札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/09

厚別・旭町の阿部仁太郎屋敷について 補遺

 本年(2017年)3月29-31日ブログ及び6月11-15日ブログで、厚別旭町の功労者・阿部仁太郎(末注)について記しました。このたび、私も一員である厚別区民歴史文化の会により、阿部家のご子孫にお会いして聞取り調査をすることができました。その結果、これまで拙ブログで私が推測の域で述べてきたことの事実が判ってきました。
 結論を先にお伝えします。ただし、ご子孫のプライバシーに属することは控えます。

 ①厚別旭町(厚別中央3条)に遺る煉瓦の蔵(2017.3.30ブログ同3.31ブログ参照)
 1926(昭和元)年頃の建築。
 阿部家は同年に豊平から厚別に転居して邸を構え、蔵もそのとき建てられたとのこと。ご子孫の記憶では、昭和戦後期は衣裳蔵として使われていました。なお、阿部家はこの地に1970(昭和45)年までお住まいでした。

 ②T社屋上の猿賀神社(2017.6.13ブログ同6.14ブログ参照)
 阿部家の屋敷内にあった小祠を遷座した可能性が高い。
 6月15日ブログで私は本件について「阿部神社は信濃神社に合祀されつつ、分祠として(いわば阿部家の個人祭祀用に?)現地に遺っていたのではないか。ただし確証はまだありません」と記しました。このたびの聞取りで、複数のご親族から屋敷内に小さな祠を祀っていたとのお話がありました。これは1944(昭和19)年に信濃神社に合祀したという旭町神社(通称阿部神社)とは別です。現在のT社屋上神社の写真をお見せしたところ、「屋根は新しくなっているが、屋敷にあったものに似ているような気がする」とのことです。ただし、T社に遷座したというご記憶はありません。しかしながら、信濃神社に合祀したものとは別の祠が戦後も長く旭町にあったということは、「阿部家の個人祭祀用」を裏付けるものであり、これが遷座された可能性がきわめて高いと私は判断しました。阿部家が旭町にお住まいだったのは前述のとおり1970(昭和45)年であり、T社が現在地に社屋を構えたのは先のブログに記したように1971(昭和46)年であることから、時系列的にも符合します。

 阿部家のご子孫宅に、厚別旭町のお屋敷にあった灯籠が移されています。
厚別・阿部家の灯籠①
厚別・阿部家の灯籠②
 阿部仁太郎直系のご子孫のAさんは「札幌建築鑑賞会のこと、知ってますよ」とおっしゃって、とても好意的に接してくださいました。
 以上、淡々と記しました(つもりです)が、私は歴史推理の醍醐味を味わいました。ここに至ることができたのは、厚別区民歴史文化の会会員Tさんとそのご友人知人の人的ネットワークのたまものです。このたびその末席に加わらせていただき、悦びひとしおです。

 このほかにも、旭町(現厚別中央3条)の戦後史に関する情報が得られ、貴重な史料もお借りすることができました。M会長(私の厚別での師匠)の考証により、11月に開催される「厚別歴史写真パネル展」に反映されることでしょう。

注:阿部仁太郎は初代、二代と襲名しており、旭町に功労があったのは二代目である。
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2017/09/07

厚別歴史散歩ご案内

 9月26日(火)に催される「厚別歴史散歩」の案内チラシです。
厚別歴史散歩 案内チラシ

 参加ご希望の方は、住所・氏名・年齢・電話番号・「厚別歴史散歩申込み」を明記し、厚別区役所地域振興課までファックスでお申込みください(ファックス番号:(011)895-5930、同課への持参も可)。定員15名(応募多数時は抽選)、締切9月13日。
 チラシ(兼申込用紙)は下記サイトからもダウンロードしてご覧いただけます。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_ivent.html#rekishisanpo
 ふだん非公開の民有地に入らせていただく都合もあって、平日の催行となりました。お仕事の方には参加しづらくてすみません。また、今回は企画してからの日数が短く、電子メール等での申込受付ができませんでした。実施して評判が良ければ、改良しながら来年以降も続けていきたいと思います。

 厚別区の、それも新さっぽろ・ひばりが丘で歴史をテーマにして街を歩くというのは、もしかしたらそれ自体が歴史的な出来事といえるかもしれません。

2017/08/29

上新川 補遺

 8月23日ブログで紹介した「上新川」バス停について、dinさんから以下のコメントをいただきました(引用太字)。

上新川はかつて札幌市営バスが走っていました。
私の記憶にある時点では「札幌市営」の関係でここが終点でしたが、1970年代はここからさらに江別市大麻まで市政史上唯一行政区域外乗り入れが実現してたようです。


 ありがとうございます。
 手元の文献・史料で少し調べてみました。
バス路線 1988年現在 上新川周辺
 1988年当時のバス路線です(方位は10時の向きが北)。札幌市教委編『さっぽろ文庫・別冊 いまむかし札幌を歩く 〈第2部-都市ネットワーク〉』1989年から抜粋しました(pp.2-3)。緑色の線がJR北海道バス、赤色が札幌市営バス、紫色は北海道中央バスです。
 この時点で3事業者が運行していて、JRバスと中央バスは江別まで通じ、札幌市営バスは上新川で終点だったことがわかります。市営バスは、交通局発行の「地下鉄バス電車路線図料金表」1998年、「札幌市営交通路線図ご利用ガイド」2003年でも、上新川が終点でした。

 昭文社『エアリアマップ札幌市街図』1977年を見ると…。
昭文社 札幌市街図 上新川周辺
 路線は江別まで通じていますが、運行事業者は判りません。隣の「厚別新川橋」の停留所名には(市)と付されています。

 前掲『さっぽろ文庫・別冊』には、上新川バス停の写真も載っていました(p.24)。
上新川バス停 1989年?
 29年前の出版物で、すでにこのバス停が注目されていたのですね。写っている標識はJRバスと中央バスです。8月23日ブログに載せた「ジェイ・アール北海道バス」(末注)の現標識と同じタイプです。同日ブログで私は「国鉄バス当時のものだと思います」と記しましたが、この標識は「JR北海道バス」時代にできたのでしょうか。

 市営バスが江別まで通じていたか裏付けることはできませんでしたが、1980年代に3事業者が上新川に停留所を置いていたのは、私にとって驚きでした。

 注:ジェイ・アール北海道㈱サイトによると、同社は1987(昭和62)年の国鉄民営化に伴い「JR北海道自動車事業部」、1999(平成11)年に分社化され「ジェイ・アール北海道バス株式会社」となった。

2017/08/23

上新川

 昨日紹介した「厚別の地名の謎・三話」、いささかマニアック過ぎるなと内心思っています。拙ブログではいいとしても、サンピアザの光の広場で不特定の人を対象に話すにはいかがなものか。もう少し一般になじみやすいネタのほうがいいかもしれません。だいたい私自身、三話とも謎が解けていないのです。答え、というか「こう解釈すれば、説明がつく」という諸賢のご教示を乞います。

 それはそれとして、地図などを見て厚別の地名をあらためて採集しています。
 厚別町山本、道道東雁来江別線にあるバス停です。
上新川 バス停
 「上新川」。

 なぜここに「新川」という名前が付いているかというのは、古地図で判ります。
大正5年地形図 厚別川 新川
 大正5年地形図から抜粋しました。厚別川が北東方向へほぼ直線的に改修され、「新川」と名づけられています。

 札幌市の河川網図で河道を較べてみます。
河川網図 厚別川下流 旧河道
 直線化された「新川」のほうが厚別川となっています(方位は1時半の向きが北)。旧河道は排水路として一部に遺っていますが、原形は途絶えています。

 直線化された厚別川の橋に、新川の名が遺っています。
厚別川 9号新川橋
 「9号新川橋」。
 前掲地形図及び河川網図で、橙色の○で示したのが、その位置です。上新川バス停は、河川網図で赤い▲の先あたりです。ここが「上」というのは、「新川」の上流ということでしょうかね。

 冒頭に載せたバス停の標識ですが…。
上新川バス停 標識
 古い。国鉄バス当時のものだと思います(2016.10.15ブログ参照)。一日4便の路線(ジェイ・アール北海道バス、米里線[8])ですからね。停留所が廃止されないことを願ってます。

2017/08/22

ポロベツ川

 「厚別歴史写真パネル展」第8回が、11月28日~30日に開かれます(末注)。期間中に会場(サンピアザ光の広場)で催される「交流・談話会」では、幾つかのテーマを決めて厚別の歴史を関係者が語ります。前回は、厚別区民歴史文化の会のM会長のご推挙で若輩ながら私も、札幌軟石について話しました。今回も、何人かの話者の一人に一応、私が入っています。ただし、ほかに適任の語り手がいらっしゃれば引っ込むという条件付きです。いわば補欠要員なのですが、さりとていざという時に備えて、用意はしておく必要があります。

 で、私が準備している仮テーマは「厚別おもしろ地名考」です。厚別の地名の謎・三話を考えています。
 ①なぜ、三里川のすぐそばを二里川が流れているか? (2016.8.29ブログ8.30ブログ8.31ブログ参照)
 ②なぜ、厚別東に「西通り踏切」があるか? (2017.5.5ブログ5.6ブログ参照)
 ③なぜ、野津幌川の支流が「ポロベツ川」か? 

 三番目のポロベツ川については、拙ブログでまだ採り上げていません。ひとことでいうと、野津幌川の支流の小野津幌川(ポンノッポロ川)のそのまた支流に、「ポロベツ川」と命名されている不思議です。

 札幌市の河川網図で、三つの川を見ておきます。
河川網図 ポロベツ川
 黄色の▲を付けた先が野津幌川、橙色の三角の先が小野津幌川、赤い▲の先がポロベツ川です。河川管理者は、前二者は北海道、ポロベツ川は札幌市(準用河川)です。
 どうみても、野津幌川>小野津幌川>ポロベツ川という関係にしか、私には見えません。野津幌川が最も長大で、ポロベツ川は短く小さい。小野津幌川は上流で「ポンノッポロ川」となっています。野津幌川に対するポン(=アイヌ語で「小さい」)というのは妥当だし、小野津幌と和訳されたのもわかります。しかるに、その支流がポロ(=アイヌ語で「大きい」)ベツ(=川)とは、何ぞや?

 実際の風景も見ておきましょう。
 まず野津幌川。
野津幌川 青葉通橋付近
 青葉町15丁目、青葉通橋付近です。

 次に、小野津幌川。
小野津幌川 森林公園橋
 厚別東4条6丁目、森林公園橋です。

 そしてポロベツ川。
ポロベツ川 
 厚別東4条9丁目、ポロベツ川緑地です。
 これがどうして、「大きい川」なんだろう?

 注:今年はすでに3月1日~3日に第7回が開催されたが、これは例年秋に実施されるところ、サンピアザのリニューアル工事の事情で延期されたものである。

2017/07/09

古き建物を描く会 第58回

 今日は札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第58回を催しました。
描く会 第58回 上野幌
 描いたのは上野幌のH牧場です。30度を超す炎天下にもめげず、12名がスケッチにいそしみました。熱中症患者を出さなかったのが何よりです。

 Hさんの牧場では、多いときは搾乳牛をはじめ三十数頭いましたが、Hさんもご高齢になり、牛を減らしてきました。
描く会 第58回 牛さん
 今は、育成牛が一頭です。牛舎を覗いたら、牛さんも暑そうでした。
 市街地で牛がいるのは、ここのほかには北大と月寒の八紘学園くらいでないでしょうか。手稲区や北区の牧場は調整区域です。干し草の臭いと牛さんの鳴き声は、現地でないと体験できません。

 写生後、例によって青空展覧会をしました。
描く会 第58回 青空展覧会
 Hさんにも観ていただきました。
 札幌軟石のサイロ1930(昭和5)年築です。1999、2000(平成11、12)年頃まで使っていたそうです。長沼で育てたデントコーンをトラックでここまで運んできてサイレージしたとのこと。Hさんはサイロを「100年は持たせたいね」と話していました。現在満87年です。そういえばHさんもそれくらいのお年だったと思います。Hさんともども末永くと願って、牧場をあとにしました。

2017/06/15

阿部神社 ⑤

 豊平神社です。
豊平神社
 主祭神は上毛野田道命で、津軽の猿賀神社から分祠されました。

 宮司さんにお尋ねしました。
 私「こちら(豊平神社)はもともと阿部仁太郎にゆかりがあり、本社は猿賀神社と聞きます。お祓いに出向かれている厚別旭町のT社屋上の猿賀神社も、(敷地の)元の地主は阿部さん(二代目仁太郎)です。あの(T社の)神社も、阿部仁太郎にゆかりがあると思えるのですが…」
 宮司「(札幌で)猿賀神社のご分霊は、うち(豊平神社)とあそこ(T社の神社)だけですからね…。私の父が宮司をしていたときのことですが、なんでもT社の先代社長が『もともと(敷地に)あった神社なので粗末にできない』と言って、ビルを建てたときに(屋上に)祀ったと聞いています」
  
 T社屋上の猿賀神社の由来を物語る伝聞情報が得られました。かつての阿部神社(旭町神社)を遷座した可能性が濃厚です。煉瓦造倉庫(本年3月30日ブログ参照)に続く、厚別旭町に遺る阿部仁太郎ゆかりの物件第二号であります。

 話は前後しますが、T社屋上の猿賀神社が建立(遷座)されたのは、社屋が建てられたときと思われます。T社での聞取り及び同社サイトによれば、それは1971(昭和46)年です。前述の豊平神社宮司さんのお話からすると、その頃までどうやら阿部神社が一隅にあったようです。

 …と、ここまで記してきて、読者の中には疑問を持った方もいらっしゃることでしょう。それは6月12日ブログに記したことです。すなわち、阿部神社(旭町神社)は1944(昭和19)年、信濃神社に合祀されたという史実です。戦前に合祀されたはずの神社が、戦後の昭和40.年代まで現地に遺っていた?

 この謎をどう解けばよいのでしょうか。
 合祀された先の信濃神社の周年記念誌(末注)をひもとき、こんどは信濃神社を尋ねました。その顛末は…。
 本シリーズもかなり長くなりましたので、顛末は端折りまして結論を先に述べます。豊平・信濃両神社での聞取り等をふまえると、阿部神社は信濃神社に合祀されつつ、分祠として(いわば阿部家の個人祭祀用に?)現地に遺っていたのではないか。ただし確証はまだありません。現時点の仮説・推測です。私の厚別での師匠で郷土史家のMさんほか諸先達に近々お尋ねしようと思います。読者諸賢におかれてもご存じのことがありましたら、お知らせいただければ幸いです。わかりしだいあらためてお伝えすることとして、これでひとまずの区切りとします。[おわり] 

 注:『鎮座九十年記念誌 信濃神社今昔』1988年、p.68、『信濃神社鎮座百周年記念誌 信濃神社百年』2000年、p.103参照

2017/06/14

阿部神社 ④

 厚別中央3条2丁目、T社のビル屋上に鎮座する神社です。
厚別中央 猿賀神社 鳥居
 この神社は、阿部神社(旭町神社)なのか?

 T社の総務部長さんによると、「毎月初めに、豊平神社の宮司さんに来てもらって、お祓いをしてもらっています。(運輸・建設の企業なので)安全祈願です」とのことです。阿部仁太郎に由来しているかどうかは、ご存じないようでした。
 豊平神社とお聞きして、私は閃きました。豊平神社は阿部仁太郎に由来します(末注①)。旭町はいうまでもなく信濃神社が近いのですが、にもかかわらず豊平神社の宮司さんが来ているということが、ニオイます。
 
 そして、本件神社の鳥居に架かる扁額には…。
厚別中央 猿賀神社 扁額
 「猿賀神社」と書かれています。

 猿賀神社は、青森県津軽地方に本社がある神社です。
 ↓
 http://saruka.webcrow.jp/newpage2.html
 主祭神は上毛野君田道命。
 青森県ということに、また閃きました。阿部仁太郎は、たしか津軽ゆかりでなかったか(末注②)。

 豊平神社を訪ねました。[つづく]

注①:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年によると、豊平神社は「明治四年、入植の阿部仁太郎氏が郷里青森の猿賀神社祭神を、現在の神殿の東方に小祠を建て、奉斎したのにはじまるという」(p66)。

注②:阿部仁太郎の出自に関する諸文献の記述は以下のとおり。
 (1)『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.20
   渡島国上磯郡野辺地村(現上磯町)の漁家に生まれる。一時漁業に従事するが薄漁のため、明治四年札幌へ出て円山に住み炭焼業を営んだ。 
 (2)『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年、「阿部仁太郎碑」(豊平神社境内に立つ)、p.152
   嘉永六年(一八五三)二月に当時の青森県北津軽郡に生まれ、明治十三年四月父とともに渡道。
 (3)『北海道人名辞書』1914年(札幌市教委編『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年転載)、p.286 
   嘉永六年二月渡島国上磯郡茂辺地村の漁業家野口菊次郎の末子に生れ(ママ)、幼少出でて同村の阿部丑太郎の養子となる。
 (4)『豊平神社七十年誌』1953年、p.2
   阿部仁太郎の父は津軽の人であつて、仁太郎は嘉永六年二月渡島国上磯郡茂辺地村で生れ(ママ)、明治二年十七才の時寿都に出たが、…
 
 文献によって齟齬があるが、本人または父のいずれかが津軽の出身と思われる。

2017/06/13

阿部神社 ③

 厚別中央3条2丁目の運輸・建設企業T社を訪れ、かくかくしかじかお尋ねしました。
 応対してくださった総務部長さん曰く「おっしゃっているものかどうかわかりませんが、屋上に神社があります」と。さっそく、その屋上にご案内していただき、神社を拝ませていただきました。
厚別中央3条2丁目 猿賀神社
 私は旭町あらため厚別中央に住んで四半世紀余りになりますが、T社のビル屋上にこんな祠が祀られていたとは知らなかった。本物件は私の自宅から700mほどの至近距離にあるにもかかわらず、です。
 何か既視感が漂います。私は6月10日ブログにも、同じことを記しました。奇しくもというべきか、サンピ「副都心の鐘」に続く‘屋上物件’です。潜在意識下で、‘屋上’に閃いたのかもしれません。
 地元のことを知らない自分に気づく一方、知らないことが多いのは、知る悦びがそれだけ多いともいえます。とまれ、国道沿いからT社のビルを見上げて抱いた予感が、的中しました。これは推理する愉しみでもあります。遠くへ旅行しなくても、こんな身近な時空逍遥で愉悦に浸れるのはありがたい。青い鳥は身近なところにいるのだなあ。

 …と感慨はこれくらいにして、次なる疑問を推理します。すなわち、「この神社は、阿部神社(旭町神社)なのか?」という肝心な問題です。[つづく] 

2017/06/12

阿部神社 ②

 昨日ブログで記した「阿部神社(旭町神社)」があった場所は、現在どうなっているか? 古地図に照らして現地に行ってみました。
三里川 たいよう橋
 厚別中央3条2丁目です(画像は本年4月撮影)。三里川が流れ、「たいよう橋」という橋が架かっています。
 画像奥は、T社という運輸・建設業の会社の敷地です。この橋を渡るとすぐ、会社の私有地になります。橋は「たいよう」という名前からして、どうやら私設らしい。
 くだんの神社があった場所はちょうどこの川の橋のたもと、会社側の地点になります。予想していたことではありますが、社祠らしきものはまったくありません。

 ところで、『さっぽろ文庫29 札幌の寺社』1986年によると、「信濃神社」の項に「昭和19年旭町神社を合祀」と記されています(p.271)。旭町神社は阿部神社の別称らしいので、私がもし最初にこの記述を読んでいたら、阿部神社の行方探しをする気は起きなかったでしょう。信濃神社に合祀されたのであれば、現在地には何も遺っていないだろうと思い込むところです。実際、現地を見ても痕跡は見当たらない。

 しかし。幸いなことにというべきか、信濃神社に合祀されたとは知らなかった。そして、長年時空逍遥してきた勘というか、嗅覚が、私をして「現地には何か、あるにちがいない」と思わしめました。
 そのきっかけは、こちらです。
厚別中央3条2丁目 T社社屋
 前述のT社の、国道12号に面する社屋です。黄色の矢印の先、屋上にふと目が行きました。

 あの植込みは何だろう?
厚別中央3条2丁目 T社 屋上
 屋上庭園があるのか? ひょっとしたら…。
 思い切って、T社を尋ねました。[つづく]
 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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