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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/10/23

自らのアラを穿り出す(承前)

 10月20日ブログの続きです。
 ROGA(北区)店内に飾られている空中写真はいつ撮られたか。ぱっと見たところ、ほぼ中央にテレビ塔が建っていて、創成川沿いの望楼がまだ残っています。大通公園に面して市民会館の真新しい外観が目を惹く一方、札幌郵便局もまだ健在です。それで「昭和30年代の半ば」かなあと見ました(末注①)。
 史実を時系列で示します。
 1956(昭和31)年:さっぽろテレビ塔完成
 1958(昭和33)年:札幌市民会館竣工
 1962(昭和37)年:札幌郵便局解体
 1965(昭和40)年:消防本部望楼解体
 市民会館ができていて、郵便局がまだ解体されていないなら、「昭和30年代半ば」だろうというわけです。

 ところが、念のため画像を拡大して中心部をつぶさに鑑みると、です。
ROGA 掲示古写真 札幌中心部の風景 中心部拡大
 まず、テレビ塔の先っぽが、まだ出来上がっていないかに見えます。その北側のNHKも、なんとなく建設工事途中のようです。

 さっぽろテレビ塔ウエブサイト「テレビ塔のあゆみ」ページから、建設の経過を引きます(太字、末注②)。
 1956(昭和31)年6月 着工
 同年12月 塔体完成
 1957(昭和32)年8月 開業

 テレビ塔が建設途中だとすると、撮影年はピンポイントで1956年です。ただし、1958年竣工の市民会館がはっきり写っていることからすると、テレビ塔が建設途中だったのか疑問も生じます。市民会館が着工したのは1957(昭和32)年5月です(末注③)。市民会館が建設途上にあったとしても、テレビ塔完成の翌1957年以降となります。
 一方、北側のNHK札幌放送会館(本館)は1959(昭和34)年に竣工しました(末注④)。竣工間もない頃と思われる外観を、「札幌ノスタルジック建築散歩」サイトで拝むことができます。

https://sapporowalk.sakura.ne.jp/kochizu/1959/20200717/
 この外観に照らすと、上掲画像に写るのはNHK竣工後とはどうも見えません。結局、市民会館の着工以降、NHKの竣工以前とすると、撮影年は1957(昭和32)年以降1959(昭和34)年以前となります。ということは、「昭和30年代半ば」というよりは「昭和30年代前半」というのが的確です。あるいは「1958(昭和33)年頃」か。詰めの甘さを反省します。
 コメントをお寄せくださった方々、粗い画像にもかかわらず推理をありがとうございました。機会がありましたら、ROGAでご飲食がてら実物をご覧ください。私も、テレビ塔のてっぺんがどう写っているか、確かめます。

 注①:北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.135、p.137、リーフレット「札幌市民会館 使用のしおり」、北海道新聞2018年3月9日広告「パナソニックミュージアム 本日開館」 参照
 注②:http://www.tv-tower.co.jp/outline/history/
 注③:同上「札幌市民会館 使用のしおり」参照
 注④:7月4日ブログに関連事項記述 
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2020/10/22

彫刻家と建築家 まつわりあい(続々)

 昨日ブログの続きです。
 真駒内公園周辺に見られる彫刻家と建築家の作品の位置を現在図に示します。
現在図 真駒内公園周辺 彫刻家と建築家
 H:本郷新「花束」(豊平川五輪大橋)、「雪華の像」(真駒内公園) 1971(昭和46)年
 Y:山内壮夫「飛翔」(豊平川五輪大橋) 1971(昭和46)年
 S:佐藤忠良「えぞ鹿」「雪娘」(真駒内川五輪小橋) 1971(昭和46)年
 M:前川國男「真駒内スピードスケート競技場」(真駒内公園 屋外競技場) 1970(昭和45)年
 K:黒川紀章「プレスセンター(本館・体育館)」(真駒内柏丘 北海道青少年会館) 1971(昭和46)年
 T:田上義也「札幌市豊平川さけ科学館」(真駒内公園) 1984(昭和59)年

 作品を遺した建築家と彫刻家6人の関係を、模式図化しました(末注①)。
建築家と彫刻家 関係図-2
 1970-80年代の同時期に活躍した創造者たちゆえに、まつわりあうのは当たり前といってしまえばそれまでです。とはいえ、その作品が真駒内公園という特定の一帯に凝縮されているのに因縁を感じてしまいます。北海道にゆかりの深い彫刻家たちの作品がメモリアルな場所に集約されるのも自然な成り行きでしょう。ただ、彼らと建築家との関係性を、例によって深読みしたくなります。
 たとえば、公園の入り口に置かれた本郷の「雪華の像」と柏丘に建つ黒川のプレスセンター(現北海道青少年会館)。北海道百年記念塔が脳裏にこびりつく私には、本郷作品が黒川作品への導入部に位置付けられているかに見えます。
 真駒内川の橋のたもとに立つ忠良さんの彫刻と、前川國男の屋外競技場(2019.11.2ブログ参照)。のちに宮城県美術館(末注②)で前川と忠良作品が接近することを想うと、あたかもその序章です。

 注①:札幌市市民文化課『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、札幌オリンピック施設編集委員会『札幌オリンピック施設-競技場・選手村・関連施設などの記録-』1971年、木田金次郎美術館『田上義也-北方建築の種展』図録2010年、『生誕100年 前川國男建築展』図録2005年、宮城県美術館ウエブサイト「フロア案内」ページ、拙ブログ2020.10.11「建築家と彫刻家 まつわりあい」同10.12「ここでも、“時代の終わり”か」 参照
 注②:宮城県美術館は本館1981(昭和56)年が前川作。その後1990(平成2)年、別の設計者により「佐藤忠良記念館」が増設された。注①参照

2020/10/21

彫刻家と建築家 まつわりあい(続)

 気になっている物件を確かめに、真駒内公園に行ってきました。
真駒内公園 屋外競技場看板
 上掲は昨年10月に撮った画像です。この場所は昨年9月に芸術工学会のエクスカーションに同行し、10月にUHBみんテレ「となりのレトロ」で案内しました(2019.11.2ブログ参照)。そのとき、私の視野に入っていながら見えていなかったモノがあります。

 公園の看板の背後に立つオブジェです。
真駒内公園 屋外競技場看板後景のオブジェ
 オブジェは、黄色の矢印を付けた先に立ちます。

 下掲も昨年10月に撮りました。
真駒内公園 標石 雪華の像
 この画像を撮っておきながら、昨年はまだピンときてませんでした。 
 
 拙ブログを継続してご覧くださっている方には、後景に写るフォルムで私が今、何を伝えたいかお察しいただけるかもしれません。一年たって、私はようやくこのフォルムの意味を妄想するに至ったのです。それで、このたびもう一度足を運びました。

 「雪華の像」本郷新作。
真駒内公園 雪華の像
 真駒内公園 雪華の像-2
 1971(昭和46)年に創られました。台座?側面に「第11回冬季オリンピック札幌大会」と銘打たれています。

 妄想のきっかけを与えてくれたのは、下掲の展示です。
「石狩浜の百年記念塔」展 黒川紀章案 透視図
 今月上旬に「石狩砂丘の風資料館」で拝見しました(10月4日ブログ参照)。
 1967(昭和42)年の北海道百年記念塔公開設計競技での“次点”(優秀)作です(黄色の矢印の先)。黒川紀章のこの案は2年前に見ていたのですが、本郷新との共同制作であることを最近知りました。
 本郷との共同制作であることを知って前掲「雪華の像」を鑑みると、妄想が湧き起こってしまったのです。本郷「雪華の像」のフォルムは、黒川記念塔案を取り込んだのではないか? これが私の妄想です。本郷は、“幻の”黒川記念塔をここで実現したのではないか。そういえば、真駒内公園の近くに黒川の実現作が遺ります。それはまた、別の機会にあらためましょう。

 参考までに、といっていのか、北海道百年記念塔の井口健「最優秀」実現作を載せます。
北海道百年記念塔 2020年10月-正面
北海道百年記念塔 2020年10月-側面
 もしかしたら、とさらに妄想の羽を伸ばしました。「雪華の像」は、この作品にもインスパイアされたのではないか。

 史実を時系列で振り返っておきます。
 1967(昭和42)年:北海道百年記念塔公開設計競技 「最優秀」井口健、「優秀」黒川紀章(本郷新との共同制作)
 1970(昭和45)年:北海道百年記念塔竣工
 1971(昭和46)年:本郷新「雪華の像」建立

 くしくも、というべきか、「雪華の像」のぐるりには百年記念塔同様、立ち入り規制のロープが張られています。

2020/10/20

自らのアラを穿り出す

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2020秋の編(同会ブログ10月7日参照)を10月16日と18日に終え、27日に開催される「北海道ヘリテージ・ナイトセミナー」(10月16日ブログ参照)のレジュメとパワーポイントデータを作り終え、STV「どさんこワイド」てくてく洋二コーナー次回のロケを終えました。“てくてく”のオンエア日は、わかりしだいまた拙ブログでお知らせします。
 「ナイトセミナー」は一週間以上「も」前にデータの提出を主催者に求められて、恨めしく思ったものです。しかし、早めに準備した方がいいという至極当たり前のことを実感しました。締切が1週間あとにずれても、事態は何も変わりません。悪戦苦闘、七転八倒が一週間後にずれるだけです。のみならず、当日のぎりぎりになると精神的な余裕がなくなり、推敲の手間ひまもかけられなくなります。結果的に、アラが残る。と、わかっていながら、ついつい問題を先送りしてしまう我が性分です。

 札幌中心部のかつての風景を俯瞰した空中写真です。
ROGA 掲示古写真 札幌中心部の風景
 北区の石蔵を再利用したROGAの店内に掲げられています。もともとカメラ屋さんだったことから、このような古い写真が遺されていたのでしょう。

 先日のSTV「どさんこワイド」てくてく洋二コーナー(10月7日放送)でおじゃましたとき、この写真を紹介させていただきました。
 ↓
https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t0000090re6.html
 テーマの札幌駅北口の移り変わりにも、ちょうどふさわしい写真だったからです。「昭和30年代半ばの札幌」とナレーションで伝えました。オンエアの前日だったか、ディレクターさんから「いつごろの写真と言ったらいいでしょうか?」と電話で訊かれ、私がそう答えたからです。
 先日(10月18日)「どさんこワイドにちようび」でこのコーナーが再放送されたのをビデオで見直して、これまた自らのアラに気づきました。ビデオ画像を停めて静止画像でこの写真をじっくり見たところ、「昭和30年代半ば」は正しくないことがわかったのです。読者諸賢にご指摘される前に、せめても自ら先に懺悔します。これも、前述の「推敲の手間ひま」を惜しんだ報いですね。
 では、この写真はいつ撮られたか。上掲画像でお察ししてみてください。 

2020/10/17

白石の鈴木煉瓦は東京駅に使われたか?(続)

 10月13日ブログで取り上げた白石区役所発行の冊子や現地の看板の記述について続報します。明治時代の鈴木煉瓦が東京駅の駅舎に使われたと記されていることです。

 同じく白石区役所が発行する『マンガ史 白石ものがたり』を読みました。
マンガ史 白石ものがたり2001改訂表紙
 白石区の歴史がわかりやすく描かれています。

 その冊子の、鈴木煉瓦のことを取り上げたページです(p.31)。
マンガ史 白石ものがたり2001改訂p31
 矢印を付けたふきだしの箇所に、次のように書かれています(引用太字)。
 黄色の矢印:道庁の赤レンガやサッポロビール園(旧サッポロビール第二工場) さらには東京駅まで、白石レンガが使われているんだよ
 赤い矢印:じゃあ東京まで白石レンガは有名だったんだ すごいな

 同じ冊子の2011年改訂版で当該箇所に当たりました(p.33、末注)。 
マンガ白石ものがたり2001改訂p33
 黄色の矢印:道庁の赤レンガやサッポロビール博物館園(旧札幌製糖工場)に白石レンガが使われているんだよ
 赤い矢印:僕、行ったことがあるよ
 東京駅の駅舎に使われたことが、改訂版では消えています。訂正の意図は明らかです。

 同区役所ウエブサイトの「マンガ 白石の歴史ものがたり」には現在、前掲2011年改訂版が掲載されています。

http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/shokai/history/documents/p30_33.pdf
 上掲の画像は、私が先日区役所で頂いたコピーから撮ったため白黒ですが、実際に刊行されたのはウエブ上に載っているとおりカラーです。すでにカラーの実物が払底しているとのことでした。
 10月13日ブログで取り上げた冊子『白石歴しるべ』の最新版は2005年改訂で、ウエブ上もその版が掲載されており、その後は改訂されていないようです。2005(平成17)年時点だと、マンガ版もまだ東京駅が残っています。『歴しるべ』は結局、古い情報がまだ残っているということです。現地の看板も、修正まで手が回らないのでしょう。とまれ、マンガ版の新旧両版を追うことで、情報の更新すなわち認識の変化がわかりました。
 なお、このマンガは前述したとおりわかりやすく描かれており、白石区の歴史を知るためにはもっとも手っ取り早い書物だと思います。だからといって内容を手放しで肯定するわけではありません。批判するということでもないのですが、できれば機会を見てコメントさせていただきたいと思います。

 注:本のタイトルは『マンガ 白石の歴史ものがたり』と変更されている。

2020/10/16

天に唾する、か

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2020秋の編の一回目を終えました。10月13日ブログでお伝えした資料作りの苦闘もとりあえず乗り越えたのですが、一難去ってまた一難、です。好きでやっていることなので、難と言ってはいけないのですが。

 実は別の資料作りが迫っています。
北海道ヘリテージ・セミナーチラシ オモテ
北海道ヘリテージ・セミナーチラシ ウラ
 10月27日に開催される行事です。
 ↓
 http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/ckk/heritagenightsemina.htm
 主催する北海道庁の担当の方から、配布資料の原稿を来週のアタマまでに出すように言われました。レジュメ程度ならと気楽に考えていたのですが、「パワーポイントで発表するなら、そのデータも一緒に送ってください」と命を受けたのです。自前の行事ならこのたびの遠足のように仕上がりが開催日直前になるし、民間団体の主催で話すときも、原稿を送るのがぎりぎりになります。さすがにというべきか、北海道庁はそうもいかないらしい。などと記したら「札幌建築鑑賞会の原稿は遅いくせに、お上から命じられたら従うのか」と当会編集スタッフから糾されそうです。嗚呼。
 
 そんな折も折、STVから「また“てくてく洋二”に出ませんか?」とお呼びがかかりました。前回10月7日放送(札幌駅北口編)のすうじ(と読んで、視聴率と書く)がそこそこ良かったらしい。

https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t0000090re6.html
 前回の放送は10月18日(日)の『どさんこワイドにちようび』で再放送されるそうです。また見てやってください。あら探しでも結構です。お昼の12時35分から。
 おだてられて次回もつい二つ返事で引き受けてしまったのですが、ロケは来週です。ますますもって鑑賞会スタッフ(誰とは言いませんが)の呆れる顔が思い浮かびます。
 
 追い討ちをかけられるように、泥縄のやっつけ仕事ではイケナイことを思い知りました。このたびの遠足のために作った資料を読み直して、間違いを見つけてしまったのです。ほかならぬ10月13日ブログに記した「鈴木煉瓦」絡みで、間違えました。白石区役所製作の冊子や看板の“誤り”を糾してしながら、このテイタラクです。
 私は、このたびの資料で鈴木煉瓦について以下のとおり記しました(引用太字)。

 1884(明治17)年、東京出身の鈴木佐兵衛がこの地に煉瓦製造場を設けた。北海道における本格的な煉瓦生産の先駆けとされる。鈴木煉瓦は後に月寒村や旭川にも工場が造られた。明治後期、白石村の分工場では30万個から70万個年産されており、これは江別・野幌地区を含む札幌郡全体での年産50万個から100万個という数字からすると、大きな割合を占めている。鈴木煉瓦産の煉瓦は、北海道庁旧本庁舎(道庁赤レンガ)1888(明治21)年、札幌麦酒会社工場(現サッポロファクトリーレンガ館)1892(明治25)年などに用いられ、明治期の北海道、札幌の近代化を支えた。同煉瓦産を示す刻印○Sは、サッポロファクトリーレンガ館などで確認できる。明治後期以降、野幌が煉瓦の主産地となるにつれて白石村での生産は減少し、鈴木煉瓦も大正後期には操業を終えた。(後略)

 間違いは上述の赤字の箇所です。読み直して「待てよ」と思いました。この文章の後段で述べているように、「明治後期」といえば、江別・野幌が煉瓦の主産地となった時期です(末注)。その時期に、鈴木煉瓦が「大きな割合を占めている」というのは矛盾しないか。
 くだんの一文は、松下亘先生の「札幌地域のレンガ史」(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第15号1988年8月所収、pp.7-22)に拠りました。朱記の一文の前半「白石村の分工場では30万個から70万個年産されており」は同書のとおりなのですが、問題は後半の「江別・野幌地区を含む札幌郡全体での年産50万個から100万個という数字」です。同書掲載の表「札幌地域レンガ生産量(概数)推移(個)」から私が読み取ったのですが、数字を見誤まってしまいました。一ケタ違います。正しくは「500万個から1,000万個」!です。表には明治後期から大正、昭和初期にかけての「札幌郡(A)」と「野幌地域(B)」「札幌地域(A-B)」の煉瓦生産個数が年次的に載っています。明治後期の野幌地域の生産量は、おおむね札幌郡全体の8割程度です。圧倒的に野幌が占めている。明治後期、野幌が北海道における煉瓦の主産地となったことは知っていたつもりなのに、浅はかなポカミスをやらかしてしまいました。

 こんなことをしていては、先へ進めない…。

 注:松下亘『野幌窯業史』1980年参照。1898(明治31)年に設立された北海道炭礦鉄道野幌煉化工場は、1907(明治40)年の一年だけで王子製紙苫小牧工場に煉瓦を400万個納品している(同書p.176表)。

2020/10/13

白石の鈴木煉瓦は東京駅に使われたか?

 札幌建築鑑賞会の行事「大人の遠足」を今週末16日と18日に控えています。例によってというべきか、当日参加者に配布する資料を泥縄の突貫工事で作っています。
 先月のブログで「世の中の動きに呼応するかのように、札幌建築鑑賞会も私も再活性化しつつあります」と記しました。鑑賞会だけでなく、他団体主催の行事も再開されているようです。私も先月来、「原稿書きませんか?」とか「テレビに出ませんか?」とか「取材を受けてくれませんか?」とか「講演会で話をしてくれませんか?」とか、いきなりお呼びがかかるようになりました。その前の半年がほとんど引きこもり状態だったのとは対照的です。と先日鑑賞会のスタッフ会合で言ったら、ほかの人から「ブログを見ているかぎり、引きこもっていたとは思えない」と疑義を呈されてしまいました。
 まあ、充電というかインプット(入力)期間ではありました。それが、こんどは発信、出力を求められています。もう少しバランスよくできたらいいのですが、こればかりは新型コロナウィルスの所為でいたしかたありません。お呼びがかかったらほいほいと応じているものの、計画的にモノゴトをこなすということができず、毎度尻に火が付かないと動き出さない(出せない)性分で苦労します。思えば、子どもの頃からそうだった。定期試験の直前になると、関係のない小説を読み耽ったりしていたものです。そんな回想をブログに綴っている暇があったら資料作りに勤しみなさいと叱咤鞭撻する鑑賞会スタッフの(誰とはいいませんが)顔が浮かびます。嗚呼。

 今回の遠足では白石を歩きます(札幌建築鑑賞会ブログ10月7日参照)。街歩きポイントのたいがいはスタッフNさんが材料を提供してくれているのですが、私が担当する箇所もないわけではありません。

 その一つが「鈴木煉瓦工場跡」です。
白石・歴しるべ「鈴木レンガ工場跡」説明版 再掲 東京駅
 白石区平和通の一隅に区役所が説明看板を設置しています。
 
 この看板のことは本年3月7日ブログで取り上げました。末尾に「鈴木煉瓦産の煉瓦が東京駅に使われたと書かれてもいます。これも疑問のままです(2016.2.14ブログ参照)」とも記しています。
 私が“問題視”したのは、上掲画像の赤い傍線を引いたところです(引用太字)。
 「その(引用者注:白石村の鈴木煉瓦産の)レンガは道庁、ビール会社、五番館等赤レンガの建物や鉄橋、そして東京駅にも使用された」。

 同区役所が刊行した『白石歴しるべ』1999年にも「東京駅などに使われた」と書かれています(p.38)。
「鈴木レンガ工場跡」『白石歴しるべ』1999年p38
 この記述は同書2005年改訂版にも踏襲され、同区役所ウエブサイト「白石歴しるべ」ページで現在も閲覧できます。

http://www.city.sapporo.jp/shiroishi/shokai/history/rekishirube/documents/reki36_37.pdf 
 
 白石で焼かれた煉瓦は、東京駅駅舎にも用いられたのか。確認しないままで現在に至っています。そこで、北翔大学教授にして「煉瓦博士」、東京駅駅舎の建築にも詳しいM先生にメールで問い合せました。M先生からは即座に返信が届き、曰く「東京駅の煉瓦は本体の骨格用が日本煉瓦製造会社製で、外装の仕上げには品川白煉瓦製、鳥居陶器製造所製、千葉工場(地名ではなく人物の名)製、大阪窯業製、長坂煉瓦製造所の製品だけが使われました。ですから北海道産の煉瓦は使用されておりません」と。ありがとうございます。M先生は次のようにも添えてくださいました。「鈴木さんの煉瓦が東京駅にも使われていると夢のように気持ちがいいなあという願望にすぎません。道庁舎にさえ使われたほどの煉瓦工場なのだから、きっと東京駅にも使用されたはずだよという伝説なのでしょう」と。

 鈴木煉瓦が東京駅駅舎に用いられておらずとも、白石の煉瓦の歴史にはいささかの影も差しますまい。しかし郷土愛、郷土史愛は、ともすれば“話を盛る”きらいがあります。あらためて、もって自戒すべし。

 追記:2020.10.17ブログに関連続報記述 

2020/10/12

ここでも、“時代の終わり”か

 北海道銀行本店が入るビルです。
北海道銀行本店 2019年5月
 中央区大通西4丁目、大通公園と札幌駅前通の角地に建ちます(画像は2019年5月に撮影)。

 本店窓口の吹き抜け壁面に大きなレリーフが飾られています。
道銀本店1階 レリーフ
 「大地」。佐藤忠良、本郷新、山内壮夫の共同制作です。1964(昭和39)年の開業時に置かれました。佐藤忠良の1/10下絵をもとに、本郷のアトリエで共同作業により創られたといいます(末注①)。

 北海道庁庁舎への佐藤忠良のレリーフ制作、北海道百年記念塔設計コンペでの黒川紀章案への本郷新の共同制作(昨日ブログ参照)に先立つ3年前です。共同制作といえば、北海道庁庁舎に置かれる芸術作品こそそれがふさわしいとも想えるのですが、道銀と同じことを繰り返すのはできなかったか。それでは道銀の共同制作は、だれが発案したのだろうか。文化芸術に造詣の深かった島本融頭取か。

 島本頭取といえば、冒頭画像の道銀ビルを設計したのは田上さんです。戦後の田上さんの活動を支えたのが島本頭取でした(末注②)。レリーフの設置は、田上さんが島本頭取に持ちかけたのか。いや、3人の彫刻家は東京に本拠を置いていたはずです(末注③)。接点はむしろ、やはり島本頭取か。ちなみに田上さんが本郷のアトリエ(春香山房)を設計したのは1965(昭和40)年で(末注④)、道銀ビルの翌年です。
 その道銀ビルも最近、建て替えの計画が報じられました(末注⑤)。本店のレリーフはどうなるのだろう。

 注①:道銀本店で配布している同レリーフの解説チラシによる。
 注②:木田金次郎美術館『田上義也-北方建築の種 展』図録、2010年、p.12
 注③:吉崎元章「札幌の野外彫刻と彫刻家たち」『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、pp.50-51参照。山内壮夫は東京在住だったが、札幌の文化人サークルで田上も一員だった「こっくり会」に加わっていた(『こっくりかい十年誌』1961年、こっくり会「会員名簿」1962年)。
 注④:前掲『田上義也-北方建築の種 展』図録、p.16
 注⑤:北海道新聞2020年9月10日記事「道銀ビル建て替えへ」

2020/10/11

建築家と彫刻家 まつわりあい

 ホッケン研のYさんが、建築家田上義也と彫刻家本郷新の在りし日のやりとりを妄想しています。

https://sapporowalk.sakura.ne.jp/blog/2019/20190802/
 昨日ブログ末尾に記したことにちなみ、この妄想が気になってきました。北海道百年記念塔にかかわる建築家と彫刻家が登場しているからです。
   
 「石狩浜の百年記念塔」展(いしかり砂丘の風資料館)で、黒川紀章の直筆資料が展示されていました(10月4日ブログ参照)。
「石狩浜の百年記念塔」展 黒川紀章関係資料
 左方は黒川が百年記念塔のコンペに応募した際のメモです。「本郷新が担当することになっていたレリーフにかかわるものか」とのキャプションを添えた展示物には、以下のとおり書かれています。
1) ・エゾマツ   ・ライラック.6.
   トドマツ    ・鈴ラン
   ニレ       黒ユリ   春(引用者注:上段の「鈴ラン」と下段の「水バショウ」まで線で括られている)        
   シラカバ     延令ママ草 (白い花)
   ポプラ     水バショウ
   ダケカンバ  ハマナス
          ガクアジサイ
          サビタ
2) 熊、馬、牛、羊、鶴
3) バレイショ、アズキ、ハッカ  ニシン
   トウモロコシ、タマネギ    サケ
   リンゴ              マス
  (引用者注:「バレイショ、アズキ、ハッカ、トウモロコシ、タマネギ」、「ニシン、サケ、マス」をそれぞれカッコ閉じ)
4) 雪
5) ユーカラ(民話、伝説)文学
 10月4日ブログで私は、黒川の「透視図のどこに本郷のモチーフが投影されているのだろうか」と記しました。キャプションの説明からすると、記念塔のどこかに本郷のレリーフを置こうとしたのでしょうか。黒川案が“次点”となったことにより、本郷のレリーフ?は幻と化しました。その代わり、と言ってしまっていいのか、昨日ブログ末尾で述べたとおり、実現した百年記念塔には佐藤忠良のレリーフが置かれます。「最優秀」となった井口健先生の当初案において、忠良さんは共同制作者とはなっていません。レリーフを置くことも含まれていなかったはずです。ただし忠良さんのレリーフは、記念塔のコンペに先立つ1967(昭和42)年4月から、北海道庁新庁舎に置かれるべく制作されました(末注)。

 北海道百年記念塔にまつわる建築家と彫刻家5人の関係を、とりあえず思いつく限りで模式図化しました。
建築家と彫刻家 関係図
 1960年代、百年記念塔の建設当時に焦点を当てての関係図です。

 百年記念塔の黒川紀章案における幻の本郷新レリーフは、実現した井口先生設計の記念塔への佐藤忠良レリーフ設置に影響したのか、しなかったのか。
 それとも。
 時系列に照らすと、北海道庁庁舎に忠良さんのレリーフが置かれることになったことに黒川がいわば“対抗”して、記念塔の案に本郷のレリーフを取り込もうとしたのだろうか。

 注:百年記念塔の公開設計競技が募集されたのは1967(昭和42)年6月、最終審査結果が発表されたのは同年12月である(2018.12.6ブログ参照)。北海道庁庁舎に置かれた佐藤忠良レリーフの“原作”が創られたのは、道庁舎掲示の説明によると1967(昭和42)年4月~1968(昭和43)年6月である(2018.1.28ブログに関連事項記述)。

2020/10/10

設計者と施主、建築家と彫刻家 せめぎあい

 小樽市文学館主催の北海道百年記念塔ツアーに現地で便乗させてもらいました。
北海道百年記念塔 解説する井口健先生 20201010
 設計者・井口健先生の話を現地でお聞きするのは、私は初めてです。

 昨日ブログに記した疑問を、先生にぶつけてみました。百年記念塔をめぐる設計者と施主の葛藤です。
 私:当初のプランからの変更を求めたのは、廣田さんだったのですか?
 井口先生:そうだ。廣田さんにいろいろ変えさせられたんだ。

 「当初のプランからの変更」は前にも少し触れました(末注)。その全貌は伝え尽くしていないので、先生のお考えの詳細をお知りになりたい方は、井口先生が最近書かれた『北海道百年記念塔 その現状とこれからについて 私がいま考えていること』をご覧ください。小樽市文学館で小冊子として販売されています(300円)。その冊子に書かれていないエピソードをこのたびお聞きしました。記念塔のことではなく、道庁本庁舎にまつわるできごとです。

 といっても、記念塔とも無関係ではありません。
北海道百年記念塔 レリーフ
 ピロティに飾られている佐藤忠良のレリーフです。

 このレリーフの“原作”が道庁本庁舎1階吹き抜けの壁面を飾っていることも、先に記しました(2018.1.27ブログ参照)
道庁 忠良さんレリーフ③
 レリーフの設置をめぐって、井口先生は廣田さんと忠良さんをまじえ3人で「議論した」そうです。昨日ブログに記したとおり、井口先生と廣田基彦さんは1967(昭和42)年百年記念塔コンペのとき、北海道庁本庁舎の設計者と施主側責任者という関係でもありました。
 何が議論になったか。廣田さんはレリーフを大理石の壁面本体よりセットバック(後退)させることを求め、かたや井口先生は壁体よりも出っ張らせるべきだと主張したというのです。「壁よりも奥まっていたら、レリーフの良さが損なわれる」というのが井口先生の言い分でした。井口先生と廣田さんとで30分くらい言い合いましたが、その間、忠良さんは「ひとこともしゃべらなかった」とのこと。「忠良さんは静かな人だった」と。結果的には、井口先生の案が受け容れられ、現況のとおりとなりました。
 レリーフを壁面よりも後退させるという廣田さんの真意は奈辺にあったのだろうか。アタマをかすめたのは“安全面”とか“維持管理上の都合”かなと思ったのですが、レリーフは吹き抜けの上部にかたどられています。現況を見る限り、あえて後退させる必要は私にはあまり感じられません。これも、廣田さんに直接確かめたかった。
 
 当時、廣田さんは北海道庁の建築部門の重鎮だったと思います。二回り以上も年下の札工のやんちゃな後輩(井口先生、ごめんなさい)を、廣田さんはどう“あやして”いたのだろうか。私は廣田さんのご生前、二十余年前にお目にかかりました。門外漢の若造に対しても、とても親切に応対してくださったのを覚えています。謙譲のお人柄を感じました。“実るほど こうべを垂れる稲穂かな”。道議会旧庁舎を設計したときのエピソードも、そのときご本人から教えていただきました(2016.4.2ブログ参照)。廣田さんの功績については、別途あらためてお伝えしたいと思います。

 その道議会の新旧庁舎です。
道議会 新旧庁舎
 冒頭画像の百年記念塔を前にしてのツアーで、井口先生は新庁舎(上掲画像右方)のことに言及しました。酷評です。「ひどい建物だ」「まるで倉庫だ」と。五十余年前に本庁舎の設計に携わった建築家としての感慨なのでしょう。
 私:先生、古いほうの議会庁舎は、どうですか?
 井口先生:あれは、いい。
 私:旧庁舎は廣田さんが設計したと聞きました。
 井口先生:それは知らなかった。
 やはり、廣田さんと井口先生の恩讐(怨讐?)を超えた対談を聞きたかった。 

 ところで、記念塔と道庁本庁舎のレリーフを忠良さんが創ったことに、あらためて因縁を感じてしまいます。記念塔コンペで“次点”となった黒川紀章作品の共同制作者が本郷新であったこと(10月4日ブログ参照)を知ったためです。話が尽きませんが、やめます。

 注:2018.6.30同7.1同7.2ブログ参照。百年記念塔は、森林公園入口に対して正面を向いている。これが井口原案からの変更であることは既述のとおりだが、当初案でメインエントランスに対してあえて正面を向けなかったのは「斜めから見た方が立体的になる」からであった(前述井口著冊子p.9)。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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