札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/08/28

ベロタクシーで巡る創成川東

 8月26日、ベロタクシーで巡る創成東の街探訪を終えました。
創成東まちめぐり ベロタクシー②
 ベロタクシーに乗るのは他の参加者の多くと同じく私も初めてです。7台がつらなる風景は、それ自体が新鮮でした。
 
 運転手さん方のおかげで、事故なく安全快適なまちめぐりができました。
創成東まちめぐり ベロタクシー①
 主催した「下町づくり社」のGさんの事前準備と当日の進行管理の手際よさのたまものでもあります。ベロタクシーでまちあるきという着想に拍手です。徒歩圏よりも広いエリアを巡ることができて、街の全体像をつかめたのは収穫でした。
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2017/08/25

吉田茂八は豊平川の渡し守だったのか

 創成東まちめぐりの第2回(8月10日ブログ参照)を明日8月26日に控えています。毎度自転車操業で、昨日配布資料の原稿をなんとか仕上げました。といっても、大半はこれまで札幌建築鑑賞会の行事で作られたものに基づいているのですが、確認についつい手間取ってしまいます。

 たとえば…。
札幌開祖吉田茂八碑
 豊平川左岸、豊平橋たもとの橋台広場に「札幌開祖吉田茂八碑」という碑が建っています。

 裏面に刻まれている文によると…。
吉田茂八碑 碑文
 「吉田茂八は南部に生まれ安政二年亀谷丑太郎に従い渡道し 同四年石狩調役荒井金助の命により 豊平川右岸の渡守志村鉄一の話相手として左岸の渡守となり札幌開拓に寄与した先住者である 資性温厚にして豪胆 狩猟を得意とし後年創成川の南三条より南六条に至る間の掘割工事を請負う これを吉田堀とも言う 地域住民吉田翁の功績を讃え後世に伝えるべく この碑を建立する 昭和五十六年七月二十一日 吉田茂八碑顕彰保存会」

 この裏付けを得ようと『新札幌市史』や『さっぽろ文庫』を読み直してみました。
 まず「南部に生まれ」。
 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年には「一説に、天保九年(一八三八)に岩手県宮古に生まれ」とあるのですが(p.314)、『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年には「北海道福山(松前町)の人」とあり、しかも「宮古市出身で箱館戦争に参加したという説は、同姓同名の別人である」と書かれています(p.329)。後年の記述を採るならば、「南部に生まれ」はどうも怪しい。

 それよりも気になったのは「左岸の渡守となり」です。
 『新札幌市史 第一巻 通史一』1989年には「志村鉄一とならび、通行屋(引用者注:豊平川の渡舟業務もはたしたトヨヒラ通行屋)に深い関係をもったのが吉田茂八であった」と記されています(p.828)。微妙な表現です。「渡守」であったとは断定していません。ちなみに同書も「福山(松前)の出身」と明記しています。
 現地に置かれた立派な石碑で麗々しく彫られていると、当然の史実のごときオーラが漂います。うーん。
 今「現地に」と私は記しましたが、そもそも茂八はこの場所、すなわち現在碑が建つところに居住していたとも断定できません。碑文にもそのようには書かれていませんが、一瞬錯覚を抱きます。

 困ったときには市公文書館のEさんを尋ねる、というのが私の約束事です。明日のネタバラシになってしまいますので、日をあらためて綴りたいと思います。
 明日のまちめぐりでは「見どころポイント」を17箇所(周辺の関連ポイントを含めると35箇所)挙げました。一箇所一箇所、こんな調子でウラを取っていたら、どうなることやらお察しください。

2017/08/11

75年前の都市計画道路

 東8丁目篠路通りです。
東8丁目篠路通り 大通東7丁目 北望
 大通東7丁目から北を望みました。

 東8丁目篠路通りの現在図です(元図はサッポロファクトリー近くにあった札幌市設置の観光案内看板から)。
東8丁目篠路通り 現在図 中央小学校付近
 赤い線でなぞったのが当該通りで、黄色の▲の先が前掲画像の撮影地点、橙色のⅩがⅩ字形交差点の位置です。東8丁目の通りが、東区方面からナナメに割り込んできています。

 7月22日7月23日ブログで記したとおり、前掲撮影地点でこの通りの道幅が広いのは、戦時中の建物疎開に由来していることが判りました。また、7月30日7月31日ブログで述べたように、割り込まれたほうの通りは創成川から南一条通りを街区60間+道路11間で区切っていった地点にあり、かつての札幌区の区界が引かれていたところでもありました。その結果、この通りの東側にあった本来の東8丁目の通り、すなわち元村(東区)や篠路(北区)から通じる路線が割り込んでくることになりました。

 7月23日ブログで私は「この通りが拡幅された時点で、否、戦時中の建物疎開の時点で、元村~札幌村との交通路である東8丁目通りをナナメに割り込ませるのを都市計画の担当者は見込んでいたのかもしれません」と記しました。時系列的にいうと、建物疎開→道路拡幅→東8丁目篠路通りの割込み、です。建物疎開は1945年、道路拡幅は1950~52年です。ナナメの割込みは1960年代後半です(同日ブログ参照)。
 実際その順番で実現していったことに違いはないのですが、このたび古い史料を見返したところ、この通りの拡幅と道路のナナメの割込みは建物疎開以前から画策されていたことがさらに判りました。

 「札幌都市計画図」1942(昭和17)年です。
昭和17年札幌都市計画図
 都市計画法に基づいて決定された計画道路が描かれています。札幌市で道路が都市計画決定されたのは1936(昭和11)年が最初ですが、本図はその後の変更や追加を含めて示したものです。
 
 くだんの東8丁目通り付近を拡大してみましょう。
昭和17年 札幌都市計画図 東8丁目通り周辺
 黄色の矢印の先に示したのが、その通りで、凡例によると「一等大路一類 36m以上」です。1942年の時点で、道路の拡幅とナナメの割込みが都市計画決定されていることが判ります。つまり、私が7月23日ブログで推測した時点よりもさらに古い時期に、こんにちの姿が目論まれていたのです。

2017/08/10

スタミナ冷し

 今月下旬に創成東まちめぐりの2回目が開催されます。
創成東まちめぐり案内 170826
 画像が見づらい方は下記サイトをご覧ください。
 ↓
http://sapporo-shitamachi.com/2017/08/10/1213/

 今回はベロタクシーに乗って街を巡るという新機軸です。私自身初めての経験で、どうなることかと思っています。ベロの座席から見えてくるものもあるかもしれません。札幌市文化財課の協力で、改修工事中の旧永山邸・三菱鉱業寮の内部も見学させていただきます。参加費無料、定員10名程度、要申込み、締切り8月23日(ただし先着順で定員に達しだい締切り)。

 例によって、巡る行程を下見しました。
創成東 スタミナ冷し
 まちめぐりとはまったく関係ないのですが、行程途上にある古い建物の壁で奇妙な物件を見ました。

 壁の一部に白くペンキが長方形に塗られていて…
創成東 スタミナ冷し 拡大
 その片隅に「スタミナ冷し」と書かれています。抜き文字(文字の部分を地の色で抜いている)なので、芸が細かい。

 「スタミナ冷やし中華」ということですかね。それにしてもなぜ? 近辺にその種の食堂などは見当たりません。ネットで検索したら、このコトバを用いた落書きが全国各地で見つかっていることを知りました。テレビでも報道されたらしい。もしかしたら、報道を見た人による二次作品、否、便乗犯かもしれません。しかし、なぜ「スタミナ冷し」でなければならないか。おそらく、この建物の持ち主が描いたものではないでしょう。ヨソサマの建物に落書きするのはやめましょう。

2017/07/31

東8丁目通りは、どうしてできたか ⑥

 「東8丁目通りは、どうしてできたか」、これまでの話をまとめると以下のとおりです。
 ・東8丁目通りと「南1条通りが豊平川と交わる」地点がずれているのは、創成川からの起算距離が異なるためである。
 ・東8丁目通りは、創成川から起算して8町(=480間)の距離で引いた境界線に因む。
 ・一方、「南一条通りが豊平川と交わる」地点は、創成川から起算して71間×6街区=426間である。

 
 昨日ブログで私は、末尾に「豊平川の流路も、結果としてこれ(=創成川から起算した426間)に合わせて改修した可能性すら、感じます」と記しました。
 『札幌市史 政治行政篇』1953年(旧市史)に掲載された「開拓初期札幌市街区域図」です(7月28日ブログに掲載)。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図 再掲 境界線着色
 旧市史刊行時の札幌市街の地図に、かつての境界をあてはめています。赤い線がその境界で、昨日ブログで記したように1878(明治11)年の画定とされます。
 これを見て気づくのは、境界線の南東の部分が豊平川に沿ってナナメに引かれていることです。念のため申し添えると、時系列的には先に赤い線の境界ありき、です。

 昨日ブログに掲載した掲載の明治22年「札幌市街之図」を見ます。
明治22年札幌市街之図 再掲 札幌市街境界
 赤い線の境界が引かれたのは、この地図が作られた1889(明治22)年よりさらに前です。境界は豊平川の氾濫原(中洲)を突っ切るように、機械的にまっすぐ引かれています。
 冒頭の旧市史掲載の地図と比べると、のちの豊平川の流路は赤い線の境界に合わせて整形したように読み取れます。豊平川は洪水・氾濫を繰り返してきた暴れ川で、明治時代も幾度か築堤されています(末注)。

 冒頭の地図でもう一つ気づくのは、南1条通り(橙色の線でなぞった)の東端です。赤い線の境界上とほぼ一致しています。境界線に合わせて豊平川の流路が整えられたことにより、結果として「南1条通りが豊平川と交わる」地点となりました。東端は前述したように、創成川から起算して71間×6街区=426間の距離です。426間の地点が境界線上とほぼ一致するのが偶然なのかどうかは、判りません。ただ、結果としては道路交通上の結節点になりました。境界線を引いたときに、ゆくゆくここが南1条通りの街区の交点となることを想定し、豊平川の流路を整形することを想定し、橋(一条大橋)が架かることを想定していたとしたら、スゴイ先見の明だと思います。一方で東8丁目の境界を異なる起算方法で引いてズレをもたらしたことと照らすと、そこまで見通していたとも思えませんが。

 注:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、pp.192-194参照

2017/07/30

東8丁目通りは、どうしてできたか ⑤

 7月25日ブログで私は、前日7月24日ブログの記述のうち2箇所、「気になるところ」があると記しました。その1箇所の「島判官は大友堀を本府建設の基軸として計画したか」については25日、26日のブログで大方の解決をみました。もう1箇所のほうをまだ言及していませんでしたので、取り上げます。
 
 それは、24日ブログの後半に述べた「当時の(=明治初期の)地理的条件」です。私は「南1条通りを東へまっすぐ進みますと、豊平川にぶつかります。ぶつかったところで直角に線を引く。ほぼ東8丁目通りに重なります。ただし、『ほぼ』です」と記しました。その根拠について、私は明治34年「札幌市街之図」を援用したのですが、これは間違ってました。たしかに、この地図で南1条通りを東にまっすぐ進むと、現在の東8丁目篠路通りのあたりで「ほぼ」豊平川にぶつかります。しかしそれは、この地図が描かれた明治30年代の話で、東8丁目通りに札幌区界が引かれた(区界を分かったところに道を敷いた)時期は、そうではありませんでした。ここに区界が引かれたのは1878(明治11)年とされます(末注)。そして明治20年代にはすでに、その境界に沿って道が造られていたようです。

 その当時を伝えているであろう古地図を示します。
明治22年札幌市街之図 東8丁目通り周辺 再掲
 「札幌市街之図」1889(明治22)年(札幌市公文書館蔵)です。
 黄色の矢印の先が東8丁目通りです。判りやすくするために豊平川の流路を水色で塗りました。橙色の線でなぞったのが南1条通りですが、東へ進むと、東8丁目通りよりもはるか手前で豊平川にぶつかっています。当時は現在の流れよりもはるか西方に分流があり、大きな氾濫原(中洲)を作っていました。
 つまり、この時点(1889年)以前では、東8丁目通りすなわち境界線を引く基準として、南1条通りが豊平川にぶつかる地点というのは考慮しえなかったといえます。
 私は前掲古地図を7月21日ブログでも載せていたのですが、時系列が錯乱してしまっていました。あらためて、境界線(東8丁目通り)は7月28日ブログで述べたように、創成川から8町という数字で引いたと推定します。
 
 ウエブマガジン「カイ」の特集『札幌の下町「創成東」を歩く』連載の『地図を歩こう「創成東」-4』では、東8丁目通りが「右に折れているのは、主要な都市軸である南一条通が豊平川と交わる角と東8丁目通がずれているためだ」と書かれています。しかし、この記述は因果関係が前後しているように私は思います。前掲古地図で示したとおり「南一条通が豊平川と交わる角」は、ずっと西方です。ずれをもたらした‘原因’にはなっていない。「南一条通が豊平川と交わる角」は、後年作られた‘結果’ではないか。

 ではなぜ、「南一条通が豊平川と交わる角」を東8丁目通りとずれるところに設定したのか。豊平川を河川改修した結果ということも考えられますが、私は機械的な理由によると思いました。
 もう一枚、古地図を見ます。
明治23年札幌市街之図 東8丁目通り周辺
 「札幌市街之図」1890(明治23)年(札幌市公文書館蔵)からの抜粋です。

 前掲「札幌市街之図」の1年後に描かれたものですが、周辺の地形や地割がかなり変わっています。黄色の矢印の先が東8丁目通りで、赤い矢印の先が「南一条通が豊平川と交わる角」付近です。現在の地点に近づいています。
 この地図で、南1条の地割が赤矢印の先のところまで描かれています。この地図は彩色されていて、南1条通りは「豊平川と交わる角」まで茶色で塗られています。東8丁目通りも茶色ですが、その間は白地です。この彩色の違いが何を意味するか、凡例は示されていないのですが、もしかしたら現況と計画の違いかもしれません。
 
 私は赤矢印の地点を、創成川からの起算の結果とみました。
 7月24日ブログで示した、1街区の一辺60間(間に仲通を含む)+道路幅11間=71間の積算です。この地図を見ると南1条では、創成川から71間の間隔で6街区分、描かれています。その地点を結果として、「豊平川と交わる角」にした。豊平川の流路も、結果としてこれに合わせて改修した可能性すら、感じます。

 注:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、p.187参照

2017/07/29

北3条通りの風景を脳裏に刻む

 創成川東めぐり、無事終えました。
 サッポロファクトリー付近のクランク交差点や国道12号のⅩ歩道橋など、私の偏った案内におつきあいいただき、参加された皆さんにはありがとうございました。歩道橋に上がったところ、おおかたの人がⅩの交点でぴょんぴょん飛び跳ねて、揺れ具合を確かめていたのが印象に残っています。

 歩道橋といえば、今回の行程には含めていなかったのですが、北3条東4丁目のそれが、すでに閉鎖されていました。
北3条東4丁目歩道橋
 撤去へのカウントダウンのようです(2017.2.22ブログ参照)。

 さらに。
カフェロッソ
 参加者のお一人からお聴きしたところ、歩道橋の近くにある煉瓦造の建物もまた、解体される可能性が高くなりました。開発事業者に所有が移ったようです。
 雪留め付きの寄棟屋根に開口部のアーチが、札幌では稀少感を醸しています。横綱級のファクトリーレンガ館と対照的な、珠玉の佳品です。


 北3条通りの、この風景も変わっていくのですね。
北3条通り 歩道橋 カフェロッソ
 くだんの建物1階のカフェに、ここの元の持ち主の巨大な金庫が置かれていたと思うが、建物を解体するとなったら、あれはどうなるのかなあ。

2017/07/28

東8丁目通りは、どうしてできたか ④

 「旧永山武四郎邸でつながる、さっぽろ下町まちあそびワークショップ~まちあるき編~」を明日に控えました。なんとか配布資料の原稿も間に合わせることができ、天気も良さそうです。参加申込みは締め切っておりますが、8月下旬にまた別の催しが企画されています。今後一社)さっぽろ下町づくり社サイトに掲載されると思いますので、関心のある方はおってご覧ください。
 
 さて、先日来話題にしています「東8丁目通りは、どうしてできたか」、あちこち寄り道しながら佳境に近づいています。寄り道が多いので何が佳境かと思われるかもしれませんが、もうすぐゴールです。

 次に掲げる地図は『札幌市史 政治行政篇』1953年(旧市史)に掲載されたものです。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図
 「開拓初期札幌市街区域図」という題が付いています。

 図のウラ面に、次のように説明されています(引用太字、原文ママ)。
 本図は札幌市街区域変遷中
 (一)明治四年決定の開拓使仮庁中心一里四方
 (二)明治五年決定の開拓使本庁中心の一里四方
 (三)明治六年以後近接新村設定のため、何時とはなしに縮少し、三県時代の初期まで続いた市街区域
 以上を現在の地図に入れてみたものである。
 (右のうち(一)を記入した古い地図は見当たらないが(二)(三)を記入した古い地図はたくさん残つている。)


 開拓使(仮、本)庁舎を中心とした「一里四方」の実際上の設定については、批判的考証が必要です(末注①)。特に(一)については「記入した古い地図は見当たらないが」と記しており、旧市史編集者の解釈、想像の産物とすら思えます(末注②)。が、ここではひとまず措き、その線を色分けしてみました。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図 境界線着色
 黄色が、(一)の明治4年開拓使仮庁を中心とした一里四方、橙色が(二)の明治5年に決定された開拓使本庁中心の一里四方、そして赤い線が(三)の「何時とはなしに縮少し」た区域です。(一)の中心は黄色の●(現北4条東1丁目)、(二)の中心は橙色の●(現北3条西5、6丁目)です。(一)と(二)の一辺を縮尺で測ると、36町(=1里=約4㎞)でした。左下の縮尺の上に引いた緑色の線の間隔が10町です。

 で、先日来問題にしている東8丁目通りは、というと、(三)の赤い線の東端です。赤い矢印の先に示しました。これは「近接新村設定のため、何時とはなしに縮少し」た結果、引かれた線だというのです。
 故遠藤明久先生も「明治七年二月、本府に隣接する琴似、山鼻、札幌(元村)、円山、篠路、豊平、白石および苗穂の各村の行政区域が確定する。こうして、本府の外周線は決定し、他動的に札幌本府(区)の境界が決定する」と述べています(末注③)。
 当該東8丁目は、当時の村界でいうと苗穂村になります。えいや、で線を引いたんですかね。
 それにしても、何か根拠がないか。
 ためしに、黄色の線と赤の線の間の距離を測ってみました。ちょうど10町です(青い線で示した間隔)。7月24日ブログで私は、「創成川(の中心線)から東8丁目(の中心線)まで測ってみると、約8丁(町)です」と記しました。10町+8町=18町=半里です。黄色の線の基となった開拓使仮庁は創成川沿いの北3条東1丁目にありましたから、計算が合います。
 
 結局、創成川を基軸にしてキリのいい8町にしたのか。この線が確定するのは1878(明治11)年です(末注④)。開拓使本庁はすでに(現在の道庁赤レンガの付近に)建っています。念のためその地点からの距離も測ってみましたが、中途半端です。島義勇を継いだ岩村通俊らが、碁盤目状の区画割をすすめています。しかし、その基準数値である1町(60間)+道幅11間ではなく、アバウトに8町としたんですね。その原点は、どうも「一里四方」にあったように思えます。

注①:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、p.80、『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.53参照
注②:(二)についても、管見の限り一次史料の存在を見つけられない。
注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.53
注④:『新札幌市史 第二巻 通史二』pp.186-187参照 

2017/07/26

島判官は、大友堀を本府建設の基軸として計画したか ②

 札幌市役所ロビーの島義勇像です。
市役所ロビー 島義勇像
 1971(昭和46)年に建立されました。

 台座正面には、島が詠んだという七言律詩絶句が刻まれています。「他日五洲第一の都とならん」という有名な漢詩です。揮毫は、この像が建つ前まで市長だった原田与作氏。
 台座背面には、建立時の市長板垣武四氏による碑文が銘鈑に記されています。その中に、次のくだりがあります(引用太字)。
 既に北方の事情に通じていた義勇は、北方の開拓を進めるためには札幌の地に中心を移す必要があるとし、十月末(引用者注:明治2年)雪を踏んでこの無人の地に入り、ここに京都を模して整然とした区画割りを行い、都市建設に着手した。

 1869(明治2)年10月当時の札幌が「無人の地」だったとは私は想わないのですが(末注①)、この碑が建立された1971年の為政者の、大袈裟に言えば歴史認識をが伝える一文であり、これはこれで存在価値があります。1971年はこの市庁舎が落成した年で、その前年に札幌市は人口が百万人を超え、翌年の1972年には冬季オリンピックを開催、政令指定都市に移行しました。イケイケどんどんの時代ですね。
 それはさておき。
 私の歴史認識も、この銅像によって刷り込まれていたようです。「無人の地」うんぬんは措くとして、「ここに京都を模して整然とした区画割りを行」った、という。銅像のインパクトは大きい。しかも、置かれているのが市役所のロビーですからね。

 南1条東1丁目、創成橋たもとの「札幌建設の地」碑です(2014.9.5ブログ参照)。 
「札幌建設の地」碑
 こちらは1966(昭和41)年の建立。
 台座碑文(当時の市長原田与作氏)には、次のように書かれています(引用太字)。
 この地は銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交点に當り 明治貮年拾壹月拾日開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始め その意をついだ岩村判官は同四年参月 札幌の町割をここを中心として行い 民家を建てることを許した 今日の札幌市はこの附近を基点として發達したのである

 これも、場所が場所だけに、影響されました。

 このあたりの史実とその解釈について、札幌市公文書館のEさんが2014年に講演されたのを私は聴きました。Eさんは新市史第二巻の「島判官の札幌本府建設」を執筆しています。公文書館に行って、Eさんと話をしてきました。
 私の疑問点をあらためてまとめると以下のとおりです。
 ①島判官は、大友堀、銭箱道の交点を基点とする(または、それぞれを基軸とする)本府建設を計画(構想)したか?
 ②島判官は、「京都を模して整然とした区画割り」をおこなったか?
 ③島判官は、大友堀と銭箱道の交点から、「石狩大府」の建設を始めたか?

 Eさんとの話で得られた結論は以下のとおりです。
 ・①②③を明確に裏付ける史料は見つかっていない。
 ・島が来たときの札幌の中心部で人工的なモノといえば銭箱道と用水(大友堀)くらいなので、(街をつくる)目安にはなっただろう。
 ・(島の在任中に札幌で)大友堀に沿って実際に道が敷かれ、家屋が建てられているので、大友堀は基軸になったといえるかもしれない。ただし、当初からそれを構想していた、とまで言い切れるかどうかは疑問。
 
 Eさん曰く「まあ、歴史の解釈の問題ですね」と。前掲の銅像や記念碑の碑文が誤りだ、とただちに断ずるのもどうか。
 私もそう思いました。結局、史料的に裏付けられた事実か、それを解釈したものか、その違いをアタマの片隅に置くことが大事なのですね(末注②)。

 注①:豊平川両岸には吉田茂八と志村鉄一がいて、元村に大友亀太郎が拓いた御手作場があり、篠路に早山清太郎がいた。そして、彼らに先んじてヌプサムメム付近に琴似又市らがいた。これらを言挙げするのは‘後出しじゃんけん’のきらいがあって気が引けるが、忘れないようにはしたい。北海道150年を記念するとか、冬季オリンピックを再び、というなら、なおのこと。台座のうしろの小さな碑文まで読む人はあまりいないとは思うが、そうはいっても市役所のロビーである。
 注②:どういう史実(事実)を切り取るか、が問題でもある。客観的事実とはいっても、どういう事実を採りあげるかは、主観である。ただし、事実の捏造があってはならないのはいうまでもない。

2017/07/25

島判官は、大友堀を本府建設の基軸として計画したか?

 昨日ブログをみずから読み直して、2箇所、気になるところが出てきてしまいました。
 1箇所は、次の一文です(太字)。 
 明治の初め、開拓使の島義勇判官は札幌本府を構想するに当たり大友堀(のちの創成川)を南北の基軸としました。
 
 私はこれに末注を付し、「『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.48-61参照」としました。同書の同ページ記述を参照されたし、という意味なのですが、上記一文の根拠とした文献でもあります。
 同書同ページは故遠藤明久先生による記述です。私が直接的に根拠とした箇所を以下、引用します(p.49、太字)。
 明治四年策定の岩村判官の都市計画、つまり現在の札幌都心部の母型のそれは、要点を挙げるとつぎのものであった。
 1 島判官の計画を継承し、大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点とする。現在の創成川の南一条通にかかる創成橋上の中央である。西側のビルの一画に測量の基点を示す「建設の碑」が建っている。


 「島判官の計画を継承し、大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点とする」という文から私は、島判官もまた「大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点と」していた、と読解したのです。(岩村判官が)「島判官の計画を継承し」た、ということは、島判官も同じ計画を持っていたのだろうと解釈しました。その上で、「大友堀と銭箱通の交点を」を「基点」とする、ということと同義的に、「大友堀(のちの創成川)を南北の基軸としました」と言い換えました。

 しかし。
 島義勇は、本当にそこまで計画(とまでいえなくても、構想くらいは)していたのだろうか? 『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年を読み直してみました(pp.30-34)。この文献では、島の構想を伝える一次史料の「石狩大府指図」と「石狩国本府指図」について解題されています。しかし、どちらの図面を見ても、大友堀と銭箱通は明確には描かれてはいません。

 新市史の当該ページでは言及されていませんが、島が札幌本府建設に着手した頃(明治2-3年)の様子を伝える史料に、高見沢権之丞の「明治二巳歳十一月迄札縨之図」があります。拙ブログでもこれまで、おりおり引用させてもらっている有名な絵図です(北大図書館蔵)。
高見沢絵図 再掲 札幌本府建設前
高見沢絵図 再掲 札幌本府建設
 巻物になっていて、一枚は家屋が建つ前の原野、もう一枚は家屋が描かれています(末注)。
 これには、大友堀と銭箱道が具体的に位置づけられています。あたかも座標軸のように描かれている。大友堀と銭箱道を基軸として本府建設が実際に進められたことを物語る傍証になるとは思います。
 しかし。
 「だから、島義勇が計画(構想)していた」といえるか。
 
 なんで、ここで詰まってしまったかというと、原因は今週末に予定されている創成川東地区を歩く行事です(7月19日ブログ参照)。当日配布する資料に、冒頭の記述と同じような文言を入れたのですが、自信がなくなりました。参加者と一期一会であることが多い行事で、間違ったことをしゃべった場合、あとから訂正を伝える機会がない惧れがあります。一字一句、慎重にならざるをえません。もう一回、勉強し直さねばならん。

注:高見沢が明治8年に回想して描いたもので、2枚目は明治3年頃の様子とされる(『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図』1978年、p.33参照)。

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