったのは、水飲み場が米国人(御雇外国人)カッターの(遺産からの)寄付によって建てられたからである。


 大筋、昨日引用の『写真で見る札幌の戦跡』の記述と一致します。

 では、そもそもカッターの水飲み場というのはどんなものか。
カッターの水飲み場
 私はこれまで、碑があることは知っていても、水飲み場はまったく意識してませんでした。このたび四隅をよく見てみました(黄色の矢印の先)。

 雪に埋もれていましたが、掻き分けてみると…。
カッターの水飲み場 拡大
 蛇口らしきモノが冬囲いされてました。これは夏場には機能するのだろうか。

 水飲み場のことは既出文献でどのように記されているか。
・札幌の歴史を楽しむ会『さっぽろ 大通』1981年、pp.45-46、pp.294-296
 聖恩碑の由来は記されているが、水飲み場については言及なし。銘鈑に刻まれた撰文が移記されている。その撰文に水飲み場のことは触れられていない。
・『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年、p.133
 碑が行幸と水道創設を記念したものであることが書かれているが、水飲み場のことは言及なし。
・『さっぽろ文庫32 大通公園』1985年、p.292
 天皇の業績と水道完成を記念したものと記述。水飲み場は言及なし。
・『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年、p.269
 天皇行幸記念のみ記述。水飲み場のみならず水道敷設についても言及なし。
・『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.94
 「ジョン・クラレス・カッター」(原文ママ、末注)の項に以下の記述あり。
 終生札幌を愛し、死の床にあって、札幌市民に水飲場を贈るよう遺言し、死後五○○ドルが送られてきた。水飲場は昭和13年に大通西5の聖恩碑の四隅に設置された。
・『さっぽろ文庫79 札幌医療物語』1996年、p.225
 「ジョン・クラレス・カッター」の項に以下の記述あり。
 遺言により農学校の近くに水飲み場を設置することを条件に五〇○ドル札幌に寄付。昭和十三年(一九三八)大通公園に聖恩碑が建設され、その四隅に設けられた水飲み場がそれである。

 水飲み場については、カッターの人物歴を記した書物に書かれていますが、敗戦後の逸話までは記されていません。逸話に触れられているのは、管見の限りでは『写真で見る札幌の戦跡』とKさんのお話です。

 ところで、『さっぽろ文庫19 お雇い外国人』1981年の「カッター」の項には、次のように記されています(pp.184-186)。
 カッターの死亡した明治四十三年(一九一〇)、札幌区に遺言執行人J・W・タイラーから元札幌農学校付近に公共飲水場を設置すること、という条件で一、○二五円一九銭の寄付があった。それから二七年後の昭和十二年、札幌に水道がひかれた。これに伴い道立図書館(現三岸好太郎美術館)前のチャチャニレの大木横にカッターの遺志が生かされ、噴水式の水飲場が設けられた。だが、昭和四十二年道路拡張工事の犠牲となって老木ともども姿を消してしまった。

 この文献によると、水飲み場の場所は…。
旧庁立図書館 
 中央区北1条西5丁目、現在の「北菓楼札幌本店」の前にあったことになります。西5丁目ですが、大通公園ではない。
 
 同書には、水飲み場の在りし日の写真も載っています(キャプションによると朝日新聞1952(昭和27)年7月1日記事から転載)。ただし、聖恩碑の四隅のことは書かれていません。
 そもそも、カッターの水飲み場はどれか? 北1条と大通公園の両方か。

 注:『さっぽろ文庫19 お雇い外国人』によると、John Clarence Cutterで、「クラレス」が正しいか(p.22)。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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