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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/11

古き建物を描く会 第68回を開催しました。

 9名が参加し、旧北部軍司令官官邸を描きました。先月下旬くらいからコロナ自粛が緩和され、当会も久々の人が集う行事です。待ちかねていた方もいらっしゃったことでしょう。自分がそうだから勝手に思い込んでいるのですが、渇望感が伝わってきました。

 写生後の恒例、青空展覧会です。
描く会 第68回
 資料館の運営部員の方々にもご覧いただきました。  

 この建物が司令官官邸として使われたのは昨年12月8日ブログに記したとおり、約5年です。その後、1949(昭和25)年から1983(昭和58)年まで北大の「月寒学寮」(末注①)、1985(昭和60)年からこんにちに至るまで「つきさっぷ郷土資料館」として再利用されてきました。平和利用の時代がはるかに長いことに感慨を覚えます。

 このたび建物を写生しながら、妙な感慨をもう一つ抱きました。陸軍高級将校の官邸として建てられた煉瓦造、二重窓の建物は、当時このあたりではもっとも立派だったことと想います。妙な感慨というのは、その立派な建物が戦後、学生寮とされたことです。北大が所管する学生寮のほとんどが構内または大学の近くに設けられていた中で、月寒学寮だけ離れていました。それもかねて少し不思議でしたが、そもそもなぜ、学生寮になったのか。周辺の歩兵第25連隊の兵舎などは、樺太からの引揚者の寮に転用されたと聞きます(末注②)。兵卒の宿舎はもっと粗末だったことでしょう。引揚者から聞取りされた記録を以下、引用します(太字、末注③)。
 この年(引用者末注④)の11月、ヨシコたちは月寒の旧歩兵第25連隊の兵舎を利用した引揚者住宅に移りました。この兵舎に入った引揚者の数は約600戸(3,000人)もありました。
 細長い兵舎をベニヤ板で仕切った粗末なものでしたが、その中の4号舎に入りました。6畳間に流しがついていたものの、ベニヤ板1枚の仕切りで、そこに20軒が生活していました。


 一点豪華なお屋敷は、学生寮にするのが一番良かった、あるいはそうせざるをえなかったのかもしれません。月寒学寮が設けられた1949(昭和24)年というのは、北大が新制大学となった年です。帝国大学以来の理系学部に加え、文系学部が新設・拡充されました(末注⑤)。 

 注①:『北海道大学学生寮新設・閉寮記念誌』1983年、p.114、121。月寒学寮は学部学生の男子寮だった。
 注②:札幌市『旧北部軍管区司令部防空作戦室 調査記録保存報告書』2009年、p.59
 注③:「辛酸をなめた引揚者生活-ある樺太引揚者からの聞き書き-」月寒史料発掘会編『つきさっぷ歴史散歩』2005年、pp.64-65
 注④:「この年」が何年なのか、同文の前段に明示されていない。主人公の「ヨシコ」さんが樺太から引き揚げたのが1946(昭和21)年12月とのことなので、翌1947年と思われる。
 注⑤『北大百ニ十五年史 論文・資料編』2003年、年表
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2020/07/01

望月湯 再考

 本題とは関係のないお知らせを先に一つ。
 NHK総合(3ch)のお昼のローカル番組「ひるまえナマら!北海道」(午前11時30分-正午)です。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/program/12e1/
 7月3日(金)の放送予定で、北海道遺産が紹介されます。「札幌・苗穂地区の工場・記念館群」です。北海道遺産だけでなく界隈をぶらり散歩したら面白いですよということで、案内役として顔を出します。よかったらご笑覧ください。
 顔を出すのはほんの3、4分と聞いているのですが、結構念入りにシナリオを相談しています。UHB「みんテレ」の「となりのレトロ」は収録だったので編集で手直しできたのですが、今回はナマ放送です。制作するほうはその分(事故のないように?)、大変なのでしょう。どうなることやら。

 本題です。
 2018年9月30日及び同年10月1日ブログで、「望月寒」の読み方のことを取り上げました。「もつきさむ」とか「もうつきさむ」とか。もともとアイヌ語由来なので、仮名をどう当てても正確ではないことを前提にした話です。

 今春新装相成った北海道立文書館で、たまたまこの地名というか川名にちなむ史料が目に留まりました。
民事局「地理諸留」明治4-6年 モシキサップ字名変更
 開拓使文書(重要文化財)の「民事局 地理諸留 自明治四年辛未 至明治六年」という綴りの一葉です。くずし字で何やら書かれていますが、月寒村の字名の変更に関する文書らしい。

 次葉の矢印を付けた先に、つぎのとおり書かれています。
民事局「地理諸留」明治4-6年 字名「望月」
 赤矢印の先:字 望月  黄色矢印の先:旧名 モシキサツプノ内
 字名を「モシキサツプ」から「望月」に変えたいという伺い文書のようです。「壬申七月」とあるので、1872(明治5)年ですか。現在につながる「壬申戸籍」が整備された年ですね。
 「望月」の左側に「モチツキ」と傍訓されています。モシキサツプがモチツキに変わった? 続く朱書きで、この伺いのとおり決裁されたように読めます。

 美園の望月湯は、一世紀以上前の開拓使決裁を踏襲したのでしょうか。
 いやいや、明治の初めに開拓使が予見していたのでしょう。後年望月湯が出来することを。

2020/06/06

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑥ 小泉川下流の跡を下る

 札幌扇状地平岸面の時間逍遥を脳裏に刻みながら、現地の空間を逍遥しました。小泉川すなわち古々豊平川の記憶(と、もはや決めつけています)をたどります。平岸面が形成されたのは支笏火砕流が堆積した4万年前以降、1.8万年前までといわれます(末注①)。そんな悠久の太古の痕跡を、はたしてあとづけられるでしょうか。 
 
 歩いた一帯を現在図×色別標高図の重ね合せで俯瞰します。
色別標高図 豊平公園周辺 札幌扇状地平岸面 ミッシングリンク探訪
 標高図は標高23m未満から35m以上まで1mごと14色段彩です(国土地理院サイトから作成)。古い空中写真で小泉川の川跡が窺えるもっとも下流部から始めました。水色でなぞったのが空中写真で読み取れる流路です(2020.5.26ブログ参照)。画像上方の黄色の実線については後述します。

サイト① 豊平公園(温水プール側)
小泉川下流跡① 豊平公園温水プール側
 サイトの○数字は前掲図に照合します(以下同じ)。豊平公園の温水プール側の敷地をナナメに通じる径です。川跡に沿って、あるいは川跡を埋めて径が通じています。 

サイト②-1 豊平公園 園内の水路
小泉川下流跡② 豊平公園内水路
 径の先、道路をはさんで公園内に水路が遺っています。水路といっても、ご覧のとおり涸れていました。これは4月末の撮影ですが、札幌建築鑑賞会スタッフにして豊平公園散策の達人Yさんによるとポンプアップして水を流すそうです。正面奥で暗渠になっています。なお豊平公園界隈の諸痕跡についてはYさんにご教示いただきました。

サイト②-2 豊平公園 園内の水路
小泉川下流跡②´ 豊平公園内水路
 前掲サイト②-1の暗渠側からの眺めです。これは今月に入ってからの撮影で、水が流れています。

サイト③ 豊平神社
小泉川下流跡③ 豊平神社
 豊平村のリーダーにして4箇村連合用水開削に尽力した阿部仁太郎が祀った神社です。拝殿の右手前にハルニレの大木が聳えています。平岸面扇端を通説の国道36号沿いとすると、土地の記憶といえます。『さっぽろ文庫38 札幌の樹々」1986年に「寺社などの主な献木」の一つとして挙げられています(p.42)。札幌市緑化推進条例(注②)に基づく保存樹に指定されており「豊平神社の鎮座(明治十七年)以前からあるもので、現在ではご神木とされている」とのこと(同p.307)。献納したというよりは、いわば地霊・樹霊を神聖視したのですね。「道新りんご新聞」編集長Bさんは、仁太郎がここに神社を祀ったのは小泉川と室蘭街道の交点だったからだろうと示唆しています(末注③)。

サイト④ 東北通 東園小学校あたり
サイト④ 東北通 東園小学校北東側で西望
 東北通を北西向きに望みました。道路の左方が東園小学校です。奥に向かってすこ~し、下り勾配になっています。

サイト⑤ 東北通×市道東札幌1丁目線 丁字路
サイト⑤ 市道豊平1条線×市道東札幌1丁目線 三叉路
 東北通と市道東札幌1丁目線との丁字路です。「字路」ではなく「字路」。

 手前から正面奥へ、東札幌1丁目線が通じています。この通りは、というよりこの丁字路は、かつての村界の名残です。明治時代、東北通の手前側が豊平村、東札幌1丁目線の右方が白石村、左方が上白石村でした。後二村は1902(明治35)年に合わさって白石村となります(末注④)。

 前にも載せた白石村を描いた明治時代初期の古地図です(2020.5.18ブログ参照)。
大村耕太郎資料 白石村略地図 三村村界地点
 方位はおおむね10時半の向きが北に当たります。

 この地図に朱色破線で引かれているのが村界です。サイト⑤の地点を加筆しました。「豊平村新道」と書かれた道の南東方面から、水色で描かれた川が⑤の地点の北西側(図上左側)を流れています。これを小泉川の下流と見ました(2020.5.26ブログ参照)。
 この位置関係に照らして冒頭の色別標高図×現在図になぞった白ヌキ破線が推定川跡です。旧三村の村界を黄色の実線で加え、三村界点の⑤の北西側に川をあとづけました。等高線からしても、無理がないように想えます。

サイト⑥ 北電豊平変電所
サイト⑥ 北電変電所 高低差
 旧村界の市道東札幌1条線を北東へ60mほど進み、北西方向を眺めました。写っている道は市道ではなく、北電の施設内の通路です。一帯は旧上白石村側に当たります。現在の町名は旧白石村側ともども白石区東札幌1条1丁目です。
 
 手前から奥に向かって通路がすこ~し、下っています。道の左方、奥の駐車場と手前の駐車場の間にも高低差があります。画像の真ん中、小さく赤い矢印を付けたところです。クルマの車高分くらい、奥の駐車場のGLが高くなっています。このあたりを左方から右方へ、古々豊平川が4万年くらい前に流れ、1万年ほど前に流路が変わった後(札幌面形成に移った後)、その跡を小泉川が流れたのではないかと妄想しました。

注①:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通巻219号)2017年。
注②:現在は「札幌市緑の保全と創出に関する条例」に基づく保存樹木
注③:2020.5.17ブログコメント、同5.15ブログ参照
注④:「新札幌市史 第8巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.126 

2020/05/24

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑩

 このテーマの、今度こそ本当に最後です。豊平区美園の特異点をぐるり廻って締めくくります。

 下掲図の番号の順に現地を歩きました。
美園 地理的特異点 色別標高図
 色別標高図は標高24m未満から1mごと29m以上まで7色段彩で作製し、加筆した凡例は5月22日ブログに載せた図と同じです。 

① 東北通と横丁通の交差点
美園 地理的特異点①
 東北通を白ベタで、横丁通を水色でなぞりました。正面に写る街区が美園の面的特異点です。
 
② 横丁通から旧東北通へ
美園 地理的特異点②
 手前の左右に通じるのが横丁通、正面手前から奥へ通じるのが東北通です。赤ベタで豊平区と白石区の区界をなぞりました。右方のLの鋭角内が豊平区美園です。奥に向かって、心もち上り勾配になっているように感じられます。
 横丁通に沿って連合用水の第2号が流れていました。手前に写っているマンホール蓋が、その名残かもしれません。古くからお住まいのTさんは「今でも(道の)下を流れてるんでないかな」とおっしゃってましたが(5月22日ブログ参照)、現在札幌市の管理河川にはなっていません。ただし、横丁通の市道名は「2号用水線」といいます。道路名に用水路が記憶されていました。なお、都市計画道路名は「米里・行啓通」で、横丁通はあくまでも通称です。

③ 旧東北通を南東へ
美園 地理的特異点③
 旧東北通は正面で突き当たります。赤ベタでなぞった区界線は右へ折れ、の鋭角内が豊平区美園です。

④ 旧東北通の突き当り
美園 地理的特異点④
 旧東北通は、アパートなどに突き当たって途切れています。黄色の矢印を付けた先に立っている看板は、「東札幌1条町内会」です。ここは美園の特異点の外側(白石区側)ですが、別の特異点が派生していますので後述します。

⑤ 現在の東北通から特異点を北望
美園 地理的特異点⑤
 白ベタでなぞった左右に通じる道が現在の東北通です。赤い矢印と黄色の矢印を付けた先に街区表示板が貼られています。

 左方の赤矢印は「豊平区美園1条2丁目」。
美園 地理的特異点⑤ 街区表示板 美園1条2丁目

 右方の黄色矢印のほうは「白石区東札幌1条4丁目」です。
美園 地理的特異点⑤ 街区表示板 東札幌1条4丁目
 前者はこの間ずっとテーマにしてきた特異点ですが、後者ももう一つの特異点だなとの思いを深めました。

 冒頭の現在図×色別標高図でこの部分を拡大して観ます。
現在図×標高図 白石区東札幌側 もう一つの特異点
 ④の地点で旧東北通が途切れていることは前述しました。白ヌキ実線の現東北通まで、街区(いわゆる民地)が連坦しています。その結果というべきか、赤い実線でなぞった区界線も道路に沿い、現在の東北通に移っているのです。もしここに旧東北通が残っていたら、区界線は赤い破線でなぞったように分かたれたことでしょう。実際、かつての村(町)界線はそのように分かたれていました(5月7日5月15日各ブログ参照)。

 旧東北通が途切れたことで、ここでは白ヌキの現在の東北通をもって区界が分かたれました。東北通による区界を“本来の”姿とみれば、特異ではありません。しかし、区界線はここでも、いわばフラクタル(全体と部分が相似関係をなす現象)的に小さくカクンと折れてしましました。その意味でもう一つの特異点、いわば線的特異点のフラクタル的派生と観たのです。なんだか、あえてヤヤコシク表現してすみません。
 このフラクタル的折れ線区界によって、美園の面的特異点が際立ちました。区界が破線で分かたれていれば、美園の特異点は_| ̄ ̄ ̄というカタチですみます。しかし、現在の美園は_| ̄|_と飛び出て、突出感が強調されることになりました。反転的に、白石区東札幌側も字形に飛び出ています。

⑥ 東北通と1号用水の交差点
美園 地理的特異点⑥ 東北通×1号用水暗渠
 手前から奥へ白ベタで折れているのが東北通、左右に青ベタでなぞったのが1号用水路です。1号用水は5月22日ブログでお伝えしたとおり、Tさんが「豊園小学校の前の道」に沿って川が流れていたと回想してくださいました。

 空中写真で往時を俯瞰します。
空中写真1948年 美園特異点②⑥ 旧東北通
空中写真1961年 美園特異点②④⑥ 旧東北通
 上掲が1948(昭和23)年、下掲が1961(昭和36)年、エリアは冒頭に載せた現在図×色別標高図と同じです。
 ②と⑥の地点で、南西から北東へ通じるそれぞれの道に沿って、用水路とおぼしき影が写っています。1948年空中写真では②から⑥へ、旧東北通がくっきり写っていますが、1961年になると細くなりました。前述した④のところでの途切れが生じて、道が現在と同じく鉤の手に折れています。

⑦ 旧東北通の跡
美園 地理的特異点⑦ 東札幌1条4丁目
 駐車場や家屋で塞がれています。上掲1961年空中写真を見ると、人家が少しずつ建てられていったようです。奥に向かって段差が生じて、低くなっています。冒頭色別標高図で見るとおり、下り勾配です。高低差から、かつては水田だったことに想いを馳せました。

⑧ 1号用水暗渠 
東札幌2条4丁目 1号用水暗渠
 ここも道路名に用水の記憶を留めているかと調べましたが、市道名は「東札幌5条線」です。都市計画道路にはなっていません。

 実は、ここは現役の河川です。
札幌市河川網図 1号用水(豊平) 
 前掲⑧の地点を、札幌市の河川網図に赤いで示しました。「1号用水(豊平)」という名前で、普通河川として載っています。ただし暗渠です。

 全景⑧地点の画像で、手前に写る車道上のマンホール蓋が1号用水の暗渠かもしれません。「河川」という文字は刻まれていませんが、「下水」や「汚水」の表示もありません。時計台やサケの絵があしらわれているご当地柄です。ちなみに歩道上の蓋は札幌市の徽章で、ご当地柄ではありません。クルマの往来が激しい車道上が派手?なご当地柄で、人の目につきやすい歩道上が地味な柄というのも、少し不思議に思いました。
 冒頭色別標高図で明らかなように、1号用水はこのあたりで尾根筋の、あたかも一番高いところを流れているように見えます。一段高いところから、水を田んぼに流したのではないでしょうか。前述⑦の地点で高低差に水田の記憶を嗅ぎ取ったのは、かくなる所以です。この暗渠が通じている通りは地形に合わせたせいか、並行するほかの道路と平行してはいません。都市計画道路になってないのはそれが影響したのせいかもしれません。用水由来の道ならでは、でしょうか。 
 1号用水は暗渠河川の現役ながら(それゆえか?)市道名には付いていない一方、前述②の2号用水は暗渠河川ではないが市道名に名を遺しています。粋な計らいといえなくもない。

 以上、思いのほか楽しめた白石区と豊平区の区界逍遥でした。

2020/05/22

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑨

 5月19日ブログを私は「実際に古くからお住まいの方の心境を伺いたいものです」と締めくくりました。昨日ブログの札幌軟石建物の解体地めぐりの帰途、豊平区・白石区境の地理的特異点に足を延ばしたところ、幸運にもその機会に恵まれました。特異点に古くからお住まいの方への聞取りをお伝えします。

 まずは、おさらいからです。本件地理的特異点を色別標高図で俯瞰します。
色別標高図 豊平区・白石区境特異点 用水路、小泉川加筆
 元図は標高20m未満から1mごと32m以上まで14色段彩で作りました。
 
 赤い実線でなぞったのが豊平区と白石区の区界です。真ん中のアミ掛けしたところでクランク状に折れています。このクランクは、いわば線的な特異点です。区界は、アミ掛けしたところ以外では白ヌキ実線の東北通と重なっています。つまり東北通を境にして、北東側が白石区、南西側が豊平区です。しかし、アミ掛けしたところだけは、東北通の北東側ながら豊平区に属しています。区界線がアミ掛けのさらに北東側に通じているからです。アミ掛けの南西側を東北通が後になって短絡したため、結果として豊平区が例外的に東北通の北東側に生じました。これは、面的な特異点といえます(線的な…点とか、面的な…点というのも変ですが)。
 この特異点をはさむようにして、かつて農業用水が二本、通じていました。濃い青と水色の実線でなぞったのがその流路跡で、明治時代に掘られた連合用水の第1号と第2号です。さらに、この付近には自然河川も流れていました。たぶん小泉川(5月17日ブログ参照)とその支川です。その河道跡を推測して水色の破線でなぞりました。これは、次なるテーマへの伏流水ならぬ伏線です。
 
 さて、アミ掛けした面的特異点の中に、私は初めて足を踏み入れました。
 アミ掛けの区域は、町名でいうと東北通をまたいで豊平区美園1条1丁目、1条2丁目です。たまたま家の外に男性が出ておられました。戸建のお宅です。これはもしやと、思い切って「つかぬことですが」とお尋ねしました。お会いしたTさんは1950(昭和25)年にこの場所で生まれ、育ったそうです。そのTさんとのやりとりを以下、記します。
 私:(地図を見せながら)東北通のこちら側(北東側)は、ほかでは全部白石区東札幌ですが、この場所だけ豊平区の美園ですよね。
 Tさん:ここはそうだね。
 私:それが不思議だったんですが、何か事情があったんでしょうか?
 Tさん:うーん。たしかに、ここだけ違うんだけども…。
 私:ここだけ東北通を豊平区がまたいでいるということで、何かご不便とかはなかったですか?
 Tさん:いやあ、特にないねえ。
 私:ほかが(白石区の)東札幌だから、ここも白石区に入れてほしいといったご要望もなかったですか?
 T:自分が知る限りでは、なかったねえ。

 私:古い空中写真を見ると、昭和30年代くらいまでは田んぼが広がっていたみたいですが。
 Tさん:(東の方を指して)ずっと田んぼだったね。
 私:川は流れてませんでしたか?
 Tさん:(横丁通を指して)そこに流れてたよ。今でも(道の)下を流れてるんでないかな。あと、むこうの豊園小学校の前の道も。子どもの頃、よく魚を捕ったな。
 私:水が溢れたというようなことはなかったですか?
 Tさん:(北側を指して)生まれて70年の間に冠水したのは1回か2回ぐらいかな。大雨でね。

 5月19日ブログに載せた1948(昭和23)年空中写真で、特異点をあらためて眺めます。
空中写真 1948年 白石村・豊平町・札幌市境界 市町村名加筆
 特異点は豊平町の白石村との境界、のてっぺんのあたりです。
 この写真を観ると、特異点の一帯に人家らしきはごくわずかしか写ってません。前述のTさんが生まれた1950(昭和25)年はこの写真の2年後ですので、Tさんはたぶん、この土地を古くから知る数少ない一人と察します。住民感情の総意をTさんお一人の“証言”だけで判断はできませんが、その一端を窺い知ることができました。

2020/05/20

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑧

 豊平区の歴史、というかその前身の豊平町、豊平村の歴史を振り返り、今さらながらですが奇妙を覚えました。
 
 豊平というのはアイヌ語の「トゥイェ・ピラ」(崩れた崖)に由来するそうです(末注①)。具体的にどこを指したか必ずしも明確ではありませんが、豊平川に近い場所のようです。明治になって札幌本道(現在の国道36号の原形)の豊平川に近くにできた列村が、豊平村と命名されました。
 その豊平村(便宜的に、以下「旧豊平村」という)は1902(明治35)年に平岸村、月寒村と合わさって豊平村(以下「新豊平村」という)となり、1908(明治41)年に豊平町となります。

 かつての豊平町を表わす地図です(元図は『豊平町史』1967年「豊平町内地図」)。
豊平町史 豊平町内地図  旧豊平村を加筆
 元図に黄色の網掛けで旧豊平村を加えました。これを合わせたのが当初の新豊平村(後の豊平町)です。黄色の網掛けは一部、元図からはみ出ています。はみ出ているのは1910(明治43)年、札幌区に編入された部分です。

 この地図を観ると、豊平町の面積の大部分がかつての平岸村と月寒村だったことがわかります。もともと旧豊平村の割合は小さかったのですが、その一部が札幌区編入で外れたことにより、さらにごく小さくなりました。結果として、豊平という地名が豊平町内からなくなりました(末注②)。豊平は札幌区(後の札幌市)内の地名で生きますが、上掲図で示されるように豊平町内の字名からは消えます。町名に冠していながら、豊平町に豊平なし。冒頭に述べた「奇妙」です。
 
 旧豊平村が札幌区(後の札幌市)に編入された背景には、新豊平村(後の豊平町)の事情がありました。旧豊平村と平岸村、月寒村の寄り合い所帯だったことです。
 豊平村は全域が純農村とはいえず、大字豊平村が商業地域、大字平岸・月寒村は農業地域という具合に性格の異なる三村が併合していたために、地域的な利害も異にし、村治上では対立する問題も多く〝難治村〟とされていた(末注③、引用文中の「豊平村」は三村合体した新豊平村、後の豊平町のこと。「大字豊平村」が旧豊平村)。
 旧豊平村が外れて平岸村と月寒村が豊平町の主体になったことで、〝難治村〟状態が解消されていきました。

 旧豊平村の区域(前掲図の黄色の網掛け)を現在図に示します。
現在図 旧豊平村区域 札幌区編入部分
 赤い太実線で囲ったところです。このうち橙色で網掛けした一帯が1910年、札幌区(後の札幌市)に編入されました。現在の町名でいうと豊平、水車町、旭町です。白地の一帯が豊平町に残りました。現在の地名は美園です。前掲豊平町の地図で前述した「ごく小さく」なった部分がこれに当たります。黄色の矢印を付けた先が、この間テーマにしてきた境界線の特異点です。
 
 美園は、旧豊平村でありながら札幌区(後の札幌市)に編入されずに豊平町に残ったことから、「残村」と呼ばれたこともあったそうです(末注④)。残村とはいかにも直截的なネーミングを、私は特異点と絡めたくなってしまいます。札幌市と豊平町に分かれた旧村の分かれ目が特異点です。
 美園は「豊平ではもっとも古く水田を拓き、米作に成功した地域」でした(末注⑤)。自説に牽強付会して恐縮ながら、列村の旧豊平村にあって札幌区に近い商業地域(現在の町名「豊平」のあたり)の幅(札幌本道に対する奥行き)が狭く、早くから水田が拓けた美園の幅が広い(奥行きが深い)ことに納得してしまうのです。農業地帯のほうが、面的な広がりを要します。
 旧豊平村にありながら(と繰り返しますが)平岸・月寒主導の豊平町に残村として組み込まれ、自らは豊平の名前を引き継がなかった美園。残村そのものが、特異点に見えてきました。

 注①:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.133-134、『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年、p.84、関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年、p.90、pp.386-387
 注②:当初は「大字豊平村」の名前が残っていたが、1944(昭和19)年に「美園」となった。『新札幌市史 第3巻 通史3』1993年、p.170
 注③:前掲『新札幌市史 第3巻 通史3』p.170
 注④:前掲『札幌の地名がわかる本』p.96
 注⑤:前掲『さっぽろ文庫1 札幌地名考』pp.88-89

2020/05/19

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑦

 昨日でこのテーマは終えるつもりだったのですが、触れておきたいことを思い出してしまいました。すみません。もう少し続けます。
 それは、特異点の由来というより、“その後”のことです。
現在図 豊平区・白石区区界 特異点
 現在図であらためて確認します。豊平区と白石区の区界を赤い実線、東北通を黄色の実線でなぞりました。区界の北東側が白石区東札幌、南西側が豊平区豊平と同区美園です。赤く網掛けした区域が特異点になります。町名は豊平区美園1条です。都市計画道路の東北通の北東側は大半が白石区なのに、ここだけ豊平区がいわばはみ出ています。

 私が気になったのは、「ここに住んでいる(住んでいた)人たちは、どう思っているのだろうか?」です。特に不便はないのかしら? 白石区東札幌への編入は望まなかったのだろうか?
 本件に類似した境界上の特異点を過去に逍遥したことがあります。自治体間をまたぐ境界は“金目”の問題が生じるので、変わりづらいようです(2019.4.24同.425ブログ参照)。一方、別の特異点で、前にエピソードをお聴きしたことがあります(2018.8.22ブログ参照)。住んでいる人にすると、他律的な事情で環境が変わったからといって、いわばアイデンティティともいえる土地の名前は変えたくないようです。ましてや本件は明治以来百年以上に及ぶ村界の名残で、しかも今は行政区をも分かちます。都市計画道路で遮られたからといって、新しく住んだ人はともかく元からの人の心情は察せられることです。

 特異点の付近を空中写真で遡ります。
 2008(平成20)年
空中写真 2008年 豊平区・白石区区界特異点
 黄色の実線でなぞったのが東北通、赤いで囲ったのが豊平区美園の特異点です。町並みは連坦しています。

 1976(昭和51)年
空中写真 1976年 豊平区・白石区区界特異点
 1972(昭和47)年に政令市に移行し、豊平区と白石区の区界が分かたれた後です。東北通の道路幅員が目立ちます。

 1961(昭和36)年
空中写真 1961年 札幌市白石町・豊平町境界特異点
 地理院サイトによると、この写真は同年5月2日の撮影です。この年の5月1日に札幌市と豊平町が合併しました。白石側は1950(昭和25)年に白石村が札幌市と合併していますので、境界は札幌市白石町東札幌と同市美園です。東北通が短絡して、現在の形で通じています。特異点が顕在化しました。

 1948(昭和23)年
空中写真 1948年 白石村・豊平町・札幌市境界
 東北通は短絡していません。クランク状です。北西から南東へクランクして通じる東北通と、これに直交する横丁通を赤い細実線でなぞりました。東北通の北東側が白石村、南西側のうち横丁通の北西側が札幌市、南東側が豊平町です。

 昨日ブログまでこの境界線の箇所を特異点と表現してきましたが、1948年時点を俯瞰すると必ずしもそうは言いきれません。白石村側はたしかに、この地点で境界線がカクンと折れています。しかし、東北通の南西側は横丁通をもって札幌市と豊平町で市町界を分かっており、札幌市、豊平町のそれぞれは特異というわけでもありません。白石村、札幌市、豊平町の3市町村による境界は1910(明治43)年、豊平町の札幌寄りの区域が札幌区(当時、後に札幌市)に編入されたことにより生じました。

 境界線の変化を、空中写真にあとづけます。
 1910(明治43)年~1950(昭和25)年
空中写真 1948年 白石村・豊平町・札幌市境界 市町村名加筆
 札幌市(市制前は札幌区)、豊平町、白石村による境界です(画像は1948年空中写真)。

 1950(昭和25)年~1961(昭和36)年
空中写真 1948年 豊平町・札幌市境界(1950年) 市町名加筆
 白石村が札幌市と合併しました(画像は1948年空中写真)。この市町界も、特異性は感じられません。

 1961(昭和36)年~1972(昭和47)年
空中写真 1961年 札幌市白石町・豊平・美園町界 町名加筆
 豊平町が札幌市と合併しました(画像は1961年空中写真)。
 東北通が短絡化したことで、美園の一部があたかも白石町側にはみ出る形になりました。赤の網掛け部分です。通りが短絡化された正確な年は未確認ですが、たぶん合併と時期を一にしたのでしょう。

 私は1961年空中写真で町並みを眺めて「特異点が顕在化しました」と前述したのですが、境界線という視点で見ると、現在ほどの特異性はなかったのではないかと想像しなおしました。札幌市の「町」(自治体としての「町」ではなく)の境目で、しかも3分割されているからです。現在は白石区と豊平区という2分割が際立ちます。明治時代の白石村・豊平村の境目に先祖帰りしたかのようです。
 昨日までのブログで私は、白石区・豊平区の区界を白石村・豊平村の村界にひきつけて、特異視してきたきらいがあります。東北通の短絡化によって、その特異性が強化されたと観たのです。しかし、顕在化したのは1972年の政令市移行、区制施行以降ではないでしょうか。その間、豊平村(豊平町)自体が、この地点を境目にして札幌区(札幌市)に切り離されていました。1910年から1961年まで、51年の“分断”です。一方で政令市移行、区制施行の1972年からは今日まで48年。
 実際に古くからお住まいの方の心境を伺いたいものです。

2020/05/18

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑥

  明治時代の白石村、上白石村のあたりを描いた略地図です。
大村耕太郎資料 白石村地図 再掲
 この古地図は2019年3月2日ブログで載せました。「大村耕太郎資料」という出典です(末注①)。近代的な測量に基づく地図とはいいがたく、方位も示されていません。豊平川や豊平橋、国道36号の原形となる「豊平村新道」などの位置から、おおむね北が真上になるようにナナメに置き換えました。
 作成年代も不詳ですが、1874(明治7)年以降1890(明治23)年以前と思われます。1874(明治7)年以降としたのは、「白石村」と書かれているからです。同年より前は「白石村」でした(末注②)。1890(明治23)年以前としたのは、同年に架けられた東橋が描かれておらず、さらには江別街道が通じていないからです。1882(明治15)年に敷かれた幌内鉄道のあたりは外れていますので、わかりません。

 注目したいのは黄色ので囲ったところです。拡大します。
大村耕太郎資料 白石村地図 横丁通 豊平村との村界付近
 北東から南西に描かれている道が横丁通です。黄色の矢印を付けた先の北西側と南東側に、飾り付きの朱線が通りに直交して引かれています。豊平村との村界でしょう。その線が横丁通りの北西側と南東側で、わずかにズレています。先日来話題にしてきた地理的特異点たるクランク状の村界がすでに現れているようです。

 私は5月15日ブログで、クランク状村界の由来を用水路開削に引きつけて妄想しました(同日ブログ「妄想その1」)。このあたりの用水(第1号、第2号)が穿たれたのは、先述したように1894(明治27)年です。しかし、それより明らかに古い地図で、クランクらしき萌芽が見られます。となると、用水路開削→水田開発→豊平村の村域拡大→村界、とは言い切れなくなりました。

 前掲図では、村界線の北東側に川が流れています。昨日ブログで触れた川と同じ位置関係です。やはり、というべきか、この川が村界の役割を果たしたことは見て取れます。全体的に俯瞰すると、横丁通りの北西側は川が合流し、さらに池沼が湧いていて、いかにも低湿な描かれ方です。開墾が遅れた可能性は否めません。これも「やはり」ですが、北西側で豊平村の村域拡大のベクトルは大きくはなかったことも窺えます。白石村側から見ると村域が広いことになりますが、これは白石村のほうが土地を望んだというよりは、豊平村が村域として望まなかったのではないでしょうか(末注③)。

 上掲地図では、横丁通りの南東側のほうは描かれていません。この地図からは南東側に豊平村が拡大された事情を探ることはできないのですが、5月15日ブログ「妄想その1」の後段で述べた豊平村の「特に望月寒川寄りの一帯は土地が肥沃だったという」ことからすると、村域を確保したことは頷けます。豊平村の時系列としては、村域→用水路→新田です。土地が良かったから村の一部にして、用水路を(真っ先に)掘り、田を拓いた。用水路は村界特異点の“原因”ではなく、“結果”だったのかもしれません。

 ここまで、主として豊平村側からの史観で村界のせめぎあいを観てきました。この村界線に通じた道は、のちに「東北通」と呼ばれます。これも豊平村からの視点を感じさせる命名です(注④)。村界は、室蘭街道の列村として形成された豊平村に近く、白石村からすると“辺境”だったのでしょう。

 村界特異点についてはここらで終えます。小泉川を下りたいものです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年によると、大村は盛岡(南部)藩出身で、1872(明治5)年に来道し、お雇い外国人ワーフィールドの指導の下、札幌本道の工事監督者として従事した(p.234)。開拓使に勤務した後、実業界に転じたという。上掲地図は、白石村と上白石村の間の未開拓地が主題のようにも見える。大村が描いたものかどうかはわからない。
 注②:『白石歴しるべ』1999年、p.4
 注③:「豊平村の地味は、豊平橋より一〇町余は小石混じりの砂土で甚だ悪い」(『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.167)。横丁通りは、豊平橋から約1,900m、17町である。
 注④:東北通の「呼び名は、月寒地区の東北にあるところからつけられた」(『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年、p.160)。

2020/05/17

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ⑤

 昨日まで繰り広げてきた妄想を廃して、とまではいかずとも、もう少し物的な理に適った推察を試みます。

 5月7日ブログに載せた「札幌郡各村地図」1874(明治7)年(一部抜粋)です。
明治7年札幌郡各村地図 豊平村
 先述したように、この地図では豊平村と白石村の村界でクランク状の特異点はまだ現れていません。

 後にクランク状の村界が分かたれるあたりを拡大します。
明治7年札幌郡各村地図 豊平村・白石村村界 横丁通り付近
 豊平村の村界とおぼしき線は、札幌本道(現国道36号の原形)に平行してまっすぐです。これ直交して一昨日及び昨日ブログで触れた「横丁通り」が通じ、人家らしき小さな赤いが通りの両側に貼りついています。仙台藩白石領の士族移民の一部が再入植した家屋でしょう。注目したいのは、黄色の矢印を付けた先です。小さな川と窺える青い線が描かれています。白石村の再入植地は、この小川の北東側までだったようです。

 5月7日ブログに載せた明治29年地形図を再掲し、同じ場所を較べます。
明治29年地形図 豊平村 白石村 村界 特異点
 川の流れは消えていますが、その河道にどうも村界線が引かれたような気配です。単純に、川を境目にして豊平村と白石村を分けた。冒頭で述べた「物的な理に適った推察」は、これです。

 明治7年地図に描かれていた小川は横丁通りの北西側に流れ、南西方面から流れて来た長い川に合流しています。合流する川も、前掲明治29年地形図には描かれていません。地形図が作られた頃には消失していたようです。一昨日ブログに記したとおり、1894(明治27)年に連合用水の第2号が横丁通りに沿って通じました。川の流れが用水路につなげられ、河道が消えた、あるいは流れが切り替わったのだと私は想います。

 前掲明治7年地図に、2号用水を当てはめてみました。
明治7年札幌郡各村地図 豊平村・白石村村界 横丁通り付近 2号用水加筆
 昨日ブログでは、横丁通りの北西側の土地が低いことを記し、大正時代には洪水があったという古老談も引きました。明治7年地図に描かれていた川の記憶が引継がれ、今に至っているのかもしれません。通りの北西側で豊平村の村域が狭いのは、やはり低湿な土地をあえて望まなかったからではないでしょうか。その想いをさらに深めました。

 ところで、この川は何という名前だったのでしょうか。冒頭に載せた明治7年地図の広域を俯瞰すると、いわゆる「小泉川」と思われます。小泉川のことは前にも記しました(2017.10.10同10.11参照)。しかし、明治7年地図にはっきり描かれているのに私が気づいたのは、ごく最近です。こちらもあらためて逍遥しなおしたいと思います。

2020/05/16

白石区と豊平区の区境をめぐる地理的特異点 ④

 昨日ブログの続きです。
 クランク状の村界という特異点の由来が仮に昨日述べたとおりだったにせよ、なぜこの場所に出現したか、妄想をもう少し補足します。

 色別標高図で俯瞰する豊平区と白石区の区界です。
色別標高図 札幌扇状地平岸面 豊平区・白石区区界
 標高0m未満から5mごと60m以上まで14色段彩で作りました。
 赤いで囲ったのがクランク状区界の特異点の位置です。札幌扇状地平岸面の扇端に近い扇央部といってよいでしょうか。

 特異点の付近を微視的に観ます。
色別標高図 豊平区・白石区区界 連合用水
 標高20m未満から1mごと32m以上まで14色段彩です。豊平区と白石区の区界を白ヌキ実線でなぞりました。赤い矢印を付けた先がその特異点です。特異点をはさんで右(東)側に連合用水の第1号、左(西)側に第2号が流れていました。水色実線です。右(東)端に流れる望月寒川を濃い青でなぞりました。 

 扇状地平岸面は南西から北東方向に扇形に広がっています。しかし微細に観ると、必ずしも綺麗な弧状ではありません。特異点のところでは、その北西側がやや低くなっています。水色でなぞった用水路の第2号から南東にかけて小高くなり、第1号は尾根筋に通じていたようです。比較的高いところから用水の水を田んぼへ引いた、というか、引けるように水路を穿ち、田を拓いたのでしょう。

 昨日ブログに載せた大正5年地形図をします。「田」の記号を赤いで囲んで示しました。*2020.5.19文末追記
大正5年地形図 豊平村、白石村境界付近 連合用水 水田
 用水路によって、その南東側、特に特異点の南東側は水田稲作の適地になったと私は想います。
 
 一方、用水路をめぐっては次のような“証言”も、残っています(太字)。 
 大正8年(1919)ころは、道路の脇を流れていた2号用水が春先の雪解け水や大雨が降ると氾濫しました。路盤が悪いから毎年豊平川から採った玉砂利をいくら入れても、しばらくすると沈んで影も形もなくなるんです。(末注)

 ここでいう「道路」は「横丁通り」です。第2号用水及び横丁通りでは、前掲標高図に照らすと前述したように特に特異点の付近で北西側のほうが少し低くなっています。洪水時の被害は、土地の低い北西側でひどかったのではないでしょうか。ということは、南東側のほうは相対的に用水路の恩恵が大きかったといえます。そこに豊平村が土地を拡げたことを、私は頷けてしまうのです。

 注:『白石歴しるべ』1999年、p.20。仙台藩白石領からの士族移民は、当初の入植地で土地の悪さに悩まされて移転したにもかかわらず、再入植地の横丁通りでも苦労したことになる。

2020.5.19追記
 上掲地形図が描かれた1916(大正5)年当時、境界は白石村、札幌区、豊平町で分かたれている。地形図に黄色の実線でなぞった境界の北東側が白石村、南西側は横丁通りをはさんで北西側が札幌区、南東側が豊平町である。2020.5.15ブログ文末追記①②参照

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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