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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2020/03/12

新型コロナウイルスの感染力と気候風土

 3月3日ブログで新型コロナウイルスの感染のことを綴りましたが、私は公衆衛生学はもとより生物も音痴です。そもそも理系音痴(昨年12月29日ブログ参照)であり、生物の知識についても恥をさらします。たとえば、私はウイルスと細菌の違いを説明できません。これまで、大きさが違うくらいにしか思ってませんでした。
 くだんの感染症がこれだけ世の中の大事になると、さまざまな流言蜚語が飛び交いがちです。その片棒を担がないよう自戒しつつ、関心事を綴ります。

 全国の都道府県のうち、現時点で感染者数が0の県は以下のとおりです(注①)。
 青森県、岩手県、山形県、茨城県、富山県福井県鳥取県島根県、岡山県、香川県、佐賀県、長崎県、鹿児島県
 青字の5県が日本海側にあります。青森県や佐賀県、長崎県も日本海に面していますが、他の海洋にも面しているので除きました。日本海と瀬戸内海の両方に面する兵庫県は、患者46名の居住地は皆、瀬戸内海側及び内陸です(末注②)。
 北海道の日本海側をみてみます。(末注③)。
 留萌管内0、石狩管内(札幌市を除く)9、札幌市41、後志管内1、桧山管内3。
 ちなみに日本海とオホーツク海に面する宗谷管内も0です。

 日本海側の県は発生が少ないのではないかという印象を私は抱きました。そのきっかけは、日々の道内のニュースです。道央、道南、道東へと感染者が拡がる中で、3月11日まで留萌や後志、宗谷がずっと0のままでした(3月11日、後志で1名発生)。それで全国的にはどうなのか、気になったのです。
 新潟県(11名)や石川県(7名)のように日本海側でもそこそこ多い県もあります。北海道でも、札幌市を含む石狩管内は突出して多い。日本海側は発生数が少ないといえる有意差があるのか、人口比でみてどうなのか、精査の余地はありましょう。ひとくちに日本海側といっても地理的条件はさまざまでもあります。
 という前提でなお、もしかしたら、とも想うのです。気候風土要因があるのではないか。この時期すなわち冬の気候の太平洋側との違いとか。電網検索したら、こんなサイトに当たりました。
 ↓
https://weathernews.jp/s/topics/201901/100085/ 
 冬の空気が「しっとり」または「カラカラ&しっとり」の県は以下のとおりです。
 青森県、秋田県、山形県、新潟県、富山県、石川県、福井県、滋賀県、鳥取県島根県 
 現時点で感染者が0の県を太字にしました。太字以外のうち新潟県、石川県は前述のとおりですが、秋田県は2名、滋賀県は1名です。

 冬季、日本海側で湿度が高く、太平洋側が乾いているのは、ある程度察しがつきます。いわゆるエアロゾル感染だと、空気が乾いているほうが感染しやすいようにも想います。新型コロナウイルスはいまのところ飛沫感染と接触感染といわれていますが、その感染力は地域による湿度の高低との相関関係はありやなしや?

注①:厚生労働省サイト「新型コロナウイルス感染症について」ページ「新型コロナウイルス陽性者数(チャーター便帰国者を除く)とPCR検査実施人数(都道府県別)【1/15~3/11】」の「陽性者数」による。→https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000607590.pdf 3月12日閲覧
 注②:兵庫県サイト「新型コロナウイルスに感染した患者の発生状況」ページによる。→https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk03/corona_hasseijyokyo.html 3月12日閲覧。患者46名中、「丹波市」1名以外は中央分水嶺以南。丹波市は町内で分水嶺を分かつ。
 注③:北海道サイト「新型コロナウイルス感染症の道内の発生状況」ページによる。→http://www.pref.hokkaido.lg.jp/hf/kth/kak/hasseijoukyou.htm 3月12日閲覧
 札幌市の感染者数は札幌市サイト「新型コロナウイルス感染症の市内発生状況」ページ「新型コロナウイルス感染症の市内発生状況(3月12日時点)」による。→http://www.city.sapporo.jp/hokenjo/f1kansen/2019n-covhassei.html 3月12日閲覧
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2020/03/11

平岸霊園納骨堂 再考

 2月29日ブログに平岸霊園の納骨堂を載せました。

 その後、札幌建築鑑賞会スタッフNさんが、こんな物件もありますよと画像を送ってくださいました。
緑丘戦没者記念塔
 小樽商科大学にある「緑丘戦没者記念塔」だそうです。
 Nさんによると、竹山実氏の設計で1969(昭和44)年7月に竣工しました。

 あらためて平岸の納骨堂を鑑みます。
平岸霊園 納骨堂 正面 近景
 私は先のブログを「1970年代前半(昭和40年代後半)の建築とみました」と結んでいます。「何らかの建物が潜在的な前提にあるのでしょう」とも記しました。

 私の潜在意識下にあった「何らかの建物」を顕在化させます。
北海道百年記念塔 2018年
 1970(昭和45)年7月に竣工した北海道百年記念塔です。
 
 竣工に至る経過を時系列で記します(2018年2月6日ブログ参照)。
 1967(昭和42)6月   北海道百年記念塔 建設期成会設立。 設計を公開競技で決めることとする。
 同年10月         設計案の募集開始
 同年12月9日      最終審査の結果、井口健氏の案が「最優秀」に選ばれる
 1968(昭和43)年3月 北海道百年記念塔 実施設計立案(久米建築事務所)
 同年11月21日      北海道百年記念塔 起工式
 1970(昭和45)年9月 北海道百年記念塔 竣工 

 1967年12月に「最優秀」として期成会から発表された井口さんの応募案です。
北海道百年記念塔 1967年井口健応募図案
 期成会ではその後、建設を目指して、広く寄金を募りました(2018年3月25日ブログ参照)。
北海道百年記念塔建設募金ハガキ
 実物が完成する前に、これらの図案が世の中に膾炙した可能性もありましょう。
 
 ますますもって、平岸の納骨堂の建築年代を知りたくなりました。小樽と平岸の関係性も気になります。かねて平岸の物件をご存じのNさんにお訊きしましたが、Nさん曰く「はじめてみたときは私も衝撃で、ネットはいろいろ見てみましたがわかりませんでした」と。
 札幌市公文書館に行って、調べてきました。余談ながら、軒並み休館している公共施設にあって、市公文書館は開館している稀有な一つです。同館がもし閉ざされたら、私の時間旅行は大きな痛手を被ります。ここはいつ行っても空いていて、濃厚接触のリスクはとても低いことでしょう。このたびも私は3時間近くいましたが、職員の方を除いて、ほとんど私一人でした。今後もぜひ開けてほしいものです。
 それはさておき、平岸霊園納骨堂の建築年は…。

2020/03/10

白石本通周辺の食品工場 ②

 3月4日ブログの末尾を私は次のように締めくくりました(太字)。
 横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました。「だから、何なのだ?」ということまで、まだ至りません。
 その「だから、何なのだ?」に移ります。
 同社が1964(昭和39)年、この場所に立地したのは“水の利”を求めてのことではないか。あるいは実際の操業において、水に恵まれているのではないか。この場所というのは白石区本通5丁目、平和通5丁目あたりを指します。

 結論的にいうと、未確認です。そもそも製粉業において水がどのように使われるか、不勉強で把握してません(末注①)。3月2日のUHBみんテレ「となりのレトロ」白石編のとき、そこまで私は踏み込めませんでした。今後の宿題とさせてください。
 
 という前提で、周辺部分を巡ることとします。
 3月4日ブログに記したとおり、横山さんがこの地に工場を設けたのは、もともと創業者の水田や畑があったからです。では創業者はなぜ、この地に土地を持っていたか。
 1897(明治30)年、創業者の祖父が福井県からこの地に移り住みました。もともとは明治の初めに仙台藩白石領からの移民が入植した土地です。「白石藩から渡道した人々のなかには土地を売って他に転住した者も多く、祖父が入植したのは、それらの人々が手放した開墾途上の土地でした。そのため、祖父をはじめ父母たちは開拓農家特有の、寸暇を惜しむ重労働の毎日を強いられ、非常な困難と闘いながら、畑2町5反、水田1町歩を造りあげました」(末注②)。
 明治初めの仙台藩白石領からの入植は「土地区割は地形と無関係に雪の上に画一的に区分され、土地割りあてはくじ引きで行なったため、湿地や浸食谷の場所を得た入植者は開拓に苦心し、結局離村する結果となった」(末注③)。「湿地や浸食谷」というのは、おもに望月寒川に近い一帯を指します。「明治5年春、融雪水にともなう浸水で居住が不可能となり」「移転することとなった」(末注④)。士族移民の離村と併せて、明治20~30年代にかけて北陸などから農民の入植が進み、開拓が本格化します。
 
 3月4日ブログに載せた北海道地下資源調査所の地質図1956年です。
北海道地下資源調査所 地質図幅 白石本通周辺
 横山製粉の工場(赤いの大)は、「支笏火山噴出物 月寒火山灰層」の火山灰粘土が「現河川堆積物」に接する縁に位置しています。
 横山家の入植の具体的な経緯は判りませんが、士族離村と農民の入植という時系列と符合し、場所も「浸食谷」を窺わせる土地です。

 工場の南隣にお屋敷があります(画像は2011年撮影)。
白石区平和通 横山製粉工場のお隣
 このお庭の池が気になっていました。

 注①:横山製粉株式会社創立50周年記念誌『一歩いっぽ』1996年「小麦粉ができるまで」によると、原料の小麦を「挽砕」するまでの途中の「調質」「精選」の工程で、微量の水を加えるという(p.259)。
 注②:同上書p.1、p.4。文中「白石藩」は、仙台藩(伊達家)の支藩白石領(片倉家)のこと。「祖父」「父母」とは、創業者横山保からみてのこと。
 注③:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、p.120
 注④:同上書p.121 

2020/03/09

本通西排水 間隙に感激する感性を高める。

 地理院サイトから「治水地形分類図」で札幌市白石区本通の一帯を観ます。
治水地形分類図 白石区 横山製粉周辺
 JR白石駅と地下鉄白石駅の位置に(右上の長形がJR駅、左下の短形が地下鉄駅)を加筆し、3月2日UHBみんテレ「となりのレトロ」白石編で訪ねた「横山製粉」工場(同日ブログ参照)を赤いで塗りました。
 
 この地図には、主として平野部の地形やその成り立ちが描かれています。凡例は以下のとおりです。
 橙色:段丘面 水色:後背低地 薄緑色:氾濫平野 黄色:微高地(自然堤防) 黄色地に小さいドット:扇状地 灰色横縞線:浅い谷 紫:段丘崖

 私は3月4日ブログで標高図や地質図を3点載せて、かつ空中写真を加えて「横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました」と締めくくりました。しかし、その結論は縷々述べるまでもなく前掲図だけで一目瞭然です。赤いで塗った横山さんの工場自体は「段丘面」に属しますが、「浅い谷」から「氾濫平野」に至る帯の縁に位置しています。工場が立地したのは、平たくいえば昔は川岸だったところです。実は一目瞭然だったということをお伝えしたくて、前掲図を載せました。

 なぜこのようなことを綴るかというと、昨日ブログに記したことの続きです。電子的情報技術が日々進歩して、卓上の操作で札幌の街のたいがいの時空を逍遥できてしまいます。地理院サイトの地図や空中写真、グーグルストリートビュー、今昔マップon the webサイトなどのおかげで、もはやアナログ的に紙を照らし合わせる労も減りました。「ここは昔からの古い道だ」とか「かつての川跡だ」程度のことは、居ながらにして瞬時に読み取れます。

 これは、どういうことか。
 既出の情報や現地の風景を受け止める感度や読み解く力が、なおいっそう問われる。ということでしょうか。
 40年前、北大の暗渠道を歩いたときの感興(2015.7.11ブログ参照)や半世紀前、母と訪ねた岐阜県の川島に覚えた不思議感(2016.12.14ブログ参照)などの初心を忘れないでいたいと思いました。

 白石区平和通6丁目北、某街区の住宅と住宅の隙間です。
平和通6丁目北 某街区の隙間
 先月下旬、ここを歩いたとき、気になりました。不思議な隙間感が漂っていたのです。

 あとから、それこそ空中写真などを遡って、ここが川跡だとわかりました。いや、川「跡」ではなく、現役の川です。
河川網図 本通西排水
 河川網図によると、「本通西排水」です(赤いを付けた先)。

 流路を現在図で拡大して示します。
現在図 本通西排水
 河川網図の凡例に従って、暗渠を太実線の濃い青、明渠を水色でなぞりました。前掲画像の撮影位置は赤いを付けた先です。雪に埋もれていますので、実際に明渠なのかどうか、確認はできません。
 
 下掲は後日、河川網図を観ながら歩いたときに撮った画像です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋
 前掲現在図に黄色の矢印を付けた先で撮りました。鉄道沿いの濃い青(暗渠)でなぞった路上です。画像で黄色の矢印を付けた先にマンホール蓋があります。

 「河」の文字です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋「河」の文字
 暗渠を物語っています。

 こちらも後日、河川網図を携えて確かめた場所です。 
平和通6丁目北 某街区の隙間-2
 橙色の矢印を付けた先に、やはり隙間が見られます。

 前掲現在図に橙色の矢印を付けた先の位置、向きで撮りました。本通西排水の明渠部分は、住宅の隙間をぬって北西に遡り、南西へ「L」字形に曲がっています。こちらの隙間(橙色のの先)は、初めて歩いたときは見過ごしてしまいました。右側のお宅は現在図でも明らかなように、雁行で配置されています。今から思えば、妖しい配置です。

 このたび本通西排水を取り上げたのはほかでもありません。現地を歩いたとき、隙間が網膜に写ったときの感度です。間隙に感激する感性。もっと高めたいと思いました。
 

2020/03/08

人生、山あり谷あり

 3月4日ブログに記したとおり、私は8年前、国道12号の白石本通のアップダウンを実感しました。きっかけは札幌建築鑑賞会で2005(平成17)年から展開した「札幌軟石発掘大作戦」(2015年12月8日ブログ参照)です。札幌軟石を手がかりとして街を歩くことで、副産物を得ました。街を探り、街を楽しむ醍醐味です。自分たちが知らない街の姿が見えてもきました。白石区を歩いたのが2011(平成23)年です。
 白石区に軟石建物の分布が少ない(2015年6月8日同年5月21日ブログ参照)のは、道路のアップダウンが軟石運搬のネックになったからではないか、などとまことしやかに想像したりもしました。まあ、さまざまな要因があることでしょう(末注)。
 なぜ、アップダウンが多いか。支笏火山の噴出物(火山灰など)が堆積してできた丘陵を川が谷を削りました(3月4日ブログ参照)。煉瓦(=粘土=地質)とアップアダウン(=地形)は、いまや大動脈・国道12号周辺の住宅街と化した白石本通の、土地の記憶といえましょう。

 2011年に本通付近のアップダウンを調べてまとめたレポートです。
2011年山あり谷ありレポート-1 (352x500) 2011年山あり谷ありレポート-2
 題して「人生、山あり谷あり」。

 2011年10月に確認した平和通8丁目南の谷底です。
平和通8丁目南の谷底
 (向かって右側が下流、左側が上流) 
 当時はまだ標高図や地質図、空中写真などを駆使するすべを知らず、せいぜい古い地形図と照らし合わせるくらいでした。
 
 住宅と住宅の間隙が谷底になっています。 
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北) 上流側
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北)
 間隙に“川”が流れているのを知り、感激したものです(画像上掲が上流側、下掲が下流側)。

 当時はまだ、河川網図も入手してませんでした。
河川網図 本通東排水(北)
 このたび、「本通東排水(北)」という名前を持つ、れっきとした川であることを河川網図で確認しました。札幌市長が河川管理者となっている普通河川です。 

 注:かつての近郊農村としての白石で、軟石建物の需要として考えられるのは農業用の倉庫である。倉庫は軟石よりも煉瓦のほうが散見される。もともと煉瓦の産地であったことに加え、国道12号や函館本線を介して、主産地となった野幌産の煉瓦が流通しやすかったのではないか。東札幌や大谷地が物流の拠点となった時代(昭和後半)にはモルタルやコンクリートブロックが普及したことだろう。

2020/03/07

鈴木煉瓦の工場の位置

「鈴木レンガ工場跡」を伝える「白石・歴しるべ」です。
白石・歴しるべ「鈴木レンガ工場跡」
 白石区平和通6丁目南、平和通に面する角地に立っています。傍らのお宅には、これまた土地の記憶を受け継ぐかのごとき煉瓦の塀です。

 昨日ブログで私は、このあたりの煉瓦工場の立地をあとづけました。おおまかにいうと、工場は大正時代までは函館本線の近くにあり、その後昭和に入ると少し南側に移っています。鉄道の近くに工場が設けられたのは明治時代、鈴木煉瓦によってです。鈴木煉瓦は昭和期には廃業し、別の業者が引継ぎました。昭和期「少し南側に」移った工場は、引き継いだ業者によって設けられた、というのが私の理解です。
 しかるに前掲「白石・歴しるべ」が立つのは、後者の「少し南側」に当たります。私の理解からすると、この場所を「鈴木レンガ工場跡」といってよいのか、疑問が生じるのです。

 現在図で位置関係を整理します。
現在図 鈴木煉瓦工場跡
 赤い:明治時代、鈴木煉瓦の工場が設けられたところ(囲ったのはおおまかです)
 黄色の:昭和期、新たに煉瓦工場が移ったところ(同上)
 赤い:「白石・歴しるべ」の「鈴木レンガ工場跡」が立つ地点

 前掲「歴しるべ」には次のように書かれています(引用太字)。
 「鈴木煉瓦製造場」の初代 鈴木佐兵衛は東京生まれで明治15年9月渡道し、この地で明治17年7月(又は6月)工場を建設して、鉄道用レンガを製造したとの記録がある。
  「この地」というのは、ピンポイントで「歴しるべ」の立つ地点を指すのか、それともおおまかに白石駅の鉄道以南ととらえているのでしょうか。前者だとすると、私の理解と異なります。
 
 この「歴しるべ」の内容を詳しくまとめた冊子版の札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年は、1948(昭和23)年空中写真(米軍撮影)を載せ、鉄道沿いに「初期の鈴木煉瓦製造場跡」と書き添えています(p.39)。これは大正期の地形図に付された「煉瓦工場」記号の位置です(昨日ブログ参照)。前掲現在図で赤いを塗ったところに当たります。
 一方、写真にはその少し南側に「焼き窯」とか「干場」と加えられています。これは昭和期の地形図の煉瓦工場記号の位置です。その「焼き窯」と書かれたあたりを現在に当てはめると、前掲「歴しるべ」説明板が立つ場所になります(前掲現在図の黄色の及び赤い)。
 同書では、後者の「焼き窯」などが鈴木煉瓦当時からのものなのか、後の業者が設けたものなのか、定かでありません。しかし、「後の業者によるもの」と限定してもしません。現地「歴しるべ」の記述からしても、この場所も含めて鈴木煉瓦の工場の一帯だったという前提のようです。

 ちなみに、同書及び現地「歴しるべ」には、鈴木煉瓦産の煉瓦が東京駅に使われたと書かれてもいます。これも疑問のままです(2016.2.14ブログ参照)。
 私にはまだまだ、わからないことが多い。

2020/03/06

オヤコわたの旧工場(承前)

 昨日ブログの続きです。
 白崎繊維工業の工場は1940(昭和15)年、鈴木煉瓦の職人が積んで建てられました。このとき鈴木煉瓦は廃業していましたが、煉瓦工場は別の業者に引き継がれたといいます。これは、どういうことか。

 地形図で確認します。まず1916(大正5)年測図1918(大正7)年発行2万5千分の1「月寒」です。
大正5年測図地形図 白石駅周辺
 赤いで囲ったところに鈴木煉瓦の工場が立地しています。

 その部分を拡大します。
大正5年測図地形図 白石駅周辺 鈴木煉瓦工場
 函館本線白石駅から引込線が通じ、その先に描かれているのは「煉瓦工場」の記号です。焼き窯(ホフマン式輪環窯か)を象ったこの記号は、現在の地形図には見られません。

 次に、1935(昭和10)年修正測図1937(昭和12)年発行の同じく2万5千分の1「月寒」です。
昭和10年修正地形図 白石駅周辺
 赤いで囲った工場の位置が南へ移っています。

 その部分の拡大です。
昭和10年修正地形図 白石駅周辺 鈴木煉瓦工場
 煉瓦工場の記号に加え、煙突の記号も描かれています。

 この地形図が作られた1935年には鈴木煉瓦は廃業していたようです。引き継いだ業者の工場が、やや南に設けられたとみられます。白崎さんの製綿工場が建てられたのは、この5年後の1940(昭和15)年です。煉瓦は引き継がれた業者の窯で焼かれたものが使われたのではないでしょうか。そして、これは私の想像ですが、その焼き釜には煉瓦を焼く職人は当然いたでしょうが、積む職人はいなかった。焼く職人は鈴木煉瓦から引継がれたのかもしれません。
 一方、大正期の鈴木煉瓦には、煉瓦を積む職人も在籍していました(末注①)。昭和になってからの新しい業者の工場には、積む職人を抱える余力がなかったのかもしれません。大正から昭和初期にかけて江別(野幌)に煉瓦工場が増えて、主産地が形成されました(末注②)。白石の煉瓦生産は相対的に低下したことでしょう。また、煉瓦を焼く、積むという職能が分離していったとも思われます。
 白石村近郊に居住していたであろう煉瓦積み職人を、新たに白石で創業した白崎さんが雇い入れました。地域の雇用を守る役割を果たしたともいえます。

 昨日ブログで記したように、白崎さんによると、白石での煉瓦生産は昭和30年代まで続けられたそうです。地形図を時系列で下ると、1954(昭和29)年測量1958(昭和33)年発行までは煉瓦工場の記号が描かれていますが、その後は消えます。空中写真では、1947(昭和22)年撮影で写っていた焼き窯の屋根が1961(昭和36)年には見えません。

 その1961(昭和36)年空中写真です。
空中写真1961年 白石駅周辺 煉瓦工場跡?
 黄色の矢印の先に煉瓦工場がありました。建物が幾つか見られますが、焼き窯はなくなったようです(末注③)。赤い矢印の先には池が写っています。ここは土採り場でした。前掲1916年、1935年地形図には、この場所に「土圍」または「土堤」の記号が描かれています。先日お目にかかった横山製粉の専務さん(3月2日ブログ参照)から、昭和30年代、この池で魚を捕ったりして遊んだとお聞きしました。白崎さんの製綿工場は橙色で囲ったところです。白石で煉瓦が焼かれたのは、昭和30年代前半までと思われます。 

 先日、煉瓦の土採り場があったあたりを歩いてみました。現在の町名でいうと白石区本通7丁目北です。
白石区本通7丁目北 煉瓦のオブジェ
 近くで、オブジェを見かけました。煉瓦の土を採った記憶、というのは臭いを嗅ぎとりすぎか。

 注①:1918(大正7)年に作られたとされる鈴木煉瓦工場の職員氏名一覧には、「煉瓦築造職工」が10名、記されている。松下亘「札幌地域のレンガ史」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第15号1988年、p.14-19
 注②:水野信太郎「江別市内における煉瓦産業120年間の変遷」『赤煉瓦ネットワーク北海道大会記念誌 赤煉瓦アラカルト 北緯45°~北緯31°』2010年、p.39
 注③:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年によると、(鈴木煉瓦の)「閉鎖後経営者が替わり、昭和26年頃までレンガの製造がおこなわれていた」(p.39)。

2020/03/05

オヤコわたの旧工場

 UHBみんテレ3月2日の「となリのレトロ」でお伝えした、白崎繊維工業さんの旧工場です。
白崎繊維工業 旧工場 2020年2月
 この建物のことは2017年9月1日ブログで綴りました。気になっていたことがあります。一つは建築年です。同日ブログでは1955(昭和30)年と引用したのですが、その後1940(昭和15年)に建てられたとも聞きました。気になっていたもう一つは「どこで焼かれた煉瓦か?」です。本件建物は、鈴木煉瓦の職人が積んだとも伝えられます(末注①)。鈴木煉瓦は明治から大正にかけて、このあたりで煉瓦を生産した業者です(末注②)。しかし、大正期末期あるいは昭和初期に操業を終えたといわれています(末注③)。建築年が1955年あるいは1940年だと、鈴木煉瓦の閉業後になります。それで、同煉瓦の職人が積んだとすると、どういうことか。
 
 次のようなことが推測されました。
 大正期あるいは昭和初期に生産は終えても、煉瓦は残っていたのではないか。残っていた煉瓦を、地元に残っていた職人が積んだ。
 一方、次のような記述も目にしました(引用太字、末注④)。
 (白崎繊維工業の)創業が昭和16年で、工場もその時に建てられたと伝わっていますが、戦時体制下に建てたとは考えづらく―とはいえ、北海道では物資統制を無視するかのごとく戦中戦後の統制期に建物を建てることが少なくないのですが―、おそらく戦後間もない持代のものと思っています。
 そうだとすると、煉瓦が残っていたというのも考えづらくなります。特に「戦後間もない時代」は、進駐軍が宿舎建設のために江別の煉瓦業者に大量生産を命じました(末注⑤)。物資が「進駐軍ファースト」で調達されたのです。 
  
 このたび白崎社長にお伺いして、以下聞き取りました。
 ・煉瓦の旧工場は、同社が創業した1941(昭和16)年の前年、1940年に建てられた。創業に当たり、工場を整えた。
 ・鈴木煉瓦に勤めていた職人を雇用して、工場を建てた。
 ・鈴木煉瓦は大正期に閉業したが、その後別の業者が煉瓦生産を引き継いだ。昭和30年代までこの地で続けられた。引継いだ業者の名前は記憶が定かでない。

 白崎さんの証言の裏付けになりそうな史料を挙げます。
 空中写真1947(昭和22)年です。
空中写真 1947年 白崎繊維工業付近
 赤い矢印を付けた先に白崎繊維工業が位置します。

 2008(平成20)年の空中写真です。
空中写真2008年 白崎繊維工業付近
 黄色の矢印を付けた先に本件煉瓦建物の屋根が写っています。
 前掲1947年写真と較べると、屋根伏の影が同じに見えてなりません。1947(昭和22)年に本件建物が写っているとなると、それこそ戦中戦後間もなくの物資逼迫期の建築は考えづらく、1940(昭和15)年ならば日米開戦前で、まだ可能だったのではないでしょうか。煉瓦工場と職人のことは別に述べることとします。

 本件建物は現在物置ですが、放送でも言われたとおり、白崎さんは近い将来、地域住民の交流の場として再生させたいとのことです。「最後のご奉公」として、と。応援したい。

 煉瓦とテレビつながりというわけでもないのですが、2018年に放送された「ふるカフェ系ハルさんの休日」江別編がまたまた再放送されます(道内のみ)。3月7日(土)午前10時55分~11時25分、EテレNHK総合(3ch)

https://www4.nhk.or.jp/furucafe/x/2020-03-07/21/38291/1973059/
 こんなに再放送されるとは思わなかった。

 注①:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年、p.6
 注②:2015.1.182016.2.14各ブログ参照
 注③:松下亘「札幌地域のレンガ史」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第15号1988年、p.9、札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年、p.39
 注④:池上重康「北海道赤煉瓦行脚 その49 白崎繊維工業白石製綿工場」『赤煉瓦ネットワーク 輪環』第69号2009年2月
 注⑤:2016.2.8ブログ参照 

2020/03/04

白石本通周辺の食品工場

 3月2日ブログの続きです。コメントをいただきました。白石区本通周辺の食品工場の立地環境について、「物流と水」というご指摘です。ありがとうございます。実は私も、「水」がアタマをよぎってました。

 2日の「となりのレトロ」放送でちらりとお見せした色別標高図です。
色別標高図 10m未満から5mごと7色 白石本通周辺
 標高10m未満から5mごと7色段彩で作りました。放送では原図のみでしたが、これに工場の位置などを加筆します。
 赤い(大):横山製粉、赤い(小):他の工場(Rパン、N製麺、横山食品)、青い:白石神社
 白ヌキ(右上、長形):JR白石駅、白ヌキ(左下、短形):地下鉄白石駅
 白石神社の位置を示したのは、お察しいただけるかと思いますが、ひとまず措きます。あらかじめこの図を作ってみて、赤い(大)の横山製粉工場が位置する地形が気になっていました。

 白石本通(国道12号)は本通1丁目から14丁目にかけて、望月寒川と月寒川にはさまれて舌状に広がる丘陵にかかっています。しかし、一様な尾根ではありません。ところどころアップダウンしています。地元の方はよくご存じでしょうが、私は8年前に自転車で走ってみて実感しました。
 アップダウンの一つが横山製粉さんのあたりにあります。工場の所在地は正確には平和通5丁目ですが、上掲図でみるとおり国道に向かって南西方向にくぼんでいます。

 産総研の「札幌及び周辺部地盤地質図」2006年で、同じ一帯を観ます。
産総研 地盤地質図 白石本通周辺
 加筆は、JR白石駅と地下鉄白石駅を黄色のとした以外は同じです。
 原図の色分け凡例は以下のとおりです。
 紫色:先沖積層、青色:三角州堆積物、水色:谷底平野堆積物、ピンク色:泥炭堆積物、橙色:扇状地堆積物、黄緑:自然堤防堆積物
 横山製粉さんのところは、帯状の「谷底平野堆積物」の地質です。

 下掲図は作製年代が古いのですが、北海道地下資源調査所による地質図1956年から抜粋しました。
北海道地下資源調査所 地質図幅 白石本通周辺
 印の加筆は前掲図と同じです。当然のことながら地下鉄はまだ通じていない一方、国鉄千歳線が描かれています。

 原図の凡例によると、望月寒川と月寒川の間を国鉄白石駅方面に広がる薄黄緑色(Tk)は、「第四紀洪積世 支笏噴出物 月寒火山灰層 火山灰質粘土」とあります。前掲産総研地盤地質図の「先沖積層」と重なる部分で、より詳細な地質の説明といってよいでしょう。横山製粉のところはやはり南西方向に帯状に食い込んでいます。凡例によると(Al)「第四紀沖積世 現河川堆積物」です。火山灰が積もったところを川が谷を削ったという時系列。

 1961(昭和36)年の空中写真を観ます。
空中写真1961年 白石本通周辺
 横山製粉の現工場・本社が立地したのは1964(昭和39)年(3月2日ブログ参照)なのでこの画像では窺えませんが、便宜的に赤いを加筆しました。

 赤い(大)の横山製粉工場のあたりを拡大します。
空中写真1961年 白石本通周辺 拡大
 赤い(大)の上(北)から右方(東)にかけて、河道らしき地形がうっすらと読み取れます。

 読み取れる限りで水色でなぞってみました。
空中写真1961年 白石本通周辺 拡大 河道加筆
 前掲3点の標高図、地盤地質図、地質図に照らすと、横山製粉現工場の付近をかつて小河川が流れていたことが窺えます。2006(平成18)年の地盤地質図では「谷底平野」ですが、1956(昭和31)年では「現河川」堆積物でした。1961(昭和36)年空中写真が「現河川」を裏付けています。この小河川は鉄路をくぐって月寒川に注いでいました。

 参考までに、現在の河川網図でこの付近の川の流れを俯瞰します。
河川網図 白石本通周辺
 月寒川は旧河道とは断ち切られ、鉄路の北でほぼ真北へ直線化されています。古い地形図を見ると、鉄路の北側の直線的流路は元からあったようです。泥炭地の「大谷地原野」の排水路として開削されたものでしょう。こちらに流路変更されたのは昭和40年代とみられます。
 旧月寒川のほうには暗渠排水が注いでいます。その一つ、鉄路沿いの「本通西排水」が、横山製粉工場のあたりを流れていた小河川の名残のようです。

 ということで、横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました。「だから、何なのだ?」ということまで、まだ至りません。

2020/03/03

北海道の特徴

 新型コロナウイルスの感染者数は、国内では北海道がもっとも多くなっています。北海道知事は2月28日、「非常事態宣言」を発しました。知事の記者会見を聴いて気になったことがあります。「北海道の都市構造上の課題」という言及です。曰く「北海道の特徴ですが、大きな都市に人が各地域から集まって、当然のことですけれども、その方々が地域にまた、帰っていかれるわけです」と(末注①)。
 これは「北海道の特徴」なのだろうか。本州では新幹線や高速道路などでかなり遠くからも東京と行き来していると思います。東京との行き来に限らず、他の都市圏でも地方との往来は見られます。北海道は、他府県と比較してその往来が顕著なのでしょうか。

 私は、「北海道の特徴」というなら「広域性」と「人口密度の低さ」ではないかと思います。
 よく言われることですが、内地人(末注②)は北海道の広さを錯覚しています。たとえば、私の部屋の壁に貼ってある日本地図です(公財国土地理協会)。
国土地理協会カレンダー
 北海道と内地が異なるスケールで描かれています。北海道は250万分の1、内地は150万分の1です。北海道のほうが小さいのですが、視覚的にはスケールをつい忘れてしまいます。
 私自身は40ン年前に初めて北海道に来たときに実感しました。実際に北海道に上陸するまで、函館と札幌の間を「目と鼻の先」と勘違いしていたのです。たとえるなら、北九州と福岡の間くらいかと思ってました(北九州-福岡間は約70㎞、函館-札幌間は小樽周りで約280㎞)。連絡船で函館に着いて、昼過ぎに急行(倶知安-小樽周りのいわゆる山線)に乗り、札幌に着いたのが夜9時前でした(末注③)。

 昨年宇都宮市で開催された「石のまち宇都宮シンポジウム」での佐藤俊義さんの「札幌軟石」発表です(末注④)。
石のまち宇都宮シンポジウム 佐藤さん発表
 佐藤さんは、札幌軟石が道内の広域に普及したことを地図で説明しました。ひときわ反応が大きかったのが、北海道の地図を本州に重ねた画像です。聴衆から「おぉ」というざわめきが起きました。前述した「内地人の錯覚」は今も根強いのではないかとあらためて感じたひとときです。

 上掲の北海道-本州重ね合せ画像を見ると、北海道の面積は首都圏から名古屋圏を含めて関西圏まで達します。新型コロナウイルスの感染者数はどうか。
 北海道76名に対し、画像で北海道と明らかに重なる13都府県の感染者数は以下のとおりです(末注⑤)。
 栃木県1名、千葉県13名、東京都37名、神奈川県24名、石川県4名、長野県1名、岐阜県2名、静岡県1名、愛知県32名、三重県1名、京都府2名、兵庫県1名、和歌山県11名。合計130名。
 広域性や面積を同等にして較べると、感染者数は明らかに内地のほうが多い。広域性という点では、内地も広域にわたっています。私が「北海道の特徴」として前述した「広域性」というのは、単一の自治体が管轄している広さ、という意味です。今さらいうまでもない当たり前のことではあります。
 これも今さらですが、北海道の特徴というのは結局、広域の単一自治体に比して人口が少ないこと(人口密度の低さ)ではないでしょうか。
 主な感染者数の対人口比は次のとおりです(末注⑥、比率は百万分比ppm)。
 日本全国:230名/126,443(千人、以下同)=1.819ppm
 前述13都府県:130名/58,400=2.226ppm
 北海道:76名/5,286=14.377ppm(札幌:16名/1,970=8.121ppm)
 東京都:37名/13,822=2.676ppm
 千葉県:13名/6,255=2.078ppm
 神奈川県:24名/9,177=2.615ppm
 石川県:4名/1,143=3.499ppm
 愛知県:32名/7,537=4.245ppm
 和歌山県:11名/935=11.764ppm

 北海道と和歌山県が‘桁違い’です。北海道が対人口比で突出しているのはなぜか(末注⑦)。インフルエンザが冬季間に流行することにちなんで、「寒いからか」と当初思いましたが、東北地方はほとんど検出されていません。むしろ、外気が寒いことではなく、内気が暖かいことでしょうか。つまり、寒冷地仕様の道内の建物です。室内の高気密性、いいかえれば密閉度が高いことが影響しているのではなかろうか。公衆衛生学の知見を要するので、私の手には負えません。

 注①:北海道ウエブサイト「知事定例記者会見」ページ→http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tkk/hodo/pressconference/r1/r20228gpc.htm
 注②:「内地」という用語については2018.8.25ブログ末注、2015.5.14ブログ冒頭記述参照
 注③:いくら山周りの急行とはいえ、かくも長時間を要したのは、前日まで道内の国鉄が全線ストップするほどの荒天(大雪)のためだった。2015.3.13ブログ参照
 注④:2019.12.14ブログ参照
 注⑤:厚生労働省3月3日発表https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000602374.pdfによる。
 注⑥:感染者数は注⑤と同じ。人口は総務省ウエブサイト「人口推計(2018年10月1日)」ページhttps://www.stat.go.jp/data/jinsui/2018np/pdf/tables.pdfによる。札幌市の感染者数は3月3日報道、人口は「広報さっぽろ」3月号による。
 注⑦:北海道新聞2月26日朝刊記事「道内感染者はなぜ多い」では、「検査数が比較的多い」「冬の一大観光地」という要因のほか「屋内施設で余暇を過ごす時間が増え、飛沫や接触による感染が起きやすい」と指摘している。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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