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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/03/28

福住六軒が国道36号を避けた理由

 一昨日(3月26日)ブログで、福住の「六軒」が「サッポロ越新道」に面して並んでいたことを綴りました。「新道」といっても、幕末安政期に拓かれた旧道です。昨日ブログでは、明治初期に「札幌本道」(のちの室蘭街道、国道36号の原形)が新たに整備されたことを述べ、そのルートが「サッポロ越新道」とは別に設けられた理由を推測しました。

 ここでさらなる、というか最終的な疑問にぶつかります。
 「六軒」はなぜ、新しい「札幌本道」ではなく、古い「札幌越新道」のほうに沿ったのでしょうか。
 理由として真っ先に考えられるのは、六軒がこの地に入植したとき、「札幌本道」がまだ通じていなかったのではないか、ということです。
 その謎を解く前に、昨日ブログに載せた「札幌郡各村地図」1874(明治7)年に描かれた「六軒」のあたりを拡大して、確認しておきます。
明治7年札幌郡各村地図 六軒 拡大
 くだんの六軒は、黄色の矢印の先に示したところです。3軒ずつ向かい合っている道が幕末のサッポロ越新道、並行して北側(画像上、上方)に通じているのが明治の札幌本道です。

 史実を時系列で以下、記します。
 1871(明治4)年3月:現在の岩手県から移民44戸が渡道、札幌本府に滞在
 同年5月:チキサプ(月寒)に入り、現在の豊平区月寒東1条2丁目あたりに仮住まい
 1872(明治5)年3月:札幌本道、道南から着工
 1873(明治6)年6月:札幌本道、完成
 
 『さっぽろ文庫50 開拓史時代』1989年、p.162と『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.42、46、50に依拠しました。
 問題は「六軒」が入植した時期ですが、これらの文献では確かめられませんでした。ただ前者の『さっぽろ文庫50 開拓使時代』の記述からは、六軒を含む44戸の入植は1873(明治6)年の札幌本道開通の後のようにも読み取れます。もしそうだとすると、なおのこと、旧道たるサッポロ越新道沿いに六軒が向き合ったのが疑問に思えます。一方、昨日ブログでも言及した清田区の郷土史家R先生は、月寒村の「移住の当初は、千歳方面に向かう道路は、旧道(札幌越新道)筋のみであった」と述べています(末注)。

 六軒の入植者に土地が割り当てられたとき、新道たる札幌本道がまだ通じていなかったとみるのが順当かもしれません。しかし、あえて想像の翼を広げます。仮に札幌本道が通じていたとしても、どうもその新しい道沿いは避けたのではなかろうか。

 六軒が入植したあたりを現在の標高図に当てはめてみます。
標高図 サッポロ越新道 福住六軒
 六軒を赤い●で着色加筆しました。白ヌキがサッポロ越新道、赤茶色が札幌本道(現国道36号)、青の実線は現月寒川です。標高図は国土地理院サイトから、標高55m以下から5mごとの7色段彩で作りました。

 この標高図をにらみながら、あらためて冒頭掲載の明治7年「札幌郡各村地図」で当該箇所を見てみます。月寒川(川に沿って、文字が下から上へ「シツキサフ」と書かれている)を札幌本道が渡るあたりは、左岸側(画像上、左方)に小さな支川らしきも描かれています。

 国道36号、月寒川に架かる望月橋です(橋名については2018.8.28ブログ参照)。
月寒川 国道36号 望月橋 上流側
 右岸側から上流の方向を眺めました。前掲標高図に照らしても明らかなように、国道36号はこの橋を谷底として、かなり低くなっています。

 かつての札幌本道は、この川の両岸では土地が良くなかったのではないでしょうか。
 札幌市福住開基百年記念委員会編『福住 沿革と現況』1971年には、「現国道三六号線の始まり」が「大宇(ママ)回路」をとっていたことを述べています。これは「札幌本道」が通じる前の「サッポロ越新道」(旧道)の道筋を伝えたものです。同書では、旧道が“迂回”した理由を次のように記しています(p.8、太字)。
 これは現国道付近が湿地であったことによる。

