札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/03

江別 北海道林木育種場 旧庁舎

 さわやかな秋晴れの下、江別の「北海道林木育種場(旧林業試験場) 旧庁舎」を見学してきました。
林木育種場 旧庁舎
 江別市郷土資料館主催の「再発見・江別探訪 バスでめぐる先史時代の遺跡」という行事に参加した一環です。

 といっても、この庁舎自体は先史遺跡と直接関係はないのですが、今回おもに江別市西部の遺跡を巡った行程上にあり、休憩を兼ねて立ち寄りました。登録有形文化財で、現在、江別市が管理しています。  

 いただいた江別市教委のリーフレットによると、建物は1927(昭和2)年の築です。1階は煉瓦造、2階は木造という混構造であることを初めて知りました。
 
 興味深いのは2階の外壁に化粧材が貼られていることです。
林木育種場 旧庁舎 ファサード
 今、私は「化粧材」と記しましたが、リーフレットには次のように説明されています(引用太字)。
 建築方法/ハーフテンバー(柱、梁、筋交等の軸組を全部組み立ててから、その間にセメントや石を詰め込んで壁をつくる建築法)を基調とした、当時としては斬新な洋風近代建築物です。

 ハーフテ(ィ)ンバー half timber というのは、ここに書かれているとおり、軸組すなわち構造材です。私は構造材ではなく、化粧材のように(つまりハーフティンバー、に)見えたのですが、さてどうでしょうか。
 いずれにせよ、林業試験場という出自のせいか、木材を生かしたのだなあという印象を受けました。正面玄関屋根の破風に貼ってあるのは、柾目の板のように見えます。

 ふだんは非公開という2階も、見せていただきました。
林木育種場旧庁舎 2階室内
 腰壁板や窓枠、鴨居の木材もまた、林業試験場ならではのふんだん感です。

 かと思うと、階段廻りは…
林木育種場旧庁舎 階段廻り
 親柱や手すりは、研出し人造石という技法でしょうか。

 手すりの端っこには…。
林木育種場 階段廻り 2階
 これも化粧材なのか、意味がよく判らないのですが、凝ってます。

 本件建物も含め、ガラス工芸館(旧石田宅)といい、旧町村牧場といい、旧岡田倉庫(ここは河川改修で危ういが)、旧ヒダ工場(エブリ)といい、江別市は歴史的建物の保存に積極的に取り組んでいるなあとあらためて思いました(札幌が積極的でない、というわけではありませんが)。
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2017/05/26

江別・角山の農場

 札幌から江別に行くバス路線、といっても国道12号ではなく275号の途上に、「農場前」という停留所があります。
角山 バス停 農場前
 場所は江別市角山です。

 ここに国営の農場があります。
角山農芸学園 
 バス停の名前は、この農場に由来すると思います。
 彼方にサイロが2棟、望めます。コンクリートかスチール製のようなのですが、視認できません。中に入って確かめたい気持ちを抱きつつ、断念しました。
 
 入口のフェンスに「関係者以外立入禁止 角山農芸学園」という看板が掲げられています。
角山農芸学園 関係者以外立入禁止
 画像でご覧のように、フェンスといっても、横から簡単に出入りできそうなユルさなのですが、ここは面白半分遊び半分というのは通じない場所です。「サイロの建材を調べる」というマジメな目的が半分であったとしても、アポなしでいきなり中へ入っていくのはためらわれます。一見ユルく見えますが、ここはいわゆる「塀の中」なのですから。
 札幌刑務所『施設のしおり』によると、「角山農芸学園」の敷地面積は1,202,103㎡です。刑務所本所の面積は272,851㎡で、その4倍以上に当たります。広い。
 地図を見ていただくと実感できるのですが、この「学園」は三方を川に囲まれています。豊平川、旧豊平川、厚別川です。一見ユルそうな空間に見えて、実は地形を生かした立地なのだなあと、妙なところで納得しました。

 さて、この「学園」で現在、作業に従事しているのは何人くらいだと思いますか? 2013年に行われた同刑務所の「施設見学会」でお聞きしたところでは、当時1,323名の収容人員中、「4、5名」とのことでした。少ない。
 ちなみに、1982(昭和57)年には収容者1,111名中「農耕」が14名、「牧畜」が12名でした(同年12月3日現在、同刑務所『要覧』)。「農耕」と「牧畜」の全員が「学園」で作業していたかどうかは判りませんが、たぶん大半がそうだったことでしょう。なんでこんな資料を私が持っているかというと、三十数年前にも「塀の中」を見学したことがあるからです。当時の定員は1,062名で、それを上回る人員を収容していたのですが、2013年にはさらに200名以上増えているのですね。しかし、「学園」での作業者は減っています。社会の縮図といえるのかもしれない。サイロも、使われていないのだろうなあ。 

2017/05/21

石狩の空知郡の牧場に立てる碑眺め若妻想う

 碑文の左側に、円柱形のオブジェ?が置かれています。
北村 啄木歌碑
 私はバターの缶をモチーフにしたのではないかと思ったのですが、どうでしょう。

 この地域の歴史を調べている人に話したら、「その説は初めて聞いた」と言われました。

2017/05/13

香蘭幹(承前)

 昨日の続きです。
江別市 現在図 文京台周辺
 江別市で「香蘭幹」の電柱が採集されたのは、地図中、赤い○で囲ったところの周辺です(地図は江別市発行「えべつタウンマップ」2015年から抜粋)。赤い○のところには「札幌学院大学第2キャンパス」と書かれています。かつて、ここに「札幌香蘭女子短期大学」がありました。
 『新江別市史 本編』2005年の「大学進出・明暗」の項に、次のように記されています(p.577、以下太字が引用箇所)。
 昭和四三(一九六八)年、この原始林を背にしたなだらかな丘陵地に二つの大学が相次いで開学する。札幌商科大学と札幌香蘭女子短期大学であるが、その後の足どりは対照的なものとなる。
(中略)
 一方、札幌香蘭女子短期大学は、現在の札幌学院大学第二グランドの用地に、英文科の単科大学として開学した。全国で三番目の音声分析装置や五四人分のLL(語学応答録音装置)、英文タイプライターを備えた語学研究所を完備し、ゆくゆくは貿易・仏文・国文の各科を併設する計画であった。ところが、「開学のための準備不足と経営の不手際」(四八年四月一八日北海道新聞)のため、たちまち経営難に陥り、四八年九月廃学となる。しかも校舎跡地が数度転売され、酒造メーカー等の手を経て住友不動産(株)の手に渡るという思いがけない方向へと展開した。(後略)
 
 香蘭女子短期大学は1968年に開学し、73年に廃学しました。「香蘭幹」は、5年間だけ咲いたあだ花の名残だったわけです。
 その跡地の現在です。
札幌学院大学総合体育施設
 門柱には「札幌学院大学総合体育施設」と書かれています。敷地の中に入って女子短大の痕跡を探りたい衝動に駆られましたが、そのような目的でうろうろするのはどうみても挙動不審です。やめました。

 外から、敷地内に立っている電柱を撮りました。
札幌学院大 第2キャンパス 電柱
 この電柱も「香蘭幹」です。敷地内に「香蘭」が遺っているとは、ここの学生には想いもよらないかもしれないなあ。

 せっかく来たので、敷地の周囲を巡ってみました。すると…。
札学院大 第2キャンパス サイロ
 円筒形の構造物が目に入りました(手前の電柱も「香蘭幹」)。

 近づいて見ると…。
札学院大 第2キャンパス サイロ 近景
 コンクリートブロックが破れ目地で積まれ、最上部のみ煉瓦が廻されています。しかもデンティル(歯状飾り、稲妻蛇腹)付き。これはサイロの遺構ではないか。大学の敷地内にもサイロが遺っている?
 
 江別市内のサイロについては「N43赤煉瓦塾」のⅠさんがあらかた調べつくしています。そこでⅠさんらが昨年まとめた研究報告(末注)を見ましたが、本件は採録されていないようです。すわ、新発見か。
 ちょうどⅠさんに会う機会がありましたので、訊いてみました。
 私「札幌学院大の第2キャンパスの中に、サイロらしきものがありますよね?」
 Ⅰさん「ああ、文京台のSさん宅の向かいらへんね。あれはサイロだね」
 私「やっぱりご存知でしたか。でも、去年まとめられた報告に載ってませんが…」
 Ⅰさん「いやいや、あれに載せたのがすべてではない。まだまだあるんだ」

 うーん。江別も奥が深い。

 注:「北国の風物詩サイロ 江別のサイロ事情」『北翔大学北方圏学術情報センター年報vol.8 2016』pp.139-153
 

2017/05/12

香蘭幹

 恒例の電柱銘鈑ネタです。お題は「香蘭幹」。
香蘭幹
 さて、クイズです。この電柱の所在地はどこでしょう?

 「香蘭」といえば、かつてその名前を冠した女子高が札幌にありました。現在の「札幌山の手高校」です。ということは、その高校の付近か。同校は西区山の手にあります。
 しかし本件は違います。種明かしの前に、まず山の手の電柱を見ておきましょう。 

 西区山の手にも、たしかに「香蘭幹」はあります。
山の手 香蘭幹
 こちらの画像は、札幌山の手高校の周辺で本年2月に撮ったものです。余談ながら、女子高当時「らんこう」と略して呼ばれていたのを私は聞いたことがありますが、あまりいい響きではなかったですね。そこへいくと「山の手高校」はハイソに聞こえます。
 
 私は山の手の「香蘭幹」を札幌建築鑑賞会スタッフSさんやNさんに教えてもらいました。「女子高当時の名前が、今でも電柱に遺っているんだ~」と感動したものです。しかしそれも今は昔。最近はプレッシャーを感じます。もはやこの程度ではブログのネタにはならんなあというプレッシャーです。札幌における電柱銘鈑の通人(略して電通)であるSさんNさんをはじめ、拙ブログの読者にはちょっとやそっとの物件では驚いてもらえまい。素直に感動していた日々が懐かしい。

 とはいえ、そういうプレッシャーが原動力にもなります。かくして、西区山の手から遠く離れたところで第二の「香蘭幹」を見つけました。褒めてやってください。
札幌市江別市 境界 厚別東 文京台
 場所は、江別市文京台です。
 画像に写る妙に幅広い道路で、札幌と江別の市界を分かちます。右方が札幌市厚別区厚別東、左方が江別市文京台です。「香蘭幹」は、左方の電柱に付いていました。

 なぜここに「香蘭幹」か。私は知りませんでした。かつてこの地に「札幌香蘭女子短期大学」があったことを。

2017/05/10

雲ゆく雲雀に延齢草の真白の花影さゆらぎて立つ

 最近まで現役だった古いサイロのかたわらに咲いていました。
オオバナノエンレイソウ
 石狩の空知郡の牧場にて百歳のとき往にしを想う

 本日ブログで、実はちょうど1,000本に達しました。
 2014年7月24日から2年と9月余り続けてきて、最近は1日当たり50-60名の方に見ていただけるようになりました(注)。ご覧いただいている皆様に感謝申し上げます。


 注:所属するブログ運営サービス(FC2ブログ)の管理画面にログインして得られたデータは以下のとおり。どこまで当てになるかブラックボックスだが、参考まで。
 登録しているジャンル:「学問・文化・芸術」
 ジャンルの母数:16,528-19,336(2017/5/3-5/9の7日間での最小値と最大値)
 ランキング:133-240位(同上、だいたい上位1%前後をうろちょろ)
 前にも記したように拙ブログを「学問・文化・芸術」というのは口幅ったいが、ほかに適当なジャンルがないのと、小ジャンルの「歴史」というのがこのジャンルに属するので、やむをえず。
 小ジャンル「歴史」の母数:873-1,034(同上)
 ランキング:29-41位(同上、だいたい上位3-4%) 「歴史」は競争が激しい。

2017/01/26

北炭団地③

 雇用促進住宅野幌宿舎の集会所です。
雇用促進住宅野幌宿舎 管理事務所
 建物の前に立つ看板に、団地内の配置図が載っています。

 だいぶん剥げかかっていますが、赤い○で囲ったところに…。
雇用促進住宅野幌宿舎 案内図
 「共同浴場」と書かれています。集会所の背後です。
 しかし、前掲画像でみるとおり、その場所は現在、空き地になっています。浴場は取り壊されたようです。と、思いきや、ここで会った入居者にうかがうと、浴場は別の場所に建て替えられていました。

 こちらが、その浴場です。
雇用促進住宅野幌宿舎 浴場
 共同浴場があるところが、雇用促進住宅ならではですね。かつての炭住街を彷彿させる。昨日のブログで引用した『新江別市史』の記述にあるとおり、1963(昭和38)年に道内で建てられた雇用促進住宅600戸のうち、520戸がこの野幌で占められています。ここにはある意味で、人がいなくなった旧産炭地以上に“ヤマの記憶”が凝縮していたといえるかもしれません。
 「凝縮していた」と過去形で叙述するのは、他の宿舎同様、この団地も入居者が激減しているからです。現在12棟計480戸(末注)のうち、入居しているのは100戸を切っているとお聞きしました。雇用促進住宅は、2021(平成33)年度には廃止されるとのことです。

 私は幼少期、3DKの社宅暮らしをしていたので、こういう団地を見ると自分史と重なり合って郷愁を感じてしまいます。父が三交代勤務のブルーカラーだったことから、炭住には既視感を覚えます。郷愁は過去を漂白します。しかし漂白しえない汚れも沁みついている。
 坑内員の仕事は命がけだったから、ヤマの記憶はなおのことキレイゴトではあるまい。最近、産業遺産やダークツーリズムが脚光を浴びつつありますが、「そっとしておいたほうがよかろう」という気持ちも私は相半ばします。札幌軟石もしかり、ですが。

 団地の一隅で見かけた電柱です。
野幌 事業団地幹
 北電柱NTT共架「事業団地幹」。雇用促進事業団という名称も過去のものとなりました。4年後には団地はどうなるのだろう。

注:もともとは13棟だったが、1棟解体されている(その跡地に共同浴場が建てられた)。一棟当たり40戸なので、12棟×40=480戸だが、独行法人「高齢・障害・求職者雇用支援機構」HPによると、野幌宿舎の運営戸数は240戸となっている。

2017/01/25

北炭団地②

 北炭団地の正式名称は「雇用促進住宅野幌宿舎」です。『新江別市史』2005年に、この住宅建設に関する経緯が記されています(p.558、原文ママ)。
 同住宅は、石炭産業の合理化により多くの炭鉱離職者が生れ、これらの人々の住宅確保に応えるものであった。国は雇用促進事業団の手で全国各地に当該住宅建設を計画、三八年度は全国で八千三○○戸、うち道内六○○戸(江別五二○戸)を建設することとした。その大半が江別に建設されるのは、離職者の再就職の場として期待される札幌市に隣接する立地条件によるものであった。
 野幌駅の南側、東野幌の一画、約七千坪の敷地に鉄筋コンクリート四階建のアパート十三棟(一棟四○戸)が建てられることになった。二千五○○人余の人口増とそれに対応する小学校の新設、中学校の増築など市の負担増が見込まれるものでもあった。


 炭鉱離職者向けの住宅が江別市なかんずく野幌に建てられることになったのは、札幌に隣接するという理由のほかに私は二つの事情があったと推測します。
 一つは、野幌が夕張鉄道の発着駅であったことです。合理化された炭鉱というのが北炭夕張だったと想定するならば、離職者にとって野幌はヤマと鉄路一本で結ばれていたことになります。親族や知人を夕張に残してきた人も多かったでしょう。野幌駅は、“ふるさとの訛りなつかし停車場”であったかもしれません。
 もう一つは、野幌自体が北炭ゆかりの土地であったことです。江別なかんずく野幌はこんにちまで連綿と続く煉瓦の生産地であり、全国有数を誇ります。その濫觴ともいえるのが、北炭(の前身たる北海道炭礦鉄道)です。北炭は明治30年代、野幌駅南側に煉瓦工場を設けました。これを北海道窯業㈱が受け継ぎ、(中断を挟み)昭和40年代まで生産が続けられます(末注)。同社も夕鉄同様、北炭の系列子会社です。
 野幌が炭鉱離職者の移住地になったことは、北炭の土地鑑と無関係には思えないのです。悪い妄想癖ですが。[つづく]

