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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/06/01

旧永山武四郎邸に見た薩摩

 昨日ブログで私は、旧永山武四郎邸に関して「新たな刺激を得られた」と記しました。私が旧永山邸を知ったのは30年余り前です。以来、札幌市民の平均的頻度に比べれば、この建物に足を運んだ回数は多いほうだと思います。にもかかわらず、このたびまた新たな刺激を受けました。諸先達にとっては目新しいことではないのでしょうが、自らの目を肥やすことによって見えなかったものが見えてくるのかもしれません。
 昨日私が案内役を務めた「ちえりあ」の講座は全4回の3回目でした。私は事務局にお願いして、第1回と第2回を聴講させてもらいました。自分の話を組み立てる上で、講座全体の流れを踏まえたかったのです。初回に空知炭鉱遺産の話をお聴きしました。昨日ブログで述べた“炭鉱(ヤマ)の記憶”としての旧永山邸という意義を自覚できたのは、この話のおかげです。

 昨日の講座に先立つ数日前、あらためて現地を訪ねたことも役立ちました。この30年来「見えなかったもの」を見ることができたのです。

 まず、旧永山邸のほうから鑑みました。
旧永山武四郎邸 表座敷
旧永山武四郎邸 脇座敷
 上掲は表座敷、下掲は脇座敷です。

 次に、旧三菱鉱業寮の2階に上がりました。
旧三菱鉱業寮 和室A
旧三菱鉱業寮 和室C
旧三菱鉱業寮 図書室
 いずれも床の間付きの和室3部屋です。

 ここで私は初めて違いに気づきました。旧永山邸のほうの天井です。表座敷も脇座敷も、竿縁が“床ざし”に組まれています。
旧永山武四郎邸 表座敷 竿縁天井 床挿し
 とこざし 床挿し 天井の棹縁の方向が床の間に向っていること。近世中期以後は忌まれてきたが、近世初期まではしばしばみられる。(彰国社『建築大辞典』1976年)
 さおぶち 竿縁、棹縁 天助板の下板を支えるため、または化粧として、それと直角に30~40㎝ごとに並べた細い材。(後略)(同上)

 「近世中期以後は忌まれてきた」という床ざしの竿縁天井が、明治10年代の建築に見られるのです。一方、後掲3枚の旧三菱鉱業寮は昭和戦前期に建てられ、和室天井はやはり竿縁で押さえられています。しかし、竿縁は床の間に対して平行です。これは近世中期以降の流儀に適っている。

 旧永山邸座敷の床ざしのことは私が見えてなかっただけで、冒頭に記したように目新しいことではありません。これまでたびたび引用してきた越野武先生ほか「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年(高安正明『よみがえった「永山邸」』1990年所収)、武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年にそれぞれ言及されています。前者の記述は、内部意匠に関する詳細な描写の中で次のとおりです(太字、p.151、153)。
 (表座敷) 天井板にケヤキを使用した竿縁天井は、幅48㎜、成60㎜と木柄の大きい猿頬(さるぼう)竿縁を床ざしに走らせ、
 (脇座敷) 表座敷同様床ざしの竿縁天井は、マツとカツラ板を交互に張り混ぜ、

 後者も引用します(太字、pp.127-128)。
 永山邸の天井の竿縁は、床に向って付けられている。「床差し」形式である。床を差す、というので忌み嫌う人が多い。大名屋敷にあったという「切腹の間」の天井は、この形式である。そんなことに、こだわらぬ武人永山武四郎の豪放さがうかがえる。

 どちらの書も何度も手に取っているにもかかわらず、まさに「視れども見えず」でした。私がこのたび本件床ざしに気づいたのは、実はきっかけがあります。先月見たNHKの番組「ふるカフェ系 ハルさんの休日」です。いわばこれまでの総集編のような仕立てで、全国各地の再生古民家が紹介されていました。その中の一つが鹿児島県蒲生町というところの武家屋敷で、座敷の天井が床ざしだったのです。元は加治木島津家のお屋敷でした。加治木島津家は島津家の「御一門四家」(分家)の一つです(末注)。
 前掲二書には旧永山邸座敷の竿縁天井が床ざしであることには触れつつも、その理由までは至ってません(至りようがないのでしょう)。私は、薩摩の武家屋敷が床ざしであることに因縁を感じてしまいました。薩摩出身の永山は、自邸をあえて床ざしにしたのではなかろうか。
 放送では、床ざしの話題で加治木島津家のご当主が日本の南端にあることをお話しされていました。薩摩で床ざしがポピュラーなのか、私は不勉強にして知りません。あらためてくだんの地を訪ね、武家屋敷の天井を鑑みたいものです。なお、この番組は今月また、再放送されるようです。

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2019-06-15/10/23349/1973066/
 再放送といえば、昨年8月の「江別編」(2018.8.24ブログ参照)もまた、再々放送されるそうです。6月20日と聞きました。今年2月にも再放送されたし、こんなに何度もブラウン管に映る(古い)とは思わなかったなあ。

 注:西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63。村橋久成は加治木島津家の出であったという。
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2019/05/31

札幌の“炭鉱の記憶”

 「ちえりあ学習ボランティア企画講座」の一環で開催された「北海道遺産の魅力を探る」で、旧永山武四郎邸を案内しました。 
旧永山武四郎邸 旧三菱鉱業寮 20190526
 この建物は「開拓使時代の洋風建築」の一つとして、北海道遺産に選ばれています。

 建築や文化財の専門家ではない私が解説するというのは気が引けたのですが、考え直しました。私が仰せつかったのは、その筋の専門家としてではなく、北海道遺産を生かす活動を続けてきた一市民という立場からなのだと。その立場で、この遺産を鑑みる“視点”をお伝えしました。建物の価値だけでなく、住んでいた人や関わった人、周囲の環境、風景、地域のことも視野に入れたつもりです。例によってマニアックな、というか偏った話をしてしまったことは棚に挙げつつ、こういう場を与えてもらったことを感謝します。何がありがたいかというと、私自身が新たな刺激を得られたことです。

 ① 開拓使時代の洋風建築として― 札幌の住宅文化の土壌となったのではないか
 ② “和洋折衷”建築の先駆けとして― 異文化を吸収咀嚼する模索、明治後期~昭和初期和洋折衷との比較の妙味
 ③ 薩摩人・永山武四郎の足跡として
 ④ “炭鉱(ヤマ)の記憶”として―日本の近代化を支えた北海道の炭鉱(鉱山)遺産の札幌における数少ない一つ
 ⑤ 土地の記憶として― 札幌の原風景を伝える(?)ハルニレ

 この建物のことは拙ブログで幾度か綴ってきました(2018.6.136.176.216.226.23ほか)。
 繰返しになりますが、史実を確認しておきます。現在、冒頭画像の向かって右側が旧永山邸(道指定有形文化財)、左側が旧三菱鉱業寮(近々、国登録文化財になる予定)です。前者は永山の自邸として1880(明治13)年頃に建てられ、永山の死後、1911(明治44)年に三菱合資が購入しました。後者は三菱時代の1927(昭和12)年に(永山邸の一部や付設棟を除却して)建てられたものです。以来1985(昭和60)年に札幌市が買い取るまで、どちらも三菱が所有してきました。三菱時代は前者が「旧館」、後者が「新館」でした(末注①)。
 教科書的な来歴をあらためて述べたのは、隣り合う二つの建物が現在は旧永山、旧三菱と言い分けられていますが、どちらも三菱が長らく使っていたことを強調したかったからです。旧永山邸は、永山自身が住んでいた年数より三菱の時代の方が格段に長い。
 その意味で、前述の④の視点=“炭鉱の記憶”として価値を見直したいと思いました(末注②)。想えば、三井、住友、北炭もそれぞれ札幌にこの種の社用施設を持っていましたが、いずれも現存していません(末注③)。

 注①:高(ハシゴダカ)安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年及び同書に転載された越野武北大助教授(当時)らからなる「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年ほかによる。
 注②:三菱は石炭だけでなく金属鉱石も採掘していたので、鉱山遺産というべきか。
 注③:現北海道知事公館も三井が所有していた時期があるが、知事公館になってからのほうがはるかに長い。

2019/05/11

ブーメランを投げる私

 uhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」、次回は5月13日(月)のオンエア予定です。“聖地”南区石山を歩きます。よかったらどうぞご覧ください。
 
 昨日ブログの前段で、北海道ローカル各局の“街角歴史散策”コーナーについて触れました。昨日HBC「今日ドキ!」の「さっぽろ歴史散歩」で取り上げられたのは苗穂地区です。苗穂については、昨年JR苗穂駅が新装移転したこともあり、STV「どさんこワイド」の「てくてく洋二」で昨年10月、uhb「みんテレ」で同11月に取り上げられています。今後はますます地域が“かぶる”ことになるでしょう。それぞれの切り口、展開を較べてみるのもまた、マニアックな楽しみ方です。
 早速私は昨日の「今日ドキ!」を拝見しました。案内役のWさん、さすがです。まず話し方が上手い。弁論部で鍛えた(?)だけあって、要を得て明瞭です。鉄道史の造詣はいうまでもありません。番組スタッフの準備も行き届いているかに察しました(uhbが行き届いていないと言ってるわけではありません。念のため)。明眸皓歯な女性との散策もうらやましい(いや、これは余計)。
 
 …と、褒めてばっかりでは何ですので、“まぜっかえし”も少々。
 番組では苗穂駅前のKo商店も紹介されました。その石蔵です。
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設
 この石蔵を、Ko商店の創業1910(明治43)年以来の「築100年」と伝えていました。さらに、案内役Wさんの解説によると、「苗穂は定山渓鉄道の発着駅にもなり、札幌軟石が(石山から)運ばれていた。軟石を積み降ろししていたので、建てることができたのだろう」とのことです(話し言葉なので、一字一句正確な引用ではないことをお許しください)。

 ここで疑問が二つ、生じました。
 第一。定鉄は1918(大正7)年、白石-定山渓間で開通しました。苗穂に乗り入れたのは1931(昭和6)年です(末注)。本件石蔵が建てられたのが1910(明治43)年頃だとすると、札幌軟石はまだ、苗穂駅へ直接運ばれてはいなかったときです。この石蔵は、軟石の鉄道輸送との直接的な因果関係はないのではないか。
 第二。その石蔵の建築年代です。本件については私も本年2月16日ブログでお伝えしています。私は次のように記しました(太字)。
 石蔵は、1925(大正14)年、コメを保管するために建てられました。その2年前に近隣の火事で類焼したため、燃えにくいように札幌軟石を用いたようです。

 これはKo家の本家に嫁いでこられたYさんへの聞取りに基づきます。加えて、2010(平成22)年にまとめられたKo家百年の年譜を見せていただきました。江戸時代後期に生まれた初代以来、現在に至るまでの足跡が記されています。
 下掲はその一部です。
苗穂 Ko家 年譜 石蔵建築
 Ko家累代の個人情報が満載されていますので大部分は隠しますが、1925(大正14)年の項に「石蔵建築」と記されています。昨日テレビでも映された上掲の石蔵は、これに当たるとみられます。1925年だと「築94年」。まあ、まるめれば築百年でしょうか。明治末と大正末は十数年しか離れてません(5月1日ブログ後段“元号バイアス”参照)。ただ、“創業以来”というと、やや語弊がありましょう。
 石蔵の建築年が大正末だとしても、定鉄はまだ、苗穂に乗り入れてません。これもまあ、白石で降ろして、国鉄に積み替えて苗穂まで運んだことは考えられます。ただ、“定鉄で苗穂まで運んだ”とはやはり言い難いかと。

 ああ、こんな重箱の隅をつついていたら、全部我が身にはね返ってきます。5月13日の放送後が怖い。
 Wさんには編集されている地域誌で取り上げてもらったりして、お世話になっています(2017.8.152019.4.16ブログ参照)。身勝手な言い分ながら、本ブログも“切磋琢磨”のひとつと受け止めていただければ幸いです。

 注:桐原酉次「定鉄五十年」『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年、pp.226-236

2019/03/04

サッポロファクトリー近くのクランク 再考

 uhb「みんなのテレビ」の「となりのレトロ」創成東編、ヤヤコシイ話をオンエアしてくれたディレクターさんに感謝します。番組で紹介したサッポロファクトリー近くのクランク交差点については、拙ブログで前に取り上げています。
 番組でお伝えしたクランク成立の理由は、2015.7.19ブログで「私の想像」として述べたことです。同日ブログでは「想像」でしたが、このたびそれを「推測」の域に高めました。その根拠を、“復習”を兼ねて綴っておきます。

 まず現在図から。
現在図 サッポロファクトリー近くのクランク
 赤くなぞったのが市道「東4丁目線」です。国道12号との交差点でクランクを形成しています。さらにその一本北の道路(北2条通)との間でもクランクしています。緑色でなぞったのは大通ですが、この交差はクランクしていません。なお、後掲の古地図との比較の都合上、碁盤目を上下左右に合わせましたので、北は真上から10度くらい右へずれています。

 次に古地図です。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク
 「札幌全区地番明細連絡図」1912(明治45)年から一部を抜粋しました。
 黄色でなぞったのが現在の東4丁目線、緑色が大通です。クランクは大通との四辻で生じています。

 この地番図がありがたいのは、地割によって土地利用の様子が推測できることです。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク 貯木場の痕跡
 例えば、青くなぞった線によって、開拓使工業局時代の貯木場の痕跡が浮かび上がってきます。
 番組ではいっそうヤヤコシクなるので省かれましたが、この貯木場は碁盤目を意識せずに作られました。大通の南側の碁盤目を北へ延ばすとき、当初は貯木場を避けてその東側に道が通したようです。その結果、緑色でなぞった大通と黄色でなぞった東4丁目線(の原形)でクランクになってしまいました。

 後年、貯木場が埋め立てられ、跡地を東4丁目線が南から直進化されました。
札幌全区地番明細連絡図 サッポロファクトリー近くのクランク  東4丁目線の直進化
 橙色でなぞった部分です。ほぼ一筆の貯木場の跡地なので、埋め立てれば道路にするのはたやすかったことでしょう。

 ところが、問題はその北側です。上図を拡大してみます。
札幌全区地番明細連絡図 北1条東4丁目の地割
 赤い○で囲ったところ、北1条東4丁目は、細かく分筆されています。これが私の「推測」の根拠です。このように地割されているということは、ここが細かく私有され、家屋が建ち並んだと思われます。その結果、橙色の道を北進させようと思っても、敵わなかった。

 このあたりの地割のことは、2015.7.31ブログでも言及しました。そのとき載せた1925(大正14)年作成と思われる地番図です。
大正14年地番図 北1東4周辺拡大
 この図でも、東4丁目線はくだんの細かい地割を避けて、その東側に通されています。これを載せた2015.7.31ブログでは旧河道や条丁目界のことに目を奪われていて、クランク形成には結びつけていませんでした。

 こちらは「札幌市街之図 視形線図」1924(大正13)年からの抜粋です。
大正13年視形線図 サッポロファクトリー近くのクランク
 これを見ると、クランクはすでに現在の位置になっています。前掲大正14年地番図では、まだ現在地に発生していないかに見えるのですが、地番図なので道路の位置をリアルタイムで表しているとは限りません。クランクの現状は大正時代に作られたものと思われます。

 なお、東4丁目線のこのクランクは近い将来、「改良」されるようです。札幌市は、「変形交差点が続く上、歩道の幅もばらついており、道路の改良が課題となっている」としています。今後、「歩いて楽しいまち」にすべく、実験的に歩行者天国などを試み、2020年度には改良工事に着手するとのことです(北海道新聞2017年8月19日記事「『東4丁目線』再整備へ」、2018年5月10日記事「市道東4丁目線 ホコ天試します」)。
 “クランク萌え”の私としては、開拓使の痕跡が消えることに一抹の寂しさは感じます。どういう道路形態が「歩いて楽しいまち」になるのか、意見はいろいろありましょう。しかし、まあ交通安全のことを考えると、クランクは消えゆく宿命でしょうか。

2019/02/16

中央区 苗穂 Koさん宅 石蔵 ②

 昨日ブログの続きです。
 Kaさんがレストランとして再利用している石蔵は2棟、連なっています。昨日述べたとおり、一棟は元質蔵で、もう一棟は持ち主のKoさんの商店の付設蔵の一部です。

 Koさん宅は二代目が明治の終わりに、この地で米穀店を開きました。
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設
 石蔵は、1925(大正14)年、コメを保管するために建てられました。その2年前に近隣の火事で類焼したため、燃えにくいように札幌軟石を用いたようです。また、この頃、三代目が商売を継いでおり、精米製粉工場を作るなど、事業を拡げたといいます。

 こちらの石蔵の妻壁に刻まれている印は「¬(かね)キ」です。 
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設 印
 この「キ」は何のキだろうとKoさんにお尋ねしたら、二代目の「喜太郎」さんの頭文字でした。

 ところでKoさん宅の初代は信州諏訪の出身です。1882(明治15)年、白石村厚別に入植し、稲作に成功しました。「家督を譲り隠居となって、北海道の新天地で米作りを志し渡道」したのです(末注)。ときに65歳。渡道を勧めたのは同郷の上島正です。上島正のことは拙ブログでたびたび綴ってきました(2017.6.28ブログほか参照)。札幌の開拓史を文字どおり彩るユニークな人物です。彼が郷里で呼びかけて札幌近郊にやってきたのは、Koさん初代のほかに以下の人びとがいます(末注②)。
 河西由造:白石村厚別で稲作に成功、「信州開墾」地を開く
 武井惣蔵:札幌村でタマネギ栽培に成功
 宮坂坂蔵:琴似村で果樹、養蚕に従事、桑園で繭の生産に貢献(2017.12.8ブログ参照)
 藤森銀蔵:円山村の発展に尽くす
 
 いずれも札幌の近郊農村の、形成期におけるキーパーソンです。都市札幌への食糧供給に上島の信州ネットワークが大きな役割を果したように思えます。
 話は飛びますが、前述のKaさんは石蔵の飲食店への再利用に当たり、持ち主の方に日参したそうです。その思いがKoさんに通じたのでしょう。KoさんのDNAがKaさんに受け継がれたような気がしました。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.246。『厚別 黎明期の群像』2013年によると、Koさん初代が厚別に入ったのは1183(明治16)年とされる(pp.283-286)。同書にはKoさん初代のエピソードも記されている。
 注②:前掲『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.238、p.270、札幌市教委編『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年、406、『円山百年史』1977年、p.62、p.377

2019/02/15

中央区 苗穂 Koさん宅 石蔵

 いうまでもなく現在、中央区に「苗穂」という町名は残っていません。が、かつては苗穂村の一画だったことでもあり、今も「苗穂まちづくりセンター」の所管エリアは苗穂地区と称され、連合町内会も苗穂を冠しています。
中央区 苗穂 Kさん宅 軟石 蔵 のや
 その中央区側苗穂、Koさん宅の石蔵です。

 札幌で石蔵再利用を先駆けたKaさん(持ち主のKoさんとは別)の飲食店として知られる建物です。Kaさんはもともとこの近くの別の石造倉庫で1965(昭和60)年にレストランを始めました。その倉庫は1992(平成4)年に解体されます(末注①)。Kaさんの店は東区のタマネギ倉庫に移転したのですが、「やはり苗穂でも再び」ということで1998(平成10)年に開いたのが前掲Koさんの石蔵です(末注②)。

 今、「Koさんの石蔵」と記しましたが、前掲画像の中央に写るのは、元は質蔵でした。左方、木の後ろに写る赤いトタンが半分くらい貼られているのがKoさんの商店の付設蔵です。Kaさんのレストランは、元質蔵とその主屋、そして商店の付設蔵の一部を再利用しています。
 そのことはかねて知っていたのですが、長らく疑問だったのは元質蔵の妻壁に刻まれた「○ヨ」という印です。
レストラン のや 印「○ヨ」
 「土地の持ち主Koさんの名前とどうつながるのだろう?」と思っていました。ちなみに、現在Kaさんが営む店の名前「のや」は、「ヨモギ」という意味のアイヌ語から採ったと以前お聞きしたことがあります。私には、妻壁の○ヨがヨモギのヨと重なって見えたものです。

 昨年11月、uhbの「みんなのテレビ」の収録でKoさんを尋ねて由来が判りました。この建物は昭和の初め、Koさんが土地を貸した「吉岡」さんという人が始めた質屋の蔵だったのです。○ヨは吉岡さんの頭文字を屋号にしたものでした。
 収録のとき、Kaさんの奥さんが「地域の人に育ててもらって、店を長く続けてこられた」とおっしゃってました。 

 注①:北海道新聞1992年5月29日記事「プー横丁の引っ越し」
 注②:札幌建築鑑賞会『さっぽろ再生建物案内』第2版2003年p.72、78

2019/02/13

東8丁目通り 再考②

 昨日ブログの続きです。東8丁目通りに重なる等高線のふくらみについて、「札幌本府建設地と地形」(「公文書館だより」第6号2019年1月発行)には次のように記されています(引用太字)。
 さらに(引用者注:豊平川の)左岸側は等高線のふくらみが川から離れて北に向かっている。この右岸から続く微高地は以前繋がっていた自然堤防であり、札幌川は豊平橋辺りから北への流れが、一条橋の西岸近辺の等高線が南へへこんだ部分を通りその北方へ延びていたことが推察される。

 豊平川のかつての本流たる「札幌川」がどのように流れていたか、この引用文の記述に基づいて昨日載せた「視形線図」になぞってみました。
札幌市街之図 視形線図 札幌川河道跡推定
 橙色の○で囲ったのが豊平橋、黄色の○が一条橋です。「豊平橋辺りから北への流れが、一条橋の西岸近辺の等高線が南へへこんだ部分を通りその北方へ延びていたことが推察される」旧河道を水色でなぞりました。この旧河道が現在の流路に変わったのは19世紀初頭です(末注①)。

 水色でなぞった旧河道の右岸(東)側の「北に向かっている」微高地は、豊平川旧河道(サッポロ川)の自然堤防であったことが推測されます。とすると、赤い線でなぞった東8丁目通りは、自然堤防という微地形を生かして道を敷いたのかもしれません(末注②)。

 現在の標高図で、東8丁目通り付近の地形を観てみます。
現在図 16m以下から1mごと7色段彩 東8丁目通り
 標高16m以下から1mごとに7色段彩で作成しました。白ヌキ実線が東8丁目通り、破線が現在の通りです。この図でも、通りに沿って微高地が窺われ、通りの西側は若干低くなっています。しかし、現在の地形であり、視形線図が描かれた1924(大正13)年に比べて土地の平準化が進んだことも考えられます。また、1mごとの色分けであり、おおまかです。視形線図の等高線1尺(約0.3m)ごとの細密さにはかないません。

 注①:1806(文化3)年、幕府の遠山金四郎、村垣左太夫が西蝦夷地を巡検して残した報告書「遠山村垣西蝦夷日記」に、「四五年以前大水にてサツホロの川上切所出来」、流路が切り替わったことが記されている。いわゆる「河川争奪」。『新札幌市史』第八巻Ⅱ年表・索引編2008年、p.16、山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.112-114、宮坂省吾「札幌の失われた川を尋ねて」『北海道の自然』№55、2017年、pp.20-27
 注②:「札幌本府建設地と地形」の他の箇所で執筆者の榎本さんが指摘するように、道路や鉄路敷設に伴う盛り土の可能性もある。

2019/02/12

東8丁目通り 再考

 札幌市の「公文書館だより」第6号2019年1月発行に、「札幌本府建設地と地形」という論考が掲載されています。同館の榎本さんが所蔵資料「札幌市街之図 視形線図」という古地図を基に、札幌の中心部の成り立ちを地形との関わりで考察したものです。
 1924(大正13)年に「札幌市役所編纂」により発行された同図は、いわゆる標高図です。5000分の1の地図に、等高線が1尺(約0.3m)ごとの細い実線(いわば主曲線)、5尺(約1.52m)ごとに太い実線(計曲線)で描かれています。榎本さんも記すとおり「高低差1尺だとかなりの微地形が読み取れ」、しかも1924年という発行年からして札幌中心市街の創成期の原地形も察せられます。
 私はこの「視形線図」を、札幌市博物館活動センター情報誌「ミューズ・レター」№69、2018年7月発行で知りました。同センターの古沢さんが「100年前の地形図が教えてくれたこと-古い資料から読み解く新しい発見」という記事で紹介されています。これを読んだとき、私は「さすが、自然史系!」と心中で唸りました。
 
 どんなことが読み取れるかは、榎本、古沢両氏の記述をお読みいただくとして、私が同図からとりあえず注目したのは「東8丁目通り」です。この通りのことは拙ブログで前にあれこれ取り上げました(2017.7.31ブログ参照)。

 ここでいう東8丁目通りというのは、下図で赤い線でなぞった道です(末注)。
現在図 東8丁目通り 地理院地図
 きっかけは、この通りが北1条、北2条でクランクしていることでした(2017.7.19ブログ参照)。

 視形線図でこの通りを観てみます。
札幌市街之図 視形線図 東8丁目通り
 赤い線でなぞったのがくだんの通りです。なお、同図は札幌の中心部の碁盤目に上下を合わせており、方位は上が真北ではありません。
 通りは、当時はまだクランクしておらず、まっすぐです。参考までに現在のクランクを橙色で加筆しました。
 
 興味深かったのは、この通りが南端の南1条、豊平川河岸から鉄道のあたりまで、等高線の尾根状の“ふくらみ”とほぼ一致していることです。

 注:路線名としては、国道12号以南は道道札幌夕張線、北は市道真駒内篠路線であるが、ここでは東8丁目通りとする。

2019/01/13

遅ればせながら、JR苗穂駅新駅舎を探訪 ④

 昨年12月29日ブログの続きです。

 JR苗穂駅新駅舎の南口を望みました。
JR苗穂駅 新駅舎 南口
 側壁に煉瓦が貼られているのは、駅周辺の工場や倉庫に煉瓦が用いられてきた歴史を継承しているのでしょう。白石駅←鈴木煉瓦、野幌駅←煉瓦工場、岩見沢駅←レールセンター…と、それぞれの土地柄を表すのに、煉瓦は恰好の材料といえるのかもしれません。鉄道施設と煉瓦は関係が深いだけに、なおのことです。

 まちにも顔がある。しかし最近、印象深いまちの顔を見なくなった。全国の駅前は、どこも似たような、いわゆる「コピペ」のまちになってしまった。戦後、東京を中心とした画一的で同質な地方開発を展開した結果だ。 
 本年1月11日北海道新聞夕刊のコラム「魚眼図」に、池ノ上真一先生(道教大函館校)が「まちの顔」と題して寄稿した中の一文です。JR函館駅前にあって今月末に閉店するデパートの跡地再開発をめぐって、市民や専門家の声が汲み上げられていないことを先生は指摘しています。併せて先生が言及したのは、「その地に根を下ろした人々の努力による、自律的な地域づくりが始動している」ことです。その一例として、富良野市の「フラノマルシェ」を紹介しています。
 余談ながら(拙ブログは余談とわき見、寄り道に尽きているのだが)、「東京を中心とした画一的で同質な地方開発」とは、皮肉なものですね。私は東京都内をさほど知っているわけではないのですが、むしろ「印象深い」駅前が多いような気がします。

 拙ブログでたびたび綴ってきたように、昨年一年間、JR篠路駅東口周辺の都市計画の動向を見守ってきました。「わきあいあい篠路まちづくりの会」はまさに、「その地に根を下ろした人々の努力による、自律的な地域づくり」だなと私は実感します(2018.11.18ブログほか参照)。都市計画とか再開発事業というのは極論すれば、「自律的な地域づくり」との対抗関係あるいは相互作用で進められることによってでなければ、「印象深いまち」の展望は開けないのではないでしょうか。これは、篠路のまちづくりに関わって学びました。

 いうまでもなく、都市計画=悪、自律的地域づくり=善というような短絡的関係では毛頭ありません。税金が投入される都市計画は標準的にならざるをえないということです。言い換えれば「画一的」です。税金を使う対象はおそらく、最低限度の世界でしょう。古典的なナショナルミニマム論の域を出ていないかもしれませんが、「画一的」とは悪いことではありません。その上で、おカネをかけずに個性的な事業の知恵を絞るのは、「その地に根を下ろした人々の努力による、自律的な地域づくり」によってこそ実現しうると思うのです。

 前述引用の「全国の駅前は、どこも似たような、いわゆる『コピペ』のまちになってしまった」を読んで、別の新聞記事コラムを思い出しました。道新 2017年9月8日夕刊「今日の話題」の「原風景の駅」です(2018.2.1ブログ参照)。篠路駅前のことが取り上げられました。
 そんな篠路駅前が10年ほどで変貌するという。鉄路は高架化し、駅前広場ができる。金太郎あめのような駅がまた一つ増える。

 たびたび引き合いに出して申し訳ないのですが、逆説的に言わせていただくと、「金太郎あめのような駅」で構いません。それに味わいをもたらすのは(池ノ上先生のいう「印象深いまちの顔」)は、やはり「その地に根を下ろした人々の努力」にかかっていると思います。

 苗穂駅新駅舎南口から、苗穂の街(中央区側)を眺めました。
JR苗穂駅新駅舎南口からの眺め
JR苗穂駅新駅舎南口からの眺め 石蔵
 2018.11.16ブログに記した石蔵です。

2018/12/30

北一条東交番のDNA

 昨日ブログで苗穂駅前交番が廃止されることを記しました。この地域は「北一条東交番」の管轄になるそうです。

 その交番です。中央区北1条東7丁目にあります。
北一条東交番
  擬古調の外観です。煉瓦タイルはイギリス積みで貼り、開口部はアーチに見せかけています。

 私はどうも、こちらの元交番を意識したように思えてなりません。
北海道開拓の村 南一条交番
 創成橋のたもとにあった「南一条交番」です。こちらもイギリス積み。

 南一条交番は1970(昭和45)年まで現役でした(末注)。空中写真に照らすと前掲北一条東交番の建物ができたのは1970年代以降とみられ、時系列的に符合します。
 開拓の村のボランティアの方は煉瓦の交番は南一条だけだったとおっしゃってましたが、タイルも含めると前掲北一条東もいえるでしょうか。

 ほかに、宮の森交番(中央区宮の森2条11丁目)もそうか。
宮の森交番
 北1条宮の沢通りに面しているので、北一条東交番の面する通りをずっと西へ道なりに行くと至ります。

 注:『北海道開拓の村ガイド』1987年、p.35

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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