 同書を編集したのは福住の生き字引、Yさん(2019.3.21ブログ参照)です。昨年9月、Yさんにお訊きしたとき、望月橋のあたりは「谷地だった」と語っておられました。

 これをもって、2018.9.21ブログ「福住六軒のなぜ?」の結論とします。同日ブログに寄せられたコメント(非公開)に、「例えば地盤がぐちゃぐちゃだったとか」という推測をいただいていました。ありていにいえばそういうことだったと想います。

 ところで、一昨日ブログで、このテーマを半年ぶりに取り上げた理由として「個人的な事情もあります」と記しました。それは、「サッポロ越新道を、松浦武四郎が通ったかどうか」という派生的疑問です。「個人的な事情」などと大袈裟にも形容したのは、先日のuhbの番組(3月15日ブログ参照)の収録のとき、この道を「松浦武四郎も、通ったかもしれません」と口を滑らしたことによります。
 
 注:了寛紀明『札幌本道と厚別(あしりべつ)地域の歴史~古文書を辿っての「清田発掘」~』2018年、p.46
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2019/03/27

サッポロ越新道 札幌本道

 昨日ブログの続きです。
 現在の札幌中心部から千歳方面へは、国道36号が通じています。これは明治初期に整備された「札幌本道」を原形としています。しかし、それより前、幕末安政期に別の道が開鑿されていました。「サッポロ越新道」です。
 
 二つの道を現在の標高図に載せて、較べてみます。
標高図 サッポロ越新道 札幌本道
 白ヌキの線がサッポロ越新道の想定道跡、黒+赤茶色の実線が札幌本道(を原形とする国道36号、南東部の弯曲は旧道)です。白ヌキの道跡は清田区の郷土史家R先生の著作を参考にしました(末注①)。標高図は、標高55m以下から5mごとの7色段彩です。

 幕末まではもともと、黒の実線から白ヌキの道が通じていました。明治になって、新たに赤茶色の道が造られたのです。白ヌキの道は「新道」といいながら、明治期には古道になりました。素人的には、白ヌキの道を改良すればよかったものをと思うのですが、そうしなかったのはなぜか。 
 現在の標高図からかつての地形を想像することになるのですが、幕末のサッポロ越新道はアップダウンが激しかったのではないでしょうか。明治の札幌本道は、より平坦なところを選び直したように想えます。
 では、逆に幕末の時点では平坦な方に道を拓かなかったのではなぜでしょうか。これは「拓かなかった」というより「拓けなかった」のではないかと私は思います。
 前述のR先生は、サッポロ越新道が「現在の国道36号線より山側」を通っていることについて、「厚別川の湿地を避けて辿る様なルートをとっている。理由としては、ラウネナイ川・トンネ川・厚別川・三里川等の河川を渡る際に、危険をより少なくするための配慮からであったと思われる」と考察されています(末注②)。明治になって御雇外国人伝来の技術等が導入され、危険をある程度克服したのが札幌本道といえるかもしれません。

 注①:了寛紀明『札幌本道と厚別(あしりべつ)地域の歴史~古文書を辿っての「清田発掘」~』2018年、p.92
 注②:同上、p.91

2019/03/26

福住六軒のなぜ? 続き

 「札幌郡西部図」1873(明治6)年から、月寒村のあたりを抜粋したものです。
明治6年札幌郡西部図 六軒 再掲
 この部分は、2018.9.21ブログ「福住六軒のなぜ?」で一度載せました。黄色の矢印の先に示したところに、道をはさんで家屋が3軒ずつ6軒、並んでいます。 同日ブログの末尾を、私は次のようにしめくくりました(太字)。
 月寒川の左岸では現国道の原形たる街道沿いに家並が連なっているのがお判りいただけましょう。しかし、南東へ進むと、途中から道が鉤の手に枝分かれし、川を渡って六軒屋が並びます。「なぜ」というのは、六軒屋が現国道沿いに並ばずに、枝分かれした道に置かれたことの「なぜ?」です。

 この「なぜ?」について拙ブログでは問いっぱなしで終わっていたのですが、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018福住編にご参加の方には私の推理をお伝えしました。このたびブログで半年ぶりに続けるのは、遠足にご参加いただいてない方とも共有したいということが主な理由のほかに、個人的な事情もあります。

