札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2016/12/18

母の戦時中の体験 防空壕

 戦時中に設けられた「防空壕」というと、どんなイメージを持つでしょうか?
 私は、おおむね人の背丈程度の高さあるいは深さのある空間を想い描いていました。傾斜地に横穴式に掘るにせよ、地面に竪穴式に掘るにせよ、それくらいはないと爆撃を受けたとき助からないのではないかと、漠然と思ってました。
 この認識は必ずしも正しくないことを知りました。母が「戦時中には防空壕を掘らされた」と言うので、訊いてみたのです。
 
 私「どこに掘ったの?」
 母「家の庭先」
 私「深さはどれくらいあったの?」
 母「人が腹ばいになって、やっと入れるくらい」
 私「え、そんな浅いの? そんなんで、爆撃されて助かるのかな?」
 母「私も当時、『アメリカの爆弾って、そんなケチなものなの?』と言った。(周囲の大人に)『そういうこと言ったらかん(=言ってはいけない)』と怒られた」

 母をたしなめたのは、実家によく来ていた兵隊さん(12月9日ブログ参照)かもしれません。テレビドラマとかなら「この、非国民!」と罵られるような場面ですが、母を注意した人は「ほかの人に知られたらまずい」と心配したようです。ハタチ前の小娘で、大目に見られたのでしょう。
 
 都市部では、本格的な地下室に近いものが設けられたのかもしれませんが(末注)、農村の、しかも各戸で掘っていたのは母が言うような簡易なものだったのでしょう。 
 ただし、「人が腹這いで入れる程度の深さ」だから「爆撃されたら助からない」というのは、早計のようです。爆撃からの距離によっては、爆風を一定程度避けることはできて、助かる命もあったかもしれません。逆に、人の背丈以上の深さの地下壕であっても、直撃されたら危うい。また、そういう地下壕に入っていたがために、火炎に包まれて黒こげになったという話も聴きます。

注:たとえば札幌の街中に設けられていた防空壕について、下記サイト参照。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_02/index.html
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2016/12/17

イリョウテンスウ

 母が郷里の愛知県から札幌に来て、10日あまり過ぎました。こちらで住まうようになったサービス付き高齢者住宅は、郷里のケアハウスのときより一回り狭い部屋です。引越しに当たって不要なモノは郷里で処分してきましたが、「とりあえず」持ってきたものもかなりあります。すべてを部屋に収めることは到底できません。そのため、まだ荷ほどきしていない段ボール箱が五つあります。その選り分けのために足繁く母のところに通っています。

 12月14日ブログで、かつて母の実家で蚕を飼っていたことを記しました。母からもう少し話を聴きました。
 母の母(私の祖母)が蚕の繭から糸を紡いでいた。繭を鍋で煮て、割り箸のようなものですくって糸をとり、糸巻機に巻いていく。織り機もあって、母の着物などは家で織ったものを染物屋で染めて仕立てていた。蚕は、離れの八畳二間続きの「こうえ」(これはどういう字を当てたか、結局不明。飼い屋か?)に蚕棚を置いて飼っていた。主屋にも棚を置いていたことがあり、「家族が寝る場所もないくらい」だった。母自身は蚕糸を紡いだことはない。養蚕をやっていたのは昭和20年代までか。桑の実は美味しかった。今スーパーで売っているイチゴよりも美味しかった。食べると口に色が付くので、すぐ親に見つかった。

 イリョウテンスウ。
 といっても、診療報酬の点数のことではありません。私は初めて聞いたのですが、衣服の配給制度のことらしい。国民一人一人に持ち点が与えられ、その範囲内でしか衣服を入手できなかった。おそらく戦時中の物資窮乏下の統制でしょう。母によると、戦後もしばらくは続いていたそうですが、定かではありません。配給制度に詳しい方、教えてください。
 家で織って仕立てた着物(母はこれを「うちおり」と呼んでいる)はこの点数の対象外だったので、養蚕はその意味でもメリットがあったようです(11月16日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-834.html 参照)。

2016/12/16

木曽川 南派川④(終)

 12月5日、郷里から母を連れて札幌へ戻る飛行機の窓から、木曽川を見下ろすことができました。
木曽川上空 機上から
 先日来テーマとしている川島も、全体像がはっきりと見えました。

 青くなぞったのが木曽川です。
木曽川 川島 機上から
 画像右上が北になります。上方が岐阜県、下方が愛知県です。木曽川は右方から左方へと流れ、本川と南派川に分かれ、再び合流します。合流したところの左岸側が、母の郷里、愛知県一宮市北方町です。

 母に「北方が見えるよ」と言ったら、母も判ったようでした。「タワーが見える」と、母が気づきました。
木曽川上空 ツインアーチ138
 確かに、私たちが2日前に上った「ツインアーチ138」です(12月12日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-866.html参照)。

 画像中央、黄色の○で囲ったのがタワーで、母の郷里はその左上のあたりになります。
 神様が、母に生まれ故郷を見納めさせてくれたのかもしれません。

2016/12/15

木曽川 南派川③

 木曽川の川島の南派川に愛知・岐阜の県境が引かれている。なぜ、本川でなく、派川が県境なのか?
 母によると、「昔はこちら側(=南派川)を本流が流れていたこともあった」と。「川の流れは、そのときどきで変わるものだよ」と(末注①)。
 げに、豊平川もしかり。現在の鴨々川がかつての本流だったこともある(末注②)。
 とはいえ、母の話は母自身の直接的体験と二次的伝聞が入り交ざったものだと思います。ひとまずは口承情報として受け止めておきます。
 
 興味のある方は、下記サイトで古地図に当たってください。
 ↓
 http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.349492606923334&lng=136.83582449694825&zoom=14&dataset=chukyo&age=2&map1type=roadmap&map2type=roadmap&dual=true&mapOpacity=10&altitudeOpacity=4
 毎度お役立ちの「今昔マップ on the web」の「中京圏編」です。
 明治・大正期の地形図を見ると、木曽川は川島の一帯で網流していたことが判ります。もう、どれが本川でどれが派川か見当がつかないくらいです。母が言っていたことは、まんざらでもない。一方、私自身の脳裏に遺る「南派川はかつて、水量がほとんどなかった」という印象も、戦後の地形図でみると当たっているようです。

 江戸時代末期に作られたという「尾張國圖」から、川島の付近を抜粋しました。
尾張國圖 川島周辺
 測量技術の未発達な時代で、デフォルメされている可能性は高いのですが、当時は群小の島々だったことが伝わってきます。

 母は「川島は昔、平家の落人部落だったと聞いた」という話もしていました。このへんになってくると、ますます怪しい口承です。私は小学生ながらに、「平家が落ち延びるにしては、京都や鎌倉から近すぎるな」と思ったものです。でも、前掲古地図をみると、隔絶感はたしかにある。こういう怪しげな伝説もまた、私が川の流れに惹かれる一因かもしれません。

 注①:『写真に見るわたしたちのふるさと 北方』2004年、p.7によると、木曽川の本流は1586(天正14)年の大洪水で現在の河道となった。それまでは今よりも北(岐阜県側)を流れていた。その名残として、現在の木曽川をはさんで岐阜県側と愛知県側に同じ地名が幾つか遺っているという。
 注②:北海道大学総合博物館他『豊平川と私たち―その生いたちと自然―』2011年、p.16参照

2016/12/14

木曽川 南派川②

 昨日に続き、木曽川の川島(岐阜県各務原市)です。
川島 ツインアーチ138から北西を望む
 ツインアーチ138の展望台から北西方向を眺めました。
 手前のトラス橋が架かっているのが木曽川の南派川です。

 小学生のとき母と一緒に行って記憶に残るのは、桑畑があったことです。河川敷のような場所だったと思います。母から、桑の木は水気の多い土地に向いていると教わりました。そもそもなぜ桑の木が植えられているかということも。
 母の実家(愛知県一宮市)でもかつて蚕を飼っていて、私が子どもの頃、蚕室がまだ残っていました。戦前期、農家にとっては貴重な現金収入源だったようです。ちなみに、蚕室のことを母は「こうえ」と呼んでいました。どういう字を当てるのかわかりませんが、「飼屋(かいや)」が訛ったのではないかとも想像します。

 先日、上空から眺めたときに見たとき、「南派川の水量が多いな」と思いました。私がン十年前に見たときはほとんど水が流れていなかったという印象が残っているからです。それで不思議に思ったものでした。何が不思議かというと、「なぜ、そこに愛知県と岐阜県の県界が引かれているか?」です。

 昨日示した略地図を再掲します。
岐阜県 川島 地図 県界
 赤い実線が県界です(黄色の▲は冒頭画像の撮影方向)。
 
 私の幼少時の印象に比べると現在は水量が多くなっているとはいえ、本川に比べると派川の川幅は狭い。つまり、私がかつて疑問に思ったのは、県界が木曽川の本川ではなく、派川に引かれていることでした。母に「どうして本流のほうが境界でないのかな?」と尋ねました。母はその疑問にも答えてくれました。

2016/12/13

木曽川 南派川

 愛知県一宮市の「ツインアーチ138」展望台から、北東方向を眺めました。
木曽川 南派川
 手前を木曽川が流れています(画像右方が上流)。右岸側(画像後方)が岐阜県です。中央はるか遠方に、冠雪を戴く木曽の御嶽山が望めます。
 画像を注意深くご覧いただくと、手前を流れる川とは別に、後方にも川が流れているのにお気づきいただけるでしょうか。

 手前を流れる川を赤矢印の先で示し、後方を流れる川を黄色の矢印で示しました。
木曽川 本川 南派川
 後方の川も、木曽川です。  
 つまり、木曽川はこのあたりで二本、流れています。正確にいうと、後方が木曽川の本川で、手前は木曽川の「南派川」です。

 地図で示すと、こうなります。
岐阜県 川島 地図
 「138タワーパーク」のリーフレットから抜粋し、木曽川を青で着色しました。
 地図上、北側(画像上、上方)を流れるのが本川、南側(画像上、下方)が南派川です。画像右方が上流です。

 画像右方、上流で木曽川本川から枝分かれした南派川は、愛知県北方町のあたりで再び本川に合流します。つまり、本川と派川に囲まれて、ここに川中島ができているのです。地元の人には当たり前の風景を、「川中島ができているのです」などと記すのは気が引けるのですが、お許しください。なんとなれば、この川中島こそ、私が川に興味を持つようになった原風景だからです。
 
 小学生のとき、母と木曽川の堤防をサイクリングして、ここに島があることを母が教えてくれました。地名はそのものずばり、「川島」。現在は岐阜県各務原市の一部ですが、かつてはこの島だけで「川島町」という町でした。
 「川の中に島がある」ことが私には新鮮で、妙な興奮を覚えました。私が母に「海だけでなくて、川にも島があるの?」と訊いたら、母は「大阪にも、中之島があるよ」と教えてくれました。その後長じて、パリのシテ島や札幌の「中の島」などを知るつど、私はいつも木曽川の「川島」を思い出すのでした。

2016/12/12

御囲堤

 愛知県一宮市にある「ツインアーチ138」というタワーです。
ツインアーチ138
 高さ138mあります。「いちのみや」にちなんで、138m。先日の墓参時、母とともに叔父に連れて行ってもらい、展望台に上がりました。

 その展望台から東方を眺めた風景です。
ツインアーチ138から展望 東方
 このタワーは「国営木曽三川公園」の中にあります。画像右方を流れているのが木曽川です(手前が上流)。画像中央を横切っているのが東海北陸自動車道で、その後方に母の郷里、一宮市北方町があります。遠方に鈴鹿、養老の山並みが連なり、中央の最も高いのが伊吹山1,377mです。
 
 木曽川に沿って、堤防が築かれています。通称木曽川堤です。母の実家からは小高い丘に見えたので、私は「東山」という名前で聞いていました。桜並木が植えられています。私は幼少時、祖母代わりの大叔母(昨日ブログ参照)に連れられてこの並木を歩きました。大叔母にリンゴを剥いてもらって食べたのを覚えています。大叔母に可愛がられた懐かしい思い出です。

 この堤はかつて「御囲堤(おかこいつつみ」と呼ばれていたそうです(末注①)。江戸時代、この地域を治めていた尾張徳川家によって築かれました。木曽川をはさんで北側は美濃(岐阜県)で、この堤防は美濃側のそれよりも高く築かれたと昔、母から教えられました。徳川御三家の威光で、洪水になっても尾張側に水が溢れないようにという目的です(末注②)。母は私が子どもの頃、よくこういう話をしてくれました。私の郷土史好きは、母によって刷り込まれたのであろう。

 注①:『写真に見るわたしたちのふるさと 北方』2004年、p.6
 注②:前掲書によると「美濃側を尾張側より『三尺低かるべし』との掟は厳しく、その上両方の堤が決壊したときは、『こちら(引用者注:尾張側)の堤の修理が完了するまで、美濃方の堤を修理してはいけない。』とのお達しが出ていた」とのこと。

2016/12/11

一宮市北方町の丸正商店

 先日の帰省時、母を札幌に連れてくるに先立ち、母の実家(叔父が跡を継いでいる)に行き、墓参りをしました。母にとっては、おそらくこれが最後になったでしょう。老人力がついてきた母のこととて、故郷の見納めという実感はあまりないようでしたが、むしろ私の方がしんみりした気分になりました。

 母の郷里、愛知県一宮市北方町北方狐塚郷です。
一宮 丸正商店
 丸正商店というよろずやが健在です。

 健在という言い方が妥当かどうか、語弊があるかもしれませんが、ともかく今も営業しています。札幌では昨今、個人商店を見かける頻度が減りました。営業を閉じているか、コンビニに変わっていることが多い。個人商店が是で、コンビニが非と言うつもりはまったくありません。ただ、この丸正商店は自分が幼少時から変わっていないので、思い入れが募ってしまいます。
 
 私は小学校に上がる前、よく母の実家に泊めてもらいました。正確にいうと、母の父母代わりをしていた大叔父母宅です。母の父母、つまり私の祖父母は早くに亡くなっていたので、私にとって大叔父母は祖父母のようでした。大叔父母宅には一週間とか10日間、続けて預かってもらっていました。特に大叔母には、私はずいぶん可愛がってもらったと記憶しています。子どもより孫の方が可愛いのは世の常かもしれませんが、大叔母はまるごと愛情を注いでくれました。その大叔母も亡くなって、三十有余年。晩年、恩返しをほとんどしなかったことが、今このトシになって悔やまれてなりません。

 大叔母によく連れていってもらったのが丸正商店です。先日、ン十年ぶりに店内に入ってお菓子を買い、ついでに「このお店はいつからやっているのですか」と訊いたら、「昭和28年から」とのことでした。以前母から聞いた話では、このあたりの地主だったTさんという家が経営しています。商店の隣に土蔵があります。土蔵の建築年を訊き漏らした。

2016/12/10

いなっピー銀杏カレー

 私の郷里(愛知県稲沢市)の商工会議所が売っている特産のレトルトカレーです。
いなっピー銀杏カレー
 「いなっピー銀杏カレー」といいます。
 銀杏の実が入っています。祖父江町というところでイチョウが多く植えられ、生産量が日本一だそうです。同じく地元産のアシタバの粉末も入っています。一袋400円と、レトルトカレーとしては高価ですが、とても美味しい。

 製造は「株式会社オリエンタル」です。同社は名古屋に拠点を置く食品メーカーで、工場が稲沢にあります。「即席カレー」の草分けでもあります。昭和40年代には、南利明というコメディアンによる名古屋弁のテレビコマーシャルで一世を風靡しました。「めっちゃめちゃ、うみゃーでかんわー。オリエンタルスナックカレー、ハヤシもあるでよー」というフレーズをご記憶の方も多いのではないでしょうか。札幌でも放送されていたようです。私にとっては、公共的媒体を通じて名古屋弁を客観的に聴くという、初めての体験でした。気恥ずかしさと誇らしさが入り混じった気持ちを抱いたものです。

 いなっピー銀杏カレーは郷里でしか買えませんが、オリエンタルのカレーは東急ハンズで売っているようです。冒頭画像に写るスプーンは、オリエンタルのノベルティグッズです。 

2016/12/09

母の薬莢 追補

 11月5日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-833.htmlで、母が花入れに再利用していた旧日本軍の薬莢が母のもとに遺っていないことを記しました。その話を叔父(母の弟)にしたところ、叔父が「薬莢は、うちにもあるぞ」と言ったので、見せてほしいとお願いしました。先日郷里に帰ったとき、叔父が実物を持ってきてくれました。

 それが、こちらです。
薬莢 母の花入れ③
 このたび、母の札幌移住とともに、一緒に持ってきました。

 結論的にいうと、これは母が花入れに使っていたもので、10月25日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-date-20161025.htmlの画像に載せたものと一致しました。つまり、叔父が預かってくれていたのです。
薬莢 母の花入れ④
 底に近いところに、母の名前の一文字が刻印されています。村の鍛冶屋さんでハンダ付けしてもらったらしい。

 10年ぶりに実物に再会できて、私の悦びはひとしおです。このたびの母の引越しの荷物の中で「一つだけ残せ」と言われたら、私はこれを選びます。
 大きさは、直径7.5㎝、高さ34.3㎝。薬莢として使われていた当時は、先っぽに円錐形が付いていたのでしょう。先に記したとおり、母の実家の近くに戦時中、陸軍の高射砲陣地がありました。母によると、その陣地に務めていた兵士が母の家によく風呂に入りに来ていたそうです。薬莢はその兵士からもらったといいます。戦後、母がこれを花入れにして、生け花の展覧会(花会)に出品したところ、先輩諸氏に驚かれたそうです。「軍の薬莢だったことが判るんだねえ」と回想しています。

 母は結婚以来こんにちまでの五十有余年の間に、少なくとも8回は引越しをしています。ずーっと借家暮らしです。それでいて、こういうモノをほからずに(尾張地方の方言=捨てずに)いました。あらためて、母のモノ持ちの良さに感心します。

 もう一度これを使って、母に花を生けてほしいなあ。

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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