札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/23

苫小牧川 苫小牧で時空逍遥 ⑤

 苫小牧は明治末期に製紙工場ができて、街として発展しました。 
 などと知ったふりをしますが、市美術博物館学芸員Tさんの受け売りです。製紙工場の町だということくらいは知っていましたが、いつごろできたかなどは、Tさんに教えていただきました。

 その製紙工場です。
苫小牧 王子製紙工場 西若葉門
 奥に写る赤煉瓦の変電所は、1920(大正9)~1924(大正13)年の築といいます(『道南・道央の建築探訪』2004年、p.31)。

 古典的なモチーフを一ひねり二ひねりしたような造形に感じられます。
苫小牧 王子製紙工場 変電所
 19世紀末から20世紀初頭のニオイを嗅ぎ取ってしまうのですが、嗅覚過敏でしょうか。

 この建物もさることながら、気になったのは冒頭画像手前の橋です。
苫小牧 王子製紙工場 西若葉門 橋
 これまた、モダニズムの気配が伝わってきます。いつ日か工場見学の機会があったら、じっくり鑑みることとしましょう。

 この橋は、苫小牧川という川に架かっています。
 苫小牧に製紙工場ができた背景はいろいろあると思いますが、一つ、樽前支笏湖から流下する水という条件も大きかったのではないでしょうか。

 1966年の空中写真です。
空中写真 1966年苫小牧 苫小牧川
 黄色の矢印の先が前掲の橋の位置です。

 苫小牧川の下流です。
苫小牧川 暗渠

 前掲1996年空中写真で赤矢印の先で示したあたりですが、現在は暗渠になっています。この川は1980年代、上流で有珠川という川に付け替えられました(放水路?)。それでこのあたりでは、川の面影が薄れています。

 かつては、札幌本道(室蘭街道)が苫小牧川を跨ぐ地点として、交通の要衝だったそうです。川(跡)の傍らに碑が建っています。
苫小牧 御駐蹕之蹟
 「御駐蹕之蹟」。「ごちゅうひつのあと」と読むのでしょうか。明治天皇が1881(明治14)年の行幸の折、このあたりにあった駅逓で一服したことを記念したものです(現地の説明看板)。

 ところで、前掲の1966年空中写真は製紙工場と国道の周辺をトリミングしたものですが、実際はもっと広く俯瞰できます。俯瞰すると、実はこんな風景が写っています。
空中写真 1966年苫小牧 苫小牧川 河口
 苫小牧川が注ぐ太平洋の河口付近だけ、黒々としています。衝撃的に見えます。これ、何でしょうか? 製紙工場の排水が流れ出ていたのでしょうか。流路が変更されて暗渠化されたのは、この写真に写っていることと関係があるかもしれません。うがちすぎかな。
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2017/11/22

和風ホテル 苫小牧で時空逍遥 ④

 苫小牧の市街に、「新川通り」という通りがあります。
苫小牧 新川通
 「かなり広い通りだな」と思いました。正面突き当りは製紙工場です。

 なぜ、広いか。
 苫小牧市美術博物館所蔵の古い絵はがきを見せていただきました。
苫小牧 絵はがき 中央火防線
 「大正十一年九月廿一日」というスタンプが押されています。その頃からかなり広い道だったことが判りました。キャプションに「苫小牧町中央火防線通り」と記されています。「火防線通り」。学芸員Tさんによると、苫小牧は1918(大正7)年に大火があったそうです。このあたりも延焼しました。一昨日ブログで紹介した軟石建物も、その後耐火建築として建てられたわけです。

 前掲絵はがきを拡大してみます。
苫小牧 絵はがき 中央火防線 新川
 道の真ん中あたりに、堀割のようなものが見えます。どうもこれが「新川」だったらしい。手前の方は堀割が途切れていますので、暗渠のようです。

 例によって、古い空中写真を見ます。
空中写真 1944年陸軍 苫小牧 新川通り
 1944(昭和19)年陸軍撮影です(国土地理院サイトから)。

 余談ながら、苫小牧は陸軍が戦時中に空撮していたのですね(末注)。札幌などは古くても戦後の米軍だと思うのですが。なぜ、苫小牧は陸軍が? 太平洋側からの敵襲に備えてだろうか? 胆振や十勝の海岸にはトーチカが置かれたというし。そういえば、室蘭や釧路はたしか空襲や艦砲射撃に遭ってましたね。 

 本題に戻ります。
 赤い矢印の先が新川通りです。他の街路に比べて、ひときわ広い。黄色の矢印の先が現在の国道36号に当たる道です。その道よりも広い。

 新川通りのあたりを拡大してみます。
空中写真 1944年陸軍 苫小牧 新川通り 拡大
 道路の真ん中に堀割らしき影が写っています。南の方へ下がると消えています。やはり暗渠になっているのでしょう。海岸に近づくと、自然河川が合流します。苫小牧川です。時系列的にいうと、先に苫小牧川が流れていて、あとから開鑿した新しい川=新川を合流させたということでしょうか。
 
 Tさんによると、新川は製紙工場の用水路(排水路?)として使われていたとのことです。製紙工場って、いっぱい水を使いそうですよね。現在は冒頭画像のとおり、川の面影はありません。広い道をパルプを運ぶ大型トラックが繁く行き交っています。
 
 通りに面して、「和風ホテル 新川」が建っています。
苫小牧 和風ホテル新川
 旅館ではなく、「和風ホテル」です。私が「新川の記憶ですね」とTさんに言ったら、Tさん曰く「唯一の名残です」と。

 注:国土地理院のサイトを見ると、北海道では道南から道東の太平洋側にかけて旧陸軍の1944年空中写真が収録されています。道央から道北の日本海側、オホーツク海側は見当たりません。なぜ偏りがあるか、ご存じの方、ご教示ください。

2017/11/21

製紙工場の近未来的郷愁 苫小牧で時空逍遥 ③

 苫小牧市王子町です。
苫小牧 王子 社宅
 製紙工場の社宅群が並んでいます。市美術博物館学芸員のTさんによると、昭和30年代に建てられました。1階部分が半地下のようになっていますが、ここには浴室があるそうです。工場の余熱で暖房や温水がまかなわれていました。建物が道路に対してナナメに配置されているのは、真南に向いているからです。サンルームが張り出しています。昭和30~40年代、モダンな憧れの社宅だったことでしょう。画像左端の道路が、手前の道路に通じていません。一種のクルドサック(袋小路)です。

 私は幼少期、鉄筋コンクリート3階建ての社宅に小中高のうちの9年間、暮しました。父が勤めていた会社は苫小牧の製紙工場とは違って、従業員100人もいない中小企業でした。社宅は親会社出向の幹部社員向けだったのですが、空きがあったため現地採用ブルーカラーの父も入居させてもらえたのです。かねてこの社宅住まいを念願していた母に刷り込まれて、小学生の私も、社宅の3DKが“バラ色の未来”でした。なので、初めて見る前掲の社宅の建物に郷愁を感じてしまいます。
 製紙工場は、最盛時2,000人いた従業員が現在500人くらいだそうで、社宅群もほとんど空き家になっていました。

 工場の一隅にある建物です。
苫小牧 王子 元スーパーマーケットの建物
 元はスーパーマーケットで、越野武先生(北大名誉教授)が設計にあずかったとTさんから聞きました。
 側壁に煉瓦の袖壁のようなものが突き出ています。外壁のレインボーカラーはペンキが塗られているのかと思いきやさにあらで、近寄ってみたら小さな色タイルが貼られていました。この煉瓦とタイルも、越野先生の発案かしら? 煉瓦は製紙工場のオマージュか。

2017/11/20

他山の札幌軟石? 苫小牧で時空逍遥 ②

 苫小牧市美術博物館学芸員Tさんの案内で市街を歩きました。
 市中心部に、軟石建物が3棟現存しています。
苫小牧 軟石建物① 大町
苫小牧 軟石建物② 錦町
苫小牧 軟石建物③ 錦町
 Tさんに建物の建築年代や由来を教えていただきました。 3棟とも建築年代は同時期です。

 軟石の表面仕上げはツルメ、外観ディテールも似通った蔵です。一棟は、袖壁が張り出ています。ブロークンペディメントの破風に印。軒蛇腹、胴蛇腹を廻しています。窓周りは比較的簡素です。鉄扉。同じ棟梁、職人が積んだのではないかと思いました。
 1棟は持ち主の伝承で札幌軟石とのことです。2棟は持ち主が替わっているため、軟石の出自はさだかではありません。しかし、軟石の色合い肌合いなどからして、札幌軟石の可能性が高いと思われます。
 
 札幌市内にある大学のサイトで、次のように記されていました(2017.11.20現在、引用太字)。
 ↓
 http://www.u-tokai.ac.jp/about/campus/sapporo/news/detail/post_316.html
 札幌軟石は、4万年前に発生した支笏湖周辺の大噴火に伴う火砕流が凝固した溶結凝灰岩で、札幌をはじめとして小樽や美瑛、苫小牧など広範囲で産出されてきました。

 おそらくいろいろな情報を寄せ集めた結果でしょう。誤った記述になっています。小樽や美瑛で産出された軟石は、支笏火山の溶結凝灰岩ではありません。記事本体は札幌軟石を応援する趣旨で、その心意気や良しなのですが、贔屓の引き倒しが残念です。
 そして、苫小牧でも札幌軟石が産出されたと書かれています。 はて?
 たしかに、溶結凝灰岩のもととなった支笏火砕流は、現在の苫小牧周辺にも堆積しました。が、苫小牧で軟石が採れたという話は、私は聞いたことがありません。学芸員のTさんも、それは否定していました。苫小牧市美術博物館で、地質が専門の館長Aさんにも展示物を見ながらご説明いただき、苫小牧周辺では軟石は採掘されていないことを確認しました。なぜか、ということは長くなるので後日にあらためます。

 こういう記述が電網上に載るのは、一種の“伝言ゲーム現象”ではないかと私は想います。 
 たとえば、次のサイトには以下のように記されています(引用太字)。
 ↓
 http://www.geosites-hokkaido.org/geosites/site0376.html
 約4万年前に支笏火山が巨大噴火を起こし、支笏カルデラが形成されました(現在の支笏湖の原型)。その噴火によって噴出された支笏火砕流堆積物は、札幌市内や千歳、苫小牧など広い範囲に堆積し、現在の火砕流台地をつくりました。

 日本地質学会北海道支部が作っている信憑性の高いサイトです。前掲某大学のサイトがこれを参照したかどうかは知りませんが、「支笏火砕流堆積物」が「苫小牧など広い範囲に堆積」したという情報が、「札幌軟石」「溶結凝灰岩」が「苫小牧など広範囲で産出」されたというふうに化けた可能性はありえます。

 もって他山の石と銘ずることとしましょう。

2017/11/16

パルプ工場の火照り 苫小牧で時空逍遥

 苫小牧に行ってきました。 
 来週、11月25日に苫小牧市美術博物館で開催される「美術博物館大学講座」でお話することになっていまして、その打合せのためです。テーマは「わが街の文化遺産 札幌軟石」なのですが、おもに苫小牧市民の方が聴きに来られます。苫小牧のことを知らずにお話するのは気が引けますので、にわか勉強を兼ねて足を運んだ次第です。
 担当学芸員のTさんが、市内をクルマで案内してくださいました。街の成り立ちを学芸員の方に実地で解説していただくという、贅沢な4時間でした。札幌軟石のことをそっちのけにして、苫小牧のことに興味が湧いてしまいました。横道脇道に逸れるいつもの悪い癖です。

 帰途に着いたとき、暮れ残る空を背に白煙を上げる製紙工場のシルエットが、なんとも幻想的でした。
苫小牧 製紙工場の夕暮
 Tさんにそのことを伝えたら、「宮沢賢治の感性ですね。賢治も、この風景を詩に詠んでますよ」と教えてくれました。

2017/10/14

江別・新野幌歩道橋

 江別市文京台、国道12号に架かる歩道橋です。
江別 新野幌歩道橋
 北翔大、札幌学院大の近くにあります。初めてこの歩道橋の名前を見たとき、「文京台は、もともと‘新’野幌だったんだなあ」と思いました。否、というくらいにしか、思わなかった。江別で野幌というと札幌からのJRの駅の順番で大麻よりも遠いので、ここに野幌という名前が遺ることを一瞬意外に感じたのです。
 ただし、大麻(←大曲、麻畑)はJR線の北側であり、南側は現森林公園(の江別市側)を含め一円、「西野幌」なので、実は意外でも何でもないのでしょう。私の地理感覚だと、西野幌のセラミックアートセンターなどのあたりは、大麻を通り越して野幌まで行って南へぐるっと廻った先です。しかし、文京台の市街地の先から森林公園を突き抜けると、目と鼻の先、とまではいわないまでも、かなり近い。
 そうはいっても、新野幌の「新」には、何かワケあり感が漂います。まわりを見渡したとき、文京台という地名に上書き・更新されているのに、古そうな歩道橋だけ「新」です。
 
 本年9月に、江別市郷土資料館主催の「バスでめぐる野幌・大麻地区の遺跡」というツアーに参加してここを通ったとき、ガイドの学芸員Sさんから、やはり歩道橋の名前のことを聞きました。江別では知る人ぞ知る歩道橋なんだなと、あらためて思ったものです。
 そして今日、野幌森林公園自然ふれあい交流館主催の講演会「野幌の森の戦後史」で、地域史家・西田秀子さんのお話を聴き、この地名に刻された戦後開拓の苦闘を知りました。

 自然ふれあい交流館でお話を聴いた後、西田さんの案内で森林公園内の開拓部落跡を歩きました。
野幌森林公園 中央線
 現公園のど真ん中に「新野幌第二部落」があったそうです。敗戦によって職・身分を失った軍人軍属とその家族が、国策により入植したといいます。

 離農跡地を教えていただきました。
新野幌第二部落 離農跡地
 農地に不適な重粘土の地質で、1946(昭和21)年に入植した116戸(新野幌第一~第五部落)のうち1965(昭和40)年に残っていたのは76戸、1/3が離農しました。 昭和40年代、開道百年記念事業による森林公園の復元植林とともに、残っていた入植者も移転します。

 教えていただいて初めて、人家のコンクリートの残骸があることを知りました。
新野幌第二部落 離農跡地 残骸
 前掲画像の赤い矢印の先をズームアップして撮りました。野幌森林公園は環境保全のため、遊歩道から外れて森林内には入れず、近くまではいけません。

 このほかにも、公園内に遺る謎の(?)廃墟のこともお聴きしましたが、やはり近づくことはできませんし、西田さんからは固く口止めされましたので、胸の内にしまっておきます。

2017/09/24

古き建物を描く会 第60回

 札幌建築鑑賞会「古き建物を描く会」第60回を催しました。

 今回描いたのは江別・野幌の元陶管工場の建物です。
江別 元陶管工場
 1951(昭和26)年に建てられ、1998(平成10)年まで使われた後、現在は商業施設として再利用されています(末注)。施設名のEBRIのEにウムラウト記号が付いているのはなぜ? Eにウムラウトってあるのか。‘江別の煉瓦’とeveryoneとかの語呂を合わせて、二つの意味を込めた記号かなと勝手に想像します。

 建物の傍らに、陶管とおぼしき瓦礫がころがっていました。かつてここの工場で焼かれたモノのようです。大正時代、野幌に来て製陶を始めた創業者は愛知県常滑の出身といいます。常滑は陶管の本場です。このかけらも、常滑の記憶を受け継いでいるのかもしれません。

 スケッチ後の恒例、青空展覧会です。
古き建物を描く会 第60回
 「描く会」は2002年に第1回を始めて以来15年、60回という節目を迎えることができました。12月に記念作品展を開催します。

 注:北海道近代建築研究会『道南・道央の建築探訪』2004年、p.111、江別市教育委員会『江別を歩く~歴史ある建造物を訪ねて~』2005年、p.75

2017/09/03

江別 北海道林木育種場 旧庁舎

 さわやかな秋晴れの下、江別の「北海道林木育種場(旧林業試験場) 旧庁舎」を見学してきました。
林木育種場 旧庁舎
 江別市郷土資料館主催の「再発見・江別探訪 バスでめぐる先史時代の遺跡」という行事に参加した一環です。

 といっても、この庁舎自体は先史遺跡と直接関係はないのですが、今回おもに江別市西部の遺跡を巡った行程上にあり、休憩を兼ねて立ち寄りました。登録有形文化財で、現在、江別市が管理しています。  

 いただいた江別市教委のリーフレットによると、建物は1927(昭和2)年の築です。1階は煉瓦造、2階は木造という混構造であることを初めて知りました。
 
 興味深いのは2階の外壁に化粧材が貼られていることです。
林木育種場 旧庁舎 ファサード
 今、私は「化粧材」と記しましたが、リーフレットには次のように説明されています(引用太字)。
 建築方法/ハーフテンバー(柱、梁、筋交等の軸組を全部組み立ててから、その間にセメントや石を詰め込んで壁をつくる建築法)を基調とした、当時としては斬新な洋風近代建築物です。

 ハーフテ(ィ)ンバー half timber というのは、ここに書かれているとおり、軸組すなわち構造材です。私は構造材ではなく、化粧材のように(つまりハーフティンバー、に)見えたのですが、さてどうでしょうか。
 いずれにせよ、林業試験場という出自のせいか、木材を生かしたのだなあという印象を受けました。正面玄関屋根の破風に貼ってあるのは、柾目の板のように見えます。

 ふだんは非公開という2階も、見せていただきました。
林木育種場旧庁舎 2階室内
 腰壁板や窓枠、鴨居の木材もまた、林業試験場ならではのふんだん感です。

 かと思うと、階段廻りは…
林木育種場旧庁舎 階段廻り
 親柱や手すりは、研出し人造石という技法でしょうか。

 手すりの端っこには…。
林木育種場 階段廻り 2階
 これも化粧材なのか、意味がよく判らないのですが、凝ってます。

 本件建物も含め、ガラス工芸館(旧石田宅)といい、旧町村牧場といい、旧岡田倉庫(ここは河川改修で危ういが)、旧ヒダ工場(エブリ)といい、江別市は歴史的建物の保存に積極的に取り組んでいるなあとあらためて思いました(札幌が積極的でない、というわけではありませんが)。

2017/05/26

江別・角山の農場

 札幌から江別に行くバス路線、といっても国道12号ではなく275号の途上に、「農場前」という停留所があります。
角山 バス停 農場前
 場所は江別市角山です。

 ここに国営の農場があります。
角山農芸学園 
 バス停の名前は、この農場に由来すると思います。
 彼方にサイロが2棟、望めます。コンクリートかスチール製のようなのですが、視認できません。中に入って確かめたい気持ちを抱きつつ、断念しました。
 
 入口のフェンスに「関係者以外立入禁止 角山農芸学園」という看板が掲げられています。
角山農芸学園 関係者以外立入禁止
 画像でご覧のように、フェンスといっても、横から簡単に出入りできそうなユルさなのですが、ここは面白半分遊び半分というのは通じない場所です。「サイロの建材を調べる」というマジメな目的が半分であったとしても、アポなしでいきなり中へ入っていくのはためらわれます。一見ユルく見えますが、ここはいわゆる「塀の中」なのですから。
 札幌刑務所『施設のしおり』によると、「角山農芸学園」の敷地面積は1,202,103㎡です。刑務所本所の面積は272,851㎡で、その4倍以上に当たります。広い。
 地図を見ていただくと実感できるのですが、この「学園」は三方を川に囲まれています。豊平川、旧豊平川、厚別川です。一見ユルそうな空間に見えて、実は地形を生かした立地なのだなあと、妙なところで納得しました。

 さて、この「学園」で現在、作業に従事しているのは何人くらいだと思いますか? 2013年に行われた同刑務所の「施設見学会」でお聞きしたところでは、当時1,323名の収容人員中、「4、5名」とのことでした。少ない。
 ちなみに、1982(昭和57)年には収容者1,111名中「農耕」が14名、「牧畜」が12名でした(同年12月3日現在、同刑務所『要覧』)。「農耕」と「牧畜」の全員が「学園」で作業していたかどうかは判りませんが、たぶん大半がそうだったことでしょう。なんでこんな資料を私が持っているかというと、三十数年前にも「塀の中」を見学したことがあるからです。当時の定員は1,062名で、それを上回る人員を収容していたのですが、2013年にはさらに200名以上増えているのですね。しかし、「学園」での作業者は減っています。社会の縮図といえるのかもしれない。サイロも、使われていないのだろうなあ。 

2017/05/21

石狩の空知郡の牧場に立てる碑眺め若妻想う

 碑文の左側に、円柱形のオブジェ?が置かれています。
北村 啄木歌碑
 私はバターの缶をモチーフにしたのではないかと思ったのですが、どうでしょう。

 この地域の歴史を調べている人に話したら、「その説は初めて聞いた」と言われました。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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