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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/12/12

北海道のねこ足

 先日来取り上げている「つきさっぷ郷土資料館」(札幌市豊平区)には、軍事資料だけでなく地域の人びとのくらしやなりわい伝えるモノが展示されています。
つきさっぷ郷土資料館 1階 農機具の展示
 画像に写したブリキ製らしい農機具は、見覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 「たこ足」です。本年1月2日ブログで、その実物を載せました。寒冷地北海道で稲作を普及させた直播の道具です。このたび郷土資料館でも同じモノを見て、「おぉ、ここにもある」と感慨を新たにしました。

 感慨を新たにしたのは、「たこ足」にバリエーションがあることを知ったからです。
つきさっぷ郷土資料館 展示物 タコ足
 奥に置かれているほうには「タコ足」と書かれています。これは本年1月2日ブログでお伝えした妻の生家に“保存”されているものと似たカタチです。

 一方、手前のほうは「ねこ足 木原式水稲直播器」と説明されています。
つきさっぷ郷土資料館 展示物 ねこ足
 「タコ足」と「ねこ足」。郷土資料館の館内を見学したのは久方ぶりながら、前にうかがったときはこれらの存在そのものを認識していませんでした。

 私がこのたびまがりなりにも認識できたのは、最近、別のところでも同じモノを観たからです。
北海道開拓の村特設展示「水稲直播器 ねこ足」北海道博物館蔵
 北海道開拓の村の特別展示「北海道と米~米・稲・飯ものがたり~」で観ました(画像は本年10月撮影)。
 やはり手前と奥に2種類、展示されていて、右下のラベルには「水稲直播器(ねこ足) 大正 北海道博物館蔵」と書かれています。私はこれを観たとき、「『たこ足』の間違いではないか」と思いました。否、思い込みました。「た」と「ね」の書き間違いかと。

 それっきりにしていたのですが、つきさっぷ郷土資料館の展示のおかげでようやく違いに気がつけました。「たこ足」は“足”が長く、「ねこ足」は短い。冒頭画像でわかるように、詳しい説明文も添えられています。長い短いに何が違うのか、興味・疑問をお持ちいただけた方は月寒をお訪ねください。ただし、来年3月まで冬季休館に入りましたので、暖かくなってからぜひどうぞ。
 私は、開拓の村の展示だけでは不遜にも「表記のミス」と思い込んだままでした。ただしあえて申し上げるならば、こちらでも“足”の長いモノと短いモノの二つが展示されていながら、ラベルは「ねこ足」だけです。「たこ足」も表記してもらえれば、よりありがたかった。
 「たこ足」「ねこ足」は農家の人たちの呼び慣わしであり、正式名称や定義上の厳密な違いではないのでしょう(末注)。とはいえ、かような呼称上の違いも面白いと思います。“足”の長いほうが「たこ」なのは8本×2でまだしも、同じ本数でも「ねこ」に譬えたこととか。カタチはむしろ、私にはムカデに見えますが。
 それにしても。
 知の集積たる北海道立の野外博物館の「特別展示」よりも、地域住民がほとんど手弁当で運営している郷土資料館の常設展示のほうが、説明が詳しい。というか丁寧です。前者を咎めるなどというのでは決してありません。そんな恐れ多いことではなく、違いを楽しみたい。
 最後の段落はたこ足でもねこ足でもなく、蛇足(と言ったら、縁語か)です。

 注:北海道開拓の村の特別展示の「ねこ足」の実物には、北海道庁長官が1916(大正5)年に授けた「賞表」が貼られていて、それには「専売特許 水田播種器」と題されている。
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2019/12/11

「南3西18」の標識(承前)

 昨日ブログに載せた「南3西18」の標識が所在するのは、実際には何条何丁目でしょうか。市役所で確かめてきました。

 まず、札幌市が作った地番図の最新版です。
札幌市地番図 2018年 南3条西18丁目あたり
 これは市政情報コーナーで閲覧することができます。黄色の実線で囲ったところが南2条西19丁目、赤い実線が南3条西18丁目です。「南3西18」の標識は黄色の○を付けたところに当たります。

 その部分を拡大します。
札幌市地番図 2018年 南3条西18丁目あたり 拡大
 道路敷地との境界とおぼしく隅切りされているので、信号機はこの場所と見てよいでしょう。
 昨日ブログに載せた地図と較べると、明らかに条丁目界が異なっています。この地図だと、標識の所在地は南3条西18丁目です。表記と一致します。
 
 昨日載せた地図は、所詮(といったら何ですが)地下鉄駅の看板です。当てになりません。といいたいところですが、では上掲の地番図の条丁目界が当てになるかというと、そうでもありません。この地図には次のように付記されています(太字)。
 この図面中の「条丁目界」は厳密な地番に基づいたものではありません。

 町名整備を担当する戸籍住民課を尋ねました。
 そこで見せてくれたのはまず、ゼンリンのブルーマップです。
ゼンリンブルーマップ 南3条西18丁目あたり
 黄色の実線で南2条西19丁目、赤い実線で南3条西18丁目の区域を示しました。信号機の標識の位置は黄色の○です。
 これはむしろ、昨日ブログに載せた地下鉄駅の看板に書かれた条丁目界の線と一致しています。前掲の地番図とは異なります。
 私は係の方に尋ねました。
 私:この地図に書かれた条丁目界が正確と考えてよいですか?
 係の方:だいたいは。
 私:「だいたい」ですか。端的に、正確な条丁目の境界線を知りたいのですが。

 係の方が「基になっているのは、これなんですよね」と、下掲の地番図を見せてくれました。
札幌市戸籍住民課 古い地番図 南3条西18丁目あたり
 「師範学校附属地」と書かれていることからも、かなり古いものと察せられます。
 一点鎖線で区切られているのが条丁目界で、赤い実線で囲った極細の三角形が南3条西18丁目です。前掲のブルーマップや冒頭の新しい地番図をこの古い地番図と較べると、条丁目界はこれまた明らかに異なっています。赤い線で囲った南3条西18丁目は、前二者は区切られ方が異なってはいるもののどちらも四角形ですが、後者は三角形です。したがって、後者を本来の区域とするならば前二者はどちらも正確ではないということになります。

 ではかねて取沙汰する「南3西18」の標識(が付いている信号機)は、この地番図上でどこになるか。南4条以南の現市道「西19丁目線」に当たるとおぼしき道幅は狭いし、その北側はクランクしています。現況の地割がかなり変わっていて、照合するのは容易ではありません。
 それにしても、南3条西18丁目の区域が三角形で正しいとするならば、標識の所在する条丁目は微妙です。三角形の鋭角の中(すなわち南3条西18丁目)に入るかどうか。現在の道路幅に照らすと、外のようにも見えます。ちなみに、この標識(が付く信号機)が隣接する角地に建つマンションの登記上の表記は、南2条西19丁目です。これは私の推測ですが、このマンションにお住まいの方の中には「うちの住所は南2条西19丁目なのに、なんで目の前の信号機の標識は『南3西18』なんだろう?」と疑問を抱いた方がいるかもしれません。

 結論です。といっても結局、断定に至りません。あえていうなら「『南3西18』の標識の所在地は、限りなく『南2条西19丁目』」でしょうか。
 以下は妄想です。なぜ、この標識を「南2西19」とせず、「南3西18」としたか。
 「混乱を増幅したくない」という心理がはたらいた。そうでなくてもこの標識が付けられた信号機のある交差点は、初めて来た人は戸惑う。札幌の中心部は、大きめの道路で区切られた一つの街区で条丁目が一つずつ変わるという理解がおそらく主流だろう。しかるにここの交差点は昨日ブログに載せたように、「南4西18」の西向かいが「南4西20」である。「西19」が飛んでいる。そこへもってきてもし「南4西18」の北向いが「南2西19」だったら、どうなるか。「南3」が飛ぶのみならず、同じ南北の丁目の列なのに「西18」と「西19」と、違う。これはもうカオスといってよい。「南3西18」なら、少なくとも南向かい側の「南4西18」との続き具合は素直だ。
 これは、そっと見守りたいものです。

2019/12/10

「南3西18」の標識

 中央区の南4条西18丁目と南4条西20丁目の境目です。
市道西19丁目線 南4条西18丁目、南4条西20丁目あたり
 画像は、北から南を向いて撮りました。手前から奥に通じる道路は市道「西19丁目線」といいます(末注①)。「西19丁目線」ですが、この市道の南4条以南には西19丁目は存在しません。このことは、わりとよく知られていると思います。

 前掲画像の青い矢印を付けた先(青信号が点いているところ)です。
信号機の標識「南4西18」
 「南4西18」の標識が付けられています。

 同じく前掲画像に赤い矢印を付けた先(赤信号が点いているところ)です。
信号機の標識「南4西20」
 「南4西20」の標識が付けられています。

 冒頭画像の撮影位置を示した現在図です。
現在図 市道西19丁目線 南4条西18丁目、南4条西19丁目
 黄色の△のところで南を向いて撮りました。青いが南4条西18丁目、赤いが南4条西20丁目です。この間を市道「西19丁目線」が南へ通じています。だからといって、道路部分だけが西19丁目というわけではありません。

 「なぜ、西19丁目が飛んでいるか?」は、堀淳一先生が『地図の中の札幌』2012年で詳しく説明されているので(pp.281-282)拙ブログでは割愛します。ここまでは、前置きです。前置きが長くて申し訳ないのですが、基本的事実をまずおさえるためにお許しください。

 拙ブログで採り上げるのは、下掲画像の黄色の矢印を付けた先の標識です。
市道西19丁目線 南4条西18丁目あたり 「南3西18」標識
 前掲地図の黄色の△で示した地点(逆三角形の底辺のあたり))の信号機に付いています。青い↓の先は前掲の「南4西18」の標識です。黄色の矢印を付けた先の標識は、道路をはさんで北向いに当たります。

 「南3西18」と書かれています。
信号機の標識「南3西18」
 私はこれに、初めて気づきました。
 前掲地図で示すとおり青い矢印を付けた「南4西18」の北向かいにあるから「南3西18」だろう、と単純にはいきません。そのことも、堀先生が記しています。

 実際、この場所の町名(条丁目)は何だろう? と気になってしまいました。毎度、困った性分です。
 最寄の地下鉄「西18丁目」駅のコンコースに備えられている周辺案内地図を見ました。
地下鉄西18丁目駅の周辺案内地図 南2条西18丁目あたり
 黄色のを付けたところが、くだんの信号機標識「南3西18」のある地点です(元図の現物はカラーだが、白黒に加工)。
 この地図では町名(条丁目)界が一点鎖線で区切られています。それによれば、黄色の実線でなぞった区画に「南2西19」とあります。「南3西18」を赤い実線で囲みました。道路沿いの“ツラ一枚”の狭小なエリアです。
 この地図を見る限りでは、信号機に付いた標識「南3西18」は「南2西19」の南西角に存在します。こういうのを見つけると、私は心が躍ってしまうのですね。これまた困った性分ですが、おそらく治せません。これを現認した後、市役所に行って条丁目界を確かめてきました。

 注:都市計画道路の名称は、画像に写るあたりは「西20丁目通」である。

2019/12/09

なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったか。(承前)

 UHB「みんテレ」“となりのレトロ”のコーナーは前身の特集も含め、一年続きました。観てくださっている方々のおかげです。つい繰り返してしまいますが、道路のクランクやら札幌軟石の仕上げやら、円形歩道橋の成り立ちやらが“公共の電波”に乗る時代になるとは、一昔前には想ってませんでした。ありがとうございます。
 私はロケハン(下見)とロケ本番に出ますが、放送局の部外者なので編集には立ち会いません。毎回、どんなふうに“切り貼り”されるか、冷や冷やものです。しかし、局のスタッフはさすがにお手の物で、うまく仕上げてくれます。ADのEさんは私よりかなり若いのですが、“人間”ははるかに出来ている人です。私の珍奇なこだわりに辛抱強くつきあってくれる“寛大な”局の皆さんにも、
感謝します。

 本日の番組でお見せした色別標高図です。
標高図 標高20m未満から10mごと7色段彩 旧千歳線、月寒
 標高20m未満から10mごと7色段彩で作りました。白ヌキ実線が旧千歳線(元北海道鉄道)、赤い○が月寒(つきさっぷ)駅、白ヌキ○が北部軍司令部、同じく□が歩兵第25連隊(末注①)のそれぞれ跡地です。

 北海道鉄道は苗穂から、鉄路を逆S字状に不自然なほど湾曲させて敷かれました。私は、月寒の25連隊へのアクセスのためと番組で伝えました。したり顔で最新知見であるかのように言うことではないのですが、さりとて、根拠付ける一次史料を見出してもいません。推理の域であることを申し添えます。
 北部軍司令部の立地については、番組で私は「これは私の想像」と断って、岬の突端のような地形が理由に挙げられるとと述べました。あとから漁った既往文献で、次のように記されています(末注②、引用太字)。
 標高50mの高さは、札幌の町並みを一望できる高台に位置している。軍司令部の西側、つまり裏側に位置する防空作戦室も同じ標高の環境にあり、周囲には原野が広がっており、高い受信アンテナを建てても電波障害が少なく、送受信に最適地であった。

 番組の終盤、スタジオの面々が話す場面で写された古写真です(つきさっぷ郷土資料館展示から)。
陸軍特別大演習1936年 歩兵25連隊 営内運動場
 これは北部軍当時ではありません。1936(昭和11)年の陸軍北海道特別大演習のとき、歩兵第25連隊の営内で撮られたものです(末注③)。写っているのは将校で(末注④)、弘前の第八師団も参加しています。よって、この風景をもって「こんなにたくさんの兵隊さんが月寒にいた」というのは正確ではありません。ただし、北部軍司令部には千人単位での軍人及び軍属が所属していたそうです。これは既往資料(末注⑤)だけでなく、北部軍司令部に軍属として勤めていた女性からもこのたびお聴きしました。現在95歳の方です。防空作戦室に勤めていた方の“証言”は既往文献で読みますが、司令部にいた方の話をしかも直接お聴きするのは、私は初めてです。おって拙ブログで綴ります。
 
 注①:札幌郷土を掘る会『写真で見る札幌の戦跡』2010年、pp.41-47による。
 注②:札幌市文化財課『北部軍管区司令部防空作戦室記録保存調査報告書』2009年、p.29 防空作戦室の歴史については西田秀子さんが執筆
 注③:現在の札幌月寒高校の位置とされる。前掲『『写真で見る札幌の戦跡』p.80参照
 注④:つきさっぷ郷土資料館秋元館長さんのお話
 注⑤:西田秀子作成「札幌は軍事都市だった?!-1945年の札幌-空襲・敗戦・占領-」札幌建築鑑賞会「札幌百科」第14回2017年3月4日資料によると、1943(昭和18)年北部軍司令部に防空作戦室開設(3000人)。この3000人という数が月寒の司令部だけを指すかどうかは西田さんに未確認。うち女子通信隊員(軍属)は1945(昭和20)年1月時点で262人。

2019/12/08

北部軍司令官官邸が建てられた頃

 12月6日ブログでお伝えしましたように、9日(月)に放送予定のUHB(8ch)「みんテレ」(15:50-)“となりのレトロ”では月寒を紹介します。
 2017年の夏に「つきさっぷ郷土資料館」を撮った写真には、敷地に提灯が架かっていました。
つきさっぷ郷土資料館 170814撮影
 訪ねたのが8月14日だったからでしょう。
 
 この建物が当初の用途である大日本帝国陸軍の北部軍司令官官邸として使われたのは、戦時中の約5年です。戦後は、北大の「月寒学寮」、その後は現在に至る「つきさっぷ郷土資料館」として、第二、第三の“建物人生”(そんなコトバがあるか?)を送ってきました。数えてみると、それぞれ三十余年。現役よりはるかに長い“余生”です。戦争遺構が平和利用されるのは結構なことだと思います。夏祭り(?)(翌日は8月15日)の提灯は、象徴的な風景です。

 私は、建物が建てられたのを古い二次的文献により1940(昭和15)年と思っていましたが(末注①)、先日資料館でお聞きして1941(昭和16)年と知りました。北部軍司令部が置かれたのが1940年で、司令官官邸ができたのはその翌年だったのです。札幌市公文書館所蔵の史料で、1940年8月14日「起工」、1941年5月30日「竣功」という記録を確かめました(末注②)。
 なぜ建築年に触れるかというと、その当時の情勢を振り返りたかったからです。建物が建った1941年の12月8日、日本は米英に宣戦布告しました。同じ史料に、北部軍司令官濱本喜三郎が同日発した「訓示」という一文も記載されています。その一節を以下、引用します(太字)。
 北部軍管区ハ国土ノ北辺ニ位シ近ク敵国米、敵性蘇ノ二大強国ト相対シ北辺防衛及国策遂行上ノ要域を示ム
 対米、対蘇(ソ連)の二方面の前線的な拠点だったことも、あらためて知りました。同年(1941年)4月に日ソ中立条約が結ばれていますが、ソ連は「敵性」と認識されていたのですね(末注③)。同年6月にはドイツがソ連を攻撃しました。かたや前年(1940年)9月には「日独伊三国同盟」が成立しています。日本は、“味方”のドイツがソ連と敵対する中で、ソ連と中立を保ちえるか。ソ連もまた、戦争相手ドイツの同盟国に対して中立でありえるか。
 私は、ソ連が1945(昭和20)年8月に当時日本領の千島や南樺太を侵攻したのは国際法違反(中立条約を一方的に破棄した)と思ってきました。こういう近代史にも私は疎いのですが、日本の中枢はソ連の“抜き打ち”“騙し討ち”があることを重々察していたのではないでしょうか。もちろん、「だから仕方がなかった」ということではありません。
 という情勢下に建てられた司令官官邸です。

 注①:北海道近代建築研究会編『札幌の建築探訪』1998年、p.118ほか
 注②:「松田鶴彦資料」(複写)「軍司令部歴史案 自昭和16年7月7日至8月31日」のうち「軍司令部官舎施設建造物一覧表」
 注③:1941年7月の御前会議で決定された「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」では対ソ戦が準備され、大本営は関東軍特別大演習を発動した(北海道編『新北海道史年表』1989年、p.537)。

2019/12/07

新札幌駅の隙間(承前)

 12月1日ブログに載せたJR新札幌駅の隙間を、明るい時間帯にもう一度見てきました。
新札幌駅 duo-2との隙間 「新札幌駅」跡
 11月27日ブログへのコメントで教えていただいた「新札幌駅」の跡が、前回は夕方で暗くてよく見えなかったのです。

 4文字の痕をくっきりと確かめさせていただきました。
新札幌駅 duo-2との隙間 「新札幌駅」 「新」の痕
 名残とか痕跡という概念をこれほどに顕わに、露わに現した物件を目の当たりにできて、まことにありがたいことです。あらためてコメントいただいたことに感謝します。

 新札幌駅の近過去写真(札幌市公文書館所蔵)に照らしてみました。
市公文書館所写真 新札幌駅1990年
市公文書館所写真 新札幌駅1977年 
 上掲が1990(平成2)年、下掲は1977(昭和52)年撮影です。時計と「和田歯科医院」広告の設置時期は、12月1日ブログにいただいたコメントよりも狭められなくて、すみません。

 この建物の前に1991(平成3)年1992(平成4)年、duo-2が建ちました開業しました。
新札幌駅 duo-2側
 画像は2017(平成29)年9月の撮影です。

 duo-1側の隙間も眺めてきました。
新札幌駅 duo-1との隙間 「新札幌駅」痕跡
 こちらも痕跡を拝めます。

 1977(昭和52)年当時の風景です(市公文書館所蔵)。
市公文書館所写真 新札幌駅1977年 現duo-1側
 後景にサンピアザの建物が写っています。
 
 現在は、このようになっています。
新札幌駅 duo-1側
 duo-1は1990(平成2)年にオープンしました(撮影は本年)。

 duo-1、-2ができる前の新札幌駅の写真を、自分では撮ってなかったのが悔やまれます。その穴埋めというわけでもないのですが、1990(平成2)年当時の新聞広告記事を再掲します(2016.6.1ブログ参照)。 
19900101広告記事 「都心予告」再掲
 30年近くを経て黄ばんでいますが、この記事をスクラップしていたことで自分を慰めることとしましょう。 
 この記事に描かれた近未来的な絵図と前掲した現在の画像を較べると、実際の風景はいかにもな“継ぎはぎ感”が弥増しています。と、私には感じられるのですが、どうでしょうか。現実が決して“絵に描いたような”とおりにはならないことに、妙な満足感を覚えてしまいます。よそから訪ねてこられた方には“わかりづらい新さっぽろ”で、申し訳ないのですが(末注)。前掲の「新札幌駅」の痕跡は、継ぎはぎ感を表象しているように想えてきました。元の文字を残していない、かといって完全に消し去ってもいないというところに。

 注:2018.12.6ブログ注②参照。サンピアザ「センターモール」地下1階のハンコ屋さんは、通りかかりの客から「一日に30回は」道を訊かれるという(道新連載記事2004年6月24日「まちかど探見 新札幌周辺③ 迷路の街」)。

2019/12/06

なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったか。

 お知らせを二つ。
 ■毎年12月に恒例の北翔大学円山キャンパス(旧称ポルト)での市民講座を、来たる8日(日)に開催します。
 今回は「自分たちの足元を見つめて、まち自慢を発信する」というテーマのもと、第1部は札幌軟石と煉瓦が小テーマ、第2部は木造建築が小テーマです。第1部では、「札幌軟石ネットワーク」事務局長にして札幌軟石文化を語る会・札幌建築鑑賞会会員の佐藤俊義さんが発表します。昨年の北海道遺産選定後、佐藤さんが調べてきた北海道内における軟石文化の普及についての新たな知見です。ご期待ください。
 とき:12月8日(日)午後1時から5時まで (第1部はおおむね午後2時半まで、佐藤さんの発表は前半)
 ところ:北翔大学北方圏 札幌円山キャンパス(札幌市中央区南1条西22丁目1-1) 地下鉄東西線「西18丁目」または「円山公園」駅から徒歩
 ■UHB「みんテレ」(8ch)の“となりのレトロ”、12月9日(月)に放送されます。

 https://uhb.jp/program/mintele/
 今回歩くのは月寒です。

 その月寒にある「つきさっぷ郷土資料館」です。
つきさっぷ郷土資料館 外観
 かつての「北部軍」の司令官官邸でした。
 ここで北部軍司令官が執務していたと私は今まで思っていたのですが、必ずしもそうではなかったことをつい先日、知りました。この建物はむしろ迎賓施設というか、ハレ的な位置付けだったようです。無知でした。
 ところで、本日ブログの標題「なぜ月寒が北日本の軍事拠点になったかです。9日の“となりのレトロ”のテーマでもあります。もともと明治時代に陸軍第七師団の独立歩兵大隊(のちの「歩兵25連隊」が置かれたことが大きいとは思うのですが、それだけではありませんでした。詳しくは放送で。しかし15分で伝えきれるか。大体、月寒で軍隊といえばまず25連隊だと思うのですが、それを飛び越えていきなり北部軍の話ですから。

2019/12/05

札幌のJR駅に関する難問

 といっても、新幹線の駅をどこにするかとか、そういうことではありません。
 本年8月3日ブログでアタマをひねった問題のことです。
 JR白石駅、苗穂駅、八軒駅。この三つの駅にはある共通点がある。
 答えられる方は相当すごい。
(北海道新聞2019.8.2夕刊連載「新世代歌人 山田航のモノローグ紀行」から)

 答えは「二つの隣駅がそれぞれ違う区に属している。つまり、異なる区に挟まれている駅という共通点がある」のだそうです。
 苗穂駅(中央区)-白石駅(白石区)-厚別駅(厚別区)
 札幌駅(北区)-苗穂駅(中央区)-白石駅(白石区)
 新川駅(北区)-八軒駅(西区)-桑園駅(中央区)  というわけです。

 これに対し私は先のブログで「白石駅(白石区)の隣の駅には平和駅(白石区)もあるのではないか?」と疑問を抱きました。平和駅も含めると、白石駅は「異なる区に挟まれている駅」とはいえないのではないか。しかし白石駅は函館線の駅で平和駅は千歳線の駅のせいか、白石駅の「二つの隣駅」はあくまでも函館線の苗穂駅(中央区)と厚別駅(厚別駅)という解釈せねばならないようです。これは難問だなあと感じました。
地理院地図 JR駅 苗穂 白石 平和 厚別
 平和駅が千歳線の駅だから除外されるとしても、白石駅は千歳線の(付替え前の旧線当時はともかく現在は)駅でもあると思うので、あえて外す理由が私にはうまく説明できないのです。

 「千歳線あるい平和駅を外すのがおかしい」というのではありません。この理屈を是とすると、こんどは「桑園駅」(中央区)はどうなるのだろうという新たな疑問が湧いたのです。
地理院地図 JR駅 桑園 札幌 八軒 琴似
 桑園駅(中央区)の「二つの隣駅」はどれか。東隣はいうまでもなく札幌駅(北区)です。これは区が異なる。西隣は? 琴似駅(函館線)または八軒駅(札沼線)です。いずれも西区であり、やはり区が異なります。どちらか一つを取れば、「二つの隣駅がそれぞれ違う区に属している。つまり、異なる区に挟まれている駅という共通点がある」ことに当てはまりませんか。
 琴似駅(西区)-桑園駅(中央区)-札幌駅(北区) または
 八軒駅(西区)-桑園駅(中央区)-札幌駅(北区)

 ではなぜ、桑園駅は「JR白石駅、苗穂駅、八軒駅。この三つの駅にはある共通点がある」という設問の所与の条件に含まれていないのでしょうか。これがまた、私には難問です。桑園駅にも共通点はあるが、とりあえず所与の三つの駅で考えろ、ということでしょうか。
 しかしこれは、次のような質問に譬えてみたらどうなりますか。
 ① 「リンゴ、ミカン、ナシ。この三つの共通点は何か?」
  これは「果物」と答えて正解でしょう。
 ② 「リンゴ、ミカン、ナシ、モモ、ダイコン、ニンジン。このうちリンゴ、ミカン、ナシの三つの共通点は何か?」
  「果物だろう」と想いつつ、「でも、モモも果物だけど、入ってないな。『果物』というだけではダメ(細かい分類まで問う)か。あるいは『果物』以外の別の正答があるのだろうか」と迷います。しかし答えが「果物」だとします。上述の駅の難問は、この②の問答と同じになりませんか。

 「もしかしたら」とも思います。
 桑園駅は隣駅が札幌駅、琴似駅、八軒駅の三つ、ある。隣駅が三つあるのは対象外、ということか。あくまでも「二つの隣駅」で考えろ、と。しかしここでまた、戻ってしまいます。前述の白石駅も隣駅は三つ(苗穂、厚別、平和)あるのに「二つの隣駅」として解釈されている。桑園駅も札幌+(琴似または八軒のいずれか)の「二つの隣駅」と考えてはだめか。
 それとも、琴似駅と八軒駅が同じ西区だからだめなのだろうか。でも、桑園駅は「つまり、異なる区に挟まれている駅」ということにはなるのではないか。

 実はこの疑問は昨日今日生じたものではありません。8月3日ブログ以来、脳裏にこびりついています。おかげで夜も眠れません。いや、それは嘘です。
 同日ブログを記したとき「単純に平和駅の存在を完全に忘れてるのでないかと想像します。(中略) いずれにしろ平和駅が可哀想で仕方ありません」というコメントいただいていました。私もそうかなと思いつつ、では上述の桑園駅はどう考えたらよいのだろうと行きつ戻りつしていまいます。設問者の「新世代歌人」にお目にかかったとき、お尋ねしてみたいものです。その前に、正答に達した方がいらっしゃったらなにとぞお教えください。
 

2019/12/04

手稲山口バッタ塚 考⑨

 12月2日ブログで触れた花畔低地の「浜堤」(花畔砂堤列)について補足、というか寄り道させてください。

 『新札幌市史 第1巻 通史1』1988年は、「花畔砂堤列地帯」を次のように説明しています(pp.12-13、太字)。
 石狩海岸砂丘と紅葉山砂丘の間にあり、幅5~6㎞、長さ20㎞におよんでいる。現在では、石狩湾侵攻地域開発計画が進められており昔日の面影は失われているが、この地帯の地表面は100列を越える砂堤と砂堤間低地からなっている。それぞれの砂堤は幅20~30m、低地帯との比高は1~2mである。この地帯の標高は西南部で高く(6.5m)北東部で低く(4.5m)なっている。

 同日ブログで示した手稲山口の地形断面図をあらためて見ます。
断面図 手稲山口(現山口緑地、空撮の赤実線箇所
 グラフのヨコ軸100から200(m)の100m間にギザギザが10個、あります。ギザギザ1個の幅は、平均10mです。前述の花畔砂堤列の説明だと「それぞれの砂堤は幅20~30m」なので、これはそれより狭い。
 一方、タテ軸では(標高)15~20m弱の5m弱間にギザギザ10個です。平均すると、ギザギザ1個の比高はせいぜい50㎝。これも前述の「低地帯との比高は1~2m」に比べて低い。私は同日ブログで「このギザギザは、自然地形たる浜堤に由来するかのように見えます」と記しましたが、浜堤「そのもの」の地形とはみなせないようです。

 現在の空中写真で、この断面図の位置を見ます(2008年)
空中写真2008年 手稲山口 山口緑地
 赤い実線を引いたところです(バッタ塚は黄色の□で囲った場所)。
 かつてのごみ処理場を整備した「山口緑地」の西端に当たります。断面図のギザギザは、人工的に盛り土された地形か。これは、暖かくなってから現地を確かめるしかない。

 さらに、昨日ブログに載せたバッタ塚の区域内の断面図を、もう一度見ます。
手稲山口バッタ塚 北西-南東方向断面図
 昨日記したように、ヨコ軸の幅は45mです。その間に階段状地形が(左端の1段を除いて)11段あります。もっとも低い左端からもっとも高い右端までの比高は50㎝。階段の“蹴上”1個の高さは、平均して(50÷11≒)5.4㎝しかありません。こちらはますますもって、浜堤「そのもの」の地形とはいいがたい。昨日ブログで「浜堤らしき列とほぼ平行する」と述べるにとどめた所以です(末注)。
 
 注:国土地理院サイトによれば断面図は「指定した点の位置や点数に関わらず、始点~終点間を300等分した各点の標高値よりグラフを作成しています」。前掲2つのグラフのギザギザあるいは階段状地形は、実際の数値をまるめた誤差による可能性もある。

2019/12/03

手稲山口バッタ塚 考⑧

 バッタ塚の畝状の起伏は、直交する二方向に見られます。
空中写真 2008年 手稲山口バッタ塚 畝の向き 再掲
 上掲空中写真2008年に赤い実線で示した北西-南東方向と、橙色の実線の北東-南西方向です(黄色の□はバッタ塚の区域)。
 後者の橙色の向きは昨日ブログに記したように、花畔低地の「浜堤」の列とほぼ平行しています。この向きの畝状起伏は、もともとの自然地形だった可能性が高い。一方、直交する赤い線の向きならば自然に形成されたとは考えづらく、人工的に盛られたとみてよさそうです。

 それぞれの向きの断面図を見てみます(地理院地図から作成)。
 まず赤い線の断面です。
手稲山口バッタ塚 北西-南東方向断面図
 グラフの左方が北西すなわち海岸方向、右方が南東すなわち内陸方向に当たります。北西の端から南東の端までの距離は45mです。海側から陸側に向けて階段状に上り勾配ですが、タテ軸とヨコ軸の比はかなりデフォルメしています。このグラフでは、ヨコ軸の左端から右端まで45mに対し、標高を示すタテ軸は下端から上端まで1mほど(破線が標高5m)です。もっとも低い北西の端(グラフの左端)の標高は5.2m、もっとも高い南東の端(右端)は5.7mで、実際には50㎝ほどの高低差しかありません。
 表現がややこしいのですが、赤い線に沿って見た断面ということは、このグラフで読み取れるのは橙色の向きの畝状起伏になります。畝状というよりは階段状というような地形ですが、これは昨日ブログで示した断面、すなわち浜堤らしき列とほぼ平行するものです。

 次に、橙色の線での断面を見ます。
手稲山口バッタ塚 北東-南西方向断面図
 グラフ左方が南西、右方が北東の方向です。つまり陸側から海側を見た断面になります。橙色の端から端までの距離すなわちグラフ上のヨコ軸は30mです。このグラフもタテヨコ比をデフォルメしました。ヨコ軸30mに対し、標高を示すタテ軸下端から上端までは1.3m(破線が標高5m)です。標高はもっとも低い北東の端(グラフ右端)で5.1m、もっとも高いのは真ん中から左方のあたりで5.5m、よって比高は40㎝。
 こちらは橙色の線で切り取った断面なので、赤い線の向きの畝状起伏を表わしていることになります。これは前述したように、自然にできたとは考えづらい起伏です。

 後者の断面図で示された起伏を、11月25日ブログに載せた現地の風景であらためて見ます。
手稲山口バッタ塚 東から西を望む2 もう一つの畝の向き
 黄色の線でなぞったのが、本日ブログの冒頭画像の空中写真で示した赤い線の向きです。微地形というにふさわしい微々たる起伏ですが、畝状というのがこの起伏を指しているのであれば、バッタ塚は真実味を帯びます。 

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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