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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2020/03/14

白石本通周辺の食品工場 ③

 昨日ブログでお伝えしたように、UHB「となりのレトロ」清田区編の放送は来週3月16日(月)の予定です。が、私は今もって、3月2日に放送された白石編に拘泥しています。

 3月10日ブログの末尾に、白石本通5丁目北にあるお屋敷の外観を載せ、「お庭の池が気になっていました」と記しました。
色別標高図 白石本通5丁目 お庭の池周辺
 色別標高図(標高10m未満から5mごと7色段彩)上に赤い矢印を付けた先に、その池があります。

 地理院地図上にも描かれています。
色別標高図 白石本通5丁目 お庭の池周辺 拡大
 赤いで塗ったところが横山製粉の工場です。

 冒頭図の右下(南東)、黄色の矢印を付けた先にも池が描かれています。

 よく知られた白石神社の湧泉です(注①)。
色別標高図 白石神社 湧泉
白石神社 湧泉
 ここでは、実際に池泉を眺めることができます。

 私には、前掲お屋敷の池が、この白石神社の湧泉と似通っているように見えました。月寒台地の火山灰層を削った谷という地形です。お庭の池も湧泉(だったの)ではないか?
 横山製粉の専務さん(3月2日ブログ参照)にお訊きしました。
 専務さん曰く「あれは、人工的に作ったものです」と。
 
 横山製粉が1964(昭和39)年、現在地に本社及び新工場を建てたときの周辺住民と交わされたやりとりを以下、引用します(太字、注②)。
 中には、
 1.水を大量に使うと聞いているが、地下水が枯れて自分達のポンプが使えなくならないか。
 2.騒音を発して安眠を妨げないか。
 3.高い建物の蔭になって、日照時間が少なくならないか。
 という質問が出ました。
 これに対して山田工場長は、工場で使う地下水は、皆さまが使っている地下水よりも更に100mも低い水脈を使うので、ご迷惑はかけない。
(後略)

 豊平川扇状地では、「井戸の深さは30m以上、80m以内のものが圧倒的に多い」そうです(注③)。ただし、札幌では1913(大正2)年に国鉄苗穂工場が深度77m、サッポロビール工場が113mの井戸を設け、これが深井戸の草創といいます(注④)。いずれも豊平川扇状地扇端です。一方、本件工場が位置する月寒台地は、「掘られた深井戸は百本をこえ、それらの収水深度は30mから260mと広範だが、50ないし100mのものが多い。しかし地下水面は一般に深く、台地面から15ないし20mとなっている(末注⑤)。
 さて、前述引用の「更に100mも低い水脈を使う」のは、水に恵まれている立地といえるのかどうか。いずれにせよ、「食品工場だから、水の利を生かした立地」というのは一知半解の皮相的な理解でした。反省します。

 それでもなお、私は拘泥してしまいます。あのお屋敷の池は人工的に掘ったものにせよ、わりとすぐ水が湧いてきたのではないか。近い将来、横山さんの工場を見学させていただけたらと願っています。これにて「白石本通周辺の食品工場」おわり。
 
 注①:『さっぽろ文庫44 川の風景』1988年、p.183、pp.232-234参照
 注②:横山製粉創立30周年記念誌『粉と歩んで30年』1976年、pp.51-52
 注③:『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年、pp.84-85
 注④:同上書p.86
 注⑤:同上書p.82
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2020/03/10

白石本通周辺の食品工場 ②

 3月4日ブログの末尾を私は次のように締めくくりました(太字)。
 横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました。「だから、何なのだ?」ということまで、まだ至りません。
 その「だから、何なのだ?」に移ります。
 同社が1964(昭和39)年、この場所に立地したのは“水の利”を求めてのことではないか。あるいは実際の操業において、水に恵まれているのではないか。この場所というのは白石区本通5丁目、平和通5丁目あたりを指します。

 結論的にいうと、未確認です。そもそも製粉業において水がどのように使われるか、不勉強で把握してません(末注①)。3月2日のUHBみんテレ「となりのレトロ」白石編のとき、そこまで私は踏み込めませんでした。今後の宿題とさせてください。
 
 という前提で、周辺部分を巡ることとします。
 3月4日ブログに記したとおり、横山さんがこの地に工場を設けたのは、もともと創業者の水田や畑があったからです。では創業者はなぜ、この地に土地を持っていたか。
 1897(明治30)年、創業者の祖父が福井県からこの地に移り住みました。もともとは明治の初めに仙台藩白石領からの移民が入植した土地です。「白石藩から渡道した人々のなかには土地を売って他に転住した者も多く、祖父が入植したのは、それらの人々が手放した開墾途上の土地でした。そのため、祖父をはじめ父母たちは開拓農家特有の、寸暇を惜しむ重労働の毎日を強いられ、非常な困難と闘いながら、畑2町5反、水田1町歩を造りあげました」(末注②)。
 明治初めの仙台藩白石領からの入植は「土地区割は地形と無関係に雪の上に画一的に区分され、土地割りあてはくじ引きで行なったため、湿地や浸食谷の場所を得た入植者は開拓に苦心し、結局離村する結果となった」(末注③)。「湿地や浸食谷」というのは、おもに望月寒川に近い一帯を指します。「明治5年春、融雪水にともなう浸水で居住が不可能となり」「移転することとなった」(末注④)。士族移民の離村と併せて、明治20~30年代にかけて北陸などから農民の入植が進み、開拓が本格化します。
 
 3月4日ブログに載せた北海道地下資源調査所の地質図1956年です。
北海道地下資源調査所 地質図幅 白石本通周辺
 横山製粉の工場(赤いの大)は、「支笏火山噴出物 月寒火山灰層」の火山灰粘土が「現河川堆積物」に接する縁に位置しています。
 横山家の入植の具体的な経緯は判りませんが、士族離村と農民の入植という時系列と符合し、場所も「浸食谷」を窺わせる土地です。

 工場の南隣にお屋敷があります(画像は2011年撮影)。
白石区平和通 横山製粉工場のお隣
 このお庭の池が気になっていました。

 注①:横山製粉株式会社創立50周年記念誌『一歩いっぽ』1996年「小麦粉ができるまで」によると、原料の小麦を「挽砕」するまでの途中の「調質」「精選」の工程で、微量の水を加えるという(p.259)。
 注②:同上書p.1、p.4。文中「白石藩」は、仙台藩(伊達家)の支藩白石領(片倉家)のこと。「祖父」「父母」とは、創業者横山保からみてのこと。
 注③:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、p.120
 注④:同上書p.121 

2020/03/09

本通西排水 間隙に感激する感性を高める。

 地理院サイトから「治水地形分類図」で札幌市白石区本通の一帯を観ます。
治水地形分類図 白石区 横山製粉周辺
 JR白石駅と地下鉄白石駅の位置に(右上の長形がJR駅、左下の短形が地下鉄駅)を加筆し、3月2日UHBみんテレ「となりのレトロ」白石編で訪ねた「横山製粉」工場(同日ブログ参照)を赤いで塗りました。
 
 この地図には、主として平野部の地形やその成り立ちが描かれています。凡例は以下のとおりです。
 橙色:段丘面 水色:後背低地 薄緑色:氾濫平野 黄色:微高地(自然堤防) 黄色地に小さいドット:扇状地 灰色横縞線:浅い谷 紫:段丘崖

 私は3月4日ブログで標高図や地質図を3点載せて、かつ空中写真を加えて「横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました」と締めくくりました。しかし、その結論は縷々述べるまでもなく前掲図だけで一目瞭然です。赤いで塗った横山さんの工場自体は「段丘面」に属しますが、「浅い谷」から「氾濫平野」に至る帯の縁に位置しています。工場が立地したのは、平たくいえば昔は川岸だったところです。実は一目瞭然だったということをお伝えしたくて、前掲図を載せました。

 なぜこのようなことを綴るかというと、昨日ブログに記したことの続きです。電子的情報技術が日々進歩して、卓上の操作で札幌の街のたいがいの時空を逍遥できてしまいます。地理院サイトの地図や空中写真、グーグルストリートビュー、今昔マップon the webサイトなどのおかげで、もはやアナログ的に紙を照らし合わせる労も減りました。「ここは昔からの古い道だ」とか「かつての川跡だ」程度のことは、居ながらにして瞬時に読み取れます。

 これは、どういうことか。
 既出の情報や現地の風景を受け止める感度や読み解く力が、なおいっそう問われる。ということでしょうか。
 40年前、北大の暗渠道を歩いたときの感興(2015.7.11ブログ参照)や半世紀前、母と訪ねた岐阜県の川島に覚えた不思議感(2016.12.14ブログ参照)などの初心を忘れないでいたいと思いました。

 白石区平和通6丁目北、某街区の住宅と住宅の隙間です。
平和通6丁目北 某街区の隙間
 先月下旬、ここを歩いたとき、気になりました。不思議な隙間感が漂っていたのです。

 あとから、それこそ空中写真などを遡って、ここが川跡だとわかりました。いや、川「跡」ではなく、現役の川です。
河川網図 本通西排水
 河川網図によると、「本通西排水」です(赤いを付けた先)。

 流路を現在図で拡大して示します。
現在図 本通西排水
 河川網図の凡例に従って、暗渠を太実線の濃い青、明渠を水色でなぞりました。前掲画像の撮影位置は赤いを付けた先です。雪に埋もれていますので、実際に明渠なのかどうか、確認はできません。
 
 下掲は後日、河川網図を観ながら歩いたときに撮った画像です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋
 前掲現在図に黄色の矢印を付けた先で撮りました。鉄道沿いの濃い青(暗渠)でなぞった路上です。画像で黄色の矢印を付けた先にマンホール蓋があります。

 「河」の文字です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋「河」の文字
 暗渠を物語っています。

 こちらも後日、河川網図を携えて確かめた場所です。 
平和通6丁目北 某街区の隙間-2
 橙色の矢印を付けた先に、やはり隙間が見られます。

 前掲現在図に橙色の矢印を付けた先の位置、向きで撮りました。本通西排水の明渠部分は、住宅の隙間をぬって北西に遡り、南西へ「L」字形に曲がっています。こちらの隙間(橙色のの先)は、初めて歩いたときは見過ごしてしまいました。右側のお宅は現在図でも明らかなように、雁行で配置されています。今から思えば、妖しい配置です。

 このたび本通西排水を取り上げたのはほかでもありません。現地を歩いたとき、隙間が網膜に写ったときの感度です。間隙に感激する感性。もっと高めたいと思いました。
 

2020/03/08

人生、山あり谷あり

 3月4日ブログに記したとおり、私は8年前、国道12号の白石本通のアップダウンを実感しました。きっかけは札幌建築鑑賞会で2005(平成17)年から展開した「札幌軟石発掘大作戦」(2015年12月8日ブログ参照)です。札幌軟石を手がかりとして街を歩くことで、副産物を得ました。街を探り、街を楽しむ醍醐味です。自分たちが知らない街の姿が見えてもきました。白石区を歩いたのが2011(平成23)年です。
 白石区に軟石建物の分布が少ない(2015年6月8日同年5月21日ブログ参照)のは、道路のアップダウンが軟石運搬のネックになったからではないか、などとまことしやかに想像したりもしました。まあ、さまざまな要因があることでしょう(末注)。
 なぜ、アップダウンが多いか。支笏火山の噴出物(火山灰など)が堆積してできた丘陵を川が谷を削りました(3月4日ブログ参照)。煉瓦(=粘土=地質)とアップアダウン(=地形)は、いまや大動脈・国道12号周辺の住宅街と化した白石本通の、土地の記憶といえましょう。

 2011年に本通付近のアップダウンを調べてまとめたレポートです。
2011年山あり谷ありレポート-1 (352x500) 2011年山あり谷ありレポート-2
 題して「人生、山あり谷あり」。

 2011年10月に確認した平和通8丁目南の谷底です。
平和通8丁目南の谷底
 (向かって右側が下流、左側が上流) 
 当時はまだ標高図や地質図、空中写真などを駆使するすべを知らず、せいぜい古い地形図と照らし合わせるくらいでした。
 
 住宅と住宅の間隙が谷底になっています。 
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北) 上流側
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北)
 間隙に“川”が流れているのを知り、感激したものです(画像上掲が上流側、下掲が下流側)。

 当時はまだ、河川網図も入手してませんでした。
河川網図 本通東排水(北)
 このたび、「本通東排水(北)」という名前を持つ、れっきとした川であることを河川網図で確認しました。札幌市長が河川管理者となっている普通河川です。 

 注:かつての近郊農村としての白石で、軟石建物の需要として考えられるのは農業用の倉庫である。倉庫は軟石よりも煉瓦のほうが散見される。もともと煉瓦の産地であったことに加え、国道12号や函館本線を介して、主産地となった野幌産の煉瓦が流通しやすかったのではないか。東札幌や大谷地が物流の拠点となった時代(昭和後半)にはモルタルやコンクリートブロックが普及したことだろう。

2020/03/07

鈴木煉瓦の工場の位置

「鈴木レンガ工場跡」を伝える「白石・歴しるべ」です。
白石・歴しるべ「鈴木レンガ工場跡」
 白石区平和通6丁目南、平和通に面する角地に立っています。傍らのお宅には、これまた土地の記憶を受け継ぐかのごとき煉瓦の塀です。

 昨日ブログで私は、このあたりの煉瓦工場の立地をあとづけました。おおまかにいうと、工場は大正時代までは函館本線の近くにあり、その後昭和に入ると少し南側に移っています。鉄道の近くに工場が設けられたのは明治時代、鈴木煉瓦によってです。鈴木煉瓦は昭和期には廃業し、別の業者が引継ぎました。昭和期「少し南側に」移った工場は、引き継いだ業者によって設けられた、というのが私の理解です。
 しかるに前掲「白石・歴しるべ」が立つのは、後者の「少し南側」に当たります。私の理解からすると、この場所を「鈴木レンガ工場跡」といってよいのか、疑問が生じるのです。

 現在図で位置関係を整理します。
現在図 鈴木煉瓦工場跡
 赤い:明治時代、鈴木煉瓦の工場が設けられたところ(囲ったのはおおまかです)
 黄色の:昭和期、新たに煉瓦工場が移ったところ(同上)
 赤い:「白石・歴しるべ」の「鈴木レンガ工場跡」が立つ地点

 前掲「歴しるべ」には次のように書かれています(引用太字)。
 「鈴木煉瓦製造場」の初代 鈴木佐兵衛は東京生まれで明治15年9月渡道し、この地で明治17年7月(又は6月)工場を建設して、鉄道用レンガを製造したとの記録がある。
  「この地」というのは、ピンポイントで「歴しるべ」の立つ地点を指すのか、それともおおまかに白石駅の鉄道以南ととらえているのでしょうか。前者だとすると、私の理解と異なります。
 
 この「歴しるべ」の内容を詳しくまとめた冊子版の札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年は、1948(昭和23)年空中写真(米軍撮影)を載せ、鉄道沿いに「初期の鈴木煉瓦製造場跡」と書き添えています(p.39)。これは大正期の地形図に付された「煉瓦工場」記号の位置です(昨日ブログ参照)。前掲現在図で赤いを塗ったところに当たります。
 一方、写真にはその少し南側に「焼き窯」とか「干場」と加えられています。これは昭和期の地形図の煉瓦工場記号の位置です。その「焼き窯」と書かれたあたりを現在に当てはめると、前掲「歴しるべ」説明板が立つ場所になります(前掲現在図の黄色の及び赤い)。
 同書では、後者の「焼き窯」などが鈴木煉瓦当時からのものなのか、後の業者が設けたものなのか、定かでありません。しかし、「後の業者によるもの」と限定してもしません。現地「歴しるべ」の記述からしても、この場所も含めて鈴木煉瓦の工場の一帯だったという前提のようです。

 ちなみに、同書及び現地「歴しるべ」には、鈴木煉瓦産の煉瓦が東京駅に使われたと書かれてもいます。これも疑問のままです(2016.2.14ブログ参照)。
 私にはまだまだ、わからないことが多い。

2020/03/06

オヤコわたの旧工場(承前)

 昨日ブログの続きです。
 白崎繊維工業の工場は1940(昭和15)年、鈴木煉瓦の職人が積んで建てられました。このとき鈴木煉瓦は廃業していましたが、煉瓦工場は別の業者に引き継がれたといいます。これは、どういうことか。

 地形図で確認します。まず1916(大正5)年測図1918(大正7)年発行2万5千分の1「月寒」です。
大正5年測図地形図 白石駅周辺
 赤いで囲ったところに鈴木煉瓦の工場が立地しています。

 その部分を拡大します。
大正5年測図地形図 白石駅周辺 鈴木煉瓦工場
 函館本線白石駅から引込線が通じ、その先に描かれているのは「煉瓦工場」の記号です。焼き窯(ホフマン式輪環窯か)を象ったこの記号は、現在の地形図には見られません。

 次に、1935(昭和10)年修正測図1937(昭和12)年発行の同じく2万5千分の1「月寒」です。
昭和10年修正地形図 白石駅周辺
 赤いで囲った工場の位置が南へ移っています。

 その部分の拡大です。
昭和10年修正地形図 白石駅周辺 鈴木煉瓦工場
 煉瓦工場の記号に加え、煙突の記号も描かれています。

 この地形図が作られた1935年には鈴木煉瓦は廃業していたようです。引き継いだ業者の工場が、やや南に設けられたとみられます。白崎さんの製綿工場が建てられたのは、この5年後の1940(昭和15)年です。煉瓦は引き継がれた業者の窯で焼かれたものが使われたのではないでしょうか。そして、これは私の想像ですが、その焼き釜には煉瓦を焼く職人は当然いたでしょうが、積む職人はいなかった。焼く職人は鈴木煉瓦から引継がれたのかもしれません。
 一方、大正期の鈴木煉瓦には、煉瓦を積む職人も在籍していました(末注①)。昭和になってからの新しい業者の工場には、積む職人を抱える余力がなかったのかもしれません。大正から昭和初期にかけて江別(野幌)に煉瓦工場が増えて、主産地が形成されました(末注②)。白石の煉瓦生産は相対的に低下したことでしょう。また、煉瓦を焼く、積むという職能が分離していったとも思われます。
 白石村近郊に居住していたであろう煉瓦積み職人を、新たに白石で創業した白崎さんが雇い入れました。地域の雇用を守る役割を果たしたともいえます。

 昨日ブログで記したように、白崎さんによると、白石での煉瓦生産は昭和30年代まで続けられたそうです。地形図を時系列で下ると、1954(昭和29)年測量1958(昭和33)年発行までは煉瓦工場の記号が描かれていますが、その後は消えます。空中写真では、1947(昭和22)年撮影で写っていた焼き窯の屋根が1961(昭和36)年には見えません。

 その1961(昭和36)年空中写真です。
空中写真1961年 白石駅周辺 煉瓦工場跡?
 黄色の矢印の先に煉瓦工場がありました。建物が幾つか見られますが、焼き窯はなくなったようです(末注③)。赤い矢印の先には池が写っています。ここは土採り場でした。前掲1916年、1935年地形図には、この場所に「土圍」または「土堤」の記号が描かれています。先日お目にかかった横山製粉の専務さん(3月2日ブログ参照)から、昭和30年代、この池で魚を捕ったりして遊んだとお聞きしました。白崎さんの製綿工場は橙色で囲ったところです。白石で煉瓦が焼かれたのは、昭和30年代前半までと思われます。 

 先日、煉瓦の土採り場があったあたりを歩いてみました。現在の町名でいうと白石区本通7丁目北です。
白石区本通7丁目北 煉瓦のオブジェ
 近くで、オブジェを見かけました。煉瓦の土を採った記憶、というのは臭いを嗅ぎとりすぎか。

 注①:1918(大正7)年に作られたとされる鈴木煉瓦工場の職員氏名一覧には、「煉瓦築造職工」が10名、記されている。松下亘「札幌地域のレンガ史」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第15号1988年、p.14-19
 注②:水野信太郎「江別市内における煉瓦産業120年間の変遷」『赤煉瓦ネットワーク北海道大会記念誌 赤煉瓦アラカルト 北緯45°~北緯31°』2010年、p.39
 注③:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年によると、(鈴木煉瓦の)「閉鎖後経営者が替わり、昭和26年頃までレンガの製造がおこなわれていた」(p.39)。

2020/03/05

オヤコわたの旧工場

 UHBみんテレ3月2日の「となリのレトロ」でお伝えした、白崎繊維工業さんの旧工場です。
白崎繊維工業 旧工場 2020年2月
 この建物のことは2017年9月1日ブログで綴りました。気になっていたことがあります。一つは建築年です。同日ブログでは1955(昭和30)年と引用したのですが、その後1940(昭和15年)に建てられたとも聞きました。気になっていたもう一つは「どこで焼かれた煉瓦か?」です。本件建物は、鈴木煉瓦の職人が積んだとも伝えられます(末注①)。鈴木煉瓦は明治から大正にかけて、このあたりで煉瓦を生産した業者です(末注②)。しかし、大正期末期あるいは昭和初期に操業を終えたといわれています(末注③)。建築年が1955年あるいは1940年だと、鈴木煉瓦の閉業後になります。それで、同煉瓦の職人が積んだとすると、どういうことか。
 
 次のようなことが推測されました。
 大正期あるいは昭和初期に生産は終えても、煉瓦は残っていたのではないか。残っていた煉瓦を、地元に残っていた職人が積んだ。
 一方、次のような記述も目にしました(引用太字、末注④)。
 (白崎繊維工業の)創業が昭和16年で、工場もその時に建てられたと伝わっていますが、戦時体制下に建てたとは考えづらく―とはいえ、北海道では物資統制を無視するかのごとく戦中戦後の統制期に建物を建てることが少なくないのですが―、おそらく戦後間もない持代のものと思っています。
 そうだとすると、煉瓦が残っていたというのも考えづらくなります。特に「戦後間もない時代」は、進駐軍が宿舎建設のために江別の煉瓦業者に大量生産を命じました(末注⑤)。物資が「進駐軍ファースト」で調達されたのです。 
  
 このたび白崎社長にお伺いして、以下聞き取りました。
 ・煉瓦の旧工場は、同社が創業した1941(昭和16)年の前年、1940年に建てられた。創業に当たり、工場を整えた。
 ・鈴木煉瓦に勤めていた職人を雇用して、工場を建てた。
 ・鈴木煉瓦は大正期に閉業したが、その後別の業者が煉瓦生産を引き継いだ。昭和30年代までこの地で続けられた。引継いだ業者の名前は記憶が定かでない。

 白崎さんの証言の裏付けになりそうな史料を挙げます。
 空中写真1947(昭和22)年です。
空中写真 1947年 白崎繊維工業付近
 赤い矢印を付けた先に白崎繊維工業が位置します。

 2008(平成20)年の空中写真です。
空中写真2008年 白崎繊維工業付近
 黄色の矢印を付けた先に本件煉瓦建物の屋根が写っています。
 前掲1947年写真と較べると、屋根伏の影が同じに見えてなりません。1947(昭和22)年に本件建物が写っているとなると、それこそ戦中戦後間もなくの物資逼迫期の建築は考えづらく、1940(昭和15)年ならば日米開戦前で、まだ可能だったのではないでしょうか。煉瓦工場と職人のことは別に述べることとします。

 本件建物は現在物置ですが、放送でも言われたとおり、白崎さんは近い将来、地域住民の交流の場として再生させたいとのことです。「最後のご奉公」として、と。応援したい。

 煉瓦とテレビつながりというわけでもないのですが、2018年に放送された「ふるカフェ系ハルさんの休日」江別編がまたまた再放送されます(道内のみ)。3月7日(土)午前10時55分~11時25分、EテレNHK総合(3ch)

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2020-03-07/21/38291/1973059/
 こんなに再放送されるとは思わなかった。

 注①:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年、p.6
 注②:2015.1.182016.2.14各ブログ参照
 注③:松下亘「札幌地域のレンガ史」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第15号1988年、p.9、札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年、p.39
 注④:池上重康「北海道赤煉瓦行脚 その49 白崎繊維工業白石製綿工場」『赤煉瓦ネットワーク 輪環』第69号2009年2月
 注⑤:2016.2.8ブログ参照 

2020/03/04

白石本通周辺の食品工場

 3月2日ブログの続きです。コメントをいただきました。白石区本通周辺の食品工場の立地環境について、「物流と水」というご指摘です。ありがとうございます。実は私も、「水」がアタマをよぎってました。

 2日の「となりのレトロ」放送でちらりとお見せした色別標高図です。
色別標高図 10m未満から5mごと7色 白石本通周辺
 標高10m未満から5mごと7色段彩で作りました。放送では原図のみでしたが、これに工場の位置などを加筆します。
 赤い(大):横山製粉、赤い(小):他の工場(Rパン、N製麺、横山食品)、青い:白石神社
 白ヌキ(右上、長形):JR白石駅、白ヌキ(左下、短形):地下鉄白石駅
 白石神社の位置を示したのは、お察しいただけるかと思いますが、ひとまず措きます。あらかじめこの図を作ってみて、赤い(大)の横山製粉工場が位置する地形が気になっていました。

 白石本通(国道12号)は本通1丁目から14丁目にかけて、望月寒川と月寒川にはさまれて舌状に広がる丘陵にかかっています。しかし、一様な尾根ではありません。ところどころアップダウンしています。地元の方はよくご存じでしょうが、私は8年前に自転車で走ってみて実感しました。
 アップダウンの一つが横山製粉さんのあたりにあります。工場の所在地は正確には平和通5丁目ですが、上掲図でみるとおり国道に向かって南西方向にくぼんでいます。

 産総研の「札幌及び周辺部地盤地質図」2006年で、同じ一帯を観ます。
産総研 地盤地質図 白石本通周辺
 加筆は、JR白石駅と地下鉄白石駅を黄色のとした以外は同じです。
 原図の色分け凡例は以下のとおりです。
 紫色:先沖積層、青色:三角州堆積物、水色:谷底平野堆積物、ピンク色:泥炭堆積物、橙色:扇状地堆積物、黄緑:自然堤防堆積物
 横山製粉さんのところは、帯状の「谷底平野堆積物」の地質です。

 下掲図は作製年代が古いのですが、北海道地下資源調査所による地質図1956年から抜粋しました。
北海道地下資源調査所 地質図幅 白石本通周辺
 印の加筆は前掲図と同じです。当然のことながら地下鉄はまだ通じていない一方、国鉄千歳線が描かれています。

 原図の凡例によると、望月寒川と月寒川の間を国鉄白石駅方面に広がる薄黄緑色(Tk)は、「第四紀洪積世 支笏噴出物 月寒火山灰層 火山灰質粘土」とあります。前掲産総研地盤地質図の「先沖積層」と重なる部分で、より詳細な地質の説明といってよいでしょう。横山製粉のところはやはり南西方向に帯状に食い込んでいます。凡例によると(Al)「第四紀沖積世 現河川堆積物」です。火山灰が積もったところを川が谷を削ったという時系列。

 1961(昭和36)年の空中写真を観ます。
空中写真1961年 白石本通周辺
 横山製粉の現工場・本社が立地したのは1964(昭和39)年(3月2日ブログ参照)なのでこの画像では窺えませんが、便宜的に赤いを加筆しました。

 赤い(大)の横山製粉工場のあたりを拡大します。
空中写真1961年 白石本通周辺 拡大
 赤い(大)の上(北)から右方(東)にかけて、河道らしき地形がうっすらと読み取れます。

 読み取れる限りで水色でなぞってみました。
空中写真1961年 白石本通周辺 拡大 河道加筆
 前掲3点の標高図、地盤地質図、地質図に照らすと、横山製粉現工場の付近をかつて小河川が流れていたことが窺えます。2006(平成18)年の地盤地質図では「谷底平野」ですが、1956(昭和31)年では「現河川」堆積物でした。1961(昭和36)年空中写真が「現河川」を裏付けています。この小河川は鉄路をくぐって月寒川に注いでいました。

 参考までに、現在の河川網図でこの付近の川の流れを俯瞰します。
河川網図 白石本通周辺
 月寒川は旧河道とは断ち切られ、鉄路の北でほぼ真北へ直線化されています。古い地形図を見ると、鉄路の北側の直線的流路は元からあったようです。泥炭地の「大谷地原野」の排水路として開削されたものでしょう。こちらに流路変更されたのは昭和40年代とみられます。
 旧月寒川のほうには暗渠排水が注いでいます。その一つ、鉄路沿いの「本通西排水」が、横山製粉工場のあたりを流れていた小河川の名残のようです。

 ということで、横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました。「だから、何なのだ?」ということまで、まだ至りません。

2020/03/02

大人の自由研究

 白石区平和通にある横山製粉の工場です。  
横山製粉 工場
 本日のUHBみんテレ「となりのレトロ」白石編で訪ねました。

 私のテーマは、「白石本通周辺の食品工場」です。横山さん以外にも、横山さんの関連会社の横山食品、Rパン、N製麺などがあります。小麦(粉)原料の工場です。なぜ、この地に立地したか。「大人の自由研究」です。
 私は放送ではカットされましたが、私が当初想定した‘仮説’は以下の3点です。
 ①都市近郊の農村地帯で、原料農産物の供給に都合が良かった。
 ②同じく、まとまった土地を確保しやすかった。
 ③国道12号という北海道の主要幹線道路沿いで、流通に適していた。
 
 一見もっともらしい、通り一遍の答えでわかったつもりになるのを戒めたいものです。放送に出ていただいた横山製粉の専務さんに伺いました。その前に創立50周年記念誌から、同社の沿革を簡単に振り返ります(『一歩いっぽ』1996年)。
 1897(明治30)年 創業者の祖父が福井県から白石村に移住、農業を営む。
 1946(昭和21)年 創業者、小樽を拠点として起業。道東(新得町)に製粉工場を開設。澱粉生産。
 1955(昭和30)年 小麦粉生産を主力に。
 1956(昭和31)年 本社を小樽から札幌市中心部に移転。そば粉生産開始。
 1959(昭和34)年 白石(本通5丁目)にそば粉工場を開設。
 1964(昭和39)年 白石(平和通5丁目現在地)に本社及び新工場開設。
 1967(昭和42)年 白石(本通6丁目)に横山食品設立、パン粉製造開始。
 1980(昭和55)年 横山食品、平和通14丁目に本社、新工場移転。
 1993(平成5)-1994(平成6)年 本社小麦粉工場の設備大規模更新。 

 専務さんのお話と同誌から、以下の経緯がわかりました。
 ・現在の社屋、工場の敷地は、創業者の生まれ育ったところで、水田や畑があった。⇒まとまった土地を確保しやすかった。 
 ・国道12号、国道36号に近く、流通に利点があった。⇐ 昭和30年代は馬車で苗穂駅まで運んだ。
 ・同社の小麦粉工場新設に「呼応して」、Rパンは白石に工場を新設した。同社新工場で生産された製品はRパンで使用された。
 ・横山食品の工場新設に当たっては、Rパン役員の協力を得た。
 ・Rパン創業者は、同社の役員を務めた。

 前述の私の仮説①②③のうち、当たっていたのは③です。②は半分だけ正解というところでしょうか。横山さんとRパンが兄弟のような関係にあることを、初めて知りました。私の一知半解を思い知ったのは、①です。横山さんの主力製品である小麦粉の戦後史を、私は知っていたつもりが知らなかった。横山さんが小麦粉生産を始めた昭和30-40年代、小麦(粉)は海外から輸入されていました。工場の立地はむしろ、輸入原材料の流通という視点で見るべきだったのです。
 現在、同社では国産(道産)小麦を85%使用するそうです。かつては輸入が85%でした。専務さん曰く「当時、『国産を85%に』などと言ったら、『何を馬鹿なことを』と思われたものです」と。

 専務さんのお話を伺う収録の場面で、後ろにトラックが待機していました。
横山製粉 「レラピリカ」の運送車両
 同社の道産小麦使用ブランド「レラピリカ」の配送トラックです。広報担当の方が配慮してくださいました。
 「地産地消」というキーワードを思い浮かべましたが、専務さんの話を聴くと、これも浅薄だったなと思います。地産地消は結果であって、原因や理由、目的ではない。情緒的な机上の観念論を反省します。

2019/08/03

JR白石駅

 お知らせから。
 ・8月5日(月)uhb(8ch)「みんテレ」15:50-で、“となりのレトロ”コーナーが放送されます。→https://uhb.jp/program/mintele/ 今回はJR琴似駅北口の八軒地区です。
 ・同日に発行される読売新聞朝刊道内版で北海道遺産「札幌軟石」が紹介されます。
 ・同じ日発行の北海道新聞に、「道新青葉中央販売所だより」8/5号「厚別ブラ歩き」連載#23が折り込まれます。ただしこちらは厚別区のしかも青葉町、厚別中央の地域限定です。おって同販売所サイトからもダウンロードできます。→ https://doshin-aoba.jimdo.com/厚別ブラ歩き/
 ・「厚別歴史散歩」上野幌編(7月15日ブログ参照)、8月6日からお申込みを受け付けます(多数時抽選)。→ http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_event.html#rekishisanpo
 
 新聞つながりというわけではないのですが、道新の8月2日夕刊の連載「新世代歌人 山田航のモノローグ紀行」を読んで、私は心中唸ってしまいました。冒頭次のように書かれています(引用太字)。
 JR白石駅、苗穂駅、八軒駅。この三つの駅にはある共通点がある。
 答えられる方は相当すごい。


 私は皆目見当がつかないので、そのまま読み進めたところ、続いて次のように答えが述べられています(引用太字)。
 白石駅は白石区、苗穂駅は中央区、八軒駅は西区。そしていずれも、二つの隣駅がそれぞれ違う区に属している。つまり、異なる区に挟まれている駅という共通点があるのだ。
 苗穂駅と白石駅は隣駅なので、札幌駅(北区)~苗穂駅(中央区)~白石駅(白石区)~厚別駅(厚別区)というルートに乗れば、わずか4駅で四つの区にまたがって移動できる。
 八軒駅は、桑園駅(中央区)と新川駅(北区)に挟まれている。
後略

 心中唸ったのは、この答えです。私はまったく及びもつきませんでした。白石駅の「二つの隣駅」は苗穂駅と平和駅(白石区)または札幌貨物ターミナル駅(白石区)だと思っていました。それは、私自身がJRでもっとも頗る利用しているのが千歳線の新札幌駅-札幌駅間だからかもしれません。
地理院地図 JR白石駅、平和駅、札幌貨物ターミナル駅、厚別駅
 先に引用した答えによると、白石駅の苗穂駅とは反対側の隣駅は厚別駅です。つまり白石駅は(千歳線も乗り入れてはいるが)函館本線の駅であり、平和駅は直近ではあっても千歳線のみの駅であるからして、隣駅はあくまでも函館本線の厚別駅ということでしょうか。また、札幌貨物ターミナル駅はJR貨物の駅なので、「隣駅」には含まれない、か(末注)。
 
 しからば、八軒駅は札沼線の駅であり、その隣駅たる桑園駅は函館本線の駅だけれども札沼線の駅でもあるので、逆は可なり、ということでしょうか。
地理院地図 JR桑園駅、八軒駅
 これはたしかに難易度の高い問いです。と自分が正答に達しえなかったから言うのは負け惜しみめいてますが。自らの発問に「答えられる方は相当すごい」とおっしゃる筆者に脱帽します。
 
 注:札幌貨物ターミナル駅は千歳線の新札幌方面からの盲腸線かとも思った。それだと貨物駅であるとないとにかかわらず白石駅の隣駅とはいえないが、鉄路は白石駅方面にもつながっているようだ。 

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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