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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/19

南郷通のファミレス跡に遺る伝説 続報

 昨年12月5日ブログで「南郷通りのファミレス跡に遺る伝説」を記しました。厚別区厚別南の元ファミリーレストランの地下駐車場に幽霊が出るという伝説です。地元の小学校で語り継がれてきました。その場所にかつてあった池に子供がはまって亡くなったことが“根拠”となったようです。子どもが池にはまったことが史実なのかどうか、このたび判りました。

 北海道新聞1969(昭和44)年10月19日記事です。
道新19691019 ひばりが丘団地貯水池水死事故記事
 「団地の貯水池で水死 フナ釣り 仲良し坊や二人 ひばりが丘」という見出しで報じています。「厚別区民歴史文化の会」でご愛顧いただいているO先生から、コピーをいただきました。以下、全文を引用します(太字、文中個人名は実名を伏せ、イニシャル表記とした)。

 (リード)
 十八日午前十一時ごろ、札幌市厚別町旭町九九○、ひばりが丘団地付近の水田貯水池(幅約三十メートル、長さ約百五十メートル深さ約二、三メートル)で、フナ釣りをしていた同町四九二、会社員Yさんの長男、Kちゃん(五つ)は、誤って池にすべり落ちた。一緒にいた同住所、会社員Kさんの二男、Tちゃん(六つ)が服をぬぎ、飛び込んで助けようとしたが、おぼれて行方不明となり、Tちゃんと双生児のHちゃん(六つ)が約二百メートル離れた自宅にかけつけ、母親のSさん(三七)に知らせた。札幌市消防本部、道警パトカー札幌東署などの約三十人がゴムボートなどで捜索した結果、Kちゃんは約三十分後、またTちゃんは同日午後一時ごろ、いずれも現場付近で水死体となってみつかった。

 (本文)
 KちゃんとTちゃん兄弟は近所同士で、午前九時ごろ、釣りザオを持ったKちゃんといっしょに池に行った。Hちゃんは兄が飛び込んでおぼれるのを見て、すぐそばにある人家に助けを求めずに、道路を隔てた団地の自宅に走り込んだもので、うわごとのように『お兄ちゃんがいなくなった』と繰り返していた。
 (小見出し)
 バラ線切れたまま ずさん過ぎた安全管理 
 (本文)
 同団地はもともと水田地帯で、この池は厚別貯水池利用組合(S組合長、加盟農家二十三戸)が管理する水田用の貯水池。現在同団地の中にある中央公園も同組合の貯水池を埋めたてたもので、埋めたて前の四十一年には水遊びしていた幼児一人が水死している。
 この事故をきっかけに、同団地自治会を中心に危険防止の機運が高まり、同組合は市に池の周囲に金網をはりめぐらすよう依頼したが、予算の関係で西側の岸だけバラ線を張った。ところが、雪の重みなどで切れ、この日、犠牲になった子供たちが近づいたとみられる付近は、昨年夏から修理されていなかった。
 同組合は団地自治会や付近住民に、子供たちを近づかせないよう申し入れていたが、防止策としては立て札を置く程度で、管理が安易すぎる―と付近の人たちは話している。
 郊外の水田地帯の団地造成は、特にこうした貯水池や用水路が多いだけに、団地の安全環境づくりの点で、こんどの事故は問題点を投げかけたといえる。


 ちょうど50年前の出来事だったのですね。記事により、その3年前にも団地内の別の池で事故があったことも、知りました。50年前というと、私自身も子どもの時分です。愛知県尾張地方の田舎に育った私には、田圃や用水路は見慣れた風景でした。人工的水路のみならず、中小自然河川も網流する木曽川の堆積平野です(2015.6.7ブログ参照)。私の記憶では、川や水路に落下防止用の手だてはほとんどなかったと回想します。ひばりが丘団地での水の事故に私が感慨したのは、かような自分の原体験に由るのでしょう。昨年12月5日ブログには、「池に子どもがはまったことの歴史的な意味を牽強付会するならば、札幌の近郊農村が都市化・市街化する過程の象徴的事件といえるかもしれません」と添えました。記事を読んで、事故に遭ったのが団地に住む会社員の子どもだったことをあらためて深読みしてしまいます。

 「あらためて」の感慨をもう一ついえば、同日ブログで結んだ「地域局所的な史実は、口承伝説、しかも子どもという非正史的な世界に遺る」ことです。学校の怪談、あだやおろそかにできません。これを採集することで札幌の近代史が読み解けるやもしれない。
 さらに三たび「あらためて」を加えます。O先生への御礼です。先生は札幌の小学校の校歌、校章を調べ上げてまとめておられます。まだ電網社会が進展する前のことです。私が昨年、「校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔」(2018.11.30ブログほか参照)を調べたきっかけも、O先生のご教示によります。「今はインターネットで校歌も校章も簡単にわかりますが、前は大変だったでしょうね」と申し上げたら、「ほんとに大変でした」としみじみおっしゃってました。先生は昨年、「札幌の幼稚園、小・中学校の名称に見る特徴と地域性」「神社と公園の名称に見る地域の歴史と地名のかかわり」も執筆されました(末注)。伝え聞くところ、学校での事故についてもお調べになっているそうです。いただいた新聞記事のコピーはその渉猟の一つかもしれません。砂浜でダイヤモンドを探すような作業に想えます。先生のおかげで、“雲をつかむ”に近かった伝聞情報の裏付けを私は苦労せず得られました。

 注:『札幌の地名がわかる本』2018年、pp.322-346
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2019/08/02

厚別音頭にも唄われる北海道百年記念塔

 「厚別区民まつり」を見物してきました。
第30回厚別区民まつり ふれあい広場あつべつ
 厚別区ができた1989(平成元)年の翌年に第1回が開催されて以来、今年で30回を数えます。

 私は感慨を覚えて「厚別音頭踊り」会場を画像に収めました。
第30回厚別区民まつり 厚別音頭踊り
 「厚別音頭」の歌詞がこの先どうなるか、気になったからです。

 二番を以下、引用します(太字、末注①)。
 ハアー
 空の青さに 影高く(アッソレ)
 雲がたなびく 記念塔(コリャ)
 ここはわが街 良いところ(ハッハッハッハッ)
 みんな仲良く 輪になって(ハイハイハイ)
 厚別音頭で踊ろうよ(ソレ)
 トトンとトンと 虹もでる


 「雲がたなびく 記念塔」、いつまで見れるのでしょうね。
北海道百年記念塔 190731
 つい一昨日、近くまで行ったときには特に変わった気配はありませんでしたが。
 北海道のウエブサイトを見る限り、解体等の日程は具体的にはまだ上がっていないようです(末注②)。漏れ伝わるところ、解体費用が試算(末注③)よりも実際には嵩みそうだとも。道庁内部で、営繕部局との疎通が十全ではなかったらしい。いや、これは仄聞ですから読み流してください。「百年記念塔に替わる新たなモニュメント」を設置する(末注④)というのもまた、大変だろうなと慮ります。個人的には、「何もつくらない」という選択肢も俎上に上げてほしいものです。クマさんも界隈を逍遥されているようだし。

 関係ありませんが、前掲の「厚別音頭踊り」、前半は区内の町内会女性部の方々が踊ります(後半は飛び入り可)。冒頭画像で男性が写っているのは、区役所の幹部職員です。区長、部長が加わっています。厚別音頭を踊れないと厚別区の幹部は務まりません。

 注①:札幌市厚別区役所サイト「厚別音頭」ページで、曲を聴き振付も見ることができる。
 注②:北海道サイト「ほっかいどう歴史・文化・自然「体感」交流空間構想のページ」は、本年1月21日以来更新されていない(8月2日閲覧)。
 注③昨年12月に策定された「ほっかいどう歴史・文化・自然『体感』交流空間構想」資料編2、p.41によると、2017年10月試算で「解体する場合」は約4.1億円。
 注④:同上、本文1、pp.9-10

2019/07/17

旧千歳線が上野幌の辺で湾曲していたのはなぜか? ③

 昨日ブログの続きです。
 「北海道鉄道」の上野幌周辺での鉄路の弯曲は、「迂回」といってもいいような気がしてきました。もう一度戦前期の地形図を眺めます。

 1/25,000「月寒」1935(昭和10)年発行です。
地形図1/25,000「月寒」昭和10年発行 北海道鉄道
 昨日及び一昨日載せた1930(昭和5)年発行地形図の5年後であり、情報が補正されています。
 昨日同様、北海道鉄道の鉄路を赤い線、直線化した場合のシミュレーション(仮想鉄路)を黄色の線でなぞりました。

 青いで囲ったところを拡大します。
地形図1/25,000「月寒」昭和10年発行 上野幌 宇納牧場
 鉄路を直線化すると赤い矢印で示した「陸軍地」を横切ることは昨日記したとおりですが(末注①)、このたび注目したいのは橙色ので囲ったところです。家屋の■が描かれています。北側の「野津幌」と書かれた上は「宇納牧場」(2016.7.9ブログ参照)、南側の黄色の仮想直線鉄路をかすめるところは「宇都宮牧場」の位置です。

 宇都宮仙太郎が上野幌に土地を求めたのは1924(大正13)年といいます(末注②)。その後、娘婿の出納陽一が前述の北側の橙色のところに牧場を開きました(宇納牧場)。さらに、長男の宇都宮勤が南側のに牧場を設けたのが1927(昭和2)年です(宇都宮牧場)。北海道鉄道が通じたのは先述したとおり1926(大正15)年。時系列的には、宇都宮さんが土地を入手した後です(末注③)。

 ところで、宇都宮さんは上野幌に牧場を開く前、上白石で酪農を営んでいました。現在の白石区菊水です。冒頭1935年地形図でいうと、緑色ので囲ったあたりになります。拡大してみます。
地形図1/25,000「月寒」昭和10年発行 上白石 宇都宮牧場
 宇都宮さんの元の牧場は、青く塗ったところです(末注④)。
 なぜここから上野幌に移転したか。「大正7年、宇都宮牧場内に定山渓鉄道が敷設され、牧場が分断された」ためです(末注⑤)。上掲図を見ると、赤い線でなぞった北海道鉄道の逆S字カーブも一部、敷地にかかっています。上白石(菊水)で鉄道敷設にいわば協力して土地を売却したにもかかわらず、せっかく移転した先の上野幌でまた鉄道が横切ったとしたら、宇都宮さんの心境は如何でしょう。北海道鉄道が上野幌のあたりで鉄路を直線化せずに“迂回”したのは、もしかしたら宇都宮さんに配慮したことも一因ではなかろうか。毎度のことながら妄想なのですが。

 注①:「陸軍地」は1916(大正5)年発行地形図ですでに書かれており、北海道鉄道敷設前からあった。念のため。
 注②:『白石歴しるべ』1999年、p.47
 注③:同上書p.60によると、鉄道敷設が許可されたのは1922(大正11)年である。
 注④:同上書p.47
 注⑤:同上

2019/07/16

旧千歳線が上野幌の辺で湾曲していたのはなぜか? ②

 昨日ブログの続きです。
 1926(大正15)年に通じた「北海道鉄道」(のちの国鉄千歳線、旧軌道)は、上野幌付近で弯曲していました。「なぜか?」を探る手がかりとして、「もし、直線化されていたらどうなっていたか?」を古地図上で想像します。
 
 昨日掲載の1/25,000地形図「月寒」1930(昭和5)年発行で、シミュレートしてみました。
地形図1/25,000「月寒」昭和5年発行 北海道鉄道 弯曲
 「つきさっぷ」から厚別川(水色でなぞった川)まで直線的に敷かれてきた鉄路(赤い線)を、まっすぐ延ばします。黄色の直線です。

 赤い矢印を付けた先のあたりを拡大してみます。
地形図1/25,000「月寒」昭和5年発行 陸軍地
 「陸軍地」と書かれています。陸軍の演習場があったようです。
 ここに鉄路を敷くと、軍用地を横切ることになった可能性があります。もしかしたらこれが鉄路を弯曲させた一因かもしれません。が、結論は留保し、もう少し逍遥してみたい。

2019/07/15

旧千歳線が上野幌の辺で湾曲していたのはなぜか?

 私も一員として加わっている「厚別区民歴史文化の会」では、一昨年から「厚別歴史散歩」を催行しています。昨年の様子は「あつべつ区民協議会 ニュースレター」2019春号をご覧ください。
 今年も9月下旬を予定し、上野幌を歩きます。テーマは「境目が栄えたわけ? 消えた地名“立花”の秘密~」です。自分で文案を作っておいて言うのも何ですが、ちょっと扇情的な表現になってしまいました。羊頭狗肉にならぬよう努めます。私はともかく、土地の生き字引のお歴々の話を、歩きながら聴きたいものです。「雪印バター誕生の記念館」も、内覧させていただく機会がなかなかないので楽しみです。と、主催者自ら悦に入ってしまうのも、いいのか悪いのか。詳細はおって厚別区役所サイト「あつべつ区民協議会」ページで案内されると思います。

 下調べのために地域を歩いたり文献を漁ったりしている中で、古い地形図が目に留まりました。 
地形図1/25,000「月寒」昭和5年発行 北海道鉄道
 1/25,000「月寒」1930(昭和5)年発行です。

 1926(大正15)年に通じた「北海道鉄道」(のちの国鉄千歳線、旧軌道)が描かれています。赤線でなぞってみました。苗穂から逆S字状に転回して「つきさっぷ」「おおやち」と直進し、厚別川を渡ったところでぐいと北東へ湾曲します。水色の線でなぞったのが厚別川です。湾曲線上に「かみのっぽろ」を配し、このたび探訪する「立花」のあたりで南東へまた曲がります。黄色の○で囲ったところです。白石村と広島村を分かつ野津幌川を越えて南下します。濃い青が野津幌川です。

 気になったのは、厚別川と野津幌川の間で北海道鉄道が湾曲していることです。これ、ナンデでしょうかねえ。つきさっぷ、おおやちと直線的に敷かれているのだから、厚別川の先もまっすぐ延ばしてもよかろうものを、まるで何かを避けるかのように、あるいは何かに惹きつけられるかのように、湾曲している。これだったら、国鉄函館本線の「しろいし」から南東へ直線的に敷いてもよかったのではないかと思えるくらいです(「しろいし」駅は橙色の○で囲ったところ)。そうせずに「なえぼ」からこれまた不自然なくらい短い屈曲半径で逆S字状にしてまで鉄路を設けたのは、「つきさっぷ」駅の南側にあった陸軍歩兵25連隊の立地ゆえだとは思います。せっかくそこまでして通したのに、なぜ厚別川で曲げたのか。

 という話を先日、上野幌を下見して歩いたときに諸先達に尋ねましたところ、「それは、………だからだよ」と聞きました。要は上野幌駅の用地を寄付してくれた人がいたから、ということです。駅設置に伴う用地寄付のことは『拓魂 上野幌百年のあゆみ』1985年にも書かれています(pp.165-166)。しかし、私は今一つ解せません。駅用地「だけのこと」で、鉄路そのものをここまで大きく弯曲させたのだろうか。

2019/05/18

“オマージュ田上さん”な住宅

“なんちゃって田上さん”な住宅 厚別区
 ツーバイフォー工法を得意とするハウスメーカーM社の設計施工でしょうか。

 そのM社が1998(平成10)年に建てた住宅、もとい住宅を再現した建物です。
旧小熊宅 再現 2018年撮影
 五角形窓、ブロークンペディメントの軒廻り、1階腰壁の横羽目板、それぞれの色合いなど、前掲の住宅は本件が意識されているように窺えます。

 そのオリジナルは1927(昭和2)年に建てられました。
旧小熊宅 1998年撮影
 田上さんの設計です(2018.5.2ブログ参照)。

 その源流はやはり、このあたりにあるような気配です。
ムーア宅 米国イリノイ州オークパーク 1997年撮影 別アングル
 米国イリノイ州オークパーク、ムーア宅1895年、1923年、ライト設計(1997年撮影、5月10日ブログ参照)。

 五角形窓のモチーフは、こちらでしょうか。
米国オークパーク ゴルベック宅1915年、ト-ルマッジ&ワトソン(1997年撮影) 
 同、ゴルペック宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン設計(1997年撮影)。

米国オークパーク マシュー宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン(1996年撮影)
 同、マシュー宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン設計(1996年撮影)。

 これらに照らして田上さんを鑑みると、深い軒に突き出した柱型やナナメに割った窓桟など、独自な強調というか深化が感じられます。一方、冒頭画像に戻ると、田上さんの“過激さ”が薄められたかの印象です。いや、それは私が勝手にオマージュを嗅ぎとったがゆえの偏見的解釈にすぎないのですが。

2019/05/06

ひばりが丘の過去、近過去、現在 ②

 昨日ブログに続き、新さっぽろ~ひばりが丘の近過去です。

 市営住宅ひばりが丘団地の東地区を1989(平成元)年に撮りました。
ひばりが丘団地 東地区 ひばりが丘通 1989年撮影
 ブロック造の2階建てが並んでいます。1960年代前半(昭和30年代後半)に建てられました。コンクリートブロックの建材+集合住宅は、積雪寒冷の気候風土に適った生活様式のいわば切り札として登場したと思います(末注①)。2DK~3DKの間取りは、庶民にとって憧憬であったことでしょう。これは私自身の個人的原体験(末注②)とともに、三十数年前、同じ厚別区の市営住宅もみじ台団地に住む4人家族(夫婦+幼い子二人)の若奥さんからお聞きした話からの一般化です。“夢の団地生活”でした。現在の分譲マンションの3LDKや4LDKは“夢のまた夢”だった。

 同じ場所の現在の風景です。
ひばりが丘団地 東地区 なんちゃってサイロ 2017年撮影
 2017(平成29)年に撮りました。東集会所が建ち、“なんちゃってサイロ”が添えられています。こちらは1992(平成4)年頃建てられました(末注③)。
 私も一員である「厚別区民歴史文化の会」は厚別の歴史に関してかなりマニア度の高い集まりです。それでも、メンバーの方から「東集会所のほうのサイロは、古くないですよねえ」と訊かれたことがありした。記憶は薄れつつあるものです。あと10年もしたら(いや、もうすでに今も)こちらもホンモノだったと想われるかもしれません。
 
 それはそれとして、フィニアル(尖頂飾り)は風見鶏のようですね。
ひばりが丘団地 東集会所 なんちゃってサイロ 風見鶏
 “ひばり” が丘だけど、鶏か。

 ちなみに、西集会所のホンモノサイロのほうは…
ひばりが丘団地 西集会所 旧馬場牧場サイロ 風見馬
 風見馬です。
 元の持ち主の苗字、馬場さんに因んだか。念のため申し添えると、もともと付いていたものではありません。かつてのサイロのてっぺんは尖針のみでした。2014.11.7ブログに掲載した1977(昭和52)年当時の写真をご参照ください。昨日ブログ牧場現役時の古写真を見ても、装飾はないようです。

 風見馬は1987(昭和62)年、修復工事をしたときに取り付けられました。当時の新聞記事が次のように報じています(北海道新聞1987年1月6日「さっぽろ市内板」ページ記事「トンガリ屋根も美しく 『風見馬』クルクル」、太字)。
 札幌軟石を積み上げたサイロ本体はしっかりしていたが、屋根の牧草取り出し口の扉などの傷みが激しく、市建築局で昨年10月から五百万円をかけて修理していた。
 雪が滑りやすいように屋根を途中で折って角度を付けてあるのが当時のサイロの特徴。特殊な技術が必要なため、宮大工が屋根裏の小屋組みの木材を取り換えた上で、45㎝四方の鉄板を昔ながらに張り合わせた。風見馬は高さ1.7mのアルミ製。
(中略)
 内部が直径7mと狭く、構造補強の工事をしていないため公開はしていないが、「ウチの団地の自慢を一度見に来ませんか」と住民は鼻高々だ。

 風見馬の高さ1.7mとは、下から眺めて感じるよりも高いですね。人の背丈もあるとは。「鼻高々」だったかはともかく、原風景を現風景に遺し伝えるためにご苦労がありました。記録に留めておきたい。

 注①:北の生活文庫企画編集会議編『北の生活文庫5 北海道の衣食と住まい』1997年、pp.201-202、足達富士夫『北の住まいと町並み』1990年、pp.122-129
 注②2017.11.21ブログ「製紙工場の近未来的郷愁 苫小牧で時空逍遥 ③」参照
注③:札幌市建築局資料「ひばりが丘団地建替事業 新住宅建設計画図」によると、当該東集会所の建設年度は1992年となっていることに基づく。ただしこれは「計画図」いわば未来形である。実績ではない。実は私自身、正確な建築年がさだかでない。

2019/05/05

ひばりが丘の過去、近過去、現在

 新さっぽろのカラオケ店での「写真でたどる新さっぽろ歴史散歩」は、楽しいひとときでした。
 と、メインスピーカーの私が言うのは手前味噌ですが、カラオケの大部屋でこういう催しもいいなあと感じました。頃合いのいい人数と空間です。写真などをモニター画面で映しながら語る私の話に、参加者が入れてくださる“合いの手”が絶妙でした。「その話題、次に用意してました!」と、我が意を得たことがたびたびあったのです。こういう催しで毎度体験することながら、参加者から教えていただくことが必ずあり、今回も私自身が“ため”になりました。双方向の送受信で、新たな視野も拡がるのですね。おいでいただいた方、主催した「カラオケピロス」店長のKさん、仲間の皆さんに感謝します。

 私は今回、“新さっぽろの近過去”をテーマにしました。厚別区が分区されて30年という節目でもあり、私もまた新さっぽろ周辺に住んで30年近くたとうとしています。公私ともども、ちょうどこの30年を歴史的に振り返る時期です。
 
 準備のために資料をひっくり返して、こんな写真を“再発見”しました。
旧馬場牧場サイロ 1989年サイロ
 1989(平成元)年4月30日に撮ったものです。まさに30年前。

 ほぼ同じ場所を、2014(平成26)年11月にも撮っています。
旧馬場牧場サイロ 2014年撮影 厚別西通りから
 撮ったときの経緯は同年11月6日ブログに記しました。 

 そのときは、こちらの古写真との比較だけにとどまっていたのですが…
馬場牧場 古写真
 昭和戦前期、あるいは遅くとも昭和20年代撮影と想われます。
 
 このたび冒頭掲載の近過去写真を見て、文字どおり視野(というか視界)が新たに拡がりました。サイロの後景が広い。のみならず前景も、パースペクテイブです。大規模市営住宅団地「ひばりが丘」の、しかも昭和60年代の建替え以降にもかかわらず、“空気”が牧場の現役当時に近い。街路樹の生長は市街地の成熟として肯定的に評価すべきしょうが、それは措きます。
 冒頭1989年写真は、2枚目の2014年写真との間は25年、3枚目のモノクロとの間は40~50年あるいはそれ以上の隔たりです。年数だけでなく風景の同一性は本来、1989年と2014年でくくられるべきでしょう。再び「にもかかわらず」、私は1989年の市住の風景に牧場当時との近似性を感じてしまいました。

 1989年と2014年の25年間の近過去にも、変化がある。その当然のことに気づきました。この3枚、こんどの厚別歴史写真展で一緒に並べたらどうかな。

2019/04/16

「戸惑う学校」の記事に戸惑う私

 本日もまた、お知らせから。
 札幌の月刊誌『O.tone』の今月号(Vol.126)が発行されました。
O.tone126号 表紙O.tone126号 特集中扉
 「ディープな札幌街歩き」が特集されています。

 その中の「街路のずれ」というページで札幌の街を紹介しました。私が関わったその部分はともかく、ほかに「碑・像」「自然」「建物」など興味深いあれこれが載っています。どうぞご覧ください。定価680円、市内の書店、コンビニなどで発売中です。

 例によってその“余話”もお伝えしたいのですが…。先に本日の北海道新聞朝刊札幌圏版の記事のことから。
道新2019.4.16札幌圏版記事 「百年記念塔解体 戸惑う学校」
 「百年記念塔解体 戸惑う学校」です(電子版にも本日付で一部掲載)。

 北海道百年記念塔の解体に伴い、校歌や校章に採り入れられている学校の反応が報じられています。校歌や校章を残すか変えるか「教育関係者も二分」という見出しです。本文で私のコメントも以下のとおり記されています(太字)。
 アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたことを受け入れ、教訓にするためにも残すことに意味がある」と別の観点から「変えるべきではない」と考える。

 二点ほど補足させてください。
 第一。「アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたことを受け入れ」の「受け入れ」は、私の真意としては「受け止め」です。「受け入れ」というと、「アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたこと」自体を是認・肯定するかのごとく解されるおそれがあります。
 第二。「変えるべきではない」は、私には校歌・校章を「何が何でも残すべきだ」のような語感がします。私自身の心情・信条では「残した方がいい」のほうが近い。「変えるべきだ」を10、「残すべきだ」を0とすると、私の数値は3くらいです。
 
 次は記事に対する感想です。
 前述の「教育関係者も二分」という見出しについて。
 私は昨年、記念塔が校歌・校章に用いられている学校(の校長または教頭先生)にお尋ねしました。「記念塔の行方に関わり、校歌・校章について校内で話題になっているか?」です(2018.11.30ブログ参照)。まだ解体が“正式決定”される前だったということもあるかもしれませんが、おおかたは「記念塔のことが報じられているのは承知しているが、そのことで校歌・校章を話題にしていることはない」とのお答えでした。
 応対してくださった先生方の個人的ご意見としては「解体されたからといって、校歌・校章を変えるべきだとは思わない」がほとんどだったと記憶しています。そのことはこの記事の取材を受けたときに記者の方にもお伝えしたのですが、見出しでは前述のとおりとなりました。おそらくその後の独自取材の結果が反映しているのでしょう。あるいは、この見出しが訴求力があると整理部が判断されたのかもしれません。ただ、自分がそうだから言う訳ではありませんが、「二分」といっても教育関係者の心情・信条は前述の0か10かではなく、さまざまな連続帯ではないかと私は察します。文字どおり二分法的にラべリングするのは、少しく疑問を抱きました。
 まあ、仮に「二分」されても、いいとも思います。いうまでもなく、それぞれの学校で熟議して決めればよいことです。同じ方向性を定めるべきテーマでもありません。

2019/02/23

なゐ その後

 母は、地震の直後には「生まれてこのかた、こんなに揺れたことないわ~」とおびえていました。しかし老人力が弥増したおかげで、翌日にはけろっとしています。朝刊の見出しに「こんな大きな地震があったのぉ?」と驚いた様子です。怖い体験を忘れられるのは羨ましくもあります。とはいえ、私が抱きしめてあげたことも記憶に残っていないようなので、ちょっと悲しいのですが。もっとも、表面的な記憶からは消されても、心の奥底に刻まれているのかもしれません。なので、抱きしめてあげたことも、カラダが覚えていると信じたい。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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