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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/08/09

石山通りの幅員減少現象 再考

 本日8月9日の北海道新聞夕刊に、清田区に住む89歳の女性の投稿記事が載っていました。第2面の「陽だまり」という欄で、「平和が続きますよう」という題です。興味を惹かれた箇所があったので、以下一部を引用します。
 昭和16年に女学校に入学し、20年に卒業した私は、ほとんど勉強していない。先日、修学日誌が出てきて懐かしく見てみたが、今の時代は幸せだとしみじみ思う。
 卒業後も学校の指示でいろんな職場へ行き、私は監視隊本部に勤めた。8月15日、24時間勤務を終えて帰る途中だった。石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう。


 興味を惹かれたのは、最後の3行です。私はこれを「建物疎開」のことをいっているのではないかと思います。
 前に拙ブログで西11丁目、石山通りが南6条で道路幅員を狭めていることについて記しました。
 ↓
 2017.4.2 「石山通り、南6条での幅員減少」
 2017.4.3 「石山通り、南6条での幅員減少②」
 2017.4.4 「石山通り、南6条での幅員減少③」

 私はこの幅員減少の理由を、戦時中に北から南6条まで建物疎開してきたところ、「南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか」と推察しました。
石山通り 南6条西10丁目

 前述の記事でいう民家の取壊しが建物疎開だったかどうか、ただちには断定できません。しかし、終戦を知らずに道路を拡張していた、というならば疎開のためであったと私には想えます。それが1945(昭和20)年8月15日もまだ続けられていたということは、その後中断したであろうことも窺われます。

 「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう」という記述は、もしかしたら何気なく読み過ごされてしまうかもしれません。「なぜ、民家を取り壊していたか?」「どうして、『終戦をまだ知らなかったのだろう』と作者は思ったか?」を問うことで、想像力を掻き立てる好材ともいえましょう。貴重な証言だと思いました。このほかにも、この方が勤務していたという「監視隊」がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです。
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2018/07/08

北海道知事公館は“宝の持ち腐れ”か?

 昨日ブログの続きです。
北海道知事公館 ローン
 コラム筆者は、「道民財産」の有効活用のためには「発想の転換」が必要と述べます。こういう転換ができない私は、おそらくアタマが固いのでしょう。想像力も貧困なせいか、ここに24時間キャンプ場ができてローンにテントが30張り並ぶ光景が、思い浮かべられません。いつ行ってもテントが張られて誰かがキャンプをしている知事公館。私は逆に散策する気持ちが萎えてしまいます。
 ただ、日にちと時間を限定してこの庭園に野外レストランが設けられたら、行ってみたいなとは思います。英国の邸宅を彷彿させる洋館の前で、アフタヌーンティを楽しんでみたい。

 公共施設はすべからく集客すべし。異を唱えづらい空気を感じます。無用の長物に税金を注ぎこむわけにはいかない。宝の持ち腐れにあぐらをかいてはおれない。
 「そういうオマエも、旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮を『もっと使え』と主張したではないか?」と言われそうです(本年6月23日ブログ参照)。しかり。私は20年前、税金が投じられる文化財について、もっと活用したいと願いました。
 しかし、“開基百年”の記念塔が老朽化して閑散としていることを問題視する報道(7月6日UHB番組「みんなのテレビ」-末注)に接すると、私はそこに強迫観念的ステロタイプを嗅ぎ取ってしまうのです。塔は近づかなければいけないものか。展望室に昇れないとダメか。そもそも記念碑的施設に展望機能は必須か。「遠くから眺めるモノ」では許してもらえないのか。

 注:旧栗沢町(現岩見沢市)の記念塔の展望室は老朽化して設備が更新されず、不気味な様子が映された。昇る人はほとんどいないという。滝川市の塔は、北海道百年記念塔同様、展望室が閉鎖されている。北海道新聞本年6月18日記事でも同様のことが報じられた。

2018/07/05

『どさんこワイド』余話

 STVの番組、出演した一人なので自賛するのは気が引けますが、担当ディレクターHさんの熱意と取材力に頭が下がります。私はむしろ、教えられることが多々ありました。
 木村洋二さんは番組の最後で私のことを持ち上げてくれましたが、あれは買い被りです。収録の間、私が持ってきた小道具をずっと持っていてくれました。木村さんの方こそ、気配りの人です。「人をよく見てるなあ」とも思います。終了後、Hさんや木村さんから「また今度もお願いしますよ」と言われました。まあこれは社交辞令と聞き流しましたが、そのあとすぐ木村さんは「でも、続けてだと、摩耗しちゃうかな」と付け加えました。

