札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/07

プロレタリー フセフ ストラン、ソエディニャイチェシ!

 今日11月7日は、何の日でしょう?
 
 100年前の1917年の今日、ロシアで社会主義革命が成立しました。いわゆるロシア10月革命です。ロシアの旧暦では10月25日なので10月革命と呼ばれますが、太陽暦(グレゴリオ暦)では11月7日になります。
 もちろん一日で革命が成ったわけではありませんが、ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党の母体)の武装蜂起によって臨時政府が倒された象徴的な日が、この日です。
 
 ロシア革命はひとことでいうと、以下の2段階に分けられます。
 2月革命:ロマノフ帝政が倒されて、臨時政府が成立
 10月革命:2月革命で成立した臨時政府が倒されて、ソヴィエト政権が成立

 歴史に「もし」はナンセンスですが、もし10月革命が成らなかったら、ロシアは社会主義ソ連には向かわなかったでしょう。ソ連というと、どういうイメージを抱くでしょうか? 一党独裁、人権弾圧、反対派抹殺、硬直した統治・生産体制、監視社会…。
 私はかねがね、2月革命はともかく、10月革命は強引にして性急すぎたのではないか、という疑念がぬぐいきれませんでした。2月革命でできた臨時政府を、もう少し成熟させることはできなかったのか。臨時政府で議会制民主主義の成熟があれば、旧ソ連の諸々の悲劇も生まれなかっただろう。

 …という考え方は、しかし歴史的ではありません。
 池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波新書2017年を読んで、あらためて思いました。1917年当時、ロシアはドイツとの戦争(第一次世界大戦)の真っただ中にありました。戦線に送られていた兵士や、銃後の労働者・農民には厭戦気分が非常に強かった。残念ながらというべきか、臨時政府はその気分を汲み取れず、停戦に踏み切れませんでした。一方で、大衆(労働者・兵士・農民)の気分を掴んだのがボリシェヴィキでした。もし臨時政府がその前に、停戦を実現していたら…。これも空しい仮定法です。
 
 大衆の厭戦気分を取り込んでできたはずの国家、ソヴィエト・ロシア(のちにソ連)でありながら、その後の第二次大戦では徹底的に戦争をします。なぜか。独裁者スターリンの好戦志向と強制動員というだけでは説明はつかないと思います。

 今は亡きソ連共産党機関紙「プラウダ」の1987年1月2日紙面です。 
プラウダ 1987.1.2紙面
 なぜこんなものを持っているかというと、30年前ヨーロッパへ旅行したとき、トランジットしたモスクワの空港で手に入れました。当時はモスクワ経由だったのですね。ちょうど革命70年の年でした。ソ連は4年後の1991年に崩壊しましたので、この新聞も今となっては貴重な史料です。

 紙名プラウダは、ロシア語で「真実」。その上に、「ソヴィエト連邦共産党」、さらにその上に「万国の労働者、団結せよ!」
 紙名の左に、レーニンの横顔をあしらったエンブレムが二つ、その右に描かれている船は、革命に呼応した軍艦「オーロラ」でしょうか。「十月革命」と書かれています。エンブレムの下に「1912年5月5日、レーニンによって創刊」、その右に「ソ連共産党中央委員会機関紙」。
 
 空港の待合室に、この種の刊行物がたくさん置いてありました。プラウダは1部4コペイカと書かれていますが、無料で自由に取っていけるようになっていました(4コペイカはタダみたいなものか)。日本人の旅行者で、プラウダをわざわざ持っていく物好きはあまりいなかったようですが。
 「さすが、宣伝が行き届いているなあ」と思ったものです。だいたいは、ソ連がいかに素晴らしい国かというプロパガンダのようでした。高校のとき、地理の先生から「ソ連には『プラウダに真実は書かれていない』という小噺(アネクドート)がある」と聞いたのを思い出しました。 もっとも我が国でも、お金をかけた(しかもテイクフリーの)印刷物が公共的な場所などに大量に置かれています。彼我の違いはありやなしや。
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2017/11/04

