札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/06/20

西牧場2号橋

 6月16日ブログで、7月に催される鴨々川にちなむ二つの行事をお知らせしました。そのうちの一つ、7月17日の豊平館での講演会「鴨々川・創成川からたどる札幌の歴史」は、7月19日午前9時の受付開始から30分で定員(30名)に達してしまったそうです。うーん。最近はこういうテーマが受けるのですかね。期待外れにならぬよう、プレッシャーがかかります。

 だからというわけでもないのですが、ブログでも川の話題を…。
 北区と手稲区の区界を、発寒古川という川が分かっています。
西牧場2号橋
 この「古川」のことはおいおい記していきたいと思いますが、今回はその川に架かる橋のことを取り上げます。

 「西牧場2号橋」です。
 今年の4月にこの橋を渡ったときに、ちょっと気になりました。気になったので、橋名板を写真に撮っておきました。欄干には、牛が草をはむ絵柄のレリーフも飾られています。
 さて、私が気になった理由は、二つあります。
 まず、「西牧場(にしまきば)」。なんで、ここが「西牧場」なのか? 場所は前述したように北区と手稲区の区界で、北区側の現在の町名は「新川西」の条丁目、手稲区のほうは「前田」の条丁目です(末注)。まあ、前田にも新川にも牧場が多くあった(今もある)ので、「まきば」と命名されても不思議はなかろうと漠然とは思いました。ただ、「西」と付くのが、微妙にひっかかります。
 二つ目は、「2号橋」。「西牧場1号橋」は見当たりません。なんで、「2号」なのか? まあこれも、「以前『1号橋』があったが、撤去されたのかなあ」くらいに、いったんは思いました。

 注:厳密にいうと、現在の発寒古川の流れと手稲区・北区の区界は、少しずれている。たぶん、河川改修で川の流れが変わったが、区界は旧河道に残ったためであろう。西牧場2号橋のあたりは手稲区に属している。
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2017/05/30

手稲前田・Tさん宅サイロと前田公園内のサイロ

 煉瓦造小端空間積みです。
手稲前田 Tさん宅サイロ
 基礎にコンクリートを廻し、中層部には鉄製のタガが嵌められています。屋根はすでにありません。軒にはデンティル(歯状飾り、ただし‘稲妻’蛇腹ではない)あり。煉瓦の平(ひら)面(=直方体のもっとも大きい面)が一部、黒ずんでいます。小口面(=直方体のもっとも小さい面)はそうでもないので、全体にまだら色に見えます。この黒ずみは何だろう? ‘焼き過ぎ煉瓦’かな。

 持ち主のTさんの話では、建てられたのは1965(昭和40)年頃らしいのですが、定かではありません。「たしか、煉瓦に(築年が)書いてある」とおっしゃるので、近づいて見てみました。
手稲前田 Tさん宅サイロ 築年
 煉瓦の下から8段目の一箇所に、コンクリートがはめられています。サイロでこのような銘鈑?が付けらているのは初めて見ました。左上方に「昭」と刻まれているようです。しかし、そのあとは摩耗していて読めません。残念。
 もともとこのあたりは明治期、「前田農場」だったところで、昭和戦前期に農地解放されました。Tさんもそのとき自作農となった一軒です(末注①)。酪農は1995(平成7)年にやめています。

 Tさん宅からバスでJR手稲駅方面へ帰る途中、前田公園(前田8条11丁目)で下車しました。
前田公園内サイロ
 公園内に、煉瓦造のサイロが遺っています。
 小端空間積みで、軒下のデンティルの形状が前掲Tさん宅サイロと似ています。煉瓦の焼かれ具合も、一部黒ずんでいて、ばらつきがある。

 のみならず…。
前田公園サイロ 築年銘鈑
 コンクリートの銘鈑?が、塗り込まれています。なんだか、前掲Tさんのサイロと双子の姉妹のように見えてきました。
 こちらのほうは文字がハッキリと読めます。「昭和三十年八月八日 札幌市南十五(ママ)西十丁目 酒井千代三氏 作工」。「作工」した「酒井」さんに「氏」と付けられていることからすると、これを刻んだのは施主かもしれません。煉瓦造でも、豊平区などに遺るサイロには、こういう碑文をを見た記憶がありません。手稲前田での、同時期の習わしだろうか。前掲Tさんのサイロも、昭和30年代築かもしれない。
 
 恥ずかしながら私は、この銘鈑?を見るまで、本件サイロをてっきり前田農場時代(明治-昭和戦前期)の遺構だと思ってました。1955(昭和30)年というのは、明らかに農地解放後です(末注②)。小端空間積みのサイロは、西区発寒の三谷さんところは別として、おおむね昭和戦後期(20-30年代)に普及しています。(末注③)。現地に足を運び実物をこの眼で確かめることが大事だなと、あらためて思い知りました。

注①:『東宮駐輦記念碑移設記念誌 知られざる手稲と加賀百万石~手稲前田と前田農場~』2013年、pp.35-38参照
注②:前田農場は1947(昭和22)年に農地解放・自作農創設が完結している。前掲書p.63参照
注③:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年、pp.1-17参照

2017/05/29

手稲前田 O牧場サイロ

 サイロの煉瓦は長手積みです。
手稲前田 O牧場サイロ
 持ち主のOさんによると、1950(昭和25)年、Oさんの父が分家したときに建てられました。使われていたのは2002-03(平成14-15)年頃までで、その後はバンカーサイロに変えたそうです。バンカーのほうが低コストとのこと。隣接の牛舎で今も牛が飼われています(末注)。

 注:飼牛の衛生管理上、許可なく立ち入るのは厳に慎みましょう。前掲画像はOさんのお許しを得て近づいて撮りましたが、サイロは道道石狩手稲線の路上からも垣間見えます。

2017/04/26

手稲前田のコンクリートブロックサイロ

 4月13日、14日ブログで、札幌市内における非煉瓦、非軟石のサイロの情報を募ったところ、札幌建築鑑賞会スタッフのSさんとNさんから早速ご教示いただきました。マニアックな問いにマニアックな応答をしていただき、ありがとうございます。それにしても、札幌という街の風物に対するSさん、Nさんのオタク度、否、造詣の深さに脱帽します。

 まず、手稲前田のⅠ牧場。
手稲前田 Ⅰ牧場サイロ 軟石 コンクリートブロック
 石狩市との境近くにあります。鑑賞会の「札幌軟石発掘大作戦」で2013年に、「古き建物を描く会」で2014年に訪れて観ていたのですが、忘れていました。右側がコンクリートブロック(CB)です。当時はまだ浅はかなことに、非軟石というとナイガシロにしていました。
 
 Ⅰ牧場から500mほど北西にあるU牧場です。
手稲前田 U牧場サイロ コンクリートブロック
 ここはCBが2棟、建っています。かなり高い。

 私はここも2013年に見ていたのですが、そのときは「ああ、非軟石のサイロだなあ」くらいにしか思ってませんでした。
手稲前田 U牧場サイロ CB 近景
 このたび持ち主のUさんに伺うと、建てられたのは「新しいですよ。30年ほど前」とのことです。
 もともと北区新川で酪農を営んでいて、1986(昭和61)年ころ、この地に移ってきました。サイロはそのときの築です。使っていたのは2005、6(平成17、18)年ころまでなので、現役だったのは20年くらいということになります。

 ちなみに前掲Ⅰさんのサイロが建てられたのは「昭和40年代」で、使っていたのは1992(平成4)年までです。大体30年くらいのお務めですね。Ⅰさんところはここから石狩市樽川に移っています。樽川で搾ったミルクでソフトクリームが作られていて、ここはそのお店になっています。サイロはお店のランドマークです。
 
 ⅠさんのCBサイロは芋目地で、Uさんのところの二棟は破れ目地と、積み方が異なります。小ぶりな方が芋目地でしょうか。4月13日に紹介した北区新川Yさん宅も小ぶりで、芋目地でした。一ユニットのサイズはどちらも、W39㎝×H19㎝。JIS規格ですね。
 これで市内のCBサイロは、新川のYさん、新川(条丁目)のMさんに加えること3棟で、計5棟になりました。

2017/03/20

稲積農場 発寒勤労者団地 補遺

 「稲積農場」と「発寒勤労者団地」のことをブログに記したのはふた月ほど前のことです(「手稲区」カテゴリー参照)。調べていく中で生じた疑問を「手稲郷土史研究会」会長のS先生にお尋ねした矢先、札幌建築鑑賞会スタッフSさん経由で「手稲人が語る手稲人のための手稲の話」という講演会(2月21日)のご案内をいただきました。「新発寒わらび地域の昔を訪ねて 稲積農場を開いた稲積豊次郎氏」というテーマです。疑問をただす願ってもない機会ですので、手稲人ではない私ですが手稲コミュニティセンターへ参じて聴講させていただきました。
 講師を務められた手稲区前田在住の郷土史家Sさん(前述のS先生やスタッフSさんとは別の方です)に、以下の二点をお尋ねしました。
 ①稲積農場の範囲はどこまでだったのか?
 ②発寒勤労者団地を造成分譲した「北海道開発生協」は、何を母体としていたか?

 まず①について。 
 私は1月19日ブログで、史料に残る稲積農場の面積にもとづき現在の地図に当てはめてみました。
 ↓
 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-904.html

 2月21日講師Sさんによると、南東端はやはり追分通り(現在の西区と手稲区の区界)ですが、西端は追分川(当時)まででないかとのことでした(北西端は新川、南西端は鉄道)。西端を追分川とした根拠は、この川がかつて琴似村と手稲村の村界を分かっていたことです。
 Sさんのお話に基づいて、稲積農場の区域を大正5年地形図に示してみましょう。
大正5年地形図 稲積農場一帯
 赤茶色の線で囲いました。
 おおまかにいうと台形状です。距離を測ると鉄道沿い1.15㎞(上底)、新川沿い2.55㎞(下底)、追分通り1.85㎞(高さ)で、台形として面積を計算すると(1.15+2.55)×1.85/2≒3.4㎢ になります。
 稲積農場の面積は史料によって相違がありますが、最大で4.9㎢、小さい数字でも4㎢です(前述2017.1.19ブログ参照)。講演会のときは地形図を持ち合わせていなかったので突合できなかったのですが、追分川を西端とすると、若干足りないようにも思えます。このほかにも近辺に所有地があったのだろうか。

 次に②について。
 講師Sさんによると、当時の資料が残っておらず、開発生協の実態は不明です。ただ、講演会に参加された手稲郷土史研究会会員の方から「団地が造成されてまもなく、社会党の道議が中心となって水道の組合が作られたと記憶している」というお話がありました。そういえば『新発寒わらび連合町内会創立10周年 発寒団地わらび会創立30年 発寒団地の30年』にたしか、当初の居住者には労働組合関係者が多かったと書かれていました。また、デベロッパーには労金も関わっていたようです(2017.1.17ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-902.html参照)。同書によると団地が造成されたのは1960(昭和35)年。その前年の1959年まで、北海道知事は全道庁職員組合出身の田中敏文氏が務めていました。“社会党王国”の時代です。
 

2017/02/23

手稲本町バス停

 またまた、札幌建築鑑賞会スタッフSさん紹介の物件です。
手稲本町バス停
 「手稲本町」バス停。一昨日ブログの手稲横断歩道橋のすぐ近くにあります。

 Sさんにいろいろ見どころを教えていただきました。 
 待合所に書かれている名称が「JR北海道バス 手稲町」となっています。
手稲本町バス停 待合所
 「手稲本町」ではなく、「手稲町」という停留所名だったのですね。社名も「ジェイ・アール北海道バス」ではなく、「JR北海道バス」。Sさんによると、軒下に付いているスピーカーはバスの発着を知らせるためのものです。左方、配電盤のそばには住居表示番号のステッカーも貼られています。単なる待合所に住居表示番号が付されているのは、珍しいと思う。

 待合所内部、板が打ち付けられているところには、かつて券売窓口があったそうです。
手稲本町バス停 待合所 内部
 突き出ている手すりは、窓口当時の名残とのこと。「単なる待合所」ではなかったわけです。 

 壁に貼られている周辺案内地図がまた、古い。
手稲本町バス停 待合所に貼られている地図
 Sさん、「手稲追分」停(末注)に続き、どうもありがとうございました。

注:2016.10.15ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-816.html 参照

2017/02/21

手稲横断歩道橋

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんから情報提供いただいた物件です。
手稲横断歩道橋
 「手稲横断歩道橋」。

 橋名が書かれている隣、赤い○で囲ったあたりに注目です。
手稲横断歩道橋 痕跡
 塗装に濃淡が感じられます。うっすらと、四角い痕が見えませんか。

 Sさんによると、ここに銘鈑が留められていました。銘鈑が在ったときの写真を、Sさんが撮ってました。
手稲横断歩道橋 銘鈑
 Sさん、偉い!  
 「1971年11月」という建造年が読み取れます。製作は「株式会社釧路製作所」です。歩道橋でおなじみのメーカーですね。おなじみでない方は、下記2016.2.3ブログをご参照ください。

http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-558.html

 「おなじみ」というにはまだ物足りないので、もう一つ紹介します。
釧路製作所 1968年銘鈑
 1968年の作品です。さて、この銘鈑の歩道橋はどこでしょう? 札幌市内です。
 私は昨年、この歩道橋が近い将来撤去されると地元の方にお聞きしました。2016.2.3ブログで記した歩道橋はすでになく、前掲手稲歩道橋も銘鈑が剥がされており、さらにこの1968年作品もなくなるとなると、釧路製作所の功績が消されるような思いを致します。

 そういえば、わりと最近、釧路製作所の名前を新聞で読んだ気がします。同社(釧路市)で保存しているSLの車両にまつわる話題だったと思う。ネットで調べたら、同社は雄別炭礦が出資して創業し、SLは炭礦鉄道を走っていたものとのこと。なるほど。

 それにしても手稲横断歩道橋、なんで銘鈑が外されたのかな。ネジが腐食して落下したのかしら。一度外れたら、元には戻されないものか。だとすると、Sさんの写真は実に貴重だなあ。

2017/02/02

手稲パラダイスヒュッテ

 手稲パラダイスヒュッテは昨日ブログで記したように、企業や市民の寄付によって再建されました。私は越野武先生にお声掛けをいただきました。越野先生は、再建期成会の「ご寄付のお願い」に加え自らの一文も添えて呼びかけられました。再建に当たっては越野先生や角先生の建築史的考証が大きな役割を果たしています。
 
 当時の資料から、歴史的建物の保存を可能ならしめる力は何か、ということが伝わってきます。逆説的ですが、歴史的建物はそもそも「歴史的建物」という枠組みを超えた広がりがないと、遺せない。否、「歴史的」の中味が問われるというべきかもしれません。

 ヒュッテの内部です(1995年11月撮影)。
手稲パラダイスヒュッテ 内部
 太陽光発電、沢水を使った水洗トイレ、排泄物の浄化処理など、環境負荷軽減に配慮されたそうです。再建地で既存樹は伐採しなかったとも聞きます。 

 薪を使うかまどです。
手稲パラダイスヒュッテ 内部②

 ところで、ヒュッテが建つ場所は手稲山腹です。いうまでもなく市街化調整区域で、都市計画法で建築物は厳しく規制されています。本件ヒュッテはどういう根拠で建築が可能となったのでしょう? 調整区域であってもこういう建物はむしろ垂範的に認められてよいと私は思いますが。

2017/02/01

手稲区の建物

 最近、手稲区に蠱惑されて幾つか記事を重ねてきました。
 「ところで手稲区には、札幌建築鑑賞会好みの建物などはないのでしょうか?」「まだ手稲区では“建築物”が一件も紹介されてません」というコメントをいただいております。そこで、今回は手稲区の建物を採りあげたいと思います。
 
 手稲パラダイスヒュッテです。
手稲パラダイスヒュッテ 外観
 1995(平成7)年11月に撮りました。建物はその前年の12月に完成しています。それから22年あまり過ぎました。22年というのは、結構な歳月だと思います。マックス・ヒンデル設計の旧ヒュッテは1926(大正15)年に建てられ、52年後の1978(昭和53)年に閉鎖されました。そして、新ヒュッテ竣工の一冬前に倒壊しました。齢68年。それを想うと、新ヒュッテの22年という星霜は、人間でいえば成人を過ぎました。

 1994年2月に発足した「手稲パラダイスヒュッテ再建期成会」が呼び掛けた「ご寄付のお願い」です。
パラダイスヒュッテ再建に向けて ご寄付のお願い
 このリーフレットも貴重な史料になりました。総工費5千数百万円が企業や市民の募金でまかなわれたというのは、記憶にとどめておきたい。期成会事務局の諸先人に敬意を表します。[つづく] 

2017/01/29

稲積をめぐる既出情報の考察

 先日来、稲積農場や明治牧場について取り上げています。 

 「札幌市立稲積中学校」のホームページで次のように記されているのを知りました。
 「稲積」は、軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州で、明治35年(1902)に小樽の稲積豊次郎(いなづみ とよじろう)が農場を開いたことに由来している。JR線より北側の手稲北部一帯は、手稲山を源とする河川の下流部が集中していた泥湿地で農業には不適地であった。明治21年(1888)に完成した運河をかねた新川大排水溝と、これにつながる中小の排水路の建設や土地改良が行われ、酪農などの農場経営ができるようになった。明治27年(1894)旧加賀藩主15代前田利嗣公は、士族授産のための前田農場(420ha)を開設し酪農を始めた。(前田の地名の起こり)この後、明治末期から大正にかけ、極東農場や明治牧場などが開設され、現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた。

「校名の由来と校区の歴史」というページから一部を引用しました(2017.1.30現在)。全文は下記サイトをご参照ください。

http://www.inazumi-j.sapporo-c.ed.jp/data/data.htm

 私が記してきたことと異なる部分を、以下に挙げておきます。念のため申し添えますが、「私が正しくて、先方が間違っている」と断定するつもりはありません。まずは異なる説を併記して、少しでも史実に近づくきっかけになればそれに越したことはない、という趣旨です。

●「稲積」は、軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州で、明治35年(1902)に小樽の稲積豊次郎(いなづみ とよじろう)が農場を開いたことに由来している。
 この文章だと一見、「軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州」の範囲内に稲積農場が開かれたかに読み取れます。あとのほうに書かれている「現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた」まで読んで、400haを現在の地図に当てはめれば「中州」には到底収まらないと察しはつくかもしれませんが。
 なお、「中州」という表現はどうでしょうか? 中州というと、「軽川、中の川、三樽別川」の三川で囲まれた川中島(例えば、大阪の「中之島」や博多の「中洲」、パリの「シテ島」…)と解されるのではないでしょうか。当該一帯に中州は形成されていないと思います。「軽川、三樽別川、中の川が合流する一帯」というべきか。

●明治末期から大正にかけ、極東農場や明治牧場などが開設され、現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた。
 この文章だと、極東と明治の両者が同時期に併存していたかのようです。昨日のブログで述べたように明治牧場は1940(昭和15)年に極東農場を引き継いで開かれたと聞きます。時系列的には、明治後期に稲積農場、大正期に極東農場(それを前身として、昭和になって明治牧場)という順です。
 稲積農場を「現在の軽川以東」とすると、極東農場の一帯と重なってきます。稲積農場と極東農場は同時期に併存していたと思われるので、両者の土地が重なり合うのは疑問が残ります。
 
 私がこれらの記述をあえて細部にわたって取り上げるのは、「稲積」を名前に戴く‘お膝元’の、しかも地域の歴史には詳しいであろう学校が作ったホームページだからです。いわば「信頼すべき情報筋」です。当否は読者に委ねます。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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