札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/17

20年前の今日

 何が起きたかということは報道されているとおりです。
 それを偲びます。
たくぎん旧本店 建物 2002年
 1909(明治42)年、大通西3丁目に建てられた北海道拓殖銀行本店の建物で、1959(昭和34)年宮の森に部分移築されました(末注)。2002年5月に撮ったものです。たしか、この後まもなく解体されました。
 この建物の写真が、電網上で意外と見つけられませんでした。見つかったと思ったら、札幌建築鑑賞会関係のサイトだったり、記述が不正確だったり。電網社会にはありがちですが。
 創建時は「木骨石張り」で、移築時にはRCとされたようです。移築に際し、細部意匠がかなり変更されているといいます。では、元の場所にあったときはどうだったか。これも、意外と見当たらない。たくぎんの周年記念誌が出どころらしいものはありますが。

 1957(昭和32)年頃撮影という写真を載せます。
たくぎん 旧本店 1957年頃
 札幌建築鑑賞会で2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」展に、Kさんから出品していただいたものです(所有者ご本人が写っているところを一部加工しています)。手前味噌ですが、こういう写真があまり露出していない。撮影年という点でも、昭和30年代は逆に珍しいかもしれません。Kさん、ありがとうございます。

 宮の森にあったときは札幌軟石のような色合い肌合いだったのですが、この写真を見るとずいぶん白いですね。真ん中の部分が1/3くらいにカットされています。右側の翼棟は元は三角ペディメントですが、移築後は櫛形に変わってます。[つづく]

  注:日本建築学会編『総覧 日本の建築1 北海道・東北』1986年、p.19。以下、建物に関する記述は同書による。
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2017/10/17

時計台ナナメ向かいのビル 補遺

 昨日ブログに対して、「スタッフK」さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
アコム時計台前ビル 自社広告 1993年
 北1条西3丁目の消費者金融会社(以下「A社」という)の自社広告物について、私は昨日ブログで「自主的に撤去された可能性が高いと思われます」と記しました(画像は1993年撮影)。これに対しスタッフKさんは、広告物の撤去はビルの所有者が替わったことによるもので、「自主的」とはいえないのではないかというご指摘です。実は私もその可能性は一抹抱き、昨日のブログの末尾に「経緯はどうあれ」と言い訳的に入れました。
 結論的には、スタッフKさんが的を射ていると思います。ネットで調べたところ、本件ビルは現在「マルイト時計台前ビル」となっていて、不動産賃貸業の「マルイト株式会社」の所有となっているようです。A社が自社ビルを売却した際、広告塔を撤去し、その後現所有者が自社広告物を新たには設けなかった、といったところが真相でしょうか。札幌市屋外広告物条例によると、本件広告物のあるエリアは自家用でなくても設置は可能です。にもかかわらず撤去したのは、コストパフォーマンスかもしれません。かつてこのビルはほぼ全館、A社の店舗(貸金だけでなく、レンタル事業など)が入っていました。現在はそうではないので、派手に広告する必要性がないのでしょう。現所有者のマルイトもしかり。昨日ブログの末尾に記したA社への賛辞は贔屓目に過ぎましたか。

 ネットでA社のサイトを閲覧したところ、現所有者のマルイトとは同じ源流であることを知りました。A社の前身は、「マルイト株式会社」、その前は「丸糸商店」だったのですね。

 ところで札幌で「マルイト」というと、私はこちらのビルを思い出します。
マルイト札幌ビル
 北2条西1丁目にあるホテルです(画像は本年3月撮影)。
 この建物は2000(平成12)年、北海道営林局の跡地に建てられました。営林局時代の樹木を外構に遺したことなどが評価されて、2001(平成13)年、第10回札幌市都市景観賞を受賞しています。

 植栽帯の札幌軟石も古そうです(画像は2014年12月撮影)。
マルイト札幌ビル 外構 札幌軟石
 こういう会社なので、時計台前ビルもあえて自家用広告を立てなかった。と見るのは、これまた贔屓目でしょうか。

2017/10/16

時計台のナナメ向かいのビル

 中央区北1条西3丁目、時計台のナナメ向かいにあるビルです。
アコム時計台前ビル 2016年
 一見、何の変哲もないビルです。一見でなく、ずっと見ていても変哲ありません。
 この「変哲もない」という風景が、逆説的にいうと実は変哲ある、ということが本日のテーマです。

 二十数年前、その場所を向かいの時計台越しに眺めて、写真に撮っていました。
アコム時計台前ビル 1993年
 1993(平成5)年の冬に撮ったものです。

 冒頭の写真は2016年10月に撮っています。最大の違いは、かつてガソリンスタンドだったところにビルが建っていることです。が、私がこのアングルで写真を撮った意図が別にあることは、だいたいお察しいただけると思います。ガソリンスタンドの隣のビルです。消費者金融の自社ビルで、屋上に塔型と壁に突出しの広告の工作物があります。

 冒頭の現在の風景と比べると、それらの広告は姿を消しています。低層階の壁面公告のみです。二十年余に時空が変化しました。ここには一定のベクトル(方向性を持った力)がはたらいたと、私は見ています。
 念のため、札幌市の屋外広告物条例等をおさらいしてみましたが、前掲画像の広告を排除するような規制は見つけられませんでした。つまり法令・例規的な規制にもとづくのではなく、いわば自主的に撤去された可能性が高いと思われます。カタチとしては消費者金融会社の自主的作為でしょうが、何らかの外的な力がはたらいたのではないでしょうか。管見の限りでは、そのあたりの顛末が広く公表された形跡はありません(もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください)。

 こういう作為、つまり何かを付け足すのではなく、差し引くような作為、しかも建物本体とかではなく工作物ともなれば話題にはなりづらいと思います。なので、せめて拙ブログでは話題にして、記憶にとどめておきましょう。先日の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」スピンオフ編でも、この話題には触れなかったので、ここで取り上げます(末注)。

 札幌のシンボル・時計台は、観光客から「ビルの谷間にあってがっかり」とか言われるようです。識者からは、周辺の建物などへ景観的な配慮を求める声もあります。ともすれば「行政は何をやっているのか」という矛先も向けられます。理想的には、たとえば時計台のような重要文化財の周辺、一定エリアの風致景観を誘導規制するガイドラインがあってよいと私は思います。ただし、そうなっていないのは、当然ですがそういう規制を好まずとするベクトルがはたらくからです。行政は、絶えずそのせめぎあいに置かれています。所詮、民度の平均値です。もし、前掲画像の広告物の撤去を前もって唱えた人がいたら、私は深く敬服します。そういう人こそ、口先だけの威勢のいい批判にとどまらない、ホンモノだと私は思います。

 …と記してきて、私があたかもこの広告物の出現にハナから気づいていたかというと、決してそうではありません。だから、私はホンモノにはほど遠い人間です。実は、この広告物を出現当時から憂慮した人は、確かにいました。1990年頃だったと思います。当時、札幌市役所にお勤めたっだOさんです。
 屋外広告物のありかたは、それこそいろいろなベクトルがはたらき、民意を集約するのが難しい分野だと思います。私は、前掲画像(広告物が背後に写る時計台)よりは冒頭画像の風景(広告物が撤去されたビル)のほうをよしとします。しかし、そうは思わない方も当然いるでしょう。どちらかが絶対的に正しいということはできません。ただ、広告物の出現を(たぶん)最初に認識したOさんは、繰り返しますが偉大だと思います。
 最後になりましたが、経緯はどうあれ広告物を撤去した消費者金融会社に敬意を表します。

 注:案内役のⅠ先生は、周辺の他の建物景観についてコメントされました。主催者としてたびたび自画自賛めいて恐縮ながら、札幌市民が時計台周辺でこういう見聞を体験するのは稀少だと思う。

2017.10.17ブログに補遺記述

2017/10/15

時計台に座るクラーク先生

 10月13日と15日、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017特別編で中心部の歴史的建物を巡りました。
大人の遠足2017 時計台
 北大大学院工学研究院のⅠ先生の案内で、時計台から道庁、植物園と歩きました。札幌市民が(市民でなくても?)時計台をじっくり鑑みるというのは、稀少な体験だと思います。

 時計台の2階に、クラーク先生が座っていました。
時計台 クラーク先生
 黒い布で覆われていたのですが、イタズラ心でめくってみたところ、いたのです。

 実は数日前の新聞に、「クラーク博士像 時計台にも」と報じられていました(北海道新聞10月12日朝刊)。以下、記事の一部を引用します(太字)。
 時計台は札幌農学校(現北大)の初代教頭だった博士の構想で演武場として建設されており、観光客から博士の像を求める声が多かった。時計台完成記念日の16日、お披露目の式典が行われる。
 像は高さ135センチの合成樹脂製で、幅180センチ、奥行き80センチの木製長いすの端に腰掛けた姿。2階ホールに置かれ、見学者が座ったり、一緒に記念撮影したりできる。時計台を管理運営する企業が約200万円で製作した。

 
 「お披露目」に先立って、失礼ながらめくってしまいました。
 時計台で配られているリーフレットによると、この建物が建てられたのは1878(明治11)年で、10月16日に落成式が催されています。明日で満139年です。創建時、時計塔は備わってませんでした。時計が付いたのは1881(明治14)年です。クラーク先生は時計台ができる前の1876(明治9)年に札幌に来て、翌1877(明治10)年に去っています。よって、先生はこの建物を直接見ることも、時を告げる鐘の音を聞くこともなく、ましてや室内に座ることはありませんでした。が、139年を経て2階に座ることに相成ったのです。「観光客から博士の像を求める声が多かった」とは知らなかった。

 およそ人物像というモノは、印象操作という効果があります。本件坐像も今後、先生があたかもかつてここで腰掛けていたかのごとき伝説に寄与するかもしれません。ま、観光名所というのは、えてしてキッチュな時空が漂うものです。史実に忠実であれかしといったベクトルは、はたらきづらい。クラーク像も、先生が足を運んでいない羊ケ丘に、すでにあります。北大の現キャンパスですら、先生の滞在中はゆかりがなかったが(末注①)、胸像が置かれて観光名所になっています。もう、「何でもあり」ですね。
 
 北大のクラーク像は、ン十年前、NHKの「新日本紀行」で放送されて観光客が増えたと聞きます(末注②)。のみならず放送の翌年、北大の入試志願者はかなり増えています(末注③)。かくいう私自身がン十年前、印象操作に刷り込まれて、北海道に憧れたクチです。挙句、内地で生れ育ったにもかかわらず、北海道に永住する(たぶん)こととなりました。かような印象操作を否定することは、自分の存在を否定することにつながりかねません。いずい(北海道弁)ところです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、口絵「明治十年」(クラーク博士の足跡)参照
 注②:羊ケ丘に立像が建てられたのは、大学が‘観光公害’を減じるため車両を規制するに至ったという事情があるという。「さっぽろ羊ヶ丘展望台」サイト参照
 注③:NHK「新日本紀行」で「都ぞ弥生 北海道・北大恵迪寮」が放送されたのが1975(昭和50)年。『北大百二十五年史 論文・資料編』2003年によると、北大の入試志願者は1974年13,040名(定員2,120名に対して6.2倍)、1975年は12,796名(定員2,120名に対して6.0倍)だったが、1976年は14,889名(定員2,120名に対して7.0倍)、1977年15,534名(定員2,195名に対して7.1倍)となった(p.871、pp.883-884)。もちろん、テレビの影響などとは正史には書かれていない。私の憶測。

2017/09/30

後藤会館 お見舞い

 南1条西7丁目で火災発生と、夜のNHKのニュースで報じられていました。
 「後藤会館」のようです。映し出された画面では、建物が激しく燃えていました。
 
 1932(昭和7)年築、木造の‘雑居ビル’です。
後藤会館 2003年
 画像は2003年に撮影しました。
 
 札幌に遺る戦前期の貸事務所建築の数少ない一つです。近年はレストランも入っていました。札幌建築鑑賞会が同年に作った冊子『さっぽろ再生建物案内』で紹介させてもらいました。残念です。原因はまだ知りませんが、木造老朽建物、しかも飲食店は火事の危険とは隣り合わせだなと、あらためて思います。謹んでお見舞い申し上げます。
 この建物について記しておきます(末注)。
 創業者は1910(明治43)年に札幌に来て、金融貸付業のほか『北海民聲』なる月刊誌を発行、前述の年に貸事務所を建てました。当時としては新しいビジネスだったのかもしれません。テナントの第一号は北洋無尽(現・北洋銀行)だったそうです。2002年に開店したレストランでは、屋根裏に遺っていた棟札や土壁下地の竹小舞を見せて雰囲気を醸していました。

