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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/03

「子ども顔負け」の大人に、私はなりたい。

 逆に、子どもに対する「大人顔負け」という形容は、ステレオタイプです。7月に石山緑小学校(札幌市南区)での修学旅行報告会を聴き、実感しました(2018.7.187.19ブログ参照)。どうも私には「子どもとは、こういうもの」という固定観念がこびりついていたようです。

 「札幌市児童生徒社会研究作品展」(第40回)を観覧して、その刷り込みがまた剥がされました。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展 展示風景
 札幌市の小中学生がさまざまなテーマで「社会研究」した成果を発表しています。主催者の方に伺うと、だいたい夏休みを研究に当てているそうです。

 特に私の興味を惹いた作品を以下、お伝えします。著作権も考慮して(?)大まかな画像にとどめますが、雰囲気だけでも味わってください。

 「火山活動から生まれためぐみ~札幌の大地をつくった支笏火砕流~」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展 「火山活動から生まれためぐみ」
 
 「ウォータータウン『サッポロ』~今昔マップで見えたもの~」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「ウォータータウン『サッポロ』~今昔マップで見えたもの~」

 「平岸リンゴから見える受け継がれた伝統」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「平岸リンゴから見える受け継がれた伝統」

 「1972年札幌オリンピックの五輪のマークを探して」(小学5年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「1972年札幌オリンピックの五輪のマークを探して」

 「白石区最古の道」(中学2年生」。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「白石区最古の道」

 拙ブログの読者の皆様には、これらのテーマの作品を私が紹介した気持ちをお察しいただけるかと思います。表現力の豊かさにまず、感銘しました。のみならず、論文の流儀作法(問題意識の所在-研究の視点・方法-内容-結論)を皆さん心得ているのですね。先生や保護者の方の助言もあるのでしょうが、完成度が高い。
 それぞれから教えられたことは多々ありましたが、「ほう!」と私のツボが心地よく刺激されたものを一つだけ、記します。最後に載せた「白石区最古の道」からです。白石区最古とされる通称「山道」(末注①)について、作者のN君は「ここら辺には山らしい山はない」、「国土地理院のホームページで断面を調べてみると山道にはほとんど勾配がない」のに、「なぜ、山道という名前なのでしょうか」と問題を立てました。N君自身が推理した二つの説を以下、引用します(太字)。
 ①当時の道は細く深くぬかるんで歩くのが大変だったため、険しい山道に例えられた。
 ②明治5年に横丁通りが作られた頃、札幌神社(現北海道神宮)が建設されており、山道が斜めに真っ直ぐ整備された時に円山方面へ向かう道ということから「山(へ向かう)道」と呼ばれるようになった。
 

 私の「ほう!」は②です。N君の作品には、次の地図が添えられています。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「白石区最古の道」 山道
 「山道を一直線上に伸ばす時 札幌神社にぶつかる」と。
 そうか。「山道」は「山アテ道路」(末注②)だったのか。 

 感心してばかりでは何ですので、“注文”も一つ。前掲の諸作品には、「どこかで見たことがあるな」という図版が散見されました。スペースの制約もありましょうが、依拠した引用資料や参考文献、使用した史料の出典の明示を望みます。中学生のN君の作品には、記述に典拠が逐一添えられていました。さすがです。小学高学年だと難しい? いえ、前掲の研究レベルの高さからして、そんなことはありません。「ここまでが既往の到達点で、ここからが自分の成果」だと示されると、ありがたいものです。先人の業績へのリスペクトもまた、「社会研究」から学ぶことといえましょう。

 「社会研究作品展」は、明4日(月・振休)も午前10時から午後3時まで開催されています。「かでる2・7」1階の展示ホールにて。

 注①:「山道」については2019.3.2ブログ参照
 注②:畑山義人「山アテ道路。北海道の直線道路ミステリー」ドーコン叢書1『エンジニアの野外手帳』2011年、pp.88-101参照
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2019/08/18

人は穴を好む?

 札幌建築鑑賞会のスタッフで市内を散策しました。「大人の遠足」2019秋の編の下見です。仔細は来月発行予定の会通信「きーすとーん」をお待ちください。

 下見で立ち寄った古刹の境内に立つお地蔵さんです。
古刹 お地蔵さん-1
 札幌軟石で彫られています。

 スタッフのYさんが、あることに気づきました。
古刹 お地蔵さん-2
 一体のお地蔵さんの台座に、“穴”が空いています。

 石を積んだように目地が切られていて、しかも開口部はアーチ型に組まれているのです。
古刹 お地蔵さん-3 アーチ型のトンネル
 正確にいうと、目地やアーチに見せかけて、穴が穿たれている。これは、通行するためのトンネルという体です。

 前掲画像に戻ると、このトンネルの上と下で台座の厚みが異なっています。下のほうが厚い。、厚みの分がちょうど、トンネルに至る坂道になっています。かなり急勾配の坂道です。これを上ってトンネルに達します。

 トンネルを抜けた先はというと…。
古刹 お地蔵さん-4 アーチ型のトンネル くぐった先
 台座の側面に達し、こちらも表面が少しだけですが削れています。どうも急峻な崖を下るかの様相です。いや、もしかしたらこちらが上りか。

 本件アーチ型トンネルを施したお地蔵さんは、並ぶ他のすべてが立像であるのに対し、唯一坐像です。
古刹 お地蔵さん-5 アーチ型トンネルの坐像
 だから目立つと言えば目立つのですが、私はYさんに言われるまでトンネルのことにはまったく気づきませんでした。

 いま「坐像」と記しましたが、これは「半跏思惟」という姿勢ではないでしょうか。
古刹 お地蔵さん-6 半跏思惟
 右足を左脚の上に載せているかのようです。京都・広隆寺の弥勒菩薩像みたいに。

 それにしても。
 このアーチ型トンネルは何でしょうか? いわゆる“胎内くぐり”ではないかと、私は想いました。通過儀礼というか、このトンネルをくぐったらご利益があるとか。

 それで思い出したのが、富山・高岡の大仏です(画像は2014年撮影)。
高岡大仏
 銅製の巨大な坐像の台座下が空間になっています。何やらありがたそうなモノが陳列されていました。それらを眺めて通ったらご利益がありそうな気配が漂ってもいました。ただし、不信心なことに何が陳列されていたか、ほとんど覚えていません。些少の喜捨はしたと思うのですが、これではご利益は期待できません。それでも高岡の方は大仏が巨大なので下に入れましたが、前掲お地蔵さんの場合は一寸法師にならないと無理です。お地蔵さんのトンネルは極小ですが、古刹自体には大きな山門があります。なんだかガリバー旅行記みたいですが、これをくぐったらいいことがあるかもしれません。

 もう一つ、それにしても。くだんのお地蔵さんは札幌軟石だけあって、組積造でしかもアーチを組んだところは、さすがです。
 それにしても、の三つ目。一人ではなく複数のスタッフで見て歩くと、視えなかったモノが見えてきます。あな、ありがたや。

2019/08/08

初三郎師は「北海道鳥瞰図」で何を描き、何を描かなかったか ②

 「北海道鳥瞰図」1936(昭和11)年に“描かれなかった”2箇所を、「札幌市鳥瞰図」1931(昭和6)年、1936(昭和11)年で観てみます。
 まず、北大の北側。
鳥瞰図 吉田初三郎 1931年 札幌飛行場
鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 札幌飛行場
 上が1931年、下が1936年です(以下同)。黄色の矢印を付けた先に「飛行場」と書かれています。1927(昭和2)年に北海タイムス社が開設し、1933(昭和8)年に国営化された「札幌飛行場」です(末注①)。

 もう一箇所の月寒のほうは…。
鳥瞰図 吉田初三郎 1931年 歩兵第25連隊
鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 歩兵第25連隊
 赤い矢印の先に「二十五連(聯)隊」「歩兵第二十五連(聯)隊」と書かれています。1896(明治29)年に設けられた独立歩兵大隊、1899(明治32)年に改称された歩兵第25連隊の兵営です(末注②)。 

 もう一度「北海道鳥瞰図」の月寒周辺を載せます。
鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 月寒周辺
 ①~④を付けた箇所には、それぞれ以下のとおり書かれています。①:林業試験場 ②:月寒 ③:明治天皇行在所 ④:千歳

 昨日ブログで私は、「月寒」と書かれたところに「本来そこに描かれてもよかろうものがあえて描かれていない」と記しました。この場所は歩兵第25連隊ではないかと想ったのです。あらためて前掲図を見直すと、25連隊の位置はもしかしたら別かもしれません。道路(室蘭街道、現在の国道36号)の向かい側に描かれている建物が種羊場だとすると、連隊兵営はもう少し札幌寄りになります。初三郎先生の絵地図はデフォルメの極致ではありますが、否それゆえにというべきか、位置関係は正確です。
 とすると、25連隊はどのあたりか。「月寒」の「月」の字の右上に、数棟の建物が描かれています。これが兵営かなと想えてきました。室蘭街道の“曲がり具合”が、現在の月寒中央通あたりを想起させます。
 それにしても、です。仮にこの数棟が兵営だとしても、扱われ方が小さい。冒頭の「札幌市鳥瞰図」で事細かに描かれている札幌及び近郊の諸物件が「北海道鳥瞰図」のほうで簡略化されるのは当然としても、にもかかわらず「北海道-」には例えば8月5日ブログで示したとおり「農事試験場」「工業試験場」は名前入りでキチンと描かれています。前掲図で①を付したところの「林業試験場」もしかり。③の「明治天皇行在所」はかなり精緻です。これと較べるといっそう、25連隊の粗略な扱いの感を強くします。ちなみに、①の林業試験場の左下に樹林地らしく描かれているのは「野幌原始林」です。これについては後述します。

 室蘭街道を南下すると、④の地点に「千歳」があります。私はこの周辺も、「本来そこに描かれてもよかろうものがあえて描かれていない」ように想えてなりません。「千歳」の「千」の字の真上、由仁方面に行く道と千歳川に挟まれたところに、矩形の土地が白く描かれ、赤い旗が立っています。これは何でしょうか。

 注①:札幌市北区役所編『続・北区エピソード史』1987年、pp.210-211、『新札幌市史』第8巻年表・索引編2008年、p.208、p.230
 注②:、『新札幌市史』第8巻年表・索引編、p.108、p.118

2019/08/07

初三郎師は「北海道鳥瞰図」で何を描き、何を描かなかったか

 8月5日ブログの続きです。 
 吉田初三郎は1936(昭和11)年に「北海道鳥瞰図」を天覧に供するに先立ち、「札幌市鳥瞰図」を完成させています。
吉田初三郎 札幌市鳥瞰図 1931年
吉田初三郎 札幌市鳥瞰図 1936年
 1931(昭和6)年の札幌商工会議所発行(上)と1936(昭和11)年の札幌市役所発行(下)です(末注)。「北海道鳥瞰図」の札幌周辺はこれらを下敷きにしていることでしょう。「札幌市鳥瞰図」と較べることにより、「北海道鳥瞰図」で初三郎師が何を描き、何を描かなかったか、見えてきます。

 あらためて、「北海道鳥瞰図」の札幌周辺です。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 札幌周辺 描かれなかったもの
 黄色と赤の矢印を付けたところに注目しました。

 黄色の矢印の先です。
北海道鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 札幌周辺 描かれなかったもの1
 「北海道帝国大学」の北側に、緑色に描かれた矩形の土地。

 赤矢印の先は「月寒」です。
鳥瞰図 吉田初三郎 1936年 札幌周辺 描かれなかったもの2
 「月」という字がかかるところに、道路が右上から左下に通じています。室蘭街道、現在の国道36号です。左下に行くと「明治天皇行在所」「島松」と書かれています。「月寒」と書かれたあたりで、半円形にぐるりと描かれているのは樹林でしょうか。その中は緑色に塗られていますが、家屋らしいものは何も描かれていません。道路をはさんで向かい側には建物が幾つか描かれています。位置関係からすると、室蘭街道の南西側に当たります。これは月寒種羊場ではないでしょうか。

 北大の北側と月寒のそれぞれ緑色に塗られた2箇所は、本来そこに描かれてもよかろうものがあえて描かれていない。と私には想えました。

 注:札幌市役所版「札幌市鳥瞰図」は1936年9月25日の発行、昭和天皇が陸軍特別大演習を統監し北海道を行幸したのは同年10月2日~10日である。

2019/07/11

安倍首相の発言をめぐって

 昨日ブログで出したクイズの答えは江別市文京台です。コメントを寄せてくださった方、ありがとうございます。 

 先月末大阪で開催された「G20大阪サミット」での安倍晋三首相の発言が批判を浴びたと聞きました。大阪城天守のエレベーター設置の件です。経緯を以下、時系列で追ってみます。
・6月28日夜:サミット夕食会のあいさつで阿部首相は「明治維新の混乱で大阪城の大半は焼失したが、天守閣は忠実に復元された。しかし、一つだけ大きなミスを犯した。エレベーターまで付けてしまった」と述べた(北海道新聞6月30日朝刊)。
・7月2日:首相は自民党の萩生田光一幹事長代行に次のように述べた(同上7月3日朝刊)。
 「取りようによっては障害者やお年寄りに不自由があっても仕方がない、と聞こえるかのような発言をしたことは、ちょっと遺憾だった」。
 「四百数十年前とまったく同じ物を作ったけど、エレベーターは(その時代に)なかったということをアピールしたかった」。
 「バリアフリーの社会に異論を唱えるような発言ではない」。
・同日:菅義偉官房長官は記者会見で「全く問題ない。大阪城の歴史的価値と復元の経緯に触れたものであり、批判されるような問題ではない」と述べた(同上)。

 首相の発言に対し、「障害者への配慮が足りない」といった批判が出たようです。これに対して首相は「遺憾」(クセモノな言葉ですね)としつつ、あくまでも趣旨は「復元の経緯」を述べたものであったとします。
 天守へのエレベーター設置を「大きなミス」と見るのは、いわば首相の価値観です。この価値観に対して「障害者への配慮が足りない」と見るのもまた、価値観といえましょう。安倍氏の価値観が一国の首相のそれとして妥当かどうかという問題はありますが、私が気になったのはむしろ、発言の前段です。すなわち「天守閣は忠実に復元された」という部分。これは価値観ではなく、事実認識としてどうでしょうか。

 大阪城天守が「忠実に復元された」のは事実か。例えば内装や設備です。私は実物に入ったことがないので公式サイトhttps://www.osakacastle.net/で見る限りですが、「忠実に」どころか、「復元」とはいいがたい。では構造は? 鉄筋コンクリート造ですよね(末注①)。復元されたのはあえていえば、外観のみに限られています(末注②)。エレベーター設置を「大きなミス」と判断する価値観以前に、大前提の事実認識がそもそも誤ってませんか。「四百数十年前とまったく同じ物を作った」? これは嘘でしょう。 

 念のため申し添えると、「忠実に復元」されていないから大阪城の現天守の価値が低いというつもりはありません。この建物は1931(昭和6)年に建てられた「近代建築」として高く評価すべきです。登録有形文化財となったのも、それゆえでしょう。エレベーター設置の是非は、昭和初期の近代建築として価値判断すべきと私は考えます。ならば、近代よりも前の国宝や重文建造物のバリアフリーはどう考えるべきか。それは本日取り上げたこととは別問題です。
 現政府は国内の文化財を観光振興にもっと役立てたいと腐心しているようですが、価値観以前の問題として文化財に関する事実認識の正確を期してほしいと思います。

 注①:越野武『時と人と 再訪日本 老眼遊記』2019年、p.285
 注②:一般に、昭和初期以降の城郭天守再建は「模擬復興」とされる。ウィキペディア「大阪城」によると「大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所や外観が異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々の議論があり、豊臣時代もしくは徳川時代どちらかの形式に統一すべきとの意見もある」(2019.7.8閲覧)。 もしそうなら、外観も「忠実に復元」といえるのか疑わしい。

2019/07/02

軟石建物クイズ

 昭和戦前期に写された札幌軟石の建物です。
昭和戦前の史料に写る札幌軟石の建物
 この建物は現存しています。札幌市内です。

 さて、どこにある何という建物でしょう? この粗い画像でお当ての方は、かなりの札幌軟石マニアだと思います。

2019/06/10

札幌建築鑑賞会通信第82号が発行されました。

 来し方をかえりみると、私には“人生の分かれ目”が3回はありました。①高校入試、②大学入試、③就職の試験、といったら月並みですが、それぞれ「もしあのとき○○だったら、人生は変わってただろうな」と想います。
 ①もし高校の“学校群”入試で、合格先の学校が違っていたら…(2018.5.23ブログ参照)。
 ③もし就職の試験で、新聞社の二次試験を受けていたら…(2019.5.16ブログ参照)。
 ②は、大学入試で第一志望には合格したものの、“すべりどめ”のつもりで受けた東京の私立大学に不合格だったことです。私は文系3教科(国語、英語、社会)に自信があり、私立文系の方が合格の可能性が高かったので、むしろ悔しさが募りました(入試は当時、合格した国立が5教科7科目、不合格だった私立は3教科4科目だった)。今でも、何かのはずみでこの大学の校歌を耳にすると、ほろ苦さがよみがえります。もし大学入試で合格不合格が異なっていたら…。
 しかしこれからの行く末を見渡すと、前述の“分かれ目”で本当に人生が変わっていたのか、疑わしくなりました。仮に①②③で別の道を歩んだとしても、結局たいして変わりはなかったのではないか。ましてや、このさきどれだけ生きられるか判りません。なんかかんか(北海道弁?)折り合いをつけて、同じような生き方をして朽ち果てていくのだろうなあ。

 札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第82号が発行されました。

https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12477591300.html
 会員の皆様には、郵送ですでにお手元に届いていることと思います。印刷物は白黒ですが、上記公式ブログに彩色版の表紙を載せました。会員Kさんの作品をカラーでお楽しみください。添えられた文にあるとおり、題材とされた建物は現在、喫茶店として再利用されています。

http://miyataya.co.jp/info_higashinaebo.html
 作品の原画はKさんからお店に寄贈され、店内に飾られているそうです。

 札幌建築鑑賞会は今年で発足満28年になります。もし北海道に来ていなくても、私はこのような活動をどこかでしていただろうか。私の郷里は指定文化財の数がとても多いところですが(2014.8.26ブログ参照)、郷里にいたときは“歴史”にウンザリしていたなあ。 

2019/06/05

『老眼遊記』を頂戴する

 越野武先生(北大名誉教授)から、近著をご恵与いただきました。
越野先生 老眼遊記 続編
 『東と西と 続世界建築 老眼遊記』と『時と人と 再訪日本 老眼遊記』です。

 先生は北大退官後、旅三昧?の日々を送っておられ、2008年に『世界建築 老眼遊記 風と大地と』を上梓されました。 
越野先生 老眼遊記 2008年
 日本の大都市の中心部に見られるような超高層の街並みが表象する価値観とは対局にあるような、世界各地のいわば土着の文化が跡づけられています。

 このたびの『続世界建築』で紀行されているのも、中国西域、中央アジア、エチオピア、イエメン…といった“異境”(私にとっては)です。一方、『再訪日本』のほうでは、出雲、瀬戸内、京都、大和など西日本各地が綴られています。後者の「あとがき」によると、海外の旅は2012年が最後で、その後は国内を毎年10日間程度とのことです。私は先生のことを「旅三昧」と前述しましたが、これは訂正すべきかもしれません。『再訪日本』だけで400ページ近いボリュームなので、錯覚してしまったのです。「老眼」と題されていますが、確かな眼で時空を深く読み取っているのだなあと察しました。どのページにも必ずといってよいほど添えられている脚注(参考文献もふんだんに付されている)がそれを物語っています。

 目次を見渡すと、世界はもちろん日本国内も私が行ったことのある土地は少ないのですが、「飛騨国」が目に入りました。「飛騨一之宮」のくだりを引用させていただきます(pp.276-277、太字)。
 高山の新旧町並み境を流れているのが宮川である。古川はこの宮川の下流にある。実はこの旅の前にこのあたりの地図を見ていて、古川の反対、高山の南隣りに飛騨一之宮水無社があり、宮川の水源を祀っているのを知った。つまり宮川は水無社のあたりに始まり、高山、古川を北流しているのである。その先は富山の神通川で日本海に出る。まことに胡乱きわまりないことなのだが、高山で宮川がどっちへ流れているのか、意識することがなかった。自然地形でいえば、高山は北陸・日本海圏に属するのである。 
 高山が北陸圏に属するのに気がついて、あれっと思ったのは、ここが岐阜県だからである。日本列島を大きく分けて、中部地方とか東海地方と言うことがあり、岐阜県はこの中部ないし東海地方にいれて考えるから、日本列島の大まかな分水嶺の南、太平洋側に属していると思ってしまうのである。 
 

 先生が飛騨高山を訪れたのは2017年の春先だそうです。私が先月書き連ねた境地(5月21日22日23日ブログ)に、先生は一足先に達しておられる。のみならず、引用は後略しましたが、さらに筆を進め洞察しています。私はまたしても、お釈迦様の掌に遊ぶ孫悟空です。

2019/05/17

“もっと田上さん”な住宅

 所在地の表記は控えます。
“もっと田上さん”な住宅
 画像も、周囲を一部色塗り加工しました。住宅地図を遡ると、建てられたのは1960年代前半~1965(昭和40)年頃と想われます。私は本件と似たようなフォルムをつい最近、見たばかりです。

 支笏湖ユースホステル旧館(千歳市支笏湖温泉、本年4月27日撮影)。
支笏湖ユースホステル 旧館
 こちらは1960(昭和35)年に建てられました(末注)。田上さんの設計として知られます。
 
 前掲住宅のほうを私は、角幸博先生の「田上義也の戦後活動年表」で照合できませんでした。「札幌のノスタルジック散歩」のYさんなら、“田上度”を何%とされるかなあ。

注:「北海道 北のモダニズム 北海道建築の父・田上義也建築巡礼」『翼の王国』№508、2011年10月、pp.78-81

2019/05/03

時を超える建物たち

 本日5月3日の北海道新聞「札幌圏」ページです。
道新190503記事 連載「時を超える建物たち」1
 4月26日ブログで勝手ながらも“予告”した連載が始まりました。いささかなりとも情報提供した手前、拙ブログではこれまた勝手にタイアップして、こぼれ話を綴ります。
 
 このたび紙面で紹介された北区篠路の建物は、古道に面しています。2年前に紀行した「丸〆(まるしめ)街道」です。この建物のことも取り上げました(2017.7.18ブログ参照)。昨年、建物が“再々生”した後にも伝えています(2018.7.23ブログ参照)。しかし、私は詳しい由来を掴めていませんでした。
 拙ブログでは「このあたりは元々水田稲作農家が多かったそうで」、「耕耘用の馬が飼われていました」と記したところ、今回の記事によると、建物は「1955年(昭和30年)ごろ」に建てられ(末注)、「1階は馬小屋、2回はコメの脱穀に使われたそうです」。担当記者のTさんは持ち主へも取材され、やはり稲作を営んでいたこともはっきりしました。記事文面からすると1980(昭和55)年頃まで用いられたようです。といっても、馬はいつぐらいまで飼っていたか、新たに興味が募ります。

 この店のことをT記者にお知らせしたとき、私は前述の丸〆街道のこともぜひ盛り込んでほしいと望みました。残念ながらそこまでは紙面には出ていません。マニアックな拙ブログ読者の“特典”として、その分も想いを馳せていただければ幸いです。街道の名前を冠した「丸〆米」は往時のブランドでした(2017.6.19ブログ参照)。コメづくりにゆかりのあった建物に私が旧街道を引き付けるのも、あながちではありますまい。

 もう一つ、こちらも道新の記事から。
道新 さっぽろ10区 190430記事 新札幌の「平成」「昭和」語ろう
 4月30日の「さっぽろ10区」紙面に載ったお知らせです。

 5月5日、新さっぽろのカラオケ店で「新札幌の『平成』『昭和』語ろう」という催しがあります。
「ピロカフェ」 案内チラシ
 同日午後1時から「写真でたどる新さっぽろの歴史」と題してトークショーをします。喋るのは「厚別区民歴史文化の会」代表のMさんと私です。仔細は下記サイトをご覧ください。

http://piros.blog100.fc2.com/
 このカラオケの店長さんは厚別区の生まれ育ちで、お年が若いわりに(というのは偏見か)新さっぽろの歴史にマニアックなこだわりを持っています。

 こういうカラオケ店でこういう催しも、異色(これも偏見か)です。
新さっぽろ カラオケ店の建物
 私事ながら、母と同居する前、この店には妻と二人でちょくちょく遊んでました。住まいから歩いてすぐのところにあります。それで、お誘いにほいほいと乗ったしだいです。 

 店舗が入る建物のグリークリバイバルまがいの国籍不明?な外観に、かつての私は「いかにも、新さっぽろだなあ」と自嘲したものです。しかし最近は、「これも、わが街の歴史だよなあ」と受け入れるようになってしまいました。ある意味で、これまた「時を超え」ている。…と諦観の境地に至っています。
 余談ながら、「テレビでもお馴染み」って、いつからそんなことになったんだ。こっぱずかしい。

 注:拙ブログでは「この元馬小屋は昭和30年代の後半に建てられたようです」と記したが、これは間接的な情報に依っており、今回報じられた1955年頃のほうに信を置くべきであろう。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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