札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
この志向・嗜好は、人生を暗示しているのだろうか。
北海道新聞本日(2023.5.26)別刷「さっぽろ10区」記事に取材協力しました。

よかったらご覧ください。
1面の「さっぽろ今昔物語」特集「バッタ塚」です。
道新には先月、やはり「さっぽろ10区」の特集記事「さようなら、記念塔-愛され半世紀」(4月11日ブログ参照)、今月上旬の本紙札幌版連載「百年記念塔の見えるマチ 変わる風景 変わらない思い」(5月12日ブログ参照)で取材協力しました。これらはタイトルのとおり北海道百年記念塔の関係です。
そして今回は手稲山口バッタ塚。共通しているのは何か。塔と塚? モニュメントか。
塔と塚の位置を地図上に示します。

北海道百年記念塔が青い●、手稲山口バッタ塚が赤い●の地点です。札幌市の市界を赤い実線でなぞり、市域を網掛けしました。
どちらも、境目に位置しています。札幌の中心部から見ると、端っこです。私は、あるときは東北の端っこ、あるときは西北の端っこに出没していることになります。端っこが好きなんですね。文化は辺境に宿る、というのは拙ブログを貫くバックボーンかもしれません。辺境は、人為的な中心部から見れば、という一視点にすぎないともいえます。それにしても、端や境目というのは何か刺激的です。

よかったらご覧ください。
1面の「さっぽろ今昔物語」特集「バッタ塚」です。
道新には先月、やはり「さっぽろ10区」の特集記事「さようなら、記念塔-愛され半世紀」(4月11日ブログ参照)、今月上旬の本紙札幌版連載「百年記念塔の見えるマチ 変わる風景 変わらない思い」(5月12日ブログ参照)で取材協力しました。これらはタイトルのとおり北海道百年記念塔の関係です。
そして今回は手稲山口バッタ塚。共通しているのは何か。塔と塚? モニュメントか。
塔と塚の位置を地図上に示します。

北海道百年記念塔が青い●、手稲山口バッタ塚が赤い●の地点です。札幌市の市界を赤い実線でなぞり、市域を網掛けしました。
どちらも、境目に位置しています。札幌の中心部から見ると、端っこです。私は、あるときは東北の端っこ、あるときは西北の端っこに出没していることになります。端っこが好きなんですね。文化は辺境に宿る、というのは拙ブログを貫くバックボーンかもしれません。辺境は、人為的な中心部から見れば、という一視点にすぎないともいえます。それにしても、端や境目というのは何か刺激的です。
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森林公園の百年記念塔(承前)
5月14日ブログの続きです。
JR森林公園駅(西側駅舎)を“なんちゃって記念塔”と認定しました。

確信した根拠は何か。夫婦尖頂のナナメカットというモチーフだけではありません。
駅舎と北海道百年記念塔の位置関係です。

現在図で、二つを赤い実線で結びました。駅舎と記念塔は、東西の正方位に位置しています。
ということは、この軸線上では年に二日、お日様は百年記念塔から昇って、森林公園駅の駅舎(西側)に沈むのでしょうか。春と秋のお彼岸(春分の日と秋分の日)です。あるいは、森林公園駅から真東の記念塔を眺めたとき、年に2回、ダイヤモンド富士ならぬダイヤモンド記念塔が拝めるということか。なんだか、古代遺跡にありそうな祭祀性を彷彿させます。マチュピチュの神殿は夏至の日に太陽光が差し込むようにできているとか。とまれ、これが私がなんちゃって記念塔を確信した所以です。
1985年の空中写真で、森林公園駅と百年記念塔を結びます。

駅舎が建てられて間もない頃です。まだ付近にほとんど家屋が建て込んでいなかったでしょう。お日様の軌道が確かめられたかもしれません。記念塔からみて駅舎が真西に立地したのは偶然としか思えないのですが、実は計算し尽くして配置し、なんちゃって記念塔をあしらったのだろうか。
JR駅と記念塔の東西軸で、標高の断面図を作りました。

グラフの左端がJR駅、右端が記念塔です。赤い▲を付けたところに高校があります。
この高校の校舎屋上からだと今でも、記念塔から朝日が昇って駅舎に夕日が沈むのを見れるかもしれません。
だいぶ前にお伊勢参りをしたとき、二見浦に泊まって夫婦岩のご来光を拝みました。

百年記念塔の夫婦尖頂のご来光も拝みたかった。
JR森林公園駅(西側駅舎)を“なんちゃって記念塔”と認定しました。

確信した根拠は何か。夫婦尖頂のナナメカットというモチーフだけではありません。
駅舎と北海道百年記念塔の位置関係です。

現在図で、二つを赤い実線で結びました。駅舎と記念塔は、東西の正方位に位置しています。
ということは、この軸線上では年に二日、お日様は百年記念塔から昇って、森林公園駅の駅舎(西側)に沈むのでしょうか。春と秋のお彼岸(春分の日と秋分の日)です。あるいは、森林公園駅から真東の記念塔を眺めたとき、年に2回、ダイヤモンド富士ならぬダイヤモンド記念塔が拝めるということか。なんだか、古代遺跡にありそうな祭祀性を彷彿させます。マチュピチュの神殿は夏至の日に太陽光が差し込むようにできているとか。とまれ、これが私がなんちゃって記念塔を確信した所以です。
1985年の空中写真で、森林公園駅と百年記念塔を結びます。

駅舎が建てられて間もない頃です。まだ付近にほとんど家屋が建て込んでいなかったでしょう。お日様の軌道が確かめられたかもしれません。記念塔からみて駅舎が真西に立地したのは偶然としか思えないのですが、実は計算し尽くして配置し、なんちゃって記念塔をあしらったのだろうか。
JR駅と記念塔の東西軸で、標高の断面図を作りました。

グラフの左端がJR駅、右端が記念塔です。赤い▲を付けたところに高校があります。
この高校の校舎屋上からだと今でも、記念塔から朝日が昇って駅舎に夕日が沈むのを見れるかもしれません。
だいぶ前にお伊勢参りをしたとき、二見浦に泊まって夫婦岩のご来光を拝みました。

百年記念塔の夫婦尖頂のご来光も拝みたかった。
森林公園の百年記念塔
北海道百年記念塔は野幌森林公園にあります。しかし本日の標題でいう森林公園は、そのことではありません。
JR函館本線の「森林公園」駅です(西側駅舎の正面)。

この駅と百年記念塔が、どう関係するか。もちろん、記念塔最寄りのJR駅です。
ホームの「名所案内」看板が、気になっていました。

「北海道100年記念塔」(原文ママ)が描かれています。
百年記念塔が姿を消したら、この「名所案内」はどうなるのかな。

もしかしたら、見納めになるのだろうか。余談ながら、「徒歩27分」「徒歩19分」とは、正確というか細かいというか。
ホームからのこの眺めも、もうすぐ見れなくなるのか。


気になっていたのは、この風景だけではありません。
ホームから、百年記念塔とは反対側の眺めです。

線路越しに、駅舎が見えます。冒頭画像に載せた、西側の駅舎です。
この駅舎にも、“なんちゃって記念塔”が潜んでいるらしい。昨年、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で北海道百年記念施設を歩いたとき、スタッフNさんからお聞きしました。
あらためて、西側駅舎正面を眺めます。

Nさんのそのときの口調はやや懐疑的で、私もすぐには気づきませんでした。
しかしホーム側からだと、てっぺんの時計塔が間近に目に入ってきます。

これで、伝わってきました。
本家記念塔の、在りし日のてっぺんと比べます。

“夫婦”状に長短2本、ナナメカットされた尖端です。
全体を比べます(右側の本家記念塔の画像は2022年6月撮影)。

ステンドグラスの絵柄を塔芯になぞらえましょう。その上にやはり夫婦状に2本、尖頂が立ち上がり、時計をサンドウィッチしています。
“なんちゃって百年記念塔”認定士を僭称する私としては、本件をぜひとも認定いたしたい(末注)。実は本件の“なんちゃって度”を確信するに至った根拠はさらに別にあるのですが、長くなったので次回に続けます。
注:北海道百年記念塔の造形規範性について、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2022秋の編「北海道百年記念施設は何を伝えるか」(2022.10.14及び10.23開催)配布資料にまとめた。記念塔のディテールから特徴的なモチーフを抽出して、対象物件の被規範度合い(なんちゃって度)を測る根拠としたものである。モチーフは夫婦尖頂、ナナメカット、サンドウィッチされた塔芯など。
JR函館本線の「森林公園」駅です(西側駅舎の正面)。

この駅と百年記念塔が、どう関係するか。もちろん、記念塔最寄りのJR駅です。
ホームの「名所案内」看板が、気になっていました。

「北海道100年記念塔」(原文ママ)が描かれています。
百年記念塔が姿を消したら、この「名所案内」はどうなるのかな。

もしかしたら、見納めになるのだろうか。余談ながら、「徒歩27分」「徒歩19分」とは、正確というか細かいというか。
ホームからのこの眺めも、もうすぐ見れなくなるのか。


気になっていたのは、この風景だけではありません。
ホームから、百年記念塔とは反対側の眺めです。

線路越しに、駅舎が見えます。冒頭画像に載せた、西側の駅舎です。
この駅舎にも、“なんちゃって記念塔”が潜んでいるらしい。昨年、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で北海道百年記念施設を歩いたとき、スタッフNさんからお聞きしました。
あらためて、西側駅舎正面を眺めます。

Nさんのそのときの口調はやや懐疑的で、私もすぐには気づきませんでした。
しかしホーム側からだと、てっぺんの時計塔が間近に目に入ってきます。

これで、伝わってきました。
本家記念塔の、在りし日のてっぺんと比べます。

“夫婦”状に長短2本、ナナメカットされた尖端です。
全体を比べます(右側の本家記念塔の画像は2022年6月撮影)。


ステンドグラスの絵柄を塔芯になぞらえましょう。その上にやはり夫婦状に2本、尖頂が立ち上がり、時計をサンドウィッチしています。
“なんちゃって百年記念塔”認定士を僭称する私としては、本件をぜひとも認定いたしたい(末注)。実は本件の“なんちゃって度”を確信するに至った根拠はさらに別にあるのですが、長くなったので次回に続けます。
注:北海道百年記念塔の造形規範性について、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2022秋の編「北海道百年記念施設は何を伝えるか」(2022.10.14及び10.23開催)配布資料にまとめた。記念塔のディテールから特徴的なモチーフを抽出して、対象物件の被規範度合い(なんちゃって度)を測る根拠としたものである。モチーフは夫婦尖頂、ナナメカット、サンドウィッチされた塔芯など。
旭川で時空逍遥-4 旭川にも、百年記念塔
北海道新聞朝刊の地域面ページで、北海道百年記念塔の特集記事が連載されています。「百年記念塔の見えるマチ 変わる風景 変わらない思い」(上・中・下)と番外編です。その「上」「中」記事に取材協力しました。北広島・江別版で「上」が5月9日、「中」が5月10日、札幌版ではそれぞれ5月10日と5月11日です。よかったらご覧ください。
電子版でも、登録すると閲覧できます。
↓
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/842692/
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/843350/
これが本日標題の旭川での時空逍遥(4月18日ブログ参照)と、関係するのか。それが関係するのです。
先月旭川を訪ねたとき、北海道百年記念塔と関係する物件を目の当たりにしてきました。

市内の、とある中学校の一隅に立ちます。その名も「久遠の塔」。
どう、関係するのか。実はこのオブジェは、百年記念塔と同じ材料で作られました。いわゆるコールテン鋼です(末注)。それも、ただ単に材質が同じというのではありません。百年記念塔を立てたときの“端材”を使ったというのです。
こうなるともう、私にはこのオブジェが百年記念塔の申し子に見えてきました。
あらためて、在りし日の本家記念塔を眺めます。

黄色の○で囲った尖端のナナメカットを拡大します。

このディテールをはじめ、塔体でサンドウィッチされた中心部などに、“気配”を感じてしまいました。
見る位置によって、フォルムが微妙に変わります。

百年記念塔に通じる表情の七変化です。
かようにありがたい物件を、私がはじめから知っていたわけではもちろんありません。「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の会合で、古参会員にして建築家のMさんから教えていただきました。Mさんの父上がこの中学校で校長を務め、百年記念塔の端材のコールテン鋼を貰い受けて、自ら制作したそうです。
Mさんは「たぶん、まだ(学校に)残ってるんでないかな」と言われました。それで翌日、確かめに行ったしだいです。ほかにも別の目的であちこち歩いた挙句だったので、現地には夕方たどり着きました。しかも冷たい雨にしとど濡れそぼる中です。帰途のバスで通りかかった常盤ロータリーの電光掲示を見ると、気温は2.0度でした。寒かった。しかし、行った甲斐がありました。
学校ウエブサイトの「沿革」ページによると、本件「久遠の塔」が建立されたのは1975(昭和50)年です。当時の校長先生はたしかにMさんと同じ苗字で、1972(昭和47)年9月に着任しています。とすると、制作されたのは1972-75年の間です。本家の記念塔は1970(昭和45)年に完成しました。端材がどこかに残っていたのでしょう。子どもであるMさんの伝聞なので、信ぴょう性が高く感じられます。
学校サイト沿革ページには、コールテン鋼のことまでは触れられていません。百年記念塔の申し子である(と勝手ながら認定します)ことは、もしかしたら忘れ去られていくかもしれません。貴重で稀少な情報を得られたのも、旭川の会のおかげです。
注:コールテン鋼について、2018.1.21、同12.24、2020.7.25各ブログに関連事項記述
電子版でも、登録すると閲覧できます。
↓
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/842692/
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/843350/
これが本日標題の旭川での時空逍遥(4月18日ブログ参照)と、関係するのか。それが関係するのです。
先月旭川を訪ねたとき、北海道百年記念塔と関係する物件を目の当たりにしてきました。

市内の、とある中学校の一隅に立ちます。その名も「久遠の塔」。
どう、関係するのか。実はこのオブジェは、百年記念塔と同じ材料で作られました。いわゆるコールテン鋼です(末注)。それも、ただ単に材質が同じというのではありません。百年記念塔を立てたときの“端材”を使ったというのです。
こうなるともう、私にはこのオブジェが百年記念塔の申し子に見えてきました。
あらためて、在りし日の本家記念塔を眺めます。

黄色の○で囲った尖端のナナメカットを拡大します。

このディテールをはじめ、塔体でサンドウィッチされた中心部などに、“気配”を感じてしまいました。
見る位置によって、フォルムが微妙に変わります。

百年記念塔に通じる表情の七変化です。
かようにありがたい物件を、私がはじめから知っていたわけではもちろんありません。「旭川の歴史的建物の保存を考える会」の会合で、古参会員にして建築家のMさんから教えていただきました。Mさんの父上がこの中学校で校長を務め、百年記念塔の端材のコールテン鋼を貰い受けて、自ら制作したそうです。
Mさんは「たぶん、まだ(学校に)残ってるんでないかな」と言われました。それで翌日、確かめに行ったしだいです。ほかにも別の目的であちこち歩いた挙句だったので、現地には夕方たどり着きました。しかも冷たい雨にしとど濡れそぼる中です。帰途のバスで通りかかった常盤ロータリーの電光掲示を見ると、気温は2.0度でした。寒かった。しかし、行った甲斐がありました。
学校ウエブサイトの「沿革」ページによると、本件「久遠の塔」が建立されたのは1975(昭和50)年です。当時の校長先生はたしかにMさんと同じ苗字で、1972(昭和47)年9月に着任しています。とすると、制作されたのは1972-75年の間です。本家の記念塔は1970(昭和45)年に完成しました。端材がどこかに残っていたのでしょう。子どもであるMさんの伝聞なので、信ぴょう性が高く感じられます。
学校サイト沿革ページには、コールテン鋼のことまでは触れられていません。百年記念塔の申し子である(と勝手ながら認定します)ことは、もしかしたら忘れ去られていくかもしれません。貴重で稀少な情報を得られたのも、旭川の会のおかげです。
注:コールテン鋼について、2018.1.21、同12.24、2020.7.25各ブログに関連事項記述
半端なトシのせいか、涙腺が緩む
“内地”の叔父夫妻が札幌を訪ねてきてくれました。叔父は母の弟に当たります。母と叔父夫妻は2016年12月以来、6年ぶりの再会です。私もこの3年余りはコロナのせいで遠出を控えていたので、2019年5月以来、4年ぶりに会うことができました。
6年前、母が郷里を離れて札幌に移り住んだとき(同年12月5日ブログ参照)、「叔父と母は、これが今生の別れかな」と思ったものです。齢90半ばを超えた母と、叔父はひとまわり以上、年が離れています。その叔父夫妻も、もう80代の前半、長旅は大変です。しかし、叔母が「元気なうちにもう一度、お義姉さん(母のこと)に会いたい」と決意して、遠路はるばる来てくれました。飛行機や宿は私が手配しましたが、老夫婦二人での移動です。叔父は耳が遠く、足腰がおぼつかなくなってきています。叔母は元気ですが、道中気苦労が絶えなかったようです。それでも、母との再会を果たせて、「お義姉さんは、(郷里にいたときよりも)元気だ」と喜んでくれました。

こういうことでもないと、母を連れての市内での遠出もなかなかできません。ジャンプ台のリフトに乗ったときは、小柄な母が落っこちないように、ぎゅっと抱きしめていました。母はおっかながりながらも、新緑が目に染みたようです。眼下に咲く小さな花を見つけて嬉しそうでした。

道庁赤レンガの前庭では、「ビルの中に、こんな緑があるのはいいねえ」とも。
あっという間の3日間の最終日、母と叔父夫妻の別れの場面では「こんどこそ、これで最後かな」と思いました。観ている私がおセンチ(古い)になります。母と叔父は、あっけらかんとしていました。さすが、老人力の域。
6年前、母が郷里を離れて札幌に移り住んだとき(同年12月5日ブログ参照)、「叔父と母は、これが今生の別れかな」と思ったものです。齢90半ばを超えた母と、叔父はひとまわり以上、年が離れています。その叔父夫妻も、もう80代の前半、長旅は大変です。しかし、叔母が「元気なうちにもう一度、お義姉さん(母のこと)に会いたい」と決意して、遠路はるばる来てくれました。飛行機や宿は私が手配しましたが、老夫婦二人での移動です。叔父は耳が遠く、足腰がおぼつかなくなってきています。叔母は元気ですが、道中気苦労が絶えなかったようです。それでも、母との再会を果たせて、「お義姉さんは、(郷里にいたときよりも)元気だ」と喜んでくれました。

こういうことでもないと、母を連れての市内での遠出もなかなかできません。ジャンプ台のリフトに乗ったときは、小柄な母が落っこちないように、ぎゅっと抱きしめていました。母はおっかながりながらも、新緑が目に染みたようです。眼下に咲く小さな花を見つけて嬉しそうでした。

道庁赤レンガの前庭では、「ビルの中に、こんな緑があるのはいいねえ」とも。
あっという間の3日間の最終日、母と叔父夫妻の別れの場面では「こんどこそ、これで最後かな」と思いました。観ている私がおセンチ(古い)になります。母と叔父は、あっけらかんとしていました。さすが、老人力の域。
コロナからコロナへ
昨日の夜、妻がケーブルテレビでCNNをつけていたので、珍しいなと思ったら、観ていたのは英国新国王の戴冠式でした。ヨーロッパの王室ものを好む世俗な妻です。昨年、先の女王が亡くなったとき、第一報を見て私は「これで英国の国歌が変わるな」とつぶやきました。すると妻は「当たり前でしょう」と。「わかりきったことを、したり顔で言うな」とばかりに鼻で笑われてしまいました。その後のニュースで「歌詞がクイーンからキングに変わりました」とたびたび伝えられており、それなりに新味があったとも思います。鼻で笑われたのでしゃくに障り、英国国歌の薀蓄をここぞとばかりしたり顔で語りました。彼の国は、立憲君主制を謳っている、と。彼我の違いです。
私が世俗でないかのように装って斜に構えてCNNを観ていたら、同時通訳が耳に入りました。「マルを群衆が埋め尽くしています」と。マルね。衛兵が行進する宮殿の前の通りをそうえいば、マルと言ったな。昔、習った覚えがあります。定冠詞theが付いて、頭文字のMが大文字になるらしい。後年、ショッピングモールの「モール」と同じ単語と知りました。The Mallだけはマルと発音するのか。CNNのテロップでこんどは、CORONATIONという綴りが目に入りました。日本で明日、コロナが“格下げ”されるに先立って、海の向こうの国でコロナが戴かれた。それで標題のオチです。
私が世俗でないかのように装って斜に構えてCNNを観ていたら、同時通訳が耳に入りました。「マルを群衆が埋め尽くしています」と。マルね。衛兵が行進する宮殿の前の通りをそうえいば、マルと言ったな。昔、習った覚えがあります。定冠詞theが付いて、頭文字のMが大文字になるらしい。後年、ショッピングモールの「モール」と同じ単語と知りました。The Mallだけはマルと発音するのか。CNNのテロップでこんどは、CORONATIONという綴りが目に入りました。日本で明日、コロナが“格下げ”されるに先立って、海の向こうの国でコロナが戴かれた。それで標題のオチです。
お知らせ2件
明日5月4日(木・祝)のSTV(5ch)「どさんこワイド179」で、前に出た“てくてく洋二”が再放送されます。昨年の札幌駅編です。
→ https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/index.html
6月に開催される「レトロ建築探訪ツアー」で、案内役を務めます。
→ https://peatix.com/event/3560867/view
主催するDiscover EZOについては、下記サイトをご参照ください。
→ https://discoverezo.jimdofree.com/discover-ezo%E3%81%A8%E3%81%AF/
おもな見どころは札幌市資料館(旧札幌控訴院)と三誠ビル(旧藪商事ビル)ですが、周辺(西13丁目~西18丁目界隈)も歩きます。個々の建物の鑑賞もさることながら、細部をたどりつつ、そのつながり具合を探りながら、土地の成り立ち、街streetが紡ぐ物語story-過去・現在・もしかしたら未来history-を浮き彫りにできたら、と目論んでいます。
→ https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/index.html
6月に開催される「レトロ建築探訪ツアー」で、案内役を務めます。
→ https://peatix.com/event/3560867/view
主催するDiscover EZOについては、下記サイトをご参照ください。
→ https://discoverezo.jimdofree.com/discover-ezo%E3%81%A8%E3%81%AF/
おもな見どころは札幌市資料館(旧札幌控訴院)と三誠ビル(旧藪商事ビル)ですが、周辺(西13丁目~西18丁目界隈)も歩きます。個々の建物の鑑賞もさることながら、細部をたどりつつ、そのつながり具合を探りながら、土地の成り立ち、街streetが紡ぐ物語story-過去・現在・もしかしたら未来history-を浮き彫りにできたら、と目論んでいます。
旭川で時空逍遥-3 軟石の蔵 再考
4月21日ブログの続きです。
旭川のNさん宅の石蔵が札幌軟石で積まれた理由を推測しました。なぜ、美瑛軟石ではなくて札幌軟石だったか、です。私は次のように記しました。
美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか。
結論的にいうと、これは撤回します。「札幌軟石ネットワーク」の事務局長、佐藤俊義さんに問い合わせた結果、私の推測は間違っている可能性が高くなりました。その仔細を説明します。
まず、私の当初の推測をあらためて整理すると、以下のとおりです。
軟石の強度・硬度・密度 : 札幌軟石>美瑛軟石
空隙率・吸水性 : 札幌軟石<美瑛軟石
美瑛軟石は空隙率が高い(隙間が多い)→密度が小さい(軽い)→強度、硬度が低い、水を吸いやすい→もろい、と考えました。端的に言えば、札幌軟石のほうが丈夫だった、と。だから、Nさん宅では蔵を美瑛軟石ではなく札幌軟石で建てたのだろう、と。
佐藤さんによれば、実際は“真逆”です。つまり、美瑛のほうが札幌よりも、強度、硬度、密度において上回る。これは佐藤さんの体験的実感に基づきます。札幌軟石に爪を立ててこすると、筋目が入る。しかし美瑛は同じことをすると、爪のほうが負けてしまう。美瑛のほうが硬い。正確に測ったわけではなく感覚的ではありますが、美瑛のほうがずっしり重いそうです。
美瑛軟石は現在、採掘されていません(末注①)。道内各地で産出された軟石に精通しているのは、石材業者さんでも、もはや少なくなってきたことでしょう。佐藤さんは石屋さんではありませんが、今となっては軟石の違いを語れる第一人者と思われます。その佐藤さんが「これは推測ですが」と断って曰く「美瑛のほうが札幌よりも重いということは、空隙率が低い(隙間が少ない)のではないか」。
「ということは」とさらに続けて、「空隙率が高ければ、保温断熱効果も上回る。つまり空隙率の高い札幌軟石のほうが、美瑛軟石よりも保温性能が高くなる。とすると、モノを保存する蔵としては、札幌軟石が適していたのではないか」。
ちなみに、これも佐藤さんの文字どおり体感というか触感ですが、札幌軟石は美瑛軟石に比べて“温かみ”があります。美瑛のほうは花崗岩などに近い肌触りだそうです。これは組成の違い、ひいては熱伝導率の違いによるのでしょうか。例えば空気と水、金属では、熱伝導率は空気<水<金属で、金属は熱が伝わりやすい。石と金属ならたぶん、石<金属。同じ石でも軟石(凝灰岩)と花崗岩ではたぶん、軟石<花崗岩。同じ軟石でも札幌と美瑛ではたぶん、札幌<美瑛。外気温が(体温よりも?)低いときに金属と軟石に触ったら、金属のほうが冷たく感じられる。軟石と花崗岩(とりわけツルツルに磨かれた御影石)だったら、花崗岩のほうが冷たく感じられるだろう。美瑛軟石は、札幌軟石との比較では同じことがいえる(相対的に、冷たい)のではなかろうか。
閑話休題。
私は4月21日ブログを次のように締めくくりました(太字)。
(石蔵を建てた)Nさんの祖父には、石蔵といえば札幌軟石という既視感、信頼感、親近感もあったのではないでしょうか。
この結論に変わりはありません。ただし、その根拠となる札幌軟石と美瑛軟石の違いは、強度ではなく、(石蔵としての)性能にあったのではないか。同日ブログに記したとおり、Nさん宅には石塀もあったそうです。塀は美瑛軟石だったといいます。塀であれば、保温性能は求められません。しかも、塀としては硬いほうが向いているともいえます。同じ軟石でも蔵と塀で産地を使い分けたとして、特性による違いからすると、理に適っています。
一方で、石蔵の現当主Nさんは、美瑛軟石の塀はもろかったとも語っていました。本日ブログで述べてきた結論、すなわち美瑛軟石のほうが札幌軟石よりも硬いという特性からすると、齟齬も感じられます。札幌軟石の蔵と美瑛軟石の塀を直接較べたものではなく、漠然とした感触かもしれません。あるいは、ひょっとしたら、ですが、美瑛は硬いけれどももろい、という特性があるのでしょうか。これまで私は軟石の強度と硬度をいっしょくたにしてきましたが、硬度は高くても、強度は相対的に低い、とか。例えとして適切かどうか自信がありませんが、ガラスは硬いけれども割れやすい。またまた推測、というよりは憶測の域になってきました。これ以上は慎みます。
旭川が誇る軟石建物の逸品です。

旧宮北邸、1915(大正4)年頃の建築です(末注②)。
この建物の軟石が美瑛産とされています。どうして、本件は美瑛軟石で建てられたか。長くなりましたので、次回に続けます。
注①:札幌軟石ネットワーク「札幌軟石情報発信サイト」ウエブ「北海道の軟石文化」ページ参照
→ https://sapporonanseki.jimdofree.com/
注②:上川地方有数の製材業を営んだ宮北家の事務所として建てられた。北海道近代建築研究会『旭川と道北の建築探訪』2000年、pp.42-43及びウエブサイト「北海道文化資源データベース」参照
→ https://www.northerncross.co.jp/bunkashigen/parts/104027.html
旭川のNさん宅の石蔵が札幌軟石で積まれた理由を推測しました。なぜ、美瑛軟石ではなくて札幌軟石だったか、です。私は次のように記しました。
美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか。
結論的にいうと、これは撤回します。「札幌軟石ネットワーク」の事務局長、佐藤俊義さんに問い合わせた結果、私の推測は間違っている可能性が高くなりました。その仔細を説明します。
まず、私の当初の推測をあらためて整理すると、以下のとおりです。
軟石の強度・硬度・密度 : 札幌軟石>美瑛軟石
空隙率・吸水性 : 札幌軟石<美瑛軟石
美瑛軟石は空隙率が高い(隙間が多い)→密度が小さい(軽い)→強度、硬度が低い、水を吸いやすい→もろい、と考えました。端的に言えば、札幌軟石のほうが丈夫だった、と。だから、Nさん宅では蔵を美瑛軟石ではなく札幌軟石で建てたのだろう、と。
佐藤さんによれば、実際は“真逆”です。つまり、美瑛のほうが札幌よりも、強度、硬度、密度において上回る。これは佐藤さんの体験的実感に基づきます。札幌軟石に爪を立ててこすると、筋目が入る。しかし美瑛は同じことをすると、爪のほうが負けてしまう。美瑛のほうが硬い。正確に測ったわけではなく感覚的ではありますが、美瑛のほうがずっしり重いそうです。
美瑛軟石は現在、採掘されていません(末注①)。道内各地で産出された軟石に精通しているのは、石材業者さんでも、もはや少なくなってきたことでしょう。佐藤さんは石屋さんではありませんが、今となっては軟石の違いを語れる第一人者と思われます。その佐藤さんが「これは推測ですが」と断って曰く「美瑛のほうが札幌よりも重いということは、空隙率が低い(隙間が少ない)のではないか」。
「ということは」とさらに続けて、「空隙率が高ければ、保温断熱効果も上回る。つまり空隙率の高い札幌軟石のほうが、美瑛軟石よりも保温性能が高くなる。とすると、モノを保存する蔵としては、札幌軟石が適していたのではないか」。
ちなみに、これも佐藤さんの文字どおり体感というか触感ですが、札幌軟石は美瑛軟石に比べて“温かみ”があります。美瑛のほうは花崗岩などに近い肌触りだそうです。これは組成の違い、ひいては熱伝導率の違いによるのでしょうか。例えば空気と水、金属では、熱伝導率は空気<水<金属で、金属は熱が伝わりやすい。石と金属ならたぶん、石<金属。同じ石でも軟石(凝灰岩)と花崗岩ではたぶん、軟石<花崗岩。同じ軟石でも札幌と美瑛ではたぶん、札幌<美瑛。外気温が(体温よりも?)低いときに金属と軟石に触ったら、金属のほうが冷たく感じられる。軟石と花崗岩(とりわけツルツルに磨かれた御影石)だったら、花崗岩のほうが冷たく感じられるだろう。美瑛軟石は、札幌軟石との比較では同じことがいえる(相対的に、冷たい)のではなかろうか。
閑話休題。
私は4月21日ブログを次のように締めくくりました(太字)。
(石蔵を建てた)Nさんの祖父には、石蔵といえば札幌軟石という既視感、信頼感、親近感もあったのではないでしょうか。
この結論に変わりはありません。ただし、その根拠となる札幌軟石と美瑛軟石の違いは、強度ではなく、(石蔵としての)性能にあったのではないか。同日ブログに記したとおり、Nさん宅には石塀もあったそうです。塀は美瑛軟石だったといいます。塀であれば、保温性能は求められません。しかも、塀としては硬いほうが向いているともいえます。同じ軟石でも蔵と塀で産地を使い分けたとして、特性による違いからすると、理に適っています。
一方で、石蔵の現当主Nさんは、美瑛軟石の塀はもろかったとも語っていました。本日ブログで述べてきた結論、すなわち美瑛軟石のほうが札幌軟石よりも硬いという特性からすると、齟齬も感じられます。札幌軟石の蔵と美瑛軟石の塀を直接較べたものではなく、漠然とした感触かもしれません。あるいは、ひょっとしたら、ですが、美瑛は硬いけれどももろい、という特性があるのでしょうか。これまで私は軟石の強度と硬度をいっしょくたにしてきましたが、硬度は高くても、強度は相対的に低い、とか。例えとして適切かどうか自信がありませんが、ガラスは硬いけれども割れやすい。またまた推測、というよりは憶測の域になってきました。これ以上は慎みます。
旭川が誇る軟石建物の逸品です。

旧宮北邸、1915(大正4)年頃の建築です(末注②)。
この建物の軟石が美瑛産とされています。どうして、本件は美瑛軟石で建てられたか。長くなりましたので、次回に続けます。
注①:札幌軟石ネットワーク「札幌軟石情報発信サイト」ウエブ「北海道の軟石文化」ページ参照
→ https://sapporonanseki.jimdofree.com/
注②:上川地方有数の製材業を営んだ宮北家の事務所として建てられた。北海道近代建築研究会『旭川と道北の建築探訪』2000年、pp.42-43及びウエブサイト「北海道文化資源データベース」参照
→ https://www.northerncross.co.jp/bunkashigen/parts/104027.html
「服部紙店」の古写真
2021年1月30日ブログにコメントをいただきました。寄せてくださったninatchさん、貴重な情報をありがとうございます。
コメントは、同日ブログに載せた古写真の撮影年についてのご指摘でした。ブログ本文で取り上げさせていただきます。
まず、問題の古写真を再掲します。

同日ブログで私はこの写真の撮影年について、次のように記しました(太字)。
よく見ると、テレビ塔はまだ建設途中のようです。足場も組まれています。ということは、前掲写真は1956(昭和31)年の撮影です(2020.10.23ブログ参照)。
これに対し、寄せられたコメントでは次のように述べられています(一部引用、太字)。
撮影は1956年ではないかと記載されていますが、テレビ塔の右側に高いアンテナが立っています。
これは1959年に開局したSTV札幌テレビ放送の旧本社の電波塔ではないでしょうか?
またテレビ塔に足場工事がされていますが、場所的に1961年に松下電器産業が寄贈した電光時計の設置工事ではないでしょうか?
おそらく1956年ではなく、1961年の撮影ではないでしょうか?
ご指摘を受けて、写真を撮った郷土史家Yさんからいただいた資料をあらためて見直しました。すると、写真が入っていた封筒に「いずれも昭和35年(1960)年の撮映です」(原文ママ)と添書きされています。この添書きは先のブログを記述したときに読んだはずなのに、スルーしてしまいました。大変失礼いたしました。先の記述を訂正します。
くだんの写真のさっぽろテレビ塔の箇所を拡大します。

コメントでご指摘のように、足場が組まれているのは電光時計が設置される位置と思われます。まだ設置されていないようなので、やはりその工事中ということなのでしょう。Yさんが添書きされた「昭和35年」という撮影年は、時計が設置された1961(昭和36)年の前年です。工事中ということで、頷けます。
時系列で整理すると、以下のとおりです。
・1956(昭和31)年:テレビ塔 塔体完成
・1959(昭和34)年:STV開局(旧社屋)
・1960(昭和35)年:Yさん、写真撮影
・1961(昭和36)年:テレビ塔に電光時計設置
以下は蛇足というか、私の無知をさらに晒します。
上掲写真の上の方をさらに拡大しました。

展望台より上の部分にも、何やら工作物が見えます。塔の本体とは別に、です。実は、私はこれを(これも)足場だと思い込みました。それで、塔体の建設工事中すなわち1956(昭和31)年と勘違いしたしだいです。
写真の展望台より下の部分も拡大します。

この部分はいかにも足場という様子です。しかし、前掲写真で拡大した展望台より上方の工作物は、この足場とは雰囲気が異なります。
テレビ塔の古い写真を遡ると、この工作物は1956年の塔体完成当初には付けられてません(末注①)。しかし1961年の電光時計設置前から、設置後の間もない時期と思われる写真には写っています(末注②)。その後の写真では、なくなります。これはテレビ塔のもともとの付属設備、つまり塔本来の目的だったテレビ放送のアンテナだったのでしょうか(末注③)。
注①:「さっぽろテレビ塔」サイト「テレビ塔の歴史を楽しむ」ページ https://www.tv-tower.co.jp/enjoy_history.html 参照。同ページの1963年「1回目の色の塗り直し実施」の欄に、時系列でテレビ塔の写真が載っている。左端の「開業当初」の写真には、展望台より上に塔体とは別とおぼしき工作物が見える。しかし、1956年-1961年の間に載る俯瞰写真(カラー)には写っていない。
注②:『地域新聞 ふりっぱー』Vol.138、2017年12月巻頭特集「開業60周年 さっぽろテレビ塔ものがたり」p.5掲載写真参照。「1961年、地上から60mの場所に設置された、日本初の電光時計」というキャプションの写真に、展望台上の工作物が見える。一方、同じ記事の「シルバーメタリックだった開業当初のテレビ塔」の写真には、写っていない。北海道新聞2021年8月27日「さっぽろ10区」特集記事「さっぽろ街角ヒストリー」にやはり「開業時のさっぽろテレビ塔」と題した別アングルの写真が載っている。これには、展望台上の工作物は写っていない。
注③:注①前述のサイトページによれば、NHKがテレビ塔からアンテナを移動したのが1965(昭和40)年である。
コメントは、同日ブログに載せた古写真の撮影年についてのご指摘でした。ブログ本文で取り上げさせていただきます。
まず、問題の古写真を再掲します。

同日ブログで私はこの写真の撮影年について、次のように記しました(太字)。
よく見ると、テレビ塔はまだ建設途中のようです。足場も組まれています。ということは、前掲写真は1956(昭和31)年の撮影です(2020.10.23ブログ参照)。
これに対し、寄せられたコメントでは次のように述べられています(一部引用、太字)。
撮影は1956年ではないかと記載されていますが、テレビ塔の右側に高いアンテナが立っています。
これは1959年に開局したSTV札幌テレビ放送の旧本社の電波塔ではないでしょうか?
またテレビ塔に足場工事がされていますが、場所的に1961年に松下電器産業が寄贈した電光時計の設置工事ではないでしょうか?
おそらく1956年ではなく、1961年の撮影ではないでしょうか?
ご指摘を受けて、写真を撮った郷土史家Yさんからいただいた資料をあらためて見直しました。すると、写真が入っていた封筒に「いずれも昭和35年(1960)年の撮映です」(原文ママ)と添書きされています。この添書きは先のブログを記述したときに読んだはずなのに、スルーしてしまいました。大変失礼いたしました。先の記述を訂正します。
くだんの写真のさっぽろテレビ塔の箇所を拡大します。

コメントでご指摘のように、足場が組まれているのは電光時計が設置される位置と思われます。まだ設置されていないようなので、やはりその工事中ということなのでしょう。Yさんが添書きされた「昭和35年」という撮影年は、時計が設置された1961(昭和36)年の前年です。工事中ということで、頷けます。
時系列で整理すると、以下のとおりです。
・1956(昭和31)年:テレビ塔 塔体完成
・1959(昭和34)年:STV開局(旧社屋)
・1960(昭和35)年:Yさん、写真撮影
・1961(昭和36)年:テレビ塔に電光時計設置
以下は蛇足というか、私の無知をさらに晒します。
上掲写真の上の方をさらに拡大しました。

展望台より上の部分にも、何やら工作物が見えます。塔の本体とは別に、です。実は、私はこれを(これも)足場だと思い込みました。それで、塔体の建設工事中すなわち1956(昭和31)年と勘違いしたしだいです。
写真の展望台より下の部分も拡大します。

この部分はいかにも足場という様子です。しかし、前掲写真で拡大した展望台より上方の工作物は、この足場とは雰囲気が異なります。
テレビ塔の古い写真を遡ると、この工作物は1956年の塔体完成当初には付けられてません(末注①)。しかし1961年の電光時計設置前から、設置後の間もない時期と思われる写真には写っています(末注②)。その後の写真では、なくなります。これはテレビ塔のもともとの付属設備、つまり塔本来の目的だったテレビ放送のアンテナだったのでしょうか(末注③)。
注①:「さっぽろテレビ塔」サイト「テレビ塔の歴史を楽しむ」ページ https://www.tv-tower.co.jp/enjoy_history.html 参照。同ページの1963年「1回目の色の塗り直し実施」の欄に、時系列でテレビ塔の写真が載っている。左端の「開業当初」の写真には、展望台より上に塔体とは別とおぼしき工作物が見える。しかし、1956年-1961年の間に載る俯瞰写真(カラー)には写っていない。
注②:『地域新聞 ふりっぱー』Vol.138、2017年12月巻頭特集「開業60周年 さっぽろテレビ塔ものがたり」p.5掲載写真参照。「1961年、地上から60mの場所に設置された、日本初の電光時計」というキャプションの写真に、展望台上の工作物が見える。一方、同じ記事の「シルバーメタリックだった開業当初のテレビ塔」の写真には、写っていない。北海道新聞2021年8月27日「さっぽろ10区」特集記事「さっぽろ街角ヒストリー」にやはり「開業時のさっぽろテレビ塔」と題した別アングルの写真が載っている。これには、展望台上の工作物は写っていない。
注③:注①前述のサイトページによれば、NHKがテレビ塔からアンテナを移動したのが1965(昭和40)年である。
旭川で時空逍遥-2 軟石の蔵
4月18日ブログに続けて、旭川を時空逍遥します。先に述べたとおり、久々の来訪の主目的は札幌軟石の布教伝道です。旭川の歴史的建物の保存を考える会(以下「旭川の会」)の総会では、会長さんがわざわざ紹介してくださいました。
総会の後の懇親会です。

ひとことスピーチの機会も与えていただきました。
旭川の会の会員Nさん宅です。

前述のスピーチの後、Nさんが「私の家の蔵も、札幌軟石です」とおっしゃってくださいました。それで懇親会の終了後、早速お訪ねしたのです。
右側の木造平屋の主屋とともに、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて建てられました。現ご当主の祖父の代です。
軟石の表面は平滑に仕上げられています。

5寸厚です。木骨石造かしら。Nさんにお聞きしたら「木の骨組みが入っている」と。やはり。石蔵には什器類が収められていたそうです。
懇親会でNさんから「札幌軟石です」とお聞きしたとき、その理由がちょっと気になっていました。この蔵はNさんが生まれる前の建築であり、札幌軟石というのは祖父からの伝聞です。なぜ、札幌軟石だったのか。旭川を含む上川地方の軟石は、札幌産と美瑛産がせめぎあっています(末注①)。
懇親会のときの立ち話では、Nさん曰く「美瑛軟石は黒いので、札幌軟石にしたと聞いている」「札幌のほうが白いので」札幌軟石で建てたと。美瑛軟石が黒い? これが疑問でした。私の実感では、美瑛は札幌に比べて白っぽく、明るめの色合いだったからです。それもあって、「現物を直接鑑みて、もう少し話をお聞きしたい」と思いました。
前掲画像の現物を見る限り、これはやはり札幌軟石です。もう少し白っぽかったら、「実は美瑛軟石だったのではないか」と想うところでした。ただ、Nさんのお話の札幌軟石には、信ぴょう性が感じられました。というのは、Nさんは石材業者の名前も出していたからです。「軟石は、“札幌の岩本さん”から買った」と。“岩本さん”は言うまでもなく、南区石山の元石材業者です。
しからばNさんが言う札幌軟石=白い、美瑛軟石=黒い、とはどういうことか。現当主のNさん自身、札幌と美瑛の軟石の違いを経験的に感じていました。というのは、Nさん宅には昨年までお庭があり、その塀は美瑛軟石だったからです。Nさんは、美瑛産という石塀が前掲の石蔵に比べて黒っぽかったとご記憶していました。石塀のほうは現存していないので、実物で確かめることはできません。しかし私は「もしかしたら」と思いました。石塀が黒かったのは、軟石の元の色ではなく、風化・経年劣化によるものではないか。そこで私はNさんにお尋ねしました。
私「蔵に比べて、石塀の軟石のほうがもろくなかったですか?」
Nさん「おっしゃるとおりで、塀のほうは触っただけで、ぽろぽろと崩れる感じでした。たしかにもろかったですね」
札幌軟石でも、年月を経たものが黒ずんでいるのを見かけます。この黒ずみは、雨や雪で水を吸ったことによると前に聞きました。軟石(溶結凝灰岩)は火成岩(安山岩や花崗岩など)に比べて吸水性は高いでしょう。その軟石でも札幌と美瑛では、吸水性や風化の度合い(もろさ)には違いがあるのではないか。ここからは推測です。美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか(末注②)。
Nさんが祖父から伝え聞いた札幌と美瑛の軟石の違いは、本質的には強度にあったのではないでしょうか。Nさんの祖父は小樽から旭川に来ました。明治中期に来道し、明治の終わりころまで小樽だったそうです。札幌の岩本石材とのつながりは、小樽以来と思われます。岩本さんから「札幌軟石のほうが(美瑛より)いい」と勧められたというのは、たぶんに自社製品の贔屓もあったかもしれません。ただ、小樽の明治中~後期といえば、倉庫が多く建ち並び、その建材として札幌からも軟石が運ばれました(末注③)。Nさんの祖父には、石蔵といえば札幌軟石という既視感、信頼感、親近感もあったのではないでしょうか。
Nさんに一つ、聞き漏らしたことがあります。屋根の瓦です。重厚な蛇腹観音開きの扉と併せ、主屋とともに和風の趣を色濃く醸しています。この瓦は、どこの産なのだろう。
注①:2018.8.15ブログ末注②、2014.8.29ブログ参照
注②:ただし、強度は同じ密度でも違いがあるらしい。密度に対する強度の高低を測る「比強度」の指標を見る必要がある。2021.11.29ブログ参照
注③:2019.3.29、同3.30、同4.3各ブログ参照
2023.4.30追記:本文中「美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか」という推測は訂正を要する。2023.4.29ブログに関連事項記述。
総会の後の懇親会です。

ひとことスピーチの機会も与えていただきました。
旭川の会の会員Nさん宅です。

前述のスピーチの後、Nさんが「私の家の蔵も、札幌軟石です」とおっしゃってくださいました。それで懇親会の終了後、早速お訪ねしたのです。
右側の木造平屋の主屋とともに、1922(大正11)年から1924(大正13)年にかけて建てられました。現ご当主の祖父の代です。
軟石の表面は平滑に仕上げられています。

5寸厚です。木骨石造かしら。Nさんにお聞きしたら「木の骨組みが入っている」と。やはり。石蔵には什器類が収められていたそうです。
懇親会でNさんから「札幌軟石です」とお聞きしたとき、その理由がちょっと気になっていました。この蔵はNさんが生まれる前の建築であり、札幌軟石というのは祖父からの伝聞です。なぜ、札幌軟石だったのか。旭川を含む上川地方の軟石は、札幌産と美瑛産がせめぎあっています(末注①)。
懇親会のときの立ち話では、Nさん曰く「美瑛軟石は黒いので、札幌軟石にしたと聞いている」「札幌のほうが白いので」札幌軟石で建てたと。美瑛軟石が黒い? これが疑問でした。私の実感では、美瑛は札幌に比べて白っぽく、明るめの色合いだったからです。それもあって、「現物を直接鑑みて、もう少し話をお聞きしたい」と思いました。
前掲画像の現物を見る限り、これはやはり札幌軟石です。もう少し白っぽかったら、「実は美瑛軟石だったのではないか」と想うところでした。ただ、Nさんのお話の札幌軟石には、信ぴょう性が感じられました。というのは、Nさんは石材業者の名前も出していたからです。「軟石は、“札幌の岩本さん”から買った」と。“岩本さん”は言うまでもなく、南区石山の元石材業者です。
しからばNさんが言う札幌軟石=白い、美瑛軟石=黒い、とはどういうことか。現当主のNさん自身、札幌と美瑛の軟石の違いを経験的に感じていました。というのは、Nさん宅には昨年までお庭があり、その塀は美瑛軟石だったからです。Nさんは、美瑛産という石塀が前掲の石蔵に比べて黒っぽかったとご記憶していました。石塀のほうは現存していないので、実物で確かめることはできません。しかし私は「もしかしたら」と思いました。石塀が黒かったのは、軟石の元の色ではなく、風化・経年劣化によるものではないか。そこで私はNさんにお尋ねしました。
私「蔵に比べて、石塀の軟石のほうがもろくなかったですか?」
Nさん「おっしゃるとおりで、塀のほうは触っただけで、ぽろぽろと崩れる感じでした。たしかにもろかったですね」
札幌軟石でも、年月を経たものが黒ずんでいるのを見かけます。この黒ずみは、雨や雪で水を吸ったことによると前に聞きました。軟石(溶結凝灰岩)は火成岩(安山岩や花崗岩など)に比べて吸水性は高いでしょう。その軟石でも札幌と美瑛では、吸水性や風化の度合い(もろさ)には違いがあるのではないか。ここからは推測です。美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか(末注②)。
Nさんが祖父から伝え聞いた札幌と美瑛の軟石の違いは、本質的には強度にあったのではないでしょうか。Nさんの祖父は小樽から旭川に来ました。明治中期に来道し、明治の終わりころまで小樽だったそうです。札幌の岩本石材とのつながりは、小樽以来と思われます。岩本さんから「札幌軟石のほうが(美瑛より)いい」と勧められたというのは、たぶんに自社製品の贔屓もあったかもしれません。ただ、小樽の明治中~後期といえば、倉庫が多く建ち並び、その建材として札幌からも軟石が運ばれました(末注③)。Nさんの祖父には、石蔵といえば札幌軟石という既視感、信頼感、親近感もあったのではないでしょうか。
Nさんに一つ、聞き漏らしたことがあります。屋根の瓦です。重厚な蛇腹観音開きの扉と併せ、主屋とともに和風の趣を色濃く醸しています。この瓦は、どこの産なのだろう。
注①:2018.8.15ブログ末注②、2014.8.29ブログ参照
注②:ただし、強度は同じ密度でも違いがあるらしい。密度に対する強度の高低を測る「比強度」の指標を見る必要がある。2021.11.29ブログ参照
注③:2019.3.29、同3.30、同4.3各ブログ参照
2023.4.30追記:本文中「美瑛軟石は札幌軟石に比べて、空隙率が高く、つまり密度が低い、ひいては強度も低いのではないか」という推測は訂正を要する。2023.4.29ブログに関連事項記述。
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