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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/10/28

道立図書館に抱く既視感

 北海道立図書館(江別市)に行くつど、外観から既視感を抱いてきました。
北海道立図書館 全景
(画像は2018年7月撮影)

 特に、主棟?の分厚いコンクリートの屋根です。
道立図書館 主棟
(2018年2月撮影)

 ほかにも、煉瓦を貼った棟のフォルムとか、千鳥状の窓とか。
道立図書館 西側面
(2015年4月撮影)

 真駒内の屋外競技場のことで前川さんの図録を見ていて、既視感の由って来たるを想ってしまいました。
前川國男建築展 リーフレット

 あらためて道立図書館を眺むるに、低層階のセットバックも気になります。 
道立図書館 主棟 2
(2017年3月撮影)

 ホッケン研・札幌ノスタルジック散歩のYさんのご意見を伺いたいものです。
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2019/10/24

恵庭市島松沢 駅逓の記憶

 1873(明治6)年、「札幌本道」が開かれ、島松川の右岸に駅逓が置かれました。右岸の現在の地名は恵庭市島松沢です。
 左岸すなわち北広島市島松側の「旧島松駅逓所」の建物がどうしても目立ちますが、右岸の恵庭市側にも説明看板が立っていることに気づきました。うかつにも、島松の旧道を訪れること3度目にしてようやくです。ここに最初の駅逓が設けられたことが、しかと書かれています。 
 
 すぐそばに立つ小さめな郵便ポストです。
島松川右岸 郵便ポスト
 くだんの看板によると、1876(明治9)年、この地に「恵庭で初めての郵便局が設置され」たそうです。 

2019/10/23

中山久蔵はなぜ、島松で寒地稲作をなしえたのか。

 標題の疑問を抱くに至ったきっかけは、UHB「みんテレ」となりのレトロ島松編の収録のとき、担当ディレクターのOさんとのやりとりです。Oさんから「なぜ、島松だったのでしょうね?」と訊かれました。
 
 久蔵が島松に来る前に当初入ったのは、胆振国の勇払(苫小牧)です。北広島エコミュージアムセンター知新の駅での「中山久蔵翁没後100年展」を拝見するなどして知りました。そこは火山灰地で、稲作には向いていなかったと。彼は幕末、仙台藩士に随って白老に往き来していました(伊達藩は幕府から命じられた蝦夷地警備で白老に陣屋を置いた)。胆振には土地勘があったのかもしれません。稲作適地を求めて北上した結果が島松(川の右岸は、胆振国)だったのでしょうか。 

 色別標高図で、島松を広域で俯瞰します。
標高図 島松 広域 標高50m未満から50mごと7色
 標高50m未満から50mごと7色で造りました。赤いが島松沢です。
 支笏湖の東方は、4万年前のカルデラ大噴火による火砕流堆積のあと、恵庭岳や樽前山の噴火により火山灰が降り積もりました。千歳から苫小牧にかけては稲作には適していなかったとみられます。

 道央地域に住んでいて実感することの一つは、日本海側と太平洋側の気候風土の違いです。千歳市と苫小牧市の市界すなわち石狩管内と胆振管内の境界が分水嶺を分かっています(5月24日ブログ参照)。冬、札幌でドカ雪が積もっても、苫小牧は乾燥して晴れている。夏、札幌が30℃を超える真夏日でも、苫小牧は20℃そこそこで涼しい。夏あまり気温が上がらないのは、寒流(千島海流、親潮)のせい、というかおかげですかね。この冷涼気候も稲作には不向きだったのではないか、と私は想うのです。それで久蔵は札幌本道を北上した?

 分水嶺を越えて辿り着いた島松沢付近の色別標高図です(色分けは前掲図と同じ)。
標高図 島松周辺 標高50m未満から50mごと7色
 当時は石狩国と胆振国の国境でした。島松川が大きな谷を削っています。谷底平野で、水田を拓きやすかったようにも想えます。河川堆積物で、土壌も良かったか。先日「北海道開拓の村」で拝聴した「寒地稲作の祖・中山久蔵と赤毛」(北広島市エコミュージアムセンター古田学芸員)では『農業篤志中山久蔵事績』1894年を引いて、地形的な利点が紹介されていました。久蔵が水田を拓いた島松川左岸は北側に丘陵が屏立し、東南に向いているのが良かったそうです。たしかに、南斜面を作っています。

