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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/06/19

永山武四郎の出自を探る

 6月1日ブログで、鹿児島の永山武四郎生誕地のことを記しました。その文末を次のように締めくくっています。
 幕末維新で活躍した薩摩藩士の多くは下級でしたが、永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか。
 私は、この原風景が永山のその後、とくに北海道での人生を方向づけたのではないかと深読みしてしまいました。


 永山武四郎の出自は、次のとおりです(末注①)。
 天保八年(一八三七)四月、薩摩国鹿児島郡薬師馬場町(鹿児島市)に、薩摩藩士永山清左衛門の四男として生まれ、永山喜八郎の養子となった。

 いろいろ文献の漁っているのですが、これ以上に詳しい記述には当たりません。たぶん鹿児島にはあるのでしょうが、残念ながら現地滞在中は時間切れで迫れませんでした。したがって前述の「永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか」は私の憶測です。西郷や大久保、黒田清隆などが下級武士の出であったことからの拡大解釈に近い。憶測の根拠となったのが、永山の生誕地です。先に記したように、鹿児島城下でも、かなりはずれと窺えました。

 「天保14年城下絵図」(鹿児島県立図書館蔵)からの抜粋です。
天保14年城下絵図 抜粋
 江戸時代後期の鹿児島(鶴丸)城下が描かれています。
 濃紅色の線で囲ったのが鶴丸城、橙色と青色の○で囲ったのが島津家一門や重臣、上級武士の屋敷、黄色の○が下級武士の家屋があったところです(末注②)。西郷や大久保、黒田が生まれ育ったのは、だいたい黄色の○のあたりです。一般に江戸時代の城下町は、家臣や町人はお城との位置関係で棲み分けられていたと思います。家臣も、ヒエラルキーによってエリアが異なっていたでしょう。

 永山の生地をこの絵図に当てはめてみました。絵図の左上、赤い矢印の先です。6月1日ブログで私は「城下というより、近郊農村にすら思えます」と記したのですが、ここも城下ではあったようです(末注③)。このあたりに屋敷を構えた武士が薩摩藩家臣のどの階層に当たるか確証を得たわけではないのですが、お城との位置関係からすると、重臣上級クラスとは想えなかったのです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.283
 注②:鹿児島まち歩き観光ステーション「鹿児島ぶらりまち歩き 7 近代日本を築き多くの人材を輩出した加治屋町」を参考にした。
 注③:鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年によると、「文政9年(1826)における鹿児島城下の人口は、武士16,794人に対し町人4,941人で、武士が77%を占めました。城下は上町(かんまち)、下町、西田町の3つに分けられ、町奉行の支配の下、各町に会所が置かれ、町人から町年寄(責任者)が任命されました」(p.9)。「上町」は前掲絵図で青い○で囲ったあたりであり、「西田町」は左上の茶色の線でなぞった道筋である。永山生家は、この「西田町」の一角と見える。現地の「永山武四郎誕生地」説明板(6月1日ブログ掲載画像)には、「西田村のこの地に生まれた」とある。
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2018/06/04

鹿児島中央駅前で、サッポロビールの祖を拝む

 「鹿児島 ぶらりまち歩き」で、ボランティアガイドさんに案内していただきました。 
若き薩摩の群像
 全部で16のコースが用意されている中で私が申し込んだのは「明治維新と近代日本を築いた偉人たちの誕生地を訪ねる」です。今回の鹿児島行で私には「薩摩出身の北海道“開拓功労者”を原風景を辿る」というテーマがありました(5月17日ブログ参照)。その観点で街を歩きました。
 
 冒頭画像は、鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」というモニュメントです。薩摩藩が1865(慶応元)年、国禁を犯して英国へ留学させた藩士たちが銅像になっています。1982(昭和57)年、鹿児島市の人口50万人を記念して建立されたものだそうです。
 
 この中にも北海道・札幌ゆかりの人がいることを教えていただきました。
若き薩摩の群像 村橋久成
 村橋久成(1842-1892)です。

 銘文には、留学生がどんな功績を遺したか、刻まれています。
若き薩摩の群像 銘文
 が、村橋の名はありません。
 村橋の名を世に知らしめたのは、田中和夫さんの『残響』1982年の存在が大きいと思います。銅像が建てられたのは、田中さんが村橋に光を当ててまだ間もない頃でした。

 その後新たに設けられたとおぼしき説明板には、全員の足跡が記されています。
若き薩摩の群像 説明板
 村橋については、次のように書かれています。
 ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国。のち成長 戦争函館役に出征。北海道の様式(ママ、洋式)農業の技術導入に力を尽くした。 

 昨日ブログで紹介した黒田と永山の会話にも、村橋が出てきます。
 村橋は1877(明治10)年当時で、開拓使の「権少書記官」(奏任官)、かたや黒田は長官(勅任官)でした。村橋も幹部ではありましたが、黒田との間には長官-大書記官-権大書記官-少書記官-権少書記官という職階差がありました(末注)。大臣と部課長くらいの違いでしょうか。
 一方、黒田と村橋の薩摩藩当時の家格はというと、黒田は4石の低級武士、村橋は先祖が主君の島津家にさかのぼる上級武士でした。御小姓与番頭(おこしょうぐみばんがしら)。薩摩藩には藩主以下、一門-一所持-一所持格-寄合-寄合並-小番-新番-御小姓-与力という家格の上下関係があり、村橋は「寄合並」、黒田は御小姓クラスでした。
 つまり、明治維新をはさんで村橋と黒田は上下関係が完全に逆転してしまったのです。黒田はかつての上役を自分の部下にしました。田中さんの小説の中では、黒田は2歳年下の村橋を「昇介どん」(村橋の幼名)と呼んでいます。

 昨日ブログで記した黒田の言葉を村橋がどう聞いたか、心中思うところはあったのでしょう。 

 注:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27、田中和夫『残響』1998年復刻版、p.57、西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63、pp.304-309(田中和夫編年譜)

2018/06/03

鹿児島市維新ふるさと館で、黒田清隆と永山武四郎に逢う

 鹿児島の「維新ふるさと館」です。
鹿児島 維新ふるさと館 外観
 西郷らを生んだ加治屋町の一角にあります。明治維新、日本の近代化で薩摩がいかに大きな役割を果したか、縷々展示されています。

 一隅にあるジオラマの一つで、北海道開拓がテーマとして取り上げられていました。
維新ふるさと館 ジオラマ 黒田 永山
 黒田清隆と永山武四郎が登場します。札幌のまちづくりを語らっていました。

(ナレーション)
 明治の初め、北海道の開発を目的に設置された北海道開拓使。その要職者の多くは薩摩藩の出身でした。開拓使長官・黒田清隆、屯田事務局長・永山武四郎をはじめ、たくさんの薩摩隼人が未開の地の開発に情熱を注いでいたのです。
 
 黒田:それでね、永山君、次はこのあたりの開発に取りかからねばと考えているのだが。
 永山:わかりました。ここに屯田兵村(とんでんへいむら)を作りましょう。黒田さん、鹿児島での経験を札幌に生かして、立派な街を作り上げましょう。
 黒田:もちろんだ。何年かあとには、我々が計画したとおりの街が完成するんだ。
 永山:でも、最初はどうなるものかと思いましたよ。なにせここの寒さときたら、鹿児島と同じ日本とは思えないほどですから(建物の外で風が吹く音)。
 黒田:君たちのおかげで、荒れ野原だった札幌も、なんとか形ができてきたよ。開拓使十年計画も、ようやく軌道に乗ってきた。
 永山:そういえばビール工場の建設がそろそろ始まるらしいですね。
 黒田:ビール工場か。地図で見ると、ちょうどこのあたりだな。
 永山:いよいよ、国産ビールの誕生ですね。
 黒田:すべては村橋久成君の努力のたまものだ。夜も寝ずに研究をしていたからな。
 永山:彼は薩摩藩の留学生としてイギリスへ行ったときにビールの味を覚えたようで、その味が忘れられくてどうしてももう一度飲みたいと、ずっと思い続けていたみたいですね。
 黒田:まさに、信念の男だな。
 永山:薩摩隼人ですから。
 黒田:ビール工場に、ぶどう酒工場。そうだ、それに学校も作らねばならん。屯田兵の諸君にも頑張ってもらわねばな。
 屯田兵:はい。
 黒田:永山君、我々の仕事はまだまだこれからだ。
 永山:はい(一礼)。
 

 永山が屯田事務局長となるのは1878(明治11)年ですが(末注)、二人の会話はその内容からすると1875(明治8)年、ジオラマの風景からすると冬の1~3月かと想われます。
維新ふるさと館 ジオラマ 札幌
 場所は開拓使の官舎でしょうか。当時だと、洋風の縦長窓が一般的だと思いますが、ジオラマでは横長の窓で、しかも内側には障子が入っています。屯田兵村、1875(明治8)年の初期だとすると、琴似のそれか。ストーブが備えられていることからして、兵屋ではない。中隊本部(週番所)か。新琴似の中隊本部は縦長窓ですが、琴似はどうだったか。

 いや、…。
維新ふるさと館 ジオラマ 札幌 窓の外の風景
 窓の外に、白っぽい洋風の建物が見えます(黄色の矢印の先)。開拓使本庁舎でしょうか。後景に山並みが写っていることからすると、東側から本庁舎の正面を見た向きになりますか。距離的には本庁舎敷地内のようでもありますが、敷地内は果樹園などが設けられていたので、その外の「勅奏邸」あたりか。しかし、勅奏邸は写真(北大附属図書館蔵)で見ると、洋風縦長窓です。内部に置かれている質素なモノからしても、勅奏邸とは思いがたい。

 1840(天保11)年生まれの黒田が1837(天保8)年生まれで3歳年上の永山を「君」づけで呼ぶのも、開拓使での身分の上下関係によるのでしょう。薩摩藩当時、黒田は下級武士の出自でした。永山の家禄が黒田より上であればなかなか君づけはできなかったかもしれませんが、永山も低かったのかもしれません。 

 屯田兵村を語るくだりで、「鹿児島での経験を札幌に生かして、立派な街を作り上げましょう」と永山は言っています。やはり。

 見ていて興味の尽きないジオラマでした。一施設の一ジオラマだけでじっくり立ち止まってしまうので、時間はなんぼあっても足りません。

注:『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.64

2018/06/02

薩摩の外城

 鹿児島県歴史資料センター黎明館で展示されていた模型です。
鹿児島 黎明館 出水麓 外城 模型 
 県下の出水(いずみ)というところの藩政期の街並みを表現しています。薩摩藩では江戸時代、藩内の要衝各地に「外城」というミニ城下町を設け、武士を配し、外敵に備えていました。「外城」については、次のように説明されます(末注①)。

 近世の薩摩藩は,外城制度・門割制度という独特の軍事・行政を行う仕組みを作り上げて藩の体制を固めた。外城制度は鹿児島城下のほかに113の外城(郷)を設け,武士を土着させ,地頭がこれを統轄して,軍事・行政を行う制度であった。麓に住む武士(郷士)は平時は農耕によって自活,戦いが起きた時には,地頭の指揮下に動員される仕組みになっていた。
 
 これって、屯田兵村でないですか。
 永山武四郎といえば「開拓使にあって屯田兵制度の創設と育成につとめ」た(末注②)中心人物です。彼が北海道の各地に設けた兵村の原風景は、もしかしたら薩摩の外城にあったのではなかろうか。
 
 注①:黎明館サイト ⇒ http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/kinsei/hansei/index.html
 注②:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.283

2018/06/01

鹿児島で永山武四郎の生誕地を拝む

 永山武四郎の生誕地です。
永山武四郎誕生地
 矢印を付けた先に、説明看板が立っています。
 住宅地の一角ですが、住宅は永山とは関係ないようです。
 
 説明看板の前に置かれている石は安山岩のように見えます。
永山武四郎誕生地 説明看板
 看板は鹿児島市が設置したもので、記述は次のとおりです。

 永山武四郎誕生地
 「屯田兵の父」とされる永山武四郎は、天保8(1837)年に西田村のこの地に生まれた。
 明治維新のとき幕府側の会津藩との戦いで名をあげ、明治5(1872)年9月に北海道に赴任し、北海道の開拓に一生を捧げた。
 とくに、屯田兵制度は永山の発案で、開拓次官黒田清隆(のち第2代総理大臣)が政府に建言し、実施された。西南戦争には屯田兵を指揮し、人吉で薩軍との戦いに参加した。明治21(1888)年には第2代北海道長官、翌22(1889)年屯田兵長官、明治29(1896)年屯田兵が廃止され第七師団が置かれると、その初代師団長となった。明治36(1903)年に貴族院議員となったが、翌年病のため亡くなった。(67歳)


 この場所を現在図で示しましょう(原図は国土地理院サイトから)。
鹿児島市 現在図 永山武四郎生誕地
 生誕地は赤いを付けたところです(冒頭画像は東から西を眺めたもの)。現在の町名で「鹿児島市薬師2丁目7番」に当たります。
 
 鹿児島(鶴丸)城下における位置関係を見ておきます(末注①)。
 北東部、濃紅色の線で囲ったところが鶴丸城です。鶴丸城は北に城山、東に海、西から南にかけては甲突川という地勢下に立地しています。
 城の南東側の「山下町」から海辺にかけては、藩の役所があったところです。南側の(東)「千石町」には島津家の分家や重臣の屋敷があり、その南方の加治屋町は下級武士の住まいがありました。「加治屋町」は西郷ほか、大山巌、村田新八、東郷平八郎、山本権兵衛などなど幕末維新から明治にかけての歴史上の人物を輩出しています。大久保や黒田清隆もこの附近です。黒田の生誕地は黄色ので示しました。

 こうして見ると、永山の出身地は城下でもかなりはずれのように見受けられます。自然的外堀ともいえる甲突川のさらに外側です。ちなみに鹿児島市の現在の中心駅たる鹿児島中央駅も川の西側ですが、古い城下町では概して鉄道駅は中心部から離れたところに設けられています。
 実際、江戸時代の城下絵図では、このあたりははじっこに描かれています(末注②)。城下というより、近郊農村にすら思えます。前述で引用した看板の説明文にある「西田村」という地名も、それを窺わせます。幕末維新で活躍した薩摩藩士の多くは下級でしたが、永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか。

 私は、この原風景が永山のその後、とくに北海道での人生を方向づけたのではないかと深読みしてしまいました。

 注①:「鹿児島ぶらり まち歩き」2018年1月改訂版による。
 注②:鹿児島県立図書館蔵「天保14年城下絵図」による。

2018/05/31

高く聳ゆる大久保利通

 鹿児島の大久保利通像です。
大久保利通像
 ボランティアガイドさんから、台座が高いのは像にイタズラされるのを防ぐためだとお聞きしました。
 
 建立されたのは1979(昭和54)年、暗殺された1878(明治11)年から百年を記念してのことです。市内の西郷像は1937(昭和12)年、自刃から60年で建てられています。遅れること40年余、それでもなお「西郷を討った敵役」という怨念が、台座を高くした。 

 ガイドさんから、背面も見るように促されました。 
大久保利通像 背面
 像の足元に、何やら小さく突起しています。

 大久保が東京・紀尾井町で襲撃されたときに乗っていた馬車馬と馭者だそうです。
大久保利通像 足元
 大久保とともに殺された馭者と馬を悼んで、一緒に彫られたと聞きました。

 一人で見るだけではおそらく見落としてしまう細部や挿話でした。

2018/05/28

鹿児島で見た北海道

 鹿児島行の本来のテーマである軟石のことや薩摩藩出身の北海道“開拓功労者”について記したいと思っているのですが、なかなか果たせません。周辺部分の話ばっかり綴っています。

 鹿児島中央駅の地下のスーパーで見かけた北海道です。
城山ストアー わかさや本舗
 札幌市西区宮の沢のお菓子屋さんの商品が売られていました。
 宮の沢といっても、「白い○人」で全国的に有名なところではありません。ホワイトチョコレートではなく「ミルククリームサンド」です。商品の下に「バターリッチシリーズ」という札が貼られているのですが、これは違いますね。バターリッチのほうは、これまた全国的に有名な帯広のお菓子屋さんの「○セイバターサンド」に似た仕様です。この隣に置いてありました。「北の菓子百選」と書かれていますが、「百選」はどうやらこの商品を作っている会社自身の選定のようです。菓子の袋に、牧歌的な風景が描かれています。広々とした牧草地にホルスタイン、腰折れ屋根の牛舎とサイロ。“内地”で、かように北海道が刷り込まれるのですね。 
 鹿児島では、本品が北海道の右代表でした。よっぽど土産に買って帰ろうかとも思いましたが、わざわざ鹿児島で札幌の商品を買うのも何だなと思い直してやめました。

 刷り込みといえば、こちらも目を惹きました。
デーリィ牛乳
 デーリィ牛乳。

 南九州の牛乳なのですが、パッケージはやはり北海道的な絵柄です。
デーリィ牛乳 絵柄
 腰折れ屋根の牛舎にサイロというのは九州の牧場でも見られる風景なのだろうか。サイロは組積造のように描かれています。

2018/05/25

鹿児島市史に関する私の重大な無知

 鹿児島市の中心部には、近代洋風建築が数多く見られます。 
 明治初期の擬洋風から、大正、昭和戦前期にかけての様式主義、モダニズムと、近代建築史をたどることができます。街を歩いてこれらの建物を眺めながら、二つのことに気づきました。

 それを記す前に、まず中心部に遺る建物を建築年順に紹介しましょう。 

 旧県立興業館。
旧興業館
 1883(明治16)年築。

 山形屋(やまかたや)。
山形屋
 1916(大正5)年築(ただし現建物の外観は復原)。

 旧鹿児島県庁舎(県政記念館)。
県政記念館
 1925(大正14)年築。

 鹿児島県立博物館。
県立博物館
 1927(昭和2)年。

 旧鹿児島市公会堂(現中央公民館)。
中央公民館
 1927(昭和2)年築。

 教育会館。
教育会館
 1931(昭和6)年。

 旧第一高等女学校学校校舎(現鹿児島中央高校校舎)。
鹿児島中央高校
 1935(昭和10)年築。
 
 鹿児島市役所。
鹿児島市役所
 1937(昭和12)年築。

 旧鹿児島無尽(現南日本銀行)。
南日本銀行
 1937(昭和12)年築。

 ほとんどが県や市の公共建築、さらには銀行やデパートという公共的建築です。私はさほど各地を見て歩いているわけではありませんが、県庁所在地の規模の都市としては平均を上回る数ではないかと思います。
 私が気づいたのは、「そのわりには…」ということです。そのわりには、民間の小規模な歴史的建物がほとんど見当たらない(末注①)。正味三日間の滞在ですから、もちろん見落とした可能性も高いのですが、目につかなかったのです。
 
 例えば、海沿い近くに、こんな建物があります。
鹿児島 豊産業
 ボランティアガイドを申し込んだ「まち歩き観光ステーション」で教えていただきました。北海道でいえば小樽などで見かけそうな佳品です。
 この種の民間小建築が、なぜ少ないか。恥ずかしいことに私は、重大な史実に無知でした。鹿児島市は太平洋戦争時、米軍の空襲で当時の市街地の実に93%!を焼失していたのです(末注②)。遺ったのは結局、被害が比較的少なくてすんだ、あるいは修復できた公共のRC造に限られた、ということではないか。

 さて、もう一つ気づいたのは、前掲の建物には、由来や特徴などを記した説明表示がほとんど見当たらない、ということです。冒頭の旧県立興業館には説明看板が立っていましたが、ほかでは見つけられませんでした。せいぜい登録文化財のプレート程度です。いや、それが悪いということではありません。市中心部のいたるところに建てられている維新功労者の「誕生地」や「居宅跡」の碑や説明板、銅像などと比べて、実に対照的です。  

注①:今回の旅の主テーマである石造建築は別とする。これについては、おって綴る。
注②:『鹿児島市史Ⅱ』1970年、pp.776-779、及び鹿児島市サイト ⇒ http://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/kurashi/hewa/sensai/jokyo-1.html

2018/05/24

北辰斜にさすところ

 「第七高等学校造士館跡」碑です。
第七高等学校造士館跡碑
 「史跡 鶴丸城跡」ですが、鹿児島城(鶴丸城)の本丸跡には明治になって、第七高等学校が置かれました(末注)。校舎は第二次大戦の空襲で焼失しますが、戦後は後身の鹿児島大学キャンパスとなりました。その大学も移転し、現在は鹿児島県歴史資料センター(黎明館)があります。
 
 その庭先に、「七高生久遠の碑」という像が建てられています。
七高生久遠の碑
 旧制高校を経験した方はもはや絶滅危惧(大変失礼)に近い存在です。OBの人たちの青春に寄せるノスタルジーは独特に強く、学校があったところにはたいていこの種のモニュメントが建立されています。
 
 さもありなん、旧制官立高等学校の難関たるや、いまの大学の比ではありませんでした。その学生数の合計は帝国大学の定員の合計とほぼ同じだったといいます。戦前、帝国大学へ進んだ人は、同世代の人口比にして1%にも満たなかったのではないでしょうか。彼らは、世間一般とは隔絶した自由と自治の世界で、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌していました。
 
 だいたい旧制高校は古い城下町とセットになっています。 
四高記念碑
 北陸・金沢の「四高記念碑」です(2014年5月撮影)。私は高校時代、井上靖の『北の海』を読み、金沢の街や旧制第四高等学校に憧れました。ノスタルジーが刷り込まれてしまったのです。
 画像の記念碑背後に写る煉瓦の旧校舎には、四高の遺物がいろいろ展示されていました。金沢は大きな戦災に遭わなかったので古い町並みが遺っています。金沢大学にも行きたかった。 

 鹿児島でこのたび七高造士館の遺跡を見て、「ああ、ここも同じだなあ」と想いました。札幌に帰ってきて今日、とある講演を聴き、この学校が札幌とゆかりがあることを初めて知りました。初代校長が札幌農学校の出身だったのです。宮部金吾や内村鑑三、新渡戸稲造と同期の岩崎行親という人です。昨日ブログで伝えた鶴丸高校の前身の旧制中学の校長も務めました。

 そもそも札幌農学校は黒田清隆の肝煎りで作られ、初代校長の調所広丈は薩摩藩の出身ですから、因果は巡る糸車といったところでしょうか。薩摩の精神風土にクラーク仕込みのピュリタニズムが札幌で注入されて、それが鹿児島にフィードバックされた。

 注:旧制高校で、七高だけが旧藩校由来の名前があとに付く。

2018/05/23

鹿児島の高校生の“通過儀礼”

 鹿児島に着いた翌日(5月18日)の早朝、ホテルの界隈を散策しました。
 
 永山武四郎の生誕地を訪ねる途中で見かけた県立高校です。
鶴丸高校 ①
 鶴丸高校といいます。

 来年で「創立125周年」らしい。
鶴丸高校 ②
 たしか前身は旧制鹿児島第一中学校だと思いましたが、旧制第一高等女学校をも母体にしているようです。札幌で譬えれば、南高と北高を合体させたような学校になります。

 外構に書道部の生徒の作品が展示されていました。
鶴丸高校 ③
 ほとんどが西郷の遺訓を題材にしていて、私は「ああ、やっぱりここは西郷なんだなあ」などと陳腐な感想を抱いて鑑賞させてもらいました。

 この学校をブログで取り上げたのは、あることに気づいたからです。私がここを通りかかったのは朝7時前だったのですが、朝練なのか補習なのか、少なからぬ生徒がすでに登校していました。その多くが、校門を入るとき一礼して校舎に向かうのです。これは、私には驚きでした。見ていたら、おおまかに8割くらいの生徒がそうしていたでしょうか。
 高校生が日々の登校で、校舎に向かって頭を下げる。私の出身校(愛知県)ではそんな風習はありませんでした。おそらく他校でも、そんなことをしていれば必ずや話題になったと思うのですが、聞いたことはありませんでした。「鹿児島県下一の進学校ともなると、スゴイな」などとまた、陳腐に思ったものです。

 余談ながら私の高校受験当時、愛知県では「学校群」という入試制度がありました(末注①)。私が受験した学校群は、一方は前述の鶴丸のような伝統校、もう一方は「まあ、どこにでもある」学校の、二校の組合せでした。いわば前者は“特上”、後者は“並”です。私は後者の“並”のほうに「回された」のですが(末注②)、登校時に校門で一礼するという通過儀式は、入学した後者のみならず、入学しそこなった前者のほうでも、ありませんでした。

 翌々日(5月20日)、まち歩きツアーに参加したとき、ボランティアガイドさんに「鶴丸の生徒さんはスゴイですねえ」とお話ししたら、「いや、それは鶴丸に限ったことではありません。どこの高校でも、そうしてます」と言われました。げに、文化というものはところ変われば変わるものです。いや、私の見聞が狭いだけなのか。北海道の高校でも、やっているのでしょうか。

 注①:学校群という“特異”な入試制度は、経験のない地域では理解しづらいかもしれない。要は、合格者の入学先をガラガラポンで“特上”校と“並”校のいずれかに振り分ける仕組みで、“学校間格差”をなくすという目的であった。しかし、愛知県ではその後この制度は廃止され、結局また、特上-上-並が復活した。
 注②:当時、学校群の合格発表では、“特上”に振り分けられて喜ぶ合格者と、“並”に「回されて」落胆する合格者という光景が見られた(入試倍率は1.0ン倍で、不合格者は極めて少なかった)。「合格しても、希望した学校に行けない」ということが、制度廃止の一因になったのであろう。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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