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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/07/23

宮部記念緑地

 拙ブログは昨日で満5年に達しました。2014年7月23日から昨日までの1826日間で、公開した数は1805本。お読みいただいている皆様に感謝申し上げます。これからも、“拙ブログならでは”の札幌時空逍遥を綴っていきたいと想います。

 7月21日の「古き建物を描く会」(同日ブログ参照)で訪ねた桑園博士町です。
宮部記念緑地 
 北6条西13丁目に「宮部記念緑地」があります。画像は本年5月に撮ったものです。まだあまり葉が付いていない樹形を見たかったので、その時期の写真を載せました。

 この緑地は1992(平成4)年につくられました(末注①)。ここにはもともと宮部金吾先生の住宅があったのですが、1989(平成元)年に解体されたことにより、跡地を札幌市が緑地としたのです。建物は宮部先生が亡くなった跡、北大の女子寮などに使われていました。私がそれを知ったのは、古い住宅地図です。先日の「描く会」に参加してくださったMさんから、友人がその寮に入っていたとの“証言”をお聞きし、裏付けが得られました。
 建てられたのは宮部先生が住み始めた大正期と思われます(末注②)。解体時は「宮部記念会館」という名前で北大の宿泊施設となっていましたが、築70年以上を経て老朽化して、北大も解体に踏み切ったのでしょう。

 解体される直前の旧宮部宅です。
旧宮部金吾宅 1989年
 1989年2月に撮りました。雪に埋もれているのは、解体間際だからでしょうか。

 現在の緑地は、「六十以上ある植栽はすべて敷地内にあったのを移植し」たといいます(末注③)。「桑園地区は昔の洋館が姿を消し、マンションなどが立ち並ぶ街に変わりつつある。せめて宮部さんが大切に育てた植物はそのまま残したかった」ためです(斉藤浩二さん、末注④)。
 冒頭の画像を、旧宅があった当時の写真と較べてみてどうでしょうか。「描く会」に参加したOさんが、右端の樹が同じだと“発見”しました。信号機の後ろの樹です。ほんとだ。あらためて新旧を並べてみると、樹高が伸びているようにみえます。30年の生長か。
 左端の樹も、枝振りが同じですね。「園内には、博士がこの地に住んでいたころの樹木や草類が、数多く残されてい」る(末注⑤)そうですが、これらの高木は宮部先生が植えたものだろうか。先生は1952(昭和27)年に亡くなっています。
 
 とまれ、古写真を載せて30年の時空を逍遥できたのも、“拙ブログならでは”と受け止めていただけると幸いです。

 注①:札幌市『さっぽろの公園・緑地ガイド 緑の中へ』第2版1999年、p.39
 注②:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」北大大学文書館年報第2号2007年によると、宮部先生がこの地に住み始めたのは1915(大正4)年。
 注③:北海道新聞1998年11月22日(日曜版)連載記事「北のデザインを聞く 宮部記念緑地」
 注④:同上、斉藤さんは緑地を設計したランドスケープデザイナーである。
 注⑤:札幌市「特色ある公園シリーズ3 都市緑地 宮部記念緑地」1993年
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2019/07/21

描く会第65回、桑園を描きました。

 札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第65回を開催しました。描いた先は「桑園博士町」です。8名が参加しました。
桑園博士町 T先生旧宅 描く会第65回
 「描く」という営みで、判ることがあります。T先生の旧宅はこの30年来、何度も外観を拝見していますが、込み入った細部の造形に私は初めて気づきました。写真に撮る「だけ」なら(といっても、それはそれで奥が深いとは思います)、「絵になる構図」ですみます。画題とスケッチブックを交互に眺めながら、自分の浅はかさを思い知ったものです。

 写生を始めるに当たってT先生にご挨拶いただき、終わってからは作品をお披露目しておいとましました。ありがとうございました。

 お知らせを二つ。
uhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」、次回は7月22日(月)の放送予定です。→ https://uhb.jp/program/mintele/
 手稲区を歩きます。

