札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/02/24

上島正の人物評を糾す

 昨日ブログで、上島正が開墾した土地の全体像をみました。その面積は合計で1万坪を超えたとみられます。
 それをすべて花園(東皐園)にしたのかどうか。私の推論は「否」なのですが、その根拠を述べる前にもう少し傍証を得たいと思います。
 それにしても、およそ140年前の出来事でも、二次文献によって基礎情報にかなりバラツキがあるものです。開墾した地積が1万坪なのか1万2千坪なのか5町歩なのか、花園の面積が1万坪(3.3ヘクタール)なのか2ヘクタールなのか、あまり数字にこだわるのもどうかとは思います。東皐園が有料だったか無料だったかも(2月17日ブログ注②参照)、些事といえば些事です。ただ、昨日ブログで記したとおり、これに人物評価が絡められているのでナイガシロにもできません。

 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年には、次のように記されています(p.239、第4章人物編「上島正」)。
 (前略) 明治十四年、アメリカ人ボーマーから人工交配の指導を受ける機会に恵まれ、種子生産に成功し、菖蒲の大庭園づくりにのりだした。時の札幌県令調所広丈がこの菖蒲園の景観に感激し、正が固辞するのもきかず官費で道路を作り、多くの開拓移民に公開した。これが札幌中の評判となり、数千の人々が庭園を訪れたので、正は花を売って巨利を得た。この花園を東耕園と称し、後に東皐園と改めた。
 成功した正は、邸内に諏訪神社を安置し、郷里長野県の人々に札幌開墾の有望性を説き、開成会社(すぐに解散)という開拓組織を作り、三十戸の移民に成功し、札幌開拓に大きく貢献した。
(後略)

 『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年では、昨日引用したように「開拓使から土地一万坪の貸付を受け、開墾作業に打ち込んだが、もともと欲のない性格だったため、これをすべて花園にしてしまった」とあります(p.99)。
 併せて読むと、「欲のない性格だった」が、「巨利を得た」ことになる。まあ、そういうこともなくはないでしょう。ただ、『開拓使時代』の記述には、他の文献と食い違う箇所がまだあります。
  ①調所広丈がこの菖蒲園の景観に感激し、正が固辞するのもきかず官費で道路を作り
  『厚別 黎明期の群像』2013年では、「この言葉(引用者注:「何とか役所で道路をつけよう」という調所広丈の言葉)に感激した上島は、自ら道路を開き花園の公開に踏み切りました」と記されています(p.73)。本人筆とされる「開拓絵巻」1899(明治32)年を解読したところ、「余曰此迄仰にあらバ自道路を造り公民の縦覧に供さんと答ふ」でした(2月16日ブログ参照)。『厚別 黎明期…』は、この一次史料に依拠しているようです。
 ②成功した正は、邸内に諏訪神社を安置し、郷里長野県の人々に札幌開墾の有望性を説き、開成会社(すぐに解散)という開拓組織を作り、三十戸の移民に成功し 
 前後の文脈からすると、上島は花園で巨利を得たことにより、郷里の人々に札幌移住を勧めたという時系列に解されます。しかるに『厚別 黎明期…』によると、上島が郷里(信州)で移民を募ったのは1882(明治15)年、東皐園を開いたのは1884(明治17)年です(p.71、73)。他の史料に照らしても、信州から移民を連れてきたのは東皐園を開く前です。ちなみに、「開成会社」という開拓組織を作ったのは別人物です(同p.252)。諏訪神社の分霊は、上島に呼応して入植した移民が持ってきました(同p.35)。これも時系列が逆です。

 上島が「札幌開拓に大きく貢献した」という評価に、私はまったく異論はありません。ただし、その根拠となる史実はできるかぎり正確に努めたいものです。
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2018/02/23

上島正が払下げを受けた土地

 昨日ブログの続きです。
 東皐園主・上島正が開墾したという12,000坪(39,600㎡)とか1万坪(33,000㎡)とか5町歩(50,000㎡)というのは、何に基づくのでしょうか?
 その前に、昨日ブログで引用しそびれた文献をもう一点、追加します。
①´『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.99 
 開拓使から土地一万坪の貸付を受け、開墾作業に打ち込んだが、もともと欲のない性格だったため、これをすべて花園にしてしまった。
 
 番号を①´としたのは、刊行年が昨日の文献①と②の間であり、かつ①同様、花園=1万坪(33,000㎡)としているからです。私の推論とは異なり、明確に「すべて花園にしてしまった」と言い切っています。しかも、「もともと欲のない性格だったため」と、上島の人間性にも結び付けている。
 
 この記述の基になる史料に当たりました。
⓪ 『北海道人名辞書』1914(大正3)年(『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年、pp.322-323) 
 現在の土地約一万坪の貸付を受けて開墾に従事す。 (中略) 正、風流心に富みかつ性はなはだしく寡欲なり。札幌郊外の土地一万坪に珍花を植え、明治十七年之を東皐園と称し、庭園を公開して一般の縦覧に供す。
 引用は一部に留めましたが、全体として前述①´は⓪の焼き直しと思われます。原典発行年の1914(大正3)年というのは上島正の存命中です。

 昨日ブログで示した上島の地積は5,269坪(17,388㎡)でした。1万坪(33,000㎡)というのは、その倍近くになります。上島の土地はほかにもあったのでしょうか。史料をたどってみました。
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年(北大図書館蔵)です。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 明治15年
 方位はおおむね7時の向きが北です。

 この古地図の白ヌキ□で囲ったところを拡大してみます。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 方位は上を北に変えました。札幌村のうち、現在の札幌市東区の連合町内会でいうと北光とか元町の地区に当たる部分です。

 左下のほう(南西)の赤い線で囲った不整形の地割のあたりを拡大します。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 上島正地所 拡大
 ここに「上島正」と書かれています。

 地図に書かれた「凡例」によると、黄色のベタ塗りは「明治十五年調査之地」、白地は「従前割渡済之地」、赤い線は「道路」、茶色の線は「道路見込線」です。上島は1882(明治15)年時点でこの土地を払い下げられたか、その予定だったとみられます。上島の土地の南端に沿う茶色の線は現在の北12条通りに当たり、当時の札幌村と札幌区の境界です。

 これまで拙ブログでは、札幌区側の上島の土地を見てきました。その土地と、このたび図示した土地の両方を俯瞰してみましょう。
地番図1998年 北11条東1丁目周辺
 1998年地番図に、札幌区側・札幌村側の両方の上島の土地を線引きしました。赤い線で囲ったのが、従前言及してきた東皐園と推定したエリアです。北12条通りをはさんで北側、旧札幌村側の払下地を橙色で囲みました。
 赤い線で囲った土地の面積を昨日記した5,269坪=17,388㎡だとすると、橙色の地積はおおまかにみて、その倍以上はあるかと思います。とすると両方で、上島が開墾したという1万坪という数字に見合う規模です。これがすべて、東皐園になったのか。

2018/02/22

東皐園はどれくらいの面積だったか?

 東皐園の面積について、既出二次文献ではさまざまな記述がみられます(引用中太字傍線は引用者)。
① 『厚別 黎明期の群像』2013年、p.64
 上島正(かみじま ただし)は明治11年(1878)、札幌区札幌村東耕(現在の札幌市東区北8条東1丁目付近)の創成川沿いに開拓使より土地1万坪を借り受けて、東京から持参した花菖蒲(中略)を植え付け、改良に改良を重ねて見事な花園を造りました。
 
② 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.239
 明治十年、三十八歳のときに上京し、測量に従事していたが、そこで北海道のことを聞き、新天地を求めて、翌明治十一年、現在の東区北十条東一丁目に一万二〇○○坪の払い下げを受け、開墾に着手した。

③ 『川下百年誌』1984年、p.36
 明治十年一人で本道に渡り札幌に寄宿し、情勢詳かに視察し、札幌村に永住の目的を定め、一旦帰国し札幌村東耕に未開地五町歩の貸下を受けて開墾に従事した。

④ 『東区今昔』1979年、p.153
 東皐園の広さは約2ヘクタール

⑤ 『札幌百年の人びと』1968年、p.150
 こうするうちに正(引用者注:上島正)は、札幌の北端に一万坪(三、三ヘクタール)の土地の貸し付けを受けた。今の札幌市北一二条東一丁目付近である。

 地名の「東耕」の所在地については2月17日ブログ注①で言及しましたので、ここでは措きます。
 面積の単位を㎡換算します。
 ① 1万坪=33,000㎡。 同書ではこれがまるごと「花園」になったかに読めます。
 ② 12,000坪=39,600㎡。 払い下げられて「開墾に着手した」土地。
 ③ 5町歩≒50,000㎡。 「貸下」を受けて「開墾に従事した」土地です。
 ④ 約2ヘクタール=約20,000㎡。
 ⑤ 1万坪=33,000㎡。 これも「貸し付け」られた土地の面積です。
 
 私の推論を先にいうと、上島は全体で②39,600㎡、または③50,000㎡、⑤33,000㎡の土地の払下げまたは貸付けを受け、開墾しました。②③⑤でバラツキがありますが、これもひとまず措きましょう。そのうち花園(東皐園)にしたのが④20,000㎡程度ということではないでしょうか。①は花園≒1万坪(33,000㎡)と解される端折られ方で、一種の“伝言ゲーム”現象と察します。

 では、④の東皐園=約20,000㎡は妥当でしょうか? この直接的な根拠となる一次史料は見つけられていないのですが、一つの手がかりを追ってみます。
 2月12日ブログに載せた「地所払下願」添付図面(北海道立文書館所蔵『札幌県治類典 附録』1883年所載)です。これに上島正が1881(明治14)年に払下げを受けた土地の面積が朱記されています。1,500坪です。
 
 上島は1883(明治16)年、さらに土地の払下げを願い出ます。
 そのときの添付図面がこちらです(同じく北海道立文書館所蔵『札幌県治類典 附録』1883年所載)。
上島正 地所払下願 添付図 明治16年
 やはり払下げを願う土地の面積が朱記されています。赤矢印を付けた先で、文字が逆さまですが、3,493坪。なお、前述の1881(明治14)年に払い下げられた土地1,500坪は、この図面の黄色の△で囲ったところに当たります。書かれているのは「願済み地」でしょうか。
  ところでこの図面では、朱記された土地の一部が細長く白ヌキされていて、青矢印を付けた先に「川 六間」と書かれています。この「川」は左端の「創成川」と合流しています。創成川から水を引いたか、創成川に水を注がせた用水路とみられます。図面によると、土地にかかる川の長さは長辺で52.5間、短辺で39.5間と朱記されているので、川の面積は(52.5+39.5)×6/2=276坪です。この川の部分も面積に加えると、合計は3,493+276=3,769坪になります。
  したがって、先に払い下げられた1,500坪をこれに加えると、3,769+1,500=5,269坪=17,388㎡です。
 『東区今昔』でいうところの東皐園の面積約2ヘクタール(約20,000㎡)に近い数字と、私はみました。
 
 しからば、上島が開墾したという12,000坪(39,600㎡)とか1万坪(33,000㎡)とか5町歩(50,000㎡)というのは、何に基づくのでしょうか?