注:『新江別市史』pp.172-173、松下亘『野幌窯業史』1980年p.121、水野信太郎「江別市内における煉瓦産業120年間の変遷」『赤煉瓦アラカルト』2010年pp.36-39 参照

2017/01/24

北炭団地

 炭鉱排水からの連想で、かねて気になっていた場所が別にありました。
 夕鉄バスの「北炭団地」停です。
夕鉄バス「北炭団地」停
 江別市東野幌町にあります。運行本数は一日1便という、ハードルの高い路線です。

 北炭の名前が、かようにアカラサマに遺っているのは珍しい。さすが夕鉄バス。
 この停留所名を地図で見たとき、これこそ北炭によって造成された住宅団地が近くにあるのだろうと私は思っていました。が、どうもそうではなくて、近くには雇用促進住宅があります。
雇用促進住宅野幌宿舎
 バス停は、この団地に由来するらしい。
 団地内をウロウロしていたら、自治会の役員とおぼしき男性が集会所に来られたので、お尋ねしました。この団地は1963(昭和38)年に建てられたそうです。炭鉱が閉山になって離職した人たちの入居先として、その年の12月になんとか間に合ったとのこと。
 炭鉱離職者が移り住むための受け皿に雇用促進住宅が使われたことは、しばしば聞いたことがあります。それにしても「北炭」を冠するとは(末注)。[つづく]

注:近辺で戸建て住宅の団地を開発した可能性も捨てきれない。今後の宿題。
 

2016/12/18

母の戦時中の体験 防空壕

 戦時中に設けられた「防空壕」というと、どんなイメージを持つでしょうか?
 私は、おおむね人の背丈程度の高さあるいは深さのある空間を想い描いていました。傾斜地に横穴式に掘るにせよ、地面に竪穴式に掘るにせよ、それくらいはないと爆撃を受けたとき助からないのではないかと、漠然と思ってました。
 この認識は必ずしも正しくないことを知りました。母が「戦時中には防空壕を掘らされた」と言うので、訊いてみたのです。
 
 私「どこに掘ったの?」
 母「家の庭先」
 私「深さはどれくらいあったの?」
 母「人が腹ばいになって、やっと入れるくらい」
 私「え、そんな浅いの? そんなんで、爆撃されて助かるのかな?」
 母「私も当時、『アメリカの爆弾って、そんなケチなものなの?』と言った。(周囲の大人に)『そういうこと言ったらかん(=言ってはいけない)』と怒られた」

 母をたしなめたのは、実家によく来ていた兵隊さん(12月9日ブログ参照)かもしれません。テレビドラマとかなら「この、非国民!」と罵られるような場面ですが、母を注意した人は「ほかの人に知られたらまずい」と心配したようです。ハタチ前の小娘で、大目に見られたのでしょう。
 
 都市部では、本格的な地下室に近いものが設けられたのかもしれませんが(末注)、農村の、しかも各戸で掘っていたのは母が言うような簡易なものだったのでしょう。 
 ただし、「人が腹這いで入れる程度の深さ」だから「爆撃されたら助からない」というのは、早計のようです。爆撃からの距離によっては、爆風を一定程度避けることはできて、助かる命もあったかもしれません。逆に、人の背丈以上の深さの地下壕であっても、直撃されたら危うい。また、そういう地下壕に入っていたがために、火炎に包まれて黒こげになったという話も聴きます。

注:たとえば札幌の街中に設けられていた防空壕について、下記サイト参照。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_02/index.html

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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