札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/05/04

なんちゃって八角ドーム

 清田区平岡にある生コン工場です。
平岡 生コン工場
 遠望して「お、なんちゃってサイロか?」と、想いました。

 いや、このドーム型フォルムは、サイロではない。
なんちゃって八角ドーム
 いやいや、そもそも本件は生コン工場のサイロなので、「なんちゃって」サイロではない。

 本件のオリジナルは、こちらですね。 
道庁赤れんが 八角塔
 道庁赤れんがの八角塔です。
 円形アーチ縦長窓は、前掲のサイロ物件のほうにも描かれています。
 
 道庁赤れんがの八角塔は1968(昭和43)年、「北海道百年」のときに復元されたものです。
 本件生コン工場は、国土地理院サイトで空中写真を追ったところ、1966(昭和41)年から1971(昭和46)年の間にできていました。

 ただ、当初から「なんちゃって」ではなかったようです。
空中写真 1976年 平岡 生コン工場
 1976(昭和51)年の空中写真では、普通の生コンサイロに見えます。

 しかし前述の時系列に鑑みるに、私にはどうも「北海道百年」がインパクトを与えたように想えてなりません。
 最近、道庁赤れんがの八角塔の話を300字でまとめるという宿題を与えられました。それが世の中で日の目を見たら、八角塔についてあらためて愚見を開陳したいと思います。順調にいけばたぶん、「北海道150年ウィーク」の時期になるでしょう。
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2018/05/01

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 ⑤

 最も遠くから北海道百年記念塔を校歌で歌っている清田南小学校です。
清田南小学校
 所在地は札幌市清田区清田5条2丁目、記念塔からは8.55㎞離れています(4月28日ブログ参照)。

 学校付近から記念塔の方向を望みました。
清田南小学校から北東方向
 画像上、やや右方にあたりますが、見渡せません。

 そこで今回は、学校から530m北西にある大学に行ってみました。
札幌国際大学 全景
 高台の上にあるので、ここなら遠望できるのではないかと思ったのです。

 ちょうど昼時だったので、学内の食堂に上がらせてもらいました。
札幌国際大学から北東望
 食堂のある建物から、市街を眺めることができます。

 記念塔も、彼方に見えました。
札幌国際大学から北東望 百年記念塔
 赤矢印の先です。
 
 例によって、最大限ズームインしてみると…
札幌国際大学から百年記念塔 ズームイン
 フォルムも確認できました。

 ♪朝霞にけむる石狩野 はるかに百年記念の塔…(清田南小学校校歌一番歌詞)。
 ここから記念塔までは8.35㎞で、小学校の8.55㎞よりは若干短いのですが、小学校からの眺めが偲ばれます。とまれ、昼食と記念塔の一石二鳥で、幸運でした。

 色別標高図で、学校と記念塔の間の地勢を確認しておきます。
国土地理院 色別標高図 記念塔-清田南小学校
 色分けは5mごとで、陰影版にしました(国土地理院サイトから作成)。 
 記念塔は右上の黄色の六角形、左下の白ヌキ○が清田南小学校、赤い○が実際に遠望した場所の大学です。

 地理院サイトから、断面図も出してみました。
断面図 札幌国際大-記念塔
断面図 清田南小-記念塔
 前者が眺望地点の大学-記念塔間、後者が清田南小学校-記念塔間で、グラフの左端が大学・小学校、右端が記念塔です。 

 実は大学は標高66.6m、小学校は47.8mで、18.8mもの差があります。記念塔は54.8m(てっぺんは154.8m)です。グラフはタテヨコ比を極端にデフォルメしているので大学と小学校では違いがあることも判ります。記念塔までの実際の距離に照らすと、大きくは変わらないかとも思いますが、大学のほうが条件が良いのは確かです。

 前述の校歌ができたのは1975(昭和50)年といいます。当時は前掲画像の大学からの眺めのように記念塔を望めたのかもしれません。今は校舎の屋上に上がっても、てっぺんが顔を出しているかどうか。

2018/04/28

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 ②

 昨日ブログの続きです。というか、追加です。

札幌市で、清田区の小中学校でも校歌に歌われているところがありました。
北野小学校、清田南小学校、真栄中学校
3校を追加した分布図は以下のとおりです。
北海道百年記念塔 校章・校歌分布図 清田区追加
 凡例は昨日掲載と同じですが、新たに区界を黄緑色の線でなぞりました。

 これで、校歌は計14校(小学校8、中学校5、高校1)になりました。
 北野小学校は、記念塔から西南西へ6.8㎞離れています。
 一番の歌詞が、♪はるかに望む開拓の記念の塔に日は昇る…と始まります → http://www.kitano-e.sapporo-c.ed.jp/

