札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/05/29

札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第79号 発行

 今号の表紙は、会員Sさんの作品「旧小熊邸」を掲載させていただきました。
札幌建築鑑賞会通信 きーすとーん第79号表紙
 彩色の原画を札幌建築鑑賞会公式ブログに載せましたので、そちらもお楽しみください。
 ↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12379807538.html

 ところで、絵に添えた文は次のような出だしで始めています。
通信第79号 表紙 文
 画像では読みづらいと思いますが、赤い傍線を引いた「小熊捍」のところに「おぐま まもる(かん)」とルビを振りました。
 
 一般的に「旧小熊邸」のことを記した文献等で、元の住まい手であった小熊捍先生(北大教授)の名前の「捍」に振られているルビは「まもる」です(末注①)。しかし、ここではあえて(かん)と補いました。それにはわけがあります。
 ひとつは、門下生だった朝比奈英三先生(北大名誉教授)がご健在のときに「私たちは『おぐまかん』先生と呼んでいました」とお聞きしたことです。
 もうひとつは、先生がどう自称していたか、です。どうも先生ご自身、「かん」と言っていた可能性があります。

 先生が1946(昭和21)年に出版された『虫の進軍』という著書です。
虫の進軍 表紙
 先生自らの装丁による表紙に、「KAN・OGUMA」と記されています。

 同書には、先生のポートレート写真が付いています。
小熊稈先生 ポートレート写真
 これにもやはり「Kan Oguma」と書かれています。これは先生のサインでしょう。その下の「2603」というのは、いわゆる皇紀の年号だと思います。西暦でいうと1943年、昭和でいうと18年。

 先生が描かれた色紙です(5月2日ブログ参照)。
小熊捍先生 色紙
 左下に、前掲肖像写真と同じ筆跡と思われるサインが署されています(赤い矢印の先)。

 やはりKanです。
小熊捍先生 色紙 サイン

 前掲『虫の進軍』には、先生の講演録が載っています。1945(昭和20)年8月25日、還暦を祝賀記念して北大理学部で催された講演会です。玉音放送の10日後というのに私は驚きますが、先生の誕生日は1885(明治18)年8月24日でした。
 その一節を以下、引用します(p.232、引用太字)。
 私の名の捍といふのは舊藩主がつけて呉れたので、「守る」という意味ださうです。何でも私の藩からまだ一人も軍人のエライ人が出ないから、この子は是非軍人に仕立てろといふ意味らしかつたのです。所が事實は凡そ對蹠的になり、とんだものになつてしまひました。
 この文脈からすると、先生は「かん」と音読みした上で、字訓として「守る」を言い添えたように思えるのです(末注②)。

 これらの伝聞、史料からして、今回、先生の名前のルビに(かん)と加えました。
 ただし、先生が「まもる」を称していなかったというのではありません。たとえば1966(昭和41)年に刊行された『雀の食堂』という随筆集の奥付には著者名に「Mamoru Oguma」と添えられています。また、1971(昭和46)年9月11日朝日新聞の死亡記事には「おぐま・まもる」と記されています。
 そもそも日本の人名の場合、漢字の読みに正誤は付けがたいといえましょう。先生の場合、「捍」というのはおそらくご存命当時もなかなか難しい読みだったと思います。まわりが「かん」先生と呼び慣わし、ご自身も肩ひじ張らないサインなどではKanのほうを好まれていたのではないかと私は拝察するのです。ローマ字にすると‘Mamoru Oguma’よりも‘Kan Oguma’のほうがスタイリッシュに見えます。いや、これは私の印象にすぎませんが。

ルビの(かん)は、かくかくしかじか、そんなわけです。

 末注①:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.88、『札幌の建築探訪』1998年、p.143など
 末注②:手元の漢和辞典『新版 漢字源』1999年の「捍」の項には音として「カン」「ガン」はあるが、訓は付されていない(p.547)。

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2018/05/13

イヌサフランとギョウジャニンニク

 昨日ブログの問題の答えです。
 左がギョウジャニンニク、右がイヌサフラン(コルチカム・オータムネール)でした。
 …なのですが、正しい答えは「葉っぱだけで判断するのは危険」というべきかもしれません。

 道立衛生研究所に展示されていたこちらの鉢植えも、左側がギョウジャニンニク、右端がイヌサフランです。
衛生研展示 ギョウジャニンニク、イヌサフラン 鉢植え
 その間には、両方が混生したものが植えられています。 

 イヌサフランの葉はギョウジャニンニクに比べ、細長く、光沢が強い感じです。しかしこれは相対的なもので、私は衛生研究所の展示で両方を見比べて判りましたが、もしどちらか一種だけを見せられたら、判別できません。
 札幌市保健所『庭や野山の毒草ハンドブック』2018年には、次のように書かれています(pp.17-18)。
 ギョウジャニンニク → 葉はイヌサフラン(毒)やスズラン(毒)に似た形だが大きくて光沢がある。
 イヌサフラン → 光沢のある長い葉は夏には枯れ、秋にクロッカスに似た薄紫の花が咲く。
 どちらも、光沢があるとされています。実物を見た印象ではギョウジャニンニクのほうはほとんど光沢がないように見えますが。
 やはり、ニオイや根っこの形など、別の比較も必要ですね。

 衛生研究所には、煙突も展示されていました。
道立衛生研究所 煙突
 もとい、煙突に絡まっていた植物です。煙突の壁に「ツタウルシ」と表示され、「触れるとかぶれます」と注意を促していました。
 煙突は、ボイラーと焼却炉から繋がっているのですが、焼却炉の方は使われていない様子です。こういう煙突はだんだん少なくなっているように思います。

2018/05/12

イヌサフランと小熊捍先生

 先月、毒草のイヌサフランを食草のギョウジャニンニクと間違えて食べて中毒死するという事故が道内でありました。自宅の庭に混生していたため、誤食したとのことです。
 イヌサフランと聞き、私はある種の‘懐かしさ’を感じた、と言ったら不謹慎かもしれませんが、思い出したことがありました。
 コルチカム Colchicum autumnale。
 秋に花を咲かせるこの草をとりたてて植えていたのが、北大教授・小熊捍(かん)先生でした。鑑賞用草花なので特別なことではないのでしょうが、小熊先生というところにミソがあります。
 
イヌサフランが植えられていたのは、このお宅の庭です。 
旧小熊邸 1997年
 中央区南1条西20丁目にありました。

 撮影したのは1997(平成9)年で、当時は北海道銀行が所有していて、画像右方に新しい建物が建っています。かつてはここに庭があったのです。
 小熊先生はこの住宅に1927(昭和2)年から1948(昭和23)年までお住まいでした。
 写真を撮った時点で半世紀近く前、今からは70年以上前のことになります。1998年に建物が解体され、藻岩山麓に“原寸大模型”が再現されたことは、つい最近も記したとおりです(5月2日ブログ参照)。

 さて、庭は真ん中に花壇があって、イヌサフラン=コルチカム・オータムネールが植えられていました。これを植えた小熊先生は我が国の「細胞遺伝学のパイオニア」でした。コルチカムに含まれるコルヒチンという有毒成分は、細胞の染色体の数を増やす作用があり、生物に変異をもたらします。作物の品種改良などに役立てられるのです。かくしてコルヒチンは、先生にとって切っても切れない研究材料でした。
 …ということを私は、1997年当時、朝比奈英三先生(北大名誉教授)にお聞きしました。朝比奈先生は小熊先生の門下生だった方で、小熊宅によく出入りされていたそうです。小熊先生から分けてもらったコルチカムを自宅の庭に植えていたともおっしゃっていました。後年、札幌市の「百合が原公園」ができたとき、朝比奈先生はそれを寄贈しました。私はこのことを思い出して先日、同園にお尋ねしたのですが、残念ながら現在、コルチカムは植わさっていない(北海道弁)とのことでした。

 小熊先生ゆかりのコルチカムを藻岩山麓の「旧小熊邸」の庭の植栽にしたらいいのではと想いましたが、ギョウジャニンニクと間違える花盗人が現れても困ります。やめておきましょう。
 ちょうど道立衛生研究所で「春の山菜展」という催しがあり、観覧してきました。イヌサフランは「山菜」(野生)ではないのですが、近年毎年誤食による死亡中毒事故が起きるので、注意を促すため特に展示したそうです。コルヒチンは、体重50㎏の人で4~5㎎摂取したら死に至る恐れがあると聞きました。イヌサフランの葉っぱにして、3~4枚に当たります。
 一方で痛風などの症状緩和の薬用にもなるのですが、その場合に用いられるのは0.5㎎程度とのこと。約10倍で薬が毒になる。衛生研の方のお話では、“毒と薬”の差が10倍「しかない」というのは、劇薬です。そうですね。たしかに、市販の薬1錠服用のところを10錠で死んでしまうとしたら、怖い。
 
 ここで問題。
道立衛生研究所 ギョウジャニンニク、イヌサフラン
 衛生研の展示です。赤い線を引いた右と左のどちらがイヌサフランで、どちらがギョウジャニンニクでしょう?
 私はもちろん、わかりません。
 

2018/04/29

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 ③

 白石区と豊平区の小学校でも、北海道百年記念塔が歌われ、描かれていました。
 東川下小学校(白石区):校歌・校章 記念塔から西へ4.1㎞
 しらかば台小学校(豊平区):校歌 記念塔から西南西へ6.7㎞ 
 校歌は計16校(小学校10、中学校5、高校1)、校章は計9校(小学校5、中学校3、高校1)です。最西端はしらかば台小学校になります。

 色別標高図に学校の位置をドットしてみました。
色別標高図 記念塔校歌校章分布
 標高は5mごとの色分けです(国土地理院サイトから作成)。
 凡例は以下のとおり。
 北海道百年記念塔:黄色の六角形
 校歌に歌われている学校の位置:白ヌキ○
 校章に描かれている学校の位置:黒

 私は当初、「せいぜい厚別区と江別市の学校だろう」と思っていたのですが、予想を超えて広域に分布していることが判り、驚いています。ただ、4月27日ブログに載せた分布図を見て、「もしや」という気持ちが生まれました。「校歌・校章は両市にまたがって西方に同じくらいの距離で分布しています」と記したものの、疑問も抱いたのです。記念塔をとりまく地勢に鑑みると、「同じくらいの距離で分布」にはならないのではなかろうか。

 前掲色別標高図で明らかなように、記念塔の東から南にかけて野幌丘陵、南西から西へは支笏火砕流が堆積した台地が広がっています。ちょうどJR函館線、国道12号を境目にして、標高が高い。標高が高いほうが、記念塔を望める蓋然性が高いのではないか。
 それで、清田区方面も調べてみました。この二度目の予想は当たって、昨日ブログで記したとおり、記念塔から8㎞以上離れた学校の校歌に歌われていたのです。
 標準地図では判りづらかった地勢が、色別標高図で見えてきました。校歌・校章との相関関係も窺えます。

 最南端の真栄中学校です。
真栄中学校
 前掲分布図で、画像上一番下の白ヌキ○の位置に当たります。記念塔からは8.4㎞。 

 分布図に照らすと、画像中央左寄りの体育館の向こうに記念塔が望めるはずです。♪望む彼方に 塔はるか♪ しかし、見えません。

 そこで、中学校から北東へ1.2㎞のところにある大型商業施設に行ってみました。
 屋上の駐車場から北東を望むと…。
平岡イオンから 望む彼方に 塔はるか
 快晴ながら春霞ならぬPM2.5霞の彼方に、見えました。赤い矢印を付けた先です。まさに、「望む彼方に 塔はるか」。

 ズームインして見てみます。
平岡イオンから 望む彼方に 塔はるか ズームイン
 これを歌ったとは…。

2018/04/08

40年前の思い出

 私事ながら、昨日4月7日は節目の日でした。私が札幌市民となった日というのが、40年前の4月7日だったのです。

 住み始めた初日、手配した反射式のポータブルストーブが間に合わず、一晩とにかく寒かったのを覚えています。中廊下式6畳一間の古い木造アパートの1階でしたから。持ってきた寒暖計を見たら室温が10℃前後と知り、身も心もいっそう冷えたものです。翌日、管理人さんが見るに見かねて、使っていないストーブを貸してくれて救われました。しかし、ラジオで「札幌も暖かくなりましたねえ」という放送を聴き、「これで暖かいなんて、ほんとに寒いときはどうなるんだろう」と泣きたくもなりました。当時の日記に張り付けていた新聞記事によると、前日4月6日の札幌は最高気温11.2℃、最低気温1.9℃で、平年より約2度高めだったのですが。この年は4月9日に、積雪が1㎝ありました。

 私が札幌に来た1978(昭和53)年というのは、「北海道百年」から10年しかたっていなかったのだな、と妙なところで感慨を覚えます。札幌オリンピックからは、「わずか」6年後です。内地で生まれ育った私は、北海道百年を知りません。ただ「明治百年」は、おぼろげに記憶しています。札幌オリンピックは、さすがにテレビで脳裏に焼き付きました。1978年当時、明治百年とか札幌オリンピックは「ずいぶん前」のことのように思っていたのです。その後現在までの40年、このほうがはるかに長いにもかかわらず、その実感があまりありません。げに、年を取った証拠です。
 そして今年2018年は「北海道命名150年」。150年のうちの70年余が「戦後」であることにまた妙な感慨を抱くのは、これも年を取ったからでしょうか(2016.6.8ブログ参照)。先日テレビで、道内のどこやらの郷土資料館で「昭和50年代のくらし」をテーマにした展示が催されていることを知りました。日本では元号で時代が区切られる傾向があるので、「平成」生まれの人にとっては不思議でもなんでもないのかもしれませんが、「昭和」生まれの私には驚きを禁じえませんでした。そのうち「なつかしの平成時代」という展示が耳目を惹くことになるのでしょう。ただし、元号に関わらず断続する「時」というものにも、注意したいと思います。一緒に暮らす母は「大正」生まれですが、私以上に「平成」を刷り込まれていたりもしています。

2018/03/26

ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎 (4)

 3月19日ブログで中断していました「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」を再開します。
 ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤのナナメ配置は市道「元村線」に由来していました。謎は、元村線がどのようにできたか?です。

 元村線は明治29年地形図に、すでに描かれています(黄色の矢印の先)。
明治29年地形図 元村線

 元村線を南へたどると、二つの道に通じています。
明治29年地形図 元村線 大友堀 元村街道
 水色の線でなぞったのは大友堀(に沿った道)、その南側に並行してえび茶色でなぞったのは元村街道です。元村「線」は大友堀とほぼ直交し、元村「街道」に達しています。
 本年2月13日ブログで記したように、開拓の初期、大友堀に沿って短冊状に耕地が地割されました。大友堀はその南側の元村街道に並行して掘られており、地割の元をただせば、この古道に沿って貼りついた人家に発するといえるでしょう。

 3月18日ブログで示したとおり、元村線は1882(明治15)年の現況を示した古地図にすでに描かれています。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵、一部)です。

 元村線が描かれている部分をさらに拡大します。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 元村線拡大
 凡例によると、元村線を含む赤で塗られた道は1882(明治15)年時点で開通済み、薄茶色は「見込」の道です。青色は大友堀、白地の地割は「従前割渡済之地」、黄色は「明治十五年調査之地」です。
 この古地図によれば、元村線は大友堀を基軸とした短冊状の地割に沿って通じたとみることができます。そこまでは察しがつくとして、さらに問題はその先です。この道の最大の特徴ともいえる「く」の字に折れているのは、なぜか? 
 
 大友堀から発した元村線は、北北西、おおむね11時の向きに進んだのち、北北東から北東に「く」の字形に向きを変えます。向きを変えたところで、道の北西側に土地がまた短冊状に地割されています。赤い矢印で示した先です。「く」の字に折れたのは結局、ここに土地を開くためだったからだと思われます。そうすると次なる問題は、なぜこんな土地の開き方をしたか?です。
[つづく]

2018/01/23

今年も挑戦 センター試験地理B ②

 2018年センター試験地理B第5問の問2。北欧三か国の発電エネルギー比グラフを読み取って、「火力、水力、原子力」を答えます。

 まずノルウェー。 
2018センター地理B 第5問 問2 ノルウェー
 96.1%、一つのエネルギーで大半の発電をまかなっています。フィヨルドの国という地勢からして、この96.1%はもう、水力でしょう。

 では、スウェーデンとフィンランドは…。
2018センター地理B 第5問 問2 スウェーデン

2018センター地理B 第5問 問2 フィンランド
 
2018センター地理B 第5問 問2 グラフ柄
 凡例「キ」のヨコ縞が「水力」としたら、「カ」のグレーのベタと「ク」の格子縞のどちらが「火力」でどちらが「原子力」か。

 スウェーデンは比較的、エネルギー源がバラけています。43.4%と相対的に最も多い「カ」(グレーのベタ)は火力か原子力か。一方、フィンランドは半分近くを「ク」(格子縞)が占めています。
 私は「カ」=火力、「キ」=水力、「ク」=原子力としました。、「キ」=水力は間違いないとして、スウェーデンの原子力の比重はさほど大きくないだろうと思ったのです。とすると、フィンランドは半分を原子力が占めることになりますが、それはそれで疑問が残りつつも、この国が世界に先駆けて高レベル核廃棄物の処分場(核のゴミ捨て場)を設ける(設けた)という報道を思い出しました。意外と原子力大国かもしれない。

 正答は、「カ」=原子力、「キ」=水力、「ク」=火力、でした。実はスウェーデンは原子力発電が4割を超えていたのですね。これはこれで意外でした。フィンランドにしても、3分の1を占めています。
 北欧というと高福祉先進国で、漠然とエコロジカルな国という印象が私にはあります。教育の質も高いと聞いた。大袈裟に言えば、人類の発展段階における一つの具体的モデルかなあとすら、思ってもいました。実際に行ったこともないので、余計に桃源郷のごとく見えるのかもしれません。ともかく、原子力が国を支えていたのです。勉強になりました。
 全国いたるところ地震の巣の日本は、北欧を見習うべきや否や(末注)。

 注:電事連のデータによると、我が国の「発受電電力量」は電力10社計で2015年度8,644.5億kWh、うち原子力は94.4億kWhで1.09%。東日本大震災前の2010年度は9,876.6億kWh、うち原子力は2,712.7億kWhで、27.4%を占めていた。

2018/01/22

今年も挑戦 センター試験地理B

  「ムーミン」の問題でいつになく脚光を浴びた今年のセンター試験地理Bです。社会人の常識がどこまで通用するか。札幌時空逍遥はどこまで有効か。
 今年の結果は…。
 88点(100点満点中)でした。設問数35のうち、正答31、誤答4。
 大学入試センターの中間集計によると、受験者の平均点は68.00点、標準偏差は16.34、私の偏差値は50+(88-68.00)/16.34×10=62.2。
 うーん。
 問題が昨年より軟化したにもかかわらず得点が伸びず、偏差値が下がってしまいました。過去の偏差値は、2015年62.7、2016年54.2、2017年66.5です(2017.2.3ブログ参照)。今年の場合、100点満点で偏差値は70になります。地理オタクを僭称するからには、せめて得点で90点台には達したいものです。

 ムーミンに関していうと、設問で「ノルウェーとフィンランドを舞台にしたアニメーション」の「いずれかを示したもの」と前提にしています。「そもそも設問自体が間違っている」と言っても、なかなか通用しないでしょうね。ただ、今後はこういう題材が採用されづらくなるか、設問がまわりくどくなるかもしれません。

 全体としては、オタク好みのマニアックな問はなかったと思います。私が誤答した4問のうち2問はケアレスミスでした。設問をきちんと読むか、少しアタマをはたらかせれば正答に達したであろうと悔やまれます。
 
 私が誤答した一つで、難問だったのはこの問題です。
2018センター試験 地理B第5問 問2
 北欧3か国(ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)の発電エネルギー源(火力、水力、原子力)を問われました。

2018センター地理B 第5問 問2 ノルウェー
2018センター地理B 第5問 問2 スウェーデン
2018センター地理B 第5問 問2 フィンランド

 グラフの凡例三つ「カ、キ、ク」が、「火力、水力、原子力」のいずれに当たるか、です。
2018センター地理B 第5問 問2 グラフ柄
 「カ」はグレーのベタ、「キ」はヨコ縞、「ク」は格子縞です。
 これは引っかかりました。

2018.2.6追記
大学入試センターの最終集計によると、地理Bの平均点は67.99、標準偏差は16.33。よって私の得点(88点)の偏差値は、50+(88-67.99)/16.33×10=62.3。

2018/01/06

北海道の住宅文化をどう総括するか

 メディアを通して不特定多数の人に向けて語る場合もさることながら、講演と称して特定の聴衆を対象に話をするのも緊張感が漂います。紙媒体の場合は事前の校正で推敲できますが、講演の場合は、話す内容はあらかじめ準備するとしても、実際の流れというか空気の中でアドリブが飛び出す可能性もあります。いったん宙に放たれたコトバは取り返しがつきません。また、講演後の質疑などは、どこからどんな“弾”が飛んでくるか判ったものではなく、おそらく万全の準備というのは不可能でしょう。

 昨年の11月23日に催された「さっぽろ川めぐり講座」では、「札幌の川と市民のくらし・なりわい」というテーマで話をしたのですが、終わってからの質疑では「屯田兵屋など北海道の建築で防寒対策が遅れた原因は何か?」を問われました。「札幌建築鑑賞会」を名乗っている手前、「それは今日のテーマとは関係ありません」と言うのも気が引けて、次のように答えました。
 「遅れたというよりは、時代的な制約だったのではないでしょうか。津軽海峡をはさんで、いわゆる内地とは気候条件がまったく異なる体験というのは、それまでの日本人には無かったと思います。『家のつくりは夏を旨とすべし』という日本の在来的な考え方が抜けきれなかったことでしょう。反面、明治維新後、開拓使が石造りの建物を奨励し、札幌軟石という耐火断熱効果の高い石材が見つかったことも幸いして、本州に先駆けて作られていったということもあります」。

 これに対し、参加者からのアンケートで次のような意見が寄せられました。
 「琴似屯田兵村ではケプロンが西洋の耐寒住宅を奨励したが、担当の官僚の村橋久成も耐寒住宅にしたかったが、黒田清隆が予算が無いということで、村橋の提案を切り下げたので、予算のかかる耐寒住宅はできなかった。なので木造住宅しか作ることができなかった」。 
 「講師の勉強不足では?」とのご指摘です。あらためて北海道史をひもといたところ、高倉新一郎・関秀志『北海道の風土と歴史』1977年に、次のように書かれていました(p.203)。
 最初の兵屋である琴似の兵屋をつくるときなどは、壁付・天井張り・ペチカをつけ、ガラス戸を入れ、屋内作業までを考えた、当時としては理想的な住宅を計画したのだが、予算がないこと、材料がないこと、職人が得られないことなどが重なって、長屋のような普請に変更され、それが一つの伝統にさえなったのである。
 
 「予算がないこと、材料がないこと、職人が得られないことなどが重なって」を私の言葉でひっくるめれば「時代的な制約」だと思うのですが、具体的に列挙しないとダメなんですね。私が後段語った部分は、屯田兵屋に限らず北海道の入植地の開拓期の住宅については大筋間違ってないと思いますが(末注①)、間違っていないだけでは足りない。 勉強になるなあ。
 参加者の満足度はアンケート回答者60人中「とても満足」26名、「まあ満足」24名で、個別の感想でも「次回を期待」とか「現地を歩く企画も」という声も多く寄せられ、おおかたは好評だったと思います。しかしお一人でもこういう叱咤があると、鍛えられるものです。

 開拓使は洋風の官舎を建て、ケプロンが建言し、ほかならぬ黒田も1876(明治9)年に「家屋改良」告諭を出して防火耐寒建築を奨励していますが、寒冷地仕様が浸透しきれなかったことの裏返しでもあります(末注②)。経費の問題はもちろん大きかったのでしょうが、牢固たる和風在来の因習とあいまったと私には思えるのです。「明治維新後、北海道は日本の近代化のモデルとして開発が進みました」(1月3日ブログ参照)といっても、そこにはさまざまなせめぎ合いがあったことでしょう。
 
 注①:『北の生活文庫5 北海道の衣食と住まい』1997年、p.185参照
 注②:『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年、p.114参照

2018/01/05

札幌の石文化のルーツは鹿児島か?

 昨日に続き、JR北海道誌記述の検証です。
 「ただ、札幌に石の文化が突然生まれたかというとそうでもなく、幕末、薩摩藩では産業革命的なことが既に起きていて、実験工場ともいえる集成館という石造建築物には凝灰岩が使われています。開拓長官の黒田清隆は薩摩出身ですから石材の良さはわかっていたと思うんです」。
 
 黒田清隆は1840(天保11)年、鹿児島藩士の子として生まれ、1863(文久3)年薩英戦争に参加、1871(明治3)年開拓次官、1875(明治7)年から開拓長官を務めました(末注①)。
 集成館機械工場は当初木造で建てられ、薩英戦争で焼失、その後1865(慶応元)年石造で再建されます(末注②)。薩英戦争に参加した黒田は、木造の工場の焼失を目の当たりにし、彼我の国力の違いを実感したことでしょう。このあたりから状況証拠による推理の世界に入りますが、石造のよる工場再建も黒田は見た、少なくとも知っていたのではないか。機械工場は鹿児島の溶結凝灰岩を用いています(末注③)。後年札幌軟石の存在を知ったとき、黒田の脳裏には郷里の溶結凝灰岩が甦った…。
 
 通説的には、黒田の家屋改良政策は自らの欧米視察や(それに伴って連れてきた)御雇外国人の報告助言に基づくものでしょう。しかしその素地には、薩摩での体験があったと思えるのです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.245
 注②:藤森照信『日本の近代建築(上)-幕末・明治篇-』1993年、p.66
 注③:佐藤俊義「鹿児島と札幌をつなぐ石文化」札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第75号、2017年1月、p.5

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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