札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/10/18

札幌扇状地平岸面 洪水の記憶 補遺

 今回も、前に書いたブログの補正です。
 10月11日ブログで札幌扇状地「平岸面」のことを記し、1950(昭和25)年に起きた連合用水第三号用水路の洪水氾濫を、私は扇状地の記憶ではないかと述べました。妄想を膨らませたものですが、真に受けられかねない表現がありましたので、補っておきます。

 「ぼうず山麓の水田地帯の伏流水が増量」という私の記述について、知人の造園家Sさんから「水害につながるほど短期的に伏流水が増加することは考えにくい」というご指摘をいただきました。これは、もし昨日今日の大雨がもたらしたものという前提ならば、まったくそのとおりだと思います。
 伏流水はかなり長い年月を経て地表に湧き出ると聞きます。「かなり長い」というのは、ン十年というスパンです。白旗山水源の水を使っている清田区の飲料工場では、40年前の水が中腹で湧き出ているとのことです(https://factory.hokkaido.ccbc.co.jp/eco/参照)。京極のふきだし公園の水も羊蹄山に浸みた水が「数十年」かかって湧き出ているそうです(http://www.hokkaidoisan.org/heritage/019.html参照)。
 しかるに、本件豊平の洪水の場合、「ぼうず山」を水源と仮定して国道36号の浸水地帯まで、直線距離にして2.5㎞余りあります。一日二日前に降った大雨が2.5㎞先で洪水となるほど湧き出るとは、考えられません。

 Sさんは洪水の原因を、「戦後の都市化」によるのではないかとみています。雨が降ったとき、舗装されていない地面や畑などであれば地中に浸透しやすいのですが、道路が舗装されたり宅地化が進むと浸透しにくくなります。地中に浸透しない分、大雨が降ると許容量を超えて流れ込み、洪水を起してしまう。‘都市型’水害というところでしょうか。下水道を整備してこれを防ぐのですが、用水路(排水路)の規模が昔のままだと、対処しきれない。

 これはごもっともなのですが、必ずしも「戦後の都市化が原因」とまではいいきれないのではないかと私は思います。
 豊平の浸水地帯の空中写真(1948年米軍撮影、10月11日ブログに掲載)を見ると、たしかに市街化されています。ただし、浸水が起きた1950年当時、戦前と比べて市街地が大きく増えていたかというと、地形図(大正5年、昭和10年)と照らしたとき、それほどではありません。言い換えれば1950年夏の大雨が、それだけ甚大だったのかもしれません。

 Sさんによると、雨水の流出係数(まったく浸透しない地面を1とし、0に近いほど浸透しやすくなる)は以下のとおりです(日本道路協会「道路土工要領」2009年)。
 舗装路面:0.7-0.95 水田(湛水時):0.7-0.8 市街:0.6-0.9 平坦な耕地:0.45-0.6 砂利道:0.3-0.7

 豊平の1950年浸水域は、前述1948年空中写真から推測するに市街地ですが、道路はまだ砂利道でしょう。 一方、ぼうず山から「小泉川」の流域は北へ水田が広がっています。夏場だと流出係数は高い。この一帯が私には伏流水、というかその表出に見えてしまうんですね。‘古々’豊平川(10月10日ブログ参照)の洪水を彷彿させる。伏流水というコトバを安易に使ってすみません。
 
 第三号用水路が流れていたとおぼしき現在の風景です。
定鉄旧豊平駅舎 鉄路跡
 南から北を眺めました。左方の細長く建物が建つ敷地が旧定山渓鉄道豊平駅があったところです(2016年2月撮影、同年2月5日ブログ参照)。1950年洪水を証言したⅠさん(ご主人)によると、駅舎の月寒寄りを用水路が流れていたといいますから、ちょうど歩道のあたりがその跡になりましょう。

 実は、Ⅰさんは「(洪水が起きたのは)戦後、用水路が十分に管理されていなかったからではないか」とおっしゃっていました。本来農業用水路だったところへ大雨が流入して、処理しきれない排水も負わされ、文字どおりオーバーフローしてしまった、というのが実情でしょうか。Sさん、ご指摘ありがとうございます。
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2017/10/13

豊平 「やまじゅういち」軟石倉庫 ②

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんが古地図で、豊平の「やまじゅういち」印を確認してくださいました。
札幌市卓上案内 豊平周辺
 まず「札幌市卓上案内」1950(昭和25)年(原図は札幌市公文書館蔵)。方位はおおむね2時の向きが北です。

 赤い線で囲ったところを拡大すると…。
札幌市卓上案内 やまじゅういち倉庫
 室蘭街道(画像中、札幌市電の軌道の線が描かれている道)に面して「○○醤油醸造所」(○○には固有名詞で経営者Ⅰさんの苗字)、その背後に「∧十一倉庫」と書かれています。

 次に「札幌市制紀念人名案内図」1922(大正11)年(原図は札幌市中央図書館蔵)。
札幌市制紀念人名案内図 豊平周辺
 方位はおおむね5時の向きが北です。
 赤い○で囲ったところに「∧十一○○」と書かれています(○○には同じくⅠさんの苗字)。「十一」の「一」の右上に「、」が付いていますが、「土」の俗字と書き間違えられたのでしょう。

 豊平には醸造業の店が多くあり、抜粋した一帯だけでもほかに橙色の○で囲った2軒がそうです(末注①)。どちらも、札幌軟石の蔵が現存しています。
 その一棟が、こちらです。
宮越屋珈琲豊平店
 「カネさ K商店」の雑穀蔵でした(印「カネさ」の「さ」は変体仮名)。K商店はもともと雑穀問屋で、戦後味噌醤油の醸造業に転じたといいます(末注②)。昭和初期築の石蔵は1991(平成3)年、中華料理店の店舗に再利用された後、2002(平成14)年から喫茶店となりました(末注③)。

 すぐ近くのもう一棟はSさん宅石蔵です。地元の郷土史家Nさんに「カネ吉 S商店」と教えていただきました。前掲「人名案内図」には、「カネ吉○○店」と書かれています(○○にはSさんの苗字)。
豊平 S宅軟石倉庫
 建築年は不詳ですが、前述の「∧十一」「カネさ」の石蔵から類推するに、大正~昭和初期ではないでしょうか。豊平では大正期に幾度か大火が起きていますので、その後ではないかとも思います(末注④)。

 豊平で味噌醤油の醸造業が多かったのは、札幌扇状地「平岸面」の扇端、とまでは行かないが、比較的扇端に近い一帯という地形にも由来すると私は睨みました。豊平川の対岸、札幌扇状地「札幌面」でも醸造業(こちらは日本清酒をはじめ酒造)が盛んでした。平岸面は札幌面に比べると古い時代の扇状地ですが、このあたりだとやはり伏流水に恵まれていたと想うのですが…。
 最近、平岸面因縁説にハマっています(10月4日11日各ブログ参照)。一つハマると、どうもクセになりますね。

 注①:『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』1997年、p.460
 注②:『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年、p.260
 注③:『さっぽろ再生建物案内』第2版2003年、p.81
 注④:前掲『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』pp.246-248。ただし同書には、1919(大正8)年の大火でカネ吉S商店の石蔵が類焼し、「灰じんに帰してしまった」とある(p.246)。

2017/10/12

豊平 「やまじゅういち」軟石倉庫

 10月1日ブログに載せた豊平区豊平3条の「やまじゅういち」軟石倉庫です。
豊平3条 やまじゅういち倉庫
 味噌醤油の醸造蔵でした。築年は1925、1926(大正14、15)年。昭和30年代半ばまで使われました。持ち主はガレージ(貸し車庫)業に転じ、うち一棟は昭和40年代半ばから電気設備会社の社屋として再利用されています。
 以上は、持ち主のⅠさん(昨日ブログまで記してきたⅠ商店とは別)から聞き取りました。石蔵が醸造業から貸し車庫に変わったというのは、国道36号に沿う豊平地区の戦後史をそのまま物語っています。
  軟石建物の築年別内訳は本年9月2日ブログ掲載の数値から次のように変わりました(大正期築プラス2、築年不詳マイナス2)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:169棟(41.0%)
 なお、本件建物の由来については、札幌建築鑑賞会スタッフSさんが古地図を漁って裏付けしてくださっています。[つづく]

2017/10/11

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ④

 空中写真1948(昭和23)年米軍撮影で連合用水路を見てみます。
空中写真 1948年米軍 連合用水路
 昨日、一昨日掲載の古地図とほぼ同様に用水路を加筆着色したほか、新たに定山渓鉄道を黄色の線でなぞりました。用水路は一部読み取りづらいため、着色が途切れていますが、実際はつながっていたと思います(暗渠の可能性もあり)。濃い青は自然河川の「小泉川」(昨日ブログの末注参照)です。1950(昭和25)年の第三号用水路の洪水氾濫で浸水した豊平・Ⅰ商店は、平岸街道が室蘭街道に達する黄色の矢印の先に当たります。
 
 Ⅰさんの本(10月8日ブログ参照)に書かれている「東山水源の田圃の水が定鉄線路の横を通り排水口に入るようになっていたのだが、夜来の雨で溢れでて」きた、というのはどういうことでしょうか。Ⅰさんのご主人の言葉で補うと、「当時(昭和20年代)、平岸の‘ぼうず山’から下(北側)は水田が広がっていて、用水路が流れていた」とのことです。ぼうず山は、前掲空中写真で橙色の▲で示したところです。たしかに、そのふもとから北側には水田が見て取れます。主に、定山渓鉄道の東側です(西側はリンゴ畑)。水田の一帯を、第一号、第二号用水路が流れています。

 私は当初、この水田地帯の水が溢れたのかと想いました。そうだとすれば、第一号や第二号の用水路も洪水になった可能性があります。しかしⅠさんによると、氾濫したのは第三号だけだったそうです。第三号用水路は昨日、一昨日ブログで示したように、平岸用水の下流(豊平と平岸の字界あたり)から分岐しています。一方、第一号、第二号は平岸用水の上流から引かれています。

 さて、今回のテーマの結論に入ります。
 67年前の用水路の洪水は、札幌扇状地・平岸面の記憶がよみがえったのではないか。10月4日ブログ掲載の「カシミール3D」で、平岸面を想い起してみましょう。そもそも扇状地とは、川の洪水氾濫によって形成された地形だと思います。古い平岸面も、例外ではない。人工的な用水路であっても、1万年以上前の記憶が引き継がれたと見て取れないでしょうか。ぼうず山麓の水田地帯(第一号、第二号用水路の上流部)の伏流水が増量し、扇状地の下流部の地表で溢れた。私の妄想です(末注)。[おわり]

 注:『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年によると、1950年7月30日~8月1日「大雨により市内の各河川が氾濫し、藻岩・上白石・白石中央・厚別団地の浸水被害が特に甚大」であった。

2017/10/10

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ③

 「四箇村連合用水路」について、別の史料を見てみます。
歩兵25連隊明治43年地図 連合用水
 月寒の歩兵25連隊1910(明治43)年作成地図からの抜粋です。以下のとおり着色しました。
 濃い赤の線:室蘭街道(現国道36号)、赤の線:平岸街道、黄色の○:のちに定山渓鉄道豊平駅ができる地点
 水色①:第一号用水路、水色①’:自然河川(末注)、水色②:第二号用水路、水色③:第三号用水路、水色④:第四号用水路

 縮尺は2万5千分の1なので、明治29年、大正5年の5万分の1地形図よりも詳細な情報が盛り込まれています。この古地図は札幌南東部の明治期地理を知るうえで貴重です。地形図自体を陸軍の陸地測量部が作っていたように、当時もっとも地理に精通していたのは軍だったと思います。豊平町、白石村一帯の当時としてはもっとも正確詳細な地図でしょう。

 ただし、昨日ブログ掲載の四箇村連合用水路設計平面図と比べると、用水路の流れが若干異なっています。地図上、用水路とおぼしき実線を私は着色しましたが、室蘭街道の北側では第一号を除いて判然としません。この地図を作った時点ではまだ流路が延びていなかったのかもしれません。第一号と第二号の上流部分、平岸用水から枝分かれするところがはっきりした実線で読み取れませんでしたので、私の推測を破線で補いました。第三号は、昨日掲載の設計平面図では平岸街道から直線的に接続していましたが、この地図では曲線的にしかも二手に分かれて描かれています。もしかしたら、計画と実際の違いかもしれません。
 ともあれ、第三号用水路が1950(昭和25)年に溢れて定鉄豊平駅周辺で浸水を起こしました。

 注:これは、現在の南区澄川から平岸高台の崖を削り、北東へ流れていた「小泉川」であろう。前掲地図では第一号用水路と交差するあたりで西へ屈曲し、平岸用水方面から通じているように描かれているが、もともとは南から流れていたと思われる。さらにこの川は、札幌扇状地の古い「平岸面」を作った古豊平川の流路とも重なるらしい。平岸面ができたのは、「札幌面」(現在の札幌市中央区)が1万年前以降に形成されるよりも前なので、古々豊平川というべきか。道新りんご新聞2014.6.15「平岸の歴史を訪ねて 第8回 幻の川『小泉川』」札幌市博物館活動センター『ミューズレター』№66、2017.2参照

2017/10/09

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ②

 昨日ブログのつづきです。 
 1950(昭和25)年、豊平で用水路が氾濫し、室蘭街道(弾丸道路、現国道36号)沿い、旧平岸街道北端あたりの家屋が浸水しました。氾濫した用水路とは、どこを流れていたのか?
 Ⅰさんご夫妻にあらためてお訊きしました。Ⅰさん同様、この浸水を体験したⅠさんのご主人によると「定山渓鉄道豊平駅の月寒寄り側を流れていた」とのことです。 
 おそらく、明治期中~後期に開削された「四箇村連合用水路」の一つと思われます(末注①)。四箇村とは豊平、白石、上白石、平岸の各村です。一帯の水田開発のために、平岸用水から水を引いて広域に張り巡らされました。主導した一人が、拙ブログにたびたび登場する阿部仁太郎です。
 明治29年、大正5年、昭和10年5万分の1地形図では、用水路(平岸用水など)は主だったものしか読み取れません。もう少し史料を漁ってみましょう。

 「四箇村連合用水路設計平面図」からの抜粋です(末注②)。
四箇村連合用水設計平面図 抜粋
 方位は10時半の向きが北です。用水路とおぼしき実線を水色でなぞりました。加筆した①②③④はそれぞれ第一号、第二号、第三号、第四号用水路です。濃い赤でなぞったのが室蘭街道(現国道36号)、赤い線が平岸街道です。平岸用水は、実際には平岸街道の真ん中を流れていましたが、便宜的に道と水路の色を並べてなぞりました。
 この図は「大正元年九月製図」とあるので、もちろんまだ定山渓鉄道は描かれていません。後に豊平駅ができるところに黄色の○を付けました。この近くを第3号用水路が流れていました。[つづく]

注①:『平岸百拾年』1981年によると、1894(明治27)年9月に道の認可が下り、同年12月に竣工した(p.166)。用水路は第一号から第十五号まで掘られ、同年に竣工したのは第一号から第四号まで。
注②:『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図‹明治編›』1978年p.10。この図には用水路が第十五号まで描かれている。

2017/10/08

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足2017秋編」を、10月6日、8日の2回にわたって終えました。
 参加された53名の皆さん、お疲れ様でした。地元・豊平の郷土史家Nさんにはその都度おいでいただき、お世話になりました。同じく、豊平でお生まれ育ちの鑑賞会スタッフⅠさん(10月6日ブログ参照)も、‘語り部’になってくださいました。お聴きしたのはいずれも、郷土誌の行間に潜むようなお話でした。

 ‘旧’平岸街道(10月2日ブログ掲載現在図の桃色でなぞった道)の国道36号入口近くに遺るⅠさんの生家の蔵です。
ヤマ利 Ⅰ商店 蔵
 生家は1909(明治42)年に海産物商として創業し、その後食料品酒類を広く扱うようになり、室蘭街道沿いでも有数の卸商でした。画像右方、ブリキ製?の扉にⅠ商店の印が書かれています。板が打ち付けられていて半分隠れていますが、「∧(ヤマ)利」という印です(黄色の矢印の先)。

 Ⅰさんは商家のあゆみを「少女の目でみた昭和史」として2001年に上梓されました。
 ご著書には、1950(昭和25)年の夏、このあたりが洪水で床上まで水に浸かったことが記されています(末注)。蔵には軟石を積んだ‘室’(むろ=地下室)があるのですが、水没してしまいました。いわば天然の冷蔵庫で、バターやチーズなどの乳製品やビールやサイダーといった飲料が保管されていましたが、商品にはならなくなってしまったそうです。

 私がⅠさんの本を読み、お話をお聞きして「おや」と思ったのは、洪水の原因です。水は「定鉄の豊平駅のあたりや豊平小学校のほうから」流れてきました。さらに元をたどると「東山水源の田圃の水が定鉄線路の横を通り排水口に入るようになっていたのだが、夜来の雨で溢れでて」きたとのことです。どうも用水路の氾濫なのですね。豊平で洪水、氾濫というと豊平川か望月寒川か、と私は一瞬想ったのですが、そうではない。1950年には、床上まで浸かるような氾濫を用水路が起していました。[つづく]

 注:『池上商店物語』2001年、pp.120-130

2017/10/06

豊平六番地を通っていた道

 昨日ブログの続きです。
 
 国道453号平岸通、拙ブログで‘黄色の線’(10月2日ブログ参照)といっている道です。北海学園の前を通っています。
国道453号 平岸通
 昨日いただいたコメントをお借りするならば、‘旧旧平岸街道’です。
 現在、片側2車線の広幅員です。正面突き当りが豊陵公園で、以前はこの場所を突っ切って細い道が通じていました(中学校前通、10月2日ブログ掲載現在図の、橙色の道)。1995-1998年の公園再整備により、道は途切れました。

 さて、『平岸百拾年』1981年には、次のように書かれています(pp.219-220)。
 平岸街道と札幌を繋ぐ道路は、当初は今の北海学園前の道路で豊平橋から曲りくねった踏分け路であった。(中略)
 北海学園前の道路は、長く補修もされずそのまま置き去られていたが、裏道または近道と呼ばれいくらかの交通があった。道路として整備されたのは北海中学校(現北海高等学校)の移転が決った明治四十年以降のことである。(中略)
 戦後、逆に北海学園前道が平岸街道からの本通りとなり、昭和二十七年公布の新「道路法」に依り道道札幌支笏湖線となり、都市計画の幹線道路としての役割を果している。
 
 そして現在、国道453号として発展を遂げているわけです。 
 昨日掲載の古地図を見ると、旧旧道は豊平川のほうへ湾曲しています。札幌本府へのアクセスということでは、それが自然だったのでしょう。明治29年地形図では、この道が室蘭街道(現国道36号)に近づくところに役場や学校の印が付いています。現在の経王寺のあたりです。昨日記したように、この道は用水路に沿っています。用水路は豊平川に注がれています。用水を掘ったときの土を盛って道を造ったことも考えられます(札幌市公文書館のEさんの話)。

 一方、‘旧平岸街道’(10月2日ブログ掲載現在図の桃色の道)が開かれたのは、前掲書によれば1879(明治12)年です(末注)。先だって札幌本道(室蘭街道、現国道36号)が整備されたことに伴い、短絡化していったのでしょう。
 一つ気づいたのは、前掲書では旧旧道(黄色)や旧道(桃色)のことを「平岸街道と札幌を繋ぐ道路」と表現していることです。この書を編んだ故澤田誠一先生は生粋の平岸人です。平岸サイドからみると、「平岸街道」はあくまでも平岸本村を通っていた部分を指すようですね。10月2日ブログ掲載の現在図の赤い色の線です。

 札幌建築鑑賞会スタッフのⅠさんは、旧道(桃色の道)の近くで生まれ育ちの、生粋の豊平人です。Ⅰさんはもちろん旧道のほうを平岸街道と認識されています。Ⅰさんによると、女学生のころ(戦後)、旧旧道(黄色の道~橙色の道)について親御さんから「あっちの道へは行ってはいけない」と言われていたそうです。旧旧道は先日来記すように「中学校前通」なので、女学生のⅠさんが北海の男子生徒と遭遇してよからぬ事態が起きるのを、ご家族は心配されていたのかもしれません。この通りは豊平六番地といわれていたエリアも通っていました。話がダークになりますので、これ以上は想像にお任せします。
 昨日いただいたコメントに「旧旧平岸街道が旧平岸街道にリベンジして現在国道まで進化したとういうことでしょうか」とありました。豊陵公園の手前はまさに、そんな隔世の感です。[おわり]

 注:前掲『平岸百拾年』p.219及び『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年p.192参照

2017/10/05

平岸街道 再考

 一昨日ブログに続き、平岸街道を再開します。
 現在、(行政上の)“正式な”道路名としては「平岸街道」は使われていません(一昨日ブログに記した「市道平岸街道線」以外は)。しかし、拙ブログにお寄せいただいたコメントにもあるように、通称として人口に膾炙しています。その適否をとやかくいう筋合いはありません。私が先日来あーだこーだ述べているのは、拙ブログのほかの話題同様、遊びです。という前提の上で続けます。 

 「北海道札幌之図」1873(明治6)年です(北大図書館蔵)。
北海道札幌之図 明治6年 全体
 作成したのは「開拓使測量課」で、現在の札幌の中心部に当たる一帯を比較的正確に描いた地図としては最も古い部類のものです(末注)。
 左下に「南北ハ磁針ヲ以テ定メタレハ真ノ南北ハ磁針ヨリ東ノ方五度ニアリ」と書かれています。それで真北を上にすべく、画像を右に傾けました。

 黄色の□で囲った部分をトリミングして見てみます。
明治6年北海道札幌之図 有珠新道
 赤い○で囲ったところに「有珠新道」と書かれ、道が描かれています。
 その道を南に下った(地形的には昇った)ところに村落が描かれ、「平岸」と書かれています(実際は「平岸村」と書かれているが、トリミングした部分は「平岸」まで)。
 つまり、ここに描かれているのは平岸街道です。
 この古地図で判るのは、平岸街道が「平岸村」から北北西に伸びていることです。
 
 10月2日ブログに載せた現在図を再掲して比べてみます。
現在図 平岸通、平岸街道
 北北西に伸びている道は、現在の国道453号平岸通、すなわち黄色の線でなぞった道とほぼ一致しているように見えます。 
 桃色でなぞった「旧平岸街道」は、1873(明治6)年の時点ではまだ描かれていません。

 つまり、「旧平岸街道」よりも、現平岸通の黄色の部分のほうが実は古くからあったということになります。桃色の道はいわば、「新」平岸街道です。私がこちらを「旧」平岸街道と呼ぶのにタメライを感じたもう一つの理由は、ここにあります。話がややこしくなりますが、平岸通の黄色の部分こそ、「旧」平岸街道ともいえると思うのです。

 別の古地図で見てみます。
明治7年札幌郡各村図
 明治7年「札幌郡各村図」1874(明治7)年(北大図書館蔵)から抜粋しました。
 やはり道は北北西に曲がっています。赤く描かれているのが道で、これに沿って青く描かれているのは用水です。

 明治29年地形図です。
明治29年地形図 平岸街道
 現在図に桃色でなぞった道が実線で描かれます。一方、黄色の道は破線になっています。道の主従関係が変わったようです。

 平岸通の黄色の部分のほうが実は古かったことに私が気づいたのは、北大図書館蔵の古地図を漁ったことによりますが、これは私の発見でも何でもありません。故澤田誠一先生が編んだ郷土誌『平岸百拾年』1981年で、すでに記されています。[つづく]

 注:「比較的正確に」と記したが、この地図はよく知られるように、1873(明治6)年の「測定」とされながら、1875(明治8)年にできた山鼻屯田兵村の区画が描かれたりしている。計画図か、または後世に描き足された形跡がある。

2017/10/04

札幌扇状地

 平岸街道、まだ続く…札幌時空逍遥ならではのマニアックな締めくくりをしたいと思っているのですが、一回お休みします。気分転換です。

 10月1日、札幌市河川事業課主催の「創成川・鴨々川 川めぐりウォーキングツアー<秋編)」に参加しました。7月の「夏編」で「川と市民の営み」をテーマに私が案内役を務めたましたが、今回は専門家による「街中に残る地形」探訪です。ほぼ同じコースを別の人の視点で見て歩くというのは大変面白く、とても勉強になりました。専門の人ほど、基本を大切にして、難しいことを分かりやすく話されるなあ、とも思いました。顧みて私は、簡単なことを難しく言挙げするキライがある。反省。

 案内役の廣瀬さん(道総研地質研究所)からいただいた資料に感動しました。札幌(豊平川)扇状地の「レインボーゼブラマップ」です。国土地理院地図をもとに「カシミール3D」ソフトで廣瀬さんが作成したもので、札幌扇状地の地形が非常によくわかりました。
 これまでモノの本を読んで主として文字情報で理解していたことが、一枚の絵で視覚的にアタマに入りました。

 それで私も早速「カシミール3D」をインストールして、札幌扇状地を見てみました。
札幌扇状地 カシミール3D
 地形オタクを標榜しながら、恥ずかしいことにこれが初めてです。 
 廣瀬さんの作成した図は標高差を、より詳細に、カラフルに描いてましたが、私の力量ではそこまでできません。

 それでも、札幌扇状地の「札幌面」と「平岸面」の違いが、一目瞭然です。私はこれまで、文字情報の上っ面しかかじっていなかった。特に平岸面のことが、よーく判りました。過去に拙ブログで開陳したことをおって補正します。
 よし、こんどは平岸面を探検しよう。札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で明後日歩く豊平(豊平区豊平です)は、平岸面ではないか(末注)。

 注:平岸面と札幌面がせめぎ合っているように、私には見えてしまう。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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