 最南端は南南西8.4㎞の真栄中学校 → http://www.shinei-j.sapporo-c.ed.jp/kouka/kouka.htm。二番の歌詞にあります。
 ♪あしりべつ 流れる大地(さき)の原始林 望む彼方に百年(ももとせ)の 歴史は栄えて はるか 夢を語るよ創造の 心ゆたかにおおいなる 世界学ばむ♪
 「望む彼方に」「塔はるか」です。

 最西端は清田南小学校で、記念塔から南西へ8.5㎞に位置します → http://www.kiyotaminami-e.sapporo-c.ed.jp/
 一番の歌い出しが♪朝霞にけむる石狩野 はるかに百年記念の塔…です。やはり「はるか」ですが、目に入るのですね。実際、どんなふうに望めるのでしょう。
 私が調べた限り、この小学校が北海道百年記念塔をもっとも遠くから歌っています。次いで真栄中学校です。

追記
 さらに、白石区と豊平区の小学校でも使われていることが判りました。畏るべし、百年記念塔。
 4月29日ブログで記します。

2016/11/11

カクサボシ橋 追記(承前)

 明治時代、札幌で隆盛を誇ったカクサボシ新田商店。清田にあった「カクサボシ橋」と、どうつながるのだろうか。
 
 『新札幌市史 第二巻』1991年、第六編第三章に「新田織之助」の名前が出てきます。カクサボシ新田商店の二代目です。同書に、『北海道毎日新聞』1887(明治20)年10月25日~11月7日の記事に基づく「払下土地墾成調」の一覧が載っています(p.709)。これはかいつまんでいうと、1886(明治19)年に制定された「北海道土地払下規則」によって札幌周辺の土地の払下げを受けた者のリストです。「この中には官吏、華族、実業家、商人が名を連ね、多くの土地は“有勢者”に渡っていったことがわかる」(同)。その一人に新田織之助がいました。払い下げられたのは「月寒村」54,243歩の土地です。約18ha(1ha≒1町歩=3,000歩)。

 カクサボシ橋があったのは、現在の清田区清田1条1丁目あたりと思われます(本年7月27日ブログ参照)。その場所は、明治20年当時は月寒(つきさっぷ)村の村域です。ここからは私の想像ですが、カクサボシ橋は新田商店が払下げを受けた土地の名残だったのではないだろうか。

2016/11/10

カクサボシ橋 追記

 本年7月27日ブログで、清田区にあった「カクサボシ」という名前の橋について記しました。
 ↓
http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-735.html

 後日、札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、中央区にある「北海寺」というお寺に寄進した「新田家」の印が「カクサボシ」であるという情報をいただきました。

 北海寺は南3条東4丁目にあります。
北海寺 伽藍
 法華宗の古刹です。

 お寺の境内に、札幌軟石でできた碑があります。
北海寺 南無妙法蓮華経碑
 「南無妙法蓮華経」か。

 この碑の背面に為書きが刻まれています。
北海寺 南無妙法蓮華経碑 背面
 「為 新田家先祖累代… 発願主 函館 新田… 明治四十四年十月」という文字が読み取れます。

 さて、この寺にゆかりのある新田家と清田区にあったカクサボシとが、一体どうつながるのだろうか。
 その前にまず、「カクサボシ新田」についておさらいしておきます。

 明治時代、南2条西1丁目に「カクサボシ新田商店」がありました。
札幌区実業家案内双六 新田商店
 画像は「札幌区実業家案内双六」1903(明治36)年に描かれたものです。

 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年の「第4章 人物編」に、「新田貞治」について記されています(p.285)。以下、引用します。
 文政七年(一八二四)越後国南蒲原郡の酒商に生まれたが、明治二年わずかな資金と古本を携えて函館にきた。小間物業と貸本を開業したが、札幌の有望なことを聞いて移住。南一条西一丁目の旅館秋田屋の一角を借りて呉服や小間物を扱った。商売は順調に伸び、のち同じ秋田屋に店を開いた今井藤七なども、商品を卸して貰って営業したことがあるという。明治十年には秋田屋の宅地及び家屋を二五円で買い受け、店舗を改築して営業を拡大した。当時では札幌一番の大商店だったという。開拓使の用達をつとめ、工業局製造のビールや缶詰、さらに東京青山試験場でつくっていた茶なども販売した。
 そのうちに今井藤七が呉服店を開業したので、同十三年競争を避けて呉服物取り扱いをやめ、荒物雑貨を専業としたが、その後も商売は隆盛を続けている。
 ところが実子の織之助は商売嫌い。借家や貸金の管理に打ち込み、商売を一族のものに一任してしまう。その管理を任された責任者が雑穀の投機に走り、小豆暴落の煽りを受けて大損害を出してしまった。
 そうこうするうちに同三十二年、貞治が七十六歳で没し、それを追うように織之助も三十四年に早逝する。
 このときから家運は頓に衰え、同四十年四月、遺産二五万円をもって負債の一部を整理し、閉店するに至った。
 

