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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/29

「となりのレトロ」新川通編 補遺(承前)

 11月26日ブログに続き、UHB「みんテレ」(11月25日放送)の「となりのレトロ」新川編について、もう一つ補足します。

 番組で私は「札幌郡西部図」1873(明治6)年(下図)を見せて、1870(明治3)年の運河計画を伝えました。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線 ?
 画像に赤い矢印と黄色の矢印を付けた先の破線です。私はこれを運河の計画線と説明しました。

 破線の南端部を拡大します。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線? 南端部
 破線は、「シンカワ」と「コトニ川」(それぞれ下から上へ逆さに書かれている)の合流点あたりから、北西、北北西に伸びています。「シンカワ」は、札幌の中心部から直線的に開かれた「寺尾堀」です。この合流点はおおむね、現在の北区麻生町8丁目、札幌市創成川水再生プラザ・下水道科学館に当たります。

 私は、赤い矢印を付けたほうを1870(明治3)年に企図された銭函への運河、黄色の矢印を付けたほうを1886(明治19)年に掘られた「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)の計画線と見ました。結論的にいうと、これは推測、想像の域です。計画線であることを裏付ける史料を持ち合わせたものではありません。
 札幌市公文書館のEさんは「それらしいところに描かれているのだけれど」としつつ、「これは測量基線でないか」と推測しています。銭函への運河の琴似川から北西への開削は、1871(明治4)年には中止されました。したがって、1873(明治6)年の地図に計画線が残るのは不自然かもしれません。
 明治6年古図に描かれた破線について私は2018年5月6日ブログで言及しています。そのときは「これは計画線のように見えます」と記したのですが、今回の放送では断定口調に寄ってしまいました。反省します。

 ところで、その破線のうち黄色の矢印を付けたほう、すなわち私が茨戸への運河の計画線とみた流路は、実際にはどのように掘られたでしょうか。
 大正5年地形図を見ます。
大正5年地形図 創成川流路 新琴似 篠路
 青色でなぞったのが琴似川、水色でなぞったのが「寺尾堀」、1886(明治19)年に琴似川との合流地点から北北東へ直進して延伸された「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)です。地図には、北端の石狩川(現在の茨戸川)に合流するあたりに「創成川」と書かれています。

 この流路も、冒頭明治6年古図に描かれた破線(黄色の矢印を付けたほう)とは明らかに異なっています。異なっているから破線は計画線ではなかったということも言えません。明治6年古図から実際に流路が開かれるまでは、10年以上の時間差があります。計画と実現が異なることもありうることです。さりとて、破線を計画線とこだわるならば、何らかの根拠が必要です。

 私は、市公文書館のEさんから教えてもらった別の古地図に注目しました。
「新川分間略図」1872(明治5)年 全体
 2018.5.9ブログでも一部引用した「新川分間略図」1872(明治5)年(北大図書館蔵)です。
 南端から琴似川まで水色で水路(寺尾堀)が描かれ、琴似川との合流点から北へ、赤い実線が引かれています。私にはこれも計画線に想えるのです。

 赤い実線の北端あたりを拡大します。
新川分間略図」 赤い実線の北端部
 石狩川(茨戸川)には直結せず、発寒川に達しています。冒頭明治6年古図に黄色矢印で示した破線と似ている描かれ方です。

 画像右方(東方)に「シノロ沼」と書かれた沼が描かれています。赤い実線は、この沼を避けて引かれたようにも見えなくはありません。冒頭明治6年古図でも、破線は沼地らしいところを避けているかのようです。
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2019/11/26

「となりのレトロ」新川通編 補遺

 25日に放送されたUHB「みんテレ」の「となりのレトロ」では、新川を紹介しました。局スタッフから提案があったのは、ほかでもありません。2020年東京オリンピックのマラソン・競歩が札幌で催されることとなり、コ-ス候補地として新川通が一躍“脚光”を浴びたためです。テレビでは、東京キー局の番組で“ディスリ”、道内ローカルで反発という構図でした。前者は、降ってわいた札幌開催そのものへの反感をベースに、とりわけ新川通を走ることへの懸念(行程が単調、日差しを遮るものがないなど)だったようです。後者は、“おらが地元”への貶めや札幌が五輪の華を横取りしたかのような“不当な言いがかり”に対する異議とでもいえましょうか。マスコミならではのマッチポンプ(古語)という感なきにしもあらずですが、これを機に新川を文字どおりレトロスペクトするのもよいかと思います。
 
 さて、その新川です。
新川 西陵橋から南望
 番組の落としどころは、新川開削の“知られざる”目的を明らかにすることでした。低湿地の排水乾燥化に先立って、もともと水運・物資輸送を企てたという目的です。ただしこれは以下、注釈させてください。
 現在の新川(琴似発寒川との合流地点より上流の琴似川を含む直線的人口河川)は1886(明治19)-1887(明治20)年に開かれました。この川が「水運」も目的として開削されたかというと、それを裏付ける史料は現時点で見つかっていません。史料として明らかなのは、あくまでも「排水」です(末注)。
 しかし、「水運」に言及している二次的資料が散見されます(末注②)。これは1870(明治3)年に企図された「新川」(末注③)と混同されているのではないでしょうか。このときは、「物資輸送の確保」が目指されていました(末注④)。札幌市公文書館のEさんにお尋ねしたところ、1886-1887年開削時はやはり「排水」とする史料しか見当たらないそうです。「史料に書かれていないから『水運』の目的はなかった、と断定まではできませんが…」としつつ、否定的な見解でした。
 1870年新川と1886年新川の間には十数年の時の経過があります。その間の1880(明治13)年には札幌手宮間に鉄道が通じました。また、現在の新川が掘られた1886年には創成川(寺尾堀)が茨戸まで直進され、のちに「札幌茨戸運河」となります。水運は石狩との間につながりました。しかるに小樽方面へは鉄道が敷かれた後、その鉄路にほぼ並行して開いた新川にあえて物資輸送の機能も目されたとは、私には考えづらいのです(末注⑤)。

 新川の橋上から下流を眺めると、JRタワーがアイストップになって望めます(前掲画像は西陵橋からの眺望。したがって、写っている川は「琴似川」)。まるで札幌駅からの軸線を図ったかのようです。この風景にはロマンを感じるのですが、史実とは区別しなければならないなと自戒しました。

 注①:「北海道庁事業功程報告明治二十年度」(道立文書館蔵)の「札幌近傍原野排水及道路開鑿」に、「小樽内札幌間」の起工について記されている。「本工事ハ小樽内川ヨリ琴似川ニ至ルヲ本線トシ排水渠ノ延長三千四百三十五間之ニ傍フテ幅四間延長六千百四十九間ノ道路ヲ築キ片側ニ下水ヲ通シ支線ヲ設ク」。標題が「原野排水」であるのみならず文中も「排水渠」とあり、水運、舟運等の文言は無い。「官報 明治二十年十二月二十四日 札幌近傍排水工事」も同様の記述であるほか「此工事ハ近傍数多ノ小流水ヲ此新堀割渠ニ湊合シテ小樽内川ニ排注スルノ計画ナレハ工事ノ全テ竣ルニ至レハ琴似発寒軽川等緒川ハ概ネ涸渇シテ此諸川近傍幾千万坪沮○(サンズイ扁に如)卑湿ノ地変シテ乾燥肥沃ノ園圃トナルニ至ルヤ疑ヲ?ルヘカラス」。 
 注②:『新川郷土史』1980年が引用する『札幌市史』(旧市史)では「排水、水運治水の目的を同時に遂行したもの」と記述(p.54)。札幌市河川事業課『さっぽろの川と人々のくらし』では「物資の運送の利用も兼ねて、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけ『新川』の開削が始まりました」(p.9)。山口甲(元北海学園大学教授・元北海道開発局長)「新川という川」新川流域を楽しくする会『新川ルネサンス~新川の新たな可能性を探る~』2018年には、「掘削した目的は氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すため」(p.9)。同書巻頭の「『新川ルネサンス』発刊にあたって」にも「新川開削の目的を調べてみると、川の氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すためと有ります。つまり内陸運河のイメージで掘削されたと推測されます」。
 注③:その上流部は、大友堀を北6条以北、直進させ、琴似川までつなげたいわゆる「寺尾堀」。のちに創成川。
 注④:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、「新川開削」pp.73-75
 注⑤:新川の下流には、「花畔銭函間運河」が1895(明治28)年に掘られ、新川の左岸側では水運に用いられた(山口運河)。『新札幌市史 第二巻 通史二』「札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削」pp.649-651

2019/09/12

サンピアザ水族館の外壁画に再び巡り逢う

 サンピアザ水族館の外壁には現在、何も描かれていません。
サンピアザ水族館 外壁
 かつては低層部のタイルに壁画が描かれていました。新さっぽろ界隈を生活圏とされている方なら、ご記憶の方も多いのではないかと思います。

 描かれていたのは、一種のだまし絵です。歩きながら見ていくと、魚が現れては消え、消えては現れ、と連なっていました。目を楽しませてくれたものです。何年か前の修繕工事にともなって、なくなりました。なくなってから、「ああ、写真に撮っておけばよかったなあ」と悔やんだのですが、時すでに遅しです。まさかこのようにキレイサッパリ消えるとは思ってませんでした。

 このたびひょんなことから、その‘作品’に再会することができました。
サンピアザ水族館外壁のかつてのだまし絵と同じ‘作品’
 とある元魚屋さんの店内に貼られているのです。額縁の絵が架かっている後ろのタイルに描かれています。私はサンピアザ水族館の外壁画と同定しました。
 水族館の物件が移設されたのかと思いきや、ご主人に伺うと、さにあらず。1982(昭和57)年、水族館に外壁画を納めた業者さんから、余り物を贈られたのだそうです。「魚屋さんに、ちょうどいいだろう」ということで。1982年といえば、水族館が開館した年ではありませんか(末注)。
 久しぶりに拝められて、私には至福のひとときでした。かように感激する観覧者がいて、だまし絵の魚(サケ?)も喜んだにちがいない。

 注:札幌市厚別区『あつべつ区再考』1994年、巻末年表

2019/04/15

北大に遺る競馬場の地形

 本日もまず、お知らせを一つ。
 明日16日(火)の北海道新聞朝刊(札幌圏版)に、北海道百年記念塔にちなむ話題記事が載る予定です。

 さて、15日夕刻放送されたuhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナー、“余話”(+コトバ足らずの補足)は拙ブログでおいおいお伝えします。
 ①なぜ、競馬場が(今の)クラーク像前に設けられたか?
 ②沢田商店が北大から預かったモノ
 ③時空逍遥の原風景

 全部消化しないうちにまた次の収録・放送が来て“積み残し”そうですが、お許しください。

 ①なぜ、競馬場が(今の)クラーク像前に設けられたか?
 2016.7.31ブログでの謎かけの答えになります。

 番組でもお見せした開拓使育種場の地図です。
開拓使 育種場地図
 (「明治15年5月 引継書類 勧業課」道立文書館蔵から)
 
 この地に育種場の前身となる「札幌官園」が設けられたのは、1871(明治4)年から1874(明治7)年にかけてのことです(末注①)。その後、敷地の東半分くらいが札幌農学校の「農黌園」となります。前掲の地図は西半分で、官園から育種場に改称された後のものです。競馬場の楕円コースが描かれています。造られたのは1877(明治10)~78(明治11)年です(末注②)。

 このあたりの現在の標高図を観ます(国土地理院サイトから作成)。
標高図 北大 クラーク像周辺
 図中「北海道大(農)」と書かれたところの「大」と「(農)」の間に記されている記念碑記号がクラーク像の位置です。そのすぐ東側は青く塗られています。つまり標高の低い地帯で、サクシュ琴似川が削ったくぼ地(一種のコッネイ→コトニ→琴似)です。これは現在の標高図ですが、原風景に近いのではないかと私は想います。

 冒頭画像の明治初期の育種場地図を再掲します。
開拓使 育種場地図 着色加筆
 川を水色で着色加筆しました。東側(画像上、右方)を流れるのがサクシュ琴似川です。西側(画像上、左方)の二本の流れはコトニ本流ですが、今は姿を消しています(末注③)。サクシュ琴似川は、流路が今もあまり変わっていません。

 前掲標高図と照らして、クラーク像の位置を黄色の△の先に示しました。その部分を拡大します。
開拓使 育種場地図 着色加筆 競馬場周辺
 このあたりに、/////////というケバ線が描かれています。いわば高低差です。

 その現在の風景です。中央ローンと呼ばれています。
北大 サクシュ琴似川 クラーク像
 この画像はおおむね前掲の育種場図に加筆した黄色の△の位置と向きで撮りました。赤い矢印の先がクラーク像です。
 クラーク像から左方へ、生垣が植えられています。生垣に沿って、少し小高くなっているのがおわかりいただけるでしょうか。この生垣が、前掲育種場のケバ線とほぼ見合います。つまり、明治の初めに描かれた高低差が、今も生垣に沿って遺っているのです。

 ここで、競馬場の位置を現在の標高図に想定します。
標高図 北大 開拓使競馬場想定位置
 白ヌキの△が前掲中央ローンの撮影位置と向き、□はクラーク会館です。競馬場の想定位置を楕円で示しました。

 結論的にいうと、開拓使の競馬場はサクシュ琴似川とコトニ本流の間の微高地に設けられたのではないでしょうか。コースの整備のために盛り土されたという可能性もありますが、比較的均平で地盤の良さそうなところが選ばれたように見えます。

 クラーク会館から、北を眺めました。
北大 クラーク会館から北望 競馬場の高低差
 右方、シラカバの根元に連なるの生垣を、微高地側から見ています。真ん中に通るのは、北大の背骨ともいえる「メインストリート」(中央道路)です。競馬場はこの左方奥にあったと想います。
 
 お伝えしたかったのは、明治の初め(その前から?)の高低差が今も遺っていることです。
 育種場は農学校に移管され、明治後期に校舎が時計台のあたりからここに移転しました。校舎も、競馬場跡の良さそうな土地に配置されたと想えます。メインストリートも、この微高地に通じました。

 では、そもそもなぜ、ここに官園が設けられたか。長くなるので(というか、もうすでに長い)やめましょう。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.93、富士田金輔「開拓使の洋風農業導入における札幌官園の現術生徒の役割」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第52号2007年、pp.21-34
 注②:『札幌競馬沿革誌』1928年、p.18。現在のレースに近い形では道内で初めてで、国内でも4か所しかなかった一つだったという。
 注③山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.42-60。同書に記されるとおり、サクシュ琴似川は本来「サクコトニが原音に近く、「アイヌ語にシュにあたる子音はないようだ」(p.47)。これまで拙ブログではサクシコトニと表記してきたが、今回は札幌市管理の川名にしたがい、サクシュ琴似川とする。

2019/02/24

篠路の高校生の行動力に脱帽

 本日は、午前中は北区篠路で「第3回 篠路のまちづくりを考えるシンポジウム」、午後は札幌市資料館で「札幌軟石と北の石文化」展の「セミナー」に参加しました。2月19日ブログでお伝えしたように、どちらも札幌軟石絡みです。

 篠路のほうは40名ほどの方が来られてました。 
第3回篠路まちづくりシンポジウム 190224
 地道な積み重ねに、幾度も敬意を表します。

 私は「篠路高見倉庫の歴史的価値について」報告しました(末注①)。昨年1年間を振り返ると、私はこのテーマで4回、しゃべっています(末注②)。よくまあ何度も、と我ながら感慨深い。繰返しお呼びがかかることに感謝しつつ、自分がそれに応えきれているだろうか忸怩を抱きつつ、皆さんの“向学心”に感服するものです。

 地元の札幌英藍高校の生徒さんのラジオ放送が紹介されました。篠路高見倉庫を取材した番組です。私は驚きました。何が驚きかというと、生徒さんたちが高見倉庫の内部に入ってレポートしたことです。これが驚くべきことなのは、篠路に関わってきた方でなければただちには伝わらないかもしれません。昨年1年間、「わきあいあい篠路まちづくりの会」のメンバーは、「高見倉庫さんの中を一度、見せていただけないだろうか」とずっと語り合ってきました。私にしても、建物の「歴史的価値」をうんぬんする以上、実際に拝見させていただくのは必須です。しかし、実現することなく過ぎてきました。ダイの大人が1年間、悶々としつつ果たせなかったことを、高校生がさらっと(なのかどうかは判りませんが)やってのけたのです。畏るべし、高校生。

 これは、英藍高の前身の札幌篠路高校で長く教鞭を取ってきたT先生のたまものだと私は想像しています。先生の地元での信頼関係の蓄積があってのことでしょう。

 注①:「篠路高見倉庫」の「高」は「髙(はしごだか)」だが、「高(くちだか)」で表記する。
 注:2018.5.23「わきあいあい篠路まちづくりの会 学習会」、7.30「第2回篠路駅東口駅前広場在り方検討会議」(オブザーバー報告)、9.2「第2回篠路まちづくりシンポジウム」、11.16「第2回篠路まちあそびカフェ」

2018/11/26

篠路駅東口駅前広場の行方、大詰め

 本日(11月26日)篠路会館で開催された「篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議」第5回を傍聴してきました。地域住民及び有識者からなるこの会議は、本年1月の札幌市都市計画審議会で審議された篠路駅東口の都市計画事業についてさまざまな意見が出たため、地域住民の意見をあらためて取り入れるべく始まったものです(末注)。
 
 今回はその最終回で、これまでの議論をまとめて札幌市に提出する「提言書」について議論されました。
篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議第5回
 札幌市は今後、「提言書」を尊重して都市計画を練り直すことになります。

 提言書(原案)の最大の眼目は、1月に決定された駅東口に係る都市計画の区域を変更することです(本年10月3日ブログ参照)。当初決定された区域内には「篠路高見倉庫株式会社」の倉庫3棟が立地しています。倉庫の存続と都市計画事業の両立が困難を極めていました。しかし提言書案では、倉庫の価値を評価するとともに、都市計画の区域を変更することにより倉庫の存続が望ましいという方向性が示されたのです。出席委員の意見交換を経て、提言書案は大筋了承されました。

 提言書案には、篠路高見倉庫の歴史的地域資産としての評価が書き込まれています。その内容は、7月30日の第2回検討会議で私が傍聴者席から報告した「篠路高見倉庫の『歴史的地域資産』価値ついて」のとおりです(札幌市サイト第2回会議議事要旨参照)。微力ながら私自身が調べてきたことを活かしてくださったことは大変ありがたく、感慨深く受け止めています。もとより、これは「わきあいあい篠路まちづくりの会」の共同の成果です。

 「ただし」と、拙ブログでは付け加えておきます。私が報告した内容は精査検証が必要です。一次的史料に当たらず二次的な文献に依拠しているため、推測の域にとどまる評価が含まれています。これがそのまま独り歩きするのはコワイのです。さらには、7月30日の報告以降に得られた知見もあります。今回の会議で石本委員(わきあいあい篠路まちづくりの会会長)が「私たちが議論してきたことを書き込んでいただいたことには感謝します」と述べつつ、「この内容(提言書案)は、(高見倉庫の)持ち主の方にも目を通していただいたほうがよい」と発言されたことは、その意味でも的を射ています。

 注:札幌市サイト「篠路駅周辺地区のまちづくりについて」ページ参照

2018/11/18

社会教育の観点から、篠路駅前を見渡す

 11月17日、「北海道社会教育フォーラム2018」の分科会に参加しました。
北海道社会教育フォーラム2018 石本さん報告
 北大の人文社会科学総合教育研究棟(“軍艦講堂”を増築した建物)で開催されたこの会合は、道内の社会教育・生涯学習の研究者や実践者からなる実行委員会が主催したものです。

 私が参加した「暮らし続けられる地域」をテーマとする分科会の趣旨は次のとおりです(同フォーラム資料から、引用太字)。
 地域には各々固有の歴史がある。その歴史や歩みと出会うことは、現在を確認し、暮し続けられる地域づくりの未来を展望することにもつながる。本分科会では、歴史的建造物の保存や活用における現状と問題を共有しつつ、それらを生かした地域づくりの可能性と課題について、(中略)報告いただき、議論を行う。 

 報告者は、栗山町・小林酒造の小林精志さん、「わきあいあい篠路まちづくりの会」の石本依子さん、大村雅幸さんのお三方です。石本さんと大村さんが、篠路駅東口の都市計画に関わってきた活動(本年10月3日ブログ参照)を報告されました。小林さんの話も大変面白かったのですが、機会をあらためます。
 私も加わってきた篠路での「歴史を生かした地域づくり」を、社会教育の実践という観点から振り返ることができました。議論を終えて鈴木敏正先生(北海道文教大学教授、北大名誉教授)がまとめた発言を私なりに理解すると次のとおりです。

 ①地域住民が積極的に行動して、都市計画を動かしつつある。
 ②「わきあいあいまちづくりの会」が、“熟議の民主主義”を貫き、“バックキャスティング”(末注)を追求してきた。
 ③意識的に歴史を学び、調べ、新たな発見をして、その過程で人びとの新たな繋がりを拡げ、その成果を人々の間で共有してきた。
 ④上記①~③をなしえてきたのは、「和氣藍々」という場の存在があったからこそである。

 私も今年の3月から「まちづくりの会」に毎回させていただき、上記のことを肌身に感じます。ほぼ月2回のペースで開かれてきた会合に、篠路住民でない私が遠路はるばる足を運ぶのはしんどかったのですが、石本さんたちのご尽力を想うと心と体が動かされてきました。特に③の「歴史を学び、調べ…」ということは、これを抜きにすると、ともすれば古い建物の保存が自己目的化される陥穽にはまります。私自身、最初から唱え続けてきたことでもあり、良かったと思います。ただし、弛まざる再検証は必要ですが。

 フォーラムのあとの懇親会で旧知のMさん(北大教授)と話をしたときに、“プレイスアタッチメント”というキーワードを聴きました。カタカナ言葉はどうも聞き慣れないのですが、“場の愛着”ということですか。歴史的景観資産の評価でいうところの“思い入れ価値”か。
 篠路高見倉庫も含め、最近の私は景観資産の“思い入れ価値”に消極的でした。「情緒や郷愁で古いモノを保存できるのか」という反問に抗しえない自分がいます。それが「地域的価値」とか「文化的価値」とか「物語性」とかを掘り起こすモチベーションにもなっていたのですが、原点に立ち返ったほうがいいなと思い直しました。「駅前の風景」展(昨日ブログ参照)はその原点です。
 しかし、拙ブログで綴っているのは、プレイスアタッチメントそのものではないか。理論的には整理できないにしても。

 注:バックキャスティングは、“現状の延長”から出発してものごと考えるのではなく、「こうありたい」姿から「今をどうするか」考える方法らしい。 

2018/11/17

「駅前の風景」展

 uhb(北海道文化放送)の夕方の番組「みんなのテレビ」で11月19日(月)、苗穂界隈のことが報じられます。性懲りもなくというべきか、案内役で顔を出す予定です。大きな報道等が入らない限り、午後3時50分から4時半くらいまでの間で、10分程度オンエアされるでしょう。冷や汗ものですが、よろしかったらご覧ください。

 拙ブログでもここのところ苗穂を取り上げていますが、本日のお題でいう「駅前の風景」は篠路です。
「駅前の風景」展
 コミュニティカフェ「篠路まちづくりテラス和氣藍々」の一隅に、11月16日から「駅前の風景」を描いた絵を展示させていただいています。 

 札幌建築鑑賞会で9月23日に催した「古き建物を描く会」(同日ブログ及び11月2日ブログ参照)で写生したときの作品から、5名の方が計6点を出品してくれました。Sさん、Fさん、Oさん、Kさん、Yさん、ありがとうございます。

 「和氣藍々」は、「わきあいあい篠路まちづくりの会」の母体ともなった存在です。同会はこれまで拙ブログで綴ってきたように、篠路駅前の都市計画のあり方をめぐって、活動を続けてきました(10月3日ブログ参照)。今回の展示も、その活動に鑑賞会も連携してきたご縁です。
 旧苗穂駅(もう「旧駅舎」というのですね)での展示(11月13日ブログ参照)と同じくささやかですが、「駅前の風景」を味わっていただければ幸いです。30日まで(定休日あり)。

2018/11/02

篠路まちあそびカフェ ご案内

 北海道遺産の第3回選定のことは新聞やテレビでも報じられました。
北海道新聞181102記事 札幌軟石紹介
 北海道新聞11月2日朝刊では「地域の話題 札幌」面で、「札幌軟石」も紹介されています。

 一昨日、記者の方から「“喜びの声”を聞かせてください」という問合せがあり、一晩おいてお答えしました。最初は「価値が認められてうれしい」というような感想を伝えるつもりでしたが、一晩寝かせたら、別のことが浮かんできました。札幌軟石の建物を訪ね歩いてお会いした持ち主の方や札幌建築鑑賞会で一緒に調べた仲間の人たちの顔です。私に報道機関が尋ねてきたということは、口幅ったいながらも、そういう人びとの気持ちを代弁せよということではないかと思い直しました。結果的にはいささか高踏的なコメントが活字になっていますが、どうか行間を汲み取っていただけたらと願います。勝手なお願いですみません。

 とまれ、これからも札幌軟石の伝道師の一人として、これ務めていきます。
 早速というわけではありませんが、11月16日(金)に篠路で軟石建物について語ります。
篠路まちあそびカフェ181116案内
 テーマは「篠路高見倉庫は何を物語っているか」。

 9月2日に催された篠路駅前まち歩き(9月3日ブログ参照)の座学版です。内容を深めて伝えたいと思います。午後6時から、篠路まちづくりテラス和氣藍々(わきあいあい)(北区篠路4条9丁目15-10)にて、参加費200円。

 「篠路高見倉庫」(10月3日ブログ参照)の高見さんも、前述の「札幌幌軟石の建物を訪ね歩いてお会いした持ち主の方」のお一人です。さる9月23日に札幌建築鑑賞会で開いた「古き建物を描く会」(9月23日ブログ参照)のとき、高見さんにお目にかかりました。偶然というより必然というべきかもしれません。高見倉庫の目の前で数名でスケッチしていたのですから。私は思いきって、高見倉庫について調べた資料を差し出しました。高見さんは「これまで、こういうふうに調べてくれた人はいなかった」と言って、私の資料を快く受け取ってくださいました。メンバーが描いた絵も、喜んで観てくださったのです。私の思い込みだったらお許しください。持ち主の方と気持ちが通じ合えたひとときでした。
 「札幌軟石」北海道遺産選定の内定を伝え聞いたのも、「篠路まちづくりの会」に参加した帰りのことでした。夜、篠路駅前のバス停でバスを待っていたときです。「軟石ネットワーク」の佐藤さんから携帯に連絡が来ました。高見さんのことと併せ、足繁く現地に足を運んで、いいこともあるなあとしみじみ思ったものです。

2018/10/03

篠路高見倉庫の行く末

 JR篠路駅の東口駅前に遺る「篠路高見倉庫株式会社」の倉庫3棟です。札幌軟石を用いています。かねて拙ブログで記してきたとおり、この場所は都市計画事業(区画整理)により、駅前広場の設置が構想されています(本年1月26日1月31日参照)。
篠路高見倉庫 201805
 倉庫3棟の行く末が、地元で案じられてきました。

 10月2日、倉庫群の行く末に大きな影響を及ぼす「篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議」が篠路会館(北区)で開催されました。7月30日の第2回(8月1日ブログ参照)に続く第3回です。会議を傍聴してきましたので、様子をお伝えします(末注)。

 今回、札幌市から駅前広場の「イメージ案」が3案、提示されました。
 まず案1
篠路駅東口都市計画(区画整理事業)駅前広場のイメージ案1
 これは従前、示されてきたものです。
 都市計画決定された区画整理事業のエリアを赤い線で囲いました。黄色のベタはロータリー(バス、タクシーなどの滞留スペースと緑地)です。橙色の線で囲ったのが倉庫3棟で、この案ではその存置は物理的に不可能となります。

 次に、案2です。
篠路駅東口都市計画(区画整理事業)駅前広場のイメージ案2
 都市計画決定のエリアは変わらず、黄色のロータリーの面積が減ります。ということは、バスやタクシーなどの滞留スペースの面積が減るということです。その一方、倉庫2棟の存置が想定されています。

 そして案3
篠路駅東口都市計画(区画整理事業)駅前広場のイメージ案3
 都市計画決定の区域を変えるものです。面積は変わりません。倉庫3棟(橙色のベタ)は区域から外れます。
 
 札幌市から席上、本件倉庫の所有者が現在地で営業継続を希望しているとの表明がありました。この案はその意向を尊重したものでもあります。
 駅前広場の面積は変わらず、かつ倉庫3棟が所有者の意向のもとで存置される見通しです。ただし、この案だと、都市計画決定を変更する必要があります。札幌市によれば、変更しても当初の事業計画と比べて遅れは生じないとのことです。
 出席した委員の間では、案3を妥当とする意見が大勢を占めたように窺えました。委員のうち、倉庫の保存活用を求めて活動してきた住民グループ「わきあいあい篠路まちづくりの会」(9月3日ブログ参照)のⅠさんも、案3を支持する旨発言されました。

 Ⅰさんはじめ、粘り強く活動されてきた「まちづくりの会」の皆さんに、あらためて敬意を表します。私も、心中思うところは多々ありますが、都市計画=軟石倉庫の解体という流れが変わりつつあることを前向きに受け止めたい。微力ながらも、Ⅰさんたちの活動を側面的に応援してきたことを誇りに思います。ただし、これからがまた、新たな出発点です。

 注:拙ブログで伝える会議の内容は、掲載した「イメージ案」も含め、あくまでも私の見聞に基づくものである。正確には、おって札幌市サイトで公表されるであろう議事録要旨等を参照されたい。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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