札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/05/25

大野地 Wさん宅サイロ

 大野地(北区篠路町拓北)のWさん宅サイロ遺構です。
拓北 大野馳 Wさん宅サイロ 近景
 Wさんによると、建てられたのは「70年くらい前」とのこと。
 戦後の1940年代後半(昭和20年代前半)というところか。隣接する煉瓦造は元牛舎で、こちらは「54、5年前」だそうです。55年前として、1962(昭和37)年の築。屋根のトタンが新しそうなので、葺き替えられた可能性があります。酪農は「35~40年前」までしていて、多いときで成牛20頭、仔牛10頭を飼っていました。
 2005年以降現存を確認した軟石建物(その後現在までに解体されたものを含む)は1棟増えて、これで412棟になりました。本件は前掲画像でご覧のとおり屋根が欠落していますので、現状で「建物」といってよいか疑問の余地はあります。が、札幌軟石が遺っていることに敬意を表し、建物として数えたい。昭和戦後期(1946-1964年)築が95棟となり、母数(412棟)に対する比率は23.1%に微増しました。

 さて、本件サイロの近くには公共施設が2棟、あります。
大野地 消防分団詰所 会館
 手前は消防分団の詰所で、奥は「拓北大野地会館」です。

 火の見櫓には…。
大野地 消防分団火の見櫓 警鐘信号表?
 「警鐘信号表」の名残と思われます(2015.1.30ブログ参照)。これが遺っているのは珍しい。

 さらに、一隅には…。
大野地 地神碑 馬頭観世音碑
 地神碑(札幌軟石製)と馬頭観世音碑が建っています。

 地神碑については札幌市北区役所『続・北区エピソード史』1987年に記されています(pp.90-93、同じ内容が同区役所サイト「エピソード・北区」にも掲載)。
 私はたまたま空知管内奈井江町(2016.8.13ブログ参照)と北村(現岩見沢市)で見かけたのですが、どのように伝播したのか、興味深いところです。
 思いのほか見どころの多い大野地でした。
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2017/05/24

拓北 大野地 Y牧場

 昨日に続き、北区篠路町拓北です。
拓北 Y牧場 遠景
 といっても、昨日お伝えしたⅠ牧場からは直線距離にして2.7㎞離れています。
 Ⅰ牧場はJR札沼線の北側で、今回は南側です。篠路町拓北という町名は、JR線の北側と南側に飛び地状態で残っています。その間は市街化されていて、「拓北(条丁目)」や「あいの里(条丁目)」などに変わりました。篠路町拓北が「残って」いるのは、調整区域です。
 JR線の南側のほうは、旧い地名で「大野地」と呼ばれていました(2017.2.14ブログ「おおやち」参照)。

 その大野地に、Yさんの牧場があります。ゼンリン住宅地図2002年では、サイロが2棟描かれているのですが、見渡したところありません。
拓北 大野地 Y牧場 近景
 Yさんに伺うと、サイロはスチール製だったのですが「10年くらい前に壊した」とのことでした。Yさんはもともと北47条東7丁目で酪農をしていて、この地に移ってきたのは1985(昭和60)年だそうです。スチールサイロはそのとき建てられました。札幌市が市街地の酪農家の移転事業を進めた時期に当たります(2017.5.9ブログ参照)。ちなみに北47条ではサイロは軟石製だった由。
 スチール製サイロを解体されたのが10年前=2007(平成19)年だとすると、22年の寿命だったことになります。Yさん曰く「(サイロは)老朽化し、故障して修理にコストがかかった」と。あらためてスチール製の薄命を想いました。現在は前掲画像にも見られるようにラップサイレージと乾草です。

 Yさんの牧場から500m余り北へ行ったところで、軟石サイロ遺構を見かけました。
拓北 大野地 Wさん宅 サイロ 軟石
 久々の‘発見’です。ツルメの跡に経年感が伝わってきます。役目を終えて久しそうでもある。隣接する家屋も住まわれている気配がないのですが、私が行ったときにたまたま(!)持ち主Wさんが畑を見に来られていて、話を訊くことができました。またしても、サイロの神様が私をして引き合わせた。
 消えるサイロあれば、遺るサイロあり。[つづく]

2017/05/23

拓北 Ⅰ牧場サイロ

 昨日お伝えした篠路Hm牧場から東方、彼方にサイロが3棟望めます。
拓北 Ⅰ牧場 遠景
 篠路町拓北のⅠ牧場です。

 コンクリートですが、これまで見てきたブロックとも異なります。 
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 
 持ち主の方にお訊きしようと思ったのですが、人の気配が窺えません。

 サイロが面している道を別の農家の方がトラクターで通りかかったのでお尋ねしたら、「Ⅰさんはもう牧場をやめて、ここにはいない」とのことでした。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ ステーブ
 さて、このサイロに用いられている建材は「ステーブ」のようです。新穂栄蔵『サイロ博物館』1995年で、私はこのタイプを知りました(pp.82-86)。ステーブstaveというのは、桶や樽の板のことです。同書によると、材質はコンクリートなのですが、基本ユニットはタテ76㎝×ヨコ23㎝×幅10㎝で、縦長に積みます。そして、この画像に見られるように、金属のタガが幾重にもかけられています。初めて見ました。
 
 Ⅰさんのところにはもう一棟、小ぶりなサイロが遺っています。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 煉瓦
 こちらは煉瓦です。小端空間積み。

 ですが、上から1/4の部分はセメントで塗り固められています。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 煉瓦 上層部
 ヒビの入り具合からして、元の素材は煉瓦かコンクリートブロックのようです。
 セメント仕上げの上端と下端にデンティル(歯状飾り、稲妻蛇腹)が廻されています。上端のほうは軒下飾り(軒蛇腹)ということでよく見ますが、下端(一種の胴蛇腹?)にも施しているのは珍しい。もしかしたら、いったん下のところまで作り上げて、そのあと継ぎ足した可能性もあります。このあたりも持ち主に確かめたかったのですが、残念です。

 いずれにせよ、前掲ステーブサイロ3棟に比べて、この煉瓦のほうが古そうです。国土地理院の空中写真を見たら、ステーブ3棟は1985(昭和60)年には写っていましたが、1981(昭和56)年には写ってません。1980年代前半築のようです。一方、煉瓦のほうは1961(昭和36)年にそれらしき画像が写ってました。

2017/05/22

篠路 H牧場サイロ

 北区篠路町篠路に行きました。町名でわかるように、調整区域です。
 「英藍高校」というバス停を降りて、目的地へ向かいました。
バス停 英藍高校
 何年か前に北区の北辺にある二つの高校が統合されてこの名前になったと聞きます。「えいあい」高校と読むそうですが、私は読めませんでした。重箱読みを例外だと思うクセがあるんですね、私は。英が「えい」なら藍は「らん」で、普通は「えいらん」でないか。ここの学校の生徒は「出藍の誉」を読めるんだろうかと、余計な心配をしてしまいます。いや、固有名詞に「普通」を持ち込むのが間違ってました。「篠路」だって、湯桶読みですもんね。‘重箱’の隅をほじくって、すみません。

 さて、この地を訪ねたのは学校が目当てではなく、ここから300mほど西です。
篠路 Hm牧場
 Hさんの牧場があります。北区には篠路町福移にHさんという苗字の牧場が2軒ありますので(本年5月8日ブログ参照)、こちらをHm牧場と呼びましょう。 
 Hm牧場には、ご覧のようにサイロが2棟、遺っています。「遺っています」と記したのは、Hmさんのご家族にお訊きしたところ、ここのサイロも今はもう使われていないからです。画像左方、小さいほうの白いサイロが1977(昭和52)年の築で、右方の緑色で背の高いほうがその「10年後くらい」に建てられました。前者はFRP(合成樹脂)製、後者はスチールです。前者の1977年というのはHmさんがこの地に移ってきた年です。その前は北区麻生町、さらにその前は北24条界隈でした(末注)。後者のサイロは福移の酪農団地にあるタイプと同型と見られます。複移のスチールサイロが建てられたのが1988(昭和63)年頃なので、年代的にも合います。
 本件Hm牧場では最盛時乳牛を150頭飼っていましたが、飼育搾乳は1990(平成2)年にやめ、現在は牧草と野菜作りだそうです。サイロは「メンテナンスが大変で、故障すると直すのにも手間がかかった」と言われました。
 
 これまで札幌のサイロを拝見してきて、一定の傾向があることが見えてきました。読者諸賢もお察しと思いますが、一つは建材の変化、もう一つは規模の変化(大型化)です。前者はおおむね、軟石・煉瓦→コンクリートブロック・コンクリート、セラミックブロック→スチールという流れを辿っています。そしてその流れとともに大型化してきました。しかも、大型化しつつ使用年数が比較的短いのです。生物の定向進化を彷彿させます。太古、恐竜は大型化して、ある時期突然、種としての寿命を終えた。スチールサイロが、ブラキオサウルスに見えてきた。
 
 注:Hm牧場は、福移のH-a、H-b牧場の本家筋に当たる。なお、Hm牧場には小さめのスチールサイロがもう一棟あったが、前掲スチール製を建てた時期に解体されたとのこと。

2017/05/21

石狩の空知郡の牧場に立てる碑眺め若妻想う

 碑文の左側に、円柱形のオブジェ?が置かれています。
北村 啄木歌碑
 私はバターの缶をモチーフにしたのではないかと思ったのですが、どうでしょう。

 この地域の歴史を調べている人に話したら、「その説は初めて聞いた」と言われました。

2017/05/20

道営光星団地集会所 (承前)②

 昨日一昨日のブログでお伝えした石蔵が道営住宅光星第4団地の集会所として移設された経緯を、お伝えします。
 概要は以下のとおりです。
 ・当該団地の建設計画の際(2001年ころ)、敷地内に石蔵があったため、道の担当職員が北海道開拓の村に調査を依頼した。
 ・調査の結果「石の積み方が綺麗で、表面の仕上げがめずらしく、屋根に瓦というのも貴重である」と評価された。
 ・その結果、設計提案のコンペの条件として、石蔵の活用が盛り込まれた。
 ・団地の集会所として活用するため、住棟との動線上、現在の配置とした(道路からセットバックして、ナナメに向ける)。
 ・移築に当たり、鉄骨で補強し、もともとあった2階の床は取り払った。
 ・屋根の瓦は名古屋で新たに焼かれ、耐寒性の高いものを使った。

 本件の経緯はあまり知られていないし、正式に公表されているかどうかも判りませんので、上記の情報源はとりあえず伏せておきます。来歴がわかるような説明書き等は現地にもないようです。私としては、北海道住宅課の英断を讃える意味を込めて、建物の由来ともども、せめて拙ブログで記録にとどめておきたいと思いました。移設経緯も含め、本件は一つの歴史です。僭越ながら、史実をできるかぎり、かつ正確に遺したい。
 なお、屋根瓦が名古屋で焼かれた、ということですが、愛知県で(というか、全国的に)有名なのは「三州瓦」です。主産地は三河地方の高浜市です(末注)。私は三州瓦でないかとにらんでいます。これは私の想像です。

 注:愛知県では4億2700万枚の瓦が焼かれ(2007年)、全国の瓦生産の64%を占める。その大部分が高浜及びその周辺という。高浜市やきものの里かわら美術館『三州瓦と高浜いま・むかし』2010年p.59

2017/05/19

道営光星団地集会所 (承前)

 道営住宅光星第4団地の集会所です。
道営住宅光星団地集会所 近景
 2005年12月に発行された札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第41号紙上で、スタッフNさんが本件建物の由来について次のように記しています(太字)。
 古くは玉葱を扱う家の蔵だったらしいが、その後、古谷製菓の縁者の方が使っていたともいう。

 先日のN43赤煉瓦塾の苗穂駅~札幌駅周辺ツアー(5月13日)で、Nさんとあらためて鑑みました。「でも、タマネギ(収蔵)倉庫には見えないよねえ」と。外観のフォルムは、中央区などでよく見る商家や質屋の蔵、あるいは個人宅の文庫蔵です。
 Nさんの前述は2005年当時、ご近所にお住まいのKさんからの聞取りに基づきます。それで私もKさんのところを訪ねました。ご高齢のためKさんにはお会いできなかったのですが、幸いにもKさんの弟Ksさん(78歳)からお話を聴くことができました。
 「あの建物のことを知っているのは、もう自分くらいかもしれないなあ」と語るKsさんによる本件石蔵の由来は、以下のとおり(太字)。

 石蔵はNというタマネギの仲買商人が建てた。建てられたのは、自分が生まれた昭和14(1939)年の5、6年前。タマネギの収蔵ではなく、書類や金品を保管していた。この辺にはタマネギの商人が多くいた。戦争が終わったころ、古谷さんの手に渡った。Nの息子は米軍相手に物資の売買いをしていたが、あくどい商売をしていたらしく、米兵に恨みを買って、千歳の美々で殺されてしまった。息子の代で終わり、それで石蔵も手放された。古谷さんは菓子の原材の卸をしていたが、石蔵は菓子の保管などには使われてはいなかった。古谷さんは蔵の奥に家を構えて住んでいた。子どもの頃、蔵の中に入れてもらったことがある。まあ物置のようなものだった。

 Ksさんのお話からすると、石蔵は1933、34(昭和8、9)年頃の築ということになります。Ksさんの生まれる前ですから伝聞情報と思われますが、「生まれたとき(≒物心ついたとき?)には、あった」ということですから、少なくとも昭和戦前期築と見てよさそうです。タマネギ仲買商人については、JR線路の南側、北4条東4丁目にもやはり軟石倉庫が遺っています。そちらも推定昭和初期築です。このあたりに仲買商人が多くいたというKsさんの話は頷けます。
 Ksさんも言ってましたが、タマネギは相場変動の激しい商品作物です。仲買というのは、生き馬の目を抜くような商売だったと思います。Nさんの息子が米軍相手に物資を動かしていたことに、私は「血は争えなかったのかなあ」と想像を掻き立てられました。それで米兵に千歳で殺されたというのもまた、なまなましい戦後史です。
 古谷商店については、「札幌市全戸明細図」1965年で、この一画に「古谷雄一郎」という住宅があったことを確認しました(末注①②)。同図には、現在のサッポロビール園の南辺に古谷製菓の建物が数棟、記されています。

 以上により、本件石蔵はタマネギ仲買商人のいわゆる文庫蔵で、昭和初期築と判断したいと思います。長年のモヤモヤがすっきりしました。「タマネギ倉庫だったのではないか」という記述をネット上などでも見ますが、これからは仲買商人の元文庫蔵と認識しましょう。
 これで軟石建物の築年判明数が一棟、増えました。昭和戦前期築が47棟から+1で、48棟です。母数(2005年以降、現存を確認した411棟、ただしその後解体されたものも含む)に対する割合を整理しておきます。
 ・明治期 16棟 3.9%
 ・大正期 27棟 6.6%
 ・昭和戦前期(1926-1945年) 48棟 11.7%
 ・昭和戦後期(1946-1964年)  94棟 22.9%
 ・昭和後期~平成期(1965-現在) 46棟 11.2%
 ・不詳 180棟 43.8%
 「不詳」がまだ、180棟もある。

 注①:Ksさんによると、この一画にお住まいだった古谷(雄一郎)氏は「古谷製菓」ではなく、「古谷商店」のほうを経営していたという。古谷辰四郎氏(二代目)の弟とのこと。『札幌文庫66 札幌人名事典』1993年「古谷辰四郎(初代)」「同(二代目)」によれば、古谷初代は多方面に事業を展開し、二代目は「古谷製菓」と「古谷商店」にしぼり、1944(昭和19)年「古谷産業株式会社」とし、1952(昭和27)年、「古谷製菓」に変更(p.261)。
 注②:札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、2007年5月に当会が開催した「札幌軟石発掘大作戦・東区編」の展示を観覧した方の“証言”として、以下の情報も寄せられた(太字)。
 “娘時代”に「古谷製菓」で働いていたという70代のおば様が来られて、石蔵を懐かしがってましたよ。お勤めの頃(昭和20年代後半?)は既に“倉庫”だったらしく、キャラメルの空箱(パッケージ?)が積まれていたとか。
 Ksさんの話にこの情報を加味すると、昭和20年代には古谷家で使われていたが、商品(菓子そのもの)や原材料の保管ではなかったようだ。

2017/05/18

道営光星団地集会所 軟石

 東区北7条東7丁目、道営住宅光星第4団地です。
道営住宅光星団地集会所
 画像中央の軟石の蔵が、団地の集会所になっています。

 この石蔵は、団地が建てられた2005(平成17)年、敷地の別の場所から曳家して移設されたものです。移設の経緯は後述するとして、私は移設前の場所に建っていた当時の写真を撮ってました。
道営光星団地集会所 移築前 旧状 2000年
 紙焼きされた写真の裏側に撮影年を記していて、2000年7月30日です。 

 これを見ると、建物はかつて道路に面していたことがわかります。現在は冒頭画像のとおり、敷地の奥まったところに、しかも道路とは45度くらいナナメを向いて建っているのですが。

 石蔵があった跡地の現況です。
道営光星団地 石蔵 跡地
 画像右方の電柱と、左方の街路樹で同定できるかと思います。電柱は虎縞の反射板と、上の方の突出し看板が一致しています(看板は塗り替えられていますが、印刷会社の社名広告で変わってません)。石蔵の位置は、ゼンリン住宅地図2002年でも確認しました。

 現況の画像をズームアウトして、全景を見ましょう。
道営光星団地 石蔵跡地 ズームアウト
 赤い四角で囲ったところをトリミングしたのが、前掲画像です。北8条通りの北側から、南を眺めました。石蔵の元の場所は現在、団地の駐車場になっています。

 毎度自画自賛で恐縮ながら、前掲の石蔵旧状を写した紙焼き写真は貴重だなと思います。この写真によって、本件が移築されたことが判るからです。
 拙ブログで以前、グーグルのストリートビューを見れば「2010年、2020年、2030年…と、ピンポイント・時系列的に画像で追うことも、可能になるだろう(もはや実現されている?)」と記しました(2014年11月7日http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-106.html)。実際、もう可能らしい。しかし。少なくとも札幌で2000年当時の画像は、さしものグーグルとてまだ撮ってなかったであろう。
 私は何事も周回遅れで、電子化されるのも遅かったのですが、フィルムカメラで本件を撮っていた自分を褒めてやりたい。まあ、道の住宅課は記録写真を残しているのでしょうけれど。
 石蔵の由来は従前、今一つぼやーっとしていたのですが、ご近所にお住まいのKさんにあらためて確かめました。その結果かなり鮮明になってきましたので、移築の経緯も含めておってお伝えします。[つづく]

2017/05/17

苗穂駅 うつろい ②

 N43赤煉瓦塾主催の苗穂駅~札幌駅周辺見学会(5月14日)で、久々に苗穂人道橋を渡りました。
JR 苗穂橋上新駅工事
 人道橋の傍らに、橋上新駅の橋脚ができつつあります(画像は南から北を眺めたもの)。報道によると新駅は2018年度開業予定なので、現人道橋は渡り納めになるかもしれません。2018年度というと、あと2年足らずです。まだ橋脚だけですが、2年足らずで駅舎までできてしまうのだなあ。絶え間なく列車が行き交う上を、着々と工事が進むことに私は驚きます。

 人道橋を渡って、北側に降りると、JRの研修センターがあったところが空き地になっています。
JR研修センター跡
 ここには新駅の北口広場と、高層マンションを含む複合施設が建てられるそうです(末注①)。後景に写る大型商業施設(アリオ)と、スカイウォーク(空中歩廊)で結ばれるとのこと。

 手前の空き地にJRの施設があったころの遺物を探してみました。
 私が前に視認していたものです。
JR苗穂人道橋の北側にあった標柱 
 小さな標柱で、「工通信ケーブル」と刻まれていました。2012年6月に撮ったものです。当時これを見たとき「工って何かな?」と思ったのですが、今にして思うに「工部省」の工ですね。JRの前身の国鉄の前身の鉄道省の前身の名残が、今も使われている(末注②)。
 
 この標柱を探したのですが、見当たりませんでした。

注①:北海道新聞2015年5月16日記事による。 
注②:下記参照
 2014.12.28ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-157.html
 2016.9.21ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-791.html

2017/05/16

北一条通り物語

 札幌建築鑑賞会スタッフの会合で、Nさんから「北一条通り物語」というお菓子をいただきました。
北一条通り物語
 北1条西5丁目の「旧北海道庁立図書館」の建物に昨年店舗を開いたお菓子屋さんの商品です。お菓子の袋にはその建物が描かれています。

 私は、描かれている絵を、近眼のため顔に近づけて凝視しました。そして、なかなか芸が細かい作品であることに気づきました。北1条通りに面して建っている時計台や知事公館が隣り合わせに描かれていますが、芸が細かいというのはそのことではありません。
 
 袋のサイズでは小さくて判りづらいと思ったので、くだんの店に足を運び、箱入りを買ってきました。箱には絵が大きく描かれています。
 前掲の袋の絵でも判るのですが、建物の前に今は亡きチャチャニレの大樹が描かれています。しかし芸が細かいのはそのことでもありません。注目したのはチャチャニレの木陰、左下です。
 
 箱に描かれた絵から、その部分をトリミングしてみます。
北一条通り物語 水飲み場
 例の「水飲み場」まで、ちゃんと再現されているのです。カッターの水飲み場です(本年3月25日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-970.html 参照)。水飲み場から噴き出た水を、親子らしい二人が飲もうとしています。
 
 この水飲み場は、1967(昭和42)年、チャチャニレとともに撤去されたものです(3月16日ブログ参照)。一方、建物の屋上にはお菓子屋さんの旗がたなびいています。この絵は、水飲み場が置かれていたころの昭和の風景に、現在を重ねあわせているのですね。
 絵の右下に、金井英明さんのサインが記されています。お店の人にお訊きしたら、本商品の発売に合わせて、新たに描き起こしてもらったものだそうです。
 Nさん、おいしいお菓子をどうもありがとう。

 5月14日に記した苗穂駅の看板について、同日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-1020.html に追記しました。看板の左半分を知りたい方は続きをご覧ください。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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