札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/10/19

「離島キッチン札幌店」に再生したN醸造の石蔵 

 北区北11条の石蔵が本年9月末、レストランに再生しました。
北11条 N醸造元もろみ蔵 離島キッチン
 N醸造の元もろみ蔵で、1926(大正15)年に建てられたとお聞きしています。今月上旬、持ち主Nさんの奥様からご連絡をいただき、「離島キッチン」というお店になったと伺いました。

 この石蔵のことは以前ブログで記したように(2016年4月5日ブログ参照)、Nさんは何とか残したいという思いを持っていました。私たち(札幌建築鑑賞会の面々)も陰ながら応援していたので、とても嬉しく思います。
 Nさんからのメールに「石蔵もそのまま残せて安堵しています」とありました。古い建物を遺すというのは大変なことで、しかも場所は札幌駅北口からほど近く、再開発が進む一帯です。Nさん、ありがとうございます。

 Nさん(奥様)とは、2013年の春、この近くの道ばたでお会いしました。私が札幌建築鑑賞会「大人の遠足」の下見でウロウロしていたとき、歩道を掃除しておられたのです。石蔵のことをご存じないかと、思い切ってお尋ねしたことろ、偶然というか必然というか、持ち主の奥様だったのです。ご主人にもお会いすることができて、建物の由来もお訊きすることができました。
 奥様は鑑賞会の行事に関心を持って「大人の遠足」にも参加してくださいました。昨年の6月に中央図書館で開催した「札幌軟石発掘大作戦」の展示と講演会にもおいでいただきました。ともすれば私(たち)は古くからの建物に対して、‘外野席’から得手勝手な(と思われがちな)応援をしています。札幌軟石建物の持ち主の方にしてみたら‘ありがた迷惑’かもしれないな、という後ろめたさが私にはあります。しかし、Nさんはとても好意的に接してくださり、思いを共有させていただくことができました。
 Nさんの思いに応えるためにも、建物が活かされていくことを応援していきたい。ここで食事をしたり、商品を買ったり、多くの人に知ってもらったりということを、続けたい。

 離島キッチン札幌店については、下記サイトをご参照ください。
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tkk/hodo/kaiken/h29/290927haifu-01.pdf
http://ritokitchen.com/access/
 全国の離島の物産販売のコーナーがあり、食事以外でも楽しめます。
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2017/08/16

篠路・丸〆街道を歩く ⑮

 昨日ブログに続き、『O.tone』「古地図と歩く」のスピンオフ編です。
 記事の末尾で筆者Wさんは丸〆の由来について、次のように締めくくっています(p.63)。
 細い縄を売っていた店が由来という古老の話もあれば、アイヌ語が由来という説もある。この付近で収穫された米が「丸〆米」と呼ばれていたという記録があり、往時はそれなりに親しまれた地名だったことだけは確かなようだ。

 しめ縄店説や丸〆米については6月19日ブログに記したとおりですが、「アイヌ語が由来」について補足しておきましょう。
 実はこれを披瀝されたのも、篠路の郷土史家H先生です。アイヌ語って、なんだと思いますか?
 先生曰く「マ(モ)・ル・シュム(シモン)」と。マ(モ)は小さい(モイワのモ)、ルは道(ルベシベのル)、そしてシュム(シモン)は西(右)です。西(右)側の小さい道。

 何の西(右)側か。伏籠川旧本流の西(右)側です(7月17日ブログ参照)。
伏籠川旧本流 篠路
 道は川の左岸に沿っていますが、アイヌ語では川下から見るので、右側(シモン)になります。
 なお、シュムについて、山田秀三先生は必ずしも方位概念としての西とは合致しないことを指摘しています(末注)。H先生は、川下から見た位置関係としてのシモン(右)との類義性に言及されていました。

 私はアイヌ語地名には疎いので、この説が妥当かどうか判断できません。正直言って、ちょっと後付けくさい感が漂います。古地名の世界は奥深いので、想像の世界に委ねたいと思います。

注:山田秀三『アイヌ語地名の研究1』1972年、「アイヌ語地名三つの東西」pp.274-323参照。シモンの対義語は「ハルキ」(左)だが、私はシモン、ハルキも明確に右左の概念と合致するか、いささか疑問を抱いている。2016.7.15ブログ参照。

2017/08/15

篠路・丸〆街道を歩く ⑭

 札幌を中心に発行されている『O.tone オトン』という月刊誌があります。
オトン 第106号表紙
 その今月号の記事に取材協力しました。

 「古地図と歩く」という連載の第67回「篠路の古道」です。
オトン 古地図と歩く 丸〆街道
 拙ブログでたびたび綴ってきた丸〆街道を、編集デスクのWさんがわかりやすく紹介してくれています(pp.62-63)。著作権の関係があるので大まかな画像に留めますが、詳しくは同誌でどうぞご覧ください。定価680円、市内の書店、コンビニなどで発売中。

 さて、本日のブログは、同誌のスピンオフ編です。
 私はこれまでこの街道を何回か歩いてきて、あらためてふと思いました。それは根本的な疑問です。すなわち、拙ブログで紹介してきた道筋が、本当に‘街道’だったのだろうか? です。 
 というのは、この付近で比較的古くからお住まいと思われる4名ほどにお訊きしたのですが、明確に「ここから、ここまで」と認識していた方はおられませんでした。街道として教えてくださったのは、篠路の郷土史家にして『シノロ-140年のあゆみ-』の編著者H先生のみです。H先生以外で私がお会いした方は、丸〆を‘道’としてではなく、漠然とした地域として捉えていました。
 ちなみに、新しい住宅にお住まいの方にも2名、お尋ねしましたが、丸〆というコトバ自体「聞いたことがない」というお返事でした。例のJR踏切の標識(6月19日ブログ参照)のすぐ近くにお住まいの方ですら、です。古くからの方は踏切の標識名になっていることをご存じでしたが、もしあの踏切が鉄道の高架化などによって無くなったら、ますます忘却されることでしょう。

 ところが、です。
 私は先日、とあるところで丸〆の名が生きていることを知りました。
 そのきっかけは、7月12日ブログで紹介した‘仲々通り’です。私はこの道を丸〆街道の一部と認識しつつも、同日のブログに「公道なのか私道なのか。交通標識などは見当たらない。私道だとしたら、指定道路なのか。特に私有地だという表示もないので、歩いてみることにしました」と記しました。前掲『O.tone』の記事原稿をあらかじめ見せてもらったところ、くだんの場所も写真入りで紹介されていました。もし私道だったら、その旨記事に注釈してもらったほうがいいと思ったのです。
 それで、思い切って札幌市の北区土木センターに問い合わせました。
 土木センターの担当の方が答えて曰く、はっきりと「市道ですね」と。胸のつかえが取れました。これで、あの仲々通りを誰憚ることなく歩けます。記事で紹介されても問題ありません。

 そのとき担当者から、この市道が「丸〆線」という名前であることを聞いたのです。「シメはカタカナの『メ』というような、アレですね」と。土木センターの担当者も、こころなしか不思議そうな口吻でした。ついでに、どこからどこまでが「丸〆線」なのかお訊きしたところ、これまで拙ブログで紹介してきた一連の道筋(8月2日ブログ参照)であることが判りました(道道花畔札幌線の部分は除く)。丸〆街道は、札幌市道として今も生きています。

 さらにあらためて、思いました。もしかしたら、こういう古い名前の付いた市道は、ほかにもあるんでないか。土木センターで道路台帳を洗いざらい見てみたいなあ。

2017/08/08

篠路 カネヨK商店 余聞

 6月23日ブログで、篠路のK商店石蔵が解体中であったことを記しました。
篠路 K商店石蔵解体跡地
 先月中旬に足を運んだところ、跡地はきれいに何もなくなっていました。軟石の残骸も見当たりません。

あらためて、在りし日を偲んでおきます。
篠路 カネヨK商店石蔵 在りし日 再掲
 2015年5月の撮影です。

 さて、持ち主だったKさんを訪ね、建物の築年などをうかがってきました。建物現存中にお訊きしておけばよかったのですが、やむをえません。
 お話によると、Kさんが生まれる1943(昭和18)年よりも前、お祖父さんの代に建てられたそうです。「築100年にはなっていたんでないか」とのことですが、ひとまず昭和初期としておきましょう。もともとはタマネギを収蔵していたのですが、酒屋を営むようになり、店の物置として使っていました。その商店(近年はコンビニ)も10年前に閉じました。このたび解体に踏み切ったのは、Kさんが高齢となり「息子の代に負担をかけさせたくないから」ということです。「使ってないモノをただ残すわけにもいかないし。もったいないという人もいたが、持ち主にしてみるとねえ。『軟石、軟石』っていうんだけど」と。

 Kさんの話をお聞きして、「軟石、軟石」という空気が世の中に漂っているんだなあと、はからずも知りました。Kさんの口吻からは石蔵への愛着も伝わってきて、それゆえに葛藤もあったこととお察しします。惜しむらくは、もう少し早くお会いすればよかった。札幌軟石の残骸を、一つでいいから現地に遺してもらうようにお願いしたかった。

 Kさんの石蔵にあった釜が現在屯田郷土資料館にあるらしいことは先のブログに記しました。
 6月下旬、その資料館に行って、現物を確かめてきました。
屯田郷土資料館
 資料館には篠路屯田の兵屋が復元されています。

 兵屋の土間に、昔のモノが幾つか置かれていました。
屯田郷土資料館 釜
 説明書きなどは見当たりませんが、Kさんの釜というのはたぶんこれかと思います。黄色の矢印の先です。ほかにそれらしいモノはありません。念のため当番をしていた方にお訊きしましたが、これらの展示品についての目録等はなく、由来は判らないとのことです。せめて拙ブログで、K商店の石蔵に眠っていたという出自を記憶に留めておきましょう。Kさんによると、「30年ほど前、篠路にコミュニティセンターができるとき、所長に打診したところ「要りません」と言われたため、かねて知己だった屯田郷土資料館の館長に引き取ってもらったそうです。

 同じく、石蔵に眠っていたウイスキーグラスです。
K商店 石蔵の遺物
 Kさんからいただいてきました。

2017/08/07

拓北Fさん宅 煉瓦造3棟

 篠路・拓北のFさん宅です。
拓北 Fさん宅煉瓦造 三連家屋
 煉瓦造の家屋が3棟、連なっています。
 札幌市内の個人宅で3棟残っているのは、東区伏古にあったタマネギ御殿(2015.2.28同3.1ブログ参照)以外では記憶にない。サイロと牧舎または納屋とか、住宅と納屋の2棟が煉瓦というのは多々見かけるのですが。Fさんのところでは、住宅、馬(牛)小屋、納屋の3棟です。いずれもイギリス積み。
 
 Fさんによると、手前の腰折れ屋根が馬(牛)小屋で1953(昭和28)年築、真ん中の住宅が1960(昭和35)年築、奥の納屋が1956(昭和31)年築です。馬小屋が煉瓦造としては一番先だったというのが興味深い。住宅にくっついているというのも、馬小屋の位置づけが伝わってきます。聖徳太子やイエス・キリストは厩で生れたと聞くが、もしかしたら粗末な扱いを意味していたとはいえなかったかもしれない。なお、煉瓦で建てたのは、奥さんの実家が江別・野幌だったのでなじみがあったからだそうです。

 Fさんは入植4代目で、先祖は徳島の出身とのこと。このあたりは阿波徳島興産社ゆかりの地です。
拓北 Fさん宅煉瓦造 納屋
 燕麦(軍馬飼料用として陸軍に納めた)や水田稲作をやっていましたが、酪農も営み、かつてはサイロも煉瓦だったといいます。このあたりの農家にとって、酪農は水田稲作の凶作を補うための副業としていわば命綱だったようです。牛や馬は昭和50年代まで飼っていました。現在は牧草などを育てています。

2017/08/06

篠路・拓北N牧場のサイロ

 久々の?サイロ物件です。
 札幌におけるサイロの建材の変遷というのが、今シーズンの私のテーマの一つでした(4月14日ブログ参照)。
 サイロを目当てに足を運んだつもりが、別のモノに目が注がれて、思えばあちこち寄り道をしてきました。心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく綴る拙ブログなので、あしからずお許しください。

 さて、北区篠路町拓北のN牧場サイロです。
拓北 N牧場サイロ
 コンクリートブロックとFRPの2棟。

 私が現認する限りでは、札幌市内最北に位置するサイロですね。持ち主のNさんに伺うと、建てられたのは昭和40年代。東区の栄町で酪農を営んでいましたが、こちらに移ってきたときに建てたそうです。

2017/08/05

篠路・丸〆街道を歩く ⑬

 明治16年「札幌県治類典」の添付図面は、私製ならではの主観が色濃く入り込んだ趣深い地図です。

 明治6年札縨郡西部図(7月8日ブログ参照)、明治7年札幌郡各村地図(8月3日ブログ参照)も、丸〆街道と現花畔札幌線の描かれ方が微妙に異なっていて、それぞれの主観が伝わってきます。それでも、官製地図のせいか、あるいは明治6、7年の実際の状況を反映したものか、ともかく両方の道が描かれていました。明治29年地形図では、実線(花畔札幌線)と破線(丸〆)という区別によって両者の主従関係がはっきりと示されます。そして明治16年地図は、そこに至る状況を物語るかのように、丸〆がネグレクトされています。

 この古図でもう一つ、目についたことがあります。
明治16年札幌県治類典 添付図面 篠路周辺 拡大
 黄色の○で囲ったところです。朱記されている道(花畔札幌線)がフシコ札幌川(伏籠川)にかかるところで、橋らしき絵が描かれています。この時点で橋が架かっていたことが判りました。これは明治6年、7年地図では確かめられなかった事実です(末注)。

 7月8日ブログで記したように、丸〆街道が当初優位だったのは、茨戸に至る途中で川を跨ぐ回数が少ないことでした。しかし、フシコ札幌川に架橋されれば、優位性は低くなります。丸〆が主要道の座を譲った経緯を古図面が伝えているようにも思いました。[つづく]

注:ただし、地図上ではっきりとは確かめられなかったというだけであって、明治6、7年時点で架橋されていなかったとは言い切れない。

2017/08/04

篠路・丸〆街道を歩く ⑫

 昨日ブログで紹介した明治16年「札幌県治類典」の添付図面を仔細に見ていきます。
明治16年札幌県治類典 添付図面 篠路周辺
 おおむね11時の向きを北にして 地名等が書かれているところに算用数字を付しました。各番号の付近の名称は以下のとおりです(カッコ内は現在の呼称)。
 ①:駅逓(篠路本村)
 ②:篠路川(旧琴似川)
 ③:フシコ札幌川(伏籠川)
 ④:ペキリトシカリ沼(ペケレット沼)
 ⑤:モヱリト沼(モエレ沼、ただし現在地より北西にあったモイレ沼)
 ⑥:石狩川(茨戸川)
 ⑦:発寒川
 ⑧:トン子シ沼(トンネウス沼)
 
 これを大正5年地形図に照合してみます。
大正5年地形図 篠路周辺 番号付
 主な河川や池沼を青く塗り、該当する地点に算用数字で番号を振りました。

 前掲明治16年地図に戻ります。
 大正5年地形図と比べると、各地点の位置関係がほぼ一致していることが判ります。前掲図は当時の市民が役所に提出する書類に添付した図面です。陸地測量部(国土地理院の前身)が札幌の1/50,000地形図を出したのが1896(明治29)年ですから、当時はまだ近代的に測量した地図が市井に出回っていたとは思えません。しかも、この図面の目的は、払下げを希望する土地の位置を示すことにあります。地理的な正確さを要求されつつも、描いた人の主観が強く反映された地図といえましょう。それゆえに、役所サイドで作られた‘客観的’な地図では得られない事実が読み取れます。

 私がまず目についたのは、赤い線で引かれた道です。
 篠路川(旧琴似川)の左岸、篠路本村を通り、フシコ札幌川(伏籠川)を二度渡り、石狩川(茨戸川)に至ります。現在の道道花畔札幌線(後掲大正5年地形図で赤くなぞった道)とほぼ同じ道のりです。前掲図では、これ以外に道は描かれていません。川が幾筋か描かれて(名前も付されている)のとは対照的です(末注)。
 私が道に気を取られたのはいうまでもなく、丸〆街道がこの図に描かれていないからです。丸〆街道は、この図を描いた人の視野にはない。言い換えれば、この図が描かれた1883(明治16)年の時点で、篠路を通る主要な道路はすでに現花畔札幌線であって、丸〆街道ではない。正確にいえば、この図を描いた人の認識としては、ですが。[つづく]

 注:川が詳細に描かれている(川幅の広狭も区別されている)一方、道路が付け足しのような描かれ方は、日本の近世の古地図に見られる(2015.6.7ブログ参照)。前掲図もその発想を踏襲しているようだ。

2017/08/03

篠路・丸〆街道を歩く ⑪

 丸〆街道は篠路から茨戸方面に通じる最も古い道だったと推定されます(7月6日ブログ参照)。

 ここで、丸〆街道が描かれた古地図をもう1枚、見てみます。
札幌郡各村地図明治7年 丸〆街道
 「札幌郡各村地図」明治7年(北大図書館蔵)です。方位はおおむね4時半の向きが北です。

 丸〆街道のあたりを拡大してみます。
札幌郡各村地図 丸〆街道拡大
 判りやすくするため、北を真上にしました。赤矢印の先が丸〆街道、黄色の矢印の先が現在の道道花畔札幌線です。7月8日ブログで紹介した「札縨郡西部図」明治6年と比べると、道の描かれ方が微妙に異なっています。

 地図をさらに拡大してみましょう。
札幌郡各村地図明治7年 丸〆街道拡大②
 黄色の矢印の先の道(現道道花畔札幌線)のほうがなめらかに描かれている一方、丸〆のほうが枝分かれしたかのように描かれています。明治6年地図では、丸〆のほうがなめらかで現道道のほうが枝分かれしていました。1年の差で、道の主座が入れ替わった感がします。
 そして、7月7日ブログで載せた明治29年地形図に至って、現道道が実線、丸〆が破線と、明らかに差がつきます。

 先日、この話を札幌市公文書館のEさんにしたとき、Eさんから「参考になるかどうか判りませんが…」と別の史料の存在を教えてもらいました。
明治16年札幌県治類典附録 表紙
 『明治16年札幌県治類典附録』という古文書です(道立文書館蔵)。当時の市民がお上(開拓使~札幌県)に土地の払下げ等を願い出たときの書類が綴られています。

 「地所御払下願」と標記された書類では…。
地所御払下願
「石狩国札幌郡篠路村駅逓ヨリ東北凡21丁余隔」にある「荒蕪地」(荒れ果てた原野の土地)10万坪を、開墾耕作するので払い下げてほしいと願い出ています。

 願い出たのは…。
地所払下願②
 「長野県信濃国東筑摩郡小深志村738番地士族 渡邉勝用」という人です。願出先は「開拓大書記官調所広丈」。明治14年7月17日付けです(当時はまだ開拓使の時代)。

 これに対し、開拓大書記官調所(ずしょ、ちょうしょ)広丈は…。
地所払下願③
 明治14年9月3日付けで、願いを聞き届けるので地価1000坪当たり1円50銭の割で納めなさい、と。

 …と、ここまでは前置きです。長くなってすみません。目当ては、これに添付されている図面です。
地所払下願 添付図面
 これが興味深い。[つづく]

2017/08/02

篠路・丸〆街道を歩く ⑩

 7月18日ブログに続き、篠路の丸シメ街道です。

 あらためて現在図で街道を確認しておきます。
丸〆街道 現在図 再掲 道道花畔札幌線
 図は札幌市北区役所の「北区ガイド」から抜粋し、方位は1時半の向きが北です。
 丸〆街道を赤い線でなぞりました。茶色でなぞったのが道道273号花畔札幌線です。伏籠川の現本流を青い太線で、旧本流を青い細線で示しました。

 次なるは、現況地番図です(方位は上が北)。
現況地番図 篠路8条5丁目周辺
 整然と地割された市街地の中を細長いカタチが通じています。赤い線でなぞった部分です。丸〆街道とほぼ一致しています。

 これまでのブログで赤い線でなぞった大半が現在も道として遺っているのは、これまでのブログで示してきたとおりです(7月12日13日参照)。
 この地番図で判ったのは、道路が消えて民地になったところでも道路状に地割が遺っていることです。

 黄色の▲の先です。
現況地番図 篠路8条4丁目
 街道はこの部分で大きく弯曲しています。冒頭の現在図も併せ見てください。湾曲の先っぽをカットするかのように、直線的に通じているのが東8丁目篠路通りです。

 現在図と地番図で黄色の▲の先で示した地点の風景です。
篠路8条4丁目 丸〆街道の痕跡
 左方の直線的な道路が東8丁目篠路通りです。右方手前の民地のコンクリートの擁壁が、この通りに対して平行ではありません。いわゆるナナメっています。丸〆街道の弯曲(赤い線で想定しました)が、敷地に反映したのでしょう。痕跡です。

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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