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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2021/04/02

下野幌第1排水の樋門

 2月27日ブログに載せた下野幌第1排水(厚別区青葉町)を再訪しました。暗渠排水ですが、野津幌川の支流の名残ともいえます。2月に訪ねたときは雪に埋もれていたので、このたび雪融け後を確かめに行きました。

・「弯曲して行き止まりの道」
青葉町11丁目 下野幌第1排水 ③

青葉町11丁目 下野幌第1排水 ③ 弯曲の道のわきのくぼみ
 右方の未舗装の道です。道といっても公道ではなく、奥の駐車場への通路のようですが、河川網図によるとおおむねこの下を暗渠が通じています。
 前掲2月下旬のときの画像では、その通路の脇に雪山ができていました。まわりの雪をここにかき寄せたようです。そのせいか今も雪が残っていますが、少しくぼんでいます。もともと左方の舗装道路に沿って、その左側に改修前の野津幌川が流れていました(2月18日ブログ参照)。古い空中写真を見ると、この道路の右側に用水路も通じていたようです。このくぼみはその名残と窺えます。用水路もまた、もとをただせば支流の水を集めたものです。

・「中途半端な空地」
青葉町11丁目 下野幌第1排水 ④

青葉町11丁目 下野幌第1排水 ④ 雪解け後
 雪が融けると、ますますもって「いかにも」と想わせる空間です。何の標識も立ってないところがまた、いいですね。

 雪がすっかり融けているので、野津幌川への合流地点まで歩いて行けます。
青葉町11丁目 下野幌第1排水 野津幌川合流地点
 樋門にも近づけそうです。

 樋門の名前を確かめるべく、野津幌川の高水敷を降りました。
下野幌第1排水 樋門
 「下野幌第1排水樋門」と名づけられていることを予想してのことです。

 名前は、私の予想をいい意味で裏切ってくれました。
渕野配水樋函
 「渕野排水樋函」です(「函」は旧字体)。

 こんなところにも「渕野」さんの名前が遺っている(3月23日ブログ参照)。しかも、樋門ではなく、「樋函」。私のパソコンで「ひかん」とキーボードを打つと、「樋管」と出ます。しかし本件は「樋函」です。だいたい、本件の形状は逆流(背水)とか内水氾濫を防ぐための「門」と思えるのですが、川の堤防をくぐっているということでは「管」といえます。しかし本件は「函」です。河川管理の世界も奥が深い。
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2021/03/23

市道下野幌線の坂

 市道下野幌線に架かるJRの架道橋の名前について、昨日ブログ末尾に載せた地元町内会の会報記事を読んで手がかりを得ました。

 本件架道橋の所在地を現在図(色別標高図)で示します。
色別標高図 市道下野幌線 JR千歳線の架道橋
 を付けた先です(標高は15m未満から3mごと30m以上まで7色段彩)。

 手がかりになった記事の箇所を以下、引用します(引用太字、末注①)。
 今も名残ある青葉町十一丁目から南郷通に出る手前を左に折れてJRガード下をくぐり、青葉町4丁目に登る急な坂道(通称渕野さんの坂)が街に出る下野幌住民の主要道路でした。

 この記述をアタマに入れて昨日もう一度現地に足を運び、本件橋名板を鑑みてきました。
下野幌線 JR架道橋 東側 再掲
 撮影の位置と向きは前掲図の矢印と一致します。手前側の画像を撮っている地点が青葉町11丁目、架道橋の奥が青葉町4丁目です。手前の坂下と奥の坂上では、15mほどの高低差があります。
 市道下野幌線は、野津幌川が削った谷の崖面を切り通して造られたようです。標高図に照らすと、JR千歳線の土手はほぼ自然地形とみられます。1972(昭和47)年に鉄路を敷設(末注③)したとき多少は盛り土したかもしれませんが、道をさらに切り土して立体交差させたのでしょう。

 橋名板は、ズームアップしつつアングルを変えて撮った2点を載せます。
下野幌線 JR架道橋 橋名板 再掲-1

下野幌線 JR架道橋 橋名板 再掲-2 
 架道橋名の固有名詞は黄色の傍線を引いた箇所の3文字です。現地では双眼鏡でも視認しました。

 「渕野坂」。地元町内会役員のOさん(末注②)から、「このあたりはもともと地主の渕野さんの土地だった」とお聞きしてはいました。町内会報の記事で坂道の通称名を読んで、合点がいったものです。さらに、町内会報と古びた橋名板が結びついた偶然に感謝します。呼び慣わしを相互に裏づけることができました。
 2月22日ブログでも記したとおり私は厚別区に住んで30年余になりますが、この坂道をはっきりと知ったのは今年になってからです。そこから、渕野坂という呼び慣わしを知り、公的な施設の名前に使われた(今も)ことまで一足飛びに至りました。あたかも漉いた紙に墨が浸み渡るがごとく、知識は吸収されるものです。本件坂道の現地をうろうろしていたとき、たまたま坂の上のお宅から住人の方が出てこられたので、訊いてみました。「この坂道は、名前が付いていますか?」に対し、「付いてない」と。薄れつつあるようです。
 管理者が定められている道路や河川と違って、坂道の名前は一般的には通称(呼び慣わし)の域にとどまるでしょう。もっとも、行政地名に転化した坂道名は、東京などでみられます。しかし札幌ではどうでしょうか。関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年の巻末索引と付録「地図に見る札幌の地名一覧」を大急ぎで斜め読みしましたが、ただちには見つけられません(末注④)。こういうところにも札幌の地勢や土地の成り立ちが窺えるかもしれません。
 行政地名に至らずとも、札幌市内でバス停名などになっている「○○坂」はあるでしょうか。ただちには思い当たりません。呼び慣わしの域なら南区や豊平区にありますが(末注⑤)、厚別区内ではどうか。ほとんど聞いたことがありません(末注⑥)。かように想いを馳せると、鉄道という公共施設の名前で認知・オーソライズされている本件渕野坂に稀少感が弥増してきました。鉄道は、踏切名でも人名を冠したものが札幌市内にあります(末注⑦)。拙ブログでたびたび言及するとおり、名残物件は踏切をはじめ、歩道橋、バス停、電柱銘との親和性が高いのですが、ともすれば消失の可能性が高い媒体です。JR北海道も苦境にあります。千歳線が廃止されることは想像できないとはいえ、坂道だけに本件渕野坂架道橋のイヤサカ(弥栄)を願ってやみません。

 注①:「青葉の歴史と下野幌会館の歩み(その四)」『下野幌町内会だより』第5号2007年1月10日、p.4
 注②:2月17日ブログに関連事項記述
 注③:新千歳線の開通は1973(昭和48)年だが、本件橋名板によると架道橋は1972年12月に竣功した。
 注④:現在の南区澄川に「清水川坂ノ上」という旧地名があったらしい(同書p.132)。地名に坂が付く唯一?か。アイヌ語地名の由来までは当たってないが、川や沢に拠ることが多い特性からして考えづらい。
 注⑤:豊平区西岡の「油沢の坂」(とよひら“ふるさと再発見”マップ1991年)、南区簾舞の「銀座の坂」(簾舞こみちMAP2017年)
 注⑥:厚別区民歴史文化の会の会合で「半兵衛坂」というのを聞いたことがあるが、追跡していない(2016.3.29ブログ参照)。
 注⑦:西区発寒のJR函館本線に「小屋敷踏切」(2017.3.12ブログ参照)。

2021/03/22

市道下野幌線に架かるJRの架道橋

 昨日ブログ末尾で、「新さっぽろに残る下野幌」について「気になる関連物件がまだある」と結びました。
 
 気になっていたのは、地下鉄新さっぽろ駅コンコースの出口標識です。
地下鉄新さっぽろ駅コンコース 4番出口標識
 2年前(2019年)の5月に見かけました。

 赤い矢印を付けた先に「市営下野幌H団地」とあります。
新さっぽろ駅コンコース 4番出口標識「下野幌H団地」
 この画像を撮ったときには、H団地はすでに「新さっぽろ団地」になっていました。これを見て「おぉ、下野幌の名残がここに」と感じ入ったものです。今日もう一度確かめたら、まだ“健在”でした。

 この出口の地上にある案内地図です。
地下鉄新さっぽろ駅4番出口地上 案内地図
 この地図上にも、「下野幌H団地」のほか「G団地」「Ⅰ団地」が残っています。跡地の再開発とともに、ゆくゆく更新されていくことでしょう。

 本日取り上げたかった本題は、実は別にあります。
市道下野幌線 JR架道橋 西側
 2月22日ブログでお伝えした青葉町の坂道です。ここにもJR千歳線の架道橋が架かっています(画像は本年2月に撮影)。  

 この架道橋にも、やはり橋名板が貼られています。
下野幌線 JR架道橋 東側
 東側橋桁の赤い矢印を付けた先です。

 その橋名板も先月、撮ってました。
下野幌線 JR架道橋 橋名板
 ズームアップして撮ったのですが、距離が遠いため文字がぼやけています。気になってはいたのですが、やり過ごしていました。

 このたび「下野幌1号架道橋」の“再発見”にともない、あらためて気になりました。浮彫りされている漢字6文字の後半は「架道橋」として、前半3文字は何と読めるか。
 答えの手がかりを、先日別のところで見つけました。なぜ見つけたかというと、この架道橋の下を通る市道下野幌線が厚別・下野幌の古道だからです(2月24日ブログ参照)。

 手がかりは地元町内会の会報です。
下野幌町内会だより第5号2007年1月
 札幌市公文書館で閲覧しました。「青葉の歴史と下野幌会館の歩み」と題して、地元の古老が語っています。手がかりはその文中にありました。

2021/03/21

新さっぽろに残る下野幌

 JR新札幌駅が開業前に「下野幌」と仮称されていたことを前に記しました(末注①)。たぶん当時の地名が下野幌だったことによるのでしょう。開業後も所在地はしばらく「札幌市白石区厚別町下野幌493番地」でした(末注②)。では、当時どのあたりが「厚別町下野幌」だったのでしょうか。
 3月1日ブログで、かつて地名に「野幌」と付いていた一帯を地図上に表わしました。厚別区のかなりの部分が含まれていたことがわかります。厚別区はヌポロのたまものです。この地図では上野幌、下野幌、小野幌を含めていましたが、今回は下野幌のみに注目します。 
 
 古い地図に照らして、かつての「厚別町下野幌」を現在図に示しました。
かつての厚別町下野幌の区域 1977年
 「かつて」というのはおおむね40~50年前、1970年代(昭和40年代後半~50年代前半)です。昭文社「エアリアマップ 札幌市街図」1977年に基づきました。赤くなぞったのが厚別町下野幌の区域です。参考までに現在のJR新札幌駅と新さっぽろの大型商業施設・ホテルの一帯を黄色でなぞりました。

 ずいぶんいびつな区域です。たぶん、元はもっと広域だったのが、新しい町名に変わった結果なのでしょう。青葉町やもみじ台です。気になることはまだあります。上掲図では旧千歳線の南側、現在の厚別南(丁目)になっているところも下野幌です。これだと、かつての千歳線の上野幌駅は下野幌に所在したことになります。「下」なのに「上」。ただし、これは前に調べました(末注③)。どうやら間違いありません。上掲図を眺めていると「こんな変な区域だったのか」と訝しいのですが、ひとまず進めます。

 現在の厚別町下野幌の区域です(末注④)。
現在図 厚別町下野幌の区域
 赤くなぞりました。橙色でなぞったのは「下野幌テクノパーク(丁目)」です。野(津)幌がそうであったように、下野幌も辺境に残りました(末注⑤)。やはり文化は辺縁に宿る。 

 行政地名から消えたところに、「下野幌」は今も残っているでしょうか。先月探訪した野津幌川左岸の青葉町では確認できます(末注⑥)。しかし、かつての市営住宅下野幌団地は青葉団地や新さっぽろ団地に変わってしまいました。「しまいました」とつい記してしまうところに私の価値観がはからずも覗いて「しまいます」が、読み過ごしください。特に新さっぽろ界隈は抹消というか上書きが著しいようです。厚別区でいうと中心部になるので、文化は中心部から変貌する証左ともいえます。

 しかし、名残物件があったのを思い出しました。
下野幌1号架道橋
 このトンネルです(画像は2019年12月撮影)。正確にはトンネルではないのですが、黄色の矢印を付けた先の銘板に名残があります。

 1972(昭和47)年製らしい。
下野幌1号架道橋 銘板
 「下野幌1号架道橋」と刻まれています。トンネルではなく、道に架かるJR線の橋です。

 前掲と同じ現在図に本件名残物件の所在地を示します。
現在図 下野幌1号架道橋 所在地
 赤いで囲ったところです。

 行政地名としての下野幌は辺境に“おいやられてしまいました”が、現在の厚別区の中心部にもかくして残っています。見つけられてほっとしました。「1号」とありますが、2号、3号があるかどうかは確かめてません。気になる関連物件がまだあるのですが、本日はひとまずこここまで。

 注①:2018.12.8ブログ参照
 注②:『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年p.150。現在は厚別区厚別中央2条5丁目
 注③:2019.9.19ブログ参照
 注④:「札幌市町名・住居表示実施区域図」2014年にもとづいて作成
 注⑤:「丁目」の付く町名「下野幌テクノパーク」は市街化区域だが、厚別町下野幌は調整区域である。辺境に侮蔑的意図は毛頭ない。
 注⑥:下野幌まるやま公園(青葉町11丁目、2月17日ブログ参照)、下野幌のっぽろがわ公園(同、同月18日ブログ参照)。ほかにも下野幌会館(青葉町15丁目)、下野幌八幡神社(同)。

2021/03/10

厚別の一番川、二番川 ④

 昨日ブログに続き、一番川、二番川跡を遡ります。
色別標高図 一番川、二番川の推定河道跡 画像撮影地点 (続)
 まず上掲①の地点です(標高図の段彩は昨日ブログ掲載と同じ)。

  厚別跨線橋から西を望む
厚別跨線橋から西望 厚別西川
 JR函館本線を跨ぐ陸橋から眺めました。線路沿いの道が、黄色の矢印を付けた地点で凹んでいます。道路と鉄路の間の赤矢印の先はトレンチのような形状です。

 前掲標高図の当該個所を拡大し、以下②③の画像を載せます。
色別標高図 厚別西川 JR線路沿い付近
 凹みのところをかつて、西区第1排水(一番川)が流れてました(西側の白ヌキ実線)。

一番川の跡 JR線路付近 
西区第1排水(一番川)の跡 JR函館本線付近
 黄色の矢印を付けた先が凹んでます。この画像を撮ったのは、前掲①を撮った後日です。路面の雪が乾きつつありますが、凹みのところは残っています。

厚別西川 JR函館本線沿い
厚別西川 JR線路沿い
 前掲①の画像で赤い矢印で示したトレンチです。一番川の後身たる厚別西川がここから顔を出しています。一番川当時は標高図にあとづけたとおり線路に直交していました。現在は一部線路に沿い、画像上奥の突き当ったところで左方(北側)に折れ、線路の下をくぐって流れています。「流れています」と記しましたが、画像に見えるように雪で埋もれているので実際の水量はわかりません。

厚別跨線橋から南を望む
厚別跨線橋から南望 二番川跡
 もう一度陸橋に上がり、こんどは南方を眺めました。

 標高図に上掲④の撮影地点と向きを示します。
色別標高図 厚別跨線橋付近 二番川跡
 上掲画像の④の正面に写るマンションの左方を西区第2排水(二番川)が流れてました。マンションの左方彼方に新さっぽろの超高層ホテルがのぞいています。二番川はこのホテルのほうから手前に流れていました。

 前掲標高図とほぼ同じ一帯を写した古い空中写真です。
空中写真 1948年
 1948(昭和23)年米軍撮影から採りました(国土地理院サイトから)。前掲④の撮影地点・向きは赤い矢印に当たります。
 ここで注目したのは、矢印の先で弓弧状に弯曲する白い線です。函館本線からの引込線が二番川の谷に沿って敷かれたことが窺えます。

 上掲空中写真に照らして、引込線の跡を前掲画像④の風景に当てはめました。
厚別跨線橋から南望 戦時中の引込線跡推定
 黄色の太実線です。引込線は正面のマンションの敷地を横切り、奥の針葉樹が立つ街区公園のあたりを通したと想われます。

 「引込線の跡」と前述しましたが、実際には「枕木を敷設したが、湿地のため物資の重みで地面が沈下、引込線工事は中止」されました(末注①)。函館本線から現在の新さっぽろ付近へ結ぶ引込線の立地としてはここしかなかったと思います。しかしヌポロのゆえんたる泥炭地です(末注②)。戦時中の土木技術、しかも突貫工事では無理でした。下野幌の地形を生かして設けられた厚別弾薬庫でしたが、特異な地質に泣かされたともいえます。

 まったく別件ですがお知らせを一つ。
 北海道新聞の別刷り「さっぽろ10区」3月12日(金)版で、さっぽろ地下街が特集される予定です。“左側通行の理由”について、拙説(末注③)をちらりとですが紹介してもらえる見込みとなりました。STV「どさんこワイド179」“てくてく洋二”コーナー(1月13日放送)でカットされた“怨念”(というほどのことか)をはらせそうです。

 注①:札幌建築鑑賞会 札幌百科第14回「札幌は軍事都市だった?!」資料2017年3月4日(講師・西田秀子作成)pp.2-3
 注②:2月22日ブログ掲載「札幌の泥炭地」図参照
 注③:1月15日同16日同17日ブログ参照

2021/03/09

厚別の一番川、二番川 ③

 3月3日ブログを、「川名と流路の変遷から、何が窺えるでしょうか」と結びました。その答えをまだ出していません。その前の3月2日ブログでは末尾で、標題の一番川、二番川について「実際にどれだけ地元で呼び慣わされていたのでしょうか」と問いました。前者の答えを導く前に、後者の疑問を探ることとしましょう。いや、その前にまだ遡りたいことがあります。現地の川跡です。

 一番川、二番川が描かれている1973(昭和48)年河川網図をあらためて眺めます。
河川網図1973年 西区第1、第2排水
 国鉄函館本線厚別駅から国道12号にかけてを拡大しました。

 ほぼ同じ一帯の現在図(色別標高図)です(標高12m未満から2mごと22m以上まで7色段彩)。
色別標高図 一番川、二番川の推定河道跡
 本件2河川の河道跡を白ヌキ実線で引き写しました。西側(画像左方)が一番川、東側(右方)が二番川です。JR線、厚別駅、新札幌駅、野津幌川、国道12号、道道厚別停車場線を着色加筆しました。

 現在の地形も、かつての川の流れにほぼ重なっています。この谷状地形についてはこれまでもたびたび逍遥してきました。JR新札幌駅界隈すなわち副都心、厚別西通などです。旧国道や厚別停車場通(道道厚別停車場線)の尾根筋もしかり。このたびは、それらと重ならない場所を訪ねます。

  札幌東商業高校の東側(厚別中央3条5丁目)
厚別中央3条5丁目 札幌東商業高 東側
 国道12号から北に入る市道を眺めました。この市道の名前を調べたら、「厚別東町79号線」といいます。古い町名です。
 東商業高校の擁壁の下を二番川が谷を削っていました。擁壁は私には30年来見慣れた風景で、この市道もたぶん通ったことはあります。画像右方へ向かって、野津幌川への下り坂だと漠然と思っていました。しかし上掲標高図を見ると、野津幌川本流とは別に二番川の谷だったと窺えます。 

  厚別青葉通 東を望む(厚別中央5条5丁目)
厚別中央5条5丁目 厚別青葉通 東望
 この画像を撮った厚別青葉通は、黄色の矢印を付けた先の交差点で右に折れます。画像右方へ通じるその道が二番川の谷底です。交差点よりさらに奥は、わずか~にまた高くなっています。川跡はやはり幹線道路(都市計画道路)に好都合だったようです。

 上掲画像①②の撮影地点を前掲標高図に加えます。
色別標高図 一番川、二番川の推定河道跡 画像撮影地点
 赤い◯数字の位置から矢印を付けた向きです。

2021/03/05

新さっぽろのホテル 札幌軟石の内装

 おぉここにも、と足が止まり、目を留めました。
新さっぽろ ホテル 札幌軟石
 JR新札幌駅に直結するホテルのロビーです。
 札幌の街中のレストラン(2016.1.24ブログ参照)の内装と雰囲気が似通っています。インテリアデザイナーに札幌軟石思想の隠れ信者がいるのかもしれません。
 
 背面を見ると、「札幌軟石」と題された説明書きも添えられています。
新さっぽろ ホテル 札幌軟石 内装 背面
 これはもう“確信犯”ですね。

 “札幌ならでは”が、さりげなく発信されています。ホテルという場所柄、札幌市外の遠方から来られる人も多いでしょう。札幌軟石思想が世の中に蔓延、もとい浸透しつつあるのは、伝道者を自認する一人として喜ばしいかぎりです。

 説明文で一点、気になった箇所があります。
新さっぽろ ホテル 札幌軟石 内装 背面 説明書き
 「札幌軟石は重宝され、道庁の旧本庁舎など多くの建造物に使われてきました」という一文です。
 「道庁の旧本庁舎」はいわゆる赤れんが庁舎(重要文化財)を指すのでしょうが、さて札幌軟石は用いられたか。

 赤れんが庁舎の外壁に見られる石材は、札幌硬石とされています(末注)。
道庁赤れんが 札幌硬石
 アーチや隅石(コーナーストーン)などに用いられている石材です。私が見る限りでも、これは安山岩系と思われます。少なくとも外観で札幌軟石は見たことがありません。既往文献でも、札幌軟石が使われているという記述は読んだことがありません。赤れんが庁舎の外観を見て、札幌軟石と誤解されることがないように願います。

 注:遠藤明久「軟石・レンガ造の系譜」『さっぽろ文庫23 札幌の建物』1982年p.42参照。廣田基彦『重要文化財旧北海道庁赤れんが庁舎記』1999年では「石材」とか「石造勾欄」「石造柱頭」などの記述が散見される。中で「硬石」とは書かれているが(p.37、40、41)、「軟石」はない。

2021/03/04

下野幌に架かる橋の名の判じ物

 野津幌川に架かる人道橋が見えます。
野津幌川 小林橋
 手前が青葉町で、対岸がもみじ台です。橋の名前は「小林橋」といいます。それは地図で知っていたのですが、現地には橋名板が見当たりません。架橋年は銘板で確かめられ、1970(昭和45)年です。架け替えられてはいますが、大正時代の地形図にも載っている由緒ある橋です。対岸の旧地主さんの名前にちなむ由緒です。

 幸いなことに、対岸のもみじ台側のバス停に由緒が遺っています。
もみじ台 バス停 小林橋
 そのものずばりの「小林橋」です。
 住宅地図を見ると、付近にはすでに旧地主さんはいらっしゃらないようなので、貴重な名残物件といえます。願わくは、「もみじ台西○丁目」とか「○○小学校前」などに変えられずに、この名前のままで遺ってほしいものです。

 小林橋のすぐ下流に、大きめの橋が架かっています。
野津幌川 紅青橋
 こちらは車道と歩道が付けられていて、比較的新しい橋です。「紅青橋」といいます。一瞬「紅青って何?」と訝しみましたが、手前が青葉町で対岸がもみじ台です。もみじ=紅葉の紅と青葉町の青で紅青か。
 
 札幌市の地図情報サービスで検索したら、この橋の部分は市道認定されていて「青葉町・もみじ台連絡橋線」というそうです。これを橋名にそのまま当てたらしい。
 ついでに小林橋を見たら、認定道路になってません。指定道路でもない。この橋は誰が管理しているのだろう? 認定道路でないということは道路管理者ではなく、河川管理者なのだろうか。それとも、まったくの私設橋? 歩車道の整備された紅青橋の存在からすると、小林橋の必要性は下がっているかもしれません。もし橋がなくなれば、おそらくバス停名も変わるでしょう。架橋から半世紀余りです。下野幌の古橋はこの先、行方や如何に。

 ところで、上掲の紅青橋を見て、別の橋を思い出しました。
ポンノッポロ川 紅白橋
 「紅白橋」です。こちらは野津幌川の支流・小野津幌川のそのまた支流・ポンノッポロ川に架かっています。

 位置関係を現在図(色別標高図)で示すと以下のとおりです。
現在図(標高図) 小林橋、紅青橋、紅白橋
 矢印①の先:小林橋 ②:紅青橋、③:紅白橋 (標高段彩は15m未満から5mごと40m以上まで7色)
 もみじ台の尾根をはさんで、東西の谷に紅青と紅白の橋が架かっています。

 前掲紅白橋を撮ったのは2017年です。「なんで紅白なんだろう?」と想いつつやりすごしていたのですが、このたび紅青橋を再び見て気になりました。紅白橋は、前掲画像の手前がもみじ台で、奥が下野幌テクノパークという町名です。紅白の紅は、やはり紅葉←もみじか。しからば白は? ものっぽで、白? まさかねえ。命名した方に由来を確かめないと、眠れなくなりそうです。

2021/03/03

厚別の一番川、二番川 ②

 昨日ブログに札幌市の古い河川網図を載せました。昨日載せた1969(昭和44)年版は、私が確認しうる最も古い河川網図です。現在の河川法が定められたのは1964(昭和39)年なので、1969年より前にも発行されていた可能性はあると思います。しかし、いまのところ見つけられません。そもそも河川網図がどの程度の頻度で発行されていたか、未詳です。
 昨日載せた1969年版は、札幌市公文書館で閲覧しました。現在の河川網図の発行元である札幌市の河川担当部局ではありません。担当部局で古い版を経年的にすべて保管しているかというと、必ずしもそうではないようです。もちろん、市公文書館でもすべてを網羅しているわけではありません。
 お伝えしたかったのは、かような制約と限界です。その前提で、札幌市内の河川が河川法以降どのように変遷してきたか、推理を進めます。 

 1973(昭和48)年版の河川網図です。
河川網図 1973年 野津幌川支流
 昨日ブログの1969年版と同じく野津幌川の流域を抜粋しました。方位はおおむね1時の向きが北です。橙色と赤い矢印で示すとおり、「西区第1排水(一番川)」と「西区第2排水(二番川)」が流れています。流路は1969年版と同じです。

 1983(昭和58)年になると、違いが見られます(方位はおおむね1時の向きが北)。
河川網図 1983年 野津幌川支流
 私が読み取った違いは、以下の2点です。
・「西区第1排水」と「西区第2排水」の流路が短くなり、「一番川」「二番川」というカッコ書きがなくなっている。
・「下野幌第1排水」が加えられている。 
 なお、西区第1排水と西区第2排水は、1973年版では赤い細実線、1983年版では緑色の細実線で描かれています。凡例によると、前者は「普通河川」、後者は「用排水路等」です。前者にも「排水路」という区分はありますが、河川の扱いとなっています(末注)。現在の河川網図には「排水路」「用排水路等」の区分はありません。 

 2012(平成24)年版です(方位はおおむね1時の向きが北)。
河川網図 2012年 野津幌川支流
 上掲1983年版と較べると、昨日ブログに記したとおり西区第1排水は「厚別西川」と変わり、西区第2排水のほうは「厚信川」と変わりつつ、上流部に名前を留めています。後者は、1983年版でいったん短くなった流路が一部復活した形です。復活した部分に名前が残っています。
 凡例によると、前者の厚別西川は準用河川で上流部は暗渠、後者の厚信川も準用河川ですが、上流部の西区第2排水は普通河川(一部暗渠)です。あらためていうほどのことではないのですが、厚別西川も厚信川も、比較的最近の命名と思われます。川名と流路の変遷から、何が窺えるでしょうか。

 注:1973年版の凡例で「排水路」には次のように注釈されている。
 「常時、自然水流を有するものではなく、突発的な降雨及び雑排水等を流下せしめる人工的な水路」

2021/03/02

厚別の一番川、二番川

 一昨日ブログで、厚別区を流れる野津幌川の支流のことを取り上げました。「下野幌第1排水」と「西区第2排水」です。前者は「第1」と冠していますが、「第2」はありません。後者は「第2」ですが「第1」はない。なんでだろうと詮索しました。一つは、過去にそれぞれ第2、第1があったが、のちになくなったという推測です。もう一つは下野幌第1に関してですが、第2、第3を想定したものの、付けずじまいで終わった。一昨日ブログでは述べてませんが、さらにもう一つ、考えた線があります。下野幌第1と西区第2が連番であることです。ただ、これはうがち過ぎだと自分でも思います。もし第1下野幌、第2西区という命名だったら、ありえるかもしれません(末注①)。

 古い河川網図を遡りました。
河川網図 1969年 野津幌川
 1969(昭和44)年版です。

 野津幌川を青い太線、小野津幌川を青い細線でなぞりました。黄色の矢印を付けた先が下野幌第1排水に当たります。暗渠ではないようですが、名前は記されていません。赤い矢印の先には「西区第2排水(二番川)」と書かれ、当時は国道12号からさらに南方へ流路が描かれています。上流は造成中の下野幌団地です。現在の新さっぽろ副都心を流れていました(末注②)。かつて「板橋の沢」と呼ばれていたそうです(末注③)。「あつべつ歴史散歩マップ」で紹介しました(2020.11.24ブログ参照)。しかし二番川と称されていたことは、この河川網図で初めて知りました。郷土史の文献では未見で、地元の古老からも聞いたことがありません。
 そして、橙色の矢印を付けた先の「西区第1排水(一番川)」です。こちらは、一昨日ブログに載せた現在の河川網図では「厚別西川」と名前を変えています。「第1排水」が名前を変えたことで、前述の「第2排水」だけが残ったとわかりました。
 厚別西川は現在、JR函館本線の北側でしか流れていません。しかし上掲図を見ると、第1排水(一番川)当時は前述第2排水(二番川)と同じく、上流は国道12号以南に遡ります。ひばりが丘団地を流れ、旧千歳線の南側あたりから発していたようです。現在の厚別西通の原形とみられます。こちらも私の“おひざ元”で、これまでも折々綴ってきました(末注④)。しかし、「一番川」はやはり初耳ならぬ初見です。聞取り力の未熟を思い知ります。実際にどれだけ地元で呼び慣わされていたのでしょうか。

 注①:「札幌まつり」(北海道神宮)で神輿(奉輦)渡御の山車を出す札幌市内の祭典区は、たとえば「第九東北祭典区」と称される。連番の序数詞+地名の組み合わせ。
 注②:2017.11.5同11.82018.3.6ブログに関連事項記述
 注③:『下野津幌郷土誌』1984年p.136
 注④:2014.11.62017.3.6同3.72018.12.52019.8.19ブログに関連事項記述

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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