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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/16

奈井江町の住友

 お盆恒例、空知郡奈井江町の妻の実家へ墓参してきました。

 町営墓地のすぐ近くで採集した電柱銘です。 
電柱銘 奈井江 住友幹 拡大
 「住友幹」。 

 墓地は、JR奈井江駅から東へ約2㎞のところにあります。
現在図 奈井江 墓地周辺
 赤いを付けたところが電柱「住友幹」の所在地です。

 墓地の西側の道路をはさんで、ゴルフ場が隣り合っています。
電柱銘 奈井江 住友幹
 電柱の背後に写っているのは、ゴルフ場のネットです。

 住友。そういえば奈井江にはかつて炭鉱があったと妻に聞いていました。これはその名残ではなかろうか。このゴルフ場も、炭鉱を閉じた住友ゆかりか。

 墓参り後、義妹(妻の弟の奥さん)に訊いたところ、この近くには「住電精密」という住友系の工場があると教えてもらいました。その工場は、閉山後の激変緩和というか就労維持というか地域貢献のために造られたのではないだろうか。
 「住友新町」という町名もあるそうです。ただし、そこにはほとんど住宅は無いとも。人が住んでいないのに、かような地名があるというのは、ニオイます。電網検索したら、「住友新町」は奈井江町奈井江のいわゆる小字です。

 1968(昭和43)年の空中写真です。
空中写真 1968年 奈井江町 住友炭鉱
 電柱「住友幹」は、赤いを付けたあたりになります。黄色のは奈井江駅です。
 現在のゴルフ場の一帯に、炭住らしき長屋らしき建物がいっぱい並んでいます。

 ところで、鉄道にほぼ平行して、東側に「北海幹線」が南北に通じています。空知の大稲作地帯を支える長大な農業用水路です。この用水路が、ちょうど黄色のと赤いを結んだ線上と交わるあたりで弓なりに弯曲しています。これはなんでだろうか。知らないことだらけだなあ。
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2019/08/10

モショッケショマナイ

 「アイヌ語地名と北海道」展(北海道博物館で開催中)を観覧して、もう一点写真に撮ったのが明治29年地形図5万分の1です。
明治29年地形図 札幌、平岸、江別、長都 北海道博物館展示
 「札幌」「平岸」「江別」「長都」のそれぞれ一部をつなげて、拡大して壁一面に貼られています(地名は着色加工)。
 実際の地形図の縮尺よりはるかに大きく、かつ札幌と近郊を連続して見渡せて、新鮮です。屯田兵村が札幌本府の主に西半分に配置されつつ、水運の要衝たる江別、篠津、野幌にも設けられたのだなあと、いまさら気づきました。

 ところで、その江別兵村に「モショッケショマナイ」が描かれています。
明治29年地形図 江別 北海道博物館展示 モショッケショマナイ
 黄色の矢印を付けました。今は亡きモショッケ川(7月30日ブログ参照)です。

 この川は、明治6年札幌郡西部図にもそれらしく描かれています。
明治6年札幌郡西部図 モショケショマナヘ?
 画像が粗くて読み取りづらいのですが、左下から右上へ「モショケショマナヘ」でしょうか。

 その一帯を現在の色別標高図で観ます。
色別標高図 江別 旧モショッケ川一帯 標高8m未満から2mごとに10段階
 標高8m未満から2mごとに10色段彩しました。黄色の△を付けた先が、旧河道の石狩川への合流口です。標高図をにらんでいると、何となく川跡が見えてくるような気もします。

 合流口には現在、樋門が設けられています。
江別 モショッケ川 石狩川の合流口 樋門
 7月30日ブログで、「地形的にみると、モショッケ川は石狩川の支川ですが高低差はあまりなさそうです。本川の流量がちょっと増えたら、たちまち支川を遡りそうに想えます」と末尾を締めくくりました。前掲標高図に照らすと、この樋門からモショッケショマナイを少し遡った辺りでも、あまり標高が変わらない、どころか低くさえ見えます。

2019/08/09

初三郎師は「北海道鳥瞰図」で何を描き、何を描かなかったか ③

 昨日ブログに記したとおり「北海道鳥瞰図」1936年には、林業試験場と「野幌原始林」が描かれています。その部分を拡大しました。
鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 野幌原始林
 画像上方を左右に引かれている赤い太実線は国鉄函館本線です。札幌から豊平川を渡ったら白石、厚別を飛ばして「野幌」が書かれています。その下に「林業試験場」とあり、庁舎が仔細に配されています。

 1927(昭和2)年に建てられ、現存する旧庁舎です。 
旧北海道林業試験場庁舎
 これに照らすと、前掲の絵図で建物もそれらしく描かれているのが判ります。

 さらに、試験場庁舎の下方に「野幌原始林」が描かれています。この扱いがまた、大きい。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 全体 野幌原始林
 「北海道鳥瞰図」の全体を見渡しても、視認できます。屏風の中央の折り目のやや左、黄色の○で囲ったところです。

 のみならず、前掲の拡大画像に戻ると、森林内の道路や建物も詳しく描かれています。
 1936(昭和11)年10月7日、昭和天皇はこの地を行幸しました。そのときの行程図です(北海道庁『昭和11年陸軍特別大演習並地方行幸北海道庁記録』1938年、p.239)。
昭和11年陸軍特別大演習並地方行幸北海道庁記録 北海道林業試験場略図
 赤い○を付けた「林業試験場」から橙色の○の「事業舎」まで、破線の矢印のとおり「御巡覧」しました。
 その様子は次のように記録されています(同上書pp.271-272、太字、旧字体は通用字体に変更、文中闕字はママ)。
 標本陳列館より御愛馬白雪号に召され、場長の御先導に依り  秩父、三笠宮殿下御同列にて鬱蒼たる原生林内二里の林道を蹄の音も軽く約五十分に亘り御巡覧遊ばさる。其の間 陛下に於かせられては  竜顔殊の外麗しく常に微笑を湛へられ 両殿下と御睦じく御楽しげに御物語りあらせられ、又 秩父宮殿下御自ら御一行を御撮影遊ばされ給ふなど、茲に図らずも 陛下御兄弟宮のいとも和やかなる御団欒の御様子を拝し臣下一同感激の余り感涙を催せり。
 事業舎に著御の上、約四分間御休息の後、御自動車にて大沢に成らせられ、御昼餐を召され 両殿下を始め奉り、供奉高等官、池田長官、場長等に御陪食を賜ふ。


北海道林業試験場ニ於テ御召替ノ上秩父三笠両殿下ト林内御散策中ノ陛下
 (同上書、「北海道林業試験場ニ於テ御召替ノ上秩父三笠両殿下ト林内御散策中ノ陛下」 この写真に写る林内の道については2017.11.15ブログ参照)

 陸軍特別大演習に伴う昭和天皇の札幌及び近郊での行幸先は以下のとおりです(同上書)。
 10月6日 北海道庁種畜場
 10月7日 官幣大社札幌神社、札幌控訴院、北海道庁、北海道林業試験場
 10月8日 北海道工業試験場、北海道農事試験場、北海道帝国大学

 林業試験場に先立つ北海道庁への行幸では「天覧室」で次のように天覧しています(同上書p.271、太字)
 池田長官の御説明に依り本道の面積、人口、気象、教育、農産、畜産、水産、林産、工産、礦産、貿易に関するグラフ、北海道鳥瞰図、写真等を五分間に亘り、いとも御熱心に天覧あらせ給ひ、     
 
 ここで「北海道鳥瞰図」を「御熱心に天覧」したわけです。『北海道博物館 第5回特別展 アイヌ語地名と北海道』図録2019年には、鳥瞰図の制作経緯を次のように記しています(p.114、太字)。
 当時の新聞記事によれば、初三郎は、約80日間にわたって全道を調査し、そこで描きためたスケッチをもとに原図を制作した。原図を北海道庁において修正したのち、あらためてこの天覧用鳥瞰図を「謹製」したという。陸軍特別大演習と「地方行幸」に関わる施設のほか、1934(昭和9)年に指定された国立公園が紹介されている。

 私は拙ブログの標題を「初三郎師は『北海道鳥瞰図』で何を描き、何を描かなかったか」としましたが、正確には「鳥瞰図はどのように修正されたか」と修正すべきかもしれません。図録では「陸軍特別大演習と『地方行幸』に関わる施設」が紹介されていると解題されています。たしかに、林業試験場などの行幸先がフォーカスされているのはよく判りました。聖地が精緻に描かれた。しかし特別大演習のほうはどうでしょうか。昨日一昨日ブログに記した「本来そこに描かれてもよかろうものがあえて描かれていない」ことと併せ、「どのように修正されたか」、陸軍大演習がどのように紹介されたか、されなかったか、気になります。

 『図録』は「鳥瞰図」について次のようにも述べています(p.114、太字)。
 開拓が始まってから約70年後の北海道の地理的情報を残し、北海道観光の浸透を予感させる、象徴的な絵画である。鳥の目線から描かれた北海道のかたちは一見歪んでみえるが、その風景描写のなかに描かれた駅名やその他の名称の数々は、当時の北海道の主要な地名を伝えてくれるとともに、風景だけではわからない多くの情報を添えている。風景と地名は相互に情報を補完しあうなど、相性がいいようだ。

 本鳥瞰図は、逆説的な言い方になりますが、描かれなかった「風景と地名」が「多くの情報を添えている」ように私は思えます。1936年という時代性を「予感させる」、「象徴的な絵画」です。

2019/08/01

石狩川船行 ④ ツイシカリ 二百年前を偲ぶ

 弁天丸は、新石狩大橋が見えてきました。
石狩川船行 190728-14
 引返し地点が近づきます。

 左岸です(川の流れは左から右)。
石狩川船行 190728-15 石狩川左岸 旧豊平川河口
 黄色の矢印を付けた先に、旧豊平川(世田豊平川)の河口が見えます。
 「見えます」と記しましたが、あとから画像を見直して「たぶんここだろう」と付けた目星です。かなり離れているので、船上で教えていただいた場所の記憶を呼び戻すのが一筋縄ではいきません。画像を拡大すると、かすかに樋門らしき工作物が窺えます。
 このあたりは江戸時代、ツイシカリの番屋が置かれていたところです。遠山景普(金四郎)や村垣定行(左太夫)も巡検時に泊まったといいます(末注①)。古地図を遡ると、かつては川幅がもっと狭く蛇行していたようです。この画像を撮っている船上のあたりまで、左岸が迫っていました。私は今、船上から石狩川を眺めて雄大な印象を受けます。しかしそれは近現代の河川改修の産物なのかもしれません。

 新石狩大橋です。
石狩川船行 190728-16 新石狩大橋
 拡幅工事をしています。船はここでUターンします。

 再び左岸です。
石狩川船行 190728-17 石狩川左岸 ヤツメウナギ漁
 ヤツメウナギ漁の船着き場ですね。

 黄色矢印を付けた先に、半紡錘形のモノが見えます。
石狩川船行 190728-18 石狩川左岸 ヤツメウナギ漁 カヤどう
 「カヤ(茅)どう」と呼ばれる漁具らしい(末注②)。

 今回の船行は6月から座学3回を含めて開催された「えべつ郷土学講座」(江別生涯学習インストラクターの会主催)の一環でした。これまで綴ってきたことの多くは、同会会長にして江別市郷土資料館元学芸員Sさんのご教示のたまものです。最後になりましたが、ありがとうございました。

 注①:江別市郷土資料館『史跡が語る江別の歩み』2012年、p.69、70
 注②:同上、p.35

2019/07/31

石狩川船行 ③

 札幌開建の調査船、弁天丸の船室です。
石狩川船行 190728-9 弁天丸船室
 一般の定員は12名。

 操舵席の計器、左下に速度表示が見えます。
石狩川船行 190728-11 弁天丸操舵モニター
 針が指しているのは16あたりです。時速16㎞か。いや、ノットか。実際、往復約10㎞の行程を約40分かかってましたので(時速にすると15㎞)、数字としては㎞でも合います。

 操舵席右側のモニター画面です。 
石狩川船行 190728-10 弁天丸操舵モニター
 右下の2.9mというのは水深を示しています。この日は前日の雨の影響で20㎝くらい増量していたようです。
 右側の画像(ソナー)の茶色のギザギザが川底で、おおむね3mあたりを上下しています。上のまっすぐの茶色の層の水色との境目が船底です。右上端の目盛りの0mが川面で、茶色の層は約60㎝です。つまり喫水線から船底まで約60㎝なので、船底から川底までは2.3-24mになります。「けっこう浅いんですよね」と航海士さんは言ってました。操舵で何に気をつけているかというと、浮遊物だそうです。増水すると流木なども増えます。プラスチックごみも多いらしい。

 エンジンです。
石狩川船行 190728-12 弁天丸エンジン
 420馬力/基が2基、備えられています。

2019/07/30

石狩川船行 ② モショッケ川

 調査船・弁天丸は石狩大橋をくぐりました。
石狩川船行 190728-7
 画像は左岸を眺めています。川の流れは左から右です。赤矢印を付けた先に樋門が見えます。

 これは「モショッケ川」の名残と聞きました。
石狩川船行 190728-8
 モショッケ川。
 この古川の名前を知ったのはたしか、2年前に参加した「再発見・江別探訪 バスでめぐる先史時代の遺跡」(江別市郷土資料館主催)のときです。川沿いに先史時代の遺跡があると聴いたのですが、河道などは漠然と受け止めました。
 最近、この川名に「藻生渓」という字が当てられていたこと、さらには別の当て字があったことを知りました。お聞きしたのは、江別市民会館主催の「江別の歴史講座」の先々週開催された第2回「野幌丘陵と江別の小さな山」のときです。別の当て字は何だと思いますか? 「虫除」だそうです。ムシヨケ、モショッケ。アイヌ語由来だと思いますが、語義は…手におえないので割愛します。

 空中写真を遡ると、1960年代後半には暗渠化されたようです。実は船行のあと、陸路でこの川跡を辿ってみました。酔狂なことです。そのとき樋門の銘鈑で設置年を確認しました。そのくだりはおって綴りたいと思います(と記したままの積み残しがこれまでにたくさんありますが)。
 ところで「樋門」とは何でしょうか。『広辞苑』第五版1998年では、「用水の取入れや悪水の排除のため堤防を横断して作られた暗渠およびゲートの総称」です。本件は(「そもそも樋門というものは」というべきか)、石狩川の逆流を防ぐためだと思います。地形的にみると、モショッケ川は石狩川の支川ですが高低差はあまりなさそうです。本川の流量がちょっと増えたら、たちまち支川を遡りそうに想えます。

2019/07/29

石狩川船行 川の色

 昨日ブログの続きです。 
 今回の石狩川めぐりの行程を下図に示します。
石狩川河川図(弁天丸船内の貼り紙)
 赤い線でなぞりました。元図は、乗船した弁天丸(札幌開建)の船内に貼ってあったものです。

 地理院地図で拡大します。
弁天丸 190728行程
 千歳河畔、江別河川防災センターの船着場から、石狩川に合流して新石狩大橋の手前まで、片道約5㎞です。赤いを付けたあたりでUターンします。

 ちなみに石狩川の長さ(幹線流路延長)は268㎞です。明治から昭和にかけての改修(蛇行の短絡直線化)の前は367㎞で、現在の信濃川とほぼ同じでした(末注)。百ン十年で四分の一、約100㎞短くなったことになります。もちろん私は短くなる前を知らないのですが、今の姿からでも「悠然」という印象が偲ばれます。
 私にとって「川」の原風景は、木曽川でした。木曽川も大きな川ですが、「悠然」とは形容しがたい。ひとことでいえば蛇行している(していた)か否かの違いでしょうか。極論すれば、内地と北海道の違いです。北海道の渡島半島の付け根あたりから北の、内地とは顕わに異なる風土の一つだとも思います。小学生のころ、社会科の地図帳に載っている石狩川の蛇行跡(河跡湖)を見て、わくわくしたものです(末注②)。それはマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を読んで大河ミシシッピに馳せた想いとも通じます。

 と、感慨に浸りながら、船が新江別橋をくぐったあたりでデッキ上に出ることを許されました。
石狩川船行 190728-5
 上流から下流を望み、右方が千歳川(江別川)の左岸(江別市街側)です。

 千歳川(江別川)から石狩川に合流する地点に近づきます。
石狩川船行 190728-6
 下流から上流を眺め、手前が千歳川、右方の河畔林の向こうが石狩川です。

 石狩川本流に入りました。
石狩川船行 190728-6
 流れの向きは左から右、です。左岸の王子製紙工場が見えます。

 赤矢印の先で川面の色が少し異なっているのがわかるでしょうか。影を作る何もないのに、濃く見えます。実は本来の川の色に近い水の青で、これは千歳川から入り込んだ流れとお聞きしました。手前の茶色っぽいのは、石狩川本流の色です。説明を伺って初めて知りました。色が違うのは、前日まで降っていた雨の影響で本流の方が濁ったからだそうです。濁ったおかげ(?)で、職員の方によると普段よりも違いがはっきり見て取れました。一見したところは一つの川でも、合流地点では当然のことながら、本流と支流の二つの流れがあるのですね。

 注①:北海道新聞連載「魅力発見 北海道遺産27 石狩川『流域市町村』」2017年9月7日
 注②:木曽川の「川島」(2016.12.16ブログ参照)や、伊勢湾河口の「長島」、木曽崎のデルタ地形も好きだった。

