札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2016/09/23

子取川⑤

 9月19日ブログの続きです。 
 札幌競馬場の東側を流れていたという子取川。競馬場関係の書物以外では、私は聞いたことのない地名(川名)です。この名前は、『札幌競馬沿革誌』1928年に出てきます。同書は1911(明治44)年が初版で、どうもそれが出どころらしい。

 同じ年の「北海タイムス」(現北海道新聞)8月26日記事です。
北海タイムス 明治44.8.26記事 札幌競馬沿革
 「札幌競馬沿革」という特集記事に、「子取川時代」という一節があります(末注①)。文面は『札幌競馬沿革誌』の記述とほぼ同じで、どちらかがどちらかを引用したものと思われます。この中に「札幌の西北端琴似川の東岸字子取川農場」に新競馬場を作ったことが記されています(赤傍線の箇所)。

 まだ調べは終わっていないのですが、現時点での私の推論を以下に述べます。

 推論A:子取川の由来はチエプンペツ
 チエプンペツは、山田秀三先生によると、現在の植物園あたりにミナモト(ピシクシメム)を発し、鉄道の北側でコトニ川すなわち現在の知事公館にミナモト(キムクシメム)を発する川に合流します(末注②)。
明治29年地形図 チエプンペツ
 濃い青でなぞったのがチエプンペツ、薄い青がコトニ川です(元図は明治29年地形図)。  
 同じく山田先生の語釈によれば、チエプンペツは「魚が・そこに入る・川」です。一方「子取川」は、『札幌競馬場100年史』2007年で「俗説」として、サケの卵(筋子)を取る川という由来が紹介されています。チエプンペツの意訳としての子取川が考えられます。

 推論B:子取川は琴似川の誤記
 コトリ川、コトニ川。似ています。「子取川」は、明治期の古地図などに出てきません。いくら俗称地名だとしても、疑わしい。サケの卵を取るという由来も、あとづけ臭い。

 注①:この年に皇太子(後の大正天皇)が行啓し、札幌競馬場に台臨した。記事はそれに合わせて特集したものらしい。
 注②山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.56。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』の「チエフンベツ」を語釈した。なお先生は、他の古文書に書かれた「セロンペツ」(セロヲンヘツ、マロンヘツ)と「同じ川らしく見える」と記す(p.53)。
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2016/09/19

子取川④

JR函館線の北側、札幌市中央区と北区の区界沿いの踏み分け道を北へ進みます。
北8西11 区界③
 町名でいうと、北区北8条西11丁目です。青いフェンスの向こう側(左方)は中央区北11条西13丁目になります。市立札幌病院と札幌市立大学の敷地です。条丁目が連続しないところにも、辺境感が漂います。

 辺境をさらに北上すると、インターロッキング舗装された道に出ます。
北8西11 区界④
 ここは北大の「国際交流会館」の敷地です。

 9月16日ブログで私は、このフェンス沿いすなわち区界がコトニ川(子取川?)の河道跡とにらみました。が、古地図を丹念に見直すと、河道はフェンスの少し西側(画像上、左方)だったようです。
コトニ川河道 現在図 修正
 修正河道を濃い青でなぞりました。川は、現在の札幌市立大学の敷地を北へ流れます。

 市立大学側です。
北11西13 市立大学 区界を望む
 未練がましいのですが、現地の風景としては、冒頭の画像で示した木立の中のほうが河道跡を彷彿させます。
 
 明治29年地形図に描かれた琴似川一帯です。
明治29年地形図 コトニ川周辺
 黄色の矢印を付けた先がコトニ川(子取川?)です。競馬場の位置を緑色の楕円で示しました。競馬場は1907(明治40)年にこの地に来るので、まだ描かれていません。
 
 くだんの川に沿って、一点鎖線が引かれています。当時の「区界」です。といっても、「札幌区」と円山村の境界。この境界が現在の区界(中央区と北区の境界)の基になっていると見て取れます。河道が消え、微妙に位置がずれつつも、引き継がれた。
 この境界は1910(明治43)年にいったん消えます。円山村(後に藻岩村)のこの部分が札幌区に編入されたためです。それが62年後の1972(昭和47)年、札幌市が政令指定都市になり、行政区が施行されたことにより、区界として復活した。譬えていうなら、先祖返り。

2016.9.29 訂正
 前述の境界部分が1910(明治43)年、札幌区に編入されたとするのは正しくないことが判った。あえて記すならば、「1910年にはすでに札幌区になっていた」。
 『円山百年史』1977年によると、当該個所は1882(明治15)年頃に札幌区に含まれたとしている(pp113-115)。同書では、明治10~20年代における札幌区との境界をめぐる経緯を詳述している。
 一方、前掲明治29年地形図に示されている一点鎖線からすると、円山村の村域であるかのようにも読み取れる。当時のこととて、測量等に年数を要したとしても、明治15年頃にすでに札幌区であったとするならば、地形図に反映されてもよさそうである。
 結局、当時(明治10~20年代)の境界を現在の市町村界と同じ概念でとらえるのは無理があることに帰着する。 
 いずれにせよ、明治の早い時期に人々に意識されていて、その後消えた「境界」が1970年代によみがえったことには違いない。
 なお、明治43年札幌区に編入されたのは(当時の藻岩村の)旧山鼻屯田兵村の一帯である。
 

2016/09/17

子取川③

 子取川の続きです。
 河道跡が鉄道の高架をくぐるあたりに来ました。
北8西13 区界へ 
 青色の矢印の先に進み、高架をくぐります。

 進むと、金属製のフェンスで囲われた雑木林が現れました。
北8西11 区界
 フェンスには一箇所、扉が付いていて、幸いなことに開いています。
 
 立入りを禁ずるというような表示も見当たらないので、入っていきました。
北8西11 区界②
 私は、ここへ来たかった。

 なぜかというと、ここが中央区と北区の区界だからです。画像左方に見える青い金網がほぼ境目になります。金網の向こうが中央区、こちら側は北区です。
 札幌の市街地で境界線といえば、豊平川は別としてどうしても道路や人工的河川になりがちですが、この区界は野趣が感じられます。ボーダーライン愛好家としては喜悦の境地です。札幌に住んでン十年になりますが、街の真ん中にこんな空間があることを体感し、まだまだ逍遥が足りないなと思い知りました。

2016/09/16

子取川②

 札幌競馬場の東側を流れていたという子取川について、大正5年地形図に描かれている二つの川に当たりをつけました。
 別の古地図で、二つの川を見てみます。
昭和11年札幌市地図 琴似川
 「札幌市地圖」1936(昭和11)年です。
 子取川と思われるのは赤矢印を付けた川と黄色の矢印を付けた川のいずれかですが、このうちの黄色矢印のほう、すなわち競馬場のすぐ東側を流れている川は、どうも人工的に開削された水路のように見えます。一方、赤矢印のほうは自然河川で、この地図には「琴似川支流」と書かれています(末注①)。

 子取川の由来が「サケの捕獲」に関係があるとすれば(昨日ブログ参照)、どうも自然河川のほうがニオイます。実際にこの川の河道跡とおぼしき一帯を歩いてみました。
 結論的にいうと、現地で「子取川」という川名を裏付ける手がかりは得られなかったのですが、かねてこの河道のことは取り上げたかったので、報告しておきます。

 まず河道を現在図(元図は札幌市中央区役所発行「中央区ガイド」から抜粋)に当てはめてみました(末注②)。
コトニ川河道 現在図
 この川のミナモトは主に現在の植物園と知事公館の二箇所ですが、今回はそこまで遡らず、JR函館線の付近を紹介します。赤い○で囲ったあたりです。なかなか味わいのある一帯でした。

 注①:9月15日ブログ末注②で記したように、山田秀三先生はこの川がコトニ(ポロコトニ)すなわち「コトニ」川の本流ではないかとみている。琴似川の本支流をめぐっては別の機会に触れたい。
 注②:この河道については山田秀三先生が半世紀前、すでに現在図(当時)にトレースしている。先人は偉大なり。

2016/09/15

子取川①

 桑園にある現在の札幌競馬場は、かつて「子取川競馬場」とも呼ばれていました。
 …ということを私が知ったのは『札幌競馬場100年史』2007年によるのですが、気になったのは「子取川」です。
 
 同書には次のように記述されています(p.59)。
 開設の頃の札幌競馬場の通称として使われていた「子取川競馬場」は、所在地がもともとは「子取川農場」であったことに由来する。しかし、川の名前として「子取川」は公式の資料にもなく、俗説として秋に上るサケを捕獲し、卵(筋子)を採った川ということのようである。
 この川は競馬場の東を流れる琴似川の支流の1つである。琴似川本流は競馬場の西側を流れ、源はスキーのジャンプで有名な大倉山シャンツェのある宮の森あたり。今は大半が埋め立てられている。「子取川」もわずかに痕跡をとどめているが、さらに東にもう1つの支流「サクシコトニ川」があって、北海道大学の構内へ至り、近年河川公園として整備され、流れが復活した。
(後略)

 つまり、子取川は琴似川の一支流で、現競馬場の東側を流れていたということです(末注①)。これまで古地図などで見たことのない、初めて聞く川名です。しかも「わずかに痕跡をとどめている」という。これは確かめないわけにはいかない。

 まず、例によって古地図を見ます。
大正5年地形図 琴似川
 大正5年地形図で、競馬場の東側を流れる川とおぼしき線を青くなぞりました。
 画像上、一番右側(東側)の濃い青はサクシコトニです。これと競馬場の間には、川らしき線が二本、描かれています。薄い青でなぞりました。
 そのうちの右側(東側)は上流がさらに二本に分かれ、一つは現在の植物園あたり、もう一つは知事公館あたりからミナモトを発しています(末注②)。二川は函館線の北側で合流し、北へ流れ、サクシコトニとつながった上で「琴似川」に注ぎます(赤い○で囲ったあたり)。
 もう一本は、競馬場のすぐ東側を、ほぼ外周に沿うように流れています。この川も北上し、「琴似川」と合流します。
 
 前掲書の記述からすると、薄い青でなぞった川のどちらかが子取川ということになりそうです。
 
 注①:前掲書では、競馬場の西側を「琴似川本流」が流れていたとしている。西側を流れる(といっても、一部暗渠の)川は確かに現在琴似川というが、これを琴似川の「本流」といってよいかというと、異論がある。しかし、話の本題からずれるので、ここではひとまず措く。
 注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年によると、植物園のミナモト=ピシクシメムから発したのがチエプンペツ~セロンペツ、知事公館のミナモト=キムクシメムから発したのがコトニ(ポロコトニ)。

2016/09/14

楊柳亭ありき

 競馬界の大立者・持田謹也が茶室を持っていたことを9月11日ブログに記しました。その一つ、「八窓庵」は中島公園内に移築保存されています。
 「その一つ」としたのは、持田は八窓庵以外にも茶室を所有していたからです。

 もう一つの茶室は、八窓庵にくっついている「三分庵」です。
三分庵
 これは、持田が1919(大正8)年に八窓庵(忘筌)を買い受けたときに付設したものとされています(末注)。

 あまり知られていないことですが、持田宅にはこのほかにも茶室がありました。
 「楊柳亭」です。 
 『北海道新聞』2003年6月18日夕刊に、「大正期の茶室供養」と題した記事が載っています。以下、引用します。
 札幌市中央区北四西十二に大正期から建つ草庵風の茶室「楊柳亭」で十五日、建築家や茶人が茶室供養の茶会を開いた。
 茶室はマンションに囲まれた駐車場の隅にあり、木造平屋十七平方メートルで、床の間付きの四畳半と三畳の水屋などからなる。一九二一年(大正十年)、札幌の実業家持田謹也が現在地に移築したが詳しい由来は不明。所有会社の倒産により、土地、建物ともに競売に付されている。屋根を支える垂木には白い樹皮の付いたままのシラカバが使われるなど、道産材により純和風建築を試みた当時の意気込みが伝わってくる。
 マンション用地として売却されれば取り壊しも予想される。
(後略)

 私は楊柳亭の存在を知ったのは、この記事が出る少し前でした。解体の危機にあるということで、耳にはさんだのだと思います。現地を見に行った覚えもあるのですが、当時はうかつにもここが持田の屋敷跡とは知らず、「古い茶室があるんだなあ」くらいにしか思ってませんでした。アルバムを見直したのですが、写真に撮ってもいませんでした。
 数年前に、札幌建築鑑賞会でこの界隈を歩いたときあらためて現地に足を運びましたが、時すでに遅く、茶室は跡形もありません。

 楊柳亭があった場所の現在です。
北4条西12丁目 楊柳亭跡
 前述引用の道新記事には写真も添えられていますが、自分で写真に撮っておかなかったのが悔やまれます。

 『札幌競馬場100年史』2007年によると、持田は1953(昭和28)年、「自宅敷地内にあった厩舎で没したと伝えられている」(p47)。ここで馬を飼っていたのか。

 注:札幌市文化財課『札幌の文化財』2002年、p.7

2016/09/13

札幌競馬場の飛び地

 中央区北5条西5丁目です。
北12条西5丁目 舎宅解体工事
 とある建物に足場が組まれ、シートで覆われています。解体工事のようです。

 工事の標識には…。
札幌競馬場舎宅解体工事標識
 「札幌競馬場職員舎宅解体工事」と書かれています。

 札幌競馬場は中央区北16条西16丁目にあります。前掲の舎宅は、直線距離にして1㎞余り離れたところに位置しています。どういう経緯でここに舎宅が建てられたかは知りませんが、一昨日のブログで紹介した札幌競馬育ての親・持田謹也翁とのゆかりを私は感じました。舎宅の所在地が北5条西12丁目、持田の邸宅があったのが北4条西12丁目です。近い。

 舎宅は今年中に解体されるようですが、跡地はどうなるのだろう。JRAの手から離れるのだろうか。

2016/09/11

札幌競馬 持田翁壽蔵碑

 札幌競馬場の一角に建つ「持田翁壽蔵碑」です。
持田翁壽蔵碑
 1952(昭和27)年建立。
 「翁讀書人而文筆之士也…」と始まり、ずっと漢文で書かれているのですが、詳しくは読み取れません。 
 隣に添えられた説明板によると、持田謹也(1871~1953)の功績を称えたものです。

 持田は「言論人にして競馬界の功労者」(末注)です。北海タイムス(現北海道新聞)の編集長(後に取締役)を務め、1904(明治37)年には私財を投じて中島遊園地内の競馬場を改修するとともに、競走馬の改良にも努めました。1907(明治40)年、札幌競馬場の現在地への移転に尽力したのも持田です。

 持田の邸宅は、現在の中央区北4条西12丁目にありました。
北4条西12丁目 持田謹也宅跡
 画像右方、高層集合住宅が建っているあたりです。「明治期の偉大な趣味人」でもあった持田は、邸内に茶室をしつらえていました。その一つが、現在中島公園で保存されている「八窓庵」です。

 注:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p308による。以下、持田の経歴については同書及び『札幌競馬場100年史』2007年、p.47による。

2016/09/10

札幌競馬 馬頭観世音

 近々またテレビに出ます。HBC(北海道放送)の「今日ドキッ!」です。放送は、大きな変事がなければ9月12日(月)の午後5時台の予定です。
 二三日前に収録したのですが、先月に続いて二回目なので慣れるかと思いきや、却って緊張してしまいました。滑舌が悪いのが自分でも判ります。笑ってやってください。

 以下は、放送とは関係ない話題です。 
 先週の日曜、札幌競馬場に行ってきました。
札幌競馬場 2016.9.4
 最終日で入場料が無料だったせいか、3万人を超える大入りでした。

 パドックの近くに、「馬頭観世音菩薩」が祀られています。
札幌競馬場 馬頭観世音菩薩
 本体は安山岩か。周囲の花立や手水鉢は札幌軟石です。
 ニンジンが供えられていました。

 小さな碑も合わせて祀られています。
札幌競馬場 馬頭観世音 クニノエ号供養
 馬の顔貌とともに、「クニノエ号供養 馬頭観世音」と彫られています。

 こちらも札幌軟石です。
札幌競馬場 ヤマ○○号之墓
 「ヤマ○○号之墓」か(○は判読困難)。隣のお地蔵さんのような碑には「大正六年」と刻まれています。

2016/01/17

近美 らせん階段 再掲

 道立近代美術館のらせん階段です。
近美 らせん階段 実写2016
 昨日「さとぽろとその時代」展を見に行ったときに撮りました。
 館内の職員の方にお尋ねしたら、この場所はフラッシュなしであれば撮影可ということでした。
 この階段のことは2014年8月15日ブログに記しましたが、そのときは実物画像を撮っていませんでしたので、あらためて取り上げます。

 もう一度、こちらの階段と比べてみます。
網走の螺旋階段
 網走市立郷土博物館。1936(昭和11)年、田上義也設計(画像は1993年撮影)。

 前者は下から上に向かって時計回り、後者は下から上に向かって反時計回りです。

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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