札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/24

たくぎんのみこし

 11月19日ブログの続きです。
 札幌建築鑑賞会スタッフNさんから、「たくぎんのみこし」の写真を送っていただきました。
たくぎん みこし
 「窓の外から覗いたこんな写真しかありませんでした。窓の桟があり、『た』の半分と『ん』しかわかりませんねー。でも、こんな写真でも撮ってなければ忘れてしまうから、よかったですよ」と。

 たしかに、時計台をかたどって、文字盤のところの「た」と「ん」は「たくぎん」のロゴタイプですね。Nさん、どうもありがとう。
スポンサーサイト

2017/11/19

たくぎん旧本店 ②

 今は亡きたくぎん旧本店の内部です(2002年撮影)。
たくぎん旧本店 内部 事務椅子 
たくぎん旧本店 内部 テーブル
 どこにでもありがちな事務椅子やチープな感じの円卓が無雑作に置かれて、今見ると私はむしろほっとしました。昨日ブログに載せた建物本体や建具などのデコラティブな意匠は、「贅を尽くした」とまでは見えませんが、空疎感が否めなかったのです。

 古い新聞記事のスクラップを見直したら、次のように報じられていました(『北海道新聞』1998年11月2日「消える拓銀 数々の遺産はどこへ行く?」 引用太字)。
 実は拓銀側は、この旧本店を開拓記念館の開拓の村(原文ママ)に移し、寄贈資料はそこで所蔵をと考えていた。ところが、億単位の移築費用がかかるうえ、この旧本店は本来の建物の部分復元のため、話は立ち消えに。北洋銀も「継承」しない。

 現在北海道開拓の村に保存されている建物の中で、たとえば「旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)」は部分的にしか復元されていません。本件たくぎん旧本店の復元は、費用がネックだったと思います。
 2001年、本件建物を含むたくぎんの旧荒井山研修所が宗教法人に売却されたときは、次のような記事もありました(同上2001年11月17日「『拓銀』のシンボル消える?」 引用太字)。
 市市民文化課は売却直後に旧本店を映像に収録、○○○○課長(原文は個人名)は「(取り壊しは)残念だが仕方ない」と話している。

 ほう。記録はやはり、あるところにはあるものですね。知りませんでした。私が知らなかっただけで、探し方が下手なのかもしれませんが、こういう情報はできるだけアクセスしやすくしてもらえるとありがたいですね。

 札幌建築鑑賞会通信『きーすとーん』第29号(2003年1月1日)の記事「2002年・追憶の建物たち」で、スタッフNさんが本件建物解体を偲んで、次のように綴っています(p.6、引用太字)。
 4年前訪れた時、内部に「たくぎん」の文字のある時計台型の「みこし」がポツネンとあった。かつてはたくさんの若い行員にかつがれ、中心部をねりあるいたのだろうと思うと、胸の痛む思いがした。

 さすがNさん。生活感のにじんだ着眼です。こういう記録が、私の昨日ブログの画像だけでは伝わってこないのですよ。他のおおかたの電網情報もしかり。
 1998年、確か私はNさんと一緒に見に行って、たくぎんの御輿は私もうっすら脳裏に残っています。しかし当時は「ああ、旧本店ともあろう建物が、物置と化しているんだなあ」と思った程度です。2002年に撮った前掲の安っぽい事務椅子も、「なんだか、建物にそぐわないなあ」くらいにしか思ってなかった。浅はかでした。Nさん、たくぎんの御輿、写真に撮ってないかなあ。

2017/11/18

たくぎん旧本店

 宮の森に部分移築された北海道拓殖銀行旧本店の建物が解体されてから、15年が過ぎました。この建物の画像が電網上で皆無とはいわないが少ないのは、社会の変化と相関しているのかもしれません。たくぎんの行員だった方はきっと写真に撮っているだろうし、公的な機関などでも収蔵されていると思います。ただ、この建物が現役だった時代は、現今のように一般の人がパチパチと撮ることはなかったでしょう。とくに宮の森に移ってからは、場所柄からして一般人の目に触れる機会は少なくなりました。たくぎんが経営破綻したのちは、土地建物ごと新興宗教団体の手に渡ったので、なおさらです。比較的少数ながら写真を撮っていた方にしても、かつては今ほど電網社会が身近ではなかったことでありましょう。いや、ほかならぬ私自身が電子化に疎かった(今でも)のです。

 そのスキマを埋めるべくというわけでもありませんが、拙ブログで記録と記憶にとどめておきたいと思います。撮影はいずれも2002年5月です。当時私はまだ、フィルムカメラでした。
 まず、外観のディテール。
たくぎん旧本店 外観①
たくぎん旧本店 外観②
たくぎん旧本店 玄関

 次に内部です。
たくぎん旧本店 内部 カーテンボックス
たくぎん旧本店 内部 階段親柱
たくぎん旧本店 内部 照明
たくぎん旧本店 内部 照明吊元
たくぎん旧本店 内部 天井換気口
たくぎん旧本店 内部 マントルピース
たくぎん旧本店 内部 金庫
[つづく]

2017/11/17

20年前の今日

 何が起きたかということは報道されているとおりです。
 それを偲びます。
たくぎん旧本店 建物 2002年
 1909(明治42)年、大通西3丁目に建てられた北海道拓殖銀行本店の建物で、1959(昭和34)年宮の森に部分移築されました(末注)。2002年5月に撮ったものです。たしか、この後まもなく解体されました。
 この建物の写真が、電網上で意外と見つけられませんでした。見つかったと思ったら、札幌建築鑑賞会関係のサイトだったり、記述が不正確だったり。電網社会にはありがちですが。
 創建時は「木骨石張り」で、移築時にはRCとされたようです。移築に際し、細部意匠がかなり変更されているといいます。では、元の場所にあったときはどうだったか。これも、意外と見当たらない。たくぎんの周年記念誌が出どころらしいものはありますが。

 1957(昭和32)年頃撮影という写真を載せます。
たくぎん 旧本店 1957年頃
 札幌建築鑑賞会で2000(平成12)年に開催した「札幌の古き建物たち」展に、Kさんから出品していただいたものです(所有者ご本人が写っているところを一部加工しています)。手前味噌ですが、こういう写真があまり露出していない。撮影年という点でも、昭和30年代は逆に珍しいかもしれません。Kさん、ありがとうございます。

 宮の森にあったときは札幌軟石のような色合い肌合いだったのですが、この写真を見るとずいぶん白いですね。真ん中の部分が1/3くらいにカットされています。右側の翼棟は元は三角ペディメントですが、移築後は櫛形に変わってます。[つづく]

  注:日本建築学会編『総覧 日本の建築1 北海道・東北』1986年、p.19。以下、建物に関する記述は同書による。

2017/10/27

南8条・○(マル)源Sさん宅の石蔵

 中央区南8条に遺るSさん宅の石蔵です。
南8条 Sさん宅石蔵
 昨日ブログでお伝えしたMビルの外壁に刻まれた印「○(マル)源」がこちらの妻壁にも見られます。

 本件は、札幌市内に遺る石蔵の中でも本格的な一棟だと私は思います。「本格的」というのは、細部にわたって‘簡素化’された形跡が窺われないということです。
 ・基壇部に焼過ぎ煉瓦を積んでいる。煉瓦は軟石に比べて吸水性が低いので、基壇部に適しているが、焼過ぎ煉瓦は普通煉瓦に比べてさらに撥水性が高い。
 ・軟石の表面は小叩き仕上げ。丁寧な仕上げ方である。なお、軟石の幅厚からして、構造は木骨ではなく、純石造と思われる。
 ・窓は、蛇腹を重ねた観音開きの扉。装飾的な窓台。瓦の下屋を架けている。
 ・軒と胴に、蛇腹を廻している。軒蛇腹(コ-ニス)は中央部で破れていない(水平線が切れていない)。
 ・瓦屋根に、棟飾りを載せている。

 持ち主のSさんによると、本件石蔵は1910(明治43)年、リンゴの貯蔵庫として建てられたそうです。S家のことは、山崎長吉先生の『中島公園百年』1988年に詳しく記述されています(pp.30-32)。S家のご先祖は旧亘理藩士で、明治初期、藩主伊達家に随って有珠に入植しました。一方、一族の一人は山鼻屯田兵村に入植し、明治中期から果樹園を経営します。かつて札幌本府の郊外に当たるこのあたりは水原寅蔵が我が国でも先駆的にリンゴ園を始めた一帯です。S家も水原に範として、リンゴ栽培で成功しました。
 私が先日Sさんにお訊きしたところでは、リンゴ園を営んでいたのは1918(大正7)年までで、1920(大正9)年からは味噌醤油醸造に転じました。そして昨日ブログの話につながります。

