FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2021/04/01

札幌軟石と煉瓦と、北海道の古建築

 道立図書館の北方資料展示コーナーです。
道立図書館「札幌軟石と煉瓦と、北海道の古建築」展示
 ちょうど今日から標記「札幌軟石と煉瓦と、北海道の古建築」という展示が始まっていました。

 このコーナーは、テーマに即して同館所蔵の図書や史料が展示されます。ショーケース二つの小さなコーナーですが、たとえば今回の展示は私のようなマニアにはお宝の陳列です。札幌市の図書館でもこういった展示があります。関係する資料が一目で可視されるのはありがたいことです。電網検索は便利ですが、落とし穴もあります。自分の視野以外が排除されるし、“偶然の発見”の機会も削がれがちだからです。あくまでも私の個人的印象ですが、道立のほうがマニアックなテーマと展示に走っているように窺えます。

 札幌軟石を紹介しているケースです。
道立図書館「札幌軟石と煉瓦と、北海道の古建築」展示 札幌軟石
 嬉しいことに、札幌建築鑑賞会の刊行物も陳列されています。会通信「きー すとーん」の札幌軟石関係の記事を載せた号をわざわざみつくろっているというマニアックぶりです。

 ところで、札幌軟石に関しては下掲の文献があります。
北大総合博物館企画展示図録 わが街の文化遺産 札幌軟石 表紙
 北大総合博物館の企画展示図録『わが街の文化遺産 札幌軟石-支笏火山の恵み-』2011年です。鑑賞会も参画して制作されたこの書物は、札幌軟石研究の到達点と(執筆者の一人なので)自負しています。道立図書館にも収蔵されているのですが(私が寄贈しました)、今回の展示には含まれていません。北大総合博物館発行の図録よりも、市民グループの印刷物がいわば優先されています。なぜか。
 私が察するに、図書館の電網システムで「札幌軟石」と検索したら北大博物館のほうはすぐ出てくるからです。展示では、常識的なアクセスではこぼれ落ちそうな情報をあえて拾っているかに見えます。
スポンサーサイト



2021/03/29

千歳市高台の軟石建物 (承前)

 3月25日ブログでお伝えした千歳市農協の軟石倉庫の続きです。昨日ブログに記したとおり地元のJA支店では情報を得られなかったので、図書館で資料を漁りました。

 『千歳市農業協同組合史』1984年の口絵ページに掲載されている写真です。
千歳市農業協同組合史1984年 口絵写真 第1号倉庫
千歳市農業協同組合史1984年 口絵写真 第5号倉庫
 上掲には「第一号倉庫」、下掲には「第五号倉庫」とキャプションが付けられています。

 3月25日ブログに載せた現在の倉庫の画像を再掲します。
千歳ワイナリー 軟石建物
 手前のワイナリーの工房兼店舗が第一号倉庫、奥のカマボコ屋根セラミック煉瓦が第五号倉庫と思われます。

 前掲書本文「農業倉庫事業」ページに掲載されている写真です(p.320)。
千歳市農業協同組合史1984年 農業倉庫事業 掲載写真
 前掲の私が撮った現在の画像と同じ場所と鑑みました。
 
 左の棟が冒頭に載せた口絵写真の第一号倉庫とみられます。第一号の正面は破風まで軟石が積まれていますが、右方の倉庫は破風の部分にモルタル?が塗られ、前掲の現在の軟石2棟もこれと同じです。右端の高い木に隠れていますが、カマボコ屋根の倉庫も建っているのでしょう。現在もそれとおぼしき大木が立っています。
 カマボコ屋根の倉庫は正面を撮ってなかったので較べるのが難しいのですが、前掲第五号倉庫の写真ではセラミック煉瓦の下層数段が濃い色で写っています。これは現在のカマボコ屋根倉庫のセラミックの使い分けと同じです。

 カマボコ屋根は、建物正面に架かっている標札を撮ってました。
千歳市農協 カマボコ屋根倉庫 標札
 「倉番」に「5号」とあります(赤い矢印を付けた先。担当者名や連絡先電話場号は目隠しした)。

 前掲誌によると、第一号倉庫(384㎡)が建てられたのは1961(昭和36)年、第五号(676㎡)は1969(昭和44)年です(p.320)。私は3月25日ブログで建築年代を、軟石棟は1960年代前半(昭和30年代後半)、セラミックのほうは1960年代後半(昭和40年代前半)から70年代前半(同後半)と推測しました。前者は既出情報で「昭和36年」とあります。これについてチェーンソー導入時期からして「微妙か」と付け加えました。しかし結論的には、この年で間違いないようです(末注①)。同日ブログで引用したとおり、札幌市南区石山では1961(昭和36)年はチェーンソーによる軟石切出しの「実験期間」でした。試験的操業であっても、商品としてそれなりに出回ったということになります。
 
 ところで、もう一棟(右側)の軟石倉庫はどうでしょうか。実はこの倉庫も、正面に標札が残っています。 
千歳市農協 軟石倉庫(右側) 標札
 しかし現在はJAで使われていないせいか、かなり錆びついていてただちには読み取れません(担当者名が書かれているところは目隠し)。

 画像を拡大してみると、「倉庫番号」に「3」と書かれています。
千歳市農協 軟石倉庫(右側) 標札 拡大
 前掲組合史によると、「三号倉庫」が1966(昭和41)年建てられました(同上)。建築面積が379㎡とあり、第一号の384㎡とほぼ同じです。本件は第三号とみられます。私は軟石2棟は同時期に建てられたと想っていましたが、5年の時間差がありました。建築年が異なれば、前述の破風の違いも頷けます。現地では軟石の全体像に目を奪われて、同一視してしまいました。
 もう一つ、島松軟石の可能性について。
 同日ブログ引用の北広島市の調査結果によると、島松で軟石が採掘されたのは「昭和40年代前半」までです。「近年になり、石材切り出し及び加工に専用カッターを用い効率的に生産されるようになりました」(末注②)。チェーンソーは使われていたのか(末注③)。調査を担当した同市の「まちを好きになる市民大学OB会」のKさんに電話でお聞きしました。Kさん曰く「採石の終わり頃にはチェーンソーも使われていたと思う」と。しかし、同市に現存する建物では島松産でチェーンソー仕上げは、やはり見られないといいます。これもまた“微妙”です。
 断定はできませんが、本件は札幌(南区石山)産と現時点で見立てます。根拠は以下のとおりです。
・仮に島松でチェーンソーを導入していたとしても、石材業者の規模からして、札幌に先んじてというのは考えづらい。
・同じく生産量からしても、島松より札幌の可能性が高い。昭和30年代であれば、流通上も鉄道(定山渓鉄道-国鉄千歳線)で容易である。
 本件第一号倉庫は、当時“最新式”で採掘された札幌軟石の、まさに第一号だったのかもしれません。

 注①:『千歳市農業協同組合史』1977年(旧史誌)によると、同農協はもともと千歳駅の南西側にあったが、1961(昭和36)年5月の市街地の大火で事務所や倉庫などを焼失した。農協では駅北西側の現在の場所に用地を新たに確保し、早くも同年11月に倉庫(第一号)の完成をみた。超特急で再建したことが伝わってくる。ちなみに組合史(新史誌)には焼失前の旧倉庫の写真も載っていて、やはり軟石製である。これはどこの産だったのだろうか。
 注②:『北広島市内の島松軟石を用いた建造物の調査』2012年p.5
 注③:現在札幌市南区で札幌軟石を生産している辻石材工業株式会社では、採石場でチェーンソーを用いて切り出し、工場に持ち込んで人工ダイヤモンドのカッターを使って加工している。

2021/03/28

千歳のJA支店の目当て物件

  3月25日ブログに載せた千歳市農協の軟石倉庫の情報を入手すべく、JAの千歳支店に足を延ばしました。
 結論的にいうと、「営業の店舗なので、倉庫のことはここではわかりません」。施設を所管する総務担当の部門が別にあるとのことです。ある程度予想された答えでした。農協の周年記念誌などを見せてくれればという淡い期待もありましたが、そこまで求めるのも気が引けます。自分で図書館に行って調べることとしましょう。

 同日ブログに記したように、支店に出向いたのは別の目当てもありました。
JA千歳支店 二宮金次郎像
 目当ては二宮金次郎像です。このたびの千歳行に携帯した「市内石碑・石像ガイドマップ」を見て、存在を知りました。

 小学校以外でもあるのか、といっても、農協ですから格別意外というわけでもありません(末注①)。しかし農協の店舗だからしばしば見かける、というわけでもありません。藤倉徹夫『金次郎はどこへ行った-道内の像と昭和をめぐる旅-』2016年によると、「江別市(石狩)の近隣市町村で、像のある農協は十店舗ほどか。平成以降の新設に限っても、千歳、恵庭、北広島、南幌、新篠津の農協にある。いずれも退任役員や退職々員の寄贈である」(p.214)。
 結構あるものですね(というか、それをすでに把握している先達がいることに驚きます)。歴史のある小学校を通りかかると「金次郎像があるかな」と意識するのですが、これまでJAの店舗はあまり気にしてませんでした。そのせいか、前述引用の設置数は私の先入観よりは多い印象です。「大半は、大切に玄関ホールなどに置かれている」(同上)ため、気がつきづらいのかもしれません。同書では札幌のことは触れられてません。今後は市内でJA支店を見たら、店内にも入って像の有無を確かめることとしましょう。

 隣に置かれた碑に「千歳報徳会」名で「報徳と協同組合」について記されています。報徳思想と協同組合思想の通底性については、かねがね理解を深めたいテーマです。なぜ深めたいかというと札幌市東区の“大友堀と札幌村”の歴史を読み解くカギがそこにあると考えるからなのですが(末注②)、前途迂遠で進んでません。だいたい、興味関心の向く先がいろいろありすぎる。
 さて、本件二宮像が建立されたのは1998(平成10)年です。像のタイプは札幌市東区苗穂町の乳業会社内のそれ(2020.1.20ブログ参照)と似ています。ただし背負っている柴は簡略気味です。読んでいる書は何でしょうか。本像は隣の碑も含め、一隅が盛り土されています。盛り土に上がらないと確かめられません。農協の職員さんにお断りして、上がりました。
JA千歳支店 二宮金次郎像 読んでいる書面
 「一家仁、一国興仁…」、『大学』の一節です。行書体で刻まれています。 

 注①:2016.4.222020.1.11ブログに関連事項記述
 注②:東区といえば大友堀とタマネギがともすればいっしょくたに語られる(2019.11.15ブログ参照)。幕末の大友亀太郎による御手作場開墾や用水堀の開削と明治になってからの札幌村の成り立ちやタマネギ主産地形成、専門農協の活動はどうつながるのか。尊徳翁門下たりし大友の報徳思想とタマネギ農家指導者の協同組合思想が通底していると私は仮説立てている。しかし私の中ではまだ、仮説の域にとどまっている。

2021/03/25

千歳市高台の軟石建物

 JR千歳線の車窓から目に入っていて、気になっていました。
千歳ワイナリー 軟石建物
 ハスカップワインの工房・店舗として使われています。
 
 何も知識を持たずにお尋ねしました。ここでの創業は1988(昭和63)年からとのことです。そんな前からとは想わなかった。建物の気配から農協の倉庫だった(今も?)と窺えます。それもそのはず、山梨のワイナリーが千歳の農協からハスカップによるワイン醸造を依頼されて始めたそうです。
 元倉庫は手前に軟石製が2棟、奥にセラミック煉瓦の1棟が建ちます。ワイナリーでは軟石の2棟を借りていて、手前の1棟が工房兼店舗です。「元倉庫」と記しましたが、奥のセラミック煉瓦も含め2棟は今も倉庫として使われています。建てられたのはいつか。

 軟石の2棟は切妻屋根にコンクリートの臥梁と柱が入っていて、軟石の表面はチェーンソーの跡が残っています。
千歳市高台 元農協倉庫 軟石チェーンソー跡
 1960年代前半(昭和30年代後半)とみました。札幌軟石(現南区石山産)でしょう。札幌寄りの北広島や恵庭では島松産と聞きますが、チェーンソー仕上げからすると以遠ではありますが札幌から運んだとみられます(末注②)。

 奥のセラミック煉瓦のほうは?
千歳市高台 軟石、セラミック煉瓦の倉庫
 セラミック煉瓦にカマボコ屋根。ほかの農協倉庫の例からすると、1960年代後半(昭和40年代前半)から70年代前半(同後半)か(末注①)。セラミックは下方5段とそれより上で色が異なっています。下段の濃いのは、高めに焼いたものか。見てくれ的な使い分けもさることながら、より硬質で吸水性が低い(撥水性が高い)ものを下段に積んだように想えます。

 はっきりした建築年はワイナリーの方からは聞けなかったので(末注③)、農協に出向きました。実はセラミック煉瓦の入口に農協の連絡先が書かれていたので電話しようかとも思ったのですが、地図を見るとJAの支店がわりと近くにあります。近いのみならず別の目当てもあって、足を延ばしました。別の目当ては、おってまた。

 注①:元篠路農協倉庫など(2018.2.5ブログ参照)
 注②:『郷土誌さっぽろ 石山百年の歩み』1975年によると、南区石山での軟石の「切り出しの方法は、手掘りから現在のチェーンソー式に代ったのが昭和三七年である。この時は昭和三六年にテストを始め、一年の実験期間を経て翌年から十五台のチェーンソー式に切り換えた」(p.36)。『北広島市内の島松軟石を用いた建造物の調査』2012年によると、同市内に現存する島松軟石建物を見る限り、建築年代の比較的新しい(昭和30年代以降)も含め手掘り仕上げ(ツルメなど)である。そもそも、島松ではチェーンソーが使われたか?
 注③:帰ってきてから本件ワイナリーのサイトを見たら(スマホを持ってない悲しさで、現地で確かめられない)、「昭和36年に建てられた札幌軟石の穀物庫」とある。チェーンソー導入時期からすると(注②参照)、昭和36年は微妙か。

2021/02/01

北陸銀行の古い字体の銘鈑 ②

 お知らせです。
 STV(5ch)の「どさんこワイド179」にまた出ます。“てくてく洋二”コーナーです。今回は南1条通を歩きます。オンエアは2月3日(水)の予定です。

 その前日の2月2日(火)、HBC(1ch)の「今日ドキ!」で和田哲さんの“ほっかいどう歴史散歩”が放送されます。テーマは“さっぽろ地下街”だそうです。先日まったく別件で和田さんにメールしたら、教えていただきました。地下街は開業50年ということで、どの局も重なるものですね。
 HBCの収録は、どさんこワイドで地下街を放送した1月13日の直前だったとのことです。「内容がかなり被ってしまったようです」と和田さんは苦笑い?されてました。否、メールなので実際に苦笑いしていたかどうかはわかりません。たぶん和田さんならではの深掘りもあったことでしょう。どさんこのほうをご覧いただいた方には、どうぞ見比べて楽しんでください。なお、STVのウエブサイト版で、1月13日放送てくてくのダイジェスト版(静止画像)をご覧いただけます。↓
https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t000009s06v.html
 紛らわしいので念のため繰り返します。2月2日が和田さんのHBC、3日が私のSTVです。

 昨日ブログに載せた北陸銀行の古い銘鈑、隠していた支店名を明かします。コメントを寄せてくださった方、ありがとうございました。
北陸銀行 小樽支店 古い銘鈑
 小樽支店です。

 支店のショーケースに「北海道と北陸 ここが原点。」と書かれた絵が飾られています。
北陸銀行小樽支店 ショーケース
 富山を本拠とする前身の十二銀行が1899(明治32)年、小樽に支店を開きました。上掲の絵に添えられている同年の新聞広告によると、北陸3県と東京、大阪に次いでの支店進出です。富山県内の支店では「高岡、魚津、東岩瀬、伏木」とあります。東岩瀬は富山の、伏木は高岡のそれぞれ外港ですね(末注)。小樽とは海の道でつながっていました。

 私は6年前に北陸を旅行したとき、高岡の旅館に泊まりました。宿の女将さんとのよもやま話で「北海道には北陸銀行が多いんですよ」と話したら、「北陸銀行は、こちら(富山)の人も北海道に行ってます。一度は北海道(の支店勤務)を経験されるようですよ」と言ってました。キャリアアップの通り道になっているのですね。

 注:北陸の城下町都市は内陸にあるが、日本海に面する北前船寄港地とつながっている(2015.10.12ブログ参照)。

2020/12/28

年末に吉報

 数日前、嬉しい知らせを耳にしました。
旧北海道林業試験場庁舎 再掲
 旧北海道林業試験場(林木育種場)庁舎(江別市)です。

 昭和初期に建てられ、現在江別市が所有しているこの建物(末注①)が有効活用されることになりました。民間事業者等による保存・活用の募集がこのほどあり、公開プレゼンテーションの結果、事業者が決まったそうです。札幌で歴史的建物を活かして飲食店を営むⅠさんから、選ばれたとの連絡をいただきました。江別市の公式ウエブサイト(末注②)にはまだ載ってませんのでとりあえず具体名は伏せますが、いずれ発表されるでしょう。
 私は今夏、Ⅰさんが現地を視察されるのに同行させていただきました。Ⅰさんによると、現在札幌市内にある珈琲の焙煎工房を近い将来、ここに移したいとのことです。併せて、喫茶スペースも設け、地域の交流空間にしたいと構想を語っておられました。“宝の持ち腐れ”状態だった建物が日の目を見ることを慶び、併せて応援していきたいと思います。今、私は「“宝の持ち腐れ”状態だった」と記しました。20年近くにわたって建物を維持管理してきた江別市にも敬意を表します。ともすれば、有効活用されなければ(税金を使って)保存する意味がないという風当りも強かったことでしょう。

 この建物をⅠさんが活用することには因縁めいたものを感じます。
旧北海道林業試験場庁舎 正面車寄せ イチイ老木
 なぜか。
 正式に発表されたらわかるでしょう。

注①:2017.9.3ブログ参照
注②:同市サイト「『北海道林木育種場旧庁舎』保存・活用応募事業者によるプレゼンテーションの実施」ページ

2020/12/01

千歳と恵庭の周堤墓石柱 続報 

 岩石学者にして「地図と鉱石の山の手博物館」名誉館長のT先生に、くだんの縄文墓標のことをお尋ねしました。
 
 「実物を見てみないことにはさだかなことは言えませんが」との断り付きで、まずキウス(千歳市)の溶結凝灰岩という石柱について。
 T先生おっしゃるには、支笏火砕流は馬追丘陵の手前まで達しているが、先端なので(高熱・圧密になりがたく)やはり溶結層は考えづらい。溶結凝灰岩の柱状節理だとすれば、支笏湖にもっと近い方か。ただし、石柱のサイズ(11月19日ブログ参照)をお伝えしたところ、T先生曰く「それ、本当に溶結凝灰岩ですか?」と。溶結凝灰岩の場合、柱状節理そのもののサイズは、一般にもっと大きいとのこと。溶結凝灰岩だとしたら、(遺跡で見つかった)石柱のサイズで露頭していたのではなく、もっと大きかったモノを縄文人が(頃合いのサイズに)加工したことも考えられる。より硬い石(石器)で削ることは、物理的には可能である。
 次に恵庭(柏木B遺跡)の安山岩製なる石柱。
 (石柱の原所在地とされる)漁川(11月28日ブログ参照)の河畔であれば、火砕流堆積物の下に古い(鮮新世)安山岩の層も見られる。柱状節理が剥離して川床を転石することがあり、縄文人がそれを見つけた可能性はある。

 T先生のお話からすると、恵庭のほうは蓋然性が大きい印象を私は抱きました。漁川を柱状の安山岩がころころと流れてきたのかもしれない。「もしかしたら」と、悪い癖で素人の想像を逞しくもしました。11月28日ブログに載せた地質図を観て初めて気づいたのですが、恵庭の市街地は扇状地なのですね。漁川は、扇形の範囲をン千年というスパンで河道が動いていたことでしょう。柏木B遺跡の周堤墓が造られた縄文後期(3,100年前)、河道は今よりも遺跡に近かったのではないか。遺跡が見つかった茂漁川が古漁川の河道だったかもしれない。とすれば、頃合いの柱状安山岩は、意外と入手しやすかったか。

2020/11/28

恵庭の周堤墓の石柱(承前)

 昨日ブログの続きです。
 恵庭市郷土資料館に、市内の縄文遺跡(柏木B遺跡の周堤墓)で見つかった石柱が展示されています(横たわっている石)。
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱-2
 人の背丈を越えるほどの長さ(高さ)です。
 恵庭の縄文遺跡というと、漆塗りの装身具が知られています。その芸術性や華やかに比べると、墓標とされたであろう本件石柱は地味ですが、私は惹かれてしまいました。

 石柱が立っていたという周堤墓(柏木B遺跡)の位置を地質図で俯瞰します。
産総研シームレス地質図 恵庭柏木B遺跡
 を付けた先が柏木B遺跡です(元図は国土地理院サイトから産総研シームレス地質図)。茂漁(もいざり)川という川の左岸に当たります。河岸段丘の上だそうです。茂漁川は北東へ流れ、JRの線路を越えたあたりで漁川に合流します。茂漁川を水色の細い線、漁川を同じく太い線で加筆しました。

 昨日ブログに記したとおり、本件石柱は「安山岩製」で、漁川上流の柱状節理とのことです。しかし地質図によれば、漁川の上流域は一面ピンク色で塗られています。これは支笏火砕流の堆積地です(11月20日同月21日ブログ参照)。
 火砕流堆積地でも安山岩が見つかることがあるのだろうか。古い地層が、火砕流の堆積物に埋もれずに出ていたのだろうか。漁川が谷を削って柱状節理が露頭したのだろうか(末注①)。地質図をみると、北西方面の島松山の一帯が橙色で塗られています。凡例によるとここは新生代新第三紀中新世〜鮮新世(末注②)の安山岩などです。
 私は、縄文時代の遺跡に立てられた墓標とおぼしき石柱を千歳市で見たばかりでした(11月19日ブログ参照)。キウス周堤墓の溶結凝灰岩製です。支笏湖の北から東、南にかけて火砕流堆積物が広がっていますが、キウスはそのはずれに位置し、凝灰岩の溶結層は近くには見当たらないらしい。そこで溶結凝灰岩の石柱が立てられたことも私は不思議に想いましたが、本件恵庭の安山岩製はこれまた不思議です。私は千歳の先入観で、本件も溶結凝灰岩ではないかと一瞬疑いました。しかしつぶさに鑑みると、安山岩またはデイサイトたる札幌硬石に似通っています(末注③)。札幌硬石にありがちな捕獲岩(石材業界では「みそ」という)が見られるのです。

 とまれ、この石柱が漁川の上流域の石だとして、どうやって現地まで運んだのでしょうか。恵庭市郷土資料館の学芸員にお訊きしたところ、漁川を舟で下り、茂漁川との合流地点でこんどは遡ったのではないか、とのことです。
 狩猟採集の縄文人のこととて、漁川の上流域を遡っていたのはなんら不思議ではありません。木をくりぬいた丸木舟を移動の手段としていたこともありうるでしょう。遺体を葬る場所に目印となるモノを、それも耐久性の高い素材で立てようとした気持ちもわかります。
 それにしても、です。石柱は冒頭画像にみられるとおり、とても重そうなモノです。川の上流から丸木舟に載せて下り、さらに支流を遡ってまでして運ぶのは、陸上に較べればまだしもとはいえ、大変な労力を要すると想います。労力を費やす精神性に、また心を打たれてしまいました。

 注①:しかし漁川上流の「漁川ダム」あたりでは、支笏火山噴出物の厚さが約135mに及ぶという(金秀俊ほか「支笏火山噴出物の上に建設された漁川ダム」北海道大学総合博物館ほか『わが街の文化遺産 札幌軟石』2011年、p.26)。
 注②:新生代新第三紀は2,303万年前から258.8万年前(在田一則ほか『地球惑星科学入門』2015年、見返し掲載の年表)。中新世の約1,500万年前に日本海ができ、約600万年前にアフリカで最初の人類(猿人)が生まれた。ちなみにシームレス地質図のピンク色は「新生代第四紀後期更新世中期」である。支笏火山噴火の4万年前のを指すのであろう。
 注③:安山岩またはデイサイト製の石材については、2015.10.9ブログほか参照

2020/11/27

恵庭の周堤墓の石柱

 恵庭市郷土資料館に展示されている縄文遺跡の石柱です。
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱
 キウス(千歳市)で見つかったもの(11月21日同月20日ブログ参照)と同様、やはり周堤墓に立てられていたそうです。

 そのミニチュア模型も展示されています。
恵庭市郷土資料館 縄文周堤墓 模型
 矢印を示した先に立っているのが石柱です。
 説明によると、周堤墓は縄文後期(約3,100年前)に造られました。場所は「柏木B遺跡」という遺跡です。

 石柱に添えられた説明には、この石は「安山岩」と書かれています。 
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱の説明
 「盤尻の柱状節理を利用したものと考えられている」と。キウスは溶結凝灰岩でしたが、こちらは安山岩です。「石質」の「安山岩製」というところは、貼り紙されています。もとは別の岩石名が書かれていたのでしょうか。

 位置関係を現在図で確認します。
現在図 柏木B遺跡
 赤い矢印を付けた先が柏木B遺跡です。盤尻の地名が書かれているところをで囲みました。恵庭市郷土資料館は北東(右上方)の橙色のです。

 盤尻と書かれたところを漁川が流れています。盤尻はここから漁川の上流、漁岳に至る広い一帯の地名です。資料館の学芸員さんにお訊きすると、石柱の石はやはり漁川の上流らしいとのことですが、具体的な場所までは聞けませんでした。石柱が見つかった柏木B遺跡までは、赤いで囲った地名の地点からでも直線距離で約3㎞です。
 これはまた、どうやって運んだのか。

2020/11/22

千歳市の地名考

 先日来ブログで綴っている“最古の札幌軟石”の所在地を現在図に示します。
色別標高図×陰影図 千歳市長都、キウス
 展示されている千歳市埋蔵文化財センターに黄色のを付け、もともと発見されたキウス周堤墓群を赤いで囲みました(元図は色別標高図の標高5m未満から5mごと30m以上まで7色段彩×陰影起伏図)。

 埋蔵文化財センターの最寄りの交通機関は、黒いで囲ったJR長都駅です。北北西へほぼ一直線で、距離は約4.5㎞あります。厳密にいうと市街地を循環バスが走っているのですが、そのバス停からでも3.6㎞です。しかも便数が1時間に1本くらいしかなく、乗りそびれました。
JR長都駅前
 氷雨にしとど濡れて4㎞を歩くのは辛いので、駅前にタクシーがいたら乗ろうと思ったのですが、見当たりません。電話で呼ぶまでは気が引けて、結局てくてく歩きました。

 そんな思いをしてまでも埋蔵文化財センターに足を運んだのは、「縄文遺跡群ボランティアガイド養成講座」の会場だったからです。講座に申し込んだとき、よもや最寄りの交通機関から4㎞以上も離れているとは思ってもみませんでした。まあこんなことでもなければ、長都という駅で降りることはたぶん死ぬまでの間に一度もなかったでしょう。

 駅周辺には比較的新しい住宅街ができています。
千歳市 長都 第二みどり台団地幹
 「みどり台団地」という名前らしく、町名も「みどり台」、電柱銘も「第二みどり台幹」です。

 駅に近いところでは「ひばりケ丘幹」という銘も確認しました。
千歳市長都 電柱「ひばりケ丘幹」
 画像で見ると野趣が感じられますが、この風景のほうが駅の近くです。かつての防風林が残っています。

 写真には撮らなかったのですが、実は駅周辺で多く見かけた電柱銘は「長都幹」です。長都駅の近くで町名も「長都駅前」なのでありきたりに思えて撮らず、「ひばりケ丘」のほうを珍重してしまいました。こちらは町名では見当たりません。地図を見ると、長都駅の南東方面に造成された団地の名前らしい。長都という由緒ある?地名を捨象した挙句のひばりが丘などという非本質的?な命名は、これまた悲憤慷慨すべきところかもしれません。しかしそれを言ったら、シコツを千歳と置き換えたことまで遡る必要があります。
 地名のことでいうと、キウス周堤墓群(国指定史跡)の所在地名は、「千歳市中央2777番地」です。「キウス」が町名(字名)になっているかと思っていたのですが、さにあらず。「中央」。これは意外を超えて、驚きました。 

 現在図で千歳市の市域とキウス周堤墓群の位置を確かめます。
現在図 千歳市市域 キウス周堤墓群
 赤い実線で囲み網掛けしたのが市域で、橙色のを付けたのがキウス周堤墓群、白い○がJR千歳駅です。

 千歳市の中央、とはいいがたい。支笏湖周辺を外したとしても、冒頭の色別標高図で明らかなとおり、千歳の中心市街地からはかなり離れています(JR千歳駅から直線距離で8.3㎞)。ここがなぜ、「中央」なのでしょうか。
 ひと昔ふた昔前の血気盛んな私なら、「せっかくキウスというアイヌ語由来の地名があるのに、よりにもよって『中央』とは何事か」と怒り心頭に発していたかもしれません。年をとったのとアドレナリンの分泌が減ったせいか、「なぜ『中央』なのだろう?」という疑問のほうが先に立つようになりました。縄文の由緒ある?聖地を「中央」とするのはまんざらでもないかなとか、そういえば「中央分水嶺」(2019.5.24ブログ参照)に近いなとか、冷静?に考えたりもします。

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

03 | 2021/04 | 05
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック