札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
泰和踏切跡と電修場踏切跡の間
4月9日ブログを私は「二十四軒は、琴似発寒川扇状地の扇端から豊平川扇状地の西端にかけて位置しているようです」と結びました。
1961(昭和36)年空中写真を再掲します。

黄色の○が泰和踏切(4月5日ブログ)、橙色の○が電修場踏切(4月6日ブログ)、赤い◯が電修場です。電修場の跡地(現ポリテクセンター)からは、土偶をはじめとする縄文時代の遺物が発掘されました(4月9日ブログ)。
この空中写真でもう一つ気になった箇所があります。両踏切の間です。黄色の矢印⇓を付けた先を川が流れています。この川はどこから流れてきているのでしょうか。
空中写真を遡ります。

1948(昭和23)年写真(米軍撮影)を見ると、川は函館本線の南西側にミナモトを発しているようです。琴似町の市街地(つまりかつての琴似屯田兵村)の東方に当たります。
1916(大正5)年版の地形図です。

川は、「琴似村」と書かれた「琴」と「似」の字の間から発し、函館本線をくぐって競馬場の西側で琴似川に合流しています。
この川跡を4月9日ブログに載せた現在図(色別標高図)に当てはめます(標高10m未満から5mごと35m以上まで7色段彩)。

赤い実線でなぞりました。赤い矢印の先は土偶が見つかった札幌市N30遺跡(電修場跡地、現ポリテクセンター)です。
川はもともとはさらに上流部があったのかもしれませんが、古地形図や古空中写真を見る限りは現在の二十四軒から発しています。町名でいうと二十四軒4条2丁目、3丁目あたりです。琴似発寒川扇状地の地形からすると、N30遺跡とほぼ同じ扇(同心半円)上になります。ここも扇端ではないでしょうか。この川は扇状地の湧泉河川だったとにらみました。
函館本線の北東側、西区八軒2条東5丁目です。

川跡の現在地を下ると、この道に当たりました。
1961(昭和36)年空中写真を再掲します。

黄色の○が泰和踏切(4月5日ブログ)、橙色の○が電修場踏切(4月6日ブログ)、赤い◯が電修場です。電修場の跡地(現ポリテクセンター)からは、土偶をはじめとする縄文時代の遺物が発掘されました(4月9日ブログ)。
この空中写真でもう一つ気になった箇所があります。両踏切の間です。黄色の矢印⇓を付けた先を川が流れています。この川はどこから流れてきているのでしょうか。
空中写真を遡ります。

1948(昭和23)年写真(米軍撮影)を見ると、川は函館本線の南西側にミナモトを発しているようです。琴似町の市街地(つまりかつての琴似屯田兵村)の東方に当たります。
1916(大正5)年版の地形図です。

川は、「琴似村」と書かれた「琴」と「似」の字の間から発し、函館本線をくぐって競馬場の西側で琴似川に合流しています。
この川跡を4月9日ブログに載せた現在図(色別標高図)に当てはめます(標高10m未満から5mごと35m以上まで7色段彩)。

赤い実線でなぞりました。赤い矢印の先は土偶が見つかった札幌市N30遺跡(電修場跡地、現ポリテクセンター)です。
川はもともとはさらに上流部があったのかもしれませんが、古地形図や古空中写真を見る限りは現在の二十四軒から発しています。町名でいうと二十四軒4条2丁目、3丁目あたりです。琴似発寒川扇状地の地形からすると、N30遺跡とほぼ同じ扇(同心半円)上になります。ここも扇端ではないでしょうか。この川は扇状地の湧泉河川だったとにらみました。
函館本線の北東側、西区八軒2条東5丁目です。

川跡の現在地を下ると、この道に当たりました。
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泰和踏切と日の丸冷蔵の間に遺る物件
昨日ブログの続きです。と思ったのですが、その前にまたまた寄り道することにしました。いただいたコメントに触発されてしまったのです。話を帰納的にまとめていくための材料の一つとして、関係なくはありません。
コメントは4月8日ブログに載せた1961(昭和36)年空中写真に関して寄せられました。

黄色の○で囲ったのが泰和踏切(4月5日ブログ参照)、橙色の□で囲ったのが日の丸冷蔵(4月8日ブログ参照)です。泰和踏切と日の丸冷蔵の間に、鉄道の引込線が伸びています。これが何か? です。私は1969(昭和44)年住宅地図を見て答えを知ってしまったのですが、上掲空中写真からも察せられるかもしれません。
引込線があった場所の現在です。

給油スタンドがあります。北菱産業埠頭という会社です。
ここには、石炭を扱う幾つかの会社が並んでいました。上掲の北菱産業もその一つです。現在は灯油配送センターになっています(末注)。ここに、かつては灯油ではなく石炭が蓄えられていました。前掲1961年空中写真をあらためて見ると、黒くぽこぽこ写っているのは石炭の小山だったのですね。
石炭はたぶん空知などの産炭地から運ばれてきたのでしょうから、札幌駅方面(画像上は右方)からの引込線で立地したのだと思います。曲線半径からすると、この場所がちょうどよかったのかもしれません。
空中写真には、中央卸売市場への引込線も写っています。貯炭場への引込線とは対照(対称)的に、南東(画像上は右下)へ通じている鉄路です。これは私のあてずっぽうですが、海産物を扱う市場という性格上、前述の貯炭場引込線とは反対に小樽方面からの曲線になったのではないでしょうか。ちなみに、黄色の○の泰和踏切のすぐ南側にある泰和車両の工場にも、よく見ると引込線が通じています。
上掲給油スタンドの南西側です。

貯炭場の跡地に、日本赤十字の大きな施設が建っています。血液センターだそうです。この画像を撮ったときは引込線のことは意識してませんでした。手前の電柱銘の「日の丸」●と赤十字✚という記号的取り合わせに感じ入ってしまったのです。しかも「血液」センターに、縁語的な連想も抱いてしまいました。寄り道は寄り道を呼び、先に進めません。
位置関係を現在図に示します。

北から、黄色の○が泰和踏切跡、黄色の小さな■が株式会社泰和の社屋、赤い□の大きい方が日赤、その北東側(画像上、右上)の小さな□が北菱産業埠頭の社屋、橙色の○が日の丸冷蔵の跡地です。赤い矢印を付けた先が引込線の“付け根”跡に当たります。
付け根の跡地です。

鉄柵が道路に対してナナメに伸びています。ここが引込線の跡だと思うと、このナナメ感が気になってしまいました。
そう思うとさらに、手前のトラ縞の柱物件も気になります。

気にならしめるゆえんは、錆び具合や中途半端な(と私には見える)立ち位置でしょうか。画像には写ってませんが、トラ縞柱物件は左方にもう一本、立っています。この物件は何のために立っているのだろうか。
冒頭の1961年空中写真で、引込線の付け根のあたりを拡大しました。

トラ縞物件が立つ位置は 赤い矢印を付けた先です。近くにうっすらと白い筋が鉄路を横切っています。当時、踏切があったのかもしれません。現在の環状通はまだ通じておらず、画像には琴似川が写っています。
前にも鉄路跡で中途半端に立つトラ縞物件を見かけました(2018.10.22ブログ参照)。前掲トラ縞は引込線の痕跡だろうか。妄想が妄想を呼びます。
注:同社サイトによる。→ http://www.northdia.co.jp/
コメントは4月8日ブログに載せた1961(昭和36)年空中写真に関して寄せられました。

黄色の○で囲ったのが泰和踏切(4月5日ブログ参照)、橙色の□で囲ったのが日の丸冷蔵(4月8日ブログ参照)です。泰和踏切と日の丸冷蔵の間に、鉄道の引込線が伸びています。これが何か? です。私は1969(昭和44)年住宅地図を見て答えを知ってしまったのですが、上掲空中写真からも察せられるかもしれません。
引込線があった場所の現在です。

給油スタンドがあります。北菱産業埠頭という会社です。
ここには、石炭を扱う幾つかの会社が並んでいました。上掲の北菱産業もその一つです。現在は灯油配送センターになっています(末注)。ここに、かつては灯油ではなく石炭が蓄えられていました。前掲1961年空中写真をあらためて見ると、黒くぽこぽこ写っているのは石炭の小山だったのですね。
石炭はたぶん空知などの産炭地から運ばれてきたのでしょうから、札幌駅方面(画像上は右方)からの引込線で立地したのだと思います。曲線半径からすると、この場所がちょうどよかったのかもしれません。
空中写真には、中央卸売市場への引込線も写っています。貯炭場への引込線とは対照(対称)的に、南東(画像上は右下)へ通じている鉄路です。これは私のあてずっぽうですが、海産物を扱う市場という性格上、前述の貯炭場引込線とは反対に小樽方面からの曲線になったのではないでしょうか。ちなみに、黄色の○の泰和踏切のすぐ南側にある泰和車両の工場にも、よく見ると引込線が通じています。
上掲給油スタンドの南西側です。

貯炭場の跡地に、日本赤十字の大きな施設が建っています。血液センターだそうです。この画像を撮ったときは引込線のことは意識してませんでした。手前の電柱銘の「日の丸」●と赤十字✚という記号的取り合わせに感じ入ってしまったのです。しかも「血液」センターに、縁語的な連想も抱いてしまいました。寄り道は寄り道を呼び、先に進めません。
位置関係を現在図に示します。

北から、黄色の○が泰和踏切跡、黄色の小さな■が株式会社泰和の社屋、赤い□の大きい方が日赤、その北東側(画像上、右上)の小さな□が北菱産業埠頭の社屋、橙色の○が日の丸冷蔵の跡地です。赤い矢印を付けた先が引込線の“付け根”跡に当たります。
付け根の跡地です。

鉄柵が道路に対してナナメに伸びています。ここが引込線の跡だと思うと、このナナメ感が気になってしまいました。
そう思うとさらに、手前のトラ縞の柱物件も気になります。

気にならしめるゆえんは、錆び具合や中途半端な(と私には見える)立ち位置でしょうか。画像には写ってませんが、トラ縞柱物件は左方にもう一本、立っています。この物件は何のために立っているのだろうか。
冒頭の1961年空中写真で、引込線の付け根のあたりを拡大しました。

トラ縞物件が立つ位置は 赤い矢印を付けた先です。近くにうっすらと白い筋が鉄路を横切っています。当時、踏切があったのかもしれません。現在の環状通はまだ通じておらず、画像には琴似川が写っています。
前にも鉄路跡で中途半端に立つトラ縞物件を見かけました(2018.10.22ブログ参照)。前掲トラ縞は引込線の痕跡だろうか。妄想が妄想を呼びます。
注:同社サイトによる。→ http://www.northdia.co.jp/
真理は名残物件に宿る。
2月に下野幌(厚別区)を逍遥してから脇見、寄り道を重ねて、二十四軒(西区)に飛びました。キーワードを連ねて流れを振り返ります。
下野幌→川跡・古道→架道橋→名残物件→樋門(函)・踏切・架道橋・電柱
キーワードのなかんづくカナメになるのは“名残物件”でしょうか。
ここで今度は時代を飛びます。

ポリテクセンター(二十四軒4条1丁目)に展示されている土偶です。2,200年前、縄文時代晩期の作といいます。この土偶が、これまで綴ってきた踏切や架道橋、電柱とどうつながるのか。
まず、上掲の土偶が見つかった場所を現在図(色別標高図)に示します(標高10m未満から5mごと35m以上まで7色段彩)。

見つかった地点は赤い矢印を付けた先です。札幌市N30遺跡といいます。
この図からどのようなことが読み取れるでしょうか。私の独断を開陳します。
この遺跡が位置しているのは、琴似発寒川扇状地の扇端ではないだろうか。この地点の標高は約15mです。この標高は豊平川扇状地の札幌面でいうと、JR札幌駅のやや北方に当たります。札幌面ではおおむねJR函館本線が扇端です。札幌駅が豊平川扇状地の扇端であるのに符合するかのように、琴似発寒川扇状地ではJR琴似駅がやはり扇端に位置しているように見えます。本件N30遺跡は琴似駅のすぐ近くで発掘されました。
上掲図を眺めてもう一つ気づいたのは、扇状地の“境目”です。豊平川扇状地札幌面と琴似発寒川扇状地の境目が、地形的には凹んでいます(末注①)。その凹みに沿うように、中央区と西区の区界が分かたれています(上掲地図上の二点鎖線)。この区界のもとになっているのは、旧札幌市と琴似町のかつての境界です(末注②)。豊平川扇状地札幌面に旧札幌市の中心部たる札幌本府が置かれ、琴似発寒川扇状地に琴似屯田兵村が開かれました。先日来逍遥してきた二十四軒は、琴似発寒川扇状地の扇端から豊平川扇状地の西端にかけて位置しているようです。
注①:両扇状地の間には円山川や琴似川が流れ、これらの川も小扇状地を作っているように見える。とすると、凹みは正確には小扇状地と琴似発寒川扇状地の境目になる。
注②:現在の区界と旧市町界は、完全には同じではない。
下野幌→川跡・古道→架道橋→名残物件→樋門(函)・踏切・架道橋・電柱
キーワードのなかんづくカナメになるのは“名残物件”でしょうか。
ここで今度は時代を飛びます。

ポリテクセンター(二十四軒4条1丁目)に展示されている土偶です。2,200年前、縄文時代晩期の作といいます。この土偶が、これまで綴ってきた踏切や架道橋、電柱とどうつながるのか。
まず、上掲の土偶が見つかった場所を現在図(色別標高図)に示します(標高10m未満から5mごと35m以上まで7色段彩)。

見つかった地点は赤い矢印を付けた先です。札幌市N30遺跡といいます。
この図からどのようなことが読み取れるでしょうか。私の独断を開陳します。
この遺跡が位置しているのは、琴似発寒川扇状地の扇端ではないだろうか。この地点の標高は約15mです。この標高は豊平川扇状地の札幌面でいうと、JR札幌駅のやや北方に当たります。札幌面ではおおむねJR函館本線が扇端です。札幌駅が豊平川扇状地の扇端であるのに符合するかのように、琴似発寒川扇状地ではJR琴似駅がやはり扇端に位置しているように見えます。本件N30遺跡は琴似駅のすぐ近くで発掘されました。
上掲図を眺めてもう一つ気づいたのは、扇状地の“境目”です。豊平川扇状地札幌面と琴似発寒川扇状地の境目が、地形的には凹んでいます(末注①)。その凹みに沿うように、中央区と西区の区界が分かたれています(上掲地図上の二点鎖線)。この区界のもとになっているのは、旧札幌市と琴似町のかつての境界です(末注②)。豊平川扇状地札幌面に旧札幌市の中心部たる札幌本府が置かれ、琴似発寒川扇状地に琴似屯田兵村が開かれました。先日来逍遥してきた二十四軒は、琴似発寒川扇状地の扇端から豊平川扇状地の西端にかけて位置しているようです。
注①:両扇状地の間には円山川や琴似川が流れ、これらの川も小扇状地を作っているように見える。とすると、凹みは正確には小扇状地と琴似発寒川扇状地の境目になる。
注②:現在の区界と旧市町界は、完全には同じではない。
電柱銘「日の丸幹」顛末
4月5日ブログの後段に記した電柱銘「日の丸幹」の続報です。
まず、「日の丸幹」の所在地を私が確認した限りで現在図に示します。

赤くなぞった一帯です。町名でいうと、西区二十四軒1条1~3丁目、同2条1~3丁目、同3条1丁目、同4条1丁目に当たります。
結論的には、「日の丸」の由来はこの会社でした。

二十四軒1条2丁目にある「北海道日水」です。
『住宅地図 札幌市 北部(その一)』1969年を見ると、この会社の現在地の近くに「日本水産株式会社 日の丸冷蔵株式会社」と書かれています。
下掲は『日本水産50年史』1961年折込みの「日本水産株式会社沿革図」からの抜粋です。

「系列会社」として、「札幌日の丸冷蔵KK」が載っています。同書によると所在地は「札幌市琴似町24軒21の17」(原文ママ)です。
一方、北海道日水は1920(大正9)年設立、1953(昭和28)年に日本水産の関連会社となり、1995(平成7)年に日の丸冷蔵と合併しました。2008(平成20)年に日本水産札幌支社を吸収して現在に至ります。日本水産が100%株主のグループ会社です(末注①)。
前掲現在図と同じ一帯を、空中写真1961(昭和36)年で俯瞰します。

日本水産と日の丸冷蔵の所在地を赤い□で囲みました。現在の町名は二十四軒1条1丁目です。
前掲「北海道日水」の所在地(二十四軒1条2丁目)を当てはめると、橙色の□で囲ったところになります。前述住宅地図1969年に照らすと、この当時はまだここにはありません。写っているのは別の会社とみられます(末注②)。同社サイトによれば、ここに社屋ができたのは1980年代です。
ところで、上掲1961年空中写真には小さく黄色の□も囲みました。赤い□で囲った日本水産・日の丸冷蔵の東隣(画像上は右側)です。
その場所の現在の風景を写しました。

今は黄色の矢印で示した建物が建っています。「石田ビル」という名前です。
前述1969年住宅地図によると、かつてこの場所には「日の丸市場」がありました。日の丸冷蔵の隣に、日の丸市場です。市場に入っていた店の名前を以下、住宅地図から引用します(太字)。
ハム・ソーセージ 石田商店
揚物 天満屋
水産物 篠崎商店
〃 ?池商店 (?は解読困難)
海産物 藤水
日の丸冷蔵の門前に市を成していたのでしょう。この市場のさらに東隣は、環状通をはさんで中央卸売市場です。
札幌市立二十四軒小学校『郷土誌 二十四軒』1978年の「産業のようす」の一節を以下、引用します(pp.20-21、太字)。
市場に近い一条一丁目には、昭和三十四年にたてられた、日の丸冷蔵や、昭和四十三年にたてられた、ぎょれんの冷蔵倉庫があります。ここには、水産物などがあずけられています。(中略)
このほか、チラシや紙器の印刷をしている凸版印刷や、めん類を作っている琴似製めんの工場、函館本線沿いには、泰和車両や巴組鉄工所など、たくさんの工場があります。
電柱に名を遺した「日の丸」は踏切の「泰和」とともに、二十四軒の土地柄を伝えるランドマークだったのです。
4月5日ブログに載せた北5条東1丁目の「日の丸興発」は、関係ありませんでした(末注③)。
注①:「株式会社北海道日水」ウエブサイト「沿革」ページによる。
→ https://www.do-nissui.co.jp/company/history/
注②:前述住宅地図1969年には、現在の北海道日水の場所は「日魯漁業株式会社札幌支社」と書かれている。
注③:「日の丸冷蔵」は日本水産の関連会社としての命名を想わせる。日の丸興発とは「関係ありません」と断定したものの、前身たる日の丸農場とまったく関係がないと言い切れるか。
まず、「日の丸幹」の所在地を私が確認した限りで現在図に示します。

赤くなぞった一帯です。町名でいうと、西区二十四軒1条1~3丁目、同2条1~3丁目、同3条1丁目、同4条1丁目に当たります。
結論的には、「日の丸」の由来はこの会社でした。

二十四軒1条2丁目にある「北海道日水」です。
『住宅地図 札幌市 北部(その一)』1969年を見ると、この会社の現在地の近くに「日本水産株式会社 日の丸冷蔵株式会社」と書かれています。
下掲は『日本水産50年史』1961年折込みの「日本水産株式会社沿革図」からの抜粋です。

「系列会社」として、「札幌日の丸冷蔵KK」が載っています。同書によると所在地は「札幌市琴似町24軒21の17」(原文ママ)です。
一方、北海道日水は1920(大正9)年設立、1953(昭和28)年に日本水産の関連会社となり、1995(平成7)年に日の丸冷蔵と合併しました。2008(平成20)年に日本水産札幌支社を吸収して現在に至ります。日本水産が100%株主のグループ会社です(末注①)。
前掲現在図と同じ一帯を、空中写真1961(昭和36)年で俯瞰します。

日本水産と日の丸冷蔵の所在地を赤い□で囲みました。現在の町名は二十四軒1条1丁目です。
前掲「北海道日水」の所在地(二十四軒1条2丁目)を当てはめると、橙色の□で囲ったところになります。前述住宅地図1969年に照らすと、この当時はまだここにはありません。写っているのは別の会社とみられます(末注②)。同社サイトによれば、ここに社屋ができたのは1980年代です。
ところで、上掲1961年空中写真には小さく黄色の□も囲みました。赤い□で囲った日本水産・日の丸冷蔵の東隣(画像上は右側)です。
その場所の現在の風景を写しました。

今は黄色の矢印で示した建物が建っています。「石田ビル」という名前です。
前述1969年住宅地図によると、かつてこの場所には「日の丸市場」がありました。日の丸冷蔵の隣に、日の丸市場です。市場に入っていた店の名前を以下、住宅地図から引用します(太字)。
ハム・ソーセージ 石田商店
揚物 天満屋
水産物 篠崎商店
〃 ?池商店 (?は解読困難)
海産物 藤水
日の丸冷蔵の門前に市を成していたのでしょう。この市場のさらに東隣は、環状通をはさんで中央卸売市場です。
札幌市立二十四軒小学校『郷土誌 二十四軒』1978年の「産業のようす」の一節を以下、引用します(pp.20-21、太字)。
市場に近い一条一丁目には、昭和三十四年にたてられた、日の丸冷蔵や、昭和四十三年にたてられた、ぎょれんの冷蔵倉庫があります。ここには、水産物などがあずけられています。(中略)
このほか、チラシや紙器の印刷をしている凸版印刷や、めん類を作っている琴似製めんの工場、函館本線沿いには、泰和車両や巴組鉄工所など、たくさんの工場があります。
電柱に名を遺した「日の丸」は踏切の「泰和」とともに、二十四軒の土地柄を伝えるランドマークだったのです。
4月5日ブログに載せた北5条東1丁目の「日の丸興発」は、関係ありませんでした(末注③)。
注①:「株式会社北海道日水」ウエブサイト「沿革」ページによる。
→ https://www.do-nissui.co.jp/company/history/
注②:前述住宅地図1969年には、現在の北海道日水の場所は「日魯漁業株式会社札幌支社」と書かれている。
注③:「日の丸冷蔵」は日本水産の関連会社としての命名を想わせる。日の丸興発とは「関係ありません」と断定したものの、前身たる日の丸農場とまったく関係がないと言い切れるか。
電修場踏切跡に架かる架道橋
昨日ブログでお伝えしたJR函館本線「電修場踏切」の跡地で、また気になる事案に引っかかりました。
踏切の後にできた架道橋の名前です。

「琴似9丁目架道橋」という銘板が貼られています。
琴似9丁目?
現在の琴似○条○丁目の町名には、「9丁目」はありません。この架道橋の所在地は昨日記したとおり「西区二十四軒4条1丁目」であり、鉄路の北東側は八軒1条東2丁目と東3丁目です。二十四軒も八軒○条東も、9丁目はやはりありません。
琴似9丁目というのは、古い町名でしょうか。電修場を確かめるために見た住宅地図(ゼンリン1969年)では、鉄路の南西側は「琴似二十四軒」でした(末注①)。現在の条丁目になる前は二十四軒○番地だったとみられます。現在の琴似○条○丁目の区域に、かつて琴似○丁目という時代があり、9丁目があったのでしょうか。
地図をさらに遡りました。

「札幌郊外円山町琴似軽川明細図」1938(昭和13)年からの抜粋です(方位はおおむね3時の向きが北)。
当時の琴似村の市街地に○丁目と書かれています。黄色の□で囲ったところです。琴似本通に直交して、南のほう(画像上は左上)から北(右下)へ一丁目、二丁目、三丁目…と付けられています。この地図で書かれているのは八丁目までですが、函館本線の近くは九丁目になりそうです。現在の架道橋の位置に「琴似九丁目」という地名の時代があったことを想像させます。
前掲銘板によると、架道橋の竣功年は1984(昭和59)年です。町名はとっくに琴似○条○丁目の時代ですが、旧地名が生かされたことになります。なぜ、昔の名前が復活したのか。
札幌市地図情報サービスで市道名を調べました。

赤い◯で囲った地点が本件琴似9丁目架道橋の位置です。架道橋の下から鉄路に沿って鉤の手に、市道を黄色でなぞりました。この鉤の手の市道名が「琴似9丁目線」です。旧地名が市道名で生き残っていました。架道橋を命名する際に、下を通る市道の名前を援用したのでしょう。「琴似9丁目線架道橋」ではなく「琴似9丁目架道橋」として、一見しては道路名由来と気づかせないところが心憎い(末注②)。
本件架道橋も(あえて、「も」という)名残物件と認定したい。踏切は消えましたが、架道橋に名残の精神が受け継がれたのは慶ばしい限りです。架道橋、侮れません。余談ながら、この地図で鉄路の北東側沿いの市道名が「札幌軽川間線」だと知りました。この軽川は停車場名ですね。
注①:同じ年版の別のページには「琴似町二十四軒」と書かれている。
注②:4月5日ブログに記した泰和踏切跡の架道橋名は「宮の森北24条通架道橋」である。都市計画道路名「宮の森・北24条通」に基づくと、橋名にも「通」と付く。本件琴似9丁目架道橋の一つ桑園駅寄りの架道橋名は「24軒通架道橋」と、やはり「通」が付いている(24は算用数字で表記)。では「二十四軒通」という都市計画道路名があるのかと探したが、見当たらない。橋の下の市道名は「二十四軒4条線」である。謎が謎を呼んでしまう。
踏切の後にできた架道橋の名前です。

「琴似9丁目架道橋」という銘板が貼られています。
琴似9丁目?
現在の琴似○条○丁目の町名には、「9丁目」はありません。この架道橋の所在地は昨日記したとおり「西区二十四軒4条1丁目」であり、鉄路の北東側は八軒1条東2丁目と東3丁目です。二十四軒も八軒○条東も、9丁目はやはりありません。
琴似9丁目というのは、古い町名でしょうか。電修場を確かめるために見た住宅地図(ゼンリン1969年)では、鉄路の南西側は「琴似二十四軒」でした(末注①)。現在の条丁目になる前は二十四軒○番地だったとみられます。現在の琴似○条○丁目の区域に、かつて琴似○丁目という時代があり、9丁目があったのでしょうか。
地図をさらに遡りました。

「札幌郊外円山町琴似軽川明細図」1938(昭和13)年からの抜粋です(方位はおおむね3時の向きが北)。
当時の琴似村の市街地に○丁目と書かれています。黄色の□で囲ったところです。琴似本通に直交して、南のほう(画像上は左上)から北(右下)へ一丁目、二丁目、三丁目…と付けられています。この地図で書かれているのは八丁目までですが、函館本線の近くは九丁目になりそうです。現在の架道橋の位置に「琴似九丁目」という地名の時代があったことを想像させます。
前掲銘板によると、架道橋の竣功年は1984(昭和59)年です。町名はとっくに琴似○条○丁目の時代ですが、旧地名が生かされたことになります。なぜ、昔の名前が復活したのか。
札幌市地図情報サービスで市道名を調べました。

赤い◯で囲った地点が本件琴似9丁目架道橋の位置です。架道橋の下から鉄路に沿って鉤の手に、市道を黄色でなぞりました。この鉤の手の市道名が「琴似9丁目線」です。旧地名が市道名で生き残っていました。架道橋を命名する際に、下を通る市道の名前を援用したのでしょう。「琴似9丁目線架道橋」ではなく「琴似9丁目架道橋」として、一見しては道路名由来と気づかせないところが心憎い(末注②)。
本件架道橋も(あえて、「も」という)名残物件と認定したい。踏切は消えましたが、架道橋に名残の精神が受け継がれたのは慶ばしい限りです。架道橋、侮れません。余談ながら、この地図で鉄路の北東側沿いの市道名が「札幌軽川間線」だと知りました。この軽川は停車場名ですね。
注①:同じ年版の別のページには「琴似町二十四軒」と書かれている。
注②:4月5日ブログに記した泰和踏切跡の架道橋名は「宮の森北24条通架道橋」である。都市計画道路名「宮の森・北24条通」に基づくと、橋名にも「通」と付く。本件琴似9丁目架道橋の一つ桑園駅寄りの架道橋名は「24軒通架道橋」と、やはり「通」が付いている(24は算用数字で表記)。では「二十四軒通」という都市計画道路名があるのかと探したが、見当たらない。橋の下の市道名は「二十四軒4条線」である。謎が謎を呼んでしまう。
函館本線 電修場踏切跡
JR函館本線の「今は亡き踏切で私が気になった名前のもの」を続けます。なお昨日ブログで記した泰和踏切と近くで脇見した電柱銘「日の丸幹」については補完したいことがありますが、ひとまず措いて先に進みます。
琴似駅寄りの「電修場踏切」跡です。

西区二十四軒4条1丁目、JR高架の北東側から南西方向を眺めました。踏切跡は高架をくぐった先の道路のあたりです。
「電修場」というのは何となく国鉄の施設を想わせます。図書館で古い住宅地図を見たら案の定、鉄路の南西側に「札幌鉄道管理局札幌電修場」と書かれていました。上掲画像で高架の奥には高層マンションが写っています。電修場はこの敷地の隣(画像上では右方、琴似駅寄り)にありました。現在のポリテクセンターの場所です。マンションのところには道立寒地建築研究所(寒地住宅都市研究所)がありました。記憶はあやういものです。私は、寒地研の跡地にポリテクセンターが建ったと勘違いしていました。
電修場とは何(だった)か。これも字面からですが、国鉄の電気設備の保守修繕部門と想像しました。日本国有鉄道北海道総局『北海道鉄道百年史 中巻』1980年によると、もともとは「電気修繕場」で、1936(昭和11)年に「電修場」となり、1942(昭和17)年から前述の場所に設けられたそうです(p.21)。1969(昭和44)年に「札幌信号検査区」、1977(昭和52)年に「札幌電気区札幌検修センター」と名前が変わりました(同p.663)。函館本線が高架化されたのは1988(昭和63)年です。踏切の名前はたぶん、そのときまで「電修場」で続いていたことでしょう。では後身たる札幌検修センターはいつまでここにあったか。ポリテクセンターが建てられるときまでだと思いますが、それがただちにはわかりません。1996(平成8)年にここで遺跡を発掘調査されました(末注)。そのときには移転していたことになります。では札幌検修センターはどこにいったか。前述引用の『北海道鉄道百年史』は1980(昭和65)年の刊行なのでそこまで載ってません。JR北海道のウエブサイトを見てもよくわかりません。保安上の問題もあるので、世間にあまねく知らせることでもないのでしょう。
前掲の踏切跡からわりと近いところに、「札幌保線所」という施設があります。

桑園駅寄りです。「保線」だから、電気とは直接関係はないかもしれません。しかし、ちょっと惹かれたので載せます。
なぜ惹かれたかというと、一隅に下掲の物件を見かけたからです。

百葉箱。昔ながらの風情で立っています。「そうか、保線だもんなあ」と妙に合点がいきました。箱の中を見たら、これまた昔ながらの水銀計?が掛かっています。JRの保線担当の社員さんはきっともって(北海道弁)、夏場はこの百葉箱を開けて「お、今日は気温が高いぞ。レールに水をかけてこよう」と出動しているに違いない。
また脇見をしてしまいました。
注:札幌市文化財課『札幌の文化財』2010年、p.35。そのとき土偶をはじめ縄文時代の遺物が出土し、札幌市の有形文化財に指定された。
琴似駅寄りの「電修場踏切」跡です。

西区二十四軒4条1丁目、JR高架の北東側から南西方向を眺めました。踏切跡は高架をくぐった先の道路のあたりです。
「電修場」というのは何となく国鉄の施設を想わせます。図書館で古い住宅地図を見たら案の定、鉄路の南西側に「札幌鉄道管理局札幌電修場」と書かれていました。上掲画像で高架の奥には高層マンションが写っています。電修場はこの敷地の隣(画像上では右方、琴似駅寄り)にありました。現在のポリテクセンターの場所です。マンションのところには道立寒地建築研究所(寒地住宅都市研究所)がありました。記憶はあやういものです。私は、寒地研の跡地にポリテクセンターが建ったと勘違いしていました。
電修場とは何(だった)か。これも字面からですが、国鉄の電気設備の保守修繕部門と想像しました。日本国有鉄道北海道総局『北海道鉄道百年史 中巻』1980年によると、もともとは「電気修繕場」で、1936(昭和11)年に「電修場」となり、1942(昭和17)年から前述の場所に設けられたそうです(p.21)。1969(昭和44)年に「札幌信号検査区」、1977(昭和52)年に「札幌電気区札幌検修センター」と名前が変わりました(同p.663)。函館本線が高架化されたのは1988(昭和63)年です。踏切の名前はたぶん、そのときまで「電修場」で続いていたことでしょう。では後身たる札幌検修センターはいつまでここにあったか。ポリテクセンターが建てられるときまでだと思いますが、それがただちにはわかりません。1996(平成8)年にここで遺跡を発掘調査されました(末注)。そのときには移転していたことになります。では札幌検修センターはどこにいったか。前述引用の『北海道鉄道百年史』は1980(昭和65)年の刊行なのでそこまで載ってません。JR北海道のウエブサイトを見てもよくわかりません。保安上の問題もあるので、世間にあまねく知らせることでもないのでしょう。
前掲の踏切跡からわりと近いところに、「札幌保線所」という施設があります。

桑園駅寄りです。「保線」だから、電気とは直接関係はないかもしれません。しかし、ちょっと惹かれたので載せます。
なぜ惹かれたかというと、一隅に下掲の物件を見かけたからです。

