札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/04/04

石山通り、南6条での幅員減少 ③

 昨日の続きです。
 大正~昭和戦前期と昭和戦後の間に、石山通りで何があったか。それを物語るのが1948(昭和23)年米軍空撮写真です。
1948年米軍空撮写真 石山通り周辺
 画像のほぼ中央を上下(南北)に通じているのが石山通りで、例によって南3条を青い○で、南6条を赤い○で囲いました。画像最上部、左右(東西)横長に写っているのが大通です。
 これを見ると、石山通りは大通から南6条の赤い○のあたりにかけて、接道する民地が白っぽく写っています。

 その部分を拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 建物疎開跡?
 白っぽくなっている部分の境目を黄色の線でなぞりました。家屋が密集しているところが黒っぽく写っているのと対照的ですが、かといって真っ白ではありません。正確にいうと灰色がかっています。道路がくっきり白く写っているのと家屋の黒っぽさの中間、といったところでしょうか。

 これは、もともと家屋が建っていたところを更地にした痕、と見えます。私は、戦時中の「建物疎開」(末注①)の痕ではないかと思いました。この痕跡は石山通りだけでなく、青い○の少し南側、すなわち南4条の通りと、赤い○すなわち南6条の通りのそれぞれ石山通り以東にも窺えます。

 赤い○の南6条付近をさらに拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 南6条附近
 南6条の交差点まではおおむね順調(?)に疎開されてきたようですが、その南側には家屋が残っています。前掲画像に戻って、さらに南下していくと、ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます。南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか。
 
 結局、石山通りが南6条の北側まで幅員を広げることができたのは、戦時中の疎開のおかげといえるのではないでしょうか。一目瞭然、拡幅しやすいですよね。一方、南6条以南の幅員を広げるためには、残っていた家屋を新たに壊す必要があります。さらぬだに復員や引揚げで住宅不足が深刻化するにつれて、これは難しかったことでしょう。
 巨大パチンコ店のアイストップ(4月2日ブログ掲載画像)もまた、札幌の戦跡だった。私の妄想的結論です(末注②)。

注①:2014.10.4ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-72.html 及び2014.10.5ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-73.html 参照。 「疎開」というのは「密閉」の対義語のようだが、要は強制破壊ですよね。なんだか、「転進」や「玉砕」に通じるコトバの置き換えみたいだ。
注②:私は戦時防空的都市計画としての建物疎開の痕と想像したが、札幌にはそれ以前、いわば平時の都市計画として広幅路の構想があった。このことは越澤明先生(北大名誉教授)が論考されている。先生の論文を勉強して、あらためて言及したい。
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2017/04/03

石山通り、南6条での幅員減少 ②

 昨日のブログのタイトルに誤りがありました。誤「石山通り、南条での幅員減少」→正「石山通り、南条での幅員減少」です。訂正します。

 本日はその続きです。ただし本題の「南6条での幅員減少」現象のまえに、寄り道します。
 昨日ブログで、石山通りが南3条あたりで札幌本府の南北軸から山鼻屯田のそれに変わる(つまり道が曲がる)ことを記しました。その歴史的経緯を古地図で辿ります。 
札幌市街之図明治24年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1891(明治24)年から抜粋しました。青い○で囲ったのが、南3条です。赤い○は本題の南6条ですが、こちらは後述します。
 さて、南3条から北へ、南1条までをご覧ください。札幌本府の軸線と山鼻屯田の軸線がせめぎ合っているのが読み取れます。この地図がどこまで実態を正確に表現したかという疑問の余地はありますが(末注①)、どうもこの時代は二本の道があったか、またはいびつな道幅だったようです。

 「いびつな」と道幅いうのは、南3条を底辺、南1条を頂点とする三角形のごとき形状です。
札幌市街之圖明治36年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1903(明治36)年の当該地点を見ると、道幅が三角形状です。この三角形はその後整形されて、札幌本府に合わせられる一方、南3条以南は山鼻屯田の軸線が残ります。

 本題に戻ります。
 南6条幅員減少現象はなにゆえ生じたか? 前掲2枚の古地図を見ると、石山通り周辺は南3条以北と以南で道路幅員が異なっています。以北が札幌本府が敷衍した呈をなして広幅員である一方、以南は狭い。
 単純素朴に考えれば、明治~大正期、市街地が拡大していったことに伴い、中心部と山鼻を結ぶ基軸たる石山通りの幅員を順次、南へ広げていった…。しかしそれだけでは面白くありません。もう少し妄想を巡らせたい。
 国土地理院の地形図をたどっていくと(末注②)、市街地は大正時代~昭和戦前期、石山通りに貼りついてきているのですが、南3条以南の道幅は狭いままです。南6条まで幅員が広げられるのは、昭和戦後になってからです。その間に何があったか。

注①:この種の市街地図(後掲の明治36年図も)は民間人が発行元である。国土地理院(の前身の陸軍陸地測量部)など公的機関の測量が反映されているかどうか? 方位は明示されておらず、札幌本府の南北軸を上下としている。
注②:「今昔マップon the web」サイトがまた役に立ちました。ありがとうございます。

2017/04/02

石山通り、南6条での幅員減少

 石山通り、南6条西10丁目です。
石山通り 南6条西10丁目
 北から南を眺めました。石山通りをクルマで南下すると、ここで道がクランクします。正面にそびえる巨大なパチンコ店の手前の交差点のところです。道路はここで幅員が減少し、片側3車線から片側2車線になります。路側帯を黄色の線でなぞったとおりです。パチンコ店がアイストップになっていて、判りやすいかと思います。

 問題は、どうしてここで道路幅員が狭まるか? です。私はこれまで、「札幌本府と山鼻屯田の境目あたりだからだろうな~」と思ってました。漠然と、です。しかし、それが主たる要因ではないことを悟りました。

 まず現在図を見ます。
中央区現在図 石山通り 幅員減少
 札幌市中央区役所発行「中央区ガイド」から抜粋し、彩色しました。茶色の線が石山通りで、問題の交差点は赤い○で囲ったところです。札幌本府の外周を黄色の線で囲い、東屯田通りを橙色の線でなぞりました。いうまでもなく、黄色の線(南北)と橙色の線が平行していません。
 
 では茶色の石山通りはどうか?
 青い○で囲った地点が境目になっています。南3条の通りとの交差点あたりです。これより以北では黄色の線の札幌本府の南北軸と平行している一方、以南へ行くにつれて平行が崩れていって、橙色の東屯田通りと平行していきます。つまり、札幌本府とのズレの調整は、青い○の南3条あたりで始まっているのです。
 ならば、赤い○のところでの幅員減少は何か。本府と山鼻の境目というだけでは、どうも説明がつきません。

2016/10/02

ツホコマナイ③

 明治6年飯島矩道・船越長善「札縨郡西部圖」です(原図:北大図書館所蔵)。
明治6年札幌郡西部図
 山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』のツホコマナイの項で言及している古地図です(p.30)。

 札幌の中心部を拡大してみます。
明治6年札縨郡西部図 札幌中心部拡大
 方位は北を上を変えました。黄色の矢印の先に描かれているのが、山鼻川=ツホコマナイとおぼしき川です。
 山田先生は、山鼻川が豊平川と合流するあたりに書かれている地名に着目しています。赤矢印の先です。

 その部分を拡大すると…。 
明治6年札縨郡西部図 カモカモ
 文字が書かれている向きに画像を90度回転させました。「カモ〱」と書かれています。カモカモ。

 カモカモは、現在の鴨々川よりも上流の地名(川名?)として位置しているのです。
 鴨々川の名前の由来は諸説あるようですが、上記古地図に書かれた位置から考えられることはないだろうか?

2016/10/01

ツホコマナイ②

 山鼻川です。
山鼻川 軍艦岬
 画像左方、木々がこんもりしたところが軍艦岬です。

 ツホ(ポ)コマナイ=「走り尾根の・下・にある・川」(山田秀三解)の名に相応しいと思います。

 この川を古地図で当たってみました。
明治7年 札幌郡各村地図
 明治7年「札幌郡各村地図」です(原図:北大図書館所蔵)。

 札幌の中心部を拡大してみます。
明治7年札幌郡各村地図 札幌中心部拡大
 判りやすくするため画像をモノクロ処理し、方位は北を上にしました。碁盤目に描かれたのが札幌本府です。「本廰」という文字も見えます。現在の北海道庁の位置です。 

 山鼻川に相当する川を薄い青でなぞりました。濃い青が鴨々川、破線でなぞったのが今は亡きその支流です。
 実は、山田先生は『札幌のアイヌ地名を尋ねて』で、次のように記しています(p.30)。
 古い頃に、上山鼻川(引用者注:山鼻川のこと)が豊平川に入らずに、北流して今の鴨々川に続いていたのかもしれない、という疑問が残っている。
 
 つまり、薄い青の川が、濃い青の破線につながっていたのかもしれない、ということです。
 山鼻川は豊平川扇状地の扇頂に近く、このあたりから北へ、文字どおり扇状に緩やかな地形が拡がります。往古、川は網の目のように流れていました。山鼻川が鴨々川の支流とつながっていたことも考えられます。フシコサッポロ川が江戸時代後期に起きた河川争奪によって本流の座を現豊平川に譲ったように、山鼻川もある時期に主流が変わったのかもしれません。

 南16条西5丁目に遺る、鴨々川の支流跡です。
南16西5 鴨々川支流跡
 ここにかつて本流が流れていたのかもしれないなあと、想いを馳せました。

2016/09/30

ツホコマナイ①

 8月24日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-763.htmlで、鴨々川の今は亡き支流のことを記しました。

 下図の青色破線でなぞったのが、その支流です。  
鴨々川 支流 古地図 201505
 原図は「札幌全区地番明細連絡図」1912(明治45)年から抜粋しました(2015.5.12ブログ掲載済み)。

 9月22日に催された「創成川・鴨々川 川めぐりウォーキング」で、ガイドのFさん(札幌市博物館活動センター学芸員)から、この川が「ツポコマナイ」かもしれないというお話がありました。
 ツポ(ホ)コマナイは、山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している川です(pp.28-30)。語釈は「走り尾根の・下・にある・川」。先生は、その尾根というのは「軍艦岬」のことであるとし、ツホコマナイは「上山鼻川」と推測しています。
 現在「上山鼻川」という川はありません(「札幌市河川網図」2012年で確認)。同書で先生が描いた地図に照らすと、現在の「山鼻川」がこれに当たります。

 河川網図で確認しておきます(方位は2時の方向がほぼ北)。
河川網図
 薄い青でなぞったのが山鼻川です。濃い青が鴨々川、破線は今は亡きその支流です。

 山鼻川は藻岩山南斜面の沢からミナモトを発して、軍艦岬を巻いて北流し、南28条で豊平川に合流します。かたや鴨々川の支流は現在の札幌南高校あたりがミナモトのようで、中島公園白鶴橋近くで鴨々川に合流します。
 さて、ツホコマナイはどの川か?

2016/08/12

幌南小学校 金次郎像

 久々の金次郎シリーズ、中央区・幌南小学校です。
幌南小学校 金次郎像
 本体はセメント製か。

 台座に木製の板がはめ込まれています。
幌南小学校 金次郎像 銘鈑
 「○○努力」。○の箇所は判読不能、ただし二つ目は「実」か。
 「北海道○○○員会」。教育委員会か。

 読んでいる書が、かなりぶあつい。
幌南小学校 金次郎像 書
 台座が高いため、書面を見るのは難しい。

 二宮棒(末注)で確かめました。
幌南小学校 金次郎像 書面
 何も書かれていません。

 この像を撮影するに当たって、学校の職員室に連絡して承諾をいただき、併せて先生に建立年などを伺ったのですが不詳でした。

注:2015.5.2ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-281.html参照

2016/07/06

東屯田通り Kさん宅

 東屯田通りのKさん宅は1924(大正13)年築です(末注①)。
東屯田通り Kさん宅 主屋 軟石
 その主屋の腰にも軟石が積まれています。

 ちょっと珍しいと思ったのは…。
東屯田通り Kさん宅 玄関廻り
 すべてが軟石ではなく、別の石も積まれていることです。

 私は当初、硬石(デイサイト)かと思ったのですが、「大人の遠足」に参加してくださった地質学者T先生によると、「硬質砂岩」とのことです。なぜ、全部軟石にせず、あるいは全部砂岩にせず、部分的に異なる石を用いたか、謎です。

 台所部分は、まるごと石積みです。
東屯田通り Kさん宅 台所まわり
 ここはペンキが塗られているので、石質はわかりません(末注②)。
 軟石にせよ、硬質砂岩にせよ、耐火性を考えて石積みにしたのかと想像します。

注①:『札幌の建築探訪』1998年参照
注②:『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年によると、「台所まわりの壁も軟石で積まれている」(p.151)。 

2016/07/05

東屯田通り、Kさん宅の書庫

 山鼻、東屯田通りのKさん宅の書庫です。
山鼻 東屯田通 Nさん宅 軟石書庫
  札幌建築鑑賞会「大人の遠足2016初夏の編」で、お住まいの方のご承諾をいただき、敷地の中に入らせていただきました。公道上からよりもハッキリと札幌軟石の壁面が見えます。Kさん宅の元の住まい手が北大元学長・南鷹次郎であるということは文献で知っていましたが、この書庫は南先生の門下生たちがお金を出し合って寄贈したものと伝わっていることをこのたびKさんからお聞きしました。

2016/06/29

藻岩山麓の巻き爪

 6月14日ブログで、南22条電車通りが藻岩山に向かって下り勾配になっていることを記しました。
電車通り 南22条西12、13丁目
 この画像でいうと、写っている市電の車両の手前のほうがわずか~に盛り上がっていて、その奥が下っています。盛り上がっているのは西12丁目あたりです。なお、この画像は西10、11丁目の横断歩道から、西に向かってズームアップしたものです。一見、電車が間近に迫っていますが、一町角離れた横断歩道上で青信号のときに撮り、電車の行く手を塞いだわけではありませんので、念のため申し添えます。

 さて、山に向かって下り坂になるという、いわば逆転現象について、6月14日のブログでは「なぜ、そういうことが起きるか?」までは触れませんでした。6月17日の「大人の遠足」に参加してくださった地質学者・T先生に、その答えを教えていただきました。T先生によると、扇状地において上流から土砂が運ばれる際、その先端は地面をえぐるように巻いて進むのだそうです。結果、藻岩山麓にぶつかった縁(へり)のところで、札幌建築鑑賞会スタッフNさんの例えを借りれば、巻き爪のように食い込む。

 巻き爪の断面を模式的に描くと、こんな感じでしょうか。
電車通り 巻き爪

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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