FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2020/04/01

東洋カメラハウス

 2010(平成22)年から「カフェ&バー ROGA」として再生した石蔵です。
東洋カメラハウス 2020年3月
 昨年、主屋のほうも装いを新たにして、人びとが集える場になりました。「東洋カメラハス」という屋号が架かっています。1階はあげぱん屋さん、レンタルスペース、2階は理美容室です。

 昨年6月に撮ったときはまだ、主屋のままでした。
ROGA 2019年6月

 さらにその前、2003(平成15)年に撮ったときの外観です。
東洋カメラハウス 2003年
 このときはまだ、石蔵もカフェになる前でした。蔵が建てられたのは明治~大正期と伝わります(末注)。1958(昭和33)年から、もともと営まれていた写真店のフィルム収蔵庫として使われてきたそうです。耐火断熱の軟石の蔵は、フィルムの保管には向いていたのでしょう。写真店は2015(平成27)年に閉じました。

 持ち主のOさんが父祖の想いを受け継いで実現した新たな想い出づくりの場です。東洋カメラハス 北区北7条西5丁目。→ https://toyocamerahouse.com/

 注:札幌市の「耐火構造分布図」都市計画北海道地方委員会1924(大正13)年調製(昨日ブログ末注参照)には本件石蔵所在地も耐火建物として彩色されており、伝聞を裏付けている。
スポンサーサイト



2020/03/31

石の蔵ぎゃらりぃ はやし

 本日3月31日で営業を終えました。
石の蔵ぎゃらりぃ はやし 202.3.31
 この建物がある一画、北区北8条西1丁目はかねて再開発事業が計画されており、お聴きしたところ5月頃から解体工事が始まるそうです。

 建物は元質屋さんでした。腰折れ屋根の木造主屋は昭和初期、石造りの蔵は大正期の築と伝わります。質舗建築でこれだけの歳月を経た主屋と蔵が一緒に遺るのは、札幌では稀有です。たいがいは主屋のほうが新しくなっています。私が知る限り、本件より古い建物は知りません。本件も、一帯の火事で昭和初期に母屋が焼失して建て替えられたのですが、札幌軟石を用いた質蔵は焼け残ったと聞きます。

 1984(昭和59)年から建築家のKさんが事務所として再利用し、その後2002(平成14)年から林さんが主屋を喫茶店、石蔵をぎゃらりぃとして再生して使ってこられました。Kさんは札幌軟石などの歴史を生かした設計に携わってきた方です(2015.7.21ブログ参照)。建物はKさん、林さんと人に恵まれて第二、第三の生をはぐくみました。

 札幌建築鑑賞会で2000(平成12)年と2003(平成15)年に刊行した『さっぽろ再生建物案内』で紹介した本件建物です。
さっぽろ再生建物案内 初版2000年 北海道建築工房
ささっぽろ再生建物案内 第2版2003年 石の蔵ぎゃらりぃ はやし
 (上掲が初版2000年、下掲が第2版2003年 末注)

 林さんには、18年にわたりお店を続けてこられて、ありがとうございました。

 注:前掲書には石蔵の建築年を1930(昭和5)年と記したが、その後の聞取りなどにより伝大正期築とする。2008(平成10)年、札幌建築鑑賞会による札幌軟石物件調査「札幌軟石発掘大作戦」北区編で同会スタッフSさんにより、本件の大正期築を符合するる史料も明らかになった。札幌市の「耐火構造分布図」都市計画北海道地方委員会1924(大正13)年調製で、本件石蔵所在地に耐火建物として彩色されている。

2020/03/24

人生、七ころな八起

 昨日ブログの続きです。
 北大メインストリートの風景を跡づけた後、附属図書館に寄りました。札幌市内の図書館や江別の道立図書館が閉まっている中で、ここも市公文書館と並んで稀少な知のオアシスです。
北大 中央ローンから附属図書館を望む
 土地柄からいうと、“知のメム”。

 ここの「北方資料閲覧室」は、書籍がコンパクトに開架されています。
北大附属図書館 北方資料閲覧室
 右上の時計は止まったままです。閉館間際の午後5時に撮りましたが、5時を指してはいません。12時25分です。まさに、時が止まった空間。いいなあ。
 利用者の濃厚接触のリスクは低そうです。とブログで伝えたら、居場所に飢えた知的難民がどっと押し寄せかねません。などということは拙ブログの影響力からして、ありえないでしょう。 

 私の目当ては昨日ブログに記した北大のメインストリートの風景に関する資料でした。それには当たりませんでしたが、別の僥倖に邂逅しました。
 道新の元文化部長Mさんです。Mさん曰く「いま週に2回は、ここに(北大図書館)に来てます」と。黒澤映画『白痴』のことをお尋ねするにはうってつけの方にお会いできました。コロナ禍が取りもつ縁というものもあるのだなあ。
 おかげでMさんから豊平館と市公会堂の西側面を写した古写真を送っていただきました。豊平館も公会堂も正面の写真はよく見るのですが、隣り合って一緒に写った側面というのは意外と見当たりません。助かりました。

 図書館といえば、札幌市では休館が今月末まで延長されています。妻は飢餓状態です。「せめて貸出しだけでもしてくれたらいいんだけど」とぼやくのですが、なかなか難しいのでしょう。「ネットで予約した本のみ貸し出す」開館という方法もあるかもしれませんが、「ネットに接続できない人はどうする?」という苦情が出そうです。
 一連の事態で世の中には不眠不休で忙殺されたり、商売上がったりの人も多いと思います。そんなときに能天気なブログを開陳すると不謹慎の謗りも免れないかもしれません。時空逍遥は不要不急の極致です。感染拡大に手を貸さない限りで遊ばせてください。
 ちょっと気が早いのですが、今年の新語・流行語大賞はまちがいなくコロナ関係からノミネートされるでしょう。クラスターとかオーバーシュート、濃厚接触? 今年の漢字一文字は「感」か「染」ですか。 創作四文字熟語は…。武漢速熱。いま「ぶかんそくねつ」と打って変換したら、すぐ出ました。私としては「即熱」を想定したのですが。ネットで検索したら、世に出しているサイトがすでにあるのですねえ。地名にかこつけるのはよくないか。蔓延元年。これは週刊誌の見出しで目に入りました。感染厭気で観戦延期。
 

2020/03/23

69年前の札幌を跡づける

 新型コロナウイルスのあおりを食って、今月29日に予定していた札幌建築鑑賞会「札幌百科」第17回を中止することとしました。
 ↓
同会公式ブログ2020.3.21参照

 第17回「巨匠クロサワは札幌で何を観たか」(同会公式ブログ2020.2.26参照)の準備を仕切り直すべく、街に出かけました。といっても、札幌市内近郊の図書館はこれまたコロナ禍対策で休館しています。私が試みているのは、黒澤映画『白痴』でロケされた場所を、現在地に足を運んで“同定”することです。
 1951(昭和26)年に制作されたこの映画のことは、札幌建築鑑賞会ではすでに1994(平成6)年、映写会を催してます。そのとき、越野武先生(現北大名誉教授)におもだった建物などを解明していただきました。しかし、その後新たにわかったものや、いまもってまだ謎のシーンがあります。四半世紀を経て、私たちの眼もまた肥えてきた、というか、より蒐集癖が募ってきたのです。

 本日私が同定を試みたのは、このシーンです(静止画像は鑑賞会スタッフSさんから提供)。
白痴 ポプラ? 森雅之と久我美子
 右方にポプラの高木が数本、並んでいます。左方の大木はニレ(エルム)でしょうか。後姿の二人は森雅之(右)と久我美子(左)です。

 私はこれを、北大のメインストリートの北11条あたりとにらみ、現地を跡づけてきました。
北大 メインストリート 北11条あたり 南望
 この風景は、はたして前掲画像の69年後なりや、いなや?
 
