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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/04/13

発見「はっけん」

 札幌市西区と中央区を分かって流れる琴似川に架かる「八軒ひまわり橋」です。
八軒ひまわり橋 橋銘板
 下流から上流を眺めました。「八軒ひまわり橋」の橋銘板が付けられています。

 下流側です。
はちけんひまわりはし 橋銘板
 こちらには、「はちけんひまわりはし」と平仮名の橋銘板が刻まれています。この二つは、あまり意識せずに写真を撮りました。意識せずにわざわざカメラを橋銘板に向けるというのも、いささか妙な癖(へき)ですが(末注①)。

 八軒ひまわり橋の上流に、「八軒東橋」という橋が架かっています。  
八軒東橋 橋銘板
 この画像は後日、撮ったものです。

 なぜ撮ったかというと、下掲の平仮名の銘板が気になったからです。
はっけんひがしはし 橋銘板
 「はっけんひがしはし」。「はちけん」ではなく、「はっけん」。これはもう、意識的に撮りました。撮ってから下流に下って、あらためて前掲「八軒ひまわり橋」の仮名銘板を見直し、感じ入ったしだいです。

 二つの橋の位置関係を現在図に示します。
現在図 琴似川 八軒ひまわり橋、八軒東橋
 黄色の矢印を付けたのが八軒ひまわり橋、赤い矢印が八軒東橋です。すぐ隣り合っています。隣り合っていながら「ち」と「っ」を使い分ける繊細さを発見しました。これは、「発見」とさせてください(末注②)。

 ほかに「八軒」を冠した橋名の仮名がどうなっているか、気になってきました。しかし、この場所を訪ねた本題は別にあったのですが。

 注①:私に妙な癖が付いてしまったのはひとえに、ほかならぬ橋銘板のせいである。2017.4.28ブログ参照
 注②:「発見」の用語に対するこだわりについては、2017.3.31ブログ末注①参照
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2020/04/10

札幌市動物管理センター近くの電柱銘

 私の時空逍遥を振り返ると、昨今戒められている「三密」空間はほとんどないようです。もともと人混みは苦手でした。最近の札幌でいうと、JR札幌駅界隈。人の多さに当てられてしまいます。札幌のこの程度ですら、なので、かつて帰省したとき名古屋駅の混み具合には圧倒されました。平日の日中でも、やたら多い。いわんや、テレビで見る東京の繁華街は想像するだに余りあります。
 室内も、人けの少ない嗜好・志向です。ときどき足を運ぶ札幌市公文書館(3月11日ブログ参照)や道立文書館はいつ行っても空いています。人がいても、喧騒はまったくありません。道立図書館の北方資料室もしかり。各地の郷土資料館のたぐいは、ますますしかり。しかし、ここ数日の感染状況からすると公共施設の再休館も懸念されます、道立文書館の(図書館北方資料室と複合化した)移転新装再開もどうなることやら。失ってあらためて知るありがたみです。かたや野戦病院さながらの最前線に立つ人々のご苦労を想って、辛抱しましょう。実態を体験してもいないのに野戦病院に譬えるのは適当ではなく、過去に私自身が投じられた修羅場はその万分の一にも満たないであろうことですが。

 こんにちの事態にあって、かような嗜好・志向・性癖を体得していたことをありがたく思います。ただし、人と直接会って至近距離でコトバを交わすのを自重せねばならないのは辛いことです。ヒトは人の間にあってこその人間なのに、その根源的営みを奪われてしまうのは堪えます。もっとも、私は人と(特に見ず知らずの人と)話をするのにおそらく平均的な人よりも過度な緊張を強いられるので、その辛さには鈍感なほうかもしれません。
 もう一つ、私の時空逍遥の“足”は、自転車や徒歩もありますが、公共交通機関が頼りです。これはときに「三密」を伴います。マイカーがあればよいのでしょうが、運転をやめて13年になり、もはや無理です。極力三密を避けて利用することとしましょう。

 西区八軒、札幌市動物管理センターの入口です。
札幌市動物管理センター 入口 西区八軒
 なぜ、ここにこの施設があるか。という本題は、前置きが長くなったのでさておきます。

 とりあえず「ここ」の位置を現在図で示します。
現在図 電柱「札沼幹」の所在地
 赤いを付けたところです。

 標柱の傍らに立つ電柱銘鈑を眺めたら…
電柱「札沼幹」 西区八軒
 「札沼幹」と。

 ほぉ「札沼」か、とひとりごちました。札沼線か。電柱はJRの鉄路から、直線距離にして560mの位置にあります。本題ではないのですが、この銘鈑がどのように分布しているか、気になってしまいました。

2020/01/14

手稲山の山頂 ③

 昨日一昨日ブログで綴った史実を時系列で以下、整理します。
 1873(明治6)年 札幌郡手稲村が「上手稲村」「下手稲村」に分けられる。上手稲村は「東琴似村ニ界シ西手稲山ヲ限リ」(開拓使事業報告)
 1900(明治33)年 三角点「手稲山」設置
 1902(明治35)年 上手稲村、下手稲村、山口村三村をもって手稲村となる。三村は大字となる。
手稲町誌「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」手稲山あたり抜粋
 (画像は手稲町誌所収「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」から手稲山あたりを抜粋、方位は4時の向きが北、一点鎖線が大字界で、画像の右方が下手稲村、左方が上手稲村)
 1942(昭和17)年 手稲村の大字を廃止され、新たに字名が決められる。手稲山北側の旧「大字下手稲村」と南側の旧「大字上手稲村」を分かつ大字界は、「字金山」(きんざん)と「字平和」の字界となる。
 1951(昭和26)年 手稲村が手稲町となる。
 1967(昭和42)年 手稲町が札幌市と合併。「手稲町字金山」は「札幌市手稲金山」、同町「字平和」は同市「手稲平和」となる。
 1972(昭和47)年 札幌市が政令指定都市となる。手稲山一帯は西区となり、字界をもって「西区手稲金山」、同区「手稲平和」となる。
 1989(平成元)年 札幌市西区から手稲区が分区される。「西区手稲金山」は「手稲区金山」、同区「手稲平和」は「西区平和」となる。
 1991(平成3)年 国土地理院、「日本の主な山岳標高一覧-1003山-」をまとめる。手稲山は一等三角点「手稲山」の位置をもって山頂(山の最高地点)とされる。
 ↓
 https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html
 2007(平成19)年 国土地理院、一等三角点「手稲山」の「点の記」情報更新。点の所在地は「札幌市西区平和439番1」 
 2008(平成20)年 国土地理院、手稲山の三角点標高を改訂
現在図 手稲山のあたり
(画像は現在図、二点鎖線の区界の北側が札幌市手稲区、南側が西区)

 結局、境界線が先にありきで、三角点の設置はその後、しかもその三角点を山頂としたのはさらに後、ということです。いわば“あとづけ”で山頂が決まったことにより、手稲区のシンボルたる手稲山の頂上は西区になりました。 
 「手稲区史跡ガイドホームページ」というサイトで、「手稲山の三角点」が紹介されています。
 http://www3.city.sapporo.jp/teine/teineguide/58.html
 「札幌市手稲区役所ホームページ」から閲覧できるようになっており、同区役所の制作のようです。三角点が「手稲区史跡」として扱われているのですが、「手稲山頂」というカテゴリーがミソだと私は想いました。手稲区内の町名や地名ではなく、別立てしています。このサイトを作った人は、三角点の所在地のことを先刻承知なのかもしれません。

参考文献:『手稲町誌(下)』1968年、沿革年譜、『新札幌市史第8巻Ⅱ年表・索引編』2008年、関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年

2020/01/13

手稲山の山頂 ②

 手稲山の稜線です(画像は昨年11月撮影、2019.11.17ブログ参照)。
手稲山稜線 山口緑地から遠望 
 山口緑地(札幌市手稲区手稲山口)から眺めました。

 撮影の位置と向きを色別標高図に示します。
標高220m未満から100mごと10色 山口緑地から手稲山遠望
 標高220m未満から100mごと10色段彩で作成、白抜き○が撮影地点、同じく白抜きの細い△が向きです。

 冒頭画像の山頂付近を拡大します。
手稲山 稜線 山口緑地から遠望 山頂付近
 黄色の矢印で示した先に、電波塔が林立しています。

 色別標高図で山頂あたりを拡大しました。
標高220m未満から100mごと10色 手稲山山頂あたり
 白抜き実線は札幌市手稲区と西区の区界です。おおまかに手稲山の北斜面が手稲区手稲金山、南斜面が西区平和に当たります。電波塔記号が位置するのは、大半が西区側です。前掲画像で見る山頂付近のスカイラインは、これまた大半が西区に属していることがわかります。区界線は、山腹の“中の上”あたりに引かれているのです。

 標高図の色分けを変えてみます。
標高940m未満から10mごと10色 手稲山山頂あたり
 標高940m未満から10mごと10色で段彩しました。画像のほぼ中央を左右に引かれている二点鎖線が手稲区と西区の区界です。標高940m以上のこれまた大半が、西区です。

 昨日ブログに記したとおり、手稲山の山頂(山の最高地点)をピンポイントで一等三角点「手稲山」の位置とみなしたとき、その所在地名は札幌市西区平和です。もう少し巨視的に山のもっとも高い「あたり」とか「一帯」という語感でみても、西区に属しているという印象を抱きます。
 手稲山山頂あたりで手稲区と西区を分かつ区界は、1989(平成元)年の分区前の「西区手稲金山」と同区「手稲平和」の町界に基づくものでしょう。その町界は、旧手稲町当時の「金山」と「平和」の字(あざ)界、さらにはその前の手稲村時代の大字「上手稲村」と同「下手稲村」の大字界、さらにその前の「上手稲村」「下手稲村」の村界に遡ります(末注)。分区のとき、区界は「手稲金山」と「手稲平和」の町界すなわち旧手稲町時代の字「金山」と同「平和」の字界で分かたれました。三角点の位置する手稲山山頂たる「西区手稲平和」は手稲区ではなく、「西区平和」(のまま)になったのです。

 注:『手稲町誌』1968年「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」ほか参照

2020/01/12

手稲山の山頂 ①

 一等三角点「手稲山」です。
一等三角点「手稲山」
 傍らに国土地理院が設けた説明板によると、この三角点の位置は次のとおりです。
 北緯43度04分36.3秒 東経141度11分33.5秒 標高1023.1m(平成20年5月標高改定値)

 1月6日ブログの末尾に次のように記しました(太字)。
 ここ数日、空知・北村の三等三角点「怪物路」に寄り道しています。もとは一等三角点「手稲山」がきっかけでした。この三角点と手稲山山頂、標高との関係性が、私には未知だったのです。かねて手稲山の山頂の所在地は札幌市手稲区ではなく、西区だとも聞いていました。これを確かめるのにも、意外と手間取りました。

 三角点の標高を手稲山山頂の標高とみなしてよいかどうか。
 「意外と手間取」ったのは、国土地理院(北海道地方測量部)に問い合わせたところ、「“三角点の位置=山頂”とは必ずしもいえない」という答えをいただいたからです。これは一般論としてたしかにそのとおりです。しかし、その後の地理院の情報更新を反映したものではありませんでした。
 その後、国土地理院サイト「日本の主な山岳標高」ページにより、手稲山は本件三角点をもって山頂(山の最高地点)とされ、よって三角点の標高=山頂の標高であることを確かめました。

https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html
 「日本の主な山岳標高」ページを知ったのは、たまたま田代博先生(日本地図センター相談役)の記述を年末に読み返したからです。田代先生は、富士山遠望(もっとも遠くのどこから富士が見えるか)の研究者としても知られます。

 手稲山頂が三角点の位置だとすると、その所在地名は「点の記」により、「札幌市西区平和439番1」です。

2020/01/06

そもそも、三角点を想う

 本日6日のUHB「みんテレ」となりのレトロのコーナーで、手稲山にある一等三角点の場所を映しました。
 大正時代に三角点が置かれたと放送で伝えましたが、大正時代というのは正確にいうと、三角点記号が記された地形図の製作年代です。手稲山には1900(明治33)年に三角点が設けられました(末注)。

 さて、その三角点のことを拙ブログでも、私は知ったふりをして述べてきました。三角点をもとにして地図を作るというのは、実際にはどういう仕組みでしょうか。測量にまったく疎い私の理解は、実は以下に綴る程度です。中学で習った三角関数の知識だけで想像してみました。  

 直角三角形ABCという土地があったとします。この土地の地図を作るには、どうしたらいいか。
三角測量 模式図-1
 まったく水平な土地、という条件で考えます。

 A地点からB地点まで距離(AB)と∠CABの角度(θ1)を測れば、A地点からC地点までの距離(AC)及びB地点からC地点までの距離(BC)は、実際に現地を測量しなくても求められます。
  AC=AB/cosθ1、BC=AB×tanθ1
 
 土地が、次のようなABCDという四辺形に広がったとします。
三角測量 模式図-2
 距離ACがわかったので、∠DACの角度(θ2)を測れば、距離ADと距離CDもやはり計算で出ます。
  AD=AC/cosθ2、CD=AC×tanθ2
 これで、土地ABCDの地図ができます。
 
 同じように続けていけば、さらに大きな土地を図面化できる理屈です。結局、距離ABと角度を実測すれば、あとは計算で求められることになります。ABCD…の各地点に標石として置くのが、三角点です。原理的には大体こういうことでしょうか。
 実際にはこれに高さが加わって、三次元の測量と計算をしなければいけません。想像するだに、気が遠くなります。たぶん今は空中撮影とか人工衛星などを使って計測しているのでしょう。
 
 明治29年地形図です。
明治29年地形図  丘珠村、苗穂村、雁来村、対雁村 村界
 札幌の近郊農村の村界をかくも幾何学的に分かったのも、頷けるような気がしてきました。

 ここ数日、空知・北村の三等三角点「怪物路」に寄り道しています。もとは一等三角点「手稲山」がきっかけでした。この三角点と手稲山山頂、標高との関係性が、私には未知だったのです。かねて手稲山の山頂の所在地は札幌市手稲区ではなく、西区だとも聞いていました。これを確かめるのにも、意外と手間取りました。

 注:国土地理院サイト「基準点成果等閲覧サービス」の「点の記情報」による。

2019/11/23

「手稲宮の沢」の「1」

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)“となりのレトロ”が、一か月ぶりにオンエアされます。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 予定は11月25日(月)です。何かと話題になった「新川通」を歩きます。ご笑覧いただければ幸いです。

 昨日ブログで札幌市手稲記念館の所在地の旧称を誤って記し、訂正しました。その訂正にもまた誤りがありましたので、再訂正いたします。恥ずかしいかぎりです。すみません。「西町南21丁目」の旧称は「手稲宮の沢1条南3丁目」ではなく、「手稲宮の沢1南3丁目」でした。「条」はありません。札幌建築鑑賞会スタッフSさんからあらためてご指摘いただきました。
 たしかに、札幌市ウエブサイトの「廃止町名一覧」ページでは「手稲宮の沢1南3丁目」と、「条」は付いていません。一方、昨日ブログに追記した昭文社「エアリアマップ 札幌区分地図」1987年の当該地域には「1条南」とあります。
昭文社エアリアマップ札幌区分地図 1987年 西区手稲宮の沢 再掲
 赤いを付けたところです。国道5号(当時)の北東側には「1条北」とも書かれています。これを見て、札幌市サイトのほうは「条」を省略したのかと私はまた勘違いしました。市サイトのページは正しい表記だったのです。

 「手稲宮の沢1」というような町名(序数詞的な接尾語がない町名)を私は無意識のうちに弾いてしまいました。現在西区にある「八軒○条西(または東)○丁目」というような(ちゃんと「条」が付く)表記に、引きずられたのかもしれません。札幌市の「廃止町名一覧」ページをよく見ると、「手稲東」も数字のみ+北(または南)○丁目」です。「条」が付いていません。ただし、数字のみは「手稲宮の沢」と「手稲東」の二つの町名だけだったようです。さらに、「手稲宮の沢」は「1」のみで、2、3…の形跡が見当たりません。札幌の旧称地名、奥深い。

2019/08/05

初三郎師が描いた北海道工業試験場

 8月3日ブログで、本日発行の読売新聞道内版に北海道遺産「札幌軟石」が紹介されるとお伝えしたのですが、本日紙面ではまだ掲載されませんでした。すみません。明日以降をお待ちください。

 北海道博物館で開催されている「アイヌ語地名と北海道」展を観覧しました。
 吉田初三郎「北海道鳥瞰図」1936年が展示されています。撮影可とのことなので、撮らせていただきました。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 全体
 本作品は、同年に北海道を行幸した昭和天皇の天覧に供されるべく描かれたそうです。

 屏風の中央やや左に札幌周辺、石狩低地帯が描かれています。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 札幌周辺
 1936(昭和11)年は北海道で陸軍特別大演習が行われた年です。札幌がかなり大きな割合で描かれているのは、道都だからというのみならず、「大本営」が置かれ、大元帥が行在することになったゆえでしょう。当時、札幌の人口はまだ函館を下回っていました。
 さて、デフォルメの奇才天才ともいうべき初三郎師が札幌とその周辺をどのように描いたか。何を描いたか。

 琴似界隈では、「農事試験場」と「工業試験場」です(黄色の矢印の先)。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 琴似
 昭和天皇の行幸先でした(8月4日ブログ参照)。この二つしか、描かれてません。工業試験場(右側)が「コ」の字乃至「ロ」の字平面で描かれているあたり、芸が細かい。

 参考までに、当時の北海道工業試験場の平面図を載せておきます。
北海道工業試験場 平面図 1934年
 『北海道工業試験場要覧』1934年から採りました。1階はほぼ「ロ」の字、2、3階は「コ」の字です。

 同書掲載の俯瞰図です。
北海道工業試験場 俯瞰図 1934年
 試験場が刊行したこの俯瞰図と、前掲初三郎先生の絵図を較べてみます。
 先生は正確にデフォルメしているなと私は思いました。「正確にデフォルメ」というのは変ですね。特徴をとらえてデフォルメしている。

 と、こんな調子で観ていくと興味が尽きません。私がさらにそそられたのは初三郎師が「何を描いたか」もさることながら、「何を描かなかったか」です。

2019/08/04

道警琴似庁舎に遺る記憶(承前)

 7月27日ブログの続きです。
 北海道警琴似庁舎の中庭にかつてあった遺物の行方が気になっていました。
 道警琴似庁舎 中庭 旧工業試験場当時のモニュメント 2002年
 これは、1937(昭和12)年に建立されたモノの痕跡です。この地にあった北海道工業試験場を前年の1936年、昭和天皇が行幸しました。それを記念して置かれたのです。2002(平成14)年に現地を見たときは、台座しか遺っていませんでした。
 
 遺物は現在、琴似庁舎内に安置されています。
旧北海道工業試験場行幸記念碑 道警琴似庁舎内 2019
 台座の上に、彫像を戴いています。2002年当時、彫像はどこか別のところに保管されていたのでしょう。

 彫像の足もとに由来が記されています。
旧北海道工業試験場行幸記念像 下部 道警琴似庁舎内 2019
 「建立 昭和12年12月2日 デザイン 本郷新氏 制作 涌井辰雄氏(北海道工業試験場工芸部窯業科)」とのことです。
 
 この場所は、北海道における窯業の濫觴の地でした。ガラスケースが反射して見えづらいのですが、人物像のうしろのギザギザは歯車を象ったかにも察せられます(黄色の矢印の先)。工業試験場をシンボライズしたのだろうか。きちんと確かめなかったので、もう一度鑑みてこよう。 

 うかつなことにすっかり忘れていたのですが、私はこの像を2003(平成15)年、すでに拝んでました。
道警琴似庁舎 旧工業試験場 昭和天皇行幸記念彫像 2003年
 現庁舎が竣工した年です。竣工間もないので、うしろの壁に指名手配のポスターなどがまだ貼られていません。

 古いアルバムを見直して、写真を撮っていたのに気づきました。2002年に中庭にあった台座のことは覚えていたのに、翌2003年屋内に復元されていたことは忘れていたのです。記憶がまだらになってきているのは年のせいか、はたまた…。

2019/07/27

道警琴似庁舎に遺る記憶

 道警の琴似庁舎です。
道警琴似庁舎 正面 2019年
 琴似と冠していますが、西区八軒にあります。

 前掲とほぼ同じ地点から2001(平成13)年に撮った景色がこちらです。
道警琴似庁舎 2001年
 現庁舎が建つ前の、古い建物が写っています。現庁舎は2003(平成15)年、この建物の「もとのデザインが生かされ」て、建てられたそうです(末注①)。

 旧庁舎は「北海道工業試験場」として1923(大正12)年にまず、向かって左側の2階建てが建てられました。その後、1928(昭和3)年、右側の3階建てが増築されます。いずれも鉄筋コンクリート造です(末注②)。この建物や工業試験場の歴史的意義は、…本来私としてはそれを披瀝せねば先に進めないのですが、長くなるのでひとまず割愛します。

 お伝えしたかったのは、別にありました。
 道警琴似庁舎 中庭 旧工業試験場当時のモニュメント 2002年
 旧庁舎時代の2002(平成14)年、中庭にあったモノです。庁舎の建替えに際して内部を見学させていただき、これを目にして「何だろう?」と思いました。モダニズムなたたずまいです。
 のちに由来を知りました。工業試験場当時の遺物だったのです。工試の職員だった方に教えていただきました。建立されたのは1937(昭和12)年です。この物件の所在が気になっていました。

 注①:『かがやけコトニ 里の歩みそして夢』2007年、p.35
 注②:北海道工業試験場『北海道工業試験場要覧』1934(昭和9)年、p.6

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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