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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/11/04

そこに行けば何かがある

 大正時代に建てられたという元リンゴ倉庫が地域の交流の場としてよみがえりました。
柳田宅 元リンゴ倉庫
 豊平区平岸2条5丁目の柳田さん宅の蔵です。

 昨年、この蔵が活用される見込みだという話を小耳にはさみ、どういう形で活用されるのかなあと思っていたところ、先月、次のように報じられました。
 リンゴ生産で発展した平岸の歴史を伝え、国の登録有形文化財にもなっているリンゴ倉庫「柳田家旧りんご蔵」(平岸2の5)を平岸ハイヤー(神代輝嗣社長)が取得し、地域活動の拠点となる施設「AL」に再生させました。(北海道新聞2020年10月13日「さっぽろ10区」記事)
 所有者が手放す意向を示していることを知った神代社長が『マンションにでもなって、地域の宝が失われたら大変』と地域での活用を目指して昨年秋に購入。大幅な改修工事を行って、「アップルのロッジ」の頭文字から「AL」と名付けました。(同上)
 AL(アル)は、「そこに行けば何かがある」との思いも込めているそうです(FMアップル『PICK APPLE』VOL.54、2020年10月、p.3)。

 11月3日、この蔵とお隣の平岸ハイヤーさんの一画で「平岸マルシェ」が催されました。
柳田宅 元リンゴ倉庫 内部
 蔵は、この日限定でカフェです。

 平岸ハイヤーさんの英断に敬意を表します。 
平岸ハイヤー
 「無事故だるま」が頼もしい。
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2020/10/31

つきさっぷ郷土資料館だより

 『つきさっぷ郷土資料館だより』第42号(本年10月21日発行)に寄稿させていただきました。
つきさっぷ郷土資料館だより第42号 表紙
つきさっぷ郷土資料館だより第42号 杉浦寄稿
 「月寒または豊平区に関係したことを」という趣旨でしたので、月寒公民館のことを綴っています。

2020/09/22

北部軍のアルバム

 さらに昨日ブログから続き、元北部軍司令部経理部に勤務していた原田さん(9月1日ブログ参照)の話を綴ります。 
 
 原田さんに見せていただいた古いアルバムです。 
原田さん アルバム 表紙
原田さん アルバム 見返し
 戦前からの写真が貼られていて、原田さんの人生が凝縮されています。その写真もさることながら、実はこのアルバム自体が史料です。

 見返しに「昭和十九年十月廿八日(土曜日)北部軍経理部・珠算大會於個人優賞・記念品」、その左下には網掛けしましたが原田さんの名前(当時旧姓)が手書きされています。名前の下の(二十二才)は、当時の原田さんの年齢です(数え歳か)。アルバムは、職場のそろばん競技大会で優勝したときの記念品でした。
 北部軍司令部の経理部のどれだけの職員がその大会に参加したか聞き漏らしましたが、9月20日ブログに載せた集合写真では経理部経営科の女性職員が18人、写っています。経営科にはこのほかに男性職員が30人ほど在籍していました。経理部には、経営科のほかにも「主計科」とか「需用科」などの科があったそうです。
 原田さんが御年90代半ばを過ぎてなお大変記憶力に優れていることはこれまでも記してきましたが、若い時分からとても秀でた方だったと窺えます。アルバムは原田さんの若き日の思い出です。

 まったく余談ながら、アルバムの表紙には「ALBUM」とあります。1944年であっても敵性語として排除されず、ほかならぬ軍が授与したのですね。

2020/09/21

月寒の坂

 昨日ブログの続きです。 
 戦時中に北部軍司令部に軍属として勤めていた原田さんは当時、豊平橋のたもとにお住まいでした。右岸側の豊平です。実は、かつて豊平にお住まいだったことが、私が原田さんを知るきっかけになりました。間をつないだのは、豊平の名士で厚別旭町の功労者でもあった阿部仁太郎です。原田さんのお父様は戦前、豊平で家を建てるのに土地を借りました。その地主だったのが阿部仁太郎です。私は近年、仁太郎の厚別での足跡を調べて「厚別歴史写真パネル展」などで発表しました(末注①)。それを原田さんがご覧くださったのです。

 さて、原田さんは女学校を出て北海製靴(9月2日ブログ参照)に勤めたのち、1943(昭和18)年から北部軍司令部に転職しました。月寒の司令部までは豊平から歩いて通ったそうです。 

 札幌市豊平から豊平町月寒(当時)までの地理を、色別標高図で示します。
色別標高図 豊平から月寒まで
 標高15m未満から5mごと7色段彩で作りました。赤いが原田さんのお住まい、白ヌキ○が北部軍司令部(現在の月寒中学校)のそれぞれあったところです。その間の距離を現国道36号で計測すると3.5㎞になります。その行程を白ヌキ太実線でなぞりました。
 国道は木炭バスが通っていたそうですが、「月寒の坂を上がれずによく止まったので」、使わなかったと原田さんは言います。月寒の坂は、上掲図の白ヌキ実線途上に赤いを付けた地点です。望月寒川が急な崖を削っています。

 国道36号の望月寒川に架かる月寒橋(末注②)から、月寒の坂を望みました。
国道36号 望月寒川 月寒橋 月寒の坂南望
 当時から較べると道路勾配などはたぶん改良されているでしょう。木炭動力ではきつかったんだろうなあと想いを馳せました。
 ところで、前掲の地図を確かめるまでもなく、この坂を上ったらすぐ月寒の街です。豊平からの距離を鑑みるに、ここまでバスで来て、バスが止まったらここから歩いてもよかったのではと思いました。しかし、思い直しました。当時、1里足らずの道のりは、歩くのが普通だったのでしょう。
 昨日ブログに記したとおり、北部軍司令部の経理部は1944(昭和19)年5月に札幌商業学校(あらため札幌豊陵工業学校)に移転しました。原田さんのお住まいからは、かなり近くです。

 注①:2017.9.9同11.27同11.30ブログに関連事項記述
 注②:月寒橋については2018.8.28ブログに関連事項記述

2020/09/20

豊陵の時代

 札幌商業高校の旧校舎です。
札幌商業高校旧校舎
 『財団法人北海学園沿革小史』1950年から採りました。キャプションに「札幌商業高等学校 北海短期大学 豊陵工業高等学校」とあります。昨日ブログで述べた札幌豊陵工業高校が現存していた時代です。

 札幌商業高校『豊陵 創立五十周年記念誌』1971年によると、「豊陵」という名前が初めて用いられたのは1923(大正12)年です(p.331)。前身の札幌商業学校の文芸雑誌創刊号に『豊陵文華』という誌名が付けられました。この年、同校第一回の卒業生が輩出されます。その卒業生の一人でのちに札商の校長となった金巻賢宇という人が当時のことを同誌で回想しています(p.145、引用太字)。
 いま豊陵工業というお話が出ましたが、豊陵の名付け親は実は私なんですよ。(中略) 私たちが卒業のときに、私が文芸誌みたいなものの編集責任者をやっていたんですが、その標題に『豊陵文華』と付けたんです。この豊陵という字は応援歌にも使われていますし、豊陵小公園などというのもありますが、豊は豊平の豊ですが、陵は丘という意味で、私は文学青年でしたから、一高の寮歌などにも向ヶ陵とかいろいろなところに陵が使われておりましたので、その陵をマネして付けたわけです。あの辺には丘らしいものはありませんが、ボンズ山のあたりは丘陵地帯だし、まんざらウソでもなかろうということで私は安心していますがね。 

 昨日ブログで引いた『郷土史 豊平地区の140年』1997年で「豊陵の名称を附したのは学校の現在地が、平岸台地の北端に位し、誰言うとなくこの地を豊陵と呼んでいたからである」とありますが、「誰言うとなく」ではなかったのですね。名付け親自身の回想からすると、「学校の現在地が、平岸台地の北端に位し」というのはあとづけのようでもあります。当時から、学校に“陵”をかこつける心情が窺えます。

 『豊陵 創立五十周年記念誌』記載の年表から、豊陵工業学校にまつわる事項を拾います(pp.333-334)。
・1944(昭和19)年
 4月 工業校転換の命令により、札幌豊陵工業学校と成る。土木、建築、化学科を置く。商業学校の一年生の募集停止。
 全学年通年動員下り、各地へ勤労作業に出勤する。
 5月 命により本校校舎を北部軍経理部に貸与、北中校舎に於て二部授業。
・1945(昭和20)年
 3月 グラウンドにおいて、五年および四年繰上げ合同卒業式。
 6月 北部軍経理部より校舎返還を受け授業実施時間、旧に復す。
 8月 命により北部軍司令部に校舎貸与再び北中校舎において二部授業開始。生徒全面的に「学徒動員」の名のもとに勤労作業に動員される。
 8月15日 終戦大詔下る。
・1946(昭和21)年
 4月 終戦により商業学校に復活、豊陵工業学校を併設して存続する。 
・1947(昭和22)年
 4月 札幌商業高等学校および札幌豊陵工業高等学校となり、(中略)。
・1955(昭和30)年
 3月 札幌豊陵工業高等学校廃止。
 12月 学校長金巻賢宇先生、小樽商大短大の教授として赴任のため辞任。
 
 前述『郷土史 豊平地区の140年』では、豊陵工業高校は「終戦後、札商が復活しても全員が卒業する昭和27年まで続いた」ですが、こちらでは1955(昭和30)年廃止とあります。
 
 前掲の札商旧校舎の前で1945(昭和20)年9月に撮影された写真です。
北部軍司令部経営科解散記念1945年9月
 写っているのは札商や豊陵工業の生徒ではありません。

 前述の年譜からお察しいただけるかもしれませんが、北部軍経理部の女子軍属の人たちです。経理部経営科の「解散記念」に撮影されたもので、時期からすると「軍属だった人たち」というべきでしょうか。写真は、北部軍に勤めていた原田さん(9月1日ブログ参照)から見せてただきました。原田さんは「札商の校舎の前で撮った」とおっしゃってましたが、前述の年譜によれば札商ではなく豊陵工業の校舎当時になります。

 私は、原田さんのお話で初めて、戦時中(というか戦争末期)に北部軍司令部自体が分散移転していたことを知りました。これもいわゆる疎開ですね。移転したのは、前述年譜によると1944(昭和19)年5月。いったん1945年6月にいったん返還された後、同年8月(敗戦の直前?)再び移転します。
 日本史の年表を繰ると、米軍は1944年2月に南洋マーシャル諸島(日本の委任統治領)に上陸、同6月マリアナ諸島サイパン島に上陸、同7月テニアン、グアムに上陸しました。日本の北方防衛の中枢たる北部軍司令部を分散したのは、西太平洋の制空、制海が米軍に奪われ、本土空爆が直接射程に収められるのを見越してのことだったのでしょう。 
 軍司令部が学校に疎開したことを原田さんからお聴きしたとき、私は「生徒が勤労奉仕に駆り出され、学校は空いてたんだろうなあ」と想いました。前述引用の周年記念誌からも、生徒が学校にはいなかったことが読み取れます。政府は1944年3月、学徒勤労動員の通年実施を閣議決定しました。
 施設、設備は最小限度の製図版、トランシュット。40坪足らずの建築実習場を持つに過ぎない。貧弱そのものだった。しかし生徒の勤労動員は愈々頻繁となって、これ等の設備は殆ど使用する暇もなかった。市内の工作機械場や苗穂工機部等に出勤したから、その場が彼等の実習場と化したようなものであった。(『郷土史 豊平地区の140年』p.379)

 商業学校を工業学校に無理やり変えて、生徒を工場に動員させ、空いた校舎は軍が転用する。いろいろ都合よく考えるものだなあと妙なところで感心します。しかし感心などと気楽に表現できるのも、私は直接体験していないからです。普通に学校に通えて勉強できたことのありがたみを思います。学校もまた、戦跡です。建物疎開(2019.8.15ブログほか参照)と同じような、いわば反転戦跡。上掲の集合写真はその証といえましょう。

 この写真で、女性たちは上衣の左袖にワッペンを付けています。
北部軍司令部経営科解散記念1945年9月 軍属徽章-1 北部軍司令部経営科解散記念1945年9月 軍属徽章-2
 原田さんによると、これは軍属の徽章です。ちなみに、この写真に原田さんご本人は写ってません。「当日、風邪をひいていて」いなかったそうです。そのため、9月1日ブログに載せた道新8月13日記事には、別の写真が掲載されています。
 彼女らの一人ひとりの青春時代はどんなだっただろうと、同年齢の老母と重ねながら想いました。

2020/09/19

豊陵公園 再訪

 豊平区豊平6条3丁目、豊陵公園です。
豊陵公園 北望 2020年
 この街区公園のことは、平岸街道にからめてこれまで拙ブログでもお伝えしてきました(末注)。

 いま「拙ブログでも」と記しましたが、ためしに電網検索してみると、「札幌 豊陵公園」と入れてグーグルで5番目、ヤフーで4番目に拙ブログが出ました。上位に出てくるのは、公園に特化したサイトか電話帳的なそれです。所在地や設備など基礎的諸元を中心に、コメントされているとすれば使い勝手や遊び(遊ばせ)勝手などが多い。たいがいの人が公園に求める情報は、まあそうでしょう。と、かような街区公園の歴史的経緯に言及するモノ数寄は自分くらいかと私は悦に入るのですが、それはまだモノ知らずの域です。公園の成り立ちにもいろいろな人の思いが凝縮されていることに疎いにすぎません。

 なぜこの公園をあらためて取り上げるかというと、このたびは公園の名前に注目したからです。「豊陵」。
 「ありがちな名前だよな」と、気にもとめてませんでした。なんとなくですが、丘陵の「陵」を付けた地名は雅称的響きを感じます。「高台」のイメージがいいからなのでしょうか。学校の名前でも見かけます。中には「ここが“陵”なの?」と訝しく思える場所もあるのですが、高を好み低を忌避する市民感情を反映しているのかもしれません。アパートの名前にナントカハイツと付けられたりするのと同じです。先日、西区を歩いていたときに「琴似台」と冠した集合住宅を見ました。琴似はアイヌ語のコツネイすなわち“凹んだところ”に由来するので、琴似台は凹んだ高台か。
 閑話休題、くだんの豊陵公園も私は「ここが豊平の陵か」くらいにやりすごしていましたのですが、最近読み直した郷土史の文献で認識をあらためました。

 文献にはこの学校のことが記されています。
北海学園札幌高校 入口
 北海学園札幌高校です。くだんの豊陵公園の近くにあります。もとは札幌商業高校といいました。札商です。

 つい最近、この学校がかつての一時期「豊陵」と冠していたことを私は初めて知りました。『郷土史 豊平地区の140年』1997年は「戦時下の札幌商業の豊陵工業学校転換」と題して次のように記しています(pp.379-380、引用太字)。
 昭和18年(一九四三)年11月24日、戦時非常措置として男子商業学校を工業学校に転換すべしとの通達があり、道内の札幌商業、札幌光星商業ともに工業学校に転換せざるを得なくなった。(中略) 札幌豊陵工業学校の発足を見るに至った。(中略)
 この学校は終戦後、札商が復活しても全員が卒業する昭和27年まで続いたのである。従って学制改革に伴って札幌豊陵工業高等学校と改称されて存続したが、大学を経営するに至ってこれを廃止した。卒業生諸君にはまことにお気の毒の至りであった。豊陵の名称を附したのは学校の現在地が、平岸台地の北端に位し、誰言うとなくこの地を豊陵と呼んでいたからである。戸津高知校長は大変、この名称が気に入っていたし、自ら豊の字を帽章にするように言っていた。  
 
 豊陵公園が造られたとき、もしかしたらこのような歴史を名前に込めたのかもしれません。
 本年6月4日ブログに載せた産総研の地盤地質図2006年を再掲します。
産総研 地盤地質図 豊陵公園の位置
 赤いを付けたところが豊陵公園の位置です(色分け凡例は同日ブログ参照)。「平岸台地の北端に位し」。たしかに、札幌扇状地の古い面(平岸面)の扇端とされている一帯に当たります。

 注:2017.9.29同10.2同10.3ブログ参照

2020/09/10

浦河通 再考

 9月8日ブログに載せたつきさっぷ郷土資料館の展示物を再掲します。
島口商店 創業70周年記念品 拡大 つきさっぷ郷土資料館
 馬具商・島口商店の「創業70周年記念」の品です。キャプションには以下のとおり書かれています。
 「明治の頃から国道36号線の豊平大門通りの入口の角で馬具店を経営していた島口商店が創業70周年記念に得意先などに配ったもの。月寒から清田方面にかけての農家もよく利用した」。
 昨日ブログでお伝えしたことに基づき、実際のところを私は次のように想像します。
 「明治の頃から南3条東2丁目で馬具店を経営していた島口商店が創業70周年記念に、国道36号の豊平大門通入口の角にあった得意先などに配ったもの」。

 9月8日ブログに記した結びです。
 浦河通が豊平橋を渡って室蘭街道に通じていたことを彷彿させるとともに、ゆかりの品が街道のほど近くで保存されていることにも因縁を感じてしまいました。
 前掲「創業70周年記念」の出自が後者の記述のとおりであったとしても、この結びはゆるぎません。

 その地理を現在図で確かめます。
現在図 浦河通-国道36号-豊平
 札幌の中心部に赤い太実線でなぞった南北の道が浦河通です。赤いをつけたところに島口商店がありました。えび茶色でなぞったのが国道36号(部分)で、その途上、豊平川右岸側に黄色のを付けたところが大門通への入口の角です。昨日ブログで記した原橋馬具店がありました。島口商店の得意先です。

 現在図を広げます。
現在図 浦河通-国道36号-豊平-月寒
 国道36号を南下し、橙色のを付けた地点がつきさっぷ郷土資料館です。

 現在図をさらに広域で俯瞰します。
現在図 国道36号-国道235号
 赤いが札幌の中心部です。南東へ国道36号を赤い実線でなぞりました。室蘭街道とも呼ばれたとおり室蘭に至りますが、途中の苫小牧の手前で左折し、日高に通じる国道235号へ進みます。こげ茶色でなぞりました。その南東先、黄色のをつけたところに浦河町が位置します。

 「浦河通が豊平橋を渡って室蘭街道に通じていたことを彷彿させる」という前述から、想像の羽をさらに伸ばしてしまいました。浦河通命名の由来は9月2日ブログで述べたとおりなのですが、浦河通が室蘭街道を経て浦河に通じることにも妙味を感じてしまったのです。同日ブログで引いた「浦河から魚を運んできたので浦河通と付けられた」という俗説が、あとづけとはいえ説得力を帯びます。
 しかも、というべきか、浦河といえば馬産地です。浦河通の島口商店は、もしかしたら浦河方面と行き来があったのではないでしょうか。というような妄想の世界に遊びながら、昨日引用した『郷土史 豊平地区の140年』1997年を読み直したら、以下の記述に当たりました(p.29)。
 開拓使以来けもの道ともいわれた現国道36号は、時代的には「銭箱・千歳越道路」「浦河街道」「室蘭街道」「月寒街道」等々と親しまれてきたが、現在のように近代化したのは昭和30年代以降で、

 浦河街道。国道36号はこのように呼ばれたこともあったのか。

2020/09/09

浦河通にあった靴の卸屋さん ③

 昨日ブログで、浦河通にあった島口商店のことを記しました。馬具商の老舗です。「つきさっぷ郷土資料館」の展示で、同店が「明治の頃から国道36号線の豊平大門通りの入口の角で馬具店を経営していた」と説明されていることが気にかかりました。引用してはみたものの、「はて、そうだったかな?」と疑問が兆したのです。

 「国道36号線の豊平大門通りの入口の角」というのは、この場所に当たります。
豊平3条1丁目 国道36号×大門通の角
 豊平区豊平3条1丁目です(画像は2015年撮影)。

 この場所のことは前に拙ブログで取り上げました(2015.3.2ブログ)。この角地にある建物も札幌軟石が壁体に用いられています。
日の丸クリーニング 軟石
 大正期の建築だと聞きました。実は、ここにも馬具屋さんがあったと私は耳にしていたのです。この建物自体が馬具屋だったとは確かめられなかったのですが、土地柄からしてこれまた「さもありなん」とは思いました。しかし、島口商店だったか。

 島口商店のご子孫(4代目)に電話してお訊きしました。
 私:島口商店は、国道36号の大門通入口のところにもお店があったのですか?
 島口さん:それは初耳だなあ。
 私:豊平橋の向こうも、国道沿いに馬具屋さんが幾つかあったと聞いてはいましたが。
 島口さん:商売上のお得意さんで「ハラハシ」という馬具の店があったね。うちの品物を卸して売っていた。そういう店とごっちゃになったんじゃないかな。 

 郷土史の文献に答えが出ていました。
郷土史豊平地区の140年 大正7年の豊平の町並み
 『郷土史豊平地区の140年』1997年です(p.22)。「79年を隔てた国道36号両側の町なみ」と題して、1918(大正7)年当時と1997(平成9)年現在を較べて載せています(末注①)。
 図上「菊水中央線」がいわゆる大門通です(方位は下方おおむね5時の向きが北)。「開道五十年記念大博覧会 大正七年当時」の欄で、国道36号との角地に「カネ井 原橋馬具店」とあります(カネはLの字を逆さにした印)。「平成九年現在」でその場所に当てはまる「日の丸クリーニング」は、冒頭画像の現在の建物です。それぞれ赤い、橙色ので囲みました。

 同じ文献に載っている「明治43年(1910)の現36号の町なみ」です(末注②、方位は下方おおむね4時の向きが北)。
郷土史豊平地区の140年 明治43年の豊平の町並み
 「カネ井 原橋牛馬具商店」を赤いで囲みました(「橋」は異体字)。通り沿いには「松本蹄鉄工場」「高田蹄鉄工場」なども並んでいます。

 こうしてみると、「国道36号線の豊平大門通りの入口の角で馬具店を経営していた」のは島口商店ではなく、同店と商売上のつながりのあった原橋馬具店と思われます。また、現存する軟石建物はその馬具店だったようです。
 北海製靴から馬具の島口商店に、しかも浦河通から国道36号に寄り道してしまいました。靴から馬具へ寄り道というのも、縁語ですな。寄り道とはいっても島口さんは彼の浦河通の生まれ育ちであり、界隈のことをサイト上で回想されています。

http://kai-hokkaido.com/kitanomeijin017/
 北海製靴のことにも触れておられるので、引き続きお尋ねしました。

 注①:1918年当時の出典は「大正7年開道50年博覧会を記念に作成した先人の貴重な資料」とあるのみで未詳。現況については、「これに対応する平成八ママ年現在の町なみを数多くの方々の協力で作成した」とある(前掲書p.28。前掲図では「平成九年現在」だが、本文では「平成八年」)。
 注②:前掲書p.21。キャプションによると、出典は「札幌区商工新地図より豊平市街之図 明治43年9月10日発行 発行人金子信尚」。

2020/08/26

西岡の元リンゴ倉庫の煉瓦の行方

 豊平区西岡4条、水源池通です。
西岡4条 水源池通
 このあたりにはかつてリンゴ畑がありました。宅地化されたのは1970年代前半(昭和40年代後半)とみられます(末注①)。

 煉瓦造りの倉庫がリンゴ作りを支えました。
西岡 元リンゴ倉庫の喫茶店
 その遺産は今、珈琲店として活かされています。

 近くにはもう一棟、煉瓦のリンゴ倉庫がありました。
西岡4条 Nさん宅元リンゴ倉庫(現存せず) 
 前者が1952(昭和27)年、後者は1953(昭和28)年築です(末注②)。 

 後者は数年前に解体されました。いま「数年前に解体」と記して「はて、いつだったかな?」と思い直したものの、さだかでありません。2014(平成26)年だったようです(末注③)。解体されたのは知っていたのですが、気になっていたことがありました。解体を報じるテレビのニュースで、使われていた煉瓦がゆくゆく再利用されると伝えられたのです。新たに建てられる飲食店の意匠に用いるというような話でした。

 それからもう、だいぶたちました。この煉瓦はどうなったのだろう。先日水源池通を逍遥して、跡地を訪ねてみました。ちょうど持ち主(だった)Nさんが物置から出てこられたところだったので(そういう場面に私がよく遭遇すると感じるのは気のせいか)これ幸いとお尋ねしました。Nさんには建物現存時の2006年と2012年にお目にかかっています。
 「解体された煉瓦がどこかのレストランで使われると当時聞いたのですが、どうなったかご存じありませんか?」という私の問いに、Nさんから返ってきた答えは…。

 札幌市内の2箇所で「使われたらしい」と。その一つがこちらです。
赤れんがテラス
 赤れんがテラス(中央区北2条)。
 いつ建てられたか、哀しいかなこれまた記憶がはっきりしません。そういえば、この5、6年でした。時系列的には符合します。しかも道庁正門前の通りが、それこそ煉瓦をふんだんに使って歩行者空間化されました。それもたしか近年です。

 この歩道やストリートファニチュアのどこかに使われたのだろうか。 
赤れんがテラス 歩道、ストリートファニチュア
 いや、全体に新しく均質な材料に見えます。ざっと見渡した限り、部分的に古材が使われている気配はありません。それに、この煉瓦は野幌の米澤さんが納品したと聞きました(末注④)。元の持ち主のNさんは「赤れんがテラス」とおっしゃっただけで、詳しい場所はご存じないようでした。
 
 もしやと思って、建物の中を鑑みました。
赤れんがテラス 2階 ブルックリンパーラー
 2階の飲食店の外壁です。

 使われている煉瓦の不均質感、経年感。
赤れんがテラス ブルックリンパーラー 煉瓦
 これは、昨日今日のモノではなさそうです。

 しかも。
赤れんがテラス ブルックリンパーラー 煉瓦-2
 全体に、煉瓦の表面が白みがかっています。これは目地に使われたセメントの跡でなかろうか。

 冒頭の西岡にありしときの煉瓦の表面を観ます。
西岡4条 Nさん宅元リンゴ倉庫(現存せず)小端空間積み
 “小端空間積み”です。
 これは何を意味するかというと、煉瓦の直方体のもっとも大きい面(平ひら面)が地面に対して垂直に積まれるということです。つまり建物の表面に出ます。一方、細長い面(長手ながて)はオモテに出ません。地面に対して水平に積まれ、その面が目地のセメントで接着されるのです(2019.6.24ブログ参照)。

 しかるに、前掲赤れんがテラスの飲食店では、その長手面が地面に対して垂直に積まれ、オモテに出ています。そして、目地らしき跡が付着している。これは、小端空間積みで積まれた煉瓦を長手積みで積み直した、ということではないだろうか。つまり、西岡の解体煉瓦という状況証拠です。
 
 Nさんの元リンゴ倉庫がいつ解体されたか、私は「さだかでありません。2014(平成26)年だったようです」と前述しましたが、拙ブログを検索してみたらこれまた記憶違いでした。なんのことはない、ちゃんと記録にとどめていたのです(2015.1.18ブログ)。
 この倉庫には旧陸軍(月寒の歩兵第25連隊)営舎の煉瓦が再利用されていました。ということは、赤れんがテラス物件の出自が西岡だとすると、再利用ならぬ再々利用という可能性があります。煉瓦は巡る糸車。

 注①:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、p.145及び国土地理院空中写真による。
 注②:北海道近代建築研究会編『札幌の建築探訪』1998年、p.120参照
 注③:札幌市サイト「札幌景観資産」ページによると、本件建物は2014年に景観資産の指定を解除されている。
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/keikansigen/keikansisan.html
 注④:UHBみんテレ「となりのレトロ」2019年6月24日放送のロケの際、米澤社長から聞取り。 

2020/08/25

平岸の地理的特異点

 先月下旬からこのひと月ほど、断続的に豊平区と南区の境目を取り上げました。「平岸村の冷水」と「運転免許試験場は、いつ、どこに、なぜ、設けられたか?」です。なぜ私はこの場所とこのテーマにこだわったのでしょうか。などと振り返るのは拙ブログではほとんど意味がありません。この6年にわたって逍遥してきた時空についてその問いに答えるなら、大半は「思いつき」だからです。それ以上でも以下でもない。
 という前提ではありつつもあえて振り返ると、きっかけは前に記したとおり(7月29日ブログ)法務局の出張所に出向いたことでした。そして近くに「平岸村の冷水」なる古跡があることを知り、さらに現地で「旧試験場幹」なる電柱銘を見かけたことです。そのこだわりをこれまたあえて要約すると、「地名の謎」でしょうか。「冷水」は通称地名だったのか、はたまた行政地名(字名)になっていたのか。この場所は平岸だったのか中の島だったのか、はたまた真駒内だったのか。なぜ「旧」試験場なる特異な電柱銘があるのか。
 ではなぜ「地名の謎」にこだわるのか。これまた、私のような性(さが)や癖(へき)の嗜好に「なぜ?」を問うのは意味がなさそうです。どう説明しても後付けになるのですが、「あえて」答えの一つを出すならば、「変わったもの」に対する愛着、かもしれません。
 「冷水」は札幌の戦前までの地形図に載っていますが、戦後は消えます。行政地名としても残っていません。冷水の場所は、現在の公式の町名(行政地名)の区域が入り組んでいます。そこに「旧」試験場なる特異な電柱銘が分布している。つまり“変わり種”の凝縮点ともいえます。地理的特異点(8月10日ブログ参照)です。 
 なぜ「変わったもの」に愛着するか。お察しいただけるかと思いますが、自らの投影でしょう。たぶん。同じようなものや似たり寄ったりのもの「ではない」ものが、世の中に在る。それを再確認して得られる安心感。自己同一性の再確認につながる安心感です。世の中の標準からみたら変わっているかもしれないが、自分も世の中に存在してもよかろう。

 現在図で札幌市豊平区と南区の境目あたりを観ます。
現在図 平岸の町(区域)界 地理的特異点
 赤く網掛けした一帯が「平岸」の区域です(末注)。
 運転免許試験場跡のあたりは、平岸が動物の尻尾のように飛び出ています。前述した「冷水の場所は、現在の公式の地名(行政地名)の区域としては入り組んでいます」を視覚的に示した一例です。この突出感に特異性、珍奇性、変質性を感じてしまいます。変質性は言いすぎか。もちろん、悪い意味ではまったくありません。変質に偏執する私。

 注:札幌市発行「札幌市町名・住居表示実施区域図」(2014年10月6日現在)に基づき作成。「平岸」の町名には現在、すべて条丁目が付く。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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