 個人的事情は追って記すこととして、まずは同時代のもう一つの古地図をお示しします。
明治7年札幌郡各村地図 六軒
 「札幌郡各村地図」1874(明治7)年の同じ部分です。

 六軒のあたりの違いを較べてみて明らかなのは、六軒が並ぶ道が南東へ延びていることです。前掲「札幌郡西部図」では六軒のところで道が行き止まっています。後掲「札幌郡各村地図」が作成されたのは「西部図」の明治6年の一年後の明治7年です。しからば六軒の先に南東へ延びた道は新たに拓かれたのかというとさにあらで、この道は実は幕末からありました。ならばなぜ、一年古い「西部図」に描かれていないのかという疑問が募りますが、とりあえず措きます。

 六軒が面していた道は1850年代、幕末安政期に通じました(末注①)。「サッポロ越新道」です。前述の「途中から道が鉤の手に枝分かれし」たというのは、史実に則するならば正しくありません。もともとこの道が先にありきでした。明治になって現国道36号の原形となった道のほうが新たに造られ、「枝分かれ」したのです。開拓使による「札幌本道」です(末注②)。

 では、元の道があったのに、なぜ新たに造られたか。

 注①:『新札幌市史 第一巻通史一』1989年、p.820
 注②:『新札幌市史 第二巻通史二』1991年、p.190

2019/03/21

文化の光りあまねきところ その名は福住わが郷土

 引き続きuhb『みんなのテレビ』「となりのレトロ」福住編の余話です。

 福住開拓記念館の場面で登場してくださったYさん(94歳)は、福住の生き字引ともいえる方です。
福住開拓記念館 リンゴ農具展示 
 郷土史の編纂や記念館の開設に尽力されました。長年リンゴ農家を営み、展示物の農具などの多くもYさんが寄贈されたものです。

 そのYさんに、実物を前にしてお話を聴けたのは僥倖でした。
福住開拓記念館 リンゴの選果板
 丸い穴が空いている板でリンゴを選果したことは、察しがつきます。
 が、穴に書かれている数字は、何を意味するのか。立てかけてある板には、直径の大きなほうから140玉、160玉、180玉と書かれています。なぜ、小さいほうが数字が大きいのか。

 リンゴ箱に入る数でした。
福住開拓記念館 リンゴ箱
 小さいのなら180個(玉)入る、ということです。何ということはないのですが、お訊きしないと私には判りませんでした。放送でもおっしゃっておられたとおり、1箱で6貫(22.5㎏)になるそうです。「2箱くらいは背負った」とも。会館の近くに置かれている「力石」が28貫(105㎏、2018.10.10ブログ参照)というのも、それくらいないと力比べにならなかったのでしょう。農家の人は、米1俵(60㎏)はかつぎますからね。そういえば、山形県酒田市の山居倉庫にある資料館には、たしか5俵背負った女の人の実物大模型が展示してありました。

 標題は1947(昭和22)年、Yさんが作詞した「福住青年会歌」の一節です。

2019/03/20

「羊ケ丘住宅地」と「満州」がどうつながるか。

 標題の自問は昨日ブログ冒頭に記し、私は「媒介したのは(と私がにらむのは)、八紘学園の創設者にして住宅地の開発を進めた栗林元二郎です」と続けました。その根拠を以下、綴ります。
 
 栗林は戦前、「満州国」での開拓事業を構想しました。八紘学園創設の理想の延長であったことでしょう。1937(昭和12)年、政府及び北海道庁の委嘱を受けて同「国」を視察したのを皮切りに、「八紘村」の建設や「新京酪農公社」に取り組みます。多くの学園卒業生が大陸に渡り、事業に従事しました(末注①)。

 同「国」での栗林の拠点となった、「首都」新京です。
満州 新京市 市街図
(画像は『大満洲國新地圖』「新京(長春)市街圖」1932年、国立国会図書館デジタルコレクションから)

 新京はもともと満鉄と北鉄の中継駅に過ぎなかった一寒村の長春に接して、近代的都市計画にもとづいて建設された特別市である。大同広場を中心に放射状に幹線道路が広がり、中心部には広大な帝宮を配し、周囲には公園や緑地帯によって官公庁街、商店街、歓楽街、工場街、学校、住宅街などが整然と区画された近代都市で、人口六十万人を数えていた。(末注②)