 テナントとして入っている会社の「消防設備設計施工」という看板が痛々しい。

 注:札幌建築鑑賞会通信『きーすとーん』第25号、2002年1月、「さっぽろ・ほっと・すぽっと」『みんなで創るまちづくり活動NEWS めむ』vol.16、2002年8月参照

2017/09/18

札幌大化院

 先日の円山散策の帰途、目に留まりました。
札幌大化院
 「更生保護法人 札幌大化院 希望寮」。

 「札幌大化院」という名前に感慨を覚えました。これは助川貞二郎が興した更生保護施設ではないか。
 文野方佳「助川貞二郎小伝(中)(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第28号1995年)に、以下のように記されています(引用太字、p.53)。
 大正元年九月、恩赦に浴した貞二郎は、妻ヒデが細々と続けていた釈放者のための更生保護事業に本格的に取り組むことを決意。北一条西二十丁目に札幌記念保護会と名付けた施設を設け、軍手、紙袋貼りなどの更生事業に私財を注ぎ込む。大正四年に一月には札幌大化院と改称して、施設を南一条西十七丁目に新築移転した(札幌市史-文化社会編、北海道社会事業団体誌)。
 この頃「花の日」と名付けて、花見客で賑わう円山公園で、ボランティアの婦人や女学生たちが街頭に立ち、免囚救済の慈善運動の資金集めに造花売りをし、街の話題になった(北海タイムス 大4・5・14)。
 貞二郎が亡くなった後、この更生保護事業は長男の貞利が引継ぐことになる。


 文中「恩赦」というのは、助川は1905(明治38)年に官吏侮辱で、1908(明治41)年に文書偽造行使などでそれぞれ有罪判決を受けた(前掲書p.50)ことに対するものでしょう。
 あの助貞が始めた施設が今も続いている。「今も」という書き方は失礼かもしれませんが、敬意を込めます。百年以上にわたって続いているのですね。南1条西17丁目は、当時は札幌区の西の端でした。1923(大正12)年には市電一条線が通じます。助貞とのゆかりを感じさせる場所でもあります。

2017/08/27

古き建物を描く会 第59回

 札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第59回を催しました。
古き建物を描く会 第59回
 今回9名で描いたのは、中央区南2条のNさん宅です。さほど暑くもなく、スケッチ日和に恵まれました。
 1931(昭和6)年に建てられた木造の洋館です。切妻屋根の総2階建てでシンプルな外観と思いきや、入母屋風の屋根を載せた玄関ポーチをはじめ、細部が意外と複雑でした。「けっこう難しかった」というのが、参加した9名のおおかたの感想です。
 写生後、9名の作品を路上に飾りました。Nさんにもお見せして、喜んでいただきました。札幌景観資産にも指定された住宅は、とてもきれいに手入れされています。前回のH牧場と同じく、Nさんともども末永くお健やかにとお伝えして、建物をあとにしました。

2017/08/26

二代目市庁舎とその時代

 札幌市公文書館で催された講演会を聴いてきました。「二代目市庁舎への『改築移転』:昭和九~十二年」という演題で、実に面白かった。
 内容をかいつまむと、1937(昭和12)年に竣工した二代目市庁舎は総建設費67万円を要し、そのうちの約3割、19万円余を市民からの‘寄付’で賄いました。このことが持つ意味を考察したものです。
 実は寄付とは名ばかりで、ほとんどというか、それどころか徹底的な強制割当てでした。いかに割り当て、どのように集めたか。祭典区(いまの連合町内会の規模、組織の前身といえよう)単位で募金組織を整え、納税額等に基づき、対象者を選定し、区ごとの目標額を設定します。市会議員や地域の有力者が納入をはたらきかけ、‘未納’者には‘督促’状まで送られました。もはや募金というよりは徴収です。その結果、市民676名から196,875円が寄せられました。当時の札幌市の人口は196,541人。人口と寄付総額の数字が似通っています。なお、建物竣工時にそのうちの24,164円が未納(=寄付を‘申し出た’にもかかわらず、実際に納めていない)だったそうではありますが。竣工した後も、未納者に督促状を送っています。これじゃ税金ではないか。否。「現時の状勢ヨリ鑑ミ 其ノ経費ハ一般市民ノ課税ヲ避ケ」た結果、寄付を募ることにしたのだそうです。悲劇的茶番(末注)。

 寄付にまつわる当時の新聞記事も紹介されました。これがまた、大変衝撃的な筆致なので、以下全文を引用します。『北海タイムス』(現在の北海道新聞)1935(昭和10)年2月6日「札幌市庁舎寄付過半に及ぶ 情けない富豪心理」という見出しです(旧字体、旧仮名遣いは改めた。?は判読困難)。

 「文化都市札幌の体面に不釣合の市役所庁舎は今年から三年計画六十四万円で昭和十一年(ママ)に竣工市民に見えることになったがこの庁舎改築に市民の温度を誇るべく一般寄付予定額十五万円は市民の心からの申出に既に過半?に達しているが中に「僕の財産は内地にあるので、その財産を標準に寄付を申し込まれても困る」と寄付係を追い返している財産家がある この市民は堂々たる札幌市の公民権を有し しかも知識階級として市民の尊敬を集めている北大理学部の教授某氏(特に仮名)で同教授は郷里東北で有数の財産家で先に札幌警察署庁舎改築に際しても寄付応募を頑強に受けつけず遂に同氏の寄付なしで市民の守り警察署は完成したが今回の市庁舎には同教授には子供が多数市の学校にも通学している事でもあり 昨年は人も羨む堂々万金を投じた豪奢な邸宅を新築してあたりを睥睨し この邸宅新築で札幌永住の意志も窺われたので係員が「金五十円也」の寄付勧誘をすすめたが「お話はごもっともです 財産は内地にありまして札幌では大学教授としての俸給で生活しているものですから…」とその都度「お話承りおく」で既に六回の訪問も空しく警察庁舎同様同氏の寄付なしで新庁舎は建築されるべく庁舎寄付異聞として市民に灰色の話題を与えている」
 
 拙ブログ読者なかんづく札幌建築鑑賞会会員におかれては、本記事で遣り玉に挙げられた方がどなたを指すか、お察しできるのではないでしょうか。寄付を断ったのが北大の先生というだけで、個人情報も名誉毀損もヘッタクレもない攻撃に遭う。記事中の「市民の心からの申出」というのがチャンチャラ可笑しいことは前述のとおりですが、寄付に応じない人への罵詈との自家撞着に、天下の道新、もといその前身北海タイムスの記者編集者は気づいていないらしい。否、判っていても書くのが鉄面皮の記者魂でしょう。

 コトコマカにリークした募金側の関係者がいるんですね。かような記事が「睥睨」する「灰色」の世の中に生まれなくてよかったとつくづく思います。まあ私ごときの貧民はこんなターゲットにすら、ならないでしょうが。いや、私が気が付いていないだけで、今の世が灰色でないと言い切れるかどうか。時代に抗った北大理学部の某先生を、私は心から表敬します。こういう方こそ、ホンモノです。

 くだんの二代目市庁舎が落成したときの、記念品の文鎮です。
二代目市庁舎 落成記念文鎮
 当時の市職員、吏員(正職員)のみならず雇員(臨時職員)も含めて全員に配られたそうです。長く札幌市にお勤めだったUさんのご寄贈品とのこと。Uさんのお歳からして、奉職されたのは落成から数年後だと思いますが、余っていたのかもしれません。Uさん、こんなお宝をよく手放しましたねえ。私なら後生大事に秘蔵しますよ。灰色の世の中には生まれたくないが、この文鎮は欲しかったなあ。

 私のお宝は、こんなモノです。
ウイズユーカード 二代目庁舎
 二代目庁舎が写るウイズユーカード。貰いものですが、文字どおり薄っぺらくて、お宝にはならんですね。

 注:演者はしかし、こうして出来上がった市庁舎とその過程で醸成された市民の意識を、必ずしも否定的にのみ見ているわけではない。歴史は弁証法的に進むものではある。
 

2017/05/16

北一条通り物語

 札幌建築鑑賞会スタッフの会合で、Nさんから「北一条通り物語」というお菓子をいただきました。
北一条通り物語
 北1条西5丁目の「旧北海道庁立図書館」の建物に昨年店舗を開いたお菓子屋さんの商品です。お菓子の袋にはその建物が描かれています。

 私は、描かれている絵を、近眼のため顔に近づけて凝視しました。そして、なかなか芸が細かい作品であることに気づきました。北1条通りに面して建っている時計台や知事公館が隣り合わせに描かれていますが、芸が細かいというのはそのことではありません。
 
 袋のサイズでは小さくて判りづらいと思ったので、くだんの店に足を運び、箱入りを買ってきました。箱には絵が大きく描かれています。
 前掲の袋の絵でも判るのですが、建物の前に今は亡きチャチャニレの大樹が描かれています。しかし芸が細かいのはそのことでもありません。注目したのはチャチャニレの木陰、左下です。
 
 箱に描かれた絵から、その部分をトリミングしてみます。
北一条通り物語 水飲み場
 例の「水飲み場」まで、ちゃんと再現されているのです。カッターの水飲み場です(本年3月25日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-970.html 参照)。水飲み場から噴き出た水を、親子らしい二人が飲もうとしています。
 
 この水飲み場は、1967(昭和42)年、チャチャニレとともに撤去されたものです(3月16日ブログ参照)。一方、建物の屋上にはお菓子屋さんの旗がたなびいています。この絵は、水飲み場が置かれていたころの昭和の風景に、現在を重ねあわせているのですね。
 絵の右下に、金井英明さんのサインが記されています。お店の人にお訊きしたら、本商品の発売に合わせて、新たに描き起こしてもらったものだそうです。
 Nさん、おいしいお菓子をどうもありがとう。

 5月14日に記した苗穂駅の看板について、同日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-1020.html に追記しました。看板の左半分を知りたい方は続きをご覧ください。

2017/04/21

北一条教会 

 在りし日の日本基督教会札幌北一条教会です。
日本基督教会札幌北一条教会 1978年①
 札幌建築鑑賞会会員のUさん(故人)が1978(昭和53)年に撮りました。Uさんのご遺族の承諾をいただき、北一条教会と田上さん、そして昨年亡くなられたUさんを偲び、写真を掲載します。

 大きく引き伸ばされた写真の右下に、「78 4 2」という日付が入っています。教会はこの一年後、1979年4月10日に解体工事が始まり、20日に姿を消しました(札幌市北一条教会堂を保存する会『失われた教会堂』1980年、pp.25-31)。
 前掲写真は、建築鑑賞会が2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」という展覧会にUさんが出品してくださったものです。そのとき作った目録に、Uさんは「北一条教会が解体されると聞き、『在りし日のよすが』をいつも座右にしたいと思って、カメラを担いで出かけました。休日で人かげもなく教会は静かに佇んでいました」と寄せています。
 
 前述『失われた教会堂』によると、解体が新聞で報じられたのは1978年12月25日、その後79年4月の解体工事に至るまでたびたび記事が出ています。同書には「教会堂が潰廃される噂はこれ以前(引用者注:78年12月25日報道以前)にも市民の間に流れ」とも書かれています(p.25)。Uさんの文で、1978年の早い時点ですでに解体が取沙汰されていたんだなと再認識しました。
 私は当初、Uさんが写真を撮ったのは、実は解体直前の79年4月だったのではないかという思いがよぎっていました。しかしUさんは、(撮影したときは)「休日で人かげもなく」と記しています(末注)。調べてみると、1978年4月2日は日曜日でした。翌79年の同日は月曜なので、やはり78年に撮られたものでしょう。

 Uさんは、かなり古くから田上さんの建築などを愛好されてきた筋金入りのアマチュアでした。

 注:休日(日曜日)ならば、礼拝でむしろ人の出入りがあったのではないかとも思うが、それはさて措く。 

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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