札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/10/18

札幌扇状地平岸面 洪水の記憶 補遺

 今回も、前に書いたブログの補正です。
 10月11日ブログで札幌扇状地「平岸面」のことを記し、1950(昭和25)年に起きた連合用水第三号用水路の洪水氾濫を、私は扇状地の記憶ではないかと述べました。妄想を膨らませたものですが、真に受けられかねない表現がありましたので、補っておきます。

 「ぼうず山麓の水田地帯の伏流水が増量」という私の記述について、知人の造園家Sさんから「水害につながるほど短期的に伏流水が増加することは考えにくい」というご指摘をいただきました。これは、もし昨日今日の大雨がもたらしたものという前提ならば、まったくそのとおりだと思います。
 伏流水はかなり長い年月を経て地表に湧き出ると聞きます。「かなり長い」というのは、ン十年というスパンです。白旗山水源の水を使っている清田区の飲料工場では、40年前の水が中腹で湧き出ているとのことです(https://factory.hokkaido.ccbc.co.jp/eco/参照)。京極のふきだし公園の水も羊蹄山に浸みた水が「数十年」かかって湧き出ているそうです(http://www.hokkaidoisan.org/heritage/019.html参照)。
 しかるに、本件豊平の洪水の場合、「ぼうず山」を水源と仮定して国道36号の浸水地帯まで、直線距離にして2.5㎞余りあります。一日二日前に降った大雨が2.5㎞先で洪水となるほど湧き出るとは、考えられません。

 Sさんは洪水の原因を、「戦後の都市化」によるのではないかとみています。雨が降ったとき、舗装されていない地面や畑などであれば地中に浸透しやすいのですが、道路が舗装されたり宅地化が進むと浸透しにくくなります。地中に浸透しない分、大雨が降ると許容量を超えて流れ込み、洪水を起してしまう。‘都市型’水害というところでしょうか。下水道を整備してこれを防ぐのですが、用水路(排水路)の規模が昔のままだと、対処しきれない。

 これはごもっともなのですが、必ずしも「戦後の都市化が原因」とまではいいきれないのではないかと私は思います。
 豊平の浸水地帯の空中写真(1948年米軍撮影、10月11日ブログに掲載)を見ると、たしかに市街化されています。ただし、浸水が起きた1950年当時、戦前と比べて市街地が大きく増えていたかというと、地形図(大正5年、昭和10年)と照らしたとき、それほどではありません。言い換えれば1950年夏の大雨が、それだけ甚大だったのかもしれません。

 Sさんによると、雨水の流出係数(まったく浸透しない地面を1とし、0に近いほど浸透しやすくなる)は以下のとおりです(日本道路協会「道路土工要領」2009年)。
 舗装路面:0.7-0.95 水田(湛水時):0.7-0.8 市街:0.6-0.9 平坦な耕地:0.45-0.6 砂利道:0.3-0.7

 豊平の1950年浸水域は、前述1948年空中写真から推測するに市街地ですが、道路はまだ砂利道でしょう。 一方、ぼうず山から「小泉川」の流域は北へ水田が広がっています。夏場だと流出係数は高い。この一帯が私には伏流水、というかその表出に見えてしまうんですね。‘古々’豊平川(10月10日ブログ参照)の洪水を彷彿させる。伏流水というコトバを安易に使ってすみません。
 
 第三号用水路が流れていたとおぼしき現在の風景です。
定鉄旧豊平駅舎 鉄路跡
 南から北を眺めました。左方の細長く建物が建つ敷地が旧定山渓鉄道豊平駅があったところです(2016年2月撮影、同年2月5日ブログ参照)。1950年洪水を証言したⅠさん(ご主人)によると、駅舎の月寒寄りを用水路が流れていたといいますから、ちょうど歩道のあたりがその跡になりましょう。

 実は、Ⅰさんは「(洪水が起きたのは)戦後、用水路が十分に管理されていなかったからではないか」とおっしゃっていました。本来農業用水路だったところへ大雨が流入して、処理しきれない排水も負わされ、文字どおりオーバーフローしてしまった、というのが実情でしょうか。Sさん、ご指摘ありがとうございます。
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2017/10/17

時計台ナナメ向かいのビル 補遺

 昨日ブログに対して、「スタッフK」さんからコメントをいただきました。ありがとうございます。
アコム時計台前ビル 自社広告 1993年
 北1条西3丁目の消費者金融会社(以下「A社」という)の自社広告物について、私は昨日ブログで「自主的に撤去された可能性が高いと思われます」と記しました(画像は1993年撮影)。これに対しスタッフKさんは、広告物の撤去はビルの所有者が替わったことによるもので、「自主的」とはいえないのではないかというご指摘です。実は私もその可能性は一抹抱き、昨日のブログの末尾に「経緯はどうあれ」と言い訳的に入れました。
 結論的には、スタッフKさんが的を射ていると思います。ネットで調べたところ、本件ビルは現在「マルイト時計台前ビル」となっていて、不動産賃貸業の「マルイト株式会社」の所有となっているようです。A社が自社ビルを売却した際、広告塔を撤去し、その後現所有者が自社広告物を新たには設けなかった、といったところが真相でしょうか。札幌市屋外広告物条例によると、本件広告物のあるエリアは自家用でなくても設置は可能です。にもかかわらず撤去したのは、コストパフォーマンスかもしれません。かつてこのビルはほぼ全館、A社の店舗(貸金だけでなく、レンタル事業など)が入っていました。現在はそうではないので、派手に広告する必要性がないのでしょう。現所有者のマルイトもしかり。昨日ブログの末尾に記したA社への賛辞は贔屓目に過ぎましたか。

 ネットでA社のサイトを閲覧したところ、現所有者のマルイトとは同じ源流であることを知りました。A社の前身は、「マルイト株式会社」、その前は「丸糸商店」だったのですね。

 ところで札幌で「マルイト」というと、私はこちらのビルを思い出します。
マルイト札幌ビル
 北2条西1丁目にあるホテルです(画像は本年3月撮影)。
 この建物は2000(平成12)年、北海道営林局の跡地に建てられました。営林局時代の樹木を外構に遺したことなどが評価されて、2001(平成13)年、第10回札幌市都市景観賞を受賞しています。

 植栽帯の札幌軟石も古そうです(画像は2014年12月撮影)。
マルイト札幌ビル 外構 札幌軟石
 こういう会社なので、時計台前ビルもあえて自家用広告を立てなかった。と見るのは、これまた贔屓目でしょうか。

2017/10/16

時計台のナナメ向かいのビル

 中央区北1条西3丁目、時計台のナナメ向かいにあるビルです。
アコム時計台前ビル 2016年
 一見、何の変哲もないビルです。一見でなく、ずっと見ていても変哲ありません。
 この「変哲もない」という風景が、逆説的にいうと実は変哲ある、ということが本日のテーマです。

 二十数年前、その場所を向かいの時計台越しに眺めて、写真に撮っていました。
アコム時計台前ビル 1993年
 1993(平成5)年の冬に撮ったものです。

 冒頭の写真は2016年10月に撮っています。最大の違いは、かつてガソリンスタンドだったところにビルが建っていることです。が、私がこのアングルで写真を撮った意図が別にあることは、だいたいお察しいただけると思います。ガソリンスタンドの隣のビルです。消費者金融の自社ビルで、屋上に塔型と壁に突出しの広告の工作物があります。

 冒頭の現在の風景と比べると、それらの広告は姿を消しています。低層階の壁面公告のみです。二十年余に時空が変化しました。ここには一定のベクトル(方向性を持った力)がはたらいたと、私は見ています。
 念のため、札幌市の屋外広告物条例等をおさらいしてみましたが、前掲画像の広告を排除するような規制は見つけられませんでした。つまり法令・例規的な規制にもとづくのではなく、いわば自主的に撤去された可能性が高いと思われます。カタチとしては消費者金融会社の自主的作為でしょうが、何らかの外的な力がはたらいたのではないでしょうか。管見の限りでは、そのあたりの顛末が広く公表された形跡はありません(もしご存じの方がいらっしゃったらご教示ください)。

 こういう作為、つまり何かを付け足すのではなく、差し引くような作為、しかも建物本体とかではなく工作物ともなれば話題にはなりづらいと思います。なので、せめて拙ブログでは話題にして、記憶にとどめておきましょう。先日の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」スピンオフ編でも、この話題には触れなかったので、ここで取り上げます(末注)。

 札幌のシンボル・時計台は、観光客から「ビルの谷間にあってがっかり」とか言われるようです。識者からは、周辺の建物などへ景観的な配慮を求める声もあります。ともすれば「行政は何をやっているのか」という矛先も向けられます。理想的には、たとえば時計台のような重要文化財の周辺、一定エリアの風致景観を誘導規制するガイドラインがあってよいと私は思います。ただし、そうなっていないのは、当然ですがそういう規制を好まずとするベクトルがはたらくからです。行政は、絶えずそのせめぎあいに置かれています。所詮、民度の平均値です。もし、前掲画像の広告物の撤去を前もって唱えた人がいたら、私は深く敬服します。そういう人こそ、口先だけの威勢のいい批判にとどまらない、ホンモノだと私は思います。

 …と記してきて、私があたかもこの広告物の出現にハナから気づいていたかというと、決してそうではありません。だから、私はホンモノにはほど遠い人間です。実は、この広告物を出現当時から憂慮した人は、確かにいました。1990年頃だったと思います。当時、札幌市役所にお勤めたっだOさんです。
 屋外広告物のありかたは、それこそいろいろなベクトルがはたらき、民意を集約するのが難しい分野だと思います。私は、前掲画像(広告物が背後に写る時計台)よりは冒頭画像の風景(広告物が撤去されたビル)のほうをよしとします。しかし、そうは思わない方も当然いるでしょう。どちらかが絶対的に正しいということはできません。ただ、広告物の出現を(たぶん)最初に認識したOさんは、繰り返しますが偉大だと思います。
 最後になりましたが、経緯はどうあれ広告物を撤去した消費者金融会社に敬意を表します。

 注:案内役のⅠ先生は、周辺の他の建物景観についてコメントされました。主催者としてたびたび自画自賛めいて恐縮ながら、札幌市民が時計台周辺でこういう見聞を体験するのは稀少だと思う。

2017.10.17ブログに補遺記述

2017/10/15

時計台に座るクラーク先生

 10月13日と15日、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2017特別編で中心部の歴史的建物を巡りました。
大人の遠足2017 時計台
 北大大学院工学研究院のⅠ先生の案内で、時計台から道庁、植物園と歩きました。札幌市民が(市民でなくても?)時計台をじっくり鑑みるというのは、稀少な体験だと思います。

 時計台の2階に、クラーク先生が座っていました。
時計台 クラーク先生
 黒い布で覆われていたのですが、イタズラ心でめくってみたところ、いたのです。

 実は数日前の新聞に、「クラーク博士像 時計台にも」と報じられていました(北海道新聞10月12日朝刊)。以下、記事の一部を引用します(太字)。
 時計台は札幌農学校(現北大)の初代教頭だった博士の構想で演武場として建設されており、観光客から博士の像を求める声が多かった。時計台完成記念日の16日、お披露目の式典が行われる。
 像は高さ135センチの合成樹脂製で、幅180センチ、奥行き80センチの木製長いすの端に腰掛けた姿。2階ホールに置かれ、見学者が座ったり、一緒に記念撮影したりできる。時計台を管理運営する企業が約200万円で製作した。

 
 「お披露目」に先立って、失礼ながらめくってしまいました。
 時計台で配られているリーフレットによると、この建物が建てられたのは1878(明治11)年で、10月16日に落成式が催されています。明日で満139年です。創建時、時計塔は備わってませんでした。時計が付いたのは1881(明治14)年です。クラーク先生は時計台ができる前の1876(明治9)年に札幌に来て、翌1877(明治10)年に去っています。よって、先生はこの建物を直接見ることも、時を告げる鐘の音を聞くこともなく、ましてや室内に座ることはありませんでした。が、139年を経て2階に座ることに相成ったのです。「観光客から博士の像を求める声が多かった」とは知らなかった。

 およそ人物像というモノは、印象操作という効果があります。本件坐像も今後、先生があたかもかつてここで腰掛けていたかのごとき伝説に寄与するかもしれません。ま、観光名所というのは、えてしてキッチュな時空が漂うものです。史実に忠実であれかしといったベクトルは、はたらきづらい。クラーク像も、先生が足を運んでいない羊ケ丘に、すでにあります。北大の現キャンパスですら、先生の滞在中はゆかりがなかったが(末注①)、胸像が置かれて観光名所になっています。もう、「何でもあり」ですね。
 
 北大のクラーク像は、ン十年前、NHKの「新日本紀行」で放送されて観光客が増えたと聞きます(末注②)。のみならず放送の翌年、北大の入試志願者はかなり増えています(末注③)。かくいう私自身がン十年前、印象操作に刷り込まれて、北海道に憧れたクチです。挙句、内地で生れ育ったにもかかわらず、北海道に永住する(たぶん)こととなりました。かような印象操作を否定することは、自分の存在を否定することにつながりかねません。いずい(北海道弁)ところです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、口絵「明治十年」(クラーク博士の足跡)参照
 注②:羊ケ丘に立像が建てられたのは、大学が‘観光公害’を減じるため車両を規制するに至ったという事情があるという。「さっぽろ羊ヶ丘展望台」サイト参照
 注③:NHK「新日本紀行」で「都ぞ弥生 北海道・北大恵迪寮」が放送されたのが1975(昭和50)年。『北大百二十五年史 論文・資料編』2003年によると、北大の入試志願者は1974年13,040名(定員2,120名に対して6.2倍)、1975年は12,796名(定員2,120名に対して6.0倍)だったが、1976年は14,889名(定員2,120名に対して7.0倍)、1977年15,534名(定員2,195名に対して7.1倍)となった(p.871、pp.883-884)。もちろん、テレビの影響などとは正史には書かれていない。私の憶測。

2017/10/14

江別・新野幌歩道橋

 江別市文京台、国道12号に架かる歩道橋です。
江別 新野幌歩道橋
 北翔大、札幌学院大の近くにあります。初めてこの歩道橋の名前を見たとき、「文京台は、もともと‘新’野幌だったんだなあ」と思いました。否、というくらいにしか、思わなかった。江別で野幌というと札幌からのJRの駅の順番で大麻よりも遠いので、ここに野幌という名前が遺ることを一瞬意外に感じたのです。
 ただし、大麻(←大曲、麻畑)はJR線の北側であり、南側は現森林公園(の江別市側)を含め一円、「西野幌」なので、実は意外でも何でもないのでしょう。私の地理感覚だと、西野幌のセラミックアートセンターなどのあたりは、大麻を通り越して野幌まで行って南へぐるっと廻った先です。しかし、文京台の市街地の先から森林公園を突き抜けると、目と鼻の先、とまではいわないまでも、かなり近い。
 そうはいっても、新野幌の「新」には、何かワケあり感が漂います。まわりを見渡したとき、文京台という地名に上書き・更新されているのに、古そうな歩道橋だけ「新」です。
 
 本年9月に、江別市郷土資料館主催の「バスでめぐる野幌・大麻地区の遺跡」というツアーに参加してここを通ったとき、ガイドの学芸員Sさんから、やはり歩道橋の名前のことを聞きました。江別では知る人ぞ知る歩道橋なんだなと、あらためて思ったものです。
 そして今日、野幌森林公園自然ふれあい交流館主催の講演会「野幌の森の戦後史」で、地域史家・西田秀子さんのお話を聴き、この地名に刻された戦後開拓の苦闘を知りました。

 自然ふれあい交流館でお話を聴いた後、西田さんの案内で森林公園内の開拓部落跡を歩きました。
野幌森林公園 中央線
 現公園のど真ん中に「新野幌第二部落」があったそうです。敗戦によって職・身分を失った軍人軍属とその家族が、国策により入植したといいます。

 離農跡地を教えていただきました。
新野幌第二部落 離農跡地
 農地に不適な重粘土の地質で、1946(昭和21)年に入植した116戸(新野幌第一~第五部落)のうち1965(昭和40)年に残っていたのは76戸、1/3が離農しました。 昭和40年代、開道百年記念事業による森林公園の復元植林とともに、残っていた入植者も移転します。

 教えていただいて初めて、人家のコンクリートの残骸があることを知りました。
新野幌第二部落 離農跡地 残骸
 前掲画像の赤い矢印の先をズームアップして撮りました。野幌森林公園は環境保全のため、遊歩道から外れて森林内には入れず、近くまではいけません。

 このほかにも、公園内に遺る謎の(?)廃墟のこともお聴きしましたが、やはり近づくことはできませんし、西田さんからは固く口止めされましたので、胸の内にしまっておきます。

2017/10/13

豊平 「やまじゅういち」軟石倉庫 ②

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんが古地図で、豊平の「やまじゅういち」印を確認してくださいました。
札幌市卓上案内 豊平周辺
 まず「札幌市卓上案内」1950(昭和25)年(原図は札幌市公文書館蔵)。方位はおおむね2時の向きが北です。

 赤い線で囲ったところを拡大すると…。
札幌市卓上案内 やまじゅういち倉庫
 室蘭街道(画像中、札幌市電の軌道の線が描かれている道)に面して「○○醤油醸造所」(○○には固有名詞で経営者Ⅰさんの苗字)、その背後に「∧十一倉庫」と書かれています。

 次に「札幌市制紀念人名案内図」1922(大正11)年(原図は札幌市中央図書館蔵)。
札幌市制紀念人名案内図 豊平周辺
 方位はおおむね5時の向きが北です。
 赤い○で囲ったところに「∧十一○○」と書かれています(○○には同じくⅠさんの苗字)。「十一」の「一」の右上に「、」が付いていますが、「土」の俗字と書き間違えられたのでしょう。

 豊平には醸造業の店が多くあり、抜粋した一帯だけでもほかに橙色の○で囲った2軒がそうです(末注①)。どちらも、札幌軟石の蔵が現存しています。
 その一棟が、こちらです。
宮越屋珈琲豊平店
 「カネさ K商店」の雑穀蔵でした(印「カネさ」の「さ」は変体仮名)。K商店はもともと雑穀問屋で、戦後味噌醤油の醸造業に転じたといいます(末注②)。昭和初期築の石蔵は1991(平成3)年、中華料理店の店舗に再利用された後、2002(平成14)年から喫茶店となりました(末注③)。

 すぐ近くのもう一棟はSさん宅石蔵です。地元の郷土史家Nさんに「カネ吉 S商店」と教えていただきました。前掲「人名案内図」には、「カネ吉○○店」と書かれています(○○にはSさんの苗字)。
豊平 S宅軟石倉庫
 建築年は不詳ですが、前述の「∧十一」「カネさ」の石蔵から類推するに、大正~昭和初期ではないでしょうか。豊平では大正期に幾度か大火が起きていますので、その後ではないかとも思います(末注④)。

 豊平で味噌醤油の醸造業が多かったのは、札幌扇状地「平岸面」の扇端、とまでは行かないが、比較的扇端に近い一帯という地形にも由来すると私は睨みました。豊平川の対岸、札幌扇状地「札幌面」でも醸造業(こちらは日本清酒をはじめ酒造)が盛んでした。平岸面は札幌面に比べると古い時代の扇状地ですが、このあたりだとやはり伏流水に恵まれていたと想うのですが…。
 最近、平岸面因縁説にハマっています(10月4日11日各ブログ参照)。一つハマると、どうもクセになりますね。

 注①:『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』1997年、p.460
 注②:『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年、p.260
 注③:『さっぽろ再生建物案内』第2版2003年、p.81
 注④:前掲『郷土史 豊平地区の140年 1857-1997』pp.246-248。ただし同書には、1919(大正8)年の大火でカネ吉S商店の石蔵が類焼し、「灰じんに帰してしまった」とある(p.246)。

2017/10/12

豊平 「やまじゅういち」軟石倉庫

 10月1日ブログに載せた豊平区豊平3条の「やまじゅういち」軟石倉庫です。
豊平3条 やまじゅういち倉庫
 味噌醤油の醸造蔵でした。築年は1925、1926(大正14、15)年。昭和30年代半ばまで使われました。持ち主はガレージ(貸し車庫)業に転じ、うち一棟は昭和40年代半ばから電気設備会社の社屋として再利用されています。
 以上は、持ち主のⅠさん(昨日ブログまで記してきたⅠ商店とは別)から聞き取りました。石蔵が醸造業から貸し車庫に変わったというのは、国道36号に沿う豊平地区の戦後史をそのまま物語っています。
  軟石建物の築年別内訳は本年9月2日ブログ掲載の数値から次のように変わりました(大正期築プラス2、築年不詳マイナス2)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:29棟(7.0%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:169棟(41.0%)
 なお、本件建物の由来については、札幌建築鑑賞会スタッフSさんが古地図を漁って裏付けしてくださっています。[つづく]

2017/10/11

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ④

 空中写真1948(昭和23)年米軍撮影で連合用水路を見てみます。
空中写真 1948年米軍 連合用水路
 昨日、一昨日掲載の古地図とほぼ同様に用水路を加筆着色したほか、新たに定山渓鉄道を黄色の線でなぞりました。用水路は一部読み取りづらいため、着色が途切れていますが、実際はつながっていたと思います(暗渠の可能性もあり)。濃い青は自然河川の「小泉川」(昨日ブログの末注参照)です。1950(昭和25)年の第三号用水路の洪水氾濫で浸水した豊平・Ⅰ商店は、平岸街道が室蘭街道に達する黄色の矢印の先に当たります。
 
 Ⅰさんの本(10月8日ブログ参照)に書かれている「東山水源の田圃の水が定鉄線路の横を通り排水口に入るようになっていたのだが、夜来の雨で溢れでて」きた、というのはどういうことでしょうか。Ⅰさんのご主人の言葉で補うと、「当時(昭和20年代)、平岸の‘ぼうず山’から下(北側)は水田が広がっていて、用水路が流れていた」とのことです。ぼうず山は、前掲空中写真で橙色の▲で示したところです。たしかに、そのふもとから北側には水田が見て取れます。主に、定山渓鉄道の東側です(西側はリンゴ畑)。水田の一帯を、第一号、第二号用水路が流れています。

 私は当初、この水田地帯の水が溢れたのかと想いました。そうだとすれば、第一号や第二号の用水路も洪水になった可能性があります。しかしⅠさんによると、氾濫したのは第三号だけだったそうです。第三号用水路は昨日、一昨日ブログで示したように、平岸用水の下流(豊平と平岸の字界あたり)から分岐しています。一方、第一号、第二号は平岸用水の上流から引かれています。

 さて、今回のテーマの結論に入ります。
 67年前の用水路の洪水は、札幌扇状地・平岸面の記憶がよみがえったのではないか。10月4日ブログ掲載の「カシミール3D」で、平岸面を想い起してみましょう。そもそも扇状地とは、川の洪水氾濫によって形成された地形だと思います。古い平岸面も、例外ではない。人工的な用水路であっても、1万年以上前の記憶が引き継がれたと見て取れないでしょうか。ぼうず山麓の水田地帯(第一号、第二号用水路の上流部)の伏流水が増量し、扇状地の下流部の地表で溢れた。私の妄想です(末注)。[おわり]

 注:『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年によると、1950年7月30日~8月1日「大雨により市内の各河川が氾濫し、藻岩・上白石・白石中央・厚別団地の浸水被害が特に甚大」であった。

2017/10/10

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ③

 「四箇村連合用水路」について、別の史料を見てみます。
歩兵25連隊明治43年地図 連合用水
 月寒の歩兵25連隊1910(明治43)年作成地図からの抜粋です。以下のとおり着色しました。
 濃い赤の線:室蘭街道(現国道36号)、赤の線:平岸街道、黄色の○:のちに定山渓鉄道豊平駅ができる地点
 水色①:第一号用水路、水色①’:自然河川(末注)、水色②:第二号用水路、水色③:第三号用水路、水色④:第四号用水路

 縮尺は2万5千分の1なので、明治29年、大正5年の5万分の1地形図よりも詳細な情報が盛り込まれています。この古地図は札幌南東部の明治期地理を知るうえで貴重です。地形図自体を陸軍の陸地測量部が作っていたように、当時もっとも地理に精通していたのは軍だったと思います。豊平町、白石村一帯の当時としてはもっとも正確詳細な地図でしょう。

 ただし、昨日ブログ掲載の四箇村連合用水路設計平面図と比べると、用水路の流れが若干異なっています。地図上、用水路とおぼしき実線を私は着色しましたが、室蘭街道の北側では第一号を除いて判然としません。この地図を作った時点ではまだ流路が延びていなかったのかもしれません。第一号と第二号の上流部分、平岸用水から枝分かれするところがはっきりした実線で読み取れませんでしたので、私の推測を破線で補いました。第三号は、昨日掲載の設計平面図では平岸街道から直線的に接続していましたが、この地図では曲線的にしかも二手に分かれて描かれています。もしかしたら、計画と実際の違いかもしれません。
 ともあれ、第三号用水路が1950(昭和25)年に溢れて定鉄豊平駅周辺で浸水を起こしました。

 注:これは、現在の南区澄川から平岸高台の崖を削り、北東へ流れていた「小泉川」であろう。前掲地図では第一号用水路と交差するあたりで西へ屈曲し、平岸用水方面から通じているように描かれているが、もともとは南から流れていたと思われる。さらにこの川は、札幌扇状地の古い「平岸面」を作った古豊平川の流路とも重なるらしい。平岸面ができたのは、「札幌面」(現在の札幌市中央区)が1万年前以降に形成されるよりも前なので、古々豊平川というべきか。道新りんご新聞2014.6.15「平岸の歴史を訪ねて 第8回 幻の川『小泉川』」札幌市博物館活動センター『ミューズレター』№66、2017.2参照

2017/10/09

豊平・Ⅰ商店の蔵 1950年の浸水 ②

 昨日ブログのつづきです。 
 1950(昭和25)年、豊平で用水路が氾濫し、室蘭街道(弾丸道路、現国道36号)沿い、旧平岸街道北端あたりの家屋が浸水しました。氾濫した用水路とは、どこを流れていたのか?
 Ⅰさんご夫妻にあらためてお訊きしました。Ⅰさん同様、この浸水を体験したⅠさんのご主人によると「定山渓鉄道豊平駅の月寒寄り側を流れていた」とのことです。 
 おそらく、明治期中~後期に開削された「四箇村連合用水路」の一つと思われます(末注①)。四箇村とは豊平、白石、上白石、平岸の各村です。一帯の水田開発のために、平岸用水から水を引いて広域に張り巡らされました。主導した一人が、拙ブログにたびたび登場する阿部仁太郎です。
 明治29年、大正5年、昭和10年5万分の1地形図では、用水路(平岸用水など)は主だったものしか読み取れません。もう少し史料を漁ってみましょう。

 「四箇村連合用水路設計平面図」からの抜粋です(末注②)。
四箇村連合用水設計平面図 抜粋
 方位は10時半の向きが北です。用水路とおぼしき実線を水色でなぞりました。加筆した①②③④はそれぞれ第一号、第二号、第三号、第四号用水路です。濃い赤でなぞったのが室蘭街道(現国道36号)、赤い線が平岸街道です。平岸用水は、実際には平岸街道の真ん中を流れていましたが、便宜的に道と水路の色を並べてなぞりました。
 この図は「大正元年九月製図」とあるので、もちろんまだ定山渓鉄道は描かれていません。後に豊平駅ができるところに黄色の○を付けました。この近くを第3号用水路が流れていました。[つづく]

注①:『平岸百拾年』1981年によると、1894(明治27)年9月に道の認可が下り、同年12月に竣工した(p.166)。用水路は第一号から第十五号まで掘られ、同年に竣工したのは第一号から第四号まで。
注②:『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図‹明治編›』1978年p.10。この図には用水路が第十五号まで描かれている。

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