札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/04/22

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ③

 昨日ブログの続きです。
 JR篠路駅近くにある煉瓦の倉庫 鈑金工場②
 持ち主の田中友蔵の孫Tさんによると、篠路駅前に現存するカマボコ屋根・煉瓦の倉庫にまつわる由来は、次のとおりです。

 田中家は戦前、篠路の地主でタマネギ畑作などを営んでいました。戦後、農地解放で土地の多くを失ったことから、タマネギの仲買に転じたそうです。Tさんの言葉を借りれば「ブローカー」「先買い」で、自作となった農家から買い上げたタマネギの流通販売に携わりました。
 もともと倉庫は、道道花畔札幌線沿いにあった自宅に隣接して木造で建てていたのですが、その後駅前に煉瓦で建てました。それが昭和30年代です。かつては3棟ありました。昨日記したように友蔵は村議、市議などの公職や農協の役員などの要職を務め、自動車学校の経営も始めたことから、昭和40年代の半ばには仲買もやめ、倉庫は農協に貸すようになったとのことです。
 Tさんの話では「地主だった頃は、自分の家から篠路の駅まで、人の土地を通らないで行けたと聞いている」といいます。この表現は土地を多く持っている譬えとして、使われます。琴似八軒の宮坂さん(2017.12.8ブログ参照)のところでも聞きました。余談ながら、私は母からも聞いたことがあります。父方祖母の生家というのが愛知県稲沢市祖父江町三丸渕というところの旧家で、地主でした(2016.1.4ブログ参照)。母は、父方祖母からの伝え聞きで「駅まで人の土地を通らんでも行けたという」と言ってました。どうやら全国的に流布していたセリフのようです。「駅」」というのがどの駅を指していたか、私はうろ覚えなのですが、往々にして大袈裟に言われる傾向があります。

 閑話休題。
 以下、郷土史の文献や史料などで補足します(末注①)。
 田中家は上篠路の五ノ戸 で地主でした。昭和20年代には本村に移っています。
 1947(昭和22)年札幌玉葱販売組合(第三次)設立、常務理事に就任、1948(昭和23)年篠路村玉葱農業協同組合(篠路玉協)設立、理事長に就任、1949(昭和24)年札幌玉葱販売農業協同組合連合会(札玉販連)設立、篠路玉協も加入。
 一方で1948(昭和23)年には、篠路村農業協同組合(篠路農協)も設立されますが、文献を見る限り、田中友蔵は篠路農協のほうの設立時組合員にはなっておらず、その後役員にも就いていません。なお、篠路農協も札玉販連に加入しています。
 生産農家の組織は戦中戦後をとおしてめまぐるしく変遷し、その歴史的に意味するところは到底私の手には負えません。一つ押さえておきたいのは、総合農協と専門農協の違いです。篠路でいえば、前者には篠路農協、後者には篠路玉協がそれぞれ当たります(末注②)。篠路では(篠路に限らず?)、戦後農地解放を背景とした自作農による農民連盟のリーダーが篠路農協を主導しました。一方、タマネギとういう投機性の高い商品作物という特殊性を背景にして、生産農家が専門農協を結成していったのです。
 田中友蔵は篠路玉協の中心的存在となりました。文献の行間からは、総合農協、専門農協の絡み合い、生産農家、仲買商人の蠢きあいが垣間見えます(2015.8.31ブログ参照)。仲買も、集散地の問屋業者もいれば、田中のような生産農家出身もいるので、一筋縄ではありません。生産農家も、篠路村と札幌村では流通への向き合い方が微妙に異なっていたようです。
 田中の存在を歴史的にどう位置づけるか、これまた私には軽々に評価できないのですが、本件駅前倉庫はそのようなせめぎ合いの表象でもあったといえます。

 注①:『札玉創立二十年記念誌』1970年、pp.106-112、pp.150-153、『篠路農業協同組合三〇年史』1979年、pp.383-384、pp.396-404、pp.424-427、篠路農業協同組合『農魂 創立五十周年記念史(ママ)』1998年、pp.127-129、『シノロ 140年のあゆみ』2003年、p.711、713、749
 注②:おおまかにいうと、前者は生産種目にかかわらず地域の農家が加入し、後者は特定品目の生産農家によって構成される。一般に日本では農協というと前者がイメージされるが、北海道にはサツラクとかホルスタイン農協など、酪農関係の専門農協が知られている。山田定市「協同組合と街づくり」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第37号1999年、pp.30-39参照
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2018/04/21

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫 ②

 昨日ブログの続きです。
 篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫が田中友蔵さん(故人)ゆかりだということは、地元の古老二三の方にお聞きしていました。その田中翁の銅像が篠路の某所にあることは郷土史の文献で読んでいたので(末注①)、手がかりを得るべく建立場所を訪ねたのです。銅像はすんなり見つけることができたのですが、台座の正面には「自治功労者 田中友蔵翁之像」(北海道知事堂垣内尚弘揮毫)との銘があるのみです。そこで、この場所の管理責任者の方にお願いして、左側の机を除けていただき、側面を見せていただきました。

 側面には田中翁の事績が刻まれていました。
田中友蔵翁之像銘文
 1940(昭和15)年以来、篠路村村会議員、札幌市議会議員を連続6期務めたことなどが記されています(末注②)。「市農協及篠路支所の基盤を確立し」とも。1975(昭和50)年の建立です。 
 
 この銅像を拝めて銘文を読ませてもらっただけでもありがたかったのですが、篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫のことまでは判りません。そこでさらに、責任者の方に私はお尋ねしました。「駅近くの倉庫が田中さんのものだったとお聞きしたのですが、詳しい来歴が判りませんでしょうか?」と。
 この質問は、正直言ってダメ元のつもりでした。自分で尋ねておいて言うのも何ですが、そんな細を穿つことが判ろうものかと。すると、「田中友蔵の孫に当たる人が今、たまたま来ているので、お訊きしてみてください」との言葉が返ってきました。お孫さんは内地にお住まいで、月に2回くらいしか札幌に来られないのですが、たまたま私が行った日に滞在しておられたのです。夕方の飛行機で離札するというTさんにお時間をいただき、お話を伺うことができました。

 その結果、本件倉庫は田中友蔵がタマネギ貯蔵用に建てたものであることが裏付けられました。築年は「昭和40年には建っていた。昭和30年代だと思う」とのことです。ではなぜ、個人で駅前に倉庫を建てたか。[つづく]

 注①:『シノロ 百四十年のあゆみ』2003年、p.975
 注②:同上p.10掲載の篠路村の「村長および村会議員」によると、田中友蔵は1901(明治34)年1月14日生まれ、略歴は「村議当選三 道農業委員 篠路玉協組合長 篠路農産加工組合長 総務委員長 消防団長」。この史料の発行年は記されていないが、前後の記述からして1955(昭和30)年の札幌市への編入当時と思われる。

2018/04/20

篠路駅近くに遺るカマボコ屋根の倉庫

 昨日ブログで、八紘学園のカマボコ(型校舎)のことを記しました。
 米軍兵舎が出自と知り、中島公園にあったそれの転々用かと想像したのですが、何とか同定できないかと思います。史料を漁って、判り次第おってお伝えすることとしましょう。

 さて、カマボコからの連想で、こちらの物件です。
JR篠路駅近くにある煉瓦の倉庫 鈑金工場
 JR篠路駅の近くに、カマボコ屋根、煉瓦の倉庫が遺っています(画像は本年1月撮影)。

 煉瓦造、といってもご覧のとおりコンクリートの骨材が組まれている、かなり大きな倉庫です。クルマの鈑金工場として使われているのですが、長年気になっている建物でした。札幌建築鑑賞会で2000年、2003年に刊行した『さっぽろ再生建物案内』でも紹介したのですが(2000年p.28、2003年p.70)、詳しい由来が判らずじまいだったのです。周辺の土地柄からして、昭和30~40年代に建てられたタマネギ倉庫だろうと比定はしました。

 今年になって、篠路駅周辺のまちづくりに関わりができたのをきっかけに(2018.1.24ブログ参照)、あらためて調べ直してみました。その結果、いろいろ判ってきました。

 まず、現在図で本件の場所を確認しましょう(元図は国土地理院サイトから)。
現在図 JR篠路駅周辺 倉庫の配置
 黄色で着色したのがJR篠路駅、赤が本件です。周辺には、煉瓦(えび茶色)、札幌軟石(橙色)の倉庫が遺っています。えび茶色は農協、橙色は民間所有です。このほかに、駅西側にも農協の倉庫が十数棟ありましたが、2007年に解体されて現在は駅前広場とマンションになっています(本年2月5日2月2日1月24日各ブログ参照)。

 本件は軟石の3棟同様、民間所有です。軟石の3棟とは持ち主は異なりますが、これまで持ち主にたどり着けませんでした。農協所有でもなく、一棟ポツンと民間所有の物件が遺っている、しかも鈑金工場として再利用されていることに私はかねがね不可思議を覚えていたのです。農協や日通の古い倉庫が駅前に遺る風景というのは、比較的ポピュラーです。否、「だった」というべきか。篠路は農協だけでなく、軟石3棟も含め民間所有が今も遺っているところが特筆できるかもしれません。

 このたび、持ち主にようやく巡り会えることができました。
田中友蔵像
 田中友蔵(故人)という方です。

 と、結論だけを記せば何ということはないのかもしれませんが、私にとっては20年近い星霜を経ての邂逅です。この銅像を感慨深く拝みました。[つづく]

2018/04/19

八紘学園のカマボコ

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」下見のために八紘学園を歩いた先日来、“既視感”がキーワードになっています。
 こんどは私自身がスタッフYさんとともに、既視感に囚われました。
八紘学園 カマボコ
 このカマボコ型。昨日今日のモノとは思えません。Yさんと私は顔を見合わせたものです。

 実は昨年9月、千歳でそっくりなモノを目にしていました。某カルチャーセンターの講座で陸上自衛隊東千歳駐屯地を見学した際です。
陸自 東千歳 クォンセットハット
 Yさんも参加していて、二人してそのときのことを思い出しました。

 東千歳には、同じようなフォルムの施設が遺っています。
陸自 東千歳 クォンセットハット②
 「クォンセットハット」といいます。

 Quonset hut かまぼこ型組み立て兵舎(Nissen hut).[Quonset(最初に造られた所;Rhode Iselandにある)]
 Nissen hut (第二次大戦中に英軍が用い出した)かまぼこ型兵舎(→Quonset hut).[P.N.Nissen((1871-1930)カナダの陸軍技師)]
 (『カレッジクラウン英和辞典』三省堂1968年、末注①)

 東千歳の物件は、元米軍施設です。旧日本軍の海軍飛行場を戦後占領軍(米軍)が接収し(キャンプ千歳)、これらのカマボコ型兵舎を設けました。昨年この場所を案内してくださった北大工学部Ⅰ先生によると、もともと南方の基地にあったものを移設したそうです。
 なぜ、このフォルムが考案されたか。最大のメリットは、何といっても「大量に運びやすいこと」です。たしかに、半円形なので幾つも重ね合せして運べます。

 さて、あらためて冒頭の八紘学園カマボコを見てみましょう。
 昨日ブログに続き、また「もしや」と想いました。そして『八紘学園七十年史』2002年をひもといたところ、次のように書かれていました(p.544、引用太字)。
 カマボコ=占領軍が利用していたカマボコ型兵舎を昭和三四年に払い下げを受けたもの。当初は八紘寮食堂として利用したが、五〇年以降は屋外講義実習教室として利用している。

 こんどは「もしや」が当たりました。札幌市内に、米軍のクォンセットハットが今もまだ遺っていたとは。たしか、真駒内の旧キャンプ・クロフォードにもなかったと思います。
 八紘学園に遺っていることに因縁を感じます。なんとなれば、学園創設者の栗林元二郎は戦後、GHQ指令により公職追放されているからです。学園の名前も「八紘」から「月寒学院」と改称させられています。何せ「八紘一宇」ですから。その学園が、占領軍物件の払下げを受けていたのですね。

 ところで、本件カマボコは、元々どこにあったのでしょうか。
 札幌でカマボコ兵舎といえば、中島公園の児童会館に転用されたそれが知られます。
 戦後中島公園に設けられた占領軍第十一空挺師団のカマボコ兵舎は、1948(昭和23)年札幌市に払い下げられました。翌年から中島児童会館として使われたのですが、会館は1958(昭和33)年、北海道博覧会の事務所として建てられた新しい建物に移転します(末注②)。旧兵舎は道博開催にともなって解体されたというのですが、もしかしたらこれが八紘学園に転々用されたのだろうか。前述学園史によれば学園が払下げを受けたのは1959(昭和34)年なので、時系列的に齟齬はありませんが…。

 学園内には、前掲物件よりも大型のカマボコもあります。
八紘学園 カマボコ 大型
 これも、ひょっとしたら…。

 注①:『新クラウン英和辞典』三省堂1981年には、次のように記されている。
 Quonset hut かまぼこ型兵舎 → Quonsetは初めて用いられた米軍基地の名; Nissen hut よりも大型.
 Nissen hut かまぼこ型兵舎 → Quonset hut に似てそれよりも小型のもの; Nissenはそれを考案した英国の鉱山技師の名. 
 注②:山崎長吉『中島公園百年』1988年、pp.191-192、『さっぽろ文庫84 中島公園』1998年、p.12、p.273
 

2018/04/18

有島武郎と吉田善太郎

 昨日ブログの続きです。
 あらかじめお断りすると、森雅之が八紘学園・栗林記念館を目の当たりにしたという裏付けはありません。昨日記した彼の既視感というのは、あくまでも私の妄想の産物です。ただ、この洋館は森や久我美子が映るシーンと目と鼻の先にあります。映画『白痴』のこの場面がロケされたのは1951(昭和26)年の2月です(末注①)。真冬のロケの後、役者たちが近くで暖を取ったことは想像に難くありません。ましてやハイカラな洋館です。
 引き続き妄想の世界に遊びます。

 その栗林記念館の上げ下げ窓です。
八紘学園 栗林記念館 上げ下げ窓
 1996(平成8)年に室内を見学させていただいた際に撮りました。

 こちらは有島武郎旧宅の窓です。
旧有島邸 上げ下げ窓
 札幌芸術の森で撮りました。

 これまで私は、前者(栗林記念館)が後者(有島旧宅)を真似たとてっきり思っていました。後者は1913(大正2)年に建てられた当時、新聞でも報じられて話題になったようです(末注②)。札幌の洋館のモデルになった可能性があります。ところが、前者が建てられたのは1909(明治42)年といいます(末注③)。前者の方が後者よりも古い。
 ここで栗林記念館について由来をおさらいします。本件は明治時代、この地に牧場を開いた吉田善太郎の別宅として建てられました(末注④)。吉田が米国から牛20頭を輸入した記念と伝わります。1933(昭和8)年、栗林元二郎が吉田牧場の土地を購入して学校を創設、その後本件は栗林の住宅として使われました。

 さて、前述の時系列が正しければ、有島武郎が吉田宅を見て、自らの住まいにその意匠を取り入れたと考えられます。一方、前掲画像の上げ下げ窓の桟のモチーフは、米国ニューイングランドの住宅で17世紀後半に使われたものだそうです(末注⑤)。どちらがどちらを、ということでなく、それぞれに米国の見聞を反映させた可能性もあります。有島のみならず、吉田善太郎の息子・善助も米国留学の経験があるのですから(末注⑥)。汎用されるひな形があったのかもしれません。
 
 私はここで、「有島が吉田を真似した」説を開陳します。
 1907(明治40)年、有島は米国留学を終え欧州遊行を経て帰国しました。1911(明治44)年、彼は現在の東区にあった栃内元吉の貸家に住みます(末注⑦)。有島と栃内は、どういうつながりがあったか。「武郎と栃内、佐藤、新渡戸は盛岡の縁で深く結ばれて」いました(末注⑧)。佐藤というのは、札幌農学校第一期生にして、東北帝国大学農科大学学長となった佐藤昌介です。有島は佐藤の下で母校の講師、のちに教授を務めました。新渡戸はいうまでもなく有島の恩師、新渡戸稲造です。いずれも盛岡の出身。栃内もいわゆる旧南部藩士で、開拓使に仕えました。有島はというと、母が盛岡の出身で、栃内と知り合いだったのです。

 ここで私は「もしや」と思いました。何が「もしや」かというと、吉田善太郎の出自です。
 吉田もまた、盛岡の出身でした(末注⑨)。明治20年代に白石・月寒に広大な土地の払下げを受けて、農場を経営します。月寒の村づくりに尽力し、「開村の祖」となりました。明治末からは近代的酪農にも力を入れます。月寒村に第七師団第二十五連隊を誘致しました。
 そんな吉田が同郷の佐藤昌介や栃内元吉と交流があったことは、これまた想像に難くありません。佐藤は自ら農場を経営してもいました。栃内は屯田兵育ての親であり、後に第七師団旭川連隊区の司令官を務めました(末注⑩)。
 
 吉田-佐藤・栃内-有島。有島武郎もまた、吉田善太郎を知らなかったはずはないと私は想うでのです。明治30年代、ニセコ(狩太)に土地の払下げを受けた大地主を出自とする彼でもあります。
 有島もまた、のちに栗林記念館となる吉田別邸を訪ねたことがあるのではないか。そして、上げ下げ窓を見た。彼も既視感を抱いた。かつて留学した米国東海岸の“アーリーアメリカン”のたたずまいです。40年後、息子の森雅之が同じ場所をおとなった。
 有島が吉田善太郎、善助と交流した跡がなかったか、『有島武郎全集』にざっと目を通しましたが、見つけられませんでした。

 注①:松竹DVD『黒澤明監督作品 白痴』附録資料
 注②:農林中金札幌支店『有島寮物語』1987年、p.116
 注③:札幌市地域計画課『札幌の歴史的建造物を旅する本 れきけん×ぽろたび』p.58
 注④:『札幌市歴史的建造物実態調査』1992年、pp.120-167、北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.119
 ただし、前者は「有島武郎邸との類似点などを考えあわせると、大正初期とも考えられる」とも記し、「有島邸との関連が想像されるが、今調査では未解決のまま課題として残された」としている。後者でも「明治末から大正初期にかけて建てられたものだ」と幅を持たせ、また、有島旧宅との関係は「不明」である。  
 注⑤:同上注③
 注⑥:斎藤忠一「吉田善太郎と月寒村」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第21号1991年、pp.50-57
 注⑦:前川公美夫『有島武郎の札幌の家』1987年、p.48
 注⑧:同上
 注⑨:札幌市教委『新聞と人名録にみる 明治の札幌』1985年、pp.446-447
 注⑩:札幌市教委『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.211

2018/04/17

森雅之は、八紘学園で何を見たか

 昨日ブログの続きです。
 1951(昭和26)年公開の映画『白痴』で、豊平区月寒東の八紘学園がロケ地の一つになりました。主役を演じた森雅之は、 ある感慨を抱いたと私は想います。ひとことで言えば既視感です。では何に既視感を覚えたか。

 学園内にある「栗林記念館」です。
 建物の外観については下記札幌市サイトをご覧ください。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building43.html

 記念館の玄関部分です。
八紘学園 栗林記念館 正面 1996年
 この写真は私が1996(平成8)年に撮ったもので、アングルの都合で一部しか写ってませんが、お許しください。

 こちらは、森雅之、本名有島行光が幼少期を過ごした元住宅です。
北大 有島寮 玄関 1983年
 行光の父、有島武郎が1913(大正2)年に建てました。写真はその70年後の1983(昭和58)年、東区北28条東3丁目に北大の寮として残されていた当時に私が撮ったものです(2015.2.9ブログ参照)。

 下見板貼りの外壁に、2階は縦長上げ下げ窓、井桁と菱形を組み合わせた桟、玄関の切妻破風の十字型飾り、扉両脇の小窓など、前掲記念館とよく似ています。このことは、札幌建築鑑賞会で1996年に記念館を見学した際、北大工学部・Ⅰ先生に教えてもらいました。

 有島旧宅は現在、札幌芸術の森で移築保存されています。
旧有島邸 芸術の森 
 森雅之こと有島行光は、自らが暮らしたこの住宅を八紘学園の洋館に重ね合せたのではないだろうか。

 しかし、有島がここを住まいとしたとき、行光は2歳から3歳でした。ものごころもつかないであろうその時期の2年で、脳裏に刷り込まれるものか。

 映画『白痴』の一シーンです。
黒澤 白痴 有島旧宅
 よく知られていることですが、ほかならぬ有島旧宅もロケに使われました。森雅之に惚れた久我美子の住まいという重要な舞台としてです。森雅之が八紘学園で既視感に襲われる素地になったと私は妄想します。[つづく]

2018/04/16

八紘学園 サイロ

 一昨日ブログでお伝えしたように、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編では、豊平区月寒東の八紘学園を歩く予定です。

 学園内には、札幌軟石の大きなサイロが2棟、遺っています。
八紘学園 サイロ 札幌軟石
 このサイロは、明治後期に建てられたものが1943(昭和18)年頃に改築されたと伝わります(末注)。

 もとは1棟で、改築時に2棟に分けられたとも聞きました。明治後期に建てたのは、吉田善太郎です。1933(昭和8)年に栗林元二郎が吉田牧場を購入し、学園を創設しました。その後、サイロを改築したのです。

 サイロが1棟だった頃の学園の風景です(八紘学園所蔵写真)。
八紘学園 古写真 サイロ1棟当時
 右方に大きなサイロが写っています。左方は1933年に建てられた校舎です。

 サイロが2棟に分けられたのが1943(昭和18)年頃というので、この写真は1933-43年の間に撮られたものと思われます。
 元のサイロはたしかに今のものより底面の円半径が大きそうですが、2棟に分けたとなると、札幌軟石はこれだけでは足りないような気も私はします。それと、サイロの場合、一個一個の軟石にアール(円弧状)を付けている可能性がありますが、二つに分けてうまく円弧に組み合わさるか、いささか疑問です。このあたりは遠足までの宿題として、できれば前もって学園の先生にお尋ねしておきたいと思います。

 こちらは、1950(昭和25)年頃の学園の風景です。
黒澤 白痴 八紘学園
 サイロの向きからして、冒頭に載せた現在の風景とほぼ同じアングルと思われます。これは、1951(昭和26)年に公開された黒澤明の『白痴』の一シーンです。森雅之と久我美子が札幌のあちこちを遊ぶ一箇所として使われました。サイロの前のナナメの道は、ポプラやシラカバの並木となって花菖蒲園のほうに通じています。古地図を見ると、この道は戦前の吉田牧場当時からあったのですね。

 ところで、森雅之がロケでここを訪れたとき、彼はある感慨を抱いたことと私は想像します。それは…[つづく]

 注:北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.119、札幌市地域計画課『札幌の歴史的建造物を旅する本 れきけん×ぽろたび』pp.58-59

2018/04/15

ラウネナイ

 八紘学園を流れるラウネナイ川です。
ラウネナイ川 菖蒲橋
 山田秀三先生の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1983年(著作集第四巻収録)に、「月寒のラウネナイ」について次のように書かれています(pp.131-132、引用太字)。
 ラウネナイは道内に随分多い名で、従来「深川」と訳されて来たが、川の水が深いと云う意味ではないらしい。机上で話しあう時には、極く普通な地名なのであるが、実際の理解が難しい地名であった。この月寒のラウネナイでも、通り過ぎるたびに何度も見て来たのだが、平地を流れる平凡な溝川に過ぎない。別に川岸が高い訳でもない。どこがラウネなのだろうか。(中略)
 結論としては、低い処を流れて居る川と理解すべきであるようだ。月寒の場合は、平坦な向ヶ丘台地と、東月寒台地との間を長いこの沢が割っている。台地から見れば低い処にある、その沢底を流れているのがこのラウネナイなのである。

 冒頭画像で載せたように、ラウネナイは現在、コンクリート三面張りで直線化されています。この姿は、山田先生が見た当時以上に「平地を流れる平凡な溝川に過ぎない」といえます。
 しかし、昨日ブログに載せた画像の切り立った擁壁を見ると、先生に異を唱えるのは恐れ多くも、あながち「平凡な溝川」とも思えないのです。先生は「別に川岸が高い訳でもない」ともいうのですが、擁壁の上を川岸と見るならば、むしろかなり高い。これは、ある意味「深川」といってよいのではないか。

 ラウネナイの下流です。
ラウネナイ下流 東北通り 東月寒橋から南望
 東北通りの「東月寒橋」から南を望みました(2015年9月撮影)。橋の少し上流(画像上では、奥の方)で月寒川と合流し、橋上では月寒川です。奥に見えるベージュ色の集合住宅の手前で、右方から月寒川がラウネナイに、というより、左方からラウネナイが月寒川に注いでいます。

 その集合住宅のあたりは、やはりコンクリート擁壁が高く組まれています。
ラウネナイ 東北通り東月寒橋から南望 月寒川との合流地点
 街中にしては結構「川岸が高い」と、私には思えてなりません。「深い(谷を削る)川」に見えるのです。
 
 山田先生は前掲書の別項でラウネナイの考察を重ねています(p.141、引用太字)。
 ラウネは、ラ(低い処)、ラ(低い)、ラウン(下の)等と同系の語で、「高い」に対する、「低い」を意味する言葉であったようだ。「深い」と訳するから判り悪(にく)くなったらしい。したがって、ラウネ・ナイは「低くある・川→低い処を流れて居る川」と解すべきではなかろうか。
 こう読めば、何も水の流れている川岸が深く(高く)なくたって不思議ではない。


 実は私は、山田先生の記述を前述のとおり「著作集第4巻」1983年の再録版から引用しました。1965年初版からではありません。以前に初版を引用した際、拙ブログ読者のかたから「再版で記述が訂正されている」旨ご指摘をいただいたことがあったのです。以来私は、努めて著作集再録版1983年を見るようにして、このたびもそうしました。ただ、前述引用の先生の見解がどうにも腑に落ちなく、念のため初版をひもとき直し、再録版との間に記述の変更訂正がないか、読み比べてみました。
 すると。
 初版本のほうの余白に、「訂正」!の小片が貼り付けてあったのです。次の通りです(p.151、引用太字、末注)。
 ラウネは「深い」、ラウネナイは「深く落ち込んだ沢、其処を流れる川」とすなおに訳すべきでした。-山田

 非常にスッキリしました。この「訂正」は、私が現地を見て抱いたラウネナイの印象と一致します。
 教訓。いくら大家の著述でも、釈然としないところは自分の素朴な実感を無下にしないほうがよい。と同時に、先生が原点に立ち返って率直に訂正されているところに、あらためて奥深さを感じます。

 注:私が持っている1965年初版本にこの「訂正」が貼り紙されている経緯はよく判らない。私は同書をネット通販で古書として購入したので、もしかしたら元の読者があとから貼った可能性もある。しかし、いずれにせよ1983年再録版にはこの訂正は反映されていない。訂正の小片自体の信憑性に疑問の余地もあるが、しかし中味は大いに得心がいく。 

2018/04/14

八紘学園の池

 札幌建築鑑賞会のスタッフ5名で、豊平区の地下鉄福住駅周辺を散策しました。恒例行事「大人の遠足」の下調べです。来たる「2018初夏の編」で、月寒東にある八紘学園を歩くことにしました。いろいろ見どころの多い学園で、7月には花菖蒲が咲き誇ることでも知られます。3月に開催した「札幌百科」第15回で花菖蒲にまつわる話をお聴きしたことにもちなみました。

 拙ブログでは例によって、「遠足」の本筋から離れた(しかし、本筋に結びつくかもしれない)話を綴ります。
八紘学園 花菖蒲園近くの池
 花菖蒲園の近くにある池です。

 場所を現在図で確認します(国土地理院標準地形図から)。
国土地理院標準地形図 八紘学園 花菖蒲園 池
 赤矢印を付けた先です。
 近くをラウネナイ川が流れています。現在は直線的に流れていますが、かつてはたぶん蛇行していたことでしょう。池はどうも、もともとの自然地形で、ラウネナイの河跡のようにも思えます。
 
 池の対岸を見ると、擁壁がかなり高く組まれています。
八紘学園 花菖蒲園近くの池 擁壁
 これはラウネナイが削った痕ではないでしょうか。前掲現在図でも、等高線が川の上流へ食い込んでいます。

 カシミール3Dの等高線段彩図を見たら、よく判りました。
カシミール 段彩図 八紘学園 ラウネナイ
 赤い線を付けた先がラウネナイで、前述の池があるあたりです。かなり深い谷に見えます。

 古い空中写真を見てみます。
空中写真 1948年米軍 八紘学園 ラウネナイ
 1948(昭和23)年米軍撮影(国土地理院サイトから)で、赤い○で囲ったあたりに、くだんの池があるようです。

 ラウネナイはやはり、くねくね蛇行していました。ただ、現在図と照らすと、池のあたりは流れていません。が、川に沿って、帯状の影が見えます。崖線上の樹林のようです。上流のほう(画像では、下の方)を見ると、蛇行した川跡らしい地形も窺えます。池が河跡であるとは確かめられませんでしたが、谷底地形の低湿地であるとは言えそうです。池は、崖下の湧水かもしれません。

 八紘学園の花菖蒲園は、学園創設者の栗林元二郎が昭和30年代に東京から持ち帰った一株を植えたことが始まりで、昭和40年代から一般に公開しているそうです(学園のリーフレットから)。現在、2haの土地に約450品種、10万株が植わさって(北海道弁)いるとのこと。
 ここで、話の落としどころです。本筋に結び付けます。栗林は、前述の地形地質が花菖蒲の生育に適うとにらんだのではないか。

2018/04/13

なんちゃって記念塔 厚別第1号、第3号

 「道新青葉中央販売所だより」4月5日号連載「厚別ブラ歩き」第7回がウエブ上に載りましたので、ご覧ください。下記サイトからダウンロードできます。
 ↓
https://doshin-aoba.jimdo.com/%E5%8E%9A%E5%88%A5%E3%83%96%E3%83%A9%E6%AD%A9%E3%81%8D/

 今号では、拙ブログでも綴ってきた「北海道百年記念塔」をテーマにしました。
 ホッケン研主宰Yさんに教えていただいたもみじ台団地の「完成記念塔」も、紹介させていただいております。
もみじ台団地 完成記念塔
 本件についてはYさんの「札幌ノスタルジック散歩」で取り上げられていますので、そちらもご覧ください。ホンモノとの比較を洞察されています。2018年3月12日記事です。

http://www.sapporowalk.justhpbs.jp/blogflame.html

 さて、本件記念塔の台座に銘文が刻まれています。
もみじ台団地 完成記念塔 銘文
 「もみじ台団地完成記念 この地の未来のために」と始まり、「昭和五十五年十二月 札幌市長 板垣武四」で締められています。

 摩耗してきていますが、泣かせる文面です。詠めなくなる前に、ここに全文を引用しておきましょう(太字)。
 団地造成前のこの地は、下野幌と呼ばれ、のどかな農村地帯でありました。
 もちろん、その昔は原始林であったわけで、今さらながら開拓の労苦がしのばれます。
 その農家の方々のご協力によりここに全国まれに見る美しく快適な団地ができあがりました。
 この造成に当たりご協力いただきました地元の皆様はじめ関係各位に感謝申しあげるとともに、この団地の輝かしい未来を記念して、ここに完成記念塔を建立いたします。

  
  本件は札幌市厚別区『あつべつ見聞録』1990年などにも載っているのですが、Yさんに教えてもらうまで私は見ていませんでした。銘文も初めて鑑みたしだいです。もみじ台団地にはかつて何度も足を運んだことがあるにもかかわらず、ウカツなことでした。

 今もそうかもしれませんが、札幌の市営住宅は申込倍率がン十倍と非常に高く、なかなか抽選に当たらないと評判でした。その中で唯一、通年無抽選で入れたのがもみじ台団地です。なぜか。交通立地条件もありますが、最大の理由は5階建てでエレベーターが無いことでしょう。丘陵地帯なので、バスを降りて団地の住宅棟そのものに行き来するのにも傾斜地の昇り降りを要します。
 札幌市住宅管理公社のサイトを見たら、いまも4階5階は通年募集をしている(つまり常時空いている)ようです。戸建て住宅地を含む地区の人口は1980年代に25,000人を超えていたものが現在は15,171人、「高齢化率」(65歳以上が人口に占める割合)は45.5%!だそうです(末注①)。
 市住の管理人さんから、以前聞いたことがあります。「昭和40年代、団地ができて間もない頃は最先端の設備で、あちこちから視察に来ていたものです」。「全国まれに見る美しく快適な団地」でした。それから三十有余年。「輝かしい未来」は来たか。

 ところで、私は前述「厚別ブラ歩き」に「私が知る限り厚別区内だけでも、これ(百年記念塔)を模したと思われる『ミニ記念塔』が2棟、あります」と記しました。

 もう一棟は、こちらです。
なんちゃって百年記念塔 2
 本年2月9日ブログに載せました。前掲もみじ台物件を「なんちゃって記念塔」厚別第1号とするならば、本件は第2号です。

 ところが。
 もみじ台団地の記念塔を見た帰り、拙宅がある集合住宅の前で、さらにもう一件「発見」してしまいました。
厚別中央 なんちゃって記念塔 第3号
  あろうことか、ほかならぬ私自身に共有持ち分がある物件です(側面には集合住宅名が書かれているが、消した)。私の共有物件という事情にかんがみ、前掲厚別第2号に準じてこれも「なんちゃって記念塔」厚別第3号に認定したい。これは「発見」です(末注②)。今の今まで気づきませんでした。
 
注①:北海道新聞2018.年3月27日記事「もみじ台団地50年 新たな魅力を」による。
注②:「発見」の用語については2017.3.31ブログ末注①参照

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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