2019/07/28

千歳川船乗りせむと日を待てば波もかなひぬ今は漕ぎ出でな 

 かねて待ち望んでいた体験が適いました。
石狩川船行 190728-1 
 石狩川の船行です。
 2016年小樽海岸の巡検(2016.7.177.20ブログ参照)以来、船に乗りました。川は初めてです。そもそも川船は生れて初めてだったかしら? 20年くらい前に九州・柳川で、堀割を船頭さんの手漕ぎに揺られて下りました。洞爺湖で観光船に乗ったこともありますが、自然河川はやはりこのたびが初めてです。胸を膨らませて江別港に臨みました。

 「港」は、今はないか。千歳河畔の江別河川防災ステーションです。
石狩川船行 190728-2
 札幌開建の調査船「弁天丸」が到着しました。
 
 ところが、いざ乗船という段になって、職員の方から「エンジンが故障したようです」と。前日までの不安定な天候が文字どおり雲散霧消して、さあこれからというときに、です。
石狩川船行 190728-3
 職員さんが心配そうにエンジンを調べます。

 幸いにも回復して、乗りこむことができました。なぜ調子が悪くなり、どうして良くなったのかは存じませんが、とにかく船出できればよいのです。
石狩川船行 190728-4
 対岸に建つ煉瓦造の筒井倉庫を川面から眺められるとは、感慨深い(2015.10.1910.2010.21ブログ「江別 舟運盛んなりし頃」参照)。

2019/07/11

江別川沿いの軟石倉庫 ③

 uhb(8ch)「みんテレ」15:50-の「となりのレトロ」は、今月は特別に来週15日(月・祝)も放送されます。

https://uhb.jp/program/mintele/
 といっても、次回はこれまでの“総集編”です。総集編で一区切りかと思いきや、この先まだ続くらしい。月2回の放送は、終わったら息つく間もなくすぐ次が来ます。拙ブログで余禄を綴りたいと思っても、追いつきません。

 7月7日ブログで、江別川沿いの軟石倉庫について記しました。注目したのは、上部と下部で構造が異なることです。上部が木骨石造、下部が純石造という混構造で、私が知る限りでは2棟目でした。

 私が知るもう1棟は、この建物です。
旧遠藤醸造場
 中央区南4条東4丁目にあった旧遠藤醸造場。1階が純石造、2階が木骨石造でした。

 2015.8.38.4ブログでこの建物を取り上げ、越野武先生の記述を引いて混構造の理由に触れました。明治の大工棟梁が“カン”を働かせ、上層部を「軽く粘りのある構造」にした、ということです。7月7日ブログの末尾で問うた「下部を補強したのか、上部を補強したのか」の答えは、普通に考えれば後者でしょう。ただ、下部に分厚い石材を積み重ね、その上に木骨を組んで薄い石材を貼ってカスガイで留めるのは、例えて言えば“引き算”の補強という感を抱きます。

 実は2015.8.4ブログで引いた越野先生の文には、「湿気対策」という言葉もあります。「旧小樽新聞社」(北海道開拓の村)の例です。
旧小樽新聞社 外観
 越野先生の言及は次のとおりです(北海道新聞1991年1月9日夕刊コラム「魚眼図」「石造と木骨石造」から、引用太字)。
 旧小樽新聞社(現開拓の村)のように、基礎上の厚い壁石を三段ほどかさあげし、土台を据える例はいくつかある。この場合は足もとの湿気を嫌ったのであろう。しかし、遠藤醸造店のように一階分まるまる石造とするのは、湿気対策だけではなかろう。

 そこで、くだんの江別の倉庫に戻ります。
江別 旧岡田倉庫 江別川から
 江別川から(千歳川)眺めました。下層7段(黄色の線)が石造、上層9段(赤の線)が木骨石造です。

 私は、本件のほうは逆に湿気対策(というか防寒対策)もあったのではないかと想い巡らしました。本件は石狩川上流で収穫された穀物を集積した倉庫です。この倉庫が建てられた1897(明治30)年といえば、すでに小樽の運河沿いの倉庫で木骨石造が“標準的”だったと思います。本件の建築に当たっても、木骨石造をまず考えた。しかし、江別はそこそこ積雪量が多い。寒い。木骨で薄い石材を貼るだけでは心もとない。下層は多孔質で保温断熱性が高い軟石を分厚く積んだ。想像です。

2019/07/10

電柱クイズ

 この電柱の所在地はどこでしょう? 
電柱 商大幹
 ヒント。札幌近郊です。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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