札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/08/20

南郷橋

 8月14日ブログの続きです。
 昭和10年地形図から、月寒周辺を抜粋しました。  
昭和10年地形図 連隊通り 
 赤い線で囲ったところに1940(昭和15)年、北部軍司令部が置かれました。それによって、黄色でなぞった白石駅から通じる道路(白石駅通り、通称連隊通り)がこの部分で消えたことは先に記したとおりです。都市計画道路もほぼこの道に沿って決定されていたのですが、変更されました(末注①)。

 1961(昭和36)年空中写真(国土地理院)から、同じ一帯をトリミングしました。
1961年空中写真 連隊通り
 赤い線で囲ったところが北部軍司令部の跡です。白石駅通り(黄色の線)は北側の東北通り(かつての白石村・豊平町の境界)との交点で途絶えています。跡地は月寒中学校になっていると思いますが、北部軍当時の建物が遺っているようです。

 変更された都市計画道路は現在の「白石中の島通り」に該当しますが、まだできていません。白石中の島通りが通じるのは、昭和50年代です。計画から実現に至るまで、戦争をはさんで約40年を要しています。逆に言えば、40年かかっても実現されることに感慨を覚えます。

 1948(昭和23)年空中写真(米軍撮影、国土地理院)です。
1948年空中写真 米軍 連隊通り
 黄色の○で囲ったところをご覧ください。白石駅通り(連隊通り)が千歳線(旧北海道鉄道)と立体交差しています。跨線橋です。

 この跨線橋は、1937(昭和12)年都市計画図(旧計画道路)にも描かれています。
1937年都市計画図 白石駅通り 南郷橋
 1937年計画図で跨線橋が描かれているのは、このほかには2箇所のみです(末注②)。冒頭に載せた昭和10年地形図では橋は描かれていませんので、旧計画決定に基づいて架橋されたのかもしれません。地形的に架橋しやすかったこともあるのでしょうが、私はこの跨線橋に通りの重要性を見取ってしまいました。うがちすぎでしょうか。連隊通りと通称されたように、白石駅から月寒の25連隊を結ぶ軍事的枢要路でした。橋まで架けた道路でしたが、新たな軍事的理由(北部軍司令部)によって都市計画道路から外されたのは皮肉です。

 2015年11月21日ブログに拙ブログ読者のぶらじょにさんとKuriさんが寄せてくださったコメントで、「南郷橋」について言及されています。1937年計画図を見ると、今もバス停留所名に遺る重みが伝わってきました。

 注①:札幌市建設部計画課『札幌都市計画概要』1954年に、以下のとおり書かれている(p.40)。
 当時(引用者注:1941年)支那事変が益々拡大し、高度国防国家体制の確立が叫ばれ、軍事的施設が優先的であった時代で、白石駅通の計画街路上に北部軍司令部が建築されたため、同街路の変更を余儀なくされ(後略)
  また、『さっぽろ文庫58 札幌の通り』1991年には次のように記されている(pp44-45)。
 ここ(引用者注:東北通り)でいわゆる連隊通はぷっつり断ち切られている。それは昭和十五年、道路敷地に北部軍司令部が置かれたためで、今その地に月寒中学校が建つ。

 注②:うち1箇所は函館本線を跨ぐ現在の西5丁目樽川通り(通称おかばし、1932年完成)、もう1箇所は同じく苗穂丘珠通り。前者は現在鉄道高架、後者はアンダーパス化されている。
スポンサーサイト

2017/08/14

1937年と1942年の都市計画図を見比べる ③

 昨日ブログの続きです。
 現在図を確認しておきましょう(元図は札幌市白石区役所「白石区ガイド」から抜粋)。
現在図 白石中の島通り
 橙色でなぞったのが白石中の島通りで、赤い線でなぞったのがかつての都市計画道路「白石駅通り」の名残の道です。都市計画道路は1941(昭和16)年に赤い線から橙色の線に変更決定されます。なぜか。

 変更決定にゆかりのある建物が、今も遺っています。
つきさっぷ郷土資料館
 旧北部軍司令官官邸、現在のつきさっぷ郷土資料館です。1940(昭和15)年築。

 1940年というのは日本の軍政史上、節目となった年でした。空襲に備える軍民挙げての防衛(昨日ブログ参照)を統括的に指揮する陸軍の管区「東部軍」「中部軍」「西部軍」「北部軍」が全国に設けられます。東北4県、北海道、千島、樺太を管轄したのが北部軍です(末注)。その司令部が月寒に置かれました。司令官官邸の隣、現在の月寒中学校のあたりです。

 前掲図を見ると、赤い線の「白石駅通り」は月寒中学校の敷地で途切れています。破線でなぞったところです。軍用地となったために、都市計画道路の変更を余儀なくされたのです。国防それも防空指揮も含めた中枢が置かれたのですから、ひとたまりもありません。

 昨日ブログに載せた1942年都市計画図をもう一度見ます。
1942年地形図 北部軍司令部
 赤い線で囲ったあたりに北部軍司令部が置かれました。前述したように、「白石駅通り」を遮るように用地が確保されています。地形的には望月寒川の右岸、舌状台地上と見えます。交通上も、地形上もちょうど都合の良い立地だったのかもしれません。
 余談ながら、北部軍司令部の南側、黄色の線で囲ったところは歩兵25連隊が置かれていたところです。が、真っ白に消されています。1937年計画図には、こまごまと建物の配置が描かれていましたが(昨日ブログ参照)。

 注:札幌建築鑑賞会「札幌百科」第14回「札幌は軍事都市だった?! 1945年の札幌―空襲、敗戦、占領―」西田秀子さん作成資料及び『さっぽろ文庫73 昭和の話』1995年、pp.108-113による。

2017/08/13

1937年と1942年の都市計画図を見比べる ②

 戦時中の日本は軍事国防という唯一絶対的な価値基準に収斂された社会だったと私は思います。都市計画もその例外ではなかった(むしろ重要な柱であった)ことを、昨日ブログで引用した越澤明先生の著書で知りました。同書によれば、これと併せて1937(昭和12)年に「防空法」が公布され、1941(昭和16)年同法改正により「建物疎開」が進められます(pp.252-259)。「一九四四年から敗戦まで土木建築行政の費用と人員はすべて建物疎開に投入」されるに至りました(p.255)。より強権的な手法で、もはやなりふりかまわない都市改造です。そして大空襲、原爆投下、敗戦。

 …という史実をふまえつつも、1942年札幌都市計画図には都市計画担当者の蠢きのようなものを、私は感じてしまいます。東8丁目通りのナナメです。明治開拓以来の齟齬をなんとしても糾さんとする意図が伝わってきます。軍事国防という大義名分に乗じてやるしかなかった。いや、これは私の妄想です。

 さて、これとは別に、1937年計画図と1942年計画図の間に見られる、ほかの違いを取り上げます。今回は白石村から豊平町です。
 まず1937年図。
1937年都市計画図 白石停車場線
 黄色の▲の先に示した道がピンク色で塗られています。これは「二等大路第一類」で「18m乃至20m」という計画道路です。国鉄白石駅前から、室蘭街道に通じます。現在の道道白石停車場線にほぼ相当します。

 次に1942年図。
1942年都市計画図 白石中の島通り
 前掲1937年図と比べて、二等大路第一類が少しずれているのです。現在の市道白石中の島通りにほぼ当たります。

 とくにずれているところ拡大します。
 1937年図。
1937都市計画図 白石停車場線 拡大
 1942年図。
1942年都市計画図 白石中の島通り 拡大
 1937年の計画道路を黄色の線で加筆しました。画像がぼけていて申し訳ないのですが、1942年図では計画道路が南東に移動しているのが判るかと思います。黄色の○で囲ったのが北海道鉄道の「つきさっぷ」駅で、全体に駅のほうに近づいています。

 なぜ、移動したか。つきさっぷ駅に近いほうを重視したという理由ではないのです。これも、1937年と1942年の間の出来事に由来します。[つづく]

2017/08/09

西岡 なんちゃってサイロ

西岡 なんちゃってサイロ
 豊平区の月寒東から福住、西岡にかけては、サイロ、それも煉瓦造が点在しているので、本物件も土地の記憶といえるかもしれません。本件がどういう用途で置かれているのか判らないのですが、用途を超越した存在感を感じました。

2017/07/16

経王寺で見かけた‘意外な’物件

 経王寺でもう一つ、私の眼が注がれた物件が、こちらです。
経王寺 フラワーポット
 フラワーポット。

 この造形については、2014.8.10ブログをご参照ください。
 また、札幌ノスタルジック散歩のYさんが、サイト内ブログで「例の花台」として折々言及されていますので、そちらもご覧ください。

 私はこれまで、このフラワーポットを田上さんのオリジナルデザインだと思ってきました。それは、最初に見た田上建築の住宅(前述2014.8.10ブログで紹介のS商会)のエクステリアによってインプリンティングされたものです。いかにもライトまがい、否、ライトの田上風アレンジに見えました。その後、厚別区の福祉施設H学園で見たときも、H学園と田上さんの繋がりを想像したものです。
 しかし、クリスチャンの田上さんが日蓮宗の古刹と、どう結び付くか。

 ここで、察しの良い田上義也教の信奉者は、あることに気づくでしょう。
 それは経王寺の所在地です。豊平区豊平4条3丁目。お寺のすぐ隣に「愛隣館」という名前の保育園があります。たしか、田上さんはかつて愛隣館の建物も設計していなかったか…。
 井内佳津恵『田上義也と札幌モダン―若き建築家の交友の軌跡』2002年に、次のように記されています(pp.121-122、引用太字)。
 「北一条教会」の設計は、以後、田上に同教会関係の人脈からの発注をもたらすことになった。早いものとしては、「北一条教会」と同じ年に竣工した「愛隣会無料診療所/救恤者ホーム」(豊平町七四番地)がある。これは、社会事業団体「愛隣会」の無料診療所ならびに失業者の支援施設として、現在の豊平六条三丁目に竣工したもので、…(後略)

 田上さんが設計したのは「愛隣」であって、「愛隣」ではなかった。残念。しかし「愛隣会」があったという豊平6条3丁目もまた、経王寺のすぐ裏手です。どちらにしても、近い。ただし、「愛隣会」の施設が竣工したのは1927(昭和2)年で、同書によれば同会は「戦後しばらく現存した」らしいのですが、「その後は不明」です(p.124)。
 一方、同じ豊平6条3丁目には、日本キリスト教会札幌豊平教会があります。日本キリスト教会といえば田上さんが帰依した(北一条教会の)宗派ではないか。経王寺のフラワーポットと札幌豊平教会との間は、直線距離にして約300m。
 我ら田上教の信者としては、フラワーポットと田上さんの因縁を何が何でも牽強付会、否、密接関連性を見出したいと願うものです。

2017/07/15

経王寺の墓碑めぐり

 毎日暑いですねえ。
 7月の中旬で連日30℃を超えてますからね。昨冬、母を郷里(愛知県)から札幌に連れてくるとき、私は母に「冬は寒いけど、夏は涼しいから過ごしやすいよ」などと言ったものです(末注)。にもかかわらず、母にしてみたら体感温度が内地よりもはるかに高い初めての北海道の夏を過ごしています。なぜかというと、この時期、郷里では四六時中エアコンを使っていましたが、札幌の拙宅はありません(扇風機もなかったのですが、妻が見かねて先週買いました)。まあそれでも、母はあまり暑がらずに過ごしています。しかしそれは、高齢者ゆえに暑さへの感度が下がっているからでもありましょう。水分補給に気を付けています。
 
 そんな中、今日は札幌建築鑑賞会スタッフが「大人の遠足 2017秋の編」の下見歩きを敢行しました。私を含め7名の皆さん、お疲れ様でした。
 こんどの遠足では、豊平区豊平を歩く予定です。豊平には日蓮宗の古刹があります。「札幌五大寺」(『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年、p.10-15参照)の一つといわれる経王寺です。スタッフのNさんがお寺にお願いしてくれて、墓地を拝ませていただきました。

 墓地内でも目立つところに建つひときわ大きな墓碑に、私は目を引かれました。
経王寺 墓地 大岡さん墓碑
 「南無妙法蓮華経」の下に、右から横書きで「大岡」と刻まれています。札幌軟石で積まれた台座が立派です。「大岡」さんが気になりました。

 午前中、中島公園にある、この建物に行っていたからです。
豊平館 170715
 豊平館。
 
 帰宅してから郷土史の文献を漁りました。
 前掲『札幌の寺社』の経王寺の項に、次のように書かれています(p.14、引用太字)。
 土地は総代の中心となった請負人大岡助右衛門から、五千坪の寄付を得ている。
 
 『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年の「大岡助右衛門」の項から一部を引用します(p.73、引用太字)。
 天保7・5~明治35・5.21
 土建業者。武蔵国久良岐郡大岡村に生まれ、少年時代は江戸で大工を修業。
(中略) 明治4年札幌本府経営に二代目源左衛門(引用者注:中川組棟梁、中川源左衛門)の組頭として諸工事を施工。(中略) 利益は多かったが土地購入とばくちに消費、豊平の所有地に日蓮宗経王寺を建てた。ばくちでは豊平川畔で百たたきの刑を受けたこともある。剛腹で義侠心に富み、私財を惜しまず部下を愛した。息子を豊平橋工事の事故で失い、21年以降は経王寺で余生を送った。今に残る業績に豊平館がある。

 豊平川畔で百たたきですか。それはともかく、経王寺墓地の「大岡」墓碑の下には、たぶん助右衛門親分、もとい棟梁が眠っていると私は見ました。

 「大岡」墓碑のウラ面です。
経王寺 大岡墓碑 ウラ
 これも帰宅して、パソコン画面で画像を拡大して読み直しました。
 
 右端の法名に「一乗院唯心日護居士 明治三十五年五月廿一日」とあります。やはり助右衛門であった。
 法名は四仏刻まれていて、左から二つ目は「法道院豊𣘺日壽信士 明治十年四月三十日」です。
 「𣘺」は「橋」の異体字ですから、「豊橋」。これはもしかして、豊平橋工事の事故で失ったという息子ではなかろうか。

 古い墓碑めぐりは感興をそそります(2015.9.24ブログ参照)。こたびはとりわけ、午前中に豊平館を訪ねたことに奇しき因縁を感じた私です。

 経王寺ではこのほかにも、私にとっての‘発見’がありました。それはまた、次回。

 注:ン十年前、札幌で初めての夏を過ごしたとき、私は「思ったより暑いな」と感じた。たしかそのときも35℃の日があって、冷房のない国鉄(当時)の鈍行列車に乗って汗だくになったことを覚えている。内地人は「北海道の夏は涼しい」と刷り込まれているが、道内で夏が冷涼なのは釧路ぐらいでなかろうか。

2017/06/22

北海道マガジン「カイ」 連載始まりました。

 ウエブ雑誌「北海道マガジン『カイ』」(㈱ノーザンクロス運営)で、当会協力の連載が始まりました。「札幌建築鑑賞会と歩く 愛され建築」というシリーズで月一回、半年間の予定です。どうぞご覧ください。
 初回は「サッポロ珈琲館 平岸店」です。この建物のことは拙ブログでも以前に紹介しました(2016.1.5ブログ参照)。今回は、そのエッセンスも加味した上で、建物を店舗として再生させた経営者の伊藤栄一さんの思いが綴られています。リンゴの貯蔵庫兼撰果場としての元の用途に喫茶店としての再利用が上書きされた、いわば歴史の重層的な積み重ねを感じとっていただければ幸いです。
 …と初回の出だしを喜んでいましたら、この建物のことが別のサイトでも取り上げられていました。「道新りんご新聞」ウエブ版です。しかも、そちらのほうが一足早い。先を越されました! いや、マスコミじゃあるまいし、「抜いた、抜かれた」などと料簡の狭いことは申しません。札幌軟石の建物がウエブ上でいろいろ発信されるのは喜ばしいことです。各サイトを読み比べてそれぞれの切り口、展開を味わっていただくのもよいかと思います。併せて、実際の建物に足を運んで珈琲も味わっていただけたらなお嬉しい。 

2017/04/22

なんちゃって

 4月18日ブログで、「さっぽろ羊ヶ丘展望台」にある二棟の建物のことを記しました。その末注②については、寄せられたコメント(私の返信を含む)をご参照ください。
 
 さて、札観協のサイトには、羊ヶ丘には1999(平成11)年にウエディングパレスの「新館」ができたと記されています。
 こちらの建物のことでしょうか。
羊ヶ丘展望台 札幌ブランバーチチャペル
 展望台のリーフレットには「札幌ブランバーチチャペル」と紹介されています。 

  これまで本ブログで採り上げてきた建物を時系列的に整理すると、以下のとおりです。便宜的に、建物にアルファベットを付します。
 1927(昭和2)年:札幌北一条教会 A (所在地:札幌市中央区) 1979(昭和54)年解体 
 1984(昭和59)年:羊ヶ丘ウエディングパレス B
 1999(平成11)年:同「新館」 C 
 2001(平成13)年:クラークチャペル B’ 雪まつり資料館 B”  

 羊ヶ丘展望台の一帯が妖しげな光彩を放つのは、建物が細胞分裂のごとく複製、複々製されて増殖していることに一因があると思いました。
 オリジナルはAです。原作者自身によってAからBが複製されました。CはBの複製とみられます。ここからは原作者は介在しません。B’≒Bです。B”はB’からの複製とも考えられます(4月18日ブログコメント参照)。現存はB’B”Cの3棟です。

 オリジナルAを確認しておきます。
日本基督教会札幌北一条教会 1978年②
 画像は札幌建築鑑賞会会員Uさん撮影の写真(昨日ブログ参照)からトリミングしました。

 CをAと較べて観ると、正面上部と塔屋にオリジナルのDNAが伝わっているかの気配があります。しかし複製増殖の過程で変異も起こしている。この目くるめく世界を読み解くのは容易ではありません。これはもう、オマージュという一語では到底括れない。4月18日ブログで私はB’B”をキッチュと評するのは正しくないと記しましたが、にもかかわらずこの場所にはキッチュ感が漂います。それはオリジナルの制御を超えた複製増殖変異を体感できるからかもしれません。本ブログをお読みの方にはお察しのことと想いますが、私はキッチュ感を邪悪視しているわけでは決してありません。
 北海道開拓の村などでは、建物の由来が説明されていますが、ここではリーフレットにも現地にも書かれていません。キッチュを感じるためには、想像力も問われるのです。 

 この世界を観て、キリスト教圏の人々や、あるいはキッチュ台頭著しい(?)中国からの観光客は何を感じるか、興味が湧きました。

2017/04/20

福住 A商店 ガソリンスタンド

 十数年前、札幌建築鑑賞会で『さっぽろ再生建物案内』という冊子を作ったころ、あちこちの建物を見て回りました。当時私はクルマに乗っていて、運転しながらも視野に飛び込む物件をチェックしていたものです。

 福住のガソリンスタンドも、その一つでした。なぜ目に留まったかというと、「福住で、煉瓦」だったからでしょう。クルマで通り過ぎたとき、一瞬私は「元サイロか?」と思いました。いうまでもなく、豊平区の福住から西岡にかけては、煉瓦でできたかつてのリンゴ倉庫が結構残っています。サイロもあります。それらの連想で、色めいたのです。サイロにせよリンゴ倉庫にせよ、ガソリンスタンドに再利用されているとしたらユニークだと思いました。
 当時、ガソリンスタンドの人に訊いてみたのですが、残念ながらサイロやリンゴ倉庫の再利用ではありませんでした。たしか建築年も聞いた記憶があり、そのころのメモをひっくり返してみたのですが、見当たりません。「再生建物じゃないんだ」ということで、ネグレクトしてしまったのです。今にして思えば浅薄でした。 

 先日羊ケ丘に行ったとき、「まだ残っているかな~」と想いながらガソリンスタンドにも足を運びました。
福住 ガソリンスタンド A商店
 ありました。
 
 あらためて、まじまじ眺めました。全体として長手積みで、開口部の楣(まぐさ)部分は小口(煉瓦の直方体のもっとも小さい面)を並べています。煉瓦は化粧で貼っているように見受けられます。
 店内におられたAさんに「いつごろ建てられたものですか?」とお尋ねしたのですが、「うーん、いつだったかな~」と定かでない様子です。私が「煉瓦の建物を見て回っています」と言ったら、Aさんは「喜田信代さんに本をいただいた」とおっしゃってました。先達はすでに踏査されている。

2017/04/19

バス停名残物件

 さっぽろ羊ヶ丘展望台への入口近くで見かけました。
羊ヶ丘展望台入口近くのバス停名残物件
 「中央バス」「西岡」という文字が見えます。バス停の遺物です。なぜ、ここにバス停の遺物があるのか判りませんが、とにかく残っています。 
 
 ゼンリン住宅地図で確かめると、この遺物が置かれている場所の町名は「羊ケ丘」です。展望台入口手前の市街地の町名は「福住3条」で、最寄りのバス停は「福住3条9丁目」といいます。「西岡」という町名は、この地点から西へ約500m、月寒川の左岸に行かないと存在しません。なぜ、ここに西岡の名残物件が在るのか?
 
 昭文社発行の「エアリアマップ 札幌市街図」1977年を見ると、西岡地区に条丁目の町名ができる前、「西岡中央」とか「西岡団地」という停留所があったようです。もともと中央バスの路線だったらしい。現在は「西岡○条○丁目」という名前に変わっています。月寒川右岸側の現在「月寒2条9丁目」という停留所も、かつては「西岡小学校通」でした。くだんの遺物は、書かれている文字の間隔からして西岡中央か西岡団地当時のモノと鑑みました。
 でもそれがどうしてここに?という疑問は封印します。西岡に条丁目が敷かれてなかった時代の証として、遺ってほしい物件です。

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR