札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/10

札幌建築鑑賞会 第77号できました。

 札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第77号ができました。
札幌建築鑑賞会通信きーすとーん第77号 表紙
 会員の皆さんにはすでに郵送で届いていることと思います。

 今号の表紙絵は会員Oさんの作品で、南13条西7丁目にある餅菓子の「元祖 雷除志ん古」です。元質蔵と伝わる建物を再利用しています。妻壁に刻まれた「Λ田」は、質屋の屋号だったという「山田」にちなむのでしょう。
 札幌軟石の味わいが伝わってきます。ここで買った大福の味も思い出しました。1995(平成7)年から現在のお店になっていましたが、建物が今秋解体されることになり、ここでの営業を終えるそうです。この建物がこんにちまで永らえてきたのは、店主のおかげだったと思います。
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2015/05/12

中根邸跡に建つマンション 近況

 中島公園傍らのかつてのお屋敷「中根邸」跡地です(2014年8月1日、30日、本年1月16日、21日ブログ参照)。
中根邸跡地マンション 201405
 建設中のマンションの外構が、だいぶ見えてきました。

 かつてのお屋敷当時の外観を再掲すると…(2011年撮影)。
旧中根邸跡②
 板塀と門で蔽われていました。それに比べると、透視性が良くなりました。緑量はあまり変わっていないようです。

 フェンス越しに中を覗かせてもらいました。 
中根邸跡地マンション 庭園 201505
 くぼ地が見えます。在りし日の池泉回遊庭園の記憶。
 池泉は、往時ここを流れていた鴨々川の支流に由来します。 

 古地図で当たると…。
鴨々川 支流 古地図 201505

 この敷地を支流が流れていたことが読み取れます(「札幌全区地番明細連絡図」1912<明治45>年から抜粋)。青い破線でなぞったのが支流です。いまはもう水は流れていません。赤いを付けたところが池泉=くぼ地の位置です。くぼ地は支流よりも東側に位置しますが、流路を引いて池泉が造られたものと想像されます。
 この古地図で見ると、新しいマンションは支流の旧河道の上に建つことになりそうです。

 こちらは、敷地内に建てられる「フォレストラウンジ」なる共用施設の完成予想図です。
フォレストラウンジ完成予想図
 このラウンジは、中根邸にあった石蔵(2014年8月1日ブログ参照)のイメージで造るそうです。どうせなら、札幌軟石で再現してほしいものです。欲をいえば、元の石蔵の石材を貼ってほしい(石材を残していればの話ですが)。「すでにある風景美に、敬意をはらう」というなら、それくらいやってほしいものです。まあ私には縁遠い世界のことなので、好き勝手なことを言っておきます。

2015/03/03

伏見の田上さん建築(続) 

 昨年(2014年)9月20日ブログで、中央区伏見にある田上さん建築のことを記しました。
 9月20日の画像を再掲します。
元九島宅
 前回のブログで私は次のように記しました。
 片流れ屋根の2階建てを写していますが、この右方、樹木の陰に隠れているところにもう一つ、反対向きに片流れの2階建てがあり、両者は平屋でつながれています。
 二つの片流れを向き合わせるという、造形。
 大屋根一つで切妻にしないところが、田上さんの雪国的造形かしら…。

 
 現居住者に迷惑をかけない範囲で別の角度から撮った写真が、こちらです。
伏見・田上建築
 この建物が建ったのは1972(昭和47)年のようです(角先生論文によれば1973年)。

 たまたま、村松貞次郎『日本近代建築の歴史』をぱらぱらと見ていたら、以下の写真が目に入りました。
倉吉博物館
 本文で「日建設計の若い設計者による倉吉博物館(昭和48年)」と言及されています(p.224)。村松先生曰く「いかにもその土地の風土に定着して建った」と(同)。
 うーん、これまた「二つの片流れを向き合わせるという、造形」そのものではないか。両者を繋ぎ合わせている部分は2階建てのようですが。建築年も近い。
 倉吉=山陰も、積雪寒冷という「土地の風土」ではあります。
 田上さん、奥が深い。

2015/01/27

エルム山荘、または藻岩温泉ありき。

 1月24日ブログで藻岩山麓にあった池のことを記しました。
 その中で、山長先生の著書を引用して、「藻岩温泉」のことにふれました。山長先生によれば、「山鼻温泉」とか「松浦温泉」とも称され、その跡地の一角にエルム山荘や中国領事館が建ったとのことです。先生の記述では、これとは別に「藻岩鉱泉」もあり、その所在地を「南13条西23丁目」としています。しかし、エルム山荘や中国領事館も同じ条丁目にありますので、「藻岩温泉」と「藻岩鉱泉」は一連の敷地にあったのではないかと私は推測します。
 1月24日ブログに載せた1936(昭和11)年の地図では、「藻岩温泉」が南13条西23丁目よりはもう少し西側(山側)の、現町名でいうと旭ヶ丘4丁目あたりに記されています(南13条西13丁目に西接して旭ヶ丘4丁目である)。1925(大正14)年の「最新札幌市全図」には、ほぼ同じ位置に「山鼻鑛泉」と書かれています。
 察するに、藻岩温泉は現在の中国領事館やエルム山荘から山側(西側)にかけての広大な敷地だったのでしょう。庭園だけで4,000坪あったと山長先生著にありますので、それを現在の地図に当てはめると、大体こんな感じになります。
伏見 地図②
 緑色の線で囲ったところです。中国領事館とエルム山荘の敷地がすっぽり入って、余りあります。橙色の●が「マツウラの池」のあったところです。

 さきほどから「エルム山荘」と記してきましたが、現在は「札幌エルムガーデン」と言っているようです。かつての「エルム山荘」当時、私は一回だけ中に入ったことがあります(職場のカンプー会で)。今はどうか知りませんが、無産階級には縁遠い空気が漂っていました。敷居を跨ぐことは、もうないでしょう。
 そのとき撮った庭の写真がこちらです(1999年10月撮影)。
エルム山荘 庭
 これを今見ると、池泉回遊庭園のようです。自然の流水だったかどうか判りませんが、1月24日に記した‘藻岩山崖線の湧水’を彷彿させます。

 当時のマッチ箱のオモテ・ウラです。
エルム山荘 マッチ箱①
エルム山荘 マッチ箱②

 これは、中国総領事館です(2014年撮影)。
中国総領事館
 中華人民共和国のエンブレム(五星紅旗や天安門をかたどっている)が貼ってある建物の正面を撮りたかったのですが、お巡りさんが常時立っていて、憚られる雰囲気です。やめました。で、憚られないところから撮りました。写っている建物は、館員の宿舎と思われます。窓がとても小さい。下階の窓は目の細かいフェンスで蔽われています。
 背後に藻岩山崖線の残置林が見えます。山側から探検してみたい衝動に駆られましたが、見つかって国際問題に発展したら一大事ですので、そういうこともやめましょう。同館のホームページを見たら、なんのことはありません。建物のみならず館内のお庭なども掲載されていました。こちらもエルム山荘にひけをとらないようです。全世界無産階級団結起来!!

2015/01/24

藻岩山麓の池

 札幌の街中の池といえば、思い浮かぶのは中島公園の菖蒲池、道庁の池、植物園の池、知事公館の池…といったところでしょうか。山田秀三先生解によれば、植物園の池は「ピシクシメム」、知事公館の池は「キムクシメム」で、前者は「浜のほうを通る池泉」、後者は「山のほうを通る池泉」です(『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.39~42)。
 という札幌の郷土史の教科書的な話からは外れて、もう少しマイナーな池泉の世界に遊びたいと思います。昨年12月23日ブログで紹介したナエボの「静心園」の池も、その一つです。あのように水を湛えている有姿の池は稀です。池は、都市化が進むにつれて、公共的な敷地の庭園を別とすれば埋め立てられる宿命にあるようです。それゆえに痕跡ハンターとしては妙味があります。

 前置きはこれくらいにして…。
伏見 地図
 この地図の、赤矢印を付けた先のところです。

拡大すると…。
伏見 地図 拡大
 明らかに、池と思われます。場所は中央区南15条西19丁目、伏見稲荷の麓です。
 この地図は、2013(平成25)年に札幌市中央区役所が発行した「中央区ガイド」からの抜粋です。前述の教科書クラスの池以外で(及び人工的に造られたもの以外で)、最近の地図に載っているのは珍しいと思います。

 この場所が、現状はどうかというと…。
峰吉の池跡
 伏見稲荷の参道の階段から、地図に示した矢印とほぼ同じ向きで撮りました(2014年10月撮影)。
 白っぽい乗用車とワゴンの右のほうにあたります。手前の木が邪魔をして見づらいのですが、水面らしきものはすでにありません。
 札幌建築鑑賞会会員でこの地域に生まれ育ったMさん(2014年10月27日ブログ参照)にお聞きしたら、ここには確かに池があったそうです。峰吉さんという方が元々お住まいで、「ミネヨシの池」と呼ばれていたとのこと。そのお宅も近年なくなって、更地になりました(乗用車が置かれているあたりが住宅だった)。
 
 Mさんによると、このあたりにはもう二つ、池があったそうです。
 それぞれ「マツウラの池」と「オオタケの池」と、やはり持ち主の名前が付けられていました。Mさんは子どものとき、これらの池を遊び場にして、魚取りをしたりスケートをしたりしていたと懐かしがっておられました。

 こちらが「マツウラの池」の跡です。
松浦の池
 場所は南13条西23丁目、中国総領事館やエルム山荘の南側になります。

 Mさんからお聞きした三つの池の位置を古地図に当てはめてみました。
 札幌市地図 1936年
 1936(昭和11)年発行の「札幌市地図」からの抜粋です。
 赤いを付けたところが「ミネヨシの池」、橙色のが「マツウラの池」、黄色のが「オオタケの池」です。
 これは藻岩山の崖線からの湧水だったのではないでしょうか。池に添うように、川が流れています。今は暗渠になっていますが、これは伏見川の分流でしょう(前掲「中央区ガイド」抜粋の地図でいうと、上流は藻岩川とか山元川か)。下流では界川(これも暗渠)と合流します。藻岩山からの流れのところどころに湧水があったように想像します。

 Mさんによると、「マツウラの池」の松浦さんというのは、戦前この地で温泉を営んでいた方です。昨日も引用した山長先生の『さっぽろ歴史散歩 山の辺の道―定山渓紀行』では、その跡地にエルム山荘と中国領事館ができたと記されています(p.40-41)。藻岩温(鉱)泉とか松浦温泉と呼ばれていたようですが、前掲1936年地図ではもう少し山側(西側)に温泉記号♨が付いて「藻岩温泉」とあります。

 なお、伏見川は、藻岩山麓通りの山側で地形を見ることができます。
伏見川
 伏見稲荷と慈啓会病院の境目の谷間です。錆びた看板が木に打ち付けられています。
伏見川の看板
 この看板、かなり古そうです。「札幌市役所 札幌警察署」とあるので、40年以上前のモノでしょう。

 

2015/01/21

中根邸跡に建つマンション(続)

 1月16日のブログで「中根邸跡に建つマンション」(中央区南13条西5丁目)について、次のように記しました。
 マンションの高層階からは、敷地の樹木のみならず中島公園も借景にしてさぞや眺めが良いことでしょう。逆に中島公園からはこの“現代版お屋敷”がどう見えるか。期待しています。
 そうしたら、翌17日の新聞にそのマンションの広告が載っていました。まるで私の‘期待’に応えてくれたかのようです。

 「中島公園からはこの“現代版お屋敷”がどう見えるか」、広告によると…。
中根邸跡マンション完成予想図①

 こちらは、昨年7月に私が撮った風景です。白鶴橋の手前、中島公園側から、かつてのお屋敷の跡を眺めました。
中根邸跡
 樹々が鬱蒼としています。

 門塀があった頃の写真です(2011年撮影、2014年8月30日ブログに載せたものを再掲)。
中根邸跡 門塀

 これが、完成予想図では…。
中根邸跡マンション完成予想図②

 完成までウォッチングを続けていこうと思います。

 

2015/01/16

中根邸跡に建つマンション

 「追憶の建物たち 2014」、今回は南13条西5丁目の「元中根邸」跡の続報です。
 昨年8月1日と8月30日のブログで、ここにあったお屋敷と跡地に建てられるマンションのことをお伝えしました。8月30日のブログには「かつてのお屋敷跡に建てられるマンションのパンフレットを集めるのが、私の密かな趣味の一つです」と記しました。
 
 パンフレットを入手しました(画像一部加工)。
中根邸跡 マンション
 「中島公園に今も寄り添う、由緒ある私邸の薫り。」と銘打たれています。
 「札幌の芸術・文化を支えた中根邸の記憶」の継承が、コンセプトの一つと聞きました。

 跡地に建てられるマンションの完成予想図です。
中根邸跡 マンション②
 「都心に寄り添い、贅なる日常を手中にする。」と謳われています。寄り添うのがお好みのようです。

 マンションの敷地配置図の一部です。 
中根邸跡 マンション③
 敷地内の樹木はできるだけ残し、かつてあった石蔵のイメージを活かして居住者用の集会施設を作るとのこと。さて、どんなモノができるか。
 マンションの高層階からは、敷地の樹木のみならず中島公園も借景にしてさぞや眺めが良いことでしょう。逆に中島公園からはこの“現代版お屋敷”がどう見えるか。期待しています。
 
 かつてのお屋敷跡に建つマンションの宣伝パンフを私が集めているのは、札幌の街並み変遷の貴重な史料になると思うからです。まあどんなモノでも、百年くらいたったらお宝になるでしょうが、はたしてそれまで残せるか…。

2015/01/15

札幌音楽院、ありき。

 引き続き札幌建築鑑賞会通信「きーすとーん」第69号の余録です。
 
 毎年この時期に出す通信には、この1年間に姿を消した建物のことをスタッフNさんが綴っています。バックナンバーを振り返ると、2003年1月に出した第29号で「2002年 追憶の建物たち」を載せたのが最初です。以来12年、このシリーズは札幌の街並みの転変を物語る貴重な史料になったと思います。

 今号で取り上げられている一つが、南9条西8丁目にあった「札幌音楽院」です。
 札幌音楽院
 荒谷正雄さんがここに音楽院を作ったのが1948(昭和23)年、以来多くの音楽家が巣立っていきました。ここは1961(昭和36)年に発足した札幌交響楽団の揺籃の地ともいえます。
 昨年4月、建物解体前に内部を見せていただいたとき、残っていた古い電話帳や新聞の発行年月から、昭和戦前期の建築と推測しました。
 古い記事の切り抜きも多く残っていて、その中に荒谷さんへのインタビューが載っているものがありました。1977(昭和52)年11月2日北海道新聞夕刊です。文中「札幌市中央区の自宅居間。『四十六年も経た古い家で』というが家具・調度品や壁の装飾品など、あるべきところにどっしり収まった落ち着きがある」と記されています。
 引き算すると(1977-46=1931)、この建物は1931(昭和6)年に建てられたことになります。1931年というのは荒谷さんが札商を出て東京の「帝国音楽学校」に進んだ年です(「わたしの道 荒谷正雄<その3>」北海タイムス1972年10月19日、聞き手は能条伸樹記者。この切り抜きも荒谷さん宅に残っていたもの)。この自宅はご先代が建てたものでしょう。
 横羽目板貼りにスティックスタイルのいわゆるドイツ壁。
 
 これにナントモ不釣り合いな玄関部分です。
 札幌音楽院②
 むくり破風に棟飾り、懸魚、竪繁の欄間。
 
 荒谷さんは1934(昭和9)年に音楽学校を卒業し、東京で新居を構え、1936年にウィーン(後にスイス、ベルリン)に留学します。帰国したのは1945(昭和20)年7月。そのときのことを次のように語っています(前掲「わたしの道 <その8>」)。
 心身ともに疲れた私たちだったが、その目にも札幌の街はひどくうす汚れ、みじめにみえた。生後間もなく母に預けたままであった長女は十歳になっていた。次兄が家業(引用者注:荒谷さんの父は陶磁器商を営んでいた)の一部を継いでいたが、すでに父や長兄は亡く、母が娘とともに住んでいた現在の家に、私たちは落ち着いた。
  
 また、札幌音楽院設立当時のことを次のように述べています(「私のなかの歴史 音楽六十年⑤」北海道新聞1987年4月2日、聞き手は前川公美夫記者、この記事も自宅に残存)。
 殺伐とした時代に、何とかしなければという思いがつのり、二十三年(引用者注:1948年)に開設にこぎつけました。ほかに場所はありませんでしたから、教室はわが家の二階です。二階全部を開放しました。 
 このドイツ壁は、帰国してから荒谷さんが改造したものだろうか。ドイツ壁というのは「南京下見」などと同様、俗称だと思いますが、ベルリンから帰ってきた荒谷さんがドイツ壁というのも、話ができすぎているが…。3階部分の陸屋根はどうみても、戦後かなりたってからの増築と思われます。左方の切妻の破風は、逆に昭和戦前期の和洋折衷住宅の応接部を思わせます。

 敷地の東側には軟石の塀、その奥には煉瓦造の蔵もありました(2014年3月撮影)。
札幌音楽院 軟石塀、煉瓦造蔵
 軟石の塀は突端部がモールディング(波繰形)されていました(こういうS字曲線型をサイマレクタというらしい)。このアングルの画像で気が付いたのですが、建物側面にも切妻の破風があり、しかも懸魚様のモノが付いています。

 お風呂場に架かっていた陶板画です。
お風呂場 陶板画
 縁起物ですね。一冨士、二鷹…と。左下の「九谷造」の落款が「三茄子」でした。茶目っ気がある。

 昨年の7月に跡地に行ってみました。
札幌音楽院跡
 新たに建物が建てられるようです。
 あの陶板画はどうなったのかな…。

2014/10/27

K小学校の謎な物件

赤瀬川原平師(この方には師と呼称します)が亡くなられたことを本日の新聞で知りました。
10月23日のブログで“超芸術トマソン”を記したのは、虫の知らせだったのでしょうか。
合掌。

さて、さる10月22日、「伏見さがし」という催しに参加しました。
新「伏見会館」の落成を記念して、「幌西第3分区町内会」が主催した行事です。
札幌の伏見稲荷のおひざ元にある町内会です。
私はその町内の住民ではないのですが、この地区にお住まいのMさんがお声掛けくださいました。Mさんは札幌建築鑑賞会の会員で、今回の企画が郷土の歴史をテーマにしたものなので、取り計らってくださったのです。

この地に長くお住まいで、しかも地元で小学校の先生をされていたというSさんのお話をお聴きしました。
Sさんのお話からは、史料を深く読み込んでおられることが伝わってきて、感服しました。
参加者は私を除き皆町内会の会員さんです。Sさんのお話に聞き手もいろどりを添え、楽しくなごやかな会でした。

実は、Sさんにお聞きしたかったことが私にはありました。
それは、この物件のことです。
K小学校 謎の物件①
「物件」という用語からして、赤瀬川師の路上観察学会の影響を受けておりますが。
「札幌軟石発掘大作戦2005 中央区の編」で、隊員のUさんから報告のあったモノです。
本体(らしきモノ)は軟石ではないのですが、周囲の突起が確かに軟石です。
軟石は瘤出し風に、丁寧に仕上げられています。一部欠けてしまったところもありますが。

この物件は、南10条西17丁目の小学校の敷地内に存在します。その小学校にSさんがお勤めされていたので、お尋ねしようと思ったわけです。

物件にもう少し近づいて観察します。
K小学校 謎の物件②
本体らしきモノには、鉄の棒が通っていて、一番上はタガ状のモノで嵌められています。
しかし、真ん中と一番下には、それが無い。
鉄の棒はボルト状になっているのですが、下のはナットが付いていたり、いなかったりと、まちまちです。