2018/02/21

花園のよすが

 かつて東皐園に植えられていた樹が、今も別の場所で名残を留めています。
上島さん宅 東皐園名残のライラック
 上島正の曾孫・Kさん宅のライラックです。
 1935(昭和10)年に転居した際、Kさんの父・Tさんが花木の一部を持ってきました。かつては家の付近一帯にシャクヤクを植えていたそうです。Tさんは戦後も10年くらい花卉業を営み、シャクヤクやチューリップを市場に出していました。前掲画像のライラックのほか、オンコの木も東皐園ゆかりとのこと。『札幌百年の人びと』1968年によると、園の一隅に自生していたコクワの木も絡まって移されましたが(p.154)、今はありません。

 東皐園では、ハナショウブ、ボタン、シャクヤク、アサガオ、ハギのほか、ドイツスズラン、ベコニア、ダリアなども栽培されていたといいます(末注①)。このたびKさんのお話で、ライラックも植えられていたことを知りました。
 札幌のライラックは1892、93(明治25、26)年、宮部金吾が植物園に植えたものが最古と伝わります(末注②)。上島正は宮部金吾とも交流があったようなので(末注③)、このライラックは植物園から株分けしてもらった子孫かもしれません。花が咲くころにもう一度拝見したいものです。

注①:前出『札幌百年の人びと』p.154、『厚別 黎明期の群像』p.229
注②:『さっぽろ文庫38 札幌の樹々』1986年、p.97、「現存最古」か? 株はS.C.スミスが米国から持ってきたという。
注③:前出『札幌百年の人びと』p.154

2018/02/20

東皐園の痕跡?

 東区北11条東1丁目に遺る物件です(黄色の矢印の先)。
北11条東1丁目 仲通り 東皐園 門柱痕跡?
 この物件は昨年(2017年)12月、札幌建築鑑賞会のスタッフで東皐園跡の現地を歩いたとき、スタッフNさんに教えていただきました。「なにやら古い木の柱」という印象を受け、「もしかして東皐園の痕跡だろうか?」と判じあったものです。

 物件の所在地を現在図で示します(原図は国土地理院サイト標準地形図から抜粋)。
現在図 北11東1 東皐園跡 物件所在地
 黄色の矢印の先、仲通りの入口です。緑色で囲ったところが東皐園の敷地で、赤い四角が上島正の邸宅の位置と推定されます。

 さて、物件をよく見ると、特徴が窺えます。
北11東1 仲通り 東皐園 門柱痕跡? 拡大    東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大② 再掲
 
 黄色の○で囲ったところに、大きな節穴が空いています。橙色の□で囲ったところは、表札を掛けるような切込みが入っていて、上下に鉄製の金具が付いています。
 昨日ブログに載せた東皐園古写真(上島正ご子孫所蔵)に写る門柱と比べてみましょう。
 門柱のほうも、黄色の○で囲ったところに節穴らしき影が見えます。「牡丹遊覧…」の看板の位置は少し下のようです。

 全体の雰囲気が、似ているように見えてならない。
 この物件のことはご子孫のKさんもご存じで、「もしかしたら、東皐園にあった樹の一本かもしれないが、さだかではない」とおっしゃっていました。ただ、前述したように表札などを掛けた形跡からすると自然木というよりは、門柱だったように私は想います。しかし、古写真に写る上島家邸宅と門柱の位置関係からすると、この場所は少しずれているし、ご子孫の記憶とも異なります。元あった場所から移されたという可能性もありますが、今となってはこれ以上確かめるすべはないようです。私としては、東皐園の痕跡物件と妄想したい。

2018/02/19

東皐園の初出?古写真

 上島正の曾孫Kさんから、東皐園を写した古写真を見せていただきました。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵
 ハナショウブやボタンなどが咲く花園を写したものは郷土誌などに既出していますが、この光景は初めて見ました。右の門柱に「東皐園」、左に「牡丹遊覧?」という看板が掛けられています。門柱は奥にもあります。奥の門柱は邸宅への入口なのでしょう。

 手前の門柱の「牡丹遊覧?」というのは、折々掛け替えられていたのではないかと思います。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大
 「牡丹」の左側に書かれている小さな字は、「入園料」ではないでしょうか。その下の2行は「大人……銭 小人……銭」か。
 奥の門を入ったところ、屋敷の玄関とおぼしき前に人の姿が写っています。洋装の外套のようです。この写真の撮影年は不明ですが、大正期かもしれません。

 写真の撮影位置はどこか。
最新調査札幌明細案内図 東皐園 写真撮影位置
 Kさんへの聞取りに基づき、「最新調査札幌明細案内図」1948(昭和3)年に示してみました。 
 地図上に描かれた「上島亮」(正の息子、Kさんの祖父)の邸宅の位置は、Kさんの記憶と合っています。Kさんによれば、石狩街道方向すなわち西側に向かって邸宅を眺めたものでないかとのことです。地図上の赤い矢印の位置になります。
 私は当初、黄色の矢印の位置かと想像しました。敷地の外の公道上、北から南方向を眺めたものではないかと。前掲地図では黄色の矢印の先に家屋らしき線が引かれていますが、この地図が描かれたのは昭和初期です。写真が撮られたのがもう少し古い年代とすれば、家屋がなかったことも考えられます。
 しかしKさんは、敷地の中に路地が通じていて、邸宅の門があったといいます。したがって黄色の矢印の可能性は低いのですが、私としては捨てきれません。

 理由の一つは、こちらです。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 日影拡大
 内側の門柱のそばにボタンらしき茂みがあります。注目したいのは、黄色の▲で示した影です。影は右から左に差しているように見えます。もしこの写真の撮影方向が東から西向きだとすると、この影は北から南向きに差していることになります(ただし、条丁目の区画が真北から10~11度西へずれていることからすると、撮影方向はやや北寄りから南寄りかもしれない)。一方、撮影が北から南向きだとすると、影は西から東向きになります。撮影時刻にもよるかと思いますが、日影の向きとしては後者のほうが蓋然性が大きいのではなかろうか。日影の解析はエルフェンバインさんの領域なので、私はあまり差し出たことはいえないのですが。

 理由の二つめ、大きいのはこちらです。
北11条東1丁目 東皐園 痕跡?
 北11条東1丁目の現地に遺る物件。

 これが、前掲古写真に写る「牡丹遊覧」の門柱に、私は重なって見えてしまうのです。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大②
 

2018/02/18

東皐園は、いつまであったか

 上島正のご子孫にお会いし、お話を訊くことができました。
 私が一つ確かめたかったのは、東皐園の“その後”です。札幌市東区役所『東区今昔』1979年によると、「東皐園は明治11年から昭和20年ころまであった」といいます(p.153)。「昭和20年ころ」というのが、気になっていました。どのように終焉を迎えたのだろうか。

 ご子孫からの聞取りの前に、まず物的な史料を見ます。
最新調査札幌明細案内図 東皐園付近
 2月8日ブログに載せた「最新調査札幌明細案内図」1928(昭和3)年を再掲しました。赤い線でなぞったナナメの北西側に「東皐園」と書かれています。敷地内に「上島亮」とある四角は、邸宅と見られます。上島亮は正の息子です。

 1948(昭和23)年米軍撮影の空中写真を見ます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1948年 東皐園付近
 赤い線の北西側に上島亮の屋敷らしき影が写っていて、その周囲は庭園のようです。20年前の「最新調査札幌明細案内図」に描かれた家屋の配置とあまり変わっていないように見えます。

 次に、1961(昭和36)年の空中写真です。
空中写真 1961年 東皐園付近
 家屋が密集しています。黄色の線でなぞったところ、鉤の手に仲通りが付けられています。今に続いている仲通りです。 

 上島正の曾孫Kさんによると、Kさんの父Tさん(正の孫)の代に上島家はこの地から居を転じました。1935(昭和10)年とのことです。Kさんが幼い頃、というのは昭和20年代、「敷地の一部に庭の形は残っていたが、公開するようなことはもうなかった」そうです。「庭の形が残っていた」というのは前掲1948年空中写真の画像とも合致します。ただし、公開庭園としての東皐園は1935年の上島家転居により幕を閉じたとみるのが妥当でしょう。
 
 東皐園にあった花木は、一部を正の孫Tさんが新しい住まいに移しました。
 

2018/02/17

明治のクリエーター・上島正 

 『北海道毎日新聞』1891(明治24)年7月10日に載った東皐園の広告です(札幌市公文書館蔵)。
北海道毎日 明治24年7月 東皐園広告
 7月10日から24日までハナショウブを公開、入場料大人1銭、子ども5厘。東皐園の所在地が「札幌区北八条東一丁目」となっていますが、これはこのあたりの「条丁目」が当時まだ北8条までしかなく、以北はすべて北8条だったためでしょう(末注①)。

 市公文書館所蔵記事によると、上島正は明治20年代から大正期にかけて、毎年のように新聞に広告やパブリシティ記事を載せています。初夏はハナショウブ、シャクヤク、ボタン、夏はアサガオ、秋はハギ。

 興味深いのは、「見料」として大人1銭、子ども5厘を取っていたことです。前掲1891(明治24)年広告に初出し、1898(明治31)年6月19日広告では大人2銭、子ども1銭に値上げしています。既出二次文献で上島は庭園を「無料開放」したという記述もありましたが(末注②)、必ずしもそうではなかったようです。

『北海道毎日新聞』1898(明治31)年8月28日広告です。
明治31年8月北海道毎日新聞 東皐園広告
 8月28日から9月11日までハナショウブを公開、アサガオは正午まで。見料大人2銭、子ども1銭。
 「あさかほを添て御覧に供へ升 駕をまげ給へ花のまろふど」と詠んでいます。
 「西洋花菖蒲」という種は、8月下旬~9月上旬に開花するものなのでしょうか。このあたりも、来たる3月21日「札幌百科」でお尋ねしたいところです。

 毎年、いろいろ趣向を凝らした惹句です。たぶん上島さんが自ら広告文を練っていたのではないかと想います。絵心歌心に通じた上島さんはコピーライターとしても秀でていたようです。一連の広告は公文書館のサイトで電網上も閲覧できますので、味わってみてください。

 『北海タイムス』1918(大正7)年6月25日広告です。
大正7年6月北海タイムス 東皐園広告
 大正時代になると、いたってシンプルなコピーに変わります。単刀直入。園主は明治後期に代替わりしたらしく、その影響かもしれません(末注③)。「入園無料」になっています。無料になったのは大正期からのようです。

 注①:『厚別 黎明期の群像』2013年で、「上島正(かみじま ただし)は明治11年(1878)、札幌区札幌村東耕(現在の札幌市東区北8条東1丁目付近の創成川沿いに開拓使より土地1万坪を借り受けて」と記されている(p.64)。しかし本文に記した事情により、東皐園のあった場所は現在地でいうと「北11条」である。また、上島が出した地所払下願(「札幌県治類典」道立文書館臓、2月12日ブログ参照)によると、当時の地名としては「札幌区東耕」である。「札幌区」と「札幌村」は別であろう。
 注②:『季刊 札幌人』2004年夏号「さっぽろ公園事始」では、「みごとな庭園を作り上げた上島は、札幌県令・調所広丈の勧めもあって、2ヘクタールの庭園を一般に無料開放する」(p.24)、「それにしても丹精込めた私庭を無料開放するとは、この時代にあって豪気なことである」(p.25)。『厚別 黎明期の群像』でも、「心を込めて造った庭を無料公開すること自体が、時代をこえた行動といっていいと思います」(p.73)。有料にしていたから評価が貶められるとも思わないが、史実は検証すべきであろう。
 注③:『北海タイムス』1905(明治38)年9月27日記事(市公文書館蔵)に、東皐園の園主は「上島亮」と書かれている。『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年によると、上島正は1919(大正8)年死去(p.99)。

2018/02/16

上島絵巻「東皐園の始」を解読する

 『上島氏開拓絵巻』1899(明治32)年(北海道博物館蔵)の文章解読を試みました。「東皐園の始」の項です。
 私の古文書解読能力は初心者級、スキーに例えればかろうじてボーゲンで滑れる程度です。原文はくずし字としては比較的判りやすい部類だと初心者にも見えるのですが、すんなりとはいきません。

 昨年、とある古文書を目にしてほとんど判読できなかったため、一念発起し、先月、札幌市公文書館の「古文書講座」初級コースを受講しました。といっても2時間×2回の講座ですから、文字どおりイロハのイ程度の学習です。
 講師の榎本さんから、原稿用紙に書き下してみるのがよいと勧められ、今回そのとおりやってみました。解読できない文字はマス目を空白にすると、全体像が見えてきます。
上島絵巻 東皐園 原文①
上島絵巻 東皐園 書き下し①

上島絵巻 東皐園 原文②
上島絵巻 東皐園 書き下し②

上島絵巻 東皐園 原文③
上島絵巻 東皐園 書き下し③

 母が持っている『五體字類』を借りて、変体仮名を照らしながら、なんとか9割がたは読み込めました。ところどころの読み間違いはご容赦ください。
 この史料は、世に出回っている上島正と東皐園に関する既出二次文献の出どころの一つです。大体のことはすでに解題されていますが、それでもやはり、原典に当たる価値はあったとあらためて思いました。
 次のようなくだりがありました(前掲画像、赤の傍線箇所)。
 是より東耕園と号す ?(弥=いよいよ?)縦覧始の当日より老若男女引も切らず園内人の山をなし

 札幌市史編さん委員会『札幌百年の人びと』「1968年「上島正」には、この箇所に相当する文が次のように記されています(p.153)。
 そのころここらあたりを字東耕といっていたので、“東耕園”と名付けた。
 風流に乏しいまちの人たちは、老幼さそいあって、一日を東耕園に遊び評判し合うようになった。


 絵巻の原文では、花園を公開した初日から、わんさか人が訪れたかのようです。今風に言えば上島さんは「話を盛っている」のではないかとも思いましたが、人びとが公開を待ち焦がれていたのかもしれません。

2018/02/15

上島絵巻に見る東皐園の地形

 碁盤目状に区画される前の東区の地割を見てきました。いったん話を東皐園に戻しましょう。大友堀周辺の短冊状地割については、別途あらためて逍遙することとします。

 上島絵巻(北海道博物館蔵)に描かれた東皐園を再掲します。
上島絵巻 東皐園(全体) 再掲

 黄色の□で囲ったところを拡大しました。
上島絵巻 東皐園(部分、左)
 開拓前から生えていたであろう大木が切り倒されたばかりのようです。ショウブとおぼしき花が無数に咲いていいます。樹種や草種の同定は、3月21日「札幌百科」で笠先生のお話に期待しましょう。
 
 右方の倒木のあたり、湿地のように見えます。
上島絵巻 東皐園 メム?
 絵図全体にショウブらしき花が描かれているので、この部分に限らず一帯が低湿地だった可能性はあります。

 産総研地盤地質図で見ると、この場所はちょうど札幌扇状地の扇端に当たります。
地盤地質図 北11条東2丁目周辺
 赤い▲で示したところが東皐園の位置で、後背低地との境目です。前掲の湿地は湧泉(メム)だったのかもしれません。

 庭園は、見物客でたいそう賑わっています。お休み処も幾つか描かれています。楽しそうです。
 絵巻に添えられた文にも、そのことが綴られています。
上島絵巻(文)「東皐園の始」
 解読を試みました。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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