武井時紀先生

 本日(11月4日)北海道新聞夕刊記事で、武井時紀(たけいときのり)先生が亡くなられたことを知りました。記事の一部を以下、引用します。
 4日午前5時10分ごろ、札幌市西区山の手1の11の道道で、道路を横断していた同市西区山の手1の12、無職武井時紀さん(95)が乗用車にはねられ、全身を強く打ってまもなく死亡した。
 
 ご住所やお歳からして、元札幌新川高校校長にして元札幌市文化財保護指導員の武井時紀先生だと思います。不慮のご逝去を謹んでお悔やみ申し上げます。
 武井先生は、札幌におけるいわゆる都市考現学の開祖でした。‘街歩き’というコトバはこんにちフツーに交わされるようになりましたが、今ほど人口に膾炙していなかった30-40年前に実践した草分けでもあります。先生の足跡は、『さっぽろ雑学ノート』1983年、『さっぽろ都市探検学』1990年、『おもしろいマチ-札幌』1995年、『北海道 人と風土の素描』2003年で、たどることができます。
武井先生 さっぽろ雑学ノート
武井先生 さっぽろ都市探検学
武井先生 おもしろいマチ-札幌
武井先生 北海道 人と風土の素描
 拙ブログでも、2014.9.242016.10.142016.11.13各記事で引用させていただきました。

 先生は、正史に残らないような街のできごとを、 正史には載らないような着眼点で綴りました。秋田鉱山専門学校(のちの秋田大学鉱山学部)ご出身ということもあってか、自然史的な考察も豊富でした。もちろん、今から見れば時代的な制約はありますが、前人未到を拓いた人を私は尊敬します。拙ブログの原点も、ほとんど先生の切り口にあります。
 デパートの広告やチラシなどを俎上に載せた本というのも、先駆的だったと思います。先生が切り取った街の風景の写真は、おそらく公的機関の記録にはないでしょう。貴重な史料です。
 先生は前掲『おもしろいマチ-札幌』で、中央区北2条東6丁目の「旧三菱鉱業寮」の建物にまつわるエピソードを記しています(p.129、131)。1937(昭和12年)ころの築というこの建物は現在、再整備されていますが文献史料があまり遺っておらず、札幌市の文化財課は文化財登録に向けて苦労しているようです。先生の記述は私が知る限り、きわめて数少ない一つだと思います。
 ご冥福をお祈りします。合掌。
 

2017/10/07

さっぽろ川めぐり講座

 「さっぽろ川めぐり講座」が11月23日(木・祝)に開催されます。
川めぐり講座 案内チラシ
 宮坂省吾氏と私がお話しします。
 宮坂さんは「札幌の失われた川を尋ねて」と題して、太古から開拓時代、札幌を流れていた川の風景を語ります。私は、それらの川が市民のくらしやなりわいとどう関わっていたかをお伝えしたいと思います。7月17日に豊平館で話したときは「創成川・鴨々川からたどる札幌の歴史」でしたが、今回はほかの川もまじえます。

 申込方法等は掲載画像のチラシまたは下記サイトをご参照ください。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/kasen/kawamegurikouza.html

2017/08/30

久住さんを悼む

 元くすみ書房の店主、久住邦晴さんが亡くなったことを昨日(8月29日)の北海道新聞夕刊で知りました。本年2月28日ブログで記したとおり、久住さんにはお世話になりました。
 札幌建築鑑賞会で『さっぽろ再生建物案内』という本を自費出版したとき、応援してくださったのが久住さんです。2000年の初版のとき、札幌市内のいろんな書店に扱いをお願いしました。取次会社を通さない持ち込みにもかかわらず、最初に快く応じてくださったのが、なにわ書房とくすみ書房でした。本州資本大手のK書店やA書店に断られた中で、地場の書店の好意が身に染みたものです。久住さんは当時、三角山放送という地域FM局で「読書でラララ」という番組を受け持っていて、私は番組にも出させていただきました。本を丁寧に紹介してくださったのも久住さんです。おかげで本は3000部完売し、2003年の第2版につながりました。「いいものができましたね」とおっしゃってくださいました。初版の実績があって、第2版は市内の大方の書店で扱ってもらうことができ、5000部完売へと結実しました。久住さんは恩人の一人です。
 
 久住さんが‘町の本屋’生き残りのためにアイデアを駆使されたことは知られるところですが、2015年6月、大谷地の店が閉じられました。
くすみ書房 大谷地
 享年66、少し早いとも思いますが、「お疲れ様でした」とねぎらいたい。

2017/08/12

1937年と1942年の都市計画図を見比べる

 「札幌都市計画図」1937(昭和12)年から札幌市の中心部を抜粋しました。
昭和12年都市計画図 札幌中心部

 こちらは昨日ブログでも引用した1942(昭和17)年の札幌都市計画図の、同じく市中心部を抜粋したものです。
昭和17年都市計画図 札幌中心部

 二つの計画図を見比べると、ちょっとした違いに気づきます。それは、市中心部の計画道路の一部が緑色に塗り替わっていることです。このほかにも違いはありますが、ひとまずこれに注目します。

 中心部をさらに拡大してみましょう。
 まず1937年図。
昭和12年都市計画図 札幌中心部 拡大 緑色は大通と創成川沿いに限られています。

 次に、1942年図。
昭和17年都市計画図 札幌中心部 拡大
 石山通りの一部、南4条通りが緑色に変わっています。さらに、豊平川右岸、一条大橋橋詰の菊水のあたり(7月27日ブログ参照)が部分的に緑色になりました。
 緑色は何かというと、「広路」です。広路というのは、都市計画道路でもっとも広幅員のものをいいます。ただし1937年図と1942年図で定義が異なっていまして、前者は「55m乃至110m」、後者は「44m以上」です。広路の一つ下は「一等大路第一類」で、これは1937年図では「36m乃至20間」、1942年図では「36m以上」です。また、1937年地図で石山通りや南4条通りは赤色で描かれていますが、これは「一等大路第三類」で、「22m乃至28.5m」という区分です。したがって、1942年図において緑色に変わっているところは、事実上、道路幅を最大限に広げるべく計画変更されたことを意味します。

 1937年から1942年の5年間で、何があったか。
 一九四○年(昭和一五年)四月、都市計画法が改正され、法第一条の都市計画の目的に防空が追加された。この結果、防空は交通、衛生、保安(安全)などと同等の位置を与えられ、都市計画の基本目的のひとつとなったのである。
 これまで日本の都市計画の流れとして一貫して存在した都市不燃化・防火の対策、そして一九二○年代後半から導入されてきた田園都市、地方計画、緑地計画の思想はすべてこの防空都市計画の考え方に吸収されていく
(越澤明『東京都市計画物語』2001年、p.248)。

 防空都市計画とは何か。
 第一次大戦後、軍事技術(飛行機と爆弾)の進歩の結果、軍事的にみた都市防衛の第一課題が空襲対策となった。このため、空襲を防ぎ、その被害を軽減させるという観点に立って都市形態の改造と都市建築物の改修を進めるという考え方が生まれた(同書p.246)。

 昨日ブログで取り上げた東8丁目通りは、1937年「一等大路第三類」から1942年「一等大路第一類」に‘格上げ’され、かつ例のナナメの割込みへの変更が企てられます。防空思想の遺物でもあったわけです。

2017/07/02

32年前の未来

 昨日ブログで1985年つくば科学万博のことを記し、その中で当時発行された新聞特集記事に触れました。昨日はソーラー時計に関する広告を取り上げたのですが、その上段に興味深い記事が載っていましたので、併せて紹介します。

 それは「こうなる未来の家庭」という記事です(朝日新聞1985年3月15日別刷り「科学万博―つくば’85特集」)。
1985年科学万博特集記事 「こうなる未来の家庭」 
 長くなりますが、以下引用します(引用太字)。

 まずリード文から。
 電子レンジ、インスタント食品、ビデオにパソコン…私たちの家庭生活はここ何年かの間に見違えるほど便利になった。科学技術の進歩による暮らしの変化は、今後もますますピッチを上げて進みそうだ。今回の科学博でも、その未来像の一部を垣間見ることができる。私たちの暮らしは、今後どう変わるか。児童評論家の阿部進さん、万博のテーマ館の展示をプロデュースした粟津潔さん、医事評論家の川上武さん、日本長期信用銀行常務取締役調査部長の竹内宏さん、生活評論家の吉沢久子さんの話をもとに、二十一世紀の家庭生活を描いてみた。
 
 そして「お父さん」「お母さん」「子供たち」「お年寄り」「だんらん」という項目に分けて、それぞれのくらしが予想されています。
 
 ■お父さん 双方向テレビで仕事の連絡
 お父さんは四十五歳。都心の会社でネットワーク通信のための盗聴防止プログラムを作る仕事をしている。郊外の高層マンションに妻と息子、娘の四人暮らし。家は二階分あり、さらに一階下には妻の両親が住んでいる。
 会社の勤務は週四日。うち二日は在宅勤務だ。
(中略)
 通勤は地下鉄と水素ガスエネルギーのバス。通勤客が激減したので、ラッシュも解消し、スピードも大幅にアップした。(中略)
 三日の休日のうち、一日は近くの民間福祉ネットワークサービスに出掛けて、お年寄りへのボランティア活動をする。
 趣味は週末に家族と旅行をすること。
(中略)
 上司の間ではちょっとした懐古ブーム。占いや巡礼、古典落語が潜か(ママ)にはやっている。

 ■お母さん 電話で指示し食事準備OK
 お母さんは四十歳。週に三日、近くの図書館で昔の活字印刷の本をディスク化する仕事をしている。
 仕事のある日は職場にいる間に家のホームコンピューターに電話をかけて、おふろや食事の支度を指示しておく。いわゆる在社家事だ。ちょっとした買い物も会社の専用コンピューターで。
 家事は大幅に簡略化された。掃除はセンサー付きの掃除ロボットが自動的に部屋を掃除して回る。炊事は電子・電磁調理器や多目的フードプロセッサー。好みのメニューに合わせて配達される半調理済みの食品や、封を切るだけ温かくなる調理済み食品も大量に出回り、包丁やまな板のない家庭も増えた。バーゲンのチラシもファクシミリから毎日吐き出され、買い物も一切家の中でできる。
 家事を簡単にする機械は整ったけれど、自由時間が増えたために、近ごろは、逆に家事に手間をかけるのがはやり始めた。
(中略)
 どこにいても均質の情報や教育が受けられる今日では、少しくらい通勤に時間がかかっても、子供のためには自然の残っている郊外のほうが良い。

 ほか「子供たち」「お年寄り」「だんらん」も、総じて‘バラ色の未来’で描かれています。たとえば「だんらん」の項では、「共働き家庭の休日といっても、家事に追われることはない」など。科学技術の進歩が人々のくらしを安楽にする、という一本調子です。

 上記引用箇所をお読みいただいて、どう受け止められるでしょうか。この特集は科学万博を2日後に控えて、いわば景気づけのために組まれたものです。12面の紙面の半分以上が出展企業の広告で占められています。暗雲垂れこめるような文章で万博に水を差すわけには到底いかなかったでしょうね。

 21世紀を実際に生きる私たちとしては、いろいろ突っ込みどころはありましょう。「よくもまあ、こんなにバラ色に描けたもんだ」と呆れ、揶揄するのは、‘後出しじゃんけん’といえるかもしれません。私は、バラ色に描いたこと自体をとやかく言う以前の、根本的な問題があるように思いました。それは、この記事が大前提としている夫婦+子二人という‘標準モデル世帯’的な家族で予測すること自体への疑問です。世帯の平均人数・構成の実態が乖離したという以前に、そもそも標準を想定すること自体に無理があった。
 
 機械化、在宅勤務、休日増、女性の就労などが進行しつつも、食事や掃除などの家事(指示)は「お母さん」が担っています。今の朝日新聞なら、どうみるでしょうか。「性による役割の固定化」と評するかもしれません。「今なら」です(当時からジェンダーフリーを唱えていた人もいたでしょうけれど)。言い換えれば、今日の新聞記事を読んで当たり前と思ったことが30年後には不見識になることも、当然ありえます。おそらく、未来予測は人々の意識の分野がもっとも難しいようにも思います。‘今’を疑う眼を、私は養いたい。

2017/06/30

母、退院後3週間

 6月9日に退院した後、本日初めて外来で経過を診てもらいました。主治医の先生によると、MRI検査の結果は退院時よりも良くなっているとのこと。4月に手術を受けたとき「高齢者の場合、一回の手術でうまくいくことは少なく、二回三回必要になるかもしれない」と言われていたのですが、この調子でいけば再手術はしなくてもすみそうです。また、退院時には「自宅に戻った場合、(経口だけでは栄養摂取不良で)衰弱する可能性も高い」と言われましたが、体重は維持され、思いのほか元気に過ごしてきました。病院食や経鼻栄養よりは自宅で好きなものを食べるほうが、やはり良かったようです。それにしても、一昨年の骨盤骨折、昨年の大動脈瘤、今年の脳神経外科と、そのたびに母の回復力、生命力の強さには驚きます。

2017/06/09

母、退院しました。

 4月の初旬から入院していた母が、今日退院しました。
 高齢のため再手術の可能性が高いと言われていたのですが、今のところその必要がなく、小康を得ております。大病を幾度も乗り越えてきた母の生命力に、私はまた感服しました。90歳を過ぎて2か月も入院していたら、心身ともに後退しても不思議ではないのに。アタマもカラダも、わりとしっかりしています。
 ただし、食が細いのが懸念されます。入院中は経鼻栄養でした。経口だけでは衰弱の恐れあり、経鼻を続けながらの療養・リハビリ型病院への転院を勧められたのですが、自宅復帰という選択を採りました。病院食や経鼻よりは、自宅で好きなモノを口から食べさせたほうがいいと思ったのです。胃瘻という選択肢も提示されたのですが、正直言って「そこまでして栄養を摂らせる」ということには、躊躇しました。
 手術で母の命を救ってくださった主治医の先生をはじめ、看護師や療法士のみなさんには感謝の気持ちでいっぱいです。だから、このような感慨を抱くのは贅沢な話なのですが、「医療が進歩していなかった昔なら、90歳にもなれば食が細くなって、自然と衰えていったのだろうなあ」とも思ってしまいました。母の現状からすると、病院で経鼻や胃瘻で栄養を確保するのに比べると、自宅で経口だけでは衰弱、貧血、脱水、誤嚥性肺炎などのリスクが高いとも言われました。拙ブログをお読みいただいている方にはお察しのことでしょうが、私と母は一卵性親子みたいなもので、母にはずっと長生きしてほしいと願っています。90歳の母にとって、少しでも幸せな余生とは、何だろう? 病院よりは余命は縮むかもしれないが、母と枕を並べて寝起きして、一緒にいる時間を私は大切にしたい。

2017/05/15

『きー すとーん』№76発行

 札幌建築鑑賞会通信第76号が発行されました。
通信『きー すとーん』№76 表紙
 市内の会員の方には、お手元に届いているころでしょう。
 
 今号の表紙画は会員Tさんの作品で、昨年の「古き建物を描く会」(第56回)でのスケッチをもとにしています。Tさん、間際になっての依頼にもかかわらず文章を添えていただき、ありがとうございました。

 画題の「旧真駒内種畜場事務所」は、明治中期に建てられ、昭和30年代に現在地に移築されたものです(末注)。明治期北海道の牧歌的風景が彷彿と伝わってきます。手元の文献をざっと見た限りでは直接的な根拠を見つけられなかったのですが、この建物の移築保存には故遠藤明久先生の尽力があったのではないかと私は想像します。

注:建築年、移築年は文献によって違いがある。また、札幌建築鑑賞会が1997(平成9)年に催した見学会で越野武先生(北大教授、当時)からお聞きしたところによれば、建物は移築に際して旧状から改変された可能性が大きい。とはいえ、酪農畜産史上の貴重な遺構であるし、札幌らしい風景を醸し出している一つだとも思う。

2017/04/12

母、手術を終えました。

 予定どおり、無事終わりました。主治医の先生をはじめ職員の皆さんに感謝です。
 再発のため再手術する可能性は高いと、術前から言われています。母に少しでも長生きしてほしいと願う反面、これ以上苦しく辛い思いをさせたくないという気持ちも私にはあります。母はこれまでも、癌や動脈瘤などで全身麻酔の手術を受けて、乗り越えてきました。「これまで長生きできたで、まあええわ~」(尾張弁)と言ってます。母には「このふた月、いっしょに寝起きできて嬉しかったよ。またうちに戻ろうね」と伝えました。
 

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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