札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/08/21

栄通・Tさん宅軟石倉庫

 連隊通りです。
連隊通り 栄通
 白石区栄通あたりで、北から南向きに眺めました。突き当りが元北部軍司令部跡、現在の月寒中学校です。

 この通りの界隈に、札幌軟石の倉庫が遺っています。
栄通 Tさん宅元リンゴ倉庫
 持ち主のTさんに伺ったところ、元リンゴ倉庫と判りました。昭和戦前期築とのこと。もともと現在自宅のあるところに建てられていたのですが、昭和40年代にリンゴを作らなくなって敷地内で移築したそうです。現在は物置になっています。軟石ファンとしてはありがたいことです。

 1961(昭和36)年空中写真(国土地理院)で、Tさん宅の周辺を見てみました。
1961年空中写真 連隊通り Tさん宅リンゴ園
 リンゴとおぼしき樹影が凸状に並んで写っています。ちなみに、昨日ブログに載せた昭和10年地形図を見ると、このあたりに「果樹園」の記号が付いています。

 これで、軟石建物の築年別内訳は以下のとおりとなりました(カッコ内は母数412棟に対する比率、末注)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:27棟(6.6%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:98棟(23.8%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:172棟(41.7%)

 注:2017.6.26ブログ 参照。なお、同日ブログで昭和戦前期築を49棟としているが、その後北区篠路のカネヨK商店の蔵の建築年代が昭和戦前期と判明した(2017.8.8ブログ 参照)ので、本件と合わせてプラス2棟で51棟となった。
 
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2017/08/20

南郷橋

 8月14日ブログの続きです。
 昭和10年地形図から、月寒周辺を抜粋しました。  
昭和10年地形図 連隊通り 
 赤い線で囲ったところに1940(昭和15)年、北部軍司令部が置かれました。それによって、黄色でなぞった白石駅から通じる道路(白石駅通り、通称連隊通り)がこの部分で消えたことは先に記したとおりです。都市計画道路もほぼこの道に沿って決定されていたのですが、変更されました(末注①)。

 1961(昭和36)年空中写真(国土地理院)から、同じ一帯をトリミングしました。
1961年空中写真 連隊通り
 赤い線で囲ったところが北部軍司令部の跡です。白石駅通り(黄色の線)は北側の東北通り(かつての白石村・豊平町の境界)との交点で途絶えています。跡地は月寒中学校になっていると思いますが、北部軍当時の建物が遺っているようです。

 変更された都市計画道路は現在の「白石中の島通り」に該当しますが、まだできていません。白石中の島通りが通じるのは、昭和50年代です。計画から実現に至るまで、戦争をはさんで約40年を要しています。逆に言えば、40年かかっても実現されることに感慨を覚えます。

 1948(昭和23)年空中写真(米軍撮影、国土地理院)です。
1948年空中写真 米軍 連隊通り
 黄色の○で囲ったところをご覧ください。白石駅通り(連隊通り)が千歳線(旧北海道鉄道)と立体交差しています。跨線橋です。

 この跨線橋は、1937(昭和12)年都市計画図(旧計画道路)にも描かれています。
1937年都市計画図 白石駅通り 南郷橋
 1937年計画図で跨線橋が描かれているのは、このほかには2箇所のみです(末注②)。冒頭に載せた昭和10年地形図では橋は描かれていませんので、旧計画決定に基づいて架橋されたのかもしれません。地形的に架橋しやすかったこともあるのでしょうが、私はこの跨線橋に通りの重要性を見取ってしまいました。うがちすぎでしょうか。連隊通りと通称されたように、白石駅から月寒の25連隊を結ぶ軍事的枢要路でした。橋まで架けた道路でしたが、新たな軍事的理由(北部軍司令部)によって都市計画道路から外されたのは皮肉です。

 2015年11月21日ブログに拙ブログ読者のぶらじょにさんとKuriさんが寄せてくださったコメントで、「南郷橋」について言及されています。1937年計画図を見ると、今もバス停留所名に遺る重みが伝わってきました。

