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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/08/14

滝川・明神町の軟石建物

 滝川の市街で見かけた軟石物件です。
滝川 国道38号沿い Ⅰさん宅軟石倉庫②
 市内明神町、国道38号沿いで確認しました。

 開口部は見たところ、建物外壁の長辺面に一箇所のみです。
 滝川 国道38号沿い Ⅰさん宅軟石倉庫①
 建物の短辺面に楣らしきコンクリート材があり、開口部の痕跡を窺わせますが、塞がれています。 

 開口部のある壁面の左右両端に、ほぞ穴のような凹みが残っています。たぶんこの面に隣接して主屋があったのでしょう。商家に付設された蔵の気配です。屋根は波形鉄板の陸屋根ですが、たぶん元は切妻だったのではないかと想像します。軒のコンクリートも、後からの造作か。
 
 軟石の表面はツルメ仕上げです。表面を見たかぎり、札幌軟石と同じような溶結凝灰岩のようなので、私は冒頭から軟石と記しています。が、札幌軟石か。
 現在、本件の周囲は駐車場になっていて、所有者とおぼしき連絡先が看板に書かれていたので問合せてみました。お尋ねしたのは、「いつ建てられ、どのような用途で使われたか?」です。
 持ち主のⅠさんによると、建てられたのは先々代の頃だと思うが、すでに先々代も先代も死去しており、建築年代は判らないとのことでした。電機関係の商売をしていて、その倉庫として使われていたそうです。Ⅰさん曰く「(建てられたのは)そんなに古くはないと思うのですが」ということですが、Ⅰさんが言う「そんなに古くはない」というのは昭和戦後期と察せられました(末注)。
 
 軟石の出自までは及びません。札幌軟石と比べて、「決定的に違う」という様相は見受けられません。滝川という地理的環境からすると、美瑛軟石という可能性があります。私は札幌以外の道内産軟石に疎いので、仮に札幌軟石ではないとしても「ではどこの軟石か」までは見極められません。ここは道内軟石コレクターのSさんに鑑別していただきたいところです。

 注:国土地理院サイトで空中写真を追ってみたが、最も古い1948年米軍撮影には写っていないようである。
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2018/08/13

滝川の珍景逍遙

 滝川市の美術自然史館の近くにある建物です。
滝川 元航空科学館 近景
 一見したところ、物置のような状態になっています。
 おぼろげに記憶するところ、二十数年前に来たときは公開施設だったようです。たしか航空関係の集客施設だったような気がします。てっぺんに飛行機の模型が乗っかっています。

 私は、宇宙船が地球に着水帰還するときのカプセルを想起しました。
滝川 元航空科学館 全景
 屋根が赤錆びているのも、大気圏に突入して高熱を受けた表現か。
 ということではなく、これは風雨にさらされて老朽化し、修繕されていないせいでしょう。

 帰宅して手元の資料を見返したら、本件は1983(昭和58)年にオープンした「航空科学館」でした(末注)。いつから物置化したかは判りませんが、石狩川の河原の滑空場にその後作られた「スカイミュージアム」に機能が移転したのでしょう。

 その滑空場です。
滝川 滑空場 2003年
 2003年、中学時代からの友人のM君がグライダーに乗りに来たときに撮りました。滝川はグライダーのメッカで、全国から愛好者が集うそうです。小型飛行機の免許を持つM君もその一人で、当時私はM君が操縦する機に同乗を誘われたのですが、辞退しました。時空逍遥といいながら、実際の空を逍遥するのはちょっと勇気がなかったのです。

 滑空場とは関係ありませんが、市役所の近くのお寺です。
滝川 光曉寺 なんちゃって伊東忠太
 なんちゃって伊東忠太。築地と同じお西さんの寺らしい。

 いろいろユニークな見どころのある滝川です。

注:『滝川市市勢要覧 滝川未来への飛翔 空へ』1991年、p.31、中空知広域市町村組合『なかそらち観光通信 BIG SKY PRESS』1990年、p.16 

2018/08/12

滝川 中川かなもの 今昔

 お盆恒例で空知管内奈井江町にある妻の実家に墓参に行ってきました。帰途(といっても反対方向ですが)、滝川に寄り道し、同市美術自然史館で開催されている「高畑利宜のイシカリ探検とアイヌ美術の世界」展を観覧しました。明治初期に高畑が調べて遺した石狩川流域の古地図など貴重な史料については別に譲るとして、時空逍遥した市街のことを綴ります。

 目抜き通りにある「中川かなもの」です。
滝川 中川かなもの
 シャッターが下りていて、営業している気配がありません。

 本年4月5日、破産開始決定されたという貼り紙が貼られています。
滝川 中川かなもの 破産貼り紙
 滝川といえば中川かなものだったのですが。

 往時の写真を載せて、在りし日を偲びます。
滝川 中川かなもの 2003年
滝川 中川かなもの 1991年
 上は2003年、下は1991年撮影です。
 東芝の看板が掲げられていましたが、いまはもう白物家電を作っていないでしたっけ。
 この建物は1890(明治23)年、今井呉服店の滝川支店として建てられました(末注①)。同時期の札幌の丸井さんの面影をとどめています。

https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/photo/l/0B003260000000000.jpg

 1890年というのは滝川のエポックメーキングの年だったようで、屯田兵が入植し、「上川道路」(現国道12号)の岩見沢-旭川間が開通しています(末注②)。

 アルバムをめくっていたら、向かいの建物の古写真も出てきました。
たくぎん滝川支店 1991年
 同じく1991年の撮影です。

 こちらは今、こうなっています。
北洋銀行 滝川支店
 新旧を比べると、1991年当時は屋上部にパラペットやらペントハウスのようなものが見えましたが、現在はありません。取り除かれたこれらが創建時からのものだったかどうかは知りませんが、現在のプロポーションに不自然さを感じてしまいました。それにしても、コリントオーダーの柱型が立派ですね。立派といえば右方の高層ビルは市役所で、これは旧い写真ではまだ建っていません。 

 注①:『旭川と道北の建築探訪』2000年、p.97
 注②:『新北海道史年表』1989年、p.284

2018/07/27

江別・旧町村農場 ③

 江別の旧町村農場を1993(平成5)年に訪ねたとき(昨日ブログ参照)の資料を見直したら、こんなモノも出てきました。 
町村牛乳 古いポスター
 町村牛乳の古いポスターです。
 
 農場の所在地が「北海道江別市対雁94」と書かれています。移転前の、しかも旧町名です(現在は「いずみ野25番地」)。二十余年前に訪ねたとき、牛舎か元住宅に貼られていたものでしょう。“廃屋”状態の建物にあって、「どうせ捨てるのなら…」と記念に持って帰りました。当時は「そんなモノ、後生大事にしてどうするの?」という空気でもありましたが、今となっては貴重な史料だと思います。
 すでに時効かもしれませんが、占有離脱物横領か? 弁解がましく申し上げると、こういうモノは第三者が“よっこする”(北海道弁)ことででむしろ命脈を保つことがあります。しかり。私の行為は“よっこ”でした。現地で放置されても、価値が未分明のまま廃棄されてしまうことがあります。
 いい例が(否、悪い例か)、先月リニューアルオープンした「旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮」です。再整備される前、ここにはやはり古いポスターがありました(6月16日ブログ参照)。数少ない三菱鉱業寮当時の“遺品”です。先日関係者に「ポスターがあったはずなのですが、どうなりました?」とお尋ねしたところ、再整備のドサクサで捨てられてしまったらしい。結果、現在建物に遺る三菱鉱業ゆかりのモノは、母子像のみです。
 
 ポスターとは関係ありませんが、旧町村農場の裏側に回ってみました。
旧町村農場 牛舎 背面
 札幌軟石のサイロが遺っています。1928(昭和3)年、農場がこの地に来る前、樽川(現石狩市)にあったときのサイロを移築したものです。前掲ポスターに写るサイロは煉瓦造で、これは江別に来てから建てられました。煉瓦と軟石の2棟が建っているのは、建てられた年代と土地柄に由るのですね。

 さて、お見せしたかったのはサイロではなく、手前の電柱です。
旧町村農場 電柱 第2ファーム幹 
 「第2ファーム幹」。電柱は土地柄を顕わしていました。

 ポスターは、江別に返しに行こうかしら。

2018/07/26

江別・旧町村農場 ②

昨日ブログの続きです。
旧町村農場 町村敬貴像 横側
 旧町村農場の町村敬貴像は、もともと道立産業共進会場(札幌市豊平区月寒東3条11丁目)にありました。

 共進会場の一室には「北海道酪農展示室」も設けられていたといいます。展示室に置かれていたモノはどこに行ったのでしょうか。

 旧町村農場にある元住宅を訪ねました。
旧町村農場 住宅
 町村農場のあゆみ、町村金弥、町村敬貴らが遺した足跡が展示されています。

 事務室で当番をしていたのは、偶然にも旧知のⅠさんでした。Ⅰさんは江別の煉瓦の研究者兼実践家で、「N43赤煉瓦塾」という市民活動を繰り広げています(2017.5.13ブログ参照)。Ⅰさんにかくかくしかじかお尋ねしたところ、「共進会場にそういう一室(酪農展示室)があったことは聞いたことがあるが、その展示品がここに持ってこられたかどうか…」と、さだかでないお返事でした。「ここ(旧町村農場)に展示されているものは、そんなに多くないからねえ」と。Ⅰさんはあくまでも現在の管理人で、1996(平成8)年の開設に携わってはいないので、当時のことをご存じではありません。

 産業共進会場を所管していた北海道の農政部に訊いてみました。返ってきたのは「平成7、8年頃、江別市が旧町村農場を整備するということで、市との間で(展示物の)譲渡のやりとりをしたという記録が残っていました」という答えです。「ジオラマや古い放牧の写真などがあったようです」とも。実際に江別市に移管されたかどうかははっきりしていないのですが、このお話からすると、展示物は旧町村農場に移されたものと私は推認しました。

 現在の旧町村農場の展示室には、このような絵図が掲げられています。
旧町村農場 展示 俯瞰絵図
 農場を俯瞰した絵図です。 
 もしかしたら、これは共進会場にあったのだろうか。といっても、たぶん元は町村農場にあったのでしょうから、里帰りですか。
 
 本題とは関係ありませんが、私は旧町村農場を1993(平成5)年に訪れたことがあります。
江別 旧町村農場 牛舎 1993年
 農場が1992(平成4)年に江別市篠津へ移転して間もない頃です。江別市が取得して保存活用するという計画をお聞きしていました。

 現在の風景と較べてみると…。
旧町村農場 牛舎
 牛舎の外壁の色が変わっています。現在の色が創建時の色だったのでしょうか。町村敬貴像はまだ立っていません。

 牛舎の2階も見せていただきました。 
江別 旧町村農場 牛舎(内部) 1993年
 バルーンフレーム? 柱の無い大空間が印象的でした。

 現在は2階までは入れないと思います。実はこのとき案内してくださったのもⅠさんです。当時、江別市はこの種の“手つかず”の歴史的遺産の整備を進めている最中でした。それらの多くはいわば都市秘境(一般に立ち入れない場所)だったのですが、Ⅰさんの神通力で探検させてもらうことができたのです。
 余談ながら、これらの写真を入れたミニアルバムを開いたら、牧場の薫りがぷーんと漂ってきました。サイレージと牛さんの排泄物が入り混じったような、あの匂い。写真なのに、不思議です。

2018/07/25

江別・旧町村農場

 江別市いずみ野の「旧町村農場」に足を運んだのは、八紘学園絡みです。 
江別 旧町村農場 入口
 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編の下調べで学園の歴史を調べたとき、町村農場とのつながりを知りました。
 
 町村金弥、敬貴親子は北海道酪農の先駆者なので八紘学園とつながっていても何ら不思議ではないのですが、ここでいうつながりはいわば二次的な関係を指します。「二次的な」というのは具体的には、学園の敷地の一画に建てられた北海道立産業共進会場と町村農場の関係です。
 『八紘学園七十年史』2002年の共進会場の項に、次のように記されています(p.412)。
 一階の展示室には四十八年八月、北海道酪農会(ママ)の草分け「町村敬貴記念事業の会」が中心となって寄贈した「北海道酪農展示室」も設けられ、文字通り酪農の殿堂となった。

 共進会場にそのような展示室があったことを私はうかつにもまったく知らなかったのですが、建物が姿を消した今(6月12日ブログ参照)、展示物の行方が気になりました。そこで八紘学園の生き字引S先生にこのことを質したところ、「町村さんの銅像はたしか、江別に持っていかれた」とお聞きしたのです。江別で町村さんの像といえば、「旧町村農場」に敬貴像が立っています。

 かくして江別を訪ね、銅像をあらためて鑑みることとしました。
旧町村農場 町村敬貴像
 銅像の左側には碑も見えます。  

 碑には、像建立の由来が刻まれています。
旧町村農場 町村敬貴像 銘鈑
 「昭和四十八年十月 町村敬貴記念事業之会 会長 佐藤貢 謹書」です。

 銅板に刻まれた碑文に、次のくだりがあります。
 翁は晩年近代的共進会場の建設に執念し、完成を前に忽然逝去せらる 依て関係者相諮り 記念展示室を設けて偉業を讃え 銅像を建立して 翁の遺徳を顕彰す

 前述『八紘学園七十年史』によると、道立産業共進会場は、学園創設者・栗林元二郎が構想した「農場公園」に共鳴した北海道知事(当時)の町村金五により実現されました(p.411)。町村敬貴は町村金五の長兄です。兄の執念を弟が実らせた。

 前掲銅製の碑文の下には、黒い地で「1996年(平成8年)月寒道立共進会場より移設」と書かれています。町村農場は1992(平成4)年、この地(江別市いずみ野、旧地名は「対雁」)から篠津に移転しました。1996年というのは「旧町村農場」が一般公開された年です。「酪農の殿堂」たる共進会場が今は無いことを想うと、銅像は落ち着くべきところに帰ったというべきかもしれません。

 ところで、銅像本体の台座にも小さな銘鈑が嵌められています。
町村敬貴像 銘文
 「町村敬貴像 峯孝作 台座 日高石 八紘学院 佐藤貢書」と。
 栗林先生蒐集の日高石(7月14日ブログ参照)は、こんなところにも活かされていた。

 さて、町村敬貴像はたしかに共進会場から移されたことを確認しましたが、「展示室」はどうなったのだろう。
 

2018/06/14

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 - 江別市立大麻東中学校

 江別市の大麻東中学校です。
大麻東中学校 校舎
 北海道百年記念塔が校歌に歌われ、校章に描かれています(本年4月27日ブログ参照)。

 記念塔を校歌・校章に用いる学校としては最北端の同校を訪ねました。実は私は、ひと月前にもここに来ています。そのときは学校周辺をウロウロしただけですが、記念塔の方を眺めたものの塔の姿を視認することはできませんでした。「もしかしたら校舎の上階からだったら見えるかもしれないなあ」と想いながら、その機会を願っていたところです。
 
 このたび、正々堂々と校内に入らせていただきました。前にも記したように、保護者でもない一般人、しかも私のような小心者にとって、学校は秘境です。その私が、憚ることなく立ち入りました。
 というのは、江別市が年に2回実施している「小中学校一斉公開日」だったのです。私はそのことを「まんまる新聞」というフリーペーパーで知りました。同紙は厚別区と江別市を中心に宅配されていて、道新や全国紙に載らないような(末注)地域の行催事が伝えられています。一段のベタ記事にお宝な情報が盛り込まれているものですね。

 さて、同校の校門から記念塔の方を眺めた景色です。
江別 大麻東中学校から記念塔方面を望む
 前述したとおり、記念塔は見えません。

 ♪世紀の塔に顕なる 先人の血汗われあり…♪ (同校校歌三番出だし) 
 教頭先生にかくかくしかじかお願いしたところ、「校舎の3階からだったら見えると思う」とのことでした。

 そこで、3階の空き教室に上がらせていただきました。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔を望む
 「世紀の塔」は顕に望めました。

 カメラをズームインします。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔 拡大
 てっぺんは、外側にナナメカットされています。

 同校の校章です。
江別 大麻東中学校 校章
 これだけを見たら私は、記念塔がモチーフとはただちに認識できなかったかもしれません。
 同校の公式サイトによると、「三稜は百年記念塔とペンを表し、記念塔は先人の偉業を偲ぶと共に先端は将来の発展を意味します」。
 たしかに、校舎から見える記念塔と同じフォルム(先端は外側へのナナメカット)です。


 例によって、地理院サイトから色別標高図を作ってみました。
色別標高図 大麻東中学校-百年記念塔
 25m以下から5mごとの9段階で色分けしました。赤いが大麻東中学校、白ヌキの六角形が記念塔です。学校から記念塔はほぼ真南に望めます。

 断面図です。
断面図 大麻東中学校―百年記念塔
 直線距離にして3.7㎞。標高は学校が26.8m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。手前の文京台あたりが記念塔とほぼ同じ標高なので、やはり校舎の上階から塔のてっぺんが見えるという地形ですね。
 教頭先生からもお話を伺うことができ、貴重な経験でした。江別市教育委員会の企画に感謝します。札幌の小中学校も、私が知らないだけで、かような公開日があるのだろうか。

 さて、校歌・校章の百年記念塔はだいたいこんなものだろうと私は思っていたのですが、さにあらずでした。まだ、奥が深かったのです。[つづく]

 注:各紙の地域版の記事が、江別市と厚別区(札幌市)では異なるのかもしれない。

2018/05/16

江別・大曲

 一昨日ブログに記したとおり、江別市の地名「大麻」は「大曲」と「麻畑」に由来します。

 「大曲」という地名は、大正5年地形図に出てきます(末注①)。
大正5年地形図 江別  大曲
 ここで道(江別街道)が大きく曲がっています。

 なぜここで大曲か、地形図を見て悟りました。札幌から北へ進むと、ここで沢地にぶつかります。等高線のヒダがかなり混みあっていて、起伏の激しさが想われます。

 現在の標高図です(国土地理院サイトから作成、5m以下から5mごと色別、陰影付き)。
5m以下から5mごと色別 江別 大曲
 かつての街道は道道「大麻東雁来線」として直線化されています。

 「大曲」の現況です。
江別 大曲 現況
 前掲色別標高図に赤い○で囲った地点です。札幌側から江別方向を望みました。旧道は、画像左方へ大きく曲がっていました。 直線化されている現在の道道は、なだらかな起伏です。なぜここで大きく曲げる必要があったか、現況では実感できません。

 「大曲」の実感はできないのですが、ここは実は江別でも古くから人が住んでいたところです。これもつい1年前に知ったことの受け売りですが、「古くから」といって、いつごろだと思います? 縄文時代早期の住居跡です。のみならず。なんと旧石器時代!まで遡ります(末注②)。画像中央に写るコンビニの前あたりで、それらしい石器が発見されました。旧石器とか縄文早期といわれてもなかなかピンとこないのですが、紀元前11,000年から同3,000年です。太古、この沢地が人びとのくらしに向いていたのですね。その名残が大曲というわけです。コンビニがここに立地するのも、有史前の記憶を継承しているのかもしれない。というのは穿ちすぎ。

 沢地は、道道から東方の「2番通り」側のほうで地形を色濃く留めています。大麻西公園です。
江別 大麻西公園
 これが「大麻沢町」という地名の由来だということも、最近実感しました。

 1947(昭和22)年空中写真です。
空中写真 1947年 江別 大曲
 「大曲」地点まで、まだ沢地の地形を留めています。

 この空中古写真や前掲古地図をアタマに入れて道道を通ると、痕跡が察せられます。
江別 道道大麻東雁来線 大曲 沢地の痕跡
 前掲色別標高図の赤い○の上のあたりで、画像左方の街路樹が道道です。畑地の奥に雑木林が見えます。この木々がどうも沢地の名残のようです。1万年以上前から、人が暮らしていたのだなあ。

 実は、ここまでは前置きでして、本題は大曲の旧道をお伝えすることです。旧道が今でも遺っていることも、私はこのたび初めて知りました。
 前掲標高図の赤い○の大曲を左へ、ぐいと大きく曲がって進みます。
江別 大曲①
 
江別 大曲②

江別 大曲③

江別 大曲④

江別 大曲⑤
 旧道は、こんどは右へ大きく曲がって「4番通り」に通じます。それまでずっと、砂利道が続きます。明治・大正の頃の江別街道はこんなだったんだなあと想いを馳せることができました。

 注①:「大曲」の地名は明治期の江別村の地図にも書かれている。
 注②:大麻13遺跡。『江別の遺跡をめぐる』2010年によれば、「旧石器時代末期の可能性が高」い(p.100)。

2018/05/14

江別・大麻の電柱物件

 江別市の「大麻」という地名が「大曲」「麻畑」に由来することを知ったのは、私はわりと最近です。せいぜい10年前くらいでしょうか。それまでは、「大麻が自生していたので、地名になったのかな~」くらいにしか、思っていませんでした。
 その「大曲」と「麻畑」についても、「道が大きく曲がっていたんだろうな」「麻(アマ)を作ってたんだろうな」程度の認識です。「なんで、ここで曲がったのか?」「なんで、麻を作ったのか?」には、今の今まで至ってませんでした。
 これらのことはまた機会をみて綴ることとして(そういうテーマがどんどん増えていく…)、 今回は大麻高校の近くで見つけたこちらの物件について世に問いたいと思います。

 電柱「合場幹」。
電柱 江別 大麻 合場幹
 電柱「第2合場幹」。
電柱 江別 大麻 第2合場幹

 採集地を確かめておきます。
現在図 電柱 合場幹、第2合場幹 所在地
 「合場幹」は緑色の、「第2合場幹」は青いのあたりです。町名でいうと前者は大麻西町、後者は大麻ひかり町になります。 赤いが大麻高校です。

 この「合場」が、私には判らない。固有名詞?普通名詞? 人名?地名? たぶん「西町」とか「ひかり町」という現在の町名より長寿な物件だとは思います。ゼンリンの古い住宅地図とか江別市史をひもといたのですが、これだというものに当たりませんでした。ちなみに、本件は札幌市との市界に近いのですが、札幌市側では確認できません。江別・大麻に詳しい方、なにとぞご教示ください。

2018/05/11

野幌丘陵の先端

 大麻高校の近くにある煉瓦の納屋です。
江別 大麻ひかり町 煉瓦の納屋
 腰折れ屋根、煉瓦は長手積み。
 後景彼方に北海道百年記念塔を納めて撮ることができました。持ち主が近くで畑仕事をされていたのでお訊きしたところ、1956(昭和31)年の築で、牛舎だったとのことです。酪農は1989(平成元)年くらいまでしていた由ですが、主としては昭和40年代まででした。ちょうど大麻団地ができる頃ですね。

 ところで、この納屋の手前が法(のり)面になっていて、一部コンクリート擁壁が組まれています。その手前は現3番通り、旧国道です。
 この段差が気になりました。ここから彼方の記念塔へは昨日ブログで示したように(途中沢が横切っていますが)、ずっと野幌丘陵の上り勾配です。だから高低差があっても不思議ではないのですが、私はある地図を思い出しました。

 国土地理院「都市圏活断層図 札幌」です。
都市圏活断層図 札幌 江別
 前掲画像の場所を黄色の矢印で示しました。

 これはなまなましい地図です。濃い朱色のアミがかかり矢印(←)が幾重に連なっている一帯は「活断層(活撓曲)」を表しています。矢印の先の朱色の太い破線は「活断層(位置やや不明確)」です。
 活断層(活撓曲)(かつとうきょく)というのは、凡例の説明によると「活断層のうち、変位が柔らかい地層内で拡散し、地表には段差ではなくたわみとして現れたもの。たわみの範囲及び傾斜方向を示す」。

 前掲画像に示した段差は人工的な法面で、断層崖ではないのでしょうが、私には活断層を想起させたのでした。広い意味では、断層の撓(たわ)みの一部といえるかもしれません。
 正確な位置は不明確ながら、ほぼ旧国道にそって活断層が走っています。というか、撓みの先端にあたる線に沿って、旧国道が開かれたといえましょう。旧国道から東南東は野幌丘陵、反対側の西北西は扇状地です。

 野幌丘陵が西北西に向かって、現在進行形でぐいぐいと石狩低地帯に大地を押しているような印象を地図から受けました。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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