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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/02/17

この○を240周走ると、フルマラソンを達成する

 uhb(8ch)の「みんなのテレビ」で明日18日(月)、また「となりのレトロ」が放送されます。午後3時50分からの番組で、たぶん午後4時頃からのオンエアの予定です。今回訪ねたのは白石区菊水です。

 テーマは、菊水歩道橋はなぜ、円く作られたか?
菊水歩道橋 俯瞰
 橋梁の技術的側面ではなく、立地の歴史的背景から探りました(2月5日ブログ参照)。歩道橋の歴史というよりは、円形をとおして地域の歴史をあとづけたというべきかもしれません。12、3分という‘尺’で伝えきれるかどうか正直言って不安ですが、ごろうじあれかし。
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2019/02/11

札幌市営地下鉄東西線の換気塔

 地下鉄円山公園駅近くです。
地下鉄 換気塔 円山公園駅近く

 こちらは菊水駅近くにあります。
地下鉄 換気塔 菊水駅近く

 モダニズムまがいといっていいのか、デザイン的に凝ってるなと感じました。すべてを確かめたわけではありませんが、東西線の特に1976(昭和51)年開通部分ということで、因数分解できるのでしょうか。

 菊水駅物件のほうは既視感を覚えていたところ、まったく関係のない冊子をたまたま観ていたら、こんな画像が目に入りました。
一宮市 配水塔
 愛知県一宮市にあった配水塔です(画像は一宮市博物館『街でみつけた近代』2003年から)。1937(昭和12)年竣工、1986(昭和61)年に解体されました。

 なんか似てませんか?

2019/02/07

菊水1条3丁目の旧道

 白石区菊水1条3丁目に細い道が残っています。  
菊水1条3丁目 旧道 東望
 この画像を撮ったのは4年前、2015年2月です。

 撮影位置を現在図に示します。
現在図 菊水1条3丁目 旧道
 赤い線でなぞったのが細い道で、黄色の△の先で撮りました。 

この道が明治以来の古道の名残であることは、一応知っていました(2015.4.2ブログ参照)。
菊水1条3丁目 旧道 東望②
 いささか驚いたのは、札幌市地図情報サービスでこの道の路線名を調べてみたことからです。
 市道「山道線」といいます。

 「山道」という地名(というか道名)は、大正5年地形図で見覚えがありました。
大正5年地形図 山道
 黄色の○で囲ったところに「山道」と書かれています。前掲の細い道は赤い線でなぞったところです。

 「山道」という文字は、その後の地形図からは消えます。にもかかわらず、今も市道の路線名で残っているのが嬉しい意外でした。なぜ「山道」なのか、手元の文献を漁りましたが、見つかりません。

 ちなみに、当該箇所を色別標高図で見てみます。
色別標高図 標高17m以下から7色段彩 市道山道線
 標高17m以下から7色段彩です。市道山道線を白ヌキしました。

 由来をご存じの方がいらっしゃったらお教えいただきたく存じます。私が知らないだけで地域の古老にお尋ねすれば判ることかもしれませんが、札幌の地名、まだまだ謎が残っているものです。

2019/02/05

菊水歩道橋はなぜ、円形か

 道道札幌夕張線菊水歩道橋です。
菊水 円形歩道橋 全景
 いわゆる円形歩道橋。

 1971(昭和46)年に建造されました。
菊水 円形歩道橋 銘鈑
 「株式会社 釧路製作所」の製作です。

 釧路製作所はこの時代、こちらの歩道橋も造っています。
国道12号北1条東7丁目歩道橋 再掲
 国道12号の「北1条東7丁目歩道橋」です。1969(昭和44)年建造の×形。なぜ×形になったか、先に考察しました(2017.7.19ブログ参照)。
 同社は1970(昭和45)年、南郷通に四角形の歩道橋も造りましたが、残念ながらというべきか現存していません(末注①)。1969年×、70年、71年と、今から思えば三年続けて札幌にユニークな作品を完成させたものです(末注②)。なぜ札幌に釧路の会社が歩道橋を?と訝しむ向きもいらっしゃいましょう。この会社は歩道橋がお手のものだったのですね(2017.2.21ブログ参照)。「だった」と過去形で述べるのは、歩道橋はおそらく遺物化しつつあるからです。遺物とは賛辞でもあります(2015.4.2ブログ)。ではなぜ、歩道橋をお手のものに? ご存じの方、お教えいただけたら幸いです。ちなみに「歩道橋 釧路製作所」で電網検索してみたら、同社のウエブサイトが上位に出た後、拙ブログが続きました。 

 さて、円形歩道橋に戻ります。テーマは、「なぜ、円形か?」です。素直に考えると、ここが六差路という途方もない交差点だからということになりましょう。滅多にない交差点です。しからばなぜ、六差路ができたか。できればuhbの番組で採り上げられたらと目論んでいます。

 注①:『北海道鋼道路橋写真集 昭和42年度-昭和46年度』1973年
 注②:『さっぽろ文庫8 札幌の橋』1979年

2018/09/24

仲秋の望月に想う

 先に「月寒橋」と「望月橋」の‘あっぺ’について綴りました(本年8月28日8月29日ブログ参照)。国道36号の月寒川に望月橋が架かり、望月寒川に月寒橋が架かるという‘あっぺ’です。

 道路管理者の開発局は、月寒川に架かる望月橋を「もつきばし」と読ませています。私は、「月寒を望む」意かと想像しました。は、必ずしも‘あっぺ’とはいえないのではないかと。
 しかるに、望月寒川の上流に市道で同名の「望月橋」が架かっています。これは川名すなわち「もつきさむ」川に由来するのだろうから「もつき」橋かと思いきや、こちらもまた「もつき」橋でした。望月寒川と月寒川の双方に「もつきばし」と読ませる「望月橋」があるのです。読み方から由来をただちに探ることができなくなりました。

 ところで先のブログにも記したとおり、望月寒川の下流、国道12号には「望月寒橋」が架かります。私はこれも、「もつきさむ」川に架かるのだから「もつきさむ」橋に違いあるまいと当初思ってました。しかし、前述の例からして、その自信が揺らぎます。かくして、現地を訪ねる悦びが弥増しました。 

 その、国道12号「望月寒橋」です。
望月寒川 国道12号 望月寒橋
 さて、橋名板には何と書かれているか。

 ‘Moutsukisamu Bridge’です。
望月寒川 国道12号 望月寒橋 橋名板
 欄干に付けられた橋名板も、平仮名で「もつきさむばし」と刻まれています。

 結局、開発局は月寒川であろうと望月寒川であろうと、架かる橋の「望月」は「もつき」と読ませていました。私は「月寒川の『望月橋』は『月寒を望む橋』である。何となれば『もつき』ではなく『もうつき』と読ませているのだから」と開発局の意を忖度したのですが、残念ながらというべきか、肝心の望月寒川のほうの開発局管理の橋も「もうつき(さむ)」です。忖度はもう、尽きました。

 月寒史料発掘会『つきさっぷ歴史散歩』2005年によると、同会は2004年、開発局(札幌道路事務所)に対して国道36号の「望月寒川の橋は望月寒橋(もうつきさむばし)に、月寒川の橋は月寒橋と、旧名に戻して欲しい」という請願書を出したそうです(p.73)。開発局は「今さら変更するほうが道路利用者等に混乱を招く恐れがある」との理由で「昔の名前に戻すのは難しい」と回答しました。もし、同会が望むように国道36号の望月寒川に架かる橋を「望月寒橋(もうつきさむばし)」と変えるならば、国道12号の現橋とまったく同呼称となります。うーん、これはこれで難しいですね。

2017/09/04

連隊通り 補遺②

 東北通り、白石区栄通3丁目で西を望みました。
東北通り 栄通3丁目 西望
 右方、乗用車が止まっているところが連隊通りです。東北通りは彼方へ向かって下っていきます。下った先には望月寒川があります。

 一方、東北通りの反対方向、東側を望むと…。
東北通り 栄通3丁目 東望
 こちらも、遠方に行くに連れて少し下がっています。
 連隊通りはどうも、尾根筋に道が拓かれたように思えます。

 1953(昭和28)年頃の連隊通りの周辺を描いた略地図です。
南郷部落図 昭和28年頃
 『郷土史 南郷』1989年掲載の「南郷部落略図」から抜粋しました。方位はおおむね10時の向きが北です。川や用水路、沢と描かれているところを水色でなぞりました。橙色でなぞったのが連隊通りです。これを見ると、連隊通りは、西方を望月寒川及びそれに並行する用水路、東方を「沢」が流れる中間を通じています。ちなみに、連隊通りには「陸橋通」とも記されています。

 1961(昭和36)年の空中写真を見ます。
空中写真 1961年 連隊通り、望月寒川
 同じく連隊通りに橙色、川に水色を付けました。西方の望月寒川は明らかですが、東方の「沢」のほうは一部読み取りづらいところもあります。おおむね連隊通りが尾根筋とみてよさそうです。

 古地図で地形を当たってみました。
大正5年地形図 連隊通り 望月寒川
 大正5年地形図からの抜粋です。「沢」は描かれていないので、等高線に照らして推測し、水色の破線でなぞりました。等高線的に見ても、連隊通りは特に月寒から南郷にかけて尾根筋を通っています。

 「沢」の河道を現在図で推測してみました。
現在図 連隊通り 望月寒川
 「沢」の河道、谷底に近いところを現在、白石中の島通りが通っています。

 白石駅が開業したのは1903(明治36)年、連隊通りが拓かれたのが1905(明治38)年といいます(末注)。駅から連隊への連絡路には尾根筋が選ばれたようです。

 注:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年pp.68-69。同書によれば、白石駅がもうけられたのは月寒に独立歩兵大隊(のちの歩兵25連隊)が置かれたためであるという。

2017/09/01

連隊通り 補遺

 8月21日ブログに読者の方から、栄通のTさん宅近隣の町名表示板についてコメントをいただきました。この表示板については私も、2015.4.1ブログで紹介しました。木造アパートに付設された古い物置に貼られていた古い表示板です。コメントに「物置自体がなくなったらしいと噂で聞いたのですが…だとしたらちょっと残念です」とありましたので、現地を確認してきました。

 物置も表示板も健在でした。
白石町栄通の町名表示板
 ひとまず安堵です。

 なお、コメントによると、連隊通り側のコンクリートブロック塀にも古い表示板が貼られていたのですが、昨年なくなったとのことです。そちらも確かめたところ、たしかになくなっていました。
 この物件を私は、2015年3月に撮ってました。 
白石町栄通 古い町名表示板 連隊通り
 在りし日を偲んで載せておきます。

 ところで、前掲の健在なほうの表示板で、気づいたことがあります。地元の方には当たり前すぎるので、「気づいた」というのはおこがましいのですが、「白石町栄通2丁目」と書かれた下に「白石中央病院」とあります。だいぶ退色していますが、うっすらと読めます。この表示板のスポンサーと思われます。ちなみに、この表示板の隣には「オヤコわた 白崎ふとん店」の広告看板が貼られています。
 白石中央病院と白崎ふとん店というのが、ここで初めて見たとき一瞬、意外だったのです。しかし、このたびあらためて思い直しました。そうだ、連隊通りではないか、と。不明を恥じます。

 現在図(白石区役所「白石区ガイド」から抜粋)で確認しておきます。
白石区現在図 連隊通り
 黄色の線でなぞったのが連隊通りです。本件表示板看板の所在地に赤い★を付けました。そして白石中央病院とオヤコわた白崎ふとん店の位置をそれぞれ赤と橙色の●で示しました。距離にして約1.8㎞ですが、ほぼ道一本で直線的に通じています。

 白崎ふとん店そのものも、確認してきました。
オヤコわた 白崎ふとん店
 こちらも「オヤコわた」の古そうな看板が健在です。

 煉瓦造の工場も。 
白崎ふとん店 煉瓦造工場
 喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年)によると、1955(昭和30)年の築。

 白石区というと本通、南郷通、東北通と、東西(北西-南東)に通じる道路が中心というのが私の地理感覚でした。しかし、かつては(今も?)南北(北東-南西)が基軸でもあったのですね。

2017/08/24

神尾橋

 白石区川下4条6丁目です。
厚別川 神尾橋
 厚別川に「神尾橋」という橋が架かっています。

 「このあたりの地主さんの苗字を採ったんだろうなあ」くらいに思っていたのですが。
 郷土史の文献をひもといたところ、そうではないようです。「日露戦争の英雄、神尾少佐にちなんだ」という(末注)。「当時あちこちにそういうような英雄の名を付けた」とも。

神尾橋の位置を現在図で見ておきます。
神尾橋 現在図
 札幌市白石区役所「白石区ガイド」から抜粋しました。赤い○で囲ったところです。生活道路に架かっています。幹線道路が通る前からあったのでしょう。

 大正5年地形図を見ると…。
大正5年地形図 神尾橋?
 現在の橋の位置に近いところに、橋の記号が描かれています。現神尾橋の前身と思われます。

 ネットで「日露戦争 神尾」と検索したら、「神尾光臣」と当たりました。日露戦争当時は陸軍少将だったらしい。信州諏訪の出身。川下は諏訪からの入殖と聞くので、もしかしたら郷里の‘英雄’にあやかったのかもしれません。有島武郎の妻・安子の父。

 注:『川下百年誌』1984年、「座談会 むかしの川下 古老の方々の憶い出から」宮坂広義氏(1930年生)の発言(p.155)

2017/08/21

栄通・Tさん宅軟石倉庫

 連隊通りです。
連隊通り 栄通
 白石区栄通あたりで、北から南向きに眺めました。突き当りが元北部軍司令部跡、現在の月寒中学校です。

 この通りの界隈に、札幌軟石の倉庫が遺っています。
栄通 Tさん宅元リンゴ倉庫
 持ち主のTさんに伺ったところ、元リンゴ倉庫と判りました。昭和戦前期築とのこと。もともと現在自宅のあるところに建てられていたのですが、昭和40年代にリンゴを作らなくなって敷地内で移築したそうです。現在は物置になっています。軟石ファンとしてはありがたいことです。

 1961(昭和36)年空中写真(国土地理院)で、Tさん宅の周辺を見てみました。
1961年空中写真 連隊通り Tさん宅リンゴ園
 リンゴとおぼしき樹影が凸状に並んで写っています。ちなみに、昨日ブログに載せた昭和10年地形図を見ると、このあたりに「果樹園」の記号が付いています。

 これで、軟石建物の築年別内訳は以下のとおりとなりました(カッコ内は母数412棟に対する比率、末注)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:27棟(6.6%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:98棟(23.8%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:172棟(41.7%)

 注:2017.6.26ブログ 参照。なお、同日ブログで昭和戦前期築を49棟としているが、その後北区篠路のカネヨK商店の蔵の建築年代が昭和戦前期と判明した(2017.8.8ブログ 参照)ので、本件と合わせてプラス2棟で51棟となった。
 

2017/07/27

菊水3条1丁目の戦跡

 昨日ブログで、島判官が詠んだ漢詩を七言律詩としましたが、律詩ではなく絶句でした。訂正します。
 さて、「東8丁目通りは、どうしてできたか」を再び、と思いましたが、また寄り道します。7月22日ブログで現「東8丁目篠路通」が建物疎開に由来する話を記しましたところ、読者のぶらじょにさんから一条大橋の対岸の緑地についてコメントいただきました。

 たしかに、なんとも中途半端な緑地帯です。 
菊水3条1丁目 建物疎開跡地
 南一条橋を渡ってこれを観て「なんだろうな、これ?」と思った方は、ほかにもいっらしゃるにちがいない。

 「○○緑地」といった標識類は、見当たりません。
菊水3条1丁目 緑地 近景
 ベンチは置かれていますが。 
 
 とりわけ拙ブログ読者においては、「なんだろうな」感の感度は高いことでしょう。意識として顕在化しなくても、過去に網膜に映った像が記憶の底に沈潜している可能性があります。自分がそうだから読者もそうだと勝手に決めつけているのですが、ぶらじょにさんコメントのおかげで、沈潜していた私の‘もやもや感’が撹拌されました。ありがとうございます。
 それで、東8丁目通りからまた脇道に逸れることに相成ったしだいです。コメントへのお返事に記したとおり、ここも建物疎開の跡地と私はみました(末注①)。

 1948年米軍撮影の空中写真です(国土地理院サイトから)。
1948年米軍空撮 白石遊郭
 白石遊郭周辺を抜粋しました。黄色の線で囲ったのが遊郭の範囲です。前掲画像に載せた緑地に当たるところを、赤矢印の先で示しました。画像をつぶさに見ると、いかにも疎開跡という地肌に見えます。それにしても、ずいぶん派手に疎開されたものです。

 毎度お世話になっている今昔マップon the webで1935年(疎開される前)の地形図を観ると、実はこの場所、一条大橋から道が二股に分かれていたのですね。股の間の民地を疎開して、まるごと空地にした。それでこんな幅広の空地になったわけです。
 
 遊廓の真ん中を、広い道が通じています。大門通りです。この道を南西(左下)へ進むと現国道36号に達します。道幅は遊廓の大門を出た後も2町くらいは広いのですが(2015.2.25ブログ参照)、画像の橙色の▲で示したあたりでは狭くなっています。ところが、この画像に写っているように、道路沿いの民地が疎開された形跡が見られます(末注②)。全体として大門通りは豊平から遊郭まで、幅広になりました。

 二三日前、NHKテレビで「TOKYOディープ」という番組をたまたま見ていたら、吉原遊廓のことをやってました。戦時中遊郭の一帯が延焼したとき、当局の命を受けていち早く再建し、表彰されたという話を縁故者の人が語っていました。ウロ覚えなのですが、番組に映っていた表彰状に、「当局の命」云々という文字があったのが印象に残っています。「なんで表彰されたのか?」と出演者が問うたのに「当時、出征する若い男性のために(遊郭が)必要だったから」と答えていました。
 よく聞く話、というか、説明がつきやすいので逆に眉に唾を付けたくもなるのですが、私は札幌における当局の腐心を前掲1948年空中写真から読み取ってしまいました。遊廓への動線を確保するための腐心を、です。うがちすぎでしょうかね。

 ところで、疎開跡地の緑地は、交番に突き当たります。その先は民地が復活しています。
菊水交番
 東8丁目篠路通の疎開跡地にも交番があり(7月22日ブログ参照)、妙な偶然を感じました。こんな写真を撮っていたら、お巡りさんに不審がられないだろうか。
 お巡りさん「どうして、交番を写真に撮るんですか?」
 私「戦時中の建物疎開の跡地を、記録に残しているんです」
 
 …なんて、信じてもらえるだろうか。所持品を調べられたら、デジカメのみならず地図とかメモ帳、懐中電灯、巻尺が出てくる。
共謀罪あらため、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律への抵触を疑われやしまいか。

注①:『新札幌市史 第5巻 通史5(上)』2001年、pp.210-211参照。「疎開跡地整備事業」として「南一条白石通」(南一条大橋南詰~白石火防線)が含まれていたという。くだんの緑地はまさに一条大橋南詰である。
注②:同上。「豊平大門通」も「疎開跡地」として保留(所有者に返還されなかった)されたという。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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