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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/20

 夕方、雨上がりの後、大きな虹をご覧になった方が多いのではないかと思います。
虹 190820
 デジカメの視界に収まりきれません。これだけ完全な円弧を描く虹を見たのは、私は久しぶり、というか初めてのような気がします。

 画像を露出加工してみました。
虹 190820 露出加工
 黄色の矢印を付けた先に、弧がもう一つかかっているように見えますが、どうでしょうか。 
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2019/08/19

南郷通のファミレス跡に遺る伝説 続報

 昨年12月5日ブログで「南郷通りのファミレス跡に遺る伝説」を記しました。厚別区厚別南の元ファミリーレストランの地下駐車場に幽霊が出るという伝説です。地元の小学校で語り継がれてきました。その場所にかつてあった池に子供がはまって亡くなったことが“根拠”となったようです。子どもが池にはまったことが史実なのかどうか、このたび判りました。

 北海道新聞1969(昭和44)年10月19日記事です。
道新19691019 ひばりが丘団地貯水池水死事故記事
 「団地の貯水池で水死 フナ釣り 仲良し坊や二人 ひばりが丘」という見出しで報じています。「厚別区民歴史文化の会」でご愛顧いただいているO先生から、コピーをいただきました。以下、全文を引用します(太字、文中個人名は実名を伏せ、イニシャル表記とした)。

 (リード)
 十八日午前十一時ごろ、札幌市厚別町旭町九九○、ひばりが丘団地付近の水田貯水池(幅約三十メートル、長さ約百五十メートル深さ約二、三メートル)で、フナ釣りをしていた同町四九二、会社員Yさんの長男、Kちゃん(五つ)は、誤って池にすべり落ちた。一緒にいた同住所、会社員Kさんの二男、Tちゃん(六つ)が服をぬぎ、飛び込んで助けようとしたが、おぼれて行方不明となり、Tちゃんと双生児のHちゃん(六つ)が約二百メートル離れた自宅にかけつけ、母親のSさん(三七)に知らせた。札幌市消防本部、道警パトカー札幌東署などの約三十人がゴムボートなどで捜索した結果、Kちゃんは約三十分後、またTちゃんは同日午後一時ごろ、いずれも現場付近で水死体となってみつかった。

 (本文)
 KちゃんとTちゃん兄弟は近所同士で、午前九時ごろ、釣りザオを持ったKちゃんといっしょに池に行った。Hちゃんは兄が飛び込んでおぼれるのを見て、すぐそばにある人家に助けを求めずに、道路を隔てた団地の自宅に走り込んだもので、うわごとのように『お兄ちゃんがいなくなった』と繰り返していた。
 (小見出し)
 バラ線切れたまま ずさん過ぎた安全管理 
 (本文)
 同団地はもともと水田地帯で、この池は厚別貯水池利用組合(S組合長、加盟農家二十三戸)が管理する水田用の貯水池。現在同団地の中にある中央公園も同組合の貯水池を埋めたてたもので、埋めたて前の四十一年には水遊びしていた幼児一人が水死している。
 この事故をきっかけに、同団地自治会を中心に危険防止の機運が高まり、同組合は市に池の周囲に金網をはりめぐらすよう依頼したが、予算の関係で西側の岸だけバラ線を張った。ところが、雪の重みなどで切れ、この日、犠牲になった子供たちが近づいたとみられる付近は、昨年夏から修理されていなかった。
 同組合は団地自治会や付近住民に、子供たちを近づかせないよう申し入れていたが、防止策としては立て札を置く程度で、管理が安易すぎる―と付近の人たちは話している。
 郊外の水田地帯の団地造成は、特にこうした貯水池や用水路が多いだけに、団地の安全環境づくりの点で、こんどの事故は問題点を投げかけたといえる。


 ちょうど50年前の出来事だったのですね。記事により、その3年前にも団地内の別の池で事故があったことも、知りました。50年前というと、私自身も子どもの時分です。愛知県尾張地方の田舎に育った私には、田圃や用水路は見慣れた風景でした。人工的水路のみならず、中小自然河川も網流する木曽川の堆積平野です(2015.6.7ブログ参照)。私の記憶では、川や水路に落下防止用の手だてはほとんどなかったと回想します。ひばりが丘団地での水の事故に私が感慨したのは、かような自分の原体験に由るのでしょう。昨年12月5日ブログには、「池に子どもがはまったことの歴史的な意味を牽強付会するならば、札幌の近郊農村が都市化・市街化する過程の象徴的事件といえるかもしれません」と添えました。記事を読んで、事故に遭ったのが団地に住む会社員の子どもだったことをあらためて深読みしてしまいます。

 「あらためて」の感慨をもう一ついえば、同日ブログで結んだ「地域局所的な史実は、口承伝説、しかも子どもという非正史的な世界に遺る」ことです。学校の怪談、あだやおろそかにできません。これを採集することで札幌の近代史が読み解けるやもしれない。
 さらに三たび「あらためて」を加えます。O先生への御礼です。先生は札幌の小学校の校歌、校章を調べ上げてまとめておられます。まだ電網社会が進展する前のことです。私が昨年、「校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔」(2018.11.30ブログほか参照)を調べたきっかけも、O先生のご教示によります。「今はインターネットで校歌も校章も簡単にわかりますが、前は大変だったでしょうね」と申し上げたら、「ほんとに大変でした」としみじみおっしゃってました。先生は昨年、「札幌の幼稚園、小・中学校の名称に見る特徴と地域性」「神社と公園の名称に見る地域の歴史と地名のかかわり」も執筆されました(末注)。伝え聞くところ、学校での事故についてもお調べになっているそうです。いただいた新聞記事のコピーはその渉猟の一つかもしれません。砂浜でダイヤモンドを探すような作業に想えます。先生のおかげで、“雲をつかむ”に近かった伝聞情報の裏付けを私は苦労せず得られました。

 注:『札幌の地名がわかる本』2018年、pp.322-346

2019/08/18

人は穴を好む?

 札幌建築鑑賞会のスタッフで市内を散策しました。「大人の遠足」2019秋の編の下見です。仔細は来月発行予定の会通信「きーすとーん」をお待ちください。

 下見で立ち寄った古刹の境内に立つお地蔵さんです。
古刹 お地蔵さん-1
 札幌軟石で彫られています。

 スタッフのYさんが、あることに気づきました。
古刹 お地蔵さん-2
 一体のお地蔵さんの台座に、“穴”が空いています。

 石を積んだように目地が切られていて、しかも開口部はアーチ型に組まれているのです。
古刹 お地蔵さん-3 アーチ型のトンネル
 正確にいうと、目地やアーチに見せかけて、穴が穿たれている。これは、通行するためのトンネルという体です。

 前掲画像に戻ると、このトンネルの上と下で台座の厚みが異なっています。下のほうが厚い。、厚みの分がちょうど、トンネルに至る坂道になっています。かなり急勾配の坂道です。これを上ってトンネルに達します。

 トンネルを抜けた先はというと…。
古刹 お地蔵さん-4 アーチ型のトンネル くぐった先
 台座の側面に達し、こちらも表面が少しだけですが削れています。どうも急峻な崖を下るかの様相です。いや、もしかしたらこちらが上りか。

 本件アーチ型トンネルを施したお地蔵さんは、並ぶ他のすべてが立像であるのに対し、唯一坐像です。
古刹 お地蔵さん-5 アーチ型トンネルの坐像
 だから目立つと言えば目立つのですが、私はYさんに言われるまでトンネルのことにはまったく気づきませんでした。

 いま「坐像」と記しましたが、これは「半跏思惟」という姿勢ではないでしょうか。
古刹 お地蔵さん-6 半跏思惟
 右足を左脚の上に載せているかのようです。京都・広隆寺の弥勒菩薩像みたいに。

 それにしても。
 このアーチ型トンネルは何でしょうか? いわゆる“胎内くぐり”ではないかと、私は想いました。通過儀礼というか、このトンネルをくぐったらご利益があるとか。

 それで思い出したのが、富山・高岡の大仏です(画像は2014年撮影)。
高岡大仏
 銅製の巨大な坐像の台座下が空間になっています。何やらありがたそうなモノが陳列されていました。それらを眺めて通ったらご利益がありそうな気配が漂ってもいました。ただし、不信心なことに何が陳列されていたか、ほとんど覚えていません。些少の喜捨はしたと思うのですが、これではご利益は期待できません。それでも高岡の方は大仏が巨大なので下に入れましたが、前掲お地蔵さんの場合は一寸法師にならないと無理です。お地蔵さんのトンネルは極小ですが、古刹自体には大きな山門があります。なんだかガリバー旅行記みたいですが、これをくぐったらいいことがあるかもしれません。

 もう一つ、それにしても。くだんのお地蔵さんは札幌軟石だけあって、組積造でしかもアーチを組んだところは、さすがです。
 それにしても、の三つ目。一人ではなく複数のスタッフで見て歩くと、視えなかったモノが見えてきます。あな、ありがたや。

2019/08/17

南9条緑地の隅切り

 国道230号石山通の菊水・旭山公園通との交差点です。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望
 南東の角に「南9条緑地」があります。

 置かれているオブジェは山内壮夫の作だそうです。
南9条緑地 山内壮夫の彫刻
 「春風にうたう」1958年(末注①)。
 ということは、この緑地はそのころからあったと思われます。

 現在図で緑地の位置を示します。
現在図 南9条緑地
 所在地は中央区南9条西10丁目です。緑色でなぞりました。ほぼ矩形の平面です。

 オブジェが置かれて間もないころの空中写真を見ます。
空中写真 1961年 南9条緑地
 1961(昭和36)年撮影です。緑地にあたるところを黄色の矢印で示しました。

 その部分を拡大します。
空中写真 1961年 南9条緑地 拡大
 当時は台形状だったようです。現在の「ほぼ矩形」の対角線(北東-南西)上にナナメに道が通じているかに見えます。交差点に面する部分が隅切りされていて、これを上底とし、ナナメの道を下底とする台形です。台形の真ん中の白っぽい小さな円形は、オブジェが置かれた場所でしょうか。

 緑地の平面図です。
南9条緑地 平面図
 札幌市みどりの推進課サイト「札幌市公園検索システム」から採りました(末注②)。
 赤い矢印を付けた先がオブジェの位置です。前掲1961年空撮写真に写る台形の中の白い小さな円形とほぼ重なります。 

 のみならず、ほかの工作物の配置などから、かつての台形平面の痕跡が見えてきます。
南9条緑地 南8条西10丁目から南望 ズームイン
 たとえば赤い列柱が連なるパーゴラ?のナナメ感。かつての台形の“下底”線を彷彿させます。

 札幌市地図情報サービスで、本件南9条緑地を見ると…(注③)。
札幌市地図情報サービス 都市計画道路 南9条緑地
 元の台形部分がまるごと都市計画道路になっています。台形の“下底”線がまるで道路の隅切りであるかのごとき線引きです。交差点の他の三箇所はいわば普通の隅切りなのに、都市計画上この緑地の角だけ破格に見えます。ちなみに、この交差点がわずかにクランクしているのはなぜでしょうね。謎は湧き出ますが、措きます。

 私がこの緑地の形状にかくもこだわるのは、8月15日ブログに記したとおり、ここにもまた疎開の痕跡すなわち札幌の戦跡のニオイを感じるからです。


 注①:『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、p.82
 注②:http://www2.wagamachi-guide.com/sapporo_koen/apps/list.asp?mode=2&ID=410002# ただし、このサイトに描かれている工作物等の配置と現況とは、必ずしも一致していない。
 注③:https://www.sonicweb-asp.jp/sapporo/map?pos=141.31500617333333,43.046373502106256&scale=5000#pos=141.34365873856464%2C43.048415434347525&scale=1875&layers=dm%2Cth_7&theme=th_29

2019/08/16

奈井江町の住友

 お盆恒例、空知郡奈井江町の妻の実家へ墓参してきました。

 町営墓地のすぐ近くで採集した電柱銘です。 
電柱銘 奈井江 住友幹 拡大
 「住友幹」。 

 墓地は、JR奈井江駅から東へ約2㎞のところにあります。
現在図 奈井江 墓地周辺
 赤いを付けたところが電柱「住友幹」の所在地です。

 墓地の西側の道路をはさんで、ゴルフ場が隣り合っています。
電柱銘 奈井江 住友幹
 電柱の背後に写っているのは、ゴルフ場のネットです。

 住友。そういえば奈井江にはかつて炭鉱があったと妻に聞いていました。これはその名残ではなかろうか。このゴルフ場も、炭鉱を閉じた住友ゆかりか。

 墓参り後、義妹(妻の弟の奥さん)に訊いたところ、この近くには「住電精密」という住友系の工場があると教えてもらいました。その工場は、閉山後の激変緩和というか就労維持というか地域貢献のために造られたのではないだろうか。
 「住友新町」という町名もあるそうです。ただし、そこにはほとんど住宅は無いとも。人が住んでいないのに、かような地名があるというのは、ニオイます。電網検索したら、「住友新町」は奈井江町奈井江のいわゆる小字です。

 1968(昭和43)年の空中写真です。
空中写真 1968年 奈井江町 住友炭鉱
 電柱「住友幹」は、赤いを付けたあたりになります。黄色のは奈井江駅です。
 現在のゴルフ場の一帯に、炭住らしき長屋らしき建物がいっぱい並んでいます。

 ところで、鉄道にほぼ平行して、東側に「北海幹線」が南北に通じています。空知の大稲作地帯を支える長大な農業用水路です。この用水路が、ちょうど黄色のと赤いを結んだ線上と交わるあたりで弓なりに弯曲しています。これはなんでだろうか。知らないことだらけだなあ。

2019/08/15

74年前の今日

 昨年8月9日ブログで「石山通りの幅員減少現象 再考」を記しました。その日の北海道新聞夕刊に掲載されていた投稿記事を引用してのことです。投稿した女性は1945(昭和20)年8月15日、「石山通り沿いで道路拡張のために、民家を取り壊していた」のを目撃していました。記事に「終戦をまだ知らなかったのだろう」と続けられていたことから、私は建物疎開だったのではないかと想像したのです。記事にはさらに、女性が「監視隊本部」に勤めていたとも書かれていました。私は同日ブログを「『監視隊』がどんなことをしていたかなど、できれば直接お話をお聴きしてみたいものです」と結んでいます。

 実はその後、私はこの女性への連絡を試みました。どうやって試みたか。紙面には女性のお名前と年齢のほか、住所は区名までしか載っていません。新聞社に問い合わせることも考えましたが、先方の連絡先をすんなりと教えてもらうのはとりわけ昨今、ありえないことです。仲介の労を取ってくれるかどうかもわかりません。そこで、もっとも原始的な方法を選びました。電話帳を繰って同じ苗字の人をリストアップし、片端から電話をかける。

 その結果は…。
 幸いなことに、9人目でたどり着けました。見ず知らずの者にお答えくださったことをありがたく思います。女性が目にしたのはやはり建物疎開であり、それが現在の国道230号石山通のどのあたりかも、わかりました。

 1948(昭和23)年の空中写真(米軍撮影)で、あらためて石山通を俯瞰します(2017.4.4ブログ参照)。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲
 赤い実線でなぞった南北に通じる道路が石山通で、その北端、東西に伸びているのが大通公園です。南6条の交差点を黄色の○で囲みました。

 昨年8月9日ブログに記したように、石山通は現在、この交差点の南側で幅が狭まっています。私はこれを建物疎開の痕跡と推理しました。交差点の南東角を、疎開の“し残し”すなわち「1945年8月15日をもってタイムオーバー」とにらんだのです。さらにその南側は、「ところどころ空地が見られるものの、家屋の残存が目立ってきます」(2017.4.4ブログ記述)。

 さて、それでは前述の投稿女性が“証言”する「民家を取り壊していた」場所は、どこだったのでしょうか。
 お聴きしたのは「南8条、9条の西10丁目あたり」とのことです。現在のその区域を前掲画像に黄色の□で囲みました。
 そのあたりを拡大します。
1948年空中写真 石山通 建物疎開 再掲 南6~9条西10丁目あたり拡大
 ちょうど、「ところどころ空地が見られる」一帯と合致します。

 くだんの女性は当時、南8~9条の西11丁目にお住まいだったそうです。黄色で囲った付近の石山通をはさんで向かい側に当たります。壊していたのは「お風呂屋さん」だったといいます。信憑性が伝わってきました。ちなみに、石山通の南8、9条で東西に交差する道路は現在の「菊水・旭山公園通」で、この両側も疎開らしき形跡が窺われます。
 石山通を建物疎開していたこと、しかも1945年8月15日までやっていたこと、それがちょうど現在の幅員減少の少し南側だったことの“目撃証言”を得られました。これまで、ほぼ戦後の空中写真からの想像の域を出なかったのですが、南6条の幅員減少は疎開の痕跡との思いをいっそう強く抱いたしだいです。

 本日の道新朝刊でも、「終戦記念日にちなんだ投稿」を特集して掲載しています。「戦争体験者が減り、戦争を知らない世代が増えてい」る(同記事リード)こんにち、原体験者の“証言”は貴重です。嗚呼、一緒に暮らす私の母も、93歳の生き証人ではないか。

2019/08/14

穴の川の「穴」

 昨日ブログ末尾に、「『穴の沢』は何に由って来たるか」と記しました。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 結論的にいうと、私は先達の考察を超えません。「先達の考察」というのは、加藤好男『南区の歴史と地名』1987年です。同書はそのものずばり「穴の川の『穴』とは何か」を仔細に推論しています(pp.96-97)。また、「穴の」「穴の」の変遷についても先だって述べています(pp.95-96)。

 余談ながら、この書は札幌市立豊滝小学校が発行したものです。しかし、小学校の郷土史副読本という域を超えた水準だと思います。いや、その言い方は「小学校の郷土史副読本」に対する下方バイアスですね。私がエラそうに「水準」など設定できるものではありません。小学校の周年記念誌には往々に貴重な一次情報が盛り込まれています。前掲書の場合、史料や既往研究を丹念に跡づけたのみならず著者が新たに切り拓いた知見も加味されており、とまれ出色です(末注①)。

 ちなみに、同書には「軟石発見の年は?」という一項も設けられています(pp.63-64)。「石山が軟石採掘から始まった地域であることは、誰でも知っていることです。しかし、『不思議なこと』が一つあります。軟石採掘開始の年は、明治8年として、どの本も一致しているのですが、軟石発見の年がどうもはっきりしていないことです」と切り出し、「現段階では、断定できる資料がありません」と結んでいます。近年私が右往左往していること(本年4月9日ブログ参照)を、先達は32年前に喝破していました。

 加藤先生の本をなぞるのでは芸がないので、拙ブログでは別のことを記します。
 「穴の沢」の由来について、もっとも新しく著述されているのは管見の限り『札幌の地名がわかる本』2018年です。同書の「石山・石山東」の項に「往古はアイヌ語〈ウコツシンネイ(山と山が接近する土地の意)〉の名があったという」とあります(p.118)。またそのページの脚注では『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年から「語源は明確でないが、昔ここを通る人が『ウコッ・シリネイ』と呼んだところから、山峡を伝ってでる川であり、穴の沢と呼ばれるようになったと思われる」と引いています。
 これが、わかるようでわかりません。『札幌地名考』に立ち戻っても、「ここを通る」の「ここ」が石山地区のどこを指しているのか、明示されていない。上述の文だけだと、狭隘な峡谷を削る川のような印象を私は受けるのですが、どうでしょうか。「山と山が接近」→「山峡を伝ってでる川」→穴の沢。「山峡」とは「山と山とに挟まれた谷間」です(『広辞苑』第5版1998年)。石山地区を流れる穴の沢(穴の川)のどこから、「山峡」が想像できるでしょうか。
 実は「ウコツシンネイ」「ウコッ・シリネイ」について、山田秀三先生が考察し(末注②)、加藤先生が前掲書でそれをふまえて展開しています。しかし『わかる本』には、そこまで言及されていません。まあ、先行研究を逐一紹介していたら、紙幅が十倍あっても足りないでしょう。無いものねだりはやめます。同書の章末には二先生の著作も参考文献の中に挙げられていますので、疑問が出たら自分で調べなさいということでしょう。
 教訓。書名が『わかる本』でも、決して「わかる」とは限りません。否、わかった気になるのは、却ってアブナイ。落とし穴です。逆説的ですが、『わかる本』からは「わからないこと」を見つけるように読みます。

 注①:加藤好男氏は近年、『サッポロ・イシカリのアイヌ民族』についても到達点を築いている(本年1月15日ブログ参照)。
 注②:『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.23-25

2019/08/13

穴の川 古豊平川の記憶 ②

 「北海タイムス」1970(昭和45)年9月19日記事(画像上)、同1972(昭和47)年9月18日記事(下)です。
北海タイムス1970年9月19日記事
北海タイムス1972年9月18日記事
 南区石山で穴の川が氾濫したことを伝えています。

 1970年の記事から以下、一部引用します(太字)。
 中でも穴の川は、山岳部からほぼ直線的に流れ石山市街にはいったところから今度は本流である豊平川に平行して藻南橋の手前まで流れている。石山市街を流れる部分は、うねうねと曲がり、はんらんいやすい状態。
 札幌市は、穴の川を石山地区から、すぐ豊平川にそそぐようショート・カット、両岸約五百メートルを護岸する工事をことし始めた。結果的には、流木がひっかかって流れをとめ、はんらんを招いたためにショート・カット工事は、役に立たなかった。


 1972年の記事では石山地区での被害を次のように記しています(太字)。
 南区石山一区では午後八時ごろ、国道二三○号線沿いの商店や住宅に近くを流れる穴ノ川がじわじわと床上まで浸水、テレビで台風の被害を見ていた市民も『他人ごとではない』と床の物を高い所へ上げたり、大騒ぎとなった。
 石山地区では床上浸水9戸、床下浸水40戸だったそうです(なお、記事中の「国道二三〇号線」は現在の平岸通のこと)。

 1961(昭和36)年の空中写真で穴の川の下流域を見ます。
空中写真1961年 石山 穴の川
 濃い青でなぞったのが豊平川、水色が穴の川です。上述の1972年氾濫で浸水した石山一区は、画像の中央やや下あたりです。

 1970年代前半の氾濫は、市街地の拡大にともなう被害増大の側面もあるのでしょうが、昨日ブログで述べた「穴の川=豊平川旧河道」説で解釈できるような気がします。豊平川の本流から切り離された旧河道を穴の川が争奪して、オーバーフローさせた。本流であれば受け止めきれた増水だったのかもしれません。ただし、そもそもこの一帯全体が豊平川による氾濫原あるいは谷底平野といえるとも思います。

 なお、前掲の新聞記事は私が独力で発掘できるものでは到底ありません。㈱シン技術コンサルが発行する『目で見る水害レポート』№33、2014年10月掲載からの孫引きです。北海道開発局札幌開建ウエブサイトの札幌河川事務所のページにも、「近年の土砂災害」が時系列で記されています。

https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/sapporo_kasen/kluhh4000000861e.html#s1
 これを見ると、穴の川は1975(昭和50)年にも氾濫しています(末注①)。

 石山に古くからお住まいのⅠhさんは「穴の川はしゅっちゅう氾濫していた」とおっしゃっていましたし、郷土史の文献でも古老が「学校の前の穴の川でさえ、大雨が降るとすぐあふれ出して、国道が一面水をかぶったものだ。ついこの間までね」と語っています(末注②、この「国道」も、現在の平岸通)。
穴の川 石山2条3丁目あたり ②
 この小川からも、豊平川の原風景が偲ばれます。 

 ところで、穴の川の旧称は「穴の沢川」でした。「穴の沢」は何に由って来たるか。

 注①:1972年9月の氾濫については「床上浸水97戸、床下浸水76戸」と記している。
 注②:石山小学校開校80周年記念『石山ものがたり-古老座談会-』1979年、p.16。同書には1913(大正2)年の「大水」のことも語られている。これは豊平川の洪水のことである。

2019/08/12

穴の川 古豊平川の記憶

 昨日ブログで、4万年前の支笏火砕流の南区石山あたりでの堆積について述べました。その上を古豊平川が、現豊平川から真駒内川のほうへ流れた。

 真駒内の町が広がる地域は、札幌扇状地の古い地形面である平岸面が始まるところです。また、平岸面と同じ段丘面は真駒内公園や南区川沿にも見られることから、昔の豊平川は、柔らかい火砕流堆積物を浸食しながら、流路を変えつつ、柏丘の小高い丘の東側にも、西側にも流れていたと考えられます。(末注①) 

 正確にいうと、古豊平川は真駒内川のほうへ「も」流れた、ということですね。では、豊平川がその後、現在の流路に変わっていったのはなぜか。

 ところが、約1万年前に氷河期が終わって気候が湿潤になり、豊平川の浸食力が増してくると、石山陸橋の部分で硬い溶結凝灰岩が露出するようになり、豊平川はこれを避けるように東側には流れなくなったのではないでしょうか。豊平川の流路が西側に固定されたことが、新しい扇状地面である札幌面の形成にもつながったのでしょう。(末注②) 

 昨日ブログにも載せた石山陸橋からの眺めは、豊平川が4万年かけて削った谷ということができましょう。
 
 石山のあたりの現在の地形を、色別標高図であらためて見渡します。
色別標高図 90m未満から10mごと10色陰影付き 豊平川 穴の川 真駒内川 古豊平川想定流路
 標高90m未満から10mごと10色陰影付きで作成し、以下加筆しました。
 濃い青:豊平川 薄い水色:穴の川 濃い水色:真駒内川
 赤い:石山陸橋 白抜き矢印実線:古豊平川の想定流路 白抜き△:硬石山

 ここからは、私の想像です。
 穴の川の下流域は古豊平川の流路だったのではないか。言い換えると、支笏溶結凝灰岩は、古豊平川が谷を削って露頭させたのではないか。

 前掲色別標高図で、穴の川の下流域を拡大します。
色別標高図 90m未満から10mごと7色陰影付 穴の川下流域
 穴の川を水色で加筆着色しました。緑色のは札幌軟石の採掘場跡、すなわち支笏溶結凝灰岩の露頭です。

 石山2条3丁目あたりの穴の川です。
穴の川散策路 石山2条3丁目あたり
 ちょろちょろと流れています。流れているかどうか判らないぐらいの水量です。河畔には散策路が整備されています。流れが少ないのは、この手前(上流)で豊平川に短絡する放水路が設けられていて、水量の多くがそちらに流されているからです。

 穴の川放水路です。
穴の川放水路
 奥に写る石山大橋のあたりに注がれています。1972(昭和47)年に開削されました。

 私は、もしかしたらこの放水路がかつての穴の川の河道だったのではないかとすら、想います。というか、このあたりは豊平川の氾濫原で、この画像を撮っている場所がすでに注ぎ口だったのではないか。
 前掲の標高図を見ていると、穴の川が現放水路のほうへただちに注がず、豊平川に伴走するようにうねうねと流下しているのが私にはむしろ不思議でした。このうねうねは元々豊平川の流れだったと考える方が自然に想えるのです。採石場跡たる支笏溶結凝灰岩の露頭も、「浸食力が増して」きた古豊平川のたまものといえるのではないか。硬い溶結層にぶつかって、流路が争奪された。その旧河道を穴の川がいわば“上書き”した。

 注①:前田寿嗣『新版 歩こう! 札幌の地形と地質』2016年、p.83
 注②:同上

2019/08/11

支笏火砕流は札幌をどれだけ埋め尽くしたか

 8月6日ブログの末尾で私は、古豊平川が石山陸橋を越えて真駒内川方面に流れていた条件を、次のように記しました(太字)。
 現豊平川から穴の川にかけての標高がかつて、石山陸橋から真駒内川の標高よりも上回っていたことが条件となりましょう。その条件は、4万年間の支笏カルデラ大噴火によって成立したらしい。空前の火砕流が押し寄せて、現豊平川~穴の川のあたりを埋め尽くし、今よりも標高が高い地盤が形成された。では、どれくらいの高さにまで至ったのか。

 4万年前の支笏火砕流が「どれくらいの高さにまで」堆積したか。結論的にいうと、現在の石山緑地のあたりで標高210mくらいだったそうです。元の標高が約90mで、つまり火砕流は約120mの厚さで堆積しました(末注①)。

 標高210mというと、実際どれくらいの高さか。石山陸橋から豊平川の対岸、硬石山を眺めた画像を再掲します(7月1日ブログ参照)。
平岸通 石山陸橋から“望豊”
 この場所の標高が約117mです。単純にいうと、この高さを越えて火砕流が堆積したことになります。向かいの硬石山の頂上は標高390mです(末注②)。手前の豊平川のあたりで標高約90mなので、山は比高にして約300m。火砕流が標高210mまで堆積したということは、現豊平川(標高90m)からの比高で120mになります。画像に写る硬石山の中腹の3分の1強、乃至半分弱くらいの高さまで埋まったということです。今もし同じことが起きたら、手前に写っている中高層の集合住宅は火砕流に没するのですね。イタリア、ベスビオ火山の噴火で埋まった古代都市ポンペイもかくや。

 注①:南区石山緑地のあたりでの堆積。北海道総合地質学研究センター第4回公開講座「4万年前、札幌を埋め尽くした支笏火砕流-札幌軟石は支笏火山の置き土産-」2019年6月8日、関根達夫氏のご教示による。
 注②:前掲画像で見える硬石山の尾根は約372m(国土地理院サイトによる)。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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