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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/05/29

美国憧憬

 ウン十年前の高校時代、世界史の授業で聞いた話の切れ端が記憶に残っています。
 曰く、建築は国や時代を象徴している、と。例えに出たのは、古代エジプトのピラミッドと東京の郊外の公団住宅の団地でした。代表的、ランドマーク的な建築や景観を指したのでしょう。ピラミッドを含めて建築と言ったかどうか正確には忘れました。名古屋大学文学部で西洋史を専攻したという“本格派”の先生の薀蓄だったこともあり、なるほどなと思った覚えがあります。

 二十数年前の米国シカゴです。
シカゴ シアーズタワーからの眺め 1996年
 1996(平成8)年、超高層ビルからの眺めを撮りました。

 今は名前が変わったようですが、シアーズタワーからの眺めです。
シカゴ シアーズタワー 1996年
 地上110階建て・高さ443m(建物本体)で、当時は世界一高いビルでした(同タワーのリーフレットによる)。シアーズというのは、いわゆる通信販売を巨大ビジネスにした会社だったと思います。そのシアーズも近年、経営破綻したと聞きます。栄枯盛衰です。それはともかく、私は文字どおりお上りさんになって地上412mのところにある「スカイデッキ」まで上り、眺望を楽しみました。

 シカゴは「建築のデパート」のような都市です(2014.9.19ブログ参照)。19世紀末から20世紀初頭にかけて、近代建築が百花繚乱と街に咲き誇りました。米国の発展や繁栄と軌を一にするかのように摩天楼群を築き、現代に至っています。その象徴がシアーズタワーでした。
 前掲写真をアルバムから取り出したのは、冒頭の箴言にかこつけて想いを巡らせる気持ちが湧いたからです。米国の摩天楼群は何を象徴しているのだろうか? “豊かな国” “自由” “夢を実現する機会”…。

 シアーズタワーのスカイデッキから、西の眺めです。 
シカゴ シアーズタワーからの眺め ウエストサイド
 中西部の大平原(プレーリー)に陽が沈みます。
 
 米国の主だった都市に対する私の印象は、というほど知ってはいないのですが、類型化されています。中心部のいわゆるダウンタウンに摩天楼群が聳え、その周囲にインナーシティや工場群を抱え、さらに郊外に上中流層の住宅街が広がる。
 シカゴも、ループ(高架鉄道)に囲まれたダウンタウンに超高層ビルが林立し、上掲の西方面はウエストサイドと呼ばれるインナーシティがかなりの広さで続いています。オークパーク(2019.5.19ブログ参照)のような高級住宅街はさらにその郊外です。
 
 私が訪ねた当時、東部ペンシルベニア州に住んでいた学生時代の友人に教えられたことには、治安のいい地域とそうでないところがものすごくハッキリしているのが米国の都市でもあります。面白半分でいわゆるスラムに足を踏み入れたりしては絶対にイケナイ。冗談ではなく、生きて帰ってこれなくなります。ダウンタウンは日中は人通りがあってさほど心配はないが、夜8時9時を過ぎたらいっきに人けがなくなるので要注意(ホワイトカラー層は地下鉄やバスを使わず、マイカーで郊外へ帰る-末注①)。ホテルに帰るのが夜になってしまったら、車道の真ん中を歩くこと。ビルの物陰から強盗に襲われたとき、歩道よりは逃げる時間を稼げる。
 シカゴでは、ダウンタウンから西郊のオークパークへ、高速鉄道と各駅停車の高架鉄道の二本が通じています。オークパークに行くのに、後者に乗ってはいけません。途中のアブナイ地域の駅に停車するからです。車内で襲われたら、なかなか助かりません。高速鉄道のほうは治安良好地域までノンストップなので、安心です。インフラが二種類、必要な社会ともいえます。