周囲の軟石の突起にも鉄の棒が通っていて、これは本体らしきモノへの侵入を防ぐ目的がありそうです。
しかし、鉄の棒が通っているのは一辺のみです。
軟石の突起も、四隅にありと思いきや、さにあらず。
これでは目的は果たせない。
そのためか、さらにその周囲に、今度はステンレス製の新しげな四柱が立ち、鎖が張られています。

ステンレスの柱と鎖を除いて、なんとも中途半端です。この中途半端に、私はとてもソソラレました。

Sさんによると、これは「国旗を立てるためのモノではないか」とのことです。
これで旗を立てるとなると、本体らしきモノのくぼみに旗竿を差し込むのでしょうか。
竿を支えるために鉄の棒が通っているのか…。
ほかの小学校にも、こういうモノがあるのだろうか…。

「国旗掲揚が、こんな中途半端なモノでよいのか?!」などと訝しんではいけません。

2014/09/29

始めに、はぐれ樹ありき

街を歩いていると、ときどきこの種の大木に出会います。
路傍樹
いわゆる「街路樹」とは異なる独立樹です。

次のような傾向があります。
①「孤高を持している」感が強い。
②車道や歩道の動線が、迂回する。
③道路と民有地の、微妙な合間に生えている。

中央区に多いと思います。
有名なのは大通西1丁目、市民ホール前のハルニレでしょうか。
発生原因はおおかた察しがつきますが、道路よりも先輩格として、ともかく伐られずに残ったものです。
画像で紹介した大木も、生えている場所は元々民有地で、のちに道路が拡幅され、そのまま残ったのではないかと推測します。

これが認知されるようになったのは、私の記憶では1980年代後半~1990年代にかけてです。
北大の学生が卒論で調べ、「はぐれ樹木」と命名したと聞きました。
人やクルマの通行の邪魔モノとしてではなく、歴史的景観資源として見直そうという観点だったと思います。

以下に述べることも私の記憶にすぎないのですが、札幌の現代史の一部として“証言”しておきます。
道路を管理する行政サイドでは当初、「路傍樹」という区分けをしました。
老大木であることが多いので、維持管理のコストも馬鹿になりません。
街路樹であれば、植えた責任上行政が管理するのは当然なのでしょうが、コレは単純にそうともいえなかった。
底地(そこち)が道路であっても、ウワモノの樹木は必ずしも行政財産ではない、ということもありえます。
例えば、道路用地を買収したときに、樹木の所有者が愛着を持っていたので、とりあえず伐らずに残した、というような場合です。管理責任を元の所有者に求めていても、歳月が流れて代替わりしたりすると、だんだんアイマイになります。道路と民有地の境界上にある場合だと、ますます混迷を極めます。
しかし、多少なりとも道路に被っていたら、行政としては「知りません」というわけにもいかない。最低限の維持管理はせざるをえない。…ということで名付けられたのが「路傍樹」だった。

1990年代の半ば、札幌市はこの「路傍樹」に新たな名前を与えました。
「シンボル樹木」です。ネーミングには新たな概念規定が込められています。“緑のランドマーク”として未来に残す、という方針です。路傍樹あらためシンボル樹木は、当時の調べで、中央区に153本が確認されました(札幌市庁内広報『サリ・ポロ・ペツ』1996年5月号p.1)。
市の担当者が次のように語っています。
「開拓以前から残るハルニレやケヤキの大木は、どんなにお金をかけてもつくれない貴重な財産です」。「木に限らず、今あるものをどうやって未来に残していくかが問われている時代じゃないでしょうか」(同上)。
ケヤキは北海道在来種というより、開拓で持ち込まれたものが多いとは思いますが、今となってはそれも含めて街の歴史を語る“しるべ”といえるでしょう。

このような“前史”を経て、2009(平成21)年、市民ホール前のハルニレが札幌市の「景観資産」に指定されました。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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