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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/07/14

みちのく銀行札幌支店

 中央区南2条にある銀行です。
みちのく銀行札幌支店
 本年2月に撮ったまま心の片隅で気になっていながら、半年近くたちました。

 下掲のように細部をトリミングすると、私が何を言わんか拙ブログ読者諸賢にはお察しの方もいらっしゃるでしょう。
みちのく銀行札幌支店 外観 雪国的造形?
 これはもしかして、“雪国的造形”かしら。

 前掲の建物が気になっていたのは、下掲の建物の外観にかたどられたモチーフが脳裏に遺っていたからです。
ホテルアカシヤ
 中央区南12条にあった「ホテルアカシヤ」(画像は『北のまれびと エゾライト・田上義也』1977年から)。1968(昭和43)年築で、現存していません(1997年頃解体)。

 一方こちらは、1969(昭和44)年に描かれたスケッチです。
支笏湖レジャーセンター(仮称) スケッチ
 支笏湖畔に構想された宿泊施設ですが、実現しませんでした。このスケッチは、施設を構想した方のご遺族が所蔵しているものです。
 右下に「A.D.1969.10 Y.Tanouye」とサインされ、「田」の字をあしらったハンコも押されています。載せておいて言うのも何ですが、このスケッチは作家の最近の作品展でお目にかかった記憶が私にはありません。お宝だと思います。

 細部を鑑みると、外壁にやはり同じようなモチーフが描かれています。
支笏湖レジャーセンター(仮称) スケッチ 雪国的造形
 うしろのナナメカットされたような突起物も気になりますが、措きます。

 冒頭画像は「みちのく銀行」の札幌支店です。同行は弘前相互銀行が前身です(末注①)。ところで、田上さんは1967(昭和42)年に「弘前相互銀行札幌支店」を設計しています(末注②)。ゼンリンの古い住宅地図を繰ったところ、冒頭画像の所在地に「弘前相互銀行札幌支店」とありました(末注③)。してみると、冒頭画像のモチーフはやはり、田上さんの雪国的造形だったのか。あるいはのちに建替えているのであれば、そのオマージュ? このモチーフが他に現存しているのも、私は記憶にありません。外壁ではなく、屋根に突き出ているのはあったと思いますが。「札幌ノスタルジック散歩」のYさんに確かめねば。
 ともあれ、2月の雪景色で写したのも、まんざらではなかったことになります。

 注①:みちのく銀行サイト「沿革」 https://www.michinokubank.co.jp/about/company/gaiyo/enkaku.html (2019.7.14閲覧)
 注②:角幸博ほか「建築家田上義也(1899-1991)の戦後の建築活動」日本建築学会大会講演梗概集1999年、及び前掲『北のまれびと』下巻 巻末年譜p.187。なお後書には「弘前銀行札幌支店」とあるが、「弘前相互銀行」の誤りであろう。
 注③:ゼンリン住宅地図「札幌 南部その1」1969年
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2019/07/04

札幌に住んで四十余年、神輿渡御のときは歩道橋に昇れないことに初めて気づく

 先月のことですが、札幌まつりの神輿渡御を見てきました。
札幌まつり 神輿渡御 2019
 沿道で見るのは何十年ぶりです。いや、見ると言っては不心得か。鳳輦を拝し奉る? お迎え奉る?
 
 上掲のごとくデジカメを向けるほどに、いずれにせよ私は不心得です。このたびン十年ぶりに思い立ったのもわけがあります。「万灯(まんど)」のお囃子の音色を確かめたかったのです。そのわけはおって機会をあらためるとして、音色を集録すべくどこかいい場所はないかと思いめぐらしました。

 私の都合のいい時間は御還輦の間際だったのですが、思いついたのがこちらです。
円山小学校前の歩道橋 鳳輦 昇降できません。
 円山小学校前の歩道橋。

 ここなら行列を一望できるし、ちょうどいい。しかし無理だろうなという予感はありました。その程度のことは誰でも思いつくから、皆が歩道橋に殺到し、不測の事態が起きかねません。というより、恐れ多くも勿体なくも御祭神を跨ぎ、見下ろすなどとは不敬極まりない。ということでしょう。案の定、「御鳳輦が通ります。その時間は昇降できません」という表示とともに紐が張られていました。

 予感はしつつも一瞬ながらに歩道橋から神事を眺められるかもしれないと期待するほど、世事に疎いことを思い知りました。北海道マラソンのような観衆が集まる道路占用催事でも、歩道橋は渡れないのですかねえ。橋上から不心得なふるまいにランナーが遭う危険性もあるか。公式サイトのユーチューブを見たら、歩道橋に上がっている人もいるようですが。

2019/06/28

なにわ書房を惜しむ

 昨日だったか、妻から「なにわ書房が閉まった」と聞きました。「マルヤマクラス」に移ってからは足が遠のいてしまいましたが、同店にはくすみ書房ともどもお世話になりました(2017.8.30ブログ参照)。

 2000年に札幌建築鑑賞会で出した『さっぽろ再生建物案内』を店に置いてもらったときの風景です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ①
 自前でポップを用意するということを私は知らず、店のほうで作ってくれました。

 「グランドホテル前店」です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ②
 うしろの階段の脇に「なにわ書房」とあります(黄色の矢印)。

 レジの前にも平積みしてくれました。 
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ③
 応援してくださったことに、あらためて感謝します。
 
 これは日之出ビルの「リーブルなにわ」ですね。
リーブルなにわ 今週のベストテン 2003 さっぽろ再生建物案内
 取り扱ってもらった書店が限られていたし、廉価だったので、「今週のベストテン」1位にランクインさせてもらいました(画像は2003年の第2版のとき)。

 正直言うと、地場のものを慈しんでいた(今も)のは私よりも妻の方です。くすみ書房しかり、蠍座しかり。時計台の裏にあった北地蔵しかり。ひばりが丘の長部洋服店しかり(2017.11.6ブログ参照)。我が身を振り返ると忸怩たる思いであり、残念とか申し上げる資格は私にありません。懐古、回顧とともに、今自分が地場で何をしたいのか、何ができるのか見渡したい。

2019/06/26

往来が多い町なかのビルに置かれた自販機に鎮座する物件

 札幌の中心部にある商業ビルの地下1階です。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 
 階段室の一隅に飲料自販機が置かれています。

 自販機の上に、目が留まりました。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 接写
 唐獅子のような置物です。陶製でしょうか。なぜ、ここに置かれているのか、意味ありげです。隣のマグカップも気になります。こういうふうに置かれていると、何か神妙な気配です。
 このすぐそばには、古くからの喫茶店があります。かなり多くの人が行き来する階段です。場所は明示しませんが、見覚えがあっていわくをご存じの方がいらっしゃったらお教えください。

2019/06/01

旧永山武四郎邸に見た薩摩

 昨日ブログで私は、旧永山武四郎邸に関して「新たな刺激を得られた」と記しました。私が旧永山邸を知ったのは30年余り前です。以来、札幌市民の平均的頻度に比べれば、この建物に足を運んだ回数は多いほうだと思います。にもかかわらず、このたびまた新たな刺激を受けました。諸先達にとっては目新しいことではないのでしょうが、自らの目を肥やすことによって見えなかったものが見えてくるのかもしれません。
 昨日私が案内役を務めた「ちえりあ」の講座は全4回の3回目でした。私は事務局にお願いして、第1回と第2回を聴講させてもらいました。自分の話を組み立てる上で、講座全体の流れを踏まえたかったのです。初回に空知炭鉱遺産の話をお聴きしました。昨日ブログで述べた“炭鉱(ヤマ)の記憶”としての旧永山邸という意義を自覚できたのは、この話のおかげです。

 昨日の講座に先立つ数日前、あらためて現地を訪ねたことも役立ちました。この30年来「見えなかったもの」を見ることができたのです。

 まず、旧永山邸のほうから鑑みました。
旧永山武四郎邸 表座敷
旧永山武四郎邸 脇座敷
 上掲は表座敷、下掲は脇座敷です。

 次に、旧三菱鉱業寮の2階に上がりました。
旧三菱鉱業寮 和室A
旧三菱鉱業寮 和室C
旧三菱鉱業寮 図書室
 いずれも床の間付きの和室3部屋です。

 ここで私は初めて違いに気づきました。旧永山邸のほうの天井です。表座敷も脇座敷も、竿縁が“床ざし”に組まれています。
旧永山武四郎邸 表座敷 竿縁天井 床挿し
 とこざし 床挿し 天井の棹縁の方向が床の間に向っていること。近世中期以後は忌まれてきたが、近世初期まではしばしばみられる。(彰国社『建築大辞典』1976年)
 さおぶち 竿縁、棹縁 天助板の下板を支えるため、または化粧として、それと直角に30~40㎝ごとに並べた細い材。(後略)(同上)

 「近世中期以後は忌まれてきた」という床ざしの竿縁天井が、明治10年代の建築に見られるのです。一方、後掲3枚の旧三菱鉱業寮は昭和戦前期に建てられ、和室天井はやはり竿縁で押さえられています。しかし、竿縁は床の間に対して平行です。これは近世中期以降の流儀に適っている。

 旧永山邸座敷の床ざしのことは私が見えてなかっただけで、冒頭に記したように目新しいことではありません。これまでたびたび引用してきた越野武先生ほか「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年(高安正明『よみがえった「永山邸」』1990年所収)、武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年にそれぞれ言及されています。前者の記述は、内部意匠に関する詳細な描写の中で次のとおりです(太字、p.151、153)。
 (表座敷) 天井板にケヤキを使用した竿縁天井は、幅48㎜、成60㎜と木柄の大きい猿頬(さるぼう)竿縁を床ざしに走らせ、
 (脇座敷) 表座敷同様床ざしの竿縁天井は、マツとカツラ板を交互に張り混ぜ、

 後者も引用します(太字、pp.127-128)。
 永山邸の天井の竿縁は、床に向って付けられている。「床差し」形式である。床を差す、というので忌み嫌う人が多い。大名屋敷にあったという「切腹の間」の天井は、この形式である。そんなことに、こだわらぬ武人永山武四郎の豪放さがうかがえる。

 どちらの書も何度も手に取っているにもかかわらず、まさに「視れども見えず」でした。私がこのたび本件床ざしに気づいたのは、実はきっかけがあります。先月見たNHKの番組「ふるカフェ系 ハルさんの休日」です。いわばこれまでの総集編のような仕立てで、全国各地の再生古民家が紹介されていました。その中の一つが鹿児島県蒲生町というところの武家屋敷で、座敷の天井が床ざしだったのです。元は加治木島津家のお屋敷でした。加治木島津家は島津家の「御一門四家」(分家)の一つです(末注)。
 前掲二書には旧永山邸座敷の竿縁天井が床ざしであることには触れつつも、その理由までは至ってません(至りようがないのでしょう)。私は、薩摩の武家屋敷が床ざしであることに因縁を感じてしまいました。薩摩出身の永山は、自邸をあえて床ざしにしたのではなかろうか。
 放送では、床ざしの話題で加治木島津家のご当主が日本の南端にあることをお話しされていました。薩摩で床ざしがポピュラーなのか、私は不勉強にして知りません。あらためてくだんの地を訪ね、武家屋敷の天井を鑑みたいものです。なお、この番組は今月また、再放送されるようです。

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2019-06-15/10/23349/1973066/
 再放送といえば、昨年8月の「江別編」(2018.8.24ブログ参照)もまた、再々放送されるそうです。6月20日と聞きました。今年2月にも再放送されたし、こんなに何度もブラウン管に映る(古い)とは思わなかったなあ。

 注:西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63。村橋久成は加治木島津家の出であったという。

2019/05/31

札幌の“炭鉱の記憶”

 「ちえりあ学習ボランティア企画講座」の一環で開催された「北海道遺産の魅力を探る」で、旧永山武四郎邸を案内しました。 
旧永山武四郎邸 旧三菱鉱業寮 20190526
 この建物は「開拓使時代の洋風建築」の一つとして、北海道遺産に選ばれています。

