札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/15

小野幌 Nさん宅 

 昨日ブログと同じく、小野幌のJR函館線南東側、こちらはNさん宅の納屋です。
厚別東5条 Nさん宅納屋
 Nさんによると、建てられたのは「昭和20年代の後半」で、昨日のHさんと同じく、馬小屋ではなく納屋でした。

 Nさんには「水恋橋」のことをお尋ねしました(一昨日ブログ参照)。Nさん宅は試験場線に面していて、JRの西通り踏切のすぐ近くなので、試験場線と西通り踏切のこともお訊きしました。西通り踏切については、「踏切に名前が付いているのは知っていたが、なぜ付けられたかは判らない。昔は(銘鈑は)付いていなかった。JRになってから付けられたと思う」とのことでした。ちなみに、Nさん宅の近くにHさんというお宅があります。昨日ブログでお伝えしたHさんとは別です。小野幌には明治期、Hさんという入植者が2軒あり、さらにその子孫が分家して、Hさんというお宅が多くあります。Nさん宅近くのHさんも小野幌に生まれ育ちの方で、踏切にその名前が付いているのはやはりご存じでしたが、由来は「言われてみれば、なんでだろう?」ということでした。
 いまのところ3軒の方に伺いましたが(本年5月にお訪ねした鉄路北西側のFさんも含めると4軒)、明確な答えは得られていません。ただ、これまで考察してきた小野幌地区の成り立ちからすると、かつての江別村の野幌(屯田兵村公有地)の「西通り」という線が強いように思います(11月1日ブログ参照)。

 試験場線については、NさんもHさんも、目の前の道をそういう名前で呼び慣わした記憶はないそうです。Nさんは「昔、天皇陛下が野幌の試験場に来るのに合わせて、道に砂利を敷いて整備したとは聞いている」とのことでした。このことは『野幌開基百年』1968年に、次のように記されています(p.235、引用太字)。
 この道路は試験場線(試験場通)と言い、昭和十一年大演習の折り、野幌原始林に行幸せられ、国有林内に国道並の道路を作るのに工事用道路として改修され当時既に自動車も通れたそうです。
 
 私は当初、この道を昭和天皇が行幸で通ったのかと思って色めいたのですが、そうではなく、行幸に合わせて整備されたのでした。行幸の行程は別でした。それにしても、この道はもともと「開道五○年記念博覧会の記念事業」として拓かれた(同書、11月2日ブログ参照)といいますから、何かと歴史の節目にまつわってはいます。
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2017/11/14

小野幌 Hさん宅納屋

 小野幌のJR函館線南東側、Hさん宅の納屋です。
厚別東5条 Hさん宅納屋
 Hさん宅は明治中期に富山から入植し、現在のご当主で5代目になります。かつてはやはり水田稲作が主で、一部畑作(バレイショ、トウキビ)だったそうです。水田は昭和40年代までで、現在の畑地は自家用のみとのこと。
 腰折れ屋根の大きな納屋が建てられたのは「昭和20年代、いやもっと前かもしれない」と。米軍1948年撮影の空中写真を見ると、どうも納屋らしき建物が写っているようにも見えます。稲作の脱穀機などを入れる納屋として使っていたということです。私は馬小屋だったのかなと思いましたが、馬小屋はもう一棟、別にあったそうです。たしかに、馬小屋にしては大きい。
 Hさんにも水恋橋や西通り踏切のことをお訊きしましたが、残念ながら心当たりはないとのことでした。

2017/11/13

電柱 水恋幹

 電柱「水恋幹」は、野津幌川に架かる橋の名前に由来するようです。
水恋橋 橋名板①
 水恋橋。

 「みずこいばし」と読みます。
水恋橋 橋名板②
 架かっているのは、国道12号の旧道です。

 1961(昭和36)年の空中写真で、その位置を確認します。
空中写真 1961年 小野幌 水恋橋周辺
 黄色の○で囲ったところです。橙色で加筆したのが国道(江別街道)の旧道です。明治期は濃茶色でなぞった道がさらにその旧道でしたが、大正期には橙色のほうに付け替わっていて、こちらが主流になっています。つまり、橋名はともかくとして、橋はその頃から架かっていたということです。

 国道は昭和30年代、この旧道からさらに新道に付け替えられます。この画像では、新道がちょうど工事中のようです。新道上で野津幌川にまだ橋が架かっていません(末注)。『さっぽろ文庫8 札幌の橋』1979年によると、水恋橋の架設年は1963(昭和38)年です(巻末「橋梁一覧表」)。国道の新道の野津幌川橋は架けられたのは1962(昭和37)年というので、水恋橋の1963年というのは市道への管理替えの年かもしれません。
 ちなみに、電柱「水恋幹」は、この橋から橙色の旧道沿いにかけて、小野幌の鉄路南東部周辺で確認されました。昨日ブログにも記したように、このあたりは比較的最近まで、前掲画像に見られるような散居村的風景でした。電柱命名の目安としては橋の名前が手頃だったのでしょう。電電公社の担当者が「水恋」という名前に惹かれたのかもしれません。

 さて、その「水恋」の由来は如何?
 小野幌に古くからお住まいのNさん(1939=昭和14年お生まれ)にお訊きしましたが「昔は(橋の)名前はなかったと思う。いつのころからか、水恋橋と付けられたが…」とのことです。
 『小野幌開基百年』1988年に、次の記述があります(p.75、引用太字)。
 小野幌の水田耕作は、明治二四年頃秋本槌五郎によって四反歩(約四十a)程度試作されたことに始まります。
 その後入植者が増加し、稲作の普及で水田の面積が拡張され、加えて上流地域の樹木の伐採の影響で、明治末期頃には、小野津幌川や野津幌川の自然流水のみでは、耕作が不可能となる水田も出はじめました。
 当時、造田熱は所要用水量を越えて、無計画に造られ、雨が降れば水が溜まるので、「雨降り田圃」とか「水溜り式田圃」とも言われたようです。
 用水源の小野津幌川、野津幌川は、両者共融雪期を除く期間の流水は少ない小河川です。夏季における水量の確保が大きな課題でした。両川の下流地帯の三十町歩(約三十ha)は、殆んど収穫が皆無(大正十五年当時)という状態でありました。

 
 橋名の由来に直接言及する箇所は見つけられませんでしたが、当時の稲作農家のいかにも「水恋」しい様子が伝わってきます。『小野幌開基百年』はNさんのお父さんらが編集委員になってまとめられたものです。今となっては、橋の命名をご存じの方がご健在かどうか。私としては前述の引用をもって橋名の由来を想像することとしたいのですが、いかがでしょう。

 注:国道(江別街道)は、前掲『小野幌開基百年』によると、旧旧道(濃茶色)から旧道(橙色)に付け替わったのが1915(大正4)年、新道ができたのは1961(昭和36)年という(pp.234-235)。しかし前述したように、1961年空中写真を見る限り、新道はその時点で完全には通じていない。

2017/11/12

小野幌の散居村

 先日来話題にしている小野幌は、現在の町名でいうと厚別区厚別北、厚別東です。
 厚別北すなわちJR函館線の北西側は宅地化が進んでいますが、南東側の厚別東は宅地化されていない空地や畑地が散在しています。鉄路と国道12号の間にはさまれたあたりです。
厚別東5条 Hさん宅納屋
 このあたりにも、私は土地柄の違いを感じてしまいます(11月1日ブログ参照)。
 
 郷土誌『小野幌開基百年』1988年を見ると、明治中期、入植が進んだのは鉄路の南東側(現在の厚別東)でした(pp.44-50)。南東側のほうが細かく地割され、家屋の密度も高かったことが窺われます。地盤、地質的な違いもあったのではないかと思います(10月31日ブログ参照)。その違いは昭和戦後も続きます。

 10月28日ブログに載せた1947年米軍撮影の空中写真を再掲します(国土地理院サイトから)。
空中写真1947年米軍 厚別 試験場線クランク 拡大
 朱線で着色加筆したのが試験場線、赤い▲の先が函館線の西通り踏切です。鉄路の北西側と南東側で人家の‘まばら具合’が異なります。南東側のほうが密度が高い。
 
 余談ながら(余談ばかりですが)、小野幌は富山からの入植者が多く、鉄路の南東側には「越中山」という地名がありました(本年5月5日ブログ参照)。それで妄想してしまったのですが、このあたりの家屋の散らばり具合が、富山の散居村のように見えてきました。これはあながち妄想とはいえないかもしれない(散居村については富山県砺波市サイト参照)。 

 話を本題に戻します。
 何が今日の本題かというと、小野幌がなぜ、鉄路の北西側と南東側で、現在に至る宅地化の度合いが違っているか、です。
 1976年の空中写真です(同じく国土地理院サイト)。
空中写真 1976年 小野幌周辺
 黒線でなぞった鉄路の北西側で、大規模な宅地造成が進んでいます。一方、南東側は、国道12号の南東部は区画整理が見られますが、鉄路と国道の間は散居村状態が続いています。
 つまり、もともと入植の密度が高かったところが往時の面影を残し、密度の低いところのほうが開発が進んだということです。逆転現象が起きた。まあ当たり前といえば当たり前なのでしょう。

 ところで、冒頭に載せた画像をもう一度ご覧ください。
 厚別東5条のHさん宅の付近です。後景に写る木造下見板貼り腰折れ屋根の納屋もさることながら、手前の電柱が気になり、こんな構図で撮ってしまいました。

 電柱は…。
厚別東 電柱 水恋幹
 「水恋幹」です。

2017/11/11

市道官林北線 南線 東線 ③

 昨日ブログの続きです。
 明治初~中期、野幌官林が小野幌の鉄路南東側まで広がっていたと想定します。そのエリアを薄緑色の線でなぞってみました。
昭和10年地形図 野幌官林 想定 南線 想定
 実際どこまで官林とされていたか、一次史料の裏付けがないというそもそもの問題は措くとしましょう。それでも、問題は残ります。
 現在の官林北線、南線、東線に当たる道が確認できるのは、大正5年地形図です。小野幌の鉄路南東側が払い下げられた明治中期以前、これらの道があったかどうか。道ができたのが大正期以降だとすると、この一帯はもはや野幌国有林ではありません。あとになってできた道に、官林と付けるか。仮に付けるにしても、北、南、東の位置関係は不自然さが否めません。

 B説を考えます。
 一昨日のブログに、「南線は小野幌川沿いに官林東線まで伸びているよう」に見えるというコメントをいただきました。前掲図で、南線(橙色)の延長を破線でなぞってみました。野幌国有林の「南」という位置関係が納得できます。では「東線」(黄色)はどうか。東線は野幌国有林の東側に通じています。

 一昨日いただいたコメントには「試験場線の接続道路」ではないかというご指摘も含まれていました。試験場≒官林への道(赤色)の北、南、東に位置するそれぞれの道、という位置づけです。試験場線自体「試験場に至る道」という意味合いが強いので、説得力があります。

2017/11/10

市道官林北線 南線 東線 ②

 市道官林北、南、東線の謎(といえるか?)について、考察します。
 昭和10年地形図に、該当する道を着色加筆しました。
昭和10年地形図 野幌国有林
 赤:試験場線 黄:官林東線 橙:官林南線 桃:官林北線

 二説、思いつきました。
 A当該道路の一帯も、もともと「官林」だった。
 B各道路の延長が、それぞれ野幌官林の北、南、東に位置する。

 A説は、小野幌の一帯が「官林」だったと考えたものです。『小野幌百年』1988年によると、小野幌の鉄路南東側は明治中~後期に払下げされています(pp.43-44)。北海道庁(当時)が有力者に土地を払い下げて開拓を進めた政策によります(末注①)。払い下げられる前は国有地でした(明治新政府が先住民を度外視したものだが)。官林の域内だった可能性もあります(末注②)。[つづく]

 注①:2016.11.11ブログ参照
 注②:松山潤「野幌原始林は残った」『叢書 江別に生きる10 野幌原始林物語』2002年によると、関矢孫左衛門が1892(明治25)年にしたためた書面に次のように記されている(p.72、引用太字)。
 御料林は石狩大原野の丘陵をなし白石、月寒、江別、対雁に跨り広茫数里四方にして樹林鬱蒼、水理を涵養し(後略)
 現在の野幌森林公園よりも広域だったと推測される。当時の村界は野津幌川なので、白石村まで御料林だったとすると、小野幌(当時江別村)もその中に含まれていたかもしれない。

2017/11/09

市道官林北線 南線 東線

 第8回厚別歴史写真パネル展が近づいてきました。
第8回厚別歴史写真パネル展 チラシ
 期間中に開催される「交流・談話会」、私は11月28日(火)午後2時から「厚別おもしろ地名考」をテーマにして話題提供します。それから30日(木)午後2時からの「旭町と阿部仁太郎」、ご子孫を囲んでの文字どおり談話会に参加します。その他については下記札幌市厚別区サイトをご参照ください。

http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_ivent.html#H29rekisipaneru

 「厚別おもしろ地名考」の材料を調べているうちに、判らないことが判ってきました。と言いたいところですが、逆に判らないことが新たに出てきました。10月23日ブログで触れた「官林東線」です。野幌国有林の西側の道路がなぜ、「官林東線」か?

 札幌市厚別区の認定道路網図をしげしげ見たら、官林東線のみならず「官林北線」と「官林南線」という市道が気になりました。
厚別区認定道路網図 官林東線 官林南線 官林北線
 方位は11時の向きが北、着色加筆は以下のとおりです。
 黒:JR函館線 濃い茶:国道12号 赤:試験場線 黄:官林東線 橙:官林南線 桃:官林北線 緑:野幌森林公園(濃い緑:野幌国有林)

 鉄路の北側と南側に、官林北線と官林南線が通じているのです。北、南、東という呼称が、野幌国有林との位置関係では理解できません。

 官林南線は鉄路のすぐ南側に沿っています。
市道官林南線 試験場線から東望
 この「官林」というのは、鉄道と関係するのだろうか?

2017/11/08

厚別弾薬庫の地形

 11月5日ブログの続きです。
 厚別弾薬庫周辺の図面(1964年現況図)の縮尺を所蔵先の札幌市公文書館で確かめてきました。1/3,000でした。
現況図 昭和39年 厚別弾薬庫周辺 拡大 等高線

 等高線はやはり主曲線(細い実線)の間隔で1m、計曲線(太い実線)で5mでした。画像の黄色の線を加筆したところに標高の数値が書かれています。黄色線の右上矢印の先の計曲線が20(m)で、1mごとの主曲線が21、22、23、24と書かれ、左下矢印の先の計曲線が25です。主曲線の間隔(1m)を赤い線で加筆しました。なお、0.5m間隔の補助曲線も破線で描かれています。

 標高の高いところにも数値が記され、28.1とか28.2と読めます。図面全体を見渡すと、弾薬庫敷地のもっとも低いところで15m、高いところで29mで、比高は14mになります。やはり、現在より起伏が激しい。この図面から、断面図を起こしてみたいと思いますが、しばしお待ちください。

 弾薬庫ができる前の昭和戦前期、この一帯で農業を営んでいたGさんにお会いしました(末注①)。Gさんは1932(昭和7)年生まれなので、正確にいうとGさんのお父さんの代です。1943(昭和18)年、Gさんが11歳のとき、弾薬庫造成のため移転を強いられました。Gさんへの聞取りにより、この一帯が沢地だったことを確かめることができました。Gさんの記憶では、幅1mくらいの川が流れていたそうです(末注②)。谷状地形の低いところで水田、高いところでは畑作をしていました。畑ではエンバク、ジャガイモ、亜麻などを作っていたとのことです。

 Gさんから教えていただいたもう一つは、前掲図に橙色の矢印で示した先です。Gさんによると、弾薬庫の正面を土盛りしていました。万一爆発したときに被害を最小限に防ぐための措置です。

注①:札幌郷土を掘る会『写真で見る札幌の戦跡』2010年には、弾薬庫について「敷地36ヘクタールの半分は元馬場牧場の牧草地、あとは野津幌川にかけて沢がつらなる湿地帯で、住民はいなかった」と記されている。しかし、実際にはGさん一家が住んでいた。また、Gさんによると、弾薬庫敷地の多くは金沢農場の農地が占めていた(Gさんは同農場の小作をしていた)。厚別中央歴史の会『厚別中央 人と歴史』2010年、pp.45-46参照
注②:陸上自衛隊厚別弾薬支処『厚別弾薬庫 開設十周年記念誌』1963年にも、「弾薬庫地域の中央を流れる小川に2尺近い鯉が昇ってきた」と記されている(p.21)。

2017/11/06

長部洋服店

 拙宅の近所にある洋服店です。
厚別 長部洋服店
 今月に入って、閉店しました。

 洋服店といっても、クリーニングの取り次ぎやお直しをしてくれる店で、拙宅の御用達でした。ズボンの裾直しとか、長年ここによくお願いしていました。まだ店が開いているとき「10日をもって閉店」という張り紙がしてあったのですが、10日を待たずにすでにシャッターが下りていました。妻は、閉店する前に店のおじさんにお礼を伝えたかったのですが、それがかなわず残念がっています。

 長部洋服店は、私がひばりが丘に住むようになった27年前よりも古くから、ここで営業していました。長いことお疲れ様でした。ひばり湯も閉湯したし(2015.3.31ブログ参照)、明星幼稚園と教会も新しくなったし、ひばりが丘団地のコミュニティゾーンも年々変わりつつあります。

2017/11/05

サンピアザの地形 再考

 私が住んでいる厚別区の「北海道新聞青葉中央販売所」のエリアで毎月1回、本紙に折込みされている「販売所だより」です。
厚別ブラ歩き №1
 先月から、この紙面で「厚別ブラ歩き」という連載記事を受け持っています。平岸地区で「道新りんご新聞」(2016.3.10ブログ参照)を編集しているBさんのお薦めで始めたものです。拙ブログの厚別ローカル版といったところです。10月の第1回は「新さっぽろ副都心」を取り上げました。JR新札幌駅やサンピアザ周辺の地形を切り口にして、その地形が新札幌副都心の成り立ちとどう関わるか、綴っています。地形と副都心を結びつけたのは旧陸軍の「厚別弾薬庫」(2016.10.18ブログ参照)です。

 このミニコミ紙が出るのは毎月5日で、本日第2回の記事が折込みされました。
厚別ブラ歩き №2
 第1回に続き、テーマは新さっぽろ副都心の成り立ちで、厚別弾薬庫のことを書いています。

 拙ブログでは、紙幅の都合で「販売所だより」に書ききれなかったことをスピンオフして紹介したいと思います。といっても、連載記事そのものをお読みいただけるのは、厚別区の青葉町や厚別中央などの限られた地域で、しかも道新を購読している方に限られます。ブログはブログで独立した読み物となるように努めます。

 さて、11月5日号の第2回には、厚別弾薬庫のあたりの1960年代の地形がわかる図面を載せました。当時の地形は国土地理院の5万分の1、2万5千分の1地形図でも掴めますが、今回載せた図面はそれらよりも大縮尺で詳細です。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺
 たぶん、これだけ詳細な図面はこれまで公開されたことがなかったのではないかと思います。本件図面は札幌市公文書館で所蔵されている札幌市の特定重要公文書「昭和39年度起案 厚別弾薬庫綴」に添付されていたものです。ちょくちょく同館に出入りしていて、同館のEさんから「こんな書類がありますよ」と教えていただき、見つけることができました。公文書館に所蔵されたのは昨年で、それまで市役所の担当課で保管されていました。厚別弾薬庫に関するこれまでの著述を裏付ける上で貴重な史料だと思います。

 厚別弾薬庫は戦後、米軍の接収を経て、陸上自衛隊の所管となっていました。その性格上、詳細な図面がオモテに出るのが容易でなかったことは、想像に難くありません。本件図面は、弾薬庫の南側に札幌市が市営住宅下野幌団地を造成するに当たり、弾薬庫敷地内に下水管を敷設する必要が生じて描かれたものです。そういう事情がなければ、この図面が札幌市に遺されることもなく、こんにち日の目を見ることもなかったでしょう。

 同年代の当該敷地を、国土地理院の空中写真で俯瞰することができます。
空中写真 1966年 厚別弾薬庫周辺
 1966年撮影です。前掲図面と照合すると、土地の様子を、より立体的に把握することができるかと思います。

 理解の手助けに、現在の状況を着色加筆しました。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺 着色加筆
 上方の橙色でなぞったのが国道12号、下方の黄色が南郷通です。南郷通はまだ完成していません。国鉄千歳線と新札幌駅を黒で加えました。もちろんまだ通っていません。サンピアザの位置を赤く囲いました。

 現在のサンピアザのあたりを拡大してみます。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺 拡大
  等高線がかなり細かい間隔で描かれています。主曲線(細い実線)が1m、計曲線(太い実線)が5mでないかと思いますが、間違っていたらすみません(末注)。画像中央の長方形に「火」と書かれています。火薬庫の印です。傾斜地をえぐるように切り土して弾薬庫が設けられたことが窺えます。もし主曲線の間隔を1mだとすると、弾薬庫の位置から斜面のもっとも高いところまで、15mくらいの高低差になります。現在、サンピアザの辺は高低差が5mもない(2016.10.17ブログ参照)ので、今よりもかなり起伏に富んでいたことが判ります。

 注:等高線に記されている標高数値がぼやけて判読できないので、再度公文書館に行って原図を確かめることとしたい。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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