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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2020/01/22

札幌市西区と手稲区の境目 ④

 昨日ブログで、札幌市手稲区手稲富丘の区域を示しました。一帯は市街化調整区域で、空中写真で見る限り、ほとんど山林です。
 地番はどうなっているでしょうか。地番図を見ると、おおまかに「619番」と「620番」に分けられていることがわかりました。
 
 その境目を、昨日載せた現在図に引きます。
現在図 手稲富丘 地番の境目
 黒いで囲った「手稲富丘」の域内を北東から南西に引いた黒い実線です。この地番界の北西側が620番、南東側が619番に当たります。実際はこのような一直線ではなく、幾つか屈曲していますが、目安としてご理解ください。

 これを、1月16日ブログに載せた札幌郡手稲村当時の大字界と較べてみます(『手稲町誌』から)。
札幌郡手稲村(大字三村時代)地図 上手稲村・下手稲村村界 再掲
 一点鎖線が大字上手稲村(南東側)と同下手稲村(北西側)の大字界です。手稲村になる前の村界と思われます。

 現在の手稲富丘のあたりを拡大します。
上手稲村・下手稲村村界 再掲 拡大
 較べやすくするため、三樽別川の沢を水色でなぞりました。

 冒頭図で示した手稲富丘の地番界のあたりを拡大します。
現在図 手稲富丘 地番界 拡大
 かなりアバウトな比較ですが、地番界の一部は上手稲村と下手稲村の村界を引き継いでいるように見えてきました。黒い実線の南西端、三樽別川との接点から3分の2くらいは一致しているような気配です。
 
 この地番界を境目にして、山林の所有者が分かれています。北西側すなわち手稲富丘620番は鉱山会社、南東側の手稲富丘619番は造林会社です。
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2020/01/21

札幌市西区と手稲区の境目 ③

 1月17日ブログの続きです。
 札幌市手稲区手稲富丘のあたりを現在図で見ます。 
現在図 手稲富丘
 加筆は以下のとおりです。
 赤い実線:札幌市手稲区と西区の区界(元図で国道5号が赤く塗られているが、まぎらわしいので薄茶色を加筆)。
 水色実線:三樽別川の一部
 黄色実線:「手稲金山」と「手稲富丘」の町界、「西宮の沢」と手稲富丘」の町界 
 黄色の:手稲山頂
 「手稲富丘」は、黒いで囲った一帯です。

 上掲図と同じエリアを、空中写真(2008年)で俯瞰します。
空中写真 手稲区手稲富丘 2008年
 市街地との境目は大体見当がつきますが、調整区域はほとんどまるごと緑色、つまり山林です。拡大すれば、三樽別川の沢はわかるでしょうが、区界は識別できるような目安が見つかりません。手稲金山と手稲富丘の直線的な町界も、難しい。

 ためしに、現在図と空中写真を重ね合せてみました。
現在図 空中写真 レイヤー 手稲富丘
 よくわかりません。

2020/01/20

以徳報徳

 苗穂(札幌市東区)の二宮像です。
苗穂 二宮像-1
 乳製品の会社敷地内に立っています。この地に立像していることを知ったのは10年余り前です。そのときは「あぁ、あるなあ」くらいの印象でした。

 あらためて訪れ、「なぜ、この会社に、この像か?」に想いを馳せてみます。
苗穂 二宮像-5
 本体は銅製、ズボンタイプで、背負っているのは柴、台座は自然石を配した花崗岩です。

 台座の銘は雪がかかって一番下が読めませんが、「以徳報徳」でしょうか。
苗穂 二宮像-2 以徳報徳
 一木喜徳郎書。

 背面に刻まれている寄贈者と建立年によると…
苗穂 二宮像-3 背面 
 「本社役職員有志一同 雪印報徳社有志一同 昭和三十年十月二十日 建之」。

 以下は、私の想像です。
 ・この会社の前身は、もともと酪農家の協同組合的な組織だった(2016.7.8ブログほか参照)。
 ・創設者が洗礼されていたキリスト教的な博愛主義もまた、協同組合思想と通底していた。
 ・いわば日本の土着的な協同組合思想である報徳精神とは親和性が高かった。
 ・この会社が置かれた苗穂には、大友亀太郎以来の報徳精神の土壌が培われていた。

 本件金次郎少年が読んでいる書は… 
苗穂 二宮像-4 書 一家仁
 「一家仁…」の『大学』一節でした。

2020/01/19

間タオル

 昨日「北海道開拓の村」に行った折、入口にある売店を眺めました。
北海道開拓の村 売店
 道外からの観光客を意識したような土産物が並んでいます。

 北海道の地図をプリントしたハンカチを買いました。 
間タオル
 ハナからこれを目当てにして売店を眺めたわけではありません。たまたま目に入ったのです。

 このハンカチには見覚えがありました。見たのは昨年、場所は支笏湖畔の土産物店です(2019.4.27ブログ参照)。一緒に訪ねた一人、札幌建築鑑賞会スタッフのNさんから“示唆”されました。Nさんはこの種のキッチュなモノの目利きです。キッチュは反語的賛辞と解してください。
 くだんのハンカチを鑑みたところ、地図上に表現されている情報が古い。すでに廃止された鉄路が描かれたりしています。私はお宝感を抱きました。観光地のキッチュ感を演出する小道具です。しかし、そのときはまだ想いが至らず、やりすごしてしまいました。一か月後再び湖畔に赴いたとき、土産物店の店頭にハンカチが見当たりません。実はその1か月の間に、私のお宝感は弥増していました。「どうせまた湖畔に行くので、そのときぜひ買おう」と意を決していたのです。一か月で機を逸しました。教訓。お宝はすべからく衝動的に手に入れるべし。店頭から消えたことで、お宝感はますます募りました。そのお宝に再び巡り逢えたのが、冒頭の開拓の村売店です。

 湖畔で見たハンカチと同じモノかどうか確かめるすべはありませんが、描かれている鉄路などからして古さにひけはとりません。江差線とか標津線、深名線、ちほく高原鉄道が見て取れます。ありがたい。察するに、30年くらい前の情報です。開拓の村の売店という立地性からすると、“むかし懐かし”商品として並べられているのかとも想います。いわば復刻版。いや、“生きた化石”として在庫限りの販売と私は信じたい。ハンカチの隣には2020年東京五輪のキャラクターグッズが置かれていました。

 このハンカチは「間タオル」というメーカーが作っています。
間タオル-2
 ネットで検索したら、鎌倉にある会社です。鎌倉で思い出しました。観光地「ペナント」を売り出した「間タオル」です。NHKの「チコちゃん」で紹介されていました(末注)。

 注:塚田敏信さんの「まち歩きのススメ」(朝日新聞北海道版連載)によると、観光地ペナントの「ルーツは欧米の文化だが、日本にきて“山”から広まった。大学の山岳部が登頂の際に山頂で立てていたので、1950年代に山小屋が記念品として製作したのだ。それが山以外の観光地にも広まり、やがて定番土産の一つに」(2017.12.8)。

http://www.asahi.com/area/hokkaido/articles/MTW20171211010970001.html
 NHK「チコちゃん」では、間タオルの社長がプロ野球のペナントを参考にして商品化したと伝えられていた。「諸説あり」か。

2020/01/18

たこ足とねこ足 補遺

 昨年12月12日ブログで、標記「北海道のねこ足」のことを記しました。「ねこ足」とは、寒冷地稲作を普及させた水稲直播器の一種です。記述後一か月余り、ずっと気になっていたことがあります。北海道博物館の特別展示のことです。

 同日ブログに、展示物の画像(昨年10月撮影)を載せました。
北海道開拓の村特設展示「水稲直播器 ねこ足」北海道博物館蔵
 手前が「ねこ足」で、そのうしろの足の長いほうはやはり直播器の「たこ足」です。
 私は、展示物のラベルが「『ねこ足』だけです。『たこ足』も表記してもらえれば、よりありがたかった」と記しました。「たこ足」の表記ラベルは、本当になかったのか? 私が見落としていたのではないか。気になっていたのはそのことです。

