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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/06/26

伝播?

 中央区大通東4丁目から北を眺めました。
大通東4丁目から北望 変形交差点
 何を眺めたかというと、クランク交差点(2019.3.4ブログ参照)ではありません。

 上掲画像の真ん中から左方にかけて、壁面緑化された建物が2棟、見えます。
北1条東3丁目 壁面緑化建物
 北1条東3丁目です。

 中央右寄り奥のサッポロファクトリーレンガ館も緑化されています。
北2条東4丁目 サッポロファクトリー レンガ館 壁面緑化
 北2条東3丁目です。

 さらに、右端の家屋も蔽われています。
大通東4丁目 壁面緑化建物
 大通東4丁目です。

 冒頭のクランク交差点付近に立つと、壁面緑化物件を4件、一望に収めることができます。
大通東4丁目から北望 壁面緑化建物一望
 この一帯の壁面緑化密度はかなり高いのではないでしょうか。建物を緑で覆いたい人が多いのか。 それともツタの種が飛散して、それぞれに根を張り(とは言わないのか)こういうことになったのでしょうか。
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2020/02/18

古写真に写る建物を推理する(承前)

 昨日ブログの続きです。
 「ヒント1」の画像から手がかりを探ります。
朴沢家寄贈写真 上棟式 部分拡大 社章
 黄色の矢印を付けた先です。

 その部分を拡大します。
朴沢家寄贈写真 上棟式 部分さらに拡大 社章
 横断幕に星形のマークが描かれています。真ん中に模様も窺えます。棟上げされた建物の施主さんの印とおぼしい。

 これと同じマークが描かれた小プレートが手元にありました。
星型に「北」の社章
 直径4.5㎝大。20年余り前、とあるお宅が解体される際、玄関に貼られていたものを貰いました。
 星形の中央に「北」という文字が象られています。ある会社の社章です。現在は別のデザインに変わっています。

 「ヒント2」の画像の全体像です。
朴澤家寄贈写真上棟式に写る建物の2008年(全景)
 この画像が撮られてまもなく、解体されました。2008(平成20)年だったと思います。

 前掲の建物があった場所の現在の風景です。
朴沢家寄贈写真 上棟式の建物があった現在地
 建物は昨年(2019年)、供用開始されました。この東隣(画像左方)には冷暖房と電力を供給する「エネルギーセンター」が設けられています。主なエネルギー源は「天然ガスコージェネレーション」とのことです(末注)。
 
 注:参考文献 「北ガスアリーナ札幌46」(一社)北海道建築指導センター『センターリポート』211号、2020年1月、pp.14-17及び『北ガスグループ本社ビルのご案内』p.11

2020/02/13

電柱「中沼幹」の謎

 2月1日ブログに、電柱銘「中沼幹」を載せました。
市道東9丁目南線 電柱 中沼幹 再掲
  札幌で「中沼」というと、私はまず東区の町名を思い浮かべます。しかるに、本件「中沼幹」の所在地は札幌市中央区北3条東9丁目です。

 その位置関係を現在図で示します。
現在図 「中沼幹」の所在地と「中沼町」の位置
 地図上、左下(南西)の赤いを付けたところが電柱「中沼幹」の所在地です。一方、東区中沼町は右上(北東)の赤いを付けたあたりに位置します。直線距離にして、約9㎞です。かくも離れたところに、なぜ「中沼」か?

 その「なぜ」を探る前に、周辺の電柱銘はどうなっているか調べてみました。
現在図 北3東9 「中沼幹」周辺
 電柱銘は以下のとおりです(元図は地理院地図)。
 :中沼幹
 :北3東幹
 :北2東9幹
 :北2東10幹
 :北8東7幹
 :日本ビール幹
 :北8東7幹
 :北3東6仲幹
 :北八東七幹
 :北2東9幹 
 の「中沼」との「日本ビール」以外は「北○東(○)」という表記です。

 「中沼」銘の電柱は道路(市道「東9丁目南線」)の西側にありますが、向かいあって東側にはの「北3東」という異なる銘の電柱が立っています。
市道東9丁目南線 電柱 北3東幹
 この道路の東側は、①の場所以外も「北3東」です。この銘鈑には「NTT東日本」のマークが描かれていますが、「中沼幹」のほうは電電公社時代のマーク(冒頭画像の「共架」と書かれた上にうっすらと緑色)です。西側は●以外に、残念ながら(?)銘のある電柱はありません(末注)。本件「中沼幹」はかなり古いモノと思われます。

 注:固有名詞等の銘は電々(NTT)柱(北電との共架柱を含む)で、北電柱の表記は数字の羅列である(2016.2.13ブログ参照)。宇都宮市で見た東電の柱は名詞表記されている(2019.12.28ブログ参照)。

2020/02/01

札幌厚生病院の傍らの電柱

 中央区北3条東9丁目です。
札幌厚生病院東側 市道東9丁目南線 電柱
 「東9丁目南線」という市道が、厚生病院の東側を南北に通じています。

 電柱銘鈑は「中沼幹」です。
市道東9丁目南線 電柱 中沼幹
 なぜ、ここに「中沼」か。

2020/01/24

旧苗穂駅舎跡 拾遺

 JR苗穂駅前の在りし日です。
苗穂駅前 オンコの木
 旧駅舎当時の2018(平成30)年9月に撮りました。駅舎が役目を終えたのは、この年の11月です(2018.11.16ブログ参照)。 

 正面に写るオンコの木の行く末が気になっていました。駅舎移転に当たり、向かいの公園に移植されると駅長さんにお聞きしていたからです(2018.10.42018.11.25ブログ参照)。

 その後、すでに1年と4か月あまり。遅ればせながら、このたびようやく確かめてきました。
旧苗穂駅舎跡 2020年1月
 駅舎の跡地は、きれいに何も残っていません。

 昨年4月に撮った風景です。
旧苗穂駅舎跡 2019年4月
 旧駅舎は板が打ち付けられていましたが、このときはまだ残っていました。オンコもそのままです。こののち、建物は解体工事に入りました。

 同じ向きで道路の向かいから撮った現在です。
旧苗穂駅舎跡-2 2020年1月
 どちらから見ても、何もありません。

 向かいの公園です。
旧苗穂駅前 小緑地 オンコの木
 正面に写るオンコが、移植されたものではないでしょうか。現地では自信がなかったのですが、前掲の画像と較べてみると、樹形が同じに見えます。

 近くに立っていた看板を、これまたあとからよくよく見ると…
苗穂駅周辺まちづくり協議会「はばたく苗穂」第57号
 赤矢印を付けたところに、オンコの移植のことが以下のとおり報じられています(苗穂駅周辺まちづくり協議会「はばたく苗穂」第57号 本年1月発行から、引用太字)。

 旧苗穂形前のオンコの木が移植されました
 旧苗穂形前のオンコの木が、昨年9月に南側の緑地に移植されました。イルミネーションが飾られたりして地元では馴染みの樹木ですが、根付くことを願っています。また、動輪のある緑地の看板も「苗穂地区の歴史と苗穂駅周辺まちづくり事業」をテーマに更新されます。 


 ひとまず、よかった、よかった。
 かなりの樹齢を経たであろう木なので、移植は大変だったのではないでしょうか。関係者の尽力に敬意を表します。木のそばには、移植の経緯などを記したものは見当たりません。もしかしたら積もった雪に隠れているのかもしれないのですが。前述の看板に掲げられた記事は、新しい号に更新されたら読めなくなるでしょう。木とともに、由来も末永く伝えられてほしいものです。
 つっかい棒で支えられていることからしても、この木がまさに根付くのはこれまた大変ではないかと慮ります。移植の場所を私は「向かいの公園」と前述しましたが、札幌市のサイトで調べてみても該当の名前が出てきません。引用したまちづくり協議会記事には「緑地」と記されています。市の都市緑地などでもないようです。どこが管理しているのかな。

2019/06/01

旧永山武四郎邸に見た薩摩

 昨日ブログで私は、旧永山武四郎邸に関して「新たな刺激を得られた」と記しました。私が旧永山邸を知ったのは30年余り前です。以来、札幌市民の平均的頻度に比べれば、この建物に足を運んだ回数は多いほうだと思います。にもかかわらず、このたびまた新たな刺激を受けました。諸先達にとっては目新しいことではないのでしょうが、自らの目を肥やすことによって見えなかったものが見えてくるのかもしれません。
 昨日私が案内役を務めた「ちえりあ」の講座は全4回の3回目でした。私は事務局にお願いして、第1回と第2回を聴講させてもらいました。自分の話を組み立てる上で、講座全体の流れを踏まえたかったのです。初回に空知炭鉱遺産の話をお聴きしました。昨日ブログで述べた“炭鉱(ヤマ)の記憶”としての旧永山邸という意義を自覚できたのは、この話のおかげです。

 昨日の講座に先立つ数日前、あらためて現地を訪ねたことも役立ちました。この30年来「見えなかったもの」を見ることができたのです。

 まず、旧永山邸のほうから鑑みました。
旧永山武四郎邸 表座敷
旧永山武四郎邸 脇座敷
 上掲は表座敷、下掲は脇座敷です。

 次に、旧三菱鉱業寮の2階に上がりました。
旧三菱鉱業寮 和室A
旧三菱鉱業寮 和室C
旧三菱鉱業寮 図書室
 いずれも床の間付きの和室3部屋です。

 ここで私は初めて違いに気づきました。旧永山邸のほうの天井です。表座敷も脇座敷も、竿縁が“床ざし”に組まれています。
旧永山武四郎邸 表座敷 竿縁天井 床挿し
 とこざし 床挿し 天井の棹縁の方向が床の間に向っていること。近世中期以後は忌まれてきたが、近世初期まではしばしばみられる。(彰国社『建築大辞典』1976年)
 さおぶち 竿縁、棹縁 天助板の下板を支えるため、または化粧として、それと直角に30~40㎝ごとに並べた細い材。(後略)(同上)

 「近世中期以後は忌まれてきた」という床ざしの竿縁天井が、明治10年代の建築に見られるのです。一方、後掲3枚の旧三菱鉱業寮は昭和戦前期に建てられ、和室天井はやはり竿縁で押さえられています。しかし、竿縁は床の間に対して平行です。これは近世中期以降の流儀に適っている。

 旧永山邸座敷の床ざしのことは私が見えてなかっただけで、冒頭に記したように目新しいことではありません。これまでたびたび引用してきた越野武先生ほか「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年(高安正明『よみがえった「永山邸」』1990年所収)、武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年にそれぞれ言及されています。前者の記述は、内部意匠に関する詳細な描写の中で次のとおりです(太字、p.151、153)。
 (表座敷) 天井板にケヤキを使用した竿縁天井は、幅48㎜、成60㎜と木柄の大きい猿頬(さるぼう)竿縁を床ざしに走らせ、
 (脇座敷) 表座敷同様床ざしの竿縁天井は、マツとカツラ板を交互に張り混ぜ、

 後者も引用します(太字、pp.127-128)。
 永山邸の天井の竿縁は、床に向って付けられている。「床差し」形式である。床を差す、というので忌み嫌う人が多い。大名屋敷にあったという「切腹の間」の天井は、この形式である。そんなことに、こだわらぬ武人永山武四郎の豪放さがうかがえる。

 どちらの書も何度も手に取っているにもかかわらず、まさに「視れども見えず」でした。私がこのたび本件床ざしに気づいたのは、実はきっかけがあります。先月見たNHKの番組「ふるカフェ系 ハルさんの休日」です。いわばこれまでの総集編のような仕立てで、全国各地の再生古民家が紹介されていました。その中の一つが鹿児島県蒲生町というところの武家屋敷で、座敷の天井が床ざしだったのです。元は加治木島津家のお屋敷でした。加治木島津家は島津家の「御一門四家」(分家)の一つです(末注)。
 前掲二書には旧永山邸座敷の竿縁天井が床ざしであることには触れつつも、その理由までは至ってません(至りようがないのでしょう)。私は、薩摩の武家屋敷が床ざしであることに因縁を感じてしまいました。薩摩出身の永山は、自邸をあえて床ざしにしたのではなかろうか。
 放送では、床ざしの話題で加治木島津家のご当主が日本の南端にあることをお話しされていました。薩摩で床ざしがポピュラーなのか、私は不勉強にして知りません。あらためてくだんの地を訪ね、武家屋敷の天井を鑑みたいものです。なお、この番組は今月また、再放送されるようです。

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2019-06-15/10/23349/1973066/
 再放送といえば、昨年8月の「江別編」(2018.8.24ブログ参照)もまた、再々放送されるそうです。6月20日と聞きました。今年2月にも再放送されたし、こんなに何度もブラウン管に映る(古い)とは思わなかったなあ。

 注:西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63。村橋久成は加治木島津家の出であったという。

2019/05/31

札幌の“炭鉱の記憶”

 「ちえりあ学習ボランティア企画講座」の一環で開催された「北海道遺産の魅力を探る」で、旧永山武四郎邸を案内しました。 
旧永山武四郎邸 旧三菱鉱業寮 20190526
 この建物は「開拓使時代の洋風建築」の一つとして、北海道遺産に選ばれています。

 建築や文化財の専門家ではない私が解説するというのは気が引けたのですが、考え直しました。私が仰せつかったのは、その筋の専門家としてではなく、北海道遺産を生かす活動を続けてきた一市民という立場からなのだと。その立場で、この遺産を鑑みる“視点”をお伝えしました。建物の価値だけでなく、住んでいた人や関わった人、周囲の環境、風景、地域のことも視野に入れたつもりです。例によってマニアックな、というか偏った話をしてしまったことは棚に挙げつつ、こういう場を与えてもらったことを感謝します。何がありがたいかというと、私自身が新たな刺激を得られたことです。

 ① 開拓使時代の洋風建築として― 札幌の住宅文化の土壌となったのではないか
 ② “和洋折衷”建築の先駆けとして― 異文化を吸収咀嚼する模索、明治後期~昭和初期和洋折衷との比較の妙味
 ③ 薩摩人・永山武四郎の足跡として
 ④ “炭鉱(ヤマ)の記憶”として―日本の近代化を支えた北海道の炭鉱(鉱山)遺産の札幌における数少ない一つ
 ⑤ 土地の記憶として― 札幌の原風景を伝える(?)ハルニレ

 この建物のことは拙ブログで幾度か綴ってきました(2018.6.136.176.216.226.23ほか)。
 繰返しになりますが、史実を確認しておきます。現在、冒頭画像の向かって右側が旧永山邸(道指定有形文化財)、左側が旧三菱鉱業寮(近々、国登録文化財になる予定)です。前者は永山の自邸として1880(明治13)年頃に建てられ、永山の死後、1911(明治44)年に三菱合資が購入しました。後者は三菱時代の1927(昭和12)年に(永山邸の一部や付設棟を除却して)建てられたものです。以来1985(昭和60)年に札幌市が買い取るまで、どちらも三菱が所有してきました。三菱時代は前者が「旧館」、後者が「新館」でした(末注①)。
 教科書的な来歴をあらためて述べたのは、隣り合う二つの建物が現在は旧永山、旧三菱と言い分けられていますが、どちらも三菱が長らく使っていたことを強調したかったからです。旧永山邸は、永山自身が住んでいた年数より三菱の時代の方が格段に長い。
 その意味で、前述の④の視点=“炭鉱の記憶”として価値を見直したいと思いました(末注②)。想えば、三井、住友、北炭もそれぞれ札幌にこの種の社用施設を持っていましたが、いずれも現存していません(末注③)。

 注①:高(ハシゴダカ)安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年及び同書に転載された越野武北大助教授(当時)らからなる「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年ほかによる。
 注②:三菱は石炭だけでなく金属鉱石も採掘していたので、鉱山遺産というべきか。
 注③:現北海道知事公館も三井が所有していた時期があるが、知事公館になってからのほうがはるかに長い。

2019/05/11

ブーメランを投げる私

 uhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」、次回は5月13日(月)のオンエア予定です。“聖地”南区石山を歩きます。よかったらどうぞご覧ください。
 
 昨日ブログの前段で、北海道ローカル各局の“街角歴史散策”コーナーについて触れました。昨日HBC「今日ドキ!」の「さっぽろ歴史散歩」で取り上げられたのは苗穂地区です。苗穂については、昨年JR苗穂駅が新装移転したこともあり、STV「どさんこワイド」の「てくてく洋二」で昨年10月、uhb「みんテレ」で同11月に取り上げられています。今後はますます地域が“かぶる”ことになるでしょう。それぞれの切り口、展開を較べてみるのもまた、マニアックな楽しみ方です。
 早速私は昨日の「今日ドキ!」を拝見しました。案内役のWさん、さすがです。まず話し方が上手い。弁論部で鍛えた(?)だけあって、要を得て明瞭です。鉄道史の造詣はいうまでもありません。番組スタッフの準備も行き届いているかに察しました(uhbが行き届いていないと言ってるわけではありません。念のため)。明眸皓歯な女性との散策もうらやましい(いや、これは余計)。
 
 …と、褒めてばっかりでは何ですので、“まぜっかえし”も少々。
 番組では苗穂駅前のKo商店も紹介されました。その石蔵です。
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設
 この石蔵を、Ko商店の創業1910(明治43)年以来の「築100年」と伝えていました。さらに、案内役Wさんの解説によると、「苗穂は定山渓鉄道の発着駅にもなり、札幌軟石が(石山から)運ばれていた。軟石を積み降ろししていたので、建てることができたのだろう」とのことです(話し言葉なので、一字一句正確な引用ではないことをお許しください)。

 ここで疑問が二つ、生じました。
 第一。定鉄は1918(大正7)年、白石-定山渓間で開通しました。苗穂に乗り入れたのは1931(昭和6)年です(末注)。本件石蔵が建てられたのが1910(明治43)年頃だとすると、札幌軟石はまだ、苗穂駅へ直接運ばれてはいなかったときです。この石蔵は、軟石の鉄道輸送との直接的な因果関係はないのではないか。
 第二。その石蔵の建築年代です。本件については私も本年2月16日ブログでお伝えしています。私は次のように記しました(太字)。
 石蔵は、1925(大正14)年、コメを保管するために建てられました。その2年前に近隣の火事で類焼したため、燃えにくいように札幌軟石を用いたようです。

 これはKo家の本家に嫁いでこられたYさんへの聞取りに基づきます。加えて、2010(平成22)年にまとめられたKo家百年の年譜を見せていただきました。江戸時代後期に生まれた初代以来、現在に至るまでの足跡が記されています。
 下掲はその一部です。
苗穂 Ko家 年譜 石蔵建築
 Ko家累代の個人情報が満載されていますので大部分は隠しますが、1925(大正14)年の項に「石蔵建築」と記されています。昨日テレビでも映された上掲の石蔵は、これに当たるとみられます。1925年だと「築94年」。まあ、まるめれば築百年でしょうか。明治末と大正末は十数年しか離れてません(5月1日ブログ後段“元号バイアス”参照)。ただ、“創業以来”というと、やや語弊がありましょう。
 石蔵の建築年が大正末だとしても、定鉄はまだ、苗穂に乗り入れてません。これもまあ、白石で降ろして、国鉄に積み替えて苗穂まで運んだことは考えられます。ただ、“定鉄で苗穂まで運んだ”とはやはり言い難いかと。

 ああ、こんな重箱の隅をつついていたら、全部我が身にはね返ってきます。5月13日の放送後が怖い。
 Wさんには編集されている地域誌で取り上げてもらったりして、お世話になっています(2017.8.152019.4.16ブログ参照)。身勝手な言い分ながら、本ブログも“切磋琢磨”のひとつと受け止めていただければ幸いです。

 注:桐原酉次「定鉄五十年」『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年、pp.226-236

2019/03/04

サッポロファクトリー近くのクランク 再考

 uhb「みんなのテレビ」の「となりのレトロ」創成東編、ヤヤコシイ話をオンエアしてくれたディレクターさんに感謝します。番組で紹介したサッポロファクトリー近くのクランク交差点については、拙ブログで前に取り上げています。
 番組でお伝えしたクランク成立の理由は、2015.7.19ブログで「私の想像」として述べたことです。同日ブログでは「想像」でしたが、このたびそれを「推測」の域に高めました。その根拠を、“復習”を兼ねて綴っておきます。

 まず現在図から。
現在図 サッポロファクトリー近くのクランク
 赤くなぞったのが市道「東4丁目線」です。国道12号との交差点でクランクを形成しています。さらにその一本北の道路(北2条通)との間でもクランクしています。緑色でなぞったのは大通ですが、この交差はクランクしていません。なお、後掲の古地図との比較の都合上、碁盤目を上下左右に合わせましたので、北は真上から10度くらい右へずれています。

 次に古地図です。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク
 「札幌全区地番明細連絡図」1912(明治45)年から一部を抜粋しました。
 黄色でなぞったのが現在の東4丁目線、緑色が大通です。クランクは大通との四辻で生じています。

 この地番図がありがたいのは、地割によって土地利用の様子が推測できることです。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク 貯木場の痕跡
 例えば、青くなぞった線によって、開拓使工業局時代の貯木場の痕跡が浮かび上がってきます。
 番組ではいっそうヤヤコシクなるので省かれましたが、この貯木場は碁盤目を意識せずに作られました。大通の南側の碁盤目を北へ延ばすとき、当初は貯木場を避けてその東側に道が通したようです。その結果、緑色でなぞった大通と黄色でなぞった東4丁目線(の原形)でクランクになってしまいました。

 後年、貯木場が埋め立てられ、跡地を東4丁目線が南から直進化されました。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク  東4丁目線の直進化
 橙色でなぞった部分です。ほぼ一筆の貯木場の跡地なので、埋め立てれば道路にするのはたやすかったことでしょう。

 ところが、問題はその北側です。上図を拡大してみます。
札幌全区地番明細連絡図 北1条東4丁目の地割
 赤い○で囲ったところ、北1条東4丁目は、細かく分筆されています。これが私の「推測」の根拠です。このように地割されているということは、ここが細かく私有され、家屋が建ち並んだと思われます。その結果、橙色の道を北進させようと思っても、敵わなかった。

 このあたりの地割のことは、2015.7.31ブログでも言及しました。そのとき載せた1925(大正14)年作成と思われる地番図です。
大正14年地番図 北1東4周辺拡大
 この図でも、東4丁目線はくだんの細かい地割を避けて、その東側に通されています。これを載せた2015.7.31ブログでは旧河道や条丁目界のことに目を奪われていて、クランク形成には結びつけていませんでした。

 こちらは「札幌市街之図 視形線図」1924(大正13)年からの抜粋です。
大正13年視形線図 サッポロファクトリー近くのクランク
 これを見ると、クランクはすでに現在の位置になっています。前掲大正14年地番図では、まだ現在地に発生していないかに見えるのですが、地番図なので道路の位置をリアルタイムで表しているとは限りません。クランクの現状は大正時代に作られたものと思われます。

 なお、東4丁目線のこのクランクは近い将来、「改良」されるようです。札幌市は、「変形交差点が続く上、歩道の幅もばらついており、道路の改良が課題となっている」としています。今後、「歩いて楽しいまち」にすべく、実験的に歩行者天国などを試み、2020年度には改良工事に着手するとのことです(北海道新聞2017年8月19日記事「『東4丁目線』再整備へ」、2018年5月10日記事「市道東4丁目線 ホコ天試します」)。
 “クランク萌え”の私としては、開拓使の痕跡が消えることに一抹の寂しさは感じます。どういう道路形態が「歩いて楽しいまち」になるのか、意見はいろいろありましょう。しかし、まあ交通安全のことを考えると、クランクは消えゆく宿命でしょうか。

2019/02/16

中央区 苗穂 Koさん宅 石蔵 ②

 昨日ブログの続きです。
 Kaさんがレストランとして再利用している石蔵は2棟、連なっています。昨日述べたとおり、一棟は元質蔵で、もう一棟は持ち主のKoさんの商店の付設蔵の一部です。

 Koさん宅は二代目が明治の終わりに、この地で米穀店を開きました。
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設
 石蔵は、1925(大正14)年、コメを保管するために建てられました。その2年前に近隣の火事で類焼したため、燃えにくいように札幌軟石を用いたようです。また、この頃、三代目が商売を継いでおり、精米製粉工場を作るなど、事業を拡げたといいます。

 こちらの石蔵の妻壁に刻まれている印は「¬(かね)キ」です。 
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設 印
 この「キ」は何のキだろうとKoさんにお尋ねしたら、二代目の「喜太郎」さんの頭文字でした。

 ところでKoさん宅の初代は信州諏訪の出身です。1882(明治15)年、白石村厚別に入植し、稲作に成功しました。「家督を譲り隠居となって、北海道の新天地で米作りを志し渡道」したのです(末注)。ときに65歳。渡道を勧めたのは同郷の上島正です。上島正のことは拙ブログでたびたび綴ってきました(2017.6.28ブログほか参照)。札幌の開拓史を文字どおり彩るユニークな人物です。彼が郷里で呼びかけて札幌近郊にやってきたのは、Koさん初代のほかに以下の人びとがいます(末注②)。
 河西由造:白石村厚別で稲作に成功、「信州開墾」地を開く
 武井惣蔵:札幌村でタマネギ栽培に成功
 宮坂坂蔵:琴似村で果樹、養蚕に従事、桑園で繭の生産に貢献(2017.12.8ブログ参照)
 藤森銀蔵:円山村の発展に尽くす
 
 いずれも札幌の近郊農村の、形成期におけるキーパーソンです。都市札幌への食糧供給に上島の信州ネットワークが大きな役割を果したように思えます。
 話は飛びますが、前述のKaさんは石蔵の飲食店への再利用に当たり、持ち主の方に日参したそうです。その思いがKoさんに通じたのでしょう。KoさんのDNAがKaさんに受け継がれたような気がしました。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.246。『厚別 黎明期の群像』2013年によると、Koさん初代が厚別に入ったのは1183(明治16)年とされる(pp.283-286)。同書にはKoさん初代のエピソードも記されている。
 注②:前掲『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.238、p.270、札幌市教委編『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年、406、『円山百年史』1977年、p.62、p.377

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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