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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2022/05/22

これらの物件は何か。(続)

 昨日ブログの続きです。札幌市内の火の見やぐら(櫓)が「04年までに全て取り壊された」と新聞記事で読みました(北海道新聞本年5月21日夕刊)。札幌市消防局への取材によるそうですが、私はこれに疑義を呈しました。拙ブログでこれまで綴ってきたとおり、2004年より後に幾つか現認してきたつもりだったからです。さまざまな可能性を検討しましたが、昨日ブログで書き漏らしたこと、というか検討し残したことがもう一つ、あります。「04年までに全て取り壊された」の「04年」です。私はこれを2004年と解釈しました。私が札幌市内で火の見やぐらを目撃したのは2015年から2017年にかけてです。だから、2004年までにすべてなくなったというのが解せませんでした。
 この記事の「04年」というのは、2004年で間違いないだろうか。この新聞の表記ルールからすれば、常識的には2004年と解すべきです(末注)。しかしこの際、勘ぐることとします。取材元の市消防局は2004年という認識だったのだろうか。まさか「令和4年」というつもりだったのではあるまいか。令和4年すなわち今年までに「全て取り壊された」のだとしたら、私がブログに載せた後という可能性もあります。となると、直近の状況を確かめるしかありません。

 昨日ブログに載せた火の見やぐら5物件の現地に、あらためて足を運びました。本日時点の現況は以下のとおりです。
①東消防団栄分団
東消防団栄分団 2022年現況

②東消防団元町分団
東消防団元町分団 2022年現況

③東消防団丘珠分団
東消防団丘珠分団 2022年現況

④北消防団篠路分団第二部
北消防団篠路分団第二部 2022年現況

⑤北消防団拓北分団第二部
北消防団拓北分団第二部 2022年現況
 
 黄色の矢印を付けた先に火の見やぐらがありました。ご覧のとおり、いずこもきれいさっぱり、なくなっています。少なくとも私が2015-2017年に視認した物件に関しては「全て取り壊された」。ただし2004年までに、ではありません。このたび現地を訪ねるに先立ってグーグルストリートビューを繰ってみました。例えば物件③は、グーグルで撮影されたのは直近で昨年(2021年)6月です。その画像にはまだ火の見やぐらが写ってます。場所によって撮影年が異なるので一概に言えないのですが、5物件が「全て取り壊された」のはここ1-2年のようです。この同時多発的消失は計画的作為と思われます。老朽化、倒壊の危険ということで、解体の予算が特別に組まれたのでしょうか。「歴史的建造物が随所に残る小樽には、役割を終えた今も5基が現存する」(前述道新記事)のとは、彼我の差です。
 無用の長物でしかも危険があるというなら、いたしかたありません。しかし5物件の現況を一度に目の当たりにして、私は喪失感を抱いてしまいました。無用の長物、に自らが投影されるからかもしれません。世の中には無用の用、ということもありましょう。私自身はともかく、火の見やぐらは現役時代、大事なお役目を果たしてきました。地元でどのようにお見送りされたか存じませんが、解体は世間一般ではあまり知られていないのではないでしょうか。長年のおつとめご苦労様でしたと拙ブログでねぎらうこととしましょう。
 「札幌村」の銘板(2015.5.19ブログ参照)や「警鐘信号告知表」(2015.1.302017.5.25ブログ参照)は、どうなったのかな。半鐘もつぶさに眺めたかった。廃棄されたとしたら(金属製品はリサイクルか)いたましい(北海道弁)限りです。拙ブログで画像に留めたのがせめても、か。

 注:北海道新聞の記事は原則として西暦表記されている(元号はカッコ書き)。くだんの記事では引用文の前の文章に2015年という記述があるので、後に続く文中の年号の04年は20を省いたと解せられる。元号表記ならば「令和」なりを加えないと読み取れない。
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2022/05/21

これらの物件は何か。

 本日の北海道新聞夕刊1面で「小樽 築95年火の見やぐら」のことが報じられました。地域の文化遺産として保存しようという動きです。文中、火の見やぐらは「札幌市消防局によると、同市内では04年までに全て取り壊された」と書かれているのに引っかかってしまいました。「歴史的建造物が随所に残る小樽には、役割を終えた今も5基が現存する」ことが対照的に強調されています。
 拙ブログを前からお読みくださっているかたにはご記憶かもしれませんが、私は近年、札幌市内で火の見やぐら(櫓)を数件、視認してきました。いずれも、2004年より後です。しかるに本日の新聞記事によると、札幌市内では2004年までに「全て取り壊された」という。私が視認したつもりだったのは、火の見やぐらではなかったのだろうか。ブログで取り上げてきた物件をおさらいします。

①東消防団栄分団(2015.1.30ブログ掲載) 東区北45条東2丁目
東消防団栄分団 再掲

②東消防団元町分団(2015.1.31ブログ掲載) 東区北20条東20丁目
東消防団元町分団 再掲

③東消防団丘珠分団(2015.5.19ブログ掲載) 東区丘珠町
東消防団丘珠分団 再掲

④北消防団篠路分団第二部(2016.12.20ブログ掲載) 北区百合が原11丁目
北消防団篠路分団第二部 再掲

⑤北消防団拓北分団第二部(2017.5.25ブログ掲載) 北区篠路町拓北
北消防団拓北分団第二部 再掲

 札幌市消防局では、上掲①~⑤は火の見やぐらと認めないということでしょうか。新聞記事を私が誤解したおそれもあります。ほかの可能性を考えました。
 (1)火の見やぐらとしての機能をすでに果たしていない。
 前述引用の「全て取り壊された」は、やぐらそのものが解体撤去されたと、私には読める。この一文の前には、戦前建設のやぐらの多くは戦時中の金属供出により解体されたこと、戦後再建されたが家庭での電話の普及(119番通報)により使われなくなったことが記されている。もし、機能を果たしているものが現存していないという意味なら、「取り壊された」とは書かないのではないか。
 (2)「全て取り壊された」のは戦前建設の物件を指す。
 前掲①~⑤はいずれも戦後の建設と思われる(末注)。しかし、前述引用の「全て取り壊された」のいう文は、戦後再建されたが使われなくなったという記述の後に続いている。その文脈からすると、戦後建設のものも含めて「全て」、現存していないと解される。
 (3)半鐘の有無
 物件①②③には残っていないが、④⑤はそれらしいものが見える。
 (4)消防団所有管理の物件
 記事で取り上げられている小樽の火の見やぐらも、消防団の所有である。札幌市に関しては「全て取り壊された」のは市消防局の直轄に限定しているとは解釈しづらい。 
 (5)そもそも火の見やぐらではない。
 物件①⑤には「消防警鐘信号告知表」が遺っている(④はその名残とおぼしき板)。これは火の見やぐらに具備されたものでないか。物件②は、てっぺんにフックらしきものが付けられている。これは消火用のホースを干すためか。現在はホース干しとして余生を送っているのかもしれないが、元の用途としては火の見やぐらではないか。

 上掲①~⑤が火の見やぐらではないとすると、私は認識を改めねばなりません。札幌市消防局に確かめてみようかしら。しかしそんなことで当局を煩わせるのも躊躇われる。気が引けます。

 注:物件③には「昭和二十三年六月竣功」と刻まれた銘板が架かっている(2015.5.19ブログ参照)。それ以外の建設年は不詳だが、③から類推すると戦後の建設と思われる。

2022/05/16

慰霊記念碑の本質か

 爽やかな好天と新緑に誘われて、郊外に足を運びました。
真駒内滝野霊園 正門
 「真駒内滝野霊園」(南区滝野)です。

 ここに行こうと思い立ったのはきっかけがあります。先日、手稲郷土史研究会の例会に参加して、ここにシベリア抑留の犠牲者の慰霊碑があることを教えていただきました。目当てはその碑です。
 これまで私は、この場所を敬遠していました。身内のお墓がないことに加え、この霊園全体が醸し出すキッチュ感がなじめなかったのです。拙ブログをお読みのかたにはお察しのとおり、私はキッチュ感そのものを嫌うのではありません。巧まずして自然ににじみ出るのがキッチュの真骨頂です。しかるに本件霊園はいかにも作為的と感じられました。それで忌避していたのですが、まあいわば食わず嫌いです。このたび生まれて初めて現地を訪ね、認識をあらためました。それはまたおって綴るとしましょう。

 まずは目当てです。
シベリア抑留死亡者 慰霊之碑 真駒内滝野霊園
 管理事務所で所在地をお聞きして、たどりつきました。180万㎡(札幌ドーム32個分)の敷地に5万基を超える墓碑が建っているそうです(同霊園「ご案内のしおり」)。聞かなかったら途方に暮れるところでした。

 シベリア抑留(末注①)は60万人余(うち北海道出身者は3万人余)に達し、そのうち6万人余(北海道出身者は3000人余)が現地で亡くなったといいます(慰霊碑の副碑の文)。異国の地に斃れて土となった人びとの無念を想いました(末注②)。

 慰霊碑の背面です。 
シベリア抑留死亡者 慰霊之碑 背面
 「平成六年八月建立」と刻まれています。悪い癖で、どうしてもプロトタイプ=聖なる原型のニオイを嗅ぎ取ってしまいました。これまた、なんちゃって、もとい造形規範性の一証左ではなかろうか(末注③)。
 
 聖なる原型をあらためて仰ぎます。
北海道百年記念塔 2022年4月
 もう勝手に原型と決めつけてしまいたい。

 調子に乗って、さらに実例を求めました。
真駒内滝野霊園 百年記念塔タイプ?墓碑
 こちらは個人の墓碑です。背面に「令和元年十一月吉日  ○○○○○建之」と刻まれています(○のところは個人名)。てっぺんのナナメカットの向きが原型とは異なりますが、原型も見る位置によってはかように見えなくもありません。

 現地をご存じのかたには言うまでもありませんが、この霊園は区画によってお墓のカタチが決められています。定型的な同じ仕様がずらっと並ぶところ、さまざまな「自由」型が建つところなどです。上掲は後者の区画に建っています。5万余の膨大なお墓で本件を偶然に見つけられたのではありません。園内にある「墓石ギャラリー」(販売センター)でパンフレットをめくったら「フルオーダーメードの施工例」として写真が載っていたのです。本件も、管理事務所で所在地を教えてもらいました。所有者の承諾が得られているものは、求めに応じて開示しているそうです。
 私は管理事務所で、先にシベリア抑留の慰霊碑を尋ね、次いで本件個人墓碑をお訊きしました。「カタチが似ている」ことを理由にしたのですが、事務所で応対してくださったかたは後者について「十数年前にコンテストで入賞したデザインです」と言われました。「ほかにもありますよ」とも。いかなるコンテストだったのか具体的には聞きそびれました。電網検索したら、石材店の団体がお墓のデザインコンテストを主催しているようです。初めて知りました。
 ほかにもあるとのことですが、あたりを見渡した限りでは、本件だけでした。自由型の区画だけでもかなり広そうなので、全部を当たるのは容易ではありません。
 本件といい前掲の慰霊碑といい、モチーフは合掌のカタチでしょうか。しかし私は制作者の脳裏に聖なる原型が刷り込まれていたと妄想します。否、聖なる原型もまた、建立の趣旨からすると合掌もモチーフに含まれていたのではなかろうか(末注④)。

 注①:旧ソ連によって収容所が設けられたのはシベリアだけでなく、中央アジアや沿海州などにも及んでいた(慰霊碑の副碑及び手稲郷土史研究会第185回例会2022年5月11日配布資料)。
 注②:日本(軍)が満州などを勢力圏としたことは正当化しえない。しかし、それをもって旧ソ連、スターリンの非道を正当化することもできまい。「戦争の悲劇」一般(=ステロタイプ)に矮小化しては問題の本質を見失うこととなるが、拙ブログの手には余るのでここまでとする。
 注③:関連事項 2018.2.6同2.9同4.13同8.22019.1.32020.8.24各ブログに記述
 注④:慰霊顕彰の造形と合掌モチーフの親和性はたしかにほかでもみられる。2020.2.29同3.11ブログ参照。しかし私は聖なる原型の独創性と規範性をそこに矮小化したくない。

2022/05/12

カフェに生まれ変わった洋館(続)

 (続)といっても、5月10日ブログでお伝えした建物の続きではありません。
北海道育種場 入口
 江別市にある昭和初期築の洋館です。 

 このたび、1階が「サッポロ珈琲館」のカフェになりました。
旧林木育種場 サッポロ珈琲館
 この建物のことも、前に綴っています(2020.12.282017.9.3ブログ参照)。こちらは1927(昭和2)年築というので、すでに卒寿を寿いでいます。長らえた建物に新しい命が立て続けに宿り、嬉しい限りです。

 先のブログ(202012.28)で私は、この建物がサッポロ珈琲館で活用されることに「因縁めいたものを感じます」と結びました。
サッポロ珈琲館 本店
 西区八軒にある本店は北海道工業試験場だった建物です。
 このたび新たにお店となったのは、かつては林業試験場の庁舎でした(末注①)。どちらも、国の試験研究施設を出自としています。本店の建物は昭和20年代に建てられた「第二庁舎」ですが、本庁舎のほうは大正から昭和初期にできました(末注②)。工業試験場と林業試験場は1936(昭和11)年、昭和天皇が行幸しています(末注③)。私が因縁を感じた所以です。
 これらの試験場は、北海道の風土に根ざした産業振興を先駆けました。そのゆかりの地をサッポロ珈琲館が再利用するのは、必然的偶然、偶然的必然(この修辞が気に入ってしまった)かもしれません。5月10日ブログに続き、「うってつけの器にうってつての命が宿ったものです」。
 
 そういえばと、もう一つ因縁を思い出しました。林業試験場の場長を務めた新島善直先生です。新島先生(北大元教授)も、桑園博士町の住人でした。 
桑園 高倉先生旧宅 カフェ ビーンズ 再掲
 5月10日ブログに載せた高倉先生旧宅ことCafe BEAN'sのお隣が新島宅跡です。現在はマンションが建っています(画像右方、修繕の足場が組まれてシートが掛かっている建物、2017.10.25ブログ参照)。
 桑園と江別で、時を同じくして古き建物が新しい歩みを始めました。二つの物件にかような因縁をかこつけるのは、世界中で私だけかもしれない。と自己満足に浸ります。
 サッポロ珈琲館【Rinboku】の営業時間等については同店サイトをご参照ください。
 ↓
 https://sapporocoffeekan.co.jp/shop/rinboku/

 注①:庁舎建築時は「内務省林業試験場北海道支場」、1933(昭和8)年に「内務省北海道林業試験場」と名称変更された。林野庁所管の「北海道林木育種場」となったのは1957(昭和32)年。江別市発行リーフレット「北海道林木育種場旧庁舎」から
 注②:2019.7.27同8.4ブログに関連事項記述
 注③:2019.8.9同8.5ブログ参照

2022/05/10

カフェに生まれ変わった洋館

 桑園「博士町」の高倉先生宅です。
桑園 カフェ・ビーンズ
 1921(大正10)年築なので、人間にたとえると昨年百寿をことほぎました。

 先生宅のことはこれまで折々ブログで綴ってきました(2019.7.21同5.272018.1.182017.10.252014.8.11ブログ参照)。これまではT先生宅と記すことが多かったのですが、建物がこの日を迎えることになったのを機に、固有名詞をお伝えします。

 ご当主の父・故高倉新一郎先生の書斎だった1階が店内となりました。
桑園 カフェ・ビーンズ 店内
 昨年まで桑園地区の別のところで営まれていた「Cafe BEAN's」が、縁あってお借りすることになったそうです。先生愛用の机や椅子、書棚などが建物と相まって、憩いの空間を醸しています。店主の福井さんが備えた家具との“混ざり具合”も、味わいどころです。築百年を超えた洋館、しかも書斎だった部屋で喫茶のひとときを過ごせる至福をかみしめました。うってつけの器にうってつての命が宿ったものです。
 
 ご当主からいただいたお便りに「大手を振って人様に見ていただけるようになりました」と添えられていました。敷地の一角で運営に尽力されている私設図書館「ふきのとう文庫」(2014.8.11ブログ参照)に先月、寸志をお送りした際のご返信です。いたみいります。4年余り前のブログに私は「この旧宅が将来再活用されることを願って」「その日が来ることを鶴首してやまない」と、記しました(2018.1.18)。同時に「心中痛みも感じています。『では、そういう自分は実現のために力を尽くしているのか?』と自問したとき、忸怩の念が募るからです」とも。ここに至るまでのご当主のご苦労を想うと、ただただ頭が下がるばかりです。指定文化財を行政が保護するに匹敵、否それ以上のことを、民間の一個人が成し遂げてこられました。札幌の歴史的遺産は市民が支えています。ご当主高倉嗣昌先生の固有名詞を挙げるしだいです。
 
 カフェの営業時間等詳細は同店のフェイスブックをご参照ください。
 ↓
 https://www.facebook.com/Cafe-BEANs-456429151355849/

2022/05/04

「硬石山」考 ②

 本題とは関係ないお知らせから。
 STV(5ch)の「どさんこワイド179」で昨年8月に放送された“てくてく洋二”の新さっぽろ編が明日、再放送されます。好評だったらしく、「GWスペシャル傑作選」に入れてもらえました。5月5日(木)午後3時48分-7時の時間帯のどこかで。
 
 本題は4月29日ブログの続きです。これも同じ番組で4月20日に放送された特集にちなみます。
 ② 硬石(山)の呼び慣わし
 4月29日ブログで私は、開拓使時代から「硬石(山)」「堅石(山)」の表記が混在し、その後「硬石(山)」に収斂されたと記しました。さらには呼称(呼び慣わし)も、「こうせき(やま)」「かたいし(やま)」が併存し、「硬石(山)」に統一されたのちも続いたと推理しました。本日はその根拠を述べます。といっても、その一端は番組でもしゃべりました。ほぼ同時期、明治の初めに豊平川の対岸で採掘が始まった「札幌軟石」との関係です。こちらは「軟石」と書いて「なんせき」と読み(呼び)ます。音読みです。「軟」の対語は「硬軟」の「硬」で、軟石が音読みなら硬石も「こうせき」だろう。ただし、「かたいし」という読みかた(呼びかた)は、その後の文書からも窺える(放送で私は大正時代の札幌控訴院の建築関係文書を例示した)。
 本日ブログでは、この根拠を補足します。
 ②-1 「硬石」という表記は、「こうせき」と読むのが一般的か?
 「軟石」が音読みなら「硬石」もそうだろうと前述しました。そもそも「軟石」「硬石」という用語と表記は、どのように定着してきたのでしょうか。4月29日ブログで引用したように、北海道では明治の早い時期から用いられています。しかし、全国的に眺めると必ずしもそうではありません。札幌では「札幌軟石」「札幌硬石」がポピュラーです。しかるに道外の石材で「○○軟石」「△△硬石」というのを私は聞いた記憶がありません。たいていは石材産地の地名を冠して「石」とだけ付けた○○石というのが一般的のようです。花崗岩なら△△みかげ(御影)とか。念のため、全国の石材の情報を収録した書物を繰りました(末注①)。その本文では「国産石材」が都道府県ごとに掲載され、巻末に「国産石材名索引」が十数ページにわたって列挙されています。索引数は1900余りです(末注②)。これをざっと追っていくと、名称の傾向は私の前述のとおりでした。道外で「○○軟石」とか「△△硬石」は見当たりません。かろうじてというべきか、山形県に地名を冠しない「堅石」、群馬県に同じく「軟石」がそれぞれ1件、挙げられているのみです。例外的ともいえるのが北海道です。本文で北海道の項に載っている101の石材名のうち、地名を冠した「○○軟石」「△△硬石」が散見されます。以下のとおりです(末注③、太字)。
 小樽軟石、札幌硬石、札幌軟石、軟石(末注④)、登別硬石、登別中硬石、登別軟石、函館中軟石、函館軟石
 「○○軟石」「△△硬石」が特殊北海道的であり、なかんづく札幌軟石、札幌硬石といわばセットになって呼び慣わされている札幌は石材の呼称としては全国的にみて例外的ですらあります。という状況下で類推するに、どちらも音読みで合わせて「なんせき」「こうせき」と呼ぶのが自然ではないかと思えるのです。これは類推であって絶対ではないのですが、たとえば登別は硬石、中硬石、軟石とあります。中硬石は「ちゅうこうせき」と呼びますが、「ちゅうかたいし」という重箱読み?は不自然だし、実際に聞いたこともありません。ちなみに、この書物での「軟石」「硬石」の読みはいずれも「なんせき」「こうせき」です。
 よって、②-1の自問は「『硬石』という表記は、『こうせき』と読むのが一般的」と結論付けます。ただし、です。では「かたいし」という読みかた(呼びかた)がなかったかというと、そうともいえません。一般論だけで話がやたら長くなってしまいましたので本日はここまでとします。
 
 注①:鈴木淑夫『石材の事典』2009年
 注②:同上書pp.359-372
 注③:同上書pp.188-195
 注④:(有珠郡壮瞥町)とカッコ書きされている。おそらく依拠資料で地名等を冠していないのであろう。ブログ本文で引用した群馬県の「軟石」も、(邑楽郡南牧村・黒滝山不動寺)とカッコ書きされているが同様の事情と思われる。ただの「軟石」はこの二つだけである。

2022/04/29

「硬石山」考 ①

 4月20日ブログでお知らせしたSTV「どさんこワイド179」での特集(4月21日放送)は、ユーチューブで見ることができます。よかったらご覧ください。

https://youtu.be/9F2kyyHhN7Y
 テーマは、「ナゾトキ 硬石山」でした。札幌市の町名(南区)としては「かたいしやま」という読みですが、地元では「こうせきやま」と呼び慣わされています(2015.6.18ブログに関連事項記述)。なぜ違いがあるか?という謎を解くものです。以下はネタバレを含みます。

 番組では、開拓使の古文書にさかのぼり、もともと「堅石山」と表記され、「かたいしやま」と呼ばれていたことに理由を見出しました。もともとの呼称に基づいて町名(字名)の読みが決められたのだろうという推測です。私の考えを蛇足しておきます。
 ① 開拓使時代の表記
 番組では道立文書館のかたのコメントを引いて「堅石山」(かたいしやま)だったと説明されました。実は、私の見方は異なります。私は、開拓使時代から「堅石(山)」(かたいし)と「硬石(山)」(こうせき)が併用されていたのではないかと推測しました。のちに「硬石(山)」に収斂されていった。その根拠は以下のとおりです。
 まず、ほかならぬ道立文書館所蔵の開拓使文書に「硬石山」という表記が見られます。
開拓使文書 硬石山
 「明治十一年 各局文移録 土木課」という文書からの一節です。朱傍線を引いたところに「穴ノ沢向硬石山」と書かれています。これはほかならぬ現在の硬石山を指したものとみて違いないでしょう。この文書に限らず、道立文書館のウエブで公文書を「硬石(山)」「堅石(山)」で検索すると、両方の該当があります。少なくとも表記に関しては「堅石(山)」で一本化されていたとは思えません。

 次に、『開拓使事業報告 第三編』1885(明治18)年からの抜粋です。
開拓使事業報告第三編 硬石山

開拓使事業報告第三編 硬石 軟石
 これまでも引用してきたくだりです(2021.11.14ブログ参照)。朱傍線の箇所に、次のように書かれています(引用太字)。
 是歳石狩国札幌郡発足別硬石山発見堀採ニ著手ス
 是歳石狩国札幌郡穴ノ沢軟石二万六千六百二十個石山硬石一万八百三十九個ヲ鑿採ス

 前者は1872(明治5)年、後者は1880(明治13)年の項です。この報告は開拓使が廃された後の1885(明治18)年に刊行されました。この文書からすると、後年の表記はむしろ「硬石(山)」に統一されたかに窺えます。
 
 そして、大正時代の地形図です(大正6年測図「石山」から)。
地形図 大正6年測図「石山」 硬石山
 「硬石山」と記されています。
 以上が、「堅石(山)」「硬石(山)」から「硬石(山)」に収斂されたとする、いわば物的証拠です。ただしこれは前述したとおりあくまでも表記であり、呼称(読み方)ではありません。では、「硬石(山)」に統一されていったとして、どう読まれて(呼ばれて)いたか。私は「こうせき(やま)」と「かたいし(やま)」が混在し、「硬石(山)」に一本化された後も併存していたとにらみました。しかしSTVの番組では冒頭に述べたとおり、明治の開拓使時代はもともと堅石山で「かたいしやま」と呼ばれていたと説明されました。表記が硬石山となった後も、開拓使というオオヤケの呼称たる「かたいしやま」が町名(字名)として採用された。これはストーリーとしてわかりやすかったと思います。わかりやすさだけが理由ではありません。私自身、公共の電波では素人の推測よりは道立文書館のオーソドックスな見解が優先されたほうがよいと望みました。
 しからば、表記のみならず呼称としても「こうせき(やま)」と「かたいし(やま)」が混在、併存したという私の根拠は奈辺にあるか。話がややこしい上に長くなりましたので、ひとまずここまでとします。

2022/04/26

必然的偶然あれこれ

 昨日ブログでお伝えした銀行の名前を冠する「カーリングスタジアム」(豊平区月寒東)です。
どうぎんカーリングスタジアム 外観
 ここに足を運んだのは昨日とは関係なくたまたまですが、しかし実は必然的偶然だったのかもしれません。

 私の目当ては1階の「エントランスラウンジ」です。
どうぎんカーリングスタジアム1階 エントランスラウンジ
 やや雑然としていますが、内壁に目を向けました。

 札幌軟石が貼られています。
どうぎんカーリングスタジアム1階 エントランスラウンジ内壁 札幌軟石 
 この施設の案内リーフレットには、次のように書かれています(引用太字)。
 外装に道産レンガ、内装に道産木材、札幌軟石を使用するとともに、外断熱工法や、太陽光発電設備、地中熱ヒートポンプ設備、ペレットストーブの設置により環境にも配慮しています。
 
 近年、新しい公共的な施設などで札幌軟石をよく見かけるようになりました(2021.9.17ブログほか参照)。歴史性や地域性を表現するのに恰好の建材として認知されてきたようです。選択枝として標準化されているかにも窺えます。喜ばしいかぎりです。もっとも、なんでもかんでも軟石を使えばいいとは思いません。古い石蔵を解体した跡の新しい建物に軟石が貼られているのを見ると、“免罪符”というコトバが思い浮かびます。“煉瓦や軟石=地域や歴史”が安易なステレオタイプに陥らぬよう、自らへの戒めとしたい。
 
 という前提で、この場所に注目します。
北5条西1丁目 北海道新幹線駅舎建設予定地付近
 中央区北5条西1丁目、JR札幌駅の東側です。このあたりに北海道新幹線の駅舎ができると聞きます。

 「北海道新幹線札幌駅駅舎デザイン案 アンケート調査」という用紙を目にしました。
北海道新幹線札幌駅舎デザイン アンケート用紙-1北海道新幹線札幌駅舎デザイン アンケート用紙-2
 現在、札幌市で新駅舎のデザインについて意見を募っています。「アンケートの結果は、取りまとめたうえで、皆様の意見を反映できるよう、JR北海道に対し要望」するそうです。

 上掲のアンケート用紙の右下の箇所を拡大します。
北海道新幹線札幌駅舎デザインアンケート用紙-2 部分
 ここでも、「札幌軟石」です。

 「意見用紙」欄の設問「内装に採用して欲しい素材」にも、選択肢として挙げられています(赤い□で囲ったところ)。
北海道新幹線札幌駅舎デザインアンケート用紙-3
  私は「札幌軟石」に☑を付けて回答して送りました。ここでこそ、札幌軟石を用いてほしいと願ったからです。

 冒頭に載せた現在の風景の在りし日を、古写真で遡ります。
札幌拓殖倉庫 古写真

札幌拓殖倉庫 古写真(1981年当時)
 上段は1960年代、下段は1981(昭和56)年です(末注)。

 前掲「意見用紙」の「自由意見」欄に、私は次のように書き添えました(太字)。
 駅舎が立地する場所は明治の開拓期から物流の拠点でした。札幌軟石の倉庫がたくさん建ち並んでいたところです。新しい街並みにもその歴史を受け継いでほしいと思います。
 新幹線駅舎は物流ならぬ人流の拠点でしょうか。新しく拠点となるのは、これまた必然的偶然(このコトバが気に入ってしまった。エコラリアか)かもしれません。記憶の継承としての札幌軟石は「ここでこそ」と想ったゆえんです。

 アンケートは4月28日(木)まで、以下札幌市サイトでも募集しています。
 ↓
https://www.city.sapporo.jp/kikaku/downtown/sapporoeki/shinkansen_ekisya.html
 
 注:画像上段は『札幌拓殖倉庫株式会社 五十年小史』1962年、下段は『札幌拓殖倉庫百年史』2013年から転載。下段は「昭和56年」とのキャプションが添えられている。上段は「本社倉庫全景」のみであり、刊行された1962(昭和37)年当時の撮影と思われる。2015.3.11同3.9ブログに関連事項記述


2022/04/25

水彩風景画展と、その会場

 札幌建築鑑賞会会員で建築家の高橋弘憲さんの作品展が始まりました。
高橋弘憲さん作品展
 高橋さんには、2月に発行した鑑賞会通信『きー すとーん』の表紙を飾っていただきました。
 ↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12725409320.html
 その作品もこのたび出展されています。
 高橋さんは昨年暮れ、まだ仕上がっていないのだがとりあえず、ということで画像を送ってくださいました。その画像はもう十分に完成されていると私には思えたのですが、作者が自らに課したレベルの高さに感服したものです。
 作品展はらいらっく・ぎゃらりい(中央区大通西4丁目 道銀本店ビル1階にて、5月1日(日)まで(午前10時~午後6時、最終日は午後4時まで)。高橋さんの先輩(札工)、井口健さんも賛助出展されています。
 ↓
https://www.dogin-bunkazaidan.org/gallery.html
 ところで、展示会場のある道銀本店ビルは建て替えが計画されています(2020.10.12ブログ参照)。このビルも将来姿を消すのかなあと感慨に浸りながら、ついでに彷徨いました。
道銀本店ビル 階段-1 道銀本店ビル 階段-2
道銀本店ビル 階段-5 道銀本店ビル 階段-3
道銀本店ビル 階段-4 道銀本店ビル 階段-6
 彷徨ったのはビルの主階段です。1階から最上階まで、昇り降りしました。私は、この階段を昇り降りしたのは初めてだと思います。昇り降りしながら、ビルの設計者そしてそのいわば師匠ともいえる建築家のモチーフを嗅いでしまいました(2015.3.25参照)。私の(にありがちな)一人合点かもしれないので、「しまいました」と記します。
 私はこれまで、この建物は“普通のビル”だと思ってました。「普通の」というのは、1960年代に増産された鉄筋コンクリートの高層オフィスビルというくくりです。念のため申し添えると、「普通の」は貶める意味ではありません。普通というのは言い換えれば没個性ですが、ある意味で偉大だとも思います。それはともかく、この階段まわりには普通でないもの、言い換えれば作者の自己主張を感じました。
 このビルを「普通の」と形容するのは私の浅薄です。1階の銀行本店壁面に飾られた大レリーフ(2020.10.12ブログ参照)は、決して普通ではありません。その空間がいわば晴れ舞台、建物のもっとも脚光の浴びる主役とするならば、階段は脇役に譬えられましょう。上下の移動という機能の点でも、高層ビルの主役はエレベーターです。目立たない空間にかような造形美をしつらえたのは、贅沢のきわみともいえます。もちろんこれも賛辞です。
 このビルの一隅にギャラリーが設けられ、そこで高橋さんの作品展が催されるのは、必然的偶然かもしれせん。

2022/04/20

大名庭園考 札幌への仮想⑤

 本題とは関係ないお知らせからです。
 STV(5ch)の夕方の情報番組「どさんこワイド179」に、ちょこっと出させていただきます。今回は“てくてく洋二”ではありません。明日21日(木)、午後6時台の道内ニュースの時間帯で、テーマは「硬石山」です。もしかしたら編集でカットされるかもしれませんが、よかったらご覧ください。
 本題は昨日ブログの続きです。北3条西16丁目にあった富樫さん宅は、“下屋敷”でした。では、上屋敷すなわち本宅はどこにあったか。

 「カネ長富樫商店創業100周年」というリーフレットに、同商店のかつての店舗が描かれた絵が載っています。
「カネ長富樫商店創業100周年」リーフレットから
 添えられたキャプションは「昭和37年当時の南2条西1丁目付近」です。

 1936(昭和11)年発行の「大日本職業別明細図」からの抜粋を眺めます(方位はおおむね上が北)。
大日本職業別明細図 札幌市 南2条西1丁目 富樫さん宅
 南2条西1丁目の赤い矢印を付けた先に「富樫」とあります。

 1928(昭和3)年「最新調査札幌明細案内図」です(方位は同じくおおむね上が北)。
最新調査札幌明細案内図 南2条西1丁目 富樫商店
 同じ一隅に「海産問屋 富樫商店」と書かれています。

 毎度重宝している1934(昭和9)年札幌郵便局発行の『電話番号簿』です。
昭和9年電話番号簿 富樫さん
 「富樫長吉」で、「南2西1.3」と「北3西16.5」が載っています。前者はカネ長の屋号(印)の付いた番号二つと個人名のみの計三つです。南2条西1丁目の店舗所在地が本宅、昨日ブログでお伝えした北3条西16丁目が別邸と察せられます。

 ところで、南2条西1丁目という店舗の立地にも、私はなるほどと妙味を感じました。札幌の海産商としてはこのうえないと思ったのです。そういえば同じ条丁目に蒲鉾屋さんもありましたね(2021.6.4ブログ参照)。そのときは、創成川をはさんで向かい側の二条市場との地理関係に目が向きました。それもさることながら、今回は西2丁目線との角地に面していることです。かつての胆振通でした。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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