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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/06/23

銘菓 大谷石最中

 昨日ブログで、支笏湖畔の神社について記しました。国立公園内の景観に配慮して、鳥居が朱塗りから現在の色に変えられたことです。あとから「あれ、そういえば」と「山線鉄橋」を思い出しました。こちらは、現在赤く塗られています(4月29日ブログ参照)。20年くらい前に洞爺湖畔で見た浮見堂も、朱塗りだったような気がする。湖畔にワンポイントで赤というのは、映えるようにも思います。色々考えると、判らなくなる。

 先週、栃木県宇都宮市の「大谷石研究会」の方々が来道されました。主な目的は札幌軟石や小樽軟石との交流です。大谷石の建物の持ち主、石材屋さん、建築家、研究者といった面々9名を南区石山などにご案内しました。石文化を介して、人のつながりが拡がります。人はなぜ、石文化に惹かれるのか? (あえて、「人は」と普遍化してしまう)。一つ思うのは、「石文化」というコトバ自体が示すように、自然と人為の両側面があることです。理科系、文科系の境目を行き来する醍醐味でしょうか。

 研究会の皆さんからいただいたお土産です。
大谷石最中
 「大谷石最中」。
 
 添えられている栞には次のように書かれています。
 大谷石は栃木県宇都宮市の西部に産し
 今から二、三千万年前 
 海底の爆発によって
 火山灰が堆積して出来たもので
 全国一の軟石材としてしられ
 火熱に強く耐久性があり、建築、装飾用
 として多く使われております
 大谷観音を中心とする付近一帯は
 すべて石山で中国の仙境を思わせる
 絶景であります
 この大谷の自然の美しさと幽玄さを
 和菓子の風味としていかしたのが
 銘菓 大谷石最中 であります
 大谷の由緒ある歴史と共に
 ご賞味賜り度くお願い申し上げます
 飯田屋謹製
 
 
 全国一の軟石材! 

 コースターもいただきました。
札幌軟石の小鉢 大谷石のコースター
 札幌軟石の鉢とのコラボレーションです。
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2019/06/18

飛騨高山で時空逍遥 ⑰

 昨日ブログ末尾で、高山駅から一駅お隣の界隈で「目にした風景からも異なる刺激を受けた」と記しました。それは、一昨日ブログで述べた軒下の腕木の胡粉塗りのことです。

 たとえば、上枝(ほずえ)駅の近くでこのお宅が目に留まりました。
高山 上枝駅近くの家屋 胡粉塗り腕木、垂木、雲形持送り
 腕木のみならず垂木も含め、ことごとく白く塗られています。一見したところ、高山の市街に比べて派手です。腕木には、さらに雲形様の持送りが添えられています。中心部の町家よりも凝っている印象を受けました。
 このあたりは高山市とはいっても、元は旧高山町とは別の村でした。こういう差異を感じ取れただけでも、お隣の土地を歩けてよかったなあと思います。
 
 昨年放送されたNHK「ふるカフェ系 ハルさんの休日」江別編がまた再放送されます。6月20日(水)午後9時から、Eテレ。
 ↓
https://www4.nhk.or.jp/furucafe/

2019/06/17

飛騨高山で時空逍遥 ⑯

 JR高山駅です。
JR高山駅
 建物左方の壁に貼られている細かな格子状のモノは、この地の伝統的町家の連子窓をモチーフにしているのでしょうか。
 高山は観光客で賑わっています。外国人も多い。札幌で外国人観光客というとアジア系(中国、韓国、台湾)という印象を私は抱きますが、高山は欧米系(というか白人)が目立ちました。実際、比率は高い。これも2018センター試験地理Bで知りました(5月21日ブログ参照)。

 高山駅より一つ北(富山寄り)にある「上枝」という駅です。
JR高山線 上枝駅
 「ほずえ」と読みます。

 1934(昭和9)年築の可愛らしい駅です。
JR高山線 上枝駅②
 この駅舎に限ったことではないのですが、高山の家屋は屋根に「雪止め」が付いています。わりと新しい建物にも付いていて、変形屋根や無落雪屋根を見慣れた目には新鮮に映ります。

