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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/09/30

たとえばこれから北の大平原ですが、ところどころ小山が見えていますね。なにか変った点にお気がつきませんか?

 ピートモスを分けてもらいました。
ピートモス
 私はこれまで、園芸用の肥料くらいにしか思ってませんでした。

 正確にいうと、土壌改良剤ですね。ということを知ったのはつい最近です。しかも、これが泥炭を原料としていることも。泥炭を乾燥させたものですが、もともとの泥炭の密度は1㎤当たり1.0~1.05gで、水の密度とほとんど同じだそうです(末注①)。「土全体の体積に対して空隙の占める割合」(末注②)は90~95%。ここでいう空隙とは水と空気を指します。ずぶずぶですね。「乾燥させた」と記しましたが、ピートモスをジップロックに密閉させたら、水滴が付きます。
 札幌の北西部から南東部にかけて広がる泥炭地は、排水や客土を重ねて人びとのくらしやなりわいを可能にしました。いわば厄介者だったわけですが、その泥炭が保湿性という長所を生かして園芸に役立っている。改良されるべき客体としての土壌が、土壌を改良する主体に転化した。

 私はこれまで拙ブログも含めて、わかったようなふりをして札幌の土地の成り立ちを語ってきました。泥炭もその一つです。しかし、泥炭地は私自身の原風景にはありません。正直言って、泥炭の実物(を乾燥させたピートモス)をしげしげ鑑みるのも、生まれて初めてです。こういう実物を見るにつけて、北海道は異国だなあとあらためて思います(ここでいう異国は隠喩ですと念のため断らなければならないのは面倒くさいが、措く)。
 私が連想するのはコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』です。この小説の舞台となった英国のデヴォンシャー地方というのは、泥炭地ではなかろうか。ホームズ物の短編『白銀号事件』は、同じ地方のダートムアを舞台としています。地名としての綴りはDartmoorですが、私はdirt(泥)moor(湿地)だと一人合点していました。中学のときに読んだエミリー・ブロンテの『嵐が丘』も、今から思うと泥炭地か。荒涼たる原野に心惹かれたものです。私が北海道・札幌に吹き寄せられていったのはかような追体験によるのかもしれません。

 『バスカヴィル家の犬』では、登場人物の一人が沼地に通じています。ひとくちに沼地といっても、人が歩けるところとずぶずぶ沈んでしまうところがあるのです。知らずに後者に足を踏み入れると、命にかかわります。物語の舞台効果を高めるこのずぶずぶは、いわゆる「ヤチマナコ」ではなかろうか。この臨場感は、札幌に来てあらためて抱きました。
 ホームズ物を文化地質学的に読み解くのも、シャーロキアンの新たな醍醐味でしょう。いや、もう誰かがやっているか。

注①:『さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、p.222
注②:同上。
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2019/09/27

愛知県南西部の海岸線

 昨日ブログで伊勢湾台風のことにちなみ、亡父が生まれ育った愛知県の蟹江町について記しました。「海抜ゼロメートル地帯」とよく聞かされたものです。

 そのあたりを古地図で見てみます。
尾張国図 海東郡
 「尾張国図」(復刻版)です。江戸時代末期といわれています。真ん中らへんに赤いを付けました。
 その部分を拡大します。
尾張国図 海東郡 源氏嶋
 「源氏嶋」と書かれています。木曽川支流のデルタ地帯の、文字どおり島です。

 現在図に照らします。
現在図 愛知県蟹江町
 赤いを付けたところを拡大します。
現在図 愛知県蟹江町源氏
 「源氏」とあります。現在の愛知県海部郡蟹江町の字名です。たぶん、かつての「源氏嶋」が字名「源氏」に引き継がれているのでしょう。この地名は源平合戦に由来するらしいのですが、措きます。
 
 前掲古地図の「源氏嶋」からすると、現在の「源氏」のあたりが往古、三角州の突端だったのかもしれません。古地図にもすでに、海岸に沿って「新田」とか「シン田」と多く見られるとおり、その後も干拓によって海辺が後退していったことでしょう。
 亡父の生家は赤いを付けたところですが、もともとはこの「源氏(嶋)」から移ってきました。本年5月15日ブログに記した造り酒屋当時の「源正」という屋号は、この字名にちなむようです。ということを十数年前に亡伯父から聞いたのですが、源氏(嶋)から移ったのがいつごろか、記憶がさだかではありません。伯父の口ぶりからすると、たぶん明治の古い時期だと思います。少なくとも江戸時代末期はまだ海だったようだし、干拓とともに移ったのかもしれません。
 とまれ古地図を見ると、海退しても高潮で水をかぶるのはむべなり、です。

2019/09/26

60年前の今日

 1959(昭和34)年9月26日、愛知県や三重県などで死者5,000名を超える大水害が起きました。伊勢湾台風です。その5年前の同日、北海道では青函連絡船が沈む大海難事故が、岩内では大火が起きました。洞爺丸台風です。昭和史に名を残す二つの台風が災厄をもたらしたのは、どちらも9月26日でした。迂闊にも、私がこれを知ったのは最近です。

 私の郷里を襲った伊勢湾台風は、子供のころ人びとの口の端に上っていました。亡父が育った生家も水に浸かったので、生々しかったのです。
 父の生家のあたりを空中写真で俯瞰します。
空中写真 愛知県蟹江町 現在
 赤いを付けました。白ヌキが名古屋城、同じくがJR名古屋駅です。

 亡父が生まれ育った愛知県海部(あま)郡蟹江町(本年5月15日ブログ参照)は、木曽川が作る沖積平野のデルタ地帯に当たります。現在の海岸線から見ると、直線距離にして約7㎞ほど内陸に位置しますが、60年前の台風では高潮が押し寄せました。赤いを付けた西側を日光川という木曽川の支流が流れており、付近はさらに小河川が網流しています。おそらくそれらを俎上したのでしょう。現在の空中写真で見ても河口が広く、どこが海岸線と言ってよいか私には判別しがたいのですが、当時は海がもっと内陸に迫っていたとも思います。伊勢湾台風をきっかけに、防潮堤なども整備されたことでしょう。

 色別標高図です。
色別標高図 愛知県蟹江町周辺 0m未満から1mごと7色
 標高0m未満から1mごと7色段彩で作りました。水色で塗られている一帯は、標高0m未満です。
 赤いを付けた亡父生家の位置の標高を測ったら、-0.9mでした。すぐ東側を流れる蟹江川というこれまた木曽川の支流は、水面の標高が1m。川の水面より地盤面が低い。天井川状態です。

 この標高図を見て、濃尾平野というのはかなり内陸まで標高が低いことを実感しました。直線距離で海岸線から20㎞以上離れた岐阜県の海津市というところでも、標高がマイナス、海水面以下です(市の名前が、いかにも地形を物語っている)。
 私が今住んでいる札幌市厚別区は、もっとも近い石狩湾の海岸まで直線距離で23㎞余りですが、標高は25mあります。海までずっと下り勾配の‘石狩低地帯’ですが、濃尾平野ほど低くはない。札幌の中心部の扇状地も低平に見えますが、豊平川が全国に名だたる急流河川であるとおり、かなりの高低差があります。私の原体験からすると、札幌は“坂の街”です。

2019/09/25

小樽の「なえぼ」

 小樽の「長橋なえぼ公園」です。
小樽 長橋なえぼ公園 看板
 手稲郷土史研究会主催のバスツアーで訪ねました(9月21日ブログ参照)。

 私はこの行事に参加するまで、ここの「なえぼ」が「苗圃」を呼び慣わしたものだとは知りませんでした。アイヌ語のナイ(川)ポ(「小さい」の接尾辞)に由来する札幌の「苗穂」(2014.12.23ブログ参照)とも、はっきりと区別できていなかったのです。長橋の苗圃(びょうほ)は、明治時代、旧北海道庁によって作られたと聞きました。当時の『小樽新聞』の記事で「なへぼ」とルビが振られたことにより、その読み方が定着してしまったそうです(末注①)。

 「以来七十五年間、お役人たちがいくらビョウホ、ナエハタと呼ばせようとしても小樽市民は、先祖代代ナエボという呼び方をついに改めなかった。そのうち、お役人の中にさえ、どっちがどっちだかわからなくなってしまった人もいたと見えて、苗圃を苗穂と誤記した古い図面が残っていたりするのは愉快である。明治十三年に札幌の苗穂に監獄ができて以来“苗穂送り”などという俗語がはやったことなども多少影響したのかもしれない」。(末注②)
 
 1997(平成9)年に小樽市の公園になってから、「なえぼ」と平仮名になったのでしょう。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2
 黄色の矢印を付けた先に注目しました。

 「中央バス苗圃通り」と、漢字で書かれています。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2 「中央バス苗圃通り」
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、「苗圃通」というバス停があると聞きました。小樽では苗圃がやはり「なえぼ」である証拠ですね。
 苗圃を「なえぼ」と読むのは‘湯桶読み’ですが、「田んぼ」という呼び方に「田ん圃」と当てる表記を見たことがあります。いま「たんぼ」と入力して変換したら、実際に「田圃」と出ました(末注③)。苗圃の「なえぼ」は苗穂もさることながら、「田圃」の「たんぼ」に引きずられた可能性もあります。

 ツアーに参加されていた別の方に「札幌の苗穂も、ビョウホだったんですか?」と訊かれ、私はしたり顔で「いえ、苗穂のほうはアイヌ語由来です」と答えました。かくいう私もわりと最近まで、苗畑に関係するのかなと思っていた口なのですが。Sさんによると、苗穂の語源として過去に苗圃説があったそうです(末注④)。
 前掲引用書の著者は林野庁の方で、苗圃について「私たち林業内部の人間はナエボとは呼ばない。昔は苗圃(ビョウホ)であり、戦後は少しやさしく苗畑(ナエハタ)というのが正式な呼び方である。一般の人たちも小樽以外では、ちゃんとビョウホ、ナエハタと呼んでくれている」(末注⑤)と記しています。「昔は苗圃(ビョウホ)」とのことですが、札幌市有林などではたしか今もビョウホが使われているようです。前掲引用では、小樽では苗圃が「なえぼ」と呼び慣わされることによって「苗穂」と誤記されることもあったらしいのですが、私はここで想像を膨らませました。札幌の苗穂=苗圃説は、小樽の苗圃=なえぼが‘逆輸入’されたのではないでしょうか。

 後志管内のとある町内、JR函館本線の踏切です。
JR函館本線 苗圃踏切
 「苗圃踏切」(画像は2016年9月撮影)。これは何と呼ばれているのかな。たぶん「びょうほ」だろうなあ。

 注①:渡辺惇『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』1977年、pp.1-2
 注②:同上p.2
 注③:手元の漢和辞典(学研『新版 漢字源』1999年)によると、「田」は音で「デン」、訓で「た」。「田圃」の読みは「デンポ」(p.893)。「たんぼ」の「田圃」も、湯桶読みということになろう。余談ながら訓の「た」は、弥生時代に稲作とともに大陸からきたであろう「デン」が訛ったのではないだろうか。ちなみに、私のパソコンで「でんぽ」と打って変換しても「田圃」は出てこない。
 注④:札幌鉄道局編『北海道駅名の起源』1947年の「苗穂駅」の項に「明治の初年、開拓使が有用樹の植林に著眼し、此の地に苗の栽培を試み之を苗圃と称したが、明治四十年村名を定むるに当って『苗穂』としたものである」。
 注⑤:前掲『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』p.1

2019/09/24

クラーク博士“Boys, be ambitious!”はどこで発せられたか?

 9月13日ブログの続きです。
 クラーク先生が発した“Boys, be ambitious!”のあとに続く‘like this old man’は、寒地稲作の功労者、中山久蔵を指すという説を聞きました。聞いた場所は、ほかならぬ久蔵翁が駅逓を営んだ島松の地です。史跡「旧島松駅逓所」の解説ガイドさんが語ってくださいました。ガイドさん曰く「これは私たちがそう言っているのではなくて、道庁赤れんが庁舎に飾ってある絵に描かれているのです」と。それで、9月13日ブログで、くだんの絵を紹介したしだいです。

 私は同日ブログを「私が言いたいのはかような次元を超えたところにあります」と結びました。「かような次元」とは、「‘this old man’=中山久蔵」説に対する疑義です。なぜ、その次元を超えてしまったか。まずは、そもそもクラーク先生の馬上別離の訓言自体が神話性を帯びているからです。ただし、私はそれを過去形でしか知りません。北大構内の胸像しかり、羊ケ丘展望台(2017.4.15ブログ参照)の全身像しかり、島松の地のモニュメント(9月5日ブログ参照)しかり、それらが出来上がった(=神話化に貢献した)のは昔のことです(末注)。
 しかるに今般のガイドさんの話には、神話が作られていく現在進行形を私は感じ取りました。ここで神話というのは、「‘this this old man’=中山久蔵」説を虚偽だとする意味ではありません。神話とは、ガイドさんの話が道庁赤れんが庁舎に架かっている絵=二次情報に基づいていることの隠喩です。もとより、だからケシカランということでもありません。私が伝えたかったのは、物語が紡がれていく過程を目の当たりにできたことへの、いわば感動です。

 北広島市のカントリーサインにも、クラーク博士とおぼしき人物像が描かれ、“Boys Be AMBITIOUS”と書かれています。
北広島市 カントリーサイン 厚別区青葉町所在
 うしろの信号機柱に付いている町名板に「青葉町16」と書かれているとおり、札幌市厚別区青葉町の国道274号で確認しました。札幌市を示す標識と北広島市を示す標識が同じ場所に立っていて、これはこれで私には「いいモノを見た」感が催されるのですが、それは措きます。クラークの絵柄が、訓言を発したという馬上ではなく羊ヶ丘展望台の立像をモチーフにしているところにもキッチュ感が伝わってきますが、それも措きます。
 私は最近、クラーク先生が“Boys, be ambitious!”の訓言を発したのは現在の北広島市ではないとする説を知りました。林嘉男『ふたつの駅逓』2007年です。サブタイトルに「クラーク博士は恵庭で叫んだ」とあります。クラークが1877(明治10)年に学生らと別れたのは、島松川の右岸、現在の恵庭市島松沢にあった駅逓だというのです。私はこれまで、左岸すなわち北広島市の「旧島松駅逓所」建物(8月25日ブログ参照)とその傍らの「青年よ大志を懐け」モニュメントに刷り込まれて、北広島市と信じて疑いませんでした。そうではないという。これだから、神話は面白い。

 注:近年、札幌の時計台(旧札幌農学校演武場)にもクラーク座像が置かれた(2017.10.15ブログ参照)。これは私もリアルタイムで体験できた。

2019/09/21

かわらぬものは古代文字

手稲郷土史研究会主催のバスツアーに参加し、小樽、余市に游んできました。
余市 シリパ岬 バス車窓から遠望
 バス車窓から遠望する余市のシリパ岬です。さわやかな秋晴れに恵まれ、海の青さ、空の青さが心地よく目に沁みました。

 余市で訪ねたのがフゴッペ洞窟です。
余市 フゴッペ洞窟
 上屋が掛かっている岩肌に、続縄文時代の刻画が遺されています。

 私はこの洞窟は未見でした。
フゴッペ洞窟 看板
 蘭島の海水浴場には昔行ったことがあり、また手宮洞窟のほうは近年何度か足を運びましたが、フゴッペ洞窟は初めてです。
 続縄文の洞窟刻画遺跡は国内でフゴッペと手宮の2箇所だけ(余市町発行のリーフレット)というのは、心をそそります。いや、続縄文は北海道だけなので、日本におけるこの時期の、というべきか。内地の弥生文化は竪穴住居が主だろうから、洞窟壁画はないか。

 すぐそばをJR函館本線が通っています。
函館本線 古代文字踏切
 「古代文字踏切」銘を確認できました。刻画の文字説が否定されていても、やっぱりここは「古代文字」でなくっちゃ。
 
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんに写真を撮ってもらいました。
函館本線 古代文字踏切-2
 「嬉しそうに写ってる」とSさんに呆れられつつ、大満足な私です。

 子どもの頃に流行った「小樽のひとよ」という歌の一節を思い出します。
 ♪二人で歩いた塩谷の浜辺 偲べば懐かし古代の文字よ♪
 今を去る四十年前の夏、蘭島の海岸を女の子と歩いて、満天の星空に感激しました。これはほろ苦い思い出です。
 鶴岡雅義の名曲の題には「小樽」と付きますが、ここでいう「古代の文字」は手宮ではなく、余市のフゴッペではなかろうか。ひとえに蘭島での個人的な体験を根拠に、歌われている「塩谷の浜辺」の雰囲気は、市町界をまたいでもフゴッペに結び付けたい。
 この歌が世に出たとき、手宮もフゴッペも「古代文字」説はもう有力ではなかったと思うのですが、「古代の岩絵」よりは「文字」なんだろうな。踏切銘で今もって健在のことだし。

2019/09/18

中村遊郭の立地考察

 名古屋市中村区、かつての遊廓のあたりを色別標高図で俯瞰します。
名古屋市 旧中村遊郭周辺 色別標高図 1m未満から1mごと7色
 標高1m未満から1mごと7色段彩で作りました。
 加筆は、旧遊郭の界隈を赤いのベタ塗り、白ヌキが名古屋城、同がJR名古屋駅です。中村遊郭は1923(大正12)年、名古屋駅から真西へ約1.4㎞のところに設けられました(2015.2.27ブログ参照)。標高はおおむね1.6mです。

 なぜ、ここに遊郭ができたか。正確にいうと、大須から移転したか。移転の理由ではなく、この場所が選ばれた理由です。 
 「今昔マップon the web」で、移転前の地形図を見てみます。 

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.173159&lng=136.865788&zoom=15&dataset=chukyo&age=1&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
 1920(大正9)年です。当時このあたりは名古屋市への合併前の近郊農村でした。愛知郡中村です。波線で□に囲われているところが遊廓の予定地なのでしょう。周囲は水田です。南側を電車の軌道が中村公園まで通じています。
 結論的にいうと、名古屋の中心部から近く、まとまって確保できる未開発の土地、しかも交通至便という条件がそろっていました。‘東高’の市街地では風致上問題があるし、そもそも近場にまとまった土地を確保できない。‘西低’の、しかも鉄路を境目とした‘駅裏’という立地は、異界性を醸したようにも想えます。白石遊郭における豊平川の向こう岸、橋を渡るという導入に通じる立地です。 

 ではなぜ、この一帯が開発されずに残っていたか。
 治水地形分類図を見ます。
治水地形分類図 名古屋市 旧中村遊郭周辺
 加筆は前掲色別標高図と同じく、遊郭の一帯を赤い■で塗りました。元図の色分けの凡例によると、このあたりの薄緑色は「低地」の「氾濫平野」です。また、ところどころのまだら状の黄色は同じく「低地」ですが「微高地(自然堤防)」です。遊廓は、微高地と微高地の間に位置しています。ひとくちに‘西低’といっても、微妙な高低差はあるようです。 

2019/09/17

大門 再訪

 昨日9月14日ブログに載せた名古屋一帯の標高図などを俯瞰すると、地元民にはわかりきった話ですが、‘東高西低’という地形が見えてきます。
 これで思い出したのが、ある銀行系シンクタンクの研究員のレポートです。前に電網上で読みました。名古屋市内の公立高校間において‘東西格差’があるという分析です。現在そのサイトが見つからないので正確な引用はできないのですが、地元名古屋大学の合格者数がおおまかに市東部の学校では多く、西部の学校では少ないことを根拠にしていました(末注①)。東西で明らかに差があるというのです。‘格差’の境目は、どうも熱田台地の縁(象の鼻筋)にあるらしい。物理的高低と心理的高低は相関するのか。
 筆者は、1970-80年代に実施されていた「学校群入試」(2018.5.23ブログ参照)が廃止されたことで、その傾向が一層強まっていると指摘する一方、このまま東高西低を放置するのではなく、格差是正の措置を講じるよう主張しています(末注②)。

 さて、先般の名古屋行では、私にとってなじみ深い‘西低’(あくまでも地形的に、です)の地域を逍遥しました。
名古屋 大門 アーチ
 中村区の「大門」(おおもん)です(2015.3.4ブログ参照)。

 かつての遊廓跡地に集合住宅が建っています。
中村遊郭跡 妓楼の遺構?
 大きな縁石は妓楼の遺構かしら。

 2015.2.27ブログに載せた1999(平成11)年撮影画像を再掲します。
旧稲本楼②
 元「稲本楼」。当時は料亭でした。
 前掲画像と較べると、旧稲本楼の右方に写る集合住宅が前掲の縁石の背後の建物ですね。つまり20年前の時点で、縁石の敷地に妓楼はすでになかったようです。

 このたび、旧稲本楼も姿を消していることを確認しました。
中村遊郭 稲本楼跡(左方)
 縁石のある集合住宅の左方に建っていたのですが、空き地になっています。
 
 1946(昭和21)年米軍撮影の空中写真で中村遊郭を俯瞰しました。
空中写真1946年米軍 中村遊郭 
 赤い□で囲ったところが稲本楼の位置です。縁石の集合住宅は東隣に当たります。ロの字平面からすると、やはり妓楼だったようです。それにしても、ものの見事にロの字平面ですね。魔界的気配が、上空にも立ち昇っています。
 周辺で白っぽく写っているところはどうも、建物跡地のように見えます。空襲の焼け跡か、疎開跡地か。

 注①:大ナゴヤ人元気会編『ニッポン不思議発見!名古屋の謎だぎゃあ』1992年、pp.48-50参照。私が地元にいた頃、愛知県では「名古屋大学至上主義」ともいうべき進学事情がはびこっていた。ブロック紙『中日新聞』は毎春、高校別の「名大合格者数」ベストテンを報じていたものだ。いま、「めいだい」と入力して変換したら「明大」と出たが、愛知県でメーダイといえば名大=名古屋大学である。おそらく現在もさほど変わらないだろう。
 注②:現在大学教授を務めている筆者のE氏は、学校群入試の体験者である。E氏が受験したのは東部の‘特上’校と西部の‘並’校を組み合わせた学校群で、合格先は後者(西部)の学校だった。卒業後名大法学部に進んだE氏は、自身の高校時代には満足しつつ、周囲には‘被害者’意識を苛む同級生がいたことを回想している。この心境は学校群入試を体験した者でないと実感できないかもしれない(本年6月10日ブログ参照)。くしくもというべきか私は、E氏と同じ学校群を受け、同じ学校を合格、卒業した‘先輩’に当たる。悪平等主義の権化ともいえるこの入試制度は結局廃止されたが、体験者にしてみると「オレたちは実験台だったのか」という怨みつらみは残る。ただし、同じ当事者だったE氏が制度を肯定的に総括し、地域格差の問題として改善策を前向きに指示しているのは傾聴に値する。

2019/09/16

名古屋 堀川に原河川はあったのか?

 9月14日ブログにコメントをいただきました。ありがとうございます。 
 >堀川は、名古屋台地の中腹部分にあり、人工的に作られた堀です。

 国土地理院サイトで「治水地形分類図」を見てみます。
治水地形分類図

 元図の色分け等の凡例は以下のとおりです。 
治水地形分類図 凡例
 これに以下、加筆しました。
 :名古屋城 :熱田神宮 :JR名古屋駅 :臨港線八島踏切
 :堀川

 象の鼻状に伸びている「段丘面」が熱田台地(名古屋台地)です。堀川はその西縁(象の鼻筋)の「段丘崖」を、名古屋城の北から南へ、熱田神宮の湊まで流れています。
 慶長十五年(一六一〇年)、徳川家康は諸大名に命じて名古屋城の建設に着手しました。清須にあった城を、名古屋台に移そうというのです。(中略) 
 堀川の開削は福島正則が責任者となり、築城と当時に始まりました。潮の干満を利用し、船で物資の運搬をしようという計画です。同時に都市排水の機能ももたせました。(名古屋市総務局『市制100周年記念誌 なごや100年』1989年、pp.186-188、末注)

 私は9月14日ブログで「堀川は人工的水路ですが」と記しつつ、末注に「地形的にみると、自然河川を改良した可能性もあろう」と付けました。これは、地形図を眺めての妄想の産物です。筆が滑りました。熱田台地の崖(象の鼻筋)は自然的小河川が削ったのではないかと想像の羽を伸ばしたのです。あるいは崖線湧水が流れていた。その原形に福島正則が手を加えて水路化した。ただし、それを裏付ける史料等にはまったく当たってません。 

 注:溝口常俊監修『名古屋地図さんぽ』2015年によると、徳川家康は「慶長14年正月、義直を伴って清須に来ると、各候補地を調査、那古野の地を決定した。(中略)築城はすぐ始まった」(p.12)。義直は家康の九男で、のちの名古屋城主にして尾張徳川家の藩祖。

2019/09/15

名古屋の碁盤割はなぜ、真北を向いていないか?

 昨日ブログで、名古屋城について「平時の平城」と記しました。平城ではあるのでしょうが、「平時」は正確ではなかったので訂正します。名古屋築城は慶長14(1609)年から慶長17、18(1612、1613)年にかけてでした(末注)。慶長19(1614)年の大坂冬の陣、元和元(1615)年の大坂夏の陣の前です。名古屋は対豊臣戦、西国をにらむいわば前線基地でした。平時は大坂が落城した「元和偃武」をもって到来したとみるべきです。名古屋城は「平時に至る平城」とします。名古屋の歴史への私の無知をさらけ出しました。

 もう一つ、無知を披露します。
 名古屋市の中心部の現在図です。
名古屋中心部 現在図 碁盤割 方位線 磁北線
 名古屋城を中心として、城下町の骨格が作られ、現在に生きています。骨格は、いわゆる「碁盤割」です。太平洋戦争の空襲で中心部は焼け野原となりますが、戦後の復興都市計画でも碁盤割はほぼ踏襲されます。

 そこで気になったのが、前掲図に見る碁盤割と方位線のずれです。碁盤割の主な道路を橙色、方位線(東西南北)を黄色、磁北線を赤の各実線でなぞりました(方位線と磁北線は国土地理院サイトに基づく)。このずれは、なんででしょうか? よく見ると(よく見なくても)、碁盤割の基軸になったであろう名古屋城の縄張り自体、正方位とずれています。お城が真南を向いていない。現在の磁北線よりは偏角が小さいようです。お城の縄張り当時(17世紀初頭)の磁北線はどうだったのでしょう。
 碁盤割が方位と合致していなければならぬというのは偏見かもしれないのですが、気になってしまいました。他の城下町や平城京や平安京、条里制の区画はどうなんでしょう。
 
 注:溝口常俊監修『名古屋地図さんぽ』2015年、p.12 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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