札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/12

「開道」120年の残照

 7月に開催を予定する札幌建築鑑賞会「2018大人の遠足」初夏の編に備えて、再び八紘学園に足を運びました。地下鉄「南郷13丁目」駅から学園まで、月寒川を遡るように歩いて30分弱です。

 途中、「月寒グリーンドーム」の跡地を眺めました。
月寒グリーンドーム 跡地
 建物はすでに解体されて、ありません。

 ドーム在りし日の写真を載せて、偲んでおきましょう。
月寒グリーンドーム 在りし日 2017年4月
 昨年4月に撮ったものです。その前年(2016年)3月末をもって閉鎖されていたので、この時点でもはや近づけませんでした。

 これは本年4月の撮影です。
月寒グリーンドーム 在りし日 2018年4月
 この写真を撮って間もなく、解体工事に入ったようです。前掲画像と比べると、周囲の木々(トドマツ?)も伐採されたかに見えます。

 入口には、大きな表札を掲げた門柱がありました。
北海道立産業共進会場 門柱
 「北海道立産業共進会場」。

 ネーミングライツの冠を付けたグリーンドームという愛称のおかげで、この名称もカゲが薄くなっていました。
月寒グリーンドーム 跡地
 その産業共進会場の表札も、すでにありません。 
  
 グリーンドームを彩ったイベントも偲びましょう。
世界・食の祭典 パンフレット
 ちょうど30年前にちなんで、「世界・食の祭典」です。1988(昭和63)年6月、華々しく幕を開きました。

 パンフレットには、主会場となった本件ドームも描かれています。
世界・食の祭典 パンフレット 月寒グリーンドーム
 当時を知る道民にはご記憶のとおり「食祭」は惨憺たる結果だったせいか、公式報告書がないようです。なので、パンフレットも貴重な史料になったかと思います。
 
 パビリオンの一つに、アメリカ映画にちなむセットなどが展示されていました(末注①)。『北北西に進路を取れ』のポスターのとか。これが「食」をテーマとする博覧会とどう結びついたのか、よく思い出せません。印象に残っているのは、その館にいた担当者がゴルフの素振りを(クラブなしのエアで)していたことです。来客が少なくてヒマを持て余している象徴的な光景でした。

 産業共進会場ができたのは1972(昭和47)年です(末注②)。八紘学園の生き字引のSさんに、岩手県でこのドームをモデルとした共進会場が作られたとお聞きしました。一つのプロトタイプになったのですね。
 「共進会」というコトバも死語になるのではないか。と私が漏らしたら、札幌建築鑑賞会スタッフのNさんに「酪農業界では今も使われている」と言われました。 たしかに、ホルスタイン牛の共進会とか、開かれています。もともとは酪農畜産に限らず、ひろく産業生産物全般を対象にした品評会、見本市、博覧会だったようです。文明開化のときの訳語ではないかと私は思います。食祭も、明治以来の共進会の系譜と見ることもできましょう。開催された1988年は、「開道」120年でした。

 グリーンドーム跡地近くに架かる橋です。
白石藻岩通 共進橋
 「共進橋」といいます(末注③)。

 ここに産業共進会場があったことの、唯一の名残でしょうか。 
共進橋 橋名板
 これから10年、20年したら、なぜこの橋が「共進」なのか、記憶が薄れていくかもしれません。

 注①:食祭のパンフレットを見たら、「アメリカ映画村」は大谷地会場(アクセスサッポロ)に設けられていた。「日本で人気のあるアメリカ映画のセットを、そっくり再現。映画スター気分を満喫できるハッピービレッジです」と。なぜこれが「食」の祭典かは、やはり解せない。
 注②:開設されたのは1972年8月1日(『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.446)、
 注③:橋名板によると、橋が竣功したのは1971(昭和46)年10月である。
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2018/04/30

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 ④

 国土地理院サイトで遊んでいます。
 こんどは標高5m色別、陰影版にしました。
色別標高図陰影 記念塔-しらかば台小学校
 右上の黄色の六角形が北海道百年記念塔、左下の白ヌキ○が豊平区の「しらかば台小学校」です。
 小学校から見て、記念塔は北東の方向に位置します。直線距離にして6.7㎞です。 

 同小校歌一番の歌詞で、♪東の光り 燃え差すところ 記念塔から 春の風…と歌われています。
豊平区 しらかば台小学校
 この学校から今、記念塔は望めるでしょうか。

 前掲色別標高図陰影版で、小学校付近を拡大します。  
色別標高図陰影 しらかば台小学校
 白い○が小学校です。所在地は豊平区月寒東4条18丁目。

 学校のすぐ前から北東を眺めても、目の前の家屋でさえぎられています。校舎の上階に上がれば見渡せるのでしょうが、こんな理由で学校に入れてもらうのは躊躇われます。そこで90mほど東の、黄色の○のあたりに行きました。
 
 ここから東側は、吉田川が急峻な崖を削っています。
月寒東4条19丁目から東望
 小学校の標高が43m、黄色の○の位置が35m、崖下は29mで、かなりの高低差です。
 しかし、記念塔は見つけられません。

 そこで今度は、学校から150m南にある雑木林に行きました。
月寒東特別緑地保全地区
 前掲図の赤い○のところです。いわゆる崖線樹林地で、「月寒東特別緑地保全地区」に指定されています。標高は43m。崖下の住宅地は31mです。
 
 崖の先まで行き、記念塔の方向を樹間から遠望すると…。
月寒東特別緑地保全地区から遠望
 見晴るかす市街地の彼方に、見えました。

 カメラを最大限ズームインしてみます。
月寒東特別緑地保全地区から北海道百年記念塔を眺望
 高低差12mのおかげです。

 冒頭の標高図を見直すと、記念塔が眺望できる地勢が判ります。
 小学校は吉田川とラウネナイ川で削られた舌状台地「しらかば台」の東端です。ここから記念塔まで、ずーっと標高20mくらいの平地が続き、さえぎるものがありません。かたや記念塔は野幌丘陵の西端、標高54.8mに位置します。塔のてっぺんは+100mで、154.8mです。崖下の住宅地に高層ビルが建たない限り、塔は見通せます。都市計画図を見たら、崖下は第一種住居専用地域で、10m高さ制限があります。前述の「高低差のおかげ」で、セーフです。  

 ちなみに、この画像に写っている「ベルコ大谷地シティホール」(白石区本通21丁目南)は、学校から記念塔に向かって1.4㎞のところにあります。準工業地域で33m高度地区です。この建物の高さからすると、33m目いっぱいの建物が建っても、てっぺんがなんとか見えるか。

 百年記念塔は、学校との距離=x軸と、地勢(標高)=y軸による相関関係で校歌に歌われるようです。正確にいえば、校歌ができた年代=z軸との三次元的相関関係か。これを解析したら面白そうだな。

2018/04/19

八紘学園のカマボコ

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」下見のために八紘学園を歩いた先日来、“既視感”がキーワードになっています。
 こんどは私自身がスタッフYさんとともに、既視感に囚われました。
八紘学園 カマボコ
 このカマボコ型。昨日今日のモノとは思えません。Yさんと私は顔を見合わせたものです。

 実は昨年9月、千歳でそっくりなモノを目にしていました。某カルチャーセンターの講座で陸上自衛隊東千歳駐屯地を見学した際です。
陸自 東千歳 クォンセットハット
 Yさんも参加していて、二人してそのときのことを思い出しました。

 東千歳には、同じようなフォルムの施設が遺っています。
陸自 東千歳 クォンセットハット②
 「クォンセットハット」といいます。

 Quonset hut かまぼこ型組み立て兵舎(Nissen hut).[Quonset(最初に造られた所;Rhode Iselandにある)]
 Nissen hut (第二次大戦中に英軍が用い出した)かまぼこ型兵舎(→Quonset hut).[P.N.Nissen((1871-1930)カナダの陸軍技師)]
 (『カレッジクラウン英和辞典』三省堂1968年、末注①)

 東千歳の物件は、元米軍施設です。旧日本軍の海軍飛行場を戦後占領軍(米軍)が接収し(キャンプ千歳)、これらのカマボコ型兵舎を設けました。昨年この場所を案内してくださった北大工学部Ⅰ先生によると、もともと南方の基地にあったものを移設したそうです。
 なぜ、このフォルムが考案されたか。最大のメリットは、何といっても「大量に運びやすいこと」です。たしかに、半円形なので幾つも重ね合せして運べます。

 さて、あらためて冒頭の八紘学園カマボコを見てみましょう。
 昨日ブログに続き、また「もしや」と想いました。そして『八紘学園七十年史』2002年をひもといたところ、次のように書かれていました(p.544、引用太字)。
 カマボコ=占領軍が利用していたカマボコ型兵舎を昭和三四年に払い下げを受けたもの。当初は八紘寮食堂として利用したが、五〇年以降は屋外講義実習教室として利用している。

 こんどは「もしや」が当たりました。札幌市内に、米軍のクォンセットハットが今もまだ遺っていたとは。たしか、真駒内の旧キャンプ・クロフォードにもなかったと思います。
 八紘学園に遺っていることに因縁を感じます。なんとなれば、学園創設者の栗林元二郎は戦後、GHQ指令により公職追放されているからです。学園の名前も「八紘」から「月寒学院」と改称させられています。何せ「八紘一宇」ですから。その学園が、占領軍物件の払下げを受けていたのですね。

 ところで、本件カマボコは、元々どこにあったのでしょうか。
 札幌でカマボコ兵舎といえば、中島公園の児童会館に転用されたそれが知られます。
 戦後中島公園に設けられた占領軍第十一空挺師団のカマボコ兵舎は、1948(昭和23)年札幌市に払い下げられました。翌年から中島児童会館として使われたのですが、会館は1958(昭和33)年、北海道博覧会の事務所として建てられた新しい建物に移転します(末注②)。旧兵舎は道博開催にともなって解体されたというのですが、もしかしたらこれが八紘学園に転々用されたのだろうか。前述学園史によれば学園が払下げを受けたのは1959(昭和34)年なので、時系列的に齟齬はありませんが…。

 学園内には、前掲物件よりも大型のカマボコもあります。
八紘学園 カマボコ 大型
 これも、ひょっとしたら…。

 注①:『新クラウン英和辞典』三省堂1981年には、次のように記されている。
 Quonset hut かまぼこ型兵舎 → Quonsetは初めて用いられた米軍基地の名; Nissen hut よりも大型.
 Nissen hut かまぼこ型兵舎 → Quonset hut に似てそれよりも小型のもの; Nissenはそれを考案した英国の鉱山技師の名. 
 注②:山崎長吉『中島公園百年』1988年、pp.191-192、『さっぽろ文庫84 中島公園』1998年、p.12、p.273
 

2018/04/18

有島武郎と吉田善太郎

 昨日ブログの続きです。
 あらかじめお断りすると、森雅之が八紘学園・栗林記念館を目の当たりにしたという裏付けはありません。昨日記した彼の既視感というのは、あくまでも私の妄想の産物です。ただ、この洋館は森や久我美子が映るシーンと目と鼻の先にあります。映画『白痴』のこの場面がロケされたのは1951(昭和26)年の2月です(末注①)。真冬のロケの後、役者たちが近くで暖を取ったことは想像に難くありません。ましてやハイカラな洋館です。
 引き続き妄想の世界に遊びます。

 その栗林記念館の上げ下げ窓です。
八紘学園 栗林記念館 上げ下げ窓
 1996(平成8)年に室内を見学させていただいた際に撮りました。

 こちらは有島武郎旧宅の窓です。
旧有島邸 上げ下げ窓
 札幌芸術の森で撮りました。

 これまで私は、前者(栗林記念館)が後者(有島旧宅)を真似たとてっきり思っていました。後者は1913(大正2)年に建てられた当時、新聞でも報じられて話題になったようです(末注②)。札幌の洋館のモデルになった可能性があります。ところが、前者が建てられたのは1909(明治42)年といいます(末注③)。前者の方が後者よりも古い。
 ここで栗林記念館について由来をおさらいします。本件は明治時代、この地に牧場を開いた吉田善太郎の別宅として建てられました(末注④)。吉田が米国から牛20頭を輸入した記念と伝わります。1933(昭和8)年、栗林元二郎が吉田牧場の土地を購入して学校を創設、その後本件は栗林の住宅として使われました。

 さて、前述の時系列が正しければ、有島武郎が吉田宅を見て、自らの住まいにその意匠を取り入れたと考えられます。一方、前掲画像の上げ下げ窓の桟のモチーフは、米国ニューイングランドの住宅で17世紀後半に使われたものだそうです(末注⑤)。どちらがどちらを、ということでなく、それぞれに米国の見聞を反映させた可能性もあります。有島のみならず、吉田善太郎の息子・善助も米国留学の経験があるのですから(末注⑥)。汎用されるひな形があったのかもしれません。
 
 私はここで、「有島が吉田を真似した」説を開陳します。
 1907(明治40)年、有島は米国留学を終え欧州遊行を経て帰国しました。1911(明治44)年、彼は現在の東区にあった栃内元吉の貸家に住みます(末注⑦)。有島と栃内は、どういうつながりがあったか。「武郎と栃内、佐藤、新渡戸は盛岡の縁で深く結ばれて」いました(末注⑧)。佐藤というのは、札幌農学校第一期生にして、東北帝国大学農科大学学長となった佐藤昌介です。有島は佐藤の下で母校の講師、のちに教授を務めました。新渡戸はいうまでもなく有島の恩師、新渡戸稲造です。いずれも盛岡の出身。栃内もいわゆる旧南部藩士で、開拓使に仕えました。有島はというと、母が盛岡の出身で、栃内と知り合いだったのです。

 ここで私は「もしや」と思いました。何が「もしや」かというと、吉田善太郎の出自です。
 吉田もまた、盛岡の出身でした(末注⑨)。明治20年代に白石・月寒に広大な土地の払下げを受けて、農場を経営します。月寒の村づくりに尽力し、「開村の祖」となりました。明治末からは近代的酪農にも力を入れます。月寒村に第七師団第二十五連隊を誘致しました。
 そんな吉田が同郷の佐藤昌介や栃内元吉と交流があったことは、これまた想像に難くありません。佐藤は自ら農場を経営してもいました。栃内は屯田兵育ての親であり、後に第七師団旭川連隊区の司令官を務めました(末注⑩)。
 
 吉田-佐藤・栃内-有島。有島武郎もまた、吉田善太郎を知らなかったはずはないと私は想うでのです。明治30年代、ニセコ(狩太)に土地の払下げを受けた大地主を出自とする彼でもあります。
 有島もまた、のちに栗林記念館となる吉田別邸を訪ねたことがあるのではないか。そして、上げ下げ窓を見た。彼も既視感を抱いた。かつて留学した米国東海岸の“アーリーアメリカン”のたたずまいです。40年後、息子の森雅之が同じ場所をおとなった。
 有島が吉田善太郎、善助と交流した跡がなかったか、『有島武郎全集』にざっと目を通しましたが、見つけられませんでした。

 注①:松竹DVD『黒澤明監督作品 白痴』附録資料
 注②:農林中金札幌支店『有島寮物語』1987年、p.116
 注③:札幌市地域計画課『札幌の歴史的建造物を旅する本 れきけん×ぽろたび』p.58
 注④:『札幌市歴史的建造物実態調査』1992年、pp.120-167、北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.119
 ただし、前者は「有島武郎邸との類似点などを考えあわせると、大正初期とも考えられる」とも記し、「有島邸との関連が想像されるが、今調査では未解決のまま課題として残された」としている。後者でも「明治末から大正初期にかけて建てられたものだ」と幅を持たせ、また、有島旧宅との関係は「不明」である。  
 注⑤:同上注③
 注⑥:斎藤忠一「吉田善太郎と月寒村」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第21号1991年、pp.50-57
 注⑦:前川公美夫『有島武郎の札幌の家』1987年、p.48
 注⑧:同上
 注⑨:札幌市教委『新聞と人名録にみる 明治の札幌』1985年、pp.446-447
 注⑩:札幌市教委『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.211

2018/04/17

森雅之は、八紘学園で何を見たか

 昨日ブログの続きです。
 1951(昭和26)年公開の映画『白痴』で、豊平区月寒東の八紘学園がロケ地の一つになりました。主役を演じた森雅之は、 ある感慨を抱いたと私は想います。ひとことで言えば既視感です。では何に既視感を覚えたか。

 学園内にある「栗林記念館」です。
 建物の外観については下記札幌市サイトをご覧ください。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building43.html

 記念館の玄関部分です。
八紘学園 栗林記念館 正面 1996年
 この写真は私が1996(平成8)年に撮ったもので、アングルの都合で一部しか写ってませんが、お許しください。

 こちらは、森雅之、本名有島行光が幼少期を過ごした元住宅です。
北大 有島寮 玄関 1983年
 行光の父、有島武郎が1913(大正2)年に建てました。写真はその70年後の1983(昭和58)年、東区北28条東3丁目に北大の寮として残されていた当時に私が撮ったものです(2015.2.9ブログ参照)。

 下見板貼りの外壁に、2階は縦長上げ下げ窓、井桁と菱形を組み合わせた桟、玄関の切妻破風の十字型飾り、扉両脇の小窓など、前掲記念館とよく似ています。このことは、札幌建築鑑賞会で1996年に記念館を見学した際、北大工学部・Ⅰ先生に教えてもらいました。

 有島旧宅は現在、札幌芸術の森で移築保存されています。
旧有島邸 芸術の森 
 森雅之こと有島行光は、自らが暮らしたこの住宅を八紘学園の洋館に重ね合せたのではないだろうか。

 しかし、有島がここを住まいとしたとき、行光は2歳から3歳でした。ものごころもつかないであろうその時期の2年で、脳裏に刷り込まれるものか。

 映画『白痴』の一シーンです。
黒澤 白痴 有島旧宅
 よく知られていることですが、ほかならぬ有島旧宅もロケに使われました。森雅之に惚れた久我美子の住まいという重要な舞台としてです。森雅之が八紘学園で既視感に襲われる素地になったと私は妄想します。[つづく]

2018/04/16

八紘学園 サイロ

 一昨日ブログでお伝えしたように、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編では、豊平区月寒東の八紘学園を歩く予定です。

 学園内には、札幌軟石の大きなサイロが2棟、遺っています。
八紘学園 サイロ 札幌軟石
 このサイロは、明治後期に建てられたものが1943(昭和18)年頃に改築されたと伝わります(末注)。

 もとは1棟で、改築時に2棟に分けられたとも聞きました。明治後期に建てたのは、吉田善太郎です。1933(昭和8)年に栗林元二郎が吉田牧場を購入し、学園を創設しました。その後、サイロを改築したのです。

 サイロが1棟だった頃の学園の風景です(八紘学園所蔵写真)。
八紘学園 古写真 サイロ1棟当時
 右方に大きなサイロが写っています。左方は1933年に建てられた校舎です。

 サイロが2棟に分けられたのが1943(昭和18)年頃というので、この写真は1933-43年の間に撮られたものと思われます。
 元のサイロはたしかに今のものより底面の円半径が大きそうですが、2棟に分けたとなると、札幌軟石はこれだけでは足りないような気も私はします。それと、サイロの場合、一個一個の軟石にアール(円弧状)を付けている可能性がありますが、二つに分けてうまく円弧に組み合わさるか、いささか疑問です。このあたりは遠足までの宿題として、できれば前もって学園の先生にお尋ねしておきたいと思います。

 こちらは、1950(昭和25)年頃の学園の風景です。
黒澤 白痴 八紘学園
 サイロの向きからして、冒頭に載せた現在の風景とほぼ同じアングルと思われます。これは、1951(昭和26)年に公開された黒澤明の『白痴』の一シーンです。森雅之と久我美子が札幌のあちこちを遊ぶ一箇所として使われました。サイロの前のナナメの道は、ポプラやシラカバの並木となって花菖蒲園のほうに通じています。古地図を見ると、この道は戦前の吉田牧場当時からあったのですね。

 ところで、森雅之がロケでここを訪れたとき、彼はある感慨を抱いたことと私は想像します。それは…[つづく]

 注:北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.119、札幌市地域計画課『札幌の歴史的建造物を旅する本 れきけん×ぽろたび』pp.58-59

2018/04/15

ラウネナイ

 八紘学園を流れるラウネナイ川です。
ラウネナイ川 菖蒲橋
 山田秀三先生の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1983年(著作集第四巻収録)に、「月寒のラウネナイ」について次のように書かれています(pp.131-132、引用太字)。
 ラウネナイは道内に随分多い名で、従来「深川」と訳されて来たが、川の水が深いと云う意味ではないらしい。机上で話しあう時には、極く普通な地名なのであるが、実際の理解が難しい地名であった。この月寒のラウネナイでも、通り過ぎるたびに何度も見て来たのだが、平地を流れる平凡な溝川に過ぎない。別に川岸が高い訳でもない。どこがラウネなのだろうか。(中略)
 結論としては、低い処を流れて居る川と理解すべきであるようだ。月寒の場合は、平坦な向ヶ丘台地と、東月寒台地との間を長いこの沢が割っている。台地から見れば低い処にある、その沢底を流れているのがこのラウネナイなのである。

 冒頭画像で載せたように、ラウネナイは現在、コンクリート三面張りで直線化されています。この姿は、山田先生が見た当時以上に「平地を流れる平凡な溝川に過ぎない」といえます。
 しかし、昨日ブログに載せた画像の切り立った擁壁を見ると、先生に異を唱えるのは恐れ多くも、あながち「平凡な溝川」とも思えないのです。先生は「別に川岸が高い訳でもない」ともいうのですが、擁壁の上を川岸と見るならば、むしろかなり高い。これは、ある意味「深川」といってよいのではないか。

 ラウネナイの下流です。
ラウネナイ下流 東北通り 東月寒橋から南望
 東北通りの「東月寒橋」から南を望みました(2015年9月撮影)。橋の少し上流(画像上では、奥の方)で月寒川と合流し、橋上では月寒川です。奥に見えるベージュ色の集合住宅の手前で、右方から月寒川がラウネナイに、というより、左方からラウネナイが月寒川に注いでいます。

 その集合住宅のあたりは、やはりコンクリート擁壁が高く組まれています。
ラウネナイ 東北通り東月寒橋から南望 月寒川との合流地点
 街中にしては結構「川岸が高い」と、私には思えてなりません。「深い(谷を削る)川」に見えるのです。
 
 山田先生は前掲書の別項でラウネナイの考察を重ねています(p.141、引用太字)。
 ラウネは、ラ(低い処)、ラ(低い)、ラウン(下の)等と同系の語で、「高い」に対する、「低い」を意味する言葉であったようだ。「深い」と訳するから判り悪(にく)くなったらしい。したがって、ラウネ・ナイは「低くある・川→低い処を流れて居る川」と解すべきではなかろうか。
 こう読めば、何も水の流れている川岸が深く(高く)なくたって不思議ではない。


 実は私は、山田先生の記述を前述のとおり「著作集第4巻」1983年の再録版から引用しました。1965年初版からではありません。以前に初版を引用した際、拙ブログ読者のかたから「再版で記述が訂正されている」旨ご指摘をいただいたことがあったのです。以来私は、努めて著作集再録版1983年を見るようにして、このたびもそうしました。ただ、前述引用の先生の見解がどうにも腑に落ちなく、念のため初版をひもとき直し、再録版との間に記述の変更訂正がないか、読み比べてみました。
 すると。
 初版本のほうの余白に、「訂正」!の小片が貼り付けてあったのです。次の通りです(p.151、引用太字、末注)。
 ラウネは「深い」、ラウネナイは「深く落ち込んだ沢、其処を流れる川」とすなおに訳すべきでした。-山田

 非常にスッキリしました。この「訂正」は、私が現地を見て抱いたラウネナイの印象と一致します。
 教訓。いくら大家の著述でも、釈然としないところは自分の素朴な実感を無下にしないほうがよい。と同時に、先生が原点に立ち返って率直に訂正されているところに、あらためて奥深さを感じます。

 注:私が持っている1965年初版本にこの「訂正」が貼り紙されている経緯はよく判らない。私は同書をネット通販で古書として購入したので、もしかしたら元の読者があとから貼った可能性もある。しかし、いずれにせよ1983年再録版にはこの訂正は反映されていない。訂正の小片自体の信憑性に疑問の余地もあるが、しかし中味は大いに得心がいく。 

2018/04/14

八紘学園の池

 札幌建築鑑賞会のスタッフ5名で、豊平区の地下鉄福住駅周辺を散策しました。恒例行事「大人の遠足」の下調べです。来たる「2018初夏の編」で、月寒東にある八紘学園を歩くことにしました。いろいろ見どころの多い学園で、7月には花菖蒲が咲き誇ることでも知られます。3月に開催した「札幌百科」第15回で花菖蒲にまつわる話をお聴きしたことにもちなみました。

 拙ブログでは例によって、「遠足」の本筋から離れた(しかし、本筋に結びつくかもしれない)話を綴ります。
八紘学園 花菖蒲園近くの池
 花菖蒲園の近くにある池です。

 場所を現在図で確認します(国土地理院標準地形図から)。
国土地理院標準地形図 八紘学園 花菖蒲園 池
 赤矢印を付けた先です。
 近くをラウネナイ川が流れています。現在は直線的に流れていますが、かつてはたぶん蛇行していたことでしょう。池はどうも、もともとの自然地形で、ラウネナイの河跡のようにも思えます。
 
 池の対岸を見ると、擁壁がかなり高く組まれています。
八紘学園 花菖蒲園近くの池 擁壁
 これはラウネナイが削った痕ではないでしょうか。前掲現在図でも、等高線が川の上流へ食い込んでいます。

 カシミール3Dの等高線段彩図を見たら、よく判りました。
カシミール 段彩図 八紘学園 ラウネナイ
 赤い線を付けた先がラウネナイで、前述の池があるあたりです。かなり深い谷に見えます。

 古い空中写真を見てみます。
空中写真 1948年米軍 八紘学園 ラウネナイ
 1948(昭和23)年米軍撮影(国土地理院サイトから)で、赤い○で囲ったあたりに、くだんの池があるようです。

 ラウネナイはやはり、くねくね蛇行していました。ただ、現在図と照らすと、池のあたりは流れていません。が、川に沿って、帯状の影が見えます。崖線上の樹林のようです。上流のほう(画像では、下の方)を見ると、蛇行した川跡らしい地形も窺えます。池が河跡であるとは確かめられませんでしたが、谷底地形の低湿地であるとは言えそうです。池は、崖下の湧水かもしれません。

 八紘学園の花菖蒲園は、学園創設者の栗林元二郎が昭和30年代に東京から持ち帰った一株を植えたことが始まりで、昭和40年代から一般に公開しているそうです(学園のリーフレットから)。現在、2haの土地に約450品種、10万株が植わさって(北海道弁)いるとのこと。
 ここで、話の落としどころです。本筋に結び付けます。栗林は、前述の地形地質が花菖蒲の生育に適うとにらんだのではないか。

2017/10/18

札幌扇状地平岸面 洪水の記憶 補遺

 今回も、前に書いたブログの補正です。
 10月11日ブログで札幌扇状地「平岸面」のことを記し、1950(昭和25)年に起きた連合用水第三号用水路の洪水氾濫を、私は扇状地の記憶ではないかと述べました。妄想を膨らませたものですが、真に受けられかねない表現がありましたので、補っておきます。

 「ぼうず山麓の水田地帯の伏流水が増量」という私の記述について、知人の造園家Sさんから「水害につながるほど短期的に伏流水が増加することは考えにくい」というご指摘をいただきました。これは、もし昨日今日の大雨がもたらしたものという前提ならば、まったくそのとおりだと思います。
 伏流水はかなり長い年月を経て地表に湧き出ると聞きます。「かなり長い」というのは、ン十年というスパンです。白旗山水源の水を使っている清田区の飲料工場では、40年前の水が中腹で湧き出ているとのことです(https://factory.hokkaido.ccbc.co.jp/eco/参照)。京極のふきだし公園の水も羊蹄山に浸みた水が「数十年」かかって湧き出ているそうです(http://www.hokkaidoisan.org/heritage/019.html参照)。
 しかるに、本件豊平の洪水の場合、「ぼうず山」を水源と仮定して国道36号の浸水地帯まで、直線距離にして2.5㎞余りあります。一日二日前に降った大雨が2.5㎞先で洪水となるほど湧き出るとは、考えられません。

 Sさんは洪水の原因を、「戦後の都市化」によるのではないかとみています。雨が降ったとき、舗装されていない地面や畑などであれば地中に浸透しやすいのですが、道路が舗装されたり宅地化が進むと浸透しにくくなります。地中に浸透しない分、大雨が降ると許容量を超えて流れ込み、洪水を起してしまう。‘都市型’水害というところでしょうか。下水道を整備してこれを防ぐのですが、用水路(排水路)の規模が昔のままだと、対処しきれない。

 これはごもっともなのですが、必ずしも「戦後の都市化が原因」とまではいいきれないのではないかと私は思います。
 豊平の浸水地帯の空中写真(1948年米軍撮影、10月11日ブログに掲載)を見ると、たしかに市街化されています。ただし、浸水が起きた1950年当時、戦前と比べて市街地が大きく増えていたかというと、地形図(大正5年、昭和10年)と照らしたとき、それほどではありません。言い換えれば1950年夏の大雨が、それだけ甚大だったのかもしれません。

 Sさんによると、雨水の流出係数(まったく浸透しない地面を1とし、0に近いほど浸透しやすくなる)は以下のとおりです(日本道路協会「道路土工要領」2009年)。
 舗装路面:0.7-0.95 水田(湛水時):0.7-0.8 市街:0.6-0.9 平坦な耕地:0.45-0.6 砂利道:0.3-0.7

 豊平の1950年浸水域は、前述1948年空中写真から推測するに市街地ですが、道路はまだ砂利道でしょう。 一方、ぼうず山から「小泉川」の流域は北へ水田が広がっています。夏場だと流出係数は高い。この一帯が私には伏流水、というかその表出に見えてしまうんですね。‘古々’豊平川(10月10日ブログ参照)の洪水を彷彿させる。伏流水というコトバを安易に使ってすみません。
 
 第三号用水路が流れていたとおぼしき現在の風景です。
定鉄旧豊平駅舎 鉄路跡
 南から北を眺めました。左方の細長く建物が建つ敷地が旧定山渓鉄道豊平駅があったところです(2016年2月撮影、同年2月5日ブログ参照)。1950年洪水を証言したⅠさん(ご主人)によると、駅舎の月寒寄りを用水路が流れていたといいますから、ちょうど歩道のあたりがその跡になりましょう。

 実は、Ⅰさんは「(洪水が起きたのは)戦後、用水路が十分に管理されていなかったからではないか」とおっしゃっていました。本来農業用水路だったところへ大雨が流入して、処理しきれない排水も負わされ、文字どおりオーバーフローしてしまった、というのが実情でしょうか。Sさん、ご指摘ありがとうございます。

2017/10/13

豊平 「やまじゅういち」軟石倉庫 ②

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんが古地図で、豊平の「やまじゅういち」印を確認してくださいました。
札幌市卓上案内 豊平周辺
 まず「札幌市卓上案内」1950(昭和25)年(原図は札幌市公文書館蔵)。方位はおおむね2時の向きが北です。

 赤い線で囲ったところを拡大すると…。
札幌市卓上案内 やまじゅういち倉庫
 室蘭街道(画像中、札幌市電の軌道の線が描かれている道)に面して「○○醤油醸造所」(○○には固有名詞で経営者Ⅰさんの苗字)、その背後に「∧十一倉庫」と書かれています。

 次に「札幌市制紀念人名案内図」1922(大正11)年(原図は札幌市中央図書館蔵)。
札幌市制紀念人名案内図 豊平周辺
 方位はおおむね5時の向きが北です。
 赤い○で囲ったところに「∧十一○○」と書かれています(○○には同じくⅠさんの苗字)。「十一」の「一」の右上に「、」が付いていますが、「土」の俗字と書き間違えられたのでしょう。

 豊平には醸造業の店が多くあり、抜粋した一帯だけでもほかに橙色の○で囲った2軒がそうです(末注①)。どちらも、札幌軟石の蔵が現存しています。
 その一棟が、こちらです。
宮越屋珈琲豊平店
 「カネさ K商店」の雑穀蔵でした(印「カネさ」の「さ」は変体仮名)。K商店はもともと雑穀問屋で、戦後味噌醤油の醸造業に転じたといいます(末注②)。昭和初期築の石蔵は1991(平成3)年、中華料理店の店舗に再利用された後、2002(平成14)年から喫茶店となりました(末注③)。

 すぐ近くのもう一棟はSさん宅石蔵です。地元の郷土史家Nさんに「カネ吉 S商店」と教えていただきました。前掲「人名案内図」には、「カネ吉○○店」と書かれています(○○にはSさんの苗字)。
豊平 S宅軟石倉庫
 建築年は不詳ですが、前述の「∧十一」「カネさ」の石蔵から類推するに、大正~昭和初期ではないでしょうか。豊平では大正期に幾度か大火が起きていますので、その後ではないかとも思います(末注④)。

 豊平で味噌醤油の醸造業が多かったのは、札幌扇状地「平岸面」の扇端、とまでは行かないが、比較的扇端に近い一帯という地形にも由来すると私は睨みました。豊平川の対岸、札幌扇状地「札幌面」でも醸造業(こちらは日本清酒をはじめ酒造)が盛んでした。平岸面は札幌面に比べると古い時代の扇状地ですが、このあたりだとやはり伏流水に恵まれていたと想うのですが…。
 最近、平岸面因縁説にハマっています(10月4日11日各ブログ参照)。一つハマると、どうもクセになりますね。

 注①:『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』1997年、p.460
 注②:『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年、p.260
 注③:『さっぽろ再生建物案内』第2版2003年、p.81
 注④:前掲『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』pp.246-248。ただし同書には、1919(大正8)年の大火でカネ吉S商店の石蔵が類焼し、「灰じんに帰してしまった」とある(p.246)。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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