 1934年築は、この「建物資産標」で確認しました。
上枝駅 建物資産標
 一日の運行本数は上下各13本、ウィペデキアによると乗降客は平均15人/日だそうです。
 
 一駅お隣というだけで、高山駅に比べて鄙びた感が弥増しました。なぜこの駅に私が降り立ったかというと、伯母の葬儀場(5月12日ブログ参照)の最寄駅だったからです。それでなければ、この駅で乗り降りすることは一生なかったでしょう。亡き伯母に感謝します。なぜ感謝するかというと、一駅違うだけでこの駅もさることながら、界隈で目にした風景からも異なる刺激を受けたからです。

2019/06/16

飛騨高山で時空逍遥 ⑮

 宮川右岸の街並みです。
高山 上二之町 町家 腕木 胡粉塗り
 重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に指定されています。 

 高山のいわゆる町家で印象的だったのは、軒が深いことに加え、黄色の矢印で示したところが白く目立っていることです。高山市教委発行「高山の町並」2005年で、「町家の外観」について次のように説明しています(p.4、太字)。
 木部には紅殻にすす(硝煙)を混ぜて着色し、漆の刷毛洗い油や荏の油で着色止めとしたり、腕木鼻を胡粉塗りとする習慣は、江戸時代に良材をカモフラージュすることからおきたと言われるが、かえって木部の紅殻色と障子の白が落ち着きをまして美しい。こうした統一感のある外観構成は高山の町並の魅力となっている。

 白く目だっているのは「腕木鼻」の「胡粉塗り」(ごふんぬり)と知りました。以下、彰国社『建築大辞典』1991年で補います(太字)。
 腕木 arm, bracket ①柱または梁などから持放しで出した横木・桁などを支承するもの⇒もちおくり (後略)
建築大辞典 腕木 説明図版
 胡粉 chalk, white wash 牡蠣殻その他の貝殻を粉砕し、水簸(すいひ)して精製した粉末で白色顔料。塗料・パテ・ゴム・絵具・化粧品などに用いる。主成分は炭酸カルシウム
 
 余計に判りづらくなるかもしれませんが、要するに、軒下の持送りの先っぽを白く塗っている。

 この仕様は、重伝建のエリアから外れたところでも見られます。
高山 上二之町 腕木 胡粉塗り 
 黄色の矢印を付けたお宅のみならず、よく見るとお隣も、そのお隣も同じです。
高山 上二之町 腕木 胡粉塗り ②
 3階建ての軒下にも施されています。ご丁寧なことです。重伝建エリア外のせいか建物の高さや意匠はまちまちなのですが、持送りの先っぽだけは白い。ある種の統一感をもたらしています。

 もともとは江戸時代、町人がお上の目を逃れる(町家に用いる木材が制限されていた)ためだったということなのですが、上掲の建物は比較的新しい気配です。昭和後期、もしかしたら平成期の建築でしょうか。ついでながら重伝建の「古い町並」も、古いとはいっても近世(江戸時代)そのものではありません。大半は明治期以降の建築です。昨日ブログで私がこれを「近世として整えられています」としたのは、街区が近世から変わっていないことを主に指します。建物そのものは更新されていく中で、胡粉塗りのような近世的要素が今に引継がれている。その意味ではやはり、「“現代的近世”が保存」されているといえましょう。

 江戸時代における本来の意味合いが失せたにもかかわらず胡粉塗りが今もって続けられているのは、なんででしょうか。一種の見栄(みえ、みばえ)ですかね。

 町家の胡粉塗りが目立ったので、昨日ブログに載せた建物があらためて気になりました。
高山 天狗総本店 軒下 持送り
 昭和初期の近代洋風建築、というよりは擬洋風というかキッチュな精肉店の軒下にも、持送りが連なっています。構造的な必然性とはどうも思えません。デンティル(歯状飾り)? いや、伝統的町家に倣っての見栄のように見えてきました。

