札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
手稲山のスキー場 30余年今昔
この数日続けてきた手稲山逍遥、ひとまずこれにて終えます。
しめくくりは、スキー場の近過去です。手元の“史料”を回顧しながら懐古します。
・リフト券

数えると、一シーズンに8回、手稲のスキー場に行ってました。 “ほいと滑り”(3月13日ブログ参照)を証しだてるごとく、ほとんど1日券か半日券です。大半はオリンピアで、「王子緑化株式会社」名の入ったハイランドは1枚しか残ってません。足前のほどが知れます。自分では北壁も滑った(転げ落ちた?)記憶がうっすらとあるのですが。
オリンピアの1日券が3,000円、午前券が1,600円、午後券が1,700円、ナイター券が1,500円です。現在のリーフレットを見ると、オリンピア、ハイランド一緒で、リフト・ゴンドラ1日券が5,400円、4時間券が4,100円、6時間券が4,500円となってます。35年前のオリンピアの料金は「大人子供とも」共通でした。現在は大人のほかシニア、中高校生、小学生以下と料金が細分化されています。
・オリンピアスキー場のリーフレット


当時は千尺コースがあったのですね。
現在のその痕跡です。

前掲チラシに描かれているリフト乗り場の緑、青、赤の3本柱が、遺構として見えます。

中央やや左の小屋に貼られているのは「千尺高地駐車場」です。この「千尺」(約300m)というのは標高ではなくて、ゲレンデの標高差を指していたのでしょうか。今となっては、消えた地名(?)ですが。右方の立て看板には赤い字で「鹿駆除実施中 許可なく立ち入りを禁ず 加森観光株式会社テイネ事業部」と書かれています。古びていますが、加森観光になってからのものです。
・手稲ランドのリーフレット



このリーフで、当時は「財団法人札幌オリンピック手稲山記念ランド」が、研修センターとロープウェイを経営していたと知りました。当時というのは1985(昭和60)年頃です。添付の「営業案内」によると、ロープウェイは大人片道400円、往復750円、研修センターはツイン室・2人用和室1人1泊3,200円、4人用2段ベッド1人1泊2,700円、特別室(バストイレ付)1人1泊4,100円。
研修センターの現在の遺構です。


案内看板だったとおぼしきモノも残ってます。
・国鉄バスの時刻表


こんなモノも取っておいたのかと、我ながら驚きます。溜め込み嗜癖ですね。
当時(同上)は札幌駅からも平日1便、土曜日2便、日祝日7便、冬休み期間中7便、ロープウェー(現在のテイネハイランド)まで出てました。手稲駅からは平日2便、土曜日4便、日祝日8便、冬休み期間中6便です。このほかにも「手稲町」(国道5号沿いの現「手稲本町」停、2017.2.23ブログ参照)始発が日祝に3便あり、日祝は計18便スキーバスが出てました。料金は札幌駅からロープウェーまで大人片道440円、同じくオリンピアまで380円、手稲駅からロープウェーまで230円、同じくオリンピアまで140円。
現在はジェイ・アール北海道バス(ていね山線)が手稲駅南口から平日4便、土日祝年末年始9便です。料金はハイランドまで400円、オリンピアまで380円。当時の所要時分は、手稲駅-ロープウエー(終点)間の行きが37分、帰りは29分でした。現在は行きが28分、帰りが27分です。行きの時間が短くなってます。札幌駅からは「快速便」で片道67分でした。札幌駅から手稲山までスキーバスというのはマイカーに慣れた身には信じられないのですが、そういえば利用した覚えがあります。
・スナックハウス聖火台

これは数日前に撮った画像です。前掲35年前のリーフレットにこの名前が載ってます。当時から変わってないようです。ただし「食堂」のアイコンの下に書かれていたであろう文字が白く消されています。
スキー場の歴史は電網上でも明らかにされ、現在の遺構風景もたぶん発掘されていることでしょう。拙ブログにあえて新味があるとすれば、一次的“史料”を鑑みて近過去の細部を逍遥したところでしょうか。
しめくくりは、スキー場の近過去です。手元の“史料”を回顧しながら懐古します。
・リフト券

数えると、一シーズンに8回、手稲のスキー場に行ってました。 “ほいと滑り”(3月13日ブログ参照)を証しだてるごとく、ほとんど1日券か半日券です。大半はオリンピアで、「王子緑化株式会社」名の入ったハイランドは1枚しか残ってません。足前のほどが知れます。自分では北壁も滑った(転げ落ちた?)記憶がうっすらとあるのですが。
オリンピアの1日券が3,000円、午前券が1,600円、午後券が1,700円、ナイター券が1,500円です。現在のリーフレットを見ると、オリンピア、ハイランド一緒で、リフト・ゴンドラ1日券が5,400円、4時間券が4,100円、6時間券が4,500円となってます。35年前のオリンピアの料金は「大人子供とも」共通でした。現在は大人のほかシニア、中高校生、小学生以下と料金が細分化されています。
・オリンピアスキー場のリーフレット


当時は千尺コースがあったのですね。
現在のその痕跡です。

前掲チラシに描かれているリフト乗り場の緑、青、赤の3本柱が、遺構として見えます。

中央やや左の小屋に貼られているのは「千尺高地駐車場」です。この「千尺」(約300m)というのは標高ではなくて、ゲレンデの標高差を指していたのでしょうか。今となっては、消えた地名(?)ですが。右方の立て看板には赤い字で「鹿駆除実施中 許可なく立ち入りを禁ず 加森観光株式会社テイネ事業部」と書かれています。古びていますが、加森観光になってからのものです。
・手稲ランドのリーフレット



このリーフで、当時は「財団法人札幌オリンピック手稲山記念ランド」が、研修センターとロープウェイを経営していたと知りました。当時というのは1985(昭和60)年頃です。添付の「営業案内」によると、ロープウェイは大人片道400円、往復750円、研修センターはツイン室・2人用和室1人1泊3,200円、4人用2段ベッド1人1泊2,700円、特別室(バストイレ付)1人1泊4,100円。
研修センターの現在の遺構です。


案内看板だったとおぼしきモノも残ってます。
・国鉄バスの時刻表


こんなモノも取っておいたのかと、我ながら驚きます。溜め込み嗜癖ですね。
当時(同上)は札幌駅からも平日1便、土曜日2便、日祝日7便、冬休み期間中7便、ロープウェー(現在のテイネハイランド)まで出てました。手稲駅からは平日2便、土曜日4便、日祝日8便、冬休み期間中6便です。このほかにも「手稲町」(国道5号沿いの現「手稲本町」停、2017.2.23ブログ参照)始発が日祝に3便あり、日祝は計18便スキーバスが出てました。料金は札幌駅からロープウェーまで大人片道440円、同じくオリンピアまで380円、手稲駅からロープウェーまで230円、同じくオリンピアまで140円。
現在はジェイ・アール北海道バス(ていね山線)が手稲駅南口から平日4便、土日祝年末年始9便です。料金はハイランドまで400円、オリンピアまで380円。当時の所要時分は、手稲駅-ロープウエー(終点)間の行きが37分、帰りは29分でした。現在は行きが28分、帰りが27分です。行きの時間が短くなってます。札幌駅からは「快速便」で片道67分でした。札幌駅から手稲山までスキーバスというのはマイカーに慣れた身には信じられないのですが、そういえば利用した覚えがあります。
・スナックハウス聖火台

これは数日前に撮った画像です。前掲35年前のリーフレットにこの名前が載ってます。当時から変わってないようです。ただし「食堂」のアイコンの下に書かれていたであろう文字が白く消されています。
スキー場の歴史は電網上でも明らかにされ、現在の遺構風景もたぶん発掘されていることでしょう。拙ブログにあえて新味があるとすれば、一次的“史料”を鑑みて近過去の細部を逍遥したところでしょうか。
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三樽別川の工事現場
昨日ブログ末尾に載せた飯場の工事現場です。

道路をはさんで飯場の向かい側にあります。コメントを寄せてくださりありがとうございました。
この近くを「札樽トンネル」が掘られるそうです。

「この近く」というのは、上掲「札幌市内の新幹線ルート」図に赤い□で囲ったところです(末注①)。
その部分を拡大して抜粋します(末注②)。

前掲画像の工事現場から「富丘斜坑」が掘られるようです。上掲図に描かれた鉤の手状の太線の右端に当たります。
この図によると、本トンネル自体はここから三樽別川の少し上流の手稲山中腹を東西にぶち抜かれるのですが、現在工事は着手されてません。トンネル掘削で発生する「対策土」の受け入れ場所が決まってないためです(末注③)。対策土とは自然由来の重金属等を含む土をいいます。手稲山はいわば重金属の“宝庫”で、かつて鉱山があったくらいです。前掲図のトンネルルート上の濃い青で塗られた部分では、試料の「事前測定結果」によるとヒ素、鉛、カドミウムが基準値を超えています(末注④)。
掘削発生土をどうするかが決まらないと工事には進めないらしく(そりゃそうでしょうね)、冒頭の工事現場も「トンネル工事を行っています」と書かれてはいるものの、まだ本格稼動はしていない模様です。対策土の受入候補地とされる地元では反対も根強い(末注⑤)。
鉄道運輸機構の資料を見る限り、対策土は適切に処理することによって人体への影響等は防げるとみられます。ただ、私はそもそも新幹線の札幌延伸の必要性自体に懐疑的です。理由は、端的にいってJR北海道の経営を圧迫する恐れが大きいことに尽きます。さらぬだに苦しい同社の経営を、です。新函館北斗までのかなり厳しい現状(末注⑥)が、札幌まで延伸することで“起死回生”するとは思えません(末注⑦)。
北海道新幹線の札幌延伸に伴い2030年度、八雲町にも「新八雲駅(仮称)」が開業します。新駅はあえて大自然の中に建設する計画だと知り、僕は「すごいな」と思いました。(道新本年1月26日「読者の声」12歳の小学生の投稿)
それにひきかえ私は年のせいか、先日の冬季五輪といい(3月14日ブログ参照)、子どもたちの“夢と希望”に水を差すようなコメントになりがちです。

1年余り前、JR北海道の「サービス改善アンケート」に答えたら、「北海道新幹線グッズ」が送られてきました。こういうモノには年甲斐もなく私の心ははしゃいでしまいます。しかしコロナで赤字もますますかさんで、こういうプレゼントはもうないかもしれないなあ。昨日、ダイヤ改正の新しい「ミニ時刻表」を駅にもらいに行ったら、「今年から作らなくなりました」と言われました。これも経費節減のせいでしょうか。スマホを持たない私にはあの冊子は重宝していたのですが、いたしかたありません。

注①:元図は鉄道・運輸機構北海道新幹線建設局作成資料(2020年12月に開催された「北海道新幹線トンエンル掘削土受入候補地(山口地区)に関するオープンハウスで配布)から引用
注②:同上「「土壌溶出量の測定結果」図から抜粋
注③:同上資料によると、「受入候補地」として札幌市内で3箇所、選定されているが、まだ最終決定されていない。
注④:注②資料の富丘工区の測定結果による。
注⑤:北海道新聞2020年9月18日特集記事「解剖さっぽろ圏 新幹線『要対策土』どこに処分?」参照
注⑥:JR北海道の2018年度収支では営業損益549.71億円の赤字のうち、北海道新幹線(新青森-新函館北斗)の赤字は95.73億円だった(道新2019年9月5日記事「JR北海道全線区赤字」)。赤字の17%強を占めている。金額だけでいうと、在来線のどの区間よりも赤字額は大きい。「新幹線は劇的に収支が改善することはない。むしろ施設が老朽化し、修繕、補修費用がかかってくる」(同社常務の話、同記事)。新型コロナによる同社の利用の落ち込みも、新幹線が在来線特急主要区間、快速エアポートに比べて上回っている(道新本年1月29日記事「特急・新幹線利用半減」)。
注⑦:鉄道・運輸機構北海道新幹線建設局「北海道新幹線」パンフレット(2018年12月)には、「先に開業した区間では着実に利用者数が伸びています」と北陸、東北、九州の実績が記されている。しかし2016年3月に開業した北海道新幹線新青森-新函館北斗については触れられていない。札幌延伸により期待される効果は強調されているが、利用者数等の具体的な見通しは述べられていない。コロナ前の資料で、である。

道路をはさんで飯場の向かい側にあります。コメントを寄せてくださりありがとうございました。
この近くを「札樽トンネル」が掘られるそうです。

「この近く」というのは、上掲「札幌市内の新幹線ルート」図に赤い□で囲ったところです(末注①)。
その部分を拡大して抜粋します(末注②)。

前掲画像の工事現場から「富丘斜坑」が掘られるようです。上掲図に描かれた鉤の手状の太線の右端に当たります。
この図によると、本トンネル自体はここから三樽別川の少し上流の手稲山中腹を東西にぶち抜かれるのですが、現在工事は着手されてません。トンネル掘削で発生する「対策土」の受け入れ場所が決まってないためです(末注③)。対策土とは自然由来の重金属等を含む土をいいます。手稲山はいわば重金属の“宝庫”で、かつて鉱山があったくらいです。前掲図のトンネルルート上の濃い青で塗られた部分では、試料の「事前測定結果」によるとヒ素、鉛、カドミウムが基準値を超えています(末注④)。
掘削発生土をどうするかが決まらないと工事には進めないらしく(そりゃそうでしょうね)、冒頭の工事現場も「トンネル工事を行っています」と書かれてはいるものの、まだ本格稼動はしていない模様です。対策土の受入候補地とされる地元では反対も根強い(末注⑤)。
鉄道運輸機構の資料を見る限り、対策土は適切に処理することによって人体への影響等は防げるとみられます。ただ、私はそもそも新幹線の札幌延伸の必要性自体に懐疑的です。理由は、端的にいってJR北海道の経営を圧迫する恐れが大きいことに尽きます。さらぬだに苦しい同社の経営を、です。新函館北斗までのかなり厳しい現状(末注⑥)が、札幌まで延伸することで“起死回生”するとは思えません(末注⑦)。
北海道新幹線の札幌延伸に伴い2030年度、八雲町にも「新八雲駅(仮称)」が開業します。新駅はあえて大自然の中に建設する計画だと知り、僕は「すごいな」と思いました。(道新本年1月26日「読者の声」12歳の小学生の投稿)
それにひきかえ私は年のせいか、先日の冬季五輪といい(3月14日ブログ参照)、子どもたちの“夢と希望”に水を差すようなコメントになりがちです。

1年余り前、JR北海道の「サービス改善アンケート」に答えたら、「北海道新幹線グッズ」が送られてきました。こういうモノには年甲斐もなく私の心ははしゃいでしまいます。しかしコロナで赤字もますますかさんで、こういうプレゼントはもうないかもしれないなあ。昨日、ダイヤ改正の新しい「ミニ時刻表」を駅にもらいに行ったら、「今年から作らなくなりました」と言われました。これも経費節減のせいでしょうか。スマホを持たない私にはあの冊子は重宝していたのですが、いたしかたありません。

注①:元図は鉄道・運輸機構北海道新幹線建設局作成資料(2020年12月に開催された「北海道新幹線トンエンル掘削土受入候補地(山口地区)に関するオープンハウスで配布)から引用
注②:同上「「土壌溶出量の測定結果」図から抜粋
注③:同上資料によると、「受入候補地」として札幌市内で3箇所、選定されているが、まだ最終決定されていない。
注④:注②資料の富丘工区の測定結果による。
注⑤:北海道新聞2020年9月18日特集記事「解剖さっぽろ圏 新幹線『要対策土』どこに処分?」参照
注⑥:JR北海道の2018年度収支では営業損益549.71億円の赤字のうち、北海道新幹線(新青森-新函館北斗)の赤字は95.73億円だった(道新2019年9月5日記事「JR北海道全線区赤字」)。赤字の17%強を占めている。金額だけでいうと、在来線のどの区間よりも赤字額は大きい。「新幹線は劇的に収支が改善することはない。むしろ施設が老朽化し、修繕、補修費用がかかってくる」(同社常務の話、同記事)。新型コロナによる同社の利用の落ち込みも、新幹線が在来線特急主要区間、快速エアポートに比べて上回っている(道新本年1月29日記事「特急・新幹線利用半減」)。
注⑦:鉄道・運輸機構北海道新幹線建設局「北海道新幹線」パンフレット(2018年12月)には、「先に開業した区間では着実に利用者数が伸びています」と北陸、東北、九州の実績が記されている。しかし2016年3月に開業した北海道新幹線新青森-新函館北斗については触れられていない。札幌延伸により期待される効果は強調されているが、利用者数等の具体的な見通しは述べられていない。コロナ前の資料で、である。
手稲山を下山しながら5万年前に想いを馳せる
昨日ブログの聖火台から市道手稲山麓線をさらに下りました。

軽川にかかる手稲橋です。上り方向を振り返って眺めました。画像左方が川の上流、右方が下流です。後景に北尾根が連なります。
手稲橋の上流側です。

中央彼方にオリンピアのスキー場かゴルフ場の斜面が望めます。
橋の下流側です。

手稲の市街地が開けています。ちょうど、かつての軽川駅たる手稲駅から前田にかけてです。
手稲橋の位置を現在図(色別標高図)で確認します(標高段彩は昨日ブログまでの掲載図と同じ)。

赤い◯で囲った地点です。
山体崩壊でできたすり鉢状の斜面に軽川が谷を削ったように窺えます。北に細長く飛び出ている橙色が北尾根です。これは崩壊の“し残し”でしょうか。市道手稲山麓線は軽川の沢に沿って通じています。
手稲橋を渡って、軽川右岸の尾根を巻いて下っていきました。

山体崩壊で堆積した尾根です。
と、「山体崩壊」というコトバを知ったかぶりでたびたび使っていますが、実は想像を絶します。5万年前、幅約2㎞、長さ約7㎞にわたって崩れ落ちたというのですから(末注)。手稲山の山頂からJR手稲駅までで距離は6.4㎞です。自然のスケールに圧倒されます。
市道手稲山麓線は尾根を巻くと、別の沢に降りました。

三樽別川です。
上掲画像の地点を現在図(標高図)に示します。

橙色の小さい○で囲みました。手稲山麓線が巻いたのは、軽川と三樽別川で削られた尾根です。
赤い◯を付けた軽川と橙色の○の三樽別川の間は直線距離で約1㎞、あります。山体崩壊の幅が約2㎞というのは、したがってこの倍です。
聖火台ゲレンデから山麓線を下ること1時間余り、手稲の市街に近づいてきました。

聖火台からは約4㎞、前段のハイランドからパラダイスヒュッテ行を含めると8㎞余りの下山です。
道路の右手に工事現場の飯場とおぼしき仮設の建物が並んでいます。かなり大がかりです。行きのバス車中でも目に入り、「はて、こんなところで最近、大きな工事があるのかな?」と気になってました。現場の看板を見るまで何の工事かわからなかったのは我ながらうかつなことです。
注:「手稲山地すべりの鳥瞰図」山崎2007、宮坂2018(手稲郷土史研究会2019年11月例会松田義章講演「手稲山の形成史」資料掲載)による。

軽川にかかる手稲橋です。上り方向を振り返って眺めました。画像左方が川の上流、右方が下流です。後景に北尾根が連なります。
手稲橋の上流側です。

中央彼方にオリンピアのスキー場かゴルフ場の斜面が望めます。
橋の下流側です。

手稲の市街地が開けています。ちょうど、かつての軽川駅たる手稲駅から前田にかけてです。
手稲橋の位置を現在図(色別標高図)で確認します(標高段彩は昨日ブログまでの掲載図と同じ)。

赤い◯で囲った地点です。
山体崩壊でできたすり鉢状の斜面に軽川が谷を削ったように窺えます。北に細長く飛び出ている橙色が北尾根です。これは崩壊の“し残し”でしょうか。市道手稲山麓線は軽川の沢に沿って通じています。
手稲橋を渡って、軽川右岸の尾根を巻いて下っていきました。

山体崩壊で堆積した尾根です。
と、「山体崩壊」というコトバを知ったかぶりでたびたび使っていますが、実は想像を絶します。5万年前、幅約2㎞、長さ約7㎞にわたって崩れ落ちたというのですから(末注)。手稲山の山頂からJR手稲駅までで距離は6.4㎞です。自然のスケールに圧倒されます。
市道手稲山麓線は尾根を巻くと、別の沢に降りました。

三樽別川です。
上掲画像の地点を現在図(標高図)に示します。

橙色の小さい○で囲みました。手稲山麓線が巻いたのは、軽川と三樽別川で削られた尾根です。
赤い◯を付けた軽川と橙色の○の三樽別川の間は直線距離で約1㎞、あります。山体崩壊の幅が約2㎞というのは、したがってこの倍です。
聖火台ゲレンデから山麓線を下ること1時間余り、手稲の市街に近づいてきました。

聖火台からは約4㎞、前段のハイランドからパラダイスヒュッテ行を含めると8㎞余りの下山です。
道路の右手に工事現場の飯場とおぼしき仮設の建物が並んでいます。かなり大がかりです。行きのバス車中でも目に入り、「はて、こんなところで最近、大きな工事があるのかな?」と気になってました。現場の看板を見るまで何の工事かわからなかったのは我ながらうかつなことです。
注:「手稲山地すべりの鳥瞰図」山崎2007、宮坂2018(手稲郷土史研究会2019年11月例会松田義章講演「手稲山の形成史」資料掲載)による。
手稲山聖火台の痕跡物件

1972年札幌五輪の聖火台といえば真駒内の屋外競技場のそれが知られています(末注①)。柳宗理作ということもあってでしょう。記念硬貨にもあしらわれています(末注②)。しかし本件手稲山のほうは、たとえば設計者なども知られていないようです。
もっとも、真駒内の聖火台も「知られています」といえるかどうか、自信がなくなりました。というのは先月開催された「さっぽろれきぶんフェス2021」のパネルディスカッションでこんなやりとりがあったからです。
札幌五輪の遺産も札幌が誇る文化財だという話題になったところで、パネリストの一人が「最近知ったのですが、真駒内の聖火台は柳宗理の作なんですよ」と語りました。いかにも「皆さん、知ってましたか」というような口調で、です。これに、司会者が「柳宗理だったのですか。それは知らなかった」と応じました。
いや、私は別に世間一般の認知度の是非を問いたいのではありません。文化庁や札幌市の文化行政が背後に控えた行事で、登壇された有識者ともいえるお歴々が交わした会話です。なぜかような些末ともいえるエピソードに言及するかというと、私なりの理由はあります。その前に、本件手稲山聖火台に戻ります。こちらは久米建築事務所の設計です(末注③)。
聖火台の足元に碑石が置かれています。

刻まれているのは「手稲山聖火台建設協力者」銘です。
半世紀近い星霜を経て、碑石は四分五裂しています。碑文もすべては読み取れないのですが、わかる範囲で以下のとおりです。
株式会社久米建築事務所
属鉱業株式会社 株式会社松村組
造林株式会社 株式会社ほく
海道相互銀行 会社テイネ
完成 1971.11
久米建築事務所の前にも文字が彫られているようですが、判然としません。本件は「聖火台建設委員会」の寄付によって設けられました。上述の企業が委員会の構成員だったのでしょう。久米建築事務所が冒頭に載っているのは、無償で設計を請け負ったのかもしれません。2行目の最初は三菱金属鉱業(現在の三菱マテリアル)、3行目は三井造林とほくさんですか。4行目の最初は北海道相互銀行(現札幌銀行)。二つめはテイネオリンピアか。三菱は手稲鉱山の経営者だったし今も土地所有者だが、三井は? 三井ではなく北海道造林か。手稲山の山林地主だと、王子緑化もあっていいと思うが。ほくさんはなぜ? 聖火の燃料を供給していた。松村組は手稲山の五輪競技施設の施工者です。
本件聖火台の設計が久米建築事務所と知ると、当時の同社の作品と較べたくなります。当時といえば、北海道百年記念塔を設計した井口先生もその少し前、同社に属していました(末注④)。本件を真駒内と較べると、どうでしょうか。抑制された前川國男の屋外競技場に柔らかみを帯びた柳の聖火台。本件は山稜地帯という立地条件もあってか、鋭角的で突出感があります。
本件はあくまでも真駒内の“分火”施設でした(末注⑤)。オフィシャルに設置されたであろう柳作品とは異なり、本件は寄付に依っています。冒頭に述べた違いはこのあたりの事情が反映されたのかもしれません。それにしても、上掲碑石の亀裂は痛々しい限りです。聞くところによると、札幌市は2030年の冬季五輪を招致しています。札幌で五輪を開催することの本質的な是非はさておくとして、再び招致するならば前回の遺物をかように放置するのはいかがなものでしょうか。「札幌は、豊かな自然、競技施設、交通網などが充実しており、また数多くのスポーツ大会を開催してきた実績もあります」(末注⑥)。その結果が、これですか。「再び冬季オリンピックを開催し、初のパラリンピックを開催することは、子どもたちに夢と希望を与え、冬季スポーツを振興し、世界平和に貢献するという意義があります」(末注⑦)。かような残骸が「子どもたちに夢と希望を与え」ますか。
念のため申し添えると、私は上掲碑石をキチンと直しなさいと求めているのではありません。諸手を挙げて五輪を招致すべきだとは必ずしも思っていないからです。人の為せるものが風化して朽ち果てていくのは、自然のことわりでもあります。しかし、あくまでも招致するという前提に立つならば、先人の足跡には敬意を表した方がいい。冒頭のエピソードに言及したのも同じ理由です。競技施設の充実や実績を自慢するのであれば、もう少し知識を普及したほうがいい。
注①:2019.11.4ブログに関連事項記述
注②:2019.11.11ブログ参照
注③:財)札幌オリンピック冬季大会組織委員会『第11回オリンピック冬季大会公式報告書』1972年、p.248
注④:2018.2.6ブログに関連事項記述
注⑤:注③と同じ
注⑥:札幌市スポーツ局招致推進部『北海道・札幌にオリンピック・パラリンピックを』2018年、p.2
注⑦:同上p.7
手稲山中腹のお目当て物件
昨日ブログに続き、手稲山を下ります。

オリンピア遊園地跡を通り過ぎました。
札幌市内に現在、こういう空間はほかにあるでしょうか。「こういう空間」というのは、昔ながらの昭和な遊園地です。現役ではなく廃墟として残っているという意味でも、稀少な風景といえるかもしれません。
ようやく、お目当ての物件にたどり着きました。

1972年札幌五輪の聖火台です。
一昨年以来、本件をあらためて鑑みたく願っていました(2019.11.4ブログ参照)。かつて、といっても30年以上前になりますが、オリンピアスキー場で滑ったときにも目にしていたと思うのですが、ほとんど記憶に残ってません。このたびはリフトで上がらずに、ハイランドから歩いてきて拝むに至りました。
現在図(色別標高図)で所在地を示します。

矢印↖を付けた先です(標高段彩は昨日ブログまでの掲載図と同じ)。
手稲ランド研修センター遺構からはゲレンデの林間コースをスキーヤーの邪魔にならないように下りてきました。自慢にもならないことですが、こんな風に来る人はいないでしょう。しかし、そのおかげで所期の目的を果たすことができました。スキーで来ていたときは1日券や半日券を買ってひたすら滑り、「いかにモトを取るか」しか眼中になかったからです。余談ながら、仲間内ではそれを“ほいとスキー”とか“ほいと滑り”と言って自嘲していました。「ほいと」は禁忌語でしたか(末注①)。
閑話休題。

聖火台は手稲山の山頂から遊園地の観覧車(は関係ないか)を経て、石狩低地帯、石狩湾に飛び出すように設けられています。後景彼方のもっとも高い峰が山頂で標高1,023m、その手前に写る観覧車の地点で標高は約500mです。
山頂-聖火台の軸線を標高図に落とし、俯瞰します(段彩は同上)。

黒い実線がその軸線です。南端が山頂、白ヌキ矢印の先が聖火台に当たります。軸線の北端はJR稲穂駅構内です。このまま仮想的に延ばしていくと石狩湾新港に達することがわかりました。
上掲標高図に示した手稲山頂-聖火台の軸線を断面図で見ます。

ヨコ軸の左端が山頂、右端がJR稲穂駅です(全長6.28㎞、タテヨコ比は3:1)。
聖火台は山頂から2.75㎞の地点に位置しています。赤い矢印↓を付けた先です。山頂からの稜線が、ちょうどここでぴょこっと少し盛り上がっています。山頂から聖火台までをジャンプ台の助走路にみなすと、あたかも踏切台(カンテ)のようです。
その踏切台を直下のランディングバーンから見上げます。

赤い矢印⇓を付けた先が踏切台、のごとき地点に位置する聖火台です。
踏切台ならぬ聖火台から石狩湾を見下ろします。

なかなか味なところに作ったものです。手稲山頂から急斜面を滑り降りて聖火台で踏み切り、石狩湾新港へK点超え(と今は言わないのか)の超巨大ジャンプ。黄色の矢印⇓の先が新港です。
いま「急斜面」と記しました。断面図を見ると、山頂から1~1.5㎞までで標高1,000mからいっきに500mまで下がります。前掲の聖火台から山頂を眺めた画像でも、観覧車(標高約500m)から上は屏風のようにそそり立つ山並みです。この屏風から5㎞くらいかけて、標高差500mをなだらかに下っています。JR稲穂駅付近で標高7mです。
これが「山体崩壊」の産物だということを、近年教えていただきました(末注②)。ハイランドとオリンピアのバラエティに富んだスロープを楽しめたのも、そのたまものです。30年前はそんなことを知らずに、“ほいと滑り”に興じていました。
注①:手元の広辞苑第5版では侮蔑的意味合いとは説明されていない。『新明解国語辞典』初版1972年では雅語・方言とされている。
注②:2019.11.17ブログに関連事項記述

オリンピア遊園地跡を通り過ぎました。
札幌市内に現在、こういう空間はほかにあるでしょうか。「こういう空間」というのは、昔ながらの昭和な遊園地です。現役ではなく廃墟として残っているという意味でも、稀少な風景といえるかもしれません。
ようやく、お目当ての物件にたどり着きました。

1972年札幌五輪の聖火台です。
一昨年以来、本件をあらためて鑑みたく願っていました(2019.11.4ブログ参照)。かつて、といっても30年以上前になりますが、オリンピアスキー場で滑ったときにも目にしていたと思うのですが、ほとんど記憶に残ってません。このたびはリフトで上がらずに、ハイランドから歩いてきて拝むに至りました。
現在図(色別標高図)で所在地を示します。

矢印↖を付けた先です(標高段彩は昨日ブログまでの掲載図と同じ)。
手稲ランド研修センター遺構からはゲレンデの林間コースをスキーヤーの邪魔にならないように下りてきました。自慢にもならないことですが、こんな風に来る人はいないでしょう。しかし、そのおかげで所期の目的を果たすことができました。スキーで来ていたときは1日券や半日券を買ってひたすら滑り、「いかにモトを取るか」しか眼中になかったからです。余談ながら、仲間内ではそれを“ほいとスキー”とか“ほいと滑り”と言って自嘲していました。「ほいと」は禁忌語でしたか(末注①)。
閑話休題。

聖火台は手稲山の山頂から遊園地の観覧車(は関係ないか)を経て、石狩低地帯、石狩湾に飛び出すように設けられています。後景彼方のもっとも高い峰が山頂で標高1,023m、その手前に写る観覧車の地点で標高は約500mです。
山頂-聖火台の軸線を標高図に落とし、俯瞰します(段彩は同上)。

黒い実線がその軸線です。南端が山頂、白ヌキ矢印の先が聖火台に当たります。軸線の北端はJR稲穂駅構内です。このまま仮想的に延ばしていくと石狩湾新港に達することがわかりました。
上掲標高図に示した手稲山頂-聖火台の軸線を断面図で見ます。

ヨコ軸の左端が山頂、右端がJR稲穂駅です(全長6.28㎞、タテヨコ比は3:1)。
聖火台は山頂から2.75㎞の地点に位置しています。赤い矢印↓を付けた先です。山頂からの稜線が、ちょうどここでぴょこっと少し盛り上がっています。山頂から聖火台までをジャンプ台の助走路にみなすと、あたかも踏切台(カンテ)のようです。
その踏切台を直下のランディングバーンから見上げます。

赤い矢印⇓を付けた先が踏切台、のごとき地点に位置する聖火台です。
踏切台ならぬ聖火台から石狩湾を見下ろします。

なかなか味なところに作ったものです。手稲山頂から急斜面を滑り降りて聖火台で踏み切り、石狩湾新港へK点超え(と今は言わないのか)の超巨大ジャンプ。黄色の矢印⇓の先が新港です。
いま「急斜面」と記しました。断面図を見ると、山頂から1~1.5㎞までで標高1,000mからいっきに500mまで下がります。前掲の聖火台から山頂を眺めた画像でも、観覧車(標高約500m)から上は屏風のようにそそり立つ山並みです。この屏風から5㎞くらいかけて、標高差500mをなだらかに下っています。JR稲穂駅付近で標高7mです。
これが「山体崩壊」の産物だということを、近年教えていただきました(末注②)。ハイランドとオリンピアのバラエティに富んだスロープを楽しめたのも、そのたまものです。30年前はそんなことを知らずに、“ほいと滑り”に興じていました。
注①:手元の広辞苑第5版では侮蔑的意味合いとは説明されていない。『新明解国語辞典』初版1972年では雅語・方言とされている。
注②:2019.11.17ブログに関連事項記述
遊園地遺構に感服
昨日ブログで手稲パラダイスヒュッテへの道が市道であることを記しました。
札幌市地図情報サービスの認定道路図で示します。

赤い矢印を付けた先です。認定道路を示す青い実線で描かれていて、「手稲山麓線」といいます。橙色の矢印の先がパラダイスヒュッテです。手稲山麓線は、西端は滝の沢川の上流に達して自然歩道につながり、もう一方は北へ下って麓の市街地に通じています。
黄色の▲を付けた地点は手稲山の山頂です。手稲山麓線から枝分かれして、南の山頂方面へも青い実線が伸びています。これは「テレビ線」という市道です。山麓線とテレビ線は、スキー場へのアクセスの部分は舗装されています。パラダイスヒュッテの近くを市道山麓線が未舗装で通じているのは、札幌五輪当時の管理用道路の名残でしょう。
さて、昨日記したようにパラダイスヒュッテから手稲山を歩きながら下りました。途中にも確かめておきたい物件があったからです。現在図(色別標高図)であらためて示します。

山麓線を下る途中で「手稲ランド研修センター」廃墟からスキー場のゲレンデのほうへ入りました。
目に入ったのは、オリンピア遊園地の同じく廃墟です。

これが目当てだったのではないのですが、廃墟感にそそられて足が止まりました。所在地は前掲現在図(標高図)に矢印→を付けた先です。
巨大な観覧車の遺構もさることながら、その入場口に目が向きました。黄色の矢印を付けた先に「輕川驛」という看板が掲げられてます。こんなところに軽川駅舎があった。
駅名板も立っています。

特にそそられたのはこの駅名板です。「輕川」の上に「かるがわ」と大きく仮名書きされ、下には「KARUGAWA」、その下には「ぽろないPORONAI」「てみやTEMIYA」と書かれています。幌内鉄道の終着駅が記されているあたり、心憎い。
たしか「軽川」は「がるがわ」、「幌内」は「ほろない」と呼んでいたはずだが、「かるがわ」「ぽろない」としたところも、建屋の造作とあいまってキッチュです。「いや、まてよ」と想い直しました。「軽川」は和語で、「渇水期になると水が枯れたことから、『涸(か)れ川』が転じて『がるがわ』となった」といいます(末注①)。語源的には「かるがわ」は正しい発音です。「はじめは『カルカワ』であったが、いつのころからか『ガルガワ』と濁るようになった」とも伝えられます(末注②)。
「幌内」の「ぽろない」はどうか。こちらはアイヌ語由来です。ポロ(大きい)・ナイ(川)(末注③)。幌内炭鉱の幌内も、呼び慣わしは「ほろない」であったとしても、原義、原音に戻るならばポロナイが本来といえましょう。とすると、上掲の「かるがわ」と「ぽろない」はどちらも、実は由来に忠実な表記です。本件遊園地の製作者の深謀遠慮、畏るべし。
前掲現在図(標高図)をもう一度俯瞰します。本件なんちゃって「輕川驛」舎が立地する場所は、川の最上流です。下っていくと、赤い◯で囲ったところに「軽川」と書かれています。軽川のミナモトを発するところに、その名に因むなんちゃって駅舎を設けた。ますますもって畏るべし。
注①:関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年p.157
注②:『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年p.105
注③:山田秀三『アイヌ語地名を歩く』1986年p.40、88参照
札幌市地図情報サービスの認定道路図で示します。

赤い矢印を付けた先です。認定道路を示す青い実線で描かれていて、「手稲山麓線」といいます。橙色の矢印の先がパラダイスヒュッテです。手稲山麓線は、西端は滝の沢川の上流に達して自然歩道につながり、もう一方は北へ下って麓の市街地に通じています。
黄色の▲を付けた地点は手稲山の山頂です。手稲山麓線から枝分かれして、南の山頂方面へも青い実線が伸びています。これは「テレビ線」という市道です。山麓線とテレビ線は、スキー場へのアクセスの部分は舗装されています。パラダイスヒュッテの近くを市道山麓線が未舗装で通じているのは、札幌五輪当時の管理用道路の名残でしょう。
さて、昨日記したようにパラダイスヒュッテから手稲山を歩きながら下りました。途中にも確かめておきたい物件があったからです。現在図(色別標高図)であらためて示します。

山麓線を下る途中で「手稲ランド研修センター」廃墟からスキー場のゲレンデのほうへ入りました。
目に入ったのは、オリンピア遊園地の同じく廃墟です。

これが目当てだったのではないのですが、廃墟感にそそられて足が止まりました。所在地は前掲現在図(標高図)に矢印→を付けた先です。
巨大な観覧車の遺構もさることながら、その入場口に目が向きました。黄色の矢印を付けた先に「輕川驛」という看板が掲げられてます。こんなところに軽川駅舎があった。
駅名板も立っています。

特にそそられたのはこの駅名板です。「輕川」の上に「かるがわ」と大きく仮名書きされ、下には「KARUGAWA」、その下には「ぽろないPORONAI」「てみやTEMIYA」と書かれています。幌内鉄道の終着駅が記されているあたり、心憎い。
たしか「軽川」は「がるがわ」、「幌内」は「ほろない」と呼んでいたはずだが、「かるがわ」「ぽろない」としたところも、建屋の造作とあいまってキッチュです。「いや、まてよ」と想い直しました。「軽川」は和語で、「渇水期になると水が枯れたことから、『涸(か)れ川』が転じて『がるがわ』となった」といいます(末注①)。語源的には「かるがわ」は正しい発音です。「はじめは『カルカワ』であったが、いつのころからか『ガルガワ』と濁るようになった」とも伝えられます(末注②)。
「幌内」の「ぽろない」はどうか。こちらはアイヌ語由来です。ポロ(大きい)・ナイ(川)(末注③)。幌内炭鉱の幌内も、呼び慣わしは「ほろない」であったとしても、原義、原音に戻るならばポロナイが本来といえましょう。とすると、上掲の「かるがわ」と「ぽろない」はどちらも、実は由来に忠実な表記です。本件遊園地の製作者の深謀遠慮、畏るべし。
前掲現在図(標高図)をもう一度俯瞰します。本件なんちゃって「輕川驛」舎が立地する場所は、川の最上流です。下っていくと、赤い◯で囲ったところに「軽川」と書かれています。軽川のミナモトを発するところに、その名に因むなんちゃって駅舎を設けた。ますますもって畏るべし。
注①:関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年p.157
注②:『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年p.105
注③:山田秀三『アイヌ語地名を歩く』1986年p.40、88参照
手稲区の歴史的建物 再訪
札幌建築鑑賞会スタッフにして手稲郷土史研究会役員のSさんに命じられて、もとい、ご依頼を受けて同会の会報本年2月号に寄稿しました。
↓
https://www.city.sapporo.jp/teine/shimin/chiikishinkou/rekishi/documents/kaihou157.pdf
手稲区の会なので、題材は手稲の物件です。記事の末尾に注記したとおり、拙ブログで前に綴った文をもとにしています(末注)。
元の文は4年前の記述であり、題材にした建物に足を運んだのは4半世紀も前のことです。このたび建物をあらためて閲したくなりました。会報はすでに先月発行されています。本来であればその記事の前に現地を訪ねるべきでして、いまさらどうなるものでもないのですが、ともかくも行ってきました。
その手稲パラダイスヒュッテです。

現在の建物ができたのは1994(平成6)年なので、建築年数だけでいえば「歴史的」と修飾するのは語弊があるかもしれません。しかし私はその名に値する文化遺産だと思います。いわば未来の文化財でしょうか。元の材料が長い年月を経て活かされているのは当然重みがあります。しかし、本件のようにあらたに建てなおされたとしても、元の価値が受け継がれたことに価値を見出したいものです。
いきなり現地の画像を載せましたが、ここにたどり着くのは大変でした。

本件所在地を現在図(色別標高図)に示します。矢印↘を付けた先です(段彩は標高5m未満から100mごと505m以上まで7色)。手稲山(標高1023m)の中腹(約548m)に当たります。
近くを札幌市の自然歩道が整備されているので、夏場だったら山歩きに慣れている方にはさほど困難ではないでしょう。しかし私はしばらく高低差数百mの歩行をしてません。マイカーがあれば夏場でもよかったのですが、たびたび記すとおり私はこの10年余り前にクルマをやめました。それで、スキー場までバスが通じている冬場にしたのです。JR手稲駅南口からバスで終点のテイネハイランドまで行きました。上掲図の○Sの地点です。ここからだとヒュッテまで距離にして約900m、しかも下っていけば達します。
ハイランドのバス停から車道は除雪されているのでよかったのですが、大変だったのは自然歩道の入口から先です。

黄色の矢印を付けた標柱が半分くらい雪に埋もれています。標柱の奥は、手前の撮影地点よりも1m半くらいの積雪です。
うっすらと人が歩いた形跡があるので、とりあえず進みました。

私は前掲画像の標柱から奥が自然歩道だと思っていたのですが、札幌市地図情報サービスによるとここもしばらくは市道です。市道ですが、ご覧のとおりまったく除雪されてません。もちろんのことながら、除雪すべきだとは思いません。私のような酔狂な利用者はまずいないので、除雪の必要はそもそもない。自然環境への人為的な負荷は避けるほうがいいにきまっています。
自然歩道兼市道を横切るように、こんな足跡も見られました。

わりと最近のものらしい。
スケール標準を置かずに撮ったのは不覚でしたが、一つの跡が長径で20㎝くらいでしょうか。

どうもヒトの足跡とは異なる気配です。カタチもさることながら、あまり深くありません。私は40cm丈のゴム長を履いていきましたが、たびたびそれがずぼっと埋もれてしまいました。上掲の足跡は文字どおりフットワークの軽さを感じさせます。
深雪の道なき道を歩くこと約300m、なんとかたどり着けました。

もともと本件ヒュッテは、山スキーの小屋として建てられたものです。この時季に訪ねたのは本来の意味がありました。
手稲郷土史研の会報に載せた本件ヒュッテの写真を再掲します。

2017年2月1日ブログに載せたもので、この写真を撮ったのは1995(平成7)年11月です。冒頭のこのたび撮った画像と較べると、違いがわかります。11月は雪の降り始めで、地下室が見えていました。今回はすっぽり埋もれています。
前もって連絡もせずに行ったので中へは入れませんでしたが、本来の時季に外観だけでも鑑みることができたのは収穫です。このあと、車道に戻って山を下りました。前掲標高図に白ヌキ実線でなぞったとおりです。○Gと記した地点まで約10㎞を歩き、そこから路線バスに乗って帰りました。
注:2017年2月1日、同月2日ブログ
↓
https://www.city.sapporo.jp/teine/shimin/chiikishinkou/rekishi/documents/kaihou157.pdf
手稲区の会なので、題材は手稲の物件です。記事の末尾に注記したとおり、拙ブログで前に綴った文をもとにしています(末注)。
元の文は4年前の記述であり、題材にした建物に足を運んだのは4半世紀も前のことです。このたび建物をあらためて閲したくなりました。会報はすでに先月発行されています。本来であればその記事の前に現地を訪ねるべきでして、いまさらどうなるものでもないのですが、ともかくも行ってきました。
その手稲パラダイスヒュッテです。

現在の建物ができたのは1994(平成6)年なので、建築年数だけでいえば「歴史的」と修飾するのは語弊があるかもしれません。しかし私はその名に値する文化遺産だと思います。いわば未来の文化財でしょうか。元の材料が長い年月を経て活かされているのは当然重みがあります。しかし、本件のようにあらたに建てなおされたとしても、元の価値が受け継がれたことに価値を見出したいものです。
いきなり現地の画像を載せましたが、ここにたどり着くのは大変でした。

本件所在地を現在図(色別標高図)に示します。矢印↘を付けた先です(段彩は標高5m未満から100mごと505m以上まで7色)。手稲山(標高1023m)の中腹(約548m)に当たります。
近くを札幌市の自然歩道が整備されているので、夏場だったら山歩きに慣れている方にはさほど困難ではないでしょう。しかし私はしばらく高低差数百mの歩行をしてません。マイカーがあれば夏場でもよかったのですが、たびたび記すとおり私はこの10年余り前にクルマをやめました。それで、スキー場までバスが通じている冬場にしたのです。JR手稲駅南口からバスで終点のテイネハイランドまで行きました。上掲図の○Sの地点です。ここからだとヒュッテまで距離にして約900m、しかも下っていけば達します。
ハイランドのバス停から車道は除雪されているのでよかったのですが、大変だったのは自然歩道の入口から先です。

黄色の矢印を付けた標柱が半分くらい雪に埋もれています。標柱の奥は、手前の撮影地点よりも1m半くらいの積雪です。
うっすらと人が歩いた形跡があるので、とりあえず進みました。

私は前掲画像の標柱から奥が自然歩道だと思っていたのですが、札幌市地図情報サービスによるとここもしばらくは市道です。市道ですが、ご覧のとおりまったく除雪されてません。もちろんのことながら、除雪すべきだとは思いません。私のような酔狂な利用者はまずいないので、除雪の必要はそもそもない。自然環境への人為的な負荷は避けるほうがいいにきまっています。
自然歩道兼市道を横切るように、こんな足跡も見られました。

わりと最近のものらしい。
スケール標準を置かずに撮ったのは不覚でしたが、一つの跡が長径で20㎝くらいでしょうか。

どうもヒトの足跡とは異なる気配です。カタチもさることながら、あまり深くありません。私は40cm丈のゴム長を履いていきましたが、たびたびそれがずぼっと埋もれてしまいました。上掲の足跡は文字どおりフットワークの軽さを感じさせます。
深雪の道なき道を歩くこと約300m、なんとかたどり着けました。

もともと本件ヒュッテは、山スキーの小屋として建てられたものです。この時季に訪ねたのは本来の意味がありました。
手稲郷土史研の会報に載せた本件ヒュッテの写真を再掲します。

2017年2月1日ブログに載せたもので、この写真を撮ったのは1995(平成7)年11月です。冒頭のこのたび撮った画像と較べると、違いがわかります。11月は雪の降り始めで、地下室が見えていました。今回はすっぽり埋もれています。
前もって連絡もせずに行ったので中へは入れませんでしたが、本来の時季に外観だけでも鑑みることができたのは収穫です。このあと、車道に戻って山を下りました。前掲標高図に白ヌキ実線でなぞったとおりです。○Gと記した地点まで約10㎞を歩き、そこから路線バスに乗って帰りました。
注:2017年2月1日、同月2日ブログ
手稲山口バッタ塚 再訪
北海道新聞9月29日朝刊記事で紹介されました。

怪しい風体で現地を案内しています。取材を受けたのは8月の下旬です。
その後、道新の電子版担当の記者から「動画でも取り上げたい」と連絡がありました。写真だけでなく動画のほうが現地の立体感が伝わるというのです。それで先日あらためて現地に行ってきました。いっそう拙くふるまっていますので、ご笑覧ください。
↓
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/464865
ことの発端は、手稲郷土史研究会です。道新から同会へ取材依頼があったところ、同会の役員にして札幌建築鑑賞会スタッフでもあるSさんから「バッタ塚のことは最近○○(私のこと)が調べている」(末注①)と押し付けられ、もとい“推挙”されました。それで、一会員の私が諸先達をさしおいてしかも手稲区民でもないのに応じることに相成ったしだいです。
本件バッタ塚の文化財史跡指定に紆余曲折があったことは前に記しました。

画像手前の雄勝石っぽい碑は1968(昭和43)年12月の建立だそうです。
碑のオモテ面には建立の年月が刻まれていないので、「だそうです」と伝聞形にしました(末注②)。この碑は柵の中にあります。裏側を確かめることは、柵を越えて立ち入らない限りできません。「立入禁止」等の規制表示は見当たりませんが、柵の中の地形そのものが重要な史跡なので柵を越えるのは憚られます。しかし背面に何が刻まれているか、気にはなります。
と想っていたところ、この碑の背面に触れている文献を見ました。

青木由直『札幌の秘境』2009年です。
次のように言及されています(p.67、引用太字)。
石碑の背面には、一八八〇年から一八八五(明治十八)年頃までに起きた蝗害対処のため、一八八三年頃、石狩のこの辺りで十㎞付近の地中からトノサマバッタの卵を掘りだして集め、畝を作って二十五㎝ほどの砂で覆い、卵からの孵化を防いだとの古老からの言い伝えが記されている。その畝の跡がこのバッタ塚のある辺りなのである。
ご丁寧なことに、碑の背面を写した写真も載せています(p.68、上掲画像)。最近はこういう写真を載せるにも神経を使うのでしょうね。「柵で囲われた中を、どうやって撮ったのか」とか突っ込まれそうです。私のような気の弱い人間は、小さく「許可を受けて立ち入りました」といった注釈を入れたくなります。本書には記されていないので、羨ましい限りです。
それはともかく、同書のバッタ塚に関する記述には、私が気になっただけでも4箇所の疑問があります。
(1)碑自体がバッタ塚か?
添えられた写真には、碑だけを大きく写して「バッタ塚正面」「バッタ塚背面」とキャプションを付けている。文中からも、碑自体が「塚」であるかのように読み取れる。この碑は前述のとおり1968年に建立されたものである。本件バッタ塚は、碑が建立される前から、畝状の地形を指して称されてきた(末注③)。
(2)碑は旧手稲町が建立したものか?
文中「碑には手稲町山口と彫られていて、札幌市と合併して手稲区となる前の手稲町が建立した碑であることがわかる」とある(p.67)。

札幌市と手稲町が合併したのは1967(昭和42)年3月1日である(末注④)。この碑が建てられたのが1968年12月だとすると、その時点で自治体としての手稲町は存在していない。碑に刻まれた「手稲町山口」は、「札幌市手稲町山口」の意味ではないのか(末注⑤)。
(3)碑の裏面刻文への言及
埋められたバッタの卵は、「石狩のこの辺りで十㎞付近の地中」だけで掘り出されたものか? 島倉亨次郎「札幌市西区手稲山口のバッタ塚に関する調査報告書」1979年には次のように記されている(p.13、引用太字)。
バッタ塚に埋められたという卵のうは、それらが皆そこに産下されたものばかりだと考えるよりも、その近傍、中でも札幌区内で、人夫を集め、あるいは買いあげられたものの、ある部分がここへ運び込まれ、現地で集められたものがあればそれといっしょに、計量後、人夫の手で埋められたのだと考える方が、妥当なのではあるまいか。記録にも「札幌区内に卵と若虫の買上所を設け、近傍およそ2里内外の地で日々採取されたものはことごとく買い上げ、(中略)」とある。山口という文字は見当たらないが、「軽川、対雁、江別」の原野は広く、バッタが濃厚」ママだったという。
島倉先生の記述からすると、札幌区(現在の札幌市の中心部)を中心に、広域から集められたように読める。注釈なしの刻文の引用のみでは、誤解をまねくのではないか。
(4)手稲記念館の展示への言及
文中「西区西野にある手稲記念館に、その標本(引用者注:バッタ塚の表層土の剥ぎ取り標本)がガラスのケースの内に保存されている。砂地にバッタの卵や幼虫が埋められた部分だけが黒ずんでいて、層となっているのを見ることができる」と述べられている(p.69)。しかし「黒ずんでいて、層となっている」部分を「バッタの卵や幼虫」とは確認できなかったことが、前述島倉「調査報告書」に記されている。また、埋められたのは幼虫ではなく、卵であろうとも考察されている(2019.11.22ブログ参照)。上述のように断定するのはいかがなものか。ちなみに、手稲記念館の所在地は「西区西野」ではなく、同区「西町南21丁目」である。
北海道大学名教授にして工学博士の先生の著述に疑問を呈するのは恐れ多いことながら、史実の正確を期することになればと思い蛮勇を奮って記します。なお、かく申す私自身の無知と無恥も、お詫びがてら告白せねばなりません。前述の道新電子版動画で、本件バッタ塚について私は間違ったことをしゃべってしまいました。半ばあたりです。
「バッタの卵とかを埋めて、さなぎとかに孵って成虫にならないだろうというような形でここに処理したのだと思いますね」。
バッタは蛹(さなぎ)にはなりません。兵庫県立人と自然博物館サイト下記ページ参照 → https://www.hitohaku.jp/hatena_q/2009/09/post-69.html 「不完全変態」というそうです。
注①:下記ブログに関連事項記述→ 2019.11.19、同11.20、同11.21、同11.22、同11.24、同11.25、同12.2、同12.3、同12.4ブログ
注②:『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年、p.239参照
注③:北海道新聞1966年11月24日記事「バッタ塚、開拓の遺跡、壊滅寸前 手稲町山口」ほか
注④:『新札幌市史 第8巻Ⅱ年表・索引編』2012年、p.416
注⑤:前述『さっぽろ文庫45 札幌の碑』p.239でも、札幌市が建立したとしている。

怪しい風体で現地を案内しています。取材を受けたのは8月の下旬です。
その後、道新の電子版担当の記者から「動画でも取り上げたい」と連絡がありました。写真だけでなく動画のほうが現地の立体感が伝わるというのです。それで先日あらためて現地に行ってきました。いっそう拙くふるまっていますので、ご笑覧ください。
↓
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/464865
ことの発端は、手稲郷土史研究会です。道新から同会へ取材依頼があったところ、同会の役員にして札幌建築鑑賞会スタッフでもあるSさんから「バッタ塚のことは最近○○(私のこと)が調べている」(末注①)と押し付けられ、もとい“推挙”されました。それで、一会員の私が諸先達をさしおいてしかも手稲区民でもないのに応じることに相成ったしだいです。
本件バッタ塚の文化財史跡指定に紆余曲折があったことは前に記しました。

画像手前の雄勝石っぽい碑は1968(昭和43)年12月の建立だそうです。
碑のオモテ面には建立の年月が刻まれていないので、「だそうです」と伝聞形にしました(末注②)。この碑は柵の中にあります。裏側を確かめることは、柵を越えて立ち入らない限りできません。「立入禁止」等の規制表示は見当たりませんが、柵の中の地形そのものが重要な史跡なので柵を越えるのは憚られます。しかし背面に何が刻まれているか、気にはなります。
と想っていたところ、この碑の背面に触れている文献を見ました。

青木由直『札幌の秘境』2009年です。
次のように言及されています(p.67、引用太字)。
石碑の背面には、一八八〇年から一八八五(明治十八)年頃までに起きた蝗害対処のため、一八八三年頃、石狩のこの辺りで十㎞付近の地中からトノサマバッタの卵を掘りだして集め、畝を作って二十五㎝ほどの砂で覆い、卵からの孵化を防いだとの古老からの言い伝えが記されている。その畝の跡がこのバッタ塚のある辺りなのである。
ご丁寧なことに、碑の背面を写した写真も載せています(p.68、上掲画像)。最近はこういう写真を載せるにも神経を使うのでしょうね。「柵で囲われた中を、どうやって撮ったのか」とか突っ込まれそうです。私のような気の弱い人間は、小さく「許可を受けて立ち入りました」といった注釈を入れたくなります。本書には記されていないので、羨ましい限りです。
それはともかく、同書のバッタ塚に関する記述には、私が気になっただけでも4箇所の疑問があります。
(1)碑自体がバッタ塚か?
添えられた写真には、碑だけを大きく写して「バッタ塚正面」「バッタ塚背面」とキャプションを付けている。文中からも、碑自体が「塚」であるかのように読み取れる。この碑は前述のとおり1968年に建立されたものである。本件バッタ塚は、碑が建立される前から、畝状の地形を指して称されてきた(末注③)。
(2)碑は旧手稲町が建立したものか?
文中「碑には手稲町山口と彫られていて、札幌市と合併して手稲区となる前の手稲町が建立した碑であることがわかる」とある(p.67)。

札幌市と手稲町が合併したのは1967(昭和42)年3月1日である(末注④)。この碑が建てられたのが1968年12月だとすると、その時点で自治体としての手稲町は存在していない。碑に刻まれた「手稲町山口」は、「札幌市手稲町山口」の意味ではないのか(末注⑤)。
(3)碑の裏面刻文への言及
埋められたバッタの卵は、「石狩のこの辺りで十㎞付近の地中」だけで掘り出されたものか? 島倉亨次郎「札幌市西区手稲山口のバッタ塚に関する調査報告書」1979年には次のように記されている(p.13、引用太字)。
バッタ塚に埋められたという卵のうは、それらが皆そこに産下されたものばかりだと考えるよりも、その近傍、中でも札幌区内で、人夫を集め、あるいは買いあげられたものの、ある部分がここへ運び込まれ、現地で集められたものがあればそれといっしょに、計量後、人夫の手で埋められたのだと考える方が、妥当なのではあるまいか。記録にも「札幌区内に卵と若虫の買上所を設け、近傍およそ2里内外の地で日々採取されたものはことごとく買い上げ、(中略)」とある。山口という文字は見当たらないが、「軽川、対雁、江別」の原野は広く、バッタが濃厚」ママだったという。
島倉先生の記述からすると、札幌区(現在の札幌市の中心部)を中心に、広域から集められたように読める。注釈なしの刻文の引用のみでは、誤解をまねくのではないか。
(4)手稲記念館の展示への言及
文中「西区西野にある手稲記念館に、その標本(引用者注:バッタ塚の表層土の剥ぎ取り標本)がガラスのケースの内に保存されている。砂地にバッタの卵や幼虫が埋められた部分だけが黒ずんでいて、層となっているのを見ることができる」と述べられている(p.69)。しかし「黒ずんでいて、層となっている」部分を「バッタの卵や幼虫」とは確認できなかったことが、前述島倉「調査報告書」に記されている。また、埋められたのは幼虫ではなく、卵であろうとも考察されている(2019.11.22ブログ参照)。上述のように断定するのはいかがなものか。ちなみに、手稲記念館の所在地は「西区西野」ではなく、同区「西町南21丁目」である。
北海道大学名教授にして工学博士の先生の著述に疑問を呈するのは恐れ多いことながら、史実の正確を期することになればと思い蛮勇を奮って記します。なお、かく申す私自身の無知と無恥も、お詫びがてら告白せねばなりません。前述の道新電子版動画で、本件バッタ塚について私は間違ったことをしゃべってしまいました。半ばあたりです。
「バッタの卵とかを埋めて、さなぎとかに孵って成虫にならないだろうというような形でここに処理したのだと思いますね」。
バッタは蛹(さなぎ)にはなりません。兵庫県立人と自然博物館サイト下記ページ参照 → https://www.hitohaku.jp/hatena_q/2009/09/post-69.html 「不完全変態」というそうです。
注①:下記ブログに関連事項記述→ 2019.11.19、同11.20、同11.21、同11.22、同11.24、同11.25、同12.2、同12.3、同12.4ブログ
注②:『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年、p.239参照
注③:北海道新聞1966年11月24日記事「バッタ塚、開拓の遺跡、壊滅寸前 手稲町山口」ほか
注④:『新札幌市史 第8巻Ⅱ年表・索引編』2012年、p.416
注⑤:前述『さっぽろ文庫45 札幌の碑』p.239でも、札幌市が建立したとしている。
手稲山口は暑いか
手稲区内の国道沿いに札幌あすかぜ高校という高校があります。

元は別の名前でしたが、近くの高校との統合によりこの名前になったようです。近くには「明日風」という町名があります。ただし高校の所在地は手稲山口です(市街化調整区域)。明日風も元は手稲山口でしたが(末注①)、市街化されて新しい町名が付けられました。札幌でもっとも新しい行政地名だそうです(末注②)。
統合されたもう一方の高校の所在地も手稲山口でした。ならば新しい校名は地域の歴史にのっとって手稲山口高校がよかろう…というのは私のようなヨソモノの感覚なのでしょうね(末注③)。新味がないというか。それに長い。道立高校はアタマに北海道と付け、札幌の場合は札幌○○高校というのが正式名称らしいので、北海道札幌手稲山口高等学校。寿限無みたいになる。
さて、なぜこの高校の所在地まで来たかというと、目的は学校ではありません。すぐそばにある物件が目当てでした。

「地域気象観測所」、いわゆるアメダスです。
ニュースでしばしば「手稲山口で気温○℃を観測した」と耳にします。特に高温を記録したときにこの名前が出てくる印象が私にはありました。その観測所が前掲の高校の隣に設けられていると、手稲郷土史研究会の例会で昨年お聴きしたのです。それで現地を確かめたい興味が湧いていました。
持って行った温度計を現地に置いたら、39.5℃を指しています。

温度計の手前に置いたのは気象庁のマスコットキャラクター「はれるん」です。我ながら、芸が細かい。
帰ってきて気象庁のサイトを確かめたら、ここでの最高気温(8月19日)は13時49分で33.7℃でした(末注④)。道内の観測地点173箇所の中では、上から11番目です。しかし札幌近郊では、「札幌」が14時11分に34.3℃で、上から4番目した。「札幌」は、中央区の気象台があるところで観測しています。何のことはない、街中のほうが暑かったのです。しかも「札幌」では深夜、日付が変わる時間帯になっても26℃!にとどまっています。内地並みの熱帯夜ではないか。
それでも、昼下がりに手稲山口のアメダスを現地で鑑みていたら汗がドボドボ噴出してきました。公式的な観測気温よりも「手元の温度計ではもっと高い」というのはニュースでも観たりします。直射日光の当たり方などによってはそうなるのでしょう。
アメダスで気温を観測しているのは札幌市内では「札幌」と「山口」の2箇所だということをはじめて知りました。手稲山口が天気のニュースでよく出てくるのはそのせいですか。実際に他に比べて平均気温が高いのか、そもそもなぜこの場所に市内2箇所の(気温を観測する)観測所の一つが設けられたのか。機会があれば気象台に訊いてみたいものです。
注①:札幌市区域図1989年及び札幌市町名・住居表示実施区域図2014年、札幌市都市計画図2016年の照合による。
注②:関秀志編『さっぽろの地名がわかる本』2018年、p.159
注③:今から思うと、ン十年前の自分の高校受験時、私が志望校を決めた動機は伝統志向的な嗜好だった。江戸時代の藩校の名前を負うている学校がいいというような(2018.5.23ブログ参照)。
注④:https://www.jma-net.go.jp/sapporo/tenki/kansoku/amedasrank/archives/index20200819mxdesc.html参照。観測地点名には「手稲」は付かず、「山口」である。

元は別の名前でしたが、近くの高校との統合によりこの名前になったようです。近くには「明日風」という町名があります。ただし高校の所在地は手稲山口です(市街化調整区域)。明日風も元は手稲山口でしたが(末注①)、市街化されて新しい町名が付けられました。札幌でもっとも新しい行政地名だそうです(末注②)。
統合されたもう一方の高校の所在地も手稲山口でした。ならば新しい校名は地域の歴史にのっとって手稲山口高校がよかろう…というのは私のようなヨソモノの感覚なのでしょうね(末注③)。新味がないというか。それに長い。道立高校はアタマに北海道と付け、札幌の場合は札幌○○高校というのが正式名称らしいので、北海道札幌手稲山口高等学校。寿限無みたいになる。
さて、なぜこの高校の所在地まで来たかというと、目的は学校ではありません。すぐそばにある物件が目当てでした。

「地域気象観測所」、いわゆるアメダスです。
ニュースでしばしば「手稲山口で気温○℃を観測した」と耳にします。特に高温を記録したときにこの名前が出てくる印象が私にはありました。その観測所が前掲の高校の隣に設けられていると、手稲郷土史研究会の例会で昨年お聴きしたのです。それで現地を確かめたい興味が湧いていました。
持って行った温度計を現地に置いたら、39.5℃を指しています。

温度計の手前に置いたのは気象庁のマスコットキャラクター「はれるん」です。我ながら、芸が細かい。
帰ってきて気象庁のサイトを確かめたら、ここでの最高気温(8月19日)は13時49分で33.7℃でした(末注④)。道内の観測地点173箇所の中では、上から11番目です。しかし札幌近郊では、「札幌」が14時11分に34.3℃で、上から4番目した。「札幌」は、中央区の気象台があるところで観測しています。何のことはない、街中のほうが暑かったのです。しかも「札幌」では深夜、日付が変わる時間帯になっても26℃!にとどまっています。内地並みの熱帯夜ではないか。
それでも、昼下がりに手稲山口のアメダスを現地で鑑みていたら汗がドボドボ噴出してきました。公式的な観測気温よりも「手元の温度計ではもっと高い」というのはニュースでも観たりします。直射日光の当たり方などによってはそうなるのでしょう。
アメダスで気温を観測しているのは札幌市内では「札幌」と「山口」の2箇所だということをはじめて知りました。手稲山口が天気のニュースでよく出てくるのはそのせいですか。実際に他に比べて平均気温が高いのか、そもそもなぜこの場所に市内2箇所の(気温を観測する)観測所の一つが設けられたのか。機会があれば気象台に訊いてみたいものです。
注①:札幌市区域図1989年及び札幌市町名・住居表示実施区域図2014年、札幌市都市計画図2016年の照合による。
注②:関秀志編『さっぽろの地名がわかる本』2018年、p.159
注③:今から思うと、ン十年前の自分の高校受験時、私が志望校を決めた動機は伝統志向的な嗜好だった。江戸時代の藩校の名前を負うている学校がいいというような(2018.5.23ブログ参照)。
注④:https://www.jma-net.go.jp/sapporo/tenki/kansoku/amedasrank/archives/index20200819mxdesc.html参照。観測地点名には「手稲」は付かず、「山口」である。
名残物件 「石狩街道」 ②
昨日ブログでお伝えした「石狩街道」名残物件画像のシールドを外します。

「石狩街道樋門」です。コメントくださった方、ありがとうございます。案の定の洞察に感服しました。
物件の所在地を現在図に示します。

赤い実線でなぞったのが道道石狩手稲線です。その新川に架かる新川中央橋のたもとに、「石狩街道樋門」があります。黄色の矢印を付けた先です。
新川の右岸(北東)側、道道の南東側に沿って細い水路が通じています。「石狩街道排水」といいます。
その排水が新川に注ぎ込む先にあるのが本件樋門です。


樋門とは何か、正確に説明する力量が私にはないのですが、本件に即していえば新川からの逆流や背水(バックウォーター)による洪水を防ぐための装置だと思います。
石狩街道排水です。

昨日ブログに載せた「南3線」近くで撮りました(2017年撮影)。手前が石狩市側、奥が札幌市手稲区で、右側に通じているのが石狩街道と呼ばれた道道石狩手稲線です。
樋門を「新川からの逆流や背水(バックウォーター)を防ぐための装置」と前述したのは、排水路が本来新川に注いでいることを前提としています。つまり、このあたりの水けを新川に流し、土地を乾かすために開かれた排水路と考えました。もし新川から水を取って、このあたりに流したのであれば「用水」路ということになりましょう。「石狩街道」と冠しているのは、この排水路がかなり昔に開削されたことを物語っているようです。街道たる幹線道路の地盤を固める目的もあったのではないかと思います。
昨日ブログで、石狩街道の「名前を冠する道は、往時の要路といっていいでしょう」と記しました。
札幌には都心から茨戸を経由して石狩方面へ抜ける国道二三一号線の石狩街道のほかに、西区管内の手稲本町-花畔間を結ぶ道道石狩手稲線の石狩街道がある。
この道道は明治二年(一八六九)の札幌本府開設以来、札幌-小樽間の交通運輸の中継地点として、また物資の集散地として重要な位置を占めた軽川(手稲本町)と、古くからの石狩場所の交易で開けていた石狩市街を結ぶ主要な道路であった。(『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年p.166、分区前の刊行のため「西区管内」と記述されている)
「石狩街道」と呼ばれた(呼ばれる)道を現在図に示します。

赤い実線でなぞった3本で、右(東)が道道花畔札幌線、左(西)が本件道道石狩手稲線、真ん中が現在の石狩街道たる国道5号-231号です。すべての道は石狩に通ず。

「石狩街道樋門」です。コメントくださった方、ありがとうございます。案の定の洞察に感服しました。
物件の所在地を現在図に示します。

赤い実線でなぞったのが道道石狩手稲線です。その新川に架かる新川中央橋のたもとに、「石狩街道樋門」があります。黄色の矢印を付けた先です。
新川の右岸(北東)側、道道の南東側に沿って細い水路が通じています。「石狩街道排水」といいます。
その排水が新川に注ぎ込む先にあるのが本件樋門です。


樋門とは何か、正確に説明する力量が私にはないのですが、本件に即していえば新川からの逆流や背水(バックウォーター)による洪水を防ぐための装置だと思います。
石狩街道排水です。

昨日ブログに載せた「南3線」近くで撮りました(2017年撮影)。手前が石狩市側、奥が札幌市手稲区で、右側に通じているのが石狩街道と呼ばれた道道石狩手稲線です。
樋門を「新川からの逆流や背水(バックウォーター)を防ぐための装置」と前述したのは、排水路が本来新川に注いでいることを前提としています。つまり、このあたりの水けを新川に流し、土地を乾かすために開かれた排水路と考えました。もし新川から水を取って、このあたりに流したのであれば「用水」路ということになりましょう。「石狩街道」と冠しているのは、この排水路がかなり昔に開削されたことを物語っているようです。街道たる幹線道路の地盤を固める目的もあったのではないかと思います。
昨日ブログで、石狩街道の「名前を冠する道は、往時の要路といっていいでしょう」と記しました。
札幌には都心から茨戸を経由して石狩方面へ抜ける国道二三一号線の石狩街道のほかに、西区管内の手稲本町-花畔間を結ぶ道道石狩手稲線の石狩街道がある。
この道道は明治二年(一八六九)の札幌本府開設以来、札幌-小樽間の交通運輸の中継地点として、また物資の集散地として重要な位置を占めた軽川(手稲本町)と、古くからの石狩場所の交易で開けていた石狩市街を結ぶ主要な道路であった。(『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年p.166、分区前の刊行のため「西区管内」と記述されている)
「石狩街道」と呼ばれた(呼ばれる)道を現在図に示します。

赤い実線でなぞった3本で、右(東)が道道花畔札幌線、左(西)が本件道道石狩手稲線、真ん中が現在の石狩街道たる国道5号-231号です。すべての道は石狩に通ず。
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