 後藤新平率いる帝国内務官僚が日本国内で完遂しえなかった理想の都市計画の、白地のカンバスで為しえた完成形とでもいえましょうか(末注③)。
 
 前掲新京市の市街図を、昨日ブログに載せた「羊ケ丘住宅地」と較べてみましょう(1961年撮影、同上)。
空中写真 1961年 羊ケ丘住宅地 再掲
 羊ケ丘住宅地は、栗林によって1955(昭和30)年から構想されました。

 彼の脳裏には、かつて目の当たりにした新京の街並みが焼き付いていたのではないだろうか(末注④)。
 なお、私は「白地のカンバス」と前述しましたが、これは反語的修辞です(末注⑤)。

注①:『八紘学園七十年史』2002年、pp.160-162、pp.181-207参照
注②:同上p.198
注③越澤明『満州国の首都計画』2002年(ちくま学芸文庫版)参照
注④:栗林は八紘学園創設に当たり、支援を受けるべく後藤新平も会ったという。前掲『八紘学園七十年史』p.64
注⑤:「満州国とは中国東北部の南満州、モンゴル地方の支配をねらっていた関東軍(中国駐留の日本軍)が昭和七年三月、清朝の廃帝、溥儀を執政に担ぎだして建国を宣言した日本の傀儡国家である」(同上p.160)。 

2019/03/19

師ならば、さもありなん。

 昨日ブログの末尾に「『満州』です」と記しました。「羊ケ丘住宅地」と「満州」がどうつながるか。媒介したのは(と私がにらむのは)、八紘学園の創設者にして住宅地の開発を進めた栗林元二郎(2018.7.117.14ブログ参照)です。その仔細はおって記すこととしし、その話とも関わる題材を先に取り上げます。

 今回のuhb『みんなのテレビ』「となりのレトロ」収録に際し、古い空中写真を見直して気がついたことです。
空中写真 1961年 羊ケ丘住宅地
 1961(昭和36)年撮影に、造成されつつある羊ケ丘住宅地が写っています。

 住宅地の真ん中を貫く弾丸道路、国道36号に“ラウンドアバウト”(2015.2.16ブログ参照)が実現されていました。
空中写真 1961年 羊ケ丘住宅地 ラウンドアバウト
 画像真ん中の円形交差点です。

 これは計画のみで幻に終わり、実現しなかったと私は思い込んでいました。(2015.5.1ブログ参照)。しかし画像を見ると、明らかに出来上がっています。その後1966(昭和41)年の写真にも写っていますので、一定期間供用されたのは間違いないようです。

 1971(昭和46)年撮影を見ると…
空中写真 1971年 羊ケ丘住宅地 ラウンドアバウト 消滅?
 交差点は、前掲1961年撮影のようなハッキリした円形ではなくなっています。あんばいが悪くて消滅したのでしょうか。

 1976(昭和51)年撮影では…
空中写真 1976年 羊ケ丘住宅地 ラウンドアバウト 痕跡?
 国道36号のくだんの交叉点のところに、白い線が二本、写っています。横断歩道でしょうか。ラウンドアバウトは消滅していますが、ただちょっといびつなようにも見えます。

 国道の北側、赤い矢印で示した先に、緑地帯らしき空間が設けられています。
空中写真 1976年 羊ケ丘住宅地 ラウンドアバウト 痕跡?拡大
 その北側には、白い建物の屋根が四角く写っています。 

 住宅地にもっとも古くから今もお住まいで番組にも登場していただいたKさんのご記憶によると、これはスーパーマーケットだったようです。住民の利便のために作られました。その手前の緑地帯?が、私にはラウンドアバウトを改変した名残のように見えてしまうのです。
 Kさんからは、このあたりに石が置かれていたともお聞きしました。栗林師蒐集の巨石(2018.7.14ブログ参照)です。先生なら、やりかねない。

2019/03/18

羊ケ丘住宅地の思想と理想

 uhb「みんなのテレビ」の「となりのレトロ」コーナー放送の後は、オンエアされなかった拾遺譚を綴ります。

 福住(豊平区)の「羊ケ丘住宅地」は、“札幌の田園調布”を謳い文句にしました(2015.4.294.305.1ブログ参照)。先に記したように、田園調布は“高級住宅街”の代名詞です。番組でもそのように伝えました。ただしこれは注釈が必要かと思います。
 
 田園調布のモデルは、19世紀末から20世紀初頭に英国で興きた“田園都市”です。これは必ずしも、高級住宅街=上流階級の街を目指したものではありませんでした。J.R.タウンゼンド『さよならジャングル街』邦訳1970年、原題“Good-bye to Gumle's Yard”1965年では郊外住宅地“Garden Suburb ”が舞台として描かれていますが、主人公たちは低所得者層でした(2015.2.152.16ブログ参照)。衰退した工業都市のスラム街が(なかば強制的に?)クリアランスされ、住んでいた人びとも移住したのです。

 日本にも大正期、東京や関西に“田園住宅地”が造られました。
空中写真 1941年 田園調布
 (画像は、1941年空中写真、田園調布周辺、国土地理院サイトから)
 
 購入者層として想定されたのは、資本主義の発達や大正デモクラシーの機運のもとで生まれた中産階級です。日本の場合、宅地デベロッパーは鉄道会社が主体で、沿線の利用者増というもくろみもありましたが、経営者には英国などの思想が影響したといわれています(末注)。

 「羊ケ丘」は、英国→田園調布の系譜をいわば換骨奪胎したものといえましょう。これは私の想像ですが、羊ケ丘が宅地造成された昭和30年代には、モデルとされた田園調布のほうは高級住宅街という土地ブランドが形成されつつあったのではないでしょうか。
 羊ケ丘にはもう一つ、海外の風景と思想が反映されたと私はにらんでいます。「満州」です。

 注:池上重康『建築鑑賞入門~近代日本の郊外住宅地~』2001.9.19(道新文化センター資料)参照

2019/03/15

豊平区福住 煉瓦の風景

 uhb(8ch)「みんなのテレビ」の「となりのレトロ」コーナー、次回放送は来週月曜、3月18日(午後3時50分-)の予定です。豊平区福住を歩きます。テーマは、「福住は明治、大正、昭和、平成と変わってきた」。

 番組収録の前日、知り合いのYさんからメールが来ました。「福住の六花亭裏の煉瓦の倉庫が解体された」と。Yさんとは昨年秋に「れきぶんワークショップ」(2018.8.8ブログ参照)で一緒にこのあたりを訪ね、リンゴ倉庫の歴史をフィールドワークしていました。私は10月に札幌建築鑑賞会「大人の遠足」福住編(2018.10.12ブログ参照)でも歩いて、鑑みていたところです。実は今回の収録でも、絵にしてもらったらいいかなと思っていた矢先でした。

 昨年8月、遠足の下見をしたときに撮ったその風景です。
福住 六花亭裏の煉瓦造倉庫 現存時
 倉庫と六花亭を一緒に収めました。右方のツタが絡まる建物が六花亭です。 

 先日、収録が終わってから現地にも足を運びました。
福住 六花亭裏の煉瓦造倉庫 解体後
 倉庫は、たしかに瓦礫となっています。六花亭は、こげ茶色の煉瓦タイルが露わになっていました。この建物がリンゴ倉庫のオマージュであることも、これから記憶が薄れていくかもしれません(『道新りんご新聞』2017.10.4記事「平岸りんごとレンガ倉庫と六花亭」参照)。 

 役目を終えた古い建物がそのまま残されるのは、さまざまな困難に直面します。持ち主のⅠさんに伺い、これまで倉庫を遺してくださったことにお礼をお伝えしました。Ⅰさんによると、跡地にはアパートが建てられるとのことです。新しい施主さんが解体材の煉瓦をエクステリアとして再利用するともお聞きしました。姿を消しても、何らかの形で記憶が引継がれるのはありがたいことです。

 私は、風景がまさに変わらんとする瞬間に出逢うことが少なくありません。今、「私は」と記しましたが、これは諸先達が体験されていることでしょう。建築史家の角先生(北大名誉教授)が、「古建築の設計図面があると聞いて持ち主を訪ねたら、『つい一週間前に燃やした』と言われて、歯噛みした」とおっしゃっていたのを思い出します。今回も、私は先週、収録の下見でこの場所のすぐ近くまで行ったのですが、煉瓦倉庫までは確かめませんでした。もしかしたら解体直前の最期の姿を目の当たりにしていたかもしれません。時空逍遥は“一期一会”です。

 それにしても、テレビ放送の隔週一回は、オンエアが終わったらすぐ次の収録が来ます。速い。

2018/10/15

西岡4条、月寒川の蛇行跡

 先日来、月寒川の蛇行のことを取り上げてきました(10月11日13日14日ブログ参照)。
 なぜ流路が改変されたか、言い換えれば、なぜ蛇行が直線化されたか。拙ブログの問いに寄せられたコメントの一部を紹介します(引用太字)。
 昔はもちろん今もなお大雨が降ると中流域で氾濫する月寒川はやはり大幅に流路を変える必要があったんだろうなと思う次第です。
 ちなみに、月寒川の改修がいつ行われたのかわかりませんが昭和30年代にあった氾濫では旧国鉄千歳線沿いで川から西に5丁離れている所まで冠水したそうです。

 貴重な“証言”をありがとうございます。地元を知る方ならではの記憶です。

 私も現地で、記憶を呼び戻そうと試みました。
西岡4条 Nさん宅の庭 月寒川の旧河道
 豊平区西岡4条、Nさんのお宅のお庭です。
 Nさんは1970年代後半からこの地にお住まいと聞きました。お庭のサクラの樹の向こうを川が流れていたそうです。 

 色別標高図でその位置を確認しておきます。
色別標高図 西岡4条 Nさん宅
 S字状に青くなぞったのが月寒川の旧河道で、冒頭画像は赤い矢印の向きで撮りました。Nさんの回想では、お住まいになって間もなく、すなわち1970年代後半にも目の前の川が氾濫したとのことです。

2018/10/14

西岡5条Yoさん宅に遺る旧河道の痕跡

 昨日ブログでお伝えした豊平区西岡5条、Yoさん宅の池泉庭園です。
西岡5条 Yoさん宅庭園 2018年9月
 お庭の背景に、足場が組まれているのが見えます。本年9月末に撮ったものです。

 そのひと月前、8月下旬にほぼ同じ場所を撮っていました。
西岡5条 Yoさん宅庭園 2018年8月
 冒頭の画像と比べると、いわゆる緑量が多かったと思います。この一か月で、Yoさん宅のお隣、敷地境界沿いにあった木々が伐られました。

 実は8月にこのお庭を訪ねたとき、管理人さんからお隣の木が近々伐られることを私はお聞きしていました。お隣はNさんという農家だったのですが、ご当主が亡くなり空き家となって解体されたのです。跡地に老人施設が建てられることになり、冒頭の画像で足場が組まれているのは、その工事が始まったことを伝えています。Nさん宅には煉瓦のサイロが遺っていましたが、やはりこの一年以内に姿を消しました。

 あらためて、この風景を現在図で確認します(色別標高図、65m以下から2mごとの9段階の色分け)。
色別標高図 西岡5条 月寒川旧河道 
 前掲2画像は、赤い矢印の向きで撮りました。
 青いS字状の曲線が月寒川の旧河道です。標高図で色分けされているように、Yoさん宅のお庭とお隣のNさん宅との間には4~5mの高低差があります。前掲画像の木々は、月寒川が削った崖線上だったのです。画像左方の最も高いのはヤチダモで、川辺の植生を物語っています。

 10月12日ブログでお伝えした国道36号のNさん宅といい、札幌の街の風景が変わる局面を目の当たりにしました。これが札幌という街だなあと、あらためて感じます。
 このたびの遠足で前掲のYoさん宅のお庭を訪ねたところで、お隣に老人施設ができることをお伝えしたときのことです。参加者のお一人が、背景に建物が建ってお庭の眺めが変わることを残念がる感想を漏らしました。その感想を批判するつもりはありません。しかし私は、お隣に老人施設ができるのも、これまた札幌という街がなせる風景だと思います。変わりゆく風景を脳裏に刻み、変化する中にも消去しえない痕跡を心に留めておきたいものです。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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