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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/05/18

“オマージュ田上さん”な住宅

“なんちゃって田上さん”な住宅 厚別区
 ツーバイフォー工法を得意とするハウスメーカーM社の設計施工でしょうか。

 そのM社が1998(平成10)年に建てた住宅、もとい住宅を再現した建物です。
旧小熊宅 再現 2018年撮影
 五角形窓、ブロークンペディメントの軒廻り、1階腰壁の横羽目板、それぞれの色合いなど、前掲の住宅は本件が意識されているように窺えます。

 そのオリジナルは1927(昭和2)年に建てられました。
旧小熊宅 1998年撮影
 田上さんの設計です(2018.5.2ブログ参照)。

 その源流はやはり、このあたりにあるような気配です。
ムーア宅 米国イリノイ州オークパーク 1997年撮影 別アングル
 米国イリノイ州オークパーク、ムーア宅1895年、1923年、ライト設計(1997年撮影、5月10日ブログ参照)。

 五角形窓のモチーフは、こちらでしょうか。
米国オークパーク ゴルベック宅1915年、ト-ルマッジ&ワトソン(1997年撮影) 
 同、ゴルペック宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン設計(1997年撮影)。

米国オークパーク マシュー宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン(1996年撮影)
 同、マシュー宅1904年、ト-ルマッジ&ワトソン設計(1996年撮影)。

 これらに照らして田上さんを鑑みると、深い軒に突き出した柱型やナナメに割った窓桟など、独自な強調というか深化が感じられます。一方、冒頭画像に戻ると、田上さんの“過激さ”が薄められたかの印象です。いや、それは私が勝手にオマージュを嗅ぎとったがゆえの偏見的解釈にすぎないのですが。
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2019/05/06

ひばりが丘の過去、近過去、現在 ②

 昨日ブログに続き、新さっぽろ~ひばりが丘の近過去です。

 市営住宅ひばりが丘団地の東地区を1989(平成元)年に撮りました。
ひばりが丘団地 東地区 ひばりが丘通 1989年撮影
 ブロック造の2階建てが並んでいます。1960年代前半(昭和30年代後半)に建てられました。コンクリートブロックの建材+集合住宅は、積雪寒冷の気候風土に適った生活様式のいわば切り札として登場したと思います(末注①)。2DK~3DKの間取りは、庶民にとって憧憬であったことでしょう。これは私自身の個人的原体験(末注②)とともに、三十数年前、同じ厚別区の市営住宅もみじ台団地に住む4人家族(夫婦+幼い子二人)の若奥さんからお聞きした話からの一般化です。“夢の団地生活”でした。現在の分譲マンションの3LDKや4LDKは“夢のまた夢”だった。

 同じ場所の現在の風景です。
ひばりが丘団地 東地区 なんちゃってサイロ 2017年撮影
 2017(平成29)年に撮りました。東集会所が建ち、“なんちゃってサイロ”が添えられています。こちらは1992(平成4)年頃建てられました(末注③)。
 私も一員である「厚別区民歴史文化の会」は厚別の歴史に関してかなりマニア度の高い集まりです。それでも、メンバーの方から「東集会所のほうのサイロは、古くないですよねえ」と訊かれたことがありした。記憶は薄れつつあるものです。あと10年もしたら(いや、もうすでに今も)こちらもホンモノだったと想われるかもしれません。
 
 それはそれとして、フィニアル(尖頂飾り)は風見鶏のようですね。
ひばりが丘団地 東集会所 なんちゃってサイロ 風見鶏
 “ひばり” が丘だけど、鶏か。

 ちなみに、西集会所のホンモノサイロのほうは…
ひばりが丘団地 西集会所 旧馬場牧場サイロ 風見馬
 風見馬です。
 元の持ち主の苗字、馬場さんに因んだか。念のため申し添えると、もともと付いていたものではありません。かつてのサイロのてっぺんは尖針のみでした。2014.11.7ブログに掲載した1977(昭和52)年当時の写真をご参照ください。昨日ブログ牧場現役時の古写真を見ても、装飾はないようです。

 風見馬は1987(昭和62)年、修復工事をしたときに取り付けられました。当時の新聞記事が次のように報じています(北海道新聞1987年1月6日「さっぽろ市内板」ページ記事「トンガリ屋根も美しく 『風見馬』クルクル」、太字)。
 札幌軟石を積み上げたサイロ本体はしっかりしていたが、屋根の牧草取り出し口の扉などの傷みが激しく、市建築局で昨年10月から五百万円をかけて修理していた。
 雪が滑りやすいように屋根を途中で折って角度を付けてあるのが当時のサイロの特徴。特殊な技術が必要なため、宮大工が屋根裏の小屋組みの木材を取り換えた上で、45㎝四方の鉄板を昔ながらに張り合わせた。風見馬は高さ1.7mのアルミ製。
(中略)
 内部が直径7mと狭く、構造補強の工事をしていないため公開はしていないが、「ウチの団地の自慢を一度見に来ませんか」と住民は鼻高々だ。

 風見馬の高さ1.7mとは、下から眺めて感じるよりも高いですね。人の背丈もあるとは。「鼻高々」だったかはともかく、原風景を現風景に遺し伝えるためにご苦労がありました。記録に留めておきたい。

 注①:北の生活文庫企画編集会議編『北の生活文庫5 北海道の衣食と住まい』1997年、pp.201-202、足達富士夫『北の住まいと町並み』1990年、pp.122-129
 注②2017.11.21ブログ「製紙工場の近未来的郷愁 苫小牧で時空逍遥 ③」参照
注③:札幌市建築局資料「ひばりが丘団地建替事業 新住宅建設計画図」によると、当該東集会所の建設年度は1992年となっていることに基づく。ただしこれは「計画図」いわば未来形である。実績ではない。実は私自身、正確な建築年がさだかでない。

2019/05/05

ひばりが丘の過去、近過去、現在

 新さっぽろのカラオケ店での「写真でたどる新さっぽろ歴史散歩」は、楽しいひとときでした。
 と、メインスピーカーの私が言うのは手前味噌ですが、カラオケの大部屋でこういう催しもいいなあと感じました。頃合いのいい人数と空間です。写真などをモニター画面で映しながら語る私の話に、参加者が入れてくださる“合いの手”が絶妙でした。「その話題、次に用意してました!」と、我が意を得たことがたびたびあったのです。こういう催しで毎度体験することながら、参加者から教えていただくことが必ずあり、今回も私自身が“ため”になりました。双方向の送受信で、新たな視野も拡がるのですね。おいでいただいた方、主催した「カラオケピロス」店長のKさん、仲間の皆さんに感謝します。

 私は今回、“新さっぽろの近過去”をテーマにしました。厚別区が分区されて30年という節目でもあり、私もまた新さっぽろ周辺に住んで30年近くたとうとしています。公私ともども、ちょうどこの30年を歴史的に振り返る時期です。
 
 準備のために資料をひっくり返して、こんな写真を“再発見”しました。
旧馬場牧場サイロ 1989年サイロ
 1989(平成元)年4月30日に撮ったものです。まさに30年前。

 ほぼ同じ場所を、2014(平成26)年11月にも撮っています。
旧馬場牧場サイロ 2014年撮影 厚別西通りから
 撮ったときの経緯は同年11月6日ブログに記しました。 

 そのときは、こちらの古写真との比較だけにとどまっていたのですが…
馬場牧場 古写真
 昭和戦前期、あるいは遅くとも昭和20年代撮影と想われます。
 
 このたび冒頭掲載の近過去写真を見て、文字どおり視野(というか視界)が新たに拡がりました。サイロの後景が広い。のみならず前景も、パースペクテイブです。大規模市営住宅団地「ひばりが丘」の、しかも昭和60年代の建替え以降にもかかわらず、“空気”が牧場の現役当時に近い。街路樹の生長は市街地の成熟として肯定的に評価すべきしょうが、それは措きます。
 冒頭1989年写真は、2枚目の2014年写真との間は25年、3枚目のモノクロとの間は40~50年あるいはそれ以上の隔たりです。年数だけでなく風景の同一性は本来、1989年と2014年でくくられるべきでしょう。再び「にもかかわらず」、私は1989年の市住の風景に牧場当時との近似性を感じてしまいました。

 1989年と2014年の25年間の近過去にも、変化がある。その当然のことに気づきました。この3枚、こんどの厚別歴史写真展で一緒に並べたらどうかな。

2019/04/16

「戸惑う学校」の記事に戸惑う私

 本日もまた、お知らせから。
 札幌の月刊誌『O.tone』の今月号(Vol.126)が発行されました。
O.tone126号 表紙O.tone126号 特集中扉
 「ディープな札幌街歩き」が特集されています。

 その中の「街路のずれ」というページで札幌の街を紹介しました。私が関わったその部分はともかく、ほかに「碑・像」「自然」「建物」など興味深いあれこれが載っています。どうぞご覧ください。定価680円、市内の書店、コンビニなどで発売中です。

 例によってその“余話”もお伝えしたいのですが…。先に本日の北海道新聞朝刊札幌圏版の記事のことから。
道新2019.4.16札幌圏版記事 「百年記念塔解体 戸惑う学校」
 「百年記念塔解体 戸惑う学校」です(電子版にも本日付で一部掲載)。

 北海道百年記念塔の解体に伴い、校歌や校章に採り入れられている学校の反応が報じられています。校歌や校章を残すか変えるか「教育関係者も二分」という見出しです。本文で私のコメントも以下のとおり記されています(太字)。
 アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたことを受け入れ、教訓にするためにも残すことに意味がある」と別の観点から「変えるべきではない」と考える。

 二点ほど補足させてください。
 第一。「アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたことを受け入れ」の「受け入れ」は、私の真意としては「受け止め」です。「受け入れ」というと、「アイヌ民族の歴史に配慮せずに建設されたこと」自体を是認・肯定するかのごとく解されるおそれがあります。
 第二。「変えるべきではない」は、私には校歌・校章を「何が何でも残すべきだ」のような語感がします。私自身の心情・信条では「残した方がいい」のほうが近い。「変えるべきだ」を10、「残すべきだ」を0とすると、私の数値は3くらいです。
 
 次は記事に対する感想です。
 前述の「教育関係者も二分」という見出しについて。
 私は昨年、記念塔が校歌・校章に用いられている学校(の校長または教頭先生)にお尋ねしました。「記念塔の行方に関わり、校歌・校章について校内で話題になっているか?」です(2018.11.30ブログ参照)。まだ解体が“正式決定”される前だったということもあるかもしれませんが、おおかたは「記念塔のことが報じられているのは承知しているが、そのことで校歌・校章を話題にしていることはない」とのお答えでした。
 応対してくださった先生方の個人的ご意見としては「解体されたからといって、校歌・校章を変えるべきだとは思わない」がほとんどだったと記憶しています。そのことはこの記事の取材を受けたときに記者の方にもお伝えしたのですが、見出しでは前述のとおりとなりました。おそらくその後の独自取材の結果が反映しているのでしょう。あるいは、この見出しが訴求力があると整理部が判断されたのかもしれません。ただ、自分がそうだから言う訳ではありませんが、「二分」といっても教育関係者の心情・信条は前述の0か10かではなく、さまざまな連続帯ではないかと私は察します。文字どおり二分法的にラべリングするのは、少しく疑問を抱きました。
 まあ、仮に「二分」されても、いいとも思います。いうまでもなく、それぞれの学校で熟議して決めればよいことです。同じ方向性を定めるべきテーマでもありません。

2019/02/23

なゐ その後

 母は、地震の直後には「生まれてこのかた、こんなに揺れたことないわ~」とおびえていました。しかし老人力が弥増したおかげで、翌日にはけろっとしています。朝刊の見出しに「こんな大きな地震があったのぉ?」と驚いた様子です。怖い体験を忘れられるのは羨ましくもあります。とはいえ、私が抱きしめてあげたことも記憶に残っていないようなので、ちょっと悲しいのですが。もっとも、表面的な記憶からは消されても、心の奥底に刻まれているのかもしれません。なので、抱きしめてあげたことも、カラダが覚えていると信じたい。

2019/02/21

なゐ 再び

 私の住む厚別区は震度4と報じられました。昨年9月の胆振東部地震では震度5弱だったのですが、今回の方が揺れが強かったように感じました。実際の震度と“体感震度”は違うのでしょうかね。前回、拙宅の書斎は本や書類がナダレを起こした(2018.9.7ブログ参照)のですが、今回は生じていません。前回は未明で眠っていたのと、今回は起きていたことの違いか。NHKのニュースを観ていて緊急地震速報のテロップが流れ、却って恐怖感が弥増したような気もします。「いったいどんな揺れに襲われるのだろう?」という、未知なものへの畏れ。前回はタテ揺れがどんと来た記憶が残っていますが、今回はヨコ揺れが長かった感じです。長周期地震動がどうだったか、知りたいところです。
 母は一足先に床に就いていたのですが、「こわい~」と言ったので、また抱きしめてあげました。

2019/01/01

謹賀新年2019

 明けましておめでとうございます。
新年飾り2019
 恒例となりました母の薬莢(2016.12.9ブログ参照)です。母に生けてもらいました。
 
 時空逍遥初めは、もう一つの例の薬莢(2016.10.24ブログ2017.3.5ブログ参照)から始めます。
 上野幌神社に詣でました。
上野幌神社 2019初詣
 薬莢が破魔矢入れに使われているのを、この眼で確かめたかったのです。 

 薬莢は社務所にしかと置かれていましたが、残念ながら破魔矢が入ってません。
上野幌神社 社務所 破魔矢入れ
 初詣というと前掲の神社の画像は年明け早々に見えますが、実は午後5時前です。混雑を避けたつもりが仇となりました。社務所の方に伺うと、「今年は思いのほか人気があって…」午後3時頃売り切れてしまったそうです。私の後にも二人くらい破魔矢を求める方がいたので、例年は夕方でも残っていたのでしょう。お一人は「毎年買えたのに…」と残念がっていました。もしかして、先月6日のuhb「みんなのテレビ」で紹介された(2018.12.4ブログ参照)ことが影響した? 

 写真を撮らせてもらったとき、私は「この破魔矢入れはもともと薬莢だったと聞いているので…」と切り出したところ、社務所におられたどなたもご存じなかったようです。たぶん氏子さんが当番で詰めておられたのだと思いますが、「薬莢」と言ってもピンとこない様子で、私がかくかくしかじか申した話を「へぇ」と受け止めておられました。

 母のためにご朱印をもらってきました。  
ご朱印 上野幌神社2019
 母は昨今のブームになる前、古くからのご朱印マニアです。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 

2018/12/27

「ほっかいどう歴史・文化自然『体感』交流空間構想」の行間を読む

 北海道は本日、標記「構想」を、公表しました。
 詳細は下記北海道サイトをご参照ください。
 ↓
 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/saiseikoso.htm
 
 懸案の一つであった北海道百年記念塔については、「解体もやむを得ないと判断し、耐久性や維持コストにも配慮した新たなモニュメントを配置した交流空間とする(発展的継承)」(同構想「概要」)としています。「解体する」とハッキリ言い切っていないところが気になりました。「解体やむを得ない」ではなく、「解体やむを得ない」。この「も」はどういう意味でしょうかね。これだけだと、「解体もやむを得ないと判断し」たけども、解体するかしないかは未定とも読み取れます。
 同構想の本文「今後の方向性」の該当箇所は次のとおりです(p.9、引用太字)。
 解体もやむを得ないと判断し、その跡地には、新たなモニュメントを設置することとします(発展的継承)。
 ここでも「解体する」とは書かれていないが、「その跡地には」と入っている。「跡地」という以上、解体することを前提としているのでしょう。しかし「解体する」と断定形では書ききれなかった執筆者の思いを、私は穿ってしまいます。

 「具体的な取組」として、「学校の校歌や校章に使用されるなど、地域のシンボルとして根付いている百年記念塔に関する思い出や記憶をとりまとめ、保存するための取組等の実施」とあります(p.10)。これは、本年9月に出された「素案」の段階では「百年記念塔に関する思い出や記憶をとりまとめ、保存するための取組等の実施」でした(p.9)。「学校の校歌や校章に使用されるなど、地域のシンボルとして根付いている」という修飾句が付いています。9-10月に実施されたパブリックコメントを経て、11月にまとめられた「構想(案)」の段階で加えられたものです。春先から拙ブログなどで「校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔」を綴り、折りに触れ新聞で報じてもらったりもしました(この「もらったりも」の「も」は、付加の意)。その私は、少なからぬ感慨を覚えます。

 ちょうど今日、「札幌啓成高新聞」の最新号(第183号)が私の手元に送られてきました。
札幌啓成高新聞 第183号 記念塔記事
 11月4日に開催した札幌建築鑑賞会「札幌百科」第16回「どうなるどうする北海道百年記念塔」(本年10月9日11月3日ほかブログ参照)について報じてもらっています。
 新聞局の生徒さんから添えられた礼状に、次のように書かれていました(引用太字)。
 鑑賞会では記念塔建築の裏話や建築中の写真や詳しい分析など普段触れることができないものに触れ、貴重な体験ができました。設計者の井口さんのお話を直接聞くことができたのは 改めて塔の意義を考え直すきっかけになりました。

 こちらこそ、刺激を受けました。同紙前号(本年11月8日ブログ参照)に変わらず、他の記事も秀逸です。定期購読したくなりました。

2018/12/17

「新さっぽろ副都心」形成の模式図

 「新さっぽろ副都心」が造られる経過を模式図化してみました。
厚別副都心 形成模式図
 「副都心的地域商業・業務地」(札幌市長期総合計画)の形成は、必然的帰結だったように思えます。

2018/12/10

JR新札幌駅の原名②

 12月8日ブログの続きです。JR新札幌駅の開業前の仮称は「下野幌」でした。
 が、別の名前もありました。

 『広報さっぽろ』1971(昭和46)年5月号です。
広報さっぽろ1971年5月号 厚別副都心
 この年度の予算を説明する特集に「副都心として整備する厚別地区」の略図が載っています(p.2)。

 赤い下線を加筆したところを拡大すると…
広報さっぽろ1971年5月号 厚別副都心 新厚別駅
 「新厚別駅」と書かれています。

 この特集の本文を一部引用します(p.1、引用太字)。
 厚別ニュータウンは、厚別副都心団地(下野幌第二)、もみじ台団地(下野幌第三)、の造成が進み、装いを整えはじめています。(中略)
 また、国鉄千歳線たんらく線の高架工事と駅舎(仮称新厚別駅)の建築が、この団地内で行なわれることになっており、これに合わせて駅前広場一万四千平方メートルの造成を開始します。 
 
 本文中でも「仮称新厚別駅」です。当時の札幌市の副都心関係の史料を見ると、やはり「新厚別駅」が散見されました(末注)。前回ブログで孫引きした文献の刊行年は1971(昭和46)年でした。前述の広報も同年です。新駅の仮称は同じ時期に「下野幌」と「新厚別」が併存していたとみられます。
 余談ながら、前掲略図の「千歳線」に目を引かれました。カッコ内に「将来は一部撤去、一部が貨物専用線となる」と書かれています。旧千歳線は残存される予定だったのか。

 注:『厚別副都心団地中心施設等に関する基本設計書』1972年、p.46ほか

2018.12.11ブログに関連事項追記

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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