札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/14

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 - 江別市立大麻東中学校

 江別市の大麻東中学校です。
大麻東中学校 校舎
 北海道百年記念塔が校歌に歌われ、校章に描かれています(本年4月27日ブログ参照)。

 記念塔を校歌・校章に用いる学校としては最北端の同校を訪ねました。実は私は、ひと月前にもここに来ています。そのときは学校周辺をウロウロしただけですが、記念塔の方を眺めたものの塔の姿を視認することはできませんでした。「もしかしたら校舎の上階からだったら見えるかもしれないなあ」と想いながら、その機会を願っていたところです。
 
 このたび、正々堂々と校内に入らせていただきました。前にも記したように、保護者でもない一般人、しかも私のような小心者にとって、学校は秘境です。その私が、憚ることなく立ち入りました。
 というのは、江別市が年に2回実施している「小中学校一斉公開日」だったのです。私はそのことを「まんまる新聞」というフリーペーパーで知りました。同紙は厚別区と江別市を中心に宅配されていて、道新や全国紙に載らないような(末注)地域の行催事が伝えられています。一段のベタ記事にお宝な情報が盛り込まれているものですね。

 さて、同校の校門から記念塔の方を眺めた景色です。
江別 大麻東中学校から記念塔方面を望む
 前述したとおり、記念塔は見えません。

 ♪世紀の塔に顕なる 先人の血汗われあり…♪ (同校校歌三番出だし) 
 教頭先生にかくかくしかじかお願いしたところ、「校舎の3階からだったら見えると思う」とのことでした。

 そこで、3階の空き教室に上がらせていただきました。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔を望む
 「世紀の塔」は顕に望めました。

 カメラをズームインします。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔 拡大
 てっぺんは、外側にナナメカットされています。

 同校の校章です。
江別 大麻東中学校 校章
 これだけを見たら私は、記念塔がモチーフとはただちに認識できなかったかもしれません。
 同校の公式サイトによると、「三稜は百年記念塔とペンを表し、記念塔は先人の偉業を偲ぶと共に先端は将来の発展を意味します」。
 たしかに、校舎から見える記念塔と同じフォルム(先端は外側へのナナメカット)です。


 例によって、地理院サイトから色別標高図を作ってみました。
色別標高図 大麻東中学校-百年記念塔
 25m以下から5mごとの9段階で色分けしました。赤いが大麻東中学校、白ヌキの六角形が記念塔です。学校から記念塔はほぼ真南に望めます。

 断面図です。
断面図 大麻東中学校―百年記念塔
 直線距離にして3.7㎞。標高は学校が26.8m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。手前の文京台あたりが記念塔とほぼ同じ標高なので、やはり校舎の上階から塔のてっぺんが見えるという地形ですね。
 教頭先生からもお話を伺うことができ、貴重な経験でした。江別市教育委員会の企画に感謝します。札幌の小中学校も、私が知らないだけで、かような公開日があるのだろうか。

 さて、校歌・校章の百年記念塔はだいたいこんなものだろうと私は思っていたのですが、さにあらずでした。まだ、奥が深かったのです。[つづく]

 注:各紙の地域版の記事が、江別市と厚別区(札幌市)では異なるのかもしれない。
スポンサーサイト

2018/05/16

江別・大曲

 一昨日ブログに記したとおり、江別市の地名「大麻」は「大曲」と「麻畑」に由来します。

 「大曲」という地名は、大正5年地形図に出てきます(末注①)。
大正5年地形図 江別  大曲
 ここで道(江別街道)が大きく曲がっています。

 なぜここで大曲か、地形図を見て悟りました。札幌から北へ進むと、ここで沢地にぶつかります。等高線のヒダがかなり混みあっていて、起伏の激しさが想われます。

 現在の標高図です(国土地理院サイトから作成、5m以下から5mごと色別、陰影付き)。
5m以下から5mごと色別 江別 大曲
 かつての街道は道道「大麻東雁来線」として直線化されています。

 「大曲」の現況です。
江別 大曲 現況
 前掲色別標高図に赤い○で囲った地点です。札幌側から江別方向を望みました。旧道は、画像左方へ大きく曲がっていました。 直線化されている現在の道道は、なだらかな起伏です。なぜここで大きく曲げる必要があったか、現況では実感できません。

 「大曲」の実感はできないのですが、ここは実は江別でも古くから人が住んでいたところです。これもつい1年前に知ったことの受け売りですが、「古くから」といって、いつごろだと思います? 縄文時代早期の住居跡です。のみならず。なんと旧石器時代!まで遡ります(末注②)。画像中央に写るコンビニの前あたりで、それらしい石器が発見されました。旧石器とか縄文早期といわれてもなかなかピンとこないのですが、紀元前11,000年から同3,000年です。太古、この沢地が人びとのくらしに向いていたのですね。その名残が大曲というわけです。コンビニがここに立地するのも、有史前の記憶を継承しているのかもしれない。というのは穿ちすぎ。

 沢地は、道道から東方の「2番通り」側のほうで地形を色濃く留めています。大麻西公園です。
江別 大麻西公園
 これが「大麻沢町」という地名の由来だということも、最近実感しました。

 1947(昭和22)年空中写真です。
空中写真 1947年 江別 大曲
 「大曲」地点まで、まだ沢地の地形を留めています。

 この空中古写真や前掲古地図をアタマに入れて道道を通ると、痕跡が察せられます。
江別 道道大麻東雁来線 大曲 沢地の痕跡
 前掲色別標高図の赤い○の上のあたりで、画像左方の街路樹が道道です。畑地の奥に雑木林が見えます。この木々がどうも沢地の名残のようです。1万年以上前から、人が暮らしていたのだなあ。

 実は、ここまでは前置きでして、本題は大曲の旧道をお伝えすることです。旧道が今でも遺っていることも、私はこのたび初めて知りました。
 前掲標高図の赤い○の大曲を左へ、ぐいと大きく曲がって進みます。
江別 大曲①
 
江別 大曲②

江別 大曲③

江別 大曲④

江別 大曲⑤
 旧道は、こんどは右へ大きく曲がって「4番通り」に通じます。それまでずっと、砂利道が続きます。明治・大正の頃の江別街道はこんなだったんだなあと想いを馳せることができました。

 注①:「大曲」の地名は明治期の江別村の地図にも書かれている。
 注②:大麻13遺跡。『江別の遺跡をめぐる』2010年によれば、「旧石器時代末期の可能性が高」い(p.100)。

2018/05/14

江別・大麻の電柱物件

 江別市の「大麻」という地名が「大曲」「麻畑」に由来することを知ったのは、私はわりと最近です。せいぜい10年前くらいでしょうか。それまでは、「大麻が自生していたので、地名になったのかな~」くらいにしか、思っていませんでした。
 その「大曲」と「麻畑」についても、「道が大きく曲がっていたんだろうな」「麻(アマ)を作ってたんだろうな」程度の認識です。「なんで、ここで曲がったのか?」「なんで、麻を作ったのか?」には、今の今まで至ってませんでした。
 これらのことはまた機会をみて綴ることとして(そういうテーマがどんどん増えていく…)、 今回は大麻高校の近くで見つけたこちらの物件について世に問いたいと思います。

 電柱「合場幹」。
電柱 江別 大麻 合場幹
 電柱「第2合場幹」。
電柱 江別 大麻 第2合場幹

 採集地を確かめておきます。
現在図 電柱 合場幹、第2合場幹 所在地
 「合場幹」は緑色の、「第2合場幹」は青いのあたりです。町名でいうと前者は大麻西町、後者は大麻ひかり町になります。 赤いが大麻高校です。

 この「合場」が、私には判らない。固有名詞?普通名詞? 人名?地名? たぶん「西町」とか「ひかり町」という現在の町名より長寿な物件だとは思います。ゼンリンの古い住宅地図とか江別市史をひもといたのですが、これだというものに当たりませんでした。ちなみに、本件は札幌市との市界に近いのですが、札幌市側では確認できません。江別・大麻に詳しい方、なにとぞご教示ください。

2018/05/11

野幌丘陵の先端

 大麻高校の近くにある煉瓦の納屋です。
江別 大麻ひかり町 煉瓦の納屋
 腰折れ屋根、煉瓦は長手積み。
 後景彼方に北海道百年記念塔を納めて撮ることができました。持ち主が近くで畑仕事をされていたのでお訊きしたところ、1956(昭和31)年の築で、牛舎だったとのことです。酪農は1989(平成元)年くらいまでしていた由ですが、主としては昭和40年代まででした。ちょうど大麻団地ができる頃ですね。

 ところで、この納屋の手前が法(のり)面になっていて、一部コンクリート擁壁が組まれています。その手前は現3番通り、旧国道です。
 この段差が気になりました。ここから彼方の記念塔へは昨日ブログで示したように(途中沢が横切っていますが)、ずっと野幌丘陵の上り勾配です。だから高低差があっても不思議ではないのですが、私はある地図を思い出しました。

 国土地理院「都市圏活断層図 札幌」です。
都市圏活断層図 札幌 江別
 前掲画像の場所を黄色の矢印で示しました。

 これはなまなましい地図です。濃い朱色のアミがかかり矢印(←)が幾重に連なっている一帯は「活断層(活撓曲)」を表しています。矢印の先の朱色の太い破線は「活断層(位置やや不明確)」です。
 活断層(活撓曲)(かつとうきょく)というのは、凡例の説明によると「活断層のうち、変位が柔らかい地層内で拡散し、地表には段差ではなくたわみとして現れたもの。たわみの範囲及び傾斜方向を示す」。

 前掲画像に示した段差は人工的な法面で、断層崖ではないのでしょうが、私には活断層を想起させたのでした。広い意味では、断層の撓(たわ)みの一部といえるかもしれません。
 正確な位置は不明確ながら、ほぼ旧国道にそって活断層が走っています。というか、撓みの先端にあたる線に沿って、旧国道が開かれたといえましょう。旧国道から東南東は野幌丘陵、反対側の西北西は扇状地です。

 野幌丘陵が西北西に向かって、現在進行形でぐいぐいと石狩低地帯に大地を押しているような印象を地図から受けました。

2018/05/10

父祖の拓きし百年の 記念の塔を仰ぎつつ

 「厚別ブラ歩き」第8回(『道新青葉中央販売所だより』5月5日号連載)がウエブ上に載りました。下記サイトからダウンロードできます。
 ↓
https://doshin-aoba.jimdo.com/%E5%8E%9A%E5%88%A5%E3%83%96%E3%83%A9%E6%AD%A9%E3%81%8D/

 今回の内容は拙ブログでこれまで綴ってきたことと重なりますので、本日ブログではその‘こぼれ話’をお伝えします。
 北海道百年記念塔がいかに歌われ、描かれているか、その影響力の拡がりを知ったきっかけは、拙ブログ読者の方に教えていただいた北海道大麻高校の校章でした(4月26日ブログ参照)。記念すべき聖地をあらためて訪ねました。といっても、こんな理由で校内に入れてもらうのは、小心な私にはできません。まわりをウロウロです。めちゃくちゃアヤシイですね。そのうち不審者出没情報にリストアップされるかもしれません。勇気を出して、趣旨を説明できるようになりたいものです。

 さて、1984(昭和59)年開校の同校は、翌1985年に作られた校歌にも記念塔が歌われています。→ http://www.ooasa-h.hokkaido-c.ed.jp/?page_id=67
 ♪風と雪とに耐えぬきて 父祖の拓きし百年の 記念の塔を仰ぎつつ♪

 今、記念の塔は仰げるか。
大麻高校 東側から百年記念塔を仰ぐ
 右方のクルマが並んでいるところが校内です。ご覧のとおり校内はグラウンドレベルが少し低く、おそらく建物などに遮られて遠望は効かないと思われます。小高くなっている左方(東側)の草地(高圧電線の下地)から、記念塔方向を眺めました。

 記念塔は「仰ぐ」というより、ほぼ水平に望めました。
大麻高校 東側から百年記念塔を仰ぐ 拡大
 たぶん、校舎の上階からだったら見えるでしょう。

 このフォルムです。 
大麻高校 東側から百年記念塔 拡大②

 現在図で位置関係を確認します。 
現在図 大麻高校-百年記念塔
 :大麻高 黄色の六角形:百年記念塔です。記念塔は学校から南東方向、1.85㎞に位置しています。

 断面図を見ると… 
断面図 大麻高校-百年記念塔
 左端:大麻高(標高8.4m)、右端:記念塔(同54.8m+100m)で、たしかに♪仰ぎつつ♪の地形です。

2018/04/23

ペンを味方にする

 NHKの「プロフェッショナル」という番組で、砂川の本屋さん(の店長さん)が紹介されていました。
 妻が子供のころから行き慣れていた店です(2016.9.29ブログ参照)。
 この本屋さんのブックカバーです。
いわた書店のブックカバー
 とある月刊誌の編集者の挿絵が載っています。出版社の承諾を得て使わせてもらっているそうです。
 絵には文が添えられています。
 
 本の中になにがある
 字がある
 字の中になにがあるか
 宇宙がある

 ペンのさきから文字がうまれる
 文字がうまれると文化がおこる
 ペンでおこした文化はくずれないが
 銃剣でおこした文化はながくつづかない

 絵の作者の文だと思いますが、店長さんの思いがブックカバーに込められているようです。
 NHKの番組では、妻の出身中学校も映っていました。図書室に置く本162,000円分をこの店長さんに選んでもらい、納めてもらったとのこと。妻は「図書室の蔵書が少なくなったような気がする」と言ってました。生徒数が減ったからでしょうか。

 近くに目利きの本屋さんがあって、この中学校の生徒は幸せです。ただ、本当は学校の先生たち(「たち」が大事です)こそ、子どもたちに読んでほしい本を選んでほしいとも私は思いました。本を選ぶという店長さんの知的労働の対価は162,000円に含まれているのだろうか。先生方の多忙は察しますが、「たくさん納めてもらいますから、入れる本を選んでください」だとしたら…。
 たぶん店長さんは金銭的見返りは期待していないのでしょうが、せめてもと願うのは、この達人がどのように本を選んだかを先生方が学び取ってほしいことです。いや、それは先生方に限らないのかもしれません。店長さんは「問屋から一方的に送られてくる本をただ店頭に並べるだけ」という商売に疑問を抱き、今の商法を編み出したといいます。同じことが、本を選ぶ立場に立ちうる他の人にもいえるのではないでしょうか。そうすれば、ここの本屋さんからの納品を待つ人が全国で3000人もいるという状況も、少しは解消されることでしょう。「本屋さんが一方的に選ぶ本を図書室に置くだけ」ならば、パラドックスです。
 ちなみに私は、人から薦められる本を読むというのが苦手です。

2018.4.24追記
 ブックカバーに書かれている文章について、「絵の作者の文だと思います」と記したが、はたしてそうなのか、疑問も抱きました。こんど砂川の本屋さんに行ったら訊いてみよう。

2018/03/30

白老で時空逍遥 ④

 昨日ブログの続きです。 
 白老で軟石が採掘されたことを、地質分布図で探ってみます。
産総研地質分布図 白老の石山
 産総研の資料から抜粋しました。ピンク色で塗られたのが、軟石の元となる「支笏溶結凝灰岩」が含まれる「支笏火砕流」が堆積した一帯です。
 
 白老の「石山」の位置を赤い矢印の先で示しました。橙色の矢印の先は、その石山の軟石を用いたという倉庫の所在地です。
 しかるに、札幌の「石山」は、黄色の矢印の先に位置します。どちらも、支笏火砕流が堆積した端で、川が削っています。白老はブウベツ川という名前で、札幌は豊平川、穴の川です。
 分布図をこうして眺めると、火砕流が噴出した支笏カルデラすなわち現在の支笏湖から、かたや南へ(白老)、かたや北へ(札幌)、ほぼ同じくらいの距離に見えます。火砕流の堆積が同心円状に均等ということではないでしょうが、白老で軟石が採れたとしても不思議ではないなと思いました。

 あらためて、白老の元造り酒屋の石蔵を眺めてみます。
白老 軟石倉庫②-3 軟石表面
 2棟ある石蔵のうち、敷地の奥側の一棟です。色合いとか質感は、札幌で見る軟石と私には区別がつきません。

 ただ、あえていえば…。
白老 軟石倉庫①-3 軟石拡大
 袖壁付きのほうの一棟は、白い斑状の軽石の割合が多いようにも見えます。

 同じ支笏火砕流由来の溶結凝灰岩たる島松軟石(札幌軟石採掘跡地分布図参照)は酸化鉄分により、札幌と比べると赤みがかっています。札幌の石山産の軟石でも、採掘された年代(つまりは堆積された層の違い)によっても、微妙に異なる印象を受けます。支笏溶結凝灰岩だからすべて一様とはいえないようです。しかし、もし、本件倉庫を札幌に持ってきて「札幌軟石です」と言われても、私は何ら疑わなかったでしょう。まだまだ研鑽が足りません。

 白老軟石について、あと3点ほど付け加えます。
 一つは昨日ブログで引用した『新白老町史 上巻』に記述されている以下の一文です(p.1439、引用太字)。
 この石は軟石といわれている石で、大正一二年ころから数年にわたり採石し、苫小牧その他の土地に販売したといわれる。

 白老軟石は苫小牧にも運ばれていた。白老と苫小牧は隣町で、しかも鉄路で一本ですから、不思議なことではありません。苫小牧には今も軟石建物が遺っています(2017.11.20ブログ参照)。私は苫小牧物件を札幌軟石と見立てたのですが、再考を要するかもしれません。

 二つ目は、奥側の倉庫の最下段に積まれている石材です。
白老 軟石倉庫②-4 最下段
 どうも、色合いや質感が二段目以上と異なります。最下段は瘤出し、二段目は平滑、三段目より上はツルメト、仕上げ方が異なるのですが、最下段は単に仕上げ方だけではないような気がしました。これは登別中硬石ではないだろうか?

 三点目は、石材のことではなくて、本件倉庫の保存活用についてです。前述したように、現在NPO法人によって管理運営されています。札幌での石蔵の活用を進める上で、参考になることがあるのではないでしょうか。

 残念ながら、帰りの汽車の時刻が迫ってきました。本件がそもそも白老産なのか札幌産なのかも含め、上記三点は宿題として引き続き抱えていくこととしましょう。(白老の)石山や社台にあったという軟石採掘跡地も、いつか訪ねてみたいものです。[おわり]

注:登別中硬石については、2015.3.218.10各ブログ参照

2018/03/29

白老で時空逍遥 ③

 白老町本町に遺る軟石倉庫です。
白老 軟石倉庫②-2
 昨日ブログに記したように、元は造り酒屋の蔵で、農協倉庫を経て2000(平成12)年からNPO法人によって管理運営されています。

 建物内にいた職員の方に伺うと、使われているのは「札幌軟石」とのことでした。建てられたのは「昭和初期」と。
 ところが、私が町の図書館で調べた『白老町史』1975年(旧)によると、次のように記されていました(p.643、引用太字)。
 この酒倉は大正十二年、社台地区、石山地区から産出した石材により、荒井春吉(荒井喜一の父)の築造したものである。

 この記述は『新白老町史』1992年にも踏襲されています。本件倉庫の石材は地元産だというのです。新町史下巻「地区史」の「石山」の項には、次のように書かれています(p.1303、引用太字)。
 地名の発祥として、現在白老町農業協同組合敷地内にある石造倉庫はかつて酒造業を営んだ干場亭次郎の酒倉であった。大正七年から一二年にかけ荒井春吉が、社台と石山からの石材を用い築造したといわれている。このように石山地区の山は軟石の多いことからこの地名が付けられたと思われる。
 また、『北海道地名辞典』(角川書店)によると、大正末期から昭和初期に酒倉などに使う石材を切り出したとある。このような事情から字名改正の折り石山と改称されたのであろう。 


 現在図を見ると…。
白老 現在図 石山
 赤い○で囲ったところが、本件石蔵の位置です(本町1丁目)。ここから西へ約2.5㎞のところに、「石山」という字名があります。橙色の○で囲ったところです。まあ、“目と鼻の先”といってもいいかと思います。一方、札幌から白老までは、現在のJR千歳線、室蘭本線で約93㎞。ちなみに、千歳線の前身ともいえる「北海道鉄道」苗穂-苫小牧間が開通したのは1926(大正15)年です(末注①)。本件石蔵の建築年が「昭和初期」で、石材産地が札幌だとすると、鉄道で運んだ可能性はあります。しかし、1923(大正12)年築で札幌軟石だとすると、室蘭街道を馬車で運んだということか。
 
 新町史上巻には、白老町内の軟石採掘についてかなり詳細に綴られています(p.1439、引用太字、末注②)。
 町内の社台から白老にかけての地層が、支笏湖溶岩で覆われているが、別々川中流、白老川市街地付近などに、この溶泥岩を石材として切り出した跡がある。この石は軟石といわれている石で、大正一二年ころから数年にわたり採石し、苫小牧その他の土地に販売したといわれる。採掘場所に一つは社台三七一番地付近(現在○○牧場所有)で、同二六番地の○○○○が、当時これを所有採石し、他の場所は字石山六三番地(現在○○○○所有)で、○○○○が所有採石した。石材は建築用として、白老に酒蔵や炭窯の口石に用いられた。しかし石材としては必ずしも良好ではないので、現在は採石していない。(○の箇所は原文では固有名詞)

 町史にこのように書かれているにもかかわらず、建物の現地の方から「札幌軟石」というコトバが出たのは如何?
 直線距離にして2~3㎞のところに同じような石材の産地があったにもかかわらず、しかもおそらく鉄道の通じていない時代に、わざわざ札幌から運んだというのは、私にはどうも考えづらいのです。あるいは、地元産もひっくるめて「札幌軟石」と受け止められているのでしょうか。

 注①:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年による(p.6)。
 注②:引用文中、「支笏湖溶岩」「溶泥岩」とあるのは、「支笏火砕流堆積物」「溶結凝灰岩」のことであろう。

2018/03/28

白老で時空逍遥 ②

 昨日ブログで、踏切の引っ越しについて記しました。移動した先でも名前が元のままというのは、踏切では珍しくはないようです(2016年12月31日ブログ参照)。踏切の名前というのは、いわば記号というか、関係者の業務上の符丁みたいなものなのでしょう。ころころ変えるのはむしろ支障をきたします。認定道路の路線名も、しかり。電柱もしかり。化石的事象を発掘できる所以かもしれません。

 さて、白老の本町というところに軟石倉庫が2棟、遺っています。
白老 軟石倉庫①
 所在地の字名は「本町」ですが、画像に写る電柱の銘鈑は「元町」です。「本町」「元町」という響きは、旧市街を彷彿させます。倉庫の妻側に伸びた袖壁は、延焼防火を意識したものでしょう。旧市街が感じられます。

 元は造り酒屋だったと聞きます。 
白老 軟石倉庫 ミセ?
 道路に面した2階建て入母屋屋根は、店だったのではないでしょうか。

 奥に位置する一棟は現在、白老牛のハンバーガーショップになっています。
白老 軟石倉庫②
 こちらは屋根の棟に換気口が二つ、付いています。
 造り酒屋の後、農協の倉庫として使われたというので、そのときに付けられたのかもしれません。

 内部を見ると、木骨が入っていました。
白老 軟石倉庫 内部
 軟石を柱の木骨と固定しているカスガイの古さからみて、あとから補強したものではなく、元々の構造と思われます。梁は新しい材が加えられているようです。外観を見た限りでは、軟石の小口(直方体のもっとも面積の小さい面)が1尺四方なので、純石造かと思ったのですが、さにあらずでした。札幌の石蔵の木骨石造は、1尺×5寸と薄いのが一般的です。
 
 建物は「しらおい創造空間 蔵」という名前で、NPO法人により保存活用されています。白老牛バーガーの販売だけでなく、多目的ホール、ギャラリーなどで貸出しされているのです。開館したのは2000(平成12)年。
 
 この石蔵はいつ建てられたか? 軟石はどこの産か? 実はこの石蔵を訪ねる前、近くにある町の図書館で『白老町史』をひもとき、建物の基礎情報をアタマに入れて伺ったのですが、念のため建物内におられた職員にお訊きしました。すると、返ってきた答えは「札幌軟石」です。札幌軟石! 驚きました。私が仕入れた知識と違っていたのです。[つづく]

2018/03/27

白老で時空逍遥 ①

 白老町のアイヌ民族博物館に行ってきました。2020年に国立アイヌ民族博物館ができることに伴い、今月末で閉館します。見納めというわけです。
 せっかくなので、界隈も逍遙しました。というか、そちらのほうが目当てだったかもしれません。一足先に白老を訪ねた札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、駅周辺の物件を情報提供いただきました。「国有鉄道」の標柱とか、跨線橋とか、シートを被せられて置かれているSLとか。同じくすでに足を運んでいるスタッフNさんは、国立博物館の建設用地にさまざまな工事関係者の車両が集結していると言ってました。かような目利きの人たちの刺激を受けていると、私も観察力が問われます。ましてや拙ブログに載せるとなると、そんじょそこらの物件では納得してもらえません。

 最初に私の目に入ったのは…。
白老 小沼線通り踏切
 ポロト湖畔の博物館へ至る途中に横切ったJRの踏切です。

 「さて、どんな名前が付いているかな~」と楽しみにしながら銘鈑を見ると…。
白老 小沼線通り踏切 銘鈑
 「小沼線通り踏切」と。いきなり期待に違わず。なぜ、「小沼線通り」か? 

 この踏切がある道路の正面にあるのは、「ポロト湖」です。
白老 ポロト湖
 アイヌ語で、ポロ(大きい)・ト(沼)。

 なのになぜ、通りが「小沼線」か? 通りが「小沼」なら、目の前にあるのは「ポン(小さい)・ト(沼)」であってよかろうに。あるいは、目の前にあるのがポロトなら、通りの名前は「大沼線」であってもよかろうに。
 
 現在図で位置関係を確認しましょう(元図は国土地理院サイトから)。
地理院地図 白老 ポロト湖周辺
 赤い○の場所が「小沼線通り踏切」です。どうみてもポロト湖が近い。大きな方を採らずに、あえて「小」さな沼線とした理由は如何?
 
 博物館のチセ(家)で当番をしていた老齢の男性にお尋ねしました。
 私「この近くに、ポロトとは別にポントという沼はありませんか?」
 男性「ポロトの対岸の山陰にポントはあります」 
 私「ここに来る途中の踏切に『小沼線』とあるのが不思議だったのですが。目の前にあるのがポロトなのに、なぜでしょうね」
 男性「あの踏切はもともと、200mくらい(白老)駅寄りの、ポントの近くにありました。この施設ができる頃、道路が付け変わって踏切も移りました。しかし名前はそのまま変わらずに残ったんです。このことは、もう地元の人でも知らなくなっているでしょうね」

 アイヌ民族博物館の方だからアイヌ語に精通しているのは当然として、最初にお訊きした方が踏切の銘鈑の経緯も認識しておられたのは幸運でした。これは稀有だと思う。

 これはもう、ポントを自分の眼で確かめないわけにはいきません。
白老 ポント沼
 愛でるに値する小沼でした。否、小沼という和語より、ポントのほうが雰囲気にふさわしいと感じてしまいます。ポロトの何十分の一かの大きさで可愛らしい。

 ちなみに、ポント沼の近くの市街地の電柱は…。
白老 若草町1丁目 電柱 ポロト幹
 「ポロト幹」という銘鈑でした。まあ、一帯を大きいほう(ポロ)で代表させる気持ちは、判ります。なお、字名は「若草町1丁目」です。「若草」ねえ。

 空中写真で踏切の位置を顧みました(国土地理院サイトから)。
 まず1963(昭和38)年。
空中写真 1963年 白老 ポロト湖
 黄色の○で囲ったところに踏切が見えます。ポント沼に近い。この位置なら確かに、「小沼線通り」も頷けます(「線通り」というのは重言めいてますが、それはさておき)。赤い○が、おおむね現在の位置です。

 1975(昭和50)年になると…。
空中写真 1975年 白老 ポロト湖
 黄色の○のところに痕跡が窺えますが、踏切は赤い○のほうに付け変わっています(方位はおおむね2時の向きが北)。アイヌ民族博物館(の前身のポロトコタン)ができたのが1965(昭和40)年というので、やはりこの2枚の空中写真の間にポロト側に移動したのでしょう。

 すっきりしました。ご期待に添えたでしょうか。 

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック