札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/01/09

長屋の湧水 痕跡?

 昨日、一昨日ブログで綴った西区山の手の「長屋の湧水」の、流路跡とされる一帯を歩いてみました。
 
 まず現在図で確認しておきます(元図は国土地理院サイト標準地図から)。
現在図 山の手 長屋の湧水
 相澤季男『山の手のおいたち』に描かれている流路に基づき、北海道医療センター、山の手小学校の付近をなぞりました。同書には「三浦恵蔵さんの所(現在の北海道医療センターの角)から30~40m先で山の手通りを横切り」と書かれています。

 北海道医療センター付近を拡大します。
現在図 山の手 長屋の湧水 山の手小学校付近

 黄色の▲で示した先の風景です。
山の手5条6丁目 長屋の湧水跡?
 医療センターと交差点をはさんでナナメ向かいに看護学校があります(画像右方、円形状のビル)。医療センターの角から「30~40m先で山の手通りを横切」ると、この看護学校の敷地に入ります。

 橙色の▲で示した先、看護学校の駐車場です。
山の手5条6丁目 長屋の湧水跡? 看護学校駐車場
 湧水は駐車場を横切り、左方の住宅との境界に沿って奥へ流れていったようです。

 赤の▲の先です。
山の手5条6丁目 長屋の湧水跡? 看護学校の敷地境界
 流路は、看護学校と住宅との敷地境界に沿って通じていたのではないかとみました。現在、学校のコンクリート塀がつらなっています。手前から奥にかけて、わずかに下り勾配になっています。また、コンクリート塀の左側の住宅地も、少し低くなっているようです。
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2018/01/08

西区山の手を流れていた川 ② 長屋の湧水

 昨日ブログでお伝えした「長屋の湧水」の続きです。
 この湧水は、琴似発寒川が削り遺した三角山からつつじ山にかけての丘陵(末注①)の崖下から発していました。扇状地の伏流水が湧いたのではないかと思います。豊平川(サッポロ川)扇状地平岸面における天神山麓で水が湧いていたことと、地形的に共通しているようです。山の手の郷土史家・相澤季男さんは次のように語っています(「座談会 山の手の昔を語る」『山の手二十三町内会 創立五十周年記念誌 あやめ咲く町』2015年、p.27、引用太字)。
 この地域はもともと琴似発寒川の扇状地です。昔、川はつつじ山の麓から山の手小学校付近を通り、琴似中学校方面に流れていたと考えられます。 
 
 「つつじ山の麓から山の手小学校付近を通り、琴似中学校方面に」という流れは「長屋の湧水」とほぼ一致しており、相澤さんは琴似発寒川の旧河道を見たのではないでしょうか。

 大正5年地形図に「長屋の湧水」をなぞってみました。
大正5年地形図 山の手 長屋の湧水
 水色加筆がその流路です。琴似発寒川と、川から引いた人工用水路(末注②)を濃い青、このあたりの等高線を薄茶色でなぞりました。黄色の線が水上通り、赤い○は現在の山の手小学校の位置です。扇状に広がる地形からしても、琴似発寒川の旧河道が流れていたことが想像されます。

 注①:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年によれば、ハチャムエプイからオペッカウシ。前掲『山の手二十三町内会 創立五十周年記念誌 あやめ咲く町』p.10、p.18によれば、その一峰がつつじ山で、寺口山とも呼ばれた由。
 注②:人口用水路は明治初期の屯田兵村開村時に引かれたものとは別に、昭和戦前期にあらためて開鑿されたという(2017.12.24ブログ参照)。よって、大正5年当時地形図に加筆したのはあくまでも便宜的である。

2018/01/07

西区山の手を流れていた川

 西区山の手から琴似にかけて人工的な用水路が流れていたことを先に記しましたが、山の手には自然河川も流れていました。これも郷土史家、相澤季男さんの『山の手のおいたち』2010年(12月28日ブログ参照)で知ったことです。

 同書に基づき、その流路を空中写真で示します(国土地理院サイトから、2008年)。
空中写真2008年 山の手 湧水
 水色で加筆してなぞりました。濃い青は用水路、黄色の線が水上通りです。
 
 前掲書には次のように記されています(p.93、引用太字)。
 昔から長屋の本家と呼ばれていた①長屋甫さんの家の前から常に湧き水がコンコンと流れ出していたのは、確か昭和33~34年頃の発寒川の築堤工事が始まる頃までであったと思う。その湧き水が②約100m流れ出た所に大きな凹みがあり、そこの一面沼みたいになった所にヨシが生えて、そこから更に流れて斉藤万蔵さんの庭に至り、③立派な日本庭園とリンゴ園の中を通って④三浦恵蔵さんの所(現在の北海道医療センターの角)から⑤30~40m先で山の手通りを横切り河村(河村金三郎)さんの水田に注いでいたのである。 便宜的に下線と番号を付けました。 

 1948年の空中写真で、それらしく写る影をなぞってみました(同じく同院サイトから、方位はおおむね10時の向きが北))。
空中写真 1948年 山の手 湧水
 前述引用文中の各番号に相当する箇所を赤い○数字で示しました。黄色の□で囲ったところは前掲書著者、相澤さんの屋敷です。屋敷の南西側(山側)、すなわち②の箇所に「大きな凹み」「一面沼みたいになった所」がありました。相澤さんの甥のAさんの話でも「家の前(山側)は原っぱで、池があった」とのことです。

2018/01/02

電柱「水上幹」遺聞

 1年前の拙ブログを見直したら、電柱プレートのことを綴っていました。今年の逍遥ブログ初めも同じです。一年、進歩がありませんが。

 山の手の「水上通り」沿いの電柱に「水上幹」があることは、札幌建築鑑賞会スタッフSさんから聞いていました。
電柱 水上幹
 12月29日ブログで引用させてもらった北海道新聞夕刊連載「山田航のモノローグ紀行」2017年2月24日「山の手の水上通」にも記されています。

 なので、もはや「水上幹」は珍しくないのですが…。 
電柱 上水幹
 同じ通りで、「上水幹」というのを見つけてしまいました。ずっと見渡す限り、今のところほかはすべて「水上幹」ですが、なぜか一箇所だけひっくり返っています。稀少な逸品に出くわした気分になりました。

 「水上」というプレートもありました。
電柱 水上通
 これも、確認されたのは現時点で一点のみです。「昭45.10」と書かれているので、47年前ということでしょうか。探せばまだ残っているかもしれませんが、通りの名前として現地に遺る物件という意味で、これも稀少かもしれません。

2017/12/29

水上通り、川添通りに関するまとめ

 延々と続けてきた水上通り、川添通りについて、締めくくります。
 「西区や琴似というか地域の郷土史編纂レベルであまりに纏められていない、認識に差がある現状が伝わって来てしまって混乱していると言うところです」というコメントをいただきました。
 拙文のまわりくどさを棚に上げていうならば、歴史にかような混乱はつきものかもしれません。混乱の中から新たな地平が拓けることを念じます。蟷螂の斧ですが、通説的な独り歩きを鵜呑みにしないことを肝に銘じ続けたいものです。

 「通説的な独り歩き」の証左を挙げましょう。北海道新聞夕刊連載「山田航のモノローグ紀行」2017年2月24日「山の手の水上通」に、次のように書かれています。長くなりますが、引用します(太字)。

 札幌市西区琴似には川添通という道路がある。大まかに言うと、地下鉄東西線琴似駅とJR琴似駅をつなぐ通りの裏道である。マックスバリュ琴似3条店のあたりで、北5条手稲通(旧国道5号)にぶつかって途切れる。
 大正時代の地図を見てみると、琴似発寒川流域の現在は琴似3、4条あたりの地域に「川添」という地名が記載されている。①なぜ「川添」なのかというと、かつて「水上川」と呼ばれた川があったからである。
 (引用者注:「水上川」に「みずがみがわ」とルビ)
 水上川は新川に分断される前の当時の発寒川を源に、現在の北5条手稲通から東に折れて、屯田兵村の時代からメインストリートだった琴似栄町通(琴似本通)に沿って流れていたという。川添通はこの水上川と琴似発寒川の間を走っていたことから名付けられた。2本の川に挟まれた場所だったということになる。 しかし水上川は戦後に埋め立てられ、今ではその痕跡をたどることはできない。
 そして現在の山の手4条と5条の間の通りが、かつては水上通と呼ばれていた。④昔は通り沿いにリンゴ並木があったとか。 山の手会館という飲み屋ビルがあり、味わいのある場所である。電信柱を見上げてみると番号札に「水上幹」と書かれていることがある。 ⑤この一帯が水上という地名だったことを留める、貴重な遺産だ。


 下線と○数字は、私が便宜的に付しました。12月25日ブログに記したとおり、おそらくこの文は西区役所の『歴史の街 西区』を下敷きにしていると思います。12月12日ブログに載せた引用文と比べていただくとお判りいただけるでしょう。そして『歴史の街 西区』は『札幌地名考』に基づいているようなので(12月13日ブログ参照)、くだんの文章は孫引きといえます。孫引きの良し悪しを言いたいのではありません。新聞記事にわざわざ参考文献を付記するのも煩雑なことです。俎上に載せたのは、私が一連の疑義、異論を総括するのに山田さんの文が都合よくまとまっているからです。通説的な独り歩きがいかに拡大再生産されるかという実例ともなりえています。“伝言ゲーム”現象(2015.11.25ブログ参照)の考察です。

 下線①:「川添」は、「水上川」に由来するとはいえない。「水上川」という呼称は疑わしい。「みずがみ」の読みは、元来「みなかみ」である。→12月25日26日27日28日各ブログ参照
 下線②:「水上川」とされる用水路は琴似本通りだけに沿っていたのではない。→12月23日24日各ブログ参照
 下線③:「川添通」は、琴似発寒川の「川添」(地名)に由来する。→12月26日ブログ参照
 下線④:リンコ園はあったが、リンゴ「並木」があったという根拠はない。→12月13日ブログ参照
 下線⑤:「水上」は「地名」ではなく、通り(道路)の名前である。通りの名も広義では地名に入るだろうが、「この一帯」とまでいうのは語弊がある。→12月27日ブログ参照

2017/12/28

まぼろしの水上川

 私の中で、「水上川」がまぼろしと化しつつあります。用水路はたしかに流れていましたが、「水上川」とは呼び慣わされていなかった。山の手に1945(昭和20)年からお住まいのAさんにお話を伺い、その思いを深めました。

 Aさんは、先日来引用させていただいている『山の手のおいたち』の著者である相澤季男さんの甥に当たります。Aさんにお会いしたのは、相澤さんにお目にかかろうと思ったのがきっかけです。
 私が相澤さんに直接お尋ねしたいと思ったのは、これまで拙ブログをお読みいただいた方にはお察しいただけるでしょう。相澤さんの著述や琴似の郷土史家Nさんへの聞取りに照らして、札幌市西区役所発行の『歴史の街 西区』2013年の記述に疑問がいろいろ出てきたからです。私には相澤さんやNさんの説のほうがどうも信憑性が高く感じられました。役所の“正史”よりも、市井の郷土史家に説得力がある。
 西区役所の名誉のために申し添えれば、「疑問がいろいろ出てきた」のは同書のあくまでも「川添通」の項(p.29)に関してのみで、全56ページのうちのわずか半ページ足らずです。半ページ足らずで疑問がいくつかあるからといって、同書のすべてを推して知るべしとするのは乱暴なので、ひとまずこの項に限ることとします。

 相澤さんの『山の手のおいたち』に私が史料的価値を高く感じるのは、ご自身の直接的な体験が綴られ、昭和戦前から戦後の山の手地区の写真(ご自身の撮影と思われる)がふんだんに掲載されていることです。ご健在なうちにぜひ、いろいろ確かめたい。
 結論的にいうと、相澤さんへの聞取りは見合わせることにしました。ご高齢であることと、代わりに甥のAさんからお話が聴けたからです。Aさんも長く山の手にお住まいの方で、のみならず、町内会の役員として『山の手第二十三町内会 創立五十周年記念誌 あやめの咲く町』2015年の代表編集委員を務めてもおられました。
山の手第23町内会 あやめの咲く町
 ときに単位町内会が出色の郷土誌を刊行していますが、本書もその一つだと思いました。

 そのAさんと交わした会話の一部を、以下記します。
 私:「水上通り」は「みなかみ」と言っていたのでしょうか?」
 Aさん:「みなかみ」ですね(傍らのAさんの奥様も、「私たちは『みなかみ』と呼んでますね」と)。
 私:水上通りに沿って流れていた用水路のことは、何と呼ばれていたのでしょうか?
 Aさん:特に名前は付いていませんでした。
 私:ナントカ用水とか、ナントカ堀とか、ナントカ川とか…?
 Aさん:いや、ただ「防火用水」でないかな。
 私:西区役所の『歴史の街 西区』に、「水上川と呼ばれていました」と書かれているのですが、そのように呼んでいたことはありませんか?
 Aさん:ないですね。それ(水上川)は私も何かで読んだことがあり、「変だな」と思いました。

 余談ながら、Aさんにお会いできたのは結果的に幸運でした。前述の『山の手のおいたち』に著者の連絡先が記載されていなかったので、ゼンリン住宅地図で当たりを付け、最初に伺ったお宅で「相澤季男さんはこのあたりにお住まいでしょうか?」とお尋ねしたら、甥のAさんだったのです。著者の説を、ご親族とはいえ別の方から裏付けることができました。

2017/12/27

水上通り 補遺

 こんどは「水上通り」に関する補足です。
 山の手 水上通り

 この通りの由来については、私は『さっぽろ文庫1 札幌地名考』に依拠してきました(12月13日ブログ参照)。

 同書の記述を再引用します(pp.164-165、引用太字) 
 水上通(みずがみとおり)
 現在の市道山の手四号線の古称である。かつてこの道路の脇を小川が流れており、上流をたどっていくと三角山の西側に形成された丘陵を迂回し、発寒川を源としているので、水上という名が冠せられたと思われるが、はっきりしていない。


 相澤季男『山の手のおいたち』2010年は、この説を否定しています。同書によると、この通りはもともと「雨の日などにはうっかりすると水溜りにハマったりすることは珍しくなかった」のだが、昭和戦前期、道に石炭殻を敷いて「雨が降ってもぬからず、水の上のように平らに、そして綺麗になって」「皆の勤労奉仕で次第に坂も埋められ、端の方も草も生えなくなったので、近くの住民が皆で水上通りと呼ぶことにした」そうです(p.88)。
 読みは「みなかみ」だといいます。「物の本には『みずがみどうり』と記されているものもあるが、これは誤りであることを記しておこう。古老からは、『みずがみ』と言う人がいると、いつも『みなかみ』と叱られたものであった」と(同)。
 
 「水の上のように平ら」な道になったから、ですか。
 古地名の由来というのは、史料的な裏付けというよりは口承、伝承に依るところが大きいようです。読みに至ってはそのときどきで変化もします。正誤を決するのが難しい世界だと思いますが、大正時代に地元に生まれ育ったという著者のご記憶は尊重したいものです。

2017/12/26

川添通り 補遺

12月14日ブログの結論については、もう少し補足します。「川添通り」の由来です。これまで私は『歴史の街 西区』の記述(12月12日ブログ参照)に依拠してきましたが、これも疑わしくなりました。同書の記述を再度引用します(p.29、引用太字)。
 現在の西郵便局(山の手5条1丁目)の近くに「水上通」という通りがありました。この通りの脇に発寒川(当時)を源とした川があり、現在の北5条手稲通(旧国道5号)から東に折れて、琴似栄町通(琴似本通)に沿って流れていました。この川(水上川と呼ばれていました)と琴似発寒川の間を走ることから「川添通」と名付けられました。

 12月23日、24日ブログで述べてきたように、「水上川」とされた用水路は昭和戦中から戦後にかけて琴似の市街を三本、流れていました。「琴似栄町通(琴似本通)に沿って」流れていただけではありません。よって「間を走ることから」を理由するのが、まず不正確です。用水路は、当の川添通り自体にも沿って流れていました。ならばそれを理由にして「川添」ではないかという理屈が成り立ちそうですが、三本の流路の一本だけことさら「川添」とするのは、不自然に思えます。

 この間たびたび言及させていただいている琴似の郷土史家Nさんは「琴似で『川』といえば、(琴似)発寒川です。その川添いでしょう。もともとは(琴似発寒川の右岸を、地名として)『川添』と呼んでいた一帯で、通りの名前に付いたのはここ何十年かの“最近”のことです」と説明してくださいました。

 Nさんの説明の裏付けになりそうな古地図を紹介します。
札幌郊外円山町琴似軽川明細図 川添
 「札幌郊外円山町・琴似・軽川・明細図」1938年から抜粋しました。
 北を上にして地図の向きを変えたので文字が逆さになっていますが、黄色の○で囲ったところに「川添」と書かれています。その北西側に描かれているのは琴似発寒川(当時は「発寒川」)です。黄色の直線で加筆してなぞったのが現在の川添通りになります。この通りの南東側が、かつての琴似屯田兵村の旧域です。
 この地図に書かれた「川添」は、琴似発寒川の川添いに見えます。琴似発寒川と兵村旧域の間の一帯が「川添」と呼称されていたようです(末注)。やはりNさんのおっしゃるように、先に通称地名としての「川添」があり、その後、一帯に沿う道を「川添通り」と呼ぶようになったのではないでしょうか。

 実は私は、「川添」の川はチツフトラシ(チプトラシ)のことではないかとも思っていました。しかし、先日来述べてきたようにチツフトラシはあくまでもJR鉄路のすぐ南西側から発しているので(12月23日ブログ参照)、根拠としては弱いと思い直しています。
 ただし。
 Nさんはこうもおっしゃいました。「琴似発寒川は“暴れ川”で、流れを右に左に大きく変えていました。「川添」の一帯も、かつては川が流れていたことがあったでしょう」。
 「網状河川痕」(12月14日ブログ参照)と合致する話です。「川添通り」は土地の記憶といえます。

 注:二十四軒手稲通り(地下鉄東西線が走る)を境にして、北東側が「川添東」、南西側が「川添西」と呼ばれたという。今も町内会名に「川添東」が残る。

2017/12/25

「水上川」に関する訂正

 12月14日ブログを、私は次のように締めくくっていました。
 「水上川」も網状河川の一つだったといえそうです。もしかしたら琴似発寒川の本流だったこともあるかもしれません。チツフトラシ(チプトラシ)も、しかり。これらの川たちに「川添通り」は沿っています。チツフトラシ西川(2017.12.12ブログ参照)は、本流が現在の河道に定まった後、旧河道が伏流水となり、扇状地の扇端から湧き出たものといえまいか。サクシコトニ(2015.10.31ブログ参照)が太古、豊平川(サッポロ川)の本流で、のちにメムから湧き出た小河川となったように。

 12月23日及び24日ブログでの考察を経て、上記の見解を一部削除します。削除するのは「『水上川』も網状河川の一つだったといえそうです。もしかしたら琴似発寒川の本流だったこともあるかもしれません」です。
 12月13日ブログで引用したとおり、『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年「水上通り」の項に、(通りを流れていた川は)「元来が、この辺りの自然が作った用排水路の代用とされてきたもの」と記されています。この記述を私は読解に苦しみました。「自然が作った」という修飾句は、「用排水路」に係るのか、「代用とされてきたもの」に係るのか。私は後者と理解しましたが、ともあれ「自然が作った」に惑わされたのです。
 しかるに、昨日と一昨日引用してきた文献からすると、人工的に開削されたことが書かれています。流路は大半が直線的で、明らかに人工的です。自然河川の旧河道跡を裏付ける史料や痕跡は今のところ見つけられません。よって自然が織りなした「網状河川の一つだったといえそう」は不適当という結論に達しました。なお、チツフトラシ(チプトラシ)は昨日一昨日述べてきたように、これとは別物と考えます。よって後段部分の推論は残します。
 
 さて本題は、そもそも「水上川」という川名です。
 12月23日ブログの「末注③」で、私は「この用水路に『水上川』という川名が呼称として定着していたか疑問があるが、ひとまず措く」と記しました。この川名を拙ブログで最初に用いたのは12月12日です。札幌市西区役所『歴史の街 西区』2013年の記述に基づきました(p.29)。言い訳がましいのですが、そのとき一抹の疑念があり、川名をカギカッコで括りました。前述『札幌地名考』では「小さな無名川であった」と記しています。その後当たった文献でも、「水上通り」は出てきても「水上川」は見当たりません。『歴史の街 西区』以外で「水上川」に出逢ったのは、管見の限り比較的つい最近の新聞記事のみです。その記事というのは北海道新聞夕刊連載「山田航のモノローグ紀行」2017年2月24日「山の手の水上通」なのですが、結論的にいうとこれは『歴史の街 西区』の記述を下敷きにしていると思われます。
 琴似屯田兵子孫の郷土史家Nさんは、「水上通り」はともかく「水上川」は聞いたことがないとおっしゃっていました。関係しそうな史料資料にすべて当たったわけではないので断定はできませんが、『歴史の街 西区』に記された「水上川と呼ばれていました」というのがどうも怪しいのです。

2017/12/24

琴似屯田兵村を流れていた用水路 ②

 琴似屯田の兵村域を流れていた用水路は、いつ開削され、いつごろまで流れていたか。
 屯田兵子孫にして郷土史家のNさんのご記憶では、昭和20年代、昨日ブログに載せた地図に示した三本の流れがあったそうです。20年代後半には“側溝”になっていたといいます。U字溝のような形状だったのでしょう。昭和30年代、道路の舗装化とともに埋め立てられていったとのこと。暗渠化された可能性もあります。

 開削されたのはいつか。
 『琴似町史』によると、1881(明治14)年です(p.174)。ただし、このとき掘られたのは昨日ブログの流路とは若干異なっています。同書の記述に基づくと見られる流路が、『さっぽろ文庫50 開拓使時代』掲載の兵村の絵図に描かれています(pp.128-129)。これを大正5年地形図になぞってみます。
琴似屯田兵村 明治期開削用水路 大正5年地形図
 大きな違いは、琴似本通り(橙色で加筆した道)を流れていないことです。また、昨日ブログで示した流路では旧国道に沿って通されていましたが、『町史』では旧国道より北東側に入ったところを通しています。

 旧国道より上流(南西側)は描かれていませんが、『琴似町史』では「発寒川」から用水を引くべく」と記されており、やはり琴似発寒川から取水していたのでしょう。相澤季男『山の手のおいたち』によれば、屯田兵村時代に開削されたものは「大正時代には用がなされていなかったと思われる」としつつ、「しかし、第2次世界大戦(大東亜戦争)が始まると、琴似町の防火用水として再び水上通りを通って素掘りの水路が出現したのである」と述べています(p.38、末注)。「水上通り」は前掲図で緑色の線でなぞりました。同書では、「昭和16年頃と記憶しているが、防火用水路の設置の話が出て、急に発寒川の崖下から蛇籠で仕切り、水の取り入れ口を設け、用水路を作ったのである」とも書かれ、流路も図示されています(p.92、94)。昨日ブログに載せた流路はこれに基づきます。

 一点、注意を要するのはチツフトラシ(チプトラシ)との関係です。前掲図のとおり、兵村北西端(川添通り、黄色でなぞった道)の流路の下流にチツフトラシが流れています。用水路をつなげた可能性は否定しきれませんが、チツフトラシは12月10日ブログに記したように、JR鉄路の南西側を湧水源とした自然河川です。

 注:小泉雅子「琴似屯田の用水路」『琴似屯田子孫会会報』第4号1990年6月15日では、明治期開削の用水路が「昭和三十年頃までの永い(ママ)歳月に亘って地域の生活に密着して多大の恩恵をもたらしました」と記され、機能が中断せずに持続していたかに読める。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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