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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/13

境目は、やはり面白い⑲ 明治時代の産物

 旧札幌市と旧円山町の境界探訪、ようやく最終回です。これまで彷徨ってきた時空を振り返ります。
 旧河道による境目
 ↓
 道幅の違い・旧札幌市側の道の広さ
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 旧札幌市側でもことさら幅広い市道北3条線と北4条線
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 裏側にも拡げた札幌の大手前通り
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 裏側は途切れ途切れの道
 ↓
 元は途切れてなかった?(筋を通そうとした?)道

 北3条線や北4条線が札幌本府の“裏”(西側)にも拡げられたのを、当初私は意外に想いました。たぶんそれは京都や奈良のような古代条坊都市(平城京や平安京)とか近世の城下町の印象があったからでしょう。“君子南面”で、北側には主だった市街がないという先入観です。
 札幌の格子(碁盤目)状街区の形成を歴史的に論じる能力はありませんが、仮に直截の由来が近世城下町だったとしても、一足飛びに近代化する過程で近世の論理では間に合わなくなったことでしょう。中世戦国時代を引きずった城下ならば、本府(開拓使本庁、北海道庁)の裏側は天然の要害(低湿地)のままでよかった。近代的な合理性に鑑みれば、中心官衙に裏も表もない。
 というリクツは後付けです。明治中期北海道の為政者や官吏は、実は「えい、や」でやってしまったのかもしれません。「東側が15間だから、西側も15間でよかろう」と。コネイ、メム(低湿地)も、なんとかなる。杓子定規、と決めつけたら明治のお役人に失礼でしょうか。
 実際にはなんとかならずに、コネイは植物園としてこんにちに至りました。開拓前の原風景を留める都心の文字どおりオアシスです。結果的に道が途切れ途切れとなり、通過交通が遮られることになった。ベニバナトチノキの並木道はそのたまものといってよいでしょう。

 たまものといえば、こちらもそうです。
北4条ミニ大通 西17丁目
 北4条ミニ大通。札幌の中心部で“分不相応”に広い生活道路ゆえか、歩行者専用道路が設けられました。植えられた樹々も立派に成長しています。普通の歩道の植樹枡では、なかなかこうはいきません。
 偶然か必然か、明治人の杓子定規のせい、もとい、おかげです。
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2020/07/10

境目は、やはり面白い⑱ 筋を通す?

 道幅の広い北3条線、北4条線は明治20年代、植物園(当時は博物館)の西側に通じたようです。
「札幌市街之図」1890(明治23)年からの抜粋を観ます。
明治23年札幌市街之図 北3条線、北4条線
 赤矢印を付けた先が北4条線、橙色が北3条線です。北海道庁の時代になり、開拓使本庁の敷地よりも小さくなっています。北4条線が道庁敷地の北辺となりました。それぞれの道が西端の旧市界(当時は区界)まで描かれています。ただし西方の色塗りされていないところは、計画線でしょうか。
 
 西方の一帯を少し拡大します。 
明治23年札幌市街之図 北3条線、北4条線 植物園、二中
 のちの植物園、のちの札幌二中の敷地を緑色ので囲みました。右側(東)の大きいが植物園、左の小さいが二中になります。

 興味深いのは現在の植物園の一画です。 
明治23年札幌市街之図 植物園
 画内が地割されて、北4条線、北3条線らしき計画線?も一部、描かれています。

のちに札幌二中になるところも同様です。
明治23年札幌市街之図 札幌二中の敷地
 北4条線の計画線?が貫通しています。

 札幌二中がこの地に設けられるのは大正期なのでともかくとして、植物園が細かく地割されていたのは意外でした。私はこれまで北4条線、北3条線を「途切れ途切れ」と記してきましたが、それは結果であって、実は明治の道庁時代、途切れなく通そうとしていたのかもしれません。

2020/07/09

境目は、やはり面白い⑰ 大手か搦め手か

 市道北3条線と北4条線は途切れ途切れでありながら、目抜き通りでもない植物園の西側で旧市町界(西21丁目)まで、なぜ幅広に道を拓いたか。6月15日同月21日ブログで発した自問の答は、結局わかりません。
 昨日ブログにも載せた「道路幅員図」1927(昭和2)年の原図を、札幌市公文書館であらためて眺めました。同館の歴史家Eさんにもお知恵を借りて、廻らせた想いは以下のとおりです。
 (1) 植物園や道庁の東側の道幅と、単純に合わせた。
 (2) 植物園より西側は市街の形成が遅れていたので、道路を拡げやすかった。 

 (1)を補足します。明治から大正にかけての札幌の市街図を見返すと、植物園より東側、道庁の周辺は当然といえば当然ですが先んじて街区が形成されています。地形的にも札幌扇状地の微高地で、官衙の立地に適っていました(末注①)。その中心に置かれた開拓使札幌本庁は(その跡を継いだ北海道庁も)東面しています。東面する北3条線、北4条線は、札幌本府の基軸線と想定されたのではないでしょうか。

 故遠藤明久先生が作った「札幌本府の街画(明治7年ころ)」を引用させていただきます(『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.56-57)。
遠藤明久先生作図「札幌本府の街画(明治7年ころ)」
 開拓使本庁の東側の「石狩通」と「札幌通」に赤傍線を引きました(末注②)。現在の北4条線、北3条線です。15間と、ひときわ幅広く拓かれています。本庁敷地の東辺に位置する「正門」をお城の大手門とするなら、大手前通りすなわちメインストリートといってよいでしょう。
 ちなみに本庁の敷地東辺と南辺は、橙色の○で囲ったとおり20間です。北3条線、北4条線より幅広いのですが、これは江戸時代のお城でいったらお堀の位置づけかと想います。南側の黄色の○で囲ったところは58間とさらに広いのですが、本庁外周の20間を内堀とするならこれは外堀でしょう。後志通、のちの火防線、のちの大通逍遥地です。これは通りというより、官と民の精神的、権威的な境目の意味合いだったように想います。
 
 北3条線、北4条線の道幅は道庁、植物園の西側でも、これまで述べてきたとおり15間です(6月21日ブログ参照)。東側の大手前通りの15間を、西後背の“未開地”にもそのまま引っぱってしまったのだろうか。

 注①:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通巻219号)2017年参照
 注②:1872(明治5)年、札幌本府の町名(道路名)に「北海道国郡名」が付けられた(前掲書pp54-55)。北3条線の「札幌通」、北4条線の「石狩通」という命名にも中心性が感じられる。

2020/07/08

境目は、やはり面白い⑯ 途切れ途切れの幅広道

 旧札幌市と旧円山町の境界探訪、このシリーズの主たるテーマは川跡もさることながら、道幅でした。旧市町界に伴う道幅の違いは前々から記したことです(2017.9.15ブログ参照)。このたび、市道北3条線と北4条線の道幅が特に広いことに気づきました(6月15日ブログ参照)。札幌の中心部の道路の中でも、とりわけ広い。そのため、旧円山町側との違いがいっそう際立っているのです。北3条線と北4条線の幅広は、昭和初期に由って来ります。それを裏付けるのが、6月21日ブログに載せた札幌市役所作成「道路幅員図」1927(昭和2)年です。

 あらためて、その道路幅員図で北3条線と北4条線を観ます。
道路幅員図1927年 北3条線、北4条線
 黄色でなぞった二本の道です。周辺に流れる川を水色で、まとまった大きな敷地を緑色で塗りました。緑色は、右方(東)から道庁、博物館(植物園)、三井クラブ、札幌二中です。

 同じ一帯を地形図「札幌」1916(大正5)年で眺めます。
大正5年地形図 北3条線、北4条線
 現在の北3条線を橙色、北4条線を赤色でなぞりました。太い実線はすでに道路が描かれているところ、細い線はまだ道が通じていないところです。

 北4条線が西方で二中の敷地によって途切れていることは6月21日ブログで記しました。巨視的に見渡すと、東方でさらに植物園にもぶつかります。一方、北3条線というと、同じように植物園と道庁によって遮られています。北4条線は植物園の西方で、北3条線はその東方で、“細切れ”感が強い印象です(6月14日ブログ参照)。

 前掲2枚の地図の西15丁目あたりから西を、さらにトリミングしました。
道路幅員図1927年 北3条線、北4条線 現知事公館付近
大正5年地形図 北3条線、北4条線 現知事公館付近
 三井クラブ(現在の知事公館の敷地)から発する川(2014.8.6ブログ参照)が横切っています。大正5年地形図では、北4条線がこのあたりをまだ通じていません。軟弱な土地が道の開通を遅らせたのかとも想わせます。そもそも植物園や知事公館がまとまって敷地を確保して今に至っているのも、メム(湧泉池)のたまものといってよいでしょう。
 
 こうしてみると、北3条線も北4条線も、一本の道路としては行く手にさまざまなハンディがあったといえます。にもかかわらずというべきか、旧札幌市側では旧円山町との境界まで幅広の道が開かれました。植物園より東方の、札幌のいわば心臓部と同じ道幅が確保されたのです。
 にもかかわらず、と再度繰り返します。旧円山町側の道幅が狭く造られたことと相まって、とりわけ北4条線は前述したように植物園より西方で途切れているため、東方のような交通量はありません。結果として、稀に見る幅広の生活道路が実現しました。

2020/06/29

ポンコトニ、ホンコトニを廻るさらなる妄想

 「札幌市視形線図」1924(大正13)年からの抜粋です(末注①)。
札幌市視形線図 琴似川、支流
 当時の札幌市の市域西端に、川境を分かった旧円山川が描かれています。
 
 この図でも、この川に「琴似川」と添えられています。赤いで囲ったところです。6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と同様です。右方(東方)の現知事公館から発する川と現サクシュ琴似川には「支流」とあるのも同じです(橙色と黄色の○)。

 それもそのはずというべきか、この地図の印刷者は「札幌市街之図」1918(大正7)年と同じ「北海石版所」(末注②)です。
札幌市視形線図 クレジット
 「札幌市役所編纂」とありますが、編纂されたのは1尺単位で引かれた等高線(末注③)のことだと思います。

 標題は、「札幌市街之図」とある下に「視形線図」と書き加えられた体裁です。
札幌市視形線図 標題
 元図として使われた「札幌市街之図」自体は、北海石版所が作ったものでしょう。
 
 明治から大正にかけて、この種の大縮尺の市街図が北海石版所をはじめとする民間印刷業者によってたびたび発行されています。国(陸地測量部)による地形図とは別に、です。これらの市街図は誰が測量して、製図したのか。印刷者名とは別に「北海道庁」が発行者らしく表記されたものもありますが、必ずしも定かではありません。当時の民間印刷業者に測量・作図の力量がどこまであったのか、興味深いところですが措きます。

 なぜこれを採り上げたかというと、やはり冒頭に記した川名に関わります。
 本件旧円山川が「琴似川」の本流であるかのごとく表記された事情は、大局的にはコトニ→琴似の「地名の引越し」(山田秀三先生)に由るものでしょう(昨日ブログ参照)。「琴似村の方に引きつけられ」た(末注④)。加えて私は、明治大正期に度重ねて発行された市街図がこれに拍車をかけたのではないかと想うのです。

 冒頭の視形線図を、6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と較べてみます。
札幌市街之図大正7年 札幌区、藻岩村境界付近 琴似川
 赤いで囲った「琴似川」の文字の位置に注目しました。冒頭の大正13年視形線図では鉄道の北側から南側まで間隔を開けて書かれているのに対し、この大正7年市街図では鉄道の南側にまとまっています。6月27日ブログで述べたように、書かれ方としては旧円山川に遡る流路が琴似川であるかのようです。しかも、右方(東方)の川に添えられた「琴似川支流」との対比で、本流であるかのごとくです。

 冒頭の大正13年視形線図に戻ります。
札幌市視形線図 琴似川の「川」の箇所
 飛び飛びに書かれた「琴似川」の文字のうち、「川」の字の箇所をトリミングしました。「川」の字は、前掲大正7年市街図よりもさらに南側に書かれています。西側から別の川が合流する地点よりも上流です。この書かれ方だと、「琴似川」は完全に旧円山川と見做せます。

 下掲は、1910(明治43)年に出された「札幌区全図」という市街図です。
札幌区全図 明治43年 琴似川、支流
 赤いで囲った「琴似川」の文字は、鉄道の北側にまとまって書かれています。

 3枚の市街図だけで即断するのは危ないのですが、明治43年→大正7年→大正13年と時代が下るにつれて、「琴似川」が旧円山川に特化されていったようです。
 コトニの由来は本来的には、知事公館や植物園などのコッネイでした。凹んだ土地です。凹地のメム(泉池)を源とする川が、下流で他の川も交えて一本にまとまり、明治以降、琴似川と総称されるようになりました。総称だったはずが、旧円山川に遡って本流視されるようになった。なぜか。

 私はここでも、昨日ブログで引用した『札幌区史』1911(明治44)年が一役買ったと推理します。
札幌区史 札幌郡西部図リライト ホンコトニ
 リライトされた明治6年地図です。「ホンコトニ」。左方(西方)に流れる水色でなぞった旧円山川が、ホン(=アイヌ語で「小さい」)ならぬ「本流の」琴似川と誤解されたのではないか。奇しくもというべきか、旧円山川が琴似川(の本流)とされている市街図は、『札幌区史』が刊行された明治44年より少しあとの大正期です。

 ポンコトニ、ホンコトニ、本琴似、琴似本流。もちろん、アイヌ語の語義に精通する有識者がホン、ポンを誤解するはずはありません。さりとて印刷出版文化のすそ野が広がる時代にあって、かような地図の細部まで諸賢人の目が行き届いたかどうか。
 念のため申し添えます。私の妄想は明治大正期の民間発行地図への賛辞です。時空逍遥を堪能させてもらえるのも、北海石版所をはじめ往時の出版文化人のおかげです。感謝は尽きません。
  
 注①:同図については2019.2.12ブログに関連事項記述
 注②:北海石版所については2015.1.22ブログに関連事項記述
 注③:同図の「凡例」には「同高線」とある。
 注④:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.52

2020/06/28

境目は、やはり面白い⑮ 旧円山川

 琴似川をめぐる川名の混乱(?)は、山田秀三先生が半世紀以上前に喝破されています。すなわちコトニ→琴似の地名の「引越し」です(末注①)。その本題については山田先生の著述に加えることはありません。拙ブログの今回のテーマである旧区村界を分かった旧円山川に即して蛇足を試みます。

 先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。
札幌郡西部図 ホンコトニ
 画像が粗くて申し訳ないのですが、黄色の矢印を付けた先に「ホンコトニ」と書かれています。原図の向き変えて北を上にした都合上、文字は下から上へ逆さまです。この地図のこの箇所になぜホンコトニと書かれているかは同書に詳述されており、また拙ブログのテーマではありませんので割愛します。
 その左方(西)の赤い矢印を付けたのが本件旧円山川です。問題は昨日ブログで引用したとおり、『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)でこちらの川が「ポンコトニ」とされていることです。「この旧円山川は西側のケネウ(中略)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い」(前述書p.47)。にもかかわらずこの川がポンコトニとされた事情を、山田先生は次のように推理しています(太字、同書p.52)。
 琴似村の方に引きつけられて、いつの間にか円山村、札幌区の境界の川の名(引用者末注②)として使われるようにようになったらしく見える。これがやっと辿りついた推理であるが、是非の検討は若い同好者によって続けて戴きたいものである。

 さらに先生は旧円山川を以下のとおり説明しています(太字、同書p.60)。
 旧円山川
 前掲「札幌郡西部図」の札幌区(一里方内)の西境に小川が描いてあるが、現称「旧円山川」(市土木部の図による)で、相当長い間札幌区と円山村の境になっていた川である。前記したように、これがある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていたようだ(前記ポンコトニの処を参照のこと)。北一条西二十丁目の角の辺から西北流し、二十一丁目線の少し西側を蛇行した川であるが、今はまったく面影がない。


 「若い同好者」の末席を汚すのも恐れ多いことながら、蛮勇を奮って「是非の検討」に挑みます。
 私の疑問は二つあります。
 第一に、旧円山川が「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」のかどうか?
 第二に、この川がポンコトニと呼ばれたとして、それは「琴似村の方に引きつけられ」たからか?

 疑問の第一について。 
 たしかに旧市史では本文でも、旧円山川を「ポンコトニ川」と記しています(末注③)。しかし、それ以外の古文書、古地図ではどうでしょうか。管見寡聞にして、旧市史を裏付ける史料に当たりません。円山村→藻岩村→円山町の歴史の集大成ともいえる『円山百年史』1977(昭和52)年は、次のような表現です。
 「琴似川支流の川境」(p.28)、「札幌との境界の川」(p.29)、「南一条通り西十七丁目の小川」(p.46)、「二十丁目沿いの川筋」(p.114)

 ポンコトニは「小さいコトニ」であり、川に即して和訳すれば「ポン」は「支流筋の」(末注④)です。したがって「琴似川支流」は語義に適います。しかし、もしポンコトニと呼び慣わされていたのならば、「琴似川支流」というよりも、固有名詞的にそのまま古地図などに記されてよかろうものをと想えるのです。地域の古老の証言がふんだんに盛り込まれた『円山百年史』にして、「境界の川」といった漠然とした呼称であることに引っかかります。一方、昨日ブログに載せたとおり、かろうじて川名を見つけた「札幌市街之図」1918(大正7)年では「琴似川」です。「支流」とは書かれていません。
 あくまでも状況証拠ですが、「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」とは言いがたい、というのが私の結論です。

 第二の疑問に移ります。
札幌区史 札幌郡西部図リライト ホンコトニ
 「明治六年十一月札幌附近ノ図(飯島矩道舩越長善実測北海道庁所蔵)」と題された古地図からの抜粋です。『札幌区史』1911(明治44)年から採りました。北を上にしたので、やはり文字が逆さになっていますがお許しください。
 表題から明らかなように、本図は前掲「札幌郡西部図」をリライトしたものです。前掲図と較べていただくとおわかりいただけるでしょう。問題にしてきている旧円山川を水色でなぞりました。

 注目したいのは、橙色の矢印を付けた先です。「ホンコトニ」と書かれています。オリジナルの前掲図では東寄りの「コトニ水系」(山田前掲書)に沿って書かれたものが、本図では西方のケネウ水系との中間です。この図だけ見ると、どうでしょうか。「ホンコトニ」は旧円山川の川名とも読めてしまいます。
 札幌市の正史は、前述1953年旧市史の前は本『札幌区史』に遡ります。旧市史編纂に当たって最も下敷きされたのが『区史』といってよいでしょう。旧円山川を「ポンコトニ川」としたのは、このリライト版古地図に影響されたのではないでしょうか。「琴似村に引きつけられ」たというようないわば巨視的な移動ではなく、「ホンコトニ」の記載位置のズレによる微視的な異同(取り違え)が原因だった。
 山田先生のみならず、旧市史編纂に携わった井黒弥太郎、高倉新一郎という偉大な諸先達にも大変恐れ多い妄言になってしまいました。
  
 注①:コトニ→琴似の地名の移動については2017.1.22ブログに関連事項記述
 注②:昨日ブログをはじめ、私は札幌区との境界を藻岩村とか円山町と記しているが、もともとは山田先生が述べるとおり円山村である。同村は1906(明治39)年に山鼻村と合わさって藻岩村になった。さらに1938(昭和13)年、円山町となり、1941(昭和16)年札幌市と合併した。
 注③『札幌市史 政治行政篇』pp.109-110
 注④:前掲山田書p.52

2020/06/25

厚生年金会館ホールの平面

 旧厚生年金会館です。
旧厚生年金会館 解体工事中
 解体工事のため、覆いが掛かっています。

 工事中の塀に描かれている在りし日の建物の姿に惹かれました。 
旧厚生年金会館 解体工事中の塀に描かれた絵
 上から俯瞰したした風景が新鮮だったのです。私は今まで、地上から見上げた姿しか印象に残ってませんでした(2018.10.8ブログ参照)。
 今さらながら、大ホールの平面は(も)六華様だったのだなあと気づいたしだいです。1972(昭和47)年、冬季五輪に先立つIOC総会の開会式がここで催されました。

2020/06/24

境目は、やはり面白い⑬ 市道北4条中通西線から北5条線

 西21丁目と西22丁目の旧市町界探訪も終わりに近づいてきました。
現在図 北1~5条西21~22丁目 北4条中通西線
 今回は北4条中通西線、北5条線を逍遥します。画像の撮影地点と向きは、上掲現在図に赤い○数字(画像キャプションの数字と一致)と矢印で示しました。これまで訪ね歩いた通りに付けた橙色は、ブログ掲載月日です。

①-1 市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望
市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望
 今回のテーマの出だしの6月12日ブログで歩いた市道北4条線(ベニバナトチノキの並木道)の一本北側の仲通りです。

①-2 同上 道の凹み
市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望 道の凹み
 やはり、というべきか、彼方で道がわずか~に凹んでいます。黄色の矢印を付けたあたりです。

②-1 市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望
市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望
 同じ通りを反対方向から眺めました。

②-2 同上 道の凹み
市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望 道の凹み
 同様に、凹みが望めます。

③北4条中通西線から西21丁目と西22丁目の丁目界
市道北4条中通西線 西21丁目、西22丁目 丁目界
前掲①-2、②-2で望めた凹みの箇所です。通りの北側に踏み分け道が通じています。この道が西21丁目と西22丁目の丁目界です。とりもなおさず旧札幌市と旧円山町の旧市町界であり、小河川跡であり、数千年前には古豊平川が扇状地を拓いていました。この踏み分け道は私道なので、通りから眺めるだけとします。

④北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 南望
北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界を南望
 北5条線側に廻って、同じ丁目界を眺めました。やはり小径で分かたれています。この小径も私道です。旧市町界や川跡がこのような丁目界で名残をとどめているのはありがたいことです。

⑤-1 北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 北望
北5条線 西21丁目、西22丁目の丁目界を北望
 北5条線の向かい側(北側)です。

⑤-2 同上 高低差
北5条線 西21丁目、西22丁目の丁目界を北望 高低差
 一見何の変哲もない駐車場ですが、よく見ると奥のフェンスのところで高低差があります。黄色の矢印の先です。フェンスの向こうのクルマが置かれたGL(地盤面)が手前の駐車場に比べて、わずか~に低い。このフェンスで丁目界が分かたれているようです。その後方に建つマンションは北5条線に対してナナメに配置されています。川はフェンスの向うで、このナナメに沿って北へ下っていたらしい。

 このたび歩いた界隈を1948(昭和23)年空中写真で俯瞰します。
空中写真1948年 北4条中通西線、北5条線 西21丁目、22丁目界隈

 ところでこの川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか。

2020/06/21

境目は、やはり面白い⑩ 戦前の道路幅員図に観る

 1927(昭和2)年に札幌市役所が作った「道路幅員図」です(札幌市公文書館蔵)。
札幌市平面図 道路幅員図 1927年
 札幌市と周辺町村の道路幅員が記されています。
 
 この図面は2015.8.12ブログで一度引用させてもらいました。 興味深いのは、当時の詳細な現況と推測されることです。札幌市内についてはたぶん、いわゆる公道のすべてを詳らかにしていると思われます。
 現況図面と考えたのは標題に「計画」と書かれていないからですが、理由はそれだけではありません。大正時代に都市計画法が施行されて、札幌及び近郊でも同法に基づくまちづくりが計画されました。札幌市では、昭和に入って「都市計画街路」の案が立てられます(末注①)。前掲図はその基礎資料として作られたのではないでしょうか。図上、橙色で引かれている外周線は凡例によると「計画区域」です。都市計画法の対象区域でしょう。その後、都市計画道路の計画図が作られていきます(末注②)。

 ここまでは前置きです。本題に入り、市中心部を俯瞰します。
札幌市平面図 道路幅員図 1927年 札幌市中心部
 碁盤目のいわゆる本通りだけでなく仲通りも幅員が示されています。

 私が注目したのは先日来逍遥している一帯、すなわちほかならぬ西21丁目、西22丁目の境目です。
札幌市平面図 道路幅員図 1927年 北3条西21丁目、22丁目付近
 現在の市道北3条線、北4条線を黄色の実線で囲みました。幅員が「15K」と示されています。「K」は長さの単位で、「間」です。1間≒1.818m。
 北3条線、北4条線の15間は、15×1.818≒27.3mです。私は6月15日ブログで、このあたりの道路幅員を現在図から計測しました。それによると、北3条線、北4条線は28mです。この図面が現況を表わしているとすると、現在の道路幅は90年以上前からほぼ同じだったといえます。
 私は、2017.9.16ブログでは戦時中の「建物疎開」による道路拡幅の可能性を推理しました。しかしこの図面からすると1927(昭和2)年、すなわち戦前から幅が広かったことになります。

 本件道路幅員図に添えられている凡例です。
札幌市平面図 道路幅員図 1927年 凡例
 前述北3条線と北4条線の15間は、広い方から3番目に当たります。

 この15間という道幅がいかに広いか、市中心部を拡大した前掲図で示します。
札幌市平面図 道路幅員図 1927年 札幌市中心部 15間以上の道路加筆
 幅員15間以上の道路を黄色の実線で囲みました。 白ヌキ□で囲ったのが、北3条線と北4条線の西21丁目、西22丁目境目付近です。

 15間以上は北3条線と北4条線以外では、北海道庁の四囲と菊水に見られます。道庁の四囲は、開拓使札幌本庁当時の外周路の広幅員が反映されているのでしょう。菊水の基軸線が広いのはお察しいただけると思います。北3条線が創成川以東の苗穂駅まで広いのは、市電苗穂線の敷設と関係がありそうです。
 と、ある程度理由が想像できる道路もあるのですが、本件北3条線と北4条線の広さはどうでしょうか。特に西21丁目、西22丁目の境目付近で道幅をここまで拡げる事情は何だったのか。北4条線に至っては、前掲図で見るとおり地図記号「文」と書かれた学校敷地(末注③)で途切れているにもかかわらず、わざわざ西20丁目以西(現在のベニバナトキノキの道。6月12日ブログ参照)も広くなっています。かねてこの付近での旧円山町側との道幅の違いを述べてきましたが、15間という道幅によってその差異がことさら強調されたのです。
 6月15日ブログの自問を繰り返します。なぜ、こんなことになったのか。答えをまだ導けません。

 注①:札幌市建設部計画課『札幌都市計画概要』1954年、p.39
 注②:2017.8.11同8.12ブログに関連事項記述
 注③:この図に書かれている「文」は、旧制札幌第二中学校(後の北海道札幌西高校)。西高が移転した後、現在は龍谷学園である。

2020/06/18

境目は、やはり面白い⑦ 名残物件

 昨日ブログで、「円山」を名前に冠した桑園地区の建物のことを伝えました。
  
 その一つのマンションです。
桑園地区にある「円山」を名に冠したマンション 全景
 ここから東(画像上、右方)へ30mほど行くと、円山地区に入ります。

 玄関にマンション名が刻まれています。
桑園地区にある「円山」を名に冠したマンション 1階ファサード
 緑色の銘鈑です。

 「Dia Palace Maruyama」までは読めました。
桑園地区にある「円山」を名に冠したマンション 銘鈑
 その後に続く文字が読めません。見慣れない飾り文字のアルファベットで書かれているせいか、すんなりとアタマに入らないのです。それでも、ともかく「おお、桑園ながらここも『円山』か」と感慨を抱きました。

 桑園地区といっても、昨日記したとおり公式な町名ではありません。まちづくりセンターの担当区域です。この地区の町内会は桑園を冠しています。その桑園といい円山といい、いうまでもなく明治以降入植した人々によって区分けされた地名です。先住者が呼び慣わしていた地名にいわば上書きしたものでもあります。桑園のあたりにはコトニとかキムクシメムといった自然地形の呼称がありました。円山はもともとモイワ(小さい・山)です。その山懐をヨコシペツが流れていました(末注①)。私の感慨はあくまでも、そのような歴史の流れの上に成り立っています。

 さて、くだんのマンション名は「Maruyama」の後に何と続くか。玄関の腰壁に漢字仮名表記されていて、わかりました。
桑園地区にある「円山」を名に冠したマンション 銘鈑-2
 「領事館通」です。
 この建物が面する通りに領事館があるとは、想いが至りませんでした。言い訳がましいのですが、文字を見てもピンとこないわけです。

 手元のゼンリン住宅地図2002年を見て、納得しました。
桑園地区にある「円山」を名に冠したマンション 周辺
 住宅地図上、本件マンションのすぐ近くに「大韓民国総領事館」と書かれています。上掲画像の左方、現在これまたマンションが建っているところです。この場所には本件マンションが建つ前にも何度か足を運んだことがあるのですが、総領事館の存在には気づいてませんでした。

 外国公館のある場所というのは、付加される意味性があるようです。東京などでは大名屋敷跡が大使館になっているやに聞きます。終戦後、進駐軍が宿舎用に接収したのは、札幌でも一流ホテルや上流階級の住宅などでした(末注②)。本件「領事館通」の銘板には、その歴史が塗り込められています。いや、深読みです。

 外国公館にまつわる場所というか地名では、子どもの頃、母から教わった「狸穴」を思い出します。「ソ連の大使館があるところは、狸穴っていうんだよ」と聞きました。母は「なんだかおかしいね」と言いたげな口調だったように覚えています。私は小学生のこととて、当時はソ連というのがどんな国か良く知らず、せいぜいロケットや宇宙開発を米国と競う大国という印象しかありませんでした。ただ、狸穴の字面といい「まみあな」というコトバの響きといい、漠然と「そんなところに大使館があるのか」とは思ったものです。「そんなところ」といっても、私は現地を知りません。都心の一等地らしいのですが、何か魑魅魍魎が潜んでいる土地のように語感だけで想像してしまったのです。後年、漏れ伝わる彼の国の様子を知るにつけ、その在日大使館の所在地名にこれまた感慨を抱きました。

 在札幌韓国総領事館は現在、別の場所にあります。本件マンションを、「教育大学前」(2014.9.9ブログ参照)と並んで稀少な名残物件に認定いたしたい。

 注①『新札幌市史 第5巻 通史5上』2001年、p.536 
 注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.47-63

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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