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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/14

相良川

 「上白石村ノ図」と題された古図です(北海道立文書館蔵)。
上白石村ノ図
 作成年は明記されてません。左上に示されている方位によると、7時半の向きが北です。

 その方位に合わせて、北を真上に向きを変えました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 
 薄い和紙で変色も著しいので、着色を試みます。 

 川とおぼしきを水色でなぞりました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 川を着色
 左下の黄色の○で囲ったところに「豊平橋」と書かれています。右上(北東)に向かって太くなぞったのが豊平川です。右方の黄色の傍線を引いたところ3箇所に川名が記されています。上は「小川」、右下が「月寒川」、左下が「望月寒川」です。
 「村界線」を橙色の実線でなぞりました。黒の実線でなぞったのは鉄道のようです。幌内鉄道の札幌幌内間が通じたのは1882(明治15)年なので、この図はそれ以降に作られたとみられます。白石本通らしき線が引かれていますが、1890(明治23)年に架けられた豊平川の東橋は描かれてません。とすると、作図は1880年代半ばまたは明治20年ごろでしょうか。

 鉄道の左下(南西)あたりを拡大します。
上白石村の図 方位北を真上に調整 トイシカラメムあたり拡大
 小河川が網流していて、豊平川に伴走しているかのようです。沼沢らしきカタチが二つ、描かれています。左(西)側の沼沢から発した川に「相良川」と書かれています。赤い矢印を付けた先です。右(東)側の沼沢にも、黄色の矢印の先にカタカナが添えられています。下から上に「ヲシトリノマ」でしょうか。鴛沼?

 明治29年地形図に照らしてみます。
明治29年地形図 小沼川 国道12号、函館本線の間
 前掲古図に描かれた「相良川」は、のちの小沼川と重なります(5月26日ブログ参照)。
 その上流にある左(西)側の沼沢は、位置的には現国道12号の北東側のようです。地形図の「白」と書かれたあたりの左上くらいでしょうか。いわゆるトイシカラメム(ツイシカリメム)は国道の南西側、現在の札幌東高校の近くにあったとされます(2019.3.2ブログ参照)。位置が若干異なりますが、誤差かもしれません(末注)。このあたり全体が低湿地だった可能性もあります。

 現在地に当てはめると、6月10日ブログに載せた「菊水上町いずみ公園」です。
菊水上町いずみ公園
 公園の命名は、ますますもってまんざらでもありません。

 注:2019.3.2ブログに載せた古地図(大村耕太郎資料)にも、二つの沼が描かれている。同図では、二つの沼は現国道をはさんで位置しているように見える。南西側の沼(東高の近くの沼)は1965(昭和40)年頃まで残っていた(6月5日ブログ参照)。こちらがトイシカラメムとされるのは、あとあとまで残っていたからかもしれない。もしかしたら、もう一つの沼(国道の北東側)あるいはこのあたりの低湿地を総称していたのだろうか。
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2020/07/06

白石映画劇場(承前)

 昨日ブログで引用した『ほっかいどう映画館グラフィティ』には、白石映画劇場にまつわる地元の方の回想を載せています(p.91、太字)。
 「映画館ができてから周辺に次々と飲食店が開店し、ちょっとした飲食街が形成されました。映画の帰りに一杯飲む、という人も多かったですね」。

 私は停車場通りができたことで飲み屋街が生まれたと想っていたのですが、そういう側面もあったのですね。
 1970年代をピークに来館者数は減少し、1986(昭和61)年に成人向けに転換しました。2001(平成13)年の閉館時、地元商店街による5日間の無料上映会では、2日間は子ども向けの作品を上映し、3日間は「トラック野郎」シリーズ第一作を映して、さよならセレモニーを催したそうです。
 この本(B6判)は、一館当たり2ページの記述の中に映画館の歴史が濃縮されています。痒いところに手が届くように、史実が押さえられている。のみならず、映画館をとおして街の歴史も垣間見えます。さすが、和田由美さんです。

 昨日ブログには、元映画館の建物1階に設けられているショーケースの画像を載せました。「映画館にありがちなショーケース」とか「映画のポスターを貼っていたような痕跡」と、奥歯にモノの挟まった記述です。それもそのはず、昨日のメンバーは誰もその実際を目撃していません。
 ここに、本当に映画のポスターが貼られていたかどうか。成人向けになってからは、まず難しかっただろうと慮ります。ショーケースが面しているのは道道です。道道といえば、東区にある映画館も、道道に面しています。こちらは営業中で、通りに面して成人向けポスターが貼られています。同じ道道でも、場所によって微妙な異同はありましょう。では、成人向けになる前はどうだったのでしょうか。いまのところ、映画館の痕跡「かもしれない」という想像に留めます。

 国道12号から、白石停車場線を眺めました。
国道12号×白石停車場線 交差点
 元映画館の建物は、角地から一つ奥にあります。角地のシェードが架かっている建物は、市場でした。いまはシャッターが降りています。この市場のことは『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年に綴られていますが、いつまで営まれていたか私は知りません。げに、記憶ははかないものです。記録のありがたみを感じます。

 前掲画像は3年前に撮ったものです。
白石本通 3丁目プラザ金福前 遺物 2017年
 遺物が横たわっています。「正しい家族計画」と銘打たれた自販機です。「信頼と品質のOKマーク」「未成年の方はご遠慮ください」とも書かれています。かような断片も記録に留めておく意味はあろうという深層心理が、私にはたらいたようです。
 
 現在は、撤去されていて見当たりません。
白石本通 3丁目プラザ金福市場 2020年
 今年の2月にUHBみんテレ「となりのレトロ」の収録で通りかかったとき、すでにありませんでした。
 こういった風景の移り変わりも、たびたび記すとおりいまや電網情報でこの10年くらいは遡ることができてしまいます。ためしにこの場所もグーグルストリートビューで追ってみたら、本件遺物が写っている画像もありました。しかし、前述のような文言までは判読できません。観る人が見れば何の自販機かグーグルでも識別できるのでしょうけれども、自分で撮っておいた鮮明な接写画像に稀少感を抱きます。
 
 「嗚呼、自販機がなくなっているな」と、なぜ私は気に留めるのか。本題の白石映画劇場と、どういう脈絡があるのか。稀少感を抱いて満足する私は何なのか。自分の深層心理ながら解き明かせません。願わくは、もう少し万人に意味の通じる歴史の綴り手になりたいものです。

2020/07/05

白石映画劇場

 札幌建築鑑賞会のスッタフ6名で、白石本通界隈を歩きました。
 
 道道白石停車場線です。 
白石停車場通 本通3丁目北から北望
 街燈から垂れている小幕には「停車場通」と書かれた上に、小さく「TEISYABASTREET」と添えられています。テイシャバが英語化した?
 
 本年3月2日に放送されたUHBみんテレ「となりのレトロ」(同日ブログ参照)で私は、「この辺には映画館もあったんですよ」などとしゃべりました。知ったかぶりです。しかし、正確にどの場所にあったか、記憶がありませんでした。

 このたび歩きながら、スタッフの一人が見せてくれた十数年前の新聞記事の切り抜きで場所がわかりました。
白石本通 第1大岡ビル
 言われてみて気づいたのが、1階のショーケースです。別のスタッフが示唆してくれました。

 たしかに、映画館にありがちなショーケースです。
白石停車場通 第1大岡ビル 1階ショーケース
 映画のポスターを貼っていたような痕跡も窺えました。

 和田由美さんの『ほっかいどう映画館グラフィティー』2015年を読み直したところ、次のように書かれています(pp.90-91、太字)。
 「白石映画劇場」は、建設業を営む士別出身の大岡新太郎さんが1957年に開館。当初は白石中央にあったが、のちに白石駅にほど近い国号12号から1本入った仲通のビル地下に移転している。
 2001(平成13)年の閉館時には、商店街で「長年の地元への貢献に感謝をこめて、最終日までの5日間に無料上映会を行った」(同書)そうです。

 ひとりで歩いたときには目に入らなかったものが、何人かで歩くと見えてきました。 

2020/06/10

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑩ 古々豊平川の川跡を下る

 札幌扇状地平岸面の古々豊平川をあとづける旅も、終わりに近づいてきました。トイシカラメム(ツイシカリメム)があったとされる場所です。

サイト⑪ 札幌東高校 正門前の道路
平岸面古々豊平川サイト⑪ 札幌東高
 写っている道路は菊水横9号線という市道です。古々豊平川は右方の手前からこの市道を横切り、左方の北海道札幌東高校の敷地へ流れました。

サイト⑫ 東高前の双葉公園
平岸面古々豊平川サイト⑫ 双葉公園
 市道菊水横9号線をはさんで東高の南側に、街区公園が位置しています。
 トイシカラメムはこの公園から市道にかけて湧いていたようです(2019.3.6ブログ参照)。メムは1965(昭和40)年頃に埋められたらしいのですが(6月5日ブログ、山田秀三先生の著述引用参照)、跡地が公園になるのも頷けます。昨日ブログに載せた四ツ葉公園もしかり。双葉と四ツ葉ですか。

サイト⑬ 東高に隣接する民地の隙間
平岸面古々豊平川サイト⑬ 東高と民地の隙間
 この隙間は2019.3.7ブログですでに載せました。双葉公園のあたりのメムで湧いた水がこの隙間を通って流れ(というよりは、流路跡が隙間となり)、サイト⑪の古々豊平川と合流します。

サイト⑭ 小沼川遊歩道
平岸面古々豊平川サイト⑭ 小沼川遊歩道
 古々豊平川は国道12号の北東側で小沼川となって下ります。国道の歩道橋から北を眺め、暗渠化された小沼川遊歩道を撮りました。

 遊歩道を下ると、いったん街区公園にぶつかります。
菊水上町いずみ公園
 「菊水上町いずみ公園」です。
 この公園の命名はツイシカリメムにちなんだのでしょうか。サイト⑫の双葉公園も、土地の記憶に根ざすなら「メム公園」のほうがふさわしいかもしれません。しかし厄介者の泥沼を埋立てたときは、そんな時代ではなかったでしょう。という意味では「双葉」も、歴史を表象しているといえます。

 サイト⑪~⑭と「いずみ公園」の位置を、現在図と空中写真1948(昭和23)年の重ね合せに示しました。
現在図×空中写真1948年 トイシカラメム サイト⑪~⑭
 水色の破線が古々豊平川の跡です。現在札幌東高のグラウンドとなっているあたりに、私は川の影を幻覚してしまいました。

 これより下流は、古い空中写真や地形図で少なくともこの百年くらいはかなり正確にあとづけることができます。史料に頼らず現地を歩いて自らの妄想力を試すのも面白いし、地元の方に“証言”を求めるのも意味がありましょう(2015.9.8同9.10ブログ参照)。ただし今回は「ミッシングリンク」とテーマを銘打った以上、ここで終わります。

 「古々豊平川は国道12号の北東側で小沼川となって下ります」と前述しました。繰り返しますが、この書き方は通説ではありません。通説の小沼川は「〈ツイシカリメム(対雁川の湧泉池)〉から流れ出ていた小川」(末注)であり、ツイシカリメムは扇状地札幌面のメムです。
 しかるに私はこの間のテーマに基づき、小沼川の上流をはるか小泉川に遡りました。さらに、小泉川~小沼川は古々豊平川をあとづけたと見立てています。なお「古々」豊平川とは、1万年以上前に札幌扇状地平岸面をつくった川を便宜的に呼び、1万年前以降に扇状地札幌面を開いた「古」豊平川ないし「現」豊平川と区別したものです。
 このおとしまえは、また別のテーマであらためることとします。

注:関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年、p.382

2020/06/09

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑨ 古々豊平川の川跡を下る

サイト⑨ 四ツ葉公園(白石区菊水6条4丁目)
古々豊平川サイト⑨ 四ツ葉公園
 画像右方の駐車場は、奥から手前にかけて下り勾配です。

 左方の「四ツ葉公園」も、右から左にかけて緩やかに下っています。
古々豊平川サイト⑨-2 四ツ葉公園
 それがわかるのは黄色の矢印を付けた先です。奥の建物との境目の金網が、右から左へわずか~にナナメっています。駐車場との間にも段差がありますが、これは公園を作るときに切り土して均したからでしょう。かつてはなだらかに下っていたと思います。

 サイト⑨の撮影地点を示した色別標高図です。 
色別標高図 札幌扇状地平岸面 古々豊平川サイト⑨⑩
 標高14m未満から1mごと19m以上まで7色段彩で作りました。
 ⑨の矢印を付けた先に四ツ葉公園があります。その南側の赤い色で塗られた一段高いところが駐車場です。駐車場は南郷通に面しています。ここが高くなっているのは南郷通が造成されたときに盛り土されたからかとも思いましたが、自然地形と見てよさそうです。

 ちなみに、冒頭画像には四ツ公園の後景に「菊水東町会館」という建物が写っています。「菊水東町」というのはかつての町名です(末注①)。今は公式には存在していません。よってこの会館は名残物件です。公園の所在地は現在、冒頭に記したとおり菊水6条4丁目といいます。
 菊水の町界は昨日ブログでお伝えしたサイト⑧の市道東札幌駅前通線です。その南東側は東札幌になります。菊水と東札幌の境目はかつての上白石村と白石村の村界(末注②)に基づいたと思いきや、その西側の定山渓鉄道(に隣接する東札幌駅前通線)で分かたれました。住民の生理的感覚としては鉄路があらたな境目になったのでしょう。
 とまれこの一帯は少しずつずれながらも、古々豊平川→村界→鉄道→町名界と、そのときどきのボーダーラインを分かってきました。かつての「村はずれ」です(末注③)。しかるに鉄道駅が設けられて上白石側に「駅前」の市街地ができました。「駅裏」には貨物ヤードが拡がりましたが、鉄路が廃線となった後は跡地が再開発されて大型商業施設に変貌します。“風景の反転”が二度、繰り返されました。

サイト⑩ 白石区菊水7条4丁目の路地
古々豊平川サイト⑩ 菊水7条4丁目 指定道路
 調べてみたら、この路地はいわゆる指定道路でした。私道です。

 この一帯を、色別標高図を1948(昭和23)年の空中写真との重ね合せで観ます。
色別標高図×空中写真1948年重ね合せ 古々豊平川サイト⑨⑩
 白ヌキ破線が推定河道跡です。

 サイト⑨、⑩のあたりを河道跡とにらんだ根拠の一つに、私はこの1948年空中写真を挙げます。根拠というのは、⑨⑩の北側を左右(東西)に通じている道路です。否、道路に沿っている人家です。この道路は「道道東札幌停車場線」といいます(末注④)。道路の東端は国鉄東札幌駅前です。駅前ですから人家が集まってきています。西方も道に沿って少なからず建ち並んでいる一方、破線をなぞった真ん中らへんは空いているのです。

 その部分を拡大します。
空中写真1948年 古々豊平川サイト⑨⑩
 人家の途切れを私はクサイとにらみました。しかもその空地の一帯に、細い一筋の線が南西から北東にかけて延びています。⑨の矢印を付けた先です。髪の毛のようなこの細い線は何でしょうか。私には水路に見えてしまいました。

 川あるいは川跡だったことで土地の所有が遅れ、人家が建つのも遅れ、比較的のちのちまで空地として残ったのではなかろうか。前述のボーダーライン帯になぞらえれば、いわば“小さな村はずれ”。現在街区公園になっていることも、その名残かもしれません。 
注①:2015.2.20同2.23ブログ参照
注②:6月6日ブログ参照
注③:いうまでもなく、鉄道は必ずしも人口繁華なところに通されたとは限らない。むしろ逆ともいえる。中心駅が既成中心市街地から離れて設けられることはよく見られる。明治の文明開化以来、田畑を鉄路が横切ることを農民が嫌ったという話も読んだことがある。
注④:2015.4.2ブログ参照

2020/06/08

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑧ 小泉川下流の跡を下る

  小泉川下流あらため古々豊平川跡の逍遥を続けます。
サイト⑧ 南郷通から市道東札幌駅前通線を南望
市道東札幌駅前通線 南郷通から南望
 川は、画像の左方奥から右方手前に流れていました。「と思われます」なのですが、まだるっこしいので以下省略します。画像に写る通りは「東札幌駅前通線」という市道です。

 あらためて現在図に撮影地点を示します。
現在図 古々豊平川サイト⑧ 市道東札幌駅前通線
 水色の破線、実線は昨日ブログと同じです。
 「東札幌駅前通線」の「駅」は地下鉄駅ではなく、旧国鉄駅ですね(2019.2.22ブログ参照)。現在大型商業施設が建つ一帯に東札幌駅がありました。

 地形図2万5千分の1「札幌東部」昭和29年修正測量34年発行からの抜粋です。
昭和29年修正測量34年発行「札幌東部」古々豊平川サイト⑧
 通りの南東側(前掲画像上、左方)に沿って、定山渓鉄道が通じていました。

 地形図5万分の1「札幌」大正5年で同じ一帯を観ます。
地形図札幌大正5年 古々豊平川サイト⑧
 原図に破線が描かれています。地形図の凡例によると「小径」(こみち)です。この小径が前掲の市道東札幌駅前通線の原形になったように見えます。
 小径はサイト⑧の撮影地点から北へ少し折れ曲がっていて、古々豊平川の推定河道はちょうどその道に沿って北へ流れたようです。川跡あるいは川沿いに道ができたようにも見えます。
 いま気づいたのですが、この小径を等高線が横切っています。ほんのわずか~に(「わずかに」ではなく「わずか~に」)谷状です。その谷底にちょうど小径が通じています。これはやはり、古々豊平川の地形ではなかろうか。

 昨日ブログにも載せた「四箇村連合用水設計平面図」です。
四箇村連合用水設計平面図 古々豊平川サイト⑧
 前掲図大正5年地形図に描かれた小径、のちの市道東札幌駅前通線には、連合用水の一部が通じていました。画像が粗くてみづらいのですが、「第八号用水路線」と書かれています(右上から左下へ、文字は逆さ、「号」は旧字体の扁「号」に旁「乕」)。この用水路は1895(明治28)年から1912(明治45)年までの間に竣功しました(末注)。古々豊平川の推定河道との重なり具合に照らすと、その流路を一部生かしたようにも見えます。

 サイト⑧だけでまたまた立ち止まってしまい、なかなか先へ進めません。この地点だけで、市道東札幌駅前通線(→定山渓鉄道)→小径→連合用水路→古々豊平川という時空を逍遥できる所為です。  

 冒頭の画像を拡大して再掲します。
市道東札幌駅前通線 南郷通から南望 右曲り 拡大
 この市道は、奥に向かってわずかに右へ曲っています。
 この曲がりも、古々豊平川以来の歴史を背負ってきた痕跡とみました。

 注:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年、pp.44-45

2020/06/07

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑦ 小泉川下流の跡を下る

 昨日ブログに続き、4万年前の古々豊平川の跡をたどる妄想の旅です。
色別標高図 豊平公園周辺 札幌扇状地平岸面 ミッシングリンク探訪7-14
 標高図の色分けは標高13m未満から25m以上まで1mごと14色で作りました。川跡は白ヌキの実線(空中写真で確認できた川筋)と破線(古地図等に基づく推定)です。昨日はサイト⑥の北電変電所で終わりました。黒実線でなぞった旧三村(豊平村、上白石村、白石村)の村界地点の近くです。本日は⑦から続けます。
 
サイト⑦ 市道東札幌1丁目線 旧千歳線跡を跨ぐあたり
古々豊平川跡 サイト⑦ 市道東札幌1丁目線×旧千歳線跡 
 国鉄旧千歳線の跡(現在はサイクリングロード)が左方奥へ湾曲しています。河道はこの弯曲に沿って北へ流れていたとにらみました。鉄路跡の弯曲そのものが河道跡だったかとも想いましたが、等高線に照らすとその西側がやや低いので、一応「沿って」としておきます。ただ、鉄路は敷設時に盛り土した可能性もあるので、断定はできません。
 ちなみに5月26日ブログに載せた明治初期の古地図に照らすと、このあたりは右方から支流が流れてきて合流した地点ともみられます。

 明治29年地形図に、支流も含めた推定川跡を水色でなぞってみました。
明治29年地形図 推定小泉川跡加筆
 図上上方(北)の実線はこの地図に描かれている川です。下方(南)の実線は、空中写真1948年に写る川筋に照らしました。途中の破線が明治初期の古地図などに基づく推定です。支流は南東から北西へ流れていました。

 明治29年地形図には小泉川は描かれてません。上流部では戦後の空中写真にも載っていますので、明治時代にすでに枯れていたとは考えづらいのですが、地図に載せるほどの川の規模ではなかったのかもしれません(末注①)。
 今さら申し上げるのも何ですが、小泉川はあくまでも平岸村で呼び慣わされていた川名だと思います(末注②)。豊平村、ましてや白石村でどのように呼ばれていたか分からないのですが、拙ブログでは便宜的に小泉川(の下流)で通させていただきます。
 
 本題から離れますが、私は5月17日ブログで、前述の支流が豊平村と白石村の村界の役割を果たしたのではないかと記しました。原図に一点鎖線で引かれている村界を見つめると、支流を合わせて北へ流れる本流も事実上の村界だったように見えてしまいます。白石村と上白石村の境目です。それぞれの村の中心集落は村界線からは離れています。直線的・画一的・機械的な境界線よりも自然河川のほうが、村民の生理的感覚として境目だったのではないでしょうか。

 さらにちなみに、なのですが、破線でなぞった川跡は大正時代に敷かれる定山渓鉄道の鉄路とも並行しています。
 同じように昭和10年地形図に河道をなぞってみました。
昭和10年地形図 小泉川推定川跡加筆
 1918(大正7)年に開通した定山渓鉄道、1926(大正15)年の北海道鉄道が描かれています。白石から東札幌、豊平へ至るのが前者、苗穂から東札幌、月寒と逆S字状を描くのが後者です。
 北海道鉄道(後の国鉄千歳線)の逆S字の曲線半径は語り草ですが、豊平川右岸の低湿地や既存集落を避け、かつ月寒(の近く)に駅を置くことを所与の条件としたならば、設計者の苦心が偲ばれます。
 かたや、先に敷かれた定鉄。なんとなく小泉川と付かず離れずですね。などと私は例によってしたり顔で記していますが、実は定鉄と小泉川の関係は上流部で先達が言及しています。そちらは2017.10.10ブログの末注に載せた各サイトをご参照ください。

 たびたび引用している「四箇村連合用水設計平面図」です(一部抜粋)。
四箇村連合用水設計平面図 小泉川下流の川跡加筆
 今度はこれに小泉川下流の推定川跡をなぞってみました。赤い実線は三村の村界です。
 前にも触れたかもしれないのですが、この図面が興味深いのは地割が明らかにされていることです。道路や用水路に沿って、短冊状に細かく地割されています。その中で黄色の矢印を付けたところはあまり細分化されていません。上白石村の白石村との村界近くです。私は、ここは入植者がいなかったのではないかと想いました。実際、前掲明治29年地形図を見直すと、人家が描かれていません。描かれていないのはこの地点に限ったことではないのですが、ここは土地が悪かったと想うのです。その原因は、やはり川だったのではないか。結果として村界線も分かたれた。あまり手が付けられていない土地だったので、さらに結果として鉄道用地も確保できて、定鉄が敷かれた。

 あっちへ脇見し、こっちへ寄り道と、もう何が本題なのかわからなくなりました。明治以降の開拓やその後の社会基盤に平岸面の古々豊平川がかように影響した、というまとめでお許しください。
 冒頭標高図に載せたサイト⑭まで行くつもりだったのですが、⑦だけで長くなってしまいました。すみません。⑧以降は次回にまわします。

注①:小泉川は、1894(明治27)年に開削された「四箇村連合用水」により水が分流されて、水量が減った可能性がある。2020.5.172019.10.2ブログ参照
注②:2017.10.10ブログの末注参照

2020/06/05

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ⑤

 昨日ブログの続きです。
 札幌扇状地平岸面の扇端は従来、国道36号あたりと説明されてきました。これは、地形などに基づく推測なのか、地質の分析や年代測定による確定なのか。図書館などで平易に入手閲覧できる文献を漁った限りでは、まだわかりません。専門家の知見に直接当たる必要があります。わかりしだい言及することとして、とりあえず先に進みます。

 5月26日ブログに載せた色別標高図と1948(昭和23)年空中写真の重ね合せです(国土地理院サイトから作成)。
色別標高図×1948年空中写真 小泉川下流部推定河道 拡大
 白ヌキ破線でつなげた“ミッシングリンク”の一帯を拡大しました。 

 奇しくもというべきか、平岸面の扇端とされる国道36号付近から流路がわかりづらくなっています。教科書的な扇状地の理解だと、扇央部で伏流して、扇端で湧水し地表を川が流れるのですが、1948(昭和23)年写真に写るのは逆の現象です。
 5月26日ブログに載せた古地図などから、明治時代の早い時期にはこの一帯を川が流れていて、その上流が小泉川だったことは間違いないでしょう。白ヌキ破線でなぞった下流部の等高線を見ると、必ずしもきれいな同心円形ではありません。一部、谷状地形が窺えます。この微地形を扇状地平岸面の痕跡と見るのは、妄想がすぎましょうか。

 白ヌキ破線の一帯について、鮫島惇一郎先生が回想した記述を以下、引用します(『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年、p.67、太字)。
 旅客を扱わなくなった東札幌駅の裏側には谷地が拡がっていた。植物学科に席をおいた頃、ミズバショウの株をかなりの数欲しいという先生がおられた。近くにあるからとスコップをかついでやってきたところがこの湿地であった。くたびれかけたネコが残る枝には新しいみどりの葉の絹毛が輝いて、春なのだと告げてくれるのだが、吹く風は冷たかった。
 思いのほかミズバショウの根張りは大きくて、掘り上げるのに苦労した。四個、五個と掘り上げると、手先が大地の冷たさにしびれてしまった。
 大型倉庫や石油タンク、またまたマンション?の乱立するこの界隈が、ミズバショウの白い花やザゼンソウの赤い姿で飾られた谷地であったと、もう思い出す人も少なくなったろう。
 そしてこれらの地域の彼方には、広漠とした石狩平野、つまり低湿地が拡がっていた。


 鮫島先生の学生時代というと、ちょうど上掲空中写真1948(昭和23)年の頃ですね。「東札幌駅の裏側」というのはどのあたりでしょうか。「駅前」が北西側だったことからすると南東側になるのですが、「大型倉庫や石油タンク、またまたマンション?の乱立するこの界隈」は北西側のようでもあります。まさにトイシカラメムの往時の風景を描写したものといえましょう。

 そのトイシカラメム(ツイシカリメム)を山田秀三先生は次のように記しています(『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.88、太字)。
 現在の地図と対照すると、菊水町の辺になるようだ。その菊水町に行ったら、東校(ママ)の南側、バスの車庫の前の水溜りを埋立てている最中であった。地形上はどうもその辺であるようだ。土地の古老を探して聞いたら、東校からあの辺一帯は昔の湿地で、池には湧水があり、とても深かったという。
 
 メムは1960年代に埋められたようです。史料やこれらの回想からするとトイシカラメムはかなり大きく、深かったとみられます(末注①)。近年の研究によると、札幌扇状地扇端のメム(湧泉池)はひとくちに湧水と言っても、分布場所に偏りがあり、場所によって水の由って来たる起源に違いがあるそうです(末注②)。湧水の起源は必ずしも伏流水とは限らず、地表水〈降雨水、降雪水)を集めている場合もあるといいます(注③)。一般に、札幌扇状地の中心部(札幌駅から北海道庁、札幌市役所にかけて)の「尾根状地形」の「東側では地形の集水性が小さく、浅い地下水を湧出させる条件もなかったため、メムが少なかったと考えられる」(注④)のですが、その中で本件トイシカリメムはいかにも例外的な存在です。

 トイシカラメムは、明治時代までは上流から川が流れていて、その下流部で広い谷状地形を穿つ低地(集水地形)に位置しています。扇状地の札幌面だったとしても、伏流水に加え平岸面に削られた地形によって地表水も集めて大きなメムを作っていたのではないでしょうか。どうしても平岸面にかこつけたい。

 注①:北海道札幌東高校の『創立六十年史』1967年にも、「隣接してごみ捨て場やら水田やら、さては底なし沼と呼ばれた湿地もあり」と記されている(p.160)。2019.3.7ブログ参照
 注②:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通関219号)2017年。以下この段落で言及した知見は同論考に依る。
 注③:昨日ブログで引用した『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年でも、「これらの泉池は、扇状地末端において、砂礫層がつきて粘土層と変わるところで豊平川の伏流水が湧き出すものと考えられていたが、扇状地表層からの浸透によったものもあったようである」(pp.105-106)。
 注④:前掲「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」

2020/06/04

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ④

 5月28日ブログの続きです。このテーマもそろそろ締めくくりに入りたいと思います。テーマとは、以下の仮説(推測、妄想)です。
 ①かつて平岸から豊平、白石にかけて流れていた小泉川は、札幌扇状地平岸面をつくった古々豊平川をあとづけた。
 ②扇状地平岸面を伏流した水がトイシカラメム(ツイシカリメム、現在の国道12号、札幌東高校のあたりにあった湧泉池)で湧き出た。

 上記①②を、1948(昭和23)年空中写真を重ね合せた色別標高図に表わしました。
札幌扇状地 色別標高図×1948年空中写真 小泉川河道
 色別は標高10m未満から5mごと70m以上まで14色段彩で作成、水色実線が空中写真で読み取れる小泉川の河道、白ヌキ実線は同じく空撮から読み取れる下流部での川です。下流部は現在、小沼川、白石川と呼ばれます。白い○がトイシカラメムとおぼしき池沼の位置(現札幌東高)です。明治時代初期の古地図と現在の標高に照らして、白ヌキ破線で上流と下流をつなげました。、

 5月28日ブログで記したように、拙説は扇状地平岸面に関する通説と相いれない部分があります。通説では、平岸面(古い扇状地)の扇端は現在の国道36号あたりで、ツイシカリメムは札幌面(新しい扇状地)です。つまり、平岸面と札幌面の扇端での境目を別の場所ではっきりさせないと、拙説の正当化はできません。
 札幌扇状地の新旧両面の境目といえば、ふつう話題になるのは現精進川が削っている崖(ピラ、豊平区中の島と平岸の境目)です。いや、それを「ふつう」と断定できるのか自信はありませんが、これまでの地学教育研究者の尽力により、注目されてきました。しかし、ここではっきりさせたい境目というのは、崖(ピラ)のほうではなく扇端です。「ふつう」でない分、逍遥しがいがあります。

 はっきりさせるも何も、通説的には新旧両面は色分けされているので、問題はその根拠というかエビデンスの再検証でしょう。崖(ピラ)のほうは可視的・体感的に高低差や地層を理解できるのですが(それも諸先達のたまものです)、扇端のほうはわかりづらい。わかりづらい理由として私の能力の問題を棚に上げると、平岸面と札幌面の扇端の違いを根拠づけて説明した資料にまだ辿りつけません。 
 前掲色別標高図に、平岸面の扇端とされる国道36号を黒実線でなぞりました。このあたりを地形的に特徴づけるとすると、現在の豊平川をはさんで左右両岸の標高がなめらかに連なっていることです。つまり崖(ピラ)の北端に当たります。これより上流では、色分けの段差がはっきり窺えます。おおむね1~2色の段差が見て取れるので、5~10mの比高(崖)です。結局、一般的に平岸面とされるところから勾配を下ってくると、国道36号のあたりで豊平川左岸すなわち札幌面と同じ勾配になります。等高線の幅が広がり、上流と較べると緩やかです。この緩やかな勾配、さらには豊平川左岸とのなめらかな高低差が、札幌面を物語っているのだろうか。

 産総研「札幌及び周辺部地盤地質図」2006年から抜粋します。
産総研地質地盤図 ボーリング調査地点(菊水、平岸)
 扇状地札幌面と平岸面がやはり色分けされています。凡例では黄色は「扇状地堆積物」、紫色が「先沖積層」です(末注①)。札幌面の堆積物は現豊平川右岸の望月寒川岸まで延びています。

 この地域のボーリング調査の結果を観ます。
産総研地質地盤図 ボーリング調査結果 菊水
産総研地質地盤図 ボーリング調査結果 平岸 
 上段が前掲地質地盤図に赤いを付けた地点、下段が黄色のを付けた地点です。前者が扇状地札幌面の白石区菊水、後者が平岸面の豊平区平岸に当たります。

 扇状地新旧両面を識別できる地層の違いはあるのでしょうか。凡例に照らすとどちらもあらかたは砂礫ですが、菊水のほうは深度10m超までずっと砂礫で、その下で粘土が断続的に現れます。一方平岸は、ところどころ粘土混じりの砂礫という様相です。水はけがいいと言われた平岸の比較的浅いところに粘土層があるのが意外でした。粘土はあまり水はけが良くないという印象だったので。私には違いを説明できないので、とりあえずデータのみの提示にとどめます。いま気づいたのですが、赤と黄色の○を付けたボーリング地点はちょうど小泉川の旧河道、推定河道の流路上です。

 もう一つ、今度は文献の考察を引用します。
 この左岸にのびる扇状地は、標高20m付近に、「メム」とよばれる泉池がおよそ13カ所あったとされている。今日ではその姿を消しているが、標高20mは本府建設の中心と目ざした大通付近にあたり、泉池から流れ出た水は、いずれも小川の源となっていたのである。これらの泉池は、扇状地末端において、砂礫層がつきて粘土層と変わるところで豊平川の伏流水が湧き出すものと考えられていたが、扇状地表層からの浸透によったものもあったようである。(中略)
 札幌市水道局拡張部が昭和37年と39年の二度にわたって実施した「豊平川扇状地地下水調査」によれば、豊平川から扇状地への伏没は左岸のみから行われ、その主要な供給は南22条橋から南大橋(南9条)間となっている。その主な流向は三方向に分かれており、(後略) (『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年、pp.105-106)

 この記述に引きつけると、平岸面の古河川が伏流→下流部で湧水(不透水層が地表の近くに表れるあたり)→トイシカラメム、という教科書的な解釈が通じないのかもしれません。併せて、現豊平川からの伏流が左岸に限られていることからして、トイシカラメムのある右岸における伏流や湧水は現(新しい)豊平川の作用とは必ずしもいえない。
 現豊平川(サッポロ川)の河道が定まったのは1800年代の初頭とされます(末注②)。それまでの河道はフシコサッポロ川(現伏籠川)でした。治水対策が進むまでのせいぜいこの百数十年の間に、サッポロ川は望月寒川べりまで扇状地を拡げられただろうか。

 注①:平岸面の一帯は「扇状地堆積物」とは分類されていない。望月寒川右岸の月寒丘陵と同じ色分けである。5月28日ブログ参照
 注②:2019.2.13ブログ参照。1806(文化3)年の幕臣遠山金四郎、村垣左太夫によるイシカリ調査の際、サッポロ川の流路が1801年頃に変わったことを聞きとっている(『新札幌市史第8巻 年表・索引編』2008年、p.16、『豊平川と私たち-その生い立ちと自然-』2011年、p.14)。

2020/05/28

札幌扇状地平岸面のミッシングリンク ③ トイシカラメム

 5月26日ブログ末尾に「トイシカラメムについては私の前述は通説ではないようです」と記しました。これは、札幌扇状地平岸面の範囲に関わることです。

 札幌の地質の区分を示す地図でトイシカラメム(ツイシカリメム)の位置を確かめます。
① 札幌市埋蔵文化財センター展示 遺跡分布図
札幌市埋蔵文化財センター展示 遺跡分布図 トイシカラメム位置
 〈元図の凡例〉 橙色:札幌扇状地札幌面、薄紅色:扇状地
 〈加筆〉 トイシカラメムの位置:黄色ので囲った「菊水」と書かれたあたり。
 メムは現在の札幌東高校の付近です。元図の色分けによると橙色の北の端、すなわち札幌扇状地札幌面の扇端に当たります。一方、豊平区の豊平、美園、平岸から南区の澄川にかけては薄紅色です。これが扇状地平岸面と思われます。

② 国土地理院 土地条件図 1万5千分の1「札幌」1977年
土地条件図 札幌扇状地 トイシカラメムの位置
 〈元図の凡例〉 ドット付きの黄色地:札幌扇状地、ヨコ線入りの薄紅色:台地・段丘 低位面、青ヨコ線+赤斜線(画像上紫色に見える):低地一般面(谷底平野・氾濫平野)+人工地形 盛土地
 〈加筆〉 トイシカラメムの位置:赤い、白ヌキ実線:国道12号(北側)、国道36号(南側)
 扇状地平岸面に当たる一帯は「台地段丘 低位面」とされています。トイシカラメムの位置は「札幌扇状地」ですが、色分けはやはり平岸の一帯とは別です。

③ 治水地形分類図 更新版(2007-2019年)(国土地理院サイトから)
治水地形分類図更新版(2007-2019年)トイシカラメム
 〈元図の凡例〉 ドット付きの黄色地:低地 扇状地、橙色:台地・段丘 段丘面、萌黄色:低地 氾濫平野
 〈加筆〉 トイシカラメムの位置:赤い
 トイシカラメムは扇状地の扇端ですが、こちらも平岸面は別区分で「台地・段丘 段丘面」とされています。望月寒川以東の月寒台地と同じ色分けです。

④ 産総研シームレス地質図 20万分の1 V2(2006年)
産総研シームレス地質図1/20万 トイシカラメム
 〈元図の凡例〉 萌黄色:(形成年代)新生代第四紀後期更新世後期〜完新世 (岩相)扇状地・崖錐堆積物、水色:(形成年代)新生代第四紀完新世 (岩相)谷底平野・山間盆地・河川・海岸平野堆積物、桃色:(形成年代)新生代第四紀後期更新世中期 (岩相)デイサイト・流紋岩 大規模火砕流
 〈加筆〉 トイシカラメムの位置:赤い
 豊平川の右岸、左岸ともに同じ色で、「岩相」は扇状地・崖錐堆積物です。扇状地の札幌面、平岸面の区別はつきません。

 注目したいのは、というほど大げさなことでもありませんが、2点あります。
 まず、出典によっては札幌扇状地平岸面が「台地・段丘」に分類されていることです。図②③を見ると、札幌の中心部が新旧2回の扇状地で形成されているとは理解しづらい。昨日ブログで私は、扇状地としての平岸面は注目度が低いかのように述べました。責任転嫁めいて恐縮ながら、このような分類が一因にあるのかもしれません。
 もう一つは、平岸面を扇状地として識別するとしても、トイシカラメムがその範囲には含まれていないことです。扇状地札幌面の扇端に位置しています。
 
 平岸面のエリアを言葉で説明すると、次のとおりです。
 平岸面は地下鉄平岸駅を中心とした平岸街道が走る平坦面で、かつてはリンゴ園が広がり、牧歌的な景観が展開していたところである。この平坦面の頂点が真駒内川沿いの警察学校付近(標高九〇メートル)であり、末端部は北海学園大学付近(同三〇メートル)である。それより北では札幌面との境界は不明瞭になり、地形的には札幌面に併合されてしまう。『新札幌市史第1巻通史1』1989年、第1章第3節pp.9-11(太字)
 平岸面の扇頂部は、真駒内川の真駒内橋付近で、豊平区、平岸方面に広がり、国道36号線、豊平橋が扇端である。『さっぽろ文庫44 川の風景』1988年、第4章1豊平川p.159(太字)

 新しい扇状地の札幌面による古い平岸面の“上書き”は現豊平川の左岸のみならず、その下流域の右岸にも及んでいたようです。これらの地質図は前々から目にしていて、通説的に理解してはいました。にもかかわらず5月26日ブログで私は、トイシカラメムを「小泉川が扇状地平岸面を伏流し、国道12号あたりの扇端で湧き出た」と妄想したのです。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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