 展示は明日(1月19日)で終わるのですが、もう一度、開拓の村に行って確かめてきました。
北海道開拓の村特設展示 「水稲直播器」
 ラベルは2箇所に貼られています。

 赤い矢印を付けたほうは…
北海道開拓の村特設展示 「ねこ足」ラベル
 「水稲直播器(ねこ足) 大正 北海道博物館蔵」と。これを私は昨年、視認しました。

 一方、黄色の矢印のほうには…
北海道開拓の村特設展示 「たこ足」ラベル
 「水稲直播器(たこ足) 昭和 北海道博物館蔵」と。「たこ足」のラベルは、しかと貼られています。

 冒頭画像に照らすと、黄色の矢印を付けた先、ちょうど「ねこ足」の展示物の陰に隠れたあたりです。
北海道開拓の村特設展示「水稲直播器」 再掲
 私の見落としです。申し訳ありません。

 展示パネルの一枚に、以下の一文が記されています(赤傍線の箇所、太字)。
北海道開拓の村特設展示 酒匂常明
 「その後開発された『水田直播器』は農作業の手間を飛躍的に省き、特に石狩・空知・上川など水田規模の大きな地域で急速に普及しました」。

 会場に置かれていた「展示資料目録」に、「たこ足」「ねこ足」も列挙されています。
北海道開拓の村特設展示 北海道と米 展示目録
 この目録は昨年10月、私が観覧したときにはなかったような気がするのですが、これも見落としたのかもしれません。

 帰り道、北海道博物館に寄りました。
北海道博物館 展示 たこ足
 上掲展示物「たこ足」「ねこ足」の所蔵元です。「たこ足」による直播の仕組みが図解されています。

 「たこ足」と「ねこ足」は、何が違うのでしょうか。前掲開拓の村の展示物のラベルには、前者が「昭和」、後者が「大正」と書かれています。“足”の長短は一目瞭然なのですが、どのような改良の経緯があったのでしょうか。開拓の村と北海道博物館の展示にはそこまで説明されてませんが(たぶん、これは見落としてない)、昨年12月12日ブログでお伝えした「つきさっぷ郷土資料館」の展示には、実はその説明も簡潔ながら添えられています。いや、開拓の村や道博物館の解説が不足しているというのではありません。この種の解説は際限がないだろうし、あればあったで「わずらわしい」といった苦情も出かねませんから。同日ブログにも記したとおり、違いを楽しむのが醍醐味です。つきさっぷ郷土資料館のキャプションを読み直すと、短いながらも5W1Hの要を得ています。あらためて感銘を受けました。

2020/01/17

札幌市西区と手稲区の境目 ②

 1月13日ブログで私は、末尾を次のように括りました(太字)。
 手稲山山頂あたりで手稲区と西区を分かつ区界は、1989(平成元)年の分区前の「西区手稲金山」と同区「手稲平和」の町界に基づくものでしょう。その町界は、旧手稲町当時の「金山」と「平和」の字(あざ)界、さらにはその前の手稲村時代の大字「上手稲村」と同「下手稲村」の大字界、さらにその前の「上手稲村」「下手稲村」の村界に遡ります。

 この記述に際して参照した『手稲町誌』1968年「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」を閲すると、昨日ブログに記したとおり、西区・手稲区の区界はかつての上手稲村・下手稲村の村界(その後の大字界)とはどうも一致していません。どこで(どの段階で)、ズレてきたのか。

 札幌市発行の「札幌市区域図」からの抜粋です。
札幌市区域図 1989年 西区・手稲区境界あたり
 1989(平成元)年11月6日現在、つまり西区から手稲区が分区した時点の境界線(区界・町界)を表わしています。例によって手稲山頂(一等三角点「手稲山」の位置)に黄色の、三等三角点「手稲峰」に赤いを付けました。両点を結んで引かれている茶色の太実線が区界(北側が手稲区、南側が西区)です。関係する町名に傍線を引きました。手稲山頂の北側が「手稲区手稲金山」(黄色の線)、三等三角点「手稲峰」の北側が同区「手稲富丘」(赤い線)、その南側が「西区西野」(橙色の線)です。図上表記されていませんが、手稲山頂の南側は同区「平和」です。

 この境界は、分区前の町界をおおむね踏襲しています(「平和」「西野」は分区前は「手稲平和」「手稲西野」。末注)。「おおむね」とぼかしたことには理由があるのですが、ひとまず措かせてください。とまれ、仮にこの町界が旧村界だったとすると、それぞれの町が属していた旧村(旧大字)は次のとおりです。
 平和、西野⇒上手稲村
 手稲金山、手稲富丘⇒下手稲村
 
 ところで「平和」「西野」、「手稲金山」「手稲富丘」といった町名は、1942(昭和17)年、手稲村(当時)の大字(上手稲村、下手稲村、山口村)が廃されて新たに設けられた字(あざ)に由来します(1月14日ブログ参照)。『手稲町誌 上』1968年によると、新しい字と旧大字の新旧関係は次のとおりです(pp.377-378)。
 平和⇒上手稲村
 西野⇒上手稲村
 (手稲)金山⇒下手稲村 
 (手稲)富丘⇒上手稲村、下手稲村

 同書には「手稲町字別区域図」が載っています(p.377)。
手稲町誌 上 手稲町字区域図
 破線が字界です。加筆して手稲山頂の位置に黄色の、三等三角点「手稲峰」に赤いを付け、関係する四つの字に傍線を引きました。
 これを冒頭の1989年分区時の区域図と較べると、四つの字(平和、西野、金山、富丘)の字界は分区後の区界、町界(西区平和、同区西野、手稲区手稲金山、同区手稲富丘)と一致しているようです。

 前述の新字と旧大字の関係からすると、「平和」と「金山」の字界は下手稲村と上手稲村の旧大字界を引き継いだとみなせます。つまり手稲山頂あたりは、旧大字当時の境目と1989年分区後の手稲区・西区の境目が一致するとみてよさそうです。黄色のから東方、四つの字(町)の交点までは旧大字界といえます。したがって、1月14日ブログで時系列的に記した事項は、その限りにおいては間違っていません。

 問題は、「西野」と「富丘」の境目です。「富丘」は、旧大字上手稲村と同下手稲村にまたがって新たに設けられました。つまり、旧大字界は「富丘」(現町名「手稲富丘」)の域内を通じていたということです。これを前掲図や冒頭図に当てはめると、四つの字(町)の交点から東方は、前掲図の「西野」と「富丘」の字界(破線)や冒頭図の区界(茶色実線)よりも北側で大字界が分かたれていたと想われます。

 一昨日来のテーマは、「西区と手稲区の境界がどのように分かたれたか?」です。私は、区界の原形がかつての上手稲村と下手稲村の村界にあるとみたのですが、微妙なズレがあることを知りました。それで、いつものことながら回り道をしています。この回り道は、本来のテーマに結びつくのか。なんとか結びつけようともくろんでいます。

 注:1月15日ブログで引用した北海道新聞連載「10区境界線を行く 2 西区と手稲区」2014年3月5日にも、次のように書かれている。
 市に手稲山の山中の境界線について尋ねた。西区から手稲区を分区した際に、平和・手稲金山間、西野・手稲富丘間の境界として既に存在していた線を採用したという。西区を平和と西野、手稲区を金山と富丘とした理由について、区政課は「両区が将来、バランス良く発展するよう面積比や推計人口などを考慮した結果」と説明する。

2020/01/16

札幌市西区と手稲区の境目

 昨日ブログに続き、手稲山の山頂から札幌市西区と手稲区の境界線のことに転じます。区界、すなわちその原形となった元の上手稲村と下手稲村の村界はどのように分かたれたか。

 現在図の西区・手稲区の区界と札幌郡手稲村当時の大字上手稲村・下手稲村の大字界を較べてみます。
 まず現在図。
標高220m未満から100mごと10色 西区・手稲区区界
 元図は標高220m未満から100mごと10色段彩の標高図で、二点鎖線が区界(北側が手稲区、南側が西区)です。手稲山頂に黄色の、三等三角点「手稲峰」の位置に赤いを付けました。

 次に札幌郡手稲村当時の地図(『手稲町誌』添付)です。
札幌郡手稲村(大字三村時代)地図 上手稲村・下手稲村村界
 「三村時代」すなわち大字上手稲村、下手稲村、山口村の大字界が引かれています。一点鎖線の北側が下手稲村、南側が上手稲村です。手稲山頂に黄色のを付けました。

 後者は略図で、どこまで正確かという問題があります。比較しづらいのですが、大字界は現在の区界と異なっているようです。全体に、手稲山頂から現在の区界よりも北に通じているかに見えます。区界は山頂東方の小山(ネオパラ)の頂まで尾根筋を通じていますが、大字界が引かれているのはネオパラらしき小山の北斜面です。そこから沢に落ち込みます。この沢は三樽別川の上流のようです。区界のほうはいったん南東側の沢をまたぎ、三等三角点「手稲峰」に達しています。
 後者の三村時代の地図で気になるのは、大字界にほぼ並行して南側に引かれている赤い実線です。凡例によると村道らしい。村道といっても、山の中に開かれた林道だったのでしょう。この林道がむしろ現在の区界線に近いように私には見えます。

2020/01/15

手稲山の山頂 ④

 手元にある札幌市手稲区役所発行の「手稲区ガイド」2013年版には、手稲区の位置を次のように記しています(太字)。
 手稲区は、市の北西部に位置し、南東は手稲山の山頂から新川にかけて西区と、西は手稲連山の尾根を境として南区・小樽市と、北東は北区・小樽市・石狩市と、北西はおたるドリームビーチのある小樽市と接しています。
 このたびのテーマを探るに際し資料を漁ったら、次のような新聞記事スクラップにも当たりました。北海道新聞連載「10区境界線を行く 2 西区と手稲区」2014年3月5日です。以下、一部を引用します(太字)。
 尾根に沿い、沢に挟まれて-。札幌市西区と手稲区の境界線は、手稲山の山中を曲がりくねりながら走る。市街地の場合、境界線の多くは道路に沿っている。では、山中は何が境目になっているのか。2月24日、極寒の手稲山に分け入ってみた。 
 両区にまたがる山頂に立ち、南の西区側を眺めると、羊蹄山。反対の手稲区側に振り返ると日本海が広がる。 


 おおまかには、かように手稲山頂=区界(をまたぐ、に接する)という認識が浸透しています。一方、昨日まで拙ブログで縷々述べてきたとおり、本件の山頂とは微視的にみると一等三角点の位置であり、すなわちその所在地は札幌市西区に属します。両区をまたいではいません。
 しかし、これは鬼の首を取ったようにいうほどでも、従前の既述に目くじらを立てることでもありません。1月6日ブログに記したように、「三角点と手稲山山頂、標高との関係性が、私には未知だった」にすぎないのです。このたびは自分がかねてモヤモヤ抱いていた疑問が、事実と論理でスッキリ解消した「だけのこと」といってよいでしょう。さらには、これを敵(かたき)にして、「手稲山は手稲区のシンボルだから、山頂はすべからく手稲区所在とすべし」などとも、思いません。いうまでもなく、シンボル性は局所的な山頂の所在地だけに規定されるものではありますまい。

 という前提のうえで、それでもあえて手稲山頂を手稲区とするには、これまでの理屈からするならば一等三角点の所在地を変えるのが確実です。といっても、点の位置そのものは絶対的ですから、このあたりの区界線を変える。これが、自治体を分かつ境界の線引きを変えるとなると大変です。富士山頂では、いまだに静岡県と山梨県の県界線自体が確定していません(末注)。これは永久に決まらないかもしれません。本件手稲山は札幌市域内の話なので、それに比べたら難しくなかろうと察します。 

 ところで、前述の道新記事には次のような記述もあります(太字)。
 おおむね稜線に沿っていた境界線は、標高約800mで大きくそれ始め、北東に延びる。出発前に推測していた境界線は稜線に基づくという仮説は崩れた。
 境界は急斜面に挟まれた沢に向かう。


 書かれていることを色別標高図で補足説明します。
色別標高図 手稲山 手稲区・西区境界線
 標高200m未満から100mごと10色段彩(陰影付き)で作りました。画像左下(南西)、黄色のを付けたところが手稲山頂(一等三角点「手稲山」の位置)です。手稲区と西区の区界を白抜き実線でなぞりました。区界線は手稲山頂から東へ、「おおむね稜線に沿って」通じています。標高838mの山(いわゆるネオパラ)を過ぎたあたりで沢に沿って下り始め、「北東に延びる」。標高600mから400mにかけて、小さな尾根や沢を上り下りします。色分けでいうと黄色から緑のあたりです。そして赤いを付けた地点に達します。標高595.2mの三等三角点です。点名は「手稲峰」。区界線はさらに北東へ沢伝いに延び、標高454mの尾根を迂回するように湾曲して市街地に至ります。
 記事は、「なぜ稜線から沢沿いに境目が変わるのか」と問いかけたのです。

 注)地理院サイト「日本の主な山岳標高」ページによれば、富士山山頂(最高地点)は三角点ではなく、「測定点」で計測している。
 ↓
https://ww.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html
 同ページの「日本の主な山岳一覧」では、静岡県、山梨県のそれぞれに「富士山‹剣ヶ峯›」が載っている。富士山頂(剣ケ峯)の三角点(電子基準点、二等三角点)の「点の記」では、所在地は「静岡県」と「山梨県」と両県が併記されているが、それぞれの県の市町村字名は無い。

2020/01/14

手稲山の山頂 ③

 昨日一昨日ブログで綴った史実を時系列で以下、整理します。
 1873(明治6)年 札幌郡手稲村が「上手稲村」「下手稲村」に分けられる。上手稲村は「東琴似村ニ界シ西手稲山ヲ限リ」(開拓使事業報告)
 1900(明治33)年 三角点「手稲山」設置
 1902(明治35)年 上手稲村、下手稲村、山口村三村をもって手稲村となる。三村は大字となる。
手稲町誌「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」手稲山あたり抜粋
 (画像は手稲町誌所収「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」から手稲山あたりを抜粋、方位は4時の向きが北、一点鎖線が大字界で、画像の右方が下手稲村、左方が上手稲村)
 1942(昭和17)年 手稲村の大字を廃止され、新たに字名が決められる。手稲山北側の旧「大字下手稲村」と南側の旧「大字上手稲村」を分かつ大字界は、「字金山」(きんざん)と「字平和」の字界となる。
 1951(昭和26)年 手稲村が手稲町となる。
 1967(昭和42)年 手稲町が札幌市と合併。「手稲町字金山」は「札幌市手稲金山」、同町「字平和」は同市「手稲平和」となる。
 1972(昭和47)年 札幌市が政令指定都市となる。手稲山一帯は西区となり、字界をもって「西区手稲金山」、同区「手稲平和」となる。
 1989(平成元)年 札幌市西区から手稲区が分区される。「西区手稲金山」は「手稲区金山」、同区「手稲平和」は「西区平和」となる。
 1991(平成3)年 国土地理院、「日本の主な山岳標高一覧-1003山-」をまとめる。手稲山は一等三角点「手稲山」の位置をもって山頂(山の最高地点)とされる。
 ↓
 https://www.gsi.go.jp/kihonjohochousa/kihonjohochousa41139.html
 2007(平成19)年 国土地理院、一等三角点「手稲山」の「点の記」情報更新。点の所在地は「札幌市西区平和439番1」 
 2008(平成20)年 国土地理院、手稲山の三角点標高を改訂
現在図 手稲山のあたり
(画像は現在図、二点鎖線の区界の北側が札幌市手稲区、南側が西区)

 結局、境界線が先にありきで、三角点の設置はその後、しかもその三角点を山頂としたのはさらに後、ということです。いわば“あとづけ”で山頂が決まったことにより、手稲区のシンボルたる手稲山の頂上は西区になりました。 
 「手稲区史跡ガイドホームページ」というサイトで、「手稲山の三角点」が紹介されています。
 http://www3.city.sapporo.jp/teine/teineguide/58.html
 「札幌市手稲区役所ホームページ」から閲覧できるようになっており、同区役所の制作のようです。三角点が「手稲区史跡」として扱われているのですが、「手稲山頂」というカテゴリーがミソだと私は想いました。手稲区内の町名や地名ではなく、別立てしています。このサイトを作った人は、三角点の所在地のことを先刻承知なのかもしれません。

参考文献:『手稲町誌(下)』1968年、沿革年譜、『新札幌市史第8巻Ⅱ年表・索引編』2008年、関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年

2020/01/13

手稲山の山頂 ②

 手稲山の稜線です(画像は昨年11月撮影、2019.11.17ブログ参照)。
手稲山稜線 山口緑地から遠望 
 山口緑地(札幌市手稲区手稲山口)から眺めました。

 撮影の位置と向きを色別標高図に示します。
標高220m未満から100mごと10色 山口緑地から手稲山遠望
 標高220m未満から100mごと10色段彩で作成、白抜き○が撮影地点、同じく白抜きの細い△が向きです。

 冒頭画像の山頂付近を拡大します。
手稲山 稜線 山口緑地から遠望 山頂付近
 黄色の矢印で示した先に、電波塔が林立しています。

 色別標高図で山頂あたりを拡大しました。
標高220m未満から100mごと10色 手稲山山頂あたり
 白抜き実線は札幌市手稲区と西区の区界です。おおまかに手稲山の北斜面が手稲区手稲金山、南斜面が西区平和に当たります。電波塔記号が位置するのは、大半が西区側です。前掲画像で見る山頂付近のスカイラインは、これまた大半が西区に属していることがわかります。区界線は、山腹の“中の上”あたりに引かれているのです。

 標高図の色分けを変えてみます。
標高940m未満から10mごと10色 手稲山山頂あたり
 標高940m未満から10mごと10色で段彩しました。画像のほぼ中央を左右に引かれている二点鎖線が手稲区と西区の区界です。標高940m以上のこれまた大半が、西区です。

 昨日ブログに記したとおり、手稲山の山頂(山の最高地点)をピンポイントで一等三角点「手稲山」の位置とみなしたとき、その所在地名は札幌市西区平和です。もう少し巨視的に山のもっとも高い「あたり」とか「一帯」という語感でみても、西区に属しているという印象を抱きます。
 手稲山山頂あたりで手稲区と西区を分かつ区界は、1989(平成元)年の分区前の「西区手稲金山」と同区「手稲平和」の町界に基づくものでしょう。その町界は、旧手稲町当時の「金山」と「平和」の字(あざ)界、さらにはその前の手稲村時代の大字「上手稲村」と同「下手稲村」の大字界、さらにその前の「上手稲村」「下手稲村」の村界に遡ります(末注)。分区のとき、区界は「手稲金山」と「手稲平和」の町界すなわち旧手稲町時代の字「金山」と同「平和」の字界で分かたれました。三角点の位置する手稲山山頂たる「西区手稲平和」は手稲区ではなく、「西区平和」(のまま)になったのです。

 注:『手稲町誌』1968年「札幌郡手稲村(大字三村時代)地図」ほか参照

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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