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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/11/06

砂川の“なんちゃって”記念塔物件

 11月4日に開催した札幌建築鑑賞会「札幌百科」第16回「どうなるどうする北海道百年記念塔」では、参加者から多くのご感想、ご意見が寄せられました。
 その中に、「もみじ台ショッピングセンター(ホクノー)の時計塔、空知太神社隣(砂川市)の記念碑も、百年記念塔に酷似しています」という情報が含まれていました。
 もみじ台団地の「完成記念塔」については、拙ブログでも前に記しました(本年4月13日ブログ参照)。空知太神社の物件は初めてです。
 グーグルマップで見てみました。
 ↓
砂川市空知太の記念塔

 頭頂部の二つのナナメカット、底部に至るすそ広がりの曲線。いや、これはもう、月形の「ライオンズの塔」(本年2月6日ブログ参照)に優るとも劣らない“なんちゃって”度ですね。これも、ぜひとも実物を拝みに行かなくては。情報提供、ありがとうございます。

 ストリートビューで本件の付近をなぞったら、こんなモノもありました。
 ↓
砂川市空知太 第二物件
 なんだか、これも…。

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2018/10/20

夕張・旧鹿ノ谷倶楽部で“よっこ”してきたモノ

 北炭の夕張新炭鉱で死者93名を出したガス突出事故が起きたのは、1981(昭和56)年の10月です。その後の経緯を時系列的に整理してみました(末注①)。
 1981(昭和56)年12月 北炭夕張炭鉱㈱、会社更生法申請(倒産) 
 1982(昭和57)年10月 夕張新炭鉱閉山、全従業員2040人解雇
 1984(昭和59)年、鹿ノ谷倶楽部を夕張市が買収
 1987(昭和62)年10月 北炭真谷地炭鉱閉山、北炭が夕張から全面撤退  
 1992(平成4)年4月 北海道新聞特集記事、Yさんが旧鹿ノ谷倶楽部をレポート
 1994(平成6)年 夕張市が旧鹿ノ谷倶楽部を「夕張鹿鳴館」として一般公開
 1995(平成7)年2月 北海道炭礦汽船㈱(北炭・親会社)が会社更生法申請
 2005(平成17)年1月 北海道炭礦汽船㈱、会社更生手続きを終了
 2006(平成18)年6月 夕張市が財政破綻を表明 
 2007(平成19)年3月 夕張市が「財政再建団体」に移行
 2009(平成21)年9月 小樽市の産廃業者が旧鹿ノ谷倶楽部を市から無償譲渡され、ホテル併設レストランを開業
 2011(平成23)年7月 文化審議会、旧鹿ノ谷倶楽部を登録文化財とするよう答申
 2015(平成27)年 旧鹿ノ谷倶楽部のホテル併設レストラン、経営不振のため休業
 2017(平成29)年8月 旧鹿ノ谷倶楽部、中国系企業の手でホテル併設レストランとして営業再開されることになるとの報道  

 私が旧鹿ノ谷倶楽部を初めて訪ねた1992(平成4)年3月というのは、実は前述のYさん(昨日ブログ参照)の取材調査に同行させてもらったものです。年表にしてみて、ガス突出事故から「わずか」10年余りしかたっていなかったことに気づきました。それからすでに四半世紀以上過ぎた。

 旧鹿ノ谷倶楽部の資料を見直していたら、こんなモノも出てきました。
夕張新炭鉱災害関係資料 表紙
 「夕張新炭鉱災害関係資料」と銘打たれています。「昭和55年9月8日」の日付で、「北炭夕張炭鉱株式会社」が作成したものです。同社は北炭(北海道炭礦汽船株式会社)の子会社です(でした)。
 これは同年(1980年)8月に夕張新炭鉱で起きた自然発火の経緯をまとめたもので、当時、北炭夕張炭鉱の幹部社員が鹿ノ谷倶楽部でこの資料に基づいて会議または打合せをしたことが想像されます。ガス突出事故が起きる約1年前です。
 
 このような断片的な資料(史料)も、今となっては貴重だと思います。これらの資料を北炭自身が記録にまとめてオオヤケに明らかにする可能性は、もはや到底考えられません。この資料が作られた1980年は、北炭の前身「北海道炭礦鉄道」が設立された1889(明治22)年から91年目でした。創業百年に当たる1989(平成元)年が社史の刊行にふさわしかったのでしょうが(末注②)、前掲の年表からすればそれは断末魔のときでもありました。史料の編纂どころではなかったと慮ります。ヤマの闇に葬られたかもしれない史料を緊急避難的に“よっこ”(北海道弁)したということで、お許しください。
 …と記してきて、「待てよ、前にも同じようなことを記したな」と思い出しました。本年7月27日ブログ参照。

 注①:北海道新聞1992年4月13日、1998年11月18日、2008年6月3日、2009年9月18日、2011年7月16日、同年10月12日、2017年7月21日、同年8月10日各記事に基づく。
 注②:北炭は1958(昭和33)年に『北炭七十年』を刊行している。思えば、この年がこの会社の栄華だったのかもしれない。

2018/10/19

旧北炭鹿ノ谷倶楽部

 夕張の旧北炭鹿ノ谷倶楽部です。
夕張 旧北炭鹿ノ谷倶楽部 1996年
 1996(平成8)年に撮りました。

 1913(大正2)年に建てられた道内有数の和風建築で、のちに登録有形文化財にもなった建物ですが、北炭が経営破綻した当時は処遇が苦慮されていました。昨日ブログで記したように、1982(昭和57)年に引き取った夕張市も持て余していたのです。しかし、私が初めて訪ねた1992年の2年後の1994年、市は修復して一般公開に踏み切りました。

 保存の引き金になった一つが、この新聞報道です。
道新記事1992年4月13日特集
 1992(平成4)年4月13日の特集「感傷だけで図れぬ保存 どう生かす歴史的建物」。

 道新の読者参加企画で、女性の読者が道内各地の歴史的建物を訪ね、レポートしました。その一人、Yさんが旧鹿ノ谷倶楽部を取り上げたのです。かつての北炭会長・萩原吉太郎氏(当時90歳)にも面談し、肉声も伝えられています。これはスクープといってもよいでしょう。「政商」「ドン」と称された萩原ですが、北炭が93人死亡の大事故を起こして倒産し、第一線から退いたのちは一切オモテに出ることはなかったようです。前掲の特集記事は、その萩原の生前最後のマスコミ登場となりました。
 
 鹿ノ谷倶楽部については、当時すでに研究者が価値を評価し、保存の必要性を説いていました。地元の郷土史家や学芸員もしかり。Yさんは、「この建物がなぜ荒れるにまかされているのか」、「なぜ地元から保存運動が起きないのだろうか」と自問し、その背景を丹念に探りました。そして、この建物が、多くの“一般の”夕張市民からはあまりにもかけ離れた存在であったという事実に突き当たります。Yさんは紙面での報告を次のように締めくくりました(引用太字)。
 北炭と聞くといまわしい大惨事を思い出してつらい人もいる。とすると、この倶楽部は重苦しい歴史を背負った憎しみの建物なのだろうか。
 だからといって壊してしまうのは早計である。
 この倶楽部は鉱員が命をかけて石炭を掘ったことによってできた建物なのである。この倶楽部を残すことで本道の歴史の一断面が見えてくるのではないか。


 この記事が夕張市を後押ししたのは間違いないでしょう。当時、市は「炭鉱から観光へ」の掛け声のもと、“イケイケどんどん”だったと思います。風向きが変われば、ぐいと動く。しかしそれが今度は市の財政破綻を引き起こしたかと想うと、やるせない気持ちにもなります。「感傷だけで図れぬ保存 どう生かす歴史的建物」という問いは、26年後の今も私には重い。

2018/10/18

○に★○の社章(承前)

 昨日ブログの答えです。
 その前に、同じマークの付いた建物を紹介します。
 岩見沢レールセンター
 岩見沢にあるJRのレールセンターです。

 妻破風に○★○の社章が彫り込まれています。
岩見沢レールセンター  妻破風 社章
 旧北海道炭礦鉄道。

 昨日ブログに載せたのは、同じ会社を前身とする「北海道炭礦汽船株式会社」です。
北炭 社名板
 「北炭」。
 エルフェンバインさん、当たりです。ありがとうございます。

 昨日ブログに載せたノリタケ製の陶器コップは、夕張にあった北炭の迎賓施設「鹿ノ谷倶楽部」にあったものです。
 私が最初に訪れた1992(平成4)年当時、すでに北炭の手を離れ、夕張市が所有管理していました。しかし、当時はいわば「宝の持ち腐れ」状態でした。あまりにも、モノが大きすぎた、というか立派過ぎたのです。

 その後、修復工事を経て、「夕張鹿鳴館」という名前で一般公開されるようになりました。
夕張鹿鳴館 入場券半券 オモテ
夕張鹿鳴館 入場券半券ウラ
 夕張鹿鳴館 リーフレット
夕張鹿鳴館 平面図
 さらにその後、夕張市が財政再建団体になり、民間に譲渡され、「オーベルジュ」(宿泊付きレストラン)となりました。しかし、経営不振で休業、その後また所有者が変わって営業が再開されるそうです。
 
 「されるそうです」と伝聞形で記したのは、昨年8月10日付け北海道新聞記事に基づくからです。その後の直近の状況は知りません。同記事によると、経営するのは「元大夕張鹿鳴館」という会社で、「高級志向のオーベルジュとし、中国などアジア圏の富裕層を中心に誘致を目指す。宿泊料は1泊1人2万円台を想定」とのことです。
 余談ながら私は「元大夕張鹿鳴館」を、無知にも「もとおおゆうばり…」と読んでしまいました。「げんだい…」という中国系の企業なのですね。
 一泊2万円のホテルでは、市が所有して公開していた当時のように大人200円で内覧というのは、もうできないのでしょうか。となると、前掲の入場券も今となっては貴重な思い出になります。建物の本来の用途に鑑みると、高級ホテル・レストランという使われ方はふさわしいのかもしれません。私には縁遠くなってしまいましたが。願わくは、年に一回くらい公開されて、貧乏人にも内覧を許してもらえるとありがたい。

 26年前に初めてここを訪ねたときの衝撃は忘れません。私は当時まだ、空知の産炭地に足を踏み入れて間もない頃でした。「こんな山奥に、こんな別世界があるなんて」と驚いたものです。

 そのとき撮った厨房です。
旧北炭鹿ノ谷倶楽部 厨房
 窓に防雪用の板が打ち付けられていて、照明も電球が切れているものがほとんどで、薄暗い中で撮りました。作り付けの食器戸棚に銀製品などが置かれたままになっていたと記憶しています。

 私がもらったノリタケ製のコップはいつごろのものでしょうか。 
北炭 ノリタケの陶製コップ
 “NIPPON TOKI KAISHA” “JAPAN”と書かれています。

 ところで、私がこのコップのことを思い出した10月16日とは何の日だったか。
 37年前の1981(昭和56)年のこの日、北炭の系列会社「北炭夕張炭鉱」が経営する「夕張新炭鉱」でガス突出事故が発生しました。93人が亡くなりました。合掌。

2018/10/17

○に★○の社章

 私の机の上に置かれている湯呑みです。
湯呑み
 湯呑みというより、陶器製のコップというべきでしょうか。

 底には有名陶器メーカーのブランドが刷り込まれています。
湯呑み ブランド

 ふだんはペン立てに使っているのですが、昨日10月16日、思い出してブログに載せることにしました。
 この湯呑みならぬ陶製コップは、とある会社の備品でした。道内某市の某施設の厨房にあったものです。26年前の1992年、その施設を案内してくださった関係者の方が私に「持って行っていいよ」と言って私にくれたのです。
 コップの腹に会社の社章が描かれています。さて、このコップは何という会社のモノだったのでしょう?

 この会社は現存していて、札幌駅前のビルに営業所が入っています。
○星の社章
 社名板に、同じ社章が描かれていました。

2018/10/07

安平町早来にあった軟石建物(補遺)

 9月29日ブログで、安平町早来の被災軟石建物3棟について記しました。
 
 そのうちの一棟、国道沿いでカフェとして再利用されていた建物について、現地を調べた北海道ヘリテージコーディネーターYさんの伝で「小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」と記しました。ブログ掲載後、Yさんから要訂正の連絡をいただきました。「板谷商会」ではなく、「板谷商船」とのことです。ただし、そもそも板谷商船ゆかりとの情報についてはウラを取る必要があるとのご指摘も受けました。そこで、同日ブログでこの一文をいったん削除したのですが、併せて文献を漁って判ったことがありますので、以下綴ります。

 『早来町史』1973年に、次の図版が掲載されています(p.299)。
早来町史掲載 勇払電灯株式会社写真
 このたびの大地震で倒壊し、解体された建物の写真です。「石造をもって新築された勇払電灯株式会社昭和6年1月撮影」というキャプションが添えられています。

 本文には次のように書かれています(pp.297-298、引用太字)。
 大正七年一月、早来および苫小牧、厚真の有志らが発起人となり、電灯会社設立の話を進めていたが、曾我部文三を発起人総代として、電灯会社設立許可申請をなし、同年六月に設立許可を得た。翌八年七月十三日資本金十万円をもって“勇払電灯株式会社”(社長板谷順助)を創立し、本店を早来において、(中略) この年はじめて早来の市街地にも電灯がつけられ、これまでの不自由なランプ生活は解消されて明るい町となった。

 『北海道大百科辞典』1981年によると、板谷順助は1877(明治10)年新潟県に生まれ、北海道の実業界で活躍、のちに衆議院議員、貴族院(参議院)議員を歴任、政治家としても要職を務めました。1949(昭和24)年死去。
 一方、「板谷商船」といえば板谷宮吉です。同書によると、板谷宮吉は1857(安政4)年やはり新潟県に生まれ、海運業で財をなしました。1924(大正13)年死去。

 板谷順助は板谷宮吉の板谷商船と関係があるのか。
 本日、小樽に行ったついでに小樽市総合博物館運河館に寄ったら、既知の学芸員Sさんがいて、この話を相談しました。すると幸いなことに、昭和初期の小樽の著名人士に関する史料を見せていただきました。その結果、順助と宮吉の関係が判ったのです。
 結論的にいうと、板谷順助は板谷宮吉の兄の養子でした。つまり養子縁組による叔父甥の関係です。坂牛祐直『小樽の人名と名勝』1931年に、順助の業績が次のように書かれています(pp.54-55、引用太字)。
 義理の伯父(ママ)先代宮吉翁等の遺業たる板谷合名の同族会社を盛り立てて其後之れを拡大したのが現在の板谷商船株式会社である。海運業は勿論海産農産物の取引、倉庫業を首め土地の売買をも為す会社が広汎な営業種目を掲げて事業界に雄飛する一方順助君の手に因りて企業開始された勇払電燈、沙流電気、洞爺湖電鉄、渡島海岸鉄道等の諸会社が皆な優秀な成績を挙げてゐるのは全く君の手腕に因るもので、現にそれ等諸会社の社長を兼ね樺太銀行や南洋郵船などにも関係をして小樽商工会議所顧問にも推されている。一体道南地方胆振、日高の方面は進歩は兎角世人から閑却され勝ちであったのを遺憾とし、同地方の開発に着眼をした見識はさすがは太ツ腹な政治家の順助君である

 結果的には「小樽の板谷商船ゆかりの建物」は間違いではなかったといえましょう。
 私が本件建物が小樽ゆかりだったことに引っかかったのは、建物の細部ゆえです。1階のアーチ型開口部。石造だからアーチを組むのは自然としても、小樽の石造建築の系譜を見た思いです。基礎部分に登別中硬石、その上に軟石を積む。旧日本郵船小樽支店も同じような使い分けをしていますね(2015.9.18ブログ参照、末注①)。

 なお、本件建物は前掲『早来町史』の記述からすると、1919(大正8)年乃至昭和初期の建築と思われます。9月20日ブログで私は、安平町の指定文化財に「石倉」2棟がある旨記したのですが、Yさんからは本件建物も指定文化財であるとご指摘を受けました。
 確かに、道教委サイトの「北海道の文化財」のページ中「市町村指定等文化財一覧」で「有形文化財/建造物」として「勇払電灯株式会社の跡」が挙げられています。
 私は「の跡」という表記が気になったのですが、前提として「建造物」という種別に含まれているということは本件建物も文化財だったとみるべきでしょう。つまり、早来の市街地の軟石建物3棟はいずれも文化財(だった)ということになります(末注②)。

 注①:札幌郵便局(現存せず)も登別中硬石と軟石の使い分けをしていた(2015.3.21ブログ参照)。
 注②:前掲『早来町史』には「文化財」という項目がないので、同書からは確認できなかった。

2018/09/29

安平町の被災軟石建物

 このたびの北海道胆振東部地震で倒壊した安平町の石造建物について、続報を得ました。
 9月20日ブログで記した「北海道ヘリテージ・コーディネーター」のYさんによる追跡調査及び「小樽軟石研究会」Tさんの現地調査を突き合わせた結果です。

・安平町早来地区の市街地にあった3棟(れきけんフェイスブック参照)の現況
 ①国道沿いでカフェに再利用されていた建物:倒壊のため解体撤去
 ②酒店の併設蔵:大きな損壊
 ③蔵:ひび割れ

・建物の構造等
 ①純石造 軟石5寸厚 基礎:登別中硬石、本体:札幌軟石
 ②純石造 軟石1尺厚 基礎:登別中硬石 本体:島松軟石、軒:小樽軟石
 ③木骨石造

 構造等は前述の信頼すべき情報に基づきますが、確定はできません。とりあえずはすべて、「?」付きとさせてください。その前提での話ですが、純石造⇔木骨石造では純石造の、しかも軟石の厚みの薄いほうが損壊の度合いが大きかったと窺われます。3棟の中では③の木骨石造の損傷度が低かったようです(さりとて「軽微」とはいえないでしょう)。
 ②③は、ダメージを受けつつも現存しています。

 解体された①の建物の瓦礫をお譲りいただきました。
安平 ボンカフェ 瓦礫
 前述のYさんが所有者の許諾を得て入手したものです。

 画像右側が基礎に使われていた登別中硬石、左側が本体の札幌軟石と見られます。このたびの災厄に際して非常に切ないのですが、「軟石建物ありき」という記憶を留めることに意味があると念じて記させてください。
 ①にせよ②にせよ、複数の石材を使い分けていたことは特筆したいと思います。石材の使い分けは、札幌では旧札幌控訴院(現札幌市資料館)に見られます(末注①)。外壁は全体的に札幌軟石ですが、要所に硬石を用いています。また、「旧札幌郵便局」(現存せず)は要所に登別中硬石を使っていました(2015.3.21ブログ参照)。小樽の「旧日本郵船小樽支店」も、小樽軟石と登別中硬石の使い分けです。
 札幌市内に現存する軟石建物の多くは、札幌軟石のみで造られています(末注②)。石材の使い分けは管見の限り、札幌や小樽では著名な公共的建築に限られていました。それが安平早来に流布していたのです。札幌と登別のほぼ中間に位置するという地域性のなせるわざでしょうか。なお、Yさんによると、①は小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです。(2018.10.7削除)。

 北海道新聞本日(9月29日)夕刊に、②の酒蔵のことが報じられました(引用太字)。
 石蔵の修復には少なくとも500万円以上が見込まれる。Sさん(引用者注:記事では実名)は「慣れ親しんだ建物が町内で次々と取り壊されている。石蔵は何とか残したい」と、インターネットで寄付を集めるクラウドファンディング(CF)などでの再建も視野に入れている。
 応援したい。 

 注①:躯体は煉瓦、RCとの混構造である。
 注②:南区硬石山の麓の軟石建物では基礎に硬石を積んでいる(2015.6.20ブログ参照)。

2018.10.7 上記「①は小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」について、確証が得られていないため、いったん削除します。なお、「板谷商会」ではなく「板谷商船」。併せて、2018.10.7ブログに関連事項を記述しましたので、ご参照ください。

2018/09/20

地震と石造り建物

 私が所属している「小樽軟石研究会」というグループで、このたびの大地震に伴う石造り建物の被災のことが話題になっています。震源地に近い安平町で石造りが倒壊または損壊したという情報が伝わってきたからです。私は人づてに間接的にしか聞いていないのですが、添付された画像を観る限り大きなダメージを受けています。被災された方にお見舞い申し上げます。

 私は不勉強ながらこれまで、安平町に石造りの建物があることを認知してませんでした。何年か前にテレビで同町の市街地が映されている中にチラッと見えて、「ああ、安平にもあるんだ」と思っていたくらいです。ましてや建物の石材がどこの産か、知ることもありませんでした。画像で見た様子と同町の地理的な位置関係からすると札幌軟石の可能性が高いように思います。私としては無関心ではいられません。といっても、現地に足を運ぶことは今の私には難しく、もどかしく思います。

 研究会で話題になったのは、端的にいうと「石造りの建物は、やはり地震に弱いのか?」です。
 組積造建築の耐震性は私が申すまでもなく、昨日今日の課題ではありません。いわば、関東大震災以来90年に及ぶといってよいでしょう。もし、このたびの被災地でのできごとをもって「石造りの建物は、やはり地震に弱い」の根拠に加えるとするならば、私は最低限次のことを明らかにする必要があると思います。

 ①当該被災地の建造物は、全体的にみてどのような被災か?
 ②その中で、組積造(石、煉瓦)はどのような被災か?
 ③ひとくちに石造りというも、当該建物はどのような構造か? 純石造か、木骨か、他の補強材が入っていたか、石材の厚みは?

 たまたま「NPO法人歴史的地域資産研究機構」(れきけん)のTさんとメールでやりとりしたところ、Tさんが同団体のフェイスブックに関連事項を投稿したことをお聞きしました。
 ↓
https://ja-jp.facebook.com/NPO法人歴史的地域資産研究機構れきけん-290990687728310/

 状況に少し近づくことができました。フェイスブックによると「北海道ヘリテージ・コーディネーター」のYさんが現地で活動されたそうです。…と拙ブログを綴っていましたら、当のYさんから直接電話をいただきました。TさんがYさんに私の疑問を転送してくれたのです。

 私はこのことに限らず、間接的な二次、三次情報をもとにして憶測でモノを言うのは慎みたいと思っていました。その意味で、現地を直接体感したYさんとお話できたのは大変ありがたいことです。
 お話して知ったのですが、Yさんはご実家が安平町!だったのです。ご実家は幸い大きな被害はなかったそうですが、「見慣れた風景が変わってしまった」と話してくれました。そのような切ない話題にもかかわらず、お電話をくださったことをかたじけなく思います。
 
 結論的にいうと、私の疑問の①②に対する答えは次のとおりです。
 石造りのある安平町の市街地(末注)は、木造も含め「危険」判定(赤紙)、「要注意」判定(黄色紙)された建物が多い。石造りは市街に3棟あり、2棟が倒壊、1棟はひび割れした。ひび割れの1棟も「危険」判定の赤紙が貼られている。倒壊の2棟のうちの1棟は元医院で、近年カフェに再利用されていた。2階建ての2階部分は全壊した。Yさんは1階部分の軟石だけでも何らかの形で遺せないかと願ったが、昨日から解体撤去工事に入っている。

 お話からすると、石造りだけがピンポイントで倒壊したわけではないようです。Yさんによれば、市街地は比較的建築年代の古そうな建物が多く、「危険」判定されています。一方、新しい住宅はそうでもない。
 石造りとか歴史的、ということもさることながら、比較的古い年代の、特に住宅の耐震性全体に目を向ける必要があります。現時点で私はそう思いました。あくまでもYさんを通しての、これもまだ間接情報なので断定はできないのですが。
 では、耐震性とか安全確保をどのように考えたらよいか。紙幅ならぬウエブ幅が長くなりましたので、別にあらためます。

 余談ながら、北海道庁のウエブサイトを見たら、安平町では「石倉」が2件、町指定の文化財となっています。Yさんから情報提供いただいた3棟に含まれるようです。

http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/bunka_hogo_toppage.htm 「市町村指定等文化財一覧」
 文化財指定されていることは、私にはある意味で意外でした。

 注:安平町は旧早来町と旧追分町が合併してできた。ここでいう市街地は旧早来町である。

2018/08/24

「ふるカフェ系 ハルさんの休日 北海道・江別編」 収録余話 ②

 昨日ブログに続き、NHK・Eテレ「ふるカフェ系…」の番組(8月22日放送、24日再放送)の舞台となった江別の煉瓦造古民家カフェです。

●カフェの名は「CAFE」か? 
 放送では、建物の軒下に書かれてる店の名前が隠されていました。 
江別 煉瓦造の古民家カフェ 長手積み
 この番組は、基本的にフィクションだと私は思います。だから実名を消したのでしょう。店の詳細な所在地や交通アクセスなどの基礎情報も、あえて伝えられていません。風景を見慣れた地元の人には判るのでしょうが、準地元の方は想像を掻き立てられることになります。

 といいながら、番組の最後に字幕で「協力」者名が流れます。このご時世、調べる気になればすぐ判ると思いますが、ひとまずはコンセプトを重んじて拙ブログでも触れないこととします。

 ところで、放送で話題にされたとおり、この建物の煉瓦は大部分「長手積み」です。前掲画像に写るように、煉瓦の「長手」(もっとも細長い面)を地面に対して垂直にして、それのみを見せて積んでいます。

 ところが、一部に異なる積み方の箇所があります。 
江別 煉瓦造の古民家カフェ イギリス積み
 「イギリス積み」です(本年7月19日ブログ参照)。

●なぜ煉瓦の積み方を変えたか? 
 番組で“煉瓦博士”の水野信太郎先生が推理されました。長手積みは元居室部分、イギリス積みはトイレまわりで積まれています。人が常時滞留する居室部分は煉瓦の内側に中空を設けて壁(たぶん漆喰?)を貼った。先生曰く「最良の断熱材は“空気”です」と。ただし「正確には、壁を壊して中を見ないと断定はできません」。一方、人がときどきしか入らないトイレまわりは、煉瓦だけで済ませた。

 私は当初、むしろトイレまわりだけは手厚くしたのかと想いました。本件建物は(本件に限らず一般的にもそうですが)、居室は南面、トイレは北面しています。長手積みは基本的に煉瓦1枚厚、イギリス積みは2枚厚です。南面は1枚厚でいいだろうが、採光しない北面のトイレは2枚厚にして寒さを防ごうとしたのかなと思ったのです。南面居室側が「煉瓦長手積み-中空-内壁」だとすれば、当時の一般の(=最近の断熱材入りではなく、昔の)木造住宅に比べて、手間ひまかかったことでしょう。人の滞留度合で構法を変えたというのは、なるほどと思いました。仮に中空構法でなかったとしたら、手厚い煉瓦積みは北面の寒いトイレまわりに限った(ほかは煉瓦を節約した)ということになり、それはそれで頷けます。

●なぜ、江別だったか? 
 この番組で北海道は、初登場でした。その初登場を札幌ではなく江別にしたというところにも、制作のこだわりを私は感じてしまいました。私のところに話が来たのは、実は札幌のとある古民家系飲食店のオーナーさんからの紹介だそうです。で、私は「札幌軟石なら…」と思ったのですが、話を聞いたら江別の煉瓦でした。担当ディレクターのSさんおっしゃるには「まあ、人の縁というものもありますからねえ」と。
 もちろん札幌も候補になっていて、Sさんは円山の有名なモ○ヒ○にも行かれたそうです。
 私 : あそこは完成度高いですよねえ。
 Sディレクター: “隙”が、無いですね。一つ一つ、計算し尽くされています。
 私: それを何気ないかのごとく、見せている。お客さんが列を作るのも、判ります。

 夜にEテレで放送される本番組の趣旨からすると、江別で良かったんだろうなと思いました。ハルさんが、ハルデス煉瓦を名刺代わりに持ってきて(重い!)、ハルユタカを食したのだし。

 拙ブログに、「直接的ではないにしろ軟石物件もアピールしてらっしゃる(笑)と思いながら見てました」というコメントをいただきました。ありがとうございます。バレましたね。

2018/08/23

「ふるカフェ系 ハルさんの休日 北海道・江別編」 収録余話

 ブラウン管(古いな)を通してお茶の間(これも古い)に自らの姿態がさらされるとき、オンエア前はいつも心穏やかでありません。しかし見終わると、その気持ちは雲散霧消します。拙くても、「まあこんなものだよな」という諦観に至るのです。「すうじ」(と読んで「視聴率」と書く)は、私が気に病むことではないし。

 NHK・Eテレ「ふるカフェ系 ハルさんの休日 北海道・江別編」をご覧いただいた皆様、ありがとうございました。出演の一人でおこがましながらお礼申し上げます。
 これから24日の再放送(午後9:00-9:30)で観るという方には、以下に綴るこぼれ話はネタばらしを含みますのでご了承ください。また、もう一度番組を堪能しようというご奇特な方には、拙ブログと併せてお楽しみください。

●なぜ、江別市民でもない私がキャスティングされたか?
 担当のSディレクターと私が6月に交わしたやりとりです。  
 私 : 札幌軟石ならともかく、江別の煉瓦なら、地元にⅠさんという、うってつけの方がいらっしゃるじゃないですか? 
 Sディレクター : でも、Ⅰさんは“マニア”ではありませんからね。
 私 : マニアですか。
 Sディレクター : ○○さん(私のこと)はいわば“北海道のハルくん”なので、その役回りを演じてほしいのです。“マニア”の人がいいんですよね。煉瓦や建築の専門的なことは水野信太郎先生に語っていただきますから。

 江別のⅠさんのことは、拙ブログでもたびたびお伝えしています(本年7月26日ブログ参照)。江別の達人です。いたって良識を備えた方で、“マニア”とか“オタク”に「不健全で怪しいヒト」という社会通念があるならば、Ⅰさんはその範疇ではない。もっとも、Ⅰさんはオタク道を会得し、熟知精通した良識人ではあります。
 ただ、本番組の主人公“ハル”は、「仕事ではうだつがあがらない」青年で、「休日になると全国各地の古民家カフェを訪ね歩」き(北海道新聞本年8月22日テレビ番組紹介欄) 、ブログを続けているという設定です。有能な行政マンでもあったⅠさんを“北海道の”ハルくんとなぞらえるのは失礼ではあります。
 番組をご覧になっている方は感じておられるでしょう。具体名は避けますが、ハルくんの立ち居振る舞いからは社会的少数者のニオイが漂います。私にも通じます。私は、この番組がNHKのEテレで放送されていることの意味を深読みしてしまいました。
 もう卒業しましたが、十数年前『さっぽろ再生建物案内』という冊子を作ったとき、休日になると札幌市内各地の古民家カフェを訪ね歩いたことを思い出します。
 私の住む厚別区は最近、江別との一体化が企まれているようでもあるので(https://ja-jp.facebook.com/eatsubetsu/)、まあいいか。

●編集でカットされたシーン 
 いわゆる“尺”に合わず、日の目を見なかった部分です。
 水野先生と私が、ミニチュア煉瓦で「イギリス積み」「フランス積み」を実演し、私が感想を述べ、先生が特徴を解説しました。二人で盛り上がり、製作スタッフの人たちからは「やっぱり煉瓦のことになると、とても楽しそうねえ」と言われたのですが、ほぼまるごと削られました。
 実はそのさわりを7月の拙ブログに盛り込みましたのでご参照ください(本年7月15日ブログ7月19日ブログ)。

 ミニチュア煉瓦は、番組のために米澤煉瓦さん(会長の米澤金蔵さんが出演)が約30個、特製したものです。
米澤煉瓦特製ミニチュア煉瓦
 10㎝×5㎝×2.8㎝で、本物はJIS規格21㎝×10㎝×6㎝なので1/9に当たります。なお、7月19日ブログに載せた模型は2㎝×0.9㎝×0.5㎝の極ミニサイズ(画像の10円玉の左に置いたもの)で、たしかこれは札幌の吉田工業所提供です。米澤さんは製造、吉田さんは積みの会社です。

 収録が終わったとき、Sディレクターにねだって、ミニ煉瓦を記念にいただきました。のみならず、主役の渡部豪太さんにサインしてもらいました。これは、「豪太くんのサインをもらってこい」という札幌建築鑑賞会スタッフSさんの密命によります。本番組を毎回楽しみに見ているというSさんに、私は逆らえません(8月18日ブログ参照)。どうせならと、煉瓦に書いてもらいました。

●私の小道具
 高校時代の友人T君(名古屋市)から「見たよ」というメールがきて、次のようにコメントされていました。
 「カフェに入るところ、デイパックに難追い紐が結んでありましたね。妻が見つけました。稲沢出身とわかる場面です。全国で何人が気づいたでしょうか」。
私のディパック 難追切れ
 さすがT君、いやT君の奥さん、観察が鋭い。

 この「儺追(なおい)ぎれ」は、我が郷里・愛知県稲沢市の国府宮神社(尾張大国霊神社)オリジナルです。奈良時代の国府に由来する古い神社で、毎年2月には「儺追神事」(はだか祭)が行われます(2014.8.27ブログ参照)。その神事に因む厄除けの切れ端です。

 余談ながら、今はどうか知りませんが「はだか祭」の日は、稲沢市内の小中学校は半ドンになってました。公教育でありながら、政教分離も何もありませんね。私らは学校が休みになるので喜んでましたが。北海道神宮祭のとき、札幌の小中学校はどうでしたっけ? はだか祭は愛知県指定無形民俗文化財だから、いいのか。丘珠神社の獅子舞のとき、東区の小中学校はどうしているのでしょう。

 くだんの切れ端は、地元の町会で配られていました。たぶん町会費に含まれているのでしょう。ここでも信教の自由は…。いや、やめときます。かくして郷里を離れて40年の私の脳みそに刷り込まれ、デイパックに付けて安全を願掛けしているしだいです。母はママチャリにゆわえてました。私は旅行用キャリーバッグにも結んでいます。飛行機に乗って預けて、着陸後の引取りのとき、他人のと識別できて好都合なのです。

 ところで私のみならず、水野先生も愛知県の生まれ育ちです。「北海道・江別編」の全国放送番組で、愛知県人が語る口調を視聴者はどう聞き取ったでしょうか。古民家カフェのマスターがベタな北海道弁を連発されていたのは、そのせいでしょうかね。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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