札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/01/29

大通公園の黒田、ケプロン像

 佐藤忠良のレリーフ「開拓」(1月27日ブログ参照)は、“まぼろしの百年記念塔”構想(1月17日ブログ参照)が一つのきっかけとなったと私は想います。“まぼろし”塔が階層性、上下関係を明確に示していたのに対し、レリーフは必ずしもそうは見えません。北海道の歴史が時系列で横並びされています。“開拓”の視点であることは否めません。こんにち的にみれば限界、制約はあります。しかし私は、このレリーフもまた歴史的な産物であることを見て取りたいと思います。 

 一方、“まぼろし”の構想は、別な形で実現しました。
 民間有志によって1967(昭和42)年、「北海道開拓功労者顕彰像」が4体、建立されたのです。4体というのは、黒田清隆とホーレス・ケプロン、岩村通俊、永山武四郎です(末注)。

 黒田とケプロンの像は、札幌の大通公園、西10丁目にあります。
大通公園 黒田、ケプロン像
 “まぼろし”構想時の明治天皇、黒田、佐藤昌介、依田勉三から、上記の4体に変わりました。

 これらの像は、民間有志が「建立期成会」を作り、寄付金を集めて建てたものです。会長は当時の北海道商工会議所連合会会頭。建てられたのは都市公園内で、建立には北海道と札幌市、旭川市の補助金も充てられています。百年記念塔は、道費に民間の寄付を加え、知事を会長とする「建設期成会」のもとで建てられました。規模の違いはありますが、記念塔と4銅像に本質的な違いはないのではないかと私には思えます。

 もし、「アイヌ民族には絶対に容認できない、アイヌ民族不在の歴史観に基づく」ことを理由に、百年記念塔を「早急に解体」すべきだとするならば(1月10日ブログ参照)、つまり老朽化を本質的理由としないならば、論理的には4銅像もその対象とせざるをえなくなります。札幌市役所本庁舎ロビーの島義勇像はどうでしょうか。台座に刻まれている銘文は「容認」できるものでしょうか(2017.7.26ブログ参照)。解体する・しないをどこで線引きできるか。

 かつてソ連邦が崩壊したとき、かの国の各地でレーニン像が倒されました。現在、米国では南部の州で南北戦争の南軍側英雄(リー将軍とか)の銅像を撤去する動きがあると聞きます。百年記念塔の解体を求める意見と通底する現象に見えます。
 過去の歴史観を現在の歴史観で裁くこと=“後出しじゃんけん”には、慎重でなければならないと私は思います。しかし、レーニン像にせよ、リー将軍像にせよ、“後出しじゃんけん”とは言い切れない同時代性が包含されています。問題はどう裁くか、だとも思うのですが、これが一筋縄ではいきません。
 
 ありきたりな結論で申し訳ないのですが、銅像や碑、モニュメントというモノは、建てるのも、遺すのも、壊すのも難しい。
 百年記念塔については、ありきたりではなく危険な結論を述べます。無責任を承知で言いますが、「北海道百年」の歴史的末路として自壊に委ねるというのはどうでしょうか。ひたすら朽ち果てるのを待つ。周囲に「破片が飛散して危険です」という注意を促して、カネをかけずに放置する。「見るに堪えない」って?(1月21日ブログ参照) しかし、そういうモノを50年前に先人が造ったのですからね。

 注:『北海道百年記念事業の記録』1969年に、「この案(引用者注:明治天皇ほかを顕彰する記念塔構想)に対しては、像の対象人物の選び方と建設場所が問題であるという意見もあり、のち結果的には記念塔と別に開拓功労者の銅像が民間有志によって建立されることになった」と記されている(p.48)。岩村像は円山公園、永山像は旭川の常盤公園に建てられた(同書p.137)。 
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2018/01/28

忠良さんのレリーフ 道庁と百年記念塔

 佐藤忠良のレリーフ「開拓」。
 道庁庁舎の説明によると、1967(昭和42)年から1968(昭和43)年6月に制作されました。
 道庁の大理石壁面と北海道百年記念塔の鉄製を見比べると、一部異なっています。
道庁 忠良さんレリーフ 拡大
百年記念塔 忠良さんレリーフ 拡大
 前者では、先住民の狩猟に続いて右側には針葉樹林(エゾマツか)、そして木を伐る開拓者が彫られていますが、後者では樹林の隣は馬に乗る二人の人物、開拓使の本庁舎が続きます。樹林の上のエゾシカ?は、道庁のは2頭ですが、記念塔は1頭です。記念塔の方は、通路のサイズに合わせて一部割愛されたのでしょうか。

 騎乗の二人は、手前が黒田清隆、奥がケプロンです。その二人の右上に、異なる七光星が輝いています。
道庁 忠良さんレリーフ 七光星
百年記念塔 忠良さんレリーフ 七光星
 記念塔の方は、百年記念で制定された北海道章のデザインとなっています。

 忠良さんのレリーフは、まぼろしの百年記念塔(1月17日ブログ参照)で構想された「開拓の絵図」の「浮き彫り」が実現されたもののように思えます。

2018/01/18

泉下の碩学に教えを乞う

 札幌建築鑑賞会で協力しているウエブサイト『北海道マガジン カイ』連載「愛され建築」第5回が公開されました。
 ↓
http://kai-hokkaido.com/architect005/
 
 今回は中央区北6条西12丁目の「ふきのとう子ども図書館」です(2017.10.252014.8.11ブログ参照)。新しい図書館の建物と併せて、隣接する故高倉新一郎先生旧宅が紹介されています。ふきのとう文庫のことはこれまでもマスメディアなどで取り上げられていますが、室内の写真を添えて旧宅を載せたのは本邦初公開?かもしれません。ご当主に無理をお願いして、撮影させていただきました。
 それもこれも、この旧宅が将来再活用されることを願ってのことです。その日が来ることを鶴首してやまないのですが、私は心中痛みも感じています。「では、そういう自分は実現のために力を尽くしているのか?」と自問したとき、忸怩の念が募るからです。

 30年ほど前、元の持ち主である故新一郎先生にお目にかかったことがあります。今思い出すにつけても赤面汗顔しますが、北海道アカデミズムの御大に、若造が偉そうなことを申しました。何をしゃべったか再現するだに恥ずかしい。歴史的遺産の保存活用のためにもっと啓発したいとか。啓発されるべきはまずもって自分自身であることを、先生から教えられました。札幌建築鑑賞会を26年続けてきたのは、その延長です。
 私が拙ブログで綴る時空逍遥の多くは、たいてい故新一郎先生が拓いた地平で遊ばせてもらっているようなものです。先日来取り上げている北海道百年記念塔もしかり。先生は百年記念事業の計画策定の中心にいました。先生ご存命なりせば記念塔のことだけでも、いろいろお尋ねしたかったものを。

2017/11/24

たくぎんのみこし

 11月19日ブログの続きです。
 札幌建築鑑賞会スタッフNさんから、「たくぎんのみこし」の写真を送っていただきました。
たくぎん みこし
 「窓の外から覗いたこんな写真しかありませんでした。窓の桟があり、『た』の半分と『ん』しかわかりませんねー。でも、こんな写真でも撮ってなければ忘れてしまうから、よかったですよ」と。

 たしかに、時計台をかたどって、文字盤のところの「た」と「ん」は「たくぎん」のロゴタイプですね。Nさん、どうもありがとう。

2017/11/19

たくぎん旧本店 ②

 今は亡きたくぎん旧本店の内部です(2002年撮影)。
たくぎん旧本店 内部 事務椅子 
たくぎん旧本店 内部 テーブル
 どこにでもありがちな事務椅子やチープな感じの円卓が無雑作に置かれて、今見ると私はむしろほっとしました。昨日ブログに載せた建物本体や建具などのデコラティブな意匠は、「贅を尽くした」とまでは見えませんが、空疎感が否めなかったのです。

 古い新聞記事のスクラップを見直したら、次のように報じられていました(『北海道新聞』1998年11月2日「消える拓銀 数々の遺産はどこへ行く?」 引用太字)。
 実は拓銀側は、この旧本店を開拓記念館の開拓の村(原文ママ)に移し、寄贈資料はそこで所蔵をと考えていた。ところが、億単位の移築費用がかかるうえ、この旧本店は本来の建物の部分復元のため、話は立ち消えに。北洋銀も「継承」しない。

 現在北海道開拓の村に保存されている建物の中で、たとえば「旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)」は部分的にしか復元されていません。本件たくぎん旧本店の復元は、費用がネックだったと思います。
 2001年、本件建物を含むたくぎんの旧荒井山研修所が宗教法人に売却されたときは、次のような記事もありました(同上2001年11月17日「『拓銀』のシンボル消える?」 引用太字)。
 市市民文化課は売却直後に旧本店を映像に収録、○○○○課長(原文は個人名)は「(取り壊しは)残念だが仕方ない」と話している。

 ほう。記録はやはり、あるところにはあるものですね。知りませんでした。私が知らなかっただけで、探し方が下手なのかもしれませんが、こういう情報はできるだけアクセスしやすくしてもらえるとありがたいですね。

 札幌建築鑑賞会通信『きーすとーん』第29号(2003年1月1日)の記事「2002年・追憶の建物たち」で、スタッフNさんが本件建物解体を偲んで、次のように綴っています(p.6、引用太字)。
 4年前訪れた時、内部に「たくぎん」の文字のある時計台型の「みこし」がポツネンとあった。かつてはたくさんの若い行員にかつがれ、中心部をねりあるいたのだろうと思うと、胸の痛む思いがした。

 さすがNさん。生活感のにじんだ着眼です。こういう記録が、私の昨日ブログの画像だけでは伝わってこないのですよ。他のおおかたの電網情報もしかり。
 1998年、確か私はNさんと一緒に見に行って、たくぎんの御輿は私もうっすら脳裏に残っています。しかし当時は「ああ、旧本店ともあろう建物が、物置と化しているんだなあ」と思った程度です。2002年に撮った前掲の安っぽい事務椅子も、「なんだか、建物にそぐわないなあ」くらいにしか思ってなかった。浅はかでした。Nさん、たくぎんの御輿、写真に撮ってないかなあ。

2017/11/18

たくぎん旧本店

 宮の森に部分移築された北海道拓殖銀行旧本店の建物が解体されてから、15年が過ぎました。この建物の画像が電網上で皆無とはいわないが少ないのは、社会の変化と相関しているのかもしれません。たくぎんの行員だった方はきっと写真に撮っているだろうし、公的な機関などでも収蔵されていると思います。ただ、この建物が現役だった時代は、現今のように一般の人がパチパチと撮ることはなかったでしょう。とくに宮の森に移ってからは、場所柄からして一般人の目に触れる機会は少なくなりました。たくぎんが経営破綻したのちは、土地建物ごと新興宗教団体の手に渡ったので、なおさらです。比較的少数ながら写真を撮っていた方にしても、かつては今ほど電網社会が身近ではなかったことでありましょう。いや、ほかならぬ私自身が電子化に疎かった(今でも)のです。

 そのスキマを埋めるべくというわけでもありませんが、拙ブログで記録と記憶にとどめておきたいと思います。撮影はいずれも2002年5月です。当時私はまだ、フィルムカメラでした。
 まず、外観のディテール。
たくぎん旧本店 外観①
たくぎん旧本店 外観②
たくぎん旧本店 玄関

 次に内部です。
たくぎん旧本店 内部 カーテンボックス
たくぎん旧本店 内部 階段親柱
たくぎん旧本店 内部 照明
たくぎん旧本店 内部 照明吊元
たくぎん旧本店 内部 天井換気口
たくぎん旧本店 内部 マントルピース
たくぎん旧本店 内部 金庫
[つづく]

2017/11/17

20年前の今日

 何が起きたかということは報道されているとおりです。
 それを偲びます。
たくぎん旧本店 建物 2002年
 1909(明治42)年、大通西3丁目に建てられた北海道拓殖銀行本店の建物で、1959(昭和34)年宮の森に部分移築されました(末注)。2002年5月に撮ったものです。たしか、この後まもなく解体されました。
 この建物の写真が、電網上で意外と見つけられませんでした。見つかったと思ったら、札幌建築鑑賞会関係のサイトだったり、記述が不正確だったり。電網社会にはありがちですが。
 創建時は「木骨石張り」で、移築時にはRCとされたようです。移築に際し、細部意匠がかなり変更されているといいます。では、元の場所にあったときはどうだったか。これも、意外と見当たらない。たくぎんの周年記念誌が出どころらしいものはありますが。

 1957(昭和32)年頃撮影という写真を載せます。
たくぎん 旧本店 1957年頃
 札幌建築鑑賞会で2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」展に、Kさんから出品していただいたものです(所有者ご本人が写っているところを一部加工しています)。手前味噌ですが、こういう写真があまり露出していない。撮影年という点でも、昭和30年代は逆に珍しいかもしれません。Kさん、ありがとうございます。

 宮の森にあったときは札幌軟石のような色合い肌合いだったのですが、この写真を見るとずいぶん白いですね。真ん中の部分が1/3くらいにカットされています。右側の翼棟は元は三角ペディメントですが、移築後は櫛形に変わってます。[つづく]

  注:日本建築学会編『総覧 日本の建築1 北海道・東北』1986年、p.19。以下、建物に関する記述は同書による。

2017/10/27

南8条・○(マル)源Sさん宅の石蔵

 中央区南8条に遺るSさん宅の石蔵です。
南8条 Sさん宅石蔵
 昨日ブログでお伝えしたMビルの外壁に刻まれた印「○(マル)源」がこちらの妻壁にも見られます。

 本件は、札幌市内に遺る石蔵の中でも本格的な一棟だと私は思います。「本格的」というのは、細部にわたって‘簡素化’された形跡が窺われないということです。
 ・基壇部に焼過ぎ煉瓦を積んでいる。煉瓦は軟石に比べて吸水性が低いので、基壇部に適しているが、焼過ぎ煉瓦は普通煉瓦に比べてさらに撥水性が高い。
 ・軟石の表面は小叩き仕上げ。丁寧な仕上げ方である。なお、軟石の幅厚からして、構造は木骨ではなく、純石造と思われる。
 ・窓は、蛇腹を重ねた観音開きの扉。装飾的な窓台。瓦の下屋を架けている。
 ・軒と胴に、蛇腹を廻している。軒蛇腹(コ-ニス)は中央部で破れていない(水平線が切れていない)。
 ・瓦屋根に、棟飾りを載せている。

 持ち主のSさんによると、本件石蔵は1910(明治43)年、リンゴの貯蔵庫として建てられたそうです。S家のことは、山崎長吉先生の『中島公園百年』1988年に詳しく記述されています(pp.30-32)。S家のご先祖は旧亘理藩士で、明治初期、藩主伊達家に随って有珠に入植しました。一方、一族の一人は山鼻屯田兵村に入植し、明治中期から果樹園を経営します。かつて札幌本府の郊外に当たるこのあたりは水原寅蔵が我が国でも先駆的にリンゴ園を始めた一帯です。S家も水原に範として、リンゴ栽培で成功しました。
 私が先日Sさんにお訊きしたところでは、リンゴ園を営んでいたのは1918(大正7)年までで、1920(大正9)年からは味噌醤油醸造に転じました。そして昨日ブログの話につながります。

 本件石蔵について、札幌建築鑑賞会で前に得ていた情報では「大正初期築」でしたが、今般の持ち主の方からの聞取りに基づき、1910(明治43)年築を採ります(明治末期と大正初期はさほどの違いではないのだが)。昨日更新した軟石建物の築年別内訳を、さらに次のとおりあらためます(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)

 それにしても、この石蔵がリンゴ貯蔵庫に由来するとは、これもいささか驚きました。建築年代からすると、和風在来的な外観意匠であるのは頷けますが。用途は「倉庫」ではなく、「蔵」のままとします。リンゴ貯蔵に使われていた年数(引き算すると、8年)よりも、その後現在までの歳月(99年!)のほうがはるかに長いというのも、感慨を覚えます。Sさんが長く大切に遺してこられたことに敬意を表します。私は文庫蔵的な使われ方をしてきたと想像するのですが、Sさんには今後も聞取りさせていただきたいと思っていますので、判りしだい続報します。

2017/10/26

南8条 Mビル 札幌軟石

 本年8月下旬、札幌建築鑑賞会スタッフNjさんから、札幌軟石の建物が新たに建っているというお知らせをいただいていました。
南8条 Sさん宅 事務所
 中央区南8条、鴨々川の近くです。先月中ごろ、現地に行って外観を眺めてきました。ほぼ完成して、内装の工事をしている様子でした。

 札幌軟石をまるごと外壁に用いた、しかもかなり大きな新しい建物です。びっくりしました。のみならず驚いたのは、使われている軟石が古そうなのです。表面がいわゆるツルメ、つまり手彫りの仕上げです。新しく切り出した軟石を手彫りで仕上げるということもなくはないでしょうが、もし新しい石材ならば色合いが全体に一様になってもいいと思います。しかるに本件は、なんとなくバラツキがあります。そこがまた味わい深いところでもあります。これはただならぬ気配を感じました。

 今月に入り工事も終わった様子でしたので、思い切ってお訪ねしました。社長さんはご不在でしたが、後日お話をお聴きすることができました。
 持ち主のSさんによると、この軟石は大正14年に建てられた味噌醤油の蔵に使われていたものだそうです。その蔵は本件建物の後ろ、現在ホテルが建っているところにありました(前掲画像、左方の高層ホテル)。21年前、ということは1996(平成8)年にその蔵は解体され、跡地にホテルが建ちました。Sさんがおっしゃるには、「解体した軟石をどこかで活かしたい、利用したい」と考え、南区石山で保管してきました。そしてこのたび、21年の星霜を経てよみがえったというわけです。

 文章にすると数行ですが、私には驚きの連続です。北11条のNさん宅元味噌醤油蔵の「離島キッチン」への再生(10月19日ブログ参照)に続き、天晴れと申し上げたい。
 
 本件建物は不動産賃貸業を営むSさんの会社の事務所として使われています。本日のブログのタイトルを「Mビル」としたのは、会社の屋号(印)である「○(マル)源」の頭文字を取りました。このあたりを歩いたことのある方はお気づきだと思いますが、実は近くに同じ印を妻壁に刻んだ石蔵が遺っています。明治期にこの地で果樹園を営んでいたS家の石蔵です。古い石蔵のほうはあらためてお伝えします。
 
 これにて、札幌市内の軟石建物は本件を「再生新築」として1棟を加え、総数は413棟となりました。築年別内訳は10月12日ブログから更新して、以下のとおりです(末注)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:30棟(7.3%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)
  
 注:本件の築年を「大正期」に含めたが、「再生新築」の場合は悩ましいところである。

2017/10/25

桑園博士町 ふきのとう文庫

 市道試験場線の話が長引いてます。10月23日ブログで、「私が気になっている地点がとりあえず2箇所」あると記しました。そのうちの1箇所目、試験場線の起点のことは昨日ブログに記しましたが、2箇所目のことはまだ触れていません。こちらも文献渉猟、史料考察的な話になりそうです。が、それを続けるのは書く方も読む方も肩が凝ってきます。ここでちょっと話題を転じます。

 桑園博士町を歩きました。
 訪ねた先は、子ども図書館「ふきのとう文庫」です。
ふきのとう文庫 201710
 学生時代の恩師、T先生が館長を務めている民設民営の図書館で、特に心身にハンディのある子どもたちのための図書を広める活動をしています(正確には、T先生は運営する公益財団法人の代表理事。同文庫サイト参照)。

 敷地の一角にある先生の旧宅が綺麗になっていました。
桑園 T先生宅 外観201710
 大正時代に建てられた洋館です(2014.8.11ブログ参照)。今年、下見板貼りの外壁にびっしり絡まっていたツタを取り払い、ペンキを塗り替えたそうです。建物を長く保つために手入れされていることにも頭が下がります。ツタが絡まっていたときは近所の子どもたちが気味悪がっていたのですが、綺麗になって評判が良くなったそうです。無責任なことを申し上げるならば、江戸川乱歩の探偵小説を彷彿させるようなちょっと妖しげな洋館というのも、個人的には憧憬がありますが。

 帰宅してから資料を見返して気づいたのですが、T先生宅のお隣にかつて新島善直先生(北大農学部教授・林学)がお住まいでした(末注①)。冒頭画像の左方、高層マンションが建っているところです。
 新島先生といえば、先日来拙ブログで話題にしている「試験場」にゆかりの深い方です。野幌林業試験場の元場長。在任は1912(明治45)年から1934(昭和9)年まで20年以上の長期に及び(末注②)、こんにちの野幌森林公園の礎を築いた一人といってよいでしょう。
 野幌と桑園、離れているようで実は深いつながりがありました。またしても私は、お釈迦様の掌に遊ぶ孫悟空のようです。

 注①:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」『北海道大学 大学文書館年報』第2号、2007年、pp.97-98
 注②:西田秀子「林業試験場の人びと」『叢書 江別に生きる10 野幌原始林物語 -森と人々とのシンフォニー-』2002年、p.148。野幌は、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017秋の編で歩いた豊平とも縁があることを先日の西田さんの講演(10月14日ブログ)で知った。それはまた機会をあらためたい。行く先々で、歴史の刻印を思い知る。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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