 前掲の摩天楼群とその眼下に広がるインナーシティは、米国社会の一面を象徴しているのかもしれません。一握りに集中する莫大な富。激しい格差。新型コロナウイルス感染症の死者は10万人を超え、黒人の死亡率は白人の2.4倍(末注②)。
 一方で、学術研究や産業(とりわけ情報技術)の水準は世界最先端です。ワクチン開発などほかならぬ感染症医療も先進を担っています。わが国で学校教育の9月スタートが(最近特に)喧伝されたり、英語学習がことさら重視されるのは、かような米国が「標準」であることに大きな一因がありましょう。
 しかし、その国際標準の行き着く先に、どのような具体像が描けるのだろうか。

 注①:あくまでも二十数年前の話である。いまはそれこそ在宅勤務とかが進んでいるのかもしれない。すると、中心部の高層ビル群の床面積を占めるオフィスはどうなるのだろう。
 注②:北海道新聞2020年5月29日朝刊記事「米死者10万人超す 人種間格差浮き彫りに」。トランプ大統領は「私が迅速に行動しなければ死者の数は25倍になっただろう」と嘯いた由。
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2019/12/29

宇都宮で時空逍遥 ⑭ 雷都レールトランシット

 宇都宮市役所の副市長室応接テーブルに置かれているLRT(路面電車)の紙細工模型です。
宇都宮市役所 副市長室 LRT 紙細工模型
 札幌市南区長の表敬訪問に同行させてもらったとき(12月13日ブログ参照)に撮らせていただきました。
 宇都宮では現在、路面電車の敷設が進められています。開業は2022年だそうです。南区長は前に都市計画の部局で市電のループ化にも携わっていたので、その情報交換も兼ねての訪問でした。画像手前の黄色い模型が、宇都宮で走ることになる車両です。

 同行したSさんが「車体が黄色なのは、どんなモチーフですか?」と尋ねました。
宇都宮 LRT パンフレット(画像は市発行のパンフレットpp14-15)
 職員の方曰く、「雷です」と。宇都宮は雷の発生がとても多い土地と、これもこちらに来て初めて知りました。「“らいと”ですから」と言われたとき、はじめはよくわからなかったのですが、「雷の都」。雷都宇都宮のLRTは、雷の光のLightで もあるか。なるほど、軽い。

 『宇都宮市史』第一巻1979年の「宇都宮の気候」の節には、「栃木県はわが国有数の雷雨多発地域」とたしかに書かれています(p.51)。特に夏の雷が多いそうです。
 宇都宮の雷は、一般に発雷する場所の名を取り日光雷と呼ばれ、栃木県の北西山地から古賀志、宇都宮市街を経て芳賀方面へと移動する。
 この日光雷は、夏の高温によって発生する熱雷で、旱天続きの後の雷雨は植物にとって大切な恵みの雨となる。
(同上)
 もしかして、「日光」も雷に由来するのだろうか。 ではなぜ、宇都宮で雷が多いのか。
 市史のくだんの節を通読しても、私にはよくわかりません。否、そもそも私は雷が発生する仕組み自体を知らないので、説明が悪いわけではないのです。 天気予報で「大気の状態が不安定」になると、雷が起きやすいと聞きます。「大気の状態が不安定」とはどいういうことか。これも私にはよくわかっていません。なんとなく、で思うには、地表と上空の温度差が激しい、とか。特に地表の温度が高く、気流が急激に上昇する、とか。では、それだとなぜ、雷が起きるのか。そもそも雷とは、何か。電気? いや、電気そのものは光らないだろう。子どもの頃テレビで観た「鉄人28号」で、正太郎君が鉄人の操縦器を操作すると、それこそ雷のような光線がピカピカ出ました。あれで私は、電波とは光るものだと刷り込まれました。そうでないことを知ったのは、恥をさらしますがなんと高校生になってからです。それを教えてくれた同級生のK君は今、大学で生命科学の先生をしていますが、かたや私の理系音痴は死ぬまで治りません。
 閑話休題。
 宇都宮に夏の雷が多いのは、関東平野の北の端という場所柄によるのではないだろうか。関東平野の北の端だとなぜ、多いか。
 

2019/12/28

宇都宮で時空逍遥 ⑬ ところ変われば電柱銘のしきたりも変わる

 宇都宮の市中心部、JR駅から田川を渡ったあたりで見かけました。
宇都宮 電柱 松屋製粉引込
 黄色の矢印を付けた先に「松屋製粉引込」とあります。これは共用NTTの標識です。その下の手書きで「大町」というほうはたぶん東京電力でしょう。さらにその下に、東電の古いマークが付いています。
 NTTの標識が地名などで大区分されているのは札幌と同じですが、宇都宮では電力会社のほうにも数字以外の名詞が用いられているようです。札幌では、北電のほうは算用数字で記号化されています(2015.5.13ブログ参照)。

 やはり市中心部で観た電柱銘です。
宇都宮電柱 江野町幹 銀杏
 上方のNTTには「江野町幹」、下の東電とおぼしきほうには「銀杏」と書かれています。その下の赤いステッカーには、やはりミッキーマウスみたいな東電のマークです。

 この「銀杏」は、この近くにそびえるイチョウの老大木、またはそれにちなんだ「いちょう通り」という道路名に由来するのでしょう。市中心部の大半が焦土と化した宇都宮空襲(12月22日ブログ参照)を生き抜いたイチョウです。

https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/kids/nazenani/1008386.html
 
 かくして、宇都宮では電柱を2倍楽しめます。冒頭画像の「大町」は旧地名ですが措くこととして、とりあえずはNTTの「松屋製粉」です。「さては、この地の名物というギョーザの原料か?」と私はまず、思い込みました。しかし、どうやら違います。そば粉です。

https://www.matsuyaseifun.co.jp/
 この製粉会社の所在地は郊外ですが、もともと街中にあったことを電柱が教えてくれました。大谷石研究会Nさんによると、宇都宮は蕎麦も有名だそうです。これまた初めて知りました。ステレオタイプに早とちりしてはいけませんなあ。ちなみに古い地図を見ると、宇都宮駅前には日清製粉の工場もありました。 

2019/12/27

宇都宮で時空逍遥 ⑫ 大谷石の採掘現場

 「石のまち宇都宮シンポジウム」二日目のエクスカーションでご案内いただきました。 
宇都宮 大谷石の露天採掘場 カネホン高橋さん
 見学させていただいたカネホンさんは、大谷石を現在採掘している7社のうちの1社です(末注)。有料で採掘場を公開しています。

http://www.kanehon.jp/tour.html#tour

 採石の現場の迫力は、実体験しないと味わえません。その迫力は、危険と隣り合わせゆえでもあります。見学の態勢を整えてくださっているのは、大変ありがたいことです。
 上掲画像のほぼ中央、赤い矢印を付けた先に、人が二人立っています。その小ささから、採掘した地底の深さをお察しください。写真を撮った位置から掘り下げていったものです。水が溜まっているところまで、1974(昭和49)年から2003(平成15)年までの約30年間、採石したと社長さんにお聞きしました。今は、手前の黄色い重機があるところで掘っています。

 拙ブログで前に、札幌軟石の露天掘りのことを越前福井の笏谷石と較べて記しました(2015.10.7ブログ参照)。明治の初めに坑道掘りから始まり、のちに露天掘りに変わったことです。笏谷石は、露天掘りから坑道掘りに変わっていきました。大谷石も同様だったと、このたび知りました。大谷石で露天掘りをしているのは現在、このカネホンさん一社とのことです。
 露天掘りと坑道掘りは、私は岩質の違いによるくらいにしか想ってませんでした。札幌軟石は柔らかくて崩れやすいから、坑道掘りが難しくて、露天掘りに移ったのだろうと。では大谷石はなぜ、逆に露天掘りから坑道掘りが主流になったのか。それもこのたび、教えてもらいました。

 注:安森亮雄「大谷石の産業・建築・地域から日本の『石のまち』の文化へ」『石のまち宇都宮シンポジウム』予稿集2019年12月4日p.6

2019/12/26

宇都宮で時空逍遥 ⑪ 祭政一致?