 …と、縷々記してきて、“自然決定論”めいた説明に自戒心が募ります。安易だな。地形図などを操ってそれらしく地誌を語って(騙って?)、判った気になってるのではないか。地形や地質で文化を読み解くと、“目からウロコ”感が弥増します。それだけに、私のようなシロートは陥穽にハマりがちです。

2019/10/21

双眼鏡を逆に覗いたのはイタかった

 UHB「みんテレ」となりのレトロ島松編、「島松での別離」(田中忠雄画、9月13日ブログ参照)の中山久蔵説はご愛嬌ということでお許しください。実は収録時、クラーク先生の馬上訓言“Boys, be ambitious!”に続きがあったというエピソードも話題に上がっていました。例の“like this old man”です。さらには‘this old man’=久蔵説を開陳し、そこから久蔵の寒地稲作へというストーリーです。この尾ひれはひれは、さしもの妄想家の私もさすがにためらい、勘弁してもらいました。
 オンエアで映された久蔵翁は後年の画像です。翁と呼ぶにふさわしいお顔ですが、彼が島松沢に入った1871(明治4)年、彼は44歳でした。翁の印象に刷り込まれないほうがいいかもしれません。ただし、明治初期という時代、44歳というのは老練の域にさしかかっていたとも想います(末注①)。1877(明治10)年にこの地で馬上訓言を発したクラークは50歳でした。その年齢で自らを‘old man’というか、との向きもあります(末注②)。クラークを見送った一人、札幌農学校一期生の佐藤昌介(のちの北大総長)はときに20歳。クラークも久蔵も‘old man’に見えただろうなと私は想います。

中山久蔵翁 北広島エコミュージアムセンター展示
 北広島市エコミュージアムセンター知新の駅に展示されている久蔵翁のお顔です。
中山久蔵翁 北広島エコミュージアムセンター展示 コラージュ一部
 北広島の歴史を伝える古写真でコラージュされています。

 注①:明治初期の日本人の平均寿命は40年に満たなかったという。乳幼児死亡率の高さが影響しているだろうから、これは単純に比べることはできない。むしろ次の数字が当時の老年観を想像させる。1873(明治6)年当時の日本人男性推計人口に占める45歳以上の割合は22.6%(岡崎陽一「明治大正期における日本人口とその動態」『人口問題研究』1986年p.15、表4に基づき産出)。2016(平成28)年推計人口に占める同上割合は51.3%(『平成30年 わが国の人口動態』p.56「年齢階級・男女別人口」から算出)。40歳代後半は今よりも稀少だった。
 注②:岩沢健蔵『北大歴史散歩』1986年、p.202、秋月俊幸氏

2019/10/20

くにざかいの深い谷

 島松のことを調べているうちに気になったことの一つに、「里程」があります。1873(明治6)年、札幌と函館の間に開かれた「札幌本道」に置かれた“マイルストーン”です。
 起点は札幌本府、現在の南1条通と創成川の交点(創成橋のたもと)に設けられました。
北海道里程元標 再建
 「北海道里程元標」が再建されています。ここから、おおむね1里(約4㎞)ごとに里程標が立てられました。
 
 その位置を、現在図に示します。
現在図 札幌本道 里程
 画像左上隅の黄色のが前掲「北海道里程元標」、いわばスタートラインです。ここから右下(南東)へ、画像のほぼ対角線上に国道36号が通じています。「札幌本道」が原型となりました。右下隅の赤いが島松沢です。その道沿いの一里標、二里標、三里標…があったとされる地点に①、②、③…と付けました。ちなみに③は、旧道に付けています。

 島松は「六里標」所在地に当たります。それは大正5年2万5千分の1地形図(今昔マップon the web)で確かめました。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=42.926863&lng=141.531981&zoom=16&dataset=sapporo&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2 
 気になったのは、島松は5里だったというおぼろげな記憶が私にはあったからです。その典拠をただちに思い出せないのですが、たまたまつい最近目にした文献にも、次のように記されていました(北広島市エコミュージアムセンター 知新の駅『北広島遺産ハンドブック 歴史遺産』2016年第3版p.29、引用太字、傍線は引用者)。
 四里塚 札幌本道と街道を偲ぶ地名
 国道36号沿いの大曲柏葉5丁目付近は「四里塚」とも呼ばれます。(中略) 二里塚は札幌ドームあたり、三里塚は平岡南公園あたり。三里塚から南東に進むと大曲に入り、やがて四里塚に至ります。(中略) 明治37年の古地図に「四里塚」という地名が記されていますが、今では町内会館の「四里塚会館」、「四里塚公園」という名称が残るだけとなりました。現在の島松地区あたりに五里塚があるはずですが、こちらは名称を残しているものはありません。


 やはり、島松を5里とみています。島松は、札幌本府から5里なのか、6里なのか。
 とりあえず、実際の距離を測ってみました。といっても、基にしたのは古地図ではなく、国道36号の旧道です。地理院サイトで1960年代の空中写真を開き、計測ツールを使いました。
空中写真 1960年代 旧国道36号 札幌本道 里程
 黄色の実線でなぞったのが旧道です。黄色のから赤いまで測ると、22.75㎞と出ました。

 冒頭に載せた「北海道道路元標」には、側面に「島松駅」までの距離が刻まれています。
北海道里程元標 再建 島松駅
 赤い傍線を引いたところに「島松驛 五里二拾七丁四拾五間」と。これをメートル法に換算(末注)すると、22.66㎞になります。旧国道を測った数字と近い。微妙な距離ですが、どちらかというと6里でしょうか。旧版地形図に「六号標」とあるので、間違いないとは思うのですが。厳密に6里≒23.56㎞の地点とせずそれより少し手前に標を立てたのは、この地に駅逓を置いたこととも重なる地形的な理由と察します。

 色別標高図で札幌本道の里程を顧みます。
色別標高図 標高20m未満から20mごと7色 札幌本道 里程
 国道36号を白ヌキ実線でなぞりました。
 島松沢はかなり深い谷を削っているなとあらためて想います。その谷底に駅逓が設けられました。クラーク博士が見送られ、明治天皇が行在したのも、むべなるかな。

 注:1里≒3927.27m、1丁≒109.09m、1間≒1.81m

2019/10/19

クラーク先生馬上訓言の地 再考

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)“となりのレトロ”の次回は、21日(月)オンエア予定です。

https://uhb.jp/program/mintele/
 今日たまたまお会いした「北海道開拓の村」の学芸員の方に「いつもビデオに撮って見てます」と言われました。だんだんボロが出て来そうで怖い。
 
 このたびは北広島市島松をお伝えします。島松は明治時代、駅逓が置かれたところです。クラーク博士が“Boys, be ambitious!”と発して学生らと別れた地としても知られます(9月5日ブログ参照)。正直に告白すると、私は最近まで「クラーク博士は島松駅逓で馬上訓言し、別離した」と思ってました(9月24日ブログ参照)。
 
 私に刷り込ませたのは、この風景です。
島松 旧駅逓所、クラーク記念碑
 「刷り込ませた」というと責任転嫁しているようで申し訳ありません。島松川の左岸(北広島市側)の風景です。左方に「旧島松駅逓所」の建物、右端にイオニア式円柱風の「青年よ大志を懐け」碑が建ちます。この二つがセットになって、「ああ、クラーク先生は島松駅逓で別れたのだなあ」と思わしめました。
 
 史実を以下、時系列で記します(末注①)。
 1871(明治4)年 中山久蔵が胆振国千歳郡島松村(島松川の右岸、現恵庭市島松沢)に入植
 1873(明治6)年 中山久蔵、石狩国札幌郡月寒村(島松川の左岸、現北広島市島松)に居を移す。同地で稲作に成功
 同年 島松村(右岸)に駅逓所設置
 1877(明治10)年 クラーク博士が島松で馬上訓言、学生らと別離
 1881(明治14)年 明治天皇北海道巡幸、中山宅(左岸)に行在(同宅に行在所が増築される)
 1884(明治17)年 中山久蔵、札幌県から駅逓取扱人を命じられ、同宅(左岸)が駅逓所となる
 1897(明治30)年 駅逓所廃止 

 要するに、クラークが島松の地を通った1877(明治10)年、前掲画像の建物(左岸)はまだ駅逓ではありませんでした。駅逓所は右岸にあったのです。付け加えると、画像に写る建物の右約3分の1は1881(明治14)年に行在所として建て増されたもので、クラークのときはありませんでした。左3分の2は中山久蔵の居宅、客間です。これは1873(明治6)年から1880(明治13)年にかけて建てられました。よって、クラークがこの地で一休みしたときは駅逓所ではなく、中山久蔵の居宅です。それは前掲画像の建物の原型というか一部でした(末注②)。

現在図 島松川 明治10年当時 中山久蔵宅 駅逓所
 9月24日ブログは無謀だったと思います。上記の史実の時系列を端折って、いきなり異説に向かってしまったからです。クラークの当時、駅逓所は右岸にありました。札幌から馬に乗ってきたクラーク一行が休憩したのは個人宅としての中山宅ではなく、駅逓所のほうが自然だったのではないか。異説の根拠をかいつまむとそういうことです。馬を休めるにも、駅逓所のほうが適っている。というか、そのために駅逓所は、ある。

 注①:北広島市発行リーフレット「国指定史跡 旧島松駅逓所」、北広島市エコミュージアムセンター知新の駅『北広島遺産ハンドブック 歴史遺産』2016年、pp.33-34
 注②:前掲画像の建物は「保存」なのか「復元」なのか。私は8月25日ブログで「修復・復元」と表現した。北海道近代建築研究会『道南・道央の建築探訪』2004年「旧島松駅逓」によると「現存の建物は、昭和59(1984)年の史跡指定を機に一部(主に初期の住居部分)復元し、平成2(1990)年、全面修復されたものである」(p.107)。一方、上掲北広島市リーフレットによれば「現在の建物は、明治14年(推定)の平面図をもとに昭和59年(1984年)から保存修理を行ない、完成したものです」。

2019/09/30

たとえばこれから北の大平原ですが、ところどころ小山が見えていますね。なにか変った点にお気がつきませんか?

 ピートモスを分けてもらいました。
ピートモス
 私はこれまで、園芸用の肥料くらいにしか思ってませんでした。

 正確にいうと、土壌改良剤ですね。ということを知ったのはつい最近です。しかも、これが泥炭を原料としていることも。泥炭を乾燥させたものですが、もともとの泥炭の密度は1㎤当たり1.0~1.05gで、水の密度とほとんど同じだそうです(末注①)。「土全体の体積に対して空隙の占める割合」(末注②)は90~95%。ここでいう空隙とは水と空気を指します。ずぶずぶですね。「乾燥させた」と記しましたが、ピートモスをジップロックに密閉させたら、水滴が付きます。
 札幌の北西部から南東部にかけて広がる泥炭地は、排水や客土を重ねて人びとのくらしやなりわいを可能にしました。いわば厄介者だったわけですが、その泥炭が保湿性という長所を生かして園芸に役立っている。改良されるべき客体としての土壌が、土壌を改良する主体に転化した。

 私はこれまで拙ブログも含めて、わかったようなふりをして札幌の土地の成り立ちを語ってきました。泥炭もその一つです。しかし、泥炭地は私自身の原風景にはありません。正直言って、泥炭の実物(を乾燥させたピートモス)をしげしげ鑑みるのも、生まれて初めてです。こういう実物を見るにつけて、北海道は異国だなあとあらためて思います(ここでいう異国は隠喩ですと念のため断らなければならないのは面倒くさいが、措く)。
 私が連想するのはコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』です。この小説の舞台となった英国のデヴォンシャー地方というのは、泥炭地ではなかろうか。ホームズ物の短編『白銀号事件』は、同じ地方のダートムアを舞台としています。地名としての綴りはDartmoorですが、私はdirt(泥)moor(湿地)だと一人合点していました。中学のときに読んだエミリー・ブロンテの『嵐が丘』も、今から思うと泥炭地か。荒涼たる原野に心惹かれたものです。私が北海道・札幌に吹き寄せられていったのはかような追体験によるのかもしれません。

 『バスカヴィル家の犬』では、登場人物の一人が沼地に通じています。ひとくちに沼地といっても、人が歩けるところとずぶずぶ沈んでしまうところがあるのです。知らずに後者に足を踏み入れると、命にかかわります。物語の舞台効果を高めるこのずぶずぶは、いわゆる「ヤチマナコ」ではなかろうか。この臨場感は、札幌に来てあらためて抱きました。
 ホームズ物を文化地質学的に読み解くのも、シャーロキアンの新たな醍醐味でしょう。いや、もう誰かがやっているか。

注①:『さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、p.222
注②:同上。

2019/09/27

愛知県南西部の海岸線

 昨日ブログで伊勢湾台風のことにちなみ、亡父が生まれ育った愛知県の蟹江町について記しました。「海抜ゼロメートル地帯」とよく聞かされたものです。

 そのあたりを古地図で見てみます。
尾張国図 海東郡
 「尾張国図」(復刻版)です。江戸時代末期といわれています。真ん中らへんに赤いを付けました。
 その部分を拡大します。
尾張国図 海東郡 源氏嶋
 「源氏嶋」と書かれています。木曽川支流のデルタ地帯の、文字どおり島です。

 現在図に照らします。
現在図 愛知県蟹江町
 赤いを付けたところを拡大します。
現在図 愛知県蟹江町源氏
 「源氏」とあります。現在の愛知県海部郡蟹江町の字名です。たぶん、かつての「源氏嶋」が字名「源氏」に引き継がれているのでしょう。この地名は源平合戦に由来するらしいのですが、措きます。
 
 前掲古地図の「源氏嶋」からすると、現在の「源氏」のあたりが往古、三角州の突端だったのかもしれません。古地図にもすでに、海岸に沿って「新田」とか「シン田」と多く見られるとおり、その後も干拓によって海辺が後退していったことでしょう。
 亡父の生家は赤いを付けたところですが、もともとはこの「源氏(嶋)」から移ってきました。本年5月15日ブログに記した造り酒屋当時の「源正」という屋号は、この字名にちなむようです。ということを十数年前に亡伯父から聞いたのですが、源氏(嶋)から移ったのがいつごろか、記憶がさだかではありません。伯父の口ぶりからすると、たぶん明治の古い時期だと思います。少なくとも江戸時代末期はまだ海だったようだし、干拓とともに移ったのかもしれません。
 とまれ古地図を見ると、海退しても高潮で水をかぶるのはむべなり、です。

2019/09/26

60年前の今日

 1959(昭和34)年9月26日、愛知県や三重県などで死者5,000名を超える大水害が起きました。伊勢湾台風です。その5年前の同日、北海道では青函連絡船が沈む大海難事故が、岩内では大火が起きました。洞爺丸台風です。昭和史に名を残す二つの台風が災厄をもたらしたのは、どちらも9月26日でした。迂闊にも、私がこれを知ったのは最近です。

 私の郷里を襲った伊勢湾台風は、子供のころ人びとの口の端に上っていました。亡父が育った生家も水に浸かったので、生々しかったのです。
 父の生家のあたりを空中写真で俯瞰します。
空中写真 愛知県蟹江町 現在
 赤いを付けました。白ヌキが名古屋城、同じくがJR名古屋駅です。

 亡父が生まれ育った愛知県海部(あま)郡蟹江町(本年5月15日ブログ参照)は、木曽川が作る沖積平野のデルタ地帯に当たります。現在の海岸線から見ると、直線距離にして約7㎞ほど内陸に位置しますが、60年前の台風では高潮が押し寄せました。赤いを付けた西側を日光川という木曽川の支流が流れており、付近はさらに小河川が網流しています。おそらくそれらを俎上したのでしょう。現在の空中写真で見ても河口が広く、どこが海岸線と言ってよいか私には判別しがたいのですが、当時は海がもっと内陸に迫っていたとも思います。伊勢湾台風をきっかけに、防潮堤なども整備されたことでしょう。

 色別標高図です。
色別標高図 愛知県蟹江町周辺 0m未満から1mごと7色
 標高0m未満から1mごと7色段彩で作りました。水色で塗られている一帯は、標高0m未満です。
 赤いを付けた亡父生家の位置の標高を測ったら、-0.9mでした。すぐ東側を流れる蟹江川というこれまた木曽川の支流は、水面の標高が1m。川の水面より地盤面が低い。天井川状態です。

 この標高図を見て、濃尾平野というのはかなり内陸まで標高が低いことを実感しました。直線距離で海岸線から20㎞以上離れた岐阜県の海津市というところでも、標高がマイナス、海水面以下です(市の名前が、いかにも地形を物語っている)。
 私が今住んでいる札幌市厚別区は、もっとも近い石狩湾の海岸まで直線距離で23㎞余りですが、標高は25mあります。海までずっと下り勾配の‘石狩低地帯’ですが、濃尾平野ほど低くはない。札幌の中心部の扇状地も低平に見えますが、豊平川が全国に名だたる急流河川であるとおり、かなりの高低差があります。私の原体験からすると、札幌は“坂の街”です。

2019/09/25

小樽の「なえぼ」

 小樽の「長橋なえぼ公園」です。
小樽 長橋なえぼ公園 看板
 手稲郷土史研究会主催のバスツアーで訪ねました(9月21日ブログ参照)。

 私はこの行事に参加するまで、ここの「なえぼ」が「苗圃」を呼び慣わしたものだとは知りませんでした。アイヌ語のナイ(川)ポ(「小さい」の接尾辞)に由来する札幌の「苗穂」(2014.12.23ブログ参照)とも、はっきりと区別できていなかったのです。長橋の苗圃(びょうほ)は、明治時代、旧北海道庁によって作られたと聞きました。当時の『小樽新聞』の記事で「なへぼ」とルビが振られたことにより、その読み方が定着してしまったそうです(末注①)。

 「以来七十五年間、お役人たちがいくらビョウホ、ナエハタと呼ばせようとしても小樽市民は、先祖代代ナエボという呼び方をついに改めなかった。そのうち、お役人の中にさえ、どっちがどっちだかわからなくなってしまった人もいたと見えて、苗圃を苗穂と誤記した古い図面が残っていたりするのは愉快である。明治十三年に札幌の苗穂に監獄ができて以来“苗穂送り”などという俗語がはやったことなども多少影響したのかもしれない」。(末注②)
 
 1997(平成9)年に小樽市の公園になってから、「なえぼ」と平仮名になったのでしょう。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2
 黄色の矢印を付けた先に注目しました。

 「中央バス苗圃通り」と、漢字で書かれています。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2 「中央バス苗圃通り」
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、「苗圃通」というバス停があると聞きました。小樽では苗圃がやはり「なえぼ」である証拠ですね。
 苗圃を「なえぼ」と読むのは‘湯桶読み’ですが、「田んぼ」という呼び方に「田ん圃」と当てる表記を見たことがあります。いま「たんぼ」と入力して変換したら、実際に「田圃」と出ました(末注③)。苗圃の「なえぼ」は苗穂もさることながら、「田圃」の「たんぼ」に引きずられた可能性もあります。

 ツアーに参加されていた別の方に「札幌の苗穂も、ビョウホだったんですか?」と訊かれ、私はしたり顔で「いえ、苗穂のほうはアイヌ語由来です」と答えました。かくいう私もわりと最近まで、苗畑に関係するのかなと思っていた口なのですが。Sさんによると、苗穂の語源として過去に苗圃説があったそうです(末注④)。
 前掲引用書の著者は林野庁の方で、苗圃について「私たち林業内部の人間はナエボとは呼ばない。昔は苗圃(ビョウホ)であり、戦後は少しやさしく苗畑(ナエハタ)というのが正式な呼び方である。一般の人たちも小樽以外では、ちゃんとビョウホ、ナエハタと呼んでくれている」(末注⑤)と記しています。「昔は苗圃(ビョウホ)」とのことですが、札幌市有林などではたしか今もビョウホが使われているようです。前掲引用では、小樽では苗圃が「なえぼ」と呼び慣わされることによって「苗穂」と誤記されることもあったらしいのですが、私はここで想像を膨らませました。札幌の苗穂=苗圃説は、小樽の苗圃=なえぼが‘逆輸入’されたのではないでしょうか。

 後志管内のとある町内、JR函館本線の踏切です。
JR函館本線 苗圃踏切
 「苗圃踏切」(画像は2016年9月撮影)。これは何と呼ばれているのかな。たぶん「びょうほ」だろうなあ。

 注①:渡辺惇『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』1977年、pp.1-2
 注②:同上p.2
 注③:手元の漢和辞典(学研『新版 漢字源』1999年)によると、「田」は音で「デン」、訓で「た」。「田圃」の読みは「デンポ」(p.893)。「たんぼ」の「田圃」も、湯桶読みということになろう。余談ながら訓の「た」は、弥生時代に稲作とともに大陸からきたであろう「デン」が訛ったのではないだろうか。ちなみに、私のパソコンで「でんぽ」と打って変換しても「田圃」は出てこない。
 注④:札幌鉄道局編『北海道駅名の起源』1947年の「苗穂駅」の項に「明治の初年、開拓使が有用樹の植林に著眼し、此の地に苗の栽培を試み之を苗圃と称したが、明治四十年村名を定むるに当って『苗穂』としたものである」。
 注⑤:前掲『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』p.1

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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