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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/07

大正時代の札幌の公園計画

 「大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図」と題された地図です(札幌市公文書館蔵、原図貴重のため複写を閲覧)。
大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図1925年
 作成年は図上に記されていませんが、所蔵元によると1925(大正14)年です。冒頭画像の左下に「凡例」が載っていますが、標題にある「区域」や「地域」「公園」「広路」についての表示はありません。

 中心部を拡大し、北を上に向きを変えました。
大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図 中心部拡大
 この地図は何を伝えるものでしょうか。 
 標題と作成年からすると、大正期に制定された都市計画法に基づく札幌の都市計画の基礎資料と私は推測します。「大札幌市」というのは、当時の札幌市の市域に周辺町村を加えて想定した都市計画区域ではないでしょうか。
 
 前述したように凡例に明示されていないのですが、計画された公園や広路を朱色でなぞったようです。中島公園や円山公園、中心部では植物園や偕楽園の場所が面的に塗られています。これらに加え、北、北東、東方面にも面的に塗られた一帯があります。類推すると、新たに公園が計画された場所かもしれません。昭和に入って決定される都市計画公園の前段階として検討されたのでしょうか。
 札幌では明治の中ごろ、北海道庁長官岩村通俊により区域の東西南北端に公園を設ける構想がありました。「北は偕楽園、南は中島、西は円山、東は苗穂」です(末注)。前掲図を観ると、大正期もその構想を引き継いでいるように窺えます。

 注:『さっぽろ文庫64 公園と緑地』1993年、pp.204-205
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2020/06/30

札幌建築鑑賞会通信第85号 発行 

 会員の皆さん宛ては先週、郵送されました。
札幌建築鑑賞会通信№85表紙
 今号の表紙は、田山修三先生(北海道文化財保護協会副理事長)に寄せていただいた絵手紙作品です。
 表紙絵のために描きおろしていただきました。紙媒体の通信は白黒ですが、原画は彩色です。会公式ブログに彩色版を載せましたので、お楽しみください。
 ↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12607770757.html

2020/05/30

310.6人と7.0人。

 標題は、新型コロナウイルス感染症による死者の人口百万分比です。前者が米国、後者が日本(5月29日現在-末注①)。
 米国が体現している国際標準(昨日ブログ)とは、これですか。と、短絡するつもりはありません。しかしこのような事象を包含しているのが「米国という標準」であることも、このたびのウイルスが明らかにしてくれました。一方、日本は国際標準にヒケを取りながらも、「現時点で」という限定ではあれどパンデミックによる国内の死者が少ない。医療や福祉に関わる人々の献身懸命のおかげです。戦後日本が具現してきた憲法第25条のたまものでもあります。

 冒頭の数値差を一面強調するあまり、「ニッポン、すごい!」と肯んずる気にはなれません。わが国政府のこの間の対応には首を傾げたくなるからです。特別定額給付金(一人10万円)や「アベノマスク」。首を傾げるのは施策そのものの是非ではなく、あとづけの言い訳がましさです。当初の方針を変えて一律10万円にしたのは緊急事態宣言の対象を全国に変えたからだとか、政府が布マスクを2枚配ったことで国内マスク市場の需給関係が改善したとか(末注②)。苦し紛れというコトバを思い浮かべたくなります。テレビに映る安倍首相が毎度小さ目のガーゼマスクを装着しているのは、孤高を持したいのか、それとも意固地なのでしょうか。
 
 そう言いながら、実は私はガーゼマスクが嫌いではありません。例によって、周回遅れの性分のためです。同居する前の老母は、通院などの際よくガーゼマスクをしていました。たぶんに防寒用でもあったのでしょう。母は、取り換え用のゴムまで持ってました(今も)。その刷り込みのせいで、スタイリッシュ(?)な不織布マスクよりも愛着があるのです。
アベノマスク 2020.5.30拙宅に到着

 注①:死者数は米国101,617人、日本890人(北海道新聞2020年5月30日朝刊)。人口は米国3億2,716万7,434人、日本は1億2,652万9,100人(外務省サイト→ https://www.mofa.go.jp/mofaj/kids/ranking/jinko_o.html)。
 注②:北海道新聞2020年5月20日
  → https://www.hokkaido-np.co.jp/article/422621