 上掲は、メインストリートを北から南に向かって眺めたものです。しかし、本来であれば通りの右側に聳えていたポプラの樹が、ご覧のとおり今はありません。記憶が定かでないのですが、2004(平成16)年の18号台風で倒れたか、危険が極まって伐採されたかしました(末注)。北大構内にはこの二十年のうちにも幾度か足を運んでいるのに、記憶はおぼつかないものです。

 とまれ、これでは較べるのが難しい。『写真集 北大百年 1876-1976』1976年に、この場所とおぼしき写真が載っています(p.309)。キャプションに「昭和14年」とあるので、くだんの映画の12年前です。ポプラは前掲映画のシーンと同じくらいに高く聳えています。しかし、残念ながら通り全体を見渡していたものではなく、加えて樹形が黒くつぶれているため、これまた同定しづらい。映画のワンシーンとピンポイントで同じアングル、というのはなかなか見当たりません。

 「自分で撮ってなかったかなあ?」と古いアルバムを見直してみました。
北大 メインストリート ポプラ 1982年2月-2
北大 メインストリート ポプラ 1982年2月-1
 1982(昭和57)年に撮ってました。いまはなき風景を紙焼き写真に収めていたことに、自己満足を覚えます。

 しかし、冒頭画像と較べるに当たっては、向きが逆です。メインストリートを南から北を眺めています。かろうじて、通りの全体が写っているのが救いです。撮影したのは2月なので、映画のロケと同じ月の雪景色でもあります。さて、どうか。
 冒頭のシーンと空間的に同じだとすれば、時間的には31年の隔たりです。ちなみに、冒頭画像がもし北大のメインストリートだとすると、左方のエルム?の大木の後景に黒っぽく写るのは、位置的には低温科学研究所の旧屋に当たります。

 注:手元の新聞記事スクラップによると、農場にある有名なポプラ並木の51本のうち27本が2014年台風18号で倒れたか傾いた(2004年10月23日北海道新聞記事「北大ポプラ並木の再生にかける平井卓郎さん」ほか、同年9月9日、14日記事)。メインストリートのポプラのことは確認できず。さかのぼる2001(平成13)年、大学は樹木医の調査により「有名なポプラ並木とはちがうが、樹齢60年近いポプラ並木もあわせて伐採の対象」になり、「危険木」として伐採を決めた(小野有五『たたかう地理学』2013年、p.192、初出は「市民のための市民の科学を」岩波書店『科学』Vol.71、№4、№5、2001年)。ここでいうポプラ並木がメインストリートのそれを指すか、さだかではない。「樹齢60年近い」というと、映画撮影の1951年にはまだ幼木だったことになる。メインストリートにあったポプラの樹齢はもっと老いていたように想う。後述の『北大百年』に「昭和14年」撮影として写るポプラは、その時点でかなり成木となっている。

2020/03/20

河川標識を味わう

 新川に架かる西陵橋です。
西野屯田通 西陵橋
 「新川に架かる」と記しましたが、この橋は正確には新川と琴似川と琴似発寒川に架かっています。

 下掲現在図の赤いを付けたところが西陵橋です。
現在図 琴似川~新川 第一新川橋-西陵橋
 右下(南東)から左上(北西)へ直線的に流れる川において、この橋の上流(南東)が琴似川、下流(北西)が新川になります。さらに、ここへ南から蛇行して合流しているのが琴似発寒川です。冒頭画像は、向かって右側が琴似川、すなわち上流に当たり、左側が新川、すなわち下流に当たります。

 冒頭画像の黄色の矢印を付けた先に立っている標識です。
河川標識 琴似川
 上流側で、「琴似川」と書かれています。

 一方、赤い矢印を付けた下流側は「新川」です。
河川標識 新川
 この川沿いの道路を通過すると、この橋を境に川の名前が変わります。直線的な流路なので、「いきなり」感を抱きます。しかも川沿いの道路は上流も下流も「新川通」という都市計画道路名であり、その名前の標識が付いているので、なおのことです。