 本件石蔵について、札幌建築鑑賞会で前に得ていた情報では「大正初期築」でしたが、今般の持ち主の方からの聞取りに基づき、1910(明治43)年築を採ります(明治末期と大正初期はさほどの違いではないのだが)。昨日更新した軟石建物の築年別内訳を、さらに次のとおりあらためます(カッコ内は母数413棟に対する百分比)。
  明治期:17棟(4.1%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)

 それにしても、この石蔵がリンゴ貯蔵庫に由来するとは、これもいささか驚きました。建築年代からすると、和風在来的な外観意匠であるのは頷けますが。用途は「倉庫」ではなく、「蔵」のままとします。リンゴ貯蔵に使われていた年数(引き算すると、8年)よりも、その後現在までの歳月(99年!)のほうがはるかに長いというのも、感慨を覚えます。Sさんが長く大切に遺してこられたことに敬意を表します。私は文庫蔵的な使われ方をしてきたと想像するのですが、Sさんには今後も聞取りさせていただきたいと思っていますので、判りしだい続報します。

2017/10/26

南8条 Mビル 札幌軟石

 本年8月下旬、札幌建築鑑賞会スタッフNjさんから、札幌軟石の建物が新たに建っているというお知らせをいただいていました。
南8条 Sさん宅 事務所
 中央区南8条、鴨々川の近くです。先月中ごろ、現地に行って外観を眺めてきました。ほぼ完成して、内装の工事をしている様子でした。

 札幌軟石をまるごと外壁に用いた、しかもかなり大きな新しい建物です。びっくりしました。のみならず驚いたのは、使われている軟石が古そうなのです。表面がいわゆるツルメ、つまり手彫りの仕上げです。新しく切り出した軟石を手彫りで仕上げるということもなくはないでしょうが、もし新しい石材ならば色合いが全体に一様になってもいいと思います。しかるに本件は、なんとなくバラツキがあります。そこがまた味わい深いところでもあります。これはただならぬ気配を感じました。

 今月に入り工事も終わった様子でしたので、思い切ってお訪ねしました。社長さんはご不在でしたが、後日お話をお聴きすることができました。
 持ち主のSさんによると、この軟石は大正14年に建てられた味噌醤油の蔵に使われていたものだそうです。その蔵は本件建物の後ろ、現在ホテルが建っているところにありました(前掲画像、左方の高層ホテル)。21年前、ということは1996(平成8)年にその蔵は解体され、跡地にホテルが建ちました。Sさんがおっしゃるには、「解体した軟石をどこかで活かしたい、利用したい」と考え、南区石山で保管してきました。そしてこのたび、21年の星霜を経てよみがえったというわけです。

 文章にすると数行ですが、私には驚きの連続です。北11条のNさん宅元味噌醤油蔵の「離島キッチン」への再生(10月19日ブログ参照)に続き、天晴れと申し上げたい。
 
 本件建物は不動産賃貸業を営むSさんの会社の事務所として使われています。本日のブログのタイトルを「Mビル」としたのは、会社の屋号(印)である「○(マル)源」の頭文字を取りました。このあたりを歩いたことのある方はお気づきだと思いますが、実は近くに同じ印を妻壁に刻んだ石蔵が遺っています。明治期にこの地で果樹園を営んでいたS家の石蔵です。古い石蔵のほうはあらためてお伝えします。
 
 これにて、札幌市内の軟石建物は本件を「再生新築」として1棟を加え、総数は413棟となりました。築年別内訳は10月12日ブログから更新して、以下のとおりです(末注)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:30棟(7.3%)
  昭和戦前期:51棟(12.3%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.6%)
  不詳:169棟(40.9%)
  
 注:本件の築年を「大正期」に含めたが、「再生新築」の場合は悩ましいところである。

2017/10/25

桑園博士町 ふきのとう文庫

 市道試験場線の話が長引いてます。10月23日ブログで、「私が気になっている地点がとりあえず2箇所」あると記しました。そのうちの1箇所目、試験場線の起点のことは昨日ブログに記しましたが、2箇所目のことはまだ触れていません。こちらも文献渉猟、史料考察的な話になりそうです。が、それを続けるのは書く方も読む方も肩が凝ってきます。ここでちょっと話題を転じます。

 桑園博士町を歩きました。
 訪ねた先は、子ども図書館「ふきのとう文庫」です。
ふきのとう文庫 201710
 学生時代の恩師、T先生が館長を務めている民設民営の図書館で、特に心身にハンディのある子どもたちのための図書を広める活動をしています(正確には、T先生は運営する公益財団法人の代表理事。同文庫サイト参照)。

 敷地の一角にある先生の旧宅が綺麗になっていました。
桑園 T先生宅 外観201710
 大正時代に建てられた洋館です(2014.8.11ブログ参照)。今年、下見板貼りの外壁にびっしり絡まっていたツタを取り払い、ペンキを塗り替えたそうです。建物を長く保つために手入れされていることにも頭が下がります。ツタが絡まっていたときは近所の子どもたちが気味悪がっていたのですが、綺麗になって評判が良くなったそうです。無責任なことを申し上げるならば、江戸川乱歩の探偵小説を彷彿させるようなちょっと妖しげな洋館というのも、個人的には憧憬がありますが。

 帰宅してから資料を見返して気づいたのですが、T先生宅のお隣にかつて新島善直先生(北大農学部教授・林学)がお住まいでした(末注①)。冒頭画像の左方、高層マンションが建っているところです。
 新島先生といえば、先日来拙ブログで話題にしている「試験場」にゆかりの深い方です。野幌林業試験場の元場長。在任は1912(明治45)年から1934(昭和9)年まで20年以上の長期に及び(末注②)、こんにちの野幌森林公園の礎を築いた一人といってよいでしょう。
 野幌と桑園、離れているようで実は深いつながりがありました。またしても私は、お釈迦様の掌に遊ぶ孫悟空のようです。

 注①:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」『北海道大学 大学文書館年報』第2号、2007年、pp.97-98
 注②:西田秀子「林業試験場の人びと」『叢書 江別に生きる10 野幌原始林物語 -森と人々とのシンフォニー-』2002年、p.148。野幌は、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017秋の編で歩いた豊平とも縁があることを先日の西田さんの講演(10月14日ブログ)で知った。それはまた機会をあらためたい。行く先々で、歴史の刻印を思い知る。

2017/10/17

時計台ナナメ向かいのビル 補遺

 昨日ブログに対して、「スタッフK」さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
アコム時計台前ビル 自社広告 1993年
 北1条西3丁目の消費者金融会社(以下「A社」という)の自社広告物について、私は昨日ブログで「自主的に撤去された可能性が高いと思われます」と記しました(画像は1993年撮影)。これに対しスタッフKさんは、広告物の撤去はビルの所有者が替わったことによるもので、「自主的」とはいえないのではないかというご指摘です。実は私もその可能性は一抹抱き、昨日のブログの末尾に「経緯はどうあれ」と言い訳的に入れました。
 結論的には、スタッフKさんが的を射ていると思います。ネットで調べたところ、本件ビルは現在「マルイト時計台前ビル」となっていて、不動産賃貸業の「マルイト株式会社」の所有となっているようです。A社が自社ビルを売却した際、広告塔を撤去し、その後現所有者が自社広告物を新たには設けなかった、といったところが真相でしょうか。札幌市屋外広告物条例によると、本件広告物のあるエリアは自家用でなくても設置は可能です。にもかかわらず撤去したのは、コストパフォーマンスかもしれません。かつてこのビルはほぼ全館、A社の店舗(貸金だけでなく、レンタル事業など)が入っていました。現在はそうではないので、派手に広告する必要性がないのでしょう。現所有者のマルイトもしかり。昨日ブログの末尾に記したA社への賛辞は贔屓目に過ぎましたか。

 ネットでA社のサイトを閲覧したところ、現所有者のマルイトとは同じ源流であることを知りました。A社の前身は、「マルイト株式会社」、その前は「丸糸商店」だったのですね。

 ところで札幌で「マルイト」というと、私はこちらのビルを思い出します。
マルイト札幌ビル
 北2条西1丁目にあるホテルです(画像は本年3月撮影)。
 この建物は2000(平成12)年、北海道営林局の跡地に建てられました。営林局時代の樹木を外構に遺したことなどが評価されて、2001(平成13)年、第10回札幌市都市景観賞を受賞しています。

 植栽帯の札幌軟石も古そうです(画像は2014年12月撮影)。
マルイト札幌ビル 外構 札幌軟石
 こういう会社なので、時計台前ビルもあえて自家用広告を立てなかった。と見るのは、これまた贔屓目でしょうか。

2017/10/16

時計台のナナメ向かいのビル

 中央区北1条西3丁目、時計台のナナメ向かいにあるビルです。
アコム時計台前ビル 2016年
 一見、何の変哲もないビルです。一見でなく、ずっと見ていても変哲ありません。
 この「変哲もない」という風景が、逆説的にいうと実は変哲ある、ということが本日のテーマです。

 二十数年前、その場所を向かいの時計台越しに眺めて、写真に撮っていました。
アコム時計台前ビル 1993年
 1993(平成5)年の冬に撮ったものです。

 冒頭の写真は2016年10月に撮っています。最大の違いは、かつてガソリンスタンドだったところにビルが建っていることです。が、私がこのアングルで写真を撮った意図が別にあることは、だいたいお察しいただけると思います。ガソリンスタンドの隣のビルです。消費者金融の自社ビルで、屋上に塔型と壁に突出しの広告の工作物があります。

 冒頭の現在の風景と比べると、それらの広告は姿を消しています。低層階の壁面公告のみです。二十年余に時空が変化しました。ここには一定のベクトル(方向性を持った力)がはたらいたと、私は見ています。
 念のため、札幌市の屋外広告物条例等をおさらいしてみましたが、前掲画像の広告を排除するような規制は見つけられませんでした。つまり法令・例規的な規制にもとづくのではなく、いわば自主的に撤去された可能性が高いと思われます。カタチとしては消費者金融会社の自主的作為でしょうが、何らかの外的な力がはたらいたのではないでしょうか。管見の限りでは、そのあたりの顛末が広く公表された形跡はありません(もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください)。

 こういう作為、つまり何かを付け足すのではなく、差し引くような作為、しかも建物本体とかではなく工作物ともなれば話題にはなりづらいと思います。なので、せめて拙ブログでは話題にして、記憶にとどめておきましょう。先日の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」スピンオフ編でも、この話題には触れなかったので、ここで取り上げます(末注)。

 札幌のシンボル・時計台は、観光客から「ビルの谷間にあってがっかり」とか言われるようです。識者からは、周辺の建物などへ景観的な配慮を求める声もあります。ともすれば「行政は何をやっているのか」という矛先も向けられます。理想的には、たとえば時計台のような重要文化財の周辺、一定エリアの風致景観を誘導規制するガイドラインがあってよいと私は思います。ただし、そうなっていないのは、当然ですがそういう規制を好まずとするベクトルがはたらくからです。行政は、絶えずそのせめぎあいに置かれています。所詮、民度の平均値です。もし、前掲画像の広告物の撤去を前もって唱えた人がいたら、私は深く敬服します。そういう人こそ、口先だけの威勢のいい批判にとどまらない、ホンモノだと私は思います。

 …と記してきて、私があたかもこの広告物の出現にハナから気づいていたかというと、決してそうではありません。だから、私はホンモノにはほど遠い人間です。実は、この広告物を出現当時から憂慮した人は、確かにいました。1990年頃だったと思います。当時、札幌市役所にお勤めたっだOさんです。
 屋外広告物のありかたは、それこそいろいろなベクトルがはたらき、民意を集約するのが難しい分野だと思います。私は、前掲画像(広告物が背後に写る時計台)よりは冒頭画像の風景(広告物が撤去されたビル)のほうをよしとします。しかし、そうは思わない方も当然いるでしょう。どちらかが絶対的に正しいということはできません。ただ、広告物の出現を(たぶん)最初に認識したOさんは、繰り返しますが偉大だと思います。
 最後になりましたが、経緯はどうあれ広告物を撤去した消費者金融会社に敬意を表します。

 注:案内役のⅠ先生は、周辺の他の建物景観についてコメントされました。主催者としてたびたび自画自賛めいて恐縮ながら、札幌市民が時計台周辺でこういう見聞を体験するのは稀少だと思う。

2017.10.17ブログに補遺記述

2017/10/15

時計台に座るクラーク先生

 10月13日と15日、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017特別編で中心部の歴史的建物を巡りました。
大人の遠足2017 時計台
 北大大学院工学研究院のⅠ先生の案内で、時計台から道庁、植物園と歩きました。札幌市民が(市民でなくても?)時計台をじっくり鑑みるというのは、稀少な体験だと思います。

 時計台の2階に、クラーク先生が座っていました。
時計台 クラーク先生
 黒い布で覆われていたのですが、イタズラ心でめくってみたところ、いたのです。

 実は数日前の新聞に、「クラーク博士像 時計台にも」と報じられていました(北海道新聞10月12日朝刊)。以下、記事の一部を引用します(太字)。
 時計台は札幌農学校(現北大)の初代教頭だった博士の構想で演武場として建設されており、観光客から博士の像を求める声が多かった。時計台完成記念日の16日、お披露目の式典が行われる。
 像は高さ135センチの合成樹脂製で、幅180センチ、奥行き80センチの木製長いすの端に腰掛けた姿。2階ホールに置かれ、見学者が座ったり、一緒に記念撮影したりできる。時計台を管理運営する企業が約200万円で製作した。

 
 「お披露目」に先立って、失礼ながらめくってしまいました。
 時計台で配られているリーフレットによると、この建物が建てられたのは1878(明治11)年で、10月16日に落成式が催されています。明日で満139年です。創建時、時計塔は備わってませんでした。時計が付いたのは1881(明治14)年です。クラーク先生は時計台ができる前の1876(明治9)年に札幌に来て、翌1877(明治10)年に去っています。よって、先生はこの建物を直接見ることも、時を告げる鐘の音を聞くこともなく、ましてや室内に座ることはありませんでした。が、139年を経て2階に座ることに相成ったのです。「観光客から博士の像を求める声が多かった」とは知らなかった。

 およそ人物像というモノは、印象操作という効果があります。本件坐像も今後、先生があたかもかつてここで腰掛けていたかのごとき伝説に寄与するかもしれません。ま、観光名所というのは、えてしてキッチュな時空が漂うものです。史実に忠実であれかしといったベクトルは、はたらきづらい。クラーク像も、先生が足を運んでいない羊ケ丘に、すでにあります。北大の現キャンパスですら、先生の滞在中はゆかりがなかったが(末注①)、胸像が置かれて観光名所になっています。もう、「何でもあり」ですね。
 
 北大のクラーク像は、ン十年前、NHKの「新日本紀行」で放送されて観光客が増えたと聞きます(末注②)。のみならず放送の翌年、北大の入試志願者はかなり増えています(末注③)。かくいう私自身がン十年前、印象操作に刷り込まれて、北海道に憧れたクチです。挙句、内地で生れ育ったにもかかわらず、北海道に永住する(たぶん)こととなりました。かような印象操作を否定することは、自分の存在を否定することにつながりかねません。いずい(北海道弁)ところです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、口絵「明治十年」(クラーク博士の足跡)参照
 注②:羊ケ丘に立像が建てられたのは、大学が‘観光公害’を減じるため車両を規制するに至ったという事情があるという。「さっぽろ羊ヶ丘展望台」サイト参照
 注③:NHK「新日本紀行」で「都ぞ弥生 北海道・北大恵迪寮」が放送されたのが1975(昭和50)年。『北大百二十五年史 論文・資料編』2003年によると、北大の入試志願者は1974年13,040名(定員2,120名に対して6.2倍)、1975年は12,796名(定員2,120名に対して6.0倍)だったが、1976年は14,889名(定員2,120名に対して7.0倍)、1977年15,534名(定員2,195名に対して7.1倍)となった(p.871、pp.883-884)。もちろん、テレビの影響などとは正史には書かれていない。私の憶測。

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR