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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/03/22

フシコハチャムと鮭見川のつながりぐあい

 3月16日17日ブログの続きです。

 琴似発寒川扇状地の旧河道と想われるフシコハチャム(古発寒川)跡の下流に鮭見(美)川が現在、流れています。2017年3月8日ブログに載せた河川網図の該当部分を再掲します。
河川網図 鮭見川 再掲
 「現在、流れています」といっても、暗渠です。

 地上を流れていた頃の河道を1947(昭和22)年米軍撮影の空中写真で読み取って、なぞってみます(2017年3月11日ブログ参照)。
空中写真 1947年米軍 鮭見川推定
 水色がその河道、濃い青は現琴似発寒川、茶色は発寒の基軸道路ともいえる市道稲荷線及び南発寒線(新琴似通)(の原形)です。2017年3月12日ブログで私は、「鮭美川の一帯も中の川同様、地形的には自然河川だったとみてよいのではないか。琴似発寒川の扇状地から湧き出た水が小河川となったのでしょう」と、結論づけました。結論づけるというほど大仰なことではありませんが、ともあれ田畑の開墾とともに用水路として人工的に整形されていったのでしょう。

 3月16日ブログで私が想像したフシコハチャムの河道跡も再掲します。
大正5年地形図 発寒川 等高線、旧河道推定着色
 大正5年地形図への着色加筆です。河道跡を濃い青の破線でなぞりました。

 画像3点を較べて観ると、私の想像旧河道と鮭見川はズレています。古地図や空中写真を私がイイカゲンに読み取っているという前提ですが、まあ扇状地ですから、河道は時代によって縦横無尽に流れていたとも想えます。札幌扇状地において古豊平川の網流跡にメムが湧き出てサクシコトニやコトニなどの小河川が流れたのと同じ関係といえるのでしょう。
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2019/03/17

フシコハチャム

 昨日のブログに、鮭見川に関する情報をコメントでいただきました。ありがとうございます。
 なお、昨日お示しした旧河道跡の破線は、地形図に基づく私のあくまでも「想像」です。明治大正の地形図で、川は描かれていません。実際に流れていたのは幕末くらいまでと想います。
 と思って、念のため座右の山田秀三『さっぽろのアイヌ地名を尋ねて』1965年を読み返したら、先生は松浦武四郎図を引用して、琴似発寒川(当時は発寒川)の西側支流「フシコヘツ(フコハチャム)」に言及していました(pp.67-69)。のみならず、次のように述べています(太字)。
 札樽国道を西行して発寒川の橋を渡り、最初の角を左に曲ると、川に並行する西野の中心道路である。(中略) コハチャムはこの西野を流れていた筈である。
 古い自然の川ならば、地形に従って流れ、又流域を削り去っているので、特別の整地をしたのでなければ、地形に根(ママ)跡が残っている筈である。二万五千分地形図(ママ)の等高線を追って、この平野を一番上手から鉄道線路の下迄調べたら、西野の道路の直ぐ西に川跡らしい形で等高線が入り込んでいる。それを続けて線を描いて見た。明かに、今の発寒川と並行する川が、この平野の一番上手から北方の低湿地迄流れていた事が判る。それは古い時代の発寒川又はその分流であったと思われる地形である。
 等高線から見ると、昔の時代に、この古川は発寒川と切れ、そこが水源となって流れていたので、古川(フシコベツ)、或は古い発寒川(フシコハチャム)と呼ばれ、その尻が北方の低平地で発寒川に入っていたものであるらしい。


 何のことはありません。私が昨日ブログに載せたまったく同じことを、先達は50年以上も前にやってのけているのです。私は大正5年版の五万分の一で試みましたが、先生は二万五千分の一で、たぶん当時の最新の地形図を使ったのでしょう。
 私は先生の書をもちろん通読していたにもかかわらず、すっかり忘れていました。怖ろしいのは、昨日ブログをあたかも自分が初めて試みたかのごとく錯覚していたことです。おそらく、前に読んだことが私の深層心理に刻まれ、伏流水のごとく潜在していたのでしょう。前にも似たようなことがありました(2015.7.5ブログ参照)。先達の偉大さと自分の矮小さをあらためて思い知り、慙愧に堪えません。

 ちなみに、「琴似発寒川 扇状地」で電網検索しましたら、札幌の古河川研究家(と勝手に命名します)で拙ブログでも折々引用させていただいているMさんの論考に当たりました。

「発寒川扇状地―地すべりによる河川争奪―」

 旧河道の推定流路跡も地図で載っています。若干異なりますが、私の「想像」は「中らずといえども遠からず」でしょうか。

 気を取り直して、昭和10年地形図で旧河道を想像してみます。
昭和10年地形図 発寒川 フシコハチャム
 琴似発寒川の現河道を濃い青、他の現河川を水色(いずれも製図当時)、西野の軸線道路を茶色、等高線の主曲線を赤、計曲線を薄い赤で着色しました。フコハチャムの想像河道跡は濃い青の破線です。鮭見(美)川との関係に立ち入りたいのですが、長くなりましたので本日はここまで。

2019/03/16

西野二股のヘソ

 西区西野、手稲東小学校前歩道橋から山側を望みました。
手稲東小学校前歩道橋から山側を望む
 手稲左股通です。

 この位置を大正5年地形図に照らします。
大正5年地形図 手稲東小学校
 赤い▲で示したところです。

 この道を、まっすぐ山側の先へ延ばしてみます。
大正5年地形図 西野左股通 山アテ
 右股と左股のほぼ真ん中を南西へ、標高303.5mの山にぶつかりました。右股、左股を人間のカラダに例えると鼠径部なら、この山はヘソに当たります。

 五天山です。
手稲東小学校前歩道橋から、五天山
 つまり、西野の軸線ともいえる道は、五天山をいわゆる“山アテ”して拓かれたのではなかろうか。

 こんどは、川との関係で観ます。
大正5年地形図 西野 発寒川 
 濃い青で琴似発寒川、他の河川を水色でなぞりました。
 軸線道路は、琴似発寒川扇状地の等高線とほぼ直交するように敷かれているように見えます。

 琴似発寒川の左岸側の等高線を着色してみました。
大正5年地形図 西野 発寒川左岸 等高線着色
 道の西側を等高線がわずかに谷状をなしているかにも見えます。これは琴似発寒川の網流跡ではなかろうか。

 等高線の谷状に沿って、旧河道を想像してみました。
大正5年地形図 発寒川 旧河道推測
 濃い青の破線です。

 軸線道路は、実線の現河道と破線の旧河道の間の微高地、尾根筋に通じているかのようです。
 いま気づいたのですが、この旧河道の下流、扇状地の扇端あたりから「鮭見(美)川」(2017.3.83.10ブログ参照)が流れています。

2019/03/14

西野で軟石建物を探す

 西区西野に軟石建物があるという未確認情報をきっかけに、先日来同方面を歩いています(3月9日ブログ参照)。「農家の倉庫」らしいという手がかりを頼りに目星を付けてみましたが、いまのところまだ見つかっていません。例によって、煉瓦やら地名やら、二宮金次郎やら、あちこち寄り道わき見しています。琴似発寒川扇状地の微地形も面白い。電柱幹板も外せません。

 手稲左股通の自然食品の店で、玄関に札幌軟石が貼られているのを見かけました。
西野 自然食品の店 玄関 札幌軟石
 軟石の表面は割肌仕上げ。
 ちなみにこの店は、私が住む厚別区の地下鉄最寄駅の近くに支店があり、妻が愛用しています。

 玄関の腰壁だけでなく、画像右方手前にも不思議な雰囲気で軟石が置かれています。
西野 自然食品の店 玄関 札幌軟石 つくばい?
 つくばいのようにも見えますが、これは何でしょうか。
 お目当てにはなかなかたどりつけませんが、本件に出逢えて少し嬉しくなりました。

 軟石絡みで、お知らせを一つ。
博物館ゼミナール小樽学 第18講 案内
 「石の街・小樽 石造建築物の魅力を再発見」をテーマに、連続講演会が催されます。小樽市総合博物館の「博物館ゼミナール小樽学 第18講」です。掲載画像が見づらい場合は、同博物館サイト「行事予定」をご覧ください。なお、博物館では4月20日から、企画展「石のまち小樽の軌跡—石造建築物が語る軟石の文化」も予定されています。こちらもお楽しみです。

2019/03/13

手本は二宮金次郎 手稲東小学校

 1872(明治5)年の「時習館」に由来する伝統校です。
手稲東小 二宮金次郎像 正面
 校舎内に設けられている郷土資料コーナーで像を拝みました。

 教頭先生によると「旧校舎当時からのもの」だそうです。
 「開校百周年記念」の『ていねひがし』1972年に、1943(昭和18)年同校卒業の方が像のことを記しています(pp.118-122、引用太字)。
 門を入ると左側に奉安殿が威厳を保ち、正面玄関には二宮金次郎の銅像あり、…(中略)
 平和な毎日でしたが昭和十六年十二月八日突如大東亜戦争が勃発しました。(中略) 献金箱を並べて銅製品、タバコの包み紙、銀紙まで献納しました。敬愛してきた二宮金次郎の銅像まで献納させられました。当時の学童は皆心から嘆いたと思います。(中略)
 私共卒業生一同献納された二宮金次郎をもう一度復元させようと、瀬戸ではありましたが卒業記念に建立寄贈しました。
 前掲の安置されている像は、二代目と思われます。ただし、見たところ金属製というのが引っかかります。上記の文脈からすると、建立は1943年の卒業時ですが、戦況ますます深刻な時期に金属での復元は難しかったことでしょう。この一節以外に金次郎像への言及はなく、「創立115年」「120年」の周年記念誌にも記述は見当たりませんので、仔細は不詳です。

 教頭先生のお許しを得て、何を読んでいるか確かめました。
手稲東小 二宮金次郎像 書物
 「一家仁一國興仁…」です(2015.4.8ブログ4.135.35.45.55.76.3ブログ参照)。『大学』。
 
服装はニッカボッカ型、背負っているのは柴か。柴は二束に束ねています。 
手稲東小 二宮金次郎像 側面
 壁にiPadのマークが貼られているのにどういう意味があるのか、お訊き漏らしました。“歩きスマホ”の連想かな(2016.4.22ブログ参照)。

2019/03/12

皆が思っていることが正しいとは限らない、か?

 西区西野にある街区公園です。
中立仲よしさくら公園
 「中立仲よしさくら公園」。

 西野1条から5条にかけて、「中立」と冠した街区公園がいくつかあります。この地域の「西野中立町内会」に由来するものでしょう。この名前を知った10年以上前から、私は「中立」を「ちゅうりつ」と読んできました。町内会の役員さんとのやりとりでも「ちゅうりつ」で通用してきたと記憶しています。ちょっと変わった町内会名だなと感じつつですが。
 
 ところが、昨年出版された関秀志編『札幌の地名がわかる本』で、次のように記されているのを知りました。
札幌の地名がわかる本 中立
 関係するくだりを引用します(「神社と公園の名称に見る地域の歴史と地名のかかわり」p.345、太字)。
 …町内会名から採った「第○新和公園」(北○条東□丁目)や「中立○公園」(西野○条□丁目)、… 
 画像の左赤傍線を引いたところ、この「中立」に「なかだて」とルビが振られているのです。

 この書物を読まなかったら、私はこの先もずっと「ちゅうりつ」と呼称したことでしょう。ひとたび当たり前と思い込むと修正しづらい習性の見本です。
 郷土史の文献を幾つかひもときましたが、「中立」は出てくるものの、ルビが振られているものになかなか当たりません。前掲の街区公園の看板も、漢字表記のみです。
 そこで、地元の方などに訊いてみました。結果は以下のとおりです。
3月9日ブログで紹介した煉瓦の蔵のⅠさん:ちゅうりつ(町内会)
・西野地区センターの職員:ちゅうりつ(町内会、公園)
・手稲東小学校の教頭先生:ちゅうりつ(町内会、公園)
・西区土木センターの職員:ちゅうりつ(公園)
 カッコ内は、お尋ねしたときに「中立町内会」「中立ナントカ公園」のいずれ(または両方)を引き合いにしたかを示します。

 お聴きしたかぎりでは、皆さん「ちゅうりつ」です。ちなみに、「さっぽろまちづくり活動サポートサイト」に登録されている「西野中立町内会」のページでも、「団体名称カナ」として「ニシノチュウリツチョウナイカイ」と記されています。

 「にもかかわらず」「あえて」、前掲『札幌の地名がわかる本』では「なかだて」と振られている。札幌の地名、奥が深い。

2019/03/09

西野・Ⅰさん宅 煉瓦の蔵

 札幌市資料館で開催した「札幌軟石と北の石文化」展に来られた方から、「西野(西区)にも軟石の倉庫があった」という情報をいただきました。さてはまだ、未発掘の物件があったか。西区は、「札幌軟石発掘大作戦」で2012年に調べていますが、悉皆的に歩いたのはおおむね北1条・宮の沢通の北東側です。琴似発寒川の上流は未踏査に近い。“埋もれている”可能性はあります。

 「おおよそ西野〇条あたりの農家の倉庫」という話をたよりにして、住宅地図でアタリをつけてみました。かつての農家とおぼしきお宅で、「ソーコ」と書かれているところです。とりあえずバスで西野二股まで行って、坂を下りました。
 
 軟石ではありませんが、煉瓦の蔵を見つけました。
西野 Ⅰさん宅 煉瓦の蔵
 西野は、さらに下流でリンゴを作っていた農家の煉瓦造倉庫が遺っています。本件も、リンゴ貯蔵用だったのだろうか。ただ、「これは間違いなくリンゴ倉庫だ」という確信に至りません。リンゴだったら札幌では「小端空間積み」(2017.1.31ブログ参照)がわりとポピュラーですが、本件は長手積みです。併せて、主屋に接続しているところが、農作物収蔵用とはいささか趣を異にしています。

 持ち主のⅠさんが外で雪割りをされていたので、お訊きしてみました。リンゴは作っていたそうですが、本件はリンゴ用ではなく、「食器類などを入れていた」そうです。Ⅰさん宅は本家だったらしく、「昔は家で冠婚葬祭をやっていたからね」と。いわゆる文庫蔵ですね。納得できました。建てられたのは比較的新しく、お話からすると1970(昭和45)年前後とみられます。隅角部や腰にコンクリートを廻して構造的に補強されているのも、そのせいでしょうね。
 リンゴを作っていたのは50年くらい前までで、リンゴの倉庫も煉瓦造だったとのことです。そちらはすでにありません。純組積造だったようですが、小端空間積みだったかどうかは不明です。
 結局、軟石建物はそっちのけでしたが、また日をあらためて探索することとしましょう。
 

2018/12/18

違いを見つけましょう。

 地下鉄琴似駅コンコースの「西区ギャラリー」で催されている「松浦武四郎 琴似・発寒踏破展」を観覧しました。
松浦武四郎 琴似・発寒踏破展
 発寒歴史漫歩倶楽部主催です。松浦武四郎の巡検の様子が、倶楽部のメンバーの方が描かれたであろう絵で紹介されています。
 
 展示されている絵画の一枚です。
松浦武四郎琴似・発寒踏破展 本願寺道路開削
 「本願寺道路開削」というキャプションが添えられています。明治の初め、「東本願寺による北海道開拓政策の中心事業の一つ」として進められました。「松浦武四郎の探査が実を結んだ」もので、「現在の国道230号の基礎となった」道路です。

 前掲の作品は、次の絵を基にしていると思われます。
東本願寺北海道開拓錦絵 北海道新道切開
 「東本願寺北海道開拓錦絵」の一枚です。明治初期に出版されました。

 基になっている部分を拡大してみましょう。
東本願寺北海道開拓錦絵 北海道新道切開 拡大

 一方、展示の作品のほうは…
松浦武四郎琴似・発寒踏破展 本願寺道路開削 拡大
 較べてみると、部分的に改変されていることに気づきます。

 作者の苦心の跡が窺われます。
 かつて、前掲錦絵を無批判に複製、引用することが厳しく指弾されました。

2018/10/16

琴似発寒川河畔に札幌建設管理部事業課が立てた看板

 昨日ブログの続きです。
 月寒川の改修について、背景にあったできごとを綴りました。改修の動機となる、いわば“状況証拠”です。さらに直接的な裏付けを得るべく、あちこち足を運びました。
 その一つが「札幌建設管理部事業課」です。月寒川の中下流は「1級河川石狩川水系」で、北海道知事が河川管理者に当たります。それでここを訪ねました。以前の「土木現業所」ですね。札幌土現。いまは「空知総合振興局」の所管です。

 この役所は、琴似発寒川の河畔にあります。
 札幌建設管理部事業課 看板
 この川も北海道が管理しているので、当該事業課の看板が立っています。
 本題に入る前に、看板の絵柄に見惚れて立ち止まってしまいました。

2018/05/03

琴似 のうなか医院

 昨日、4か月ぶりに琴似に行ったら、「のうなか医院」があったところが空き地になっていました。
琴似 のうなか医院跡
 西区琴似2条5丁目の仲通りです。

 のうなか医院は、かなり古い建物でした。
琴似 のうなか医院 在りし日
 診療科目は皮膚科、泌尿器科、性病科、外科(画像は2017年2月撮影)。

 ここは、玄関の庇からぶら下がっていた看板が稀少でした。
琴似 のうなか医院 玄関
 札幌建築鑑賞会スタッフのNさんに教えてもらったものです。

 「でんわ でんぽう」。
琴似 のうなか医院 赤電話の看板
 かつてはいざ知らず、私はここ以外でこの看板を見たことがありません。

 この診療所の中に入ったことはないので、実際に赤電話があったどうかは存じませんが、看板だけでも架けたままにしてくれていたことに感謝します。いまどき赤電話なんて、見ることありませんよね。

 建物が解体されたとき、この看板はどこにいったのでしょう。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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