「創成東地区まちあるき」が7月27日(土)に催されます。詳細は「さっぽろ下町まちしるべ」サイトの案内をご覧ください(要申込み、7月24日締切)。
 私はこの地区の歴史を学ぶお手伝いをします。先日、「まちあるき」の業務を受託するN社のKさんにお会いして、目的を伺いました。
 テーマは、私にとって実は「なんとまあ」という驚きなのですが、「東4丁目線」です。先のブログで記したように、現在この市道の変形交差点が懸案となっています(3月4日ブログ参照)。札幌市が今後の方向性を定めていく一環として、このたびの「まちあるき」が催されることになったのです(札幌市サイトの「創成東地区のまちづくり」ページ参照)。主催は市の都心まちづくり推進室」ですが、めぐりめぐって私にお手伝いの声がかかるとは、これも感慨深い。なぜ感慨深いかというと、この部所は「北1西1再開発」を担当されていたからです(2018.6.5ブログ参照)。因果は巡る糸車。
 東4丁目線が将来どのような姿になるにせよ、歴史を振り返っておくことは意味があると思います。お呼びがかかったのも何かの縁です。 

2019/05/27

uhbみんテレ「となりのレトロ」桑園編 収録余話

 本日オンエアされたuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナー・桑園編には、気を遣ったことがあります。
 実は昨年10月、私はSTV「どさんこワイド179」の担当ディレクターさんからもやはり桑園の歴史散歩の相談を受けていたのです。当時はまだuhbの“専属”ではなかったので、ほいほいと情報提供しました。
 桑園というと今ではJR駅周辺の印象が強いがもともとは知事公館のあたりが発祥であることをはじめとして、提供したのは以下のとおりです。
 ・札幌本府の西側の低湿地帯 → 開拓使の殖産興業地帯 養蚕による産業振興
 ・メム、琴似川の流域 → その地形や風致を生かしたお屋敷(知事公館=旧三井別邸、桑園博士町)、その痕跡
 ・旧円山村との境界 → 道路幅員が異なる(旧札幌区側は広く、旧円山側は狭い)
 ・繊維問屋街 → 桑園(養蚕)のDNAが受け継がれている?
 ・桑園博士町 → 大正期築の高倉先生宅が健在。高倉先生(二代目)はこの地で「ふきのとう文庫」という私設図書館を運営
 ・予備校・学生寮の街 

 私の情報がどのように採用されたか否か、同局で昨年11月に放送された内容がサイトに紹介されていますのでご参照ください。↓
https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t000004mhda.html

 冒頭で「気を遣った」というのはいうまでもなく、今回のuhbがSTVの“二番煎じ”にならないことです。私にしてみると「こんなことなら、“知的ノウハウ”の安売りをするんじゃなかった」のですが、昨年のSTVに続いて今日のuhbをご覧になった方におかれては上記の事情を汲み取っていただけると幸いです。

 今回のuhbでは「桑園博士町」にちなんで、昨年のSTVでは触れられなかった「ふきのとう文庫」(2017.10.25ブログ参照)についても(一瞬ですが)伝えてもらいました。これは特にスタッフの方にお願いしたことです。放送でも登場された高倉先生は、古き建物を大切にしつつ、歴史を今に、そして未来に引継ごうとしています。その姿を知っていただきたいと思いました。

 高倉先生が卓上に置かれていたオオバナノエンレイソウです。
高倉先生 オオバナノエンレイソウ
 番組収録に彩を添えてくださいました。お庭に咲いていたものだそうです。

2019/05/10

今まで見たことがない田上さん設計の住宅(承前)

 ここのところお世話になっているuhb「みんテレ」ADのⅠさんから、「『今日ドキ!』でも、“歴史散歩”が始まるそうです」とメールが来ました。同業他社の動向が気になるのは世の倣いですね。HBCのこのコーナーは、何年も前からあったと思います。“街歩き研究家”のWさんが案内役を務めてこられました。私も2016年に2回、Wさんが不在のときに代役で出させてもらってます(2016.9.12ブログ参照)。もしかしたら、レギュラーコーナー化して回数が増えるのかもしれません。
 Ⅰさんから言われて新聞のテレビ番組欄を見たら、“ウラ”(どちらがオモテか)のSTVでは「歴史探訪てくてく洋二」(2018.10.4ブログ参照)と…。さながら花盛りです。「変わったコト、してますねえ」と言われた30年前に隔世の感を抱きます(2016.1.1ブログ参照)。
 今でも、私(あるいは私たち)のやっていることが絶対多数かといえば、それはないでしょう。もし世の中がそうだったとしたら、たぶん私はこのブログを辞めているに違いありません。一方で、uhbの「となりのレトロ」コーナーは今月また2回、放送される予定です。「より多くの方と時空逍遥を共有したい」と願いながら、間違っても「私のやっていることが、“すうじ”(と読んで、「視聴率」と書く)取れるんだ」などと勘違いしないよう肝に銘じます。“ブーム”が去っても続けているかどうかが、ホンモノかどうかの分かれ目です。そして、“ホントのホンモノ”(というのも変ですが)は、マスメディアや電網空間とは異次元の世界に潜行して、より深くホンモノを究めていることでしょう。私もまた、いつもブログをご覧くださっている方、コメントを寄せてくださる方にあらためて感謝しつつ、世の中がどう変わろうとホンモノに近づきたいと念じています。

 と、ここまでは標題とは直接関係のない前置き(長い!)でした。
 さて、昨日ブログの続きです。
 桑園のT先生から、かつてのお住まい(末注)の外観正面が写る古写真をこのたび見せていただきました。昨日記したのは、私の脳裏に遺る建物正面がそれと異なっていることです。脳裏に遺っているほうは、ホッケン研のYさんが「札幌ノスタルジック散歩」で紹介しています。1958(昭和33)年、田上義也の設計です。

 実は、後者と同じ外観を写した写真をT先生からも直接見せていただきました。
桑園 T先生宅 玄関(1965年ころ)
 T先生によると、これは1965(昭和40)年頃、撮ったものだそうです。

 T先生と交わしたやりとりの続きをお伝えします。
 私:数年前まで遺っていたお宅の玄関は、これですよねえ。私は、これが昭和30年代の田上さん設計だと思ってました。
 T先生:うーん、どうだったかなあ。これは、あとから建てたものなんですよ。
 私:つまり、(昨日ブログに載せたモノクロ写真を示して)元のお住まいに建て増したということですか?
 T先生:そういうことですね。(上掲カラーの写真を観ながら)これは、田上さん(の設計)だったかどうか…。
 
 上掲画像の一部色塗り加工したところには、T先生の父上、故新一郎先生が写っています。この写真は新一郎先生の北大定年退官のときで、どうもそのころにお住まいを建増しされたようなのです。当時普及したというセラミックブロックが用いられました。いずれにせよ、この外観が1958(昭和33)年創建時をとどめたものではないことが、このたび判ったのです。

 あらためて創建時の外観を見てみます。
桑園 T先生宅 昭和30年代
 たしかに、これは“いかにも田上さん”です。

 併せてこちらも載せて、較べてみます。
ライト自邸 米国イリノイ州オークパーク 1997年撮影
 ライト自邸、米国イリノイ州オークパーク、1889年(画像は1997年撮影)

 ついでにこちらも…
ムーア宅 米国イリノイ州オークパーク 1997年撮影
ムーア宅 米国イリノイ州オークパーク 1997年撮影 別アングル
 ムーア宅、同上、ライト設計、1895年、1923年(火災後に再建)(画像は1997年撮影)

 ひるがえって、冒頭の建増しされた玄関を見直します。市松様のパネルが、なにやら匂うのですが…。
 
 田上さんの設計で1968(昭和43)年に建てられた「ホテルアカシア」の内部です。 
ホテルアカシア 和室扉 1996年撮影
 1996(平成8)年に撮りました。たしかその翌年に解体されたと記憶します。
 いまあらためて見ると、なんとも不思議な気配です。奥の畳敷きの和室の扉が、これですか。モンドリアン? 想像力が貧困ですみません。部屋の中の天井や壁も妖しげなのですが、網膜にしかと焼き付けておかなかったのが悔やまれます。

 またまた“否定の否定”です(5月7日ブログ参照)。冒頭のT先生宅建増し玄関、私には市松パネルが田上さんに見えてきました。

 「札幌ノスタルジック散歩」でYさんがT先生宅に添えたコメントを噛みしめます(以下引用、太字)。
 戦後、田上先生が設計活動を再開された初期の作品は、強烈な個性が発揮されていない。
 しかし具に見れば、後に爆発する独特のデザインの芽がいろいろと発見できるだろう。


 一連のやりとりの後、T先生から「うちよりも“もっと田上さん”というお宅がありますよ」と、教えていただきました。

 注:念のため、再度申し添える。T先生宅には大正期に建てられた旧宅が遺る。その後、1958(昭和33)年、建築家・田上義也の設計により新宅が建てられた。昨日及び本日ブログで「かつてのお住まい」として話題にしているのは、新宅のほうである。現在、T先生宅には旧宅が遺り、新宅は現存していない。

2019/05/09

今まで見たことがない田上さん設計の住宅

 桑園にお住まいのT先生を訪ね、古いアルバムを見せていただきました。

 その中で、私が眼を奪われた写真です。
桑園 T先生宅 昭和30年代
桑園 T先生宅 昭和30年代2
 田上さんではないか。
 「田上義也の設計した住宅ではないか」ということです。思わず、先生に尋ねました。

 私:先生、これはどこのお宅ですか?
 T先生:うちですよ。
 私:え、先生のお宅って、こんなではなかったじゃないですか?

 私が「こんなではなかった」と申したのは、次の風景が脳裏に遺っていたからです。
旧高倉邸②
 2012(平成24)年に撮りました。田上さんが設計したT先生のお宅として私が認識していたのは、画像中央に写る建物です。フラットルーフで、黄土色っぽい外観をしています。
 建物在りし日のことを2014.8.11ブログに綴りました(末注)。したり顔に「屋根や玄関のキャンティレーバーに、ついついライトを想い起します」などと評しています。

 さて、冒頭掲載2枚のモノクロ写真は、T先生のお住まいの正面が写っています。一方、前掲2012年撮影写真は、建物を斜め前方から撮ったものです。真正面からではありません。よって、較べるのが難しいのですが、どうでしょうか。
 幸いなことに、ホッケン研のYさんが「札幌ノスタルジック散歩」で本件建物の正面を紹介されています。そちらもご覧ください。

http://www.sapporowalk.justhpbs.jp/tanouesakuhinn.html#takakura
 私が記憶しているT先生宅の正面は、Yさんが載せている画像と同じです。前掲モノクロ古写真に写る正面は、どうみてもそれと異なります。
  
 「先生のお宅って、こんなではなかったじゃないですか?」と急き込んで問い質した私に、T先生から返ってきた答は…。

 注:2014.8.11ブログを今読むとコトバ足らずなので補足する。前掲画像の左方に写る白い洋館(大正期築)は田上設計ではない。

2019/03/11

子取川 再考②

 昨日ブログの続きです。
 札幌競馬場の東側を流れていたという「子取川」。西側を下ったとされる「小鳥川」。コトニ(琴似川)に絡んで、二本の“ことり”川が伝えられています。かててくわえて、地名研究家の山田秀三先生は原史料を、「小川」ではなく「小川」と読み取っていました。

 そもそも原文にはどのように書かれているのか。
 所蔵元の道立文書館に行って、当たってきました。
村垣淡路守 公務日記 安政五年正月-四月 標題
 村垣淡路守の『公務日記』安政5年1月-4月です。崩し字で書かれています。

 くだんの「小鳥川」あるいは「小島川」が出てくるのは、4月29日の記述です。
村垣淡路守 公務日記 安政五年正月-四月 小島川
 赤傍線を引きました。

 拡大してみます。
村垣淡路守 公務日記 安政五年正月-四月 小島川 拡大
 赤い□で囲ったところです。
 これは、私には「島」と読めるのですが。道立文書館の職員の方にも訊いてみましたが、「“島”でしょうねえ」と。

 『五体字類』改訂第2版1998年から、「島」と「鳥」を引いてみます。
五体字類 島  五体字類 鳥
 紹介されている崩し字と照らしても、「島」でなかろうか。

 山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』で「小島川」に言及した箇所です。 
札幌のアイヌ地名を尋ねて 小島川の記述
 『アイヌ語地名の研究4 山田秀三著作集』1983年から転載しました。
 転載したのは、余白に赤字で手書きされている文言をお伝えしたかったからです。小島川の「島」が○で囲われて「鳥」と書かれ、「小鳥川を小島川とまちがえたのは、山田氏かそれとも印刷まちがいか」とも朱記されています。私の手元にある同書は、北区篠路の郷土史家H先生からご恵与いただいたものです。ご本人に確かめてませんが、たぶんH先生が手書きされたものと思われます。

 山田先生のこの箇所の記述を以下、引用します(『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.63、太字)。
 安政年間の箱館奉行村垣淡路守の日記には、小島川に開発場(開墾場)があって苗代に成功していたとの記事がある。その小島川と「チセネブ川の畔」というのとは同じ場所だろうと「札幌区史」に推定されている。村垣淡路守は、石狩川から発寒川を遡り、発寒→小島川→豊平と歩いている。又小島川、豊平川間が一里だと書いている。それから見ると、小島川の位置は大体十二軒の処にあたる。前記したように、ケネウとその東支流(或はポンケネウシペツかと思われる川?)が川中島のような形に囲んだ土地であるのでその名がついたのだろうか。そこが農業適地だったので、その後在住農家の数が増え、十二軒にもなって、地名も十二軒と呼ばれ、小島川の名の方は忘れられたのではなかろうか。

 文脈からして、印刷の誤字ではなく、山田先生ご自身が「島」と解読していたことが察せられます。前述の余白に書き込んだ方は、何を根拠にして「島」を「鳥」の誤りとしたのでしょうか。もしかしたら、私が道立文書館で閲覧した『公務日記』以外に、「小川」と書かれた底本があるのだろうか。

2019/03/10

子取川 再考①

 2年以上前になりますが、「子取川」という地名(川名)についてブログに記しました(2016年9月15日16日17日19日23日各ブログ参照)。札幌競馬場の所在地の旧称として、歴史書に出てきます。競馬場の文献以外には見たことがない「子取川」の由来を私は縷々想像したのですが、結局決め手は得られませんでした。
 先日、地学者のMさんから、「小鳥川」という川名に言及された論考を教えていただきました。Mさんは1‐2月に中央図書館で開催された「失われた川を尋ねて 『水の都』札幌」展を担われた方で(本年1月15日ブログ参照)、札幌の古河川について研究されています。Mさん、ご教示ありがとうございます。

 Mさんから示された論考は、『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第12号1987年2月所収の谷澤尚一「札幌創建への史的階梯」です(pp.5-21)。この論考によると、幕末に函館奉行を務めた村垣淡路守(範正)が遺した「公務日記」に「小鳥川」が出てきます。筆者の谷澤氏はこの川を「コトニ川の支流ケニウシベツ」と同定しているのです。

 子取川と小鳥川。しかも、どちらもコトニ川絡みです。地図で確認しておきます。
大正5年地形図 琴似川
 2016年9月15日ブログ「子取川①」に載せた大正5年地形図です。『札幌競馬場100年史』によると、子取川は「競馬場の東を流れる琴似川の支流の1つ」とされています(p.59)。地図に当てはめると、水色でなぞった川のようです。水色の川は、競馬場のすぐ東側に一本、その東側に一本流れています。余談ながら、川の数え方は「一本」でいいのでしょうか。「一筋」かな。と思って、三省堂『新明解国語辞典』第6版2005年で「川」を引いたら、「かぞえ方」として「一本・一筋」とありました。
 さて、水色でなぞった川の後者のほうは、上流で二手に分かれます。一方は現在の植物園、もう一方は知事公館あたりから発しています。山田秀三先生によると、植物園からのほうがセロンペツ(チエプンペツ)、知事公館からのほうがコトニ(本流)です(『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.54-58)。一方、水色の前者すなわち競馬場のすぐ東側の川については触れられていません。いずれも前掲地形図で見るとおり、競馬場の北側で「琴似川」に合流しています(赤い○で囲ったところ)。

 一方、谷澤氏の記す「コトニ川の支流ケニウシベツ」はどれに当たるか。
 実は赤い○で囲った「琴似川」がこれに当たります。コトニ、琴似川と入り乱れてややこしいのですが、山田先生によれば、知事公館から発するのが「コトニ」川の本流で、前掲図で「琴似川」と記されているのはケネウシペツ(ケニウシベツ)でした(前掲書pp.62-63)。明治になって琴似川と称されるようになったのです。では、ケネウシペツはどこから流れてきているか。

 札幌市の河川網図を見ます(方位はおおむね1時半の向きが北)。  
河川網図 琴似川 ケネウシペツ
 札幌競馬場の位置を赤い楕円で示しました。琴似川は現在も川名として残っています。琴似川は、競馬場の西側、紫色で塗られた川です。中央区と西区の区界を分かち、上流は中央区側の宮の森を流れ、円山と荒井山の間の谷を削っています。上流では濃い桃色で塗られていますが、これは河川管理者の違いです。下流の紫色の部分は北海道、上流の濃い桃色は札幌市が管理しています。なお、前掲大正5年地形図に描かれた水色の川、セロンペツやコトニ本流等は、河川網図でわずかに「桑園新川」と書かれた部分を除いて、現在は河川として残っていません。

 さて、この河川網図に書かれた現「琴似川」がとりもなおさず、ケネウシペツです。
 これまで記してきたことをひとまずまとめると、『札幌競馬場100年史』で「子取川」とされているのは競馬場の東側の川であり、谷澤尚一氏が幕末の古文書から引いた「小鳥川」は競馬場の西側を流れる「琴似川」です。

 ここでさらに、新たな謎に突き当たりました。前掲『札幌のアイヌ地名を尋ねて』で、山田秀三先生は前述の村垣淡路守日記を引いて「小川」と記し、これをケネウシペツと推測しているのです(p.63)。子取川、小鳥川、小島川。

2018/07/08

北海道知事公館は“宝の持ち腐れ”か?

 昨日ブログの続きです。
北海道知事公館 ローン
 コラム筆者は、「道民財産」の有効活用のためには「発想の転換」が必要と述べます。こういう転換ができない私は、おそらくアタマが固いのでしょう。想像力も貧困なせいか、ここに24時間キャンプ場ができてローンにテントが30張り並ぶ光景が、思い浮かべられません。いつ行ってもテントが張られて誰かがキャンプをしている知事公館。私は逆に散策する気持ちが萎えてしまいます。
 ただ、日にちと時間を限定してこの庭園に野外レストランが設けられたら、行ってみたいなとは思います。英国の邸宅を彷彿させる洋館の前で、アフタヌーンティを楽しんでみたい。

 公共施設はすべからく集客すべし。異を唱えづらい空気を感じます。無用の長物に税金を注ぎこむわけにはいかない。宝の持ち腐れにあぐらをかいてはおれない。
 「そういうオマエも、旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮を『もっと使え』と主張したではないか?」と言われそうです(本年6月23日ブログ参照)。しかり。私は20年前、税金が投じられる文化財について、もっと活用したいと願いました。
 しかし、“開基百年”の記念塔が老朽化して閑散としていることを問題視する報道(7月6日UHB番組「みんなのテレビ」-末注)に接すると、私はそこに強迫観念的ステロタイプを嗅ぎ取ってしまうのです。塔は近づかなければいけないものか。展望室に昇れないとダメか。そもそも記念碑的施設に展望機能は必須か。「遠くから眺めるモノ」では許してもらえないのか。

 注:旧栗沢町(現岩見沢市)の記念塔の展望室は老朽化して設備が更新されず、不気味な様子が映された。昇る人はほとんどいないという。滝川市の塔は、北海道百年記念塔同様、展望室が閉鎖されている。北海道新聞本年6月18日記事でも同様のことが報じられた。

2018/01/18

泉下の碩学に教えを乞う

 札幌建築鑑賞会で協力しているウエブサイト『北海道マガジン カイ』連載「愛され建築」第5回が公開されました。
 ↓
http://kai-hokkaido.com/architect005/
 
 今回は中央区北6条西12丁目の「ふきのとう子ども図書館」です(2017.10.252014.8.11ブログ参照)。新しい図書館の建物と併せて、隣接する故高倉新一郎先生旧宅が紹介されています。ふきのとう文庫のことはこれまでもマスメディアなどで取り上げられていますが、室内の写真を添えて旧宅を載せたのは本邦初公開?かもしれません。ご当主に無理をお願いして、撮影させていただきました。
 それもこれも、この旧宅が将来再活用されることを願ってのことです。その日が来ることを鶴首してやまないのですが、私は心中痛みも感じています。「では、そういう自分は実現のために力を尽くしているのか?」と自問したとき、忸怩の念が募るからです。

 30年ほど前、元の持ち主である故新一郎先生にお目にかかったことがあります。今思い出すにつけても赤面汗顔しますが、北海道アカデミズムの御大に、若造が偉そうなことを申しました。何をしゃべったか再現するだに恥ずかしい。歴史的遺産の保存活用のためにもっと啓発したいとか。啓発されるべきはまずもって自分自身であることを、先生から教えられました。札幌建築鑑賞会を26年続けてきたのは、その延長です。
 私が拙ブログで綴る時空逍遥の多くは、たいてい故新一郎先生が拓いた地平で遊ばせてもらっているようなものです。先日来取り上げている北海道百年記念塔もしかり。先生は百年記念事業の計画策定の中心にいました。先生ご存命なりせば記念塔のことだけでも、いろいろお尋ねしたかったものを。

2017/10/25

桑園博士町 ふきのとう文庫

 市道試験場線の話が長引いてます。10月23日ブログで、「私が気になっている地点がとりあえず2箇所」あると記しました。そのうちの1箇所目、試験場線の起点のことは昨日ブログに記しましたが、2箇所目のことはまだ触れていません。こちらも文献渉猟、史料考察的な話になりそうです。が、それを続けるのは書く方も読む方も肩が凝ってきます。ここでちょっと話題を転じます。

 桑園博士町を歩きました。
 訪ねた先は、子ども図書館「ふきのとう文庫」です。
ふきのとう文庫 201710
 学生時代の恩師、T先生が館長を務めている民設民営の図書館で、特に心身にハンディのある子どもたちのための図書を広める活動をしています(正確には、T先生は運営する公益財団法人の代表理事。同文庫サイト参照)。

 敷地の一角にある先生の旧宅が綺麗になっていました。
桑園 T先生宅 外観201710
 大正時代に建てられた洋館です(2014.8.11ブログ参照)。今年、下見板貼りの外壁にびっしり絡まっていたツタを取り払い、ペンキを塗り替えたそうです。建物を長く保つために手入れされていることにも頭が下がります。ツタが絡まっていたときは近所の子どもたちが気味悪がっていたのですが、綺麗になって評判が良くなったそうです。無責任なことを申し上げるならば、江戸川乱歩の探偵小説を彷彿させるようなちょっと妖しげな洋館というのも、個人的には憧憬がありますが。

 帰宅してから資料を見返して気づいたのですが、T先生宅のお隣にかつて新島善直先生(北大農学部教授・林学)がお住まいでした(末注①)。冒頭画像の左方、高層マンションが建っているところです。
 新島先生といえば、先日来拙ブログで話題にしている「試験場」にゆかりの深い方です。野幌林業試験場の元場長。在任は1912(明治45)年から1934(昭和9)年まで20年以上の長期に及び(末注②)、こんにちの野幌森林公園の礎を築いた一人といってよいでしょう。
 野幌と桑園、離れているようで実は深いつながりがありました。またしても私は、お釈迦様の掌に遊ぶ孫悟空のようです。

 注①:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」『北海道大学 大学文書館年報』第2号、2007年、pp.97-98
 注②:西田秀子「林業試験場の人びと」『叢書 江別に生きる10 野幌原始林物語 -森と人々とのシンフォニー-』2002年、p.148。野幌は、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017秋の編で歩いた豊平とも縁があることを先日の西田さんの講演(10月14日ブログ)で知った。それはまた機会をあらためたい。行く先々で、歴史の刻印を思い知る。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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