 いや、実は本日のブログで綴りたかったのはそのことではありません。
 河川管理者の北海道が設置した上掲の標識のことです。河川名の下に「川の名の由来」が書かれています。ありがたいことですが、その中身に立ち入るのでもありません。それは別にあらためるとしましょう。

 新川の下流で見かけた標識です。
河川標識 新川 第一新川橋
 前掲地図の橙色のを付けた「第一新川橋」のたもとにあります。下流の小樽市との境界に当たります。 

 気になったのは英語表記です。西陵橋ではShinkawa river、第一新川橋ではShin RIV.。しかも西陵橋の「琴似川」のほうは英語表記がありません。コトの本質にかかわらない、かように些末な細部が好きです。
 日本の地名の英語表記の決まりごとでは、○○山はMt.○○、△△川は△△Riverとします。しかし、「山」や「川」が固有名詞的に一体化している場合は例外的にMt.○○yamaとか、△△kawa Riverとするようです。富士山はMt.Fuji、鳥取県の大山(だいせん)はたぶん、Mt.Daisenでしょう。木曽の御嶽山は、Mt.Ontakesan か、Mt.Ontakeか、Mt.On か? では、円山は? 豊平川はToyohira River、創成川はSosei River。
 では新川は? 原則にのっとるか、例外を適用するか。前掲2標識には、心の揺らぎというか、大袈裟に言えば葛藤が滲みでています。人間味が感じられるのです。拙ブログ読者の方はお察しいただけると思いますが、「統一されていないのはオカシイ」などとイチャモンをつけるつもりでは毛頭ありません。
 ところで川のRIV.という略記は、英語で一般的なのでしょうか。山のMt.はよく目にするのですが。手元にある米国の出版物をみると、多くは省略せずRiverです。R.という略記は見ました。

 さらに脱線します。前述のShin RIV.の標識が立つ「第一新川橋」です。「第二」とか「第三」はあるのでしょうか。

2019/11/29

「となりのレトロ」新川通編 補遺(承前)

 11月26日ブログに続き、UHB「みんテレ」(11月25日放送)の「となりのレトロ」新川編について、もう一つ補足します。

 番組で私は「札幌郡西部図」1873(明治6)年(下図)を見せて、1870(明治3)年の運河計画を伝えました。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線 ?
 画像に赤い矢印と黄色の矢印を付けた先の破線です。私はこれを運河の計画線と説明しました。

 破線の南端部を拡大します。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線? 南端部
 破線は、「シンカワ」と「コトニ川」(それぞれ下から上へ逆さに書かれている)の合流点あたりから、北西、北北西に伸びています。「シンカワ」は、札幌の中心部から直線的に開かれた「寺尾堀」です。この合流点はおおむね、現在の北区麻生町8丁目、札幌市創成川水再生プラザ・下水道科学館に当たります。

 私は、赤い矢印を付けたほうを1870(明治3)年に企図された銭函への運河、黄色の矢印を付けたほうを1886(明治19)年に掘られた「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)の計画線と見ました。結論的にいうと、これは推測、想像の域です。計画線であることを裏付ける史料を持ち合わせたものではありません。
 札幌市公文書館のEさんは「それらしいところに描かれているのだけれど」としつつ、「これは測量基線でないか」と推測しています。銭函への運河の琴似川から北西への開削は、1871(明治4)年には中止されました。したがって、1873(明治6)年の地図に計画線が残るのは不自然かもしれません。
 明治6年古図に描かれた破線について私は2018年5月6日ブログで言及しています。そのときは「これは計画線のように見えます」と記したのですが、今回の放送では断定口調に寄ってしまいました。反省します。

 ところで、その破線のうち黄色の矢印を付けたほう、すなわち私が茨戸への運河の計画線とみた流路は、実際にはどのように掘られたでしょうか。
 大正5年地形図を見ます。
大正5年地形図 創成川流路 新琴似 篠路
 青色でなぞったのが琴似川、水色でなぞったのが「寺尾堀」、1886(明治19)年に琴似川との合流地点から北北東へ直進して延伸された「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)です。地図には、北端の石狩川(現在の茨戸川)に合流するあたりに「創成川」と書かれています。

 この流路も、冒頭明治6年古図に描かれた破線(黄色の矢印を付けたほう)とは明らかに異なっています。異なっているから破線は計画線ではなかったということも言えません。明治6年古図から実際に流路が開かれるまでは、10年以上の時間差があります。計画と実現が異なることもありうることです。さりとて、破線を計画線とこだわるならば、何らかの根拠が必要です。

 私は、市公文書館のEさんから教えてもらった別の古地図に注目しました。
「新川分間略図」1872(明治5)年 全体
 2018.5.9ブログでも一部引用した「新川分間略図」1872(明治5)年(北大図書館蔵)です。
 南端から琴似川まで水色で水路(寺尾堀)が描かれ、琴似川との合流点から北へ、赤い実線が引かれています。私にはこれも計画線に想えるのです。

 赤い実線の北端あたりを拡大します。
新川分間略図」 赤い実線の北端部
 石狩川(茨戸川)には直結せず、発寒川に達しています。冒頭明治6年古図に黄色矢印で示した破線と似ている描かれ方です。

 画像右方(東方)に「シノロ沼」と書かれた沼が描かれています。赤い実線は、この沼を避けて引かれたようにも見えなくはありません。冒頭明治6年古図でも、破線は沼地らしいところを避けているかのようです。

2019/11/26

「となりのレトロ」新川通編 補遺

 25日に放送されたUHB「みんテレ」の「となりのレトロ」では、新川を紹介しました。局スタッフから提案があったのは、ほかでもありません。2020年東京オリンピックのマラソン・競歩が札幌で催されることとなり、コ-ス候補地として新川通が一躍“脚光”を浴びたためです。テレビでは、東京キー局の番組で“ディスリ”、道内ローカルで反発という構図でした。前者は、降ってわいた札幌開催そのものへの反感をベースに、とりわけ新川通を走ることへの懸念(行程が単調、日差しを遮るものがないなど)だったようです。後者は、“おらが地元”への貶めや札幌が五輪の華を横取りしたかのような“不当な言いがかり”に対する異議とでもいえましょうか。マスコミならではのマッチポンプ(古語)という感なきにしもあらずですが、これを機に新川を文字どおりレトロスペクトするのもよいかと思います。
 
 さて、その新川です。
新川 西陵橋から南望
 番組の落としどころは、新川開削の“知られざる”目的を明らかにすることでした。低湿地の排水乾燥化に先立って、もともと水運・物資輸送を企てたという目的です。ただしこれは以下、注釈させてください。
 現在の新川(琴似発寒川との合流地点より上流の琴似川を含む直線的人口河川)は1886(明治19)-1887(明治20)年に開かれました。この川が「水運」も目的として開削されたかというと、それを裏付ける史料は現時点で見つかっていません。史料として明らかなのは、あくまでも「排水」です(末注)。
 しかし、「水運」に言及している二次的資料が散見されます(末注②)。これは1870(明治3)年に企図された「新川」(末注③)と混同されているのではないでしょうか。このときは、「物資輸送の確保」が目指されていました(末注④)。札幌市公文書館のEさんにお尋ねしたところ、1886-1887年開削時はやはり「排水」とする史料しか見当たらないそうです。「史料に書かれていないから『水運』の目的はなかった、と断定まではできませんが…」としつつ、否定的な見解でした。
 1870年新川と1886年新川の間には十数年の時の経過があります。その間の1880(明治13)年には札幌手宮間に鉄道が通じました。また、現在の新川が掘られた1886年には創成川(寺尾堀)が茨戸まで直進され、のちに「札幌茨戸運河」となります。水運は石狩との間につながりました。しかるに小樽方面へは鉄道が敷かれた後、その鉄路にほぼ並行して開いた新川にあえて物資輸送の機能も目されたとは、私には考えづらいのです(末注⑤)。

 新川の橋上から下流を眺めると、JRタワーがアイストップになって望めます(前掲画像は西陵橋からの眺望。したがって、写っている川は「琴似川」)。まるで札幌駅からの軸線を図ったかのようです。この風景にはロマンを感じるのですが、史実とは区別しなければならないなと自戒しました。

 注①:「北海道庁事業功程報告明治二十年度」(道立文書館蔵)の「札幌近傍原野排水及道路開鑿」に、「小樽内札幌間」の起工について記されている。「本工事ハ小樽内川ヨリ琴似川ニ至ルヲ本線トシ排水渠ノ延長三千四百三十五間之ニ傍フテ幅四間延長六千百四十九間ノ道路ヲ築キ片側ニ下水ヲ通シ支線ヲ設ク」。標題が「原野排水」であるのみならず文中も「排水渠」とあり、水運、舟運等の文言は無い。「官報 明治二十年十二月二十四日 札幌近傍排水工事」も同様の記述であるほか「此工事ハ近傍数多ノ小流水ヲ此新堀割渠ニ湊合シテ小樽内川ニ排注スルノ計画ナレハ工事ノ全テ竣ルニ至レハ琴似発寒軽川等緒川ハ概ネ涸渇シテ此諸川近傍幾千万坪沮○(サンズイ扁に如)卑湿ノ地変シテ乾燥肥沃ノ園圃トナルニ至ルヤ疑ヲ?ルヘカラス」。 
 注②:『新川郷土史』1980年が引用する『札幌市史』(旧市史)では「排水、水運治水の目的を同時に遂行したもの」と記述(p.54)。札幌市河川事業課『さっぽろの川と人々のくらし』では「物資の運送の利用も兼ねて、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけ『新川』の開削が始まりました」(p.9)。山口甲(元北海学園大学教授・元北海道開発局長)「新川という川」新川流域を楽しくする会『新川ルネサンス~新川の新たな可能性を探る~』2018年には、「掘削した目的は氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すため」(p.9)。同書巻頭の「『新川ルネサンス』発刊にあたって」にも「新川開削の目的を調べてみると、川の氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すためと有ります。つまり内陸運河のイメージで掘削されたと推測されます」。
 注③:その上流部は、大友堀を北6条以北、直進させ、琴似川までつなげたいわゆる「寺尾堀」。のちに創成川。
 注④:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、「新川開削」pp.73-75
 注⑤:新川の下流には、「花畔銭函間運河」が1895(明治28)年に掘られ、新川の左岸側では水運に用いられた(山口運河)。『新札幌市史 第二巻 通史二』「札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削」pp.649-651

2019/09/12

サンピアザ水族館の外壁画に再び巡り逢う

 サンピアザ水族館の外壁には現在、何も描かれていません。
サンピアザ水族館 外壁
 かつては低層部のタイルに壁画が描かれていました。新さっぽろ界隈を生活圏とされている方なら、ご記憶の方も多いのではないかと思います。

 描かれていたのは、一種のだまし絵です。歩きながら見ていくと、魚が現れては消え、消えては現れ、と連なっていました。目を楽しませてくれたものです。何年か前の修繕工事にともなって、なくなりました。なくなってから、「ああ、写真に撮っておけばよかったなあ」と悔やんだのですが、時すでに遅しです。まさかこのようにキレイサッパリ消えるとは思ってませんでした。

 このたびひょんなことから、その‘作品’に再会することができました。
サンピアザ水族館外壁のかつてのだまし絵と同じ‘作品’
 とある元魚屋さんの店内に貼られているのです。額縁の絵が架かっている後ろのタイルに描かれています。私はサンピアザ水族館の外壁画と同定しました。
 水族館の物件が移設されたのかと思いきや、ご主人に伺うと、さにあらず。1982(昭和57)年、水族館に外壁画を納めた業者さんから、余り物を贈られたのだそうです。「魚屋さんに、ちょうどいいだろう」ということで。1982年といえば、水族館が開館した年ではありませんか(末注)。
 久しぶりに拝められて、私には至福のひとときでした。かように感激する観覧者がいて、だまし絵の魚(サケ?)も喜んだにちがいない。

 注:札幌市厚別区『あつべつ区再考』1994年、巻末年表

2019/04/15

北大に遺る競馬場の地形

 本日もまず、お知らせを一つ。
 明日16日(火)の北海道新聞朝刊(札幌圏版)に、北海道百年記念塔にちなむ話題記事が載る予定です。

 さて、15日夕刻放送されたuhb(8ch)「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナー、“余話”(+コトバ足らずの補足)は拙ブログでおいおいお伝えします。
 ①なぜ、競馬場が(今の)クラーク像前に設けられたか?
 ②沢田商店が北大から預かったモノ
 ③時空逍遥の原風景

 全部消化しないうちにまた次の収録・放送が来て“積み残し”そうですが、お許しください。

 ①なぜ、競馬場が(今の)クラーク像前に設けられたか?
 2016.7.31ブログでの謎かけの答えになります。

 番組でもお見せした開拓使育種場の地図です。
開拓使 育種場地図
 (「明治15年5月 引継書類 勧業課」道立文書館蔵から)
 
 この地に育種場の前身となる「札幌官園」が設けられたのは、1871(明治4)年から1874(明治7)年にかけてのことです(末注①)。その後、敷地の東半分くらいが札幌農学校の「農黌園」となります。前掲の地図は西半分で、官園から育種場に改称された後のものです。競馬場の楕円コースが描かれています。造られたのは1877(明治10)~78(明治11)年です(末注②)。

 このあたりの現在の標高図を観ます(国土地理院サイトから作成)。
標高図 北大 クラーク像周辺
 図中「北海道大(農)」と書かれたところの「大」と「(農)」の間に記されている記念碑記号がクラーク像の位置です。そのすぐ東側は青く塗られています。つまり標高の低い地帯で、サクシュ琴似川が削ったくぼ地(一種のコッネイ→コトニ→琴似)です。これは現在の標高図ですが、原風景に近いのではないかと私は想います。

 冒頭画像の明治初期の育種場地図を再掲します。
開拓使 育種場地図 着色加筆
 川を水色で着色加筆しました。東側(画像上、右方)を流れるのがサクシュ琴似川です。西側(画像上、左方)の二本の流れはコトニ本流ですが、今は姿を消しています(末注③)。サクシュ琴似川は、流路が今もあまり変わっていません。

 前掲標高図と照らして、クラーク像の位置を黄色の△の先に示しました。その部分を拡大します。
開拓使 育種場地図 着色加筆 競馬場周辺
 このあたりに、/////////というケバ線が描かれています。いわば高低差です。

 その現在の風景です。中央ローンと呼ばれています。
北大 サクシュ琴似川 クラーク像
 この画像はおおむね前掲の育種場図に加筆した黄色の△の位置と向きで撮りました。赤い矢印の先がクラーク像です。
 クラーク像から左方へ、生垣が植えられています。生垣に沿って、少し小高くなっているのがおわかりいただけるでしょうか。この生垣が、前掲育種場のケバ線とほぼ見合います。つまり、明治の初めに描かれた高低差が、今も生垣に沿って遺っているのです。

 ここで、競馬場の位置を現在の標高図に想定します。
標高図 北大 開拓使競馬場想定位置
 白ヌキの△が前掲中央ローンの撮影位置と向き、□はクラーク会館です。競馬場の想定位置を楕円で示しました。

 結論的にいうと、開拓使の競馬場はサクシュ琴似川とコトニ本流の間の微高地に設けられたのではないでしょうか。コースの整備のために盛り土されたという可能性もありますが、比較的均平で地盤の良さそうなところが選ばれたように見えます。

 クラーク会館から、北を眺めました。
北大 クラーク会館から北望 競馬場の高低差
 右方、シラカバの根元に連なるの生垣を、微高地側から見ています。真ん中に通るのは、北大の背骨ともいえる「メインストリート」(中央道路)です。競馬場はこの左方奥にあったと想います。
 
 お伝えしたかったのは、明治の初め(その前から?)の高低差が今も遺っていることです。
 育種場は農学校に移管され、明治後期に校舎が時計台のあたりからここに移転しました。校舎も、競馬場跡の良さそうな土地に配置されたと想えます。メインストリートも、この微高地に通じました。

 では、そもそもなぜ、ここに官園が設けられたか。長くなるので(というか、もうすでに長い)やめましょう。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.93、富士田金輔「開拓使の洋風農業導入における札幌官園の現術生徒の役割」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第52号2007年、pp.21-34
 注②:『札幌競馬沿革誌』1928年、p.18。現在のレースに近い形では道内で初めてで、国内でも4か所しかなかった一つだったという。
 注③山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.42-60。同書に記されるとおり、サクシュ琴似川は本来「サクコトニが原音に近く、「アイヌ語にシュにあたる子音はないようだ」(p.47)。これまで拙ブログではサクシコトニと表記してきたが、今回は札幌市管理の川名にしたがい、サクシュ琴似川とする。

2019/02/24

篠路の高校生の行動力に脱帽

 本日は、午前中は北区篠路で「第3回 篠路のまちづくりを考えるシンポジウム」、午後は札幌市資料館で「札幌軟石と北の石文化」展の「セミナー」に参加しました。2月19日ブログでお伝えしたように、どちらも札幌軟石絡みです。

 篠路のほうは40名ほどの方が来られてました。 
第3回篠路まちづくりシンポジウム 190224
 地道な積み重ねに、幾度も敬意を表します。

 私は「篠路高見倉庫の歴史的価値について」報告しました(末注①)。昨年1年間を振り返ると、私はこのテーマで4回、しゃべっています(末注②)。よくまあ何度も、と我ながら感慨深い。繰返しお呼びがかかることに感謝しつつ、自分がそれに応えきれているだろうか忸怩を抱きつつ、皆さんの“向学心”に感服するものです。

 地元の札幌英藍高校の生徒さんのラジオ放送が紹介されました。篠路高見倉庫を取材した番組です。私は驚きました。何が驚きかというと、生徒さんたちが高見倉庫の内部に入ってレポートしたことです。これが驚くべきことなのは、篠路に関わってきた方でなければただちには伝わらないかもしれません。昨年1年間、「わきあいあい篠路まちづくりの会」のメンバーは、「高見倉庫さんの中を一度、見せていただけないだろうか」とずっと語り合ってきました。私にしても、建物の「歴史的価値」をうんぬんする以上、実際に拝見させていただくのは必須です。しかし、実現することなく過ぎてきました。ダイの大人が1年間、悶々としつつ果たせなかったことを、高校生がさらっと(なのかどうかは判りませんが)やってのけたのです。畏るべし、高校生。

 これは、英藍高の前身の札幌篠路高校で長く教鞭を取ってきたT先生のたまものだと私は想像しています。先生の地元での信頼関係の蓄積があってのことでしょう。

 注①:「篠路高見倉庫」の「高」は「髙(はしごだか)」だが、「高(くちだか)」で表記する。
 注:2018.5.23「わきあいあい篠路まちづくりの会 学習会」、7.30「第2回篠路駅東口駅前広場在り方検討会議」(オブザーバー報告)、9.2「第2回篠路まちづくりシンポジウム」、11.16「第2回篠路まちあそびカフェ」

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

03 | 2020/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック