札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/24

古き建物を描く会 第61回を開催しました

 今回の画題はJR苗穂駅です。 
 朝方よりも昼過ぎにかけて冷え込み、体感温度は10℃台前半かとも思われる肌寒さの中、8名が参加しました。
 古き建物を描く会 第61回 苗穂駅
 苗穂駅は周辺の再開発事業に伴い、建替えられます(2014.12.26ブログ参照)。
 
 今年11月には役目を終える現駅舎を、ねぎらいも込めてスケッチしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅 作品
 終了後、駅待合室でお披露目会です。

 会員のSさんは、駅ホームから眺めた苗穂工場も作品にしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅ホームから苗穂工場
 この風景も5か月後には見納めです。

 この跨線橋も、ゆくゆくは撤去されるのでしょうか。
苗穂駅 跨線橋
 前にブログで記したように、本件には稀少な古レールが支柱に使われています(2014.12.28ブログ参照)。
 撤去されたら、古レールはどうなるんだろう。できれば、モニュメンタルな形で新駅舎に活かしてもらえると嬉しいのですが。

 約300m西方に建設中の新駅舎です。
JR苗穂駅 建設中新駅舎
 たしか1年前にはまだ橋脚くらいしかできてませんでした(2017.5.17ブログ参照)。もう駅舎本体が出来上がりつつあるようです。早い。

 現駅舎の古レールのことは、6年前に「苗穂駅周辺まちづくり協議会」事務局長のMさんに教えていただきました。そのMさんはもうおられません。一昨年「苗穂カフェ」に足を運んだとき、その一週間前に亡くなったとお聞きました。残念です。バリアフリー化されて北と南をつなぐ新駅舎の落成を心待ちにしておられたことでしょう。Mさんには2012年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になりました。新駅舎ができたら、現駅舎は「道の駅」のように活用できないかと話しておられたのを思い出します。もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。合掌。
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2018/06/23

20年前の旧永山邸・旧三菱鉱業寮

 6月13日ブログで私は「旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります」と記しました。
 その“わけ”を物語るのが、以下の写真です。

 1997(平成9)年3月、札幌の文化財をテーマにして、札幌建築鑑賞会で勉強会を催しました。
旧永山邸 1997329
 そのとき、会場に使わせてもらったのは旧永山邸です。拙ブログでたびたび引用させていただいている故武井時紀先生(2017.11.42018.6.16各ブログ参照)に講師を務めていただきました。

 旧三菱鉱業寮2階の和室でも、先生の講義を受けました。
旧三菱鉱業寮 1997329
 20年以上前の当時、この場所をこのように利用する例はありませんでした。正確にいうと、地元町内会の女性グループがお茶か生け花の会合に使ってはいたのですが、それはいわば例外だったのです。所管している札幌市の文化財課では、市民の会合等での供用をオオヤケに謳ってはいませんでした。

 1998(平成10)年5月、札幌建築鑑賞会のスタッフの会合を同じ部屋で開いたこともあります。
旧三菱鉱業寮 199805
 これも、文化財課にかけあって容認してもらったものです。

 市民が地元の文化財を訪れるというのは、あまりないのではないか。そう思ったのが、上記のことを試みたきっかけです。時計台や豊平館、清華亭などに足を運ぶことって、どれだけあったでしょう。最近の話ではありません。20年前です(末注)。観光名所になっている文化財は、逆に市民には疎遠かもしれません。
 旧永山邸は、文化財や観光地としての知名度は時計台や道庁赤れんがほど高くはありませんでした(おそらく、今も)。だから、いつ行っても閑散としていました。それはそれで、歴史的な風情を静かな雰囲気で味わえてよかったのですが、一方で「もったいないな」とも思ったのです。
 せっかく札幌市が税金を使って保存にこれ務めているオオヤケの施設です。「使ってこそ」の文化財ではなかろうか。古いモノは、「ただ」残っていればいいというものではあるまい。また、一見「ただ」残っているかに見えても、人知れないエネルギーが費やされていることもあります。
 文化財の場合、「使うこと」と「残すこと」は矛盾をきたすともいえます。使えば使うほど負荷がかかり、残すことに支障が生じる。そのバランスは必要です。旧三菱鉱業寮の場合、指定文化財ではありませんが事情は同じでしょう。
 このことを念頭に入れつつも、旧三菱鉱業寮の2階和室はほとんど空き部屋だったので、「もっと使われてもよかろうに」と私は思いました。来場者数が少なければ「税金を使って、残し続ける意味があるのか?」という声が起きても不思議ではありません。例えば建築上の価値があるとか、景観上の価値があるとか言っても、土地利用の経済的価値を引き合いにされるとどうか。いくら「カネに換えられない価値がある」といっても、なかなか議論にならない。そもそも、納税者の多くが「そんな建物、行ったことないな~」では、経済的価値至上論に敵いません。
 
 三菱鉱業寮の和室から、「もっと使ってもらってもいいですよ~」という声が私に聞こえてきました。
 まず足を運ぶ、知る、味わうことから始めよう。
 20年前、私は若かった。青かった。

 注:豊平館の場合、結婚式場に用いられていた。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。

2018/06/17

旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮 保存の秘話

 「秘話」などと扇情的なタイトルを付けたわりに、本文が竜頭蛇尾になりますがお許しください。
 旧永山邸・旧三菱鉱業寮にまつわる物語は髙安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年に詳しくまとめられています。越野武先生(当時・北大)を中心とする建築の調査報告も転載され、本件建物を知るうえでもっとも役に立つ文献です。
 これに加えて、昨日ブログでも引用した武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年の記述を、私は推します。前者の文献に記されていないエピソードが幾つも盛り込まれています。前者は、永山武四郎をおもにして、昭和戦前期に三菱が洋館を建てたあたりまでの経緯が中心です。一方、後者は、その後の比較的最近に至る本件建物の歴史にも触れています。しかも、建物そのものというよりは、まつわる人々の営みが書かれています。後者にそのような記述があることはあまり知られていない(と思う)だけに、私は強調しておきたいのです。

 拙ブログではさらに、上記二つの文献にも載っていない“近過去”の記憶を、活字に遺しておきたいと思います。テーマは、旧永山邸及び旧三菱鉱業寮がいかにして保存されたか。
 
 北海道住宅供給公社が、30年ほど前に出したパンフレットです。
旧永山邸周辺再開発事業 パンフレット
 記載内容からして1987(昭和62)年の作成と思われます。

 「札幌圏都市計画事業 旧永山邸周辺地区第一種市街地再開発事業 新しい都市のアメニティ」という標題が付いています。描かれているのは、本件建物及び周辺公園と、その隣に建つ高層マンションの予想図です。本件建物の保存は、札幌市が都市計画事業の一環に位置付けられていました。1983(昭和58)年、本件建物及びその周辺の土地が都市公園(近隣公園)として都市計画決定され、1985(昭和60)年、札幌市が取得、整備したのです。それは市街地再開発事業(隣の高層マンション建設)との一連でした。それで、前掲パンフレットには建物と公園が住宅供給公社のマンションの借景庭園のように描かれたわけです。

 旧永山武四郎邸は1987(昭和62)年、北海道有形文化財に指定されました。札幌市内で文化財に指定された建造物の多くは、札幌市が所有しています。指定文化財の保存を担保することは、市による取得と密接不可分といえましょう。本件建物は、当時の所有者・三菱鉱業セメント株式会社が札幌市に寄付しました(末注①)。いくら耐用年数を過ぎた老朽家屋とはいえ、市に寄付されたことで文化財指定の道が開かれたと私は想います。三菱としては、社用施設を維持する必要性が減っていたのかもしれませんが。

 ここからは私の伝聞に基づきます。
 市は、三菱鉱業セメントとどのようにつながったのか。当時の市長・板垣武四氏のあずかるところが大きかったらしい。なんとなれば氏は、札幌市に奉職する前、三菱電機の社員でした(末注②)。市長就任後も、三菱に人脈があったようです。三菱鉱業セメントの社長、会長を歴任した大槻文平氏は、東京帝国大学法学部の先輩に当たります。板垣さんも、「三菱」には思い入れがあった。
 札幌市と同社の当時のやりとりを伝える公文書には当たっていませんが、おそらくこのようなことは活字に遺っていないでしょうね。

注①:旧三菱鉱業寮の展示パネルによる。
注②:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.39

2018/06/16

旧三菱鉱業寮に置かれた母子像

 先日の旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮の内覧会で、ひときわ目を惹いた逸品です。
旧三菱鉱業寮 母子像
 旧三菱鉱業寮の1階、玄関を入ってすぐの部屋に鎮座していました。

 作品名や作者名、由来などの説明は何もありません。 
旧三菱鉱業寮 母子像②
 その“無言”なたたずまいが、昭和戦前期の洋館の一室に特異な存在感を醸していたのです。あに、場違いと言うなかれ。

 本件建物の指定管理者となったN社の担当Gさんに、思わず私は「やあ、いいですね、コレ」と言ってしまいました。Gさんは苦笑いして曰く「私たちは、ここに置くのは反対したんですけどねえ」と。
 実は私は、本件彫像にタカを括っていました。「どこぞの誰かが、持て余したモノを札幌市に寄贈と称して押し付けたんだろうなあ」くらいに疎んじていたのです。というのは、だいぶ前、本件建物の一室が市の文化財課の物置で使われていて、その種の“ありがた迷惑”物件の収蔵場所になっていたからです(末注①)。

 内覧会のとき、やはり参加者からは「なんだ、コレは?」と話題になりました。案内してくださった角幸博先生(北大名誉教授、NPO法人「れきけん」理事長)によると、「日展会員の作品らしいが、詳しいことはよく判らない。もともとは玄関ホールに置かれていたので、なんらかの意味があったと思う。今後の調査が期待される」とのことでした。「炭鉱当時の(事故犠牲者の)慰霊のモニュメントかもしれない」とも。
 仔細は不明なるもスポットライトを浴びて、私は何がしかの霊気を感じました。化粧直しされて展示物なども一新された本件建物に、キッチュな、もとい、突然変異的な、いや人智の巧まざる効果をもたらしています。

 自慢するわけではありませんが、私は本件彫像を、建物の改修前にも脳裏に刻んでいました。
旧三菱鉱業寮 改修前 母子像
 2015年10月、まだ玄関ホールに置かれていたときに撮ったものです。何の自慢にもなりませんね。

 ただ、台座に貼られていた作者名も、画像に収めていました。
旧三菱鉱業寮 母子像 作者
 たぶん背後に回って、壁との隙間から撮ったのだと思います。現在は壁にぴったりくっつけて置かれているので、これを確認するのは難しいでしょう。これはちょっと自慢できるかも。

 ピンボケしていますが、「製作者 山畑 阿利一 製作年他詳細不明」と読めます(作者名には「やまはた ありいち」とルビ-末注②)。
 さらに、武井時紀先生(元札幌市文化財保護指導員)の著書で、次のような記述を見つけました(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.131 末注③)。
 永山邸が創建時のまま、現在まで残ることができたのは、三菱の力によるところが大きい。(中略)
 いま、当時をしのぶものは、新館(引用者注:旧三菱鉱業寮のこと)階段下にある彫刻(昭和三十九年、芦別から移した)と二階廊下の片隅に掲げられた三菱鉱業のポスター一枚があるだけである。三菱鉱業は昭和二十七年、三菱金属、さらに平成二年、三菱マテリアルと社名を変更し、平成二年三月、三菱大夕張鉱業所を閉山し、本道の石炭鉱業から全く手を引いた。永山邸を建てたのは永山武四郎である。しかしその後の保存に力を尽したのは三菱である。

 本件彫像は三菱鉱業(三菱金属)当時からのものだったのです。しかも「昭和三十九年、芦別から移した」という芦別には、三菱の芦別鉱業所がありました。同鉱業所は1964(昭和39)年に閉山しています(末注④)。閉山の際に札幌に持ってきたということでしょうか。三菱芦別を知る人に訊いたら、判るかもしれません。といっても、50年以上前だからなあ。

 とまれ角先生が推測する「慰霊」像という線が、現実味を帯びてきました。私の“ありがた迷惑”物件説は浅薄でした。

 注①:札幌市文化財課の名誉のために申し添えれば、“ありがた迷惑”云々は私の独自の解釈である。
 注②:山畑阿利一については右記サイト参照 → http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9949.html
 注③:2017.11.4ブログ参照。武井先生の遺した記述の貴重をあらためて感じる。 
 注④:北海道芦別市サイト → http://www.city.ashibetsu.hokkaido.jp/kikaku/kikaku/enkaku.html 

2018/06/13

札幌で永山武四郎ゆかりの地を拝む

 改修のため2年余り休館していた「旧永山武四郎邸」(道指定有形文化財)を、6月23日の一般公開に先立って見に行ってきました。
旧永山邸・旧三菱鉱業寮 全景
 地元住民、観光ボランティアガイド、関係者を対象とした内覧会に参加させてもらったものです。

 2016年以来の改修では、特に併設の「旧三菱鉱業寮」の整備に力点が置かれました。
旧三菱鉱業寮 外観
 三菱合資会社によって1937(昭和12)年頃に建てられた洋館です。永山が1904(明治37)年に亡くなった後、邸宅敷地を同社が明治末期に買収し、事務所や寮が設けられました。 

 下見板貼りは新たにペンキが塗られ、お化粧直しされています。下見板やスティック(妻破風の化粧材-末注①)はペパーミントグリーンといった色合いですが、改修前とは異なっています。前は、下見板は白、スティックはこげ茶色でしたね。たぶん‘こすり出し’をして、創建時の色に戻したのでしょう。

 旧三菱鉱業寮の中で、私がもっとも好きな空間です。
旧三菱鉱業寮 2階 階段室 
 2階の階段室。これを階段室といってよいのか判りませんし(末注②)、階段室という表現では言い尽くせない贅沢さが漂います。贅沢というのは、「金に飽かした」というのとは異なる精神的(?)豊かさでしょうか。もっとも、パブリックスペースにこれだけゆとりを持たせるのは、資力がないとなかなかできないことだとは思いますが。
 改修前は閉じられていた左側の丸窓の納戸部屋は、このたび開放されました。ミニギャラリースペースとして活用できるそうです。窓の外の木々の緑が映えますね。

 旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります。とりわけ永山武四郎については先般鹿児島で生誕地を拝んできたことでもあり、感慨も弥増しているところです(6月1日2日3日各ブログ参照)。拙ブログでは一般にあまり知られていないトリビアルな挿話をできるだけ綴っていきたいと思います。まあ、旧永山邸とか旧三菱鉱業寮自体、まだマニア好みかもしれませんが。

 本件建物の公開については公式サイト https://sapporoshi-nagayamatei.jp/ をご参照ください。

 注①:これはハーフティンバーなのだろうか。
 注②:リーフレットによると、この空間は「ホール」

2017/08/28

ベロタクシーで巡る創成川東

 8月26日、ベロタクシーで巡る創成東の街探訪を終えました。
創成東まちめぐり ベロタクシー②
 ベロタクシーに乗るのは他の参加者の多くと同じく私も初めてです。7台がつらなる風景は、それ自体が新鮮でした。
 
 運転手さん方のおかげで、事故なく安全快適なまちめぐりができました。
創成東まちめぐり ベロタクシー①
 主催した「下町づくり社」のGさんの事前準備と当日の進行管理の手際よさのたまものでもあります。ベロタクシーでまちあるきという着想に拍手です。徒歩圏よりも広いエリアを巡ることができて、街の全体像をつかめたのは収穫でした。

2017/08/25

吉田茂八は豊平川の渡し守だったのか

 創成東まちめぐりの第2回(8月10日ブログ参照)を明日8月26日に控えています。毎度自転車操業で、昨日配布資料の原稿をなんとか仕上げました。といっても、大半はこれまで札幌建築鑑賞会の行事で作られたものに基づいているのですが、確認についつい手間取ってしまいます。

 たとえば…。
札幌開祖吉田茂八碑
 豊平川左岸、豊平橋たもとの橋台広場に「札幌開祖吉田茂八碑」という碑が建っています。

 裏面に刻まれている文によると…。
吉田茂八碑 碑文
 「吉田茂八は南部に生まれ安政二年亀谷丑太郎に従い渡道し 同四年石狩調役荒井金助の命により 豊平川右岸の渡守志村鉄一の話相手として左岸の渡守となり札幌開拓に寄与した先住者である 資性温厚にして豪胆 狩猟を得意とし後年創成川の南三条より南六条に至る間の掘割工事を請負う これを吉田堀とも言う 地域住民吉田翁の功績を讃え後世に伝えるべく この碑を建立する 昭和五十六年七月二十一日 吉田茂八碑顕彰保存会」

 この裏付けを得ようと『新札幌市史』や『さっぽろ文庫』を読み直してみました。
 まず「南部に生まれ」。
 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年には「一説に、天保九年(一八三八)に岩手県宮古に生まれ」とあるのですが(p.314)、『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年には「北海道福山(松前町)の人」とあり、しかも「宮古市出身で箱館戦争に参加したという説は、同姓同名の別人である」と書かれています(p.329)。後年の記述を採るならば、「南部に生まれ」はどうも怪しい。

 それよりも気になったのは「左岸の渡守となり」です。
 『新札幌市史 第一巻 通史一』1989年には「志村鉄一とならび、通行屋(引用者注:豊平川の渡舟業務もはたしたトヨヒラ通行屋)に深い関係をもったのが吉田茂八であった」と記されています(p.828)。微妙な表現です。「渡守」であったとは断定していません。ちなみに同書も「福山(松前)の出身」と明記しています。
 現地に置かれた立派な石碑で麗々しく彫られていると、当然の史実のごときオーラが漂います。うーん。
 今「現地に」と私は記しましたが、そもそも茂八はこの場所、すなわち現在碑が建つところに居住していたとも断定できません。碑文にもそのようには書かれていませんが、一瞬錯覚を抱きます。

 困ったときには市公文書館のEさんを尋ねる、というのが私の約束事です。明日のネタバラシになってしまいますので、日をあらためて綴りたいと思います。
 明日のまちめぐりでは「見どころポイント」を17箇所(周辺の関連ポイントを含めると35箇所)挙げました。一箇所一箇所、こんな調子でウラを取っていたら、どうなることやらお察しください。

2017/08/11

75年前の都市計画道路

 東8丁目篠路通りです。
東8丁目篠路通り 大通東7丁目 北望
 大通東7丁目から北を望みました。

 東8丁目篠路通りの現在図です(元図はサッポロファクトリー近くにあった札幌市設置の観光案内看板から)。
東8丁目篠路通り 現在図 中央小学校付近
 赤い線でなぞったのが当該通りで、黄色の▲の先が前掲画像の撮影地点、橙色のⅩがⅩ字形交差点の位置です。東8丁目の通りが、東区方面からナナメに割り込んできています。

 7月22日7月23日ブログで記したとおり、前掲撮影地点でこの通りの道幅が広いのは、戦時中の建物疎開に由来していることが判りました。また、7月30日7月31日ブログで述べたように、割り込まれたほうの通りは創成川から南一条通りを街区60間+道路11間で区切っていった地点にあり、かつての札幌区の区界が引かれていたところでもありました。その結果、この通りの東側にあった本来の東8丁目の通り、すなわち元村(東区)や篠路(北区)から通じる路線が割り込んでくることになりました。

 7月23日ブログで私は「この通りが拡幅された時点で、否、戦時中の建物疎開の時点で、元村~札幌村との交通路である東8丁目通りをナナメに割り込ませるのを都市計画の担当者は見込んでいたのかもしれません」と記しました。時系列的にいうと、建物疎開→道路拡幅→東8丁目篠路通りの割込み、です。建物疎開は1945年、道路拡幅は1950~52年です。ナナメの割込みは1960年代後半です(同日ブログ参照)。
 実際その順番で実現していったことに違いはないのですが、このたび古い史料を見返したところ、この通りの拡幅と道路のナナメの割込みは建物疎開以前から画策されていたことがさらに判りました。

 「札幌都市計画図」1942(昭和17)年です。
昭和17年札幌都市計画図
 都市計画法に基づいて決定された計画道路が描かれています。札幌市で道路が都市計画決定されたのは1936(昭和11)年が最初ですが、本図はその後の変更や追加を含めて示したものです。
 
 くだんの東8丁目通り付近を拡大してみましょう。
昭和17年 札幌都市計画図 東8丁目通り周辺
 黄色の矢印の先に示したのが、その通りで、凡例によると「一等大路一類 36m以上」です。1942年の時点で、道路の拡幅とナナメの割込みが都市計画決定されていることが判ります。つまり、私が7月23日ブログで推測した時点よりもさらに古い時期に、こんにちの姿が目論まれていたのです。

2017/08/10

スタミナ冷し

 今月下旬に創成東まちめぐりの2回目が開催されます。
創成東まちめぐり案内 170826
 画像が見づらい方は下記サイトをご覧ください。
 ↓
http://sapporo-shitamachi.com/2017/08/10/1213/

 今回はベロタクシーに乗って街を巡るという新機軸です。私自身初めての経験で、どうなることかと思っています。ベロの座席から見えてくるものもあるかもしれません。札幌市文化財課の協力で、改修工事中の旧永山邸・三菱鉱業寮の内部も見学させていただきます。参加費無料、定員10名程度、要申込み、締切り8月23日(ただし先着順で定員に達しだい締切り)。

 例によって、巡る行程を下見しました。
創成東 スタミナ冷し
 まちめぐりとはまったく関係ないのですが、行程途上にある古い建物の壁で奇妙な物件を見ました。

 壁の一部に白くペンキが長方形に塗られていて…
創成東 スタミナ冷し 拡大
 その片隅に「スタミナ冷し」と書かれています。抜き文字(文字の部分を地の色で抜いている)なので、芸が細かい。

 「スタミナ冷やし中華」ということですかね。それにしてもなぜ? 近辺にその種の食堂などは見当たりません。ネットで検索したら、このコトバを用いた落書きが全国各地で見つかっていることを知りました。テレビでも報道されたらしい。もしかしたら、報道を見た人による二次作品、否、便乗犯かもしれません。しかし、なぜ「スタミナ冷し」でなければならないか。おそらく、この建物の持ち主が描いたものではないでしょう。ヨソサマの建物に落書きするのはやめましょう。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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