札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/24

古き建物を描く会 第61回を開催しました

 今回の画題はJR苗穂駅です。 
 朝方よりも昼過ぎにかけて冷え込み、体感温度は10℃台前半かとも思われる肌寒さの中、8名が参加しました。
 古き建物を描く会 第61回 苗穂駅
 苗穂駅は周辺の再開発事業に伴い、建替えられます(2014.12.26ブログ参照)。
 
 今年11月には役目を終える現駅舎を、ねぎらいも込めてスケッチしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅 作品
 終了後、駅待合室でお披露目会です。

 会員のSさんは、駅ホームから眺めた苗穂工場も作品にしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅ホームから苗穂工場
 この風景も5か月後には見納めです。

 この跨線橋も、ゆくゆくは撤去されるのでしょうか。
苗穂駅 跨線橋
 前にブログで記したように、本件には稀少な古レールが支柱に使われています(2014.12.28ブログ参照)。
 撤去されたら、古レールはどうなるんだろう。できれば、モニュメンタルな形で新駅舎に活かしてもらえると嬉しいのですが。

 約300m西方に建設中の新駅舎です。
JR苗穂駅 建設中新駅舎
 たしか1年前にはまだ橋脚くらいしかできてませんでした(2017.5.17ブログ参照)。もう駅舎本体が出来上がりつつあるようです。早い。

 現駅舎の古レールのことは、6年前に「苗穂駅周辺まちづくり協議会」事務局長のMさんに教えていただきました。そのMさんはもうおられません。一昨年「苗穂カフェ」に足を運んだとき、その一週間前に亡くなったとお聞きました。残念です。バリアフリー化されて北と南をつなぐ新駅舎の落成を心待ちにしておられたことでしょう。Mさんには2012年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になりました。新駅舎ができたら、現駅舎は「道の駅」のように活用できないかと話しておられたのを思い出します。もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。合掌。
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2018/06/23

20年前の旧永山邸・旧三菱鉱業寮

 6月13日ブログで私は「旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります」と記しました。
 その“わけ”を物語るのが、以下の写真です。

 1997(平成9)年3月、札幌の文化財をテーマにして、札幌建築鑑賞会で勉強会を催しました。
旧永山邸 1997329
 そのとき、会場に使わせてもらったのは旧永山邸です。拙ブログでたびたび引用させていただいている故武井時紀先生(2017.11.42018.6.16各ブログ参照)に講師を務めていただきました。

 旧三菱鉱業寮2階の和室でも、先生の講義を受けました。
旧三菱鉱業寮 1997329
 20年以上前の当時、この場所をこのように利用する例はありませんでした。正確にいうと、地元町内会の女性グループがお茶か生け花の会合に使ってはいたのですが、それはいわば例外だったのです。所管している札幌市の文化財課では、市民の会合等での供用をオオヤケに謳ってはいませんでした。

 1998(平成10)年5月、札幌建築鑑賞会のスタッフの会合を同じ部屋で開いたこともあります。
旧三菱鉱業寮 199805
 これも、文化財課にかけあって容認してもらったものです。

 市民が地元の文化財を訪れるというのは、あまりないのではないか。そう思ったのが、上記のことを試みたきっかけです。時計台や豊平館、清華亭などに足を運ぶことって、どれだけあったでしょう。最近の話ではありません。20年前です(末注)。観光名所になっている文化財は、逆に市民には疎遠かもしれません。
 旧永山邸は、文化財や観光地としての知名度は時計台や道庁赤れんがほど高くはありませんでした(おそらく、今も)。だから、いつ行っても閑散としていました。それはそれで、歴史的な風情を静かな雰囲気で味わえてよかったのですが、一方で「もったいないな」とも思ったのです。
 せっかく札幌市が税金を使って保存にこれ務めているオオヤケの施設です。「使ってこそ」の文化財ではなかろうか。古いモノは、「ただ」残っていればいいというものではあるまい。また、一見「ただ」残っているかに見えても、人知れないエネルギーが費やされていることもあります。
 文化財の場合、「使うこと」と「残すこと」は矛盾をきたすともいえます。使えば使うほど負荷がかかり、残すことに支障が生じる。そのバランスは必要です。旧三菱鉱業寮の場合、指定文化財ではありませんが事情は同じでしょう。
 このことを念頭に入れつつも、旧三菱鉱業寮の2階和室はほとんど空き部屋だったので、「もっと使われてもよかろうに」と私は思いました。来場者数が少なければ「税金を使って、残し続ける意味があるのか?」という声が起きても不思議ではありません。例えば建築上の価値があるとか、景観上の価値があるとか言っても、土地利用の経済的価値を引き合いにされるとどうか。いくら「カネに換えられない価値がある」といっても、なかなか議論にならない。そもそも、納税者の多くが「そんな建物、行ったことないな~」では、経済的価値至上論に敵いません。
 
 三菱鉱業寮の和室から、「もっと使ってもらってもいいですよ~」という声が私に聞こえてきました。
 まず足を運ぶ、知る、味わうことから始めよう。
 20年前、私は若かった。青かった。

 注:豊平館の場合、結婚式場に用いられていた。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 

2018/06/20

北1西1の記憶 ②

 北1条西1丁目の6年前の風景です。
北1西1 111004 市役所屋上から
 2011年10月、市役所の屋上から撮りました。この風景も、忘れ去られつつあります。

 同じ場所の現在です。
北1西1 180620  市役所屋上から
 「創成スクエア」が建っています。同じアングルでは、ビルのてっぺんまで収まりません。

 26階建て、超高層のオフィス棟です。
創世スクエア 180620 市役所屋上から
 建物が竣工式を迎えたそうですので、拙ブログでもそれを記念(?)して、この3年余を振り返っておきましょう。 
 
 2015.3.5
創世スクエア 150305
 2016.7.9
創世スクエア 160709
 2016.9.3
創世スクエア 160903
 2016.10.1
創世スクエア 161001
 2016.10.28
創世スクエア 161028
 2017.2.17
創世スクエア 170217
 2017.3.21
創世スクエア 170321
 2017.5.28
創世スクエア 170528
 2017.7.19
創世スクエア 170719
 2017.8.26
創世スクエア 170826
 2017.11.28
創世スクエア 171128
 2017.12.22
創世スクエア 171222
 2018.3.5
創世スクエア 180305
 2018.4.10
創世スクエア 180410
 2018.6.5
創世スクエア 180605
 テレビ局のマスコットキャラクターが鎮座しました。

創世スクエア HTB onちゃん

 実は今日、このビルに行ってきました。ビルの中に入るのは6月5日ブログ以来二度めですが、上階に上がったのは初めてです。オフィス棟にテナントとして入っている会社の人とお会いする用事がたまたまあり、「新しモノ見たさ」で足を運びました。 

 3年余にわたる前掲の定点画像を撮り続けたのも、この場所に思い入れがあったからです(2015.2.13ブログ参照)。変わりゆく風景を、せめて記憶と記録にとどめておきたいと思いました。私にできるのは、そのくらいです。
 
 このビルの竣工式のことはテレビでも報じられていましたが、さすがに例の物件(6月5日ブログ掲載)のことまでは触れられていなかったようです。今日会ったYさんは先月からこのビルでお勤めだそうですが、ご存じありませんでした。Yさんから「ここ、元は何がありましたっけ?」と尋ねられたので、私はここぞとばかり、本件モニュメントをご案内したのです。Yさんは「こんなモノがあったとは…」と驚いていました。
 ことほどさように、人の記憶は薄れゆきます。Yさんという一人のヒトの記憶を呼び覚ましただけでも、私としては本件モニュメントが遺されて良かったと思いました。「たった、あれだけ」の物件かもしれません。しかも、6月5日ブログに記したように、出来上がったモノに不満がないわけではない。
 本件にかかるこの数年の一連の経緯を顧みて思うに、それを遺してもらうだけでも相当なエネルギーを要します。あの場所は私の所有物ではないからです。他人の持ち物に口をはさむことだからです。厳密に言えばこのビルは再開発事業で建てられ、税金も投入されていますが、私が負担した税金額を割り返したら、微々たるものでしょう。

2018/06/17

旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮 保存の秘話

 「秘話」などと扇情的なタイトルを付けたわりに、本文が竜頭蛇尾になりますがお許しください。
 旧永山邸・旧三菱鉱業寮にまつわる物語は髙安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年に詳しくまとめられています。越野武先生(当時・北大)を中心とする建築の調査報告も転載され、本件建物を知るうえでもっとも役に立つ文献です。
 これに加えて、昨日ブログでも引用した武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年の記述を、私は推します。前者の文献に記されていないエピソードが幾つも盛り込まれています。前者は、永山武四郎をおもにして、昭和戦前期に三菱が洋館を建てたあたりまでの経緯が中心です。一方、後者は、その後の比較的最近に至る本件建物の歴史にも触れています。しかも、建物そのものというよりは、まつわる人々の営みが書かれています。後者にそのような記述があることはあまり知られていない(と思う)だけに、私は強調しておきたいのです。

 拙ブログではさらに、上記二つの文献にも載っていない“近過去”の記憶を、活字に遺しておきたいと思います。テーマは、旧永山邸及び旧三菱鉱業寮がいかにして保存されたか。
 
 北海道住宅供給公社が、30年ほど前に出したパンフレットです。
旧永山邸周辺再開発事業 パンフレット
 記載内容からして1987(昭和62)年の作成と思われます。

 「札幌圏都市計画事業 旧永山邸周辺地区第一種市街地再開発事業 新しい都市のアメニティ」という標題が付いています。描かれているのは、本件建物及び周辺公園と、その隣に建つ高層マンションの予想図です。本件建物の保存は、札幌市が都市計画事業の一環に位置付けられていました。1983(昭和58)年、本件建物及びその周辺の土地が都市公園(近隣公園)として都市計画決定され、1985(昭和60)年、札幌市が取得、整備したのです。それは市街地再開発事業(隣の高層マンション建設)との一連でした。それで、前掲パンフレットには建物と公園が住宅供給公社のマンションの借景庭園のように描かれたわけです。

 旧永山武四郎邸は1987(昭和62)年、北海道有形文化財に指定されました。札幌市内で文化財に指定された建造物の多くは、札幌市が所有しています。指定文化財の保存を担保することは、市による取得と密接不可分といえましょう。本件建物は、当時の所有者・三菱鉱業セメント株式会社が札幌市に寄付しました(末注①)。いくら耐用年数を過ぎた老朽家屋とはいえ、市に寄付されたことで文化財指定の道が開かれたと私は想います。三菱としては、社用施設を維持する必要性が減っていたのかもしれませんが。

 ここからは私の伝聞に基づきます。
 市は、三菱鉱業セメントとどのようにつながったのか。当時の市長・板垣武四氏のあずかるところが大きかったらしい。なんとなれば氏は、札幌市に奉職する前、三菱電機の社員でした(末注②)。市長就任後も、三菱に人脈があったようです。三菱鉱業セメントの社長、会長を歴任した大槻文平氏は、東京帝国大学法学部の先輩に当たります。板垣さんも、「三菱」には思い入れがあった。
 札幌市と同社の当時のやりとりを伝える公文書には当たっていませんが、おそらくこのようなことは活字に遺っていないでしょうね。

注①:旧三菱鉱業寮の展示パネルによる。
注②:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.39

2018/06/16

旧三菱鉱業寮に置かれた母子像

 先日の旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮の内覧会で、ひときわ目を惹いた逸品です。
旧三菱鉱業寮 母子像
 旧三菱鉱業寮の1階、玄関を入ってすぐの部屋に鎮座していました。

 作品名や作者名、由来などの説明は何もありません。 
旧三菱鉱業寮 母子像②
 その“無言”なたたずまいが、昭和戦前期の洋館の一室に特異な存在感を醸していたのです。あに、場違いと言うなかれ。

 本件建物の指定管理者となったN社の担当Gさんに、思わず私は「やあ、いいですね、コレ」と言ってしまいました。Gさんは苦笑いして曰く「私たちは、ここに置くのは反対したんですけどねえ」と。
 実は私は、本件彫像にタカを括っていました。「どこぞの誰かが、持て余したモノを札幌市に寄贈と称して押し付けたんだろうなあ」くらいに疎んじていたのです。というのは、だいぶ前、本件建物の一室が市の文化財課の物置で使われていて、その種の“ありがた迷惑”物件の収蔵場所になっていたからです(末注①)。

 内覧会のとき、やはり参加者からは「なんだ、コレは?」と話題になりました。案内してくださった角幸博先生(北大名誉教授、NPO法人「れきけん」理事長)によると、「日展会員の作品らしいが、詳しいことはよく判らない。もともとは玄関ホールに置かれていたので、なんらかの意味があったと思う。今後の調査が期待される」とのことでした。「炭鉱当時の(事故犠牲者の)慰霊のモニュメントかもしれない」とも。
 仔細は不明なるもスポットライトを浴びて、私は何がしかの霊気を感じました。化粧直しされて展示物なども一新された本件建物に、キッチュな、もとい、突然変異的な、いや人智の巧まざる効果をもたらしています。

 自慢するわけではありませんが、私は本件彫像を、建物の改修前にも脳裏に刻んでいました。
旧三菱鉱業寮 改修前 母子像
 2015年10月、まだ玄関ホールに置かれていたときに撮ったものです。何の自慢にもなりませんね。

 ただ、台座に貼られていた作者名も、画像に収めていました。
旧三菱鉱業寮 母子像 作者
 たぶん背後に回って、壁との隙間から撮ったのだと思います。現在は壁にぴったりくっつけて置かれているので、これを確認するのは難しいでしょう。これはちょっと自慢できるかも。

 ピンボケしていますが、「製作者 山畑 阿利一 製作年他詳細不明」と読めます(作者名には「やまはた ありいち」とルビ-末注②)。
 さらに、武井時紀先生(元札幌市文化財保護指導員)の著書で、次のような記述を見つけました(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.131 末注③)。
 永山邸が創建時のまま、現在まで残ることができたのは、三菱の力によるところが大きい。(中略)
 いま、当時をしのぶものは、新館(引用者注:旧三菱鉱業寮のこと)階段下にある彫刻(昭和三十九年、芦別から移した)と二階廊下の片隅に掲げられた三菱鉱業のポスター一枚があるだけである。三菱鉱業は昭和二十七年、三菱金属、さらに平成二年、三菱マテリアルと社名を変更し、平成二年三月、三菱大夕張鉱業所を閉山し、本道の石炭鉱業から全く手を引いた。永山邸を建てたのは永山武四郎である。しかしその後の保存に力を尽したのは三菱である。

 本件彫像は三菱鉱業(三菱金属)当時からのものだったのです。しかも「昭和三十九年、芦別から移した」という芦別には、三菱の芦別鉱業所がありました。同鉱業所は1964(昭和39)年に閉山しています(末注④)。閉山の際に札幌に持ってきたということでしょうか。三菱芦別を知る人に訊いたら、判るかもしれません。といっても、50年以上前だからなあ。

 とまれ角先生が推測する「慰霊」像という線が、現実味を帯びてきました。私の“ありがた迷惑”物件説は浅薄でした。

 注①:札幌市文化財課の名誉のために申し添えれば、“ありがた迷惑”云々は私の独自の解釈である。
 注②:山畑阿利一については右記サイト参照 → http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9949.html
 注③:2017.11.4ブログ参照。武井先生の遺した記述の貴重をあらためて感じる。 
 注④:北海道芦別市サイト → http://www.city.ashibetsu.hokkaido.jp/kikaku/kikaku/enkaku.html 

2018/06/13

札幌で永山武四郎ゆかりの地を拝む

 改修のため2年余り休館していた「旧永山武四郎邸」(道指定有形文化財)を、6月23日の一般公開に先立って見に行ってきました。
旧永山邸・旧三菱鉱業寮 全景
 地元住民、観光ボランティアガイド、関係者を対象とした内覧会に参加させてもらったものです。

 2016年以来の改修では、特に併設の「旧三菱鉱業寮」の整備に力点が置かれました。
旧三菱鉱業寮 外観
 三菱合資会社によって1937(昭和12)年頃に建てられた洋館です。永山が1904(明治37)年に亡くなった後、邸宅敷地を同社が明治末期に買収し、事務所や寮が設けられました。 

 下見板貼りは新たにペンキが塗られ、お化粧直しされています。下見板やスティック(妻破風の化粧材-末注①)はペパーミントグリーンといった色合いですが、改修前とは異なっています。前は、下見板は白、スティックはこげ茶色でしたね。たぶん‘こすり出し’をして、創建時の色に戻したのでしょう。

 旧三菱鉱業寮の中で、私がもっとも好きな空間です。
旧三菱鉱業寮 2階 階段室 
 2階の階段室。これを階段室といってよいのか判りませんし(末注②)、階段室という表現では言い尽くせない贅沢さが漂います。贅沢というのは、「金に飽かした」というのとは異なる精神的(?)豊かさでしょうか。もっとも、パブリックスペースにこれだけゆとりを持たせるのは、資力がないとなかなかできないことだとは思いますが。
 改修前は閉じられていた左側の丸窓の納戸部屋は、このたび開放されました。ミニギャラリースペースとして活用できるそうです。窓の外の木々の緑が映えますね。

 旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります。とりわけ永山武四郎については先般鹿児島で生誕地を拝んできたことでもあり、感慨も弥増しているところです(6月1日2日3日各ブログ参照)。拙ブログでは一般にあまり知られていないトリビアルな挿話をできるだけ綴っていきたいと思います。まあ、旧永山邸とか旧三菱鉱業寮自体、まだマニア好みかもしれませんが。

 本件建物の公開については公式サイト https://sapporoshi-nagayamatei.jp/ をご参照ください。

 注①:これはハーフティンバーなのだろうか。
 注②:リーフレットによると、この空間は「ホール」

2018/06/05

北1西1の記憶

 「さっぽろ創世スクエア」です。
さっぽろ創世スクエア 北側(上)
さっぽろ創世スクエア 北側(下)
 5月31日に竣工したそうなので、見てきました。
 超高層なので、カメラのレンズを横長にしたら建物が収まりきれません。

 同じ場所の2003年の風景です。
旧北海道ホルスタイン会館 王子サーモン 2003年
 私の目当ては、かつてあったこの建物の痕跡をたどることでした。
 2015年2月13日ブログで記したとおり、新しくできる建物の片隅に‘土地と建物の記憶’を遺してもらうことをお願いしてあったからです。このたび、その物件を拝見してきました。

 物件は、北側の入口を入ったところにあります。
さっぽろ創世スクエア 北側の入口
 北側にはオフィス棟があり、すでに一部開業していますので、入ることができます。

 あらかじめ再開発事業JVの担当者の方に確認の上、伺いました。
旧北海道ホルスタイン会館 土地と建物の記憶
 物件はすでにできあがっていました。

 かつてこの地にあった建物に用いられた煉瓦が壁に貼られ、由来について説明されています。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」のレンガ
 説明は以下のとおりです。

この場所には「旧王子サーモン館」と呼ばれる建築物が立地していました。
「旧王子サーモン館」は、終戦から4年後の昭和24年、「北海道ホルスタイン会館」として建てられました。
札幌における戦後初の耐火構造による2階建の事務所建築で、外観は全面レンガ積(アメリカ積)と切妻屋根が特徴的でした。
窓台や玄関ポーチには札幌軟石が用いられ、外壁のレンガは通常の赤レンガではなく、窯変色のものが使用されていました。
上のレリーフは、「旧王子サーモン館」の面影をいまに伝えるため、建築物に使われていたレンガを用いて制作しました。


 建物の意義や特徴についてはもっともっと書いてほしいことがありましたが、たくさん書けばいいというものでもありません。また、本件「レリーフ」では、煉瓦が実際に積まれ方(説明文でいうところのアメリカ積ではなく、小端空間積み(2017.5.30ブログ参照)のように表現されています。これだけ一見するとこのように積まれていたかに受け取られる可能性もありますので、はばかりながら拙ブログでは補足しておきましょう。

 実際の積まれ方は、こうでした(2012年建物解体時に撮影)。
王子サーモン館 外壁煉瓦 2012年
 ほとんど長手面(煉瓦の細長い面)ばかりオモテに出して積まれていました。一般に「アメリカ積み」というのは、「れんがの長手面を5~7段続けて、小口面の列を混ぜ」る(末注)積み方ですが。本件を見ると5~7段どころかほとんど長手面ばかりのようでもあります。

 しかるに、「レリーフ」ではなぜ違う積み方をしたかを察するならば、煉瓦の平(ひら)面(=直方体でもっとも面積の大きい面)を見せたかったのでしょう。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」の煉瓦 刻印
 平面には「2」という刻印が確認できます(2016年2月8日ブログ参照)。

 本件は、2012年に建物が解体された際、文字どおり瓦礫となった煉瓦を札幌建築鑑賞会が貰い受け、再開発の事業者にお願いして実現したものです。それがなければ、煉瓦はすべて産業廃棄物となっていました。厳寒の2月、解体工事現場で手がかじかみながら煉瓦を選り分けたことを懐かしく思い出します。
 
 この経緯は前掲の説明文には記されていませんし、喧伝することでもないのですが、せめて鑑賞会の通信では記録に留めておきたいと思います。先だって拙ブログで触れさせていただいたしだいです。前述のこぼれ話も、おそらく「さっぽろ創世スクエア」の公式媒体等で大々的に取り上げられることはないでしょうから、拙ブログ読者のお楽しみとして味わってください。記憶に薄れゆく風景をとどめるのも、あえていえば拙ブログの存在価値だと思っています。

 とまれ、再開発事業JVの担当者の方には、6年ぶりに記憶を蘇らせていただき感謝いたします。煉瓦の引き取り作業に従事してくださったNyさん、Tさん、Shさん、及び長い間保管してくださったⅠさん、Sjさん、Naさん、どうもありがとうございました。

 本件の位置は下図をご参照ください。
さっぽろ創世スクエア 1階平面図 レリーフ位置
 北2条通り側の入口のエレベーターの前です(赤い印を付けたところ)。

注:江別市教育委員会『江別のれんがを歩く』2008年、p.152による。

2018/05/02

再々生・旧小熊邸

 昨年(2017年)11月に閉店した「ろいず珈琲館 旧小熊邸」の建物が先月、釣具店に再生しました。
旧小熊邸 ドリーバーデン
 「ドリーバーデン」という店です。

 ろいず珈琲館は1998(平成10)年9月に開店し、19年にわたって続けられてきました。長いこと、ありがとうございました。
 新しい店は室内に商品が並んでいて、「ろいず」当時とは雰囲気が変わりましたが、1階の一隅と2階に喫茶のスペースもあります。

 2階です。
旧小熊邸 2階
 この建物は、2階は一部屋しかありません。
 設計した田上さんの図面にはatticと書かれていました。屋根裏部屋。ある意味、贅沢な空間だと思います。

 作り付けのカップボード?書棚?に、元の住まい手の小熊捍先生の肖像写真と直筆色紙が飾られています。
小熊捍先生 肖像写真 直筆色紙
 この写真と色紙は、札幌建築鑑賞会が元の店に寄託したものです。 

 1996-97年、鑑賞会がこの建物の保存を目指して活動していたとき、会員から会に寄贈されました。ゆかりの建物に飾られるのが一番いいだろうと思って、1998年に建物が再現されたとき、寄託したのです(末注)。

 この3点には、私はほろ苦い思い出もあります。当時、建物の保存に関わっていた別の人から、「葬式の写真みたいだ」と言われたのです。私としては、元の住まい手にまつわる貴重な史料でもあるので、よかれと思ったのですが、それを聞いたときは少なからずショックを受けました。それでも、ろいずの社長さんは上手に額装して、1階の欄間に飾ってくださいました。旧小熊邸の正史では語られない挿話です。
 
 私の贔屓目かもしれませんが、仮に遺影であったとしても、それはそれで肯定的な意味で建物に生活感を添えて、よかったのではないかと自分に言い聞かせています。よく仏間の欄間とかにご先祖の遺影を掲げたりしてますよね。洋館には似つかわしくないか。 

 とまれ、建物再々生の前途に幸あれと祈ります。

 :この建物は、1927(昭和2)年に旧藻岩村円山村(現中央区南1条西20丁目)に建てられた原建物の外観を、1998年、できる限り忠実に再現し、内部の建具や家具の一部を復元したものである。ところが近年、建物自体が「移築」とか「復元(原)」されたと称されることが多い。たとえば「札幌の街をデザインした男―田上義也- 光に包まれた北の建築」(AIR DO機内誌『rapora』№60、2009年5月)では、「旧小熊邸のオリジナルは解体されたが、保存運動の高まりで藻岩山麓に復原された」(p.8)。また、「北海道建築の父・田上義也建築巡礼 北のモダニズム」(ANAグループ機内誌『翼の王国』№508、2011年10月)には、「1998年に現在の藻岩山の麓へと解体・移築された邸宅」(p.90)。
 しかし、以下の理由で、「復原」「移築」は語弊がある。
 ・9割がた、新しい建材の使用である。原建物の部材は内部で使用されているが、極めて部分的である。
 ・喫茶店としての再生利用にあたって、内部の間取りや床が大きく変更されている。
 いうならば、「再現」とか「再生」が妥当ではないか。後者の記事には研究の第一人者・角幸博先生も登場しているが、ほかならぬ角先生ご自身、本件建物を「原寸模型的な再現」と評している(『札幌の建築探訪』1998年、p.143)。もちろん、だからといって本件建物の存在意義を損なうものでは、いささかもない。問題は表現の仕方である。 2016.1.16ブログ参照 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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