 宇都宮の鎌倉街道を巨視的に俯瞰します。
陰影起伏図 宇都宮 広域 
 陰影起伏図に以下、着色加筆しました。
 緑色の実線:旧鎌倉街道
 赤い矢印の先:二荒山神社(12月16日ブログ参照)
 黄色の矢印の先:宇都宮城址
 青色の実線:田川
 水色の実線:釜川

 二荒山神社は、田川と釜川で削られた舌状台地の先っぽ(南端)に位置しています。その南に宇都宮城が築かれました。神社と城を結ぶ南北線が城下町の基軸になったのでしょう。

 舌状台地の先っぽ(南端)を、南から北へ拝みました。
二荒山神社 参道 再掲
 いかにも聖地と崇められそうな起伏です。そういえば、名古屋の熱田神宮もこんな立地だったような気がします(本年9月14日ブログ参照)。熱田台地の先っぽ(南端)で、往時は海上からも望めたことでしょう。

 反対に、舌状台地の先っぽから南方、宇都宮城址のほうを眺めました。
二荒山神社から南望
 鳥居の奥の東西(画像上、左右)に通じる道が現在、中心市街地の軸線となっているようです。通りの往来が激しく、先が見渡せません。
 余談ながら、大谷石研究会Nさんによると、この東西の通りは「日本一、バスの運行本数が多い」そうです。私の実感では、中心部の交通量は全体としても非常に多いなと思います。札幌でふだん街中をクルマで通ることが少ないので、まったくの憶測ですが、札幌(の冬季積雪期は別として)よりも渋滞しているのではないでしょうか。人口は50万余です。 

 閑話休題、もう一度反対に南から北へ、神社のほうを望みました。
宇都宮 曲師町 釜川から二荒山神社を望む
 冒頭「神社と城を結ぶ南北線が城下町の基軸」と記しましたが、片側一車線の細い道です。
 赤信号の向こう、鳥居の手前から緩やかに上り勾配になっています。前述のNさんは、この部分が台地の突端とおっしゃってました。

 この起伏を、さらに巨視的に観ます。
陰影起伏図 関東広域 宇都宮 二荒山
 赤い矢印を付けた先が、宇都宮二荒山神社です。
 関東一円を俯瞰しても、舌の先っぽと窺えます。関東の北端において、奥州路の要衝にふさわしい場所に想えました。

 中世宇都宮氏の“祭政”(まつり、まつりごと)は、二荒山神社と宇都宮城の地理的な関係からすると、「祭」を文字どおり上に、「政」を下に位置づけたかのようです。まったく疎いのですが、山城-平山城-平城という日本の城の成り立ちから見たとき、二荒山神社は神社という名の平山城(の萌芽?)といえるのではないでしょうか。
 鎌倉街道の話にたどり着けません。
 

2019/12/25

宇都宮で時空逍遥 ⑩ はじめにナナメありき

 12月19日ブログでお伝えした大谷石の蔵は、宇都宮滞在最終日(4日目)の独り歩きのときに鑑みたものです。
 
 私が先に伝えた石蔵が建つ道を、現在図に示します。
現在図 宇都宮市 旧鎌倉街道
 図上、左下(南西)を黒い実線でなぞったナナメの道です。参考までに宇都宮城址を赤くベタ塗りしました。右上端(北東)にJR宇都宮駅、左上端(北西)に東部宇都宮駅が位置します。濃い青でなぞったのが田川、水色が釜川で、宇都宮市中心部を流れる一級河川です。川はいずれも北から南へ流れ、釜川は田川に注ぎ、田川は鬼怒川に注ぎます。田川は今年の秋の台風のとき、洪水をおこしたそうです。

 さえ、黒くなぞったナナメの道は、その田川に沿うように南西から北東へ通じています。この道を歩こうと思ったのは、わけがあります。大谷石研究会の方から頂戴した『石の街 宇都宮』という案内地図(宇都宮まちづくり推進機構発行)2006年、2016年を観てのことです。この地図には、大谷石の建物や遺構に特化してマッピングされています。地図によると、くだんのナナメの道に沿って大谷石建物の分布密度が高いように見えたのです。
 研究会のNさんに、「この道に大谷石建物の密度が高いのは、何か理由があるのでしょうか?」と尋ねました。
 Nさんは「いいところに気づきましたね」と応えて曰く、「鎌倉街道ですよ」と。
 「鎌倉街道?」と訊きなおす私。Nさんは「“いざ鎌倉”の鎌倉街道ですよ」。

 私が訊きなおしたのは、鎌倉街道という名前に馴染みがなかったからではありませんでした。否、別の理解をしていたのです。私が理解していた鎌倉街道というのは、京と鎌倉を結んだ中世の古道です。12世紀、源頼朝が鎌倉に政治の本拠を置いたことにより、通じました(京・鎌倉往還)。近世、江戸幕府によって整えられた東海道の原形となります(末注)。
 これとは別の鎌倉街道があったことを、宇都宮に来て知りました。否、書物で読んではいたのですが、認識してなかったのです。こちらは、東国一円に点在していた御家人が、まさに“いざ鎌倉”と馳せ参じるための交通機関でした。

 沿道の風景です。
宇都宮 旧鎌倉街道沿い-1
宇都宮 旧鎌倉街道沿い-2
 大谷石の蔵や商家が建てられたのは明治から昭和にかけてでありましょうが、中世古道の記憶を受け継いだといえるかもしれません。ここを800年前、頼朝が奥州攻めで通ったのかと想いを馳せました。

 街道を南から北へ眺めると、下り坂です。
宇都宮 旧鎌倉街道
 色別標高図で俯瞰します(標高105m未満から5mごと7色段彩で作成)。
色別標高図 宇都宮 旧鎌倉街道 標高105m未満から5mごと7色
 白ヌキ実線が旧鎌倉街道です。古道は、田川の自然堤防もしくは河岸段丘沿いの微高地に開かれたように見えます。もちろん河道は800年の間に流転してはいるのでしょうが。街道と川の間の町名が「下河原」とか「河原町」です。氾濫原を彷彿させます。 

 注:京から尾張国までは古代東山道(近江~美濃)を通ったので、厳密には近世東海道とは異なる。池田誠一『なごやの鎌倉街道をさがす』2012年、pp.12-16

2019/12/24

札幌と宇都宮のつながり(承前)

 昨日ブログに続き、札幌と宇都宮のレトロなつながりです。
 まず栃木県宇都宮のほうから。中世宇都宮の歴史を概観します(末注①)。
 ・平安時代後期(11世紀中頃)、源頼義が東北を討つ〈前九年の役)。頼義に随った藤原宗円が二荒山神社(宇都宮明神)の社務職に任ぜられるとともに、宇都宮城を築く(伝)。以後、約500年にわたり、一円を支配。
 ・鎌倉時代(12~13世紀)、三代朝綱が宇都宮氏を名乗り、宗教及び政治の両面で支配を拡げる。鎌倉幕府の有力な御家人となる。
 ・戦国時代(16世紀末)、宇都宮国綱(初代宗円から22代め)が豊臣秀吉により所領を没収される。

 宇都宮城址公園清明館の歴史展示室に掛かっていた「宇都宮氏略系図」です。
宇都宮城址公園清明館歴史展示室 展示「宇都宮氏略系図」
 前述のとおり宇都宮氏は下野国宇都宮からは姿を消しますが、一族は全国各地に点在しました。この家系図では、初代宗円の子宗房から「豊前宇都宮氏」とあります。また、この図には書かれてませんが、宗円から8代めの宇都宮貞綱は「元寇」(13世紀後半、蒙古襲来)のとき九州に赴いた後に残り、一家をなしたそうです(末注②、筑後宇都宮氏)。

 さて、ここで札幌の宇都宮仙太郎です(末注③)。
 宇都宮仙太郎は1866(慶応2)年、現在の大分県中津市に生まれました(末注④)。豊前国です。旧姓は武原、その出自はこの地の豪族賀来氏に遡るそうです。現在の福岡県上毛町(こうげまち)の宇都宮武平の養子となったことで宇都宮姓を名乗りました。上毛町は川を挟んで中津市と隣り合っています。元々は豊前国に属していました。
 宇都宮仙太郎は、豊前宇都宮氏か筑後宇都宮氏の流れを汲んでいるのではないか。と私はにらみました。九州の宇都宮氏も、やはり戦国時代、豊臣秀吉(の命を受けた黒田官兵衛)によって討たれていますが、仙太郎自身の先祖である賀来氏も含め末裔は帰農するなどして残ったようです。
 ということで、札幌と栃木県宇都宮は、九州大分県を介してつながっていました。

 以下は余談です。
 たとえば、私の先祖は何人いる(いた)か。父母は2人、祖父母は4人、曾祖父母は8人です。n代遡ると、「2のn乗」人になります。15代前は2の15乗=32,768人。20代前まで遡ると、2の20乗=1,048,576人です。百万人を超えます。これくらいいたら、歴史上の有名人物の誰かが先祖にいそうなものです。各代の先祖を足していったら(2+4+8+16+32+…)、もっと大変なことになります。DNA鑑定したら、わかるだろうか。わかったから何だ、という話ですが。

 注①:宇都宮市歴史文化資源活用指針協議会『うつのみや今昔物語』2019年、宇都宮市教育委員会『中世下野の三都物語-宇都宮・足利・小山-』2016年、宇都宮城址公園 清明館 歴史展示室資料「宇都宮の歴史解説シート」による。
 注②:宇都宮城址公園「宇都宮城ものしり館」のボランティアガイドさんのお話による。
 注③:黒澤酉蔵『宇都宮仙太郎』1957年、pp3-5、p.319、高宮英俊『酪農語録 北海道酪農を築いた人びと』2008年、p.30
 注④:旧地名は下毛郡大幡村。「下毛」(しもげ)が「下野」(しもつけ)←「下毛野」を連想させるが、関係ないようだ。

2019/12/22

宇都宮で時空逍遥 ⑨ 名古屋と札幌を往来しながら

 カトリック松が峰教会です。
カトリック松が峰教会 ライトアップ
 宇都宮来訪の初日(12月13日ブログ参照)、大谷石研究会の皆さんがこの教会のちょうど目の前にある石蔵のレストランで歓迎会を催してくださいました。石蔵はもともと公益質屋だったそうです。教会は1932(昭和7)年、公益質屋の蔵は1938(昭和13)年に建てられました(末注①)。教会の向かいに公益質屋という立地に、感じ入ってしまいます。精神的救済と物質的救済。

 私は宇都宮駅から市役所に向かうのに、観光名所を巡廻するバスに乗りました。この教会前のバス停に近づいたところで聴いた車内アナウンスが記憶に残っています。「設計は、函館のトラピスチヌ修道院で知られるマックス・ヒンデルです」。スイス人ヒンデルは大正時代に札幌に来て、住宅や教会などを設計しました。角幸博先生(北大名誉教授)が研究されたことで、札幌に住む私には馴染み深い名前です。宇都宮では建築家ヒンデルにかような枕詞が添えられることにも、感じ入りました。

 鉄筋コンクリート造ですが外壁は大谷石が貼られています。
カトリック松が峰教会 正面ポーチ
 半円アーチや胴蛇腹下に施されたロンバルディアバンド(∩∩∩∩の連なり)が、ロマネスクです。大谷石のほどよい軟らかさが細部の装飾に適していたようにも想えます。

 前述したようにヒンデルは札幌を足場にしましたが、全国各地にもキリスト教系の施設を遺しました。
 その一つが、名古屋の「旧南山中学校本館」(現南山学園ライネルス館)です。
南山学園ライネルス館 - 1
 南山学園はカトリックのいわゆるミッション・スクールで、この校舎は1932年に建てられました。前掲カトリック松が峰教会と同じ年です。やはり鉄筋コンクリート造ですが、人造石仕上げです(末注②)。

 ヒンデルが同時期に設計したキリスト教しかもカトリックの建物といっても、雰囲気が違うなあと感じます。
南山学園ライネルス館 - 2
 全体に装飾が簡素です。屋上のパラペットの三角形の連なりや正面最上階の菱形の窓などには、モダニズムの気配を嗅ぎます。
南山学園ライネルス館 - 4
 それでも、台形型の張り出し具合が前掲宇都宮の教会のポーチに通じなくもありません。この建物を訪ねたのは1999(平成11)年で、上掲写真もそのとき撮ったものです。当時、教会のことは知りませんでした。今あらためて写真を見直すと、外壁の色合いに大谷石を妄想してしまいました。現在、学園創設者の名を冠した記念碑的施設として、大切に保存されています。

 松が峰教会の内部は、戦後復元されたものだそうです。
カトリック松が峰教会 内部
 宇都宮は1945(昭和20)年7月の空襲で、市中心部の大半が焼失しました。教会はRC造大谷石貼りであったことからか、解体を免れましたが、内部はほとんど焼けてしまったのです。そういうことも、私は現地に来て初めて知りました。

 札幌にも、ヒンデルのキリスト教系建物が保存されています。それぞれの風土や用途などで作風を変えつつ、建築家として通底した思想性に想いを馳せてみたい。

 注①:NPO法人大谷石研究会『大谷石百選』第2版2016年、p.20、p.86
 注②:南山学園・学園資料室から1999年にご提供いただいた資料による。

2019/12/20

宇都宮で時空逍遥 ⑧

 東武鉄道「南宇都宮」駅の駅舎です。
東武南宇都宮駅1
 外壁に大谷石を用いています。1937(昭和12)年に建てられました。「昭和初期の『石の街 うつのみや』に出現した『地域の五大近代建築』」(末注)の一つだそうです。
東武南宇都宮駅2
 2階のブラインドウインドー(これは元からか)の枠組み、軒蛇腹、1階庇の持ち送りなど、意匠にいかにもモダニズムを感じます。大谷石は、腰から上のタテ長は昨日ブログでお伝えした“張り石”、腰から下のヨコ長は“積み石風・張り石”です(躯体は木造とのこと)。これは在来の石蔵の意匠を踏襲したように見えますが、モダニズムのディテールに溶け込んでいるように思います。
東武南宇都宮駅3
 上掲3枚の画像jは、滞在4日目の個人行動時に撮ったものです。ここから電車に乗って中心市街地まで戻ろうとしましたが、30分に1本の便が出たばかりなのであきらめました。

 実は滞在2日目の「石のまち宇都宮」シンポジウム終了後、懇親会までの合間をぬって大谷石研究会のSさんがクルマでこの一帯を案内してくださいました。シンポジウムの会場となった「宇都宮市文化会館」がこの近くだったのです。
現在図 東部南宇都宮駅周辺
 上掲現在図で宇都宮市文化会館を黄色に塗りつぶしました。大きな平面配置です。南宇都宮駅はその南東、放射線状・同心円状の街区の中心に位置します。赤く塗りました。小さな駅舎です。

 この街区は、市域にあって特異的な構成です。夕刻薄暗くなっていたせいもあり、Sさんはクルマを動かしながら、また同乗のNさんもナビゲートしながら、文化会館から駅までの道筋に戸惑っておられました。私はつい、「“なんちゃって田園調布”ですね」と軽口を叩いてしまったのですが、地理学者のNさんによると「ここは戦前、駅舎の開業の頃に区画整理されたんですよ」とのことです。「なんちゃって」は大変失礼でした。だいたい、本家の東京・田園調布自体、英国の郊外住宅地を模したものであるからして(本年3月18日ブログ参照)、それを言うなら田園調布が“なんちゃってレッチワース”です。

 1947(昭和22)年の空中写真(米軍撮影、国土地理院サイトから)で、この周辺を俯瞰します。 
空中写真 1947年米軍 東武南宇都宮駅周辺
 黄色の□で囲ったところが上掲現在図のエリアです。右方(東方)を南北に通じる幅広の道が奥州街道、右上(北東)が宇都宮の市街地に当たります。南宇都宮駅は、市中心部にあるターミナル「東武宇都宮」駅まで直線距離にして約2㎞です。放射状・同心円状街区は郊外住宅地を目指していたのだなあと察せられます。

 現在の風景です。
東武南宇都宮駅付近 放射状街路
 「ミナミ食堂」の建物の右方に、放射状の街路の一つが奥に延びています。その突き当りのこんもりした樹々のさらに奥に位置するのが、シンポジウム会場となった宇都宮市文化会館です。郊外住宅地にふさわしい施設といえましょう。

 というのは早とちりでして、文化会館一帯はもともと(戦前)、別の大きな施設がありました。
空中写真 1947年米軍 のちに宇都宮市文化会館ができた一帯
 何があったか、私は古い地図を見て答えを先に知ってしまいましたが、1947年空中写真をつぶさに見ると、その正体が窺われます。

 シンポジウムの会場です。
石のまち宇都宮シンポジウム 市文化会館
 壇上で佐藤俊義さんが札幌軟石の報告をしているところを撮りました。
 これが「小ホール」(座席数500)で、このほかに2000席の「大ホール」があります。建物の大きさを推して知ってください。これもまた、土地の記憶の“反転風景”(9月29日ブログ参照)ですね。

 注:『石の街 うつのみや 大谷石をめぐる近代建築と地域文化』2018年、p.118

2019/12/19

宇都宮で時空逍遥 ⑦

 大谷石を壁に貼った蔵です。 
宇都宮市西原町 石貼りの蔵 
 宇都宮で実際に観て、ようやく違いがわかりました。否、わかりかけた、というところです。

 これまで私は、いわゆる「木骨石造」とごちゃまぜにしていました。本年6月に大谷石研究会のかたがたが札幌に来られたとき(6月23日ブログ参照)、前掲画像に載せたような蔵の類型を理解していなかったのです。宇都宮では、大谷石建物の構法をおおまかに「張石造」、「積石造」に分け、後者をさらに「木骨積石」「組積み」などに分けています(末注①)。冒頭画像の蔵は滞在最終日にひとりで街を巡ったときに見かけたものなので、地元研究者の方に確かめていないのですが、「張石造」に当たるのでしょう。私なりにいうと、「土蔵造石貼り」。
 
 宇都宮に来るまで、軟石建物の構法について私のアタマの中には、いわゆる「純石造」(組積造)と「木骨石造」の二分法しかありませんでした(末注②)。そして、木骨石造は明治文明開化によって導入されたという理解です(末注③)。ところが大谷石研のSさんから、“張石”の蔵は江戸時代からあったと6月に聞きました。それを、札幌や小樽で見かける木骨石造倉庫のような建物が宇都宮では明治より前から建てられていたと勘違いしたのです。そうではなかった。百聞不如一見。

 「張石造」(木造または土蔵造石貼り)は、いわば近世在来の土蔵の発展形と見るべきでしょう。あるいはナマコ壁土蔵の大谷石貼りバージョンとでもいえるか。宇都宮でSさんにあらためてお訊きしたところ、札幌などでの木骨石造に相当する(末注④)「木骨積石」が普及するのは「張石造」より後だそうです。おおまかな時系列としては古い順に、「張石造」→「木骨積石」→「組積み」(純石造)らしい(末注⑤)。

 ちなみに、冒頭画像の張石造(土蔵造石貼り)の蔵の敷地には、下掲の石蔵も隣り合って並んでいます。
宇都宮市西原町 木骨石造?の蔵 
 こちらは「木骨積石」(木造・積み石風・張り石、札幌流いうと木骨石造)か。

 注①:安森亮雄「大谷石の産業・建築・地域から日本の『石のまち』文化へ」『石のまち宇都宮シンポジウム 予稿集』2019年12月14日、p.7
 注②:ただしコンクリートの臥梁入りなどもあるが、ここでは措く。
 注③:藤森照信『日本の近代建築(上)-幕末・明治篇-』1993年、pp.46-56、pp.90-102
 注④:ただし、軸組の木材との固定方法は異なる。
 注⑤:Sさんは、“木造・張り石”、“木造・積み石風・張り石”と表現されている。注①安森先生の類型にしたがえば、前者が「張石造」、後者が「木骨積石」に当たるか。札幌や小樽ではひっくるめて木骨石造。げに、マニアックな世界だこと。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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