 注①:札幌市建設部計画課『札幌都市計画概要』1954年に、以下のとおり書かれている(p.40)。
 当時(引用者注:1941年)支那事変が益々拡大し、高度国防国家体制の確立が叫ばれ、軍事的施設が優先的であった時代で、白石駅通の計画街路上に北部軍司令部が建築されたため、同街路の変更を余儀なくされ(後略)
  また、『さっぽろ文庫58 札幌の通り』1991年には次のように記されている(pp44-45)。
 ここ(引用者注:東北通り)でいわゆる連隊通はぷっつり断ち切られている。それは昭和十五年、道路敷地に北部軍司令部が置かれたためで、今その地に月寒中学校が建つ。

 注②:うち1箇所は函館本線を跨ぐ現在の西5丁目樽川通り(通称おかばし、1932年完成)、もう1箇所は同じく苗穂丘珠通り。前者は現在鉄道高架、後者はアンダーパス化されている。

2017/08/19

苗穂 なんちゃってサイロ

 陸自苗穂分屯地から、お隣さんにある物件を眺めました。
苗穂 なんちゃってサイロ
 お隣には「雪印メグミルク酪農と乳の歴史館」があります。以前は雪印乳業史料館といってましたね。本件なんちゃってサイロ・牧舎は、札幌建築鑑賞会で2008年に「大人の社会見学」をしたときに認識しました。当時、建築年や用途をお訊きしたのですが、記憶がさだかでありません。まだ、なんちゃって物件に関する認識が浅かったのです。昭和30年代とも聞いた覚えがあるのですが、どうだったかな。史料館ができたのが1977(昭和52)年ですから、それより古いというということがあるか。工場はその前からここにあったのだから、ありうる。もう一度行って、きちんと確かめてこよう。ご存じの方がいたら、教えてください。なんちゃって牧舎の棟(てっぺん)には、換気口(タマネギ倉庫によく見られるような)が付いていて、芸が細かいというか、あるいは換気を要する何らかの目的があったのか。

2017/08/18

苗穂 旧陸軍糧秣廠 静心園

 昨日ブログに続き、苗穂の旧陸軍糧秣廠(現自衛隊苗穂分屯地)です。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏
 施設の一隅にある池泉庭園も、私の目当ての一つでした。今回はNHK文化センターの「近代建築入門」という講座の一環でしたが、本件は建築とは直接関係がありません。一連の建物の見学が終わってから見に行きました。ちょうど札幌建築鑑賞会スタッフのYさんも参加していて、池泉を鑑賞したのは私とYさんの二人のみです。

 「静心園」と名づけられたこの池泉のことは、2014年12月23日ブログで取り上げています。さらに、2015年1月24日ブログで私は「あのように水を湛えている有姿の池は稀です」と記しました。
 このたび現地で間近に見たところ、水は湛えられていません。分屯地の広報担当者のお話では、ふだんは干上がっているが、雨が降ったときなどは水がたまるとのことです。実際、私が2014年12月に見たときも水面が確認できました。今回も、地面が湿っぽく見えます。一緒に見たYさん曰く「ハスが生えているところを見ると、地下には水が通っているのでしょうね」と。

 流水跡のような微地形です。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏②
 2014年12月のブログで私は「豊平川の『メム』の一つとにらんでいます」と記しました。正確にいうと、豊平川扇状地の扇端のメム(湧泉)ではないか、ということです。根拠は、豊平川扇状地の扇端はおおむねJR函館本線あたりであることです。それに加え、私は今から19年前の1998年10月にこの地を見学したとき、当時の広報担当者から「昔は水が湧いていたと聞いている」とお聴きしたことです。

 産総研地質調査総合センター『札幌及び周辺部地盤地質図』2006年を見てみます。
地盤地質図 苗穂周辺
 赤い●を付けたところが本件の位置です。地質が色分けされていて、黄色で塗られているのが扇状地堆積物、黄緑は自然堤防堆積物、青は三角州堆積物を示します。これを見ると本件地点は自然堤防です。扇状地ではない。これをどう解釈したらいいかは、私の能力を越えますので保留します。私としては、現地の人の証言(二次情報ですが)に依拠し、自噴していたと信じたい。この地点が即メムではなかったとしても、豊平川の分流(19世紀初頭に河川争奪される前の、本流の一支川)となっていた可能性が高いと思います。

 池の南端にU字溝があります。
苗穂分屯地 静心園 2017年夏③
 水が流れ出ていた痕跡のようです。

 池の傍らには「奉納」と彫られた石が置かれています。
苗穂分屯地 静心園 手水鉢?
 手水鉢にも見えます。

 奉納した人とおぼしき名前も刻まれています。
苗穂分屯地 静心園 手水鉢?②
 松原中佐、青山中尉、と。

 実は、池のほとりにはかつて、小さな祠もありました。
苗穂分屯地 静心園 瑞穂神社在りし日の写真
 といっても、私は資料でしか知らないのですが。分屯地コミュニティセンター内に展示物の中に、その祠を写した写真もあります。「現静心池付近にあった水穂神社の様子」というキャプションが添えられています。瑞穂神社というのは、本件から600mほど東に同じ名前の神社があります。元々ここにあったのがそちらに遷座されたのか。それとも、こちらが分祠されたものか。写真の撮影年は記されていませんが、いずれにせよ現在、祠はありません。政教分離上、あずましくなかった(北海道弁)のかもしれません。
 瑞穂=ミズホという社名と立地に、水神祠的な意味合いも嗅ぎ取れます。Yさんは水の要所と軍隊との関わりも指摘していました。なるほど。

2017/08/17

苗穂 旧陸軍糧秣廠倉庫 敗戦跡

 8月15日ブログで、丸〆街道(市道丸〆線)にちなみ「もしかしたら、こういう古い名前の付いた市道は、ほかにもあるんでないか。土木センターで道路台帳を洗いざらい見てみたいなあ」と記しました。
 札幌市公文書館で道路台帳を洗いざらい、見てきました。正確にいうと道路台帳に関連する札幌市の公文書です。その結果は…。なかなか興味深い事実が浮かび上がってきました。日をあらためて綴りたいと思います。

 さて、本日は苗穂(東区)にある旧陸軍糧秣廠の建物を訪いました。NHK文化センターの「近代建築鑑賞入門」という講座です。札幌建築鑑賞会でもお世話になっている北大大学院のⅠ先生の解説をお聴きしながら、明治期に建てられた遺構を見学しました。

 札幌軟石を用いた倉庫4棟が縦列に並んでいます。
旧陸軍糧秣廠 倉庫
 小樽の運河沿いの倉庫群をも凌ぐ壮観ですね。軟石の壁が、彼方のバニシングポイントに達せんとするまで連なっています。

 側壁の一部に、穴がたくさん開いている箇所がありました。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 銃痕?
 ここだけ、異様に集中しています。

 参加した別の方と、「これは銃痕でないか」という話になりました。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 銃痕? 拡大
 黄色の矢印の先には穴の周りが○が描かれて、あたかも射的のようです。

 この場所は現在、自衛隊の分屯地ですが、終戦後の一時期、米軍に接収されていました。自衛隊の方の話では、どうもその当時の痕跡らしい。

 近くには落書きも見られます。
旧陸軍糧秣廠 倉庫 落書き FARRIS?
 PARRIS、いや、FARRISですね。これも、どうやら米兵が遺したもののようです。

 今回、直接視認できたものではありませんが…
旧陸軍糧秣廠 倉庫 落書き 人名?
 前に見学したときにいただいた資料(自衛隊苗穂分屯地作成)に載ってました。人名と思われます。これは明らかに米軍将兵でしょう。本件を、戦跡ではなく敗戦跡と名付けたしだいです。
 

2017/08/16

篠路・丸〆街道を歩く ⑮

 昨日ブログに続き、『O.tone』「古地図と歩く」のスピンオフ編です。
 記事の末尾で筆者Wさんは丸〆の由来について、次のように締めくくっています(p.63)。
 細い縄を売っていた店が由来という古老の話もあれば、アイヌ語が由来という説もある。この付近で収穫された米が「丸〆米」と呼ばれていたという記録があり、往時はそれなりに親しまれた地名だったことだけは確かなようだ。

 しめ縄店説や丸〆米については6月19日ブログに記したとおりですが、「アイヌ語が由来」について補足しておきましょう。
 実はこれを披瀝されたのも、篠路の郷土史家H先生です。アイヌ語って、なんだと思いますか?
 先生曰く「マ(モ)・ル・シュム(シモン)」と。マ(モ)は小さい(モイワのモ)、ルは道(ルベシベのル)、そしてシュム(シモン)は西(右)です。西(右)側の小さい道。

 何の西(右)側か。伏籠川旧本流の西(右)側です(7月17日ブログ参照)。
伏籠川旧本流 篠路
 道は川の左岸に沿っていますが、アイヌ語では川下から見るので、右側(シモン)になります。
 なお、シュムについて、山田秀三先生は必ずしも方位概念としての西とは合致しないことを指摘しています(末注)。H先生は、川下から見た位置関係としてのシモン(右)との類義性に言及されていました。

 私はアイヌ語地名には疎いので、この説が妥当かどうか判断できません。正直言って、ちょっと後付けくさい感が漂います。古地名の世界は奥深いので、想像の世界に委ねたいと思います。

注:山田秀三『アイヌ語地名の研究1』1972年、「アイヌ語地名三つの東西」pp.274-323参照。シモンの対義語は「ハルキ」(左)だが、私はシモン、ハルキも明確に右左の概念と合致するか、いささか疑問を抱いている。2016.7.15ブログ参照。

2017/08/15

篠路・丸〆街道を歩く ⑭

 札幌を中心に発行されている『O.tone オトン』という月刊誌があります。
オトン 第106号表紙
 その今月号の記事に取材協力しました。

 「古地図と歩く」という連載の第67回「篠路の古道」です。
オトン 古地図と歩く 丸〆街道
 拙ブログでたびたび綴ってきた丸〆街道を、編集デスクのWさんがわかりやすく紹介してくれています(pp.62-63)。著作権の関係があるので大まかな画像に留めますが、詳しくは同誌でどうぞご覧ください。定価680円、市内の書店、コンビニなどで発売中。

 さて、本日のブログは、同誌のスピンオフ編です。
 私はこれまでこの街道を何回か歩いてきて、あらためてふと思いました。それは根本的な疑問です。すなわち、拙ブログで紹介してきた道筋が、本当に‘街道’だったのだろうか? です。 
 というのは、この付近で比較的古くからお住まいと思われる4名ほどにお訊きしたのですが、明確に「ここから、ここまで」と認識していた方はおられませんでした。街道として教えてくださったのは、篠路の郷土史家にして『シノロ-140年のあゆみ-』の編著者H先生のみです。H先生以外で私がお会いした方は、丸〆を‘道’としてではなく、漠然とした地域として捉えていました。
 ちなみに、新しい住宅にお住まいの方にも2名、お尋ねしましたが、丸〆というコトバ自体「聞いたことがない」というお返事でした。例のJR踏切の標識(6月19日ブログ参照)のすぐ近くにお住まいの方ですら、です。古くからの方は踏切の標識名になっていることをご存じでしたが、もしあの踏切が鉄道の高架化などによって無くなったら、ますます忘却されることでしょう。

 ところが、です。
 私は先日、とあるところで丸〆の名が生きていることを知りました。
 そのきっかけは、7月12日ブログで紹介した‘仲々通り’です。私はこの道を丸〆街道の一部と認識しつつも、同日のブログに「公道なのか私道なのか。交通標識などは見当たらない。私道だとしたら、指定道路なのか。特に私有地だという表示もないので、歩いてみることにしました」と記しました。前掲『O.tone』の記事原稿をあらかじめ見せてもらったところ、くだんの場所も写真入りで紹介されていました。もし私道だったら、その旨記事に注釈してもらったほうがいいと思ったのです。
 それで、思い切って札幌市の北区土木センターに問い合わせました。
 土木センターの担当の方が答えて曰く、はっきりと「市道ですね」と。胸のつかえが取れました。これで、あの仲々通りを誰憚ることなく歩けます。記事で紹介されても問題ありません。

 そのとき担当者から、この市道が「丸〆線」という名前であることを聞いたのです。「シメはカタカナの『メ』というような、アレですね」と。土木センターの担当者も、こころなしか不思議そうな口吻でした。ついでに、どこからどこまでが「丸〆線」なのかお訊きしたところ、これまで拙ブログで紹介してきた一連の道筋(8月2日ブログ参照)であることが判りました(道道花畔札幌線の部分は除く)。丸〆街道は、札幌市道として今も生きています。

 さらにあらためて、思いました。もしかしたら、こういう古い名前の付いた市道は、ほかにもあるんでないか。土木センターで道路台帳を洗いざらい見てみたいなあ。

2017/08/14

1937年と1942年の都市計画図を見比べる ③

 昨日ブログの続きです。
 現在図を確認しておきましょう(元図は札幌市白石区役所「白石区ガイド」から抜粋)。
現在図 白石中の島通り
 橙色でなぞったのが白石中の島通りで、赤い線でなぞったのがかつての都市計画道路「白石駅通り」の名残の道です。都市計画道路は1941(昭和16)年に赤い線から橙色の線に変更決定されます。なぜか。

 変更決定にゆかりのある建物が、今も遺っています。
つきさっぷ郷土資料館
 旧北部軍司令官官邸、現在のつきさっぷ郷土資料館です。1940(昭和15)年築。

 1940年というのは日本の軍政史上、節目となった年でした。空襲に備える軍民挙げての防衛(昨日ブログ参照)を統括的に指揮する陸軍の管区「東部軍」「中部軍」「西部軍」「北部軍」が全国に設けられます。東北4県、北海道、千島、樺太を管轄したのが北部軍です(末注)。その司令部が月寒に置かれました。司令官官邸の隣、現在の月寒中学校のあたりです。

 前掲図を見ると、赤い線の「白石駅通り」は月寒中学校の敷地で途切れています。破線でなぞったところです。軍用地となったために、都市計画道路の変更を余儀なくされたのです。国防それも防空指揮も含めた中枢が置かれたのですから、ひとたまりもありません。

 昨日ブログに載せた1942年都市計画図をもう一度見ます。
1942年地形図 北部軍司令部
 赤い線で囲ったあたりに北部軍司令部が置かれました。前述したように、「白石駅通り」を遮るように用地が確保されています。地形的には望月寒川の右岸、舌状台地上と見えます。交通上も、地形上もちょうど都合の良い立地だったのかもしれません。
 余談ながら、北部軍司令部の南側、黄色の線で囲ったところは歩兵25連隊が置かれていたところです。が、真っ白に消されています。1937年計画図には、こまごまと建物の配置が描かれていましたが(昨日ブログ参照)。

 注:札幌建築鑑賞会「札幌百科」第14回「札幌は軍事都市だった?! 1945年の札幌―空襲、敗戦、占領―」西田秀子さん作成資料及び『さっぽろ文庫73 昭和の話』1995年、pp.108-113による。

2017/08/13

1937年と1942年の都市計画図を見比べる ②

 戦時中の日本は軍事国防という唯一絶対的な価値基準に収斂された社会だったと私は思います。都市計画もその例外ではなかった(むしろ重要な柱であった)ことを、昨日ブログで引用した越澤明先生の著書で知りました。同書によれば、これと併せて1937(昭和12)年に「防空法」が公布され、1941(昭和16)年同法改正により「建物疎開」が進められます(pp.252-259)。「一九四四年から敗戦まで土木建築行政の費用と人員はすべて建物疎開に投入」されるに至りました(p.255)。より強権的な手法で、もはやなりふりかまわない都市改造です。そして大空襲、原爆投下、敗戦。

 …という史実をふまえつつも、1942年札幌都市計画図には都市計画担当者の蠢きのようなものを、私は感じてしまいます。東8丁目通りのナナメです。明治開拓以来の齟齬をなんとしても糾さんとする意図が伝わってきます。軍事国防という大義名分に乗じてやるしかなかった。いや、これは私の妄想です。

 さて、これとは別に、1937年計画図と1942年計画図の間に見られる、ほかの違いを取り上げます。今回は白石村から豊平町です。
 まず1937年図。
1937年都市計画図 白石停車場線
 黄色の▲の先に示した道がピンク色で塗られています。これは「二等大路第一類」で「18m乃至20m」という計画道路です。国鉄白石駅前から、室蘭街道に通じます。現在の道道白石停車場線にほぼ相当します。

 次に1942年図。
1942年都市計画図 白石中の島通り
 前掲1937年図と比べて、二等大路第一類が少しずれているのです。現在の市道白石中の島通りにほぼ当たります。

 とくにずれているところ拡大します。
 1937年図。
1937都市計画図 白石停車場線 拡大
 1942年図。
1942年都市計画図 白石中の島通り 拡大
 1937年の計画道路を黄色の線で加筆しました。画像がぼけていて申し訳ないのですが、1942年図では計画道路が南東に移動しているのが判るかと思います。黄色の○で囲ったのが北海道鉄道の「つきさっぷ」駅で、全体に駅のほうに近づいています。

 なぜ、移動したか。つきさっぷ駅に近いほうを重視したという理由ではないのです。これも、1937年と1942年の間の出来事に由来します。[つづく]

2017/08/12

1937年と1942年の都市計画図を見比べる

 「札幌都市計画図」1937(昭和12)年から札幌市の中心部を抜粋しました。
昭和12年都市計画図 札幌中心部

 こちらは昨日ブログでも引用した1942(昭和17)年の札幌都市計画図の、同じく市中心部を抜粋したものです。
昭和17年都市計画図 札幌中心部

 二つの計画図を見比べると、ちょっとした違いに気づきます。それは、市中心部の計画道路の一部が緑色に塗り替わっていることです。このほかにも違いはありますが、ひとまずこれに注目します。

 中心部をさらに拡大してみましょう。
 まず1937年図。
昭和12年都市計画図 札幌中心部 拡大 緑色は大通と創成川沿いに限られています。

 次に、1942年図。
昭和17年都市計画図 札幌中心部 拡大
 石山通りの一部、南4条通りが緑色に変わっています。さらに、豊平川右岸、一条大橋橋詰の菊水のあたり(7月27日ブログ参照)が部分的に緑色になりました。
 緑色は何かというと、「広路」です。広路というのは、都市計画道路でもっとも広幅員のものをいいます。ただし1937年図と1942年図で定義が異なっていまして、前者は「55m乃至110m」、後者は「44m以上」です。広路の一つ下は「一等大路第一類」で、これは1937年図では「36m乃至20間」、1942年図では「36m以上」です。また、1937年地図で石山通りや南4条通りは赤色で描かれていますが、これは「一等大路第三類」で、「22m乃至28.5m」という区分です。したがって、1942年図において緑色に変わっているところは、事実上、道路幅を最大限に広げるべく計画変更されたことを意味します。

 1937年から1942年の5年間で、何があったか。
 一九四○年(昭和一五年)四月、都市計画法が改正され、法第一条の都市計画の目的に防空が追加された。この結果、防空は交通、衛生、保安(安全)などと同等の位置を与えられ、都市計画の基本目的のひとつとなったのである。
 これまで日本の都市計画の流れとして一貫して存在した都市不燃化・防火の対策、そして一九二○年代後半から導入されてきた田園都市、地方計画、緑地計画の思想はすべてこの防空都市計画の考え方に吸収されていく
(越澤明『東京都市計画物語』2001年、p.248)。

 防空都市計画とは何か。
 第一次大戦後、軍事技術(飛行機と爆弾)の進歩の結果、軍事的にみた都市防衛の第一課題が空襲対策となった。このため、空襲を防ぎ、その被害を軽減させるという観点に立って都市形態の改造と都市建築物の改修を進めるという考え方が生まれた(同書p.246)。

 昨日ブログで取り上げた東8丁目通りは、1937年「一等大路第三類」から1942年「一等大路第一類」に‘格上げ’され、かつ例のナナメの割込みへの変更が企てられます。防空思想の遺物でもあったわけです。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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