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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/02/16

中央区 苗穂 Koさん宅 石蔵 ②

 昨日ブログの続きです。
 Kaさんがレストランとして再利用している石蔵は2棟、連なっています。昨日述べたとおり、一棟は元質蔵で、もう一棟は持ち主のKoさんの商店の付設蔵の一部です。

 Koさん宅は二代目が明治の終わりに、この地で米穀店を開きました。
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設
 石蔵は、1925(大正14)年、コメを保管するために建てられました。その2年前に近隣の火事で類焼したため、燃えにくいように札幌軟石を用いたようです。また、この頃、三代目が商売を継いでおり、精米製粉工場を作るなど、事業を拡げたといいます。

 こちらの石蔵の妻壁に刻まれている印は「¬(かね)キ」です。 
中央区 苗穂 Koさん宅 蔵 商店付設 印
 この「キ」は何のキだろうとKoさんにお尋ねしたら、二代目の「喜太郎」さんの頭文字でした。

 ところでKoさん宅の初代は信州諏訪の出身です。1882(明治15)年、白石村厚別に入植し、稲作に成功しました。「家督を譲り隠居となって、北海道の新天地で米作りを志し渡道」したのです(末注)。ときに65歳。渡道を勧めたのは同郷の上島正です。上島正のことは拙ブログでたびたび綴ってきました(2017.6.28ブログほか参照)。札幌の開拓史を文字どおり彩るユニークな人物です。彼が郷里で呼びかけて札幌近郊にやってきたのは、Koさん初代のほかに以下の人びとがいます(末注②)。
 河西由造:白石村厚別で稲作に成功、「信州開墾」地を開く
 武井惣蔵:札幌村でタマネギ栽培に成功
 宮坂坂蔵:琴似村で果樹、養蚕に従事、桑園で繭の生産に貢献(2017.12.8ブログ参照)
 藤森銀蔵:円山村の発展に尽くす
 
 いずれも札幌の近郊農村の、形成期におけるキーパーソンです。都市札幌への食糧供給に上島の信州ネットワークが大きな役割を果したように思えます。
 話は飛びますが、前述のKaさんは石蔵の飲食店への再利用に当たり、持ち主の方に日参したそうです。その思いがKoさんに通じたのでしょう。KoさんのDNAがKaさんに受け継がれたような気がしました。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.246。『厚別 黎明期の群像』2013年によると、Koさん初代が厚別に入ったのは1183(明治16)年とされる(pp.283-286)。同書にはKoさん初代のエピソードも記されている。
 注②:前掲『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.238、p.270、札幌市教委編『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年、406、『円山百年史』1977年、p.62、p.377
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2019/02/15

中央区 苗穂 Koさん宅 石蔵

 いうまでもなく現在、中央区に「苗穂」という町名は残っていません。が、かつては苗穂村の一画だったことでもあり、今も「苗穂まちづくりセンター」の所管エリアは苗穂地区と称され、連合町内会も苗穂を冠しています。
中央区 苗穂 Kさん宅 軟石 蔵 のや
 その中央区側苗穂、Koさん宅の石蔵です。

 札幌で石蔵再利用を先駆けたKaさん(持ち主のKoさんとは別)の飲食店として知られる建物です。Kaさんはもともとこの近くの別の石造倉庫で1965(昭和60)年にレストランを始めました。その倉庫は1992(平成4)年に解体されます(末注①)。Kaさんの店は東区のタマネギ倉庫に移転したのですが、「やはり苗穂でも再び」ということで1998(平成10)年に開いたのが前掲Koさんの石蔵です(末注②)。

 今、「Koさんの石蔵」と記しましたが、前掲画像の中央に写るのは、元は質蔵でした。左方、木の後ろに写る赤いトタンが半分くらい貼られているのがKoさんの商店の付設蔵です。Kaさんのレストランは、元質蔵とその主屋、そして商店の付設蔵の一部を再利用しています。
 そのことはかねて知っていたのですが、長らく疑問だったのは元質蔵の妻壁に刻まれた「○ヨ」という印です。
レストラン のや 印「○ヨ」
 「土地の持ち主Koさんの名前とどうつながるのだろう?」と思っていました。ちなみに、現在Kaさんが営む店の名前「のや」は、「ヨモギ」という意味のアイヌ語から採ったと以前お聞きしたことがあります。私には、妻壁の○ヨがヨモギのヨと重なって見えたものです。

 昨年11月、uhbの「みんなのテレビ」の収録でKoさんを尋ねて由来が判りました。この建物は昭和の初め、Koさんが土地を貸した「吉岡」さんという人が始めた質屋の蔵だったのです。○ヨは吉岡さんの頭文字を屋号にしたものでした。
 収録のとき、Kaさんの奥さんが「地域の人に育ててもらって、店を長く続けてこられた」とおっしゃってました。 

 注①:北海道新聞1992年5月29日記事「プー横丁の引っ越し」
 注②:札幌建築鑑賞会『さっぽろ再生建物案内』第2版2003年p.72、78

2019/02/13

東8丁目通り 再考②

 昨日ブログの続きです。東8丁目通りに重なる等高線のふくらみについて、「札幌本府建設地と地形」(「公文書館だより」第6号2019年1月発行)には次のように記されています(引用太字)。
 さらに(引用者注:豊平川の)左岸側は等高線のふくらみが川から離れて北に向かっている。この右岸から続く微高地は以前繋がっていた自然堤防であり、札幌川は豊平橋辺りから北への流れが、一条橋の西岸近辺の等高線が南へへこんだ部分を通りその北方へ延びていたことが推察される。

 豊平川のかつての本流たる「札幌川」がどのように流れていたか、この引用文の記述に基づいて昨日載せた「視形線図」になぞってみました。
札幌市街之図 視形線図 札幌川河道跡推定
 橙色の○で囲ったのが豊平橋、黄色の○が一条橋です。「豊平橋辺りから北への流れが、一条橋の西岸近辺の等高線が南へへこんだ部分を通りその北方へ延びていたことが推察される」旧河道を水色でなぞりました。この旧河道が現在の流路に変わったのは19世紀初頭です(末注①)。

 水色でなぞった旧河道の右岸(東)側の「北に向かっている」微高地は、豊平川旧河道(サッポロ川)の自然堤防であったことが推測されます。とすると、赤い線でなぞった東8丁目通りは、自然堤防という微地形を生かして道を敷いたのかもしれません(末注②)。

 現在の標高図で、東8丁目通り付近の地形を観てみます。
現在図 16m以下から1mごと7色段彩 東8丁目通り
 標高16m以下から1mごとに7色段彩で作成しました。白ヌキ実線が東8丁目通り、破線が現在の通りです。この図でも、通りに沿って微高地が窺われ、通りの西側は若干低くなっています。しかし、現在の地形であり、視形線図が描かれた1924(大正13)年に比べて土地の平準化が進んだことも考えられます。また、1mごとの色分けであり、おおまかです。視形線図の等高線1尺(約0.3m)ごとの細密さにはかないません。

 注①:1806(文化3)年、幕府の遠山金四郎、村垣左太夫が西蝦夷地を巡検して残した報告書「遠山村垣西蝦夷日記」に、「四五年以前大水にてサツホロの川上切所出来」、流路が切り替わったことが記されている。いわゆる「河川争奪」。『新札幌市史』第八巻Ⅱ年表・索引編2008年、p.16、山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.112-114、宮坂省吾「札幌の失われた川を尋ねて」『北海道の自然』№55、2017年、pp.20-27
 注②:「札幌本府建設地と地形」の他の箇所で執筆者の榎本さんが指摘するように、道路や鉄路敷設に伴う盛り土の可能性もある。

2019/02/12

東8丁目通り 再考

 札幌市の「公文書館だより」第6号2019年1月発行に、「札幌本府建設地と地形」という論考が掲載されています。同館の榎本さんが所蔵資料「札幌市街之図 視形線図」という古地図を基に、札幌の中心部の成り立ちを地形との関わりで考察したものです。
 1924(大正13)年に「札幌市役所編纂」により発行された同図は、いわゆる標高図です。5000分の1の地図に、等高線が1尺(約0.3m)ごとの細い実線(いわば主曲線)、5尺(約1.52m)ごとに太い実線(計曲線)で描かれています。榎本さんも記すとおり「高低差1尺だとかなりの微地形が読み取れ」、しかも1924年という発行年からして札幌中心市街の創成期の原地形も察せられます。
 私はこの「視形線図」を、札幌市博物館活動センター情報誌「ミューズ・レター」№69、2018年7月発行で知りました。同センターの古沢さんが「100年前の地形図が教えてくれたこと-古い資料から読み解く新しい発見」という記事で紹介されています。これを読んだとき、私は「さすが、自然史系!」と心中で唸りました。
 
 どんなことが読み取れるかは、榎本、古沢両氏の記述をお読みいただくとして、私が同図からとりあえず注目したのは「東8丁目通り」です。この通りのことは拙ブログで前にあれこれ取り上げました(2017.7.31ブログ参照)。

 ここでいう東8丁目通りというのは、下図で赤い線でなぞった道です(末注)。
現在図 東8丁目通り 地理院地図
 きっかけは、この通りが北1条、北2条でクランクしていることでした(2017.7.19ブログ参照)。

 視形線図でこの通りを観てみます。
札幌市街之図 視形線図 東8丁目通り
 赤い線でなぞったのがくだんの通りです。なお、同図は札幌の中心部の碁盤目に上下を合わせており、方位は上が真北ではありません。
 通りは、当時はまだクランクしておらず、まっすぐです。参考までに現在のクランクを橙色で加筆しました。
 
 興味深かったのは、この通りが南端の南1条、豊平川河岸から鉄道のあたりまで、等高線の尾根状の“ふくらみ”とほぼ一致していることです。

 注:路線名としては、国道12号以南は道道札幌夕張線、北は市道真駒内篠路線であるが、ここでは東8丁目通りとする。

2019/02/04

北1条・宮の沢通 ⑥

 ここしばらく、北1条・宮の沢通とその道路敷地内に立つ北海道神宮の関連物件、すなわち第一鳥居や石柱(社号標)のことをブログに綴ってきました。きっかけは砂川市にある神社と碑です。“政教分離”という悩ましい問題との兼ね合いで逍遥してきました。これまでの内容は、事実関係が大半です。鳥居や石柱が道路占用の許可を受けつつ占用料を免除されている理由が「記念碑」とか「歴史的背景」であることから、史実をあとづけてもきました。
 政教分離というと肩が凝る話題にも聞こえますが、こういう観点で物件を眺めることもまた逍遥の甲斐があるかなとも思います。すんなりと結論を出すのではなく(それは、理路整然と簡潔明瞭に断じることができない私の知的能力に由るのですが)、あれこれ彷徨したい。結局私は、世の中には(少なくとも私には)すんなりと割り切れない物件が存在することを体感したいのかもしれません。
 これからは政教分離に関する裁判所の判例と、宗教特に神道に関する諸論考を俎上に載せていくこととします。が、拙ブログのこととて、わき見寄り道脱線をお許しください。

 さて、政教分離に関する判例としては、砂川の神社を違憲とした2010(平成22)年最高裁判決から出発します(本年1月6日ブログ参照、判決要旨は右記サイト参照→http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=38347)。
 判決文に書かれているとおり、この判決は「最高裁昭和46年(行ツ)第69号同52年7月13日大法廷判決」で示された憲法判断を基にしています。いわゆる「津市地鎮祭事件」の判決です(要旨は右記サイト参照→http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=54189)。この判決のキモは「目的効果基準」だと思います。その概要は判決文に当たっていただくとして、結局、何をもって「宗教的活動」とするかは、「外形的側面のみにとらわれることなく」、「当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従つて、客観的に判断しなければならない」としています(p.6)。前提にあるのは、「宗教的行為」と「世俗的行為」の兼ね合いです。判決は、津市が体育館の起工式で行なった地鎮祭を「世俗的な行事」とし、憲法が禁ずる宗教的活動には当たらず合憲としました。
 この判決そのものにも、また目的効果基準という考え方にも批判はあろうかと思います。が、とりあえずこの基準に照らしたとき、鳥居や石柱はどうなのでしょうか。

2019/02/03

北1条・宮の沢通 ⑤

 北1条西19丁目から西を望みました。
北1条・宮の沢通 北1西19から西望
 
 ズームアップすると…
北1条・宮の沢通 北1西19から西望 ズームアップ 第一鳥居
 道路のアイストップに第一鳥居が位置しています。 ただし、鳥居の左側が建物に隠れていて、全体像は見えません。

 道路が屈折しているからです。
現在図 北1条・宮の沢通 北1西19から西望
 現在図に前掲画像の撮影場所を青いの先で示しました。第一鳥居(北1条西25丁目)は赤い線上にで記した位置です。北1条・宮の沢通は、青いと第一鳥居の間、すなわち西20丁目から西24丁目が西19丁目以東、西25丁目以西とまっすぐにはつながっていません。黄色の線でなぞった部分がナナメっています。

 2月1日ブログで記したとおり、黄色の部分は1920(大正9)年につながりました。
現在図 北1条・宮の沢通 西20-24丁目
 橙色でなぞった西19丁目以東と赤でなぞった西25丁目以西は、それぞれ先に開かれたものです。これまで綴ってきたように、赤でなぞった道は札幌神社の参道として敷かれました。札幌本府の碁盤目の延長である橙色の道とは別の論理で造られているので、結果的に“ズレ”が生じたのでしょう。
 旧藻岩村は大正末から昭和初期にかけて、札幌区側の碁盤目に合わせた道路網を整備しました(末注)。近郊農村から市街地への変貌を見越してのことで、現在の街並みに至ります(本年1月7日ブログ参照)。それでも、こういう痕跡が遺るものです。

 『円山百年史』1977年は、道路をつなげた経緯を次のように記しています(pp.264-265、引用太字)。
 たまたま大正九年は、札幌神社例大祭を、敬神講社第十本府祭典区(札幌駅前通りを中心とする地区)が年番(全祭典区の代表として御輿渡御祭儀を行う当番)となって行った。同祭典区では、この行事を記念して神社拝殿から札幌市街までをまっすぐに結ぶ道路の開鑿を発議し、既存の北一条通りを西へ延長して西二十丁目から西二十四丁目第一鳥居まで約三百間の野菜耕作地に、幅十一間の道路を開削して札幌神社参道としたものである。(中略)
 この道路開鑿に当っては、土地は当時の所有者より無償提供され、同祭典区が工事費を負担して、完成後は札幌市(当時は札幌区)に寄附し、札幌市道として認定されたものである。
 この道路が開鑿されたことにより札幌間の交通が便利になり、沿道沿いには住宅や店舗が急激に増えていった。


 札幌区と藻岩村の住民参加と協力によって、“表参道”が形成されました。

 注: 『円山百年史』pp.72-75。2017.9.8ブログ参照

2019/02/02

北1条・宮の沢通 ④

 1月31日ブログで、北1条・宮の沢通のうち、北海道神宮から第一鳥居までは参道として作られたことを述べました。関連文献には次のように記されています。
・『円山百年史』1977年、p.40
 社殿造営と同時に、創成橋から円山村に至る御本府通り(今の南一条通り)二十八町、円山村から神社に至る宮通り(今の第一鳥居から神宮まで)八町が拓かれて交通の便が加わった。
 この宮通りの開鑿には円山村住民は総出で伐開作業の奉仕に出たという。また後に、境内地の作業奉仕、例祭日の奉仕、氏子崇敬講、舞楽保存会等の神社を中心とする行事が盛んになり、これが村人の親睦を深める力ともなっていった。(末注①)
・同上p167
 神域が定まり仮本殿の造営工事に際して、円山村から神社まで八町余の参道は、開拓使人夫のほかに、当時円山に移住していた約四十五戸の農民たちがこの開墾に奉仕している。また円山の移民は、御鎮座の後も、神社からの要請があれば年中いつでも率先して、境内の雑草刈、植林地の地均し、参道の補修などの奉仕をしながら敬神の念を深めたものである。
・『北海道神宮史 上巻』1991年、pp.119-120
 この(引用者注:札幌神社社殿)造営工事と同時に創成橋から、円山村に至る道路二十八町(三〇五五メートル)余り、それに円山村から境内までの参道の八町(八七五メートル)を開いた。この参道の開鑿には、開拓使の人夫のほかに酒田県(現山形県)や岩手県から円山地区に移住した四十三戸の農民たちが草木を刈り、荒野を開墾し奉仕した。
 
 かくして開かれた参道に現在の第一鳥居の前身が最初に建てられたのは1895(明治28)年です(2018.12.24ブログ参照)。「境外地に立つ、唯一の鳥居であった」といいます。さらに1928(昭和3)年、「上田万平他円山会の寄進」により鉄筋コンクリート銅板巻張りに建て替えられました(末注②)。「円山会」というのは1919(大正8)年、円山村の「部落共有財産の維持管理のために設立された」組織です(末注③)。なお、明治28年鳥居は、「円山崇敬講」が寄進しました(末注④)。円山崇敬講(札幌神社崇敬講)は文字どおり神社崇敬の住民組織です。こちらも上田万平が中心となっています(末注⑤)。

 こうしてみると、参道も鳥居も、神社と地域住民がいわば一体となって作ったものといえましょう。

 注①:「御本府通り(今の南一条通り)」は、札幌神社が1871(明治4)年に祀られる前、幕末に開かれた銭函道~サッポロ越新道が原形となったと思う。
 注②:『北海道神宮史 上巻』pp.343-344
 注③:『円山百年史』p.188。町内会組織の前身ともいえる「公区」に先立ってこのような住民自治組織があったことは興味深いが、措く。
 注④:同上pp168-170
 注⑤:同上pp169。上田万平は親子二代にわたって襲名しており、明治28年鳥居は初代、昭和3年鳥居は二代目であろう。

2019/02/01

北1条・宮の沢通 ③

 大正5年地形図です。
大正5年地形図 札幌神社参道
 昨日ブログ明治6年札幌郡地形図と較べてみると、北1条の通りが西へ伸びているのが判ります。橙色の線でなぞった道です。西端は西19丁目あたりまで達しています。ここは当時の札幌区と藻岩村の区村界が分かたれていたところです。境界線を黄色の線でなぞりました。
 一方、札幌神社からの参道は赤い線でなぞったとおり、西25丁目までです。西20丁目から西24丁目の間はまだ道が通じていません。

 明治29年地形図で同じところを見てみます。
明治29年地地形図  札幌神社参道
 橙色でなぞった北1条の道と赤い色の神社参道は同じです。
 前掲の大正5年地19形図に比べると、周辺の碁盤目の街区がむしろ細密に描かれています。計画路線という可能性もありますが、明治20年代前半の他の地図と照らすと、いずれにせよ北1条の道は区村界(当時は円山村)の西19丁目あたりまで通じていたようです。

 西20丁目と西24丁目の間をつないだのが1920(大正9)年とみられます。これを記念して建てられたのが1月22日ブログに記した北1条西4丁目の「北海道総鎮守 北海道神宮」の石柱というわけです。

2019/01/31

北1条・宮の沢通 ②

 1月27日ブログの続きです。
 「北1条・宮の沢通」がどのようにできたか、振り返ります。
 まず、現在図です。
地理院地図 北1条・宮の沢通 
 北1条・宮の沢通を赤い実線でなぞりました。黄色の▲の先が北1条西4丁目、「北海道総鎮守 北海道神宮」の石柱、赤い▲の先が北1条西4丁目、第一鳥居の位置です。北海道神宮は〇で囲みました。

 次に、たびたび引用させてもらっている明治6年「札幌郡西部図」です。
明治6年札幌郡西部図 札幌神社 参道
 赤い○で囲ったところに、文字は下から上へ「札幌神社」と書かれています。
 この古図によれば、現在の北1条・宮の沢通(の原形)は部分的にしか、通じていません。

 関連する当時の古道を、現在図に当てはめてみます。
地理院地図 北1条・宮の沢通 明治6年当時の古道
 神宮(札幌神社)の周辺の道を赤い実線でなぞりました。東端は北1条西25丁目、すなわち第一鳥居のところです。札幌の中心部では橙色の実線のとおり、西端は北1条西7丁目までで途切れています。つまり北1条西8丁目から西24丁目は、道がありません。

 明治6年古図の、札幌神社あたりを拡大してみます。
明治6年札幌郡西部図 札幌神社参道
 神社から現在の第一鳥居までの道は、神社への参道として拓かれたことが見て取れます。第一鳥居は参道の起点に建てられたわけです(2017.9.20ブログ参照)

2019/01/30

胆振川 再考 ②

 昨日ブログの続きです。
 千両小路沿いの水路(胆振川)と創成川(前身の大友堀)の流路を明治11年「北海道札幌之図」と明治6年「札幌郡西部図」で較べると、違いが見られます。
明治11年札幌市街之図 創成川 胆振川 明治6年流路加筆 拡大
 (明治11年地図、着色加筆は昨日ブログ参照)。

 違いの一つは、創成川(大友堀)の起点です。明治6年地図では、起点は水路(胆振川)から分岐しています。前掲図で黄色の三角の先に示したところです。

 明治6年作成の古地図をもう一枚、見てみます。
明治6年北海道札幌之図 鴨々川 胆振川 大友堀
 開拓使測量課「北海道札幌之図」1873(明治6)年からの抜粋に前例と同じく着色加筆しました。

 位置は若干ずれていますが、創成川(当時は大友堀)の起点はやはり水路(胆振川)から発しています。これらの図から、1873(明治6)年時点では胆振川を基点としていた大友堀が、5年後の1878(明治11)年には鴨々川から直線化されたことが判ります。また、明治6年「北海道札幌之図」を見ると、水路(胆振川)の千両小路(赤いカギの手)沿いはこの時点ですでに通じていたようです。この部分はすでに人工的とみられます(末注)。

 昨日ブログで私は、水路(胆振川)の整形について「創成川との役割分担」と記しました。水路(胆振川)は開拓使工業局への用水、創成川(大友堀)は下流への水運です。しかし、1873(明治6)年時点では大友堀も胆振川から取水していたことからして、水路の千両小路沿いの部分は役割分担以前、すでに人工的に整えられたといえます。2014年に小路や胆振川のことを記したときに私の思いが至らなかったのは、そのことです。 

 これは私の発見でも何でもなく、先人が40年近く前、すでに知見を得ています。『東区今昔 大友堀』1982年で、水路の小路沿い部分について「大友堀に水量を増やすために試みた短絡水路の遺構」と喝破しているのです(同書p.108)。以下、一部を引用します(太字)。
 堀の取水口から胆振川の上流に向けて旧跡をたどると、中央区南七条西三丁目成田山新栄寺境内に入る。その南側の七条通りをはさんで、料亭川甚の脇に斜めの細い小路がある。
 開拓使は大友堀を改修し、物資の運搬路としようと計画したが、そのためには水量を増やし舟行を可能にしなければならない。そこで、水源となっている胆振川に水を多くし流し込む必要が生じ、鴨々川と胆振川を短絡させる新水路を開削した。その埋め立てられた跡が今に道路として名残をとどめている。それがこの小路なのである。


 あえて私の新味をいうならば、小路そのものが水路の遺構というよりは、小路から料亭街の敷地をはさんだ東側に水路の痕跡を見たことでしょうか(昨日及び2014.7.26ブログ参照)。

 千両小路界隈の地番図2018年です。
2019年地番図 千両小路
 千両小路に当たる地割を赤い線で囲みました。私が水路の痕跡とにらんでいるのは、黄色の線で囲ったほうの、細長く分筆されている地割です。

 注:水路の千両小路沿いの人工性については2014.7.25ブログ参照

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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