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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/07/24

手稲稲積 再考

 7月22日ブログの続きです。
手稲稲積公園
 uhb「みんテレ」の「となりのレトロ」前回(7月22日放送)は、「手稲稲積」の由来から始まりました。リポーターのEさんが「手稲稲積? 稲作に関係がある?」と切り出したのです。私は「ちょっと違う」と答えました。実は「ちょっと」というのがミソです。

 いうまでもなく、「手稲」はアイヌ語の「テイネ・イ」(濡れたところ)由来とされ、「稲積」は農場を経営していた稲積さんという人名に由ります。だから稲作とは関係がない、といってしまえばそれまでです。しかし私は、アイヌ語に「稲」という字を当てたことや稲積さんという姓に、内地和人の稲作願望を感じてしまいました。こじつけではありますが、稲が重なることにまんざらでもないなと思ったのです。
 ちなみに、農場を拓いた稲積豊次郎は越中富山の出身で、渡道後小樽で商売を営み、手稲で土地を入手する基盤を築きました。経営したのが「共成」です。「共成」は米穀商でした(末注)。

注:「共成」の建物は小樽・色内通の東端に現存し、「小樽オルゴール堂」という商業施設として再利用されている。
 ↓
https://www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/kenzo/f_s/f_s17.html
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2019/07/22

手稲稲積 余話

 本日放送されたuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」では、手稲稲積公園周辺を紹介しました。
 「稲積」という地名について、昨年刊行された『札幌の地名がわかる本』で次のように記されています(p.161、太字)。
 手稲前田の一部地域の通称で、軽川・中の川・三樽別川に囲まれたエリアである。明治35年(1902)、稲積豊次郎がこの地に農場を開き、酪農を営んだことにちなむ。

 これは『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年の以下記述を踏襲したものと思われます(p.134、太字)。
 稲積地区は、手稲前田の一部区域の通称名で、北発寒地区と接し、今後の発展が期待される地域である。稲積の名称は、明治三十五年(一九〇二)に小樽の人・稲積豊次郎が稲積農場を開いたことに由来している。 

 通称地名ですから厳密な境界線が引かれるものではないことを前提としつつ、私としては「稲積」の範囲を前掲諸文献よりも広く解釈したいと思います。拙ブログでもこれまでも綴ってきたとおり(2017.1.29ブログ2017.3.20ブログほか参照)、農場が現在の前田地区のみならず新発寒にも及んでいたこと、番組でお伝えしたように新発寒(『地名考』でいう「北発寒」)に「稲積橋」があること(「北発寒稲積会館」もある)などからです。

 もう一つ、「炭鉱1号橋」について。
炭鉱1号橋 再掲
 番組では由来をほぼ断定的な口調で述べましたが、管見では明確に裏付ける一次史料を見出せてません(2017.1.18ブログほか参照。“状況証拠”ということでご理解いただければ幸いです。

 「札幌市地質図」(『新札幌市史』第一巻1988年付録)で、本件橋の所在地を見ます。
札幌市地質図 新札幌市史第一巻付録 手稲 泥炭地
 黄色の矢印の先に示しました(正確には、橋は鉄路の南西側)。赤い線でなぞったのがJR函館線、これと交差する水色の直線が元炭鉱排水の追分川、濃い青が新川です(追分川は、新川と合流するあたりでは中の川)。

 JR函館線の北東側、新川の流域にかけて薄い緑色で塗られている一帯があります。「泥炭」です。新川や炭鉱排水が泥炭地の土地改良(排水)のために開削されたことが窺われます。また、鉄路が泥炭地と手稲山麓の硬い地盤の合間に通されたことも読み取れます。ただし、ちょうど炭鉱排水のあたりでは、泥炭地が南に入り込んでいます。のちにできた国道5号や札樽自動車道はこれを避けたかのように通じているのですが、明治の早い時期に敷かれた鉄道は泥炭地をかすめました。あらためて、鉄路を維持する上での排水の必要性が察せられます。
 ところで、くだんの排水路が新川と合流する地点のすぐ北、北東方向に濃桃色でなぞりました。これは「紅葉山砂丘」です。これをなぞったことについては後述します。

 色別標高図で、地形を鑑みます。
標高図 手稲 新川、炭鉱排水周辺 広域
 標高10m未満から10mごとに10色段彩で作成しました(国土地理院サイトから)。黄色の矢印が前掲図と同じく炭鉱排水(現追分川)とJR函館線の交点です。
 地形的にみると、炭鉱排水のところは標高10m未満の低地も南の奥深く入り込んでいます。地形地質の両面で、まさに「テイネ・イ」(=濡れているところ、末注①)だったのではないでしょうか。

 前掲地質図、標高図に「紅葉山砂丘」をなぞった(濃桃色)のは、番組の収録のときテレビ局のスタッフから疑問を呈されたからです。疑問というのは、「手稲山から流れ出ていた多くの川は、海に近い北のほうに流れていかなかったのですか?」。しかり。川は東北東方向へ流れました。そうさせたのは紅葉山砂丘だと思います。これは、縄文海進→「古石狩湾」→砂州形成→海退後、砂丘 になったものです(末注②)。炭鉱排水が掘られた一帯は大昔は海で、その後ラグーン(潟湖)になりました。海退して湿原となっても寒冷気候で植物が分解せず、泥炭地となったわけです。

 注①:前掲『札幌の地名がわかる本』p.152
 注②:「さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、pp.212-213

2018/08/18

西宮の沢の「大滝幹」

 昨日ブログの「研修所幹」、コメントありがとうございます。
 エルフェンバインさん、当たりです。驚きを禁じえません。「たぶん、このあたりだろう」ではなく、ピンポイントで所在地をお答えされることに、です。驚く私は、まだまだ修行が足りません。
 南20条西15丁目に「北海道郵政研修センター」、伏見5丁目に東本願寺の「青少年研修センター」があります。本件「研修所幹」は前者に由来すると思います。郵政の研修センターについてはもう少し調べた上で報告させてください。

 電柱ネタを昨日取り上げたのは、札幌建築鑑賞会スタッフSさんから別の物件の情報提供があったことに影響しています。 
西宮の沢「大滝幹」①
西宮の沢「大滝幹」②
 手稲区西宮の沢の「大滝幹」です(画像はSさん撮影)。
 Sさんから、「大滝」の由来を突き止めるべしとのミッションが下りました。Sさんは鑑賞会通信『きー すとーん』の編集長でもあり、私は原稿の段どりも厳命されています。来月中旬に次号を発行する予定からして、当然後者を優先させなければいけません。しかし、欲求の赴くままに言動するオタクな私には酷な話です。電柱に逍遥してしまいました。Sさん、ごめんなさい。

2017/06/20

西牧場2号橋

 6月16日ブログで、7月に催される鴨々川にちなむ二つの行事をお知らせしました。そのうちの一つ、7月17日の豊平館での講演会「鴨々川・創成川からたどる札幌の歴史」は、7月19日午前9時の受付開始から30分で定員(30名)に達してしまったそうです。うーん。最近はこういうテーマが受けるのですかね。期待外れにならぬよう、プレッシャーがかかります。

 だからというわけでもないのですが、ブログでも川の話題を…。
 北区と手稲区の区界を、発寒古川という川が分かっています。
西牧場2号橋
 この「古川」のことはおいおい記していきたいと思いますが、今回はその川に架かる橋のことを取り上げます。

 「西牧場2号橋」です。
 今年の4月にこの橋を渡ったときに、ちょっと気になりました。気になったので、橋名板を写真に撮っておきました。欄干には、牛が草をはむ絵柄のレリーフも飾られています。
 さて、私が気になった理由は、二つあります。
 まず、「西牧場(にしまきば)」。なんで、ここが「西牧場」なのか? 場所は前述したように北区と手稲区の区界で、北区側の現在の町名は「新川西」の条丁目、手稲区のほうは「前田」の条丁目です(末注)。まあ、前田にも新川にも牧場が多くあった(今もある)ので、「まきば」と命名されても不思議はなかろうと漠然とは思いました。ただ、「西」と付くのが、微妙にひっかかります。
 二つ目は、「2号橋」。「西牧場1号橋」は見当たりません。なんで、「2号」なのか? まあこれも、「以前『1号橋』があったが、撤去されたのかなあ」くらいに、いったんは思いました。

 注:厳密にいうと、現在の発寒古川の流れと手稲区・北区の区界は、少しずれている。たぶん、河川改修で川の流れが変わったが、区界は旧河道に残ったためであろう。西牧場2号橋のあたりは手稲区に属している。

2017/05/30

手稲前田・Tさん宅サイロと前田公園内のサイロ

 煉瓦造小端空間積みです。
手稲前田 Tさん宅サイロ
 基礎にコンクリートを廻し、中層部には鉄製のタガが嵌められています。屋根はすでにありません。軒にはデンティル(歯状飾り、ただし‘稲妻’蛇腹ではない)あり。煉瓦の平(ひら)面(=直方体のもっとも大きい面)が一部、黒ずんでいます。小口面(=直方体のもっとも小さい面)はそうでもないので、全体にまだら色に見えます。この黒ずみは何だろう? ‘焼き過ぎ煉瓦’かな。

 持ち主のTさんの話では、建てられたのは1965(昭和40)年頃らしいのですが、定かではありません。「たしか、煉瓦に(築年が)書いてある」とおっしゃるので、近づいて見てみました。
手稲前田 Tさん宅サイロ 築年
 煉瓦の下から8段目の一箇所に、コンクリートがはめられています。サイロでこのような銘鈑?が付けらているのは初めて見ました。左上方に「昭」と刻まれているようです。しかし、そのあとは摩耗していて読めません。残念。
 もともとこのあたりは明治期、「前田農場」だったところで、昭和戦前期に農地解放されました。Tさんもそのとき自作農となった一軒です(末注①)。酪農は1995(平成7)年にやめています。

 Tさん宅からバスでJR手稲駅方面へ帰る途中、前田公園(前田8条11丁目)で下車しました。
前田公園内サイロ
 公園内に、煉瓦造のサイロが遺っています。
 小端空間積みで、軒下のデンティルの形状が前掲Tさん宅サイロと似ています。煉瓦の焼かれ具合も、一部黒ずんでいて、ばらつきがある。

 のみならず…。
前田公園サイロ 築年銘鈑
 コンクリートの銘鈑?が、塗り込まれています。なんだか、前掲Tさんのサイロと双子の姉妹のように見えてきました。
 こちらのほうは文字がハッキリと読めます。「昭和三十年八月八日 札幌市南十五(ママ)西十丁目 酒井千代三氏 作工」。「作工」した「酒井」さんに「氏」と付けられていることからすると、これを刻んだのは施主かもしれません。煉瓦造でも、豊平区などに遺るサイロには、こういう碑文をを見た記憶がありません。手稲前田での、同時期の習わしだろうか。前掲Tさんのサイロも、昭和30年代築かもしれない。
 
 恥ずかしながら私は、この銘鈑?を見るまで、本件サイロをてっきり前田農場時代(明治-昭和戦前期)の遺構だと思ってました。1955(昭和30)年というのは、明らかに農地解放後です(末注②)。小端空間積みのサイロは、西区発寒の三谷さんところは別として、おおむね昭和戦後期(20-30年代)に普及しています。(末注③)。現地に足を運び実物をこの眼で確かめることが大事だなと、あらためて思い知りました。

注①:『東宮駐輦記念碑移設記念誌 知られざる手稲と加賀百万石~手稲前田と前田農場~』2013年、pp.35-38参照
注②:前田農場は1947(昭和22)年に農地解放・自作農創設が完結している。前掲書p.63参照
注③:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年、pp.1-17参照

2017/05/29

手稲前田 O牧場サイロ

 サイロの煉瓦は長手積みです。
手稲前田 O牧場サイロ
 持ち主のOさんによると、1950(昭和25)年、Oさんの父が分家したときに建てられました。使われていたのは2002-03(平成14-15)年頃までで、その後はバンカーサイロに変えたそうです。バンカーのほうが低コストとのこと。隣接の牛舎で今も牛が飼われています(末注)。

 注:飼牛の衛生管理上、許可なく立ち入るのは厳に慎みましょう。前掲画像はOさんのお許しを得て近づいて撮りましたが、サイロは道道石狩手稲線の路上からも垣間見えます。

2017/04/26

手稲前田のコンクリートブロックサイロ

 4月13日、14日ブログで、札幌市内における非煉瓦、非軟石のサイロの情報を募ったところ、札幌建築鑑賞会スタッフのSさんとNさんから早速ご教示いただきました。マニアックな問いにマニアックな応答をしていただき、ありがとうございます。それにしても、札幌という街の風物に対するSさん、Nさんのオタク度、否、造詣の深さに脱帽します。

 まず、手稲前田のⅠ牧場。
手稲前田 Ⅰ牧場サイロ 軟石 コンクリートブロック
 石狩市との境近くにあります。鑑賞会の「札幌軟石発掘大作戦」で2013年に、「古き建物を描く会」で2014年に訪れて観ていたのですが、忘れていました。右側がコンクリートブロック(CB)です。当時はまだ浅はかなことに、非軟石というとナイガシロにしていました。
 
 Ⅰ牧場から500mほど北西にあるU牧場です。
手稲前田 U牧場サイロ コンクリートブロック
 ここはCBが2棟、建っています。かなり高い。

 私はここも2013年に見ていたのですが、そのときは「ああ、非軟石のサイロだなあ」くらいにしか思ってませんでした。
手稲前田 U牧場サイロ CB 近景
 このたび持ち主のUさんに伺うと、建てられたのは「新しいですよ。30年ほど前」とのことです。
 もともと北区新川で酪農を営んでいて、1986(昭和61)年ころ、この地に移ってきました。サイロはそのときの築です。使っていたのは2005、6(平成17、18)年ころまでなので、現役だったのは20年くらいということになります。

 ちなみに前掲Ⅰさんのサイロが建てられたのは「昭和40年代」で、使っていたのは1992(平成4)年までです。大体30年くらいのお務めですね。Ⅰさんところはここから石狩市樽川に移っています。樽川で搾ったミルクでソフトクリームが作られていて、ここはそのお店になっています。サイロはお店のランドマークです。
 
 ⅠさんのCBサイロは芋目地で、Uさんのところの二棟は破れ目地と、積み方が異なります。小ぶりな方が芋目地でしょうか。4月13日に紹介した北区新川Yさん宅も小ぶりで、芋目地でした。一ユニットのサイズはどちらも、W39㎝×H19㎝。JIS規格ですね。
 これで市内のCBサイロは、新川のYさん、新川(条丁目)のMさんに加えること3棟で、計5棟になりました。

2017/03/20

稲積農場 発寒勤労者団地 補遺

 「稲積農場」と「発寒勤労者団地」のことをブログに記したのはふた月ほど前のことです(「手稲区」カテゴリー参照)。調べていく中で生じた疑問を「手稲郷土史研究会」会長のS先生にお尋ねした矢先、札幌建築鑑賞会スタッフSさん経由で「手稲人が語る手稲人のための手稲の話」という講演会(2月21日)のご案内をいただきました。「新発寒わらび地域の昔を訪ねて 稲積農場を開いた稲積豊次郎氏」というテーマです。疑問をただす願ってもない機会ですので、手稲人ではない私ですが手稲コミュニティセンターへ参じて聴講させていただきました。
 講師を務められた手稲区前田在住の郷土史家Sさん(前述のS先生やスタッフSさんとは別の方です)に、以下の二点をお尋ねしました。
 ①稲積農場の範囲はどこまでだったのか?
 ②発寒勤労者団地を造成分譲した「北海道開発生協」は、何を母体としていたか?

 まず①について。 
 私は1月19日ブログで、史料に残る稲積農場の面積にもとづき現在の地図に当てはめてみました。
 ↓
 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-904.html

 2月21日講師Sさんによると、南東端はやはり追分通り(現在の西区と手稲区の区界)ですが、西端は追分川(当時)まででないかとのことでした(北西端は新川、南西端は鉄道)。西端を追分川とした根拠は、この川がかつて琴似村と手稲村の村界を分かっていたことです。
 Sさんのお話に基づいて、稲積農場の区域を大正5年地形図に示してみましょう。
大正5年地形図 稲積農場一帯
 赤茶色の線で囲いました。
 おおまかにいうと台形状です。距離を測ると鉄道沿い1.15㎞(上底)、新川沿い2.55㎞(下底)、追分通り1.85㎞(高さ)で、台形として面積を計算すると(1.15+2.55)×1.85/2≒3.4㎢ になります。
 稲積農場の面積は史料によって相違がありますが、最大で4.9㎢、小さい数字でも4㎢です(前述2017.1.19ブログ参照)。講演会のときは地形図を持ち合わせていなかったので突合できなかったのですが、追分川を西端とすると、若干足りないようにも思えます。このほかにも近辺に所有地があったのだろうか。

 次に②について。
 講師Sさんによると、当時の資料が残っておらず、開発生協の実態は不明です。ただ、講演会に参加された手稲郷土史研究会会員の方から「団地が造成されてまもなく、社会党の道議が中心となって水道の組合が作られたと記憶している」というお話がありました。そういえば『新発寒わらび連合町内会創立10周年 発寒団地わらび会創立30年 発寒団地の30年』にたしか、当初の居住者には労働組合関係者が多かったと書かれていました。また、デベロッパーには労金も関わっていたようです(2017.1.17ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-902.html参照)。同書によると団地が造成されたのは1960(昭和35)年。その前年の1959年まで、北海道知事は全道庁職員組合出身の田中敏文氏が務めていました。“社会党王国”の時代です。
 

2017/02/23

手稲本町バス停

 またまた、札幌建築鑑賞会スタッフSさん紹介の物件です。
手稲本町バス停
 「手稲本町」バス停。一昨日ブログの手稲横断歩道橋のすぐ近くにあります。

 Sさんにいろいろ見どころを教えていただきました。 
 待合所に書かれている名称が「JR北海道バス 手稲町」となっています。
手稲本町バス停 待合所
 「手稲本町」ではなく、「手稲町」という停留所名だったのですね。社名も「ジェイ・アール北海道バス」ではなく、「JR北海道バス」。Sさんによると、軒下に付いているスピーカーはバスの発着を知らせるためのものです。左方、配電盤のそばには住居表示番号のステッカーも貼られています。単なる待合所に住居表示番号が付されているのは、珍しいと思う。

 待合所内部、板が打ち付けられているところには、かつて券売窓口があったそうです。
手稲本町バス停 待合所 内部
 突き出ている手すりは、窓口当時の名残とのこと。「単なる待合所」ではなかったわけです。 

 壁に貼られている周辺案内地図がまた、古い。
手稲本町バス停 待合所に貼られている地図
 Sさん、「手稲追分」停(末注)に続き、どうもありがとうございました。

注:2016.10.15ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-816.html 参照

2017/02/21

手稲横断歩道橋

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんから情報提供いただいた物件です。
手稲横断歩道橋
 「手稲横断歩道橋」。

 橋名が書かれている隣、赤い○で囲ったあたりに注目です。
手稲横断歩道橋 痕跡
 塗装に濃淡が感じられます。うっすらと、四角い痕が見えませんか。

 Sさんによると、ここに銘鈑が留められていました。銘鈑が在ったときの写真を、Sさんが撮ってました。
手稲横断歩道橋 銘鈑
 Sさん、偉い!  
 「1971年11月」という建造年が読み取れます。製作は「株式会社釧路製作所」です。歩道橋でおなじみのメーカーですね。おなじみでない方は、下記2016.2.3ブログをご参照ください。

http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-558.html

 「おなじみ」というにはまだ物足りないので、もう一つ紹介します。
釧路製作所 1968年銘鈑
 1968年の作品です。さて、この銘鈑の歩道橋はどこでしょう? 札幌市内です。
 私は昨年、この歩道橋が近い将来撤去されると地元の方にお聞きしました。2016.2.3ブログで記した歩道橋はすでになく、前掲手稲歩道橋も銘鈑が剥がされており、さらにこの1968年作品もなくなるとなると、釧路製作所の功績が消されるような思いを致します。

 そういえば、わりと最近、釧路製作所の名前を新聞で読んだ気がします。同社(釧路市)で保存しているSLの車両にまつわる話題だったと思う。ネットで調べたら、同社は雄別炭礦が出資して創業し、SLは炭礦鉄道を走っていたものとのこと。なるほど。

 それにしても手稲横断歩道橋、なんで銘鈑が外されたのかな。ネジが腐食して落下したのかしら。一度外れたら、元には戻されないものか。だとすると、Sさんの写真は実に貴重だなあ。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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