札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/24

古き建物を描く会 第61回を開催しました

 今回の画題はJR苗穂駅です。 
 朝方よりも昼過ぎにかけて冷え込み、体感温度は10℃台前半かとも思われる肌寒さの中、8名が参加しました。
 古き建物を描く会 第61回 苗穂駅
 苗穂駅は周辺の再開発事業に伴い、建替えられます(2014.12.26ブログ参照)。
 
 今年11月には役目を終える現駅舎を、ねぎらいも込めてスケッチしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅 作品
 終了後、駅待合室でお披露目会です。

 会員のSさんは、駅ホームから眺めた苗穂工場も作品にしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅ホームから苗穂工場
 この風景も5か月後には見納めです。

 この跨線橋も、ゆくゆくは撤去されるのでしょうか。
苗穂駅 跨線橋
 前にブログで記したように、本件には稀少な古レールが支柱に使われています(2014.12.28ブログ参照)。
 撤去されたら、古レールはどうなるんだろう。できれば、モニュメンタルな形で新駅舎に活かしてもらえると嬉しいのですが。

 約300m西方に建設中の新駅舎です。
JR苗穂駅 建設中新駅舎
 たしか1年前にはまだ橋脚くらいしかできてませんでした(2017.5.17ブログ参照)。もう駅舎本体が出来上がりつつあるようです。早い。

 現駅舎の古レールのことは、6年前に「苗穂駅周辺まちづくり協議会」事務局長のMさんに教えていただきました。そのMさんはもうおられません。一昨年「苗穂カフェ」に足を運んだとき、その一週間前に亡くなったとお聞きました。残念です。バリアフリー化されて北と南をつなぐ新駅舎の落成を心待ちにしておられたことでしょう。Mさんには2012年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になりました。新駅舎ができたら、現駅舎は「道の駅」のように活用できないかと話しておられたのを思い出します。もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。合掌。
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2018/06/23

20年前の旧永山邸・旧三菱鉱業寮

 6月13日ブログで私は「旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります」と記しました。
 その“わけ”を物語るのが、以下の写真です。

 1997(平成9)年3月、札幌の文化財をテーマにして、札幌建築鑑賞会で勉強会を催しました。
旧永山邸 1997329
 そのとき、会場に使わせてもらったのは旧永山邸です。拙ブログでたびたび引用させていただいている故武井時紀先生(2017.11.42018.6.16各ブログ参照)に講師を務めていただきました。

 旧三菱鉱業寮2階の和室でも、先生の講義を受けました。
旧三菱鉱業寮 1997329
 20年以上前の当時、この場所をこのように利用する例はありませんでした。正確にいうと、地元町内会の女性グループがお茶か生け花の会合に使ってはいたのですが、それはいわば例外だったのです。所管している札幌市の文化財課では、市民の会合等での供用をオオヤケに謳ってはいませんでした。

 1998(平成10)年5月、札幌建築鑑賞会のスタッフの会合を同じ部屋で開いたこともあります。
旧三菱鉱業寮 199805
 これも、文化財課にかけあって容認してもらったものです。

 市民が地元の文化財を訪れるというのは、あまりないのではないか。そう思ったのが、上記のことを試みたきっかけです。時計台や豊平館、清華亭などに足を運ぶことって、どれだけあったでしょう。最近の話ではありません。20年前です(末注)。観光名所になっている文化財は、逆に市民には疎遠かもしれません。
 旧永山邸は、文化財や観光地としての知名度は時計台や道庁赤れんがほど高くはありませんでした(おそらく、今も)。だから、いつ行っても閑散としていました。それはそれで、歴史的な風情を静かな雰囲気で味わえてよかったのですが、一方で「もったいないな」とも思ったのです。
 せっかく札幌市が税金を使って保存にこれ務めているオオヤケの施設です。「使ってこそ」の文化財ではなかろうか。古いモノは、「ただ」残っていればいいというものではあるまい。また、一見「ただ」残っているかに見えても、人知れないエネルギーが費やされていることもあります。
 文化財の場合、「使うこと」と「残すこと」は矛盾をきたすともいえます。使えば使うほど負荷がかかり、残すことに支障が生じる。そのバランスは必要です。旧三菱鉱業寮の場合、指定文化財ではありませんが事情は同じでしょう。
 このことを念頭に入れつつも、旧三菱鉱業寮の2階和室はほとんど空き部屋だったので、「もっと使われてもよかろうに」と私は思いました。来場者数が少なければ「税金を使って、残し続ける意味があるのか?」という声が起きても不思議ではありません。例えば建築上の価値があるとか、景観上の価値があるとか言っても、土地利用の経済的価値を引き合いにされるとどうか。いくら「カネに換えられない価値がある」といっても、なかなか議論にならない。そもそも、納税者の多くが「そんな建物、行ったことないな~」では、経済的価値至上論に敵いません。
 
 三菱鉱業寮の和室から、「もっと使ってもらってもいいですよ~」という声が私に聞こえてきました。
 まず足を運ぶ、知る、味わうことから始めよう。
 20年前、私は若かった。青かった。

 注:豊平館の場合、結婚式場に用いられていた。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 

2018/06/20

北1西1の記憶 ②

 北1条西1丁目の6年前の風景です。
北1西1 111004 市役所屋上から
 2011年10月、市役所の屋上から撮りました。この風景も、忘れ去られつつあります。

 同じ場所の現在です。
北1西1 180620  市役所屋上から
 「創成スクエア」が建っています。同じアングルでは、ビルのてっぺんまで収まりません。

 26階建て、超高層のオフィス棟です。
創世スクエア 180620 市役所屋上から
 建物が竣工式を迎えたそうですので、拙ブログでもそれを記念(?)して、この3年余を振り返っておきましょう。 
 
 2015.3.5
創世スクエア 150305
 2016.7.9
創世スクエア 160709
 2016.9.3
創世スクエア 160903
 2016.10.1
創世スクエア 161001
 2016.10.28
創世スクエア 161028
 2017.2.17
創世スクエア 170217
 2017.3.21
創世スクエア 170321
 2017.5.28
創世スクエア 170528
 2017.7.19
創世スクエア 170719
 2017.8.26
創世スクエア 170826
 2017.11.28
創世スクエア 171128
 2017.12.22
創世スクエア 171222
 2018.3.5
創世スクエア 180305
 2018.4.10
創世スクエア 180410
 2018.6.5
創世スクエア 180605
 テレビ局のマスコットキャラクターが鎮座しました。

創世スクエア HTB onちゃん

 実は今日、このビルに行ってきました。ビルの中に入るのは6月5日ブログ以来二度めですが、上階に上がったのは初めてです。オフィス棟にテナントとして入っている会社の人とお会いする用事がたまたまあり、「新しモノ見たさ」で足を運びました。 

 3年余にわたる前掲の定点画像を撮り続けたのも、この場所に思い入れがあったからです(2015.2.13ブログ参照)。変わりゆく風景を、せめて記憶と記録にとどめておきたいと思いました。私にできるのは、そのくらいです。
 
 このビルの竣工式のことはテレビでも報じられていましたが、さすがに例の物件(6月5日ブログ掲載)のことまでは触れられていなかったようです。今日会ったYさんは先月からこのビルでお勤めだそうですが、ご存じありませんでした。Yさんから「ここ、元は何がありましたっけ?」と尋ねられたので、私はここぞとばかり、本件モニュメントをご案内したのです。Yさんは「こんなモノがあったとは…」と驚いていました。
 ことほどさように、人の記憶は薄れゆきます。Yさんという一人のヒトの記憶を呼び覚ましただけでも、私としては本件モニュメントが遺されて良かったと思いました。「たった、あれだけ」の物件かもしれません。しかも、6月5日ブログに記したように、出来上がったモノに不満がないわけではない。
 本件にかかるこの数年の一連の経緯を顧みて思うに、それを遺してもらうだけでも相当なエネルギーを要します。あの場所は私の所有物ではないからです。他人の持ち物に口をはさむことだからです。厳密に言えばこのビルは再開発事業で建てられ、税金も投入されていますが、私が負担した税金額を割り返したら、微々たるものでしょう。

2018/06/19

永山武四郎の出自を探る

 6月1日ブログで、鹿児島の永山武四郎生誕地のことを記しました。その文末を次のように締めくくっています。
 幕末維新で活躍した薩摩藩士の多くは下級でしたが、永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか。
 私は、この原風景が永山のその後、とくに北海道での人生を方向づけたのではないかと深読みしてしまいました。


 永山武四郎の出自は、次のとおりです(末注①)。
 天保八年(一八三七)四月、薩摩国鹿児島郡薬師馬場町(鹿児島市)に、薩摩藩士永山清左衛門の四男として生まれ、永山喜八郎の養子となった。

 いろいろ文献の漁っているのですが、これ以上に詳しい記述には当たりません。たぶん鹿児島にはあるのでしょうが、残念ながら現地滞在中は時間切れで迫れませんでした。したがって前述の「永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか」は私の憶測です。西郷や大久保、黒田清隆などが下級武士の出であったことからの拡大解釈に近い。憶測の根拠となったのが、永山の生誕地です。先に記したように、鹿児島城下でも、かなりはずれと窺えました。

 「天保14年城下絵図」(鹿児島県立図書館蔵)からの抜粋です。
天保14年城下絵図 抜粋
 江戸時代後期の鹿児島(鶴丸)城下が描かれています。
 濃紅色の線で囲ったのが鶴丸城、橙色と青色の○で囲ったのが島津家一門や重臣、上級武士の屋敷、黄色の○が下級武士の家屋があったところです(末注②)。西郷や大久保、黒田が生まれ育ったのは、だいたい黄色の○のあたりです。一般に江戸時代の城下町は、家臣や町人はお城との位置関係で棲み分けられていたと思います。家臣も、ヒエラルキーによってエリアが異なっていたでしょう。

 永山の生地をこの絵図に当てはめてみました。絵図の左上、赤い矢印の先です。6月1日ブログで私は「城下というより、近郊農村にすら思えます」と記したのですが、ここも城下ではあったようです(末注③)。このあたりに屋敷を構えた武士が薩摩藩家臣のどの階層に当たるか確証を得たわけではないのですが、お城との位置関係からすると、重臣上級クラスとは想えなかったのです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.283
 注②:鹿児島まち歩き観光ステーション「鹿児島ぶらりまち歩き 7 近代日本を築き多くの人材を輩出した加治屋町」を参考にした。
 注③:鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年によると、「文政9年(1826)における鹿児島城下の人口は、武士16,794人に対し町人4,941人で、武士が77%を占めました。城下は上町(かんまち)、下町、西田町の3つに分けられ、町奉行の支配の下、各町に会所が置かれ、町人から町年寄(責任者)が任命されました」(p.9)。「上町」は前掲絵図で青い○で囲ったあたりであり、「西田町」は左上の茶色の線でなぞった道筋である。永山生家は、この「西田町」の一角と見える。現地の「永山武四郎誕生地」説明板(6月1日ブログ掲載画像)には、「西田村のこの地に生まれた」とある。

2018/06/18

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ⑤

 6月11ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として引かれたと思われます。両者の距離は915m(503間)。一つ考えられる根拠として‘71間基数説’を示しました。碁盤目街区60間+道路11間の、ほぼ7つ分に当たります。実際、現在は東1丁目から7丁目まで、碁盤目状に街区が形成されています。 
 しかし自分で示しておいて言うのも何ですが、私は‘71間基数説’説には懐疑的です。明治の早い時期からこのあたりに札幌の中心部と同じような碁盤目を想定していたとは考えづらい。明治期はおそらく、農耕地としての開墾を計画していたと思うのです。古い空中写真や地形図をたどると、このあたり(北12条以北の東1~7丁目)に碁盤目街区が仕切られていったのは戦後です。

 では、あらためて、東1丁目通り(市道幌北線)を基線とする現況915m(503間)は、何か?
 たびたび載せている古地図をまた見てみます。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 東8丁目通り
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。
 1882(明治15)年の作成とみられるこの古地図に、東1丁目通りや東8丁目通りの原形とおぼしき道が「見込線」として描かれています(以下、煩雑を避けるため「原形とおぼしき道」は省略する)。黄色の矢印の先が前者、赤い矢印の先が後者です。

 全体を俯瞰すると、碁盤目は碁盤目ですがかなり広い間隔で引かれています。この地図の縮尺は「6厘:10間」すなわち「1:10,000(1㎝:100m)」です。東1丁目と東8丁目の間隔を測ると、8.65㎝。縮尺に照らすと865mです。間に換算すると476間。現況の両者の距離915mに比べると50m(約27間)ほど短い。
 現況との違いは気になるのですが、ともかくも500間近い間隔でほぼ正方形に区画されています。その正方形の一部に、黄色のベタで塗られています。画像では読み取れませんが、矩形に地割されて、それぞれに人名が記されています。これは1882(明治15)年時点で土地の払下げを受けたかまたはその予定の人の名前です(本年2月28日ブログ参照)。
 私は、この500間(またはそれに近い)四方の区画は、いわゆる「殖民区画」の萌芽ではなかったかと推測します。

 「殖民区画」とは何か。
 開拓使時代から三県時代にかけての移民は、開拓使の募集移民や士族の集団移住、屯田兵の移住が代表的だったが、道庁時代の開拓農村は、殖民区画制度の下で一般の農民移住によるものが主流だった。すなわち道庁設置と共に間接保護政策の下で国有未開地の払い下げ処分が活発に行われ、農業開拓の担い手となる北海道移民が増加したことに対応して、殖民地の選定作業が広く行われるようになった。殖民地とは、道庁があらかじめ調査した開墾予定地のことである、一八八六年から全道の大原野を中心に実施され、九六年までに百十一万七千七百五十一町歩を調査した。(『新版 北海道の歴史 下 近代・現代編』2006年、p.163)。

 殖民地の区画割りは、おおむね次のような手順で行われた。先ず基線を設け、これと直角に交わる基号線を引く。これに並行して三百間ごとに碁盤目状に区画道路を引き、この直角に交わる道路で区切られた三百間四方の一区画(中画、地積九万坪)を間口百間・奥行き百五十間の小画(地積一万五千坪、五町歩)六個に分割した。この小画が前述した開拓農家一戸分の経営面積となり、中画を九倍したものを大画(九百間四方、地積八十一万坪)と称したのである。(同書p.165)。

 前掲古地図は、開拓使時代の末期、1881(明治14)年頃の札幌の近郊の土地区画、払下げの状況を伝えたものです。三県時代を経て北海道庁が設置されたのは1886(明治19)年、「北海道土地払下規則」が公布され、殖民地選定事業が始まりました(末注)。
 本件約500間四方の区画は、道庁時代の殖民区画に先立つ開拓使時代の模索を示しているのではないでしょうか。

 注:北海道編『新北海道史年表』1989年、pp.260-264

2018/06/17

旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮 保存の秘話

 「秘話」などと扇情的なタイトルを付けたわりに、本文が竜頭蛇尾になりますがお許しください。
 旧永山邸・旧三菱鉱業寮にまつわる物語は髙安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年に詳しくまとめられています。越野武先生(当時・北大)を中心とする建築の調査報告も転載され、本件建物を知るうえでもっとも役に立つ文献です。
 これに加えて、昨日ブログでも引用した武井時紀先生の『おもしろいマチ―札幌』1995年の記述を、私は推します。前者の文献に記されていないエピソードが幾つも盛り込まれています。前者は、永山武四郎をおもにして、昭和戦前期に三菱が洋館を建てたあたりまでの経緯が中心です。一方、後者は、その後の比較的最近に至る本件建物の歴史にも触れています。しかも、建物そのものというよりは、まつわる人々の営みが書かれています。後者にそのような記述があることはあまり知られていない(と思う)だけに、私は強調しておきたいのです。

 拙ブログではさらに、上記二つの文献にも載っていない“近過去”の記憶を、活字に遺しておきたいと思います。テーマは、旧永山邸及び旧三菱鉱業寮がいかにして保存されたか。
 
 北海道住宅供給公社が、30年ほど前に出したパンフレットです。
旧永山邸周辺再開発事業 パンフレット
 記載内容からして1987(昭和62)年の作成と思われます。

 「札幌圏都市計画事業 旧永山邸周辺地区第一種市街地再開発事業 新しい都市のアメニティ」という標題が付いています。描かれているのは、本件建物及び周辺公園と、その隣に建つ高層マンションの予想図です。本件建物の保存は、札幌市が都市計画事業の一環に位置付けられていました。1983(昭和58)年、本件建物及びその周辺の土地が都市公園(近隣公園)として都市計画決定され、1985(昭和60)年、札幌市が取得、整備したのです。それは市街地再開発事業(隣の高層マンション建設)との一連でした。それで、前掲パンフレットには建物と公園が住宅供給公社のマンションの借景庭園のように描かれたわけです。

 旧永山武四郎邸は1987(昭和62)年、北海道有形文化財に指定されました。札幌市内で文化財に指定された建造物の多くは、札幌市が所有しています。指定文化財の保存を担保することは、市による取得と密接不可分といえましょう。本件建物は、当時の所有者・三菱鉱業セメント株式会社が札幌市に寄付しました(末注①)。いくら耐用年数を過ぎた老朽家屋とはいえ、市に寄付されたことで文化財指定の道が開かれたと私は想います。三菱としては、社用施設を維持する必要性が減っていたのかもしれませんが。

 ここからは私の伝聞に基づきます。
 市は、三菱鉱業セメントとどのようにつながったのか。当時の市長・板垣武四氏のあずかるところが大きかったらしい。なんとなれば氏は、札幌市に奉職する前、三菱電機の社員でした(末注②)。市長就任後も、三菱に人脈があったようです。三菱鉱業セメントの社長、会長を歴任した大槻文平氏は、東京帝国大学法学部の先輩に当たります。板垣さんも、「三菱」には思い入れがあった。
 札幌市と同社の当時のやりとりを伝える公文書には当たっていませんが、おそらくこのようなことは活字に遺っていないでしょうね。

注①:旧三菱鉱業寮の展示パネルによる。
注②:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.39

2018/06/16

旧三菱鉱業寮に置かれた母子像

 先日の旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮の内覧会で、ひときわ目を惹いた逸品です。
旧三菱鉱業寮 母子像
 旧三菱鉱業寮の1階、玄関を入ってすぐの部屋に鎮座していました。

 作品名や作者名、由来などの説明は何もありません。 
旧三菱鉱業寮 母子像②
 その“無言”なたたずまいが、昭和戦前期の洋館の一室に特異な存在感を醸していたのです。あに、場違いと言うなかれ。

 本件建物の指定管理者となったN社の担当Gさんに、思わず私は「やあ、いいですね、コレ」と言ってしまいました。Gさんは苦笑いして曰く「私たちは、ここに置くのは反対したんですけどねえ」と。
 実は私は、本件彫像にタカを括っていました。「どこぞの誰かが、持て余したモノを札幌市に寄贈と称して押し付けたんだろうなあ」くらいに疎んじていたのです。というのは、だいぶ前、本件建物の一室が市の文化財課の物置で使われていて、その種の“ありがた迷惑”物件の収蔵場所になっていたからです(末注①)。

 内覧会のとき、やはり参加者からは「なんだ、コレは?」と話題になりました。案内してくださった角幸博先生(北大名誉教授、NPO法人「れきけん」理事長)によると、「日展会員の作品らしいが、詳しいことはよく判らない。もともとは玄関ホールに置かれていたので、なんらかの意味があったと思う。今後の調査が期待される」とのことでした。「炭鉱当時の(事故犠牲者の)慰霊のモニュメントかもしれない」とも。
 仔細は不明なるもスポットライトを浴びて、私は何がしかの霊気を感じました。化粧直しされて展示物なども一新された本件建物に、キッチュな、もとい、突然変異的な、いや人智の巧まざる効果をもたらしています。

 自慢するわけではありませんが、私は本件彫像を、建物の改修前にも脳裏に刻んでいました。
旧三菱鉱業寮 改修前 母子像
 2015年10月、まだ玄関ホールに置かれていたときに撮ったものです。何の自慢にもなりませんね。

 ただ、台座に貼られていた作者名も、画像に収めていました。
旧三菱鉱業寮 母子像 作者
 たぶん背後に回って、壁との隙間から撮ったのだと思います。現在は壁にぴったりくっつけて置かれているので、これを確認するのは難しいでしょう。これはちょっと自慢できるかも。

 ピンボケしていますが、「製作者 山畑 阿利一 製作年他詳細不明」と読めます(作者名には「やまはた ありいち」とルビ-末注②)。
 さらに、武井時紀先生(元札幌市文化財保護指導員)の著書で、次のような記述を見つけました(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.131 末注③)。
 永山邸が創建時のまま、現在まで残ることができたのは、三菱の力によるところが大きい。(中略)
 いま、当時をしのぶものは、新館(引用者注:旧三菱鉱業寮のこと)階段下にある彫刻(昭和三十九年、芦別から移した)と二階廊下の片隅に掲げられた三菱鉱業のポスター一枚があるだけである。三菱鉱業は昭和二十七年、三菱金属、さらに平成二年、三菱マテリアルと社名を変更し、平成二年三月、三菱大夕張鉱業所を閉山し、本道の石炭鉱業から全く手を引いた。永山邸を建てたのは永山武四郎である。しかしその後の保存に力を尽したのは三菱である。

 本件彫像は三菱鉱業(三菱金属)当時からのものだったのです。しかも「昭和三十九年、芦別から移した」という芦別には、三菱の芦別鉱業所がありました。同鉱業所は1964(昭和39)年に閉山しています(末注④)。閉山の際に札幌に持ってきたということでしょうか。三菱芦別を知る人に訊いたら、判るかもしれません。といっても、50年以上前だからなあ。

 とまれ角先生が推測する「慰霊」像という線が、現実味を帯びてきました。私の“ありがた迷惑”物件説は浅薄でした。

 注①:札幌市文化財課の名誉のために申し添えれば、“ありがた迷惑”云々は私の独自の解釈である。
 注②:山畑阿利一については右記サイト参照 → http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/9949.html
 注③:2017.11.4ブログ参照。武井先生の遺した記述の貴重をあらためて感じる。 
 注④:北海道芦別市サイト → http://www.city.ashibetsu.hokkaido.jp/kikaku/kikaku/enkaku.html 

2018/06/15

父母の血しおを今に 百年の塔は東に

 北海道百年記念塔を校歌に歌う学校が、さらにありました。
 札幌市立東光小学校。所在地は札幌市東区本町2条1丁目です。 東光小学校の学校だより「こぶし」2018年2月28日号に、教頭先生が「校歌に思う」という一文を寄せています。電網上で検索していてこれを知ったとき、みずからのウカツを恥じました。

 前に東区東雁来町にある高校のことを拙ブログで記したとき、次のようなコメントをいただいていました(2017年5月1日ブログ参照)。
 東豊高校は、昭和の後期あたりは厚別の野幌記念塔や大麻あたりからハッキリと視認出来て、あれは何なんだろうといつも思ってしました。おそらく向こうからも色々な物がハッキリと見えていたことでしょう。

 このことがアタマにあって、東区の小中学校も豊平川左岸に近いところを調べはしたのですが、まさか本町の学校で歌われていたとは。私の予想を超えていました。これで校歌は計18校(小学校11、中学校6、高校1)となりました。校章は計9校(小学校5、中学校3、高校1)で変わりません。

 さて、その東光小学校です。
東光小学校 外観
 校歌の2番に、♪父母の血しおを今に 百年の塔は東に…♪とあります。

 校舎から東方、記念塔の方角を眺めました。
東光小学校から東を望む
 もちろん、というべきか塔を望むことはできません。

 現在図で位置関係を確認します。
現在図 東光小学校-百年記念塔
 赤いが東光小学校、黄色の六角形が記念塔です。直線距離にして、9.8㎞。

 断面図を見ます。
断面図 東光小学校-百年記念塔
 標高は小学校が13.2m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。

 色別標高図を作って、あることに気づきました。
色別標高図 東光小学校-百年記念塔
 色分けは8m以下から1mごとの11段階です(地理院サイトから作成、白ヌキの○が小学校、六角形が記念塔)。

 小学校と記念塔との間がずっと低地なのは断面図でも判るのですが、学校のところが小高くなっているのですね。フシコサッポロ川の自然堤防による微高地です。戸建の民家程度の人工物が途中にあっても、条件的には恵まれていたといえましょう。校舎の上階からだったら今でも記念塔を望めるかもしれません。それにしても、10㎞近く離れた彼方です。あらためて畏るべし、百年記念塔。
 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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