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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/07/21

東月寒・向ヶ丘の地質

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編の資料を作る際、最後まで迷った箇所がありました。
 迷ったのはひとえに私の浅学によるのですが、「向ヶ丘」地区の地誌、なかんづく地質に関する記述です。向ヶ丘を含む月寒台地は一般に支笏火砕流の堆積によって形成されたとされます(末注①)。巨視的にはそうなのですが、微視的にみるとおしなべてそうだとは言い切れないようです。羊ケ丘の展望台や北海道農業研究センター(旧北海道農業試験場)のあたりには火砕流堆積物が分布していないとも指摘されています。「焼山-月寒台地、白旗山、島松山などの地形の高まりを避けて流下している」というのです(末注②)。

 たとえば、次に示す地質図では向ヶ丘の一帯が火砕流堆積物の分布とはされていません。 
新札幌市史第一巻 付録地形図 向ヶ丘周辺
 『新札幌市史』第一巻1988年付録地質図からの抜粋です。場所を判りやすくするため、国道36号を黄色の線、札幌ドームを橙色の、産業共進会場(月寒グリーンドーム、現存せず)を赤いで着色加筆しました。凡例によると、ピンク色のSpが「支笏火山噴出物 軽石流堆積物」ですが、向ヶ丘のあたりは薄緑色のTcで、これは「月寒粘土層 粘土・砂」です。火砕流がこの部分の「高まりを避けて流下」したかに描かれています。白地のAlは「氾らん原堆積物」です。これは月寒川、ラウネナイ川、ウラウチナイ川の沿川と一致します。

 一方、こちらは産総研地質調査総合センターの「シームレス地質図V2」から採りました。
産総研地質図 向ヶ丘周辺
 同じく橙色のと赤いは加筆です。凡例によると、向ヶ丘を含むピンク色の地は「形成時代: 新生代 第四紀 後期更新世中期」で、「岩石: デイサイト・流紋岩 大規模火砕流」です。これは支笏火砕流を示します(岩石としては凝灰岩も堆積しているかと思うが、措く)。黄緑色は「形成時代: 新生代 第四紀 中期更新世後期」「岩石: 段丘堆積物」です。これは前掲『新札幌市史』地質図の「氾らん原堆積物」と一致します。

 私は遠足の資料に「台地のなだらかな地形と火砕流堆積物の地質が、人々の生業を酪農やリンゴに向かわせたのかもしれません」と記しました。後者の産総研地質図に従うならば、大筋で間違ってはいないと思います。しかし前者によるならば、火砕流堆積物とはいえないので、正す必要があります。さて、どうしたものか。

注①:大内定「札幌の地形」『さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、pp.28-29
注②:松下勝秀「札幌と支笏湖」同上、p.146
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2018/07/20

八紘学園で見かけたトラクター

 ジョンディア1630。
八紘学園 トラクター
 この学校にトラクターがあるのは、これまた何の不思議もないのですが。

 車体に「専修大学北海道短期大学」と書かれていました。
八紘学園 トラクター 専修大学北海道短大
 閉校した学校から譲り受けたのですね。

2018/07/19

八紘学園 農産物直売所のサイロ ②

 7月15日ブログの続きです。
 八紘学園農産物直売所のサイロにまつわる二つの謎を解きます。
 第一の謎。なぜ、ここに道の施設が建てられたか? 
 先のブログで記したように、このサイロは昭和20年代、「道立家畜人工授精所」の施設として建てられたものです。しかし同所の業務はその後、財団法人の北海道酪農開発事業団(のちに北海道家畜改良事業団、現在のジェネティクス北海道)に移管されました。組織が変遷していますので、当時のことをたどるのはむずかしいと私は思いました。『八紘学園七十年史』にも、道の施設が設けられたことの「なぜ」までは、言及されてません。
 そこで私が手がかりとしたのは「北海道石狩家畜保健衛生所」です。この施設もほぼ同じ一画に1950(昭和25)年から1976(昭和51)年まであり、現在も別の場所で存続しています。7月17日18日ブログで同所に寄り道したのは、そのためでした。
 同所に問い合わせたとき、幸いにも職員の方が1950年設立当時まで追跡してくださいました。その結果、同所が八紘学園の敷地に設置されたのは学園(当時の名称は「月寒学院」)からの要望に基づくことが判りました(末注①)。
 家畜保健衛生所の経緯からの類推ですが、人工授精所もまた学園が誘致したことが窺われます。これは学園創設者・栗林元二郎の思想が反映していたことでしょう。家畜の人工授精や保健衛生の行政機関が同じ一画にあることは、実践的な農業教育を進める学園にとって好都合であったに違いありません。栗林はのちに(昭和40年代)「農場公園」を構想し、これに共感した町村金五知事(当時)により「道立産業共進会場」も学園の敷地に作られました(2018.6.12ブログ参照、末注②)。

 第二の謎。サイロの煉瓦はなぜ、フランス積みで積まれたか? 
 そもそもなぜ、積み方にこだわるか、その理由は7月15日ブログで記したとおり、我が国における煉瓦の積み方の歴史的変遷によります。ひとことでいえば、イギリス積みがフランス積みを凌駕していったのですが、しからばなぜ、イギリス積みが凌駕したか。 

 手元にあるミニチュア煉瓦でフランス積みとイギリス積みを再現してみました。
ミニ煉瓦 フランス積み
ミニ煉瓦 イギリス積み
 上がフランス積み、下がイギリス積みです。

 自分でやってみて実感するのですが、フランス積みって、けっこう手間がかかります。イギリス積みは同じ段で同じ向きにずっと並べていけばよいのに対し、フランス積みでは向きを交互に変えていく必要があるからです。イギリス積みが日本で普遍化した一因を見る思いがします。
 ではあらためて本件サイロではなぜ、フランス積みにしたか。
 このサイロの建設についてはエピソードが残っています(末注③)。最初に煉瓦を積んだとき、不具合があって煉瓦を積みなおしたというのです。どうも積み方がまずかったらしい。積み直しをしたのは伝説の煉瓦積み職人・長浦数雄です。どうもこの積み直しにいわくがあるような気がします。ただし、元の積み方もフランス積みだったのか、それとも積み直したとき新たにフランス積みにしたのかは不詳です。
 ここからは私の想像です。
 ①長浦さんの洒落っ気
  元の不出来を正した長浦さんが、どうせなら手間ひまかけてと遊び心を出した。
 ②中空積みによる断熱保温効果
  煉瓦で中空を設ける積み方は「小端空間積み」が一般的だが(2017.1.31ブログ参照)、フランス積みでも「一枚半積み」だと、中空を設けることが可能となる。ただし、小端空間積みに比べて、使う煉瓦の数が多くなるし、作業効率も下がる。本当に実現していたら、贅沢な積み方である。あえてそうしたのは、道の施設の不出来を直した長浦さんの職人気質か。
 長浦さんに聞いてみたかった。

 注①:家畜保健衛生所の記録によると、当時、道は国道36号に面する場所への設置を望んでいたようだ。しかし結果的には国道からは奥に入った現在地に建てられ、道としては本意ではなかったらしい。
 注②:完成した1972(昭和47)年当時の知事は堂垣内尚弘である。
 注③:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号、2000年8月、p.7、『とよひら煉瓦散歩』2005年、p.31

2018/07/18

北海道石狩家畜保健衛生所の畜魂碑

 昨日ブログの続きです。
 八紘学園の農畜産加工研究室の一隅にある畜魂碑は「北海道石狩家畜保健衛生所」によって建立されました。これが私の推認です。この建物と土地の所有、所管は戦後いろいろと変遷してきたのですが、碑が建った1970(昭和45)年当時は家畜保健衛生所でした。同所はたしか家畜の殺処分を担当していると思います。畜魂碑もむべなるかな。7月16日ブログで私は「何か引っかかる」と記しましたが、その引っかかりが取れました。
 
 石狩家畜保健衛生所は1976(昭和51)年に移転し、現在は豊平区羊ケ丘にあります。
石狩家畜保健衛生所 入口
 移転のとき、碑も一緒に引越しするのは断念したのでしょう。かなり重そうです。

 先日同所に問い合わせたとき、現所在地にも畜魂碑があることをお聞きしました。
石狩家畜保健衛生所 畜魂碑
 その碑を拝礼してきました。同所職員の方のお話では、有志により建てられたものだそうです。

 現在の碑を、八紘学園に遺る旧碑と比べてみましょう。   
石狩家畜保健衛生所 畜魂碑 近景
八紘学園 畜魂碑 接写2
 上が現在の碑、下が旧碑です。
 本体の黒御影石をコンクリートで挟んで支えているところが似ていますね。
 旧碑が「昭和45年3月建立 町村金吾(ママ) 書」であるのに対し、現在の碑は「石狩支庁長 東清 書」です。裏面は、旧碑は何も刻まれていませんが、現在の碑は「昭和55年12月 睦羊会」と彫られています。睦羊会というのは職員の親睦会なのでしょう。こちらは建てた当事者が引継がれているせいか、碑前にカップ酒などが供えられていました。

2018/07/17

八紘学園の「畜魂碑」 ②

 昨日ブログの続きです。
 八紘学園の「畜魂碑」はだれが建てたか?

 碑の所在地を現在図で確認しておきます。
現在図 八紘学園 農産物直売所
 碑は、赤矢印の先に示したところにあります。橙色の矢印の先が農産物直売所となっている元牛舎と付設のサイロです。豊平区月寒東2条13丁目1-12に当たります。
 
 昨日ブログで記したように、ここには2001(平成13)年まで「北海道家畜改良事業団」(現ジェネティクス北海道)がありました。実は八紘学園の生き字引のS先生(7月13日ブログ参照)から、別の施設があったことも私はお聞きしました。それは「家畜保健所」です。しかし、くだんの畜魂碑については、S先生は「はて、碑なんかあったかな」と。
 この一画は半世紀にわたって学園の手から離れていたので、さしものS先生もご存じなかったのです。『八紘学園七十年史』2002年の巻末年表にも、1950(昭和25)年「学院敷地内に道立家畜保健所設立」と書かれているのですが、具体的な場所までは記されていません(p.669、当時は「月寒学院」)。

 北海道石狩家畜保健衛生所に問い合わせたところ、やはり1950(昭和25)年、学園敷地内に設立されたことは確認できました。しかし学園のどのあたりになるのかは特定できませんでした。なお、同所は1976(昭和51)年、豊平区羊ケ丘3番地に移転し、現在に至っています。

 古い空中写真を見てみましょう。
空中写真 1971年 家畜保健衛生所周辺
 1971(昭和46)年です(国土地理院サイトから)。
 畜魂碑と元牛舎、サイロの所在地を同じく赤矢印と橙色矢印で示しました。

 前掲現在図ともども、その部分を拡大して較べてみます。
現在図 八紘学園 農産物直売所 拡大
空中写真 1971年 家畜保健衛生所周辺 拡大
 周辺の建物の配置が1971年と現在でほぼ同じであることが判ります。1971年空中写真で、赤矢印の先のすぐ隣の建物は白っぽく写っています。建てられて間もないようです。

 その建物の現在の姿です。
八紘学園 農畜産加工研究室
 北西側から眺めました。建物は今、学園の「農畜産加工研究室」として使われています。畜魂碑が建っているのは、赤矢印の先、植込みのところです。

 ゼンリン住宅地図の1972~1974(昭和47~49)年度版に照らすと、この一帯には「北海道酪農開発事業団 家畜人工授精所」、建物には「北海道石狩家畜保健衛生所」と書かれていました。畜魂碑のすぐ隣に家畜保健衛生所があったとみて間違いないでしょう。
 人工授精所との関係を整理すると次のとおりです。
 1950(昭和25)年 道立家畜保健衛生所設立(学園内)→1976(昭和51)年 現在地に移転
 1952(昭和27)年 道立家畜人工授精所設立(学園内)→1961(昭和36))年 北海道酪農開発事業団に移管→1972(昭和47)年 北海道家畜改良事業団に変更→2001(平成13)年 移転 

 本件畜魂碑は北海道石狩家畜保健衛生所が建てたものと私は推認します。

2018/07/16

八紘学園の「畜魂碑」

 昨日ブログに載せた二つの謎を解く前に、もう一つ謎をさらに付け加えます。
八紘学園 農産物直売所 遠景
 現在学園の「農産物直売所」になっている元牛舎と付属サイロのお隣に、RC(鉄筋コンクリート)造2階建ての建物があります。ここも今は学園の施設なのですが、元は「北海道家畜改良事業団」の事務所でした。この団体は財団法人です。
 昨日ブログで牛舎とサイロを「道立家畜人工授精所」と記しましたが、牛舎とサイロものちに同団体の所有となっています。乳牛などの人工授精の事業がある時期、道の直営から財団に移管されたようです。

 もう一つの謎というのは、RC造の建物の一隅にある物件のことです。
八紘学園 畜魂碑 遠景
 その物件は、碑です。

 この碑のことは、今回の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」下見のとき、スタッフNさんに存在を教えていただきました。Nさんはこういうモノを探知することにかけて、天下一品の人です。
 
 本件には「畜魂碑」と刻まれています。
八紘学園 畜魂碑 接写
 初めて見たときは、牛舎やサイロ同様、この学園に畜魂碑があっても何の不思議もないなあとやり過ごしました。しかし、学園の歴史を調べていく中でだんだん気になり始めたのです。

 話がややこしくなりそうなので、本件畜魂碑が建つ敷地に関する歴史を時系列で以下、記します(末注)。
 1952(昭和27)年 学園敷地内に道立人工授精所 開所
 1961(昭和36)年 人工授精所の敷地に「北海道酪農開発事業団」設立
 1965(昭和40)年 学園、北海道酪農開発事業団に貸与地を売却
 1972(昭和47)年 北海道家畜改良事業団設立
 2001(平成13)年 北海道家畜改良事業団、移転
             学園、家畜改良事業団の土地を買戻し、農産物直売所等を設ける

 では、本件畜魂碑が建てられたのはいつか。
八紘学園 畜魂碑 接写2
 碑には「昭和45年3月建立 町村金吾 書」と刻まれています。裏面も見たのですが、これ以外に由来等は記されていません。

 もう一つの謎というのは、「この畜魂碑を建てたのは誰か?」です。
 碑が建てられたのは前述時系列に照らすと、この一画に「北海道酪農開発事業団」があった頃です。家畜改良事業団の前身と思われます。してみると、この事業団が建てたのか。酪農畜産関係とおぼしき団体なので、畜魂碑を建ててもこれまた不思議ではありません。揮毫した町村さんは1970(昭和45)年当時、北海道知事でした。酪農家を出自とする町村さんが揮毫するのも、ありえなくはない。事業団の役員を知事が充て職で務めていた可能性もあります。
 しかし、何か引っかかるのです。

 謎とは関係ないのですが、碑に彫られた「町村金」を見つけたとき、私は欣喜雀躍しました。切手収集マニアが印刷ズレなどのレアな切手を珍重するのと同じ心境です。町村さんは「金五」と「金吾」を使い分けていたのだろうか。

 注:『八紘学園七十年史』2002年、巻末年表及びジェネティクス北海道(北海道家畜改良事業団の後身)への聞取りに基づく。
 

2018/07/15

八紘学園 農産物直売所のサイロ

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編、第2回も無事終えました。両日とも天気予報では雲行きが怪しかったのですが、奇跡的に雨が上がって何よりでした。スタッフの皆さん、お疲れ様でした。

 遠足を催行しているさなかにも、また終えたばかりのところでも、新たに判ったこと、新たに疑問に思ったことが出てきます。
八紘学園 農産物直売所 サイロ
 八紘学園「農産物直売所」の煉瓦造サイロです。現在農産物直売所になっている元牛舎に付設されています。特売所では学園特産のソフトクリームや牛乳、ヨーグルトが売られています。今日は花菖蒲園開催中の日曜日ということもあってか、多くの人がソフトクリームを味わっていました。私たちもほおばりました。

 7月13日ブログに記したように、この学園にサイロがあるのは何ら不思議ではないのですが、このサイロと牛舎は学園が建てたものではありません。昭和20年代後半、「道立家畜人工授精所」の施設として設けられました。しかるに、この場所はもともと学園の敷地でした。なぜ、学園の敷地内に道の施設が建ったか。これが第一の謎でした。

 第二の謎は、煉瓦の積み方です。
八紘学園 農産物直売所 サイロ フランス積み
 いわゆる「フランス積み」。
 同じ段で、煉瓦を長手-小口-長手-小口と交互に並べています。「長手」は煉瓦の細長い面、「小口」は一番小さい面です。
 
 一般に、我が国における煉瓦造の建物などは歴史的にみると、明治初期のフランス積みから明治中後期にイギリス積みに移行したと私は理解していました。つまり、日本の煉瓦造の主流はイギリス積みだったのです。

 念のため「イギリス積み」も紹介しておきます。
江別 CAFE HACK BERRY 煉瓦
 江別にある煉瓦造の古民家を再利用したカフェです。

 黄色の□で囲った部分を拡大します。
江別 CAFE HACK BERRY 煉瓦 イギリス積み
 同じ段で長手-長手-長手、または小口-小口-小口と、同じ面を続けて並べています。

 フランス積みは見た目に変化があって華やかとされる一方、イギリス積みに比べて構造的に弱く、煉瓦の用い方が効率的でないとされます。我が国でフランス積みからイギリス積みへ積み方の主流が移行した理由は、そのあたりにあるようです。
 しかし、本件サイロは昭和20年代の後半築でありながら、フランス積みにしている。なぜか?というわけです。 

2018/07/14

栗林師は

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編を機に、栗林元二郎という一代の傑人と取っ組み合う僥倖に恵まれました。
八紘学園 栗林石庭 瑞祥石
八紘学園 栗林石庭 オンコの巨木
八紘学園 栗林石庭 馬の像
八紘学園 花菖蒲園 180713

 日高石といい、オンコの巨木といい、ウマといい、ハナショウブといい、この人の蒐集癖はどれをとっても常軌を超えています。「収集」には、「蒐集」という旧字がふさわしい。流行り言葉でいえば「半端ない」(私が使う頃にはもはや流行語ではないのだが)。マニアといってよい。それも、周囲巻き込み型。念のため申し添えますが、これらは最大級の賛辞です。ただ、巨大な日高石を運ぶように指示された配下の人たちは大変だったでしょうね。

 蒐集癖に限らず、じんぎすかんクラブを作ったり、羊ケ丘住宅地(2015.5.1ブログ参照)を開発したり、道立産業共進会場(2018.6.12ブログ参照)などを誘致したり、その発想は卓抜でした。

 先生がカマボコ(2018.4.19ブログ参照)、旧吉田別邸(2018.4.18ブログ参照)、白煉瓦をリユースしてくれたおかげで、時空逍遙人がこんにち稀少な逸品を楽しませてもらえます。否、それらを含めた八紘学園そのものが彼の最大のたまものです。札幌の市街地にかけがえのない牧歌的な風景を遺してくれました。
 
 『八紘学園七十年史』の行間には、キレイゴトではすまないさまざまな人間模様も伝わってきます。私立の学校はえてして創設者の強烈な個性が反映し、ときに確執や軋轢を生んだことでしょう。しかし、その思いがないと、おそらくそもそも学校は実現しなかったのではあるまいか。

八紘学園 栗林元二郎像 背中
 学園の一角とその周辺が一時、北海道日本ハムファイターズが構想するボールパークの候補地になったことがありました。かつて一大「農場公園」を構想した栗林先生は、泉下でどう思っておられたでしょうか。

2018/07/13

八紘学園のミニサイロ

 札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」2018初夏の編の第1回を無事終えました。
 参加者に配布する資料は結局、原稿作成に当日の朝までかかり、午前中に印刷して午後からの開催に間に合わせることができました。前々から準備すれば夜なべをしなくてすむものを、この習性は死ぬまで直りませんね。小学校のときから、夏休みの宿題は始業式の前日までかかってました。

 今回は、遠足先が「八紘学園」という、いわば閉じられた空間で、基本的な情報は学園の『七十年史』という詳細な著述がありました。正直言うと、私はそれでタカをくくっていました。甘かった。『七十年史』が刊行されたのは2002(平成14)年です。それから16年たっています。歴史は今に続いている。当時の史実が今とは異なっていることもあるでしょう。その当然のことに気づくのが遅い私でした。
 もう一つ当然のことでいえば、『七十年史』に書かれていない史実もあります。何が書かれていないか、これも当然のことながら、それはA4判全816ページにわたる同書を読まなければ判りません。「『七十年史』からテキトーにつまみ食いすれば、資料の体裁は整うだろう」などと軽々に見込んでいた私は浅はかでした。

 学園内に可愛らしいサイロが遺っています。
八紘学園 コンクリートブロックサイロ
 酪農が教育の柱の一つなので、園内にサイロがあるのは不思議ではないのですが、これは前に鑑賞会スタッフにしてサイロマニアのNさんから養豚用だったと聞いていました。「ほう、ブタもサイレージ(発酵)の餌を与えられていたのか」と思いましたが、それっきりにしていました。

 今般、学園の生き字引にして栗林記念館館長のS先生に、建てられたのは「昭和30年代後半から40年代前半」だったと思うとお聞きしました。ウシ以外の家畜にもサイレージ飼料は一般的なことなのか、養豚でも塔型サイロが普及していたのか。このようなことは『七十年史』に載っていません。S先生の話ではサイレージしていたのは「ポンキン」だったそうです。パンプキンすなわちカボチャ。
 札幌でウシ以外の家畜の餌をサイレージする塔型サイロは、ほかにあっただろうか。一つのサイロだけで、かように疑問が噴出してくるのです。

 「それを知ったからといって、何になるのだ?」と反問されそうです。否、知ることじたいに意味がある。およそ、オタクという人種の性癖はそういうものです。
 
 「ポンキン」を電網検索したら、某種苗会社のサイトで、次のような資料が載っていました。

https://www.snowseed.co.jp/wp/wp-content/uploads/grass/grass_196610_05.pdf#search=%27%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%27

 ポンキンはブタのエサとして恰好だということをまず知りました。ただし。長期間の保存がきかない。長期保存のためにサイレージが考えられる。ただし、ポンキンをサイレージしても、いい結果は出なかったようです。もしかしたら、養豚でサイレージ飼料というのは一般的ではないのかもしれません。

 では、八紘学園にそのサイロが遺るのはなぜか。家畜の餌に何がどう向いているか、農業専門学校が試行錯誤した一つだったのだろうか。一棟の小さなサイロだけでも、かにかくに想像が膨らみます。その醍醐味ですかね。
 サイレージで醍醐味か。我ながらいいオチだ。八紘学園で、発酵。おあとがよくない。

2018/07/12

花菖蒲咲く向ヶ丘の園

  札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編の資料を仕上げました。
 13日と15日、天気が持ってくれればいいのですが…。

 ハナショウブの世界は(も)奥が深いことを垣間見ました。
八紘学園 花菖蒲園 180709
 「日本花菖蒲協会」で認定を受けて、「登録品種」になるそうです。

 八紘学園に植えられている品種は戦前から戦後にかけて登録されたものが多いと聞きました。学園職員の方が創出したものも少なくないとのこと。

 ここの花菖蒲園は、ラウネナイのいわば“水の利”を生かして造られたのかと私は前に想ったのですが(2018.4.14ブログ参照)、どうもそうではないようです。「ハナショウブは水の植物」と思っていた私が浅はかでした。

 ともあれ、栗林先生は「現代の」(否、亡くなっているから、「昭和の」か)上島正というところでしょうか。
 (画像は7月9日、老母を連れて見に行ったときに撮影、「五分咲き」とのこと) 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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