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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2021/02/15

大名古屋ビルヂングの「大」

 先にJR名古屋駅前の「大名古屋ビルヂング」のことを縷々綴りました(1月20日同22日同24日ブログ参照)。「ビルヂング」表記への敬意と浅薄な揶揄への異論を述べたものです。このビルの名前についてもう一つ、先送りしたことがあります(1月25日ブログ参照)。「大名古屋」」です。揶揄の矛先は「ビルヂング」のみならず、この自尊的表現にも向けられていました。「『ナゴヤではないで。大(でやあ)ナゴヤだで!』といわんばかりに鎮座ましましている」(末注①)。
 自らに「大」を冠する呼称を皮肉りたくなる気持ちはわかります。劣等感の裏返しととれなくもない。東京、大阪にもひけをとらない大名古屋だぞ、と。「大日本帝国」とか「大韓民国」などの「大」には「偉大なる」の意味合いが何となく感じられますし(末注②)、「大名古屋」にもその思いは否定できないでしょう。ただ、この命名はあながち尊称的意味合いではないと私は推理します。

 現在図に名古屋市を示します。
名古屋市 現在の市域
 市域を赤い実線で囲みました。

 下掲は昭和戦前期の市域です(末注③)。
名古屋市 昭和戦前期の市域
 1937(昭和12)年当時、市域面積は160㎢でした。
 名古屋市は戦後、1955(昭和30)年に周辺6町村を編入して250㎢に拡大し、さらに1963(昭和38)、1964年に1市3町が編入され、現在の325㎢となります(面積はいずれも概数、末注④)。30年足らずの間に面積が倍増しました。大きな名古屋市になったのです。ちょうどその頃、大名古屋ビルヂングができあがりました(末注⑤)。「大名古屋」の「大」には、広がりつつある名古屋という時代背景が窺えます。
 おぼろげな記憶ですが、英国の首都ロンドンには現在、Greater Londonという行政区域があります。旧市域に周辺を加えたものです。このGreaterは必ずしも尊称とはいいがたく、訳すなら「拡大ロンドン広域圏」でしょうか。「大名古屋」の「大」も、それに近い意味が込められている。と私は深読みします。

 注①:大ナゴヤ人元気会編『ニッポン不思議発見!名古屋の謎だぎゃあ』1992年、pp.83。この書名自体、自虐的(?)でもある。
 注②:「大英帝国」の「大」も尊称の響きがある。これは英国の現在の正式名称たる「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」のGreat Britainを訳したものだろうか。Great BritainのGreatは尊称的意味合いか。「大日本帝国」や「大韓民国」の「大」も、語源的に「偉大なる」の意を含んでいたかどうか。
 注③:『なごや100年』名古屋市総務局1989年、pp.237-240参照。前掲図に示した戦前の市域は、同書掲載の略図に基づいておおまかに線引きした。
 注④:政令指定都市になったのが1956(昭和31)年である。この年に指定された横浜、京都、大阪、神戸とともに東京を加え、「6大都市」と習った記憶がある。
 注⑤:1月24日ブログ末注①参照
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2021/01/26

名古屋駅舎の30年今昔

 昨日一昨日と「ビルヂング」を逍遥しています。  
 その動機は、大名古屋ビルヂングが位置する名古屋駅前です。さらに遡れば、駅前の地上景観に対する私の印象が希薄だったことであり、地上が希薄だったのは幼少期の私の原体験に因ります。名古屋で著しく発達した地下街を移動することが多かったことです。そもそも名古屋地下街の原体験がよみがえったきっかけは、札幌の地下街をテレビ局のロケで鑑みたことにあります。間を取り持ったのは、地下街の左側通行現象です。
 左側通行の原因を私は、全国に共通する公共交通機関に求めました(1月15日同月16日同月17日ブログ参照)。軌道交通の左側通行との連動、影響です。ただ、気になることは残っています。札幌のポールタウンなどは左側通行がかなり明らかです。拙ブログではこれまで、名古屋などでも左側通行が見られると述べてきました。しかし実際に、名古屋も札幌並みにはっきりしているのだろうか。この間の拙ブログに、東京や名古屋の地下街(の通行)はもっとごちゃごちゃだったというコメントをいただきました。ありがとうございます。今さら言うのは何ですが、実は私も名古屋は札幌ほど左側通行が顕著ではないのではないかと想ったりもしています。たとえば下記名古屋市観光情報サイトの関連ページに写る地下街の様子を見ても、一見明らかに左側通行ばかりとは断じれません。↓
https://www.nagoya-info.jp/feature/detail/6/
 名古屋が札幌ほどではないとする根拠は、これまた自説の交通機関連動説に依ります。前に記したように、名古屋の地下街は込み入っていて、複雑怪奇です(1月18日ブログ参照)。地下街が札幌ほど単純には地下鉄などと連動していません。交通機関の左側通行が地下街に影響する度合いが低いのではないか。これはもう少し“検証”する必要があります。名古屋へ行き来するのはしばらくは難しいので隔靴掻痒ですが、いつの日か現地を直接自分の目で確かめることとしましょう。

 さて、本題のほうは宿題にしたままで、寄り道に逸れます。
JR名古屋駅 東口(桜通口) 2019年
 2019年に撮ったJR名古屋駅の東口(桜通口)です。札幌でいうと南口に当たります。表玄関です(1月23日同月24日ブログに載せた西口(太閤通口)は昔の“駅裏”、札幌でいえば北口)。

 近くから撮ったので、天高くそびえるツインタワーの全景(下の方)が収まりきれません。この駅ビルは1999(平成11)年に開業しました。先にこういうのを脳裏に焼き付けられると、この後札幌にできたJRタワーなどを見ても、なかなか感興が湧きません。もっとも私の場合、半世紀前に“花の東京”見物でお上りさんをしたときの霞が関ビルで洗礼を受けました(2016.1.6同5.3ブログ参照)。なので、名古屋の本件もまた、“初物”の衝撃にはかないません。もとより個人的感慨に過ぎませんが、この先札幌に建てられていくであろう超高層ビルに対しても、たぶん同じ印象を抱いてしまうのでしょう。

 では1999年の前、つまり古い駅舎の風景はどうだったか、これまた古いアルバムを見返したのですが、1月20日ブログで述べたようにやはりほとんど写真に撮ってません。かろうじて、一枚でした。
名古屋駅 旧駅舎 1989年
 これまで載せてきた大名古屋ビルヂングと同じく、1989(平成元)年に撮ったものです。

 1937(昭和12)年に竣工した「東洋一」の駅舎でした。名古屋の近代建築といえば愛知県庁や名古屋市役所の帝冠様式が知られます。あるいは煉瓦造の古典的な旧名古屋控訴院でしょうか。それらに較べると、実にすっきりしたモダニズムです。

 百万人都市の顔として誕生した名古屋駅の竣工式は、二月三日、自慢の中央コンコースにおいて盛大に挙行された。穏やかな冬空に高々とアドバルーンが上がり、屋上には誇らしげに鉄道旗がひるがえり、コンコースには紅白の幕と金屏風が飾られたという。
 式典には、伍堂鉄道相代理工務課長古川淳三、伊東第三師団長、篠原愛知県知事、立石控訴院長、大岩名古屋市長、青木商工会議所会頭、その他地方有力者及び鉄道関係者等約四千名が参列し、松坂屋ブラスバンドの奏楽が祝賀気分を盛り立てた。
(末注)

 意識していなかったのですが、前掲の2019年の画像は上掲1989年と同じような位置・アングルで撮ってました。ただ、30年前のほうは、実は駅舎自体が目的ではありませんでした。撮りたかったのは、手前の彫刻とその傍らにおじさんが横たわっている光景です。1月22日ブログに載せた大名古屋ビルヂングの夜景と同じく、コントラストの妙に惹かれたのです。

注:名古屋市『なごや発掘発信マガジン Nagoya発』№12、1990年6月、p.10「東洋一のモダンステーション

2021/01/25

大名古屋ビルヂング 賛 ②

 大名古屋ビルヂングの建替えにはさまざまな思い入れが受け継がれたようです(末注①)。この思い入れは別として、三菱地所が「ビルヂング」を使ったのはせいぜい昭和30-40年代までかと思ってました。1992年に出された“あるある”本で「おかしな表記」「やっぱり名古屋は田舎」と揶揄された(昨日ブログ参照)くらいですから。しかし、必ずしもそうではないことを私はあらためて知りました。

 ほかならぬ札幌で、比較的最近建てられた建物に命名されています。
新北海道ビルヂング 銘鈑
 「新北海道ビルヂング」です。2018(平成30)年にこの銘鈑を撮ったときは「ああ、ビルヂングだなあ」と思ったくらいですが、あらためて鑑みました。「事業者」に三菱地所の名前と、右下に小さくて見づらいのですが「平成4年11月竣工」と記されています。「大名古屋」が揶揄されたその年の新築です。このビルは建て替えではありません。「つい」28年前でも、ビルヂングです。さすが天下の三菱、というべきか。

 ただ、三菱がとことん「ビルヂング」にこだわっているかというと、これまた必ずしもそうではありません。
 東京駅の真ん前、三菱の総本山に建つ「丸ビル」です(2016年撮影)。
丸ビル 2016年
 このビルは「ビルヂング」だと思っていました。ところが調べてみたら、2002(平成14)年に建て替えられたとき、「ビルディング」に変わったようです(末注②)。 

 建替え前の古い「丸ビル」です。
丸ノ内ビルヂング 1996年
 1996(平成8)年に撮りました。この当時は「ビルヂング」です。

 私は、大名古屋ビルヂングの本家本元はこれだと思っていました。超高層へ建替えに当たって、低層部はやはり旧ビルを“イメージ保存”しています。その手法もさることながら、1923(大正12)年に建てられた元の丸ビル自体、「大名古屋」のお手本だったのではないかと想えるのです。

 日本最初の純アメリカ式のオフィスビルであること、オフィスビルなのに一階に商店街が初めて作られたこと、超高層ビルの登場までは最大の体積を誇り、大きな量を測るのに“丸ビル何杯分”とか言われたこと、などなどよく知られている。(中略)
 丸ビル以前は、オフィスビルというのは名のとおりオフィス専門の施設で、中に商店街を入れるなんて発想はなかった。なのになぜ、丸ビルはそんな大胆なことをしたのか。丸ビル以後、この傾向は一般化し、今日では商店街や飲食街のない大型ビルは考えられないほどだ。(末注③)

 丸ビルに関するこの記述は、「日本最初」を「名古屋」に置き換えたらそのまま「大名古屋ビルヂング」に当てはまるような錯覚を覚えます。建物そのものだけではありません。
 地理的な位置関係です。
現在図 丸ビル 位置
 丸ビル(赤いベタ塗り)は東京駅前の、駅を背にして左手に立地しています。“千代田のお城”の文字どおり丸の内です。

 大名古屋ビルヂング(赤いベタ塗り)も名古屋駅前の同じく左手に位置します。
現在図 大名古屋ビルヂング 位置
 名古屋城の丸の内ではありませんが、駅-ビル-お城の位置関係がにおう。

 丸ビルは1923年2月に建てられ、その年の9月に関東大震災に遭いました。外壁は大破したそうですが(末注④)、乗り越えました。一方、大名古屋ビルヂング建設のきっかけは、1959(昭和34)年の伊勢湾台風からの復興です(末注⑤)。前者は明治以降、最大の死者・不明者を出した地震であり、後者は同じく最大の死者・不明者を出した台風です。
 本家の丸ビルが衣替えした「ビルヂング」を、引き続き名乗っている「大名古屋」にますます敬意を表します。なお、大名古屋ビルヂングの名前には、もう一つ触れざるをえません。ほかでもない「大名古屋」の「大」ですが、長くなるので先送りします。

 注①:「大名古屋ビルヂング」ウエブサイト下記ページ参照
 → https://dainagoyabuilding.com/about/
 注②:三菱地所オフィス情報サイト下記ページ参照↓ 
 https://office.mec.co.jp/search/detail/011401/
 注③:藤森照信『建築探偵日記 東京物語』1993年、pp.192-198「謎を秘めた丸ビル」
 注④:前掲注③『建築探偵日記 東京物語』p.193参照
 注⑤:前掲注①サイト参照

2021/01/24

大名古屋ビルヂング 賛

 昨日ブログは、実は別に本題があったのですが、寄り道に逸れてばかりで進みませんでした。本題は名古屋駅から見えた大名古屋ビルヂングです。一昨年(2019年)に撮った画像では、駅西口からは隠れていました。

 同じく2019年の別のアングルからの画像です。
名古屋駅西口から大名古屋ビルヂング 2019年
 新しい大名古屋ビルヂングのてっぺんがわずかに顔を出しています。1月20日ブログでお見せしたようにこのビルも超高層化されましたが、それでもほとんど手前のJRのビルの陰です。ちなみに手前の工事は、リニア新幹線のホームを作っているらしい。

 名古屋駅からの大名古屋ビルヂングの眺めを本題にしたのは、以下の記述がきっかけです(末注①、引用太字)。
 昭和37年、名古屋駅前に新築されたのが大ナゴヤビルである。ところが、この屋上に「大ナゴヤビルヂング」というネオンサインが、「ナゴヤではないで。大(でやあ)ナゴヤだで!」といわんばかりに鎮座ましましている。これがまた、駅のホームから異常なほど目立って見えるため、夜など、新幹線が名古屋に停車すると、いやおうなくそれが目に入ってくる。そして、大方の乗客が「おかしな表記だな。大ナゴヤビルディングにすればいいのに……。やっぱり名古屋は田舎なんだ」という印象を抱くのである。

 私が1989(平成元)年に撮った名古屋駅ホームからの眺め(昨日ブログ参照)を観ると、たしかに目に入ってました。大名古屋ビルヂングはやはり名古屋駅前のランドマーク(だった)と再認識したしだいです。
 「屈辱の?『大ナゴヤビルヂング』」(「ヂ」に傍点付き)と題されたくだんの記述は次のとおり続きます(引用太字)。
 たしかに、ワープロで「ビルヂング」と入力しても、変換してくれない。ビルディングのほうは一発で変換される。だから、標準語としては「ビルディング」が正しいのだろう。
 「ビルヂング」と表記したのは、新仮名づかいになる前、つまり昭和21年以前のことである。英語のdiは、siと区別して、「ジ」ではなく「ヂ」と表記されていたのだ。名古屋だけでなく、日本全国これは同じだった。その名残であることは容易に想像できるのだが、せめてデザイン博のときにでも直してほしかった。
 
 
 これは浅薄な考察です。歴史的な事実として、そもそも誤っています。「ビルヂング」の表記は「昭和21年」の後も「大名古屋」に限らず続けられました。
 札幌で知られたところでは、この建物が「ビルヂング」です。
北海道ビルヂング 
 中央区北2条西4丁目の「北海道ビルヂング」。
北海道ビルヂング 銘鈑
 1962(昭和37)年に建てられました。「昭和21年以前のこと」ではありません。
 巷間言われるのは、三菱地所の関係する建物は戦後も「ビルヂング」と表記してきたことです。大名古屋ビルヂングと北海道ビルヂングは、ともに三菱地所により設計されました。本件大名古屋ビルヂングが例外的な「名残」ともいえず、全国的に併用されていたとみるべきでしょう。
 さらに「そもそも」ですが、「ビルヂング」から「ビルディング」への書き換えは「新仮名づかい」(末注②)とは直接関係はありません。外来語の表記までは定めておらず、ビルディングが定着したのは原音に近い表記が広まったからだと思います。ちなみに、「英語のdiは、siと区別して、「ジ」ではなく「ヂ」と表記されていたのだ」とありますが、区別したのは「si」ではなく「zi」でしょう。また「標準語としては『ビルディング』が正しいのだろう」ともいいますが、「標準語」なる概念は必ずしも定着しておらず、正しいとか正しくないという「標準」にはなりますまい(末注③)。さらにまた「ちなみに」ですが、私の今のパソコンでは「びるぢんぐ」と入力したら「ビルヂング」に変換されます。「ビルディング」の表記が主流になったとしても、少数派とはいえ「ビルヂング」も今になって認知されてきたのかもしれません。 

 以上は事実の真偽に関わる問題です。以下は考え方とか価値観の範疇になります。同書を編んだ「大ナゴヤ人元気会」は名古屋出身者のみならず名古屋にゆかりのある人が加わっているそうです。逆説的にいえば、なんでもかんでも自虐ネタにすればよいというものではないことを教えてくれます。この本が出されたのは1992(平成4)年です。「大方の乗客が『おかしな表記だな。大ナゴヤビルディングにすればいいのに……。やっぱり名古屋は田舎なんだ』という印象を抱くのである」という“ネタ”が、どこまで当時の実態を反映していたか、真面目に問うつもりはありません。言いたいのは、仮にそうであったとしても30年近くを経て、「大方の」価値観は変わってきているのではないか、です。極論すれば「やっぱり名古屋は田舎なんだ」が、ただちに否定的評価にはならない。

 旧・大名古屋ビルヂングビルの屋上に付けられていたロゴです。
旧・大名古屋ビルヂング 1989年 ロゴ
 「駅のホームから異常なほど目立って見え」たといいます(前述引用書)。

 2015(平成27)年に建て替えられた新しい大名古屋ビルヂングです。
新・大名古屋ビルディング ロゴ
 ロゴは、「せめてデザイン博のときにでも直して」(前述引用書)どころか、二十数年後の新しいビルでもそのまま引き継がれました。上述した私の価値観はあながち私だけの独善ともいいきれず、当のビルの施主もまた同じように考えたかに映ります。

 注①:大ナゴヤ人元気会編『ニッポン不思議発見!名古屋の謎だぎゃあ』1992年、pp.83-84。なお、本書では「大ナゴヤビルヂング」と表記されているが、実際の建物の表記は「大名古屋ビルヂング」である。また、建物が「新築された」のを「昭和37年」としているが、同年は第一期工事の竣工で、全体の完成は1965(昭和40)年である。1月20日ブログ末注①参照
 注②:1946(昭和21)年内閣訓令・告示の「現代かなづかい」をいうのであろうが、「表記に関する通則」第3に「と書く」とあるものの、「ヂ」を「ディ」とすることは示していない。文化庁サイト国語審議会「現代かなづかい(答申)」ページ参照↓
https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kakuki/syusen/tosin01/index.html
 注③:広辞苑第5版によれば「標準語」は「一国の規範となる言語として、公用文や学校・放送・新聞などで広く用いられるもの。日本語ではおおむね東京の中流階級の使う東京方言に基づくものとされている」。文化庁の訓令・告示「外来語の表記」1991年は「外来語や外国の地名・人名を書き表すのに一般的に用いる仮名」として「ディ」を定め、「ヂ」はない。しかしあくまでも「よりどころ」であり、例外を否定してはいない。「標準語」を定義づけてはおらず、ましてや正しい、正しくないを決める目安はない。文化庁サイト内閣告示・内閣訓令「外来語の表記」ページ参照↓
https://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/sisaku/joho/joho/kijun/naikaku/gairai/index.html

2021/01/23

名古屋駅前 30年今昔 ②

 1989(平成元)年3月に撮ったJR名古屋駅ホームからの風景です。
名古屋駅 新幹線ホームから 1989年
 先日来1989年の写真を何枚か、載せています(1月20日及び昨日ブログ参照)。この年は3月、9月、11月に帰省していました。中学、高校時代の友人の結婚式が重なったのと、世界デザイン博覧会を“視察”したりしたためです。上掲画像は、関西から横浜へ行く途中に名古屋に立ち寄り、新幹線のホームから撮りました。東向きです。

 黄色の矢印を付けた先に「大名古屋ビルヂング」がのぞいています。土星型の屋上広告も見えます。余談ながら、手前の濃緑と橙色の車体も懐かしい。今はもうないのでないでしょうか。私の国鉄カラーの原風景は、この色です。東京に行ったら、山手線や京浜東北線は黄緑や青の1色でしたが、「湘南電車」がこのツートンカラーでした。

 閑話休題、ほぼ同じあたりの風景の30年後です。
名古屋駅西口からJRセントラルタワーズ
 2019年9月に撮りました。ただし名古屋駅のホームではなく、西口(太閤通口)からです。

 松坂屋のビルがなくなっています。もう、私は浦島太郎状態です。JRの超高層ビルがそびえて、大名古屋ビルヂングは隠れています。名古屋人以外の読者のために申し添えると、写っているツインタワーはJRセントラルタワーズといいます。また余談ながら、ここらを運行するJRは「JR東海」ですが、英語では「JRセントラル」というそうです。JR東日本や西日本がイースト、ウエストを名乗るのは直訳的だし、JR北海道はそのまま英語化されていますが、「東海」だけは意訳されています。市内で「名古屋セントラル病院」というのを見かけましたが、昔の鉄道病院だったのですね。こんなところにも名古屋中華思想が垣間見えます。見えないか。

2021/01/22

“白い街”名古屋の1989年

 名古屋駅前の大名古屋ビルヂングの在りし日を一昨日ブログで取り上げました。屋上の土星型広告を複数枚載せましたが、もともとそれを目当てに撮ったのではありません。

 このビルの外観全体の夜景を撮りました。
大名古屋ビルヂング夜景1989年-1
 レインボーカラーでライトアップされています。「世界デザイン博覧会」(1月18日ブログ参照)の開催に合わせて電飾されたようです。

大名古屋ビルヂング夜景1989年-2
 手前の屋台に惹かれて、もう一枚撮りました。惹かれたのは、デザインとかおしゃれ、スタイリッシュ(を目ざした)という空気とのコントラストです。名古屋市がくだんの博覧会を企図した動機との落差といってもよいかもしれません。

2021/01/20

名古屋駅前 30年今昔

 一昨日ブログで、名古屋駅前の景観について私の記憶が稀薄なことを記しました。このたび古いアルバムをひっくり返したのですが、駅前の風景を撮った写真は数えるほどしかありません。もっとも、札幌に住んでいて札幌駅前の写真を頻繁に撮っている人はさほど多くはないでしょう。人物の後景としてではなく、日常的な風景そのものを撮ることはあまりないとは思います。ただ私の場合は、札幌に移り住んだことで郷里がいわば旅先の非日常空間になりました。40年余りの間に幾度となく帰省して、そのつど郷里の風景をフィルムに収めてきた(というのは死語か)のですが、その中で名古屋駅前はほとんどないのです。これも、駅前の地上の記憶が希薄だという原体験の反映かもしれません。

 その名古屋駅前を私が写した数少ない一枚です。 
名古屋駅前 大名古屋ビルヂング
 2015(平成27)年12月に撮りました。一昨日ブログに載せた画像の左方に写るビルを、正面から撮ったものです。

 幸いなことに、同じ場所を31年前にも撮ってました。
大名古屋ビルヂング 1989年
 1989(平成元)年9月です。このときはまだ、5年前に撮ったビルに建て替えられる前でした。建て替えられたのは、前掲画像を撮った2015年の10月です(末注①)。前掲は完成して間もないときに撮ったことになります。建物が新しくなったことに少なからず衝撃を受けて、カメラを向けたのでしょう。
 
 現在のビルの低層部分を上掲の31年前と較べてみます。
大名古屋ビルヂング 低層部分
 いわゆる“イメージ保存”という手法でしょうか。外観の雰囲気が、そこはかとなく踏襲されています。

 建替えられる前のビルの屋上には、球形広告塔が置かれていました。
旧・大名古屋ビルヂング 屋上球形広告塔
 私の希薄な記憶の中では、わりと印象に焼き付いていた物体です。男の子はこういうの、好きですよね。この物体はその後撤去されたようなので(末注②)、なおのこと愛着と郷愁を抱きます。

 球形広告塔はくるくる自転していました。それが証拠に…。
大名古屋ビルヂング 球形広告塔-2
大名古屋ビルヂング 球形広告塔-3
 この夜景2枚も1989年に撮ったものです。同じアングルですが、土星の輪っかのような盤に書かれた広告の文字が変わっています。球本体は自転せず、輪っかが回っていたようです。当時はまだ、動画を撮るのはいまほど気軽にはできなかったので、同じアングルで2枚撮ったのは我ながら稀有なことでした。なお、動いていたのが球本体か輪っかだけなのか、記憶がさだかでありません。ご存じの方がいたらお知らせください。

 「数えるほどしか」撮ってないといいつつ、駅前のランドマークたりし大名古屋ビルヂングを複数枚、画像に残していました。自己満足に浸れます。
 森永の球体広告は、私としては新しいビルにも載っけてほしかったですが、都市の顔たる名古屋駅前ではたぶん景観の行政的規制が厳しく、ダメでしょうね。しかし、好ましい景観とは何だろうか。

 注①:「大名古屋ビルヂング」ウエブサイト下記ページ参照
 → https://dainagoyabuilding.com/about/
 注②:上記サイトによると、2012(平成24)年の画像では球形ではなくなっている。

2021/01/19

原体験としての私の地下街 ②

 私は幼少期に名古屋の迷宮地下街が脳裏に刷り込まれました。その副作用はまず、昨日ブログで述べたとおり、地上の駅前景観の記憶が希薄なことです。もう一つ、あります。それは、方向感覚のやはり稀薄さです。
 地下はいうまでもなく日差しが入らないこともあり、地上に較べて方位がわかりづらい。よって、目的地に向かうにも、方位に頼ることはできません。ものごころついてから高校生になるまで十数年、私は名古屋駅の地下街で方位をずっと勘違いしていました。南に向かっているつもりが、実は北だったのです。長年の経験則で移動していたから、それで支障はありませんでした。ふだん行き来し慣れた場所はいいのですが、何か例外的に移動せざるをえなくなると大変です。地上へ上がると、特に混乱します。
 「駅前で地上に上がることがほとんどなかった」というのは私だけの個人的な原体験かというと、必ずしもそうではないようです。このたびのSTVの特集(1月11日ブログ参照)をきっかけに名古屋の地下街のことを漁ってみると、それらしいことが書かれていました(末注①)。ご当地名古屋の今風にいえば“あるある”を取り上げた先駆けたる清水義範氏の『蕎麦ときしめん』1986年には、次のエピソードが紹介されています(p.11、末注②、以下引用太字)。
 私の知人のK氏は、私と同じように東京から名古屋に来ている人物だったが、もう十年以上も名古屋に住み、難解な名古屋弁もそこそこにこなせるのに、どうしても他所者扱いをされることに業を煮やし、ある時実験をしてみた。何の予備知識もない初対面の人物と会った時、東京人であることを隠し、名古屋人のふりをしてみたのである。(中略)
 しかし、ものの三分もしないうちにその相手の人はK氏にこう言った。
 「Kさん、東京の人だにゃあですか」
 K氏がどうしてわかったのかと尋ねると、こういう答えが返ってきた。
 「すぐわかるぎゃ。地下街があるのに地上を歩きゃあすもん。東京の人は地下街が嫌いだでよう」
 隠しても駄目なのである。彼らには他所者はすぐそれとわかってしまうのだ。


 注①:「名古屋市民でさえも、地上の地理はよく理解できないが、地下なら縦横無尽に歩きまわれるという人が少なくない」(「日本一の地下街をもつ名古屋の街」大ナゴヤ人元気会編『ニッポン不思議発見!名古屋の謎だぎゃあ』1992年、p.77)。
 注②:初出1984年 

2021/01/18

原体験としての私の地下街

 先日来私が札幌の地下街のことを綴ってきたのも、実は一家言持っているからです。私は、地下街のメッカともいえる名古屋でその“洗礼”を受けました。名古屋は、「日本で初めての本格的な地下街」が造られた都市です(末注①)。「本格的な」というところがミソですが、幾つかの文献でそれらしい記述が見られます(末注②)。

 日本初もさることながら名古屋の地下街が特筆されるのは、迷路のように入り組んで張り巡らされていることです。このたび検索してみたら、名古屋駅前だけで地下街は現在9つ!あります。
名古屋駅周辺 地下街地図
 元図は名古屋駅地区街づくり協議会作成「名古屋駅周辺マップ(地下)」2018年です。
 → http://www.nagoyaeki.org/content/wp-content/uploads/nagoyastation_underground_map.pdf
 
 地図を見ていただいて、さっぽろ地下街(ポールタウン、オーロラタウン)に較べて複雑なことはうすうすでも察していただけるかと思います。ひとつの地下街が直線一本だけではありません。二本三本格子状に通じていたり、弯曲や屈曲した部分も見られます。さらに、デパートやオフィスビルの地下階の売り場や飲食店街がくっついているので、もう、めくるめく迷宮です。しかも、初期(1950年代)にできた地下街は幅が狭い。天井も、札幌に較べたら低いと記憶します。私はものごころついたとき、まだ成長過程の幼い脳みそにこの迷宮空間が刷り込まれました。大都会の象徴として、です。
 私には、その副作用ともいうべき“症状”が残っています。ひとつは、名古屋の駅前について、地上の景観の印象がとても稀薄なことです。幼少期、父母に連れられて名古屋に行くのは“ハレ”的な体験でしたが、駅前で地上に上がることがほとんどなかった。イナカから名鉄で名古屋駅(当時は「新名古屋」といった)で降りると、まずそこは地下です。私らの祝祭空間であった名鉄デパートへはもちろん、地下からそのまま行けました。父の行きつけの喫茶店「コンパル」(いまはなき「豊田ビル店」、2015.12.5ブログ参照)も、地下街からアクセスできた。父の生家である蟹江町へは名古屋で近鉄名古屋線に乗り換えますが、これも地下で連絡しています。高校への通学もそうでした。  
 都市の中心駅の駅前というのはいわば街の顔ですが、悲しいことに私にはウロオボエなのです。

 一昨年秋に“帰省”したとき(2019.9.11同9.9ブログ参照)に撮ったJR名古屋駅前の広場です。
JR名古屋駅前 JRタワーから
 駅ビル(JRセントラルタワーズ)から眺めました。 

 右方のロータリーの真ん中に聳える金属製のオブジェはたしか、1989(平成元)年頃に造られました。私が札幌に移り住んでからのモノです。当時、名古屋市は市制100周年を記念して「世界デザイン博覧会」なるイベントを催し、併せて街中の公共サインをお色直ししたり、パブリックアートの類をあちこちに置いたりしました。本件もその一環と思われます。私の駅前景観の原体験は前述のとおりおぼろげで、しかも本件は“その後”の出来物です。にもかかわらずわずかながら思い入れがあります。これができた当時、添えられた銘鈑に札幌の制作会社の名前を目にしたからです。ステンレス造形の会社だったと思います。「札幌の業者が、大名古屋の駅前に巨大な置物を供えたのだ」と感慨を抱きました。それはそれとして、あらためてこの風景を画像で眺めると、私の原体験を象徴してもいるなと感じます。
   
 注①:廣井悠、地下街減災研究会『知られざる地下街』2018年、pp.34-38。1957(昭和32)年、名古屋駅前に「名古屋地下街」ができた。現在の「サンロード」。地下通路の“沿道”に多くの店舗を連ねた商店街の原型となった。これより古いのは東京の地下鉄駅に付随して設けられたもので、いまでいう“デパ地下”に近かったらしい。
 注②:前掲『知られざる地下街』記述のほか、さしあたって漁っただけで以下の書物で言及されている。
 「地下鉄開業に先立つ同年(引用者注:1957年)三月十八日、名古屋地下街がオープンしました。出店数六一の日本最初の地下商店街です」(名古屋市総務局『なごや一〇○年』1989年、p.243)。
 「わが国における地下街建設の嚆矢は『名駅地下街』であった」(名古屋市『なごや発掘マガジン Nagoya発』№39、1997年3月、p.34)。
 「本格的な地下街としては、日本初のものである」(中根千絵ほか編『名古屋謎解き散歩』2013年、p.31)。

2020/03/18

札幌の地名と内地の地名 一考察

 お知らせからです。
 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)「となりのレトロ」の“総集編”が3月20日(金)、放送されます。CM込みで1時間の予定です。これまで訪ね歩いたあちこちから、幾つかプレイバックされます。ご笑覧ください。
 
 これまでも記してきたように、私が育った愛知県稲沢市は中世や近世の面影がところどころに感じられる町です。
 稲沢市教委編『近世村絵図 解説図』1982年で、私が住んでいたムラを見ると、「今も江戸時代と変わっていないな~」と思います。地割、道、水路、集落の配置など、ムラの骨格がほぼそのまま今日に引き継がれている。2015.1.9ブログ

 小中高時代を過ごしたのは稲沢市梅須賀町といいます(2015.6.7ブログ参照)。現在の人口を調べてみたら、747人です(末注①)。梅須賀町を含む21町が「千代田地区」という地区に属しています。これはいわば中学校区で、面積は10.72㎢、地区の人口は8,126人です(末注②)。もともとは昭和30年代に町村合併する前の「村」に当たります。私が現在住んでいる札幌市厚別区は面積24.38㎢、人口は125,792人です。郷里の旧「千代田村」と較べると、厚別区は面積で2倍強、人口で15倍強になります。(末注③)。

 なぜ、このような比較をするかというと、本題は「地名」です。
 私の郷里である愛知県稲沢市の千代田地区の21の町名を以下、列挙します(太字、末注④)。
 福島町、堀之内町、千代町、千代、梅須賀町、附島町、牛踏町、大矢町、大矢、込野町、北麻績町、南麻績町、目比町、氷室町、坂田町、今村町、西溝口町、板葺町、井堀、野崎町、田代

 一方、札幌市厚別区の町名は以下のとおりです(太字、注⑤)。
 青葉町、もみじ台東、もみじ台西、もみじ台南、もみじ台北、厚別西、厚別町山本、厚別町上野幌、厚別町下野幌、厚別町小野幌、厚別南、厚別中央、厚別東、厚別北、上野幌、大谷地東、大谷地西、下野幌テクノパーク 

 数えると18あります。厳密には青葉町は1丁目から16丁目まであり、厚別中央は1条から5条まであるので、町名としてはもっと多いといえましょう。厚別中央は〇丁目も含めるとさらに多くなります。
 私が注目したいのは、文字の種類です。これも数えてみると、稲沢市千代田地区は39の異なる漢字が町名に使われています。一方厚別区はというと、漢字、ひらがな、カタカナで31です。31といっても、「もみじ」とか「テクノパーク」という仮名も一文字ずつ数えてのことですから、実質的にはもっと少ないとみてよいかもしれません。
 
 これはどういうことか。
 面積が2倍強で人口は15倍強の厚別区のほうが、稲沢市千代田地区に比べて、行政地名として使われている数が少ない。厚別区のほうがシンプルというか、地名が‘記号化’しつつあるといえます。30の文字のうち、東西南北とか上下といった普通名詞が多用されていることからも窺えます。その極致は○条○丁目です。「厚別」とか「野幌」というアイヌ語由来への当て字に起因する読みづらさ(末注⑥)の一方で、「青葉町」とか「もみじ台」といった読みやすさも特徴です。

 我が稲沢市千代田地区の町名は、知らない人が「正しく」読むのは至難です。正しくをカッコ付けしたのは、何をもって正しいとするか疑問の余地もあるからですが、措きます。私が10年余暮らした「梅須賀町」は「うめすかちょう」ではなく「めすかちょう」です。「うめ」ではなく「め」。千代田地区は「ちよだ」ですが、「千代町」は「せんだいちょう」。「麻積」は「おうみ」、「目比」は「むくい」と読みます。「福島」は「ふくじま」と濁り、「附島」は「つけしま」と濁りません。

 さらに、です。
 私の梅須賀町は「字」に細分化されています。その「字」は以下のとおりです(太字、注⑦)。
 阿古根、井島、江崎、江向、御宮田、北鈴置、北天日記、北廻間、石竜、下棒田、須ケ越、田之端、唐人、中切、西北切、西南切、東切、姫苅、午新田、南鈴置、南天日記、南廻間、山之畑、1丁目、2丁目、3丁目、4丁目、5丁目、6丁目、7丁目、8丁目、9丁目
 固有名詞の地名が23、○丁目が9あります。梅須賀町の面積は0.86㎢(末注⑧)、人口は冒頭に述べたように747人です。厚別区と較べると、面積にして約1/28、人口にしてわずか6/1,000しかありません。その中に、23もの行政地名(○丁目は除く)があります。その名前がまた、字面を眺めてお察しいただけるように、なかなか一筋縄ではいきません。「天日記」をなぜ「てんりき」と読むのか。「唐人」(とうじん)は、どんな由来で付けられたのか。「姫苅」(ひめかり)は? 「鈴置」(すずおき)は?「石竜」(こくりゅう)は? アタマがくらくらしてきそうです。

 注①:稲沢市ウエブサイト「人口と世帯数」ページ「最新町別人口調査表」(2020.3.1現在)による。→http://www.city.inazawa.aichi.jp/shiseijoho/toke/jinko/index.html
 注②:千代田地区の面積は同上サイト「統計・人口」ページ「地区別人口・世帯数・面積」による。同人口は最新の注①の「最新町別人口調査表」から算出した。「地区別人口・世帯数・面積」による千代田地区の人口は7,782名(2015年現在)である。→ http://www.city.inazawa.aichi.jp/shiseijoho/toke/toke/1002689.html
 注③:札幌市サイト「札幌市統計書」ページ「札幌市統計書(平成30年版)-土地及び気象」第1章「位置及び広がり」による。→ http://www.city.sapporo.jp/toukei/tokeisyo/01land30.html 人口は2020年2月1日現在(「広報さっぽろ」厚別区版2020年3月号記載)による。
 注④:注①「最新町別人口調査表」による。
 注⑤:札幌市サイト「住民基本台帳人口」ページ 「町名・条丁目別世帯数及び人口」による。→ http://www.city.sapporo.jp/toukei/jinko/juuki/juuki.html#jou-choume
 注⑥:「厚別」は、知らない人が音訓を意識して読んだら「コウベツ」となりかねない(2018.8.25ブログ参照)。
 注⑦:YAHOO!JAPAN地図サイト「愛知県稲沢市梅須賀町」ページによる。→ https://map.yahoo.co.jp/address?ac=23220&az=276
 注⑧:国土地理院サイトで概略計測

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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