札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/05/27

「北18西1」のまぼろし

 本年5月8日ブログで、北区北18条西2丁目の街区について記しました。同じ街区の中に「北18西1」と「北18条西2丁目」という表示板があることです。

 現在図で場所を確認します(国土地理院標準地図から)。
現在図 北18条西2丁目街区
 赤い線で囲った街区が北18条西2丁目、その南側、紫色の線が北17条西2丁目、橙色が北17条西1丁目です。北17条以南には西1丁目がありますが、北18条以北にはありません。
 「北18西1」の看板は赤い「北18条西2丁目」の看板は黄色のの地点にあります。つまり、「北18西1」という表示板は、この街区の条丁目名からすると不思議なのです。

 念のため、この街区の条丁目を裏付ける資料に当たっておきます。
札幌市地番図 北18条西2丁目周辺
 札幌市地番図2018年です。表示板の位置は、いずれも北18条西2丁目に含まれます。

 なぜ、北18条西2丁目に、「北18西1」の表示板か?
 実は、「北18条西1丁目」という区域が、2004(平成16)年まで存在してました。
 それを示す資料がこちらです。
札幌市 町界変更 北18条西1丁目 2004年
 札幌市の「町の区域の変更地番図」です(札幌市戸籍住民課による)。
 2004年の変更前の時点で、赤い線で囲った北18条西2丁目、その東側に黄色の線で細長く北18条西1丁目という区域がありました。この細長い区域は、まるごと道路でした。道路(国道5号)のみです。こんな条丁目区域があったのですね。

 道路だけで単独の条丁目というのは、この周辺ではここだけです。この北側も南側も、それぞれ宅地部分の条丁目に含まれています。なぜここのみが、道路だけで北18条西1丁目だったのか?
 その原因を明らかにする史料までは遡れなかったので、以下は私の想像です。
 かつては宅地側にも北18条西1丁目があったのではないか。地番図を見ると、赤い線で囲った北18条西2丁目の街区で、赤い破線を境目にして番地が異なっています。破線の西側は21番地ですが、東側は24番地です。この24番地側はかつて「西1丁目」だったのではないか。あるとき、この宅地が「西2丁目」に変更された。結果として道路敷地のみが、西1丁目で残ってしまった。道路だけで単独の条丁目というのも意味がないので、2004年にこの部分も変更され、西2丁目に含まれた。

 では、にもかかわらず、なぜ「北18西1」という表示板が遺っているのか?
 この表示板は信号機に付いています。つまり警察が設置したものです。一方、町界の変更は札幌市がおこないます。その情報は警察にも伝えられるはずなのですが、どうも本件は伝わっていなかったようです。このことは前述の札幌市戸籍住民課に問い合わせて確認しました。
 かくして、北18条西2丁目の町界内に「北18西1」が存在しています。市の担当者は「こんど、警察に直すように言っておきます」と言われました。うーん、私が問い合わせたばっかりに、稀有な本物件が消失するとしたらヤブヘビです。私は市の担当者に「いや、決して『直せ』と言っているわけではありませんので…」と言いつくろいました。このまま本件が存続することを願うのみです。
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2018/05/09

創成川の謎 ⑤

 一昨日ブログで、創成川の流れが鉄道以北で西への傾きが大きくなった理由に言及しました。銭函へ向けての流路の計画に影響されたのではないかという仮説です。コトニ川との合流地点まで開削している途中で、茨戸へ変える可能性が出てきて、結果的に流れが弓なりになりました。
 しかし、現時点でこれを裏付ける史料に行き当たっていません。むしろ、史実はこれに否定的です。というのは、コトニ川との合流地点までの創成川が開削された後、引き続き銭函へ向けて着手されていました(末注)。1870(明治3)年から1871(明治4)にかけてのことです。必ずしも、途中で茨戸への流路変更の余地が生じたとみることはできません。弓なりは、銭函とか茨戸に関係ないか。

 これ以上は妄想憶測の域を彷徨うばかりですので(いや、もともと拙ブログはその世界ばかりだが)、別の仮説に転進します。地勢的要因です。

 創成川鉄道以北の色別標高図を見ます(国土地理院サイトから作成)。
色別標高図 10以下から1mごと 創成川
 10m以下から1mごと(グラデーション)で色分けしました。
 流れが西へ傾きを大きくするあたりは、豊平川扇状地の後背低地が始まるところです。等高線は、同心円的とはいえません。

 西への流れの傾きを、等高線との関係で見てみます。
色別標高図 10以下から1mごと 創成川 再掲
 水が流れやすい地形を読んだようにも見える。

 弓なりの下流の部分の標高図です。
色別標高図 5m以下から1mごと 創成川 
 5m以下から1mごとの色分けで作図しました。
 人工的地形との識別が難しいのですが、こちらも低いほうへ流しているように見えます。

 次に、毎度おなじみの産総研地盤地質図です。
地盤地質図 創成川 鉄道以北
 創成川を白ヌキしました。
 注目すべきは桃色の泥炭地堆積物です。前掲標高図と比べると、地形的に微低な一帯と重なります。創成川の弓なりの弦が、一番張っているところでもあります。

 こちらは「新川分間略図」1872(明治5)年という古地図です(北大図書館蔵)。
新川分間略図(一部)
 新川(創成川)に沿って、地勢が色分けして描かれています。黒灰色が「谷地」です。おおむね前掲地盤地質図の泥炭地堆積物のあたりと一致します。当時は谷地が拡がっていたようです。

 5月6日ブログで述べたように、創成川の目的は水運と湿地帯の排水でした。湿地帯≒谷地≒泥炭地を通す必要があったのです。

 創成川の弓なり流路は、地勢(地形と地質)に影響された可能性が大きいようにも想われます。

 注:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27

2018/05/08

創成川の謎 ④

 昨日ブログの続きです。
 創成川の流れの向きが鉄道以北で変わっていることについて、こだわる理由はおもに二つあります。直接的な理由と間接的理由です。
 前者は、北18条以北における「西1丁目」の欠落を指します。札幌の碁盤目に不整合をもたらしていることです。「札幌の街は碁盤の目のように、東西と南北に走る道路により整然と区切られ、旅行者にも分りやすい」(『ブルーガイドブックス 北海道』1977年、p.114)などといわれますが、却ってわかりづらいとすら私は思います。なまじ観光案内本などでかように刷り込まれるため、随所にみられる本件のような例外が陥穽です(2015.2.2ブログ参照)。
 しかし、例外があることで、街が深みを帯びているともいえます。だいたい、旅行者にとって「わかりやすい」街=魅力的なのだろうか。むしろ迷路性もあったほうがよいのではないか。行ったことはありませんが、北アフリカのマラケシュなんか、グーグルマップで空中写真を見ただけで私はゾクゾクします。もっとも、そういう街に生まれ育った人は、「整然とした」街並みに刺激を受けるのかもしれませんが。

 閑話休題。
 後者の「間接的理由」というのは、ほかならぬ「東区 北光・鉄東の謎 四題」(2018.3.12ブログ参照)の最終目標たる「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」との関係です。これについては、おって記します。

 とまれ、創成川は流れの向きを変えたことで、ある種の刺激を札幌の街にもたらしてくれました。
 例えば、北18条通りとの交差点です。
北18条通り 創成川 交差点
 赤い矢印を付けた先、信号機のところに町名を記した看板が架かっています。一方、黄色の矢印の先には、建物に街区表示の看板が貼られているのですが。

 信号機のほうは…
「北18西1」表示板
 「北18西1」です。

 かたや街区表示板のほうは…
「北18条西2丁目1」街区表示板
 「北18条西2丁目1」とあります。

 一見同じ街区にもかかわらず、こういう物件を見つけると、我ながら妙な性癖ですが快感を覚えてしまうのです。これも、創成川が捻じ曲がってくれたおかげといえます。

2018/05/07

創成川の謎 ③

 昨日ブログの続きです。

 明治時代の早い時期、創成川が古地図でどう描かれているか見てみます。
 「北海道一部之図」1882(明治15)年(道立文書館蔵)です。
北海道一部之図 明治15年 創成川
 黄色の矢印を付けた先に創成川が描かれています。

 この図でも、川はコトニ川(橙色の○)までしか通じていません。
北海道一部之図 明治15年 創成川 拡大
 札幌の中心部に近いところから西への傾きが大きくなり、その向きで流れているように描かれています。

 これと同じような描かれ方をした古地図はほかにもあります。「新川開鑿建義(ママ)図」1871(明治4)年(道立図書館蔵)です。

http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/dsearch/da/detail.php?libno=11&data_id=2-2341-0

 ところが、明治29年地形図になると、描かれ方が異なります。
明治29年地形図 創成川
 西への傾きを大きくした後、下流に行くにつれ傾きを北へ戻し、 コトニ川との合流地点まで弓なりです。そこから北北東へ向きを変え、茨戸に通じます。
 一見すると、銭函への開削が中止されて茨戸への流路に変更される中で、「西へ西へ」という流れが修正されたかに見えます。

 一方、創成川の弓なりは明治29年地形図よりも古い地図で、すでに現れています。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 創成川 弓なり
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年です(北大図書館蔵)。

 これらの古地図を比べると、後者すなわち明治29年地形図などの弓なりのほうが精度が高いように私には見えます。ちなみに、現在の創成川の流れも鉄道以北、旧琴似川との合流地点(麻生町のやや北)まで、ほぼ弓なりです。
 
 創成川の謎(鉄道以北でなぜ、西へ傾きが大きくなったか?)について、次のような仮説に行き着きます。
 コトニ川合流地点で銭函へ向けて開削することを想定した。しかし、途中から茨戸への開削の可能性が出てきたので、弓なりに流れを変えた。

 創成川(北6条以北)の開削に着手された1870(明治3)年において、銭函への流路を計画していたことは昨日ブログで示した史料から明らかです。問題は、工事中に茨戸への流路変更の可能性が生じていたか、になります。[つづく]

2018/05/06

創成川の謎 ②

 昨日ブログの続きです。
 創成川は北13条通りから北18条通りにかけて、西への流れの傾きが大きい。なぜか?
 もったいぶって申し訳ないのですが、その微細な「なぜか?」の前にもう一つ、確認しておきたいことがあります。「そもそも創成川が何のために掘られたのか」という、大きな「なぜか?」です。
おおまかにいえば、創成川の目的は水運と湿地帯の排水でした。留意しておきたいのは、当初の計画と現在の流路が異なっていたことです。現在は茨戸に通じています。これは石狩川と結ぶ水運です。しかし、もともとの計画では銭函方面へ通じさせることになっていました(末注①)。

 たびたび引用している「札縨(幌)郡西部図」1873(明治6)年(北大図書館蔵)です。
明治6年札幌郡西部図 新川(創成川)
 黄色の矢印で示したのが創成川ですが、この時点ではまだ茨戸まで通じていません。創成川が描かれているのは橙色の○まで、すなわちコトニ川との合流地点です。
 興味深いのは、この地点から北西方面に二本の赤い破線が引かれていることです。これは計画線のように見えます。しかし、どちらも現在の流路ではありません。一方の線はほぼ北西に進み、発寒川に達した後やや北に向きを変え、星置川の河口あたりに通じます。もう一方の線は北北西やや北寄りに引かれ、発寒川に注がせています。いずれにせよ創成川は当初、コトニ川から北西方向へ開削する計画だったようです。

 こちらは「札幌ヨリ銭箱新川迄地図」1890(明治3)年です(北大図書館蔵)。
札幌ヨリ銭箱新川迄地図 明治3年
 前掲「札幌郡西部図」に比べると略図的な描かれ方ですが、創成川(黄色の矢印の先)はやはりコトニ川までで(橙色の○)、北西に向きを変えています。冒頭前述した「もともとの計画では銭函方面へ通じさせることになっていました」ことを示す史料の一つです。しかし、この水路も竣功はしませんでした(末注②)。この図面では、コトニ川との合流地点から行き着く先には「ホンナイ」と書かれています。銭箱のポンナイ川です。
 こうしてみると、明治の初期、創成川の流路がさまざま模索されていたように思われます。

 さて、かにかくに創成川の歴史的経緯を綴ってきたのも、それが「北13条通りから北18条通りにかけて、西への流れの傾きが大きい」ことと関係するのではないかと私は想ったからです。西へ西へと流す計画があったことから、西への傾きを大きくしたのではないか。

 注①:榎本洋介「明治三年の札幌-新川の開削」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第9号1985年8月、pp.16-27
 注②:同上

2018/04/24

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ④

 一昨日ブログの続きです。
 篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫について、持ち主田中家ご子孫の話を史料的に裏付けたいと思います。

 1985(昭和60)年空中写真です(国土地理院サイトから)。
空中写真 1985年 篠路 田中家倉庫
 本件倉庫を、赤矢印を付けた先に示しました。カマボコ型屋根の形状が窺えます。現在では1棟のみですが(4月20日ブログ参照)、この時点では南側に隣接してもう1棟あります。その南側も、建物の跡地のようです。

 篠路駅をはさんで西側、橙色の矢印を付けた先にも、カマボコ屋根が写っています。本件倉庫よりも若干大きめで、これは農協の倉庫でした(本年2月2日2月5日各ブログ参照)。

 1966(昭和41)年空中写真です(同上)。
空中写真 1966年 篠路 田中家倉庫
 赤矢印の先にやはり、カマボコ屋根状が見えます。その南側に3棟、並んでいます。

 1961(昭和36)年です(同上)。
空中写真 1961年 篠路 田中家倉庫
 黄色の矢印の先、同じ位置に建物が写っていますが、屋根のカタチが違って見えます。切妻のようです。

 こうしてみると本件倉庫は1961年より後、1966年以前に建てられたと思われます。これは4月21日ブログで引用した持ち主ご子孫の「昭和30年代」という話と合致します。昭和30年代も、後半といえましょう。

 こちらは、前述した駅西側にあった農協倉庫です。
篠路駅西 農協倉庫 カマボコ屋根煉瓦 2000年
 2000年に撮りました。本年2月5日ブログに記したように、1963(昭和38)年の築です。「第10号倉庫」で、増反するコメの貯蔵用に建てられました。2007(平成19)年に解体されて、現存していません。

 次なるは、本件倉庫を篠路駅のホームから東を望んで撮ったものです。
篠路駅東倉庫 カマボコ屋根 煉瓦
 撮影年は同じく2000年ですが、現況も変わっていません。

 前掲農協コメ貯蔵庫が1963年築ということから類推しても、このようなカタチの本件が昭和30年代後半築というのは頷けるかと思います。興味深いのは本件にはタマネギ収蔵用にありがちな換気口が二つ、屋根に付いていることです。農協コメ貯蔵庫は、冒頭の空中写真で見ても換気口は付いていません。保管する作物の違いだったのでしょうか。
 本件倉庫の妻面、コンクリートの梁(水平材)にペンキで白く「T.210番」と書かれています。今気づいたのですが、これはもしかしたら、元の持ち主当時の電話番号ではないでしょうか。

 本件倉庫は現在、クルマの整備工場に再利用されています。中に柱の無い大きな空間がその用途に向いているようです。札幌建築鑑賞会で2000年、2003年に刊行した『さっぽろ再生建物案内』で紹介したとき(2000年p.28、2003年p.70)、整備工場の方にお訊きしました。整備工場となったのは昭和50年代からだそうです。
 住宅地図を経年で追ってみると、たしかに1980(昭和55)年版から「○○自動車㈱ソーコ」と書かれ、1984(昭和59)年版から現在の会社の名前が載っています。1979(昭和54)年版以前では、ただ「ソーコ」と書かれているだけです。1975(昭和50)年版まで遡ると、本件に「2号倉庫」、南側に並んで隣接して「3号倉庫」「7号倉庫」「8号倉庫」と書かれています。

 4月22日ブログで記したように、持ち主の田中家では昭和30年代に倉庫が3棟あったとのことです。前掲1961(昭和36)年空中写真ではこの場所に3棟、1966(昭和41)年写真では4棟写っています。住宅地図で「○号」という一連の数字が振られているところをみると、田中家では多いときで4棟、あったようです。
 
 これとは別に、近くには農協の倉庫がやはり、番号を振られて並んでいました。今も「2号倉庫」などが遺っています(本年2月5日ブログ参照)。「2号」という表現が重複していることからすると、本件は田中家としての番号だったと思います。ご子孫の話では「農協に貸していた」ということですが、ご子孫の言う「農協」は「篠路農協」ではなく「篠路玉葱農協」で(4月22日ブログ参照)、本件に付いていた倉庫の番号は篠路玉協のそれだったのかもしれません(末注)。

 篠路駅周辺には農協倉庫に加えて、玉葱農協、農家出身の仲買商人の倉庫が建ち並んでいたことが判りました。活字には遺りづらい、いろいろなドラマが繰り広げられたことでしょう。本件カマボコ屋根煉瓦倉庫の由来がわかったのは収穫でした。
 そのきっかけの一つは、篠路で古くから雑貨商を切り盛りしてきたKさん(85歳)のお話です。4月8日に「篠路まちづくりテラス和氣藍々」で開催された「まちあそびカフェ」で、お聴きしました。Kさんは商売柄、1961(昭和36)年にクルマの免許を取ったそうです。女性で昭和30年代というのは早いと思います。10年後、そのKさんが仕事用とは別にマイカーを買いました。昭和50年代のあるとき、買ったクルマを何かにこすってしまって、ここのクルマ工場で塗装しなおしてもらったとのことです。本件倉庫が田中家のタマネギ貯蔵だったことを思い出していただいたのは、その出来事からでした。Kさんに感謝いたします。[本項おわり]

注:『住宅地図 北部郊外編』1972(昭和47)年版には、本件倉庫の周辺で北側に「篠路農協」、東側に「篠路玉協」のそれぞれ事務所とおぼしき記載がある。
 

2018/04/22

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ③

 昨日ブログの続きです。
 JR篠路駅近くにある煉瓦の倉庫 鈑金工場②
 持ち主の田中友蔵の孫Tさんによると、篠路駅前に現存するカマボコ屋根・煉瓦の倉庫にまつわる由来は、次のとおりです。

 田中家は戦前、篠路の地主でタマネギ畑作などを営んでいました。戦後、農地解放で土地の多くを失ったことから、タマネギの仲買に転じたそうです。Tさんの言葉を借りれば「ブローカー」「先買い」で、自作となった農家から買い上げたタマネギの流通販売に携わりました。
 もともと倉庫は、道道花畔札幌線沿いにあった自宅に隣接して木造で建てていたのですが、その後駅前に煉瓦で建てました。それが昭和30年代です。かつては3棟ありました。昨日記したように友蔵は村議、市議などの公職や農協の役員などの要職を務め、自動車学校の経営も始めたことから、昭和40年代の半ばには仲買もやめ、倉庫は農協に貸すようになったとのことです。
 Tさんの話では「地主だった頃は、自分の家から篠路の駅まで、人の土地を通らないで行けたと聞いている」といいます。この表現は土地を多く持っている譬えとして、使われます。琴似八軒の宮坂さん(2017.12.8ブログ参照)のところでも聞きました。余談ながら、私は母からも聞いたことがあります。父方祖母の生家というのが愛知県稲沢市祖父江町三丸渕というところの旧家で、地主でした(2016.1.4ブログ参照)。母は、父方祖母からの伝え聞きで「駅まで人の土地を通らんでも行けたという」と言ってました。どうやら全国的に流布していたセリフのようです。「駅」」というのがどの駅を指していたか、私はうろ覚えなのですが、往々にして大袈裟に言われる傾向があります。

 閑話休題。
 以下、郷土史の文献や史料などで補足します(末注①)。
 田中家は上篠路の五ノ戸 で地主でした。昭和20年代には本村に移っています。
 1947(昭和22)年札幌玉葱販売組合(第三次)設立、常務理事に就任、1948(昭和23)年篠路村玉葱農業協同組合(篠路玉協)設立、理事長に就任、1949(昭和24)年札幌玉葱販売農業協同組合連合会(札玉販連)設立、篠路玉協も加入。
 一方で1948(昭和23)年には、篠路村農業協同組合(篠路農協)も設立されますが、文献を見る限り、田中友蔵は篠路農協のほうの設立時組合員にはなっておらず、その後役員にも就いていません。なお、篠路農協も札玉販連に加入しています。
 生産農家の組織は戦中戦後をとおしてめまぐるしく変遷し、その歴史的に意味するところは到底私の手には負えません。一つ押さえておきたいのは、総合農協と専門農協の違いです。篠路でいえば、前者には篠路農協、後者には篠路玉協がそれぞれ当たります(末注②)。篠路では(篠路に限らず?)、戦後農地解放を背景とした自作農による農民連盟のリーダーが篠路農協を主導しました。一方、タマネギとういう投機性の高い商品作物という特殊性を背景にして、生産農家が専門農協を結成していったのです。
 田中友蔵は篠路玉協の中心的存在となりました。文献の行間からは、総合農協、専門農協の絡み合い、生産農家、仲買商人の蠢きあいが垣間見えます(2015.8.31ブログ参照)。仲買も、集散地の問屋業者もいれば、田中のような生産農家出身もいるので、一筋縄ではありません。生産農家も、篠路村と札幌村では流通への向き合い方が微妙に異なっていたようです。
 田中の存在を歴史的にどう位置づけるか、これまた私には軽々に評価できないのですが、本件駅前倉庫はそのようなせめぎ合いの表象でもあったといえます。

 注①:『札玉創立二十年記念誌』1970年、pp.106-112、pp.150-153、『篠路農業協同組合三〇年史』1979年、pp.383-384、pp.396-404、pp.424-427、篠路農業協同組合『農魂 創立五十周年記念史(ママ)』1998年、pp.127-129、『シノロ 140年のあゆみ』2003年、p.711、713、749
 注②:おおまかにいうと、前者は生産種目にかかわらず地域の農家が加入し、後者は特定作物の専業的生産農家によって構成される。一般に日本では農協というと前者がイメージされるが、北海道にはサツラクとかホルスタイン農協など、酪農関係の専門農協が知られている。山田定市「協同組合と街づくり」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第37号1999年、pp.30-39参照

2018/04/21

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ②

 昨日ブログの続きです。
 篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫が田中友蔵さん(故人)ゆかりだということは、地元の古老二三の方にお聞きしていました。その田中翁の銅像が篠路の某所にあることは郷土史の文献で読んでいたので(末注①)、手がかりを得るべく建立場所を訪ねたのです。銅像はすんなり見つけることができたのですが、台座の正面には「自治功労者 田中友蔵翁之像」(北海道知事堂垣内尚弘揮毫)との銘があるのみです。そこで、この場所の管理責任者の方にお願いして、左側の机を除けていただき、側面を見せていただきました。

 側面には田中翁の事績が刻まれていました。
田中友蔵翁之像銘文
 1940(昭和15)年以来、篠路村村会議員、札幌市議会議員を連続6期務めたことなどが記されています(末注②)。「市農協及篠路支所の基盤を確立し」とも。1975(昭和50)年の建立です。 
 
 この銅像を拝めて銘文を読ませてもらっただけでもありがたかったのですが、篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫のことまでは判りません。そこでさらに、責任者の方に私はお尋ねしました。「駅近くの倉庫が田中さんのものだったとお聞きしたのですが、詳しい来歴が判りませんでしょうか?」と。
 この質問は、正直言ってダメ元のつもりでした。自分で尋ねておいて言うのも何ですが、そんな細を穿つことが判ろうものかと。すると、「田中友蔵の孫に当たる人が今、たまたま来ているので、お訊きしてみてください」との言葉が返ってきました。お孫さんは内地にお住まいで、月に2回くらいしか札幌に来られないのですが、たまたま私が行った日に滞在しておられたのです。夕方の飛行機で離札するというTさんにお時間をいただき、お話を伺うことができました。

 その結果、本件倉庫は田中友蔵がタマネギ貯蔵用に建てたものであることが裏付けられました。築年は「昭和40年には建っていた。昭和30年代だと思う」とのことです。ではなぜ、個人で駅前に倉庫を建てたか。[つづく]

 注①:『シノロ 百四十年のあゆみ』2003年、p.975
 注②:同上p.10掲載の篠路村の「村長および村会議員」によると、田中友蔵は1901(明治34)年1月14日生まれ、略歴は「村議当選三 道農業委員 篠路玉協組合長 篠路農産加工組合長 総務委員長 消防団長」。この史料の発行年は記されていないが、前後の記述からして1955(昭和30)年の札幌市への編入当時と思われる。

2018/04/20

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫

 昨日ブログで、八紘学園のカマボコ(型校舎)のことを記しました。
 米軍兵舎が出自と知り、中島公園にあったそれの転々用かと想像したのですが、何とか同定できないかと思います。史料を漁って、判り次第おってお伝えすることとしましょう。

 さて、カマボコからの連想で、こちらの物件です。
JR篠路駅近くにある煉瓦の倉庫 鈑金工場
 JR篠路駅の近くに、カマボコ屋根、煉瓦の倉庫が遺っています(画像は本年1月撮影)。

 煉瓦造、といってもご覧のとおりコンクリートの骨材が組まれている、かなり大きな倉庫です。クルマの鈑金工場として使われているのですが、長年気になっている建物でした。札幌建築鑑賞会で2000年、2003年に刊行した『さっぽろ再生建物案内』でも紹介したのですが(2000年p.28、2003年p.70)、詳しい由来が判らずじまいだったのです。周辺の土地柄からして、昭和30~40年代に建てられたタマネギ倉庫だろうと比定はしました。

 今年になって、篠路駅周辺のまちづくりに関わりができたのをきっかけに(2018.1.24ブログ参照)、あらためて調べ直してみました。その結果、いろいろ判ってきました。

 まず、現在図で本件の場所を確認しましょう(元図は国土地理院サイトから)。
現在図 JR篠路駅周辺 倉庫の配置
 黄色で着色したのがJR篠路駅、赤が本件です。周辺には、煉瓦(えび茶色)、札幌軟石(橙色)の倉庫が遺っています。えび茶色は農協、橙色は民間所有です。このほかに、駅西側にも農協の倉庫が十数棟ありましたが、2007年に解体されて現在は駅前広場とマンションになっています(本年2月5日2月2日1月24日各ブログ参照)。

 本件は軟石の3棟同様、民間所有です。軟石の3棟とは持ち主は異なりますが、これまで持ち主にたどり着けませんでした。農協所有でもなく、一棟ポツンと民間所有の物件が遺っている、しかも鈑金工場として再利用されていることに私はかねがね不可思議を覚えていたのです。農協や日通の古い倉庫が駅前に遺る風景というのは、比較的ポピュラーです。否、「だった」というべきか。篠路は農協だけでなく、軟石3棟も含め民間所有が今も遺っているところが特筆できるかもしれません。

 このたび、持ち主にようやく巡り会えることができました。
田中友蔵像
 田中友蔵(故人)という方です。

 と、結論だけを記せば何ということはないのかもしれませんが、私にとっては20年近い星霜を経ての邂逅です。この銅像を感慨深く拝みました。[つづく]

2018/03/11

篠路 駅東側倉庫群の近くにあった建物 ④

 一昨日ブログの続きです。
 空中写真と農協三十年史を照らすと、建物は「食糧事務所」であったと思われます。裏付けを得るべく、このあたりに長くお住まいの古老を尋ねました。
 1965(昭和40)年から篠路にお住まいのMさん(91歳)。私が2000(平成12)年に撮った写真をMさんにお見せしたところ、ただちには思い出せないご様子でした。実はMさんは、篠路本村の商店街の歴史を丹念にまとめられた方です。その力作は『シノロ 140年のあゆみ』2003年に、12ページにわたって略図と年譜で詳細に綴られています(pp.713-724)。
 
 同書に掲載された略図でも、建物があったとおぼしき位置に「食検」「食糧検査事務所」と書かれています。
シノロ140年のあゆみ 篠路商店街 略図 1971年
シノロ140年のあゆみ 篠路商店街 略図 1974年
 上:1971(昭和46)年(p.714) 下:1974(昭和49)年(p.715)

 これをMさんにお伝えしたところ、「ああ、そうえいば」という様子で、思い出していただきました。
 「コメの検査をして、一等、二等…と決めていた」「2階は職員の住宅になっていた」「いつまであったかははっきり思い出せないが、昭和50年代だったか…」。
 いささか誘導尋問気味にお尋ねしましたが、「2階は職員の住宅になっていた」というお話に具体性が感じられました。

 では、この建物はいつごろ建てられたか。
 前述の文献には、1948(昭和23)-1953(昭和28)年を描いた略図も載っています(p.713)。
シノロ140年のあゆみ 篠路商店街 略図 1948-1953年
 それには「食糧検査所」の位置は別のところに書かれています。橙色の○で囲ったところです。

 同書の年譜には「昭和29年 農林省食料(原文ママ)事務所篠路出張所新築開設(国安さんの向側?)」と記されています(p.721)。
 「国安さんの向側」というのは、前掲1948-1953年略図の橙色の○の位置と合います(「国安さん」は「国安旅館」のことであろう)。略図のその後の時系列をたどるならば、昭和29(1954)年にこの場所に「新築解説」されたというよりは、同年にこの場所から前掲1971年、1974年略図の位置(赤い○)に移ったということだと思われます。ということは、建物は1954年築だったと推定されます。

 同書に「食糧検査所」とか「食検」という文字が出ているのは、食糧事務所の前身に食糧検査所があったことによるものでしょう(農水省札幌食糧事務所『業務年報 平成14年度版』2002年、p.10)。また、地域住民にはコメなどの検査業務が目に映っていたのだと思います。
 3月7日ブログに記したように、篠路出張所が役目を終えたとされるのは1981(昭和56)年です。27年間、使われていたことになります。その後、少なくとも私が写真に撮った2000年までは建物が残っていました。ただし、当時どのような用途だったか、また、いつ解体されたかは定かでありません。人の記憶は移ろいます。あらためて感じました。建物の来し方を一つ跡づけるのも、結構手間ひまがかかることを。
 三十数年前まで、日本には食糧配給の制度が遺っていました。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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