FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/09/01

2018市電フェスティバル 「路面電車100周年記念クイズ大会」

 篠路のまちづくりを考える第2回シンポジウム」、いよいよ明日です。
 後半の第2部は、当初の予定から内容が一部変更されます。
 講演は川嶋王志さん(小樽石蔵再生会)の「日本遺産から学ぶ『「まちづくり』」のみとなり(約40分)、その後は「みんなで話そう あなたの思いを教えてください」と題して参加者が小グループに分かれ、思いを語り合うことになりました(約45分)。ここで語っていただく「思い」のテーマは、次のとおりです。
  1問 駅東口に計画される広場、ロータリーの大きさ、形状について
  2問 篠路にとって、倉庫の価値とは
  3問 倉庫を残せるとしたら、その保存活用について
       
 この3問は、ほかでもありません。6月に開催された「篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議」初回で、委員長から提示された「議論の主なポイント」そのものです。
 今回のシンポジウムに当たって、私は大事なことが2点あると思います。一つは、上記「議論のポイント」を外さないこと。もう一つは、与えられた条件で「とりあえずの答え」を出すしかないこと、です。語り合いを散漫にさせないために、留意したい。

 …とここまで記してきて、話題を急遽変えます。
 明日のシンポジウムのことを、予習を兼ねて引き続き綴ろうと思っていましたが、やめます。この二三日、私には「いいこと」が続きました。その「いいこと」を記しておきたくなったのです。
 
 今日、「2018 市電フェスティバル」という催しに遊びました。札幌建築鑑賞会の元スタッフで現在秋田県に住んでいるYaさんが夫の出張に伴って札幌に来たので、このイベントに連れていったのです。彼女は鉄道系に興味があると言っていたところで、タイムリーでした。
 会場で「路面電車100周年記念クイズ大会」が始まるというので、どんなものか興味が湧きました。大人も参加できる「高難度編」です。私はこれに全3問正解し、景品を手に入れることができました。

 クイズの問題は、実にマニアックでした。いずれも二択式で、一問目は「電車事業所にある転轍機の種類は何か?」。二問目は「札幌の市電にディーゼル車が導入されたのは、昭和何年か?」。三問目は「市電の軌道は、秋になると落ち葉がくっつく。これを取り除くためのナントカという機械を備えた○○系の車両は、全部で何台あるか?」。

 クイズが始まる前、Yaさんが「スマホで調べて答えが判るんでないの?」と言いました。問いがめちゃくちゃマニアックだったのは、ネットでは簡単に見つからない情報に絞ったからかもしれません。
 開始時の参加者は100人くらいだったでしょうか。「ウルトラクイズ」方式で三問正解に至ったのが二十人くらいです。私は全部あてずっぽうでした。一問目の転轍機の名称は、今、すでに思い出せません。二問目の選択肢は「昭和33年」と「昭和34年」で、三問目の選択肢は「6台」と「7台」でした。こんな問いは、考えて解けるものではありません。
 
 とまれ、貰った景品はこちらです。
2018市電フェスティバル 路面電車100周年記念クイズ大会 景品
 トミーテック「253・シングルアーム車」1/150模型

 会場で同じモノが2,000円で販売されていました。市電オタクではない私には、「これで2,000円てかい? 高いなあ」と思えます。
 しかしお宝感が募ったのは、画像手前に置いた「トレインカード」です。これは札幌市交通局の限定100枚作成「シリアルナンバー入り」で、販売品には入っていません。射幸心をあおる交通局の作戦にうまうまと乗せられる私です。
スポンサーサイト

2018/08/20

『さっぽろ市電BOOK』で「迷子」になろう

 8月17日ブログで電柱「研修所幹」を取り上げたのは、たまたまこの物件の近くに行ったからです。
 
 近くに行った先には、この建物があります。
旧小熊邸 20180817
 中央区伏見5丁目の「旧小熊邸」です。
 
 なぜここに足を運んだかというと、それもきっかけがありました。きっかけは、『さっぽろ市電BOOK』という名前の冊子を手に取ったことです。
さっぽろ市電 BOOK 表紙
 この冊子に、くだんの「旧小熊邸」が紹介されています。
さっぽろ市電 BOOK 「旧小熊亭」再掲
 紹介されている文章を読んで気になった箇所があったので、私は現地に赴いたのです。

 「気になった箇所」というのは主として、当該ページの左下に載せられた写真のキャプションの文言です。上掲画像に赤い矢印を付けた先で、ここに「※現在非公開」と書かれています。はて、旧小熊邸の内部は「非公開」になったのかしら。私が気になったのは、そこです。
 その前に、いま「『気になった箇所』というのは主として、」と記しました。「主として」としたのは、ほかにも気になる箇所があるからです(末注)。本件「旧小熊」が、この冊子では「旧小熊」と表記されています。私はこの20年来、本件建物を「旧小熊」と認知してきましたが、いつのまにか「旧小熊」になったらしい。「きゅうおぐまちん」か。なんか、料理屋みたいだな。
 
 それはひとまず措き、本年5月2日ブログに記したとおり、本件「旧小熊亭」もとい「旧小熊邸」は4月に釣具店になりました。再々生のスタートを切ったばかりなのに、「非公開」とは何事ならん。よもや営業を中断したのではあるまい。かくして私は、真偽を糾すべく本件建物を訪ねたのです。釣具店に問い合わせたところ、現在も店舗として営業しており、建物内部に入ることは可能と確認しました。

 前掲『さっぽろ市電BOOK』の当該ページ本文には、本件建物は「老朽化がすすんだこともあり平成に入ってから取り壊しが検討されましたが、存続を願う市民の要望で、1998年に伏見東緑地に移転され、2017年まで民間会社が喫茶店として営業していました」と述べられています。「営業していました」という過去形のみで語られ、しかも末尾写真キャプションに「現在非公開」とあると、今はもう建物の中に入れないと読解されるのではないでしょうか。
 本件『さっぽろ市電BOOK』は、奥付を見ると発行元は札幌市中央区役所です。市電車内ほか、中央区内の市関係の施設などで無料で配布されています。無料で配られるのは、元手に税金が費やされているからでしょう。その影響力を慮れば、蟷螂の斧のごとき拙ブログではありますが、ご注進申し上げるしだいであります。
 
 小熊捍先生のことについて、稿をあらため綴ることとします。

 注:さらには、「旧小熊亭は1927年北海道帝国大学の小熊教授の自宅として建てられた」と、小熊先生の名前「」が「」と誤記されている。まあ、これはよくある誤字。「捍」という漢字が、パソコンでなかなか変換しづらい(5月29日ブログ参照)。というか、手偏が木偏に誤読されてしまうのだなあ。
 ちなみに、1927年当時、小熊は北大農学部の教授だった。正確には「小熊捍助教授(のちに教授)」。文字数が増えて煩わしければ、「小熊捍博士」とすればよかろう。小熊先生は大正期に農学博士の学位を取っている。
 より本質的な問題では、前掲引用文のなかんづく、「移転され」というくだりである。ただし、このことは今回の主題ではないので、割愛する(5月2日ブログの末注参照)。

2018/08/09

石山通りの幅員減少現象 再考

 本日8月9日の北海道新聞夕刊に、清田区に住む89歳の女性の投稿記事が載っていました。第2面の「陽だまり」という欄で、「平和が続きますよう」という題です。興味を惹かれた箇所があったので、以下一部を引用します。
 昭和16年に女学校に入学し、20年に卒業した私は、ほとんど勉強していない。先日、修学日誌が出てきて懐かしく見てみたが、今の時代は幸せだとしみじみ思う。
 卒業後も学校の指示でいろんな職場へ行き、私は監視隊本部に勤めた。8月15日、24時間勤務を終えて帰る途中だった。石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう。


 興味を惹かれたのは、最後の3行です。私はこれを「建物疎開」のことをいっているのではないかと思います。
 前に拙ブログで西11丁目、石山通りが南6条で道路幅員を狭めていることについて記しました。
 ↓
 2017.4.2 「石山通り、南6条での幅員減少」
 2017.4.3 「石山通り、南6条での幅員減少②」
 2017.4.4 「石山通り、南6条での幅員減少③」

 私はこの幅員減少の理由を、戦時中に北から南6条まで建物疎開してきたところ、「南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか」と推察しました。
石山通り 南6条西10丁目

 前述の記事でいう民家の取壊しが建物疎開だったかどうか、ただちには断定できません。しかし、終戦を知らずに道路を拡張していた、というならば疎開のためであったと私には想えます。それが1945(昭和20)年8月15日もまだ続けられていたということは、その後中断したであろうことも窺われます。

 「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう」という記述は、もしかしたら何気なく読み過ごされてしまうかもしれません。「なぜ、民家を取り壊していたか?」「どうして、『終戦をまだ知らなかったのだろう』と作者は思ったか?」を問うことで、想像力を掻き立てる好材ともいえましょう。貴重な証言だと思いました。このほかにも、この方が勤務していたという「監視隊」がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです。

2018/05/02

再々生・旧小熊邸

 昨年(2017年)11月に閉店した「ろいず珈琲館 旧小熊邸」の建物が先月、釣具店に再生しました。
旧小熊邸 ドリーバーデン
 「ドリーバーデン」という店です。

 ろいず珈琲館は1998(平成10)年9月に開店し、19年にわたって続けられてきました。長いこと、ありがとうございました。
 新しい店は室内に商品が並んでいて、「ろいず」当時とは雰囲気が変わりましたが、1階の一隅と2階に喫茶のスペースもあります。

 2階です。
旧小熊邸 2階
 この建物は、2階は一部屋しかありません。
 設計した田上さんの図面にはatticと書かれていました。屋根裏部屋。ある意味、贅沢な空間だと思います。

 作り付けのカップボード?書棚?に、元の住まい手の小熊捍先生の肖像写真と直筆色紙が飾られています。
小熊捍先生 肖像写真 直筆色紙
 この写真と色紙は、札幌建築鑑賞会が元の店に寄託したものです。 

 1996-97年、鑑賞会がこの建物の保存を目指して活動していたとき、会員から会に寄贈されました。ゆかりの建物に飾られるのが一番いいだろうと思って、1998年に建物が再現されたとき、寄託したのです(末注)。

 この3点には、私はほろ苦い思い出もあります。当時、建物の保存に関わっていた別の人から、「葬式の写真みたいだ」と言われたのです。私としては、元の住まい手にまつわる貴重な史料でもあるので、よかれと思ったのですが、それを聞いたときは少なからずショックを受けました。それでも、ろいずの社長さんは上手に額装して、1階の欄間に飾ってくださいました。旧小熊邸の正史では語られない挿話です。
 
 私の贔屓目かもしれませんが、仮に遺影であったとしても、それはそれで肯定的な意味で建物に生活感を添えて、よかったのではないかと自分に言い聞かせています。よく仏間の欄間とかにご先祖の遺影を掲げたりしてますよね。洋館には似つかわしくないか。 

 とまれ、建物再々生の前途に幸あれと祈ります。

 :この建物は、1927(昭和2)年に旧藻岩村円山村(現中央区南1条西20丁目)に建てられた原建物の外観を、1998年、できる限り忠実に再現し、内部の建具や家具の一部を復元したものである。ところが近年、建物自体が「移築」とか「復元(原)」されたと称されることが多い。たとえば「札幌の街をデザインした男―田上義也- 光に包まれた北の建築」(AIR DO機内誌『rapora』№60、2009年5月)では、「旧小熊邸のオリジナルは解体されたが、保存運動の高まりで藻岩山麓に復原された」(p.8)。また、「北海道建築の父・田上義也建築巡礼 北のモダニズム」(ANAグループ機内誌『翼の王国』№508、2011年10月)には、「1998年に現在の藻岩山の麓へと解体・移築された邸宅」(p.90)。
 しかし、以下の理由で、「復原」「移築」は語弊がある。
 ・9割がた、新しい建材の使用である。原建物の部材は内部で使用されているが、極めて部分的である。
 ・喫茶店としての再生利用にあたって、内部の間取りや床が大きく変更されている。
 いうならば、「再現」とか「再生」が妥当ではないか。後者の記事には研究の第一人者・角幸博先生も登場しているが、ほかならぬ角先生ご自身、本件建物を「原寸模型的な再現」と評している(『札幌の建築探訪』1998年、p.143)。もちろん、だからといって本件建物の存在意義を損なうものでは、いささかもない。問題は表現の仕方である。 2016.1.16ブログ参照 

2018/04/02

山鼻の幼稚園 ②

 昨日ブログで紹介した札幌に現存する最古の幼稚園舎のこぼれ話の、さらなるこぼれ話です。
 幼稚園の通用口を入ったところに、古い寒暖計が掛けられています。
めばえ幼稚園 寒暖計
 黄色の矢印を付けた先に眼が留まりました。
 
 文字がほとんど退色していますが、なんとか読めます。
めばえ幼稚園 寒暖計 カワイ肝油ドロップ
 「カワイ肝油ドロップ」と。

 懐かしい。小学生のとき、学校をとおして半年に一回くらいの頻度で買っていた覚えがあります。「浅田飴」くらいの缶にゼリー状のタブレットが入っていて、一日2錠か3錠、服用というか摂取していました。「カラダにいい」ということでだったのですが、それよりも口に入れたときの触感と甘味が、フツーのアメとの違いを感じさせました。甘味はふだん口にしないグラニュー糖だったからでしょうか。当時(今から半世紀前)は、学研の月刊誌とかも学校を通して販売されていましたが、今でも肝油ドロップは学校経由で買えるのですかね。

 幼稚園へ一緒に取材に来ていた㈱ノーザンクロス(ウエブサイト「北海道マガジン カイ」の運営母体)の人たちと肝油ドロップの話題になったとき、編集部のⅠさんは「三日くらいで一缶分、食べちゃってたな」と回想していました。人によって違うものですね。私は「食べ過ぎるとカラダに悪い」と信じて、一日2~3錠を律儀に守ってました。この限定感がまた、翌日への渇望感をそそりました。
 缶の蓋には、例えば野生動物が描かれていて、平均寿命がライオンは何年、シマウマが何年とか書かれ、これも楽しみでした。数年前に、物置で当時のドロップ缶を見つけたのですが、私としてはウカツなことに捨ててしまいました。50年くらい前のカワイ肝油ドロップ缶をお持ちの方、いらっしゃいますか?

2018/04/01

山鼻の幼稚園

 ウエブサイト『北海道マガジン カイ』に、札幌建築鑑賞会協力の連載「愛され建築」第6回が公開されています。今回が最終回で、「学校法人札幌ルター学園 めばえ幼稚園」です。どうぞご覧ください。
 拙ブログでは例によって“こぼれ話”的なことを綴ります。
 
 この幼稚園は、2012年8月に「古き建物を描く会」で写生させていただきました。
めばえ幼稚園 2012年8月
 1937(昭和12)年に建てられた園舎は現役です。前述のサイトでも触れているように、1階の遊戯室は南面に窓が大きく張り出しています。採光を意識しているのは、外来的な発想ではないかと思いました。
 幼稚園に、1936(昭和11)年5月18日付けの「建築認可申請書」が保存されています。
めばえ幼稚園 建築認可申請書
 この書類には、「申請人」として「サヲライネン、ヨハン、ビクトリ」、「建築工事管理者」として「テーネ、アリア、ニエミ」、「建築工事請負人」として「三浦才三」の名前が記されています。

 三浦才三は大正から昭和戦前期に札幌で洋館を施工した棟梁です。義父の松川豊吉とともに建築事務所を設け、スイス人建築家マックス・ヒンデル設計の「藤学園キノルド記念館」1924(大正13)年築、2001(平成13)年解体、「旧北星女学校宣教師館」1926(大正15)年築、現存(札幌景観資産、国登録有形文化財)の施工で知られます(末注①)。
 前掲「申請書」に書かれている三浦の住所は「札幌市北十二條東三丁目五十二番地」です。この場所は「天使病院」があった(今もある)一角に当たります。札幌のフランシスコ修道会の関係の建物は松川の請負いといいます(末注②)。さらに、前述のヒンデルは1924年に札幌に来て、この近くの北11条東1丁目に自邸「東光園円い家」を設計新築し、住みました(末注③)。ヒンデルの自宅は、例の「東皐園」(本年2月11ブログほか参照)の一角に建てられました。松川、三浦は、設計施工をとおして、ヒンデルと親交があったといいます(末注④)。ヒンデルが東皐園の一角に居を構えたのは、もしかしたら松川、三浦の導きがあったのかもしれません。フランシスコ修道会の洋館や西洋花卉の園という界隈性がスイス人を惹きつけたようにも想います。

 三浦はヒンデル設計の施工をとおして、洋館を消化し、めばえ幼稚園の図面をみずから引いたようです(末注⑤)。そこには、藤学園キノルド記念館などとの共通性が指摘されています。
 そういわれてみると、三浦は幼稚園を建てるに当たって、この建物も必ずや体得していたのではないでしょうか。
旧北星女学校宣教師館
 前述北星の旧宣教師館です。場所的にも近い。1階南面の張出し窓とか、吸収しているような気がしました。
 
 前述「申請書」の「建築工事管理者」の「テーネ、アリア、ニエミ」という人は、どういう立場だったのでしょう。名前からすると、本幼稚園の由来するフィンランドの教会関係者にも想えます。建物の施工監理に携わったのだろうか。

 注①:『さっぽろ文庫23 札幌の建物』1982年、pp.138-139、『札幌の建築探訪』1998年、p.66、p.89
 注②:同上『さっぽろ文庫23 札幌の建物』p138
 注③:同上『さっぽろ文庫23 札幌の建物』pp.124-125
 注④:同上『さっぽろ文庫23 札幌の建物』p.138
 注⑤:外川麻衣子ほか「札幌ルター学園めばえ幼稚園園舎(昭和12年)について」2008年(梗概)

2017/04/04

石山通り、南6条での幅員減少 ③

 昨日の続きです。
 大正~昭和戦前期と昭和戦後の間に、石山通りで何があったか。それを物語るのが1948(昭和23)年米軍空撮写真です。
1948年米軍空撮写真 石山通り周辺
 画像のほぼ中央を上下(南北)に通じているのが石山通りで、例によって南3条を青い○で、南6条を赤い○で囲いました。画像最上部、左右(東西)横長に写っているのが大通です。
 これを見ると、石山通りは大通から南6条の赤い○のあたりにかけて、接道する民地が白っぽく写っています。

 その部分を拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 建物疎開跡?
 白っぽくなっている部分の境目を黄色の線でなぞりました。家屋が密集しているところが黒っぽく写っているのと対照的ですが、かといって真っ白ではありません。正確にいうと灰色がかっています。道路がくっきり白く写っているのと家屋の黒っぽさの中間、といったところでしょうか。

 これは、もともと家屋が建っていたところを更地にした痕、と見えます。私は、戦時中の「建物疎開」(末注①)の痕ではないかと思いました。この痕跡は石山通りだけでなく、青い○の少し南側、すなわち南4条の通りと、赤い○すなわち南6条の通りのそれぞれ石山通り以東にも窺えます。

 赤い○の南6条付近をさらに拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 南6条附近
 南6条の交差点まではおおむね順調(?)に疎開されてきたようですが、その南側には家屋が残っています。前掲画像に戻って、さらに南下していくと、ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます。南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか。
 
 結局、石山通りが南6条の北側まで幅員を広げることができたのは、戦時中の疎開のおかげといえるのではないでしょうか。一目瞭然、拡幅しやすいですよね。一方、南6条以南の幅員を広げるためには、残っていた家屋を新たに壊す必要があります。さらぬだに復員や引揚げで住宅不足が深刻化するにつれて、これは難しかったことでしょう。
 巨大パチンコ店のアイストップ(4月2日ブログ掲載画像)もまた、札幌の戦跡だった。私の妄想的結論です(末注②)。

注①:2014.10.4ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-72.html 及び2014.10.5ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-73.html 参照。 「疎開」というのは「密閉」の対義語のようだが、要は強制破壊ですよね。なんだか、「転進」や「玉砕」に通じるコトバの置き換えみたいだ。
注②:私は戦時防空的都市計画としての建物疎開の痕と想像したが、札幌にはそれ以前、いわば平時の都市計画として広幅路の構想があった。このことは越澤明先生(北大名誉教授)が論考されている。先生の論文を勉強して、あらためて言及したい。

2017/04/03

石山通り、南6条での幅員減少 ②

 昨日のブログのタイトルに誤りがありました。誤「石山通り、南条での幅員減少」→正「石山通り、南条での幅員減少」です。訂正します。

 本日はその続きです。ただし本題の「南6条での幅員減少」現象のまえに、寄り道します。
 昨日ブログで、石山通りが南3条あたりで札幌本府の南北軸から山鼻屯田のそれに変わる(つまり道が曲がる)ことを記しました。その歴史的経緯を古地図で辿ります。 
札幌市街之図明治24年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1891(明治24)年から抜粋しました。青い○で囲ったのが、南3条です。赤い○は本題の南6条ですが、こちらは後述します。
 さて、南3条から北へ、南1条までをご覧ください。札幌本府の軸線と山鼻屯田の軸線がせめぎ合っているのが読み取れます。この地図がどこまで実態を正確に表現したかという疑問の余地はありますが(末注①)、どうもこの時代は二本の道があったか、またはいびつな道幅だったようです。

 「いびつな」と道幅いうのは、南3条を底辺、南1条を頂点とする三角形のごとき形状です。
札幌市街之圖明治36年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1903(明治36)年の当該地点を見ると、道幅が三角形状です。この三角形はその後整形されて、札幌本府に合わせられる一方、南3条以南は山鼻屯田の軸線が残ります。

 本題に戻ります。
 南6条幅員減少現象はなにゆえ生じたか? 前掲2枚の古地図を見ると、石山通り周辺は南3条以北と以南で道路幅員が異なっています。以北が札幌本府が敷衍した呈をなして広幅員である一方、以南は狭い。
 単純素朴に考えれば、明治~大正期、市街地が拡大していったことに伴い、中心部と山鼻を結ぶ基軸たる石山通りの幅員を順次、南へ広げていった…。しかしそれだけでは面白くありません。もう少し妄想を巡らせたい。
 国土地理院の地形図をたどっていくと(末注②)、市街地は大正時代~昭和戦前期、石山通りに貼りついてきているのですが、南3条以南の道幅は狭いままです。南6条まで幅員が広げられるのは、昭和戦後になってからです。その間に何があったか。

注①:この種の市街地図(後掲の明治36年図も)は民間人が発行元である。国土地理院(の前身の陸軍陸地測量部)など公的機関の測量が反映されているかどうか? 方位は明示されておらず、札幌本府の南北軸を上下としている。
注②:「今昔マップon the web」サイトがまた役に立ちました。ありがとうございます。

2017/04/02

石山通り、南6条での幅員減少

 石山通り、南6条西10丁目です。
石山通り 南6条西10丁目
 北から南を眺めました。石山通りをクルマで南下すると、ここで道がクランクします。正面にそびえる巨大なパチンコ店の手前の交差点のところです。道路はここで幅員が減少し、片側3車線から片側2車線になります。路側帯を黄色の線でなぞったとおりです。パチンコ店がアイストップになっていて、判りやすいかと思います。

 問題は、どうしてここで道路幅員が狭まるか? です。私はこれまで、「札幌本府と山鼻屯田の境目あたりだからだろうな~」と思ってました。漠然と、です。しかし、それが主たる要因ではないことを悟りました。

 まず現在図を見ます。
中央区現在図 石山通り 幅員減少
 札幌市中央区役所発行「中央区ガイド」から抜粋し、彩色しました。茶色の線が石山通りで、問題の交差点は赤い○で囲ったところです。札幌本府の外周を黄色の線で囲い、東屯田通りを橙色の線でなぞりました。いうまでもなく、黄色の線(南北)と橙色の線が平行していません。
 
 では茶色の石山通りはどうか?
 青い○で囲った地点が境目になっています。南3条の通りとの交差点あたりです。これより以北では黄色の線の札幌本府の南北軸と平行している一方、以南へ行くにつれて平行が崩れていって、橙色の東屯田通りと平行していきます。つまり、札幌本府とのズレの調整は、青い○の南3条あたりで始まっているのです。
 ならば、赤い○のところでの幅員減少は何か。本府と山鼻の境目というだけでは、どうも説明がつきません。

2016/10/02

ツホコマナイ③

 明治6年飯島矩道・船越長善「札縨郡西部圖」です(原図:北大図書館所蔵)。
明治6年札幌郡西部図
 山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』のツホコマナイの項で言及している古地図です(p.30)。

 札幌の中心部を拡大してみます。
明治6年札縨郡西部図 札幌中心部拡大
 方位は北を上を変えました。黄色の矢印の先に描かれているのが、山鼻川=ツホコマナイとおぼしき川です。
 山田先生は、山鼻川が豊平川と合流するあたりに書かれている地名に着目しています。赤矢印の先です。

 その部分を拡大すると…。 
明治6年札縨郡西部図 カモカモ
 文字が書かれている向きに画像を90度回転させました。「カモ〱」と書かれています。カモカモ。

 カモカモは、現在の鴨々川よりも上流の地名(川名?)として位置しているのです。
 鴨々川の名前の由来は諸説あるようですが、上記古地図に書かれた位置から考えられることはないだろうか?

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

11 | 2018/12 | 01
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック