札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
川沿10条1丁目のモニュメント ⑤
「ロマネット」は札幌の中心部からは消えてしまったのか。
私が覚えているロマネットの、もう一つの“成果品”です。

昨日ブログと同じく1994(平成6)年に撮りました。
道立近代美術館、知事公館の周辺です。パステルカラーとでもいうような色合いは美術館からの連想なのでしょうか。実はこの風景が、「札幌都心部ロマネット計画」に私が関心を抱くきっかけとなりました。たしか当時北海道美術館協力会の役員をされていたSさんから、「あれ、ひどいですね」とお聞きしたのです。「どうして、あんなデザインになってしまったんでしょうか?」とも言われました。上掲画像の歩道や街燈の色合いのことを指していたのだと思います。Sさんは近代美術館創設時(その前?)から支援活動を続けてこられ、周辺の街並みにはひとかたならぬ愛着をお持ちだったのでしょう。
そのSさんも交えた座談会の記録を、札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』から以下、一部引用します(末注)。
司会:Sさんがおっしゃったように、たとえば知事公館と植物園とのつながりに工夫するような、もうちょっと一体感のあるような街並みづくりがあってもと想いますね。都心部では「ロマネット計画」と称して、駅前通や美術館周辺などの整備が進んでいるようですが。
Y:都市計画がバラバラに進められているという感じがしますねよね。デザイナーは各々が自分の特徴を出そうとするだろうし。デザインに一貫性がほしいですね。
S:たとえば美術館周辺の歩道とかを見ても、ものすごく工夫したなというのはわかるんですが…。
Y:札幌に似合わないと思う。
S:似合わないですね。細部にこだわるというのは日本人の特徴なのでしょうけれど。北海道にはコセコセしたデザインというのは似合わないと思う。
Y:札幌に合ったものを、というのではなくて、どこか他の街のマネみたいな感じがしますね。
K:美術館のまわりの歩道の街灯や舗装の色は良くないですね。駅前通りにしても随分お金をかけているな、とは思うんだけど、あそこまでする必要があるのかな、と感じながらいつも歩いているんですが。
(中略)
S:一生懸命やっているというのは本当によくわかるんですけれど。出来上がる前に一度は市民に投げかけてほしいということがありますよね。美術感覚という点で必ずしも市民が優れているとは思いませんが。
文中「司会」は私が務めました。Sさんに限らず、ロマネットはほかの出席者の評判も芳しくありません。美術感覚が優れているとは到底言いがたい私は、正直言って「そんなものかな」という程度でした。
近代美術館周辺の現在です。


街燈のデザインは変わってませんが、歩道の舗装(インターロッキングブロック)は敷き替えられたようです。1994年当時と比べて色調が沈んでいます。もし今「どちらを推すか?」と問われたら、私は現在のほうを選ぶでしょう。かつての舗装は、淡い色合いではあるものの街燈と相まって軽薄感が弥増してにぎにぎしい。今にして「ちょっとやりすぎかな」と感じます。敷替えに当たって道路整備の担当者にも、何らかの判断があったのだろうか。
街路樹の植樹枡に目を向けました。

黄色の矢印の先です。
一昨日ブログに載せたSAPPORO ROMANETのエンブレムが遺っています。

ロマネットは街中でも健在でした。
注:「札幌の街並み~いま、これから(2)」『きー すとん』第9号1994年10月28日発行p.6。正確には、当時の『きー すとーん』は札幌建築鑑賞会の「協賛」により個人の責任で発行されていた。
私が覚えているロマネットの、もう一つの“成果品”です。


昨日ブログと同じく1994(平成6)年に撮りました。
道立近代美術館、知事公館の周辺です。パステルカラーとでもいうような色合いは美術館からの連想なのでしょうか。実はこの風景が、「札幌都心部ロマネット計画」に私が関心を抱くきっかけとなりました。たしか当時北海道美術館協力会の役員をされていたSさんから、「あれ、ひどいですね」とお聞きしたのです。「どうして、あんなデザインになってしまったんでしょうか?」とも言われました。上掲画像の歩道や街燈の色合いのことを指していたのだと思います。Sさんは近代美術館創設時(その前?)から支援活動を続けてこられ、周辺の街並みにはひとかたならぬ愛着をお持ちだったのでしょう。
そのSさんも交えた座談会の記録を、札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』から以下、一部引用します(末注)。
司会:Sさんがおっしゃったように、たとえば知事公館と植物園とのつながりに工夫するような、もうちょっと一体感のあるような街並みづくりがあってもと想いますね。都心部では「ロマネット計画」と称して、駅前通や美術館周辺などの整備が進んでいるようですが。
Y:都市計画がバラバラに進められているという感じがしますねよね。デザイナーは各々が自分の特徴を出そうとするだろうし。デザインに一貫性がほしいですね。
S:たとえば美術館周辺の歩道とかを見ても、ものすごく工夫したなというのはわかるんですが…。
Y:札幌に似合わないと思う。
S:似合わないですね。細部にこだわるというのは日本人の特徴なのでしょうけれど。北海道にはコセコセしたデザインというのは似合わないと思う。
Y:札幌に合ったものを、というのではなくて、どこか他の街のマネみたいな感じがしますね。
K:美術館のまわりの歩道の街灯や舗装の色は良くないですね。駅前通りにしても随分お金をかけているな、とは思うんだけど、あそこまでする必要があるのかな、と感じながらいつも歩いているんですが。
(中略)
S:一生懸命やっているというのは本当によくわかるんですけれど。出来上がる前に一度は市民に投げかけてほしいということがありますよね。美術感覚という点で必ずしも市民が優れているとは思いませんが。
文中「司会」は私が務めました。Sさんに限らず、ロマネットはほかの出席者の評判も芳しくありません。美術感覚が優れているとは到底言いがたい私は、正直言って「そんなものかな」という程度でした。
近代美術館周辺の現在です。


街燈のデザインは変わってませんが、歩道の舗装(インターロッキングブロック)は敷き替えられたようです。1994年当時と比べて色調が沈んでいます。もし今「どちらを推すか?」と問われたら、私は現在のほうを選ぶでしょう。かつての舗装は、淡い色合いではあるものの街燈と相まって軽薄感が弥増してにぎにぎしい。今にして「ちょっとやりすぎかな」と感じます。敷替えに当たって道路整備の担当者にも、何らかの判断があったのだろうか。
街路樹の植樹枡に目を向けました。