 この文献ではカクサボシ新田の所在地は南1条ですが、前掲「双六」の絵図では2条となっています。他の史料でも南1条と書かれているものもありますが、南1条(の南半分)と2条(の北半分)は同じ街区です。新田商店は隆盛時、店舗が連坦していたと思われます。

 とまれ、カクサボシ新田商店は明治時代、札幌の大店でした。 [つづく]

2016/09/09

二里川本流 河道跡②

 一昨日のブログの続きです。

 平岡10条1丁目から南東へ、ナナメの道すなわち二里川の河道跡を遡ると、公園に行き当たります。平岡北公園です。
平岡北公園
 なだらかな起伏があり、樹高の高い木々も生い茂っていて、自然地形を遺した公園と窺えます。
 
 木々が生い茂っているところは、くぼ地になっています。
平岡北公園 くぼ地
 湿地のようです。

 擬木でできた階段が湿地へ通じています。
平岡北公園 湿地への階段
 湿地まで降りていきたかったのですが…。

 残念ながら、手前に「立ち入り禁止」の看板が架かっていました。
平岡北公園 階段 立入禁止
 看板には「階段の下は湿地です。ミズバショウ等保全のため、立ち入りはご遠慮ください。清田区土木センター」と書かれていました。

 『ひらおか 平岡農事実行組合六十周年記念史』1999年の「まぼろしの川、二里川」の項には、次のように記されています(p.225、原文ママ)。
 かつての自然の沢地の風致を残そうと、現在わかば会館前の平岡北公園内に、ミズバショウを後世に伝えるべく設置された公園も、昭和五十六年の大雨洪水によって流され、その夢もかき消えて仕舞いました。
 
 前掲画像で示した看板を見る限り、ミズバショウは復活したようです。夢がかき消えないでよかった。惜しむらくは、その近くまで寄りつけないことですが。
 

2016/09/08

河道跡と防災マップを重ねる

 7月25日ブログ「トンネウシナイ⑥」に、ぶらじょにさんが寄せてくださったコメントに次の一節があります。
 
 今も地震が起きると液状化になるのは清田団地と相場が決まってるような感じになってるのを見て、そういえば池や沼だらけだったと言ってたよなぁ、と納得してました。
 平岡なんかも昔から蛇がたくさんいる沼のイメージですね。
 

 こういう土地の記憶の伝承は大事だなと思います。
 札幌市の「地震防災マップ」豊平区・清田区版2009年から、平岡周辺を抜粋しました。
札幌市地震防災マップ 平岡周辺
 札幌市で想定される地震の最大震度を色分けしたものです。赤が震度7、橙色が震度6強、黄色が震度6弱です。
 
 この図に、先日来話題にしている二里川とその支流の桜川の推定河道を当てはめてみました。濃い青の破線が二里川、薄い青の破線が桜川です。
 清田区はほとんど震度6弱~震度6強なのですが、破線のところが震度7と重なり合っているように見えるのです。

 同じマップに載っている「液状化危険度」図です。
札幌市地震防災マップ 液状化危険度 平岡
 こちらは「液状化発生の可能性が高い」=橙色、「液状化発生の可能性がある」=黄色、「液状化発生の可能性が低い」=水色、「液状化発生の可能性が極めて低い」=紫色の4段階に区分しています。

 スケールが15万分の1のため、かなり粗いのですが、黄色の矢印の先をご覧ください。
 周囲が紫色の中で、縦長(つまり南北)に橙色と黄色に描かれている部分があります。どうも、二里川(本流)の河道跡と重なっているように私には見えてならない。
 
 河道跡が地震や液状化とどこまで因果関係があるのか、素人が速断するのは憚られますが、ひとまずは平岡における相関性ということに留めておきましょう。

 なお「地震防災マップ」は、札幌市の公式サイトでも公開されています。
 ↓
 http://www.city.sapporo.jp/kikikanri/higoro/jisin/jbmap.html

 液状化危険度のほうは以下のサイトで、より詳細・鮮明に見ることができます。
 ↓
 http://www.city.sapporo.jp/shimin/jichi/karute/ekijyoukamap.html

2016/09/07

二里川本流 河道跡①

 二里川の源流については8月30日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-769.htmlに記しました。
 8月31日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-770.htmlで、推定河道を大正5年地形図になぞりました。

 その河道跡を現在図に落としておきます。
現在図 平岡 二里川 旧河道
 図上、濃い青の破線でなぞったのが、それです。薄い青の破線は先日来テーマとしてきた桜川の暗渠、赤い破線はその上流の河道跡です。

 私が実際に現地を歩いたのは、手元にある紙の古地図と文献を頼りにして、現在図の町割りをにらみながら当たりを付けました。しかし、「今昔マップon the web」(9月5日ブログ参照)を見ると、1970年代の地形図に二里川の河道が描かれていて、瞬時に現在図と照合できました。もうこれからは、ローテクな作業をしなくてすみます。実にありがたい。ただし、あまりハイテクなデータに頼ると、自分の想像力が劣化する陥穽もあるような気がします。かといって、ローテクな自力のみで徒手空拳というのも効率が悪い。悩ましいところですが、桜川の上流のように地図上ハッキリ現れていないものには、人知が彷徨う余地がまだまだありそうです。

 閑話休題。
 二里川本流の河道跡です。
平岡9条 二里川 河道跡
 平岡10条1丁目から南東へ、いかにも河道跡感が色濃く漂う遊歩道が伸びています。左右の民家にはコンクリート擁壁が連なっていて、谷間感もあります。

 私が興味深かったのは、この河道跡の空間もさることながら、次のできごとです。
 この道沿いの一軒の民家で、主人とおぼしき初老の男性が庭仕事をしていたので、声をかけました。
 私「もしご存知でしたら教えていただきたいのですが、この道は昔、川が流れていたのではないでしょうか?」
 男性「さあ、わかりませんねえ」
 男性の気配からすると、どうも本当にご存知ないようなのです。お一人との会話だけで判断するのは危険ですが、土地の記憶というのは薄れるものだなあと思いました。

2016/09/05

二里川、桜川④

 二里川支流、桜川の旧河道を推定するに当たり、手がかりとしたのは『ひらおか 平岡農事実行組合六十周年記念史』1999年です。
 同書の存在は、清田区の郷土史家R先生の著述で知り、二里川の旧河道を遡ることができました(末注①)。‘二匹目のどじょう’ではありませんが、同書に次の記述を見つけたのです(pp.225-226)。
 融雪水や雨水が淀む場所には、以前林や森がありました。現在のキング工業正門前にあった森には、夏でも溜まった水が涸れる事なく淀んでいたし、朝鮮学校グランド、高田別院付近、更に清田区土木センター、平岡樹芸センター辺り一帯から、押しよせる雨水で何時も耕地は水浸しの状態でした。
 現在の地番で見ると、この広大な湿地帯は、平岡三、四条一丁目二丁目と、六条、七条一丁目辺りになり、ここから排出される水は、今のシュヴービング(原文ママ)の森の真ん中を横切り真駒内御料線を横断して、北野のラッキー店裏へ流れて行ったのです。


 私には、ここで記されている「広大な湿地帯」が桜川ではないかと推測しました。根拠は、前述の引用が「北野のラッキー店裏へ流れて行った」と締めくくられていることです。「北野のラッキー店裏」というのは、昨日ブログで紹介した「北野緑地」になります。桜川の暗渠(一部明渠)が流れているところです。

 現在図で確かめておきます。
現在図 平岡 桜川 推定河道
 元図は清田区役所発行「清田区ガイド」から抜粋しました。

 図上で上方(方位的には北)の青い実線でなぞったのが、二里川です。南(図上では下方)へ破線でなぞったのが暗渠部分、すなわち桜川です。緑色の線で囲ったところが北野緑地、すなわち「北野のラッキー店の裏」です。
 ここから、前掲書に書かれている町名や固有名詞を手がかりに、河道とおぼしきところを赤色の破線でなぞりました。桜川の現在の暗渠から南へ、自然な感じで描けました。

 さて、ここで古地図を見てみます。
大正5年地形図 桜川 河道推定
 大正5年地形図から抜粋しました。

 濃い青でなぞったのが三里川、薄い青が二里川、破線はその上流の推定です(末注②)。 
 二里川の実線でなぞったところから下方(方位的には南)へ、等高線上で谷筋とおもわれるところを赤い○で囲んでみました。現在の地図に照らすと、真ん中の○が北野緑地から平岡8条、一番下の○が平岡6条、7条あたりです(末注③)。
 推定旧河道は、古地図の等高線上でもほぼ裏付けられるかなと思いますが、どうでしょう。

 注①:2016.8.30ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-769.html参照
 注②2016.8.31ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-770.html参照
 注③ 拙ブログにコメントをくださったsugiyamaさんからご紹介いただいた時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」がとても役立ちました。ありがとうございます。

2016/09/04

二里川、桜川③

 二里川の支流、桜川を遡ります。
桜川 北野緑地 明渠
 北野緑地の南半分のエリアで、桜川は明渠になっていました。画像は、下流から上流を眺めたものです。

 川の左岸(画像上、右方)は法(のり)面に擁壁が組まれています。かなり高い。人の背丈以上、あります。桜川も深い谷を削っていたことが感じられます。
 桜川の痕跡は、目に見える限りではこのあたりまでです。が、文献と古地図を頼りに、さらに上流を推測しました。それはまた、次回。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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