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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/17

南9条緑地の隅切り

 国道230号石山通の菊水・旭山公園通との交差点です。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望
 南東の角に「南9条緑地」があります。

 置かれているオブジェは山内壮夫の作だそうです。
南9条緑地 山内壮夫の彫刻
 「春風にうたう」1958年(末注①)。
 ということは、この緑地はそのころからあったと思われます。

 現在図で緑地の位置を示します。
現在図 南9条緑地
 所在地は中央区南9条西10丁目です。緑色でなぞりました。ほぼ矩形の平面です。

 オブジェが置かれて間もないころの空中写真を見ます。
空中写真 1961年 南9条緑地
 1961(昭和36)年撮影です。緑地にあたるところを黄色の矢印で示しました。

 その部分を拡大します。
空中写真 1961年 南9条緑地 拡大
 当時は台形状だったようです。現在の「ほぼ矩形」の対角線(北東-南西)上にナナメに道が通じているかに見えます。交差点に面する部分が隅切りされていて、これを上底とし、ナナメの道を下底とする台形です。台形の真ん中の白っぽい小さな円形は、オブジェが置かれた場所でしょうか。

 緑地の平面図です。
南9条緑地 平面図
 札幌市みどりの推進課サイト「札幌市公園検索システム」から採りました(末注②)。
 赤い矢印を付けた先がオブジェの位置です。前掲1961年空撮写真に写る台形の中の白い小さな円形とほぼ重なります。 

 のみならず、ほかの工作物の配置などから、かつての台形平面の痕跡が見えてきます。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望 ズームイン
 たとえば赤い列柱が連なるパーゴラ?のナナメ感。かつての台形の“下底”線を彷彿させます。

 札幌市地図情報サービスで、本件南9条緑地を見ると…(注③)。
札幌市地図情報サービス 都市計画道路 南9条緑地
 元の台形部分がまるごと都市計画道路になっています。台形の“下底”線がまるで道路の隅切りであるかのごとき線引きです。交差点の他の三箇所はいわば普通の隅切りなのに、都市計画上この緑地の角だけ破格に見えます。ちなみに、この交差点がわずかにクランクしているのはなぜでしょうね。謎は湧き出ますが、措きます。

 私がこの緑地の形状にかくもこだわるのは、8月15日ブログに記したとおり、ここにもまた疎開の痕跡すなわち札幌の戦跡のニオイを感じるからです。


 注①:『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、p.82
 注②:http://www2.wagamachi-guide.com/sapporo_koen/apps/list.asp?mode=2&ID=410002# ただし、このサイトに描かれている工作物等の配置と現況とは、必ずしも一致していない。
 注③:https://www.sonicweb-asp.jp/sapporo/map?pos=141.31500617333333,43.046373502106256&scale=5000#pos=141.34365873856464%2C43.048415434347525&scale=1875&layers=dm%2Cth_7&theme=th_29
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2019/08/15

74年前の今日

 昨年8月9日ブログで「石山通りの幅員減少現象 再考」を記しました。その日の北海道新聞夕刊に掲載されていた投稿記事を引用してのことです。投稿した女性は1945(昭和20)年8月15日、「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた」のを目撃していました。記事に「終戦をまだ知らなかったのだろう」と続けられていたことから、私は建物疎開だったのではないかと想像したのです。記事にはさらに、女性が「監視隊本部」に勤めていたとも書かれていました。私は同日ブログを「『監視隊』がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです」と結んでいます。

 実はその後、私はこの女性への連絡を試みました。どうやって試みたか。紙面には女性のお名前と年齢のほか、住所は区名までしか載っていません。新聞社に問い合わせることも考えましたが、先方の連絡先をすんなりと教えてもらうのはとりわけ昨今、ありえないことです。仲介の労を取ってくれるかどうかもわかりません。そこで、もっとも原始的な方法を選びました。電話帳を繰って同じ苗字の人をリストアップし、片端から電話をかける。

 その結果は…。
 幸いなことに、9人目でたどり着けました。見ず知らずの者にお答えくださったことをありがたく思います。女性が目にしたのはやはり建物疎開であり、それが現在の国道230号石山通のどのあたりかも、わかりました。

 1948(昭和23)年の空中写真(米軍撮影)で、あらためて石山通を俯瞰します(2017.4.4ブログ参照)。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲
 赤い実線でなぞった南北に通じる道路が石山通で、その北端、東西に伸びているのが大通公園です。南6条の交差点を黄色の○で囲みました。

 昨年8月9日ブログに記したように、石山通は現在、この交差点の南側で幅が狭まっています。私はこれを建物疎開の痕跡と推理しました。交差点の南東角を、疎開の“し残し”すなわち「1945年8月15日をもってタイムオーバー」とにらんだのです。さらにその南側は、「ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます」(2017.4.4ブログ記述)。

 さて、それでは前述の投稿女性が“証言”する「民家を取り壊していた」場所は、どこだったのでしょうか。
 お聴きしたのは「南8条、9条の西10丁目あたり」とのことです。現在のその区域を前掲画像に黄色の□で囲みました。
 そのあたりを拡大します。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲 南6~9条西10丁目あたり拡大
 ちょうど、「ところどころ空地が見られる」一帯と合致します。

 くだんの女性は当時、南8~9条の西11丁目にお住まいだったそうです。黄色で囲った付近の石山通をはさんで向かい側に当たります。壊していたのは「お風呂屋さん」だったといいます。信憑性が伝わってきました。ちなみに、石山通の南8、9条で東西に交差する道路は現在の「菊水・旭山公園通」で、この両側も疎開らしき形跡が窺われます。
 石山通を建物疎開していたこと、しかも1945年8月15日までやっていたこと、それがちょうど現在の幅員減少の少し南側だったことの“目撃証言”を得られました。これまで、ほぼ戦後の空中写真からの想像の域を出なかったのですが、南6条の幅員減少は疎開の痕跡との思いをいっそう強く抱いたしだいです。

 本日の道新朝刊でも、「終戦記念日にちなんだ投稿」を特集して掲載しています。「戦争体験者が減り、戦争を知らない世代が増えてい」る(同記事リード)こんにち、原体験者の“証言”は貴重です。嗚呼、一緒に暮らす私の母も、93歳の生き証人ではないか。

2018/08/09

石山通りの幅員減少現象 再考

 本日8月9日の北海道新聞夕刊に、清田区に住む89歳の女性の投稿記事が載っていました。第2面の「陽だまり」という欄で、「平和が続きますよう」という題です。興味を惹かれた箇所があったので、以下一部を引用します。
 昭和16年に女学校に入学し、20年に卒業した私は、ほとんど勉強していない。先日、修学日誌が出てきて懐かしく見てみたが、今の時代は幸せだとしみじみ思う。
 卒業後も学校の指示でいろんな職場へ行き、私は監視隊本部に勤めた。8月15日、24時間勤務を終えて帰る途中だった。石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう。


 興味を惹かれたのは、最後の3行です。私はこれを「建物疎開」のことをいっているのではないかと思います。
 前に拙ブログで西11丁目、石山通りが南6条で道路幅員を狭めていることについて記しました。
 ↓
 2017.4.2 「石山通り、南6条での幅員減少」
 2017.4.3 「石山通り、南6条での幅員減少②」
 2017.4.4 「石山通り、南6条での幅員減少③」

 私はこの幅員減少の理由を、戦時中に北から南6条まで建物疎開してきたところ、「南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか」と推察しました。
石山通り 南6条西10丁目

 前述の記事でいう民家の取壊しが建物疎開だったかどうか、ただちには断定できません。しかし、終戦を知らずに道路を拡張していた、というならば疎開のためであったと私には想えます。それが1945(昭和20)年8月15日もまだ続けられていたということは、その後中断したであろうことも窺われます。

 「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた。終戦をまだ知らなかったのだろう」という記述は、もしかしたら何気なく読み過ごされてしまうかもしれません。「なぜ、民家を取り壊していたか?」「どうして、『終戦をまだ知らなかったのだろう』と作者は思ったか?」を問うことで、想像力を掻き立てる好材ともいえましょう。貴重な証言だと思いました。このほかにも、この方が勤務していたという「監視隊」がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです。

2017/09/10

札幌建築鑑賞会 第77号できました。

 札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第77号ができました。
札幌建築鑑賞会通信きーすとーん第77号 表紙
 会員の皆さんにはすでに郵送で届いていることと思います。

 今号の表紙絵は会員Oさんの作品で、南13条西7丁目にある餅菓子の「元祖 雷除志ん古」です。元質蔵と伝わる建物を再利用しています。妻壁に刻まれた「Λ田」は、質屋の屋号だったという「山田」にちなむのでしょう。
 札幌軟石の味わいが伝わってきます。ここで買った大福の味も思い出しました。1995(平成7)年から現在のお店になっていましたが、建物が今秋解体されることになり、ここでの営業を終えるそうです。この建物がこんにちまで永らえてきたのは、店主のおかげだったと思います。

2017/04/04

石山通り、南6条での幅員減少 ③

 昨日の続きです。
 大正~昭和戦前期と昭和戦後の間に、石山通りで何があったか。それを物語るのが1948(昭和23)年米軍空撮写真です。
1948年米軍空撮写真 石山通り周辺
 画像のほぼ中央を上下(南北)に通じているのが石山通りで、例によって南3条を青い○で、南6条を赤い○で囲いました。画像最上部、左右(東西)横長に写っているのが大通です。
 これを見ると、石山通りは大通から南6条の赤い○のあたりにかけて、接道する民地が白っぽく写っています。

 その部分を拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 建物疎開跡?
 白っぽくなっている部分の境目を黄色の線でなぞりました。家屋が密集しているところが黒っぽく写っているのと対照的ですが、かといって真っ白ではありません。正確にいうと灰色がかっています。道路がくっきり白く写っているのと家屋の黒っぽさの中間、といったところでしょうか。

 これは、もともと家屋が建っていたところを更地にした痕、と見えます。私は、戦時中の「建物疎開」(末注①)の痕ではないかと思いました。この痕跡は石山通りだけでなく、青い○の少し南側、すなわち南4条の通りと、赤い○すなわち南6条の通りのそれぞれ石山通り以東にも窺えます。

 赤い○の南6条付近をさらに拡大してみましょう。
1948年米軍空撮写真 石山通り 南6条附近
 南6条の交差点まではおおむね順調(?)に疎開されてきたようですが、その南側には家屋が残っています。前掲画像に戻って、さらに南下していくと、ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます。南6条以南も疎開するつもりが、1945年8月15日をもってタイムオーバーだったか。
 
 結局、石山通りが南6条の北側まで幅員を広げることができたのは、戦時中の疎開のおかげといえるのではないでしょうか。一目瞭然、拡幅しやすいですよね。一方、南6条以南の幅員を広げるためには、残っていた家屋を新たに壊す必要があります。さらぬだに復員や引揚げで住宅不足が深刻化するにつれて、これは難しかったことでしょう。
 巨大パチンコ店のアイストップ(4月2日ブログ掲載画像)もまた、札幌の戦跡だった。私の妄想的結論です(末注②)。

注①:2014.10.4ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-72.html 及び2014.10.5ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-73.html 参照。 「疎開」というのは「密閉」の対義語のようだが、要は強制破壊ですよね。なんだか、「転進」や「玉砕」に通じるコトバの置き換えみたいだ。
注②:私は戦時防空的都市計画としての建物疎開の痕と想像したが、札幌にはそれ以前、いわば平時の都市計画として広幅路の構想があった。このことは越澤明先生(北大名誉教授)が論考されている。先生の論文を勉強して、あらためて言及したい。

2017/04/03

石山通り、南6条での幅員減少 ②

 昨日のブログのタイトルに誤りがありました。誤「石山通り、南条での幅員減少」→正「石山通り、南条での幅員減少」です。訂正します。

 本日はその続きです。ただし本題の「南6条での幅員減少」現象のまえに、寄り道します。
 昨日ブログで、石山通りが南3条あたりで札幌本府の南北軸から山鼻屯田のそれに変わる(つまり道が曲がる)ことを記しました。その歴史的経緯を古地図で辿ります。 
札幌市街之図明治24年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1891(明治24)年から抜粋しました。青い○で囲ったのが、南3条です。赤い○は本題の南6条ですが、こちらは後述します。
 さて、南3条から北へ、南1条までをご覧ください。札幌本府の軸線と山鼻屯田の軸線がせめぎ合っているのが読み取れます。この地図がどこまで実態を正確に表現したかという疑問の余地はありますが(末注①)、どうもこの時代は二本の道があったか、またはいびつな道幅だったようです。

 「いびつな」と道幅いうのは、南3条を底辺、南1条を頂点とする三角形のごとき形状です。
札幌市街之圖明治36年 石山通り周辺
 「札幌市街之圖」1903(明治36)年の当該地点を見ると、道幅が三角形状です。この三角形はその後整形されて、札幌本府に合わせられる一方、南3条以南は山鼻屯田の軸線が残ります。

 本題に戻ります。
 南6条幅員減少現象はなにゆえ生じたか? 前掲2枚の古地図を見ると、石山通り周辺は南3条以北と以南で道路幅員が異なっています。以北が札幌本府が敷衍した呈をなして広幅員である一方、以南は狭い。
 単純素朴に考えれば、明治~大正期、市街地が拡大していったことに伴い、中心部と山鼻を結ぶ基軸たる石山通りの幅員を順次、南へ広げていった…。しかしそれだけでは面白くありません。もう少し妄想を巡らせたい。
 国土地理院の地形図をたどっていくと(末注②)、市街地は大正時代~昭和戦前期、石山通りに貼りついてきているのですが、南3条以南の道幅は狭いままです。南6条まで幅員が広げられるのは、昭和戦後になってからです。その間に何があったか。

注①:この種の市街地図(後掲の明治36年図も)は民間人が発行元である。国土地理院(の前身の陸軍陸地測量部)など公的機関の測量が反映されているかどうか? 方位は明示されておらず、札幌本府の南北軸を上下としている。
注②:「今昔マップon the web」サイトがまた役に立ちました。ありがとうございます。

2017/04/02

石山通り、南6条での幅員減少

 石山通り、南6条西10丁目です。
石山通り 南6条西10丁目
 北から南を眺めました。石山通りをクルマで南下すると、ここで道がクランクします。正面にそびえる巨大なパチンコ店の手前の交差点のところです。道路はここで幅員が減少し、片側3車線から片側2車線になります。路側帯を黄色の線でなぞったとおりです。パチンコ店がアイストップになっていて、判りやすいかと思います。

 問題は、どうしてここで道路幅員が狭まるか? です。私はこれまで、「札幌本府と山鼻屯田の境目あたりだからだろうな~」と思ってました。漠然と、です。しかし、それが主たる要因ではないことを悟りました。

 まず現在図を見ます。
中央区現在図 石山通り 幅員減少
 札幌市中央区役所発行「中央区ガイド」から抜粋し、彩色しました。茶色の線が石山通りで、問題の交差点は赤い○で囲ったところです。札幌本府の外周を黄色の線で囲い、東屯田通りを橙色の線でなぞりました。いうまでもなく、黄色の線(南北)と橙色の線が平行していません。
 
 では茶色の石山通りはどうか?
 青い○で囲った地点が境目になっています。南3条の通りとの交差点あたりです。これより以北では黄色の線の札幌本府の南北軸と平行している一方、以南へ行くにつれて平行が崩れていって、橙色の東屯田通りと平行していきます。つまり、札幌本府とのズレの調整は、青い○の南3条あたりで始まっているのです。
 ならば、赤い○のところでの幅員減少は何か。本府と山鼻の境目というだけでは、どうも説明がつきません。

2015/05/12

中根邸跡に建つマンション 近況

 中島公園傍らのかつてのお屋敷「中根邸」跡地です(2014年8月1日、30日、本年1月16日、21日ブログ参照)。
中根邸跡地マンション 201405
 建設中のマンションの外構が、だいぶ見えてきました。

 かつてのお屋敷当時の外観を再掲すると…(2011年撮影)。
旧中根邸跡②
 板塀と門で蔽われていました。それに比べると、透視性が良くなりました。緑量はあまり変わっていないようです。

 フェンス越しに中を覗かせてもらいました。 
中根邸跡地マンション 庭園 201505
 くぼ地が見えます。在りし日の池泉回遊庭園の記憶。
 池泉は、往時ここを流れていた鴨々川の支流に由来します。 

 古地図で当たると…。
鴨々川 支流 古地図 201505

 この敷地を支流が流れていたことが読み取れます(「札幌全区地番明細連絡図」1912<明治45>年から抜粋)。青い破線でなぞったのが支流です。いまはもう水は流れていません。赤いを付けたところが池泉=くぼ地の位置です。くぼ地は支流よりも東側に位置しますが、流路を引いて池泉が造られたものと想像されます。
 この古地図で見ると、新しいマンションは支流の旧河道の上に建つことになりそうです。

 こちらは、敷地内に建てられる「フォレストラウンジ」なる共用施設の完成予想図です。
フォレストラウンジ完成予想図
 このラウンジは、中根邸にあった石蔵(2014年8月1日ブログ参照)のイメージで造るそうです。どうせなら、札幌軟石で再現してほしいものです。欲をいえば、元の石蔵の石材を貼ってほしい(石材を残していればの話ですが)。「すでにある風景美に、敬意をはらう」というなら、それくらいやってほしいものです。まあ私には縁遠い世界のことなので、好き勝手なことを言っておきます。

2015/03/03

伏見の田上さん建築(続) 

 昨年(2014年)9月20日ブログで、中央区伏見にある田上さん建築のことを記しました。
 9月20日の画像を再掲します。
元九島宅
 前回のブログで私は次のように記しました。
 片流れ屋根の2階建てを写していますが、この右方、樹木の陰に隠れているところにもう一つ、反対向きに片流れの2階建てがあり、両者は平屋でつながれています。
 二つの片流れを向き合わせるという、造形。
 大屋根一つで切妻にしないところが、田上さんの雪国的造形かしら…。

 
 現居住者に迷惑をかけない範囲で別の角度から撮った写真が、こちらです。
伏見・田上建築
 この建物が建ったのは1972(昭和47)年のようです(角先生論文によれば1973年)。

 たまたま、村松貞次郎『日本近代建築の歴史』をぱらぱらと見ていたら、以下の写真が目に入りました。
倉吉博物館
 本文で「日建設計の若い設計者による倉吉博物館(昭和48年)」と言及されています(p.224)。村松先生曰く「いかにもその土地の風土に定着して建った」と(同)。
 うーん、これまた「二つの片流れを向き合わせるという、造形」そのものではないか。両者を繋ぎ合わせている部分は2階建てのようですが。建築年も近い。
 倉吉=山陰も、積雪寒冷という「土地の風土」ではあります。
 田上さん、奥が深い。

2015/01/27

エルム山荘、または藻岩温泉ありき。

 1月24日ブログで藻岩山麓にあった池のことを記しました。
 その中で、山長先生の著書を引用して、「藻岩温泉」のことにふれました。山長先生によれば、「山鼻温泉」とか「松浦温泉」とも称され、その跡地の一角にエルム山荘や中国領事館が建ったとのことです。先生の記述では、これとは別に「藻岩鉱泉」もあり、その所在地を「南13条西23丁目」としています。しかし、エルム山荘や中国領事館も同じ条丁目にありますので、「藻岩温泉」と「藻岩鉱泉」は一連の敷地にあったのではないかと私は推測します。
 1月24日ブログに載せた1936(昭和11)年の地図では、「藻岩温泉」が南13条西23丁目よりはもう少し西側(山側)の、現町名でいうと旭ヶ丘4丁目あたりに記されています(南13条西13丁目に西接して旭ヶ丘4丁目である)。1925(大正14)年の「最新札幌市全図」には、ほぼ同じ位置に「山鼻鑛泉」と書かれています。
 察するに、藻岩温泉は現在の中国領事館やエルム山荘から山側(西側)にかけての広大な敷地だったのでしょう。庭園だけで4,000坪あったと山長先生著にありますので、それを現在の地図に当てはめると、大体こんな感じになります。
伏見 地図②
 緑色の線で囲ったところです。中国領事館とエルム山荘の敷地がすっぽり入って、余りあります。橙色の●が「マツウラの池」のあったところです。

 さきほどから「エルム山荘」と記してきましたが、現在は「札幌エルムガーデン」と言っているようです。かつての「エルム山荘」当時、私は一回だけ中に入ったことがあります(職場のカンプー会で)。今はどうか知りませんが、無産階級には縁遠い空気が漂っていました。敷居を跨ぐことは、もうないでしょう。
 そのとき撮った庭の写真がこちらです(1999年10月撮影)。
エルム山荘 庭
 これを今見ると、池泉回遊庭園のようです。自然の流水だったかどうか判りませんが、1月24日に記した‘藻岩山崖線の湧水’を彷彿させます。

 当時のマッチ箱のオモテ・ウラです。
エルム山荘 マッチ箱①
エルム山荘 マッチ箱②

 これは、中国総領事館です(2014年撮影)。
中国総領事館
 中華人民共和国のエンブレム(五星紅旗や天安門をかたどっている)が貼ってある建物の正面を撮りたかったのですが、お巡りさんが常時立っていて、憚られる雰囲気です。やめました。で、憚られないところから撮りました。写っている建物は、館員の宿舎と思われます。窓がとても小さい。下階の窓は目の細かいフェンスで蔽われています。
 背後に藻岩山崖線の残置林が見えます。山側から探検してみたい衝動に駆られましたが、見つかって国際問題に発展したら一大事ですので、そういうこともやめましょう。同館のホームページを見たら、なんのことはありません。建物のみならず館内のお庭なども掲載されていました。こちらもエルム山荘にひけをとらないようです。全世界無産階級団結起来!!

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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