札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/06/24

丘珠のサイロ その後

 本年2月20日ブログに、東区丘珠町に遺る札幌軟石製サイロのことを記しました。その後、探偵さながらにこのサイロの由来をたどりましたので、その顛末を報告します。
 土地の登記簿を追えば所有者はすぐわかるのでしょうが、前回のブログに書いたようにもともとの所有者がT農場であることに当たりが付きました。現在、N倉庫という名前の会社を経営しています。その所在地の東区苗穂町に、まず行ってきました。
 ただし、正直言って望み薄でした。私の記憶では、T農場が丘珠にあったのは遅くとも1980年代までです。30年以上も前の農場時代のことを、会社の今の人が知っているかどうか。しかもサイロが建てられたのは、それよりさらに前です。ネットで当該会社を検索すると、社長はT農場の経営者のご子孫と思われます。社長に取り次いでくれれば、かすかな可能性はあるかもしれません。
 会社に行ってかくかくしかじか用件を述べました。応対した社員の方は「うーん」と首をひねったきりです。私は「こちらの経営者の方がもともと営んでおられた農場だと思うのですが…」と誘い水をかけましたが、くだんの社員氏は「社長が知っているかなあ」と。「では社長に訊いてみましょう」とは言ってくれません。「ご存じのことがないかどうか、社長にお訊きしていただけませんか?」と喉まで出かかりましたが、「もし何か判ったらお知らせください」と連絡先を伝えて辞去しました。
 いかに鈍感な私でも、こういうときのその場の空気というのは察します。つまり、私が土地や建物などの歴史を調べるに当たって、お尋ねする持ち主や関係者がこちらに親和的であるかどうかの空気です。私の経験則でいうと、市街化調整区域にお住まいの方はおしなべて親和度が高い。逆に市街地で、人口密度が高くなるほど親和度は低くなる。今回の場合は後者に当てはまりました。先方が当方に協力する筋合いはまったく何もないのですから、致し方ありません。
 案の定というべきか、3か月近く経ちますが先方からはお返事はありません。空振りに終わっても、できるだけめげることなく(ある意味では、‘場の空気’にむしろ鈍感になって)、逆にそれを糧にして次の一歩を踏み出しましょう。それにしても、時空逍遥するようになって、靴底の減るのが早い。[つづく]
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2017/06/23

篠路 カネヨ K商店石蔵

 6月19日ブログでお伝えした「丸〆街道」を歩いてみようと、篠路へ行ってきました。
 古道を歩く前に、現在の街道を通ったところ…。
篠路3条 Aさん宅 庭
 6月2日ブログに記したAさん宅のお庭は、綺麗に整地されていました。

 樹々が生い茂っていた頃の写真も前に撮っていたので、往時を偲び載せておきます。
篠路3条 Aさん宅 庭 2015年
 2015年春の撮影です。

 そしてこのたび、すぐ近くの別のところにも重機が入っていました。
篠路 カネヨ 石蔵 解体中
 ここは、つい最近まで建物があったのですが。

 あったのは、K商店の石蔵です。
 篠路 カネヨ 石蔵 2015年在りし日
 札幌軟石(画像は同じく2015年撮影)。建築年を確かめたいとかねがね思っていた矢先のことでした。

 軟石が一塊、残っていました。
篠路 カネヨ 石蔵 残骸
 解体中の現場に遭遇したのも、これを見納めるよう、軟石の神様が私を呼び寄せたのでしょう。
 
 近くで、小学生の下校の交通安全に立っていたおじさんが、ずっと解体工事を見守っていました。「Kさんの石蔵、解体されたんですね」と話しかけたら、「いたましいねえ。残しておけば、篠路の財産になったのだが…」と惜しんでいました。地元の町内会長をしていたTさんという方です。Tさんによると「昔は、近在の農家は皆ここから酒や味噌を買っていた」と。さらに「ここには古い大きな釜があったが、今は屯田の郷土資料館にある」とも。近いうちに行って確かめてこよう。

 大著『シノロ -140年のあゆみ-』(6月19日ブログ参照)を執筆したH先生に電話して本件をお伝えしたところ、H先生も残念がっておられました。
 取壊しの瞬間を目の当たりにすると、つい喪失感が募ってしまう私です。およそ万物は流転するものであり、個人の財産の処分に第三者が口をはさむ筋合いはないのですが。解体重機の鳴らす音、諸行無常の響きあり。

2017/06/22

北海道マガジン「カイ」 連載始まりました。

 ウエブ雑誌「北海道マガジン『カイ』」(㈱ノーザンクロス運営)で、当会協力の連載が始まりました。「札幌建築鑑賞会と歩く 愛され建築」というシリーズで月一回、半年間の予定です。どうぞご覧ください。
 初回は「サッポロ珈琲館 平岸店」です。この建物のことは拙ブログでも以前に紹介しました(2016.1.5ブログ参照)。今回は、そのエッセンスも加味した上で、建物を店舗として再生させた経営者の伊藤栄一さんの思いが綴られています。リンゴの貯蔵庫兼撰果場としての元の用途に喫茶店としての再利用が上書きされた、いわば歴史の重層的な積み重ねを感じとっていただければ幸いです。
 …と初回の出だしを喜んでいましたら、この建物のことが別のサイトでも取り上げられていました。「道新りんご新聞」ウエブ版です。しかも、そちらのほうが一足早い。先を越されました! いや、マスコミじゃあるまいし、「抜いた、抜かれた」などと料簡の狭いことは申しません。札幌軟石の建物がウエブ上でいろいろ発信されるのは喜ばしいことです。各サイトを読み比べてそれぞれの切り口、展開を味わっていただくのもよいかと思います。併せて、実際の建物に足を運んで珈琲も味わっていただけたらなお嬉しい。 

2017/06/21

西牧場2号橋(承前)

 昨日ブログでお伝えした「西牧場2号橋」の謎解きです。
 
 橋名は、この通りの名前に由来するのではないかと思いました。
西牧場第2号通
 「西牧場第2号通」です。
 
 位置関係を地図で確認しておきます。
昭和10年地形図 西牧場周辺
 昭和10年地形図から抜粋しました。赤い○で囲ったところが、現在西牧場2号橋があるあたりです。この時点ではまだ道路が敷かれていません。では、現在の西牧場第2号通の原形となった道は、というと、濃い茶色でなぞったのがそれです。この道を北西に延ばしていって赤い○までいったところで後年架けられた橋が、西牧場2号橋です。 
 橋名の2号は、通り名の第2号のことではないか。そう考えると、「1号橋」がないことの説明がつきやすい。
 
 しかし、まだ疑問は残ります。西牧場第2号通ということは、「第1号通」があるのか? そもそもなぜ「西牧場」なのか?
 札幌市北区役所発行の「北区ガイド」に載っている地図を見ても、「第2号通」は書かれていますが、「第1号通」は見当たりません。ただし、郷土史の文献を見ると、どうも「第2号通」の南側を通る道路が「第1号通」だったようです(末注①)。前掲地図で薄い茶色でなぞったのが、その道です。この道は北西へ延ばしていっても、赤い○のところへは達しません。道路が新川と平行していないため、途中で新川にぶつかってしまうからです。よって、第1号通に因む「第1号橋」は存在しなかったのでしょう。
 
 次に、なぜ「西牧場」なのか。
 結論的にいうと、現在の新川条丁目の一帯にはかつて、「西牧場」と呼ばれた地区がありました。前掲図で橙色で囲ったところが西牧場です。ちなみに、現在の琴似栄町通を境目にして、その東側が「東牧場」でした(末注②)。地図を見ると、現在の「西牧場第2号通」は、かつての「西牧場」の一帯とは一致しません(末注③)。西牧場が市街化されていったことにより、域外の縁辺部の道路名や橋名に名残をとどめることになった。私の推理です。

 西牧場第2号通に面して、サイロと牛舎が遺っています。
こすもす保育園 なんちゃってサイロ
 というのは目の錯覚で、なんちゃってサイロです。

 その近くの「新川サイロ公園」にも…。
新川サイロ公園 
 なんちゃってサイロがあります。
 
 注①:『新川百年』1990年、p.600掲載の現況図に、「西牧場第一号線」「第二号線」という表記が見られる。ただし「第一号線」がのちに「第1号通」となったかどうか、断定はできない。また、現在の「第2号通」はかつての「第二号線」のうちの、天狗橋以西である。
 注②:『新川郷土史』1980年、p.16、『新川百年』pp.51-53参照。ちなみに、現在「第2号通」が通るあたりはかつて、「部有地」と呼ばれた。「新琴似兵村部落会所有地」の略称という。
 注③:『新川百年』によると、西牧場第一線、第二線(第2号通)はさらに前、「裏二番通」「裏一番通」と呼ばれた(p.623)。これは、新琴似屯田兵村の「一番通」「二番通」…の「裏」の通りということか。

2017/06/20

西牧場2号橋

 6月16日ブログで、7月に催される鴨々川にちなむ二つの行事をお知らせしました。そのうちの一つ、7月17日の豊平館での講演会「鴨々川・創成川からたどる札幌の歴史」は、7月19日午前9時の受付開始から30分で定員(30名)に達してしまったそうです。うーん。最近はこういうテーマが受けるのですかね。期待外れにならぬよう、プレッシャーがかかります。

 だからというわけでもないのですが、ブログでも川の話題を…。
 北区と手稲区の区界を、発寒古川という川が分かっています。
西牧場2号橋
 この「古川」のことはおいおい記していきたいと思いますが、今回はその川に架かる橋のことを取り上げます。

 「西牧場2号橋」です。
 今年の4月にこの橋を渡ったときに、ちょっと気になりました。気になったので、橋名板を写真に撮っておきました。欄干には、牛が草をはむ絵柄のレリーフも飾られています。
 さて、私が気になった理由は、二つあります。
 まず、「西牧場(にしまきば)」。なんで、ここが「西牧場」なのか? 場所は前述したように北区と手稲区の区界で、北区側の現在の町名は「新川西」の条丁目、手稲区のほうは「前田」の条丁目です(末注)。まあ、前田にも新川にも牧場が多くあった(今もある)ので、「まきば」と命名されても不思議はなかろうと漠然とは思いました。ただ、「西」と付くのが、微妙にひっかかります。
 二つ目は、「2号橋」。「西牧場1号橋」は見当たりません。なんで、「2号」なのか? まあこれも、「以前『1号橋』があったが、撤去されたのかなあ」くらいに、いったんは思いました。

 注:厳密にいうと、現在の発寒古川の流れと手稲区・北区の区界は、少しずれている。たぶん、河川改修で川の流れが変わったが、区界は旧河道に残ったためであろう。西牧場2号橋のあたりは手稲区に属している。

2017/06/19

篠路 丸〆街道踏切

 JR札沼線の、篠路駅から600mあまり北にある踏切です。
JR札沼線 丸〆街道踏切
 「丸メ街道踏切」という命名標識が付いています。

 「丸メ」と書いて「丸〆(しめ)」と読むのでしょう。
JR札沼線 丸〆街道踏切 表示板
 この丸〆の由来は何ぞや?

 郷土史の文献をひもといたら、『シノロ-140年のあゆみ-』2003年に記述されていました。同書はA4判全1041ページに及ぶ大著で、本件踏切のことだけで6ページ余(!)にわたって言及されています(pp.469-475)。少しのことにも先達はあらまほしきを、また実感しました。
 さて、同書の記述を以下要約します。
・丸〆街道は、篠路から茨戸方面に至るもっとも古い道であった。篠路本村(現在の木田製粉のあたり)から伏籠川の旧河道に沿って通じていた。
・現在の篠路8~9条4~6丁目あたりが、かつて丸〆という地名で呼ばれていた(末注)。
・この地区の水田で取れたコメは昭和戦前期、「丸〆米」という名で知られ、良質米だった。
・丸〆の由来は「現在のところ分からない」。古老の話によると、街道の入口(現在の木田製粉のあたり)で渡辺という老人が「豆縄」を作って売っていた。縄→しめ縄→縄屋の通り→丸〆街道という由来か。

 丸〆の由来は定かではないが、かつてあった縄屋によるのかもしれない、というのが同書の結論です。篠路に丸〆という俗称地名があったことを私は初めて知りました。

 なお、同書では札沼線の他の踏切も写真を載せ、そのうち「加藤作場踏切」について次のように記しています(p.475、引用太字)。
 ひまわり団地の造成が昭和39年頃かわ(ママ)始まり、住宅もぞくぞく建築されたのですが、通勤客は最寄りの駅がぜひとも欲しいところです。待望の拓北(東篠路-昭和63年駅名改正)駅ができたのですが、駅の向かい側の住民は踏切がないと不便ですね。それで、駅の西側に立派な踏切があるのですが、良く見ると<加藤作場踏切>とプレートが付いているではないですか。
 このことから、近くに踏切が有る場合は、簡単には新設ができず、苦肉の作(ママ)として、本誌の発行者責任者(ママ)であります加藤家の農場にあった踏切を、この駅の近くに移設すると云うことでJRに認めさせたものと推測しますが、推測は当たっているでしょうか。そんなに簡単に新設・名義変更はできないようです。ですから、いまだに、<丸〆街道踏切><加藤作場踏切>の名称が残っているのです。昔の様子をさぐるのに、踏切が役立つとは、今回初めて気が付いたしだいなのです。


 この郷土史を執筆された先達も、我が党の士でした。
 加藤作場踏切については私も、昨年12月31日ブログに記しました。くだんの踏切の由来となったKさん(篠路町拓北)から聞き取った話によれば、踏切はもともと、現在の場所よりも東にあったそうです。「近くに踏切が有る場合は、簡単には新設ができ」なかったかどうかは別として、踏切が移設され、元の名称が引き継がれたという点で、前掲書の「推測」は当たっていると私は思います。

 注:同書p.707、712にも、古老への聞取りに基づき「丸〆地区」という表記あり。

2017/06/18

北大医学部管理棟のファサード

 昨年7月28日ブログで、北大医学部建物の正面に現れた古典様式について記しました。
北大医学部管理棟 正面
 これを見たとき、「いったい、何じゃらほい?」と私は思ったものです。
 先日催した札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で、Ⅰ先生に本件の顛末について解説していただきました。仔細は、北海道医史学研究会という団体の会報『北辰』第10号2010年1月に医学部寺沢浩一先生がⅠ先生との連名で述べられています。「遠足」で配布した資料にその写しを載せましたが、一般にはなかなか見る機会がないと思いますので、かいつまんで紹介します。

 ひとことでいうとこの古典様式は、医学部旧本館の外観正面に施されていた意匠を再現したものです。旧本館は1923(大正12)年に建てられ、1967(昭和42)年頃解体されました。前掲画像の現建物(医学部管理棟)はその後に建てられ、2010年に改修されたものです。改修に当たり、「医学部創立九十周年記念事業」の一環としてかつての意匠が再現されました。道理で、キッチュな、もとい、なんとも不思議な印象を受けたわけです。

 ブロークンペディメント(破風、白い△の部分)にあしらわれたレリーフは「メダイヨンに植物」だそうです(メダイヨンは楕円形のメダル状のもの)。
北大医学部 管理棟 正面 レリーフ
 このレリーフは、モデルとされた建物を載せた外国の建築関係雑誌をⅠ先生が北大の図書館で見つけました。モデルではメダイヨンに人魚の意匠でしたが、「当時の日本では怪奇なモチーフを抽象化して受け入れやすい形にされることが一般であったため」(前掲書、Ⅰ先生)、植物に変えられたと見られます。その後、Ⅰ先生によってさらに見つけられた医学部本館の新たな設計図面には、レリーフの細部が詳しく描かれていました。
 前掲書では、本件レリーフは「当時、既に国内の洋館に使われるようになっていた『メダイヨンに植物』が見本だったと考えられる」としつつ、「医学的な意味は特に認められなかった」と結論付けています。私には、メダイオンの両脇に伸びた蔓状の二本が、聴診器に見えてしまうのだが。
 とまれ、これらの史料に基づき、2010年、改修された建物にレリーフが施されたのです。

 ちなみにⅠ先生は正面意匠全体の再現には、「やめたほうがいいですよ」とお勧めをしませんでした。たしかに、こういう擬古調というのは難しいですね。Ⅰ先生の指摘によると、ペディメントの下のデンティル(歯状飾り、縦長のギザギザ)やバルコニーの手すり子が簡略化されています。なるほど、そういうところでキッチュ感が醸されるのだなあ。私は本件を、新さっぽろにあるカラオケ屋のファサードと見紛うてしまいました。
 この建物もあと何十年かしたら、北大の他の様式的建築(古河講堂とか旧農学校校舎)のように風景に融け込むのだろうか。うーん。建物(の意匠)というのは、その時代の思想の一表現だと思う。ある意味では、擬古調が時代の怪しげな空気を伝えているといえるのかもしれない。こういうのに、ふっと靡いてしまう私でもあります。

2017/06/18

札幌のカルチェ ラタン

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足・2017初夏の編」を催しました。
大人の遠足2017初夏の編 第二農場
 今回歩いたのは北大の北キャンパスです。6月15日と17日の二回で、計66名が参加しました。一回目はあいにくの雨でしたが、二回目は好天に恵まれました。解説は、昨年の「秋の編」(北大・南キャンパス)に続き、大学院工学研究院のⅠ先生です。
 Ⅰ先生のお話をお聞きして、あらためて想いました。何気なく見過ごしている(あるいは、当たり前に受け止めている)風景のひとこまひとこまに、色々な物語が塗り込められていることを。
 「風景」というのは、いうまでもなく建物に限らず、土地、草、木、道、川(水)、空気、におい…もろもろです。その「物語」というと心地よく響きますが、正と負、光と影の両側面を持ちます。その矛盾、対立、葛藤、止揚…の積み重ね(の認識)が「歴史」といえるのかもしれません(最近一知半解な哲学に凝っていて、すみません)。
 …と記してきて、昨年の「秋の編」のときのブログを読み直したら、そのときも「大袈裟に言えば、『人の生き方とは何ぞや?』と自問・内省したくなるような小旅行でした」などと哲学的?なことを述べていました(2016.10.23ブログ参照)。

 北大構内に遺る唯一?の石畳の道です。
北大 石畳
 かつてはこの石畳があちこち敷かれていましたが、この場所を除いてすべて取り払われたそうです。なぜ取り払われたか、Ⅰ先生からお聞きしました。
 話は半世紀近く前、「大学紛争」にさかのぼります。当時、学生がこの石畳を割って、投石に使いました。大学当局としては、そのような凶器(になりうるモノ)は撤去したほうが無難と判断したのでしょう。私はこの石畳を「“札幌のカルチェ ラタン”の遺構だなあ」と、見つめました(末注)。「なくなった」という歴史を、遺ったモノが語っている。
 
 注:私自身は「大学紛争」が収束して何年もたってから入学しているので、投石の経験はない。Ⅰ先生は私よりさらに後年に入学しているので、やはり直接の体験者ではない。

2017/06/16

鴨々川をたどって探る札幌の歴史

 鴨々川にちなむ行事が二つ、7月に開催されます。

 一つは豊平館での講演会です。
豊平館講演会案内
 「鴨々川・創成川からたどる札幌の歴史」をテーマに話をします。

 もう一つは恒例?の「鴨々川 川めぐりウォーキングツアー」です。
鴨々川ツアー 案内2017
 鴨々川の上流に沿って、散策の案内役を務めます。

 豊平館での講演会は座学なので、古地図や古写真などを落ち着いてお見せできるという利点があります。座学ならぬ座楽になるよう心掛けたいと思います。
 ウォーキングツアーのほうは今年で三回目なので、よく言えば完成形に近づきつつあります。が、悪く言えばマンネリ化の恐れがあります。参加される方は初めての方がほとんどだと思うので、マンネリ化は必ずしも悪くもないのですが、案内する立場としては、できる限り新味を試みたいものです。

 上記画像が見づらい場合は、下記ファイルをご覧ください。
●豊平館講演会 → http://www.s-hoheikan.jp/wp/wp-content/uploads/2017/05/A4_170717.pdf
 (注:6月19日から電話にて先着順受付です)
●鴨々川ツアー → http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/kasen/documents/h29kamokamogawa_walkingtour.pdf
 (注:7月13日締切、申込多数時抽選)

2017/06/15

阿部神社 ⑤

 豊平神社です。
豊平神社
 主祭神は上毛野田道命で、津軽の猿賀神社から分祠されました。

 宮司さんにお尋ねしました。
 私「こちら(豊平神社)はもともと阿部仁太郎にゆかりがあり、本社は猿賀神社と聞きます。お祓いに出向かれている厚別旭町のT社屋上の猿賀神社も、(敷地の)元の地主は阿部さん(二代目仁太郎)です。あの(T社の)神社も、阿部仁太郎にゆかりがあると思えるのですが…」
 宮司「(札幌で)猿賀神社のご分霊は、うち(豊平神社)とあそこ(T社の神社)だけですからね…。私の父が宮司をしていたときのことですが、なんでもT社の先代社長が『もともと(敷地に)あった神社なので粗末にできない』と言って、ビルを建てたときに(屋上に)祀ったと聞いています」
  
 T社屋上の猿賀神社の由来を物語る伝聞情報が得られました。かつての阿部神社(旭町神社)を遷座した可能性が濃厚です。煉瓦造倉庫(本年3月30日ブログ参照)に続く、厚別旭町に遺る阿部仁太郎ゆかりの物件第二号であります。

 話は前後しますが、T社屋上の猿賀神社が建立(遷座)されたのは、社屋が建てられたときと思われます。T社での聞取り及び同社サイトによれば、それは1971(昭和46)年です。前述の豊平神社宮司さんのお話からすると、その頃までどうやら阿部神社が一隅にあったようです。

 …と、ここまで記してきて、読者の中には疑問を持った方もいらっしゃることでしょう。それは6月12日ブログに記したことです。すなわち、阿部神社(旭町神社)は1944(昭和19)年、信濃神社に合祀されたという史実です。戦前に合祀されたはずの神社が、戦後の昭和40.年代まで現地に遺っていた?

 この謎をどう解けばよいのでしょうか。
 合祀された先の信濃神社の周年記念誌(末注)をひもとき、こんどは信濃神社を尋ねました。その顛末は…。
 本シリーズもかなり長くなりましたので、顛末は端折りまして結論を先に述べます。豊平・信濃両神社での聞取り等をふまえると、阿部神社は信濃神社に合祀されつつ、分祠として(いわば阿部家の個人祭祀用に?)現地に遺っていたのではないか。ただし確証はまだありません。現時点の仮説・推測です。私の厚別での師匠で郷土史家のMさんほか諸先達に近々お尋ねしようと思います。読者諸賢におかれてもご存じのことがありましたら、お知らせいただければ幸いです。わかりしだいあらためてお伝えすることとして、これでひとまずの区切りとします。[おわり] 

 注:『鎮座九十年記念誌 信濃神社今昔』1988年、p.68、『信濃神社鎮座百周年記念誌 信濃神社百年』2000年、p.103参照

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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