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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/01/01

謹賀新年2019

 明けましておめでとうございます。
新年飾り2019
 恒例となりました母の薬莢(2016.12.9ブログ参照)です。母に生けてもらいました。
 
 時空逍遥初めは、もう一つの例の薬莢(2016.10.24ブログ2017.3.5ブログ参照)から始めます。
 上野幌神社に詣でました。
上野幌神社 2019初詣
 薬莢が破魔矢入れに使われているのを、この眼で確かめたかったのです。 

 薬莢は社務所にしかと置かれていましたが、残念ながら破魔矢が入ってません。
上野幌神社 社務所 破魔矢入れ
 初詣というと前掲の神社の画像は年明け早々に見えますが、実は午後5時前です。混雑を避けたつもりが仇となりました。社務所の方に伺うと、「今年は思いのほか人気があって…」午後3時頃売り切れてしまったそうです。私の後にも二人くらい破魔矢を求める方がいたので、例年は夕方でも残っていたのでしょう。お一人は「毎年買えたのに…」と残念がっていました。もしかして、先月6日のuhb「みんなのテレビ」で紹介された(2018.12.4ブログ参照)ことが影響した? 

 写真を撮らせてもらったとき、私は「この破魔矢入れはもともと薬莢だったと聞いているので…」と切り出したところ、社務所におられたどなたもご存じなかったようです。たぶん氏子さんが当番で詰めておられたのだと思いますが、「薬莢」と言ってもピンとこない様子で、私がかくかくしかじか申した話を「へぇ」と受け止めておられました。

 母のためにご朱印をもらってきました。  
ご朱印 上野幌神社2019
 母は昨今のブームになる前、古くからのご朱印マニアです。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
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2018/12/27

「ほっかいどう歴史・文化自然『体感』交流空間構想」の行間を読む

 北海道は本日、標記「構想」を、公表しました。
 詳細は下記北海道サイトをご参照ください。
 ↓
 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/saiseikoso.htm
 
 懸案の一つであった北海道百年記念塔については、「解体もやむを得ないと判断し、耐久性や維持コストにも配慮した新たなモニュメントを配置した交流空間とする(発展的継承)」(同構想「概要」)としています。「解体する」とハッキリ言い切っていないところが気になりました。「解体やむを得ない」ではなく、「解体やむを得ない」。この「も」はどういう意味でしょうかね。これだけだと、「解体もやむを得ないと判断し」たけども、解体するかしないかは未定とも読み取れます。
 同構想の本文「今後の方向性」の該当箇所は次のとおりです(p.9、引用太字)。
 解体もやむを得ないと判断し、その跡地には、新たなモニュメントを設置することとします(発展的継承)。
 ここでも「解体する」とは書かれていないが、「その跡地には」と入っている。「跡地」という以上、解体することを前提としているのでしょう。しかし「解体する」と断定形では書ききれなかった執筆者の思いを、私は穿ってしまいます。

 「具体的な取組」として、「学校の校歌や校章に使用されるなど、地域のシンボルとして根付いている百年記念塔に関する思い出や記憶をとりまとめ、保存するための取組等の実施」とあります(p.10)。これは、本年9月に出された「素案」の段階では「百年記念塔に関する思い出や記憶をとりまとめ、保存するための取組等の実施」でした(p.9)。「学校の校歌や校章に使用されるなど、地域のシンボルとして根付いている」という修飾句が付いています。9-10月に実施されたパブリックコメントを経て、11月にまとめられた「構想(案)」の段階で加えられたものです。春先から拙ブログなどで「校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔」を綴り、折りに触れ新聞で報じてもらったりもしました(この「もらったりも」の「も」は、付加の意)。その私は、少なからぬ感慨を覚えます。

 ちょうど今日、「札幌啓成高新聞」の最新号(第183号)が私の手元に送られてきました。
札幌啓成高新聞 第183号 記念塔記事
 11月4日に開催した札幌建築鑑賞会「札幌百科」第16回「どうなるどうする北海道百年記念塔」(本年10月9日11月3日ほかブログ参照)について報じてもらっています。
 新聞局の生徒さんから添えられた礼状に、次のように書かれていました(引用太字)。
 鑑賞会では記念塔建築の裏話や建築中の写真や詳しい分析など普段触れることができないものに触れ、貴重な体験ができました。設計者の井口さんのお話を直接聞くことができたのは 改めて塔の意義を考え直すきっかけになりました。

 こちらこそ、刺激を受けました。同紙前号(本年11月8日ブログ参照)に変わらず、他の記事も秀逸です。定期購読したくなりました。

2018/12/17

「新さっぽろ副都心」形成の模式図

 「新さっぽろ副都心」が造られる経過を模式図化してみました。
厚別副都心 形成模式図
 「副都心的地域商業・業務地」(札幌市長期総合計画)の形成は、必然的帰結だったように思えます。

2018/12/10

JR新札幌駅の原名②

 12月8日ブログの続きです。JR新札幌駅の開業前の仮称は「下野幌」でした。
 が、別の名前もありました。

 『広報さっぽろ』1971(昭和46)年5月号です。
広報さっぽろ1971年5月号 厚別副都心
 この年度の予算を説明する特集に「副都心として整備する厚別地区」の略図が載っています(p.2)。

 赤い下線を加筆したところを拡大すると…
広報さっぽろ1971年5月号 厚別副都心 新厚別駅
 「新厚別駅」と書かれています。

 この特集の本文を一部引用します(p.1、引用太字)。
 厚別ニュータウンは、厚別副都心団地(下野幌第二)、もみじ台団地(下野幌第三)、の造成が進み、装いを整えはじめています。(中略)
 また、国鉄千歳線たんらく線の高架工事と駅舎(仮称新厚別駅)の建築が、この団地内で行なわれることになっており、これに合わせて駅前広場一万四千平方メートルの造成を開始します。 
 
 本文中でも「仮称新厚別駅」です。当時の札幌市の副都心関係の史料を見ると、やはり「新厚別駅」が散見されました(末注)。前回ブログで孫引きした文献の刊行年は1971(昭和46)年でした。前述の広報も同年です。新駅の仮称は同じ時期に「下野幌」と「新厚別」が併存していたとみられます。
 余談ながら、前掲略図の「千歳線」に目を引かれました。カッコ内に「将来は一部撤去、一部が貨物専用線となる」と書かれています。旧千歳線は残存される予定だったのか。

 注:『厚別副都心団地中心施設等に関する基本設計書』1972年、p.46ほか

2018.12.11ブログに関連事項追記

2018/12/08

JR新札幌駅の原名①

 JR新札幌駅は1973(昭和48)年に開業しました。この駅の建設中の仮称は「下野幌」だったと前に記したことがあります。この根拠は、先のブログで伝えたとおり『さっぽろ文庫11札幌の駅』1979年、pp150-152です(2016.6.4ブログ末注③参照)。
 先日放送されたuhb「みんなのテレビ」(12月4日ブログ参照)でも、「新札幌の駅名はもともと、『下野幌』だった」と紹介されました。私が収録時にしゃべったことに基づきます。しかし、いざ放送されると「本当にそうだったのか」と疑問が湧いてきました。出どころが『さっぽろ文庫』一点だけで、心もとなくなったのです。あらためて手持ちの資料を見直してみました。

 2015年に開催された第6回厚別歴史写真パネル展の展示パネルです。
2015厚別歴史写真パネル展 展示 千歳線新線建設
 「国鉄千歳線短絡線」の建設当時のことが説明されていました。かつての千歳線から付け替えられた新線のことを当時「短絡線」と呼んでいたようです。

 さて、このパネルに一枚の地図が載っています。
2015厚別歴史写真パネル展 展示 千歳線新線建設 地図
 描かれているのは現在の厚別区のあたりで、説明文によると出典は『札幌市政令指定都市記念 空から見た大札幌市』1971年です。パネルにするに当たり、赤いと吹き出しのキャプションが加筆されています。この地図が興味深いのは、吹き出しでも書き添えられているように、付替え前の千歳線と建設中の新線(短絡線)の両方が描かれていることです。冒頭に記したとおり新札幌駅が開業したのは1973年で、出典が刊行された1971年時点では新線はまだ開通していません。いわば計画線です。

 その計画線上の、新札幌駅に当たるところを拡大してみると…  
2015厚別歴史写真パネル展 展示 千歳線新線建設 しものっぽろ駅
 吹き出しで「短絡線のしものっぽろ駅(現在の新札幌駅)」とあります。これは前述のとおりパネルにする際に加筆されたものですが、元図の鉄道駅の記号のところに、「しものっぽろ」と書かれていることに基づいたのでしょう。この地図に描かれた他の駅の記号に添えられた例からして、この「しものっぽろ」は新線に予定された駅の仮称とみられます。まだ原典に当たっておらず孫引きなのですが、とりあえず一つの裏付けになりました。
 ただし。
 新札幌駅には別の仮称もあったようです。おって綴ることとします。

 ことほどさように、十数分の番組でほんの一瞬報じられたことでも、出どころが自分自身に由って来たると、あとあとまで気がかりです。公共の電波でイイカゲンなことを不特定多数の人々に発信してはいけないという意識が抜けません。ものごころついた頃から今に至るまで数十年、テレビ漬けで育った所為でしょうか。
 

2018/12/07

サンピアザ「光の広場」にあったオブジェ

 第9回厚別歴史写真パネル展で展示されたパネルの一枚です。
 第9回厚別歴史写真パネル展 サンピアザ開業時の写真
 会場のサンピアザが開業した1970年代から80年代にかけての様子を紹介しています。

 その中の「オープン当初の『光の広場』の賑わい」というキャプションが添えられた写真です。
第9回厚別歴史写真パネル展 光の広場紹介写真
 展示期間中に観覧者のお一人から、この写真は「オープン当初ではない」というご指摘をいただきました。

 その方曰く「オープン時、光の広場には赤い絨毯が敷かれ、時計塔が建っていた」とのことです。このパネルに写っている金属製のオブジェは「その後の二代目のもの」であると。
 『札幌副都心開発公社20年誌』1995年をひもといたところ、このご指摘のとおりでした。オブジェは開業10周年を記念して置かれたものだったのです(p.48)。同誌には、これを設置したとき「『あの“赤い広場”(改修前は赤い絨毯が敷きつめられていた)はどこへ行ったの?』『時計塔はどこへ行ったの?』など、お客様から戸惑いの声も聞かれ、大規模なリフレッシュには多角的な視点から取り組まなければと反省したものです」という社員の回顧談が載っています(p.48)。

 同誌に載るサンピアザ開業時の光の広場の写真です(p.46)。
札幌副都心開発公社20周年記念誌 開業時の光の広場
 たしかに、赤い絨毯が敷かれ、左端に赤い時計塔も見えます。

 前掲パネル写真に載るオブジェは、「サンピアザ10周年を控えた昭和62年3月、光の広場リフレッシュオープンの際に登場した“サンピアザ10周年メモリアルモニュメント”」だったそうです(同上誌p.59)。「このイメージは広場の名前に因んで光をモチーフにし」たといいます。現在はすでにありません(昨日ブログ掲載の「光の広場」画像参照)。かつては設けられていたと、うっすら私の脳裏にも残っています。しかし、いつ撤去されたか、記憶にありません。

 パネルは私が加入する前から作られていたもので、毎回展示されていたのですが、私はご指摘されるまで知りませんでした。数十枚の展示パネルに載っている数多の写真の一枚であっても、誤りに気づかれる方がいらっしゃることに感銘を受けます。
 感銘を受けつつ、冒頭の画像を見ていたら、別の誤りに気づいてしまいました。下段の説明文に「1944(昭和19)年10月完成の厚別弾薬庫は、現在の新札幌駅、サンピアザ、青少年科学館など広さ36haに9つの弾薬倉庫がありました。この弾薬庫は昭和40年に日高に移転完了します」とあります。弾薬庫が移転完了したのは、たしか1969(昭和44)年です(末注)。

 注:『あつべつ区再考』1994年、巻末年表p.35、北海道補給処日高支処第313基地通信中隊日高派遣隊『50年のあゆみ』2018年、p.8

2018/12/06

厚別副都心、さっぽろ副都心、新さっぽろ副都心

 新さっぽろのサンピアザ・光の広場です。
新さっぽろ サンピアザ 光の広場 厚別歴史写真パネル展 
 先月末に開催した「第9回 厚別歴史写真パネル展」のときの風景を、吹き抜けの2階から撮りました。

 冒頭で私は「新さっぽろのサンピアザ」と記しましたが、この商業施設の名称は現在「新さっぽろアークシティ サンピアザ」というそうです。JR新札幌駅周辺の「デュオ」「イオン」「カテプリ」その他をひっくるめて「アークシティ」と総称するらしい。私は、JR線の南西側の建物はかつてのダイエーたるイオン、プランタンたるカテプリも含めて、とにかくサンピアザだと思ってきました。そして、JRの高架沿いにあとからできたのが「デュオ」だと。「アークシティ」という冠は、雨後の筍よろしく出現した一連の“副都心”中核施設に一体感を持たせる意味で、命名されたのでしょう(2016.6.1ブログ参照)。

 サンピアザが1977(昭和52)年にオープンした当初は、「さっぽろ副都心サンピアザ」という名前でした(末注①)。それまで、行政上の計画におけるこの一帯の名称は「厚別副都心」だったのですが、事業実施母体として1974(昭和49)年に「㈱札幌副都心開発公社」が設立されたことが反映されています。「厚別副都心」から「さっぽろ副都心」へ。
 1973(昭和48)年に開通した千歳線新線の駅舎に名づけられた「新札幌」は、1982(昭和57)年に延伸した地下鉄東西線の「新さっぽろ」駅にも継がれます。新たにできた商業施設にも「新さっぽろ」が冠せられました。そして1990年代になると、くだんの「アークシティ」とともに、「新さっぽろ副都心」が現れます。なにやら出世魚のごとし。

 私はこの街の“発展”をこれまで、冠称はともかく札幌の“副都心”づくりという計画のもとに進められてきたと、おおまかに理解してきました(2016.6.2ブログ参照)。近代的計画的都市開発の輝かしい結晶としての新しい街。このたびuhbの番組(12月4日ブログ参照)に出るに当たって資料文献を読み直して史実を時系列でたどると、どうも違うなと思い改めています。そのことと、この“副都心”界隈の迷路性(末注②)に因果関係があるのかどうかに私のアタマでは及びませんが。

注①:『札幌副都心開発公社20年誌』1995年、pp.24-45
注②:迷路性は“合理的”な(コルビュジェ的な?)都市計画へのアンチテーゼとして、ときに肯定的意味合いも含むが、この文脈では必ずしもそうではない。この地になじみの薄い人から「新さっぽろはわかりづらい」と、私はよく耳にする。かくいう私自身も在住30年になんなんとしつつ、いまだに迷う。
 「今にして考えると、函館本線厚別駅との統合の断念や、各幹線道路の不明確な関連性などが悔やまれる」(武田泉「厚別中央通・厚別停車場線(新札幌・厚別)『さっぽろ文庫58 札幌の通り』1991年、p.77)。
 「周辺には高層集合住宅が林立し、一戸建て住宅も整然と並んでいる。駅直結のデパートもあり、また地下鉄東西線の新さっぽろ駅が地下に来ている、という『副都心』格の駅だが、JRと地下鉄またはバスとの連絡は至便とは言い難いのが残念」(堀淳一『地図の中の札幌』2012年、p.155)。

2018/12/05

南郷通りのファミレス跡に遺る伝説

 厚別区の南郷通りと厚別西通りとの交差点で、北から南を眺めました。
厚別西通り×南郷通り
 画像上、左右に通じるのが南郷通りで、左方の奥に向かって厚別西通りが延びます。厚別西通りは手前から奥に向かって上り坂になっていることがお判りいただけるでしょうか。交差点角地の高層賃貸ビルは、町名でいうと厚別南1丁目です。現在はここにコンビニがありますが、数年前までファミリーレストランがありました。

 厚別西通りが沢地状の地形に造られたことは、前に記したとおりです(2017年3月6日3月7日各ブログ参照)。

 先に載せたこのあたりの古地図をあらためて見てみます。
大正5年地形図 現在の厚別西通り
 大正5年地形図です。
 
 水色でなぞったのが沢地状の地形で、現在の厚別西通りはほぼ、この地形に沿って通じています。前掲画像の交差点は赤いのあたりで、の頂点から南(地図の下方)かけての向きです。付近に池とおぼしき細長い図が二つ、描かれています。2017年3月7日ブログで「子どもが‘池’に落ちて亡くなったことがあり、埋め立てられた」という池は、どうやらこの場所です。このことを思い出したのには、訳があります。
 
 10月21日、北海道建築士会札幌支部主催の「札幌のまち歩き」に参加し、厚別区内を歩きました。辿ったのは、おもに大谷地から青葉町にかけての旧国鉄千歳線跡です。案内してくださった建築士Nさんは長らく厚別南にお住まいとのことで、私は前述の池の話を伝えました。すると、Nさんもそのことをご存じで、「子どもが通っていた小学校で『ファミレスの地下駐車場に、池で亡くなった子の幽霊が出る』と噂になっていた」と言われたのです。そういえばファミレス当時、1階部分に駐車場が下駄履き状にありましたね。薄暗かったなあ。

 くだんの池が埋め立てられたのは昭和40年代後半とみられます。池に子どもがはまったことの歴史的な意味を牽強付会するならば、札幌の近郊農村が都市化・市街化する過程の象徴的事件といえるかもしれません。
 幽霊伝説はNさんのお話からすると、この10-20年くらいまで(もしかしたら今も?)あったようです。わりと最近まで語り継がれてきたのが意外でした。…と記しつつ、これは意外でもないかと思い直しました。地域局所的な史実は、口承伝説、しかも子どもという非正史的な世界に遺る。

2018/12/04

恥ずかしながら「また」、

 テレビで札幌の街を案内します。uhb(北海道文化放送)の番組「みんなのテレビ」です。オンエアは12月6日(木)、午後3時50分から4時半くらいまでの間で、約10分程度の予定です。今回は新さっぽろを案内します。
JR新札幌駅界隈
 前回、11月19日に放送された苗穂編(同日ブログ参照)が「評判が良かった」ということで、お呼びがかかりました。正直言って、ひと月もたたないうちにテレビに出るというのは、私のようなシロートには尋常ならざることです。
 
 世の中への影響力を考えると、機会を持たせてもらえるのはありがたいのですが、影響力というのは当然のことながらその中身が問われます。いわば自分を“出力”するには、自分への“入力”が必要です。ひと月に2回×十数分でも、かなり出力を要します。“ブラウン管”を通して毎日のように“お茶の間”でおなじみの“タレント”の人びとは、いったいどうやって“入力”の時間を生み出しているのでしょう。たまに経験させてもらう私には(それゆえか)、驚きを禁じ得ません。
 一方で、出力の機会があることで入力のモチベーションも上がるとも感じています。極論すれば、出力なしの入力はありえないのかもしれません。まあ、程度問題でもありますが。ここのところ出力過多です。
 テレビを見ていて、いわゆる識者なる人のコメントを聴いたとき、ときどき私は「そったらコト(北海道弁)、オレでも言えるがや(名古屋弁)」と嗤います。妻に「番組の“お約束事”なんだから」とたしなめられるのですが、顧みて我が身を正し、入力にこれ努めたい。 

2018/12/03

厚別公園競技場の高低差

 厚別公園競技場のメインスタジアムです。
厚別公園競技場 メインスタジアム
 メインスタンド側からバックスタンド方向を眺めています。

 センターポールの近くに黄色の矢印で示したのは、バックスタンドのさらに背後のグランドライン(地面)です。地面は、観覧席より上にあります。一方、手前のメインスタンド側のほうは、地面が低く下がっています。

 色別標高図で見てみます。
色別標高図 厚別競技場
 標高20m以下から5mごと、7段階で色分けしました(国土地理院サイトから)。

 赤矢印がメインスタンド側、黄色矢印がバックスタンド側です。メインスタンド側を外に出ると、川に面します。三里川です。競技場は三里川が削る谷の斜面に造られているのです。あらためてこの地形に感じ入ったのには、訳があります。おって記すこととします。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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