 番組のテーマは「産業革命は創成川東から」でした。明治初期の開拓使による官営工場は、厳密に言えば「産業革命の芽生え、きざし」という段階だったと思います。私の理解では、産業革命は機械制大工業の進展をもって成立しました。北海道、札幌で機械制大工業と言えるのは、明治20年代、札幌麦酒会社ができて赤煉瓦の工場が建てられた後ではなかろうか。こういうことはいつも、収録が終わってからアタマをよぎります。

 編集の都合で放送されなかった場所をお伝えします。
東北会館
 東北会館です。

 立体の金文字を掲げた町内会館というのは、札幌市内でほかにまだあっただろうか。
東北会館 金文字
 こういう金文字が流行った時代があったように思います。

 現存していませんが、西区の「西町会館」にも架かっていました。
西町会館 「札幌市」
 ただし、私が写真を撮った2012年には「札幌市」しか遺っていませんでした。ここはかつて「手稲東会館」だったと記憶します。「手稲東」という町名が「西町」に変わって、会館に架かっていた「手稲東会館」の文字が外されたのでしょう。

 東北会館の中には、「創立二十周年記念事業寄付者」の名前を記した看板が掲げられています。
東北会館創立二十周年記念事業寄付者名
 会館建設時の寄付者の名簿もこの隣に架かっています。建てられたのは1964(昭和39)年です。
 「二十周年」は1984(昭和59)年になります。当時の「東北地区」の人々が何をなりわいとしていたか、読み取ることができます。この会館も近い将来、建て替えられると聞きました。

 中央体育館の前にある武道具屋さんで記念に買った携帯ストラップです。
「東京武道具」で買った携帯ストラップ
 ここの若奥さんは、木村さんがぶっつけ本番で出演交渉をしたのですが、当初固辞されていました。しかし、いざ収録となると、はきはきと話されて、とても堂に入ってました。剣道4段の腕前のなせる賜物でしょうか。「大人になってからも学ぶというのは素敵なこと」というお話がよかったですね。
 ちなみに私は中学のとき部活で剣道部に入っていて、2年時に2級を取りました。撮影後それを言ったら、木村さんと若奥さんに驚かれ、またカメラが回りました。竹刀を振っているところまで撮られたのですが、編集でカットしてもらうように頼み、事なきを得ました。
 

2018/06/29

札幌市中央体育館

 鉄筋コンクリート4階建てで、1966(昭和41)年に完成しました。札幌市中央体育館
  昨年(2017)年7月、「さっぽろ下町まちあそびワークショップ」という行事でこの界隈を歩いたとき、この建物に気づきました。30年余り前、職場の親睦会の行事でバレーボールに駆り出されたことがあり、ここに体育館があることは重々知ってはいたのですが、よくよく見つめるということはしてなかったのです。

 よくよく見つめて、「モダンな建物だなあ」とあらためて思いました。
札幌市中央体育館 北側ガラス窓面
 体育館という施設の必要性なのかもしれませんが、これだけ一面に窓ガラスを設けた建物は建築当時、札幌にどれだけあったでしょうか。

 つい先日、とある用事で中を見せていただきました。
札幌市中央体育館 3階体育室
 天井のトラス組みが現代アートに見えてきました。現代アートの何たるかを判っていないゆえですが。

 ここは、さまざまなスポーツで利用することができます。
札幌市中央体育館 種目別週間予定表
 「すもう室」や「重量挙室」もあります。

 52年前に開館したとき、「十六種目の競技が同時にできる、全道ずい一のスポーツの殿堂」と謳われました(末注①)。総工費2億5,500万円(末注②)。設計は久米建築事務所です。北海道百年記念塔の井口健さん(昨日ブログ)が在籍していた頃ではないか。 
 
 その「スポーツの殿堂」も役目を終え、北4条東6丁目の再開発事業地に建替えられます(末注③)。「モダンだなあ」と漏らした私の感想に対して、このたび本件建物に同行したKさんという方は「『外壁のペンキを塗り直したらよかろうに』と私なんかは思ってしまいましたが」とおっしゃいました。人それぞれ感じ方はさまざまですね。まあ、近々供用廃止されるのでしょうから、補修にカネをかけるわけにはいかないのでしょうね。

 この体育館が1966年、大通東5丁目の地にできたということに、土地柄や時代性を深読みしてしまう私です。

 注①:札幌市広報『さっぽろ』1966年8月号p.4 
 注②:同上。ただし「札幌市中央体育館 ごあんない」(発行年不明)によると、「総経費」は3億5520万円。
 注③:札幌市サイト「新中央体育館の建設(中央体育館改築事業)について → http://www.city.sapporo.jp/sports/sisetsu/kousou/index.html

2018/06/27

苗穂駅の事務室で見たモノ

 JR苗穂駅の改札口です。
JR苗穂駅 改札口
 昨年8月に撮りました。

 先日の「古き建物を描く会」第61回で、事務室もまじまじと眺めました。
JR苗穂駅 事務室
 あるモノに気づきました。

 神棚が祀られています。
JR苗穂駅 事務室 神棚
 苗穂工場の弔悼碑はお東さんの寺に置かれていますが、駅は神棚なのですね。
 死者は仏様となり、安全は神様に祈願するということでしょうか。一般の家庭でもよくある日本的風景。この神棚はいつごろからあるのだろうか。ほかの駅の事務室をよくよく見たことはないのですが、どこにでもあるのだろうか。11月に開業する新駅の事務室に遷座されるのだろうか。

 苗穂駅で遷座といえば、ホーム側に架かるこの看板はどうなるだろう。
苗穂駅 ふらんすへ行きたし 看板
 萩原朔太郎の詩を引いた広告。末尾に「苗穂発 ロマンを求めて 夢列車」とも謳われています。
 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2012初夏の編で下調べをした際、スタッフNさんが聞き取ったところでは、たしか何代目かの駅長さんの発案で掲げられたモノだとか。
 この看板、以前は地が白かったのですが、2012年の時点では青く塗り替えられ、新しくなっていました。広告を末永く伝えていこうという意図が感じられたものです。こういう看板もあまりほかの駅で見かけないので、私は苗穂駅のホームに立つと必ず本件に目が行ってしまいます。訴求力抜群ですね。
 神棚は信教の自由のこともあるでしょうが、古レール(2014.12.28ブログ)と本件看板はぜひ新駅舎に遷座してほしいなあ。

2018/06/26

苗穂駅に関する訂正

 JR苗穂駅の駅舎を跨線橋から眺めました。
JR苗穂駅 跨線橋から 20180624
 札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」2012年初夏の編の資料で、この駅舎について次のように記しました。
 1937(昭和12)年に建てられた現在の駅舎は、札幌市内に残る最古のものである。戦前期の木造駅舎というのもここくらいか。

 以下、訂正します。
 ①建築年
 1937(昭和12)年としたのを何に拠ったか、私の資料が未整理で出典が定かでありません。実は別の文献には1935(昭和10)年と書かれているものもあります(『札幌の建築探訪』1998年、p.97)。にもかかわらずなぜ1937年としたのか、思い出せないのが歯がゆいのですが、いずれにせよ2年の違いが気になっていました。
 先日の「古き建物を描く会」第61回(6月24日)のとき、駅舎でこんなものを見つけました。
苗穂駅 建物財産標 
 「建物財産標」。
 「鉄 本屋 1号 昭和10年10月」と書かれています。これはもう、1935年築ということですね。これで決着とします(末注)。

 ②「札幌市内に残る最古」うんぬん
 「わきあいあい篠路まちづくりの会」(2018.1.24ブログ参照)で、札沼線篠路駅舎が1934(昭和9)年築とお聞きしました。依拠史料等は確かめていませんが、同会では篠路駅にお勤めだった方からの情報を入手されています。「札幌市内現存最古駅舎」は篠路駅とみてよいかと思います。

 以上、誤った情報をこれまでそのままにしてきて、申し訳ございません。

 ところで前掲の「建物財産標」について、札幌及び近郊のJR駅で私が見かけたのは次掲の「鉄 本屋1号 昭和6年9月16日」に続き二つ目です。
建物財産標 鉄 本屋1号 昭和6年9月15日
 駅マニアの方は、これだけでどの駅かピンとくるのでしょうね。
 ほかにご存じの方がいらっしゃったら、お教えいただければ幸いです。
 新しい駅舎では気にしたことがなかったのですが、こういう「財産標」は貼られているのでしょうか。篠路駅はどうだろう?

  注:JR北海道広報資料「苗穂駅新駅舎の開業日について」(2018.5.16)にも「昭和10年建設」と書かれている。
 ↓
http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180516_KO_NaeboStation.pdf

2018/06/24

古き建物を描く会 第61回を開催しました

 今回の画題はJR苗穂駅です。 
 朝方よりも昼過ぎにかけて冷え込み、体感温度は10℃台前半かとも思われる肌寒さの中、8名が参加しました。
 古き建物を描く会 第61回 苗穂駅
 苗穂駅は周辺の再開発事業に伴い、建替えられます(2014.12.26ブログ参照)。
 
 今年11月には役目を終える現駅舎を、ねぎらいも込めてスケッチしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅 作品
 終了後、駅待合室でお披露目会です。

 会員のSさんは、駅ホームから眺めた苗穂工場も作品にしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅ホームから苗穂工場
 この風景も5か月後には見納めです。

 この跨線橋も、ゆくゆくは撤去されるのでしょうか。
苗穂駅 跨線橋
 前にブログで記したように、本件には稀少な古レールが支柱に使われています(2014.12.28ブログ参照)。
 撤去されたら、古レールはどうなるんだろう。できれば、モニュメンタルな形で新駅舎に活かしてもらえると嬉しいのですが。

 約300m西方に建設中の新駅舎です。
JR苗穂駅 建設中新駅舎
 たしか1年前にはまだ橋脚くらいしかできてませんでした(2017.5.17ブログ参照)。もう駅舎本体が出来上がりつつあるようです。早い。

 現駅舎の古レールのことは、6年前に「苗穂駅周辺まちづくり協議会」事務局長のMさんに教えていただきました。そのMさんはもうおられません。一昨年「苗穂カフェ」に足を運んだとき、その一週間前に亡くなったとお聞きました。残念です。バリアフリー化されて北と南をつなぐ新駅舎の落成を心待ちにしておられたことでしょう。Mさんには2012年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になりました。新駅舎ができたら、現駅舎は「道の駅」のように活用できないかと話しておられたのを思い出します。もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。合掌。

2018/06/23

20年前の旧永山邸・旧三菱鉱業寮

 6月13日ブログで私は「旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります」と記しました。
 その“わけ”を物語るのが、以下の写真です。

 1997(平成9)年3月、札幌の文化財をテーマにして、札幌建築鑑賞会で勉強会を催しました。
旧永山邸 1997329
 そのとき、会場に使わせてもらったのは旧永山邸です。拙ブログでたびたび引用させていただいている故武井時紀先生(2017.11.42018.6.16各ブログ参照)に講師を務めていただきました。

 旧三菱鉱業寮2階の和室でも、先生の講義を受けました。
旧三菱鉱業寮 1997329
 20年以上前の当時、この場所をこのように利用する例はありませんでした。正確にいうと、地元町内会の女性グループがお茶か生け花の会合に使ってはいたのですが、それはいわば例外だったのです。所管している札幌市の文化財課では、市民の会合等での供用をオオヤケに謳ってはいませんでした。

 1998(平成10)年5月、札幌建築鑑賞会のスタッフの会合を同じ部屋で開いたこともあります。
旧三菱鉱業寮 199805
 これも、文化財課にかけあって容認してもらったものです。

 市民が地元の文化財を訪れるというのは、あまりないのではないか。そう思ったのが、上記のことを試みたきっかけです。時計台や豊平館、清華亭などに足を運ぶことって、どれだけあったでしょう。最近の話ではありません。20年前です(末注)。観光名所になっている文化財は、逆に市民には疎遠かもしれません。
 旧永山邸は、文化財や観光地としての知名度は時計台や道庁赤れんがほど高くはありませんでした(おそらく、今も)。だから、いつ行っても閑散としていました。それはそれで、歴史的な風情を静かな雰囲気で味わえてよかったのですが、一方で「もったいないな」とも思ったのです。
 せっかく札幌市が税金を使って保存にこれ務めているオオヤケの施設です。「使ってこそ」の文化財ではなかろうか。古いモノは、「ただ」残っていればいいというものではあるまい。また、一見「ただ」残っているかに見えても、人知れないエネルギーが費やされていることもあります。
 文化財の場合、「使うこと」と「残すこと」は矛盾をきたすともいえます。使えば使うほど負荷がかかり、残すことに支障が生じる。そのバランスは必要です。旧三菱鉱業寮の場合、指定文化財ではありませんが事情は同じでしょう。
 このことを念頭に入れつつも、旧三菱鉱業寮の2階和室はほとんど空き部屋だったので、「もっと使われてもよかろうに」と私は思いました。来場者数が少なければ「税金を使って、残し続ける意味があるのか?」という声が起きても不思議ではありません。例えば建築上の価値があるとか、景観上の価値があるとか言っても、土地利用の経済的価値を引き合いにされるとどうか。いくら「カネに換えられない価値がある」といっても、なかなか議論にならない。そもそも、納税者の多くが「そんな建物、行ったことないな~」では、経済的価値至上論に敵いません。
 
 三菱鉱業寮の和室から、「もっと使ってもらってもいいですよ~」という声が私に聞こえてきました。
 まず足を運ぶ、知る、味わうことから始めよう。
 20年前、私は若かった。青かった。

 注:豊平館の場合、結婚式場に用いられていた。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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