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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/12/12

北海道のねこ足

 先日来取り上げている「つきさっぷ郷土資料館」(札幌市豊平区)には、軍事資料だけでなく地域の人びとのくらしやなりわい伝えるモノが展示されています。
つきさっぷ郷土資料館 1階 農機具の展示
 画像に写したブリキ製らしい農機具は、見覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 「たこ足」です。本年1月2日ブログで、その実物を載せました。寒冷地北海道で稲作を普及させた直播の道具です。このたび郷土資料館でも同じモノを見て、「おぉ、ここにもある」と感慨を新たにしました。

 感慨を新たにしたのは、「たこ足」にバリエーションがあることを知ったからです。
つきさっぷ郷土資料館 展示物 タコ足
 奥に置かれているほうには「タコ足」と書かれています。これは本年1月2日ブログでお伝えした妻の生家に“保存”されているものと似たカタチです。

 一方、手前のほうは「ねこ足 木原式水稲直播器」と説明されています。
つきさっぷ郷土資料館 展示物 ねこ足
 「タコ足」と「ねこ足」。郷土資料館の館内を見学したのは久方ぶりながら、前にうかがったときはこれらの存在そのものを認識していませんでした。

 私がこのたびまがりなりにも認識できたのは、最近、別のところでも同じモノを観たからです。
北海道開拓の村特設展示「水稲直播器 ねこ足」北海道博物館蔵
 北海道開拓の村の特別展示「北海道と米~米・稲・飯ものがたり~」で観ました(画像は本年10月撮影)。
 やはり手前と奥に2種類、展示されていて、右下のラベルには「水稲直播器(ねこ足) 大正 北海道博物館蔵」と書かれています。私はこれを観たとき、「『たこ足』の間違いではないか」と思いました。否、思い込みました。「た」と「ね」の書き間違いかと。

 それっきりにしていたのですが、つきさっぷ郷土資料館の展示のおかげでようやく違いに気がつけました。「たこ足」は“足”が長く、「ねこ足」は短い。冒頭画像でわかるように、詳しい説明文も添えられています。長い短いに何が違うのか、興味・疑問をお持ちいただけた方は月寒をお訪ねください。ただし、来年3月まで冬季休館に入りましたので、暖かくなってからぜひどうぞ。
 私は、開拓の村の展示だけでは不遜にも「表記のミス」と思い込んだままでした。ただしあえて申し上げるならば、こちらでも“足”の長いモノと短いモノの二つが展示されていながら、ラベルは「ねこ足」だけです。「たこ足」も表記してもらえれば、よりありがたかった。 
 「たこ足」「ねこ足」は農家の人たちの呼び慣わしであり、正式名称や定義上の厳密な違いではないのでしょう(末注)。とはいえ、かような呼称上の違いも面白いと思います。“足”の長いほうが「たこ」なのは8本×2でまだしも、同じ本数でも「ねこ」に譬えたこととか。カタチはむしろ、私にはムカデに見えますが。
 それにしても。
 知の集積たる北海道立の野外博物館の「特別展示」よりも、地域住民がほとんど手弁当で運営している郷土資料館の常設展示のほうが、説明が詳しい。というか丁寧です。前者を咎めるなどというのでは決してありません。そんな恐れ多いことではなく、違いを楽しみたい。
 最後の段落はたこ足でもねこ足でもなく、蛇足(と言ったら、縁語か)です。

 注:北海道開拓の村の特別展示の「ねこ足」の実物には、北海道庁長官が1916(大正5)年に授けた「賞表」が貼られていて、それには「専売特許 水田播種器」と題されている。

2020.1.18 一部記述を削除(消し線の箇所)。同日ブログに関連事項を追記
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2019/12/09

なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったか。(承前)

 UHB「みんテレ」“となりのレトロ”のコーナーは前身の特集も含め、一年続きました。観てくださっている方々のおかげです。つい繰り返してしまいますが、道路のクランクやら札幌軟石の仕上げやら、円形歩道橋の成り立ちやらが“公共の電波”に乗る時代になるとは、一昔前には想ってませんでした。ありがとうございます。
 私はロケハン(下見)とロケ本番に出ますが、放送局の部外者なので編集には立ち会いません。毎回、どんなふうに“切り貼り”されるか、冷や冷やものです。しかし、局のスタッフはさすがにお手の物で、うまく仕上げてくれます。ADのEさんは私よりかなり若いのですが、“人間”ははるかに出来ている人です。私の珍奇なこだわりに辛抱強くつきあってくれる“寛大な”局の皆さんにも、
感謝します。

 本日の番組でお見せした色別標高図です。
標高図 標高20m未満から10mごと7色段彩 旧千歳線、月寒
 標高20m未満から10mごと7色段彩で作りました。白ヌキ実線が旧千歳線(元北海道鉄道)、赤い○が月寒(つきさっぷ)駅、白ヌキ○が北部軍司令部、同じく□が歩兵第25連隊(末注①)のそれぞれ跡地です。

 北海道鉄道は苗穂から、鉄路を逆S字状に不自然なほど湾曲させて敷かれました。私は、月寒の25連隊へのアクセスのためと番組で伝えました。したり顔で最新知見であるかのように言うことではないのですが、さりとて、根拠付ける一次史料を見出してもいません。推理の域であることを申し添えます。
 北部軍司令部の立地については、番組で私は「これは私の想像」と断って、岬の突端のような地形が理由に挙げられるとと述べました。あとから漁った既往文献で、次のように記されています(末注②、引用太字)。
 標高50mの高さは、札幌の町並みを一望できる高台に位置している。軍司令部の西側、つまり裏側に位置する防空作戦室も同じ標高の環境にあり、周囲には原野が広がっており、高い受信アンテナを建てても電波障害が少なく、送受信に最適地であった。

 番組の終盤、スタジオの面々が話す場面で写された古写真です(つきさっぷ郷土資料館展示から)。
陸軍特別大演習1936年 歩兵25連隊 営内運動場
 これは北部軍当時ではありません。1936(昭和11)年の陸軍北海道特別大演習のとき、歩兵第25連隊の営内で撮られたものです(末注③)。写っているのは将校で(末注④)、弘前の第八師団も参加しています。よって、この風景をもって「こんなにたくさんの兵隊さんが月寒にいた」というのは正確ではありません。ただし、北部軍司令部には千人単位での軍人及び軍属が所属していたそうです。これは既往資料(末注⑤)だけでなく、北部軍司令部に軍属として勤めていた女性からもこのたびお聴きしました。現在95歳の方です。防空作戦室に勤めていた方の“証言”は既往文献で読みますが、司令部にいた方の話をしかも直接お聴きするのは、私は初めてです。おって拙ブログで綴ります。
 
 注①:札幌郷土を掘る会『写真で見る札幌の戦跡』2010年、pp.41-47による。
 注②:札幌市文化財課『北部軍管区司令部防空作戦室記録保存調査報告書』2009年、p.29 防空作戦室の歴史については西田秀子さんが執筆
 注③:現在の札幌月寒高校の位置とされる。前掲『『写真で見る札幌の戦跡』p.80参照
 注④:つきさっぷ郷土資料館秋元館長さんのお話
 注⑤:西田秀子作成「札幌は軍事都市だった?!-1945年の札幌-空襲・敗戦・占領-」札幌建築鑑賞会「札幌百科」第14回2017年3月4日資料によると、1943(昭和18)年北部軍司令部に防空作戦室開設(3000人)。この3000人という数が月寒の司令部だけを指すかどうかは西田さんに未確認。うち女子通信隊員(軍属)は1945(昭和20)年1月時点で262人。

2019/12/08

北部軍司令官官邸が建てられた頃

 12月6日ブログでお伝えしましたように、9日(月)に放送予定のUHB(8ch)「みんテレ」(15:50-)“となりのレトロ”では月寒を紹介します。
 2017年の夏に「つきさっぷ郷土資料館」を撮った写真には、敷地に提灯が架かっていました。
つきさっぷ郷土資料館 170814撮影
 訪ねたのが8月14日だったからでしょう。
 
 この建物が当初の用途である大日本帝国陸軍の北部軍司令官官邸として使われたのは、戦時中の約5年です。戦後は、北大の「月寒学寮」、その後は現在に至る「つきさっぷ郷土資料館」として、第二、第三の“建物人生”(そんなコトバがあるか?)を送ってきました。数えてみると、それぞれ三十余年。現役よりはるかに長い“余生”です。戦争遺構が平和利用されるのは結構なことだと思います。夏祭り(?)(翌日は8月15日)の提灯は、象徴的な風景です。

 私は、建物が建てられたのを古い二次的文献により1940(昭和15)年と思っていましたが(末注①)、先日資料館でお聞きして1941(昭和16)年と知りました。北部軍司令部が置かれたのが1940年で、司令官官邸ができたのはその翌年だったのです。札幌市公文書館所蔵の史料で、1940年8月14日「起工」、1941年5月30日「竣功」という記録を確かめました(末注②)。
 なぜ建築年に触れるかというと、その当時の情勢を振り返りたかったからです。建物が建った1941年の12月8日、日本は米英に宣戦布告しました。同じ史料に、北部軍司令官濱本喜三郎が同日発した「訓示」という一文も記載されています。その一節を以下、引用します(太字)。
 北部軍管区ハ国土ノ北辺ニ位シ近ク敵国米、敵性蘇ノ二大強国ト相対シ北辺防衛及国策遂行上ノ要域を示ム
 対米、対蘇(ソ連)の二方面の前線的な拠点だったことも、あらためて知りました。同年(1941年)4月に日ソ中立条約が結ばれていますが、ソ連は「敵性」と認識されていたのですね(末注③)。同年6月にはドイツがソ連を攻撃しました。かたや前年(1940年)9月には「日独伊三国同盟」が成立しています。日本は、“味方”のドイツがソ連と敵対する中で、ソ連と中立を保ちえるか。ソ連もまた、戦争相手ドイツの同盟国に対して中立でありえるか。
 私は、ソ連が1945(昭和20)年8月に当時日本領の千島や南樺太を侵攻したのは国際法違反(中立条約を一方的に破棄した)と思ってきました。こういう近代史にも私は疎いのですが、日本の中枢はソ連の“抜き打ち”“騙し討ち”があることを重々察していたのではないでしょうか。もちろん、「だから仕方がなかった」ということではありません。
 という情勢下に建てられた司令官官邸です。

 注①:北海道近代建築研究会編『札幌の建築探訪』1998年、p.118ほか
 注②:「松田鶴彦資料」(複写)「軍司令部歴史案 自昭和16年7月7日至8月31日」のうち「軍司令部官舎施設建造物一覧表」
 注③:1941年7月の御前会議で決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」では対ソ戦が準備され、大本営は関東軍特別大演習を発動した(北海道編『新北海道史年表』1989年、p.537)。

2019/12/06

なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったか。

 お知らせを二つ。
 ■毎年12月に恒例の北翔大学円山キャンパス(旧称ポルト)での市民講座を、来たる8日(日)に開催します。
 今回は「自分たちの足元を見つめて、まち自慢を発信する」というテーマのもと、第1部は札幌軟石と煉瓦が小テーマ、第2部は木造建築が小テーマです。第1部では、「札幌軟石ネットワーク」事務局長にして札幌軟石文化を語る会・札幌建築鑑賞会会員の佐藤俊義さんが発表します。昨年の北海道遺産選定後、佐藤さんが調べてきた北海道内における軟石文化の普及についての新たな知見です。ご期待ください。
 とき:12月8日(日)午後1時から5時まで (第1部はおおむね午後2時半まで、佐藤さんの発表は前半)
 ところ:北翔大学北方圏 札幌円山キャンパス(札幌市中央区南1条西22丁目1-1) 地下鉄東西線「西18丁目」または「円山公園」駅から徒歩
 ■UHB「みんテレ」(8ch)の“となりのレトロ”、12月9日(月)に放送されます。

 https://uhb.jp/program/mintele/
 今回歩くのは月寒です。

 その月寒にある「つきさっぷ郷土資料館」です。
つきさっぷ郷土資料館 外観
 かつての「北部軍」の司令官官邸でした。
 ここで北部軍司令官が執務していたと私は今まで思っていたのですが、必ずしもそうではなかったことをつい先日、知りました。この建物はむしろ迎賓施設というか、ハレ的な位置付けだったようです。無知でした。
 ところで、本日ブログの標題「なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったかです。9日の“となりのレトロ”のテーマでもあります。もともと明治時代に陸軍第七師団の独立歩兵大隊(のちの「歩兵25連隊」が置かれたことが大きいとは思うのですが、それだけではありませんでした。詳しくは放送で。しかし15分で伝えきれるか。大体、月寒で軍隊といえばまず25連隊だと思うのですが、それを飛び越えていきなり北部軍の話ですから。

2019/11/30

札幌市月寒公民館

 社会教育法、札幌市公民館条例に基づく公民館の、札幌市内唯一です。
月寒公民館
 なぜ、唯一か。
 
 この施設が札幌市と合併する前の旧豊平町から続いているものであろうとは、うすうす察していました(末注)。では、合併前の札幌市には公民館はなかったのか。同じく合併した旧手稲町や旧札幌村にも公民館はあったのではないか。もしあったとしたら、それらが現存せずに、本件月寒公民館のみ続いているのはなぜか。
 この種の公の施設(という言い方は漠然としていますが、ひとまずお許しください)でほかに思い浮かぶのは、区民センターや地区センターです。しかし、いうまでもなくそれらは社会教育法には基づいていません。これは私の先入観ですが、札幌市は社会教育法に基づく公民館の継承あるいは新設には積極的でなかったと思います。法律に縛られたくない。「だから札幌には、無いのだろう」と一人合点していました。では月寒公民館は? 旧豊平町の“遺物”か? 廃止して地区センターなどに変えず、“昔の名前”で遺している積極的意義はあるのか、ないのか。そのことと、この館にある図書室が市内の図書館や区民センター図書室などとオンラインされていないのは関係があるのか、ないのか。
 このような設問に対し、「役所だから」とか「役所のタテ割りだから」とかいうありきたりでステレオタイプで根拠のさだかでない答えで、思考停止したくありません。それで判った気になるのは、アブナイ。また、念のため申し添えますが、私は公民館をやめて地区センターなどに変えるべきだと思っているのでも、毛頭ありません。むしろ逆です。
 私が知らないだけかもしれませんが、未知・無知ということは探索のし甲斐があります。

 注:ただし、現在の建物は1975(昭和50)年頃の築と思われる。手元の資料によると、同時期、田上建築制作事務所が月寒公民館を設計した(田上的造形の考察はひとまず、措く)。札幌市と豊平町の合併は1961(昭和36)年。

2019/10/03

JAドーミー

 土地の記憶の反転風景(9月29日ブログ参照)という概念というか造語が気に入って、平岸で引き続き採集しました。
 
 札幌軟石の元苹果選果場(苹果については2016.3.14ブログ参照)のお隣に建つ物件です。
JAドーミー
 私は今まで、元苹果選果場のことしか目に入っていませんでした。

 このたび、手前の建物に貼られている「JAドーミー平岸」に気づいたのです。
JAドーミー 銘鈑
 農協のロゴが付いています。

 もともとはリンゴ農家さんの敷地だったと思います(末注①)。前掲元苹果選果場は「平岸下本村農事実行組合」が1938(昭和13)年に建てました。戦後は、新たに設立された農業協同組合が使用していた時期もあります(末注②)。この建物が面する道路はかつて、平岸の東西を結ぶ本通りでした(2016.2.26ブログ参照)。南北に通じる平岸街道と交わるこのあたりは、いわば往時の要衝です。そこにいま、JAを冠した集合住宅が建っています。私は土地の記憶の反転風景を見てしまいました。

 本題とはまったく関係ないのですが、「JAドーミー平岸」の銘鈑には、小さく「JA dome hiragishi」とも書かれています。ほう、「ドーミー」はdomeだったのか。
 実は、この種の集合住宅で、たまたま‘dormy’という表記を別のところで目にしました。
Dormy Housui
 ドーミーという語感からするこっちが本来ではないかという気がしたので、前掲のドーミー=domeが意外だったのです。しかし、そもそもは和製英語らしい。本来ということでは、‘dormitory’ですか。それを‘dormy’というアルファベット表記にしたら、むしろ誤解を招くようです。ならばdomeのほうがいいか。まあそんなこといったら、日本のマンションにmansionと当てたら、英語圏の人はどう思うか、とかキリがありませんが。

 注①:『株式会社平岸会館50周年記念誌』2009年、p.11
 注②:同上p.14 

2019/10/02

一号用水路の弯曲

 昨日ブログの続きです。 
 明治時代に開削された「四箇村連合用水路」は、札幌近郊農村に稲作水田の道を拓きました。その一つが「一号用水路」です。その流路は現在も札幌市の管理河川として生きています。ただし暗渠ですが。

 1948(昭和23)年空中写真で、流路を俯瞰します。
空中写真 1948年米軍 1号用水路 広域
 濃い青の実線でなぞりました。水色は小泉川です。平岸街道を通した用水路から東へ流し、東裏本通を過ぎて現在の美園との境目あたりで北東へ進みます。

 昨日ブログの末尾に記した「東裏本通のあたりで弯曲」している部分を再掲します。
空中写真 1948年 一号用水路 小泉川との交差
 もし用水路を湾曲させずに直進させた場合を、破線で想定しました。ちょうど東裏の草分け、Sさんのお屋敷にかかります。一号用水路は、まるでSさんの敷地(周囲の水田も含めて?)を迂回したかのようです。

 直近(2008年)の空中写真で一号用水路を跡づけます。
空中写真 2008年 東裏本通 一号用水路跡
 濃い青の実線でなぞりました。いま「跡づけます」と記しましたが、前述したとおり暗渠で現在も通じています。札幌市の管理河川名としては「1号用水」。2016年3月8日3月9日ブログに記したときはその存在に感動しただけで終わってました。こんにちに至り「この弯曲はなぜ?」の思いに達したのです。

 結論的にいうと、小泉川との交差が原因かなと推理しました。
 前掲1948年空中写真でその部分を見つめます。
空中写真 1948年 一号用水路と小泉川の交差
 水色ので囲ったところです。

 用水路と小泉川が直接交差しているように見えます。人工的水路が自然河川と交わるとき、いまなら導水管や水道橋で跨がせるでしょうが、ここではどうもそのまま通したようです(「いまでは」と記したが、古代ローマでは水道橋を築いたりしていた)。弯曲は、小泉川からの水流との調整のためだったのではなかろうか。

 色別標高図に一号用水路をなぞりました。
標高図 平岸面 小泉川、1号用水
 標高35m未満から2mごと10色段彩、一号用水路は濃い青、小泉川は水色です。 
 いまさらですが、一号用水路は西から北東へ、小泉川は南から北へ流れています(いました)。地形的には、札幌扇状地の平岸面が南西から北東へ広がり、なだらかに下り勾配です。用水路を湾曲させず、直進的に通す(破線で想定)と、小泉川との交点で用水路の勾配率が高くなるように見えます。高低差が大きくなる。これが、あんばい悪かったのではないか。土木技術にはまったく疎いので、専門家のご教示を乞いたいものです。立体模型を作って、実験してみますか。

 Sさんのところは、一号用水路に頼らずとも小泉川から直接水を引いて用水を確保できそうです。Sさん宅の南東方面の水田への用水を確保するために、流路を迂回させたのだろうか。

2019/10/01

平岸イーストセンターにあった池

 9月29日ブログの続きです。
 東裏本通(現市道豊平平岸霊園線)に面する「イーストセンタービル」の場所にはかつて、池があったようです。池の正体は何だったのか? 地形に鑑みたとき、扇状地扇端の湧泉(メム)や崖線湧水とは考えづらい。
 
 あらためて1948(昭和23)年空中写真を眺めます。
空中写真 1948年米軍 東裏 小泉川
 東裏本通に沿って、水路が通じています。水色でなぞりました。
 池は、この水路から人工的に引いたものか、あるいは水路がここで自然的に滞留して水溜りを作っていたものでしょうか。庭園? それとも実利的な用途があったのか。

 そもそも、この水路は何か? 空中写真を広域で俯瞰し、なぞってみます。
空中写真 1948年米軍 東裏 小泉川
 東裏を流れていた「小泉川」ですね。
 小泉川については、2017.10.1010.1110.18各ブログをご参照ください。

 その流路を、色別標高図に重ねてみます。
色別標高図 平岸 東裏 標高35m未満から2mごと10色 小泉川
 小泉川は、札幌扇状地の古い平岸面を作った古豊平川の名残だったのかもしれません。

 ところで、東裏の池、のちのイーストセンタービルのあたりには、南側にもう一つ水路が流れています。
空中写真 1948年米軍 東裏 小泉川  1号用水路
 濃い青の実線でなぞりました。これは「一号用水路」です。
 
一号用水路の痕跡も、前に探訪しました(2016.3.83.9ブログ参照)。この用水路は人工的に開削されたものですが、ちょうど東裏本通のあたりで弯曲しています。なぜ、湾曲させたのか。弯曲させる必要があったのか。

2019/09/29

平岸イーストセンターに見る反転風景

 昨日ブログでお伝えした「東裏本通」を現在図で確認します。
現在図 平岸 東裏本通 イーストセンタービル
 現在のいわば正式名称である市道豊平平岸霊園線を赤い実線でなぞりました。黄色でなぞったのは平岸通、いわゆる平岸街道です。「表通り」である平岸街道に対して、東側の裏ということで東裏と呼び慣わされたのでしょう。

  昨日ブログに載せた「イーストセンタービル」は赤いを付けたところです。

 1948(昭和23)年撮影の空中写真で俯瞰します。
空中写真 1948年米軍 東裏
 イーストセンタービルの位置は赤いで囲ったあたりです。

 その部分を拡大します。
空中写真 1948年米軍 東裏 Sさん宅
 ここに明治期、Sさんが入植し水田稲作を成功させました。昨日ブログの末尾に東裏本通の「痕跡感が弥増しました」と記したのは、東裏の中心地を跡づけたからです。

 ところで、上掲空中写真をよく見ると、赤いで囲ったSさんのお屋敷の一部が黒っぽく写っています。通りに面したところです。これは池ではないでしょうか。
 池らしき形状は、昭和10年地形図でも窺えます。
 ↓
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=43.033295&lng=141.376983&zoom=17&dataset=sapporo&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2(今昔マップon the webから)
 この場所が前述のとおり高層ビル(商業施設も併設)になっているのも、いわば反転された土地の記憶といえましょう。一見新しく見える風景が往々にして、歴史を裏返して伝えている。

 この池のようなところは自然地形なのでしょうか。湧泉池? とすれば、扇状地の端のメムか。
 色別標高図で地形を俯瞰します。
色別標高図 平岸 東裏 標高35m未満から2mごと10色 
 標高35m未満から2mごと10色段彩で作成しました。白ヌキ実線が東裏本通(市道豊平平岸霊園線)、白ヌキ○がSさん宅の池があったところ、すなわち現在のイーストセンタービルの位置です。黒の実線は平岸街道。

 当該地は札幌扇状地の平岸面ですが、扇端とはいいがたい。一方、平岸面の東側のへりは、月寒台地の西端との間に崖を作っています。この崖下には湧泉が見られる(見られた)のですが、当該地は崖線上ともいいがたい。では、ほかに考えられるのは…。

2019/09/28

東裏本通

 豊平区民センター主催の「豊平街歩き講座」に参加させてもらいました。案内は平岸の達人・伴野卓磨さんです。内容は「道新りんご新聞」フェイスブックにレポートされていますので、ご参照ください。
 ↓
https://www.facebook.com/doshin.apple.news/posts/1748072821992257

 テーマ、視点がはっきりしていたことと、見て歩く各ポイントの関係性がわかりやすく伝わってきたのが印象的でした。行程上で目に入るモノ・コト(ヒト)は、必ずしも結びつきがあるとは限りません。その繋がり具合を解き明かすのは、私がそれを得手にしているわけではないのですが、街歩きの醍醐味といえましょう。今回は達人の案内で、一つの物語を読み終えたような気分になりました。

 歩いたのは、豊平区平岸のおもに「東裏」と呼ばれる(呼ばれていた)地域です。東裏のことは拙ブログでも逍遥したことがあり(末注)、個人的にも理解を深められたというか、妄想を拡げることができました。
 東裏本通です。
平岸4条11丁目 東裏本通り
 といっても、この通り名も東裏という地名も公的には残っていないと思います。通りの市道名は「豊平平岸霊園線」です。 

 町内会館に「本通り」の面影が感じられます。
平岸四区会館
 「平岸四区会館」。「平岸四区」もまた、行政地名ではありません。

 会館もさることながら、その向かいに建つ高層ビルに私は東裏の痕跡を嗅ぎ取っています。
平岸5条8丁目 イーストセンタービル
 建物の名前は「イーストセンタービル」です。
イーストセンタービル 銘鈑
 「イーストセンター」。名前が東裏本通を彷彿させませんか。

 このビル名を私が知ったのは2016年ですが、このたび歩いて痕跡感が弥増しました。 

 注:2016.3.23.3ブログ参照

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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