札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/14

円山裏参道公園はどうしてできたか ③

 1942(昭和17)年「札幌都市計画図」からの抜粋です(原図は札幌市公文書館蔵)。
1942年都市計画図 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったのが、先日来話題にしている円山裏参道公園になる場所(南2条西20丁目)です。

 この計画図の地図で、くだんの箇所は四角形の島になっています。一昨日ブログに載せた富貴堂の「札幌市街案内図」でも、ほぼ同じカタチの四角形でした。おおやけの図面で裏付けられました。この四角形のほぼ対角線上(ナナメ)に南1条通がショートカットされます。その形跡は、昨日ブログに載せた空中写真に載せたように、昭和20年代すでに窺われます。
 これも昨日記したように、私はそれを南1条通から西20丁目通を通る市電との交通緩和とみました。しかし、前掲図(あるいは一昨日の富貴堂地図)に見られる四角形の島の時点で、その目的は実現されています。

 前掲図で示すと、こんなふうに想像しました。
1942年都市計画図 南2西20周辺 
 札幌中心部から西(円山方面)へ向かう交通を黄色の線、西(円山方面から札幌中心部(東)へ向かう交通を橙色で示しました。青い線が市電です。南1条通から西20丁目通へ曲折するところの負荷を下げることができます。それでも黄色の西向きルートはクランクしていますので、ナナメのショートカットは交通の流れをさらに効率化したということになりましょう。

 円山裏参道公園の現在の風景です。
円山裏参道公園 南から北を望む
 南2条西20丁目、西20丁目通から北を眺めました。
 ナナメのショートカットの道路が公園化されて、三角形から四角形にいわば先祖返りしたことになります。
 
 今シリーズのテーマである「円山裏参道公園はどうしてできたか」には、二つの意味があります。一つはhow?で、もう一つはwhy?です。
 前者のhow?は、これまで述べてきました(末注)。後者のwhy?について触れておきます。
 私は、この公園の目的を当初、ナナメの道によって生じていた変形交差点の解消にあると思っていました。

 国土地理院2008年空中写真で、三角公園当時の場所です。
2008年空中写真 南2西20周辺
 一種の五差路といえる交差点でした。南1条通をクルマで通過する分には便利かもしれませんが、便利ということは危険を伴っていたとも思います。市電の軌道もなくなって久しく、これも時代の趨勢か。

 しかし、造園家のSさんに尋ねたところ、札幌市の目的は道路交通上のことではなくて、あくまでも公園そのものにあることを知りました。この周辺は近年居住人口が増えているため、避難場所も兼ねた公園が必要だったそうです。新たに確保できる適当な土地が付近になく、従前公園的に使われてきた三角形を四角化することで、正式な(都市計画法上の)公園としたとのことです。
 結果的に道路をつぶして公園にしたということは、それはそれで時代の趨勢といえるかもしれません。[おわり]

 注:公園そのものがどのようにしてできたかは、札幌市サイトを参照
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/keikaku/sankaku/sankaku.html
スポンサーサイト

2017/08/30

久住さんを悼む

 元くすみ書房の店主、久住邦晴さんが亡くなったことを昨日(8月29日)の北海道新聞夕刊で知りました。本年2月28日ブログで記したとおり、久住さんにはお世話になりました。
 札幌建築鑑賞会で『さっぽろ再生建物案内』という本を自費出版したとき、応援してくださったのが久住さんです。2000年の初版のとき、札幌市内のいろんな書店に扱いをお願いしました。取次会社を通さない持ち込みにもかかわらず、最初に快く応じてくださったのが、なにわ書房とくすみ書房でした。本州資本大手のK書店やA書店に断られた中で、地場の書店の好意が身に染みたものです。久住さんは当時、三角山放送という地域FM局で「読書でラララ」という番組を受け持っていて、私は番組にも出させていただきました。本を丁寧に紹介してくださったのも久住さんです。おかげで本は3000部完売し、2003年の第2版につながりました。「いいものができましたね」とおっしゃってくださいました。初版の実績があって、第2版は市内の大方の書店で扱ってもらうことができ、5000部完売へと結実しました。久住さんは恩人の一人です。
 
 久住さんが‘町の本屋’生き残りのためにアイデアを駆使されたことは知られるところですが、2015年6月、大谷地の店が閉じられました。
くすみ書房 大谷地
 享年66、少し早いとも思いますが、「お疲れ様でした」とねぎらいたい。

2017/08/12

1937年と1942年の都市計画図を見比べる

 「札幌都市計画図」1937(昭和12)年から札幌市の中心部を抜粋しました。
昭和12年都市計画図 札幌中心部

 こちらは昨日ブログでも引用した1942(昭和17)年の札幌都市計画図の、同じく市中心部を抜粋したものです。
昭和17年都市計画図 札幌中心部

 二つの計画図を見比べると、ちょっとした違いに気づきます。それは、市中心部の計画道路の一部が緑色に塗り替わっていることです。このほかにも違いはありますが、ひとまずこれに注目します。

 中心部をさらに拡大してみましょう。
 まず1937年図。
昭和12年都市計画図 札幌中心部 拡大 緑色は大通と創成川沿いに限られています。

 次に、1942年図。
昭和17年都市計画図 札幌中心部 拡大
 石山通りの一部、南4条通りが緑色に変わっています。さらに、豊平川右岸、一条大橋橋詰の菊水のあたり(7月27日ブログ参照)が部分的に緑色になりました。
 緑色は何かというと、「広路」です。広路というのは、都市計画道路でもっとも広幅員のものをいいます。ただし1937年図と1942年図で定義が異なっていまして、前者は「55m乃至110m」、後者は「44m以上」です。広路の一つ下は「一等大路第一類」で、これは1937年図では「36m乃至20間」、1942年図では「36m以上」です。また、1937年地図で石山通りや南4条通りは赤色で描かれていますが、これは「一等大路第三類」で、「22m乃至28.5m」という区分です。したがって、1942年図において緑色に変わっているところは、事実上、道路幅を最大限に広げるべく計画変更されたことを意味します。

 1937年から1942年の5年間で、何があったか。
 一九四○年(昭和一五年)四月、都市計画法が改正され、法第一条の都市計画の目的に防空が追加された。この結果、防空は交通、衛生、保安(安全)などと同等の位置を与えられ、都市計画の基本目的のひとつとなったのである。
 これまで日本の都市計画の流れとして一貫して存在した都市不燃化・防火の対策、そして一九二○年代後半から導入されてきた田園都市、地方計画、緑地計画の思想はすべてこの防空都市計画の考え方に吸収されていく
(越澤明『東京都市計画物語』2001年、p.248)。

 防空都市計画とは何か。
 第一次大戦後、軍事技術(飛行機と爆弾)の進歩の結果、軍事的にみた都市防衛の第一課題が空襲対策となった。このため、空襲を防ぎ、その被害を軽減させるという観点に立って都市形態の改造と都市建築物の改修を進めるという考え方が生まれた(同書p.246)。

 昨日ブログで取り上げた東8丁目通りは、1937年「一等大路第三類」から1942年「一等大路第一類」に‘格上げ’され、かつ例のナナメの割込みへの変更が企てられます。防空思想の遺物でもあったわけです。

2017/07/02

32年前の未来

 昨日ブログで1985年つくば科学万博のことを記し、その中で当時発行された新聞特集記事に触れました。昨日はソーラー時計に関する広告を取り上げたのですが、その上段に興味深い記事が載っていましたので、併せて紹介します。

 それは「こうなる未来の家庭」という記事です(朝日新聞1985年3月15日別刷り「科学万博―つくば’85特集」)。
1985年科学万博特集記事 「こうなる未来の家庭」 
 長くなりますが、以下引用します(引用太字)。

 まずリード文から。
 電子レンジ、インスタント食品、ビデオにパソコン…私たちの家庭生活はここ何年かの間に見違えるほど便利になった。科学技術の進歩による暮らしの変化は、今後もますますピッチを上げて進みそうだ。今回の科学博でも、その未来像の一部を垣間見ることができる。私たちの暮らしは、今後どう変わるか。児童評論家の阿部進さん、万博のテーマ館の展示をプロデュースした粟津潔さん、医事評論家の川上武さん、日本長期信用銀行常務取締役調査部長の竹内宏さん、生活評論家の吉沢久子さんの話をもとに、二十一世紀の家庭生活を描いてみた。
 
 そして「お父さん」「お母さん」「子供たち」「お年寄り」「だんらん」という項目に分けて、それぞれのくらしが予想されています。
 
 ■お父さん 双方向テレビで仕事の連絡
 お父さんは四十五歳。都心の会社でネットワーク通信のための盗聴防止プログラムを作る仕事をしている。郊外の高層マンションに妻と息子、娘の四人暮らし。家は二階分あり、さらに一階下には妻の両親が住んでいる。
 会社の勤務は週四日。うち二日は在宅勤務だ。
(中略)
 通勤は地下鉄と水素ガスエネルギーのバス。通勤客が激減したので、ラッシュも解消し、スピードも大幅にアップした。(中略)
 三日の休日のうち、一日は近くの民間福祉ネットワークサービスに出掛けて、お年寄りへのボランティア活動をする。
 趣味は週末に家族と旅行をすること。
(中略)
 上司の間ではちょっとした懐古ブーム。占いや巡礼、古典落語が潜か(ママ)にはやっている。

 ■お母さん 電話で指示し食事準備OK
 お母さんは四十歳。週に三日、近くの図書館で昔の活字印刷の本をディスク化する仕事をしている。
 仕事のある日は職場にいる間に家のホームコンピューターに電話をかけて、おふろや食事の支度を指示しておく。いわゆる在社家事だ。ちょっとした買い物も会社の専用コンピューターで。
 家事は大幅に簡略化された。掃除はセンサー付きの掃除ロボットが自動的に部屋を掃除して回る。炊事は電子・電磁調理器や多目的フードプロセッサー。好みのメニューに合わせて配達される半調理済みの食品や、封を切るだけ温かくなる調理済み食品も大量に出回り、包丁やまな板のない家庭も増えた。バーゲンのチラシもファクシミリから毎日吐き出され、買い物も一切家の中でできる。
 家事を簡単にする機械は整ったけれど、自由時間が増えたために、近ごろは、逆に家事に手間をかけるのがはやり始めた。
(中略)
 どこにいても均質の情報や教育が受けられる今日では、少しくらい通勤に時間がかかっても、子供のためには自然の残っている郊外のほうが良い。

 ほか「子供たち」「お年寄り」「だんらん」も、総じて‘バラ色の未来’で描かれています。たとえば「だんらん」の項では、「共働き家庭の休日といっても、家事に追われることはない」など。科学技術の進歩が人々のくらしを安楽にする、という一本調子です。

 上記引用箇所をお読みいただいて、どう受け止められるでしょうか。この特集は科学万博を2日後に控えて、いわば景気づけのために組まれたものです。12面の紙面の半分以上が出展企業の広告で占められています。暗雲垂れこめるような文章で万博に水を差すわけには到底いかなかったでしょうね。

 21世紀を実際に生きる私たちとしては、いろいろ突っ込みどころはありましょう。「よくもまあ、こんなにバラ色に描けたもんだ」と呆れ、揶揄するのは、‘後出しじゃんけん’といえるかもしれません。私は、バラ色に描いたこと自体をとやかく言う以前の、根本的な問題があるように思いました。それは、この記事が大前提としている夫婦+子二人という‘標準モデル世帯’的な家族で予測すること自体への疑問です。世帯の平均人数・構成の実態が乖離したという以前に、そもそも標準を想定すること自体に無理があった。
 
 機械化、在宅勤務、休日増、女性の就労などが進行しつつも、食事や掃除などの家事(指示)は「お母さん」が担っています。今の朝日新聞なら、どうみるでしょうか。「性による役割の固定化」と評するかもしれません。「今なら」です(当時からジェンダーフリーを唱えていた人もいたでしょうけれど)。言い換えれば、今日の新聞記事を読んで当たり前と思ったことが30年後には不見識になることも、当然ありえます。おそらく、未来予測は人々の意識の分野がもっとも難しいようにも思います。‘今’を疑う眼を、私は養いたい。

2017/06/30

母、退院後3週間

 6月9日に退院した後、本日初めて外来で経過を診てもらいました。主治医の先生によると、MRI検査の結果は退院時よりも良くなっているとのこと。4月に手術を受けたとき「高齢者の場合、一回の手術でうまくいくことは少なく、二回三回必要になるかもしれない」と言われていたのですが、この調子でいけば再手術はしなくてもすみそうです。また、退院時には「自宅に戻った場合、(経口だけでは栄養摂取不良で)衰弱する可能性も高い」と言われましたが、体重は維持され、思いのほか元気に過ごしてきました。病院食や経鼻栄養よりは自宅で好きなものを食べるほうが、やはり良かったようです。それにしても、一昨年の骨盤骨折、昨年の大動脈瘤、今年の脳神経外科と、そのたびに母の回復力、生命力の強さには驚きます。

2017/06/09

母、退院しました。

 4月の初旬から入院していた母が、今日退院しました。
 高齢のため再手術の可能性が高いと言われていたのですが、今のところその必要がなく、小康を得ております。大病を幾度も乗り越えてきた母の生命力に、私はまた感服しました。90歳を過ぎて2か月も入院していたら、心身ともに後退しても不思議ではないのに。アタマもカラダも、わりとしっかりしています。
 ただし、食が細いのが懸念されます。入院中は経鼻栄養でした。経口だけでは衰弱の恐れあり、経鼻を続けながらの療養・リハビリ型病院への転院を勧められたのですが、自宅復帰という選択を採りました。病院食や経鼻よりは、自宅で好きなモノを口から食べさせたほうがいいと思ったのです。胃瘻という選択肢も提示されたのですが、正直言って「そこまでして栄養を摂らせる」ということには、躊躇しました。
 手術で母の命を救ってくださった主治医の先生をはじめ、看護師や療法士のみなさんには感謝の気持ちでいっぱいです。だから、このような感慨を抱くのは贅沢な話なのですが、「医療が進歩していなかった昔なら、90歳にもなれば食が細くなって、自然と衰えていったのだろうなあ」とも思ってしまいました。母の現状からすると、病院で経鼻や胃瘻で栄養を確保するのに比べると、自宅で経口だけでは衰弱、貧血、脱水、誤嚥性肺炎などのリスクが高いとも言われました。拙ブログをお読みいただいている方にはお察しのことでしょうが、私と母は一卵性親子みたいなもので、母にはずっと長生きしてほしいと願っています。90歳の母にとって、少しでも幸せな余生とは、何だろう? 病院よりは余命は縮むかもしれないが、母と枕を並べて寝起きして、一緒にいる時間を私は大切にしたい。

2017/05/15

『きー すとーん』№76発行

 札幌建築鑑賞会通信第76号が発行されました。
通信『きー すとーん』№76 表紙
 市内の会員の方には、お手元に届いているころでしょう。
 
 今号の表紙画は会員Tさんの作品で、昨年の「古き建物を描く会」(第56回)でのスケッチをもとにしています。Tさん、間際になっての依頼にもかかわらず文章を添えていただき、ありがとうございました。

 画題の「旧真駒内種畜場事務所」は、明治中期に建てられ、昭和30年代に現在地に移築されたものです(末注)。明治期北海道の牧歌的風景が彷彿と伝わってきます。手元の文献をざっと見た限りでは直接的な根拠を見つけられなかったのですが、この建物の移築保存には故遠藤明久先生の尽力があったのではないかと私は想像します。

注:建築年、移築年は文献によって違いがある。また、札幌建築鑑賞会が1997(平成9)年に催した見学会で越野武先生(北大教授、当時)からお聞きしたところによれば、建物は移築に際して旧状から改変された可能性が大きい。とはいえ、酪農畜産史上の貴重な遺構であるし、札幌らしい風景を醸し出している一つだとも思う。

2017/04/12

母、手術を終えました。

 予定どおり、無事終わりました。主治医の先生をはじめ職員の皆さんに感謝です。
 再発のため再手術する可能性は高いと、術前から言われています。母に少しでも長生きしてほしいと願う反面、これ以上苦しく辛い思いをさせたくないという気持ちも私にはあります。母はこれまでも、癌や動脈瘤などで全身麻酔の手術を受けて、乗り越えてきました。「これまで長生きできたで、まあええわ~」(尾張弁)と言ってます。母には「このふた月、いっしょに寝起きできて嬉しかったよ。またうちに戻ろうね」と伝えました。
 

2017/04/11

明日、母が手術を受けます。

 母は2月以来、小康を保っていたのですが、4月になって症状が進んだため、先週から入院しました。明日、脳神経外科の手術を受けます。今日は、看護師さんに頭髪を剃毛してもらいました。

 ICUの母の枕もとに写真を飾っておいたところ、職員の皆さんにとても評判がいいので載せます。
母子 みかん狩り
 半世紀余り前の母子です。主治医の先生も「とてもいい写真だ」と言ってくれたそうです。

2017/03/27

おおやち 補遺②

 3月23日ブログの続きです。
 「やつ」「やち」をアイヌ語由来とする説について、山田秀三先生の否定的見解を紹介しました。『関東地名物語―谷(ヤ)谷戸(ヤト)谷津(ヤツ)谷地(ヤチ)の研究』をかいつまむと、おおすじ以下のとおりです。
 ・ヤト、ヤツ、ヤ、ヤチはもともと同義語で、アシなどの草の生えた湿原を意味していた。
 ・これらはいわゆる「東(あづま)ことば」(yat?)の名残である。
 ・稲作の普及につれて、山間の水田適地を「ヤト」「ヤツ」と呼ぶようになった。
 ・その後「ヤト」ヤツ」「ヤ」は山間の土地を指すようになった。これに「谷」の字を当てた。
 ・ただし「ヤチ」は原義の湿地の意味が残った。
 ・「ヤチ」は、地名としては関東北部(栃木、群馬の県北)に多く、普通名詞としても(山間ではなく)湿地の意味で使われている。
 ・その「ヤチ」が新潟や東北、さらには北海道に敷衍した。
 以上、便宜的に文末断定形で列記しましたが、先生はいずれも「…ではなかろうか」といった推量形で叙述していることを申し添えます。
 
 厚別区の「大谷地」や北区の「大野地」も、関東北部から東北に残った「ヤチ」の系譜と思えます。本年2月14日ブログで私は「大野地」を湯桶読みと記しました。大(おお=訓読み)+野地(やち=音読み)という理解ですが、もともと東ことばの「ヤチ」に漢字を当てたのだとすれば、「野地」は音読みというより絶妙な当て字というべきかもしれません。東北地方に「野地」や「谷地」という地名がどのように残っているか、興味深いところです。
 東ことばの‘yat’が太古、現在のアイヌ語の祖語と同じだったのではないかという妄想も起きますが、おそらく実証困難な世界でしょう。このへんでやめます。
 

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR