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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2021/02/16

ストーブ「ゆかりの地」の意味

 白石区平和通5丁目の「やなぎ公園」です。
やなぎ公園
 昨年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」秋の編では、この街区公園も愛でました(末注①)。

 実は、ここも「平和の森」(末注②)と同じく、私は気に残っていたことがあります。
やなぎ公園 フクロクストーブをかたどった水飲み場
 公園の水飲み場にかたどられたストーブです。

 園内の説明板に由来が書かれています。
やなぎ公園 説明板
 全文を以下、引用します(太字)。
 この場所は、白石の歴史を代表する、道庁赤レンガの『白石レンンガ』や、石炭ストーブの原点となる『ふくろくストーブ』にゆかりのある場所なので、レンガとストーブをテーマにして、公園を作りました。
 みなさんも『今とむかしが出会う庭』でたのしくあそんでくださいね!


 遠足のときに参加者に配った資料には次のように記しました。一部引用します(太字)。 
 (前略)フクロク(福録)ストーブは、鈴木煉瓦社長・鈴木豊三郎の娘婿である福岡清春が考案したもので、この地で製作された。 (後略)
 *フクロクストーブ:大正時代末期に改良開発された「貯炭式ストーブ」で知られる。それまでの石炭ストーブよりも給炭の頻度を減らすことができ、煤煙や粉塵も改善され、寒冷地の住宅の暖房に大きく貢献した。わが国における第1号は北海道博物館に収蔵されている。

 前述の「気に残っていたこと」というのは、この記述です。フクロクストーブが「この地で製作された」のは史実か。上掲の現地説明板には「『ふくろくストーブ』にゆかりのある場所」とありますが、「この地で製作された」とまでは書かれてません。郷土史の資料での言及は以下のとおりです(末注③、太字、原文ママ)。
 (鈴木煉瓦社長の)長女八重の夫で鉄道技師であった福岡清春が福禄ストーブを発明し、それが大当たりとなった。その結果煉瓦製造には終止符をうった理由の一つである。
 今は「やなぎ公園」として当時の面影を止め、公園のところどころに福禄ストーブをかたどった模型が置かれている。最近まで使用した石炭ストーブの一つ「福禄ストーブ」ゆかりの地がここである。


 やはり「ゆかりの地」です。「福岡清春が福禄ストーブを発明し」た場所がここだとは述べてません。フクロクが「この地で製作された」のは、何に拠るのか。前述の遠足資料の当該箇所は私の作文です。にもかかわらず、根拠をただちに思い出せません。いよいよ耄碌が昂じたか。本件も「平和の森」と併せ、先日、白崎繊維工業の社長さんに尋ねました。

 注①:同会公式ブログ2020年10月7日参照。拙ブログ2020年10月13日同年10月17日に関連事項記述
 注②:本年2月9日2月11日2月14日各ブログ参照
 注③:白石の歴史を語る会『歩いてみる白石-歴史ウォッチング- 白石・東札幌地区』1997年、p.22
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2021/02/14

平和の森 ③

 2月11日ブログの続きです。
 平和通の商業施設の駐車場に残る樹々は「平和の森」と呼ばれてきたのか。すぐ近くの白崎繊維工業の社長さんにお尋ねしました。「オヤコわた」の白崎さんです。白崎さんにお訊きしたのは、目と鼻の先で生まれ育った方だからにとどまりません。ほかならぬ「平和の森」という名前を冠して、地域の活動を続けておられるからです。「平和の森会議」です。商業施設の樹々にちなんで命名されたのだろうか。
 
 結論を先に言うと、白崎さんの答えは否、でした。白崎さんは自宅の目の前にある旧札幌石炭坑爆発予防試験所の敷地を遊び場にしてきたのですが、敷地の樹々を「平和の森」と呼び慣わしてはいなかったそうです。
 では「平和の森会議」は、では何に由来するのか。名付け親の白崎さんによると、「人のつながりを“森”という言葉に込めた」とのことです。白崎さんは長年、JR白石駅の建替えに伴う周辺整備や駅を活用するイベント、高齢者が集う場づくりなどを繰り広げてこられました。その思いを託したのが「平和の森」です。ならば2005(平成17)年の新聞記事(2月9日ブログ参照)で報じられた「地域で『平和の森』として親しまれた森林」という伝説は、どのように生まれたのでしょうか。謎は残ります。

 「ところが」と、白崎さんは言われました。
「平和の森」を冠したクリニック
 近年、近くに「平和の森」と冠したクリニックができたのです。私もそのクリニックは目にしていました。名前が独り歩きしているのは慶ばしいことです。

2021/02/11

平和の森 ②

 2月9日ブログの続きです。
 白石区平和通の商業施設の駐車場に、イチイの老木と背の高いマツの木が残っています。「平和の森」と呼ばれてきたそうです。この愛称は、いつごろから呼ばれたのでしょうか。
 まず、空中写真でこのあたりを振り返ります。

・1985(昭和60)年
空中写真 1985年 爆発予防試験所周辺
 黄色の矢印を付けた先が2月9日ブログで伝えたイチイの木です。このときはまだ、通産省の施設(札幌石炭坑爆発予防試験所の後身)でした。道道白石停車場線に面して、高木が並んでいます。道道に直交して南西側に通じていているのが平和通です。平和通側の外構にも植栽が窺えます。

・1976(昭和51)年
空中写真 1976年 爆発予防試験所周辺

・1961(昭和36)年
空中写真 1961年 爆発予防試験所周辺

・1948(昭和23)年
空中写真 1948年 爆発予防試験所周辺

 平和通が見えるのは1976年の写真からです。地名としての「平和通」は、この地域で1961年から実施された区画整理事業に伴って付けられました(末注)。2月9日ブログで引用した新聞記事の「地域で『平和の森』として親しまれた森林」は、早くても平和通という地名ができてからといえましょう。空中写真を見ると、外構の緑量が増えてきているのは1970年代と思われます。ただ、これを森林とまでいえるか。「地域で『平和の森』として親しまれた」というのは、どこまで事実だったか。

 注:『札幌の地名がわかる本』2018年、p.67

2021/02/09

平和の森

 白石区平和通の大型商業施設です。
ビッグハウス白石店 爆発予防試験所名残の樹々
 駐車場内に、背の高い樹木が数本、枝を広げています。かつてここにあった「札幌石炭坑爆発予防試験所」の敷地の名残です。

 昨年秋、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でこのあたりを歩いたとき、参加者とともに愛でました(同会公式ブログ2020年10月7日参照)。2005(平成17)年、商業施設の開業にあたり、経営者の存念で保存された樹々です。当時の新聞報道を、保存していたスタッフNさんから見せてもらいました。「古木残し 店も変化」と題されたその記事の全文を以下、引用します(太字)。
 「駐車場6台分のスペースが無駄になったが、それよりも大切なものがある」。アークスの横山清社長(70)は、9月29日オープンしたビッグハウス白石店(札幌市白石区平和通3)の敷地内にそびえる樹齢300年のイチイに誇らしげだ。地域で「平和の森」として親しまれた森林の名残。前身のフレッティ白石店時代から支持してくれる年配の住民の心情に配慮し、切らずに残すことにしたのだという。白石店の内装はベージュを基調とし、過激な安売り店のイメージとは異なる落ち着いた趣も。「赤や黄色のけばけばしい色使いはもう時代遅れ」。高齢化が進む中、「店も変化が大事」と心得ているようだった。(北海道新聞2005年10月7日)
 1段20行あまりの小さな記事です。この記事がなかったら、私はこの地が爆発予防研究所の跡地であることは知っていても、外構の植栽の意味は見過ごしていたでしょう(末注①)。こういう記事を見逃さないスタッフNさんにも敬服します。
 話はここで終わりません。実は気になっていたことがあります。引用の記事に「地域で『平和の森』として親しまれた森林の名残」とあることです。「平和の森」という愛称はいつごろから呼ばれていたのだろうか。先日、このすぐ近くで生まれ育った白崎繊維工業(末注②)の社長さんにお会いした際、お訊きしました。

 注①:札幌市緑の保全と創出に関する条例に基づき、「1,000平方メートル以上の敷地で現状を変更する行為について、市長の許可が必要となり、緑化等が義務づけられ」ている。札幌市サイト「緑保全創出地域制度(札幌市緑の保全と創出に関する条例)」ページ参照↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/midori/kisei/hozensyousai/hozensyousai.html
 本件商業施設の敷地面積は6,000㎡強。同条例によると、本件施設のある地域では敷地の10%または20%の緑化が義務づけられる。その際、「既存樹木の積極的活用」は行政サイドからも指導されるであろう。逆に、高さ4m以上の樹木の伐採は許可を要する。くだんのイチイは4m未満のようだが、条例を順守するためには結果的に、既存樹を残すほうが新たに植栽するよりも低コストとなることもありうる。もちろんだからといって、前述引用の新聞記事の美談に水を差すつもりは毛頭ない。
 注②:2020.3.5同3.6ブログに関連事項記述

2020/10/17

白石の鈴木煉瓦は東京駅に使われたか?(続)

 10月13日ブログで取り上げた白石区役所発行の冊子や現地の看板の記述について続報します。明治時代の鈴木煉瓦が東京駅の駅舎に使われたと記されていることです。

 同じく白石区役所が発行する『マンガ史 白石ものがたり』を読みました。
マンガ史 白石ものがたり2001改訂表紙
 白石区の歴史がわかりやすく描かれています。

 その冊子の、鈴木煉瓦のことを取り上げたページです(p.31)。
マンガ史 白石ものがたり2001改訂p31
 矢印を付けたふきだしの箇所に、次のように書かれています(引用太字)。
 黄色の矢印:道庁の赤レンガやサッポロビール園(旧サッポロビール第二工場) さらには東京駅まで、白石レンガが使われているんだよ
 赤い矢印:じゃあ東京まで白石レンガは有名だったんだ すごいな

 同じ冊子の2011年改訂版で当該箇所に当たりました(p.33、末注)。 
マンガ白石ものがたり2001改訂p33
 黄色の矢印:道庁の赤レンガやサッポロビール博物館園(旧札幌製糖工場)に白石レンガが使われているんだよ
 赤い矢印:僕、行ったことがあるよ
 東京駅の駅舎に使われたことが、改訂版では消えています。訂正の意図は明らかです。

 同区役所ウエブサイトの「マンガ 白石の歴史ものがたり」には現在、前掲2011年改訂版が掲載されています。

http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/shokai/history/documents/p30_33.pdf
 上掲の画像は、私が先日区役所で頂いたコピーから撮ったため白黒ですが、実際に刊行されたのはウエブ上に載っているとおりカラーです。すでにカラーの実物が払底しているとのことでした。
 10月13日ブログで取り上げた冊子『白石歴しるべ』の最新版は2005年改訂で、ウエブ上もその版が掲載されており、その後は改訂されていないようです。2005(平成17)年時点だと、マンガ版もまだ東京駅が残っています。『歴しるべ』は結局、古い情報がまだ残っているということです。現地の看板も、修正まで手が回らないのでしょう。とまれ、マンガ版の新旧両版を追うことで、情報の更新すなわち認識の変化がわかりました。
 なお、このマンガは前述したとおりわかりやすく描かれており、白石区の歴史を知るためにはもっとも手っ取り早い書物だと思います。だからといって内容を手放しで肯定するわけではありません。批判するということでもないのですが、できれば機会を見てコメントさせていただきたいと思います。

 注:本のタイトルは『マンガ 白石の歴史ものがたり』と変更されている。

2020/10/13

白石の鈴木煉瓦は東京駅に使われたか?

 札幌建築鑑賞会の行事「大人の遠足」を今週末16日と18日に控えています。例によってというべきか、当日参加者に配布する資料を泥縄の突貫工事で作っています。
 先月のブログで「世の中の動きに呼応するかのように、札幌建築鑑賞会も私も再活性化しつつあります」と記しました。鑑賞会だけでなく、他団体主催の行事も再開されているようです。私も先月来、「原稿書きませんか?」とか「テレビに出ませんか?」とか「取材を受けてくれませんか?」とか「講演会で話をしてくれませんか?」とか、いきなりお呼びがかかるようになりました。その前の半年がほとんど引きこもり状態だったのとは対照的です。と先日鑑賞会のスタッフ会合で言ったら、ほかの人から「ブログを見ているかぎり、引きこもっていたとは思えない」と疑義を呈されてしまいました。
 まあ、充電というかインプット(入力)期間ではありました。それが、こんどは発信、出力を求められています。もう少しバランスよくできたらいいのですが、こればかりは新型コロナウィルスの所為でいたしかたありません。お呼びがかかったらほいほいと応じているものの、計画的にモノゴトをこなすということができず、毎度尻に火が付かないと動き出さない(出せない)性分で苦労します。思えば、子どもの頃からそうだった。定期試験の直前になると、関係のない小説を読み耽ったりしていたものです。そんな回想をブログに綴っている暇があったら資料作りに勤しみなさいと叱咤鞭撻する鑑賞会スタッフの(誰とはいいませんが)顔が浮かびます。嗚呼。

 今回の遠足では白石を歩きます(札幌建築鑑賞会ブログ10月7日参照)。街歩きポイントのたいがいはスタッフNさんが材料を提供してくれているのですが、私が担当する箇所もないわけではありません。

 その一つが「鈴木煉瓦工場跡」です。
白石・歴しるべ「鈴木レンガ工場跡」説明版 再掲 東京駅
 白石区平和通の一隅に区役所が説明看板を設置しています。
 
 この看板のことは本年3月7日ブログで取り上げました。末尾に「鈴木煉瓦産の煉瓦が東京駅に使われたと書かれてもいます。これも疑問のままです(2016.2.14ブログ参照)」とも記しています。
 私が“問題視”したのは、上掲画像の赤い傍線を引いたところです(引用太字)。
 「その(引用者注:白石村の鈴木煉瓦産の)レンガは道庁、ビール会社、五番館等赤レンガの建物や鉄橋、そして東京駅にも使用された」。

 同区役所が刊行した『白石歴しるべ』1999年にも「東京駅などに使われた」と書かれています(p.38)。
「鈴木レンガ工場跡」『白石歴しるべ』1999年p38
 この記述は同書2005年改訂版にも踏襲され、同区役所ウエブサイト「白石歴しるべ」ページで現在も閲覧できます。

http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/shokai/history/rekishirube/documents/reki36_37.pdf 
 
 白石で焼かれた煉瓦は、東京駅駅舎にも用いられたのか。確認しないままで現在に至っています。そこで、北翔大学教授にして「煉瓦博士」、東京駅駅舎の建築にも詳しいM先生にメールで問い合せました。M先生からは即座に返信が届き、曰く「東京駅の煉瓦は本体の骨格用が日本煉瓦製造会社製で、外装の仕上げには品川白煉瓦製、鳥居陶器製造所製、千葉工場(地名ではなく人物の名)製、大阪窯業製、長坂煉瓦製造所の製品だけが使われました。ですから北海道産の煉瓦は使用されておりません」と。ありがとうございます。M先生は次のようにも添えてくださいました。「鈴木さんの煉瓦が東京駅にも使われていると夢のように気持ちがいいなあという願望にすぎません。道庁舎にさえ使われたほどの煉瓦工場なのだから、きっと東京駅にも使用されたはずだよという伝説なのでしょう」と。

 鈴木煉瓦が東京駅駅舎に用いられておらずとも、白石の煉瓦の歴史にはいささかの影も差しますまい。しかし郷土愛、郷土史愛は、ともすれば“話を盛る”きらいがあります。あらためて、もって自戒すべし。

 追記:2020.10.17ブログに関連続報記述 

2020/09/24

白石小学校の郷土資料室を鑑みる

 白石小学校の郷土資料室を見学させていただきました。
白石小学校郷土資料室-1
 白石小は、前身の学問所「善俗堂」の創立1872(明治5)年をもって開校とし、今年で148年を数えます。
白石小学校郷土資料室-2
 学校の郷土資料室は子どもたちの地域学習の教材となっているのみならず、私のような市民の見学も受け容れていただけるのはありがたいことです(現在は感染症予防のため、団体見学はお断りしているとのこと)。 
 ただ、昨今の先生方は何かと校務に忙殺されていると聞きます。この種の財産の管理(物理的な保存というだけでなく、質的な維持向上)に努めるのは大変だろうなあと同情も禁じえません。私のような校外からの見学者は滅多にいないのかもしれませんが、個別対応していただくのは申し訳ないという気持ちも生じます。

 私の気を惹いた展示物です。  
白石小学校郷土資料室-3 旧校舎俯瞰図
 古い校舎の俯瞰図が描かれています。これは意外と珍しいのではないでしょうか。説明などは付けられていないので、いつごろ作られたものか気になりました。
 
 右下に「白石○○小学校」「札幌郡白石村」と書かれています。
白石小学校郷土資料室-4 旧校舎俯瞰図 クレジット
 ○○の箇所は二段にわたって、「尋常」と「高等」のようです。その下のローマ字筆記体は署名でしょうか。その後にブロック体でN.MIMURAと読めます。さらにその下に「2594 OSAKA&TOKYO」と。この2594が制作年かしら。皇紀か。だとすると、西暦に換算して1934年。和暦では昭和9年になります。
 札幌市白石区役所編『白石歴しるべ』1999年によると、白石小学校は「昭和8年、新校舎を建てるために、しばらく二部授業を強いられ、昭和9年6月、校舎の全面改装され、校地も1,300平方メートル増えた」そうです(p.19)。俯瞰図は、新校舎建設に際してまたは落成を記念して、描かれたのではなかろうか。あらためて、学校の周年記念誌をひもといて確かめてみましょう。

2020/09/23

煉瓦転生 その2

 8月26日ブログで、西岡の元リンゴ倉庫の解体煉瓦の行方について記しました。持ち主Nさんからお聞きした「札幌市内の2箇所で『使われたらしい』」という話のうちの一箇所、「赤れんがテラス」(中央区北2条)です。
 ではもう一箇所はどこだったか。同日ブログでは触れませんでしたが、私はNさんから大まかな場所をうかがってました。それは「JR白石駅近くのライブハウス」です。しかし、Nさんはその「ライブハウス」の正確な所在地や名前はご存じではないようでした。これはまた、気になります。Nさんの言葉だけを頼りに、私は白石に足を運びました。まるで刑事の足取り捜査の気分です。テレビドラマや推理小説の世界でしか知りませんが。

 結論的にいうと、所在を突き止めることができました。
西岡元リンゴ倉庫の解体煉瓦 白石
 Nさんのおっしゃるとおり、白石区内の某所です。ただし「ライブハウス」ではありません。とある倉庫で保管されていました。

 この仔細はあらためてお伝えすることとし、ひとまず措きます。というのは、札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」を来月、白石で開催することになったため、そのネタばらしのおそれがあるからです。先日の黒澤映画の件(9月13日ブログ参照)といい、思わせぶりが続いて申し訳ありません。世の中の動きに呼応するかのように、札幌建築鑑賞会も私も再活性化しつつあります。鑑賞会の行事は、今月末に通信「きー すとーん」を発行してご案内する予定です。会の公式ブログでも、おってお知らせします。

 このたび白石で見せていただいたNさんリンゴ倉庫の解体煉瓦では、刻印も確かめることができました。
西岡元リンゴ倉庫の解体煉瓦 白石 ○Sの刻印
 ○Sと刻まれています。ほかならぬ白石の「鈴木煉瓦」産であることの証しです。8月26日ブログに載せた赤れんがテラス内の物件では、刻印は確認できませんでした。内壁に長手積みで貼られているため、刻印が刻まれた平(ひら)面は隠れてしまっているからです。このたびは平積みされた煉瓦の最上面で鑑みることができました。

 2015.1.18ブログに載せたリンゴ倉庫現存時の画像です。
沼田さん倉庫④
 2012(平成24)年に、刻印も撮ってました。同日ブログに記したとおり、旧陸軍施設に用いられた煉瓦の解体材と伝わります。煉瓦が焼かれたのは、月寒に兵営が置かれた明治後期でしょう。昭和戦後期、リンゴ倉庫を建てるに当たり貰い下げて再利用されました。

 明治時代に白石で焼かれた煉瓦が月寒で使われ、昭和戦後期に西岡で再利用され、平成になってまた白石に戻ってきた。いまはまだ倉庫で眠っていますが、令和の御世に三度、日の目を見ることでしょう。

 注:鈴木煉瓦については本年3月7日ブログに関連事項記述

2020/07/15

相良川(承前)

 開拓使の文書〈重要文化財、北海道立文書館蔵)に綴られた図面です。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面
 民事局の「自明治四年辛未至明治六年地理諸留」の「地所替奉願候書付」という書類に添えられています。旧仙台藩白石領から望月寒に入植した移民の一部が1873(明治6)年8月、土地を替えてもらうように願い出たものです。

 北を上に図面の向きを変え、昨日ブログ同様、川を水色で着色しました。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面 方位北を上 着色
 南西から北東へ豊平川が流れ、西方の黄色の□で囲ったところに「志村鉄一」と書かれています(文字は下から上へ逆さ)。枝分かれしている川に架かっているのが豊平橋でしょう。橙色の傍線を引いた3箇所には、右(東)から「白石村」、「横丁」、「月寒道」と書かれています。沼沢らしき二つのカタチが描かれているのは昨日ブログに載せた図面と同じです。「谷地」と書かれています。

 「谷地」2箇所のあたりを拡大します。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面 方位北を上 着色 「谷地」付近
 左方(西側)の沼沢は、「白石村」から通じる道の南西側に位置するようです。現在の札幌東高校の近くにあったとされるトイシカラメム(ツイシカリメム)に一致します(2019.3.2本年6月10日ブログほか参照)。
 その谷地の下流(北側)、赤い□で囲ったところに「相良正勝私有地」と書かれています。

 昨日ブログに載せた図面を再掲します。 
上白石村の図 方位北を真上に調整 トイシカラメムあたり拡大
 「相良川」というのは、「相良正勝」という入植者にちなむようです。

 昨日と本日の二枚の古図面、かような一次史料を発掘できる能力は私にはありません。種明かしをしますと、先達がすでに引用しています。中濱康光『士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史』2004年です(p.121)。白石村から新白石村(上白石村)が分村する経緯を考察する中で用いられています。ただし川や谷地のことは主題ではないので、詳しくは言及されていません。妄想の羽を伸ばす余地があります。

 トイシカラメム(ツイシカリメム)というアイヌ語由来の泉名が明治期の入植者にどれだけ浸透していたか、あるいは入植後に呼び慣わされた相良川などの通称地名(川名、沼名)がどのように変遷したか、興味深いところです。
 相良川が後年小沼川と呼ばれるようになったのならば、そのミナモトたるメム、すなわち国道南西側の札幌東高校近くにあったのは「小沼」だったのでしょうか。ということは、国道北東側のほうは対比的に「大沼」だったのか。偶然なのか、前掲明治六年図面では北東側(図上、右側)の谷地が大きく描かれています。トイシカラメムは、やはりこの一帯を広く指していたのではないかとますます想うに至りました。いや、妄想だけでなく、地道に史料を漁る努力を先人に倣いたいものです。

2020/07/14

相良川

 「上白石村ノ図」と題された古図です(北海道立文書館蔵)。
上白石村ノ図
 作成年は明記されてません。左上に示されている方位によると、7時半の向きが北です。

 その方位に合わせて、北を真上に向きを変えました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 
 薄い和紙で変色も著しいので、着色を試みます。 

 川とおぼしきを水色でなぞりました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 川を着色
 左下の黄色の○で囲ったところに「豊平橋」と書かれています。右上(北東)に向かって太くなぞったのが豊平川です。右方の黄色の傍線を引いたところ3箇所に川名が記されています。上は「小川」、右下が「月寒川」、左下が「望月寒川」です。
 「村界線」を橙色の実線でなぞりました。黒の実線でなぞったのは鉄道のようです。幌内鉄道の札幌幌内間が通じたのは1882(明治15)年なので、この図はそれ以降に作られたとみられます。白石本通らしき線が引かれていますが、1890(明治23)年に架けられた豊平川の東橋は描かれてません。とすると、作図は1880年代半ばまたは明治20年ごろでしょうか。

 鉄道の左下(南西)あたりを拡大します。
上白石村の図 方位北を真上に調整 トイシカラメムあたり拡大
 小河川が網流していて、豊平川に伴走しているかのようです。沼沢らしきカタチが二つ、描かれています。左(西)側の沼沢から発した川に「相良川」と書かれています。赤い矢印を付けた先です。右(東)側の沼沢にも、黄色の矢印の先にカタカナが添えられています。下から上に「ヲシトリノマ」でしょうか。鴛沼?

 明治29年地形図に照らしてみます。
明治29年地形図 小沼川 国道12号、函館本線の間
 前掲古図に描かれた「相良川」は、のちの小沼川と重なります(5月26日ブログ参照)。
 その上流にある左(西)側の沼沢は、位置的には現国道12号の北東側のようです。地形図の「白」と書かれたあたりの左上くらいでしょうか。いわゆるトイシカラメム(ツイシカリメム)は国道の南西側、現在の札幌東高校の近くにあったとされます(2019.3.2ブログ参照)。位置が若干異なりますが、誤差かもしれません(末注)。このあたり全体が低湿地だった可能性もあります。

 現在地に当てはめると、6月10日ブログに載せた「菊水上町いずみ公園」です。
菊水上町いずみ公園
 公園の命名は、ますますもってまんざらでもありません。

 注:2019.3.2ブログに載せた古地図(大村耕太郎資料)にも、二つの沼が描かれている。同図では、二つの沼は現国道をはさんで位置しているように見える。南西側の沼(東高の近くの沼)は1965(昭和40)年頃まで残っていた(6月5日ブログ参照)。こちらがトイシカラメムとされるのは、あとあとまで残っていたからかもしれない。もしかしたら、もう一つの沼(国道の北東側)あるいはこのあたりの低湿地を総称していたのだろうか。

2020.7.15ブログで後述

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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