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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/05/23

石の蔵のしるし

 4か月ほど前、なのでもう古い話ですが、「札幌建築クラブ」という会合で「講演」をする機会をいただきました。いわゆるゼネコンや設計・コンサルの会社、道や国の建築部門などに属する人たちの勉強会です。「専門家を前に、素人の私が恐れ多いことで」と躊躇ったのですが、「新年交礼会の前段ですので、肩の凝らない話をしていただければ結構ですから」と請われました。まあ前座の余興と心得て、小一時間ほど演者を務めたしだいです。「札幌時空逍遥~街を歩き、街を楽しみ、街を知る」というテーマで、つまりは拙ブログで遊んでいる世界をかいつまんで披露しました。1月の末、この種の会合がまだ封印されていなかったときです。 
 勉強会と聞いていたので、若手や中堅どころがメンバーなのかと思いきや、驚きました。札幌のⅠ組土建の社長をはじめ地元のゼネコンの役員、大手の札幌支店長や各社の幹部といったお歴々です。札幌(のみならず道内、全国)のまちづくりを牽引する要職にある方々といってもいいでしょう。そういう面々を前に拙ブログで綴っている話をすることになろうとは、世の中も変わったものです。
 後段の交礼会で、皆さんとても楽しそうに聴いてくださった感触が伝わってきました。超高層のビルを建てるといった再開発事業など、参加者がふだん関わっている世界は、拙ブログの価値観(というものがあるか?)とはベクトルがともすれば相反するかもしれません。という先入観を私は抱いてもいたのですが、根底では相通じる思いがあるなあと感じました。
 例えば、JR苗穂駅周辺の話題です(2020.1.242014.12.28ブログほか参照)。新駅周辺のプロジェクトにも参画しているⅠ建設の部長さんが、「うちの会社の近くで、社員も通勤に使っているのですが、そんな話があったとは知りませんでした」と興味深そうに聴いてくれました。手前味噌ながら、「みんな、実は好きなんだよなあ」と確信したものです。これを機に、時空逍遥思想を土木建設業界にも蔓延させることとしましょう。

 本日(5月23日)北海道新聞朝刊(札幌圏)に「札幌軟石の部材 再利用」という記事が載りました。
 ↓
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/423471?rct=l_sapporo
 北区北8条西1丁目、札幌駅北口にある石蔵のことです(3月31日ブログ参照)。この街区では再開発事業で、超高層ビルの建設が計画されてきました。例によってというべきか、こぼれ話を記します。
 リード文によると「施工業者は当初、蔵を解体して撤去する計画だったが、専門家や市民からの保存・活用を求める声を受け、今春、札幌軟石の部材を再利用できるように取り出し、再開発事業のビルの内装や外構に生かすことを決めた」そうです。本文には「当初の方針を転換」したともあります。
 「保存・活用を求める声」の一つは、札幌市の「都市景観審議会」の「景観アドバイス部会」(本年1月23日開催)でしょう。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/singikai/keikan_advice/documents/r01_no5_kouhyoushiryou.pdf
 前後して、本件再開発事業に携わる当事者も方策に腐心されていたようです。記事にも登場する「軟石や」のOさんやNPO法人れきけんがアシストしたと聞きます。
 3月5日の道新「読者の声」に、「『歴史の証』 残す道探って」という投稿が載りました。札幌に「転勤をきっかけに住み始めた」という会社員の方です。「石の蔵」へ寄せる思いがしたためられていました。

 本件石蔵の建つ地域で再開発事業が構想されたのはかなり前からで、準備組合が設立されたのは2009(平成21)年です(注①)。2012(平成24)年には、再開発事業にともなう「環境影響評価方法書」への意見を札幌市が募りました。平たく言えば、環境に影響のある大規模な事業に際しての市民参加の手続きです。
 せっかくの機会なので、このとき私は次のような意見を出しました(太字)。
 対象事業の区域内に「石の蔵ぎゃらりぃはやし」と「居酒屋燔(ばん)」という古い建物があります。アセスメントでこれらの建物に係る環境保全上、なかんづく景観上の意義を十分評価されるよう要望します。

 これに対する札幌市の見解は以下のとおりでした(太字)。
 事業者は、「石のぎゃらりぃはやし」および「居酒屋燔」の保存、活用は難しいと考えていますが、例えば施設建築物の共用スペースの一部に札幌軟石を使用するなど、地域の歴史と文化を伝える景観資源の継承について検討していく考えでおります。
 札幌市としても事業者の意見を尊重しつつ、その継承方法について、事業者とともに検討を進めたいと考えております。
  

 この結果が反映されたのか、2014(平成26)年の札幌市の環境影響評価審議会の答申書や札幌市長の意見に以下の文言が盛り込まれました(太字、末注②)。
 「石の蔵ギャラリー」について
 当該事業予定地に存在する「石の蔵ギャラリー」については、景観法に基づく景観重要建築物には指定されていないが、札幌軟石を使用するなど、当時の札幌の地域の歴史を残すものであり、上記2の景観形成方針には「文化のかおりたかく」との記述もある。
 したがって事業予定地に建設する建築物において何らかの活用方法を検討すること。


 私の要望は「建物を保存してください」ではありません。アセスメントで「評価してください」です。「高く」評価してくれ、でもありません。評価の対象にしてほしい、という趣旨です。民間施行の事業に対して、直接的な利害関係を持たない一市民がモノ申すとしたらこの程度かと私は思っていました。
 その意見を出してから、すでに8年。ここ最近の動向は、私は正直言って傍観していただけでした。いや、傍観すらしていたかどうか、心もとない。建物解体のぎりぎりの局面でも水面下にあって、さまざまな模索、尽力があったことを知りました。今後、実際に札幌軟石がどのように生かされていくか、判りません。もし建物に軟石が使われていたら、その一つにもさまざまな人の思いが詰まっているのだなあと鑑みたいと思います。

  以下、蛇足を二三。
  前述の本日道新記事で、私が「戦前からの母屋が残るのは市内で唯一」というのは、「質屋さんの建物で、戦前築の主屋と蔵が一緒に遺る(っていた)のは」という意味です。質屋さん建築以外でしたら、秋野総本店薬局とか、ほかにもあります。
 「築50年を超す札幌軟石の建物は市内に約300棟あるが、大正以前の建物は35棟という」。これは、「わかっている限りでは」です。

 元「石の蔵ぎゃらりぃ」の蔵の正面妻壁です。
旧金田質店 蔵の正面妻壁
 5月21日ブログで私は、印のところが鉄板で蓋されていることを記しました。背面のほうは「○タ」と刻まれているのを先日初めて知り、正面は二代目の持ち主が隠したのかなと想像したのです。
 鉄板の蓋の部分の画像を拡大すると、何となく文字が浮き出ているようにも見えます。○であるのは間違いないと思いますが、こちらもやはり「○タ」なのだろうか。それとも別の字かしら。

 注①:北海道新聞2014年2月20日記事「札幌・北区『北8西1』 再開発事業 遅れも」
 注②:札幌市サイト「北8西1地区第一種市街地再開発事業」ページ参照
 ↓ 
 http://www.city.sapporo.jp/kankyo/assessment/itiran/jourei05/index.html
 文中「上記2の景観形成方針」とは、「札幌市景観計画」の「札幌駅北口地区景観計画重点区域」におけるそれを指す。札幌市サイト「札幌市景観計画」ページ参照
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/keikankeikaku/keikaku.html#naiyou
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2020/05/14

その名もしるき

 札幌市の河川網図は私にとって、なくてはならないお宝マップです。その存在を知ったのは20年余り前ですが、5年前に入手して以来(末注①)、醍醐味を堪能するようになりました。外歩きにはしばしば携行しています。
 道路網図や河川網図が楽しい理由の一つは、拙ブログでもたびたび綴ってきたように、生きた化石的な名残が窺えることです。電柱銘や踏切名にも通底する業務用ならではの不易性とでもいったらいいでしょうか。それゆえに、今を生きる私たち(不遜ながらあえて「たち」と一般化する)の標となります。
 私が“数寄”を感じる川は、本流・主流的な川、いわゆる大河もさることながら、えてして支川、派川や人工的な用排水路です。しかも、自然の野趣を湛えるそれというよりは、味気ないコンクリート三面張りだったりもします。たぶん、貧困な原体験に由来しているのでしょう(注②)。顧みれば拙ブログの始まりも小河川や堀割からでした(末注③)。こういう数寄が高じると、暗渠に萌えるようになるのかもしれません(末注④)。

 その札幌市河川網図2012年です。
河川網図 大排水 旧大排水
 赤い矢印を付けた先に「大排水」、黄色の矢印の先には「旧大排水」と書かれています。この名前を見ただけで、心が躍りました。

 これが、その大排水です。
北区 大排水
 「新琴似1番線」という市道(末注⑤)から、南西方向を眺めました。

 3年前にこの水路を実際に初めて眺めたとき、感興が弥増したものです。前掲河川網図によれば現在普通河川となっているこの水路が、いまもって「大」と冠した名を負うていることに、弥増しました。名前の不易性と現実の変移性、その乖離。道もそうですが、特に川は生き物のように流転します。

 市道新琴似1番線から反対方向(北東側)を眺めました。
新琴似川 新琴似1番線から北東方向
 前掲河川網図によると、こちらは「新琴似川」という準用河川です。
 
 手元のゼンリン住宅地図2002年や昭文社『でっか字まっぷ 札幌 小樽』2016年には、新琴似川のほうも含め、どちらも通して「大排水」と記されています。もともとは大排水として開かれたものが、近年になって新琴似1番線を境にして大排水と新琴似川に分けられたのでしょう。
 では、この二つの川の違いは、どこにあるか。普通河川と準用河川の違いは前述しましたが、それ以外の違いというか、そもそもなぜ分けられたか。

 注①:2015.9.10ブログ参照
 注②:2015.6.5同6.72016.12.13同12.14ブログ参照
 注③:2014.7.23同7.24同7.25同7.26ブログ参照 
 注④:2015.7.11ブログ参照
 注⑤:一般的には「新琴似1番」として知られているが、市道の名称としては「新琴似1番」、都市計画道路名は「新琴似2条通」である。

2020/05/03

碑を、本題から逸れて鑑みる

 お知らせを一つ。
 STV(5ch)「どさんこワイド179」で一昨年オンエアされた「札幌の歴史を歩いて探訪!てくてく洋二」苗穂編(2018.10.4ブログ参照)が、再放送されます。5月5日(火)午後4時頃の予定です。疫禍防止の昨今、「3密」外出自粛の影響からか、テレビ番組も過去放送分の「傑作選」が多いようです。よかったらご笑覧ください。前後して、5月4日(月)に「新川編」、6日(水)に「鴨々川編」だそうです。

 札幌市北区、新川の右岸ほとりに「力士若勇碑」が立っています。
力士若勇碑
 この現地に足を運んだの「も」、行動自粛が呼びかけられる前です。4月上旬に撮りました。並木のサクラがまだ咲いてません。

 「新川の右岸ほとりに立つ」と前述しましたが、後背に写る川の名は河川法上、このあたりでは「琴似川」です(4月15日ブログ参照))。人工的に開かれた直線的流路の途中で名前が変わることになかなか馴染めないので、ここではとりあえず新川とします。所在地の町名としては北区北24条西19丁目です。

 碑の由来については現地に「北区歴史と文化の八十八選」の看板で説明されています。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/kitaku/syoukai/rekishi/88sen/02_26.html
 拙ブログで綴るのは碑の由来ではなく、例によってというべきか本筋から逸れたことです。

 台座に四囲ぐるりと人の名前が刻まれています。
力士若勇碑 台座 左側面
 正面は「発起者」で人名のみです。しかるに左右と背面は人名の上に各々「○円」とあります。この碑を建立するための寄金者でしょう。

 左右背面を数えてみました。
 左面:50円×1名、30円×1名、20名×2名、15円×2名、10円×11名
 背面:10円×4名、7円×3名、6円×1名、5円×16名
 右面:3円×1名、5円×2名、4円×2名、3円×15名、4円×1名、3円×3名
 合計すると、65名、486円です。
 モノ好きにもなぜこのような計算をしたかというと、お察しいただけるかと想いますが、碑を立てるのにいくらくらいかかったかを知りたかったのです。碑は、台座は札幌軟石が用いられています。本体は札幌硬石(安山岩またはデイサイト)のようです。
 碑の建立年は、本体に「大正十年七月」と刻まれています。1921年。前述の486円が建立費用とイコールだったかどうか、ただちには知りません。また、当時の物価も確かめていないのですが、486円というのは結構かかったのではないかと想います。どうでしょうか。

 とまれ、建立経費がおおまかにもわかるのは興味深いことです。
力士若勇碑 背面
 記念碑の類を立てることや寄金者銘や寄金額を遺すことにはさまざまな評価がありますが(2014.9.24ブログ参照)、歴史を知る手がかりにはなるかと思います。

 もう一つ、人名にところどころ、地名が添えられているのが気になりました。多くは金額と人名のみですが、「札幌」が6名、「軽川」「小樽」「焼山」が各1名です。地名が付いていないのはたぶん、当時の現地たる「琴似村」の人でしょう(末注)。「焼山」ってどこでしょうか。札幌近傍で私が知る焼山といったら、たしか今の豊平区西岡の辺ですが。
  
 注:「札幌」と記された人名一人だけでなく、続く名前の人も同じく札幌の人とも解釈できる。しかしそうすると、刻まれた人はすべて「札幌」「軽川」「小樽」「焼山」のいずれかになってしまう。地名が添えられていないのは地元・琴似村の人とみるのが妥当であろう。実際、刻まれた人名で私が知る1人は、当時の地名でいうと琴似村の人である。

2020/04/28

再び、琴似川の旧河道を彷徨う ③ 白楊博士町の風趣

 4月12日ブログで命名した「白楊博士町」も、琴似川旧河道の畔だったことを知りました。

 たとえば、この一画。
白楊博士町-3 琴似川旧河道の記憶
 古地図や空中写真に照らすと、正面右方の煉瓦のお宅とその左側のお宅との隙間から左方へ、琴似川が流れていました。ちょうどササが生い茂っているあたりです。

 かつての河道を再現すると、こんな感じになります。
白楊博士町-3 琴似川旧河道の記憶 再現
 手前の下草が生えていないところは一時期、家屋がありましたが、ササのところはずっと空き地というか、お庭だったようです。川を境目にして、手前(左岸側)が旧琴似村(町)、奥(右岸側)が札幌市でした。札幌市に合併したのは1955(昭和30)年です。

 前掲画像を撮ったとき、ここが河道跡とは意識していませんでした。しかし、北大の先生のお住まいとおぼしき界隈に、なにやら風趣を感じてしまったのです。北大の先生に限らないのですが、札幌の中上流階級の人びとは流水を生かしたお庭を好んだように窺えます(末注①)。池泉回遊庭園は古来ステイタスであっただろうから、札幌に限らないかもしれません。私がこの風景を見てカメラのシャッターを押したのは、潜在的な既視感のなせるわざでしょう。
 もっとも、先日来記してきたように、このあたりは昭和戦前期の地形図で流路はすでに消えています(4月24日ブログ参照)。北大の先生がたがここにコロニーを作ったのは1950-60年代です(末注②)。したがって実際に流水をお庭に生かしたことは考えづらいのですが、居を構えた先生の中には土地の記憶がこれまた潜在意識下に刷り込まれていたのではないでしょうか。いや、これは私の全き妄想です。川跡が空き地だったのは、コツネイ(窪地)で家を建てるのに適わなかったからかもしれません。

 注①:2015.5.12同10.31ブログほか参照
 注②:一帯が宅地化されたのは、1955(昭和30)年の琴似町・札幌市の合併で市町界が消えた後かと思う。

2020/04/26

再び、琴似川の旧河道を彷徨う ② 女子短大の地霊 

 昨日ブログの続きです。
 女子短期大学の外周通路に琴似川の旧河道が通じていたことを知り、跡を確かめたい衝動に駆られました。大学の守衛さんに事情を話し、立会いのもとにあとづけた風景を以下伝えます。なお、現地を訪ねたのは4月上旬です。感染症防止のためには、「3密」を避ければ外出もいいかなと思っていた段階です。その後、法律に基づく緊急事態宣言が発せられて、北海道も「特定警戒都道府県」に指定されました。

 現地を色別標高図で表します。
色別標高図×現在図 10m未満から1mごと4色 武蔵短大付近
 標高10m未満から1mごと4色段彩で作りました。△を付けたところが下掲画像の撮影位置・向きです。

 まず白ヌキの地点から。
武蔵短大 外周通路-1
 左方へ道が弯曲しています。

 次に、赤いの風景です。
武蔵短大 外周通路-2
 左方へ湾曲する道あるいはその外周が旧琴似川の河道跡と思われます。外周はフェンスで仕切られていて、その向こう側は北大の農場や施設です。黄色の矢印を付けたところまで行きました。

 前掲標高図では黒い▲を付けた地点になります。
武蔵短大 外周通路-3 暗渠、側溝
 札幌市下水のマンホール蓋です。ここから左方、フェンスに沿ってU字溝が設けられています。また、フェンスの外側、つまり北大の施設側にも、奥に向かってU字溝が入っています。
 U字溝が通じているところが、わずかに低そうです。冒頭標高図でも若干の高低差が窺えます。短大側の敷地は人工的に盛り土された可能性もありましょうが、外周(フェンス沿い)のU字溝やマンホール(暗渠?)に旧河道の名残を嗅ぎ取ってしまいました。これを確かめられたのは収穫です。学内の通路は行き止まりになっていますので、ここで引返しました。

 旧河道の下流は、短大の外に出て、北大の敷地側に回らないと辿れません。
 冒頭標高図にを付けたところから撮りました。
北大インターナショナルハウス外構 琴似川旧河道跡?
 左方が北大の施設、右方は民間のマンションです。どちらも勝手に入るのは憚られますので、敷地の外から隙間を覗きました。
 ちょうどこの隙間、すなわち北大敷地とマンションの境目が旧河道跡になりそうです。奥から手前に川が流れていました。

 奥の方を拡大します。
北大インターナショナルハウス外構 琴似川旧河道跡? 拡大
 クルマが並んでいるのは別のマンションの駐車場です。その擁壁に付けた黄色の矢印のとおり、手前の北大敷地との間に高低差があります。1mくらいはあるでしょうか。駐車場もやはり盛り土したとも思われますが、原地形の名残も感じられます。駐車場の擁壁に沿って、手前の低いところを川が流れていたようです。

 冒頭標高図と同じ範囲を現在の空中写真(2008年)で俯瞰します。
空中写真2008年 旧琴似川河道 武蔵短大
 赤いがマンホール蓋の位置、黄色の矢印が上掲画像の隙間(駐車場擁壁の高低差)を撮った地点です。

 琴似川の旧河道はこのあたりで、札幌市と琴似村の境を分かっていました(4月24日ブログ参照)。境目が消えるのは1955(昭和30)年の札幌市と琴似町の合併です。川の流れが失せても境目が残っていて、たぶん土地の所有も区切られていたのではないでしょうか。女子短期大学が現在立地する左岸側すなわち旧琴似村(町)側は旧河道と新川(桑園新川)で三方を囲まれて、いわば袋地のようになっていました。短大が開校したのは、同大のサイトによると1967(昭和42)年です。当時、学校用地を確保するのにちょうど手頃な空地だったのかもしれません。いや、手頃なという以上に私は、川(と川跡)に囲まれた土地柄から妄想してしまいます。女子短大の敷地という聖域性です。などということを、この地で学ぶ短大生に伝えてみたい。やめましょう。

2020/04/25

再び、琴似川の旧河道を彷徨う

 昨日ブログで述べたように、琴似川の下流部は1950-60年代には河道が消失しています。ここでいう下流部とは、直線的流路(新川、現川名は琴似川)との接合部から札幌飛行場の跡地あたりです。現在の町名でいうと、札幌市北区北22条西13丁目から北30条西9丁目くらいになります。

 琴似川が直線的流路と接合するあたりの現在図です。
現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会付近
 ここ数日、このあたりの古地図や空中写真を繰り返し見てきましたので、消えた河道が残像のように浮かび上がってきます。といっても、それは“予習・復習”のたまものです。4月11日ブログに記したように、現地を歩いて風景を読み解くことができる場合もありますが、私はまだまだ修行が足りません。最初にこの地を歩いたとき、琴似川旧河道の跡は見当がつきませんでした。

 古い空中写真を現在図に重ね合せます。
空中写真1948年×現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会

空中写真1961年×現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会
 上が1948(昭和23)年、下が1961(昭和36)年です。

 上掲2画像を脳裏に焼き付けて下掲の1985(昭和60)年空中写真を見ます。
空中写真1985年 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会付近
 この時点ではすでに失せたはずの河道が、あたかも蛇行しているかのようです。住宅地の間にも、そこはかとなく流路が窺えます。

 現在図に復元してみると、おおまかにはこんなでしょうか。
現在図 琴似川旧河道〈加筆) 武蔵短大、白楊町内会付近
 黄色のを付けたところに、女子短期大学の車両用通用口があります。
 
 その入り口からの眺めです。
武蔵短大 構内通路 河道跡
 女子短期大学の通路が、奥に向かって左方へ湾曲しています。この弯曲が琴似川の蛇行跡だったとは…。

 入口の両側に、大きな樹が生えています。
武蔵短大 車両通用口-1
武蔵短大 車両通用口-2
 ヤナギでしょうか。樹高がかなり高く、樹齢も重ねた大木です。空中写真に照らすと、旧河道の岸辺に当たります。植生からしても、川が流れていた頃の河畔林の名残またはその子孫ではなかろうか。街路樹として植えたにしては立派すぎます。ちなみに、傍らの電柱銘は「琴似川幹」です。

 女子短大構内の弯曲通路の先を確かめてみたい衝動に駆られました。しかし、私のような風体の男がひとり、カメラをぶらさげて女子大の入り口付近をウロウロしているのは、もはやそれだけでも不審です。私が大学の守衛なら、必ず怪しむでしょう。 

2020/04/24

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑨

 4月22日ブログで末尾を次のように結びました。
 ①琴似川の下流部は1973年よりも前に、すでに河川ではなくなっていた(いわば「廃川」)。直線的流路の上流部の川名は、下流部の「廃川」とは関係なく、「新川」から「琴似川」に変えられた。
 ②1973年時点で琴似川下流部が「廃川」となったのと併せ、直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられた。
 先日来ブログに載せてきた1973年河川網図から考えられる史実です。上記①②のどちらが正しいか明らかにするためには、1973年より前と後の河川網図などの史料も漁りたいのですが、さしあたっては手に入りません。手元で当たることができる情報に基づいて考察を続けます。なお、ここでいう「琴似川の下流部」は、新川と接続した地点から直近の箇所のことです。それよりさらに下流、現在の東区や北区篠路のあたりは4月22日ブログに記したとおり今も「旧琴似川」が流れています。

 結論的にいうと、①の可能性が高いと私は見ました。つまり、琴似川の下流部は1973年よりも前、すでに「廃川」になっていたという見方です。では、廃川となったのはいつ頃か、史料をあとづけます。

 まず4月22日ブログに載せた1935年地形図の再掲です。
地形図 昭和10年 琴似川 旧流路
 先に記したように黄色の矢印を付けたあたりでは流路が消えていますが、その下流の札幌飛行場の西側でまだ流れています。

 これとほぼ同域を撮影した戦後の空中写真です。
空中写真1948年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
空中写真1961年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
空中写真1976年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
 4月11日ブログに載せたものを、より広域で俯瞰しました。上から下へ1948(昭和23)年、1961(昭和36)年、1975(昭和50)年と、年代が下ります。

 1948年写真には札幌飛行場の滑走路(の痕跡)が窺えます。南東-北西方向にナナメの白く細い長方形です。滑走路によって琴似川の流路が断ち切られたかに見えます。
 1961年写真では飛行場の痕跡が消えました。しかし旧河道は、飛行場があったときよりもむしろ、蛇行跡が浮かび上がっています。その多くは河道そのものではなく、河道跡を境目にした土地(農地)利用の違いでしょう。途中に宅地もできつつあります。現在の宮の森・北24条通の北側です。これは北大の先生がたが作ったコロニーと思われます(4月12日ブログ参照)。
 1975年写真になると、宅地がさらに広がってきました。その中に緑地が一部残っていて、やはり河道跡を彷彿させます。宮の森・北24条通の北側の緑地は、旧河道を境目にして北大の農場でした。「第3農場」とか「タコ足」と通称されていたように記憶します(2015.8.278.288.29ブログ参照、末注)。
 これらを振り返ると、琴似川の下流部の少なくとも新川との接続地点から札幌飛行場の跡地あたりまでは、1960年代には川が消えたようです。なお、戦後の地形図を追ってみても、1950年代には川は飛行場跡の西方より上流では見当たりません。
 ↓
 今昔マップon the web 札幌1950-52年、地理院地図 

 琴似川の下流部は1973年よりもかなり前に「廃川」となっていたとみられます。「かなり前」というのは10年、20年というスパンです。とすると、1973年時点で「廃川」となったという冒頭の②説は考えづらく、直線的流路の上流部は琴似川下流部の廃川とは関係なく名称変更(新川→琴似川)とされたと思えるのです。

 注:「第3農場」は、北18条以北にある「第2農場」よりさらに北の飛び地ということで俗称されたものだろう。正式な第3農場は現在の都市緑地「大学村の森」(東区北28条東4丁目)のあたりにあった(2015.2.3ブログ参照)。

2020/04/22

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑧

 昨日一昨日拙ブログに載せた古い河川網図で、もう一つ確認しておきたいことがあります。琴似川の旧流路です。1973(昭和48)年の時点で、ひょっとしたらまだ河川として遺っていたのだろうかと想いました。

 4月16日ブログに載せた地形図1935(昭和10)年を再掲します。
地形図 昭和10年 琴似川 旧流路
 1887(明治20)年に開かれた直線的水路を濃い青でなぞりました。水色でなぞったのが琴似川です。琴似川は先日来記しているように、直線的人工水路につなげられました。

 黄色の矢印で示したのが旧流路、すなわち断ち切られた下流部の痕跡です。蛇行する旧流路に沿って二点鎖線が引かれています。札幌市と琴似村の境界です。境界線は分かたれていますが、流路そのものはほぼ消えています。矢印を付けたあたりから少し北へ下ると河道が再び現れるので、完全に消えたというわけではなく、「ほぼ」です。「札幌飛行場」の西外周の道路には橋の記号も描かれています。これが1935(昭和10)年時点です。
 冒頭で、この琴似川が「1973(昭和48)年の時点で、ひょっとしたらまだ河川として遺っていたのだろうか」と記しました。直線的流路で断ち切られた下流部で、前述の「ほぼ」、いいかえればかろうじて、川が流れていたのだろうか。直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられたのは、その旧河道が完全に消えたこととの入れ替わりかもしれない。

 昨日ブログに載せた1973(昭和48)年河川網図をあらためて観ます。
札幌市河川網図 1973年 旧琴似川
 前掲1935年地形図に一部遺っている琴似川の旧河道は窺えません。ただし、さらに北方には遺っています。赤い矢印を付けた「旧琴似川」です。これは今に至るまで生きています(2015.6.26ほかブログ参照)。現在の東区北50条、北51条から北区百合が原、篠路にかけて流れる名残の川です。

 琴似川の旧流路は1973年の時点で、上述の「旧琴似川」は別として、直線的流路で断ち切られた下流部ではすでに存在していませんでした。このことから、以下のことが考えられます。
 ①琴似川の下流部は1973年よりも前に、すでに河川ではなくなっていた(いわば「廃川」)。直線的流路の上流部の川名は、下流部の「廃川」とは関係なく、「新川」から「琴似川」に変えられた。
 ②1973年時点で琴似川下流部が「廃川」となったのと併せ、直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられた。

2020/04/15

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか?

 本年3月20日ブログで、琴似川と新川のことに触れました。同じ川なのに、途中で名前が変わっていることです。川の上流と下流で呼び名が変わることがさほど珍しいとは思いません。日本一の長さを誇る信濃川は新潟県側では信濃川ですが、上流の旧信濃国たる長野県内では千曲川です。富山県を流れる神通川は、上流の岐阜県側に入ると宮川と呼ばれます。「イタイイタイ病」で有名な神通川は聞き覚えていましたが、その上流が岐阜県高山市を流れる宮川だということを私が知ったのはごく最近です(2019.5.22ブログ参照)。どちらも旧国境(くにざかい)をまたぐと呼び名が変わります。これは自然なことです。
 しかるに新川はというと、前述二河川に比べたらさほど長くはありません。しかも「たかだか」、といっては語弊がありますが、この百数十年の間に開削された人工的水路です。なのになぜ、呼び分けているのだろう?

 現在図でおさらいしておきます。
現在図 琴似川、新川
 札幌の中心部から北西へほぼ45度の向きで直線的に流れる川のうち、赤いを付けた地点より下流の橙色でなぞったのが新川です。上流すなわち南東側の黄色でなぞったところは琴似川と呼ばれます。なお、直線部分南東端の赤くなぞったほんのちょびっとa bit の部分は「桑園新川」です。

 4月11日ブログに記したように、琴似川は桑園新川が合流する地点で南西へ遡ります。その部分の現在図を再掲します。
現在図 桑園新川 北21条西13丁目 空き地
 濃い青が琴似川、水色が桑園新川です。

 冒頭図に戻って、琴似川は南西へ遡ると、札幌競馬場の西側からjRの鉄路をくぐるあたりでいったん暗渠となっています。再び顔を出すのは、地下鉄東西線二十四軒駅の近くです。そこからさらに中央区宮の森のほうへ遡ります。このあたりの琴似川は人工的に整形されているとはいえ、出自は自然河川です。その自然河川たる琴似川が明治時代、人工的に開かれた新川につながれました。その結果、琴似川の河道は新川で断ち切られます(末注)。
 結局、河道が断ち切られたことにより、つなげられた新水路(新川)のほうに琴似川の名前が移った。前述の自問への答えはそうなります。しかし、私にはあえて疑問が残りました。琴似川の名前はもともとの自然河川の部分だけで留めて、人工的(直線的)水路の部分は一律に「新川」でも良かったのではないか。前掲図でいうと、「桑園新川」と合流する地点までです。理由は、直線的水路は新川一本で通した方がスッキリするという程度ですが。 

 このことにひっかかったきっかけは、UHBみんテレ「となりのレトロ」のコーナーで昨年11月に新川を取り上げたことです(2019.11.26ブログ参照)。同月上旬に現地を下見したとき、私は「新川っていうけど、正確にいうと上流は琴似川なんだよね」スタッフにと話しました。スタッフから「なんで、そうなったのですか?」と問われ、前述のとおりいっぺんを答えた後、「でも、なんでだろう?」と気になったのです。そもそもいつから、呼び分けられたのか。

 注:断ち切られた旧河道の痕跡は下流部に遺り、さらにその下流で「旧琴似川」として生きている。2015.8.29同6.26ほかブログ参照

2020/04/12

ここにも博士町が。

 戦前から戦後にかけて北大の先生方が大学の周辺に作った“コロニー”は、博士町とか大学村、文化村と呼ばれてきました(末注①)。札幌の住文化や町並み景観の成り立ちに少なからぬ影響を与えたようです。のみならず、生活スタイル全般に大きく寄与した、というべきかもしれません。拙ブログでも折々、触れてきました(末注②)。越野武先生(北大名誉教授)は「町なかの近代」で「一番目につくのはお医者さんの家、医院である」として、「ドクトル・モダン」と名づけました(末注③)。「ほかにもプロフェッサー・モダンとか、北海道なら牧場モダンなどがあって、近代住宅の歴史に彩りを添えているが、なんといってもドクトル・モダンがず抜けている」と。先生はその一人なので控えめなのでしょうが、私は北大の先生の住宅も「ドクトル(博士)モダン」となぞらえたいと思います。

 先日、ゼンリン住宅地図をめくっていたら、ある一画に聞き覚えのあるお名前が幾つか並んでいるのに気づきました。北大の先生、それも一世代前の泰斗とおぼしきお歴々です。大学の近くなのでさもありなんと想いつつ、諸先生方はどんなお住まいだったのだろうと興味が湧いてしまいました。文字どおり興味本位です。

 覗き趣味とまではならない程度に、界隈をちらちらと眺め歩きました。
白楊博士町-1
白楊博士町-2
 先生方は如何な思いでおうちを建て、お庭を作ったのかしら、と感興が弥増します。もう亡くなられたと思いますが、二十数年前、お目にかかったことのあるお一人のお宅はすでにありません。そのときお尋ねしなかったことが今となっては悔やまれます。

 私はここを、地域の通称を戴いて「白楊博士町」と呼びたい。

 注①:池上重康「文化生活と住宅」『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年、pp.140-152、池上「桑園博士町『村会日誌』」『北海道大学大学文書館年報』第2号2007年、pp.95-122参照
 注②:2015.2.92017.10.252019.7.23 ほか
 注③:越野武+北大建築史研究室『北の建物散歩』1993年、p.228

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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