2019/06/15

飛騨高山で時空逍遥 ⑭

 「飛騨高山で時空逍遥⑦」(6月2日)からと綴ってきた宮川左岸のくねくね道の結論です。 

 くねくね道の由って来たる水路を現在の色別標高図に引き写してみました。
高山 色別標高図 水路加筆
 ⑧(6月3日)に載せたものと同じく、標高572m以下から1mごと10色段彩です。白ヌキは1922(大正11)年地形図に描かれている水路、青色の破線は江戸時代の古絵図に描かれている「用水」です(⑫6月13日参照)。旧陣屋の敷地を赤い線で囲みました。近世の古絵図によれば青色破線の「用水」と宮川の間には屋敷街が形成されています。青色破線のみ古絵図に「用水」と書かれているのは、生活用水だったのかもしれません。

 上掲図を含む高山市の市街地を、広域でもあらためて見ます。
高山 色別標高図 広域 再掲
 白ヌキで囲ったところが上掲図です。 
 地形的にみると、宮川左岸の水路が巡らされている一帯は、氾濫原だったようにも私には見えます。実は、私は当初、くねくね道は自然河川すなわち宮川の支流だったのではないかと想いました。網状小支流を生かして水田稲作の用水とした可能性も捨てきれません。

 同じエリアを空中写真で見てみます。カラーは2007(平成19)年撮影、白黒は1948(昭和23)年米軍撮影です。
高山 空中写真2007年 くねくね道
高山 空中写真1948年 くねくね道

 上掲写真を含む広域です。
高山 空中写真2007年 市街地広域
高山 空中写真1948年 広域
 1948年写真で国鉄高山駅の東側が整然と区画化されています。高山線が開通したのは昭和初期です。駅ができたことによって、まずは宮川左岸から駅東側にかけて市街化されていったのでしょう。2007年写真では、JR高山線の西側にも市街地が広がっています。西縁に国道のバイパスが通じていて、大型商業施設も立地しているようです。

 高山の市街地はこれまで述べてきたように近世、宮川を中心に形成されました。右岸の城山に山城が築かれ、その麓に武家屋敷や町屋が並んだのが江戸時代初期です。左岸には下屋敷が置かれつつ、その西側は大名田という地名が表すかのように水田地帯でした。その一帯を水路が通じていました。幕府直轄領となった後、左岸の下屋敷跡に設けられた陣屋が中心となります。
 明治に入り、陣屋跡には郡役所が置かれて引き続き中心となりつつ、西側の水田地帯に水路を生かした製糸工場が設けられました。高山線の開通、駅の開設とともに西へ市街地が広がります。
 駅周辺はいわば現代的な風景です。一方、宮川右岸の「古い町並」は重伝建に指定された地域を中心に近世が受け継がれています。奇しくもというべきか、どちらも整然とした街並みです。後者は近代的都市計画として、後者は近世として、それぞれ整えられています。もともと近郊農村だった前者は、風景が近世から現代に上書きされました。近世の中心市街地だった後者は、近代的開発の影響をあまり受けずに、いわば“現代的近世”が保存されています。

 私が彷徨った空間は、両者の境目でした。時間的にも、近世から現代にかけて境目を表現しています。境目の時空が私を惹きつけたといえるのかもしれません。中間領域ならではの魅力を醸す。

 宮川左岸の精肉店です。
高山 天狗総本店
 境目には、こういう突拍子もないモノも出現する。

2019/06/14

飛騨高山で時空逍遥 ⑬

 高山で私は、くねくね道を彷徨いました(6月3日ブログ参照)。
 大正、昭和期の古地図から見えてきたのは、くねくね道の多くが水路に由って来たることです(6月8日6月9日ブログ参照)。
 水路は明治以降、近代において製糸工場の動力として用いられました(6月11日ブログ参照)。
 さらに古絵図を遡って判ったのは、水路が近世(江戸時代)から流れていたことです(昨日ブログ参照)。

 6月8日ブログで私は、「この水路は何か?」と自問しました。昨日ブログに載せた古絵図には、水路の一つに「用水」と書かれています。また、製糸工場の多くは建てられたのが「用水路沿い」だったという記述を引用しました。
 土地利用に照らすと、少なくとも近世以降、水田稲作のための用水路であったことが窺えます。近代に入って、それを製糸工業(マニュファクチュアか)にも応用した(末注)。山国の飛騨では近世から蚕糸業が奨励されたといいます。生糸が重要な輸出産品となった近代以降はさらに加速されたことでしょう。土地(水田の埋立て)、動力(水力)、労働力と、生産手段確立の条件が三拍子そろっていたと思います。ついでにいえば、山林資源と木工技術の集積も工場建設には有利に働いたのではないか。

 飛騨、製糸工場というと映画「あゝ野麦峠」を思い出します。
映画「ああ野麦峠」半券 オモテ 1979 
 明治期、飛騨の寒村の娘が国境の野麦峠を越えて信州の製糸工場へ出稼ぎに行った話です。2016.1.18ブログで記したように、この映画の原作のルポルタージュは、一面的ないわゆる‘女工哀史’史観を糾しました。私はその意味で原作を画期的だと思ったものです。しかるにこのたび、女工を送り出した側の飛騨国で、さらに認識をあらためました。これも高山の達人Nさんのご教示によります。峠を越えて信州に労働力が流出した時期は限られていたというのです。前述のとおり、飛騨国内側でも生産体制が整っていきました。 
 「高山陣屋」の蚕糸業に関する展示でも、やはり次のように説明されています(太字)。
 山本茂美『あゝ野麦峠』が映画化されて興行的に成功を収めたことで、飛騨出身の出稼ぎ女工のイメージとして、野麦峠を越えて信州に出稼ぎに行き、過酷な環境のなかで労働を強いられた「女工哀史」像が定着している。(中略)
 大正時代を通じて岐阜県出身者の(引用者注:長野県諏訪郡の製糸工場が受け入れた女工・男工たちの出身地に対して)占める割合は低下し続け、昭和初期には3%を切るようになる。(中略) 
 このように見ると、“野麦峠を越えて信州に出稼ぎに行った飛騨の女工たち”といった「女工」像は、限定的な時期の姿であり、実際には飛騨出身女工の多様な出稼ぎの在り方があったことに留意せねばならない。
 
 映画化によって“女工哀史”史観がぶり返し、「定着」してしまったのでしょうか。繰り返しますが、“女工哀史”史観を糾したのが原作です。信州での飛騨出身労働者の比率というだけでなく、「多様な出稼ぎの在り方」の内実がどうであったか、が問題かとも思います。

 注:正確には、生産力のかような発展段階を後世において「近代」と跡づけているというべきか。

2019/06/13

飛騨高山で時空逍遥 ⑫

 6月11日ブログの続きです。
 高山市の中心部を流れる宮川の左岸に幾筋も水路が通じているのを見てきました。その水路沿いに明治期、製糸工場が建てられます。水流が器械の動力に用いられたのです。このことは、高山の達人Nさんに工場跡で教えていただきました。加えて、「高山陣屋」内の蚕糸業に関する展示で、次のように説明されています(太字)。
 明治6年、飛騨に初めて器械製糸場が登場すると、各地で次々に大規模製糸場が建設された。その多くは動力に水車を利用しており、用水路沿いに建てられた。
 「用水路」ということなのですが、ではこの水路はいつごろからあったのでしょうか。さらに古地図を遡ってみます。

 「高山町絵図」(高山市教委所蔵)から採りました。
高山町絵図 幕府直轄地時代後期 水路
 描かれた年代は「幕府直轄地時代後期」とされます。飛騨国が幕府の直轄領とされたのは1692(元禄5)年です。この絵図は江戸時代後期とみられます。便宜上北を上にしましたが、本来は東を上に描かれたものです。赤矢印を加筆した先に「御陣屋」と書かれています。天領時代の政治の中心地です。その南側を東西に通じる道に、読み取りづらいのですが黄色の矢印を加えた先に「八軒町」と書かれています。

 1922(大正11)年地形図を再掲します。
大正11年地形図高山北部 郡役所周辺 水路
 水路、川を水色でなぞったほか、前掲江戸時代の古絵図と照合するため赤矢印と黄色矢印を付けました。赤矢印の先は陣屋跡です。大正期は大野郡役所となっています。黄色の矢印で示したところは「八軒町」です。江戸時代の道がそのまま生きて、現在も「八軒町通り」として遺っています。
 前掲江戸時代古絵図と較べると、「陣屋」の西側を流れる水路が大正11年地形図と一致していることが窺われます。さらに、大正11年地形図では読み取れなかったのですが、陣屋(郡役所)の南側、東側にも水路が通じていたようです。

 さらに古い絵図です。
高山城下絵図 金森時代後期 御下屋敷周辺 用水
 「高山城下絵図」(高山市教委所蔵)で、描かれたのは「金森時代後期」とされます。幕府直轄となる前の金森氏の治世時です。これも便宜的に北を上に、向きを変えました(本来は南が上か)。
 
 赤矢印を付けた先に「御下屋敷」と書かれています。黄色の矢印で示したのは「八軒町通り」の原形とおぼしき道です。冒頭の江戸後期の絵図と較べると、金森氏当時の下屋敷の場所が幕府直轄以降、「陣屋」となったことが読み取れます。
 下屋敷から赤矢印の反対方向すなわち東へ向かうと、宮川右岸の山に金森氏の居城が築かれています。その北側に武家屋敷、西北に町屋が配されました。町屋は現在の「古い町並」として面影を留めています。
 城は金森氏が出羽国へ移封された後、廃却されました。平時に幕府が支配するうえでは山城である必要はなくなったのでしょう。役所としてのまとまった土地家屋としては、下屋敷を引き継ぐのがうってつけだったようです。

 江戸前期と思われるこの古絵図の下屋敷の周辺に、水路がすでに巡らされています。下屋敷の南から東にかけて流れる水路に「用水」と書かれています。赤い○で囲ったところです。一方、西側の水路はそのような添え書きはありません。「用水」よりも若干太く描かれています。冒頭の江戸後期絵図と較べて流路が微妙に異なっているようですが、どうもこれが江戸時代を経て大正11年地形図の水路の原形となったように想えます。

2019/06/11

飛騨高山で時空逍遥 ⑪

 一昨日ブログの続きです。

 1922(大正11)年地形図に描かれた工場は何だったでしょう?と問いかけました。
地形図高山北部大正11年抜粋 工場記号
 抜粋した一帯で、工場は黄色の線で囲ったとおり4箇所、確認できます。

 そのうちの一箇所に遺る古い建物です。
旧三星製糸工場
 木造だと思いますが、コーナーストーンを模したりして、いかにも擬洋風な気配を漂わせています。

 この建物は、高山の達人Nさんに案内していただきました。前掲地図では、もっとも南に記された工場記号の場所にあります。かつての製糸工場です。この一箇所をもって類推するのは乱暴ですが、他の3箇所もたぶん製糸工場だったのではないかと思います。コメントありがとうございました。
 画像右方、建物のそばを水路が通じています。Nさんによると、この水路の流れを動力として製糸の器械を動かしていたそうです。という話を思い出しながら前掲地図を見直すと、他の工場も水路沿いに立地しています。

2019/06/09

飛騨高山で時空逍遥 ⑩

 昨日ブログの続きです。
 「高山町及其附近明細地図」1917(大正6)年(抜粋)に、現地で視認したくねくね道を加筆しました。黄色の実線です。
高山町及其附近明細地図大正6年抜粋 町界、水路、くねくね道
 元図に描かれている町界線を赤、水路を水色でそれぞれなぞりました。くねくね道の多くは、やはり水路にも沿っていました。

 1万分の1地形図「高山北部」1922(大正11)年からの抜粋です。
地形図高山北部大正11年抜粋 河川、水路、町界
 水路とおぼしき波線及び河川を水色、町界線を赤でなぞりました。えんじ色の□の枠で囲ったのは前掲1917年地図の部分です(前掲図は上が真北ではないので、誤差があるが)。
 地形図だけあって土地利用の状況が仔細にわかります。高山町(町界線の東側)に市街地が形成されている一方、大名田町(同、西側)は水田が目立ちます。町名は体を表す、か。病院、監獄、女学校など敷地の広い公共的施設も立地しています。えんじ色の□の左上角、国分寺の隣には「花岡廓」とも。廓は公共的というには語弊がありますが、「なるほどなあ」とひとりごちてしまいました。
 前掲1917年地図に戻ると、大名田町側に破線で碁盤目状に「予定道路」が引かれています。人を集める施設をこれだけ高山市街の西郊に設けたなら(というか、既成市街地には困難であったのだろう)、町の境を超えて広域都市計画的に道路を敷いていくのは成り行きでしょう。とまれ、このような一帯を水路が網の目のように流れています。
 さらに気づいたことを一つ。画像では見づらいのですが、高山町側含め、市街の周辺に工場記号もいくつか確認できます。奥深い山国に工場。ここで問題。これらは何の工場でしょう? などと高山通のかぶりをして問いかけるのは気が引けますが、地元以外の人には土地柄を理解するうえで欠かせないかもしれません。

2019/06/08

飛騨高山で時空逍遥 ⑨

 uhb(8ch)「みんテレ」の次回“となりのレトロ”は、6月10日(月)放送予定です。
 ↓
https://uhb.jp/program/mintele/
 夕方4時から5時の間のどこかでオンエアされると思います。ご笑覧ください。

 6月3日ブログの続きです。飛騨高山で迷い込んだ異形の時空の謎を解こうと、史料を漁りました。“古い町並”の一画に飛騨高山まちの博物館という格好の施設があります。館内に資料閲覧室という格好の空間があり、恰好の文献をひもときました。高山市教委『高山城下町絵図 江戸~昭和時代』2012年です。

 その中に、とりあえず恰好な史料を見つけました。
大名田町市街部之図 1936年
 「大名田町市街部之図」1936年です。
 鉄道の線路に沿って黄色の○で囲ったところに「大名田町」と書かれています。一方、宮川の右岸は「高山町」です。橙色の○で囲ったのは「山町」のみですが、接写の際、アタマの一文字「高」の部分を欠かして撮りました。
 昭和戦前期のこの地図が私にとって都合がよかったのは、「高山市」になる前の旧町界が分かたれていることです(町界線は一点鎖線)。この地図は「大名田町々勢要覧」に付けられたもので、1936(昭和11)年1月に刊行されました。同年11月に同町と高山町が合体して高山市になります(前掲『高山城下町絵図 江戸~昭和時代(解説)』2012年、p.86)。なお、破線で描かれているのは凡例によると「予定道路」です。

 この地図を睨みながら、6月3日に載せた現在図を見直します。
現在図 飛騨高山 宮川左岸の時空
 私が憑りつかれた細くくねった路地が、少しくっきり見えてきたような気がしました。

 現在図に示した路地を1936年地図になぞってみます。
大名田町市街部之図 1936年 拡大 くねくね道  
 現在図に赤い線でなぞったものを黄色の線で当てはめてみました。

 冒頭の古図でこのあたりが巨視的にみて旧町界の周辺だとは察せられますが、微視的にみてもかつての境目そのものと重なっている道がいくつかあります。境目というのは、何かニオイますね。これもまた、ボーダーラインツーリズムか。

 「高山町及其附近明細地図」1917(大正6)年からの抜粋です。
高山町及其附近明細地図 大正6年 抜粋
 町界(二点鎖線)を赤線でなぞりました。方位は11時くらいが北です(古地図にありがちなことで、真北が真上になっていない。この地図の場合、東西に通じる主だった道路に対して平行に描かれている)。
 町界自体がくねっていて、その一部(というか、主に)は水路に沿っていることがわかります。町界以外にも水路が通じていて、現在図で赤線(1936年地図では黄色の線)で示した“くねり道”のうち、町界線と重なっていないところも、それに沿っているようです。こんなことなら最初からこの地図だけ載せればよかったのに、まだるこしくてすみません。くねり道が水路のどの部分と重なり合うか、試していただければ幸いです。

 くねり道は水路の痕跡だった。という結論だけでは面白くないので、まだ続けます。この水路は、何か。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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