百葉箱。昔ながらの風情で立っています。「そうか、保線だもんなあ」と妙に合点がいきました。箱の中を見たら、これまた昔ながらの水銀計?が掛かっています。JRの保線担当の社員さんはきっともって(北海道弁)、夏場はこの百葉箱を開けて「お、今日は気温が高いぞ。レールに水をかけてこよう」と出動しているに違いない。
また脇見をしてしまいました。
注:札幌市文化財課『札幌の文化財』2010年、p.35。そのとき土偶をはじめ縄文時代の遺物が出土し、札幌市の有形文化財に指定された。
泰和踏切の跡
4月3日ブログで、JR函館本線の札幌市内にある(あった)踏切のことを記しました。「今は亡き踏切で私が気になった名前のもの」が幾つかあります。

そのうち、桑園-琴似間では黄色の□で囲った「泰和踏切」と「電修場踏切」の2件です(図面の出典は北海道・札幌市発行『札幌市内国鉄函館本線踏切立体交差化計画調査概要』1971年札幌市公文書館蔵から)。
現地がどうなっているか、確かめてきました。まず「泰和踏切」から。

西区二十四軒2条1丁目、宮の森・北24条通を南西から北東方向に眺めました。踏切があったのは、高架の手前にかつて敷かれていた鉄路です。
なぜ「泰和」か。手元のゼンリン住宅地図を見ると、近くにその名前の会社が載ってました。

現地では原色の外壁が目立っています。
大型の商業施設や遊興施設に囲まれていて、この原色でなければ目立たなかったでしょう。

この会社がこのあたりの老舗だったようです。
現在図で位置を確認します。

赤い◯が泰和踏切のあった地点、赤い矢印↖の先が「泰和」という会社です。建物の小ささに比して、周囲に大きな施設がいっぱい建っているのがわかります。
同じ一帯の1961(昭和36)年空中写真です。

空き地が目立ちますが、赤い◯で囲った踏切の南側に建物が集中しています。「泰和」の施設でしょうか。一帯がこの施設の敷地だったように窺えます。泰和以外にはなかったのかもしれません。
現在の宮の森・北24条通に架かる鉄路には何と名づけられているでしょうか。「宮の森北24条通架道橋」です。

架道橋の橋桁に貼られている銘板を、下から見上げてズームアップして撮りました。かなり高い位置なので、ぼやけています。本件は1985(昭和60)年に竣功しました。時代によって命名にも傾向があるようです。余談ながらJRの高架は「架道橋」の部分とそれ以外で名称が異なることを初めて知りました。道路に架かっていない部分は「○○高架橋」です。
脇見をすると、電柱銘が気になります。

「日の丸幹」。この付近はずっとこの銘です。「日の丸」は何に由って来たるのでしょうか。
「日の丸」で私が思いつくのは、この看板です。

場所は離れていますが(中央区北5条東1丁目、直線距離で約3㎞ちょっと)、やはりJRの鉄路のすぐそばというのが引っかかります。この日の丸は東区の「ひのまる公園」のゆかりです。いや、公園がこの会社にゆかりの場所というべきか。前掲「日の丸幹」電柱の一帯も、やはりゆかりの場所なのだろうか。嗚呼、かくしてまた迷路にはまりこんでしまう。

そのうち、桑園-琴似間では黄色の□で囲った「泰和踏切」と「電修場踏切」の2件です(図面の出典は北海道・札幌市発行『札幌市内国鉄函館本線踏切立体交差化計画調査概要』1971年札幌市公文書館蔵から)。
現地がどうなっているか、確かめてきました。まず「泰和踏切」から。

西区二十四軒2条1丁目、宮の森・北24条通を南西から北東方向に眺めました。踏切があったのは、高架の手前にかつて敷かれていた鉄路です。
なぜ「泰和」か。手元のゼンリン住宅地図を見ると、近くにその名前の会社が載ってました。

現地では原色の外壁が目立っています。
大型の商業施設や遊興施設に囲まれていて、この原色でなければ目立たなかったでしょう。

この会社がこのあたりの老舗だったようです。
現在図で位置を確認します。

赤い◯が泰和踏切のあった地点、赤い矢印↖の先が「泰和」という会社です。建物の小ささに比して、周囲に大きな施設がいっぱい建っているのがわかります。
同じ一帯の1961(昭和36)年空中写真です。

空き地が目立ちますが、赤い◯で囲った踏切の南側に建物が集中しています。「泰和」の施設でしょうか。一帯がこの施設の敷地だったように窺えます。泰和以外にはなかったのかもしれません。
現在の宮の森・北24条通に架かる鉄路には何と名づけられているでしょうか。「宮の森北24条通架道橋」です。

架道橋の橋桁に貼られている銘板を、下から見上げてズームアップして撮りました。かなり高い位置なので、ぼやけています。本件は1985(昭和60)年に竣功しました。時代によって命名にも傾向があるようです。余談ながらJRの高架は「架道橋」の部分とそれ以外で名称が異なることを初めて知りました。道路に架かっていない部分は「○○高架橋」です。
脇見をすると、電柱銘が気になります。

「日の丸幹」。この付近はずっとこの銘です。「日の丸」は何に由って来たるのでしょうか。
「日の丸」で私が思いつくのは、この看板です。

場所は離れていますが(中央区北5条東1丁目、直線距離で約3㎞ちょっと)、やはりJRの鉄路のすぐそばというのが引っかかります。この日の丸は東区の「ひのまる公園」のゆかりです。いや、公園がこの会社にゆかりの場所というべきか。前掲「日の丸幹」電柱の一帯も、やはりゆかりの場所なのだろうか。嗚呼、かくしてまた迷路にはまりこんでしまう。
地下鉄琴似駅コンコースの天井 追補
標題は2月10日ブログで終わるつもりでしたが、これまで綴ってきたことを模式図的にまとめて締めくくることとします。
“問題の”コンコースの断面図です。

水平方向はデフォルメしていますが、鉛直方向はほぼスケールを合わせています。
コンコースの天井高については2月5日ブログ、地中の埋設下水管の深さ及び直径については2月10日ブログに基づきます。
コンコース床面の地下深さは、このたびあらたに算出しました。どうやって? きわめて原始的手法です。

くだんの天井のコンコースから地上への出口が通じています。この出口の階段の段数を数えました。地上まで、全部で44段です。蹴上は一段当たり16.5㎝でした。44段×蹴上16.5㎝=7.26m。前掲図で7.68mとしたのは、階段までのアプローチの緩やかな上り勾配0.42mを加えました。0.42mはどうやって出したか。壁面のタイルです。上掲図の手前と奥で、6枚分の高低差があります。一枚当たり高さは7㎝なので(2月5日ブログ参照)、6枚×7㎝=0.42m。階段7.26m+アプローチ0.42m=7.68mです。
前掲図を素人的に鑑みる限り、下水管は天井高に影響しているようには想えません。これはやはり、2月10日ブログで述べた地下鉄の設備すなわち換気用のダクト類のスペースでしょうか。
換気用ダクトで思い出したのが、こちらです。

地下鉄西11丁目のコンコース。ここは天井にダクトや配線類がむき出しになっています。
むき出しになっているおかげで、ダクトの厚みがわかります。


見ようによっては、琴似駅の天井高の差(2月5日ブログ参照)を類推させる厚みです。
水平構造材(梁または桁)の厚みもわかります。けっこう厚い。琴似駅でもし、下水管の下にダクトと構造材を上下に重ねて通したら、それなりの厚みになりそうです。これ以上は堂々めぐりなので、やめます。
それにしても、西11丁目駅はどうして天井の設備類がむき出しになっているのでしょうか。ほかの駅でこんなふうになっているところはあったでしょうか。保安上のことを考えたら、ふつうは天井板で隠しますよね。どなたか、駅員さんに「どうしてむき出しなんですか?」とお尋ねする勇気のある方、いらっしゃいませんでしょうか。
むきだしの理由は知りたいですが、念のため申し添えます。私には、これを隠せと求める気持ちは毛頭ありません。


否、ぜひこのままであってほしい。これをまじまじ眺めていたら、萌えてきました。
“問題の”コンコースの断面図です。

水平方向はデフォルメしていますが、鉛直方向はほぼスケールを合わせています。
コンコースの天井高については2月5日ブログ、地中の埋設下水管の深さ及び直径については2月10日ブログに基づきます。
コンコース床面の地下深さは、このたびあらたに算出しました。どうやって? きわめて原始的手法です。

くだんの天井のコンコースから地上への出口が通じています。この出口の階段の段数を数えました。地上まで、全部で44段です。蹴上は一段当たり16.5㎝でした。44段×蹴上16.5㎝=7.26m。前掲図で7.68mとしたのは、階段までのアプローチの緩やかな上り勾配0.42mを加えました。0.42mはどうやって出したか。壁面のタイルです。上掲図の手前と奥で、6枚分の高低差があります。一枚当たり高さは7㎝なので(2月5日ブログ参照)、6枚×7㎝=0.42m。階段7.26m+アプローチ0.42m=7.68mです。
前掲図を素人的に鑑みる限り、下水管は天井高に影響しているようには想えません。これはやはり、2月10日ブログで述べた地下鉄の設備すなわち換気用のダクト類のスペースでしょうか。
換気用ダクトで思い出したのが、こちらです。

地下鉄西11丁目のコンコース。ここは天井にダクトや配線類がむき出しになっています。
むき出しになっているおかげで、ダクトの厚みがわかります。


見ようによっては、琴似駅の天井高の差(2月5日ブログ参照)を類推させる厚みです。
水平構造材(梁または桁)の厚みもわかります。けっこう厚い。琴似駅でもし、下水管の下にダクトと構造材を上下に重ねて通したら、それなりの厚みになりそうです。これ以上は堂々めぐりなので、やめます。
それにしても、西11丁目駅はどうして天井の設備類がむき出しになっているのでしょうか。ほかの駅でこんなふうになっているところはあったでしょうか。保安上のことを考えたら、ふつうは天井板で隠しますよね。どなたか、駅員さんに「どうしてむき出しなんですか?」とお尋ねする勇気のある方、いらっしゃいませんでしょうか。
むきだしの理由は知りたいですが、念のため申し添えます。私には、これを隠せと求める気持ちは毛頭ありません。


否、ぜひこのままであってほしい。これをまじまじ眺めていたら、萌えてきました。
地下鉄琴似駅コンコースの天井(承前)
あちこち寄り道しましたが、2月5日ブログの結論に入ります。
といっても、正確な結論は「わかりません」。期待のコメントを寄せてくださった方には申し訳ありません。いろいろ想像をめぐらせた挙句、琴似駅の駅員さんに尋ねました。
私:東改札口を出たところの天井がほかに比べて低くなっているのはなぜでしょうか?
駅員さん:あれは、特に…。
私:何かわけがあるのではないですか? 明らかに、かなり低いと思いますが。
駅員さん:圧迫感があるとか?
私:まあ、特に支障があるというわけではないのですが、ちょっと気になりまして。
駅員さん:(事務室の奥に行って、別の駅員さんと二言三言かわして)ちょっとここでは説明することはありませんね。
ここからは、上述の駅員さんの口ぶりから察した私の憶測です。天井が低くなっているのは、中に地下鉄の設備が入っているのではないか。駅員さんがはっきりと答えてくれなかったのは、保安上、一般人にぺらぺらしゃべれないからだろう。設備で考えられるのは、やはり換気用のダクトといったところでしょうか。
たとえば「天井があそこだけ異様に低く、歩いていてちょっと圧迫感があります」とか「もう少し高くしてもらえませんか」というような尋ね方をすれば具体的な説明があったかもしれません。しかし実際にとりたてて困ってもいないのに、苦情めいた言い方をするのは気が引けます。私はそういう演技が苦手です。上述のように、駅員さんの誘い水にも、つい「特に支障があるというわけではないのですが」などと自ら道を閉ざしてしまいました。
くだんのコンコース低天井の地上の風景です。

画像上、左右に通じる道路の下を地下鉄が走っています。右方が琴似駅、左方が二十四軒方面です。琴似駅東改札口の天井が低い場所は、赤くなぞったあたりの地下に当たります。黄色の矢印を付けた先の物件が気になりました。地下鉄の換気口と思われます。赤くなぞった場所の地下に換気用ダクトが設けられているとすると、この換気口につながっているのかもしれません。
もう一つ、気になることがあります。
下掲は「札幌市下水道築造図」からの抜粋です。

札幌市下水道河川局が発行する地図で、市内の下水道設備が網羅されています。ピンク色の実線は凡例によると「合流管きょ」です。平たくいえば下水管でしょう。
気になったのは、地下鉄琴似駅の例の天井の場所です。上掲図で赤い矢印を付けた先に当たります。ピンク色の実線が太い。参考までに、黄色の矢印の先と比べます。こちらは琴似駅のコンコースの西改札口付近です。地上は道道琴似停車場線(琴似・栄町通)が通じています。こちらの管きょは、細い実線が二本です。凡例では、太い方は「幹線」、細い方は「枝線」といいます。つまり、天井の低いところには太い下水管が通っているのです。
実際にどれだけ太いか。札幌市サイトの「下水道台帳情報提供サービス」でわかります。
↓
http://www.jamgis.jp/jam_sapporostp/faces/jsp/lite/viewSet.jsp
凡例によると、上掲図で赤い矢印を付けた「幹線」の管きょは直径(管径)150㎝。一方、黄色の矢印の「枝線」二本はそれぞれ25㎝と30㎝です。5倍以上、太い。
では、その太い下水管が、地下のどの程度の深さのところに通っているか。凡例の「土かぶりの計算方法」に基づいて計算します。土かぶり=地盤高-管底高-管径として、付近の地盤高はおおむね20.7m、管きょの「管底高」は約17.4mなので、20.7-17.4-1.5=18.mです。地下1.8mの下に、直径1.5mの下水管が通じている(末注)。
地下鉄のコンコースは、下水管の深さ1.8m+直径1.5m=3.3mの下に設けられていることになります。太い下水管の埋設が、コンコースに影響したといえるか。いや、コンコースはもっと深く掘られていると思わます。
すると、天井が低いのはやはり、ダクトのせいか。あるいは、下水管とダクトの複合的要因でしょうか。
注:厳密には、これに下水管の厚みである「管厚」が加わる。
といっても、正確な結論は「わかりません」。期待のコメントを寄せてくださった方には申し訳ありません。いろいろ想像をめぐらせた挙句、琴似駅の駅員さんに尋ねました。
私:東改札口を出たところの天井がほかに比べて低くなっているのはなぜでしょうか?
駅員さん:あれは、特に…。
私:何かわけがあるのではないですか? 明らかに、かなり低いと思いますが。
駅員さん:圧迫感があるとか?
私:まあ、特に支障があるというわけではないのですが、ちょっと気になりまして。
駅員さん:(事務室の奥に行って、別の駅員さんと二言三言かわして)ちょっとここでは説明することはありませんね。
ここからは、上述の駅員さんの口ぶりから察した私の憶測です。天井が低くなっているのは、中に地下鉄の設備が入っているのではないか。駅員さんがはっきりと答えてくれなかったのは、保安上、一般人にぺらぺらしゃべれないからだろう。設備で考えられるのは、やはり換気用のダクトといったところでしょうか。
たとえば「天井があそこだけ異様に低く、歩いていてちょっと圧迫感があります」とか「もう少し高くしてもらえませんか」というような尋ね方をすれば具体的な説明があったかもしれません。しかし実際にとりたてて困ってもいないのに、苦情めいた言い方をするのは気が引けます。私はそういう演技が苦手です。上述のように、駅員さんの誘い水にも、つい「特に支障があるというわけではないのですが」などと自ら道を閉ざしてしまいました。
くだんのコンコース低天井の地上の風景です。

画像上、左右に通じる道路の下を地下鉄が走っています。右方が琴似駅、左方が二十四軒方面です。琴似駅東改札口の天井が低い場所は、赤くなぞったあたりの地下に当たります。黄色の矢印を付けた先の物件が気になりました。地下鉄の換気口と思われます。赤くなぞった場所の地下に換気用ダクトが設けられているとすると、この換気口につながっているのかもしれません。
もう一つ、気になることがあります。
下掲は「札幌市下水道築造図」からの抜粋です。

札幌市下水道河川局が発行する地図で、市内の下水道設備が網羅されています。ピンク色の実線は凡例によると「合流管きょ」です。平たくいえば下水管でしょう。
気になったのは、地下鉄琴似駅の例の天井の場所です。上掲図で赤い矢印を付けた先に当たります。ピンク色の実線が太い。参考までに、黄色の矢印の先と比べます。こちらは琴似駅のコンコースの西改札口付近です。地上は道道琴似停車場線(琴似・栄町通)が通じています。こちらの管きょは、細い実線が二本です。凡例では、太い方は「幹線」、細い方は「枝線」といいます。つまり、天井の低いところには太い下水管が通っているのです。
実際にどれだけ太いか。札幌市サイトの「下水道台帳情報提供サービス」でわかります。
↓
http://www.jamgis.jp/jam_sapporostp/faces/jsp/lite/viewSet.jsp
凡例によると、上掲図で赤い矢印を付けた「幹線」の管きょは直径(管径)150㎝。一方、黄色の矢印の「枝線」二本はそれぞれ25㎝と30㎝です。5倍以上、太い。
では、その太い下水管が、地下のどの程度の深さのところに通っているか。凡例の「土かぶりの計算方法」に基づいて計算します。土かぶり=地盤高-管底高-管径として、付近の地盤高はおおむね20.7m、管きょの「管底高」は約17.4mなので、20.7-17.4-1.5=18.mです。地下1.8mの下に、直径1.5mの下水管が通じている(末注)。
地下鉄のコンコースは、下水管の深さ1.8m+直径1.5m=3.3mの下に設けられていることになります。太い下水管の埋設が、コンコースに影響したといえるか。いや、コンコースはもっと深く掘られていると思わます。
すると、天井が低いのはやはり、ダクトのせいか。あるいは、下水管とダクトの複合的要因でしょうか。
注:厳密には、これに下水管の厚みである「管厚」が加わる。
地下鉄二十四軒駅 6番出口の階段
昨日ブログに続き、地下鉄駅の寄り道です。
標題の二十四軒駅も気になっていました。

6番出口に至る階段です。
下から見上げます。

気になったのは特に、最初の踊り場です。天井高を赤い矢印で示しました。
階段の右側には、車両基地に至る通路があります。

その通路から踊り場を見上げました。
くだんの踊り場を、上から見下ろします。

どうも、天井が低い印象です。
駅構内の案内図で場所を確認します。

階段の踊り場は赤い○を付けたところです。琴似川という川が、この上を流れています。青くなぞりました。
案内図を拡大します。

赤い矢印を付けた先が、“問題視”している踊り場の位置です。
地上に上がりました。

この川の真下を、地下鉄駅に至る階段が通じています。
地下鉄駅の構内のすぐ真上を川が流れているところは、ほかにあるでしょうか。もちろん、地下鉄の軌道自体はいたるところで川の下をくぐっていますが、駅が川の下にあるところです。ほかに思い当たるのは、東西線のバスセンター前駅と大通駅を結ぶ地下通路くらいです。創成川が流れています。
標題の二十四軒駅も気になっていました。

6番出口に至る階段です。
下から見上げます。

気になったのは特に、最初の踊り場です。天井高を赤い矢印で示しました。
階段の右側には、車両基地に至る通路があります。

その通路から踊り場を見上げました。
くだんの踊り場を、上から見下ろします。

どうも、天井が低い印象です。
駅構内の案内図で場所を確認します。

階段の踊り場は赤い○を付けたところです。琴似川という川が、この上を流れています。青くなぞりました。
案内図を拡大します。

赤い矢印を付けた先が、“問題視”している踊り場の位置です。
地上に上がりました。

この川の真下を、地下鉄駅に至る階段が通じています。
地下鉄駅の構内のすぐ真上を川が流れているところは、ほかにあるでしょうか。もちろん、地下鉄の軌道自体はいたるところで川の下をくぐっていますが、駅が川の下にあるところです。ほかに思い当たるのは、東西線のバスセンター前駅と大通駅を結ぶ地下通路くらいです。創成川が流れています。
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