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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/08/01

篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議(第2回)

 7月30日に開催された標記会議を傍聴してきました。
篠路駅東口駅前広場の在り方検討会議 第2回 開会前
 画像は議事進行前の様子です(進行後は撮影禁止)。手前には多くの傍聴者が詰めかけていました。 
 この会議が開かれるに至った経緯は、札幌市サイトの「篠路駅周辺地区のまちづくりについて」をご参照ください。また、私がなぜ会議を傍聴したか、その理由はこれまで拙ブログで綴ってきた篠路駅東口関係の記事(末注)に由ります。

 ひとことでいうと、篠路駅前に遺る札幌軟石の倉庫群の行く末に大きく影響を及ぼす会議だからです。
篠路高見倉庫 201805
 篠路駅東口に関わる都市計画(区画整理事業ほか)で駅前広場の設置が構想されており、その予定地に本件倉庫があります。札幌市は、地区住民、有識者の意見を参考にしながら事業を進めていくこととしており、この会議もその一環です。 

 実は、今回の会議で私は傍聴席から発言しました。私は会議の構成員(委員)ではありませんので、議事進行の委員長のお許しを得てのことです。
 なぜ、私が発言することになったかというと、6月6日に開催されたこの会議の第1回で、「倉庫を残す価値があるか、歴史的建造物と言えるかどうか」といったことが少なくない出席者から出されたからです。そこで、委員の一人である「わきあいあい篠路まちづくりの会」会長のNさんからの依頼を受け、本件倉庫の歴史的地域資産としての価値を私が報告しました。前回の会議ではさらに「まちづくりと併せてどのように活用していくかが重要」という指摘もあったため、これは委員のNさんが倉庫活用についての提案を説明しました。

 これらの報告、説明の後、委員の間で意見交換がありました。その内容はかいつまむと、「倉庫群はなんとか一棟だけでも残してほしい」という発言もありましたが、議論の在り方に対する批判が相次ぎました。曰く「倉庫ありきで、話が進んでいる」「倉庫のほかにも議論すべきことが多くある」「保存ありきではない」「持ち主の意向が第一である」「倉庫を残すことを前提として、持ち主不在で議論が続いている」「会議時間の多くが倉庫のことに費やされている」など(正確な内容はおって札幌市サイトで「議事要旨」が公表されると思いますので、そちらを参照してください)。
 
 今回の会議を傍聴して、私は次の感想を抱きました。 
 私の報告を含むNさんの説明・提案は、なぜか「保存ありき」の議論と受け止められたきらいがあります。しかしNさんの発言は、前回会議での指摘を受けたものです。そもそも、前回会議で委員長から「議論の主なポイント」として提示されたのは「ロータリーの形状をどうするかということと、軟石倉庫が地域資源として重要かどうか、重要な場合はその残し方について」でした。もとより私の報告は、委員が保存活用の是非を判断する前提としての情報を提供したにすぎません。
 にもかかわらず、少なからぬ委員の発言は、倉庫を話題にすること自体を問題視しているように私には聞こえました。委員長が提示した「議論の主なポイント」からして、倉庫のことに時間が使われるのは当然でありましょう。問題はその中身です。私の報告やNさんの提案に対して疑義があるなら、それは具体的に大いに質せばよい。
 「持ち主の意向」について申し上げるならば、委員に問われているのは、建物をどのように評価し、持ち主にどのようにモノ申すか、ではないでしょうか。もちろん、最終的に持ち主の意向が絶対であるのはいうまでもありません。しかし、それこそ「意向ありき」ではない。第三者との関係で、意向は変わりうるものです。例えば、登録文化財の多くは、最初から持ち主が登録を発意したものではありますまい。有識者や行政が持ち主に働きかけて実現に至った例は枚挙にいとまがない。
 しかも、本件倉庫の場合、札幌市が現在の持ち主から底地を都市計画用地として購入することになっています。ならば、札幌市はどう判断するのか。それを形成する一環が、この会議でありましょう。委員各位には、主体的な考えを持ってもらいたいものです。その材料は提供しているのですから。
 駅前広場(ロータリー)の形状については、一義的にはそれを必要と考える人・組織がいわば挙証すべきです。証拠をそろえて、具体的に大いに提案したらよろしい。
 この会議は、予定では9月12日に第3回を残すのみです。少なくともこれまでの2回を聞いた限りでは、これをもって「地域の方々と札幌市との協働によるまちづくり」というのだろうかと、私は懐疑的になりました。

 それにしても、一つの建物に向き合うというのは、エネルギーを要しますね。
 「なくすのは簡単。でも篠路の歴史を想起させる風景は上書きされる。いま一度、倉庫群の物語に耳を済ませたい」(北海道新聞2017年9月8夕刊コラム「今日の話題」、2018.2.1ブログ参照)。
 繰り言ですみませんが、遺すことの大変さを想うと、「なくすのは簡単」と私は簡単に言えません。いや、こういうキレイゴトを謳うのもいい。ただし、遺すためのシンドイ作業も背負いながらでないと、空疎に響くのです。

注:2018.1.24ブログ「篠路のまちづくりを考えるシンポジウム」
  2018.1.25ブログ「札幌市都市計画審議会を傍聴しました。」
  2018.1.26ブログ「JR篠路駅東口の土地区画整理事業」
  2018.1.31ブログ「篠路駅前の倉庫をめぐる都市計画審議会の議論」
  2018.2.4ブログ「篠路のシンポジウム、終わりました。」
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2018/07/23

丸〆街道のカフェ再生

 前に北区篠路の古道「丸〆街道」のことを拙ブログで綴りました。街道沿いに木造下見板貼り・腰折れ屋根の元馬小屋が遺っています。2016年5月からカフェに再利用されていたのですが、昨年閉店しました(2017.7.18ブログ参照)。

 このたび現地に行ってみたところ…
篠路9条 うまごやKope
 再びカフェとして使われていることを知りました。

 カフェと小物雑貨の店です。「Bob’sカフェ うまごやKope」といいます。昨年(2017年)10月に開店したそうです。丸〆街道の歴史を調べて以来、思い入れを深めていただけに、この建物が再々生されたのを嬉しく思います。
 北区篠路9条6丁目1-5 営業時間10:00-17:00(木・土11:00-16:00)不定休

 本題とは関係ありませんが、昨日7月22日をもって拙ブログが満4年に達しました。昨日までの1,461日間で公開した記事は1,438本です。ブログを始め、続けるに当たって心がけているモットーの一つである「日々更新」をほぼ実現してきました。モットーは他に二つあります。「初出・一次情報」と「出所明示」です(2015.7.23ブログ参照)。情報を日々発信しつつ質を維持できているかどうか、その判断は読者に委ねることとしましょう。参考までに数的(量的)指標を末注に載せます。

 ご愛顧してくださっている皆様に深く感謝申し上げます。コメントを寄せてくださる方、「拍手」してくださる方、ありがとうございます。数的(量的)指標では測りづらい質的反響を大事にしながら、今後も可能な限り続けていきます。オフラインのリアルなコミュニティともいうべき札幌建築鑑賞会という活動を27年続けてきたのも、「とにかく続ける」ことに意味があるという思いがありました。拙ブログもそのつもりです。と記しながら、もしかしたらある日突然、やめてしまうかもしれません。時空逍遙とはそんなものでしょう。所詮うたかたです。それくらいの気持ちでいたほうが却って長続きするという逆説でもありますが。

注:ブログを始めて1年余の2015年9月4日から閲覧者数を数えるようにした。いわゆる“ユニークユーザー”で、一日当たりの実閲覧者数。奇しくもというべきか、その数が本日をもってちょうど6万名に達し、本日までの日数で均すと60,000名/1,054日≒57名/日。2,015年当初の4週間(28日)の平均は30名/日、2016年9月では53名/日、2017年7月では65名/日、本年の直近4週間では88名/日である。ちなみに拙ブログが加入しているFC2というサイトの「歴史」ジャンルで、登録されている約1,000のブログ中のランキングは直近でおおむね10~20位(上位1%台)。

2018/07/10

篠路町篠路の煉瓦造倉庫 ②

 昨日ブログに記したように、煉瓦造倉庫は伏籠川の古川たる篠路川のほとりに遺ります。
篠路町篠路 煉瓦造倉庫 遠景
 市街化調整区域で幹線道路から外れたところということもあって、目につきづらい場所です。

 札幌市内にはまだまだ、かような大物な遺っていたのですね。
篠路町篠路 煉瓦造倉庫②
 フットパスとして設定されたおかげか、川沿いの道が整備されています。私が歩いたときも、路傍の草刈りをしている人がいました。要所に標識や駐車(輪)場なども設けられています。このようなことがなければ、本件煉瓦造倉庫は日の目を見なかったかもしれません。

 倉庫の近くに人家らしい建物は見当たりません。本件のみ、ぽつねんと建っています。持ち主を知る手がかりはないものかと、川沿いの道を200~300m歩いたら畑仕事をしている人を見かけました。「煉瓦の倉庫はどなたのものでしょうか?」と伺うと、持ち主はCさんという方だということが判りました。元は倉庫のところで農家をしていたが、今は別の場所に移ったとのこと。Cさんはタマネギを作っていたらしい。移った先もお聞きしました。時空逍遥探偵としては幸先がいい。

 お聞きしたCさん宅は歩いても行けるところで、この際だからと訪ねたのですが、残念ながらご不在でした。そこで、ご近所にあるもう一軒のCさん宅を訪ねました。持ち主の分家に当たるお宅です。実は分家の方が近くにお住まいであることも、私はお聞きしていました。
 さいわい分家のCさん宅は奥さんがご在宅で、お話をお聞きすることができました。といっても、奥さんが1955(昭和30)年にお嫁に来たときには本件倉庫はすでにあったということで、建築年はさだかではありません。やはりCさん宅はタマネギ農家だったとのことで、本件倉庫はタマネギを収蔵していたようです。ともあれ、本件は少なくとも築60年以上であること、タマネギ倉庫であったことが判っただけでも収穫としましょう。

 それにしても、これまで東区や北区のタマネギ農家で見てきた倉庫の多くは札幌軟石製の切妻屋根です。煉瓦あるいは腰折れ屋根もないわけではありませんが、たいてい馬小屋でした(2015.2.282015.5.172016.11.182016.12.72017.1.72017.8.7各ブログ参照)。
 小端空間積みも、これまたないわけではないが、比較的少ない(2015.1.182015.6.1ブログ参照)。
 本件が“純粋”にタマネギ貯蔵用だったのか、あるいは馬小屋など畜舎も兼ねていたのか、確かめたいところです。本件の開口部は、アーチ型の入口のほかには、妻破風に各1箇所と側面に2箇所、鉄扉の小さな窓が付いているのみです。畜舎にしては窓が小さいような気もします。

 腰折れ屋根の小端空間積み煉瓦は、酪農家の牛舎やリンゴ農家の馬小屋兼倉庫で見ました。これがいかにして北区篠路町篠路のタマネギ農家に伝播したかも、興味をそそります。

2018/07/09

篠路町篠路の煉瓦造倉庫 ①

 かねて実物を確かめてみたいと思っていました。
篠路町篠路 煉瓦造倉庫
 場所は北区篠路町篠路、市街化調整区域に遺る煉瓦造の倉庫です。いや、探訪前に用途は判ってなかったので、とりあえず倉庫としておきます。

 本物件を知ったきっかけは、『太平百合が原 フットパスガイドマップ』という冊子です。2011年に発行されたその冊子を今年になって入手しました。ぱらぱらめくっていたら、煉瓦造とおぼしき腰折れ屋根の建物の写真が載っていたのです。写真では煉瓦かどうか、さだかには判らず、由来なども記されていませんでした。
 かてて加えて、先月「わきあいあい篠路まちづくりの会」で、参加者のお一人から「茨戸の方に煉瓦の建物がありますが、ご存じですか?」と訊かれたのです。気になっていただけに、その場で仔細をお答えできなかったのが残念でした。

 それで先日、篠路へ行ったついでに現地へ足を運びました。本件は篠路川沿いに面しています。篠路川というのは、伏籠川の旧河道です。いわば伏籠古川。フシコはアイヌ語で「古い」の意なので、古古川というところか。ただし古地図に照らすと、微妙に河道が異なっています。このことは稿をあらためます。

 本題に戻りまして、煉瓦造物件です。
 小端空間積み。最下部の3段と、腰折れ屋根破風の底辺の7段はイギリス積みです。軒に蛇腹を廻しています。

 この軒蛇腹の意匠を、これまで私はデンティル(歯状飾り)と記してきました。
篠路町篠路 煉瓦造倉庫 軒蛇腹
 しかし、本来的な歯状飾りとは趣を異にしています。

 「本来的な」歯状飾りというのは、こういうものを指すのでしょう。
元中部電力稲沢営業所 デンティル
 黄色の矢印の先で示した意匠です。‘dental’なカタチが並んでいます(本件の所在地は2015.1.9ブログ参照)。たいてい“すきっ歯”です。

 しかるに、本件軒蛇腹は煉瓦の角っこをギザギザ∧∧∧∧∧に突き出して並べています。喜田信代さんはこれを「稲妻蛇腹」と表現しています(2017.4.25ブログ参照)。この用語はたぶん、月寒の煉瓦職人・長浦数雄から発せられたものと想います。豊平区方面に遺る元りんご倉庫に見られる軒蛇腹はたいがい、このフォルムです。長浦の得意技だったらしい。

 煉瓦でも、すきっ歯の本来的デンティルの軒蛇腹は見られます(2017.5.30ブログ参照)。
手稲前田 Tさん宅サイロ デンティル
 しかし、札幌で多く見受けられるのは稲妻蛇腹です。 

2018/05/27

「北18西1」のまぼろし

 本年5月8日ブログで、北区北18条西2丁目の街区について記しました。同じ街区の中に「北18西1」と「北18条西2丁目」という表示板があることです。

 現在図で場所を確認します(国土地理院標準地図から)。
現在図 北18条西2丁目街区
 赤い線で囲った街区が北18条西2丁目、その南側、紫色の線が北17条西2丁目、橙色が北17条西1丁目です。北17条以南には西1丁目がありますが、北18条以北にはありません。
 「北18西1」の看板は赤い「北18条西2丁目」の看板は黄色のの地点にあります。つまり、「北18西1」という表示板は、この街区の条丁目名からすると不思議なのです。

 念のため、この街区の条丁目を裏付ける資料に当たっておきます。
札幌市地番図 北18条西2丁目周辺
 札幌市地番図2018年です。表示板の位置は、いずれも北18条西2丁目に含まれます。

 なぜ、北18条西2丁目に、「北18西1」の表示板か?
 実は、「北18条西1丁目」という区域が、2004(平成16)年まで存在してました。
 それを示す資料がこちらです。
札幌市 町界変更 北18条西1丁目 2004年
 札幌市の「町の区域の変更地番図」です(札幌市戸籍住民課による)。
 2004年の変更前の時点で、赤い線で囲った北18条西2丁目、その東側に黄色の線で細長く北18条西1丁目という区域がありました。この細長い区域は、まるごと道路でした。道路(国道5号)のみです。こんな条丁目区域があったのですね。

 道路だけで単独の条丁目というのは、この周辺ではここだけです。この北側も南側も、それぞれ宅地部分の条丁目に含まれています。なぜここのみが、道路だけで北18条西1丁目だったのか?
 その原因を明らかにする史料までは遡れなかったので、以下は私の想像です。
 かつては宅地側にも北18条西1丁目があったのではないか。地番図を見ると、赤い線で囲った北18条西2丁目の街区で、赤い破線を境目にして番地が異なっています。破線の西側は21番地ですが、東側は24番地です。この24番地側はかつて「西1丁目」だったのではないか。あるとき、この宅地が「西2丁目」に変更された。結果として道路敷地のみが、西1丁目で残ってしまった。道路だけで単独の条丁目というのも意味がないので、2004年にこの部分も変更され、西2丁目に含まれた。

 では、にもかかわらず、なぜ「北18西1」という表示板が遺っているのか?
 この表示板は信号機に付いています。つまり警察が設置したものです。一方、町界の変更は札幌市がおこないます。その情報は警察にも伝えられるはずなのですが、どうも本件は伝わっていなかったようです。このことは前述の札幌市戸籍住民課に問い合わせて確認しました。
 かくして、北18条西2丁目の町界内に「北18西1」が存在しています。市の担当者は「こんど、警察に直すように言っておきます」と言われました。うーん、私が問い合わせたばっかりに、稀有な本物件が消失するとしたらヤブヘビです。私は市の担当者に「いや、決して『直せ』と言っているわけではありませんので…」と言いつくろいました。このまま本件が存続することを願うのみです。

2018/05/09

創成川の謎 ⑤

 一昨日ブログで、創成川の流れが鉄道以北で西への傾きが大きくなった理由に言及しました。銭函へ向けての流路の計画に影響されたのではないかという仮説です。コトニ川との合流地点まで開削している途中で、茨戸へ変える可能性が出てきて、結果的に流れが弓なりになりました。
 しかし、現時点でこれを裏付ける史料に行き当たっていません。むしろ、史実はこれに否定的です。というのは、コトニ川との合流地点までの創成川が開削された後、引き続き銭函へ向けて着手されていました(末注)。1870(明治3)年から1871(明治4)にかけてのことです。必ずしも、途中で茨戸への流路変更の余地が生じたとみることはできません。弓なりは、銭函とか茨戸に関係ないか。

 これ以上は妄想憶測の域を彷徨うばかりですので(いや、もともと拙ブログはその世界ばかりだが)、別の仮説に転進します。地勢的要因です。

 創成川鉄道以北の色別標高図を見ます(国土地理院サイトから作成)。
色別標高図 10以下から1mごと 創成川
 10m以下から1mごと(グラデーション)で色分けしました。
 流れが西へ傾きを大きくするあたりは、豊平川扇状地の後背低地が始まるところです。等高線は、同心円的とはいえません。

 西への流れの傾きを、等高線との関係で見てみます。
色別標高図 10以下から1mごと 創成川 再掲
 水が流れやすい地形を読んだようにも見える。

 弓なりの下流の部分の標高図です。
色別標高図 5m以下から1mごと 創成川 
 5m以下から1mごとの色分けで作図しました。
 人工的地形との識別が難しいのですが、こちらも低いほうへ流しているように見えます。

 次に、毎度おなじみの産総研地盤地質図です。
地盤地質図 創成川 鉄道以北
 創成川を白ヌキしました。
 注目すべきは桃色の泥炭地堆積物です。前掲標高図と比べると、地形的に微低な一帯と重なります。創成川の弓なりの弦が、一番張っているところでもあります。

 こちらは「新川分間略図」1872(明治5)年という古地図です(北大図書館蔵)。
新川分間略図(一部)
 新川(創成川)に沿って、地勢が色分けして描かれています。黒灰色が「谷地」です。おおむね前掲地盤地質図の泥炭地堆積物のあたりと一致します。当時は谷地が拡がっていたようです。

 5月6日ブログで述べたように、創成川の目的は水運と湿地帯の排水でした。湿地帯≒谷地≒泥炭地を通す必要があったのです。

 創成川の弓なり流路は、地勢(地形と地質)に影響された可能性が大きいようにも想われます。

 注:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27

2018/05/08

創成川の謎 ④

 昨日ブログの続きです。
 創成川の流れの向きが鉄道以北で変わっていることについて、こだわる理由はおもに二つあります。直接的な理由と間接的理由です。
 前者は、北18条以北における「西1丁目」の欠落を指します。札幌の碁盤目に不整合をもたらしていることです。「札幌の街は碁盤の目のように、東西と南北に走る道路により整然と区切られ、旅行者にも分りやすい」(『ブルーガイドブックス 北海道』1977年、p.114)などといわれますが、却ってわかりづらいとすら私は思います。なまじ観光案内本などでかように刷り込まれるため、随所にみられる本件のような例外が陥穽です(2015.2.2ブログ参照)。
 しかし、例外があることで、街が深みを帯びているともいえます。だいたい、旅行者にとって「わかりやすい」街=魅力的なのだろうか。むしろ迷路性もあったほうがよいのではないか。行ったことはありませんが、北アフリカのマラケシュなんか、グーグルマップで空中写真を見ただけで私はゾクゾクします。もっとも、そういう街に生まれ育った人は、「整然とした」街並みに刺激を受けるのかもしれませんが。

 閑話休題。
 後者の「間接的理由」というのは、ほかならぬ「東区 北光・鉄東の謎 四題」(2018.3.12ブログ参照)の最終目標たる「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」との関係です。これについては、おって記します。

 とまれ、創成川は流れの向きを変えたことで、ある種の刺激を札幌の街にもたらしてくれました。
 例えば、北18条通りとの交差点です。
北18条通り 創成川 交差点
 赤い矢印を付けた先、信号機のところに町名を記した看板が架かっています。一方、黄色の矢印の先には、建物に街区表示の看板が貼られているのですが。

 信号機のほうは…
「北18西1」表示板
 「北18西1」です。

 かたや街区表示板のほうは…
「北18条西2丁目1」街区表示板
 「北18条西2丁目1」とあります。

 一見同じ街区にもかかわらず、こういう物件を見つけると、我ながら妙な性癖ですが快感を覚えてしまうのです。これも、創成川が捻じ曲がってくれたおかげといえます。

2018/05/07

創成川の謎 ③

 昨日ブログの続きです。

 明治時代の早い時期、創成川が古地図でどう描かれているか見てみます。
 「北海道一部之図」1882(明治15)年(道立文書館蔵)です。
北海道一部之図 明治15年 創成川
 黄色の矢印を付けた先に創成川が描かれています。

 この図でも、川はコトニ川(橙色の○)までしか通じていません。
北海道一部之図 明治15年 創成川 拡大
 札幌の中心部に近いところから西への傾きが大きくなり、その向きで流れているように描かれています。

 これと同じような描かれ方をした古地図はほかにもあります。「新川開鑿建義(ママ)図」1871(明治4)年(道立図書館蔵)です。

http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=11&data_id=2-2341-0

 ところが、明治29年地形図になると、描かれ方が異なります。
明治29年地形図 創成川
 西への傾きを大きくした後、下流に行くにつれ傾きを北へ戻し、 コトニ川との合流地点まで弓なりです。そこから北北東へ向きを変え、茨戸に通じます。
 一見すると、銭函への開削が中止されて茨戸への流路に変更される中で、「西へ西へ」という流れが修正されたかに見えます。

 一方、創成川の弓なりは明治29年地形図よりも古い地図で、すでに現れています。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 創成川 弓なり
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年です(北大図書館蔵)。

 これらの古地図を比べると、後者すなわち明治29年地形図などの弓なりのほうが精度が高いように私には見えます。ちなみに、現在の創成川の流れも鉄道以北、旧琴似川との合流地点(麻生町のやや北)まで、ほぼ弓なりです。
 
 創成川の謎(鉄道以北でなぜ、西へ傾きが大きくなったか?)について、次のような仮説に行き着きます。
 コトニ川合流地点で銭函へ向けて開削することを想定した。しかし、途中から茨戸への開削の可能性が出てきたので、弓なりに流れを変えた。

 創成川(北6条以北)の開削に着手された1870(明治3)年において、銭函への流路を計画していたことは昨日ブログで示した史料から明らかです。問題は、工事中に茨戸への流路変更の可能性が生じていたか、になります。[つづく]

2018/05/06

創成川の謎 ②

 昨日ブログの続きです。
 創成川は北13条通りから北18条通りにかけて、西への流れの傾きが大きい。なぜか?
 もったいぶって申し訳ないのですが、その微細な「なぜか?」の前にもう一つ、確認しておきたいことがあります。「そもそも創成川が何のために掘られたのか」という、大きな「なぜか?」です。
おおまかにいえば、創成川の目的は水運と湿地帯の排水でした。留意しておきたいのは、当初の計画と現在の流路が異なっていたことです。現在は茨戸に通じています。これは石狩川と結ぶ水運です。しかし、もともとの計画では銭函方面へ通じさせることになっていました(末注①)。

 たびたび引用している「札縨(幌)郡西部図」1873(明治6)年(北大図書館蔵)です。
明治6年札幌郡西部図 新川(創成川)
 黄色の矢印で示したのが創成川ですが、この時点ではまだ茨戸まで通じていません。創成川が描かれているのは橙色の○まで、すなわちコトニ川との合流地点です。
 興味深いのは、この地点から北西方面に二本の赤い破線が引かれていることです。これは計画線のように見えます。しかし、どちらも現在の流路ではありません。一方の線はほぼ北西に進み、発寒川に達した後やや北に向きを変え、星置川の河口あたりに通じます。もう一方の線は北北西やや北寄りに引かれ、発寒川に注がせています。いずれにせよ創成川は当初、コトニ川から北西方向へ開削する計画だったようです。

 こちらは「札幌ヨリ銭箱新川迄地図」1890(明治3)年です(北大図書館蔵)。
札幌ヨリ銭箱新川迄地図 明治3年
 前掲「札幌郡西部図」に比べると略図的な描かれ方ですが、創成川(黄色の矢印の先)はやはりコトニ川までで(橙色の○)、北西に向きを変えています。冒頭前述した「もともとの計画では銭函方面へ通じさせることになっていました」ことを示す史料の一つです。しかし、この水路も竣功はしませんでした(末注②)。この図面では、コトニ川との合流地点から行き着く先には「ホンナイ」と書かれています。銭箱のポンナイ川です。
 こうしてみると、明治の初期、創成川の流路がさまざま模索されていたように思われます。

 さて、かにかくに創成川の歴史的経緯を綴ってきたのも、それが「北13条通りから北18条通りにかけて、西への流れの傾きが大きい」ことと関係するのではないかと私は想ったからです。西へ西へと流す計画があったことから、西への傾きを大きくしたのではないか。

 注①:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27
 注②:同上

2018/04/24

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ④

 一昨日ブログの続きです。
 篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫について、持ち主田中家ご子孫の話を史料的に裏付けたいと思います。

 1985(昭和60)年空中写真です(国土地理院サイトから)。
空中写真 1985年 篠路 田中家倉庫
 本件倉庫を、赤矢印を付けた先に示しました。カマボコ型屋根の形状が窺えます。現在では1棟のみですが(4月20日ブログ参照)、この時点では南側に隣接してもう1棟あります。その南側も、建物の跡地のようです。

 篠路駅をはさんで西側、橙色の矢印を付けた先にも、カマボコ屋根が写っています。本件倉庫よりも若干大きめで、これは農協の倉庫でした(本年2月2日2月5日各ブログ参照)。

 1966(昭和41)年空中写真です(同上)。
空中写真 1966年 篠路 田中家倉庫
 赤矢印の先にやはり、カマボコ屋根状が見えます。その南側に3棟、並んでいます。

 1961(昭和36)年です(同上)。
空中写真 1961年 篠路 田中家倉庫
 黄色の矢印の先、同じ位置に建物が写っていますが、屋根のカタチが違って見えます。切妻のようです。

 こうしてみると本件倉庫は1961年より後、1966年以前に建てられたと思われます。これは4月21日ブログで引用した持ち主ご子孫の「昭和30年代」という話と合致します。昭和30年代も、後半といえましょう。

 こちらは、前述した駅西側にあった農協倉庫です。
篠路駅西 農協倉庫 カマボコ屋根煉瓦 2000年
 2000年に撮りました。本年2月5日ブログに記したように、1963(昭和38)年の築です。「第10号倉庫」で、増反するコメの貯蔵用に建てられました。2007(平成19)年に解体されて、現存していません。

 次なるは、本件倉庫を篠路駅のホームから東を望んで撮ったものです。
篠路駅東倉庫 カマボコ屋根 煉瓦
 撮影年は同じく2000年ですが、現況も変わっていません。

 前掲農協コメ貯蔵庫が1963年築ということから類推しても、このようなカタチの本件が昭和30年代後半築というのは頷けるかと思います。興味深いのは本件にはタマネギ収蔵用にありがちな換気口が二つ、屋根に付いていることです。農協コメ貯蔵庫は、冒頭の空中写真で見ても換気口は付いていません。保管する作物の違いだったのでしょうか。
 本件倉庫の妻面、コンクリートの梁(水平材)にペンキで白く「T.210番」と書かれています。今気づいたのですが、これはもしかしたら、元の持ち主当時の電話番号ではないでしょうか。

 本件倉庫は現在、クルマの整備工場に再利用されています。中に柱の無い大きな空間がその用途に向いているようです。札幌建築鑑賞会で2000年、2003年に刊行した『さっぽろ再生建物案内』で紹介したとき(2000年p.28、2003年p.70)、整備工場の方にお訊きしました。整備工場となったのは昭和50年代からだそうです。
 住宅地図を経年で追ってみると、たしかに1980(昭和55)年版から「○○自動車㈱ソーコ」と書かれ、1984(昭和59)年版から現在の会社の名前が載っています。1979(昭和54)年版以前では、ただ「ソーコ」と書かれているだけです。1975(昭和50)年版まで遡ると、本件に「2号倉庫」、南側に並んで隣接して「3号倉庫」「7号倉庫」「8号倉庫」と書かれています。

 4月22日ブログで記したように、持ち主の田中家では昭和30年代に倉庫が3棟あったとのことです。前掲1961(昭和36)年空中写真ではこの場所に3棟、1966(昭和41)年写真では4棟写っています。住宅地図で「○号」という一連の数字が振られているところをみると、田中家では多いときで4棟、あったようです。
 
 これとは別に、近くには農協の倉庫がやはり、番号を振られて並んでいました。今も「2号倉庫」などが遺っています(本年2月5日ブログ参照)。「2号」という表現が重複していることからすると、本件は田中家としての番号だったと思います。ご子孫の話では「農協に貸していた」ということですが、ご子孫の言う「農協」は「篠路農協」ではなく「篠路玉葱農協」で(4月22日ブログ参照)、本件に付いていた倉庫の番号は篠路玉協のそれだったのかもしれません(末注)。

 篠路駅周辺には農協倉庫に加えて、玉葱農協、農家出身の仲買商人の倉庫が建ち並んでいたことが判りました。活字には遺りづらい、いろいろなドラマが繰り広げられたことでしょう。本件カマボコ屋根煉瓦倉庫の由来がわかったのは収穫でした。
 そのきっかけの一つは、篠路で古くから雑貨商を切り盛りしてきたKさん(85歳)のお話です。4月8日に「篠路まちづくりテラス和氣藍々」で開催された「まちあそびカフェ」で、お聴きしました。Kさんは商売柄、1961(昭和36)年にクルマの免許を取ったそうです。女性で昭和30年代というのは早いと思います。10年後、そのKさんが仕事用とは別にマイカーを買いました。昭和50年代のあるとき、買ったクルマを何かにこすってしまって、ここのクルマ工場で塗装しなおしてもらったとのことです。本件倉庫が田中家のタマネギ貯蔵だったことを思い出していただいたのは、その出来事からでした。Kさんに感謝いたします。[本項おわり]

注:『住宅地図 北部郊外編』1972(昭和47)年版には、本件倉庫の周辺で北側に「篠路農協」、東側に「篠路玉協」のそれぞれ事務所とおぼしき記載がある。
 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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