 建築や文化財の専門家ではない私が解説するというのは気が引けたのですが、考え直しました。私が仰せつかったのは、その筋の専門家としてではなく、北海道遺産を生かす活動を続けてきた一市民という立場からなのだと。その立場で、この遺産を鑑みる“視点”をお伝えしました。建物の価値だけでなく、住んでいた人や関わった人、周囲の環境、風景、地域のことも視野に入れたつもりです。例によってマニアックな、というか偏った話をしてしまったことは棚に挙げつつ、こういう場を与えてもらったことを感謝します。何がありがたいかというと、私自身が新たな刺激を得られたことです。

 ① 開拓使時代の洋風建築として― 札幌の住宅文化の土壌となったのではないか
 ② “和洋折衷”建築の先駆けとして― 異文化を吸収咀嚼する模索、明治後期~昭和初期和洋折衷との比較の妙味
 ③ 薩摩人・永山武四郎の足跡として
 ④ “炭鉱(ヤマ)の記憶”として―日本の近代化を支えた北海道の炭鉱(鉱山)遺産の札幌における数少ない一つ
 ⑤ 土地の記憶として― 札幌の原風景を伝える(?)ハルニレ

 この建物のことは拙ブログで幾度か綴ってきました(2018.6.136.176.216.226.23ほか)。
 繰返しになりますが、史実を確認しておきます。現在、冒頭画像の向かって右側が旧永山邸(道指定有形文化財)、左側が旧三菱鉱業寮(近々、国登録文化財になる予定)です。前者は永山の自邸として1880(明治13)年頃に建てられ、永山の死後、1911(明治44)年に三菱合資が購入しました。後者は三菱時代の1927(昭和12)年に(永山邸の一部や付設棟を除却して)建てられたものです。以来1985(昭和60)年に札幌市が買い取るまで、どちらも三菱が所有してきました。三菱時代は前者が「旧館」、後者が「新館」でした(末注①)。
 教科書的な来歴をあらためて述べたのは、隣り合う二つの建物が現在は旧永山、旧三菱と言い分けられていますが、どちらも三菱が長らく使っていたことを強調したかったからです。旧永山邸は、永山自身が住んでいた年数より三菱の時代の方が格段に長い。
 その意味で、前述の④の視点=“炭鉱の記憶”として価値を見直したいと思いました(末注②)。想えば、三井、住友、北炭もそれぞれ札幌にこの種の社用施設を持っていましたが、いずれも現存していません(末注③)。

 注①:高(ハシゴダカ)安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年及び同書に転載された越野武北大助教授(当時)らからなる「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年ほかによる。
 注②:三菱は石炭だけでなく金属鉱石も採掘していたので、鉱山遺産というべきか。
 注③:現北海道知事公館も三井が所有していた時期があるが、知事公館になってからのほうがはるかに長い。

2019/05/30

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考 ③

 5月26日ブログの続きです。くだんの土地を古地図でもう少し追ってみます。

 「北海道庁 札幌市街之図 明治22年製図」からの抜粋です。
北海道庁 札幌市街之図 明治22年製図 現伊藤氏宅跡地付近
 これを見ると、メムとおぼしき池泉はやはり、鉄道線路に近いところから発しています(赤矢印を付けた先)。ただ、5月26日ブログに載せた明治10年代の地図と比べると、若干南に寄っているようでもあります。
 なお、画像が粗くて読みづらいのですが、この場所に「開拓記念碑」と書かれています。これは、現在大通公園の西6丁目に建っている「開拓紀念碑」の元の位置を示しているものでしょう。

 次に「札幌市街之図」1890(明治23)年です。
札幌市街之図 明治23年 現伊藤氏宅跡地付近
 池泉の先はさらに南に移り、道路際まで近づいています。ほぼ現在の地形と同じです。この後、明治20~30年代を下っていくと、おおむねこのカタチが続きます。 

 これは何を意味するのでしょうか。古地図を時系列で辿る限り、明治10年代の後半から20年代の前半にかけて、当該地の地形が改変されたとみることもできます。
 5月25日の「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」で伊藤氏宅跡地の地形が人工的掘削の可能性があると聞いたとき、私は伊藤さんの為せる業かと想いました。伊藤さん、といって現ご当主の先々代がこの地にお屋敷を構えたとき、元あった池泉を生かしながら園庭を整えたのかなと。
 「ジオ散歩」の参加者のお一人でご高齢の方が、「伊藤さんは敷地の四囲に水路をめぐらし、邸内にゴルフコースを3ホール造った」と回想されていました。とすると、池を掘ったのもゴルフ用か。その方に「いつごろの話ですか?」とお訊きしたら「終戦後、駐留軍が来たとき」と言われました。これは新しすぎます。前掲図のとおり、明治20年代には現在の地形と同じになっているのですから。

 そもそも伊藤家がここを本拠としたのはいつか。1907(明治40)年です(末注)。とすると、前掲明治23年「札幌市街之図」よりも後であり、この地形は伊藤家の前からのものということになります。少なくとも、伊藤家の仕業ではない。明治10年代の後半から20年代の前半にかけて、ここで何があったのか。

 注:越野武『伊藤組史こぼれ話 余滴十五話』2014年、p.45

2019/05/27

uhbみんテレ「となりのレトロ」桑園編 収録余話

 本日オンエアされたuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナー・桑園編には、気を遣ったことがあります。
 実は昨年10月、私はSTV「どさんこワイド179」の担当ディレクターさんからもやはり桑園の歴史散歩の相談を受けていたのです。当時はまだuhbの“専属”ではなかったので、ほいほいと情報提供しました。
 桑園というと今ではJR駅周辺の印象が強いがもともとは知事公館のあたりが発祥であることをはじめとして、提供したのは以下のとおりです。
 ・札幌本府の西側の低湿地帯 → 開拓使の殖産興業地帯 養蚕による産業振興
 ・メム、琴似川の流域 → その地形や風致を生かしたお屋敷(知事公館=旧三井別邸、桑園博士町)、その痕跡
 ・旧円山村との境界 → 道路幅員が異なる(旧札幌区側は広く、旧円山側は狭い)
 ・繊維問屋街 → 桑園(養蚕)のDNAが受け継がれている?
 ・桑園博士町 → 大正期築の高倉先生宅が健在。高倉先生(二代目)はこの地で「ふきのとう文庫」という私設図書館を運営
 ・予備校・学生寮の街 

 私の情報がどのように採用されたか否か、同局で昨年11月に放送された内容がサイトに紹介されていますのでご参照ください。↓
https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t000004mhda.html

 冒頭で「気を遣った」というのはいうまでもなく、今回のuhbがSTVの“二番煎じ”にならないことです。私にしてみると「こんなことなら、“知的ノウハウ”の安売りをするんじゃなかった」のですが、昨年のSTVに続いて今日のuhbをご覧になった方におかれては上記の事情を汲み取っていただけると幸いです。

 今回のuhbでは「桑園博士町」にちなんで、昨年のSTVでは触れられなかった「ふきのとう文庫」(2017.10.25ブログ参照)についても(一瞬ですが)伝えてもらいました。これは特にスタッフの方にお願いしたことです。放送でも登場された高倉先生は、古き建物を大切にしつつ、歴史を今に、そして未来に引継ごうとしています。その姿を知っていただきたいと思いました。

 高倉先生が卓上に置かれていたオオバナノエンレイソウです。
高倉先生 オオバナノエンレイソウ
 番組収録に彩を添えてくださいました。お庭に咲いていたものだそうです。

2019/05/26

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考 ②

 昨日ブログの続きです。
 中央区北5条、伊藤氏宅跡地の庭園に遺る地形を、私はこれまで自然の湧泉池の名残だと思っていました。いわゆる“メム”です。

 色別標高図でその場所を確認します。
標高図 北5条、伊藤氏宅跡地周辺 標高14m以下から1mごと7色段彩
 白ヌキの矢印の先です(標高14m以下から1mごと7色段彩で作成)。凹地があることが窺えます。諸文献(末注①)が記すように私もメム跡と見た地形です。 

 昨日の「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」で案内役のMさんから、これが人工的掘削の可能性があるとの指摘を受けました。Mさんが根拠とされたのは、明治初期の古地図です。

 たとえば、開拓使地理課「北海道札幌之図」1878(明治11)年を見ます。
北海道札幌之図 明治11年 現伊藤氏宅跡地の周辺
 現在の伊藤氏宅跡地のあたりをトリミングしました。赤い矢印の先に示したのがメム(湧泉池)とおぼしき地点です。この地図によると、メムは鉄道の線路上(末注②)に当たり、現在の伊藤氏宅跡地の凹地とは若干ずれています。

 「石狩国札幌市街之図 明治十五六年頃」です。
石狩国札幌市街之図明治十五六年頃 現伊藤氏宅跡地周辺
 この地図でも、メムは鉄路上に発しています。現在の伊藤氏宅跡地の北側です。 

 注①:昨日ブログで引いた旧市史のほか、山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.39
Mさんが根拠とされたのは明治期の古地図です。
 注②:幌内鉄道の手宮-札幌間が開通したのは1880(明治13)年なので、1878年作製の前掲図に描かれているのは計画線ということか。 

2019/05/25

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考

 お知らせから。
 uhb(8ch)「みんテレ」午後3時50分~の「となりのレトロ」コーナー、5月27日(月)に放送予定です。今回は桑園地区を案内します。
 これに先立ってというわけではないのですが、私は今日、桑園を歩く行事に参加しました。テレビの収録は2週間前に済ませており、実際はむしろ「跡づけて」です。編集も終わってオンエアを待つばかりなので、この期に及んで跡づけても悪あがきでしかありません。終わったことは気にしないほうが精神保健上はいいに決まっていますが、そうはなれない悲しい性分です。(カメラを前にして)「イイカゲンなことを言わなかっただろうか」と、毎度のことながら気になります。

 私がこのたび参加したのは「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」(2019年度「地質の日」記念行事実行委主催)です。研究者のMさん、Uさんのご案内で、真夏日の札幌の中心部を6時間、巡りました。前述の番組で紹介するエリアとかなり重なっており、できれば収録の前に諸先生の解説をお聴きして参考にしたかった。私の正直な思惑ですが、ムシが良すぎますね。今となっては、私が収録でしゃべったことが齟齬をきたしていないようにと祈るのみです。

 ジオ散歩では、このお宅の前も通りました。
中央区北5条 ラトゥール札幌伊藤ガーデン
 中央区北5条、札幌駅の近くに完成した超高層賃貸マンションです。
 
 この一画のことは2015.10.31ブログで記しました。そのときはイニシャル表記に留めましたが、この間の報道等で実名が伝えられていますので、今後は「伊藤氏宅跡地」とします。札幌の土木建設会社を経営されていた方のお屋敷跡です。
 私は先のブログで、この敷地内の広大な庭園を「札幌の地形遺産」と評しました。庭園に遺る高低差を自然の産物と思い込んでいたからです。しかし本日、そのことに“重大な疑義”が生じました。

 私が3年余り前に「湧き出でた小河川の痕跡」と記した地形です。
中央区北5条 旧伊藤宅 メムの記憶? 再掲
 『札幌市史』1953年(旧市史)に記された「伊藤泉池」(p.571、末注)はこの地形のことだと、私はアタマから信じていました。Mさんによると、これは人為的に掘削された可能性があるというのです。

 もし私がこの風景をテレビで伝える機会が与えられたら、「かつて泉が湧いて、川が流れていた名残です。札幌の原風景ともいえます」などと語ったことでしょう。しかし人工的造形であれば、それは誤りになります。当たり前と思って当たり前のごとく発することに潜む危険をあらためて痛感しました。

 注:旧市史では「札幌扇状地内の泉池」の一つとして「伊藤泉池(仮名)」と挙げ、次のように説明している(pp.571-572、引用太字)。
 植物園北の伊藤豊次庭内に所在する円形の小池で、よく繁った樹林の間に水草を漂わして今日もよく往時の面影を残している。その水は小流となって鐵道下を北流するが、清らかで水量があり、附近の人々に利用されている。ここには近年まで鮭がのぼって来た。
 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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