2020/05/21

軟石建物 2020有為転変

 感染症防止のため不要不急の外出を控えて籠っていましたが、要・急の意を決して街に出ました。一二か月で、街の景色は大きく変わるものですね。 

・すすきのの海鮮料理店
魚のあんよ 202002
 元「夢蘭」の建物です。2月末で閉店しました(3月26日ブログ参照)。画像は2月、閉店前の撮影です。

 4月には解体工事されていました。
魚のあんよ 202004
 上屋が撤去されて、札幌軟石の座敷蔵が露わになっているところです。

 その座敷蔵も解体されて、ほぼ更地になっています。
 元夢蘭 魚のあんよ 解体後 202005

・創成川べりにあった質屋さん
計良質舗跡 202005
 やはり、きれいに更地になっています。

 こちらも、4月に解体工事されました。
計良質舗 解体工事中 202004
 「建物にシートが架かっている」と、札幌建築鑑賞会会員のYさんからスタッフSさん経由でお知らせいただいたものです。

 立派な質蔵でした。
計良質舗 2010年
 姿を消して、その存在感の大きさをあらためて偲びます(2010年撮影)。

・豊平 ヤマジュウイチ醸造蔵 
豊平 ヤマジュウイチ元醸造蔵 跡地 202005
 ここも先週「解体中」と、同じく札幌建築鑑賞会会員のYさんからスタッフSさん経由でお知らせいただきました。すでに跡形もありません。

 大正期築で、元は味噌醤油の醸造蔵だったという軟石の建物が2棟、建っていました(2017年撮影)。
豊平 ヤマジュウイチ 元醸造蔵 2017年
 札幌扇状地平岸面の記憶だなあと、今にして想います。近年は電機会社の事務所、倉庫として再利用されていました。

・石の蔵ぎゃらりぃ はやし
元石の蔵ぎゃらりぃはやし 解体中 202005
 札幌駅北口の元質蔵です(3月31日ブログ参照)。主屋がすでに解体されました。質屋さん当時の入口がまだ、残っています(電柱のうしろ)。

 3月の最終日の姿です。
石の蔵ぎゃらりぃ はやし 202.3.31
 人の営みの風景が消えるのは淋しさを覚えます。軟石建物と新型コロナウイルスに因縁があるわけではないのでしょうけれど、立て続けなものですから。

 「石の蔵」の街区の反対側(東側)に廻ってみました。
元石の蔵ぎゃらりぃはやし 東側から 202005
 建物の隙間から、残っている石蔵の裏面が覗いています(黄色の矢印の先)。 

 これまでは主屋に隠れて見えなかった裏面です。
元石の蔵ぎゃらりぃはやし 東側から 石蔵背面
 妻壁に、質屋さん当時の印「○タ」が刻まれています。最初の店主「丸田」さんの印でしょう。初めて拝むことができました。蔵の正面側は前掲画像のとおり、印のところが鉄板で蓋されています。二代目の質屋の金田さんが蓋をしたのかもしれません。この印を拝めるのは、最初にして最後かな。

 一日、各地を見て廻って、変わりゆく世の常にあって長らえるものの尊さを感じました。変わりゆく姿はできるだけ記憶にとどめ、長らえるものはこれもできるかぎり、支えていきたいと思います。

2020/05/11

北海道の特徴 再考

 本道(末注①)の感染者数(累計)を、振興局(昔の支庁)管内別でグラフにしました。
COVID-19 北海道 感染者数 振興局管内別 200511
 元データは北海道サイト「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する情報」ページ「道内の発生状況一覧」です。2020年5月11日発表時点に拠りました。
 ↓
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/hf/kth/kak/hasseijyoukyouitiran0511.pdf
 感染者数966人のうち、居住地「非公表」20人と道外9人を除いた937人の内訳です。政令指定都市の札幌市のみ、石狩管内とは別に集計しました。
 937人中札幌市が574人と群を抜いている一方、道内の「地方」(末注②)によってかなりばらつきがあり、6管内は10人未満です。

 これを、各管内の人口10万人当たりの数(感染者率)にすると、次のようなグラフになります。
COVID-19 北海道 感染者率(人口10万人当たり) 振興局管内別 200511
 各管内の人口は北海道サイト「住民基本台帳人口・世帯数」ページから、2019年1月1日現在の住民基本台帳人口(地域振興局市町村課調べ)に拠りました。石狩管内の人口は札幌市の人口を引いた数です。
 ↓
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/900brr/index2.htm#juuminkihon
 10万人比にすると実は、札幌市を除く石狩管内が札幌市を上回ります。意外でした。札幌の感染者数が4月以降際立ってきましたが、石狩管内に集中しているととらえるべきかもしれません。

 この管内別感染者率を本道の正積図で色分けしました。
COVID-19 感染者率〈人口10万人比) 北海道振興局管内別 200511
 北海道全域が一様に同じ色、ではないことがわかります。

 NHKが載せていてる都道府県別感染者数の色分け地図と較べてみてください。
NHK特設サイト「都道府県別の感染者数」ページ 200511
 これは「率」ではなく、「数」です。特設サイト「新型コロナウイルス」から採りました(5月11日閲覧)。
 ↓
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/data/

 NHKは4月24日、都道府県別「人口10万人当たりの感染者数」を特設サイトに載せました。
NHK特設サイト 人口10万人当たりの感染確認数 都道府県別
 4月17日時点の累計に基づくそうです。
 ↓
https://www3.nhk.or.jp/news/special/coronavirus/analysis/

 感染の状況は「数」ではなく「率」(単位人口当たりの比率)で評価すべきと私が考える理由は本年3月28日ブログで述べました。拙ブログからひと月近くたって、天下の公共放送もようやく(?)同じ考えに至ったようです。ただし、やはり正積図のため、バイアスの恐れを感じます。私が作った管内別の色分け図と較べていただくと、お察しいただけるのではないでしょうか。本来的には同日ブログに記したように、正積図ではなくカルトグラム(変形地図)のほうが適確でしょう。本道管内別もそうすべきですが、管内ごとに細分化して色分けしたことで全道一様同一色よりは改善されたかと思います(末注③)。

 感染者率の本道振興局管内別グラフ化と色分け地図を試みた理由は、日本における北海道の特殊性にあります。3月3日ブログに記した「広域性」です。
 同日ブログに載せた本道と「内地」の重ね合せ地図をあらためて観ます。
石のまち宇都宮シンポジウム 佐藤さん発表
 感染者率の高い札幌が福井県あたりだとすると、低い日高や十勝管内は静岡県になるでしょうか。北海道の面積は、平均すると他の都府県12~13個分に当たります(末注④)。本道の振興局は全部で14です(注⑤)。面積だけでいえば、振興局管内が「内地」の府県にほぼ匹敵します。これは、本道の事情に疎い内地人向けの講釈です。

 「内地」では近々、府県単位で「緊急事態宣言」の対象地域からの解除が検討されています(末注⑥)。面積だけでいうとおそらく、札幌から十勝や日高に至る広さよりも狭い府県間で、解除されるところとそうでないところが出るでしょう。しかし、仮に十勝や日高を府県に照らして解除の水準であったとしても(末注⑦)、北海道という単位では解除ということにはなりません。面積だけでは測れない特殊性も一方にはあるので単純には比較できないのですが、本道の場合は振興局単位の検討もあってよいのではないかとも思います。私が考えるその程度のことは、道庁の人たちのアタマにも当然入っているでしょう。

 注①:40ン年前、「内地」から札幌に移り住んで、北海道新聞の記事で「本道」という用語を初めて目にした。「こういう言い方をするんだなあ」と新鮮に感じた覚えがある。「本県」とか「本市」とは言うだろうが、東京では「本都」と言うのだろうか。いつのころからか、道新紙面で「本道」を見なくなった。道庁では今も使っているのかな。
 注②:これも同じく札幌に来たばかりの頃、道内の他市町村出身の人が自らの地域を「地方」と呼ぶのを聞いた。さすが北海道だなと思った覚えがある。北海道は都道府県の一つであるとともに、五畿七道に並ぶ単位(今でいうとブロック)でもある。
 注③:それでもまだ、バイアスを招く恐れはある。3月27日ブログ参照
 注④:北海道の面積83,424.39㎢÷{(日本の面積377,975.21-北海道の面積83,424.39)㎢÷46都府県}≒13.0。
 ただし「北方領土」の面積5,003㎢を除いて計算すると、(83,424.39-5,003)÷[{377,975.21-(83,424.39-5,003)}㎢÷46都府県]≒12.0
 注⑤:総合振興局9、振興局5
 注⑥:北海道新聞2020年5月8日朝刊記事「早期宣言解除 道内困難」
 注⑦:いうまでもなく、解除の指標は感染者数の累計や人口比ではなく、一定期間当たりの増分の推移をみる必要があろう。

2020/05/10

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑮

 長らく断続的に綴ってきたこのテーマのようやく最終回です。
 史料的に裏付けられる明確な答えは得られませんでした。現時点の結論です。そのおかげ(?)で妄想、勘ぐり、憶測の世界に遊ばせてもらいました。真に受ける読者諸賢はいらっしゃらないと思いますが、テーマそのものもさることながら新川にまつわるこぼれ話を行間から汲み取っていただけたら幸いです。緊急事態が解けて身動きできるようになったら、河川管理の歴史を調べたいと思います。

 このテーマを掲げた動機は先に記しました(4月15日ブログ参照)。そのきっかけとなった標識です。
河川標識 琴似川
河川標識 新川
 3月20日ブログに載せ、次のように書き添えました(太字)。
 川名の下に「川の名の由来」が書かれています。ありがたいことですが、その中身に立ち入るのでもありません。それは別にあらためるとしましょう。

 その中身に立ち入ります。
 標識に書かれている「川の名の由来」は以下のとおりです(太字)。
 琴似川 琴似川は古くは十二軒川といわれ、アイヌ名はケネウシペッ「Kene‐ush-pet」(榛(はん)の木・多くある・川)であった。アイヌ語でコトニは「Kot-ne-i」(窪地に・なっている・もの)と考えられている。
 新川 明治になってから、洪水防止のため治水事業により新たな川を造ったので川の名を新川とした。


 この記述は、それぞれの「名の由来」として単独には正しいと思います(末注)。しかし、これらの標識が直線的流路のほとりに、橋をはさんで隣り合って立っていることに、どうも合点がいきません。流路の歴史を知らない人が見たら、前者の位置は「『新たな川』ではないのか?」という疑問を抱かせるからです。標識としての物理的な制約はあるでしょうが、前者の現在地は琴似川の元の流路とは異なっていること、明治になって開かれた人工的な流路の一部であることを盛り込んでいただいたほうがよいのではないか。

 前掲の標識のスペースに収まる範囲で、琴似川の文案を考えてみました(太字)。
 下流は、明治時代に開かれた新川の一部である。上流のアイヌ名はケネウシペッ「Kene‐ush-pet」(榛(はん)の木・多くある・川)で、十二軒川、後に琴似川と呼ばれた。コトニは「Kot-ne-i」(窪地に・なっている・もの)に由来する。

 注:関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年、p.39、p.373参照

2020/05/09

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑭

 妄想その三、「方便」説。
 妄想その四、「付替え」説。

 その三の「方便」というのは、直線的流路の上流と下流で川名を変えることで河川管理上のメリットがあるのではないかという勘ぐりです。たとえば、予算確保。一つの川ではなく、二つの川の管理ということで、それぞれに経費を見積もったほうが膨らませられるのではないか。二級河川の管理は、国庫補助も受けているかもしれません。国に対して別々の川として補助申請するほうが、なにがしか利点がある? すみません。勝手な憶測を巻き散らして。

 その四の「付替え」は、単純です。
 新しく水路を掘ったのではなく、琴似川の流路を付け替えた、と考える。石狩川の捷水路や放水路、豊平川の新水路などの場合と同じです。新たに通じた流路に、わざわざ新たな命名はしてません。元の川名です。
 ただ、そうすると発寒川(現・琴似発寒川)との合流点より下流が新川のままでいいのか。発寒川を付け替えたと解釈できないのか。よし、この下流部は発寒川にしよう。しかしさらに下ると、こんどは「追分川」という川が合流している。ならば、ここからは追分川だ。

 地形図に色分けしてなぞると、こうなります。
大正5年地形図「札幌」 新川 琴似川、発寒川、追分川
(原図は1916〈大正5〉年発行5万分の1「札幌」から)

 河口に近いところでは、「清川」が合流します。「すみかわ」です(末注)。では、その下流は清川になる。
大正7年地形図「銭函」 新川河口 清川、小樽内川
(原図は1918〈大正7〉年発行2万5千分の1「銭函」から)
 いやいや、そもそも河口部は元々流れていた「小樽内川」につなげたのだから、そのまま小樽内川でいい。「おたねがわ」。

 かくして、新川は既存河川との合流点ごとに川名が変わります。琴似川-発寒川-追分川-小樽内川。考え方は単純ですが、ここまで細切れするのもいかがなものか。

 注:『さっぽろ文庫44 川の風景』1988年によると、1896(明治29)年5万分の1地形図「銭函」では「清川」は「きよかわ」という(p.215)。前掲1918年2万5千分の1「銭函」では「清」に「スミ」とルビされている。

2020/05/08

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑬

 妄想その二は、「もはや『新川』ではない」特別扱い説です。

 「札幌都市計画図」1937(昭和12)年から抜粋して新川周辺を観ます。
昭和12年札幌都市計画図 新川周辺
 赤い矢印で示した先が直線的流路の上流部分です。緑色でなぞられています。

 そもそもこの地図は何かというと、1919(大正8)年に制定された都市計画法に基づき、1936(昭和11)年、札幌市及びその周辺に決定された都市計画道路を示したものです(末注①)。凡例によると緑色は「広路 五五5米乃至一一〇米」で、これはもっとも広幅員の計画道路に当たります。郊外へ放射状に延びる直線的流路沿いに最大幅員の道路が、しかも戦前に計画されていました。その都市計画の範囲が、ちょうど発寒川(現・琴似発寒川)との合流点のところまでとなっています。つまり、のちに「琴似川」とされる部分です。
 この計画図を観て、意外に思われる方もいるかもしれません。すでに市街化されている中心部よりも、郊外へ通じる道のほうが幅広に計画されていることです。この直線的流路沿いのみならず、創成川沿いや札幌村から白石村に通じる環状の道路のほか、何やらくねくね曲がった道路なども、「広路」として計画されています。お察しいただけると思いますが、北東方面のくねくねは伏籠川沿いです。南西方面にも、直線的とはいいがたく短めの広路が計画されています。札幌の街の南北の基軸ともいえる創成川沿いはまだしも、くねくねの道をどうしてそんなに広く計画したのか? 既成市街地より道路を広く造りやすいとはいえ、交通量が今よりも格段に少なかったであろう84年前の計画です。

 答えは、その3年後に決定された下図でわかります。
昭和14年 札幌都市計画風致地区図 新川周辺
 「札幌都市計画風致地区図」1939(昭和14)年です。
 都市計画区域内の北西方面、赤いで囲ったところが風致地区に指定されました。直線的流路沿いです。「新川公園通風致地区」と朱記されています。
 同様に、北東方面の伏籠川沿いのくねくねは「伏籠公園通風致地区」です。南西方面の橙色で囲ったのは「やちだも公園通」風致地区といいます。後者は、「やちだも」というネーミングや「新川公園通」「伏籠公園通」からの類推と、とりもなおさずその場所から、なぜここが指定されたかもお察しいただけましょう。

 下掲図を見ると、広幅員道路の意味が窺えます。
「路線的風致地区開発予定断面図」 新川公園通、やちだも公園通
 『札幌都市計画概要』1954(昭和29)年から抜粋しました(p.38)。

 この図面は「路線的風致地区開発予定断面図」といいます。指定された地区のまさに風致をどのように創出するか、模式的に描いたものです(末注②)。赤いで囲ったのが「新川公園通」、橙色が「やちだも公園通」の予定断面です。どちらも「水」が描かれ、これをはさんで「新川公園通」は「緑道幅81M.818」、「やちだも公園通」は同「110.00M」と添えられています。「広路」は、「水」すなわち川を含めた緑道による「公園通」すなわちパークウェイとして構想されたものでした(末注③)。

 ここから、冒頭の妄想説です。
 1939(昭和14)年の風致地区決定の時点では「新川公園通」と名づけられています。この命名も、直線的流路の発寒川合流点より上流部が「新川」と(公的にも)呼称されていた傍証といえましょう。
 しかし。
 水と緑の都市空間をもっと印象づけたい。都市計画区域外の下流部とは違う、いまでいうなら「差別化」が必要である。排水路のイメージがこびりついた「新川」は、もはや陳腐化している。「新」しくない。風致を活かすということなら野趣を大切にして、むしろ自然河川由来の「コトニ」を使おう。上流の「やちだも公園通」とのつながりも込めて。
 さらに、しかし。
 都市計画者の先駆的で壮大なパークウエイ構想は潰えました。直線的流路の上流部は「かろうじて」というべきか、いまも「新川通」という名前で風致地区として残っています。「公園通」は外されました。
 一方、「やちだも公園通」のほうは…。長くなりましたのでやめます。興味のある方は、笠康三郎さんのブログをご参照ください。
 ↓ 
http://blog.sapporo-ryu.com/?eid=1406

 注①:越澤明編・札幌市緑の保全課発行『札幌の緑づくり 大都市における緑保全施策の今後の課題」2001年、p.6参照
 本件都市計画図については、2017.8.12ブログに関連事項記述
 注②:風致地区というと、「内地」の諸都市、京都や鎌倉などの印象で、昔からの景観を「守る」「保全」という概念を抱くが、札幌の「路線的」地区では「開発」と用語されている。昨今の語感からすると「開発」よりは、「創出」ととらえるべきか。前掲書p.6参照
 注:前掲書p.6参照

2020/05/05

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑫

 1887(明治20)年に開かれた人工的水路「新川」は、1968(昭和43)年に上流部が「琴似川」という川名になりました。 
 琴似川に名前が変わったのはなぜか? これが私の疑問でしたが、河川を管理する北海道の答えは「不明」でした。「なぜ?」の理由が不明というよりは、琴似川とされる前の名前が不明ということなのです。そもそも、新川から琴似川に名前が変わったとは言い切れない。もともと琴似川だったかもしれない。そうすると、「なぜ変わったか?」という問い自体が成り立ちません。
 ここで終わってしまっては、このテーマで延々12回もブログを続けてきたのに、いかにも肩すかしです。妄想の翼を拡げることとしましょう。
 河川法上の命名がどうであれ、本件直線的流路は上流部も含めて新川という名前で人口に膾炙されてきました。少なくとも1960年代後半までそうだったことは、これまで用いた諸史料が示すとおりです(4月16日同17日同18日ブログ参照)。地域の人々の通称としてはあくまでも新川だったことに異論はないでしょう。

 4月21日ブログに載せた1973(昭和48)年の札幌市を河川網図をあらためて観ます。
河川網図 1973年 新川、琴似川
 昨日ブログに記した北海道の河川法上の記録によれば、直線的流路の上流部の名称はこの時点で琴似川だったことになります。赤いと黄色のを付けた間、赤い矢印で示した部分です。

 琴似川は直線的流路の上流端(南東端)、黄色のを付けた地点から南西へ遡ります。黄色の矢印を付けた自然河川由来の部分です。4月21日ブログで述べたとおり、同じ琴似川でも赤い矢印の直線的流路と黄色の矢印の自然河川由来では河川管理上の位置づけが異なります。前者は「2級河川新川水系及び星置川水系.指定区間」であり、後者は「普通河川」です。
 前者の「指定区間」の「指定」とはどういう意味か、私は4月20日ブログで逡巡したのですが、昨日ブログに引用した北海道の答えからすると、2級河川の指定を受けて道が管理する部分と解するに至りました。この指定は、赤いより下流(北西方向)、すなわち河川法上の「新川」も同じ扱いです。直線的流路は一貫して、道が管理だったことを物語っています。
 後者の「普通河川」とは、河川法の適用を受けない川です。これはどのように管理されていたのか。普通河川は一般に市町村が管理することが多いようで、札幌市が管理していたものと思われます。

 現在の札幌市河川網図(2012年)です。
河川網図 新川、琴似川
 赤いと黄色のが、前掲1973年図の赤いと黄色のの位置に照合します。

 この図で示されている現在の河川管理上の区分については4月19日ブログに記しました。直線的流路は上流の琴似川も下流の新川も河川管理者は北海道知事ですが、琴似川上流の自然河川由来部分(黄色のから南西へ蛇行する部分)は札幌市長の「維持区間」です。維持区間とは河川法第16条の3に基づきます。これは、管理は北海道がするのですが、「工事」「維持」は市長ができることとされた部分です。管理と維持が具体的にどう違うか、は措きます。ひとまず、札幌市長に権限が一部委譲されていると理解しておきましょう。ちなみに、琴似川のさらに上流部は「準用河川」で、河川管理者自体が札幌市長です。
 琴似川、新川の河川管理上の位置づけを河川網図の1973年と2012年で比べたとき、少なくとも新川及び琴似川の直線的流路の部分は北海道の管理ということで変わっていません。一方、琴似川上流の自然河川由来部分は位置づけが異なってきましたが、札幌市の権限が含まれている点で共通しているように思います。

 ここから私の妄想です。その第一、北海道-札幌市の綱引き説。直線的流路の管理をめぐって、道と札幌市でなんらかのせめぎあいがあったのではないか。せめぎあいを私は“綱引き”と譬えましたが、もしかしたら“押し相撲”だったのかもしれません。北海道と札幌市のどちらがイニシアチブを取ったかによります。いずれにせよ、直線的流路の上流部分を、さらに上流の自然河川由来部分と一体的に管理しようとした。「琴似川」という名前を法的に一体化させることによって、札幌市が管理する方向が模索されたのではないだろうか。

 琴似川が2級河川に指定された1968(昭和43)年はどういう年だったでしょうか。北海道百年、札幌市創建百年が祝賀されました。前々年の1966(昭和41)年、冬季五輪の1972年札幌開催が決定し、以後、道都の都市基盤整備に多額の資金が投下されていきます。1967(昭和42)年には札幌市と手稲町が合併、1970(昭和45)年には札幌市の人口が100万人を超えました。1971(昭和46)年は地下鉄が開通し、幹線道路が整備され、浄水場、下水処理場、清掃工場が立て続けに設けられます。そして1972(昭和47)年、冬季オリンピック開催、政令指定都市への移行(注①)。

 1976(昭和51)年の空中写真です(国土地理院サイトから)。
空中写真 1976年 新川下水処理場
 1971(昭和46)年に造られた新川(下水)処理場が写っています。
 余談ながら、処理場が面する北側の直線的流路はこの場所で、かつこの時点で「琴似川」であり、したがって再生処理された下水の放流先は琴似川です(末注②)。所在地も西区八軒9条西7丁目なのですが、施設名には「新川」と冠されました。2007(平成19)年、処理場が「水再生プラザ」と改称された後も同じです。目の前の川は、やはりというべきか、新川がなじむのですね(末注③)。

 閑話休題。前述したように、1960年代後半から1970年代にかけて(昭和40年代)は、札幌市が大きく都市基盤を整えた時代です。河川も、下水処理を含めて札幌市が一元的に管理する流れにあった。と考えても、あまり無理がないように私には想えます。上流の自然河川由来部分は普通河川(のちに法16の3適用河川及び準用河川)だし、下流の直線部分も札幌市がまとめてもいいのではないか。ゆくゆくは直線的流路の下流部分もひっくるめて、2級河川新川水系全体を札幌市の管理に…。いやいや、新川の河口は小樽市だから、そうはいかない。その手前は、1967(昭和42)年に手稲町と合併したばかりでもある。加えて支流発寒川(現琴似発寒川)は名だたる急流の暴れ川で、今後相当な改修をしなればならない。これは札幌市単独では難しく、北海道の力も必要だ。となると、札幌市管理は上流部分がいいところか。ひとまず名前は(札幌市が管理する自然河川由来部分に合わせ)琴似川と正式に統一しておこう。
 しかしせめぎあいの結果、直線的流路部分は結局、北海道管理のままとどまりました。名前だけは先行したので、いわばせめぎあいの痕跡として直線的流路の上流部分に遺った。名残です。前述したように、せめいぎあいが“綱引き”だったか“押し相撲”だったかはわかりません。ひとまず、これが私の妄想第一説です。

 注①:『市政ガイド わが街さっぽろ』1983年、pp.18-19
 注②:『札幌市の下水道』2016年、pp.31-32
 注③:「2級河川 新川水系」の一部という意味で「新川」と冠せられたとも解せられるが、「1級河川 石狩川水系」の川に放流する水再生プラザに「石狩川」と冠せられるかというと、そうでもない。

2020/05/04

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑪

 4月27日ブログの続きです。
 新川を管理する北海道の所管部局から得た情報を以下、時系列でかいつまみます。
  新川 1944(昭和19)年 河川法(旧)に基づき準用河川に認定。上流端は発寒川との合流点、下流端は札幌郡琴似町字新川、以下海に至る
  琴似発寒川 同年 河川法(旧)に基づき準用河川に認定。下流端は札幌郡手稲村字滝ノ沢、以下新川合流点に至る
  琴似川 1968(昭和43)年 河川法(現)に基づき二級河川に指定。下流端は新川との合流点

 上記で注目したいのは、新川の「上流端」が1944(昭和19)年の時点ですでに「発寒川との合流点」とされていることです。
 これを現在図に示します。 
現在図 新川 1944年準用河川指定
 赤いを付けたのが「発寒川との合流点」です。なお、発寒川の現名称は「琴似発寒川ですが、ひとまず措きます。
 ここが新川の上流端とされました。したがって新川は赤い矢印で示した直線的流路の下流部になります。

 一方、琴似川は1968(昭和43)年の二級河川指定時に「下流端は新川との合流点」とされました。ここでいう新川は、1944(昭和19)年に上流端とされた「発寒川との合流点」と解されます。これを現在図に加えます。
現在図 琴似川 1968年二級河川指定
 黄色の実線でなぞりました。

 ここで疑問が残ります。1968年以前、直線的流路の発寒川との合流点より上流部は何という川だったのか? 新川だったのが琴似川に変わったのか? もともと琴似川だったのか?
 道所管部局の説明によると、河川法上で琴似川の名称になったのは1968年の二級河川指定時であり、「指定以前どのような名前であったかは不明」とのことです。
 
 私はこれまで、直線的流路の上流部(琴似発寒川との合流地点より上流)は「1960年代後半、『琴似川』と改称された」とまとめてきました。その大前提は、もともとは「上流から下流まで一律に『新川』と呼ばれていた」ということです(4月27日ブログ冒頭記述①②)。地形図や民間発行の地図、現地の橋名などを根拠としました。
 しかし道所管部局の河川法上の記録に基づくならば、前段は正しいのですが、後段は必ずしもそうはいえません。前段も、上流部が1944年以降すでに琴似川とされた可能性も否定しきれないので、1960年代後半になって琴似川に「改称された」とも断定できません。
 河川法上はっきりしているのは、1944年以降は合流点より下流が新川、1968年以降は合流点より上流が琴似川とされたということです。それ以上でも以下でもない。上流部の1968年以前は、河川法上は「不明」とするのが現時点で正しい解釈となります。

 ここで私は「河川法上」という修飾語を頻用するようになりました。道の回答で締めくくられているとおり、「河川名は地域に根ざした呼び方もあると思います」。いわば通称です。問題は、法律に基づく名称と通称との違いという、ありがちな事象に帰着します。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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