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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/17

南9条緑地の隅切り

 国道230号石山通の菊水・旭山公園通との交差点です。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望
 南東の角に「南9条緑地」があります。

 置かれているオブジェは山内壮夫の作だそうです。
南9条緑地 山内壮夫の彫刻
 「春風にうたう」1958年(末注①)。
 ということは、この緑地はそのころからあったと思われます。

 現在図で緑地の位置を示します。
現在図 南9条緑地
 所在地は中央区南9条西10丁目です。緑色でなぞりました。ほぼ矩形の平面です。

 オブジェが置かれて間もないころの空中写真を見ます。
空中写真 1961年 南9条緑地
 1961(昭和36)年撮影です。緑地にあたるところを黄色の矢印で示しました。

 その部分を拡大します。
空中写真 1961年 南9条緑地 拡大
 当時は台形状だったようです。現在の「ほぼ矩形」の対角線(北東-南西)上にナナメに道が通じているかに見えます。交差点に面する部分が隅切りされていて、これを上底とし、ナナメの道を下底とする台形です。台形の真ん中の白っぽい小さな円形は、オブジェが置かれた場所でしょうか。

 緑地の平面図です。
南9条緑地 平面図
 札幌市みどりの推進課サイト「札幌市公園検索システム」から採りました(末注②)。
 赤い矢印を付けた先がオブジェの位置です。前掲1961年空撮写真に写る台形の中の白い小さな円形とほぼ重なります。 

 のみならず、ほかの工作物の配置などから、かつての台形平面の痕跡が見えてきます。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望 ズームイン
 たとえば赤い列柱が連なるパーゴラ?のナナメ感。かつての台形の“下底”線を彷彿させます。

 札幌市地図情報サービスで、本件南9条緑地を見ると…(注③)。
札幌市地図情報サービス 都市計画道路 南9条緑地
 元の台形部分がまるごと都市計画道路になっています。台形の“下底”線がまるで道路の隅切りであるかのごとき線引きです。交差点の他の三箇所はいわば普通の隅切りなのに、都市計画上この緑地の角だけ破格に見えます。ちなみに、この交差点がわずかにクランクしているのはなぜでしょうね。謎は湧き出ますが、措きます。

 私がこの緑地の形状にかくもこだわるのは、8月15日ブログに記したとおり、ここにもまた疎開の痕跡すなわち札幌の戦跡のニオイを感じるからです。


 注①:『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、p.82
 注②:http://www2.wagamachi-guide.com/sapporo_koen/apps/list.asp?mode=2&ID=410002# ただし、このサイトに描かれている工作物等の配置と現況とは、必ずしも一致していない。
 注③:https://www.sonicweb-asp.jp/sapporo/map?pos=141.31500617333333,43.046373502106256&scale=5000#pos=141.34365873856464%2C43.048415434347525&scale=1875&layers=dm%2Cth_7&theme=th_29
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2019/08/15

74年前の今日

 昨年8月9日ブログで「石山通りの幅員減少現象 再考」を記しました。その日の北海道新聞夕刊に掲載されていた投稿記事を引用してのことです。投稿した女性は1945(昭和20)年8月15日、「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた」のを目撃していました。記事に「終戦をまだ知らなかったのだろう」と続けられていたことから、私は建物疎開だったのではないかと想像したのです。記事にはさらに、女性が「監視隊本部」に勤めていたとも書かれていました。私は同日ブログを「『監視隊』がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです」と結んでいます。

 実はその後、私はこの女性への連絡を試みました。どうやって試みたか。紙面には女性のお名前と年齢のほか、住所は区名までしか載っていません。新聞社に問い合わせることも考えましたが、先方の連絡先をすんなりと教えてもらうのはとりわけ昨今、ありえないことです。仲介の労を取ってくれるかどうかもわかりません。そこで、もっとも原始的な方法を選びました。電話帳を繰って同じ苗字の人をリストアップし、片端から電話をかける。

 その結果は…。
 幸いなことに、9人目でたどり着けました。見ず知らずの者にお答えくださったことをありがたく思います。女性が目にしたのはやはり建物疎開であり、それが現在の国道230号石山通のどのあたりかも、わかりました。

 1948(昭和23)年の空中写真(米軍撮影)で、あらためて石山通を俯瞰します(2017.4.4ブログ参照)。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲
 赤い実線でなぞった南北に通じる道路が石山通で、その北端、東西に伸びているのが大通公園です。南6条の交差点を黄色の○で囲みました。

 昨年8月9日ブログに記したように、石山通は現在、この交差点の南側で幅が狭まっています。私はこれを建物疎開の痕跡と推理しました。交差点の南東角を、疎開の“し残し”すなわち「1945年8月15日をもってタイムオーバー」とにらんだのです。さらにその南側は、「ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます」(2017.4.4ブログ記述)。

 さて、それでは前述の投稿女性が“証言”する「民家を取り壊していた」場所は、どこだったのでしょうか。
 お聴きしたのは「南8条、9条の西10丁目あたり」とのことです。現在のその区域を前掲画像に黄色の□で囲みました。
 そのあたりを拡大します。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲 南6~9条西10丁目あたり拡大
 ちょうど、「ところどころ空地が見られる」一帯と合致します。

 くだんの女性は当時、南8~9条の西11丁目にお住まいだったそうです。黄色で囲った付近の石山通をはさんで向かい側に当たります。壊していたのは「お風呂屋さん」だったといいます。信憑性が伝わってきました。ちなみに、石山通の南8、9条で東西に交差する道路は現在の「菊水・旭山公園通」で、この両側も疎開らしき形跡が窺われます。
 石山通を建物疎開していたこと、しかも1945年8月15日までやっていたこと、それがちょうど現在の幅員減少の少し南側だったことの“目撃証言”を得られました。これまで、ほぼ戦後の空中写真からの想像の域を出なかったのですが、南6条の幅員減少は疎開の痕跡との思いをいっそう強く抱いたしだいです。

 本日の道新朝刊でも、「終戦記念日にちなんだ投稿」を特集して掲載しています。「戦争体験者が減り、戦争を知らない世代が増えてい」る(同記事リード)こんにち、原体験者の“証言”は貴重です。嗚呼、一緒に暮らす私の母も、93歳の生き証人ではないか。

2019/07/23

宮部記念緑地

 拙ブログは昨日で満5年に達しました。2014年7月23日から昨日までの1826日間で、公開した数は1805本。お読みいただいている皆様に感謝申し上げます。これからも、“拙ブログならでは”の札幌時空逍遥を綴っていきたいと想います。

 7月21日の「古き建物を描く会」(同日ブログ参照)で訪ねた桑園博士町です。
宮部記念緑地 
 北6条西13丁目に「宮部記念緑地」があります。画像は本年5月に撮ったものです。まだあまり葉が付いていない樹形を見たかったので、その時期の写真を載せました。

 この緑地は1992(平成4)年につくられました(末注①)。ここにはもともと宮部金吾先生の住宅があったのですが、1989(平成元)年に解体されたことにより、跡地を札幌市が緑地としたのです。建物は宮部先生が亡くなった跡、北大の女子寮などに使われていました。私がそれを知ったのは、古い住宅地図です。先日の「描く会」に参加してくださったMさんから、友人がその寮に入っていたとの“証言”をお聞きし、裏付けが得られました。
 建てられたのは宮部先生が住み始めた大正期と思われます(末注②)。解体時は「宮部記念会館」という名前で北大の宿泊施設となっていましたが、築70年以上を経て老朽化して、北大も解体に踏み切ったのでしょう。

 解体される直前の旧宮部宅です。
旧宮部金吾宅 1989年
 1989年2月に撮りました。雪に埋もれているのは、解体間際だからでしょうか。

 現在の緑地は、「六十以上ある植栽はすべて敷地内にあったのを移植し」たといいます(末注③)。「桑園地区は昔の洋館が姿を消し、マンションなどが立ち並ぶ街に変わりつつある。せめて宮部さんが大切に育てた植物はそのまま残したかった」ためです(斉藤浩二さん、末注④)。
 冒頭の画像を、旧宅があった当時の写真と較べてみてどうでしょうか。「描く会」に参加したOさんが、右端の樹が同じだと“発見”しました。信号機の後ろの樹です。ほんとだ。あらためて新旧を並べてみると、樹高が伸びているようにみえます。30年の生長か。
 左端の樹も、枝振りが同じですね。「園内には、博士がこの地に住んでいたころの樹木や草類が、数多く残されてい」る(末注⑤)そうですが、これらの高木は宮部先生が植えたものだろうか。先生は1952(昭和27)年に亡くなっています。
 
 とまれ、古写真を載せて30年の時空を逍遥できたのも、“拙ブログならでは”と受け止めていただけると幸いです。

 注①:札幌市『さっぽろの公園・緑地ガイド 緑の中へ』第2版1999年、p.39
 注②:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」北大大学文書館年報第2号2007年によると、宮部先生がこの地に住み始めたのは1915(大正4)年。
 注③:北海道新聞1998年11月22日(日曜版)連載記事「北のデザインを聞く 宮部記念緑地」
 注④:同上、斉藤さんは緑地を設計したランドスケープデザイナーである。
 注⑤:札幌市「特色ある公園シリーズ3 都市緑地 宮部記念緑地」1993年

2019/07/21

描く会第65回、桑園を描きました。

 札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第65回を開催しました。描いた先は「桑園博士町」です。8名が参加しました。
桑園博士町 T先生旧宅 描く会第65回
 「描く」という営みで、判ることがあります。T先生の旧宅はこの30年来、何度も外観を拝見していますが、込み入った細部の造形に私は初めて気づきました。写真に撮る「だけ」なら(といっても、それはそれで奥が深いとは思います)、「絵になる構図」ですみます。画題とスケッチブックを交互に眺めながら、自分の浅はかさを思い知ったものです。

 写生を始めるに当たってT先生にご挨拶いただき、終わってからは作品をお披露目しておいとましました。ありがとうございました。

 お知らせを二つ。
uhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」、次回は7月22日(月)の放送予定です。→ https://uhb.jp/program/mintele/
 手稲区を歩きます。

「創成東地区まちあるき」が7月27日(土)に催されます。詳細は「さっぽろ下町まちしるべ」サイトの案内をご覧ください(要申込み、7月24日締切)。
 私はこの地区の歴史を学ぶお手伝いをします。先日、「まちあるき」の業務を受託するN社のKさんにお会いして、目的を伺いました。
 テーマは、私にとって実は「なんとまあ」という驚きなのですが、「東4丁目線」です。先のブログで記したように、現在この市道の変形交差点が懸案となっています(3月4日ブログ参照)。札幌市が今後の方向性を定めていく一環として、このたびの「まちあるき」が催されることになったのです(札幌市サイトの「創成東地区のまちづくり」ページ参照)。主催は市の都心まちづくり推進室」ですが、めぐりめぐって私にお手伝いの声がかかるとは、これも感慨深い。なぜ感慨深いかというと、この部所は「北1西1再開発」を担当されていたからです(2018.6.5ブログ参照)。因果は巡る糸車。
 東4丁目線が将来どのような姿になるにせよ、歴史を振り返っておくことは意味があると思います。お呼びがかかったのも何かの縁です。 

2019/07/14

みちのく銀行札幌支店

 中央区南2条にある銀行です。
みちのく銀行札幌支店
 本年2月に撮ったまま心の片隅で気になっていながら、半年近くたちました。

 下掲のように細部をトリミングすると、私が何を言わんか拙ブログ読者諸賢にはお察しの方もいらっしゃるでしょう。
みちのく銀行札幌支店 外観 雪国的造形?
 これはもしかして、“雪国的造形”かしら。

 前掲の建物が気になっていたのは、下掲の建物の外観にかたどられたモチーフが脳裏に遺っていたからです。
ホテルアカシヤ
 中央区南12条にあった「ホテルアカシヤ」(画像は『北のまれびと エゾライト・田上義也』1977年から)。1968(昭和43)年築で、現存していません(1997年頃解体)。

 一方こちらは、1969(昭和44)年に描かれたスケッチです。
支笏湖レジャーセンター(仮称) スケッチ
 支笏湖畔に構想された宿泊施設ですが、実現しませんでした。このスケッチは、施設を構想した方のご遺族が所蔵しているものです。
 右下に「A.D.1969.10 Y.Tanouye」とサインされ、「田」の字をあしらったハンコも押されています。載せておいて言うのも何ですが、このスケッチは作家の最近の作品展でお目にかかった記憶が私にはありません。お宝だと思います。

 細部を鑑みると、外壁にやはり同じようなモチーフが描かれています。
支笏湖レジャーセンター(仮称) スケッチ 雪国的造形
 うしろのナナメカットされたような突起物も気になりますが、措きます。

 冒頭画像は「みちのく銀行」の札幌支店です。同行は弘前相互銀行が前身です(末注①)。ところで、田上さんは1967(昭和42)年に「弘前相互銀行札幌支店」を設計しています(末注②)。ゼンリンの古い住宅地図を繰ったところ、冒頭画像の所在地に「弘前相互銀行札幌支店」とありました(末注③)。してみると、冒頭画像のモチーフはやはり、田上さんの雪国的造形だったのか。あるいはのちに建替えているのであれば、そのオマージュ? このモチーフが他に現存しているのも、私は記憶にありません。外壁ではなく、屋根に突き出ているのはあったと思いますが。「札幌ノスタルジック散歩」のYさんに確かめねば。
 ともあれ、2月の雪景色で写したのも、まんざらではなかったことになります。

 注①:みちのく銀行サイト「沿革」 https://www.michinokubank.co.jp/about/company/gaiyo/enkaku.html (2019.7.14閲覧)
 注②:角幸博ほか「建築家田上義也(1899-1991)の戦後の建築活動」日本建築学会大会講演梗概集1999年、及び前掲『北のまれびと』下巻 巻末年譜p.187。なお後書には「弘前銀行札幌支店」とあるが、「弘前相互銀行」の誤りであろう。
 注③:ゼンリン住宅地図「札幌 南部その1」1969年

2019/07/04

札幌に住んで四十余年、神輿渡御のときは歩道橋に昇れないことに初めて気づく

 先月のことですが、札幌まつりの神輿渡御を見てきました。
札幌まつり 神輿渡御 2019
 沿道で見るのは何十年ぶりです。いや、見ると言っては不心得か。鳳輦を拝し奉る? お迎え奉る?
 
 上掲のごとくデジカメを向けるほどに、いずれにせよ私は不心得です。このたびン十年ぶりに思い立ったのもわけがあります。「万灯(まんど)」のお囃子の音色を確かめたかったのです。そのわけはおって機会をあらためるとして、音色を集録すべくどこかいい場所はないかと思いめぐらしました。

 私の都合のいい時間は御還輦の間際だったのですが、思いついたのがこちらです。
円山小学校前の歩道橋 鳳輦 昇降できません。
 円山小学校前の歩道橋。

 ここなら行列を一望できるし、ちょうどいい。しかし無理だろうなという予感はありました。その程度のことは誰でも思いつくから、皆が歩道橋に殺到し、不測の事態が起きかねません。というより、恐れ多くも勿体なくも御祭神を跨ぎ、見下ろすなどとは不敬極まりない。ということでしょう。案の定、「御鳳輦が通ります。その時間は昇降できません」という表示とともに紐が張られていました。

 予感はしつつも一瞬ながらに歩道橋から神事を眺められるかもしれないと期待するほど、世事に疎いことを思い知りました。北海道マラソンのような観衆が集まる道路占用催事でも、歩道橋は渡れないのですかねえ。橋上から不心得なふるまいにランナーが遭う危険性もあるか。公式サイトのユーチューブを見たら、歩道橋に上がっている人もいるようですが。

2019/06/28

なにわ書房を惜しむ

 昨日だったか、妻から「なにわ書房が閉まった」と聞きました。「マルヤマクラス」に移ってからは足が遠のいてしまいましたが、同店にはくすみ書房ともどもお世話になりました(2017.8.30ブログ参照)。

 2000年に札幌建築鑑賞会で出した『さっぽろ再生建物案内』を店に置いてもらったときの風景です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ①
 自前でポップを用意するということを私は知らず、店のほうで作ってくれました。

 「グランドホテル前店」です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ②
 うしろの階段の脇に「なにわ書房」とあります(黄色の矢印)。

 レジの前にも平積みしてくれました。 
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ③
 応援してくださったことに、あらためて感謝します。
 
 これは日之出ビルの「リーブルなにわ」ですね。
リーブルなにわ 今週のベストテン 2003 さっぽろ再生建物案内
 取り扱ってもらった書店が限られていたし、廉価だったので、「今週のベストテン」1位にランクインさせてもらいました(画像は2003年の第2版のとき)。

 正直言うと、地場のものを慈しんでいた(今も)のは私よりも妻の方です。くすみ書房しかり、蠍座しかり。時計台の裏にあった北地蔵しかり。ひばりが丘の長部洋服店しかり(2017.11.6ブログ参照)。我が身を振り返ると忸怩たる思いであり、残念とか申し上げる資格は私にありません。懐古、回顧とともに、今自分が地場で何をしたいのか、何ができるのか見渡したい。

2019/06/26

往来が多い町なかのビルに置かれた自販機に鎮座する物件

 札幌の中心部にある商業ビルの地下1階です。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 
 階段室の一隅に飲料自販機が置かれています。

 自販機の上に、目が留まりました。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 接写
 唐獅子のような置物です。陶製でしょうか。なぜ、ここに置かれているのか、意味ありげです。隣のマグカップも気になります。こういうふうに置かれていると、何か神妙な気配です。
 このすぐそばには、古くからの喫茶店があります。かなり多くの人が行き来する階段です。場所は明示しませんが、見覚えがあっていわくをご存じの方がいらっしゃったらお教えください。

2019/06/01

旧永山武四郎邸に見た薩摩

 昨日ブログで私は、旧永山武四郎邸に関して「新たな刺激を得られた」と記しました。私が旧永山邸を知ったのは30年余り前です。以来、札幌市民の平均的頻度に比べれば、この建物に足を運んだ回数は多いほうだと思います。にもかかわらず、このたびまた新たな刺激を受けました。諸先達にとっては目新しいことではないのでしょうが、自らの目を肥やすことによって見えなかったものが見えてくるのかもしれません。
 昨日私が案内役を務めた「ちえりあ」の講座は全4回の3回目でした。私は事務局にお願いして、第1回と第2回を聴講させてもらいました。自分の話を組み立てる上で、講座全体の流れを踏まえたかったのです。初回に空知炭鉱遺産の話をお聴きしました。昨日ブログで述べた“炭鉱(ヤマ)の記憶”としての旧永山邸という意義を自覚できたのは、この話のおかげです。

 昨日の講座に先立つ数日前、あらためて現地を訪ねたことも役立ちました。この30年来「見えなかったもの」を見ることができたのです。

 まず、旧永山邸のほうから鑑みました。
旧永山武四郎邸 表座敷
旧永山武四郎邸 脇座敷
 上掲は表座敷、下掲は脇座敷です。

 次に、旧三菱鉱業寮の2階に上がりました。
旧三菱鉱業寮 和室A
旧三菱鉱業寮 和室C
旧三菱鉱業寮 図書室
 いずれも床の間付きの和室3部屋です。

 ここで私は初めて違いに気づきました。旧永山邸のほうの天井です。表座敷も脇座敷も、竿縁が“床ざし”に組まれています。
旧永山武四郎邸 表座敷 竿縁天井 床挿し
 とこざし 床挿し 天井の棹縁の方向が床の間に向っていること。近世中期以後は忌まれてきたが、近世初期まではしばしばみられる。(彰国社『建築大辞典』1976年)
 さおぶち 竿縁、棹縁 天助板の下板を支えるため、または化粧として、それと直角に30~40㎝ごとに並べた細い材。(後略)(同上)

 「近世中期以後は忌まれてきた」という床ざしの竿縁天井が、明治10年代の建築に見られるのです。一方、後掲3枚の旧三菱鉱業寮は昭和戦前期に建てられ、和室天井はやはり竿縁で押さえられています。しかし、竿縁は床の間に対して平行です。これは近世中期以降の流儀に適っている。

 旧永山邸座敷の床ざしのことは私が見えてなかっただけで、冒頭に記したように目新しいことではありません。これまでたびたび引用してきた越野武先生ほか「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年(高安正明『よみがえった「永山邸」』1990年所収)、武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年にそれぞれ言及されています。前者の記述は、内部意匠に関する詳細な描写の中で次のとおりです(太字、p.151、153)。
 (表座敷) 天井板にケヤキを使用した竿縁天井は、幅48㎜、成60㎜と木柄の大きい猿頬(さるぼう)竿縁を床ざしに走らせ、
 (脇座敷) 表座敷同様床ざしの竿縁天井は、マツとカツラ板を交互に張り混ぜ、

 後者も引用します(太字、pp.127-128)。
 永山邸の天井の竿縁は、床に向って付けられている。「床差し」形式である。床を差す、というので忌み嫌う人が多い。大名屋敷にあったという「切腹の間」の天井は、この形式である。そんなことに、こだわらぬ武人永山武四郎の豪放さがうかがえる。

 どちらの書も何度も手に取っているにもかかわらず、まさに「視れども見えず」でした。私がこのたび本件床ざしに気づいたのは、実はきっかけがあります。先月見たNHKの番組「ふるカフェ系 ハルさんの休日」です。いわばこれまでの総集編のような仕立てで、全国各地の再生古民家が紹介されていました。その中の一つが鹿児島県蒲生町というところの武家屋敷で、座敷の天井が床ざしだったのです。元は加治木島津家のお屋敷でした。加治木島津家は島津家の「御一門四家」(分家)の一つです(末注)。
 前掲二書には旧永山邸座敷の竿縁天井が床ざしであることには触れつつも、その理由までは至ってません(至りようがないのでしょう)。私は、薩摩の武家屋敷が床ざしであることに因縁を感じてしまいました。薩摩出身の永山は、自邸をあえて床ざしにしたのではなかろうか。
 放送では、床ざしの話題で加治木島津家のご当主が日本の南端にあることをお話しされていました。薩摩で床ざしがポピュラーなのか、私は不勉強にして知りません。あらためてくだんの地を訪ね、武家屋敷の天井を鑑みたいものです。なお、この番組は今月また、再放送されるようです。

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2019-06-15/10/23349/1973066/
 再放送といえば、昨年8月の「江別編」(2018.8.24ブログ参照)もまた、再々放送されるそうです。6月20日と聞きました。今年2月にも再放送されたし、こんなに何度もブラウン管に映る(古い)とは思わなかったなあ。

 注:西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63。村橋久成は加治木島津家の出であったという。

2019/05/31

札幌の“炭鉱の記憶”

 「ちえりあ学習ボランティア企画講座」の一環で開催された「北海道遺産の魅力を探る」で、旧永山武四郎邸を案内しました。 
旧永山武四郎邸 旧三菱鉱業寮 20190526
 この建物は「開拓使時代の洋風建築」の一つとして、北海道遺産に選ばれています。

 建築や文化財の専門家ではない私が解説するというのは気が引けたのですが、考え直しました。私が仰せつかったのは、その筋の専門家としてではなく、北海道遺産を生かす活動を続けてきた一市民という立場からなのだと。その立場で、この遺産を鑑みる“視点”をお伝えしました。建物の価値だけでなく、住んでいた人や関わった人、周囲の環境、風景、地域のことも視野に入れたつもりです。例によってマニアックな、というか偏った話をしてしまったことは棚に挙げつつ、こういう場を与えてもらったことを感謝します。何がありがたいかというと、私自身が新たな刺激を得られたことです。

 ① 開拓使時代の洋風建築として― 札幌の住宅文化の土壌となったのではないか
 ② “和洋折衷”建築の先駆けとして― 異文化を吸収咀嚼する模索、明治後期~昭和初期和洋折衷との比較の妙味
 ③ 薩摩人・永山武四郎の足跡として
 ④ “炭鉱(ヤマ)の記憶”として―日本の近代化を支えた北海道の炭鉱(鉱山)遺産の札幌における数少ない一つ
 ⑤ 土地の記憶として― 札幌の原風景を伝える(?)ハルニレ

 この建物のことは拙ブログで幾度か綴ってきました(2018.6.136.176.216.226.23ほか)。
 繰返しになりますが、史実を確認しておきます。現在、冒頭画像の向かって右側が旧永山邸(道指定有形文化財)、左側が旧三菱鉱業寮(近々、国登録文化財になる予定)です。前者は永山の自邸として1880(明治13)年頃に建てられ、永山の死後、1911(明治44)年に三菱合資が購入しました。後者は三菱時代の1927(昭和12)年に(永山邸の一部や付設棟を除却して)建てられたものです。以来1985(昭和60)年に札幌市が買い取るまで、どちらも三菱が所有してきました。三菱時代は前者が「旧館」、後者が「新館」でした(末注①)。
 教科書的な来歴をあらためて述べたのは、隣り合う二つの建物が現在は旧永山、旧三菱と言い分けられていますが、どちらも三菱が長らく使っていたことを強調したかったからです。旧永山邸は、永山自身が住んでいた年数より三菱の時代の方が格段に長い。
 その意味で、前述の④の視点=“炭鉱の記憶”として価値を見直したいと思いました(末注②)。想えば、三井、住友、北炭もそれぞれ札幌にこの種の社用施設を持っていましたが、いずれも現存していません(末注③)。

 注①:高(ハシゴダカ)安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年及び同書に転載された越野武北大助教授(当時)らからなる「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年ほかによる。
 注②:三菱は石炭だけでなく金属鉱石も採掘していたので、鉱山遺産というべきか。
 注③:現北海道知事公館も三井が所有していた時期があるが、知事公館になってからのほうがはるかに長い。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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