黄色の矢印の先です。
一昨日ブログに載せたSAPPORO ROMANETのエンブレムが遺っています。

ロマネットは街中でも健在でした。
注:「札幌の街並み~いま、これから(2)」『きー すとん』第9号1994年10月28日発行p.6。正確には、当時の『きー すとーん』は札幌建築鑑賞会の「協賛」により個人の責任で発行されていた。
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コトニ川の昭和戦前期の姿
昨日ブログに載せた古い河川網図は、鑑み甲斐、楽しみ甲斐、味わい甲斐のある史料です。スルメのように噛めば噛むほど旨味が出てきそうですが、ひとまず素材の提供のみにとどめます。
本日お伝えするのは、もう一つ別の素材です。先日、手稲郷土史研究会の例会で、札幌市の下水道の歴史を聴く機会に恵まれました。
そのとき見せていただいた古写真です。

札幌の昔の風景を写した写真というと、出どころは郷土史の文献や市公文書館所蔵が多いのですが、上掲はこれまで目にしたことがないものでした。興味を惹いたのは、昭和戦前期の市内の中小河川だったことです。豊平川や創成川(鴨々川)、北大や植物園などは見たことがありますが、それ以外はあまり記憶がありませんでした。
上掲写真には「西十三丁目線下流開渠曲線 昭和三年度施行」というキャプションが添えられています(『札幌市下水道事業概要』1931年発行、1983年復刻口絵から、以下同)。
下掲は「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点 昭和三年度施行」です。

「下流開渠」とされていますが、これらは自然河川を整形した部分と思われます。かつては下水道が自然河川につなげられ、汚水が放流されていました(末注①)。それで私は「中小河川」と前述したしだいです。流路を直線的に整えて玉石で護岸したのが「昭和三年度」とみられます。
その場所は下掲の地図でおよそわかります(前掲書から)。

冒頭の「西十三丁目線下流開渠曲線」の位置を赤い矢印、二点目の「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点」を黄色の矢印で示しました。
黄色の矢印を付けたところには「琴似川支流」と書かれていますが、「コトニ川」としては本流です。このあたりは毎度ややこしいので、説明は割愛します(末注②)。この川跡は前に探訪しました(2016.9.16、同9.17、同9.19ブログ参照)。なので、いっそう愛着が湧きます。
この一帯を俯瞰した空中写真です。

前掲の地図の方位に合わせて、画像の上下を逆さにしました。左上から右下へ対角線上に伸びているのが鉄道です。真ん中が桑園駅に当たります。この写真も私は初めて見るもので、そそられました。何がどうそそられるかは、素材の提供にとどめるつもりが長くなってしまいましたので措きます。
この史料は先日、所蔵元に伺って見せていただきました。かように私ばかり楽しませてもらったのではバチが当たります。こちらからも資料を提供したところ先方にもたいそう喜ばれました。ギブアンドテイクということでお許しいただきましょう。
注①:いまも河川に放流しているが、下水処理場(いまは「水再生プラザ」)できれいにしている。
注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.52-60参照。6月28日ブログほかに関連事項記述
本日お伝えするのは、もう一つ別の素材です。先日、手稲郷土史研究会の例会で、札幌市の下水道の歴史を聴く機会に恵まれました。
そのとき見せていただいた古写真です。

札幌の昔の風景を写した写真というと、出どころは郷土史の文献や市公文書館所蔵が多いのですが、上掲はこれまで目にしたことがないものでした。興味を惹いたのは、昭和戦前期の市内の中小河川だったことです。豊平川や創成川(鴨々川)、北大や植物園などは見たことがありますが、それ以外はあまり記憶がありませんでした。
上掲写真には「西十三丁目線下流開渠曲線 昭和三年度施行」というキャプションが添えられています(『札幌市下水道事業概要』1931年発行、1983年復刻口絵から、以下同)。
下掲は「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点 昭和三年度施行」です。

「下流開渠」とされていますが、これらは自然河川を整形した部分と思われます。かつては下水道が自然河川につなげられ、汚水が放流されていました(末注①)。それで私は「中小河川」と前述したしだいです。流路を直線的に整えて玉石で護岸したのが「昭和三年度」とみられます。
その場所は下掲の地図でおよそわかります(前掲書から)。

冒頭の「西十三丁目線下流開渠曲線」の位置を赤い矢印、二点目の「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点」を黄色の矢印で示しました。
黄色の矢印を付けたところには「琴似川支流」と書かれていますが、「コトニ川」としては本流です。このあたりは毎度ややこしいので、説明は割愛します(末注②)。この川跡は前に探訪しました(2016.9.16、同9.17、同9.19ブログ参照)。なので、いっそう愛着が湧きます。
この一帯を俯瞰した空中写真です。

前掲の地図の方位に合わせて、画像の上下を逆さにしました。左上から右下へ対角線上に伸びているのが鉄道です。真ん中が桑園駅に当たります。この写真も私は初めて見るもので、そそられました。何がどうそそられるかは、素材の提供にとどめるつもりが長くなってしまいましたので措きます。
この史料は先日、所蔵元に伺って見せていただきました。かように私ばかり楽しませてもらったのではバチが当たります。こちらからも資料を提供したところ先方にもたいそう喜ばれました。ギブアンドテイクということでお許しいただきましょう。
注①:いまも河川に放流しているが、下水処理場(いまは「水再生プラザ」)できれいにしている。
注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.52-60参照。6月28日ブログほかに関連事項記述
境目は、やはり面白い⑲ 明治時代の産物
旧札幌市と旧円山町の境界探訪、ようやく最終回です。これまで彷徨ってきた時空を振り返ります。
旧河道による境目
↓
道幅の違い・旧札幌市側の道の広さ
↓
旧札幌市側でもことさら幅広い市道北3条線と北4条線
↓
裏側にも拡げた札幌の大手前通り
↓
裏側は途切れ途切れの道
↓
元は途切れてなかった?(筋を通そうとした?)道
北3条線や北4条線が札幌本府の“裏”(西側)にも拡げられたのを、当初私は意外に想いました。たぶんそれは京都や奈良のような古代条坊都市(平城京や平安京)とか近世の城下町の印象があったからでしょう。“君子南面”で、北側には主だった市街がないという先入観です。
札幌の格子(碁盤目)状街区の形成を歴史的に論じる能力はありませんが、仮に直截の由来が近世城下町だったとしても、一足飛びに近代化する過程で近世の論理では間に合わなくなったことでしょう。中世戦国時代を引きずった城下ならば、本府(開拓使本庁、北海道庁)の裏側は天然の要害(低湿地)のままでよかった。近代的な合理性に鑑みれば、中心官衙に裏も表もない。
というリクツは後付けです。明治中期北海道の為政者や官吏は、実は「えい、や」でやってしまったのかもしれません。「東側が15間だから、西側も15間でよかろう」と。コツネイ、メム(低湿地)も、なんとかなる。杓子定規、と決めつけたら明治のお役人に失礼でしょうか。
実際にはなんとかならずに、コツネイは植物園としてこんにちに至りました。開拓前の原風景を留める都心の文字どおりオアシスです。結果的に道が途切れ途切れとなり、通過交通が遮られることになった。ベニバナトチノキの並木道はそのたまものといってよいでしょう。
たまものといえば、こちらもそうです。

北4条ミニ大通。札幌の中心部で“分不相応”に広い生活道路ゆえか、歩行者専用道路が設けられました。植えられた樹々も立派に成長しています。普通の歩道の植樹枡では、なかなかこうはいきません。
偶然か必然か、明治人の杓子定規のせい、もとい、おかげです。
旧河道による境目
↓
道幅の違い・旧札幌市側の道の広さ
↓
旧札幌市側でもことさら幅広い市道北3条線と北4条線
↓
裏側にも拡げた札幌の大手前通り
↓
裏側は途切れ途切れの道
↓
元は途切れてなかった?(筋を通そうとした?)道
北3条線や北4条線が札幌本府の“裏”(西側)にも拡げられたのを、当初私は意外に想いました。たぶんそれは京都や奈良のような古代条坊都市(平城京や平安京)とか近世の城下町の印象があったからでしょう。“君子南面”で、北側には主だった市街がないという先入観です。
札幌の格子(碁盤目)状街区の形成を歴史的に論じる能力はありませんが、仮に直截の由来が近世城下町だったとしても、一足飛びに近代化する過程で近世の論理では間に合わなくなったことでしょう。中世戦国時代を引きずった城下ならば、本府(開拓使本庁、北海道庁)の裏側は天然の要害(低湿地)のままでよかった。近代的な合理性に鑑みれば、中心官衙に裏も表もない。
というリクツは後付けです。明治中期北海道の為政者や官吏は、実は「えい、や」でやってしまったのかもしれません。「東側が15間だから、西側も15間でよかろう」と。コツネイ、メム(低湿地)も、なんとかなる。杓子定規、と決めつけたら明治のお役人に失礼でしょうか。
実際にはなんとかならずに、コツネイは植物園としてこんにちに至りました。開拓前の原風景を留める都心の文字どおりオアシスです。結果的に道が途切れ途切れとなり、通過交通が遮られることになった。ベニバナトチノキの並木道はそのたまものといってよいでしょう。
たまものといえば、こちらもそうです。

北4条ミニ大通。札幌の中心部で“分不相応”に広い生活道路ゆえか、歩行者専用道路が設けられました。植えられた樹々も立派に成長しています。普通の歩道の植樹枡では、なかなかこうはいきません。
偶然か必然か、明治人の杓子定規のせい、もとい、おかげです。
境目は、やはり面白い⑱ 筋を通す?
道幅の広い北3条線、北4条線は明治20年代、植物園(当時は博物館)の西側に通じたようです。
「札幌市街之図」1890(明治23)年からの抜粋を観ます。

赤矢印を付けた先が北4条線、橙色が北3条線です。北海道庁の時代になり、開拓使本庁の敷地よりも小さくなっています。北4条線が道庁敷地の北辺となりました。それぞれの道が西端の旧市界(当時は区界)まで描かれています。ただし西方の色塗りされていないところは、計画線でしょうか。
西方の一帯を少し拡大します。

のちの植物園、のちの札幌二中の敷地を緑色の□で囲みました。右側(東)の大きい□が植物園、左の小さい□が二中になります。
興味深いのは現在の植物園の一画です。

画内が地割されて、北4条線、北3条線らしき計画線?も一部、描かれています。
のちに札幌二中になるところも同様です。

北4条線の計画線?が貫通しています。
札幌二中がこの地に設けられるのは大正期なのでともかくとして、植物園が細かく地割されていたのは意外でした。私はこれまで北4条線、北3条線を「途切れ途切れ」と記してきましたが、それは結果であって、実は明治の道庁時代、途切れなく通そうとしていたのかもしれません。
「札幌市街之図」1890(明治23)年からの抜粋を観ます。

赤矢印を付けた先が北4条線、橙色が北3条線です。北海道庁の時代になり、開拓使本庁の敷地よりも小さくなっています。北4条線が道庁敷地の北辺となりました。それぞれの道が西端の旧市界(当時は区界)まで描かれています。ただし西方の色塗りされていないところは、計画線でしょうか。
西方の一帯を少し拡大します。

のちの植物園、のちの札幌二中の敷地を緑色の□で囲みました。右側(東)の大きい□が植物園、左の小さい□が二中になります。
興味深いのは現在の植物園の一画です。

画内が地割されて、北4条線、北3条線らしき計画線?も一部、描かれています。
のちに札幌二中になるところも同様です。

北4条線の計画線?が貫通しています。
札幌二中がこの地に設けられるのは大正期なのでともかくとして、植物園が細かく地割されていたのは意外でした。私はこれまで北4条線、北3条線を「途切れ途切れ」と記してきましたが、それは結果であって、実は明治の道庁時代、途切れなく通そうとしていたのかもしれません。
境目は、やはり面白い⑰ 大手か搦め手か
市道北3条線と北4条線は途切れ途切れでありながら、目抜き通りでもない植物園の西側で旧市町界(西21丁目)まで、なぜ幅広に道を拓いたか。6月15日、同月21日ブログで発した自問の答は、結局わかりません。
昨日ブログにも載せた「道路幅員図」1927(昭和2)年の原図を、札幌市公文書館であらためて眺めました。同館の歴史家Eさんにもお知恵を借りて、廻らせた想いは以下のとおりです。
(1) 植物園や道庁の東側の道幅と、単純に合わせた。
(2) 植物園より西側は市街の形成が遅れていたので、道路を拡げやすかった。
(1)を補足します。明治から大正にかけての札幌の市街図を見返すと、植物園より東側、道庁の周辺は当然といえば当然ですが先んじて街区が形成されています。地形的にも札幌扇状地の微高地で、官衙の立地に適っていました(末注①)。その中心に置かれた開拓使札幌本庁は(その跡を継いだ北海道庁も)東面しています。東面する北3条線、北4条線は、札幌本府の基軸線と想定されたのではないでしょうか。
故遠藤明久先生が作った「札幌本府の街画(明治7年ころ)」を引用させていただきます(『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.56-57)。

開拓使本庁の東側の「石狩通」と「札幌通」に赤傍線を引きました(末注②)。現在の北4条線、北3条線です。15間と、ひときわ幅広く拓かれています。本庁敷地の東辺に位置する「正門」をお城の大手門とするなら、大手前通りすなわちメインストリートといってよいでしょう。
ちなみに本庁の敷地東辺と南辺は、橙色の○で囲ったとおり20間です。北3条線、北4条線より幅広いのですが、これは江戸時代のお城でいったらお堀の位置づけかと想います。南側の黄色の○で囲ったところは58間とさらに広いのですが、本庁外周の20間を内堀とするならこれは外堀でしょう。後志通、のちの火防線、のちの大通逍遥地です。これは通りというより、官と民の精神的、権威的な境目の意味合いだったように想います。
北3条線、北4条線の道幅は道庁、植物園の西側でも、これまで述べてきたとおり15間です(6月21日ブログ参照)。東側の大手前通りの15間を、西後背の“未開地”にもそのまま引っぱってしまったのだろうか。
注①:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通巻219号)2017年参照
注②:1872(明治5)年、札幌本府の町名(道路名)に「北海道国郡名」が付けられた(前掲書pp54-55)。北3条線の「札幌通」、北4条線の「石狩通」という命名にも中心性が感じられる。
昨日ブログにも載せた「道路幅員図」1927(昭和2)年の原図を、札幌市公文書館であらためて眺めました。同館の歴史家Eさんにもお知恵を借りて、廻らせた想いは以下のとおりです。
(1) 植物園や道庁の東側の道幅と、単純に合わせた。
(2) 植物園より西側は市街の形成が遅れていたので、道路を拡げやすかった。
(1)を補足します。明治から大正にかけての札幌の市街図を見返すと、植物園より東側、道庁の周辺は当然といえば当然ですが先んじて街区が形成されています。地形的にも札幌扇状地の微高地で、官衙の立地に適っていました(末注①)。その中心に置かれた開拓使札幌本庁は(その跡を継いだ北海道庁も)東面しています。東面する北3条線、北4条線は、札幌本府の基軸線と想定されたのではないでしょうか。
故遠藤明久先生が作った「札幌本府の街画(明治7年ころ)」を引用させていただきます(『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.56-57)。

開拓使本庁の東側の「石狩通」と「札幌通」に赤傍線を引きました(末注②)。現在の北4条線、北3条線です。15間と、ひときわ幅広く拓かれています。本庁敷地の東辺に位置する「正門」をお城の大手門とするなら、大手前通りすなわちメインストリートといってよいでしょう。
ちなみに本庁の敷地東辺と南辺は、橙色の○で囲ったとおり20間です。北3条線、北4条線より幅広いのですが、これは江戸時代のお城でいったらお堀の位置づけかと想います。南側の黄色の○で囲ったところは58間とさらに広いのですが、本庁外周の20間を内堀とするならこれは外堀でしょう。後志通、のちの火防線、のちの大通逍遥地です。これは通りというより、官と民の精神的、権威的な境目の意味合いだったように想います。
北3条線、北4条線の道幅は道庁、植物園の西側でも、これまで述べてきたとおり15間です(6月21日ブログ参照)。東側の大手前通りの15間を、西後背の“未開地”にもそのまま引っぱってしまったのだろうか。
注①:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通巻219号)2017年参照
注②:1872(明治5)年、札幌本府の町名(道路名)に「北海道国郡名」が付けられた(前掲書pp54-55)。北3条線の「札幌通」、北4条線の「石狩通」という命名にも中心性が感じられる。
境目は、やはり面白い⑯ 途切れ途切れの幅広道
旧札幌市と旧円山町の境界探訪、このシリーズの主たるテーマは川跡もさることながら、道幅でした。旧市町界に伴う道幅の違いは前々から記したことです(2017.9.15ブログ参照)。このたび、市道北3条線と北4条線の道幅が特に広いことに気づきました(6月15日ブログ参照)。札幌の中心部の道路の中でも、とりわけ広い。そのため、旧円山町側との違いがいっそう際立っているのです。北3条線と北4条線の幅広は、昭和初期に由って来ります。それを裏付けるのが、6月21日ブログに載せた札幌市役所作成「道路幅員図」1927(昭和2)年です。
あらためて、その道路幅員図で北3条線と北4条線を観ます。

黄色でなぞった二本の道です。周辺に流れる川を水色で、まとまった大きな敷地を緑色で塗りました。緑色は、右方(東)から道庁、博物館(植物園)、三井クラブ、札幌二中です。
同じ一帯を地形図「札幌」1916(大正5)年で眺めます。

現在の北3条線を橙色、北4条線を赤色でなぞりました。太い実線はすでに道路が描かれているところ、細い線はまだ道が通じていないところです。
北4条線が西方で二中の敷地によって途切れていることは6月21日ブログで記しました。巨視的に見渡すと、東方でさらに植物園にもぶつかります。一方、北3条線というと、同じように植物園と道庁によって遮られています。北4条線は植物園の西方で、北3条線はその東方で、“細切れ”感が強い印象です(6月14日ブログ参照)。
前掲2枚の地図の西15丁目あたりから西を、さらにトリミングしました。


三井クラブ(現在の知事公館の敷地)から発する川(2014.8.6ブログ参照)が横切っています。大正5年地形図では、北4条線がこのあたりをまだ通じていません。軟弱な土地が道の開通を遅らせたのかとも想わせます。そもそも植物園や知事公館がまとまって敷地を確保して今に至っているのも、メム(湧泉池)のたまものといってよいでしょう。
こうしてみると、北3条線も北4条線も、一本の道路としては行く手にさまざまなハンディがあったといえます。にもかかわらずというべきか、旧札幌市側では旧円山町との境界まで幅広の道が開かれました。植物園より東方の、札幌のいわば心臓部と同じ道幅が確保されたのです。
にもかかわらず、と再度繰り返します。旧円山町側の道幅が狭く造られたことと相まって、とりわけ北4条線は前述したように植物園より西方で途切れているため、東方のような交通量はありません。結果として、稀に見る幅広の生活道路が実現しました。
あらためて、その道路幅員図で北3条線と北4条線を観ます。

黄色でなぞった二本の道です。周辺に流れる川を水色で、まとまった大きな敷地を緑色で塗りました。緑色は、右方(東)から道庁、博物館(植物園)、三井クラブ、札幌二中です。
同じ一帯を地形図「札幌」1916(大正5)年で眺めます。

現在の北3条線を橙色、北4条線を赤色でなぞりました。太い実線はすでに道路が描かれているところ、細い線はまだ道が通じていないところです。
北4条線が西方で二中の敷地によって途切れていることは6月21日ブログで記しました。巨視的に見渡すと、東方でさらに植物園にもぶつかります。一方、北3条線というと、同じように植物園と道庁によって遮られています。北4条線は植物園の西方で、北3条線はその東方で、“細切れ”感が強い印象です(6月14日ブログ参照)。
前掲2枚の地図の西15丁目あたりから西を、さらにトリミングしました。


三井クラブ(現在の知事公館の敷地)から発する川(2014.8.6ブログ参照)が横切っています。大正5年地形図では、北4条線がこのあたりをまだ通じていません。軟弱な土地が道の開通を遅らせたのかとも想わせます。そもそも植物園や知事公館がまとまって敷地を確保して今に至っているのも、メム(湧泉池)のたまものといってよいでしょう。
こうしてみると、北3条線も北4条線も、一本の道路としては行く手にさまざまなハンディがあったといえます。にもかかわらずというべきか、旧札幌市側では旧円山町との境界まで幅広の道が開かれました。植物園より東方の、札幌のいわば心臓部と同じ道幅が確保されたのです。
にもかかわらず、と再度繰り返します。旧円山町側の道幅が狭く造られたことと相まって、とりわけ北4条線は前述したように植物園より西方で途切れているため、東方のような交通量はありません。結果として、稀に見る幅広の生活道路が実現しました。
ポンコトニ、ホンコトニを廻るさらなる妄想
「札幌市視形線図」1924(大正13)年からの抜粋です(末注①)。

当時の札幌市の市域西端に、川境を分かった旧円山川が描かれています。
この図でも、この川に「琴似川」と添えられています。赤い○で囲ったところです。6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と同様です。右方(東方)の現知事公館から発する川と現サクシュ琴似川には「支流」とあるのも同じです(橙色と黄色の○)。
それもそのはずというべきか、この地図の印刷者は「札幌市街之図」1918(大正7)年と同じ「北海石版所」(末注②)です。

「札幌市役所編纂」とありますが、編纂されたのは1尺単位で引かれた等高線(末注③)のことだと思います。
標題は、「札幌市街之図」とある下に「視形線図」と書き加えられた体裁です。

元図として使われた「札幌市街之図」自体は、北海石版所が作ったものでしょう。
明治から大正にかけて、この種の大縮尺の市街図が北海石版所をはじめとする民間印刷業者によってたびたび発行されています。国(陸地測量部)による地形図とは別に、です。これらの市街図は誰が測量して、製図したのか。印刷者名とは別に「北海道庁」が発行者らしく表記されたものもありますが、必ずしも定かではありません。当時の民間印刷業者に測量・作図の力量がどこまであったのか、興味深いところですが措きます。
なぜこれを採り上げたかというと、やはり冒頭に記した川名に関わります。
本件旧円山川が「琴似川」の本流であるかのごとく表記された事情は、大局的にはコトニ→琴似の「地名の引越し」(山田秀三先生)に由るものでしょう(昨日ブログ参照)。「琴似村の方に引きつけられ」た(末注④)。加えて私は、明治大正期に度重ねて発行された市街図がこれに拍車をかけたのではないかと想うのです。
冒頭の視形線図を、6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と較べてみます。

赤い○で囲った「琴似川」の文字の位置に注目しました。冒頭の大正13年視形線図では鉄道の北側から南側まで間隔を開けて書かれているのに対し、この大正7年市街図では鉄道の南側にまとまっています。6月27日ブログで述べたように、書かれ方としては旧円山川に遡る流路が琴似川であるかのようです。しかも、右方(東方)の川に添えられた「琴似川支流」との対比で、本流であるかのごとくです。
冒頭の大正13年視形線図に戻ります。

飛び飛びに書かれた「琴似川」の文字のうち、「川」の字の箇所をトリミングしました。「川」の字は、前掲大正7年市街図よりもさらに南側に書かれています。西側から別の川が合流する地点よりも上流です。この書かれ方だと、「琴似川」は完全に旧円山川と見做せます。
下掲は、1910(明治43)年に出された「札幌区全図」という市街図です。

赤い○で囲った「琴似川」の文字は、鉄道の北側にまとまって書かれています。
3枚の市街図だけで即断するのは危ないのですが、明治43年→大正7年→大正13年と時代が下るにつれて、「琴似川」が旧円山川に特化されていったようです。
コトニの由来は本来的には、知事公館や植物園などのコッネイでした。凹んだ土地です。凹地のメム(泉池)を源とする川が、下流で他の川も交えて一本にまとまり、明治以降、琴似川と総称されるようになりました。総称だったはずが、旧円山川に遡って本流視されるようになった。なぜか。
私はここでも、昨日ブログで引用した『札幌区史』1911(明治44)年が一役買ったと推理します。

リライトされた明治6年地図です。「ホンコトニ」。左方(西方)に流れる水色でなぞった旧円山川が、ホン(=アイヌ語で「小さい」)ならぬ「本流の」琴似川と誤解されたのではないか。奇しくもというべきか、旧円山川が琴似川(の本流)とされている市街図は、『札幌区史』が刊行された明治44年より少しあとの大正期です。
ポンコトニ、ホンコトニ、本琴似、琴似本流。もちろん、アイヌ語の語義に精通する有識者がホン、ポンを誤解するはずはありません。さりとて印刷出版文化のすそ野が広がる時代にあって、かような地図の細部まで諸賢人の目が行き届いたかどうか。
念のため申し添えます。私の妄想は明治大正期の民間発行地図への賛辞です。時空逍遥を堪能させてもらえるのも、北海石版所をはじめ往時の出版文化人のおかげです。感謝は尽きません。
注①:同図については2019.2.12ブログに関連事項記述
注②:北海石版所については2015.1.22ブログに関連事項記述
注③:同図の「凡例」には「同高線」とある。
注④:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.52

当時の札幌市の市域西端に、川境を分かった旧円山川が描かれています。
この図でも、この川に「琴似川」と添えられています。赤い○で囲ったところです。6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と同様です。右方(東方)の現知事公館から発する川と現サクシュ琴似川には「支流」とあるのも同じです(橙色と黄色の○)。
それもそのはずというべきか、この地図の印刷者は「札幌市街之図」1918(大正7)年と同じ「北海石版所」(末注②)です。

「札幌市役所編纂」とありますが、編纂されたのは1尺単位で引かれた等高線(末注③)のことだと思います。
標題は、「札幌市街之図」とある下に「視形線図」と書き加えられた体裁です。

元図として使われた「札幌市街之図」自体は、北海石版所が作ったものでしょう。
明治から大正にかけて、この種の大縮尺の市街図が北海石版所をはじめとする民間印刷業者によってたびたび発行されています。国(陸地測量部)による地形図とは別に、です。これらの市街図は誰が測量して、製図したのか。印刷者名とは別に「北海道庁」が発行者らしく表記されたものもありますが、必ずしも定かではありません。当時の民間印刷業者に測量・作図の力量がどこまであったのか、興味深いところですが措きます。
なぜこれを採り上げたかというと、やはり冒頭に記した川名に関わります。
本件旧円山川が「琴似川」の本流であるかのごとく表記された事情は、大局的にはコトニ→琴似の「地名の引越し」(山田秀三先生)に由るものでしょう(昨日ブログ参照)。「琴似村の方に引きつけられ」た(末注④)。加えて私は、明治大正期に度重ねて発行された市街図がこれに拍車をかけたのではないかと想うのです。
冒頭の視形線図を、6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と較べてみます。

赤い○で囲った「琴似川」の文字の位置に注目しました。冒頭の大正13年視形線図では鉄道の北側から南側まで間隔を開けて書かれているのに対し、この大正7年市街図では鉄道の南側にまとまっています。6月27日ブログで述べたように、書かれ方としては旧円山川に遡る流路が琴似川であるかのようです。しかも、右方(東方)の川に添えられた「琴似川支流」との対比で、本流であるかのごとくです。
冒頭の大正13年視形線図に戻ります。

飛び飛びに書かれた「琴似川」の文字のうち、「川」の字の箇所をトリミングしました。「川」の字は、前掲大正7年市街図よりもさらに南側に書かれています。西側から別の川が合流する地点よりも上流です。この書かれ方だと、「琴似川」は完全に旧円山川と見做せます。
下掲は、1910(明治43)年に出された「札幌区全図」という市街図です。

赤い○で囲った「琴似川」の文字は、鉄道の北側にまとまって書かれています。
3枚の市街図だけで即断するのは危ないのですが、明治43年→大正7年→大正13年と時代が下るにつれて、「琴似川」が旧円山川に特化されていったようです。
コトニの由来は本来的には、知事公館や植物園などのコッネイでした。凹んだ土地です。凹地のメム(泉池)を源とする川が、下流で他の川も交えて一本にまとまり、明治以降、琴似川と総称されるようになりました。総称だったはずが、旧円山川に遡って本流視されるようになった。なぜか。
私はここでも、昨日ブログで引用した『札幌区史』1911(明治44)年が一役買ったと推理します。

リライトされた明治6年地図です。「ホンコトニ」。左方(西方)に流れる水色でなぞった旧円山川が、ホン(=アイヌ語で「小さい」)ならぬ「本流の」琴似川と誤解されたのではないか。奇しくもというべきか、旧円山川が琴似川(の本流)とされている市街図は、『札幌区史』が刊行された明治44年より少しあとの大正期です。
ポンコトニ、ホンコトニ、本琴似、琴似本流。もちろん、アイヌ語の語義に精通する有識者がホン、ポンを誤解するはずはありません。さりとて印刷出版文化のすそ野が広がる時代にあって、かような地図の細部まで諸賢人の目が行き届いたかどうか。
念のため申し添えます。私の妄想は明治大正期の民間発行地図への賛辞です。時空逍遥を堪能させてもらえるのも、北海石版所をはじめ往時の出版文化人のおかげです。感謝は尽きません。
注①:同図については2019.2.12ブログに関連事項記述
注②:北海石版所については2015.1.22ブログに関連事項記述
注③:同図の「凡例」には「同高線」とある。
注④:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.52
境目は、やはり面白い⑮ 旧円山川
琴似川をめぐる川名の混乱(?)は、山田秀三先生が半世紀以上前に喝破されています。すなわちコトニ→琴似の地名の「引越し」です(末注①)。その本題については山田先生の著述に加えることはありません。拙ブログの今回のテーマである旧区村界を分かった旧円山川に即して蛇足を試みます。
先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。

画像が粗くて申し訳ないのですが、黄色の矢印を付けた先に「ホンコトニ」と書かれています。原図の向き変えて北を上にした都合上、文字は下から上へ逆さまです。この地図のこの箇所になぜホンコトニと書かれているかは同書に詳述されており、また拙ブログのテーマではありませんので割愛します。
その左方(西)の赤い矢印を付けたのが本件旧円山川です。問題は昨日ブログで引用したとおり、『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)でこちらの川が「ポンコトニ」とされていることです。「この旧円山川は西側のケネウシペツ(中略)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い」(前述書p.47)。にもかかわらずこの川がポンコトニとされた事情を、山田先生は次のように推理しています(太字、同書p.52)。
琴似村の方に引きつけられて、いつの間にか円山村、札幌区の境界の川の名(引用者末注②)として使われるようにようになったらしく見える。これがやっと辿りついた推理であるが、是非の検討は若い同好者によって続けて戴きたいものである。
さらに先生は旧円山川を以下のとおり説明しています(太字、同書p.60)。
旧円山川
前掲「札幌郡西部図」の札幌区(一里方内)の西境に小川が描いてあるが、現称「旧円山川」(市土木部の図による)で、相当長い間札幌区と円山村の境になっていた川である。前記したように、これがある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていたようだ(前記ポンコトニの処を参照のこと)。北一条西二十丁目の角の辺から西北流し、二十一丁目線の少し西側を蛇行した川であるが、今はまったく面影がない。
「若い同好者」の末席を汚すのも恐れ多いことながら、蛮勇を奮って「是非の検討」に挑みます。
私の疑問は二つあります。
第一に、旧円山川が「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」のかどうか?
第二に、この川がポンコトニと呼ばれたとして、それは「琴似村の方に引きつけられ」たからか?
疑問の第一について。
たしかに旧市史では本文でも、旧円山川を「ポンコトニ川」と記しています(末注③)。しかし、それ以外の古文書、古地図ではどうでしょうか。管見寡聞にして、旧市史を裏付ける史料に当たりません。円山村→藻岩村→円山町の歴史の集大成ともいえる『円山百年史』1977(昭和52)年は、次のような表現です。
「琴似川支流の川境」(p.28)、「札幌との境界の川」(p.29)、「南一条通り西十七丁目の小川」(p.46)、「二十丁目沿いの川筋」(p.114)
ポンコトニは「小さいコトニ」であり、川に即して和訳すれば「ポン」は「支流筋の」(末注④)です。したがって「琴似川支流」は語義に適います。しかし、もしポンコトニと呼び慣わされていたのならば、「琴似川支流」というよりも、固有名詞的にそのまま古地図などに記されてよかろうものをと想えるのです。地域の古老の証言がふんだんに盛り込まれた『円山百年史』にして、「境界の川」といった漠然とした呼称であることに引っかかります。一方、昨日ブログに載せたとおり、かろうじて川名を見つけた「札幌市街之図」1918(大正7)年では「琴似川」です。「支流」とは書かれていません。
あくまでも状況証拠ですが、「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」とは言いがたい、というのが私の結論です。
第二の疑問に移ります。

「明治六年十一月札幌附近ノ図(飯島矩道舩越長善実測北海道庁所蔵)」と題された古地図からの抜粋です。『札幌区史』1911(明治44)年から採りました。北を上にしたので、やはり文字が逆さになっていますがお許しください。
表題から明らかなように、本図は前掲「札幌郡西部図」をリライトしたものです。前掲図と較べていただくとおわかりいただけるでしょう。問題にしてきている旧円山川を水色でなぞりました。
注目したいのは、橙色の矢印を付けた先です。「ホンコトニ」と書かれています。オリジナルの前掲図では東寄りの「コトニ水系」(山田前掲書)に沿って書かれたものが、本図では西方のケネウシペツ水系との中間です。この図だけ見ると、どうでしょうか。「ホンコトニ」は旧円山川の川名とも読めてしまいます。
札幌市の正史は、前述1953年旧市史の前は本『札幌区史』に遡ります。旧市史編纂に当たって最も下敷きされたのが『区史』といってよいでしょう。旧円山川を「ポンコトニ川」としたのは、このリライト版古地図に影響されたのではないでしょうか。「琴似村に引きつけられ」たというようないわば巨視的な移動ではなく、「ホンコトニ」の記載位置のズレによる微視的な異同(取り違え)が原因だった。
山田先生のみならず、旧市史編纂に携わった井黒弥太郎、高倉新一郎という偉大な諸先達にも大変恐れ多い妄言になってしまいました。
注①:コトニ→琴似の地名の移動については2017.1.22ブログに関連事項記述
注②:昨日ブログをはじめ、私は札幌区との境界を藻岩村とか円山町と記しているが、もともとは山田先生が述べるとおり円山村である。同村は1906(明治39)年に山鼻村と合わさって藻岩村になった。さらに1938(昭和13)年、円山町となり、1941(昭和16)年札幌市と合併した。
注③『札幌市史 政治行政篇』pp.109-110
注④:前掲山田書p.52
先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。

画像が粗くて申し訳ないのですが、黄色の矢印を付けた先に「ホンコトニ」と書かれています。原図の向き変えて北を上にした都合上、文字は下から上へ逆さまです。この地図のこの箇所になぜホンコトニと書かれているかは同書に詳述されており、また拙ブログのテーマではありませんので割愛します。
その左方(西)の赤い矢印を付けたのが本件旧円山川です。問題は昨日ブログで引用したとおり、『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)でこちらの川が「ポンコトニ」とされていることです。「この旧円山川は西側のケネウシペツ(中略)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い」(前述書p.47)。にもかかわらずこの川がポンコトニとされた事情を、山田先生は次のように推理しています(太字、同書p.52)。
琴似村の方に引きつけられて、いつの間にか円山村、札幌区の境界の川の名(引用者末注②)として使われるようにようになったらしく見える。これがやっと辿りついた推理であるが、是非の検討は若い同好者によって続けて戴きたいものである。
さらに先生は旧円山川を以下のとおり説明しています(太字、同書p.60)。
旧円山川
前掲「札幌郡西部図」の札幌区(一里方内)の西境に小川が描いてあるが、現称「旧円山川」(市土木部の図による)で、相当長い間札幌区と円山村の境になっていた川である。前記したように、これがある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていたようだ(前記ポンコトニの処を参照のこと)。北一条西二十丁目の角の辺から西北流し、二十一丁目線の少し西側を蛇行した川であるが、今はまったく面影がない。
「若い同好者」の末席を汚すのも恐れ多いことながら、蛮勇を奮って「是非の検討」に挑みます。
私の疑問は二つあります。
第一に、旧円山川が「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」のかどうか?
第二に、この川がポンコトニと呼ばれたとして、それは「琴似村の方に引きつけられ」たからか?
疑問の第一について。
たしかに旧市史では本文でも、旧円山川を「ポンコトニ川」と記しています(末注③)。しかし、それ以外の古文書、古地図ではどうでしょうか。管見寡聞にして、旧市史を裏付ける史料に当たりません。円山村→藻岩村→円山町の歴史の集大成ともいえる『円山百年史』1977(昭和52)年は、次のような表現です。
「琴似川支流の川境」(p.28)、「札幌との境界の川」(p.29)、「南一条通り西十七丁目の小川」(p.46)、「二十丁目沿いの川筋」(p.114)
ポンコトニは「小さいコトニ」であり、川に即して和訳すれば「ポン」は「支流筋の」(末注④)です。したがって「琴似川支流」は語義に適います。しかし、もしポンコトニと呼び慣わされていたのならば、「琴似川支流」というよりも、固有名詞的にそのまま古地図などに記されてよかろうものをと想えるのです。地域の古老の証言がふんだんに盛り込まれた『円山百年史』にして、「境界の川」といった漠然とした呼称であることに引っかかります。一方、昨日ブログに載せたとおり、かろうじて川名を見つけた「札幌市街之図」1918(大正7)年では「琴似川」です。「支流」とは書かれていません。
あくまでも状況証拠ですが、「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」とは言いがたい、というのが私の結論です。
第二の疑問に移ります。

「明治六年十一月札幌附近ノ図(飯島矩道舩越長善実測北海道庁所蔵)」と題された古地図からの抜粋です。『札幌区史』1911(明治44)年から採りました。北を上にしたので、やはり文字が逆さになっていますがお許しください。
表題から明らかなように、本図は前掲「札幌郡西部図」をリライトしたものです。前掲図と較べていただくとおわかりいただけるでしょう。問題にしてきている旧円山川を水色でなぞりました。
注目したいのは、橙色の矢印を付けた先です。「ホンコトニ」と書かれています。オリジナルの前掲図では東寄りの「コトニ水系」(山田前掲書)に沿って書かれたものが、本図では西方のケネウシペツ水系との中間です。この図だけ見ると、どうでしょうか。「ホンコトニ」は旧円山川の川名とも読めてしまいます。
札幌市の正史は、前述1953年旧市史の前は本『札幌区史』に遡ります。旧市史編纂に当たって最も下敷きされたのが『区史』といってよいでしょう。旧円山川を「ポンコトニ川」としたのは、このリライト版古地図に影響されたのではないでしょうか。「琴似村に引きつけられ」たというようないわば巨視的な移動ではなく、「ホンコトニ」の記載位置のズレによる微視的な異同(取り違え)が原因だった。
山田先生のみならず、旧市史編纂に携わった井黒弥太郎、高倉新一郎という偉大な諸先達にも大変恐れ多い妄言になってしまいました。
注①:コトニ→琴似の地名の移動については2017.1.22ブログに関連事項記述
注②:昨日ブログをはじめ、私は札幌区との境界を藻岩村とか円山町と記しているが、もともとは山田先生が述べるとおり円山村である。同村は1906(明治39)年に山鼻村と合わさって藻岩村になった。さらに1938(昭和13)年、円山町となり、1941(昭和16)年札幌市と合併した。
注③『札幌市史 政治行政篇』pp.109-110
注④:前掲山田書p.52
厚生年金会館ホールの平面
旧厚生年金会館です。

解体工事のため、覆いが掛かっています。
工事中の塀に描かれている在りし日の建物の姿に惹かれました。

上から俯瞰したした風景が新鮮だったのです。私は今まで、地上から見上げた姿しか印象に残ってませんでした(2018.10.8ブログ参照)。
今さらながら、大ホールの平面は(も)六華様だったのだなあと気づいたしだいです。1972(昭和47)年、冬季五輪に先立つIOC総会の開会式がここで催されました。

解体工事のため、覆いが掛かっています。
工事中の塀に描かれている在りし日の建物の姿に惹かれました。

上から俯瞰したした風景が新鮮だったのです。私は今まで、地上から見上げた姿しか印象に残ってませんでした(2018.10.8ブログ参照)。
今さらながら、大ホールの平面は(も)六華様だったのだなあと気づいたしだいです。1972(昭和47)年、冬季五輪に先立つIOC総会の開会式がここで催されました。
境目は、やはり面白い⑬ 市道北4条中通西線から北5条線
西21丁目と西22丁目の旧市町界探訪も終わりに近づいてきました。

今回は北4条中通西線、北5条線を逍遥します。画像の撮影地点と向きは、上掲現在図に赤い○数字(画像キャプションの数字と一致)と矢印で示しました。これまで訪ね歩いた通りに付けた橙色は、ブログ掲載月日です。
①-1 市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望

今回のテーマの出だしの6月12日ブログで歩いた市道北4条線(ベニバナトチノキの並木道)の一本北側の仲通りです。
①-2 同上 道の凹み

やはり、というべきか、彼方で道がわずか~に凹んでいます。黄色の矢印を付けたあたりです。
②-1 市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望

同じ通りを反対方向から眺めました。
②-2 同上 道の凹み

同様に、凹みが望めます。
③北4条中通西線から西21丁目と西22丁目の丁目界

前掲①-2、②-2で望めた凹みの箇所です。通りの北側に踏み分け道が通じています。この道が西21丁目と西22丁目の丁目界です。とりもなおさず旧札幌市と旧円山町の旧市町界であり、小河川跡であり、数千年前には古豊平川が扇状地を拓いていました。この踏み分け道は私道なので、通りから眺めるだけとします。
④北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 南望

北5条線側に廻って、同じ丁目界を眺めました。やはり小径で分かたれています。この小径も私道です。旧市町界や川跡がこのような丁目界で名残をとどめているのはありがたいことです。
⑤-1 北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 北望

北5条線の向かい側(北側)です。
⑤-2 同上 高低差

一見何の変哲もない駐車場ですが、よく見ると奥のフェンスのところで高低差があります。黄色の矢印の先です。フェンスの向こうのクルマが置かれたGL(地盤面)が手前の駐車場に比べて、わずか~に低い。このフェンスで丁目界が分かたれているようです。その後方に建つマンションは北5条線に対してナナメに配置されています。川はフェンスの向うで、このナナメに沿って北へ下っていたらしい。
このたび歩いた界隈を1948(昭和23)年空中写真で俯瞰します。

ところでこの川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか。

今回は北4条中通西線、北5条線を逍遥します。画像の撮影地点と向きは、上掲現在図に赤い○数字(画像キャプションの数字と一致)と矢印で示しました。これまで訪ね歩いた通りに付けた橙色は、ブログ掲載月日です。
①-1 市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望

今回のテーマの出だしの6月12日ブログで歩いた市道北4条線(ベニバナトチノキの並木道)の一本北側の仲通りです。
①-2 同上 道の凹み

やはり、というべきか、彼方で道がわずか~に凹んでいます。黄色の矢印を付けたあたりです。
②-1 市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望

同じ通りを反対方向から眺めました。
②-2 同上 道の凹み

同様に、凹みが望めます。
③北4条中通西線から西21丁目と西22丁目の丁目界

前掲①-2、②-2で望めた凹みの箇所です。通りの北側に踏み分け道が通じています。この道が西21丁目と西22丁目の丁目界です。とりもなおさず旧札幌市と旧円山町の旧市町界であり、小河川跡であり、数千年前には古豊平川が扇状地を拓いていました。この踏み分け道は私道なので、通りから眺めるだけとします。
④北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 南望

北5条線側に廻って、同じ丁目界を眺めました。やはり小径で分かたれています。この小径も私道です。旧市町界や川跡がこのような丁目界で名残をとどめているのはありがたいことです。
⑤-1 北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 北望

北5条線の向かい側(北側)です。
⑤-2 同上 高低差

一見何の変哲もない駐車場ですが、よく見ると奥のフェンスのところで高低差があります。黄色の矢印の先です。フェンスの向こうのクルマが置かれたGL(地盤面)が手前の駐車場に比べて、わずか~に低い。このフェンスで丁目界が分かたれているようです。その後方に建つマンションは北5条線に対してナナメに配置されています。川はフェンスの向うで、このナナメに沿って北へ下っていたらしい。
このたび歩いた界隈を1948(昭和23)年空中写真で俯瞰します。

ところでこの川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか。
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